「武藤敬司」の版間の差分
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[[File:Keiji Mutoh, Oliver Humperdink and Kazuo Sakurada 1986.png|thumb|左から[[桜田一男|ケンドー・ナガサキ]]、[[マネージャー (プロレス)|マネージャー]]の[[サー・オリバー・フンパーディンク]]、ホワイト・ニンジャこと武藤(1986年)]]
[[フロリダ州|フロリダ]]では、[[1986年]]5月21日に[[ケンドール・ウインダム]]からNWAフロリダ・ヘビー級王座を奪取<ref name="fl-h">{{cite web|url=
[[タンパ]]在住中、[[ホテル]]住まいであった武藤はキッチンも無い中100%外食で食事を済ます必要があったが、幼少期にあれだけジャンクフードに憧れていた(エピソード節を参照)武藤と言えど、[[ハンバーガー]]や[[ピザ]]などが中心の食生活には「胃もたれがする」と嫌気が差し、程無くして[[中華料理]]で腹を満たすことにした。当時のタンパには日本食[[レストラン]]が2軒しかなく、インチキな日本食もあったため、止む無く中華料理を食していた。ただ、フロリダには[[ヒスパニック]]が多い影響から[[ターメリック]][[飯|ライス]]が食文化として定着しており、[[鶏肉|チキン]]と一緒にターメリックライスを食べたのが食事に関するアメリカ遠征時代の思い出であった<ref name="wresmeshi"/>。
帰国後、「'''スペース・ローン・ウルフ'''」なる[[ギミック (プロレス)|ギミック]]で売り出される。当時はリング登場時のコスチュームに[[宇宙飛行士]]の[[ヘルメット]](そのスタイルの初期のみ着用、というより頭に被らずに手に携えてリングインするという感じであった)をかぶり、ブルゾンタイプの[[ガウン]]に胸元に“610”(「ムトウ」の意)と書かれたものを着用していた。本人曰く、ヘルメットをかぶったのは猪木から「ヘルメットの[[スポンサー]]が付くかもしれないからかぶれ」と言われたのが理由だったが、スポンサー申し出は来なかったという。所々ラメの入った青いロングタイツに白いリングシューズで真っ直ぐのふさふさした頭髪は『[[ジャニーズ事務所|ジャニーズ]]系レスラー』であると、プロレス雑誌に書かれた。テーマ音楽は「[[ファイナル・カウントダウン (曲)|ファイナル・カウントダウン]]」で、リングに入場する際はロープ間を跨ぐようなことはせず、[[鉄棒]]の前転のようにロープ上を宙返りしリングインする派手なパフォーマンスをしていた。ところが、当時新日本はUWFの抗争真っ最中であり、おおらかなアメリカンプロレスを身に付けた武藤はファンの支持を得られず失敗。とはいえ、早い時期から藤波辰巳とのシングルマッチを実現するなど特別な扱いを受けていた。またナウリーダーとニューリーダーとの世代闘争にも参加しており何故かナウリーダー側として5対5の[[タッグマッチ#エリミネーション
=== 海外修行 - ブレイク ===
[[1988年]]1月から、二度目の海外遠征に出発。[[カルロス・コロン]]が主宰する[[プエルトリコ]]の[[WWC (プロレス)|WWC]]ではベビーフェイスの'''スーパー・ブラック・ニンジャ'''として活動し、[[1988年]]2月6日に[[ホセ・ゴンザレス (プロレスラー)|インベーダー1号]]からTV王座を、同年5月14日に[[ミゲル・ペレス・ジュニア]]からプエルトリコ・ヘビー級王座をそれぞれ奪取した{{R|"wwc-tv"}}<ref name="pr-h">{{cite web|url=
そうした中、7月16日に[[ブルーザー・ブロディ]]刺殺事件が起こり、WWCを離れ[[フリッツ・フォン・エリック]]が主宰する[[ダラス]]のWCCWに活動拠点を移す<ref name="tospo20230125">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/251991|title=【武藤敬司連載#14】【武藤敬司連載#14】ブロディ刺殺で闘魂三銃士結成の地を離れることに…|publisher=東京スポーツ|date=2023-1-25|accessdate=2023-2-3}}</ref>。そこでの活躍で、[[NWA (プロレス)|NWA]]の[[ジム・クロケット・プロモーションズ]](後の[[WCW]])へスカウトされ、ギミック上は[[ザ・グレート・カブキ]]の息子という設定の'''[[武藤敬司#グレート・ムタ|グレート・ムタ]]'''(後述)として、ヒールのポジションで登場。当時のアメリカでの悪役人気は絶大で、[[スティング (プロレスラー)|スティング]]や[[リック・フレアー]]との対決で活躍した。帰国後も、武藤は度々ムタとして登場した。
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2017年[[4月1日]]、GENスポーツエンターテインメントの代表取締役会長に就任<ref>{{Cite web|和書|title=カズ新社長が誕生、武藤は会長職に GENスポーツエンターテインメントが新人事を発表|url=http://boku-pro.com/news/view/13596|website=ぼくらのプロレス|accessdate=2021-02-01|publisher=|date=2017-03-27}}</ref>。
2018年3月に両膝を人工関節にする手術を受け、長期欠場に入る。そして、翌年の6月26日の[[長州力]]引退試合で復帰した<ref name="東スポWEB_20230215">{{Cite web|和書|title=【武藤敬司連載#32】「プロレス、できると思いますよ」って言われて即、人工関節手術を決めたんだ |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/254048 |website=東スポWEB |date=2023-02-15 |access-date=2023-02-25 |language=ja}}</ref>。
2020年4月1日をもってWRESTLE-1は団体としての活動を停止し、所属選手は全て契約解除となり、武藤も例外ではなく、それ以降はフリーランスの立場で[[プロレスリング・ノア]]を中心に試合を行った。
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2022年1月1日の[[日本武道館]]大会で、[[田中将斗]]&[[望月成晃]]組を下し、GHCタッグ王座初防衛<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/battle/news/202201010000545.html|title=武藤敬司「いいお年玉」同門タッグ対決制し初防衛、丸藤との天才コンビ躍動|website=日刊スポーツ|date=2022-01-01|accessdate=2022-06-12}}</ref>。しかし、2月8日に左股関節唇損傷による長期欠場、これに伴う王座返上を会見で発表した<ref>{{Cite web|和書|title=【ノア】長期欠場発表の武藤敬司 歩行困難明かすも「痛みが収まったら〝夢の続き〟を見たい」|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/150557|website=東スポWeb|accessdate=2022-02-13|date=2022-02-08}}</ref>
2022年6月12日に開催された「サイバーファイトフェスティバル2022」において、持病の股関節痛のため、2023年春までに引退すると発表した<ref name="nikkansports220612">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/battle/news/202206120000931.html|title=ノア武藤敬司現役引退発表「来年の春までに引退。あと数試合はするつもり」度重なるケガに苦しむ|website=日刊スポーツ|date=2022-06-12|accessdate=2022-06-12}}</ref><ref name="hochi220612">{{Cite web|和書|url=https://hochi.news/articles/20220612-OHT1T51155.html?page=1|title=来春引退の武藤敬司、決断理由を激白…「いずれは股関節を人工関節に…その時点でもうプロレスはできない」|website=スポーツ報知|date=2022-06-12|accessdate=2022-06-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/battle/news/202206120001379.html|title=武藤敬司引退表明「ゴールすることに決めた」膝に加え股関節にも激痛 ムタも「もう1、2回」|publisher=日刊スポーツ|date=2022-06-12|accessdate=2022-06-13}}</ref>。引退までに数試合は行うとしている{{R|hochi220612}}。9月7日の会見で2023年2月21日ノア東京ドーム大会で引退することを発表した<ref>{{Cite web|和書|title= 【ノア】武藤敬司の引退試合を来年2・21に東京ドームで開催「ジョーのように灰になりたい」 |url=https://www.nikkansports.com
[[2023年]][[2月21日]]、[[東京ドーム]]での「[[KEIJI MUTO GRAND FINAL PRO-WRESTLING "LAST" LOVE〜HOLD OUT〜]]」にて[[内藤哲也]]、[[蝶野正洋]]と引退試合を行い、プロレスラーを引退した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/battle/news/202302210001493.html|title=【ノア】武藤敬司、完全燃焼で現役引退 前代未聞の引退試合2連敗「幸せなプロレス生活だった」|accessdate=2023-02-24|publisher=日刊スポーツ}}</ref>。
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=== 膝の故障 ===
ムーンサルトプレスなど、膝に負担のかかる技を使い続けたため、両膝の[[軟骨]]の減少・摩滅等、膝に持病を抱えており、直立したつもりでも膝が「く」の字に曲がっている。後遺症は重く、カニ歩き(横向き)でないと階段を昇り降り出来ない、プライベートでは300m以上は断続的でなければ歩けない状態である。2015年3月20日放送の日本テレビ系『[[アナザースカイ (テレビ番組)|アナザースカイ]]』では、日常生活での膝への負担軽減の為、[[車椅子|車いす]]を使用することがあるとナレーションされた(番組ではアメリカTNA遠征の際、[[中之上靖文]]が押す車いすで移動した。)。これは1988年に手術後の[[リハビリテーション|リハビリ]]を充分に行う事無く、プエルトリコへの海外遠征(この遠征では[[ブルーザー・ブロディ]]刺殺事件が発生。)を行ったことが致命的だったと自伝などで語っている<ref name="週プレNEWS[週刊プレイボーイのニュースサイト]_20140717">{{Cite web|和書|title=古傷が痛むすべての人にプロレスラー・武藤敬司がアドバイス! - ライフ・文化 - ニュース |url=https://wpb.shueisha.co.jp/news/lifestyle/2014/07/17/32808/ |website=週プレNEWS[週刊プレイボーイのニュースサイト] |date=2014-07-17 |access-date=2023-06-08 |language=ja}}</ref>。また、武藤がショートタイツからロングタイツへと変えたのは、膝に何重にも巻かれた[[テーピング]]を隠すためである。
2010年までに、右膝を4度、左膝を1度手術をしているが、現代の[[医学]]では完全回復は不可能だと医師から告げられており、2013年頃から[[人工関節]]を入れる手術を行うことを検討していたが<ref
引退直前の段階では番組収録のあるラジオ局の駐車場から収録スタジオまで辿り着くのもやっとの思いであった<ref name=":1" />。
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* 子供の頃、母が和食ばかり作り、その中でも[[マグロ]]の[[刺身]]ばかり食べさせた影響で手料理や魚料理に飽きており<ref group="注">山梨は元々マグロ消費が盛んな県であり、[[2016年]]の都道府県別マグロ消費量ランキングでは2位を記録している。</ref>、小中学生時代に地元に出店した[[モスバーガー]]や、[[電子レンジ]]で加熱してすぐ食べられるインスタント[[ピザ]]などの[[ジャンクフード]]、肉料理に憧れていたという。中学生の頃地元に[[チェーン店]]が開店した[[すかいらーく]]で[[シチュー#ビーフシチュー|ビーフシチュー]]を食べたのも本人にとっては良い思い出であり、「うちのおふくろ、まずシチューなんて作らないからね」と語っている<ref group="注">なお、当該のすかいらーく富士吉田店は[[すかいらーく#ガスト|ガスト]]への転換を経ながらも現存しており、[[2024年]]現在もガスト富士吉田松山店として営業を続けている。</ref><ref name="wresmeshi"/>。
* 高校への進学は、当初は[[山梨県立吉田高等学校]]への進学を希望していたが、当時の山梨県の高校入試は受験者自身が志望校を決められない[[総合選抜#山梨県|総合選抜制度]]が採用されていたため、山梨県立富士河口湖高等学校へ進学する事になった。[[1978年]]当時の富士河口湖高等学校は開校して2年目と間もない頃であったため<ref group="注">山梨県立富士河口湖高等学校は武藤が高校に入学する前年の[[1977年]]に開校しており、武藤は当校の2期生にあたる。</ref>、校内で柔道のまともな練習が出来ずに地元の道場へ通っていた。柔道の合宿が行われた際、[[木村政彦]]の打ち込みの相手を務めたこともある。木村に関して「[[ヒクソン・グレイシー|なんとかグレイシー]]じゃ勝てないよ」と述べている<ref name="tospo20230112" />。
* 妻は元タレントの芦田久恵。全日本プロレスでは経理を担当し、チケット販売を行うなど内助の功として支えた。久恵夫人は
* 多くのプロレスラー、練習生を見てきた長州力は「入門当時から素質・素材ともにそろっていたのは武藤と蝶野だけ」と述べている。
* 練習生時代の武藤の脱走談は枚挙に遑が無く、入門初日から早々に脱走を企てたことを同期である蝶野と橋本が証言している。また、彼らによれば武藤から一緒に道場を脱走するための具体的な計画を持ちかけられたことがあるが、蝶野は厳しい練習をネタにした冗談と受け止めて本気だとは思わず、橋本に至っては話を完全に忘れて爆睡しており脱走計画は失敗に終わった。
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* 前述した2000年12月31日に、サプライズで現在のような[[スキンヘッド]]にした理由は本人曰く、「[[ビル・ゴールドバーグ|ゴールドバーグ]]や[[ストーン・コールド・スティーブ・オースチン]]を意識した」とのこと<ref group="注">スキンヘッドにする数年前から頭頂部の髪が薄くなり始めており、[[橋本真也|橋本]]から「Hold Out」のメロディーに乗せて「'''ムトちゃんはハゲるー♪'''」と歌われて弄られることもあった。また抜け毛の原因となるので、試合で相手レスラーに髪を掴まれるのを嫌がっていた。</ref>。
* CSチャンネル[[FIGHTING TV サムライ|サムライ]]の番組で「おれは[[木村健悟|木村健吾]]さんの付き人で楽でよかった、あの人は怒らないから」とコメントし、周りを笑わせた。
* 海外修行時代にWWCからWCCWへ活動拠点を移した理由は、1988年7月にプエルトリコの野球場で開催された5日連続のビッグショーの初日当日に、[[ブルーザー・ブロディ]]刺殺事件が発生。翌日に[[ホセ・ゴンザレス (プロレスラー)|ホセ・ゴンザレス]]が実行犯と分かると、アメリカから来た選手は激怒してアメリカへ帰っていった。武藤は[[桜田一男|ケンドー・ナガサキ]]に相談したが、ナガサキに「先々を考えたら出るわけにいかねえだろ」と言われ、ナガサキが居住していた[[テキサス州]][[ダラス]]へ移動してナガサキの世話となった後にWCCWへ活動拠点を移したという<ref name="tospo20230125" />。
* アメリカ修行からの帰国直後(オレンジ・ショートタイツ時代)にリングネームを募集したことがあるが、良いものが無く、結局本名の武藤敬司でいくことにした。
* [[メガネスーパー]]が[[SWS]]としてプロレス団体を作ろうとしたさい、武藤も引き抜き対象としてリストアップされ、武藤本人もSWSから提示された条件に魅力を感じ引き抜きに応じ、当時新日本プロレスの社長だった[[坂口征二]]に退団の挨拶に行くが、驚いた坂口がその場でメガネスーパーの社長であった田中八郎氏に電話をし「武藤はそちらには行かせませんから」とその場で断り、SWSへの移籍はなくなっている<ref group="注">なお、武藤が退団する旨を伝えに行った日は坂口征二の引退式当日で、引退の労いのために自分の所に来たと思っていた坂口は武藤からSWSへの移籍の挨拶に来た事に驚き激怒し、武藤はかなり怒られ、海外から帰国して間もなかった事もあり強制的にリング上で凱旋帰国扱いで挨拶させられ、移籍出来ない状況にさせられたという。</ref>。なお、武藤は当時を振り返り「(最終的にSWSへ行かなかったのは)自分に自信がなかったのが大きかった。いくら米国で頑張っていても日本では実績がないから。何も“作品”をつくってもねえのに行っても、うまくいかなかったと思う。だから、今振り返ってみても行かなくてよかったんじゃないかな。」と回想している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/252289.html|title=【武藤敬司連載#17】天龍さんじゃなくオレがSWSのエースになるはずだった…|publisher=東京スポーツ|date=2023-1-28|accessdate=2023-1-30}}</ref>。
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=== 経歴 ===
==== グレート・ムタの誕生、武者修行時代 ====
ムタの誕生は[[1987年]]、[[プエルトリコ]]の[[WWC (プロレス)|WWC]]での海外武者修行時代に遡る。修行先では'''スーパー・ブラック・ニンジャ'''(''Super Black Ninja'')のリングネームを名乗って活動していた。スーパー・ブラック・ニンジャは黒装束をまとった忍者[[ギミック (プロレス)|ギミック]]の[[ベビーフェイス (プロレス)|ベビーフェイス]]であり、まだペイントを施していなかったが、武藤が童顔であったためフェイスペイントをするよう促されたこともあり、簡易的な線等を書いて試合をしていた。[[1988年]]にはインベーダー1号こと[[ホセ・ゴンザレス (プロレスラー)|ホセ・ゴンザレス]]とTV王座を争った<ref name="wwc-tv">{{cite web|url=
これが[[NWA (プロレス)|NWA]]のプロモーターの目にとまり、ゲーリー・ハートのアドバイスにより、ザ・グレート・カブキの息子という設定でグレート・ムタが誕生。以後本格的に顔に毒々しくペイントを施し始めた(色は試合ごとに変えていた。ごくまれに目の周りを黒く[[隈取]]をすることもあり、日本では[[1992年]]、[[長州力]]戦で初披露。これが観客に支持され、以後[[2000年]]までムタのペイントの基本形になった)。
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==== 全日本プロレス時代以降 ====
2000年になると、[[TEAM 2000]]総帥となった蝶野や[[北斗晶]]をマネージャーに従えたパワー・ウォリア―と再戦したが、いずれも敗北。思うような結果が出せなかった(このウォリアー戦で純粋なペイントレスラーとしてのムタは日本では見納めとなった)。その後、新日本とは距離を置き、海外を中心に活動するつもりでWCWに帰還。空港に着くなり、多数の報道関係者に取り囲まれ、「あのプロレス史上最凶のヒールが帰ってきました」の賛辞で迎えられる等、アメリカ国内での人気はいまだに衰えを知らなかった。復帰したWCWではスティングと抗争を得て、[[バンピーロ]]や[[インセイン・クラウン・ポッシー]]が結成していた'''ダーク・カーニバル'''('''Dark Carnival''')なる怪奇派ユニットに加わり<ref>{{cite web|url=https://www.onlineworldofwrestling.com/profile/dark-carnival/|title=Dark Carnival|accessdate=2011-05-04|publisher=Online World of Wrestling}}</ref>、バンピーロとのコンビでクロニック([[ブライアン・アダムス (プロレスラー)|ブライアン・アダムス]]&[[ブライアン・クラーク]])からWCW世界タッグ王座を奪取するなど活躍を見せたが<ref name="WCW tag">{{cite web|url=
武藤が帰国し、スキンヘッドになるとムタを一時封印して、後述の黒使(師)無双が武藤の化身として登場していたが、[[2002年]]に全日本プロレスに移籍後、毒蜘蛛をモチーフとするSFX用ラバーマスクとペイントを組み合わせた新しいスタイルで復活を遂げた(マスク制作は特殊メイクアーティスト、[[JIRO (特殊メイクアーティスト)|JIRO]]による)。天龍源一郎から[[三冠ヘビー級王座]]を奪った他、自身の偽物である『GREAT MUTA』と対戦。さらに、[[ファンタジーファイトWRESTLE-1]]で[[ボブ・サップ]]と対戦。敗北したが、試合後に魔術を使ってリングごとサップを行方不明にさせた。2005年には[[WRESTLE-1 GRAND PRIX 2005]](上記のものとは無関係の興行)で[[佐々木健介]]、[[曙太郎|曙]]と対戦した。2006年には[[小島聡]]と三冠ヘビー級王座を賭け対戦するも、敗北を喫した。また、同じ毒霧の使い手である[[TAJIRI]]とも対戦し、その後タッグも組んで、[[ダスティン・ローデス|ゴールドダスティン]]、白使組らと激突している。
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: パートナーは[[神奈月]]。7回防衛。
* [[チャンピオン・カーニバル (プロレス)|チャンピオン・カーニバル]]優勝:3回(2002年・2004年・2007年)
* 新春ジュニアヘビー級バトルロイヤル優勝:1回(2011年)
* 新春ヘビー級バトルロイヤル優勝:1回(2011年)
* [[世界最強タッグ決定リーグ戦]]優勝:3回(2001年・2007年・2009年)
: パートナーは太陽ケア→ジョー・ドーリング→船木誠勝。
433行目:
: コーナーにもたれかかった相手に向かって側転(体操でいうロンダート)し、勢いそのままに胸元へ背面エルボーを放つ技。多くの場合、この技から[[ヘッドロック#ブルドッギング・ヘッドロック|フェイス・クラッシャー]]に繋げる。かつては試合中盤の組み立てに欠かせない技であり、場外でも繰り出していたが、膝への負担が大きいことと、相手に動きを読まれやすくなったことから(例:[[ラリアット]]で迎撃)、2000年代中期以降はほとんど見られなくなった。
; [[エルボー・ドロップ#ドライビング・エルボー・ドロップ(フラッシング・エルボー)|フラッシング・エルボー]]
: '''ドライビング・エルボー'''とも呼ばれる。独特のフォームによるエルボー・ドロップで現在は相手を[[首投げ|フライング・メイヤー]]で倒し、自らロープに走って行うことが多いが、新日本時代は稀に、現在の棚橋のようにその場飛びで行うこともあった(これをドライビング・エルボーと当時は呼称された)。また同じく新日本時代にはこの技を連発してから、[[ギロチン・ドロップ]]というパターンも稀に見せていた。WWEのスーパースターとして活躍した[[ザ・ロック (プロレスラー)|ザ・ロック]]の代名詞となった[[ピープルズ・エルボー]]は、武藤のこの技が元になっている<ref>[
; [[ドロップキック]]、[[ドロップキック#ミサイルキック|ミサイルキック]]
: 武藤の場合、フォーム的には下から突き上げるようなドロップキックや、対橋本戦で見せたような通常のドロップキックのように相手の胸板位の高さまで飛んでおきながら、あえて胸は蹴らずそのまま膝を狙うフェイントをあわせたり、相手のラリアットを前転で回避しその後に放つなど、多様なムーブを見せる。また、足四の字の布石となる'''低空式'''に相手の膝部分を狙って仕掛けることも多く、ミサイルキック(主にセカンドロープから)低空式という高低差のある攻撃もある。足4の字固めやシャイニング・ウィザードに繋ぐ重要な技となっており、特に大型レスラーに対してはこの技の連発で試合を組み立ててゆくことが多い。
477行目:
: 彼の試合をよく観察していると、時々毒霧を吹いた時に何か袋のようなものが口から落ちる時がある(そして、それをムタが眼で追ったりしていることがある)。過去WCW遠征でムタがnWoに入るストーリーの試合中、ムタが毒霧を吹いた後、落ちた袋をレフェリーが足で払い落とそうとして、それをムタが制止した。その後、蝶野と組み合うフリをしてその袋を拾ってまた口に入れるというシーンがあった。レスラーやファンの間では最も毒霧の扱いが上手いとされており、[[WAR (プロレス)|WAR]]に参戦した際は「緑の毒霧」を吹いた直後に「赤の毒霧」を連続で放ち、ファンからは困惑の歓声が上がり対戦相手の[[天龍源一郎]]も驚愕したという逸話もある。
; 凶器攻撃
: こちらもムタの代名詞。[[イス]]、[[ゴング]]、[[鎖|チェーン]]
; 火炎攻撃
: ムタが使用。初使用はグレート・ニタ。
750行目:
* [[一休さん (2012年のテレビドラマ)|一休さん2]] 第2話(2013年5月5日、フジテレビ) - 大男侍 役
* [[辞令は突然に…|「辞令は突然に…」second season 〜奥様はさすらいの女子アナ編〜]](2013年8月29日・9月5日、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]) - 武藤部長 役
* [[
* [[プリズンホテル|浅田次郎 プリズンホテル]] 第8話(2017年12月2日、BSジャパン) - 武藤剛士/ダークネス武藤 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bs-tvtokyo.co.jp/prisonhotel/story/?trgt=s_08|title=プリズンホテル第8話 ワケありレスラーと料理人、涙の決断!|publisher=BSテレ東|date=2017-12-02|accessdate=2022-01-22}}</ref>
* [[焼肉プロレス]](2019年7月4日 - 9月19日、テレビ大阪) - 宝條竜司 役
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