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| casualties2 = 戦死者 439万人<br/>戦傷者 839万人<br/>行方不明 363万人{{Sfn|Evans|2004|p=188}}
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'''第一次世界大戦'''(だいいちじせかいたいせん、{{lang-en-short|World War I}},
諸国が参戦するにつれて、両陣営の同盟関係は拡大していった。例として、イギリスと[[日英同盟]]を結んでいた[[大日本帝国]]は連合国側で、ドイツと密接な関係にあった[[オスマン帝国]]は中央同盟国側で参戦した。第一次世界大戦の参戦国および影響を受けた地域は、現代の国家に換算すると約50か国に及ぶ<ref>大戦終結100年の2018年11月11日、[[ベルギー]]の[[アールスコート]]に平和を祈る[[カリヨン]]が設けられた。これに組み込まれた[[鐘]]は51個で、参戦国や戦争に巻き込まれた国・地域の数を表している。[https://www.nishinippon.co.jp/item/o/464951/ 第1次大戦終結から100年/平和を願う ベルギー「平和の鐘」]『西日本新聞』掲載(リンクは西日本新聞me)</ref>。
7,000万人以上の軍人(うちヨーロッパ人は6,000万人)が動員され、最初の世界
戦争の長期化により各地で革命が勃発し、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国という4つの帝国が崩壊した。終戦後の[[戦間期]]においても、参戦国間の対立関係は解消されず、その結果、21年後の1939年に[[第二次世界大戦]]が勃発することとなった{{Sfn|Willmott|2003|p=307}}。
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まず7月24日から25日にはロシアが一部[[動員]]を行い、28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに[[宣戦布告]]すると、ロシアは30日に総動員を命じた。ドイツはロシアに最後通牒を突き付けて動員を解除するよう要求、それらが断られると8月1日にロシアに宣戦布告した。[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]において数的不利だったロシアは三国協商を通じて、同盟関係にあるフランスに西部での第二戦線を開くよう要請した。1870年の[[普仏戦争]]での敗戦の復讐に燃えていたフランスはロシアの要請を受け入れて、8月1日に総動員を開始、3日にはドイツがフランスに宣戦布告した。ドイツ・フランス国境は両側とも要塞化されていたため、ドイツは[[シュリーフェン・プラン]]に基づき[[ベルギー]]と[[ルクセンブルク]]に侵攻、続いて南下してフランスに進軍した。しかしその結果、ドイツがベルギーの中立を侵害したため、8月4日にはイギリスがドイツに宣戦布告した。イギリスと同盟を結んでいた日本も連合国として、8月23日にドイツに宣戦布告した。
100万人以上によるドイツ陸軍の
ロシアでは1917年3月に[[二月革命]]によって帝政が崩壊し、代わって成立した[[ロシア臨時政府]]も[[十月革命]]で打倒され、軍事的に敗北が続いた。ロシアは中央同盟国と[[ブレスト=リトフスク条約]]を締結し、大戦から離脱した。同年8月14日、[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]がドイツ・オーストリア=ハンガリーに宣戦を布告した<ref>{{Cite journal|author=[[纐纈厚]]|year=2022|title=第一次世界大戦期日本の対中国武器輸出の展開と構造 -日中軍事協定期(1918-1921)を中心にして-|url=https://www.isc.meiji.ac.jp/~transfer/papers/jp/pdf/14/03_Koketsu.pdf|journal=国債武器移転史|issue=14|page=24}}</ref>。1918年春にはドイツが西部戦線で最後の攻勢である[[1918年春季攻勢|春季攻勢]]を仕掛けたが、それに対して連合国軍は百日攻勢でドイツ軍を押し返した。1918年11月4日、オーストリア=ハンガリー帝国は[[ヴィラ・ジュスティ休戦協定]]を締結。ドイツも革命が起こったため休戦協定を結び、戦争は連合国側の勝利で終結した。
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1919年に開催された[[パリ講和会議]]においては、連合国側の主要国、すなわちイギリス、フランス、アメリカ、イタリアが主導的な役割を果たし、一連の講和条約を敗戦国に課した。これらの条約、特に[[ヴェルサイユ条約]]は、敗戦国の領土分割および賠償義務を規定し、戦後秩序の構築に大きく寄与した。しかしながら、日本の参加は限定的なものであった。大戦後、国際的な平和維持機構として[[国際連盟]]が設立された。しかし、アメリカの参加拒否や連盟の強制力不足により、その後の世界大戦勃発を阻止するには至らなかった。
=== 生活・社会への影響 ===
第一次世界大戦は、列強各国が人員、経済力、および工業技術を広範かつ無制限に動員した総力戦の様相を呈した。この戦いにおいては、機関銃、航空機、[[化学兵器]]([[毒ガス]])、[[潜水艦]]、[[戦車]]などの新兵器が大規模に、あるいは史上初めて実戦投入された。開戦当初は、伝統的な歩兵と騎兵による戦闘のイメージで、前進を命じられた兵らが悠然と機関銃の前に進んでくる有様であったが、塹壕戦に変わっていった<ref name=":0" />。突撃による総攻撃のタイミングを合わせるため、兵士らの間に時計が普及するようになったという<ref name=":0" />。当初は移動手段は徒歩と馬が主体であったが、フランス軍はルノー製のタクシー600台を使って前線に兵士を輸送、また、英軍は兵士だけでなく自国の二階建てバスを運び込んで輸送した<ref name=":0" />。戦時生産のために労働時間を長くするためにサマータイム制度が導入され、工場勤務だけでなく男の仕事と考えられてきた電車運転・土木作業等にも女性が進出した<ref name=":0" />。女性の軍参加も起こり、英軍は通信兵・軍用トラック運転手に採用、ロシア軍では戦争未亡人の志願者による部隊も生まれた<ref name=":0" />。これらは戦後の欧州における女性参政権獲得につながっていったとされる<ref name=":0" />。初めて空襲が起こり、都市の灯火管制や本格的な集団疎開も始まって、パリでは50万人の児童が市街地の外や中立国に疎開した<ref name=":0" />。
米国で戦場での食糧とするための缶詰の大量生産が開始され、産業となる<ref name=":0" />。ヨーロッパ映画が衰退、ハリウッドで娯楽映画が次々と作られ、世界に輸出されるようになる<ref name=":0" />。米軍は塹壕堀に掘削機を持ち込み、通信に無線通信、武器に火炎放射器を持ち込み、次の対戦につながっていく<ref name=":0" />。
日本では、当時の主な輸出産業であった生糸の輸出額が4倍になる等、日本が戦争で挙げた利益は米国に次ぐものだったとみられ、船成金、鉄成金と呼ばれる者らが現れる<ref name=":0" />。
== 背景 ==
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ドイツがフランスに中立に留まることを要求したのは、兵力の展開計画を選ばなければならなかったためだった。当時ドイツでは戦争計画がいくつか立てられており、どれを選んだとしても兵力の展開中に計画を変更することは困難だった。ドイツで1905年に立案され、後に修正された[[シュリーフェン・プラン]]では、軍の8割を西に配置するアウフマーシュ・II・ヴェスト (Aufmarsch II West) と軍の6割を西に、4割を東に配置するアウフマーシュ・I・オスト (Aufmarsch I Ost) とアウフマーシュ・II・オスト (Aufmarsch II Ost) があった。東に配置する軍が最大でも4割留まりだったのは、[[東プロイセン]]の鉄道の輸送率の上限であったからだった。フランスは回答しなかったが、自軍を国境から10km後退させて偶発的衝突を防ぎつつ予備軍を動員するという、立場が不明瞭な行動をした。ドイツはその対処として予備軍を動員、アウフマーシュ・II・ヴェストを実施すると決定した。
8月1日、ヴィルヘルム2世はフランスが攻撃されない限りイギリスが中立に留まるという誤報を受けて、[[ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ|小モルトケ]]に「全軍を東に進めよ」と命じた。小モルトケは兵士100万人の再配置は不可能であり、しかもフランスにドイツを「背後から」攻撃する機会を与えるのは災難的な結果を引き起こす可能性があるとヴィルヘルム2世を説得した。しかしヴィルヘルム2世はドイツ軍が[[ルクセンブルク]]に進軍しないことを堅持、いとこのイギリス国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]からの電報で先の情報が誤報であることを判明してようやく小モルトケに「今やあなたは何をしてもいい」と述べた<ref>{{Cite news |url=
== 1914年の戦闘 ==
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8月16日にリエージュが陥落した後、ドイツ軍右翼は18日に本命となる攻勢を開始し、連合国軍を包囲するよう進撃した。ドイツ軍が早くも[[ブリュッセル]]と[[ナミュール]]に押し寄せると、ベルギー軍の大半は[[アントウェルペン]]の要塞に退却し、そこから2か月間にわたる{{仮リンク|アントウェルペン包囲戦 (1914年)|en|Siege of Antwerp (1914)|label=アントウェルペン包囲戦}}が始まった。20日、フランス軍は本命となる[[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ]]と[[ザールルイ]]地域への侵攻を開始したが、同時にドイツの反攻も始まった。
こうして[[ザールブルク]]、[[ロンウィ]]、[[バルジの戦い#名称|アルデンヌの戦い]]、[[マース川]]、[[サンブル川]]とマース川の間、{{仮リンク|モンスの戦い|en|Battle of Mons|label=モンス}}という長大な前線で{{仮リンク|国境の戦い|en|Battle of the Frontiers}}と呼ばれる戦闘が起き、両軍とも大損害を被った。フランス軍は8月20日から23日までの間に4万人の戦死者を出し、うち22日だけで2万7
フランスの第1, 2, 3, 4軍はドイツの第4, 5, 6, 7軍に敗れ、左翼のフランス第5軍とイギリス海外派遣軍も敗北した。しかしフランス軍は紀律を保ち、ロレーヌでは[[ムルト川]]の後方、[[ナンシー]]周辺の要塞群に退却した。フランス北部でも[[マース川]]の後方にある[[ヴェルダン]]要塞を保持したため、大部隊がドイツ軍に包囲殲滅されるのを防いだ。ループレヒト・フォン・バイエルンは、シュリーフェン・プランを破って成功を推し進めるよう[[ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ|小モルトケ]]に求め、許可を得たが、8月25日から9月7日まで続いたループレヒトの攻勢は戦局を打開するには至らなかった{{sfn|Becker|Krumeich|2010|pp=202–204}}{{Sfn|Keegan|2001| p=138 }} {{Sfn|Hirschfeld|2014|pp=533–534}}。
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ファルケンハインはそれまでの方針に従い、まず西部戦線に決着をつけようとした。9月13日から10月19日までの[[海への競争]]において、両軍とも側面攻撃を仕掛けようとしたが、前線がエーヌ川から[[北海]]沿岸の[[ニーウポールト]]まで広がっただけに終わった。10月初に両軍が行軍の戦術を再開、ドイツ軍は多大な損失を出しながら[[リール (フランス)|リール]]、[[ヘント]]、[[ブルッヘ]]、[[オーステンデ]]を占領したが、戦況を打開するには至らなかった。その後、戦場はさらに北の[[フランドル]]に移り、[[英仏海峡]]に面する[[カレー (フランス)|カレー]]と[[ダンケルク]]を経由するイギリスからの増援は中断された{{sfn|Afflerbach|1997|p=287}}{{Sfn|Keegan|2001| pp=187–189 }}。
[[9月17日]]、イギリスの代表的作家53人が首都[[ロンドン]]において声明『[[イギリスの戦争の擁護]]』を出した<ref>[[#NYTimes Current History|NYTimes Current History]],p.83.</ref>。[[10月4日]]、ドイツ大学人による『[[93人のマニフェスト]](文化的世界へ訴える)』が出された<ref name="nych">[[#NYTimes Current History|NYTimes Current History]], pp.185-189.</ref>。[[10月16日]]にはドイツの大学と工科大学53校の講師、教授ほぼ全員に当たる合計3
[[画像:Australian infantry small box respirators Ypres 1917.jpg|thumb|[[ガスマスク]]を着用し[[塹壕]]に隠れる[[オーストラリア]]兵。[[イーペル]]、1917年。]]
10月20日から11月18日まで、[[イーペル]]で激しい戦闘が起こり(
行軍の競争は、第一次イーペル会戦とともに終結した。ドイツ軍は西部戦線で強固な[[塹壕]]線を掘り、戦闘は[[塹壕戦]]に移行した。塹壕突破の試みは1914年時点では全て失敗に終わり、北海から[[スイス]]国境({{仮リンク|第一次世界大戦下のスイス|de|Schweiz im Ersten Weltkrieg}}も参照)まで長さ約700kmにわたる前線は塹壕戦への移行により固定化し、両軍の塹壕の間には約50mの距離が開いた{{Sfn|Keegan|2001|pp=249–251 }}。
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この時点において、アメリカとメキシコは第一次世界大戦に参戦していなかったが、連合国である日本とイギリス、アメリカとメキシコの4国がこの艦隊派遣計画を了承していた。
なお、巡洋艦「出雲」は、日本が第一次世界大戦に参戦する直前の8月初旬にマサトラン港へ寄港した際、石炭が不足していたところ、ドイツ海軍所属の軽巡洋艦「[[ライプツィヒ (軽巡洋艦・初代)|ライプツィヒ]]」と遭遇し<ref name="jan19390426p1">{{cite web|url=https://hojishinbun.hoover.org/
日本海軍遣米艦隊がアメリカ合衆国西海岸に到着した後、同艦隊はイギリス海軍、カナダ海軍、およびオーストラリア海軍の巡洋艦と共同で、マサトランを拠点とした哨戒活動を実施した。また、遣米艦隊の一部艦艇は、逃走中のドイツ東洋艦隊を追跡して[[ガラパゴス諸島]]方面へ展開した。その後、巡洋艦「出雲」は、[[第二特務艦隊]]の増援部隊として地中海方面の[[マルタ島]]へ派遣された。
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[[画像:Bundesarchiv Bild 183-F0313-0208-007, Gaskrieg (Luftbild).jpg|thumb|東部戦線のガス攻撃。右側は後続攻撃を準備している歩兵。]]
[[第二次イーペル会戦]]の初日である4月22日に[[化学兵器|毒ガス]]が使われたことは「戦争の歴史の新しい章」「現代の大量殺戮兵器の誕生」とされている{{sfn|Hirschfeld|Krumeich|Renz|Pöhlmann|2003|p=519}}。{{仮リンク|第一次世界大戦の化学兵器|en|Chemical weapons in World War I}}の使用は連合国軍が[[催涙剤]]を使う前例があったが、4月22日に使われたのは致死性のある[[塩素]]ガスであり、[[ハーグ陸戦条約]]に違反した行動であった{{sfn|Hirschfeld|Krumeich|Renz|Pöhlmann|2003|p=288}}。そのため、この行動は[[プロパガンダ]]に使われた。実際には各国で研究され、大戦中に3千種の化学兵器が開発されたという。ドイツの化学者[[フリッツ・ハーバー]]が計画した毒ガス作戦は風向に影響されており、ガスボンベは3月に[[イーペル]]近くの最前線にある塹壕に設置されたが、西フランドルで東風が吹くことは少ないため、攻撃は数度延期された。4月22日は安定した北風が吹いたため、イーペル近くにある連合国軍の前線の北部でガスが放たれた。効果は予想以上であった。フランスの第87師団と第45[[アルジェリア|アルジェ]]師団が恐慌を起こして逃亡、連合国軍の前線に長さ6kmの割れ目を開いた。多数の失明者を出し、ガス攻撃による死者は当時では5
[[画像:Bundesarchiv Bild 104-0158, Argonnen, zerschossener Wald.jpg|thumb|left|秋季の戦闘で破壊された[[アルゴンヌの森]]]]
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== 1916年の戦闘 ==
[[画像:Emil Doepler - Gedenkblatt für die Angehörigen unserer gefallenen Helden; ausgestellt für Georg
[[画像:Bundesarchiv Bild 183-R05148, Westfront, deutscher Soldat.jpg|thumb|ドイツの[[突撃大隊|突撃歩兵]]、1916年の西部戦線にて。]]
[[画像:ErsterWeltkriegSoldatengraeberOstfront.jpg|thumb|東部戦線の軍人墓地、1916年。]]
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[[画像:Kikeriki 6-2-1916 oesterreichische Besetzung Albaniens.jpg|thumb|オーストリアが発行したプロパガンダ。オーストリア兵がアルバニア女性に迎えられ、背景ではイタリア兵が逃げ出している。下端には「やっと正義の味方がやって来た」とある。1916年2月。]]
{{Main|{{仮リンク|オーストリア=ハンガリー占領期のモンテネグロ|de|Österreichisch-Ungarische Besetzung Montenegros 1916-1918}}|{{仮リンク|第一次世界大戦下のアルバニア|en|Albania during World War I}}}}
1月4日、オーストリア軍が[[モンテネグロ王国]]に侵攻。23日にはモンテネグロ王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]が降伏し、フランスへ逃亡した({{仮リンク|モンテネグロ戦役 (第一次世界大戦)|en|Montenegrin Campaign of World War I|label=モンテネグロ戦役}})。[[アルバニア公国]]も約3分の2の領土をオーストリア=ハンガリー軍に占領された。これを受け、当時モンテネグロとアルバニアに撤退していたセルビア軍の大半は更に撤退した。まずイタリアの遠征軍が1915年12月に上陸し、占領していた[[ドゥラス]](アルバニア中部)へ向かった。続いて1916年3月にイタリアがドゥラスから約26万人を撤退させた時、セルビア軍約14万人も撤退した。セルビア兵士は当時フランスに占領されていた[[ケルキラ島]](元はギリシャ領)に逃れ、再編成を受けた(6月にはフランスの{{仮リンク|東方軍 (1915年-1919年)|en|Armée d'Orient (1915-19)|label=東方軍}}とともに[[テッサロニキ]]に移った)。{{仮リンク|ニコラ・パシッチ|en|Nikola Pašić}}率いるセルビアの亡命政府もケルキラ島で成立した。ドゥラスから撤退した人のうち、オーストリア軍[[捕虜]]約2万4
=== ヴェルダンの戦い ===
[[画像:Western front 1914.jpg|250px|thumb|1914年時点の西部戦線。ヴェルダンが突起部になっている。]]
西部戦線では2月21日、[[ヴェルダンの戦い]]が始まった。作戦の発案者ファルケンハインが1920年に出版した著述によると{{sfn| von Falkenhayn |2010 |pp=176–184}}後世に残った印象と違い、ヴェルダンの戦いは無目的にフランス軍に「出血」を強いるものではなかったという。彼はその著述で攻撃の失敗を弁護し、「血の水車」という伝説に反論しようとした。ヴェルダン攻撃を着想したのは[[第5軍 (ドイツ軍)#第一次世界大戦|ドイツ第5軍]]の指揮官[[ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1882-1951)|ヴィルヘルム皇太子]]で、参謀{{仮リンク|コンスタンティン・シュミット・フォン・クノーベルスドルフ|en|Konstantin Schmidt von Knobelsdorf}}がその任務を受け持った。ヴェルダンの要塞はフランス国内で最も堅固な要塞だったが、1915年にはその武装が一部解除されており、ドイツ軍部はヴェルダンを攻撃することで西部戦線に活気をもたらそうとした。また、ドイツ軍から見るとヴェルダンは東の{{仮リンク|サン=ミーエル|en|Saint-Mihiel}}と西の[[ヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ|ヴァレンヌ]]に挟まれたフランス軍の突起部であり、ドイツ軍の前線を側面から脅かしていた{{Sfn|Keegan|2001|pp=390–392 }}{{sfn|Hirschfeld|Krumeich|Renz|Pöhlmann|2003|pp=445–446, 942–944, 959}}{{sfn|Becker|Krumeich|2010|pp=225–227}}{{sfn|Fischer|Klink|2005|pp=20 – 22
[[画像:Fort Douaumont Ende 1916.jpg|thumb|{{仮リンク|ドゥオモン要塞|en|Fort Douaumont}}にある爆発の跡、1916年。]]
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3月初、{{仮リンク|ドイツ帝国海軍省|en|German Imperial Naval Office}}がマスコミで無制限潜水艦作戦を支持する宣伝攻勢を始め<!--引用文は不要と判断-->、ヴィルヘルム2世を激怒させたためティルピッツは3月15日に海軍大臣を辞任せざるを得なかった{{sfn|Riezler|1972|pp=342, 338 – 339}}。ドイツ潜水艦による客船[[サセックス (客船)|サセックス]]攻撃がアメリカとの間で問題となり、ドイツは5月に{{仮リンク|サセックスの誓約|en|Sussex pledge}}を出して潜水艦作戦の増強を取りやめることとなった。
イギリスの優勢な海軍力を利用した海上封鎖に苦しむドイツは、通常の艦隊ではイギリスの軍艦を分断・撃破することを狙っていた<ref name=":0" />。ところが、5月31日から6月1日にかけて、両海軍が誘い出し合った結果として両軍艦船合わせて排水量180万トンにもなる「世界史上最大の海戦」という予想外の[[ユトランド沖海戦]]が行われ、両軍合計で8,600人が死亡した(その中には作家の{{仮リンク|ゴルヒ・フォック (作家)|en|Gorch Fock (author)|label=ゴルヒ・フォック}}もいた)。ドイツの[[大洋艦隊]]は規模で上回るイギリスの[[グランドフリート]]に対し幸運にも逃走に成功。またイギリス艦隊の損害はドイツ艦隊のそれを上回ったが、戦略的には何も変わらず、イギリスは[[北海]]の[[制海権]]を保った{{sfn|Hirschfeld|Krumeich|Renz|Pöhlmann|2003|pp=50, 839–841}}{{sfn|Epkenhans|Hillmann|Nägler|2011|pp=139–141}}<ref>Michalka: ''Der Erste Weltkrieg. Wirkung - Wahrnehmung - Analyse''. 1997, p.341 ff.</ref>{{sfn|Mirow|1976|pp=82–84}}{{Sfn|Keegan|2001|pp=379–381 }}{{Sfn|Piekałkiewicz|1988|pp=403–405}}。ドイツは潜水艦による民間輸送船に対する無制限攻撃にますます傾斜していき、やがてアメリカの参戦を招くことになる<ref name=":0" />。
=== ブルシーロフ攻勢とソンムの戦い ===
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=== 潜水艦作戦の増強とアメリカ合衆国の参戦 ===
[[画像:Bundesarchiv Bild 102-00159, U-Bootkrieg, britisches Schiff "Maplewood".jpg|thumb|1917年春、[[地中海]]でイギリスの貨物船に砲撃するドイツの潜水艦[[U35 (潜水艦・初代)|U-35]]。U-35は少なくとも船226隻を撃沈しており、史上最も「成功」した軍艦とされている。]]
アメリカは戦争により軍需景気となり、英仏への兵器・鉄の輸出等で貿易額は約4倍に伸びた<ref name=":0" />。
1916年1月よりヴィルヘルム2世を説得していたドイツ最高司令部は1917年1月8日から9日にヴィルヘルム2世の許可を得て、2月1日に無制限潜水艦作戦を再開することを決定した。決定の背景には1916年12月の平和案とその拒否があった。1916年12月18日にアメリカ大統領[[ウッドロウ・ウィルソン]]が連合国に対し秘密裏に仲介を打診していたが(仲介は後に断られた)、それが1月12日に明るみに出るとドイツ国内が無制限潜水艦作戦に対する協力ムードになった。ウィルソンは仲介の打診にあたって、連合国に戦争目標の開示を求めた{{Sfn|Keegan|2001|pp=444–445}}{{Sfn|Strachan|2006|pp=276–277}}{{sfn|Hirschfeld|Krumeich|Renz|Pöhlmann|2003|pp=510, 933}}{{sfn|Becker|Krumeich|2010|pp=258–259}}{{sfn|Riezler|1972|pp=324 – 325, 387 – 389}}{{sfn|Mirow|1976|pp=131–132}}。{{仮リンク|ベルリーナー・ターゲブラット|en|Berliner Tageblatt}}の編集長{{仮リンク|テオドール・ヴォルフ|en|Theodor Wolff}}は1月12日と13日に下記のように記述した:「連合国のウィルソンに対する返答文が公表された。それは連合国の戦争目標を告知していた。ドイツがそれまで征服した領土のドイツからの分離、[[民族自決]]に基づくオーストリア=ハンガリーの完全解体、[[トルコ]](オスマン帝国)をヨーロッパから追い出すなど。影響は巨大であった。{{仮リンク|汎ゲルマン連盟|en|Pan-German League}}などの連中が大喜びした。連合国が{{仮リンク|絶滅戦争|de|Vernichtungskrieg}}を欲しくなく、交渉に前向きとは誰も言えなくなった。(中略)連合国の返答により、皇帝は人民に訴えた。誰もが無制限潜水艦作戦を準備した。」{{sfn|Wolff|1984|pp=471 – 472 }}。中央同盟国はウィルソンが提案した国民投票を拒否。2月3日にはドイツの無制限潜水艦作戦再開によりアメリカがドイツと断交した{{sfn|Hirschfeld|Krumeich|Renz|Pöhlmann|2003|p=933}}。
[[画像:USA bryter de diplomatiska förbindelserna med Tyskland 3 februari 1917.jpg|220px|thumb|アメリカ大統領[[ウッドロウ・ウィルソン]]の演説<br />ドイツとの外交関係断絶を発表している]]
{{Wikisourcelang|en|Formal U.S. Declaration of War with Germany, 6 April 1917}}
ウィルソンは[[アメリカ合衆国議会]]で「平和を愛する」民主主義者の世界中の「軍事侵略的な」独裁主義者に対する[[十字軍]]に参加するよう呼びかけた。その4日後の1917年4月6日、アメリカがドイツに[[アメリカ合衆国の対独宣戦布告 (1917年)|宣戦布告]]した。両院とも圧倒的多数で参戦を決議した<ref>Woodrow Wilson: ''War Messages, 65th Cong., 1st Sess. Senate Doc. No. 5, Serial No. 7264.'' Washington, D.C. 1917, pp.3-8, passim.</ref>。表向きのスローガンは「民主主義のための戦い」であったが、参戦の裏には様々な理由があった。アメリカとドイツの戦後に対する構想はお互い相容れないものであり、ドイツが大陸ヨーロッパの覇権を握ろうとしたことと全世界においても野心を前面に出したことでアメリカの利益に適うことができなくなった。戦争以前でも[[アルフレート・フォン・ティルピッツ]]の{{仮リンク|ティルピッツ計画|en|Tirpitz Plan}}が長期的には[[モンロー主義]]におけるアメリカの利益に反すると信じられており、また20世紀初頭のアメリカの政治家や学者はドイツの文化が優越しているとの主張やドイツ人の[[国]]という思想に不信感を持っていた。開戦以降、アメリカと連合国の経済関係が緊密になり、{{仮リンク|ブライス委員会|en|Committee on Alleged German Outrages}}などでドイツの陰謀が報告され、さらに[[ルシタニア (客船)|ルシタニア号]]が撃沈されると反独感情が高まった。
1917年5月、アメリカ軍の第一陣がフランスに向けて出発する<ref name=":0" />。
=== 日本海軍艦隊の
{{main|特務艦隊#第一次世界大戦}}
[[画像:Destroyer Sakaki.jpg|thumb|イギリスの兵員輸送船「[[トランシルヴァニア (客船)|トランシルヴァニア]]」から救出された乗員であふれる[[大日本帝国海軍]]の[[駆逐艦]]「[[榊 (樺型駆逐艦)|榊]]」(1917年5月4日撮影)]]
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1917年1月から3月にかけて日本とイギリス、フランス、ロシア政府は、日本がヨーロッパ戦線に参戦することを条件に、[[山東半島]]および赤道以北のドイツ領南洋諸島におけるドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認する秘密条約を結んだ。
これを受けて[[大日本帝国海軍]]は、[[インド洋]]に[[特務艦隊#第一特務艦隊|第一特務艦隊]]を派遣し、イギリスやフランスのアジアやオセアニアにおける[[植民地]]からヨーロッパへ向かう輸送船団の護衛を受け持った。1917年2月に、巡洋艦「[[明石 (防護巡洋艦)|明石]]」および[[樺型駆逐艦]]計8隻からなる[[特務艦隊#第二特務艦隊|第二特務艦隊]]をインド洋経由で[[地中海]]に派遣した。さらに[[桃型駆逐艦]]などを増派し、ヨーロッパ・地中海に派遣された日本海軍艦隊は合計18隻となった。
第二特務艦隊は、派遣した艦艇数こそ他の連合国諸国に比べて少なかったものの、他の国に比べて高い稼働率を見せて、1917年後半から開始した[[アレクサンドリア]]から[[マルセイユ]]へ艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国軍の兵員70万人を輸送するとともに、ドイツ海軍のUボートの攻撃を受けた連合国の艦船から7000人以上を救出<ref name="sankei14080318000002">{{Cite news |title=「地中海で戦ったこと忘れないで」甦る日本艦隊への評価 地中海の小国マルタ 第一次大戦開戦100年 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2014-08-03 |url=http://www.sankei.com/world/news/140803/wor1408030035-n1.html |accessdate=2014-08-04 |author=内藤泰朗 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160820235040/http://www.sankei.com/world/news/140803/wor1408030035-n1.html |archivedate=2016年8月20日 }}</ref>した。
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=== ロシア革命 ===
[[画像:Демострация работниц Путиловского завода в первый день Февральской революции 1917.jpg|thumb|[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]の民衆デモにより[[2月革命 (1917年)|二月革命]]が勃発した。]]
工業力が重点になったこの戦争は、[[工業化]]が緒に就いたばかりで未だ農業が主であったロシアの力を大きく超え、既に厳しい[[社会問題]]をさらに悪化させた。
連合国はロシアが民主主義に反対したため[[プロパガンダ]]に問題が生じていたと考え、ロシアで革命が起きる事態をむしろ歓迎した。ドイツは3月21日(ユリウス暦)/4月3日(グレゴリオ暦)に[[ウラジーミル・レーニン]]ら[[ボリシェヴィキ]]約30人をスイスからフィンランド経由でロシアに帰国させた(一部はドイツの鉄道を利用した)。[[ロシア社会民主労働党]]の一部であったボリシェヴィキ(「多数派」の意)は1905年革命以降、その指導層の大半が亡命していた。開戦からロシア政府の戦争政策に反対しており、「現在の帝国主義の戦争を内戦に」{{sfn|Winkler|2011|p=1180}}転化しようとしたが、戦争初期では失敗した。ドイツ政府は[[アレクサンドル・パルヴス]]を仲介人にして当時スイスに住んでいたレーニンと接触。続いて大量の資金(数百万[[金マルク|マルク]]とされる)をロシアの革命家に提供してロシアを不安定にしようとした{{sfn|Wolkognow|1994|pp=110– 112}}{{sfn|Service| 2000|pp=387 – 388}}。レーニンは帰国直後の4月7日(ユリウス暦)/4月20日(グレゴリオ暦)に[[四月テーゼ]]を発表。革命の進展についての見解を述べるとともに戦争の即時終結を要求、厭戦気分に満ちた民衆の支持を受けた。政府はちょうど[[メーデー|労働者の日]](4月18日(ユリウス暦)/5月1日(グレゴリオ暦))に{{仮リンク|ミリュコーフ通牒|en|Milyukov note}}を送って、単独講和なしで戦争継続することを約束したため、民衆の怒りを買って{{仮リンク|四月危機|en|April Crisis}}を引き起こしてしまった。その結果、ソビエトの中道左派が臨時政府に入閣した{{sfn|Hirschfeld|Krumeich|Renz|Pöhlmann|2003|pp=807–809}}{{sfn|Becker|Krumeich|2010|pp=265–267}}{{sfn|Hildermeier|2004|pp=17–19, 28–29}}{{Sfn|Keegan|2001|pp=462–464}}{{Sfn|Strachan|2006|pp=289–291}}。
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5月6日(ユリウス暦)/5月19日(グレゴリオ暦)に成立した第一次連立政府で陸海軍大臣に就任した[[アレクサンドル・ケレンスキー]]はペトログラード・ソビエトの副議長でもあった。彼は「敗北なしの平和」を達成すべく、{{仮リンク|ベレジャヌィ|en|Berezhany}}、[[リヴィウ]]、[[ヴィリニュス]]を目標とした、後に[[ケレンスキー攻勢]]と呼ばれた攻勢を命じた。攻勢は6月29日に始まり、まず[[イヴァーノ=フランキーウシク|スタニスラーウ]]に対して、東部戦線でそれまでになかった激しさの砲火を浴びせた後、ロシア軍は7月11日に{{仮リンク|カールシュ|en|Kalush, Ukraine}}まで進軍したが、直後に敗走。他の前線でも敗れた。その結果、多くの兵士が脱走、ロシア軍が解体し始めた。ケレンスキーは7月25日に攻勢を中止した。中央同盟国は反撃に出て、8月3日までに[[テルノーピリ|タルノーポリ]]や[[チェルニウツィー]]まで進軍、東ガリツィアと[[ブコビナ]]を奪回した{{Sfn|Keegan|2001|p=470}}{{sfn|Hirschfeld|Krumeich|Renz|Pöhlmann|2003|pp=612–613}}{{Sfn|Piekałkiewicz|1988|pp=483–485}}。ロシアでもボリシェヴィキが[[七月蜂起]]を起こしたが鎮圧された。レーニンは[[フィンランド大公国|フィンランド]]に逃亡した{{sfn|Hirschfeld|Krumeich|Renz|Pöhlmann|2003|p=808}}{{sfn|Wolkogonow| 1994|pp=142 – 144}}。9月、ドイツ軍は[[リガ]]を占領([[リガ攻勢]])。10月には[[アルビオン作戦]]でバルト海の[[サーレマー島]]、[[ヒーウマー島]]、[[ムフ島]]を占領し、ロシア軍はほぼ完全に崩壊した{{Sfn|Keegan|2001|pp=472–474}}{{Sfn|Piekałkiewicz|1988|pp=487–489}}。
9月末、ロシアの[[ラーヴル・コルニーロフ]]将軍が[[クーデター]]を企図して失敗すると({{仮リンク|コルニーロフ事件|en|Kornilov affair}})、ケレンスキーは革命を守るためにボリシェヴィキに頼らなければならず、ボリシェヴィキは名実ともに名誉回復した。そして、フィンランドから帰国したレーニンが10月24日(ユリウス暦)/11月6日(グレゴリオ暦)に[[十月革命]](十一月革命ともいう)を起こし、翌日には臨時政府が転覆されてボリシェヴィキが権力を奪取した。そのさらに翌日にはボリシェヴィキが[[平和に関する布告]]を発し、中央同盟国を東部戦線から解放する結果となった{{sfn|Service| 2000|pp=405–407}}{{sfn|Hildermeier|2004|pp=31–33}}{{Sfn|Keegan|2001|pp=474–476}}。12月5日、中央同盟国とロシアの間で10日間の停戦協定が締結された。その後、停戦は数度延長され、12月22日には[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト=リトフスク]]で講和交渉が開始した。最終的には1918年3月3日に[[ブレスト=リトフスク条約]]が締結された{{sfn|Hirschfeld|Krumeich|Renz|Pöhlmann|2003|pp=506–508}}。
=== ドイツ、西部戦線で守勢に ===
[[画像:Flandern 1917.jpg|thumb|フランス軍による、ドイツ軍への突撃が失敗した一幕。1917年のフランドル。]]
[[画像:The Way to the Front.jpg|thumb|爆撃を受けた森、[[イーペル]]付近、1917年。]]
フランス軍大本営がある[[シャンティイ]]で行われた連合国の第二次会議(1916年11月)では再び合同攻勢が決定されていた。ソンム会戦で敗れた連合国軍は1915年の戦術に立ち返り、[[リール (フランス)|リール]]とヴェルダンの間にあるドイツの突起部を両側から攻撃して他のドイツ部隊からの切断を図る、という戦術を再び採用した。攻勢の[[最高指揮官]][[ロベール・ニヴェル]]はフランス北部の[[アラス]]を攻撃の始点に選び、イギリス軍(カナダとニュージーランド部隊含む)が4月9日に攻撃を開始した({{仮リンク|アラスの戦い (1917年)|en|Battle of Arras (1917)|label=アラスの戦い}})。直後にはフランス軍も[[エーヌ川]]と[[シャンパーニュ]]で攻勢に出て({{仮リンク|第二次エーヌ会戦|en|Second Battle of the Aisne}}と{{仮リンク|第三次シャンパーニュ会戦|en|Battle of the Hills}})、{{仮リンク|シェマン・ド・ダーム|en|Chemin des Dames}}の占領を狙った。{{仮リンク|ルートヴィヒ・フォン・ファルケンハウゼン|en|Ludwig von Falkenhausen}}将軍(後に罷免された)の部隊はアラスでの攻撃で奇襲を受け、兵士2万4千が出撃しなかったままとなったため、ドイツ軍は兵士への再教育を行った{{sfn|Jacques|Mortier|2008|pp=12–14}}<ref>{{Cite web |author=Angelika Franz |url=http://www.spiegel.de/wissenschaft/mensch/0,1518,547483,00.html |title=Tunnelstadt unter der Hölle |publisher=Der Spiegel |language=deu |date=2008-04-16|accessdate=2025-05-26}}
。</ref>。連合国軍の攻勢に使われた物資は前年のソンム会戦よりも多かった。カナダ師団は{{仮リンク|ヴィミ・リッジの戦い|en|Battle of Vimy Ridge}}に勝利して戦略要地であるヴィミ・リッジを占領したが、その後は進軍できず、戦線が膠着した。フランス軍はヴィミ・リッジから130km南のところで攻撃を仕掛け、前線を押し出したがシェマン・ド・ダームの占領には失敗した。結局、連合国軍は大損害を出して5月には攻勢を中止した。{{仮リンク|フリッツ・フォン・ロスベルク|en|Fritz von Loßberg}}が[[縦深防御]]戦術を編み出した後、ドイツ軍の防御の配置がより深く複雑になった。英仏軍の戦車(合計170台)は技術上の問題があり、しかも数が足りなかったため戦局に大きな影響を及ぼさなかった。また両軍とも毒ガスを使用した<!--ガスボンベが化学砲弾に置換されるようになった GasgranateとBlasverfahrenの訳語に疑問があるので一旦コメントアウト-->{{sfn|Hirschfeld|Krumeich|Renz|Pöhlmann|2003|pp=411–412, 744–745}}{{Sfn|Keegan|2001|pp=448–450}}{{Sfn|Piekałkiewicz|1988|pp=464–466}}。
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11月20日から12月6日までの[[カンブレーの戦い]]で初めての大規模な[[機甲戦]]が行われた{{sfn|Montgomery|1999|p=479}}。短期間の予備砲撃の後、{{仮リンク|王立戦車連隊|en|Royal Tank Regiment}}の戦車約320両は飛行機400機、6個歩兵師団、3個騎兵師団の援護を受けて、{{仮リンク|ヒンデンブルク線|en|Hindenburg Line}}上の{{仮リンク|アヴランクール|en|Havrincourt}}地域で15kmにわたる前線を突破、7km前進した。それまでは塹壕戦によりまず長期間の砲撃が行われることが予想されたため、連合国軍の攻勢は奇襲となったが、鉄道の中心地であったカンブレーまでの突破は失敗。戦車の3分の1が破壊された。さらに、ドイツ軍は11月30日に反攻に転じて、占領された地域の大半を奪還した。防衛の成功によりドイツ軍の首脳部は機甲部隊の重要性を誤認し、その整備を後回してしまうというミスを犯した{{sfn|Hirschfeld|Krumeich|Renz|Pöhlmann|2003|pp=403–404}}{{Sfn|Keegan|2001|pp=512–514}}。
その後、ドイツ軍はロシアとの戦闘が終了した1918年3月に東部戦線の兵力を西部戦線に回し、やがて総攻撃を行う。8月、英仏はあらたに加わった米軍とともに反撃に出る。米軍の圧倒的な戦力によりドイツ軍は壊滅的被害を受ける<ref name=":0" />。10月チェコスロバキア、ハンガリーが次々と独立、11月にはドイツで革命が起こり、ヴィルヘルム2世は退位する。1918年11月11日、停戦が成立する。
=== 日本のオーストラリア警備と人種差別 ===▼
[[画像:Japanese cruiser Ibuki ca 1910.jpg|thumb|ANZAC欧州派遣を護衛した伊吹]]
[[画像:StateLibQld 1 120860 Sydney (ship).jpg|thumb|シドニー]]
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この際、護衛艦隊中で最大の艦であった「伊吹」も「エムデン」追跡を求めたが、結局は武勲を「シドニー」に譲った。このエピソードは「伊吹の武士道的行為」として賞賛されたとする記録がある一方で、伊吹艦長の[[加藤寛治]]は、エムデン発見の一報が伊吹にのみ伝えられず、シドニーによって抜け駆けされたと抗議している。
以後の[[太平洋]]と[[インド洋]]における輸送船護衛はほぼ日本海軍が引き受けていた。ところが1917年11月30日に、オーストラリア西岸フリーマントルに入港する「[[矢矧 (防護巡洋艦)|矢矧]]」に対して、陸上砲台から沿岸砲一発が発射され、矢矧の煙突をかすめて右舷300mの海上に落下する事件が発生
=== その他の戦線 ===
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[[画像:Transporting Ottoman injured at Sirkedji.jpg|thumb|left|{{仮リンク|シルケジ|en|Sirkeci}}で負傷して搬送されるトルコ兵士(1915年)]]
[[画像:Emergency hospital during Influenza epidemic, Camp Funston, Kansas - NCP 1603.jpg|thumb|[[スペインかぜ]]大流行の最中の緊急{{仮リンク|軍事病院|en|Military hospital}}、1918年の[[カンザス州]]{{仮リンク|キャンプ・ファンストン|en|Camp Funston}}にて。スペインかぜにより、アメリカだけで675,000人が死亡した。]]
戦争は兵士の健康に大きく影響した。1914年から1918年まで動員されたヨーロッパ諸国の将兵6
[[ロシア飢饉 (1921年-1922年)|1921年ロシア飢饉]]により500万から1,000万人が死亡した<ref>{{Cite web |url=http://www.hoover.org/publications/digest/6731711.html |publisher=Hoover Institution |work=Hoover Digest |date=2007-01-30 |title=Food as a Weapon |first=Bertrand M.|last=Patenaude |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080719190529/http://www.hoover.org/publications/digest/6731711.html |archivedate=2008-07-19 |accessdate=2014-08-14}}</ref>。ロシアでは第一次世界大戦、ロシア内戦、そして飢饉により、1922年までに450万から700万人の子供が[[孤児]]になった{{Sfn|Ball|1996|pp=16, 211}}。反ソ連のロシア人([[白系ロシア人]])の多くがロシアから逃亡、1930年代の[[満洲国]][[ハルビン市]]では10万人のロシア人が住んでいたという<ref>{{Cite news |url=http://www.highbeam.com/doc/1G1-16051029.html |title=The Russians are coming (Russian influence in Harbin, Manchuria, China; economic relations) |work=The Economist (US) |date=1995-01-14}} (via Highbeam.com)</ref>。ほかにも数千人単位でフランス、イギリス、日本、アメリカに逃亡している。
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戦乱によって、さまざまな疫病も流行した。[[寄生虫]]による[[発疹チフス]]で、1914年のセルビアだけでも20万人の死者(うち兵士は7万人)が出た{{Sfn|Tschanz}}。1918年から1922年まで、ロシアでは2,500万人が発疹チフスに感染、300万人が死亡した{{Sfn|Conlon|p=15}}。1923年にはロシアで1,300万人が[[マラリア]]に感染、戦前よりはるかに大きい感染者数となった{{sfn|Taliaferro|1976|p=65}}。さらに、[[1918年]]には[[スペインかぜ]]([[インフルエンザ]])が[[パンデミック|大流行]]、ヨーロッパでは少なくとも2,000万人が死亡した{{Sfn|Knobler|2005|p=256}}<ref>{{Cite book |last1=Kamps|first1=Bernd Sebastian |last2=Reyes-Terán|first2=Gustavo |title=Influenza |url=http://www.influenzareport.com/ir/overview.htm |series=Influenza Report |publisher=Flying Publisher |isbn=3-924774-51-X |accessdate=2009-11-17}}</ref>。「スペインかぜ」の俗称は各国が戦時下で情報統制していた中で[[中立国]]のスペインから早期に感染情報がもたらされた事に由来する<ref name="isl">{{Cite web|和書|url=https://www.isl.or.jp/service/influenza-jp1918.html|title=1918-19スペイン風邪の流行状況(労研図書館資料から) |publisher=財団法人 労働科学研究所 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091231003554/https://www.isl.or.jp/service/influenza-jp1918.html|archivedate=2009-12-31|accessdate=2020-02-09}}</ref>。これにより徴兵対象となる成人男性の死者が急増し、補充兵力がなくなりかけたことが、同年の休戦の一因ともいわれている<ref>[http://influenza.elan.ne.jp/basic/spain.php 20世紀のパンデミック(スペインかぜ)] [[中外製薬]]</ref>。
[[ハイム・ヴァイツマン]]によるロビー活動もあって、[[ユダヤ系アメリカ人]]がアメリカにドイツ支援を促すことにイギリスが恐れた結果、イギリス政府は1917年に[[バルフォア宣言]]を発してパレスチナにおける{{仮リンク|ユダヤ人の母国|en|Homeland for the Jewish people|label=ユダヤ人国家}}の建国を支持した<ref>{{Cite encyclopedia |url=
=== 社会の傷跡 ===
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ヴェルサイユ条約の{{仮リンク|ヴェルサイユ条約第231条|en|Article 231 of the Treaty of Versailles|label=第231条}}(いわゆる「戦争責任」条項)において、ドイツは「連合国、その政府と国民が」ドイツとその同盟国の侵略に「強いられた戦争の結果としての損失」の責任を負わなければならなかった{{sfn|Kaes|1994|p=8}}。この条項は[[第一次世界大戦の賠償]]の法的根拠として定められ、オーストリアとハンガリーとの講和条約でも同様の条項があったが、3国いずれもそれを戦争責任を認める条項とはみなさなかった{{Sfn|Marks|1978|pp=231-232}}。1921年、賠償の総額が1,320億[[金マルク]]に定められたが、連合国の専門家にはそれがドイツにとって到底払える額ではないことは最初から分かっていた。賠償金は3部分に分けられ、うち第3の部分は「空中の楼閣」とするつもりのもので、主な目的は世論を誘導して「最終的には全額支払われる」と信じ込ませることだった{{Sfn|Marks|1978|p=237}}。そのため実際には500億金マルク(125億米ドル)が「連合国が考えるドイツが実際に支払える金額」であり、実際に支払われるべき「ドイツの賠償金の総額」であった{{Sfn|Marks|1978|p=237}}。
賠償金は現金でも現物([[石炭]]、木材、化学[[染料]]など)でも支払えた。また、ヴェルサイユ条約により失われた領土の一部が賠償金の一部償還に充てられ、[[ルーヴェン]]の図書館の修復なども算入された{{Sfn|Marks|1978|pp=223-234}}。1929年、[[世界恐慌]]が起き、世界中の政治を混乱させた{{sfn|Stone|2008|p=?}}。1932年には国際社会により賠償金の支払いが一時停止されたが、その時点ではドイツはまだ205.98億金マルクしか支払っていなかった{{Sfn|Marks|1978|p=233}}。[[アドルフ・ヒトラー]]が[[ナチ党の権力掌握|権力を奪取]]すると、1920年代と1930年代初期に発行された[[債券]]は取り消された。しかし、{{仮リンク|デヴィッド・A・アンデルマン|en|David A. Andelman}}は「支払い拒否は合意を無効にしない。債券や合意はまだ存在する」と述べた。そのため、[[第二次世界大戦]]後の1953年、{{仮リンク|ドイツの対外債務に関するロンドン合意|en|London Agreement on German External Debts|label=ロンドン会議}}において、ドイツは支払いの再開に同意した。ドイツが賠償金の支払いを完全に終えたのは、2010年10月3日であった<ref>{{Cite web |title=First World War officially ends |url=
[[ハーバー・ボッシュ法]]を考案した一人である[[フリッツ・ハーバー]]は、賠償金の足しにするため1920年から[[海水]]から[[金]]を回収する計画を始めたが、採算が合わないことが分かり1924年に中止した。
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ドイツ北部では1918年10月末に[[ドイツ革命]]が勃発した。ドイツ海軍の[[水兵]]が、敗北必至の状況下で最後の大規模な戦役への出征を拒否して反乱した。[[軍港]]の[[ヴィルヘルムスハーフェン]]と[[キール (ドイツ)|キール]]で勃発した{{仮リンク|キールの反乱|en|Kiel mutiny|label=水兵反乱}}は数日で全国に飛び火し、1918年11月9日の共和国建国宣言、直後のヴィルヘルム2世退位につながった。
==== 徴兵・動員 ====
[[画像:Young men registering for military conscription, New York City, June 5, 1917.jpg|thumb|徴兵に応じる若者たち、[[ニューヨーク]]市、1917年6月5日。]]
{{Main|{{仮リンク|1917年徴兵危機|en|Conscription Crisis of 1917}}}}
818 ⟶ 827行目:
オーストラリアでは首相[[ビリー・ヒューズ]]が徴兵支持運動を組織した結果、[[オーストラリア労働党]]の分裂を招き、ヒューズは1917年に{{仮リンク|民族主義党 (オーストラリア)|en|Nationalist Party (Australia)|label=民族主義党}}を結成して運動を継続した。しかし、農民、[[労働運動]]、カトリック教会、アイルランド系カトリックが一斉に反対した結果、{{仮リンク|1917年オーストラリア徴兵に関する国民投票|en|Australian conscription referendum, 1917}}は否決された<ref>J. M. Main, ''Conscription: the Australian debate, 1901-1970'' (1970) [http://espace.library.uq.edu.au/view/UQ:338722 abstract] {{webarchive |url=https://archive.is/20150707113023/http://espace.library.uq.edu.au/view/UQ:338722 |date=2015-07-07}}</ref>。
イギリスでは兵役に適する男子1
アメリカでは参戦から6週間の間、募兵者の人数が7万3
オーストリア=ハンガリーでは大陸ヨーロッパ諸国と同じく、一般兵士を徴兵したが、士官については募兵で招集した。その結果、一般兵士では4分の1以上が[[スラヴ人]]だったが士官では4分の3以上がドイツ人だった。スラヴ人兵士は不平を抱き、結果的にはオーストリア=ハンガリー軍の戦場における実績が災難的になった{{sfn|Hastings |2013|pp=30, 140}}。
また、ヨーロッパ各国の植民地からも兵力・輜重輸送等の労働力として現地住民からの動員が行われた<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=映像の世紀 大量殺戮の完成(DVD) |date=2005/11/25 |publisher=NHKエンタープライズ |volume=2}}</ref>。イギリスはインド、カナダ、オーストラリアから兵を動員しこれは大英帝国軍の1/4を占め、フランスはインドシナから兵士15万人を動員、植民地兵は300万人を越えた<ref name=":0" />。インドからの動員は戦後のインド独立運動を活発化させ、一方、仏領セネガルから送られた現地人兵士らは近代兵器の訓練を施され、のちにフランス植民地支配の実戦部隊となる<ref name=":0" />。中国人労働者を現地からすれば破格の報酬で募集、砲弾輸送等の危険な仕事にあてられ、10万人以上が欧州西部戦線側に渡った<ref name=":0" />。
=== 外交とプロパガンダ ===▼
{{Main|{{仮リンク|第一次世界大戦の外交史|en|Diplomatic history of World War I}}}}
参戦諸国の[[外交]]と[[プロパガンダ]]は自国の主張への支持を築き、敵国への支持を弱めるよう設計された。戦時外交の目的は5つあった。戦争の目的を定義することと(戦況の悪化につき)再定義すること、中立国に敵国の領土を与えることで中立国(イタリア、オスマン帝国、ブルガリア、ルーマニア)を味方に引き入れること、そして連合国が中央同盟国国内の少数民族(チェコ人、ポーランド人、アラブ人)運動を支援することだった。また中立国、参戦国いずれも平和案を提示したことがあったが、結実することはなかった{{sfn|Stevenson|1988|p=?}}{{sfn|Zeman|1971|p=?}}{{sfn| Carnegie Endowment for International Peace |1921|p=515}}
同じ主題に関するプロパガンダでも、時と場合によってその指向が異なった。例えば、ドイツ軍が初めて毒ガスを使用したとき、連合国はアメリカを味方に引き入れるためにドイツ軍が「ハーグ陸戦条約に違反して残忍で非人道な武器を導入した」と宣伝した{{Sfn|Heller|1984|loc=Chapter 3}}。しかし、英仏軍が毒ガスの報復攻撃を行うと、宣伝の内容が「ドイツ軍が先に毒ガスを使用したことは報復攻撃を正当化し、連合国はやむなく似たような武器を使用した」に変わった{{Sfn|Heller|1984|loc=Chapter 3}}。さらに1917年春、夏には連合国が毒ガスに関するプロパガンダを一切行わず情報をシャットアウトしたが、これは米軍が必要以上に毒ガスを恐れないようにするためだった{{Sfn|Heller|1984|loc=Chapter 3}}。そして、米軍が参戦した後は情報を全て公開して「連合国の技術が進み、正義が邪悪に打ち勝った」と宣伝した{{Sfn|Heller|1984|loc=Chapter 3}}。
総力戦の時代であるため、兵を動員し、国民の戦争協力を取り付けるため、また、戦時公債を募集するため、各国は国民に向けてのプロパガンダも行った。英国は開戦当初、愛国心を煽るポスターで志願を募り、アメリカでは戦争協力にハリウッド映画を利用、公債募集のキャンペーンパレードが各都市で催される、戦意を煽る軍歌が作られるなど、様々な宣伝活動が行なわれた<ref name=":0" />。米軍では600人にのぼるカメラマンを従軍させ、西部戦線近くに現像編集を一括して行う設備を設けた<ref name=":0" />。
== 研究史 ==
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*{{Cite book| last1=Murrin |first1=John| last2=Johnson| first2=Paul last3=McPherson| first3= James last4=Gerstle| first4=Gary |last5=Fahs| first5=Alice |date=2010 |series= Liberty, Equality, Power: A History of the American People|volume=II|title=Since 1863|publisher=Cengage Learning|___location=Boston |language=en |isbn= 0-495-90383-3|ref=harv}}
*{{Cite book|last=Newton-Matza|first=Mitchell|year=2017|title=The Espionage and Sedition Acts: World War I and the Image of Civil Liberties|language=en|publisher=Routledge|isbn=9781317691297|url=https://books.google.com/books?id=xno2DwAAQBAJ&pg=PT49|ref=harv}}
*{{Cite book|author=New York Times|year=1915|title= Current History,Vol 1,From the Beginning to March, 1915|publisher=The New York Times Company|url=
*{{Cite book|first= Sönke |last= Neitzel|title=Weltkrieg und Revolution. 1914-1918/19. |publisher=Be.bra verlag|___location=Berlin |date=2008|isbn= 978-3-89809-403-0|language=deu|ref=harv}}
*{{Cite book|last=Nicholson|first=Gerald WL|title=Canadian Expeditionary Force, 1914-1919: Official History of the Canadian Army in the First World War|year=1962|edition=1st|___location=Ottawa|publisher=Queens Printer and Controller of Stationary|oclc=2317262|url=http://www.censol.ca/research/greatwar/nicholson/index.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070516162359/http://www.censol.ca/research/greatwar/nicholson/index.htm|archivedate=2007-05-16|url-status=dead|ref=harv}}
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*{{Cite book|first=Manfried |last=Rauchensteiner|title=Der Erste Weltkrieg und das Ende der Habsburgermonarchie 1914-1918. |publisher=Böhlau|___location=ウィーン|date=2013|language=deu |isbn= 978-3-205-78283-4|ref=harv}}
*{{Cite journal|last=Raudzens|first=George|title=War-Winning Weapons: The Measurement of Technological Determinism in Military History|journal=The Journal of Military History|volume=54|issue=4|date=1990-10|pages=403-434|doi=10.2307/1986064|publisher=Society for Military History|jstor=1986064|ref=harv}}
*{{Cite journal|last=Rickard|first=J|date=2001-03-05|url=
*{{Cite journal|last=Roden|first=Mike|url=http://www.aftermathww1.com/lostgen.asp|title=The Lost Generation - myth and reality|work=Aftermath - when the boys came home|accessdate=2009-11-06|ref=harv}}
*{{Cite book|first= John C. G. |last= Röhl|title=Wilhelm II. - Der Weg in den Abgrund, 1900-1941|publisher=C.H. Beck|___location=München|date= 2009|isbn= 978-3-406-57779-6 |language=deu|ref=harv}}
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