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参考文献(戦史叢書)1冊追加、アジア歴史資料センター資料追加、海軍(海風、勢多)の証言について出典補足
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{{Pathnav|南京戦|南京事件 (代表的なトピック)|南京事件論争|南京事件論争史|南京事件の被害者数|}}
{{暴力的}}
'''南京事件の証言'''では、[[南京事件 (代表的なトピック)|南京事件]]の証言について解説する。
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*中川誠一郎('''仮名'''、野砲六連隊) も同[[創価学会]]青年部反戦出版委員会本<ref name=soka/>で[[中華門]]攻撃に加わり陥落後、「南京城を素通りして、ただちに蕪湖へと向かった」「途中の下関で、延々と黒焦げの何百台という自動車と何百人にのぼる住民の死体を見た」「『この肉もうまいぞ』と出された肉を何人かの兵が食べた」「それは中国兵の大腿部の肉だったと後で聞かされた」、と[[カニバリズム|人肉食]]を証言した。[[秦郁彦]]はこの証言者の「老農夫をなぐり殺したシーンも見た」「二百人近い敗残兵・・・“捕虜をつれて戦ができるか”と一喝され、数日後に皆殺しにしたと聞かされた」との回想を、下関釈放捕虜の行く末だった可能性が高いとして採用<ref>{{Harvnb|秦郁彦|2007|p=155}} </ref>。中華門は南京城の南端で、蕪湖は南京の南南西90キロ辺りにある。下関は南京の北西端城外であるため、もし素通りしていれば下関は通らない。応召し砲の取扱い訓練も経ずに6日後には分隊長となり、蕪湖では野砲を離れ宣撫班の班長になったと、軍歴はやや不自然である(ただし、元々の兵歴記載は無い。)。
*'''中山重夫'''(陸軍戦車隊の上等兵・修理兵)は、[[1984年]][[6月23日]]の[[朝日新聞]]で「南京入城の2日前、郊外の雨花台で」「白旗を掲げて来る中国人を壕の上に座らせては、日本兵が次々に銃剣で刺し殺していく。一突きでは死に切れず苦しんでいる人を軍靴で壕にけ落としては土をかける。年寄りであろうが、子どもであろうが見境なしの殺りくが続いた」「4時間余りも凝視していた」と証言、戦争の語り部として記録映画なども紹介された<ref>朝日新聞1984年6月23日「南京大虐殺 目撃の中山老」 。朝日新聞1983年8月5日夕刊でも記事掲載。</ref><ref name=tansyogen>田辺敏雄「[http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/virus/v-asahi-2.html 朝日は何を、どう報じてきたか(その3)]」2016年9月30日閲覧</ref>。しかし、その後の畝本正巳や[[板倉由明]]の調査で、中山が所属していた戦車第一大隊([[岩仲義治]]大佐)は中山門正面で戦闘をしており、雨花台で目撃することは場所的にも時間的にも不可能ではないかとの指摘があった<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=234}}</ref><ref name=tansyogen/>。また[[田中正明]]が朝日新聞に事実確認を依頼すると拒絶された<ref name=tansyogen/>。
*''' 曽根一夫''' は[[1984年]]頃、 手記で、分隊長として面子から捕虜の斬首をした、分隊の先頭を決死の渡河をした、分隊員を率い掠奪、(分隊員の後で)輪姦、殺人をした、等々と記す<ref>『私記南京虐殺 続―戦史にのらない戦争の話』1984/12,[[彩流社]]</ref>。 [[笠原十九司]]が執筆した教科書『世界史B』(平成5年検定)は曽根の文章に似た文を引き、“掠奪”は軍の命令だった<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=362}}一橋出版『世界史B』(平成5年検定)301頁「『食料は現地にて徴発し、自活すべし』という命令を受けていた」。曽根一夫『私記南京虐殺』57頁「『糧秣ハ現地ニテ徴発、自活スベシ』という徴発命令を下した。・・・住民から食う物を奪って食えということである」</ref>とした。板倉は原本提示を要求したが、笠原も一橋出版も無視した<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=353}} 「カギ括弧で括られた文章は引用文だから、・・・原典・原文が存在するはず」と原本提示を求めたが、笠原・出版社側は無視。</ref>。板倉は文部省に改定を要求し、『諸君!』に論考を発表するなど各方面へ働きかけて、出版側は「命令」が曽根本からの引用であることを認め、内容も修正された<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=365}} 『諸君!』「世界史教科書に出現した曽根一夫の亡霊」。7箇月後、出版側は「命令」が曽根本からの引用であることを認め、その部分を改めた。「あったに違いない個々人の不行跡が、あたかも軍命令、最終的には国家意志、によって行われたかのよう」な笠原の記述は、使用本から削除された。</ref>。<br>もともと曽根一夫は戦友の名誉を守るためとして所属部隊については明かしていなかった<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=本当はこうだった南京事件|date=1999/12/08|year=1999|publisher=日本図書刊行会|pages=244,246,254-255,244,247,267-270,275,275}}</ref>。 [[板倉由明]]によれば、曽根に取材を断られたことから調査を行い、その結果曽根は手記にあるような歩兵隊の分隊長ではなく砲兵隊の馭者であったとする。但し、その調査は戦友会名簿から曽根と同じ字(アザ)出身の6名に尋ね2名から曽根が歩兵ではなく砲兵と聞いた<ref name=":0" />、別ルートからもその人物を知る人に会えた<ref name=":0" />というものだが、板倉自身がこの地域に曽根姓が多いことを述べており<ref name=":0" />、彼らの言う曽根が果たして問題の曽根一夫であるのか、単なる同姓同名ではないのか、判然としない。この当時一般に第三者による住民票調査に対して自治体の規制が緩やかであった頃だが、板倉は曽根の親族等への確認を行った形跡はない。板倉は当時の曽根の写真の襟章が白っぽく見えるところから、砲兵の襟章は黄色であるためで曽根が砲兵であったことは間違いないとしている<ref name=":0" />。その一方で、板倉自身が、連隊にいた元兵士から提供された昭和13年の編制表では板倉の発見した曽根一夫と同じ中隊(200名程度)で曽根(原文で単なる同姓か同姓同名か不詳)が観測班徒歩通信手となっていたとし、これらの食い違いを放置している。この時期、曽根自身が体調を崩して入院し其の儘亡くなったともいわれ、本人乃至その親族への確認はない儘となっている。<br>また板倉は、曽根の身元だけでなく手記の内容そのものも否定し、馭者である曽根が南京辺りであまり出歩くことがあるとは考えられず掠奪などありえないとする。その証として、例えば曽根が南京の光華門で辻・街角と書いているが、此のあたりに人家など無いからこれを虚偽とする。但し、板倉は清野戦術(焦土戦術)で人家が焼き払われたことを人家がなかった根拠とするものだが、むしろ曽根は焼け跡を見てそれらを辻や街角だと述べているものである。また、板倉は曽根が死体が散乱していたと述べていることに対し、清野戦術で人が追い払われていたから死体がある筈がないとしている。これは近郊農民も全て清野戦術で焼け出され南京城内の安全区に全て逃げ込んだ筈だとする板倉本人の自説に基づく主張であり、南京城外には通常の農民の居住者はもとより、寧ろ城内から逃れ出てきた市民、また他地域から日本軍を逃れて流入してきた難民も多数いて、南京城外にも幾つかの難民集落さえあった事実を無視している<ref name=":0" />。<br>また、日本軍が補給を無視して南京に進軍したことが糧秣に欠ける現地部隊の掠奪やそれに伴う非行を招き南京での軍の非行に繋がったとする曽根の主張に対し、板倉は当時の兵士の日記等を根拠に南京に向けて出発した当初の11月半ば頃の時期が補給が最悪でその後は改善されており、曽根の説明は糧秣欠乏の時期が半月ずらされており<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=260}} 「他師団の記録などでも・・・20日を過ぎると水運で糧秣が運ばれ・・・供給が緩和されていく」</ref>、虚偽とする。しかし、軍中央の命に背いて事前に計画も無かった南京に進軍を始めながら補給が改善されるとは考えにくく、まさに曽根の述べる通りに、南京進軍途上のあらたな土地での掠奪により補給状況が改善された可能性が高く、実際に、『第九師団戦史』に殆ど糧秣の補給を受けることなく、専ら現地調達の物資だけに頼って追撃を実施しなければならなかったこと<ref>{{Cite book|和書|title=第九師団戦史|year=1972|publisher=|page=151|editor=陸自第十師団}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10943459_po_ART0009971641.pdf?contentNo=1&alternativeNo= |title=第九師団と南京事件 |access-date=2022-06-25 |publisher=国立国会図書館 |author=岡野君江 |website=国立国会図書館デジタルコレクション}}</ref>や、山砲兵第19連隊のある兵士の日記には16日から中国人家屋から徴発を始め、25日には酒の掠奪ができることを喜ぶ者が出るまでになっていることが書かれている<ref>読売テレビ NNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」2015/10/04深夜放送</ref>。<br>さらに、板倉は、曽根が糧秣の受取に下関地区に行った際に南京城内を斜めに突切って目的地にまっすぐ向かわずに城壁の外側に沿ってわざわざ北回りに下関に行ったこと、帰路は下流側に迂回してさらに遠回りで帰ったことを理由に、手記を偽り<ref name=":0" />としている。が、曽根は手書きの地図を渡されただけで、南京城内の道路と多数存在する門の位置関係が分かっているわけではなく、確実に下関に行こうとすれば寧ろ城壁に沿って行くのが自然である。また、往路は焼けた瓦礫が道路にも散らばり進みにくかったとあり、荷物が増えた帰路はそれを避けたものと、普通に手記の理解が可能である。また、板倉は糧秣受領は輜重や主計・大行李などの仕事であり事件当時の他の者にも糧秣受領に出たものはいなかったとしているが、逆に曽根が馭者であったならば輜重部隊から協力を求められた可能性もある。先の編制表での通信手との記載の食い違いなどもあり、確かな人事の動きやこの時期の扱いについての確認が必要である。<br>板倉は曽根の糧秣受取に関し下関が兵站基地になったのは12月下旬以降であるから偽り<ref name=":0" />とするが、もともと下関は水上交通主体とはいえ物資の集積地であり倉庫等が蝟集し、以前からの中国側の物資や日本軍が既に陸路で運び込んだ物資が集積されていた可能性がある。米人記者ダーディンによれば12日段階で下関の施設は清野戦術による焼き払いにもかかわらず、まだ半分程度残っていたとされる<ref>{{Cite book|和書|title=南京事件資料集 第1巻 アメリカ関係資料編|date=1992/10/15|year=1992|publisher=(株)青木書店|page=402}}</ref>。現に、のちにマギー神父は下関に残る外国人資産と現地人資産の区分のため、下関への同行を日本側から求められている<ref>{{Cite book|和書|title=日中戦争 南京大残虐事件資料集 第1巻 極東国際軍事裁判関係資料編|date=1985/11/01|year=1985|publisher=(株)青木書店|page=90}}</ref>。また、下関の水上輸送が回復したのは12月下旬以降とする説は、あくまで後記の梶谷日記にあるように、明らかに下関地区における死体の片付けの終了後、18日に停泊場の看板上げをし、その後本格稼働したと考えられるためであるが、板倉は特段の根拠なくそれまでは機雷除去がすんでいなかったという前提を設けて、それゆえ下関地区に艦艇は機雷を強行突破しかまわず来ていても商船は全く来ていなかった筈という自説に基づく主張をしている<ref>{{Cite book|和書|title=間違いだらけの新聞報道|date=1992-5-15|publisher=閣文社|page=150|author=板倉由明}}</ref>。実際には、たびたび揚子江岸や下関では捕虜の処刑や敵死体の持ち込みが行われており、後記の太田供述や梶谷日記に見られるように、12月下旬以前から死体片付けと一部水上輸送を度々繰り返しており、また、近辺15日商船は7隻待機入港していた可能性も高てこれら全てが艦艇とは限らない。現に、太田日記では商船に便乗して、太田はいったん15日夕に下関に来ている。また、当時の新聞報道からは、海軍による機雷除去や水上封鎖の除去は13日の南京到着までに順調に進んでいるように見える。そのほかには、下関大虐殺<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=275}} 曽根は糧秣受領に下関へ行ったと言うが、「下関が兵站基地になったのは・・・野砲三の南京出発以後である」等々を指摘する。</ref>、戦友の残虐談・部落襲撃もその戦友らは否定している<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=277}} 紫金山付近の「残酷な話も兵科を歩兵とし、部隊の駐留地を南京東北方(実際には野砲三は光華門南方の山西村付近に19日まで宿営)に設定したウソの上に構成されている」。戦友はいずれも強く否定。「自分は南京には行っていないとN氏は語っている」</ref>、日記も創作であった<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=258}} 『原本は二年前に処分し』たという日記は、すべて新カナ遣いで書かれている。続編「出版の際作ったものと推定するのが自然であろう」</ref>とする。<br>一方で、[[秦郁彦]]は「ほぼ(事態を解明したいとの)要望に答えてくれる絶好の証言記録」として評価し<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=243}} 『諸君!』1984年10月号の「松井大将は泣いたか?」秦郁彦</ref>」、他の「伝聞記<ref name="#1">{{Harvnb|秦郁彦|2007|p=217}}</ref>」でなく曽根手記から捕虜殺害例<ref>{{Harvnb|秦郁彦|2007|p=69}} </ref>、紫金山付近の住民殺害<ref>{{Harvnb|秦郁彦|2007|p=139}}</ref>、クーニャン狩り<ref>{{Harvnb|秦郁彦|2007|p=202}}</ref>、残虐行為の心的要因<ref name="#1"/>に引用した。[[板倉由明]]は秦に曽根手記の全削除を要求した<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=235}} 「間違ってもらっては困るが、筆者が秦氏に要求しているのは、単なるレイプ場面の削除ではなく、曽根一夫手記全部の削除なのである」</ref>。
*''' [[東史郎]]''' は[[1987年]]頃、日記を[[日本共産党]]の新聞[[赤旗]]に連載し、自著『わが南京プラトーン―一召集兵の体験した南京大虐殺』を刊行<ref>『わが南京プラトーン―一召集兵の体験した南京大虐殺』([[青木書店]]、1987)。『東史郎日記』 熊本出版文化会館、2001年刊行。</ref>。証言では、1938年1月23日、南京転出のため立寄った下関と思しき波止場で、なぎさに敵兵の死体が山となって転がっており、毎日トラックで敗残兵で積んできた奴を河の中へ突き落とし射ち殺すのだと、その兵士から聞いた。<br>産経新聞によると、隠れている女の子を見つけると犯した、1人ではなく5人で犯した、その後は殺し、火をつけて燃やした、罪悪感はなかった、上官の元陸軍第16師団歩兵第20連隊伍長が「中国人を郵便袋の中に入れ、ガソリンをかけて火をつけ、手榴弾を袋のひもに結びつけて沼の中にほうり込んだ」と証言した<ref name="az">「[https://www.sankei.com/article/20150620-TPNT3WNUKBK4FDLQZEIUIMHMWY/ 南京事件で「虚偽」の残虐行為を証言した元日本兵のビデオ 米高校が教材に使用]」産経新聞2015.6.20.</ref>とされる。しかし、元上官から名誉棄損で提訴された。1993年、[[笠原十九司]]は東史郎手記から農民虐殺について教科書『世界史B』に引用していた<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=363}}一橋出版『世界史B』(平成5年検定)「『宿営にあたって・・・農民を殺して寝た。・・・襲撃してくるかもしれないから、殺すのだった。・・・』と日本の一兵士は日記に書きのこしている」</ref>が、[[上杉千年]]は出版社に対し、出典を示せ、裁判で係争中の東日記からの引用であれば不適切だと主張<ref>「赤旗連載・東日記の詐話に泣く元兵士」『自由』平成5年6月号、「拝啓、一橋出版社殿、高校教科書の記述が間違っていますよ」『ゼンボウ』平成6年1月号 「疑わしい資料を使う一橋出版『世界史B』」産経新聞1993・12・20 </ref>し、さらに、板倉は出版社に8回以上のファックスや電話で「勝手にデモでもかけなければだめか」と伝え、教科書編者の笠原十九司には「こちらから出向く」と簡易書留を送ったという<ref name=":4">{{Cite book|和書|title=南京大虐殺 記憶の暗殺|date=2008-4-27|publisher=世界知識出版社|pages=72,73,161-163,163-165,73|author=内山薫}}</ref>。板倉は、停泊場司令部は12月28日までに港湾の死体処理を終わらせた<ref>板倉由明『本当はこうだった南京事件』、429頁</ref>、敗残兵の掃蕩も第二次便衣狩りが1月5日に完了している<ref>秦郁彦『南京事件』中公新書、166頁。</ref>という自説に基づいて、東史郎証言をその内容が抵触するため事実に反するものと主張した。前記名誉棄損裁判に批判的な立場の者からは、もともと日記は仮名で書かれており、当人と目される人物も無関心であったところ、板倉自身も加わった周辺の者の奨めによって、裁判自体が起こされており、前記教科書を内容の真偽をめぐる裁判が係争中であると抗議して、内容を差し替えさせる目的であり、裁判に藉口して言論、表現、出版の自由を妨害しようとするためのマッチポンプだとして批判された<ref name=":4" />。板倉は、教科書中の証言内容の引用を、自説を前提に、検証なき引用<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=364}} 板倉による彼自身のいうところの検証の成果によれば、これは12月6日夜の出来事であり、第四中隊陣中日誌により、堅固な陣地を占領し、3個中隊以上(数百人規模)が宿営したから、農民の襲撃を恐れる理由がなかったと主張している。</ref>と主張した。元となった東史郎手記は戦後、本人が浄書したもので原本は紛失していた。板倉はこれを何故浄書などしたのか、改竄に等しい行為と非難した。これに対し、本人が浄書するのが何故いけないのか、松井大将も裁判準備用に自身の日記をまとめていた、それをも非難するのかとの反論を、板倉は東支持者らから受けた。さらに、板倉は裁判にあたって、南京大虐殺が無かったことや東史郎手記の誤りを証明できる別人の資料が発見された、これが裁判を起こす決め手となったとして雑誌等で喧伝していた<ref>{{Cite journal|author=板倉由明|year=1993|journal=月曜評論}}</ref>。しかし、原告側は、東側からこの資料の不審な点を指摘され、説明ができなくなり、抄録については他の者がまとめ直したものであることを原告側は認めるに至った<ref name=":4" />。さらに、そのおおもととなる元の日記の原本自体も、裁判前に関係者間でやり取りされる間に紛失していたことが東支持者側から日記の書き手へのインタビューにより明らかにされた<ref name=":4" />。しかし、教科書自体は抗議を受けて、東支持者らのいう所によれば、"板倉の狙い通りに"内容を差し替えられた<ref name=":4" />。名誉棄損裁判自体は、南京虐殺自体は裁判所で判断するところのものではないとされ、二審までに、上官がやったという、冬服の人間を郵便袋に入れての殺害は物理的に不可能であり、日記も数年後に書いたもので、元の手記も本当にあったものか疑わしいと判断され、被告側は上訴したものの損害賠償が最高裁で確定した<ref name="az" />。これについては、厚手の冬服とはいえ大型の郵便袋に入れられないとは限らないという批判の他に、なぜ元の手記の存在まで否定するのか、原告側ですらそこまでは主張しておらず、さすがにこれは法的にも最高裁の勇み足ではないかとの批判、さらには、後から現物が発見されでもすれば裁判所にとってもいい恥晒しではないかとの声が出たという。その後、中国側研究者が日記の内容を検証、そこに書かれた習俗が実際に現地に存在している事を確認、少なくとも元となる手記が存在したことは間違いないだろうとしている。東は訪中するたびに、周囲の圧力を跳ね返して真実を認めた英雄として各地で歓迎を受け<ref>{{Harvnb|秦郁彦|2007|p=306}}</ref>、アメリカでも2015年、カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で東証言が教材として使用されている<ref name=az/>。
*''' 太田寿男''' が[[撫順戦犯管理所]]で1954年に供述した内容が[[1990年]]に報道された。([[産経新聞]]1990年9月4日。[[毎日新聞]]1990年12月14日夕刊<ref name=mnot>竹田昌弘記者「南京虐殺の供述入手 15万体処理」克明に」 毎日新聞1990年12月14日夕刊</ref>) 。供述では、A少佐は昭和12年12月14日から15日まで下関で死体処理作業に携わり6.5万の死体のうち3.5万人を揚子江に流し、3万体を対岸で焼却、太田は16日から18日まで1.9万人、A少佐は1.6万の死体を流した。南京碇泊場司令部が14万から18日までに処理した死体は10万人(産経新聞)<ref name="#2">産経新聞1990年9月4日</ref>。同司令部以外の南京攻略部隊による5万人の死体処理と合計すると15万の死体を処理した<ref name=mnot/>とする。<br>[[毎日新聞]]は、供述が事実なら、中国側「15万5千余」と合わせ「南京大屠殺30万」が証明されることになり、『侵華日軍南京大屠殺史稿』他に要旨を載せたと報じた<ref name=mnot/>。これに対して、板倉由明は梶谷日記の12月25日に「常熟より太田少佐外来る」とあり、板倉はこれを太田少佐がそれまで現場である下関に全くいなかったものと考え、したがって太田少佐には死体処理に関わっていないアリバイがあるとして、太田が戦犯管理所で中国側の意を迎えて虚偽の供述をしたものと解した。これに対しては、死体処理の話自体は正しいものの単なる太田少佐の記憶違い(事件から17年後の1954年の供述)により日付等にズレが生じたものと見る説だけでなく、寧ろ太田少佐の記憶は正しく太田少佐は許浦鎮→下関(死体処理作業)→常熟→蕪湖と配属を移動し、25日に蕪湖への移動の途中で下関にまた立ち寄ったと見る説<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.amazon.co.jp/review/R2VWXH4SURFHBB/ref=cm_cr_srp_d_rdp_perm|title=イエスちゃん|accessdate=2021/10/17|publisher=amazon(但し、カスタマー書評)}}</ref>等がある。いずれにせよ、太田少佐は陸軍船舶輸送司令部(陸軍の海上・河川等の水上輸送を担当する部署)に所属しており、この頃、下関の死体処理の為に駆り出されたり常熟・下関間を輸送のために往来することに何ら不思議はない。もともと太田は当初、揚子江沿岸の許浦鎮で本隊のいる常熟までの輸送に携わっていが、常熟の本隊が南京に移動することにな河川港、それを追って南京で合流することになったもので、商船を利用して15日に南京に着き、16日からの死体処理参加を命じられたとしている。梶谷日記には15日に7隻入港があり、16日常熟(許浦鎮の近隣20kmの地点にあ出され、梶谷にとっては元々本隊がいイメージの場所である)よ後続部隊来に何している<ref name=":7">偕行社『南京戦史資料集』</ref>。これ不思議、むしろ太田の部隊が合流したことを示してると考えられる。<br>当時、揚子江は冬の渇水期で日に日に水位が下がっており、日本軍が揚子江に流したつもりの死体があまりに多すぎて互いに絡み合い、河底や河辺にひっかかり、水位の低下とともにそれらが水面に顕われるに連れ、桟橋や河岸に輸送船が接岸できなくなるため、死体処理を行わねばならなくなったと伝えられる<ref>{{Cite book|和書|title=南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて|date=2002-8-15|publisher=社会評論社|page=87|author=三上翔}}</ref>。その、これらの処理は度々行われた可能性がある。現に、南京陥落直後は下関地区で敗残兵狩りに携わっていた梶谷も、他の同輩らが去ったと見られる26日以降になって、新たに必要となったとみられる1000体ほどの死体処理に携わっている。<br>板倉は、死体処理は梶谷日記にある梶谷の部隊だけが行った26日以降の1000体のみで、それまで開設準備多忙のために死体処理には取り掛かれなかったと主張、太田の供述は後から見聞きした話を元に作話したものと主張し、毎日新聞社の報道や対応に抗議しているが、社は謝罪しなかった<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=407}}</ref>。板倉は太田の供述は「客観的に信憑性ゼロ」と主張している<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=442}}</ref>。産経新聞は部下の日記を下にしたとして信憑性を否定した<ref name="#2"/>。毎日新聞は「内容は信用できる」と報じた<ref name=mnot/>。江口は板倉への書簡で、梶谷日記(の内容)に触れないことは説得力に欠けると考えており、竹田昌弘記者から毎日が梶谷日記に触れなかったことについては説明を受けたこと、また同記者には自分のコメントの表現がより断定的になっている事に苦言を呈したがこれ以上毎日と争うつもりはないこと、しかし板倉がこのことを問題にすることに自分の書簡等を使う事は書簡を編集等せず原文通りに使う分には差支えないことを伝えた<ref>板倉由明 1999 PP.435-438</ref>とされる。後に毎日は梶谷日記についても報じた<ref>毎日新聞1991年7月10日夕刊〈 取材帳から/『南京虐殺』の真相 〉</ref><ref>田辺俊雄「[http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/yokuryu-sya-syogen/ota-hisao.html 太田寿男少佐供述書]」。2016年8月24日閲覧。</ref>。一方、早稲田大学教授[[中原道子]]は太田の供述を“真実”とする<ref>109頁 中原道子『昭和史の消せない真実』岩波書店「日本軍自身も・・・かなりの数の死体を処理したことを、撫順戦犯収容所の裁判(太田寿男供述)で認めている」。</ref>。板倉は中原の著作7論点11ヵ所に真実である証明を求めた<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=491}}</ref>が、「日中両国の専門家の研究をふまえ」とのみ岩波側から回答があった<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=477}}</ref>。中原は板倉の証明要求を「前向きで建設的な姿勢はいささかも読み取ることができ<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=492}}</ref>」ないと言い、自らは「戦争を知らない世代に歴史の真実を伝える<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=476}}</ref>」として板倉を一蹴した。<br>その後1993年に出版された南京戦史資料集第2巻を見ると、26日まで開設準備多忙のために死体処理には取り掛かれなかったとの板倉の主張には潤色があり、実際には18日には既に一通りの開設準備が終わり、19日からは板倉の表現では曖昧に業務と船の投錨となっていたものの、実際には荷揚作業もいったん本格的に開始していたこと、さらに梶谷日記に記載されたものだけでも22日にも使役兵を使って数百体の死体の揚子江投棄が行われていたことが記されていた。(26日の梶谷の死体処理は、太田供述にある18日までと梶谷日記にある22日に揚子江に投棄された死体が、河の水位低下とともに水面上に再露出したものである可能性が高い。)しかし、編集者は基本的に板倉の見解に立ち、その論拠は、梶谷日記を根拠として概ね以下の通り。①(本題とは関係ないが)太田は停泊場司令部は小舟で南京に着いたとするが、陸路到着しているという点で太田供述が一般的な信用性に欠ける、②太田は15日夕南京に到着し16-18日死体処理に携わったとするが、到着次第本来の輸送業務に着手する筈、③太田以前に安達少佐が6.5万人の死体処理をしたことになっているが、安達が実質行え作業できたのは14日のせいぜい午後から15日だけで、その時間で6.5万体の処理は不可能な筈、④17~18日は佐官以上は入城式や慰霊祭参加で死体処理は不可能。<br>ただし、実際には、①太田の供述には、司令部が小舟で常熟を11日出発したとあるだけである、寧ろ梶谷日記では撫順で11日に部隊長らが明日来ると聞いて迎える準備を始め、12日同所で合流、13日自動車が手配できたので出発したとしており、太田の供述とむしろ完全に一致している、また、南京までの距離を考えれば乗換えは当然と思われる、②下関地区にあった死体や市内から運び込まれる死体で道路が塞がり、それを撤去しないと物資輸送どころではなかったと考えられる、また、梶谷自身も15日は敗残兵の捜索等で本然の業務の筈の輸送業務に現に取り掛かれていない、③この部分はあくまで太田が安達から聞いた話である、また、梶谷部隊以外の安達少佐の部下は全て安達少佐自身も含めて当初から直ちに死体処理に従事していた可能性が高太田は14日-15日は夜通し作業してそれだけの処理をしたと安達から聞いている。実際に13日夕を最後に梶谷日記から消えていた安達少佐や部隊長が、地区を分担とはいえ太田少佐が手伝いに入って余裕が出来たとも考えられる16日になって、ようやく梶谷日記に梶谷とともに下関地区を巡視する形で再登場してくる、④梶谷日記自体に入城式参加者は全体の1/3とあり、実際に幕府山の田山大隊長(少佐)は捕虜処分のため入城式に出席していない等、佐官以上は全て出席したとは限らない、まして太田はそもそも南京攻略戦の参加者ではなく、初めから死体処理水上輸送部隊手伝い本隊に合流するために南京に来ただけの者であり、板倉もそれを分かっていた筈である、これらは全くの読者を欺くためだけの記述である。また、梶谷日記には16日に「常熟より後続部隊来たるとあり、これが15日夕に下関に到着した太田少佐ら(許浦鎮は常熟に極めて近い場所にある)のことで、死体処理の手伝いをして、その終了後、いっあらん太田は元の配属地区に戻っとし常熟に着任し可能性があと考えられる。<ref name=":7" />
*''' 船橋照吉''' は、 1991年頃[[石原慎太郎|石原発言]]を許さない京都集会実行委員会の冊子『歴史を偽造するのは誰か?』で証言した<ref>[[石原慎太郎|石原発言]]を許さない京都集会実行委員会(心に刻む会、カトリック福音センター京都、京都府教職員組合、[[真宗大谷派]]反靖国、[[浄土真宗本願寺派]]反靖国、[[日本社会党]]京都府本部、[[部落解放同盟]]。代表駒井昭雄。)」が出版した冊子『歴史を偽造するのは誰か?』に[[東史郎]]証言と共に掲載。</ref>。しかし、[[板倉由明]]の主張によれば、当時改訂版を準備中の『南京戦史』の資料編に載せることも考えて文書や電話でいろいろ板倉が確認すると、基本的事項があやふやで、肝心の点は忘れたといい、板倉によれば証言に歩兵九連隊の実戦記録と異なる点があるものの、それへの説明もなかったとする。結局、板倉は資料価値無しと判断したものの、その後も船橋の方からコンタクトをしてきて、東史郎の悪口まで送ってきた上、結局、船橋は電話で別の者に自身が輜重特務兵であったことを告げたという。板倉は、輜重特務兵であれば(この板倉の説明も曖昧であるが)経歴の矛盾は少なくなるとし、(はっきり言えることとしては)自身でトーチカ攻撃をしたり、捕虜を機関銃で虐殺したのは架空の話となるとする(目撃した可能性は残る)。さらに、大小田正雄の立会の会談で、船橋は日記も偽造したものだと認めたと板倉はする。船橋は「[[東史郎]]、[[赤旗]]記者[[下里正樹]](「隠された連隊史」著者)、吉田保(京都機関紙印刷センター代表)などに説き伏せられてイヤイヤやったものだ、とか、旅費は持つから中国へ行こう、と誘われた」とも語ったと、板倉はする。このようなことが起こることについて、板倉は、体験談を創作して、人気者になりたい、小遣いも稼げるという人間が現れるのであろうとしたが、もし、板倉の言った通りのことが実際に起こったのであれば、むしろ、この経緯は、船橋が南京大虐殺論に組しても大して利にならなかったため、今度は虐殺否定論に鞍替えを図ろうとしたことになる。であれば、板倉は、船橋が日記の偽造を白状したとするが、実際には、初めから虐殺否定論に鞍替えするための当人の持込ネタであった可能性が高い。また、東史郎らの言う「中国へ行く」とは、自らの行為の告白・謝罪のために現地訪問をすることであり<ref>{{Cite book|和書|title=南京大虐殺記憶の暗殺 東史郎はなぜ裁判に負けたか|year=2007|publisher=世界知識出版社|month=12|pages=35-39}}</ref>、板倉自身は東史郎の告白まで虚偽扱いしており気付いていないようだが、板倉の話が事実であれば、むしろ東史郎自身は、船橋が東史郎と同様な体験を持つ人間と本心から信じていたことになる。<ref>{{Harvnb|板倉由明|1999|p=236-239}}</ref>
*[[松岡環]]編纂の'''証言集'''「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて-元兵士一〇二人の証言」(社会評論社)が証言者を仮名にして2002年刊行された。取材記録自体はビデオ、写真等に録ってあるとされ、実際に一部は[[ニュース・ステーション]]で関連して放送された。[[東中野修道]]と[[阿羅健一]]らの否定派が証言の一部の内容に不自然さや間違いがあると主張して批判しただけでなく、[[小野賢二 (化学労働者)|小野賢二]]らの虐殺存在派からも証言者の細かな誤認等をそのまま紹介しており、それがいわば虐殺否定派の口実として利することになりかねないとみるような批判があった。これに対し、証言を集める活動をしている市民団体のメンバーである林伯耀は、兵士たち自身の体験に係わるような部分については史料に基づいて否定派こそ実態を知らず誤っていることを示して反論、さらに単なる誤植による兵士の生まれ年の誤りを突いて揚げ足をとるような否定派のやり方への批判だけでなく、大虐殺否定派・存在派共に証言者の証言の重箱の隅を突つくような事をするのではなく、当人たちに当時伝わり、当人たちが信じていたままの証言を忠実に録る事こそ大切で、それらを突き合わせることで見えてくる真実があるのではないかとの反論をした<ref>{{Cite book|和書|title=南京戦 切りさかれた受難者の魂 被害者120人の証言|year=2003|publisher=社会評論社|pages=383-395}}</ref>。
89行目:
*第16師団第33連隊第2大隊第5中隊第1小隊長・市川治平<ref name=kyuunin/>
*[[歩兵第65連隊]]([[両角業作]]部隊)の栗原利一は12月17日幕府山事件での捕虜殺害について証言を残しているが、「殺したなかに一般人は一人もいない。当時日本軍の戦果は私たちの13,500を含めて7万といわれていたが、現在中国で言うような30万、40万という大虐殺などとても考えられない。」と述べた<ref>偕行社『南京戦史資料集』p765-767</ref>。但し、栗原は様々な人から取材を受けており、後の方の取材は往々にして先行取材を難じ、当初から計画されていた殺害であった可能性をより強く否定する方向のものになっているが、寧ろ後の方の取材の方に、その取材結果とする内容に疑義が出されている。
*第36師団歩兵第224連隊の[[内貴直次]]少尉は陥落の6年後の昭和18年夏に南京に滞在したが「街は商店や人であふれ、平和な様子だった。もし、大虐殺があれば、住民の恨みを買い、われわれは平穏に駐留できなかったはずだ」と証言<ref name=matsui/>。
*陸軍士官学校58期の和田泰一少尉は「当時の記録を読めば事実は別にあることは明らかなのに大虐殺説を許してきた私たちの責任も大きい」と述べた<ref name=matsui/>。
*独立軽装甲車第二中隊小隊長の畝元正己が、以下のように南京戦の実態を述べる。江南平野200マイルの南京追撃戦で日本軍は一地に長く駐留することはなかったし、掠奪や暴行を行っておらず、都市の戦禍は攻防戦によって生じたもので、日本軍のみの故意のものではないと述べている。日本軍は追撃にあたって敗残兵を深追いしなかったため、村落や山中に逃走した敗残兵が、便衣兵としてゲリラ化し、後方部隊を襲撃して日本軍を悩ませたとする。また、日本軍は補給が不十分であったため将兵が鬼獣化したと称されるが、上海南京間200里を約一ヶ月(11/11〜12/13)で進撃したため、一日行程平均7里で補給作戦は困難なものではなかったし、上陸後引き続いて追撃に移った当初は補給不足のため現地物資によったが、12月10日以後は後方兵站も追随していた、と証言する。また、上海派遣軍参謀大西一は、松井司令官よる蘇州の文化と住民の保護を命じられ、日本軍入城を禁じたと主張する。上海攻略戦において、第9師団司令部は城内に入らず、その翌日に到着した軍司令部は蘇州城外に司令部を置いた<ref>畝元正己「証言による南京戦史(1)」『偕行』昭和59年(1984年)4月号、偕行社、p27-31.</ref>。但し、この蘇州は上海に隣接した都市であり、東京裁判に備えた尋問で松井大将が上海の南市安全区に寄付した事を自己弁護に使うほどで、この地域の状況は相当異なっていたと考えられる。
199行目:
* [[南京戦]]
* [[南京事件 (代表的なトピック)|南京事件]]
* [[南京事件論争史]]
* [[南京事件の被害者数]]
 
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[[Category:南京事件 (1937年)]]