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| 人口の時点 = [[1950年]]
| 隣接自治体 = [[諏訪市]]、諏訪郡豊平村、湖東村、米沢村、[[小県郡]][[大門村 (長野県)|大門村]]、[[北佐久郡]][[芦田村 (長野県)|芦田村]]、[[協和村 (長野県)|協和村]]、[[春日村 (長野県)|春日村]]、[[南佐久郡]][[野沢町 (長野県)|野沢町]]、[[栄村 (長野県南佐久郡)|栄村]]、[[畑八村]]
| 所在地 = 諏訪郡北山村大字湯川字上溝4341番地
| 座標 = <!--座標位置として現在の茅野市北山出張所が指定されているが、同所は旧役場庁舎の位置にはなく、誤ったものなのでコメントアウト{{Coord|format=dms|type:city(3494)_region:JP-20|display=inline,title|name=北山村}}-->
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
'''北山村'''(きたやまむら)は[[長野県]][[諏訪郡]]にあった[[村]]。現在の[[茅野市]][[大字]]北山<ref group="注">現在の柏原区・湯川区・芹ヶ沢区・糸萱区およびと、湯川区を親区とする蓼科区・白樺湖自治会・、芹ヶ沢区を親区とする蓼科中央高原自治会、柏原区を親区とする白樺湖自治会・車山高原自治会・緑の村自治会(『茅野市暮らしのガイドブック2019年』p.20、茅野市)。</ref>にあたる。
<!--「北山区」という区は実在しませんのでとりあえずコメントアウト。[[File:Kitayama Chinocity Naganopref No,2.JPG|200px|thumb|北山区の大地]]-->
 
== 地理 ==
* 山:朝倉山、カシガリ山、[[車山]]、八子ヶ峰、[[蓼科山]]、双子山、[[北横岳]]、北峰、南峰、三ツ岳、[[縞枯山]]、[[茶臼山 (八ヶ岳)|茶臼山]]、冷山
* 湖沼:[[蓼科湖]]([[1952年]]造営)、[[白樺湖]]([[1946年]]造営、当初「蓼科大池」)
* 河川:渋川、滝ノ湯川、音無川(いずれも[[上川 (長野県)|上川]]支流)、小斉川(滝ノ湯川支流)、常滑川(渋川支流)
[[ファイル:Kitayama (Nagano).jpg|700px|thumb|旧北山村域の俯瞰(2005年)。[[北山村 (長野県)#入会林野|入会地]]としては左から柏原山(車山・大門峠山麓)、{{ルビ|御鹿山|おしかやま}}(八子ヶ峰山麓)、湯川山(北横岳山麓)、芹ヶ沢山(冷山山麓)と呼ばれる。|なし]]
 
== 歴史 ==
北山村は[[18751871年]]の[[戸籍法]]制定に伴う区制導入と[[1872年]]の大小区制移行により[[筑摩県]]第十四大区第二小区に属する区分された{{ルビ|柏原|かしわばら}}(→柏原耕地→柏原区)、{{ルビ|湯川|ゆがわ}}(→湯川耕地→湯川区)、{{ルビ|芹ヶ沢|せりがさわ}}(→芹ヶ沢耕地→芹ヶ沢区)および芹ヶ沢村を親村とする{{ルビ|糸萱新田|いとかやしんでん}}(→糸萱新田耕地→糸萱区)の4村が[[1875年]]に合併して発足した。
 
この合併は県業務効率化のために小区内の各村(耕地)を1村に統合する県の指示によるもので、糸萱新田村と同様に芹ヶ沢村が開拓した「{{ルビ|新田村|しんでんむら}}」で関係が深いのにも関わらず別小区(第三小区)に区分されていた隣接の{{ルビ|金山新田|かなやましんでん}}村や{{ルビ|新井新田|あらいしんでん}}村が{{ルビ|湖東|こひがし}}村として切り離されたため、のちの[[町村制]]施行([[1889年]])による自治体(村役場)発足時には、一時芹ヶ沢耕地と糸萱新田耕地が北山村からの分村を県に請願する事態となった。
[[1954年]]に行われた諏訪郡内の合併議論では、同年[[9月22日]]に現在の茅野市域9町村と湖南村・中州村(現・諏訪市)および原村の11町村で打ち出した合併基本案について北山村は賛同せず、湖東村との2村による合併協議を開始した<ref name="serigasawagappei">「明治八年の町村合併と分村問題」『芹ヶ沢誌』p.35、茅野市北山芹ヶ沢区、1990年11月3日。</ref>。しかしまもなく湖東村が茅野町(現・茅野市)合併に傾いたことから協議は打ち切られ、翌[[1955年]]、北山村も茅野町に合併した<ref name="serigasawagappei" />。
 
北山村域では古くから[[農業]]を主とし、明治初期には米のほか雑穀(麦・大豆・アワ・ソバ)などを栽培していたが、[[八ヶ岳]]山麓の標高1,000m台を耕作地とする寒冷地のため、生産環境は厳しかった。農閑期には住民の多くが屋根葺き用の木板や燃料用の[[木炭]]を生産していた。大正時代には[[養蚕]]が主力産業となり、村内経済を支えた。一方、江戸時代からの温泉を基盤に明治中期以降、首都圏住民の避暑保養地として蓼科高原の観光地化が本格化。[[1927年]]の大霜害を発端とする経済混乱を契機に高原での別荘地経営も始まった。また[[第二次世界大戦]]前から戦後にかけて露天掘りによる褐鉄鉱の鉱山が操業した。
* [[1875年]](明治8年)[[2月18日]] - 筑摩県第十四大区第二小区北山村が発足。
 
[[1889年]]の[[町村制]]施行で発足した村役場は、庁舎を湯川耕地の集落南端に近い{{ルビ|宮の脇|みやのわき}}地籍に置き、[[昭和]]に入って浮上した庁舎老朽化による新庁舎建設問題では、役場の設置位置について長く議論が続いたのち<ref name="kitayama1941">鈴木善作『地方発達史と其の人物 長野県の巻』p.320、郷土研究社、1941年。</ref>、[[1941年]]に芹ヶ沢区との区境に接する北山国民学校西向かいの湯川区{{ルビ|上溝|あげみぞ}}地籍に新役場を建設した。この庁舎は戦後、町村合併協議中の[[1954年]][[10月]]に火災で全焼したものの<ref name="yakuba">「北山村役場全焼する」『北山小学校八十年思い出のアルバム』p.147、北山小学校八十年思い出のアルバム編纂委員会、1980年10月22日</ref>、直ちに再建を開始し同年末に完成した<ref name="yakuba" /><ref group="注">現在茅野市役所が毎年刊行またはインターネット上に公開している『茅野市の統計』(茅野市役所企画総務部企画課編)の年表「茅野市のあゆみ」では、1941年の役場庁舎完成の「同年」に全焼し、1954年の再建まで北山村は13年間役場庁舎を持てなかったという扱いをしているが、これは全焼と再建が同年であったことと混同した誤記を長年チェックせず転載を続けている市役所の誤りである。役場隣接の北山小学校「学校日誌」1954年10月30日付には、火災状況および新校舎(1954年9月着工、同年12月完成)建築現場に入っていた大工らによる西体操場への延焼防止活動など学校側対応の記載がある。</ref><ref group="注">約2か月で再建された役場庁舎は合併後、北山農業協同組合、諏訪みどり農業協同組合北山支所を経て信州諏訪農業協同組合北山支所に転用され、[[2011年]]の同支所新店舗移転後も現存していたが、[[2019年]]に支所が北山営業所([[2024年]]廃止)に縮小再編されたのちの[[2022年]]ごろに解体された。</ref>。
 
1954年に行われた諏訪郡内の合併議論では、同年[[9月22日]]に現在の茅野市域9町村と[[湖南村 (長野県)|湖南村]]・[[中洲村 (長野県)|中洲村]](現・[[諏訪市]])および[[原村]]の計11町村で打ち出した合併基本案について北山村は賛同を見合わせ、[[湖東村 (長野県)|湖東村]]との2村による合併協議を開始した<ref name="serigasawagappei">「明治八年の町村合併と分村問題」『芹ヶ沢誌』p.35、茅野市北山芹ヶ沢区、1990年11月3日。</ref>。しかしまもなく湖東村が茅野町(現・茅野市)合併に傾いたことから協議は打ち切られ、翌[[1955年]]、北山村も茅野町に合併した<ref name="serigasawagappei" />。
 
* [[1875年]](明治8年)[[2月18日]] - 筑摩県第十四大区第二小区'''北山村'''が発足。
* [[1876年]](明治9年)[[8月21日]] - 筑摩県廃止にともない、長野県南第十四大区第二小区となる。人口2,042人、488世帯
* [[1877年]](明治10年)[[2月15日]] - 上諏訪警察署管轄になる。
* [[1879年]](明治11年)[[1月4日]] - 郡区町村編制法施行(大小区制廃止)により長野県[[諏訪郡]]となる。
* 1879年(明治11年)[[6月30日]] - 大小区制廃止にともない[[米沢村 (長野県)|米沢村]]との連合戸長役場(米沢村北山村戸長役場)を清水院跡(米沢村塩沢)に置く。
* [[1888年]](明治21年) - 上諏訪警察署北山分署(北山・豊平・泉野・湖東・米沢管轄)が設置される。
* [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[町村制]]施行に基づき、'''北山村役場'''役場が発足。初代村長に辰野虎造が就任。
* 1889年(明治22年)- 芹ヶ沢・糸萱新田耕地北山村からの分村請願書を県に提出するも実現せず<ref name="serigasawagappei" />、芹ヶ沢村を親村とする湖東村金山新田耕地が北山村への合併請願書<ref>「明治初期の村の成立」『茅野市史 下巻』p.23、茅野市、1988年3月。</ref>をそれぞれ県に提出するも共に実現せず
* [[1920年]](大正9年) - 人口2,827人、634世帯(第1回国勢調査)
* [[1935年]](昭和10年) - 人口2,890人(第3回国勢調査)
* [[1941年]]([[昭和]]16年) - 北山村役場新庁舎を建設。
* [[1947年]](昭和22年) - 人口3,605人(第5回国勢調査)
* [[1954年]](昭和29年)[[10月30日]] - 午後4時15分、北山村役場庁舎屋根裏より出火し庁舎全焼<ref name="yakuba" />。同年末に再建<ref name="yakuba" />。
* [[1954年]](昭和29年)[[10月30日]] - 午後4時15分、北山村役場庁舎屋根裏より出火し庁舎全焼<ref name="yakuba">「北山村役場全焼する」『北山小学校八十年思い出のアルバム』p.147、北山小学校八十年思い出のアルバム編纂委員会、1980年10月22日</ref><ref group="注">現在茅野市役所が毎年刊行またはインターネット上に公開している『茅野市の統計』(茅野市役所企画総務部企画課編)の年表「茅野市のあゆみ」では、1941年の役場庁舎完成の「同年」に全焼し、1954年の再建まで北山村は13年間役場庁舎を持てなかったという扱いをしているが、これは全焼と再建が同年であったことと混同した誤記を長年チェックせず転載を続けている担当課のミスである。役場隣接の北山小学校「学校日誌」1954年10月30日付には、火災状況および新校舎(1954年9月着工、同年12月完成)建築現場に入っていた大工らによる西体操場への延焼防止活動など学校側対応の記載がある。</ref>。同年末に再建<ref name="yakuba" /><ref group="注">約2か月で再建された役場庁舎は合併後、北山農業協同組合、諏訪みどり農業協同組合北山支所を経て信州諏訪農業協同組合北山支所に転用され、[[2011年]]の同支所新店舗移転後も現存していたが、[[2019年]]に支所が北山営業所([[2024年]]廃止)に縮小再編されたのちの[[2022年]]ごろに解体された。</ref>。
* [[1955年]](昭和30年)[[2月1日]] - [[ちの町]]・[[宮川村 (長野県)|宮川村]]・[[金沢村 (長野県)|金沢村]]・[[玉川村 (長野県)|玉川村]]・[[豊平村 (長野県)|豊平村]]・[[泉野村]]・[[湖東村 (長野県)|湖東村]]・[[米沢村 (長野県)|米沢村]]と合併して'''[[茅野市|茅野町]]'''が発足。同日北山村廃止。
 
== 経済農林業 ==
=== 養蚕・製糸 ===
古くから[[農業]]を主とし、明治初期には米のほか雑穀(麦・大豆・アワ・ソバ)などを栽培していたが、[[八ヶ岳]]山麓の標高1,000m台を耕作地とする寒冷地のため、生産環境は厳しかった。農閑期には住民の多くが屋根葺き用の木板や燃料用の[[木炭]]を生産していた。大正時代には[[養蚕]]が主力産業となり、村内経済を支えた。一方、江戸時代からの温泉を基盤に明治中期以降、首都圏住民の避暑保養地として蓼科高原の観光地化が本格化。[[1927年]]の大霜害を発端とする経済混乱を契機に高原での別荘地経営も始まった。また[[第二次世界大戦]]前から戦後にかけて露天掘りによる褐鉄鉱の鉱山が操業した。
 
=== 農林業 ===
==== 養蚕・製糸 ====
北山村の[[養蚕]]は、麓の宮川村、玉川村、永明村に次いで明治初期までに早くも自家用の域を超え民業として成立し<ref>「女は農間に麻布を製し、農服に用ゐ、又養蚕を業とする」『長野県町村誌』長野県、1876年</ref>、[[1890年]]には柳沢製糸場(16釜)が村内に起業して小規模ながら製糸も行われた。養蚕は大正期に最盛期を迎え、村内産業の主力となった。[[1917年]]現在で村内農家474戸中99%の469戸が手がけ、のちの茅野市域9か村では宮川村、玉川村に次いで多かった。同年には芹ヶ沢、翌1918年には糸萱の両養蚕組合が発足した。[[1920年]]から始まった繭価の下落を受けて各農家は収入減を補おうと収繭量の確保に努め、[[1923年]]には6年前の1.7倍近い34,054貫を生産した。
 
しかし[[1927年]]の長野県大霜害を皮切りに同年の金融恐慌、[[1929年]]の[[世界恐慌]]が直撃して繭価が大暴落した。繭価に連動して米など一般の農産物の価格も暴落したため、各農家は多額の負債をかかえ、県内のほかの農村部と同様に「農村恐慌」と呼ばれる経済混乱状態となった。北山村全体の収繭量は[[1936年]]には16,341貫と、ピーク時の半分以下に落ち込んだ。こののち、桑質向上のため諏訪郡養蚕部の指導で品種割合を変えた[[1933年]]の桑園改植や、蚕品種の統一、飼育法の改善の効果があらわれ、収繭量は[[1939年]]に25,153貫まで回復したが、戦中から終戦直後にかけて再び大きく衰退した。
 
この間、農家自身が製糸経営を行って利益確保を図る「組合製糸」として[[1929年]][[12月]]、北山村・湖東村・豊平村および埴原田区を除く米沢村の4村の養蚕農家で'''保証責任北山浦生糸販売購買利用組合'''(北山浦製糸組合)が設立され、北山村芹ヶ沢区に諏訪地方の組合製糸工場が設けられでつくる産業組合連合会の'''諏訪生糸販売組合連合会竜上社'''(のち諏訪生糸販売購買組合連合会竜上社)に加盟し<ref>「組合製糸」『原村誌 下巻』P.200、原村、1993年。</ref>。[[1933年]]現在の組合員数は570人。工場の規模は北山村芹ヶ沢区{{ルビ|仁反田|にたんだ}}に釜数108釜の組合製糸工場が設けられ、従業員数男子15人・女子119人で、組合員からの供繭量は36,418貫、生糸製造量は3,777貫<ref> 「組合製糸の推移」『茅野市史・下巻』pp.508-512、茅野市、1988年3月31日</ref>で、諏訪地方の8組合製糸では落合、諏訪中央、四賀に次ぐ規模であった。組合北山浦製糸工場組合戦後[[19501943]]初頭まで操の農団体法施行による解散命令を受け、[[1944年]]に北山農業会に統合された。
 
戦後、[[1947年]]に北山農業会が解散したことから[[1948年]][[8月]]に'''北山村養蚕農協同組合'''が発足した。県内養蚕農協と製糸業界の団体交渉で繭価が決定されるようになったことから、村内養蚕は茅野町合併後の[[1957年]]にかけて再び活発に行われるようになった。芹ヶ沢区の組合製糸工場は戦後[[1950年代]]初頭まで操業した。
 
==== 稲作 ====
[[File:Kashiwabara Kitayama (1931).jpg|thumb|[[1930年]]ごろの柏原区{{ルビ|屋敷添|やしきぞい}}地籍付近の農家と水田。このころには金肥の施肥や農機具の導入で一定収量が確保できるようになった。写真の農家母屋は南側(画面右方)の軒を深く取った山浦地方特有の「{{ルビ|大軒|おおのき}}造り」が見える。]]
[[稲作]]は、栽培限界とされる標高1,250mに近く、土地の肥沃度も低いことから特に冷害を受けやすい環境にあり、田の水口(みなくち)に澱みを作って水温を上げる「ぬるめ」を設けるなどの工夫を古くから行っていたが、明治初期の反収は[[1875年]]現在で0.83石と、のちの茅野市域9か村では湖東村に次いで低く、麓の永明村(1.65石)の半分にとどまっていた<ref>『長野県町村誌』長野県、1876年</ref>。このため各農家では、自家消費を抑え現金収入となる販売用の米を少しでも確保するため、近隣他村と同様に米に大根や大根葉、干した漬け物などを混ぜた飯(ヒバ飯)や[[粟]]の混ぜ飯を常食にし、[[蕎麦]]を食べるなどしていた。
[[稲作]]は、栽培限界とされる標高1,250mに近く、土地の肥沃度も低いことから特に冷害を受けやすい環境にあり、田の{{ルビ|水口|みなくち}}に澱みを作って水温を上げる「ぬるめ」を設けるなどの工夫を古くから行っていたが、明治初期の反収は[[1875年]]現在で0.83石と、のちの茅野市域9か村では湖東村に次いで低く、麓の永明村(1.65石)の半分にとどまっていた<ref>『長野県町村誌』長野県、1876年</ref>。このため各農家では、自家消費を抑え現金収入となる販売用の米を少しでも確保するため、近隣他村と同様に米に大根や大根葉、干した漬け物などを混ぜた飯(ヒバ飯)や[[粟]]の混ぜ飯を常食にし、[[蕎麦]]を食べるなどしていた。
 
明治中期以降、入会地から刈り取った草を代かき時に敷き込んで田の肥料とする昔ながらの[[刈敷]]に加えて、[[金肥]]として昭和初期にかけてニシンのしめ粕といった動物性肥料、大豆粕などの植物性肥料、それに過リン酸、硫安などの人工肥料が普及。これに合わせ耐肥性があり冷害に強い品種が作付けされるようになり、定期的に冷害による減収に見舞われつつも、明治末期には反収が2石を超え([[1909年]]村内反収2.11石)、おおむね一定の収量が確保されるようになった。また養蚕を兼業するために、代掻き車や手押し除草機、足踏み脱穀機などの農機具の積極的な導入により、農作業の省力化を図った。
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戦後、油紙で苗代を覆い保温する「'''保温折衷苗代'''」の技術が導入され、安定して育苗することが可能になった。このため、従来標高800m程度の宮川村やちの町を中心に栽培されていた多収穫品種「農林17号」を北山村内でも作付けする農家が増え、[[1953年]]における村内の農林17号作付け割合は60%に達した。また[[1951年]]に肥料統制が廃止されたことを受け、各農家は窒素肥料を大量に施肥して収量増に励んだ。しかし、1953年7〜8月の長雨と低温で発生した大冷病害では、こうした収量優先の営農方針が[[いもち病]]の拡大と不稔につながり被害が深刻化した原因となったため、以後、冷害に強い新品種の作付けに取り組むようになった。
 
水利の余地がないことから明治以降、新田開発は行われなかったが、戦時体制にともなう食料増産を目的とする特例として[[1938年]]5月に湯川区の{{ルビ||うえはら}}および{{ルビ||しもはら}}地籍の桑園、山林などを水田とすることを目的とする耕地整理組合が設立された。渋川より得られる灌漑水量や地形などの制約から規模は計画より縮小され、[[1940年]]に上原地籍の10ha余を開田して終了した。
 
====役畜・用畜====
[[file:Nagano Prefectural Breeding Center (1960).jpg|thumb|190px|[[1944年]]に湯川山の南山地籍に開設された長野県種畜場。高原の大牧場として観光名所や映画ロケ地<ref group="注">1965年公開の[[舟木一夫]]主演『高原のお嬢さん』([[日活]])</ref>にもなったが、一帯はのちトヨタ自動車に売却され同社の保養所などになった。]]
八ヶ岳山麓部では、傾斜地の農耕に従事させるため、役畜の飼育が戦前から戦後にかけて盛んに行われ、日本でも有数の役畜耕作地帯だった。地理的に原野への放牧、飼料となる草の採取が容易で、厩堆肥を[[火山灰土]]の土壌に供給できたことが背景にある。北山村では、[[1949年]]現在で[[馬|役馬]]が294頭、[[牛|役牛]]が36頭<ref>『社会科資料集』諏訪教育会</ref>所有されていた。
 
特に役馬は2戸に1頭の割合で所有され、村内頭数は9か町村中飛び抜けて多かった。戦後の蓼科高原観光の名物となった観光馬車は、役畜による農耕作業のない夏期に、各農家がこうした馬を活用して生まれたものである。また役牛を好む農家もあり、馬に比べ粗飼料で、生育期間が短く性格が温和で管理が容易である利点があった。
 
また役畜が盛んである地域であることを背景に、大家畜の牛馬繋養機関として大戦中の[[1944年]][[4月]]、蓼科高原の湯川南山に県立の'''長野県種畜場'''が[[松本市]]から移転新設した。種畜場には長野県役馬利用指導所([[1945年]]-[[1949年]])、長野県畜産技術講習所(1949年-[[1965年]])も併設され、戦後の県内高原地帯で推進された酪農を中心に県内外の畜産振興に寄与した。のち県種畜場は[[1967年]]に[[塩尻市]]に新設された長野県畜産試験場に集約移転し、跡地は隣接していた北山小学校蓼科分校とともに、当時県企業局と一体となって蓼科開発に巨額投資していた[[トヨタ自動車]]に売却されてトヨタ自動車蓼科保養所(現・テラス蓼科)およびトヨタ自動車蓼科ゲストハウスとなった。
 
このほか、戦前から自給肉用として[[ウサギ]]が広く飼われ、飼育は家の子どもの仕事とされた。暮れには毛皮商人が各農家を回り、肉は年末年始のごちそうとなった。のちにはアンゴラ繊維を取るアンゴラウサギの飼育も行われた。また[[山羊]]を1、2頭飼育し、春から晩秋にかけて1日約2リットル出る乳を沸かして飲用とした。輸出用羊毛のための綿羊も飼育されていた。
 
==== 開拓事業 ====
戦後、復員や引揚にともなう帰農者・新規就農者の収容と食糧増産を目的とする国の開拓事業の一環として、農林省が買収した未墾地に開拓農家が入植した。村内では[[1950年]][[5月]]現在で蓼科高原の標高1200メートル付近の'''中山開拓地'''(中山開拓農業協同組合、[[1950年]]入植開始)に12戸、白樺湖畔の標高1500メートル付近の'''池の平開拓地'''(池の平開拓農業協同組合、[[1949年]]入植開始)に6戸がそれぞれ入植し、当初は雑穀を中心に、将来的には高原野菜と牧畜へ展開することを目指した農業を開始した。
 
まもなく蓼科高原、白樺湖の観光開発が本格化したため、池の平開拓地は[[1950年代]]後半に、中山開拓地は[[1960年代]]前半に、それぞれ観光開発事業者に土地を売却し開拓事業は事実上終焉した。
 
====滝之湯堰・大河原堰====
[[File:Takinoyusegi_irrigation_canal.jpg|thumb|250px|滝ノ湯川から取り入れたのち、小斉川からも蓼科湖経由で揚水し、湯川山中山)の忽滑地籍から芹ヶ山の池ノ胡桃地籍にかけて流下する滝之湯堰。堰は山肌を横切って流れることから「{{ルビ|横汐|よこせぎ}}」とも呼ばれた。滝之湯堰の北山村内区間のは[[元禄延宝]]年間に滝ノ湯川から笹原新田(のち湖東村笹原区)への開削を試みたものの完工しなかった「佐五右衛門堰」が転用されており、さらに下流の繰越堰で渋川からも揚水して同左岸に渡り、糸萱、芹ヶ沢両区を含む計16カ区に分水される。([[2015年]])]]
 
[[File:Otome Falls (Nagano).jpg|thumb|180px|大河原堰が横谷地籍の渋川を繰り越す場所の右岸に作られた乙女滝。滝の直下で渋川からも揚水したのち掛樋で谷を横断して左岸に渡る構造となっており、[[1948年]]には横谷事件の現場となった。]]
{{See also|#蓼科湖築造の背景:農業水利と別荘地開発の対立}}
[[坂本市之丞|坂本養川]]が開削し、現在も茅野市域の耕地灌漑に使用されている農業用灌漑水路の'''滝之湯堰'''(滝之湯汐、たきのゆせぎ・[[1785年]]開削、北山・湖東・豊平3村16区を灌漑)と'''大河原堰'''(大河原汐、おおがわらせぎ・[[1792年]]開削、玉川・宮川2村12区を灌漑)の2大堰をはじめとする大小の堰が、村内の滝ノ湯川および渋川などの各川から取水している。また戦時中から戦後にかけて、村内の音無川上流域に蓼科大池(現・[[白樺湖]])が、小斉川上流域に[[蓼科湖]]がそれぞれ造営され、川や堰<ref group="注">白樺湖は全量を音無川に、蓼科湖は築堤下の分水工からトンネル経由で滝之湯堰に9割、糸萱区で常滑川より取水し芹ヶ沢区除平(よけだいら)・矢花・城口・水上と湯川区久保田の各地籍を灌漑している久保田堰に1割供給している。</ref>に流下させる水の水温を上げて水稲の増産を図った。
 
[[坂本市之丞|坂本養川]]が開削し、現在も茅野市域の耕地灌漑に使用されている農業用灌漑水路の{{ルビ|'''滝之湯堰'''|たきのゆせぎ}}(滝之湯汐、[[1785年]]開削、北山・湖東・豊平3村16区を灌漑)と{{ルビ|'''大河原堰'''|おおがわらせぎ}}(大河原汐、[[1792年]]開削、玉川・宮川2村12区を灌漑)の2大堰をはじめとする大小の{{ルビ|堰|せぎ}}が、村内の滝ノ湯川および渋川などの各川から取水している。また戦時中から戦後にかけて、村内の音無川上流域に蓼科大池(現・[[白樺湖]])が、小斉川上流域に[[蓼科湖]]がそれぞれ造営され、川や堰<ref group="注">白樺湖は全量を音無川に、蓼科湖は築堤下の分水工からトンネル経由で滝之湯堰に9割、湯川中山(現・蓼科カントリークラブ用地内)のヌカリ川源流と糸萱区の常滑川より取水し芹ヶ沢区{{ルビ|除平|よけだいら}}・{{ルビ|矢花|やばな}}・{{ルビ|城口|じょうぐち}}・{{ルビ|水上|みずかみ}}と湯川区久保田の各地籍を灌漑している久保田堰に1割供給している。</ref>に流下させる水の水温を上げて水稲の増産を図った。
 
八ヶ岳山麓の山浦地方では、江戸時代にすでに本流の水量が分水の限界に達し、堰の新設が不可能となる一方、明治以降、管理が[[諏訪藩|高島藩]]から流域各区に移管されたため、堰の上流と下流、それに複数の堰の間で、取水割合や堰の修理、経費をめぐる争議「水争い」が多発。茅野市発足後の昭和末期に至るまで、流血や死者をともなう無数の紛争や裁判が続いた。
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一方、滝ノ湯川と渋川で取水し、村外を灌漑域とする大河原堰は、延長20kmにおよぶため常に水量不足が問題となり、灌漑域各区間での水争いが多発していたが、源流の北山村内では、両河川で共に大河原堰より下流で取水している滝之湯堰流域各区との間で分水割合を巡る争議がたびたび発生した。
 
* '''横谷事件''' - [[1948年]]は田植え期から雨の少ない日が続き、同年[[6月]]には大河原堰、滝之湯堰とも末端ではほとんど水が流れてこない状況となった<ref name="yokoya">「横谷事件」『茅野市史・下巻』pp.669-670、茅野市、1988年3月31日</ref><ref group="注">諏訪測候所(当時・諏訪市湖柳町670番地。現・湖岸通り5丁目2番11号、諏訪特別地域気象観測所)の観測データによると1948年5月の月間降水量は56.5mmで、当時の例年5月の半分にとどまった。</ref>。村内糸萱区横谷地籍の渋川にある横谷渓谷の大河原堰揚水地点(乙女滝下流)では[[6月10日]]ごろから、渋川の水を大河原堰に取り込もうとする大河原堰関係者(玉川・宮川村)と、それを阻止しようとする滝之湯堰関係者(北山・湖東・豊平村)が集結し衝突<ref name="yokoya" />。[[6月13日]]夜には出動した警官隊の目前で投石による死者1名が出た。こののち滝之湯堰側の北山・湖東・豊平の3村関係者が夜間に豊平村役場で対策会議を開いたところ、大河原堰側の玉川・宮川両村民が庁舎内に乱入して大論争が始まったが、その最中に突如大雨が降り始めたため、水不足が解消したことを悟った両堰関係者は解散し雨の中を帰宅。騒動は自然収束した<ref name="yokoya" /><ref group="注">1988年発行の『茅野市史・下巻』では、豊平村役場における滝之湯堰側の会議開催と大雨が降り出したことによる騒動収束は、死者が出てから4日後の「十七日の夜」(p.670)の出来事としているが、中央気象台(現・気象庁)の天気図および諏訪測候所の観測データによると、前線を伴った低気圧が関東地方を通過した1948年6月14日夜(15時~22時)に同測候所で前月1か月分を上回る63.3mm(1時間最大27.5mm)の降水があり、以後本州南岸に前線が停滞した影響で6月21日まで連日降水を観測しているため、実際の騒動収束は死者発生翌日の6月14日夜であった可能性が高い。</ref>。
 
==== 入会林野 ====
[[File:Southeast tateshina (1935).jpg|thumb|湯川山(湯川財産区)の中山付近から撮影された[[1935年]]当時の八ヶ岳山麓。写真左から右に幾重に延びる尾根筋は林越しに手前から北山村芹ヶ沢山(外山財産区、北山村・湖東村計7区入会)、豊平村南大塩山(豊平村・湖東村計7区入会で[[1888年]]分割)、豊平村{{ルビ|古田|ふった}}山(豊平村・泉野村・玉川村・永明村計12区入会で[[1930年]]までに分割)。]]
[[File:Kitayama, Chino, Nagano Prefecture 391-0301, Japan - panoramio (3).jpg|thumb|200px|車山より望む白樺湖。一帯はかつて柏原村入会地「柏原山」の一部で、白樺湖地区より手前、車山にかけての土地は立科町内を含め柏原財産区有地である。白樺湖東方から蓼科山にかけての八子ヶ峰北麓は江戸時代から明治時代にかけて所属を巡り芦田村と争いが続いた。]]
[[入会地]]は古来より「{{ルビ|山|やま}}」と呼ばれ、単村または北山村域外を含む複数村で原野を管理し、主に木炭の原料となる薪や、肥料やまぐさ、家萱などに用いる草の採集地として利用していた。大半は完全に森林化した現況と異なり森のない草山で、採集方法や刈り始め・刈り終わりの時期といった入会慣行は、明治以降も[[1890年代]]までほぼ江戸時代の慣行を受け継いでいた。
 
北山村域では明治初期、八ヶ岳山麓の原野に目を付けた出身地不明の士族による「開農社」と称するグループが、湯川村など10村入会の{{ルビ|'''御鹿山'''|おしかやま}}<ref group="注">滝之湯川右岸、現在の蓼科東急ゴルフコースおよび東急リゾート別荘地一帯。</ref>、芹ヶ沢村など7村入会の'''芹ヶ沢山'''<ref group="注">渋川上流域右岸、現在の蓼科ビレッジ別荘地一帯。標高の低い下半分を{{ルビ|内山|うちやま}}、標高の高い上半分を{{ルビ|外山|とやま}}に分け、芹ヶ沢村および同村の新田村(親村住民の移住開墾を開基とする集落)であった糸萱、新井、金山の計4か村は全域を、中村、山口、上菅沢の3村は外山のみを入会。</ref>の払い下げと開拓を筑摩県に申し出たことから、関係村が差し止め嘆願書を県に提出してこれを阻止する事件が起きた。さらに芹ヶ沢山では明治期に、{{ルビ|内山|うちやま}}{{ルビ|外山|とやま}}双方に入会権を持つ芹ヶ沢区など4区と、外山のみに入会権を持つ中村区など3区が所有権を巡って対立し、[[大審院]]まで訴える争いとなった。
 
また一部が5村の入会地だった柏原村の'''柏原山'''<ref group="注">柏原区北方一帯。柏原北東方面は柏原村のみ入会の内山、音無川上流域(現・八子ヶ峰周辺一帯および車山高原)は柏原・北大塩2村入会の外山、音無川中流域(現・緑の村周辺)は柏原・北大塩2村入会および中村、山口、上菅沢3村の札入会山。</ref>では、古来より柏原村民が炭焼や採草を行っていた八子ヶ峰北麓一帯について、後年に同地を源流とする堰を開削した際に柏原村が抗議しなかったことを根拠に自村の所属とすることに成功した佐久郡(のち北佐久郡)[[芦田村 (長野県)|芦田村]]との論争が明治に入っても続いたが、[[1889年]]、柏原耕地が専門家2人に鑑定を依頼したところ、共に芦田村の所属であるとの結果になった。さらに外山については明治中期から、共有山ではないとする柏原区と、共有山だとする米沢村北大塩区との論争も始まった。
 
各入会地は1889年の町村制施行に伴う財産区制度発足に伴い、旧村単位の財産区所有に移行。北山村域では御鹿山の'''鹿山財産区'''(北山村湯川・芹ヶ沢・糸萱、湖東村金山・新井・山口・中村・上菅沢、豊平村下菅沢・福沢区の入会)、芹ヶ沢山の'''内山財産区'''(北山村芹ヶ沢・糸萱、湖東村金山・新井区の入会)と'''外山'''(とやま)'''財産区'''(内山の4区と湖東村山口、中村、上菅沢区の入会)の各共有財産区と、区単独の財産区として湯川山(滝ノ湯川流域)の'''湯川財産区'''、柏原山(音無川流域)の'''柏原財産区'''、渋川流域の'''芹ヶ沢財産区'''および'''糸萱財産区'''、村外である米沢村塩沢区の'''塩沢財産区'''(滝ノ湯川上流域左岸の一部)の各財産区が設けられた。
 
外山財産区および内山財産区所有となった芹ヶ沢山は、大正時代の[[1917年]][[3月13日]]に7区が協定を結び、外山財産区について原野運営を共同で行う'''北山村湖東村一部事務組合'''(芹ヶ沢山一部事務組合)を設立して各区民ごとの権利割合を明文化した。
 
柏原財産区のうち、外山の八子ヶ峰北麓については[[1905年]][[12月20日]]、芦田村内の池の平付近南部琵琶石100町歩余について、購入に賛成する区民有志でつくる任意団体「御座石造林組合」が芦田村外三村財産組合より立木を含めて4000円余で買い取る契約を結び、残金完済となった[[1912年]][[7月5日]]に正式御座石造林組合の所有となり、[[1940年]]の温水溜め池(のちの白樺湖)築造着工あたり柏原区に無償提供され戦後任意団体「柏原農業協同組合」所有となった<ref group="注">このため現在御座石造林組合買収地白樺湖北側一帯(蓼科有料道路南側)琵琶石地籍茅野町合併後の[[立科町1956年]]内だが柏原財産区有地となっているに茅野町大字北山に編入された。</ref>。また北大塩区との外山の共有権論争については、[[1909年]]にかけて大審院まで持ち込む裁判となったのち、[[1911年]]に和解契約書を取り交わして車山南麓の一部を北大塩区に分割した<ref group="注">内山と外山に挟まれた札入会山における、湖東村中村、山口、上菅沢の3区を含めた入会権はその後も残ったが、茅野市合併後の[[1959年]]に関係各区の間で協定書が取り交わされて札入会権が解消されている。</ref>。
 
明治中期以降、金肥の普及により採草需要が減少したことや、[[1897年]]の[[森林法]]制定で造林が推進されたことで原野の山林化が進み、新たに営林事業が行われるようになったことを受け、近隣他村では共有入会林野の分割解消が行われたところもあったが、北山村内では柏原山外山の一部を除きすべての共有財産区が維持された。
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これらの財産区は、のち[[1960年]]に[[トヨタ自動車]]系列の[[東洋観光事業]]が湯川財産区および周辺の塩沢、外山、内山、鹿山財産区有地を買収または賃借して蓼科高原開発を開始したのを皮切りに、昭和末期にかけて[[長野県]]企業局(湯川財産区)、蓼科ビレッジ(外山・内山財産区)、共同開発興業(塩沢財産区)、東京不動産(鹿山財産区)、[[森永製菓]](外山財産区)、全国共済農業協同組合連合会(湯川財産区蓼科分区)、長野県綜合開発コンサルタント(柏原財産区)、[[京王帝都電鉄]](柏原財産区、中止)の各外部資本が、主に区有地賃借の形で別荘用地やゴルフ場といった大規模な観光開発を行う基盤となった。このほか鹿山財産区の一部区有地および柏原財産区の白樺湖一帯では、財産区自身が観光開発を行った。
 
====農業協同組合====
 
北山村では農村恐慌下の[[1928年]]、芹ヶ沢区{{ルビ|下小路|しもこうじ}}の四つ辻にあって廃業した雑貨商「大正屋」跡地(のち北山農協芹ヶ沢支所、現在更地)に農業団体'''有限責任北山信用購買販売組合'''が設立された<ref name="serigasawanoukyou">「農業協同組合」『芹ヶ沢誌』pp.112-113、茅野市北山芹ヶ沢区、1990年11月3日。</ref>。[[1943年]]の農業団体法施行により北山養蚕組合など諸団体が統合して[[1944年]]に'''北山農業会'''が発足し、主に各農家からの米の供出を執り行った<ref name="serigasawanoukyou" />。
 
戦後[[1947年]]の農業協同組合法公布に伴い北山農業会は解散し、翌[[1948年]]に'''北山農業協同組合'''が発足した。本部を湯川区{{ルビ|上溝|あげみぞ}}の北山村役場に置き、芹ヶ沢区下小路と湯川区{{ルビ|東浦|ひがしうら}}に支所、柏原区{{ルビ|宮ノ木|みやのき}}と糸萱区{{ルビ|鼻崎|はながけ}}に米倉庫を置いた<ref name="serigasawanoukyou" />。のち[[1960年]]に柏原、糸萱区の倉庫を、[[1982年]]に芹ヶ沢、湯川区の支所をそれぞれ店舗化して業務を旧村役場庁舎に集約した<ref name="serigasawanoukyou" />。
 
北山農協は[[1992年]]にちの、茅野市、原村、富士見町の各農協と合併した諏訪みどり農業協同組合の北山支所を経て[[2004年]]、諏訪湖農協と合併して信州諏訪農業協同組合北山支所となった。支所は旧北山村内の4店舗廃止後も存続していたが、[[2019年]]に営業所に格下げされたのち、[[2024年]]に廃止された。
 
=== 観光 ===
==== 蓼科村民による温泉経営 ====
村内の[[蓼科高原]]湯川山と芹ヶ沢山には、江戸時代に高島藩が所有し湯請人に運営委託していた3温泉(現在の蓼科温泉郷・[[奥蓼科温泉郷]])があり、明治以降、地元住民が県から借り受ける形で営業を行った。北山村発足直後の[[1879年]]には次の状況だった(「北山村誌」)。
 
* '''湯川山'''
** '''滝の湯''' - 浴場 3・宿舎 3・年間入湯客 約1,500人
** {{ルビ|'''親湯'''|しんゆ}}(巌温泉) - 浴場 1・宿舎 3・年間入湯客 約1,300人
* '''芹ヶ沢山'''
** '''渋の湯''' - 浴場 2・宿舎 4・年間入湯客 約3,200人
 
さらに[[1888年]]には渋の湯道沿いの横谷渓谷に面した芹ヶ沢山に接する豊平村南大塩山に'''明治温泉'''が開業した<ref name="okutateshina">北沢栄一著『奥蓼科の歴史』,草原社,1982.7. </ref>。
交通の便が悪いため、明治末にかけて近隣各村の高齢農民の自炊湯治を主とする湯治場の状態が続き、外部からの観光客は少なかったが、小説家の[[伊藤左千夫]]や日本画家の[[平福百穂]]らが、湯川区の歌人、篠原志都児(しづこ)らの招待で親湯に滞在し、蓼科高原の様子を作品を通して紹介したことを契機に、関東地方や中部地方一帯で知られるようになった。
 
交通の便が悪いため、明治末にかけて近隣各村の高齢農民の自炊湯治を主とする湯治場の状態が続き、外部からの観光客は少なかったが、小説家の[[伊藤左千夫]]や日本画家の[[平福百穂]]らが、湯川区の歌人、篠原{{ルビ|志都児|しづこ}}らの招待で親湯に滞在し、高原の温泉地の様子を作品を通して紹介したことを契機に、関東地方や中部地方一帯で知られるようになった。
[[1903年]]に渋の湯が糸萱新田・芹ヶ沢財産区に、[[1909年]]に滝の湯・親湯が湯川財産区に払い下げられ、ともに競争入札で財産区民から湯請人を選び経営を請け負わせた。同時期に'''北山旅舎組合'''、'''北山温泉衛生組合'''、'''山浦鉱泉組合'''の各温泉業団体が発足し、道路整備や宿泊料の協定、防火衛生設備の充実や共同広告の実施などを進めた。また明治末期には滝の湯に近い湯川財産区有地内に'''小斉温泉'''(小斉の湯)が設けられた。
 
[[1903年]]に渋の湯が芹ヶ沢・糸萱新田財産区に、[[1909年]]に滝の湯・親湯が湯川財産区に払い下げられ、ともに10年おきに希望する財産区民<ref group="注">伝統的に財産区民は旧来の財産区民との縁戚関係がある区内在住者だけが加わることができ、他区からの移住者は財産区民になれない仕組みである。</ref>が参加した[[競売|口競り]]による入札を行って湯請人(湯坊)を決め経営を請け負わせた<ref name="onsen">「特集 蓼科温泉郷」, 『温泉 1981年3月号』, pp.13-20, 日本温泉協会, 1981-03.</ref>。同時期に'''北山旅舎組合'''、'''北山温泉衛生組合'''、'''山浦鉱泉組合'''の各温泉業団体が発足し、道路整備や宿泊料の協定、防火衛生設備の充実や共同広告の実施などを進めた。また明治末期には滝の湯に近い湯川財産区有地内に{{ルビ|'''小斉'''|こさい}}'''温泉'''(小斉の湯)が設けられた。
[[1900年代]]には[[茅野駅]]と各温泉を結ぶ茅野駅馬車組合の乗合馬車の運行が始まり、夏季を中心に次第に賑わうようになった。[[1919年]]には滝の湯の経営者、矢崎源治が「'''滝の湯自動車'''」を創設して小型バスを運行し、茅野駅─湯川間を2時間で結んだ。滝の湯自動車は[[1927年]]に茅野駅─滝の湯間の運行も開始し、同年には渋の湯経営の辰野茂も「'''渋の湯自動車'''」を設立。[[1929年]]には矢崎源治や茅野・上諏訪の商店主らが設立した「'''東諏自動車'''」が営業を開始し、米フォード社製バスで茅野駅─湯川─小斉の湯間で乗合バスの運行を始めた。
 
[[1900年代]]には[[茅野駅]]と各温泉を結ぶ茅野駅馬車組合の乗合馬車の運行が始まり、夏季を中心に次第に賑わうようになった。[[1919年]]には湯川区民で滝の湯の湯請人、矢崎源治が「'''滝の湯自動車'''」を創設し小型バスで茅野駅─湯川間を2時間で結び、[[1927年]]には茅野駅─滝の湯間の運行も開始した。同年には芹ヶ沢区民で渋の湯湯請人の辰野茂もバス2台を用いた個人事業で「'''渋の湯自動車'''」を始めた<ref name="suwabus1941">『設立40年の歩み』, pp.103-104, 諏訪自動車株式会社, 1959-12.</ref>。また[[1929年]]には矢崎源治や茅野・上諏訪の商店主らが滝の湯自動車を母体に「'''東諏自動車'''」を設立し、米フォード社製バスで茅野駅─湯川─小斉の湯間の乗合バス運行を開始した。
交通機関の発達で、蓼科温泉の湯治客は伊那・佐久地方や山梨県などに拡大した上、夏には避暑・静養を目的とする東京などからの観光客が急増。また大正期から盛んになった八ヶ岳登山も、北八ヶ岳からの縦走者の増加にともない、渋の湯などが登山基地として多く利用されるようになった。
 
交通機関の発達で、これら北山村内の温泉の湯治客は伊那・佐久地方や山梨県などに拡大した上、夏には避暑・静養を目的とする東京などからの観光客が急増。また大正期から盛んになった八ヶ岳登山も、北八ヶ岳からの縦走者の増加にともない、渋の湯などが登山基地として多く利用されるようになり、[[1922年]]には糸萱区の篠原寛によって芹ヶ沢山{{ルビ|横谷|よこや}}地籍の横谷峡谷に'''横谷温泉'''が新たに開業した<ref name="okutateshina" />。
==== 蓼科高原の別荘開発 ====
 
=== 観光開発の始まり ===
[[1923年]]8月、上諏訪町高島小学校の校医小沢侃二らは、親湯で虚弱児童の高山保養訓練を行って良好な結果を収め、[[1924年]]には「上諏訪児童愛護会」を組織して小斉の湯で保養訓練を行ってその実績が国や医学界に注目された。文部省は[[1928年]]に小斉の湯を中心とする蓼科高原一帯を高山保養地に指定し、東京高等師範学校附属中学校など東京の各校の寮が建設されたほか、東京各地の夏季林間学校が開かれるようなった。
[[File:Tateshina Miyukihotel (1937).jpg|thumb|250px|親湯から引湯して栂ノ木平(のちのプール平)に開設した湯川財産区直営旅館の「美遊喜館」と温泉プール([[1937年]]撮影)。プールは現・[[アルピコリゾート&ライフ]]本社北側の「プール平駐車場」にあり、美遊喜館と高原ホテルは[[1930年]]に湯川区から親湯にかけて整備された「保健郷道路」を挟んだ東側に並んで建った。]]
 
[[1923年]]8月、上諏訪町高島小学校の校医小沢侃二らは、親湯で虚弱児童の高山保養訓練を行って良好な結果を収め、[[1924年]]には「上諏訪児童愛護会」を組織して小斉の湯で保養訓練を行ってその実績が国や医学界に注目された。
昭和初期にかけて、湯川財産区は「栂(つが)の木平」と呼ばれていた滝の湯近くの下栂の木地籍に、財産区直営の「'''高原ホテル'''」と温泉プール付き旅館「'''美遊喜館'''(みゆきかん)」を建設し、付近の地名を「プール平」と名付けた。さらに農村恐慌を受け、湯川財産区は[[1930年]]に別荘地経営を開始。同年[[5月]]に蓼科高原初の別荘が建設されたのを皮切りに、プール平周辺に次々と別荘が誕生した。湯川財産区有地における高原地帯の戸数は、太平洋戦争勃発直前の[[1941年]]には288戸にまで急増。これとは別に財産区との別荘建設の用地借受契約も186戸分に達した。同年の避暑・保養観光客の入り込み客数は約3万人に達し、近代型の保養観光地として、戦後の観光開発の基礎となった。
 
湯川財産区は湯請人の手で[[1927年]]から[[1928年]]にかけて、滝の湯近くの{{ルビ|栂ノ木平|つがのきだいら}}(下栂ノ木)地籍に、温水プールとしては当時国内最大規模となる全長50メートル1基および25メートル1基の「温泉プール」を持つ財産区直営の旅館「{{ルビ|'''美遊喜'''|みゆき}}'''館'''」と「'''花屋'''」(まもなく'''高原ホテル'''に改称)を開設した<ref name="onsen" />。
しかしこれら蓼科高原の観光産業は戦時体制化で衰退し、茅野駅と蓼科方面を結ぶバス路線は[[1943年]][[10月]]に運休。[[1944年]]4月には小斉の湯が日本鋼管諏訪鉱業所の事務所と勤労奉仕隊員の学生宿舎として、滝の湯は東京の産婦人科医院の妊産婦避難施設として、親湯・高原ホテル・美遊喜館の3館は野比海軍病院の保養施設としていずれも所有権ごと強制的に接収された。
 
翌[[1928年]]には文部省が小斉の湯から親湯にかけての湯川財産区内の現在のプール平周辺のエリアを「'''[[蓼科高原]]'''」の名称で高山保養地に指定し<ref group="注">当時の「蓼科高原」は同じ湯川山でも戦後蓼科湖が築造された中山地籍など村内の八ヶ岳山麓部の大部分は含んでおらず、後年の同呼称に比べ極めて限定された範囲の名称であった。</ref>、東京高等師範学校附属中学校など東京の各校の寮が建設されたほか、東京各地の尋常小学校などの夏季林間学校が開かれるようになり、美遊喜館や高原ホテルが林間学校の児童生徒を受け入れた。
==== 高原観光の復興 ====
===== 白樺湖 =====
[[ファイル:Lake Shirakaba02s5s4272.jpg|thumb|白樺湖(1946年完成)]]
柏原財産区有地の池の平に[[1946年]]に完成した農業灌漑用温水ため池は、当時の県知事が命名した「蓼科大池」に代わり、柏原区民が考案した「[[白樺湖]]」の名称が用いられ、[[1950年]][[11月20日]]には'''白樺湖地区観光協会'''が、[[1952年]]には'''白樺湖旅館組合'''がそれぞれ発足。[[1953年]]には池の名称が正式に白樺湖に改められた。
 
このあと[[1942年]]には入札の結果継続して湯請することができなかった高原ホテル湯請人の牛山勝一が、温水プールの北側に新たに'''山紫閣'''を開業<ref name="onsen" /><ref>『旅 第19巻7号』, 新潮社, 1942-07.</ref>。栂ノ木平は戦後、この温泉プールにちなみ「'''プール平'''」と名乗った<ref group="注">『茅野市史』では昭和初期の開発当初に「プール平」と名付けられたと解釈できる記述を行っているが、旅行や温泉に関するガイドブックや雑誌類に「プール平」の呼称が主だって現れるのは終戦以降(森川信「蓼科高原」、『旅 1948年8月号』p.23、新潮社、1948年など)で、それ以前の類書では、高原ホテルと美遊喜館を中心とする滝の湯、親湯、小斉温泉までの限定した区域の名称として「蓼科高原」「蓼科温泉」の表現を用いており(上田貢『山郷の諏訪』p.27、飯島書店、1935年/小川清行「新興避暑地蓼科高原温泉郷」、『写真月報 1935年8月号』pp.70-74、写真月報社、1935年/石村新吉『東京附近温泉の旅』p.120、朋文堂、1936年など)、「プール平」の名はみられない。住所表記は「北山村栂ノ木平」(名古屋逓信局「第二種自家用電気工作物施設者概要」、『管内電気事業要覧』第18回p.103、電気協会東海支部、1939年)となっている。</ref>。また北山村内では滝の湯や親湯など既存の温泉や戦後にかけて新たに開業した宿泊施設の多くが温泉プールを設けるようになった<ref group="注">当初の大温泉プールは1960年代半ばには廃止されたものの、戦時中にプール北側に開業した山紫閣を含め各施設がそれぞれ自前の温泉プールを建設して営業した。</ref>。
茅野駅-白樺湖間の路線バス1往復の運行が始まった[[1949年]]には観光貸馬業の営業が始まった。これは火山性土壌のため、財産区有の入会林野から大量の草肥を水田に投入するための生産・運搬手段として、村内に広く普及していた農耕馬の夏季の有効利用を狙ったものだった。
 
同時期に当地を襲った農村恐慌を受け、湯川財産区は旅館増設に続き[[1930年]]には別荘地経営も開始した。同年[[5月]]に蓼科高原初の別荘が建設されたのを皮切りに、[[1934年]]には[[東伏見家 (伯爵家)|東伏見伯爵家]]の別荘「蓼科御殿」が建てられるなど、栂ノ木平周辺に次々と別荘が誕生した。土地は売却せずに借地権を与える形を採り<ref name="ogawa">小川清行「新興避暑地蓼科高原温泉郷」、『写真月報 1935年8月号』pp.70-74、写真月報社、1935年</ref>、[[1935年]]当時の年間借地料は1坪4銭であった<ref name="ogawa" />。
同年にはバンガローの経営も始まったほか、[[1951年]]には池の平土地改良区から湖上の管理運営権を得た代行組合によって貸しボートの営業がそれぞれ始まった。柏原財産区ではこれらの事業収益をもとに、白樺湖周辺に旅館やホテルの宿泊施設を建設するなど観光開発を推進した。さらに[[1954年]]には無線電話の回線が貸しボートのボートハウスを兼ねた池の平土地改良区事務所に開設されたほか、西白樺湖までの郵便物集配も始まった。
 
別荘地化から数年後には早くも「発展は物凄いばかりで俗化の傾向すら萌している」<ref>小牧実繁「本邦高地集落の研究(第1報)」、『地球』1936年4号p.25、地球学団編、博多成象堂、1936年。</ref>と評せられるほどの変貌を遂げ、湯川財産区有地における高原地帯住家戸数は、開発開始から10年を経た太平洋戦争勃発直前の[[1941年]]には288戸にまで増加。これとは別に財産区との別荘建設の用地借受契約も186戸分に達した。同年の避暑・保養観光客の入り込み客数は約3万人に達し、近代型の保養観光地として、戦後の観光開発の基礎となった。
===== 蓼科高原 =====
湯川財産区有地の蓼科高原では[[1948年]][[5月]]、小型バス3台、1日4往復体制で[[諏訪バス|諏訪自動車]]による茅野駅とのバス路線が再開され、同年6月から8月までの夏山輸送期間中に2万5000人、翌[[1949年]]の同期には5万3000人を輸送した。1949年[[5月]]には'''蓼科観光協会'''が発足し、温泉保養地から観光地への脱皮を目指して初の観光ポスターを作成。茅野駅構内に観光案内所を開設して観光宣伝事業を始めた。
 
また[[岡谷市]](諏訪郡平野村、[[1936年]]市制施行)に本社を置く[[諏訪バス|諏訪自動車]]は、蓼科高原の旅客輸送需要の高まりを見て同地に路線を持つ東諏自動車の買収を再三試みたものの、東諏自動車側がこれに抵抗したため成功しなかった<ref name="suwabus1941" />。諏訪自動車はのち戦時体制に伴う国の陸上交通統制の圧力を借りる形で[[1941年]]に東諏自動車の吸収を果たし、北山村に進出した<ref name="suwabus1941" />。
また[[1952年]]には、旅館経営者の村長、篠原久造の提案で、湯川区出身者中心の'''中山開拓団'''が農業開拓に携わっていたプール平の入り口にあたる地に、温水ため池「[[蓼科湖]]」を建設。同年には中山開拓団の手で湖の南岸に23棟のバンガローが建設された。
 
一方芹ヶ沢山外山財産区の渋の湯周辺では、明治温泉がある隣接の豊平村南大塩山(南大塩外六ヶ耕地入会共有地組合所有地)と一体となった観光開発が試みられた。[[1937年]]に芹ヶ沢区民の小松栄治が渋の湯の姥の湯源泉から引湯し同地に借地する形で'''渋之湯小松栄館'''が開業<ref name="okutateshina" />。翌[[1938年]]には渋の湯自動車の辰野茂が、渋の湯の入口にあたる渋の湯道沿いの用地を南大塩外六ヶ耕地入会共有地組合から借地し、渋の湯の稚児の湯源泉から引湯して'''渋辰野旅館'''を開業した<ref name="okutateshina" />。
この年には、戦前からの滝の湯・親湯・小斉の湯・高原ホテル・美遊喜(のちの三幸ホテル)・山紫閣(のちの滝の湯別館)の蓼科高原6温泉経営者が出資して'''蓼科観光株式会社'''も設立され、蓼科湖畔の観光開発を湯川区から受託。滝の湯から湖畔に引湯を行い、冬季の観光客誘致を目指して天然スケートリンクの整備に取り組んだほか、自家用バス2台を購入して無償で観光客を輸送。以後、旧来のプール平周辺と蓼科湖周辺の2地域を中心に観光開発が進んだ。
 
しかしこれら北山村内の観光産業は戦時体制化で加速度的に衰退し、蓼科方面を結ぶ諏訪自動車のバス路線は[[1943年]][[10月]]に運休。[[1944年]]4月には小斉の湯が日本鋼管諏訪鉱業所の事務所と勤労奉仕隊員の学生宿舎として、滝の湯は東京の産婦人科医院の妊産婦避難施設として、親湯・高原ホテル・美遊喜館の3館は野比海軍病院の保養施設としていずれも所有権ごと強制的に接収された。
蓼科高原では、湯川財産区が[[1960年]]に滝の湯・親湯・小斉の湯や蓼科湖などを含む周辺206haを一括して'''東洋観光事業株式会社'''([[トヨタ自動車|トヨタ自動車販売]]子会社、のち[[松本電気鉄道]]子会社)に3億円で売却するまで、明治以来の10年ごとの入札請負制に基づく財産区民による営業しか認めなかったため、6温泉以外が経営する宿泊施設や飲食店が存在しない状態が続いた。
 
=== 諏訪鉄山高原観光の復興 ===
==== 白樺湖 ====
[[1879年]]5月、湯川の柳沢幸助らが[[蓼科高原]]の石安場(いしやすべ、いしやすば・'''石遊場'''<ref group="注">現在のアルピコ交通緑山バス停留所周辺。</ref>)で「赤油岩」を発見し、[[内務省 (日本)|内務省]]が[[東京農学校]]で分析したところ、[[酸化鉄]]などを含有していることが分かった。
[[File:Shirakabako (1956).jpg|thumb|250px|[[1955年]]ごろの白樺湖。貸しボートは当初、池の平土地改良区から運営権を得た代行組合が営業し、[[1954年]]に土地改良区直営となった。]]
==== 日本鋼管諏訪鉱業所 ====
柏原区民有志でつくる御座石造林組合が戦前に芦田村外三ヶ村共有財産組合から南部の琵琶石地籍を買収した芦田村大字立科八ヶ野の池の平では、[[1946年]]に農業灌漑用温水ため池が完成し、当時の県知事が命名した「蓼科大池」に代わり、柏原区民が考案した「'''[[白樺湖]]'''」の名称が用いられた。
[[浅野財閥]]傘下の[[日本鋼管|日本鋼管株式会社]](現・JFEエンジニアリング)は[[日中戦争]]勃発の[[1937年]]、北山村湖東村一部事務組合が管理する外山財産区内の土地を買収して'''日本鋼管諏訪鉱業所'''とし、関東運輸株式会社(旧・浅野同族株式会社回漕部)が下請けとして[[露天掘り]]による鉄鉱石の採掘を開始した。[[1944年]]には日本鋼管傘下の鉱業関係会社と直営鉱業所を統合して設立された戦時[[国策会社]]の日本鋼管鉱業株式会社に移管され、'''日本鋼管鉱業諏訪鉱業所'''となった。
 
池の平では、文部省実業学務局所管の実業教育国家統制機関として設立された財団法人実業教育振興中央会([[1935年]]設立、現・公益財団法人産業教育振興中央会)が戦時中の[[1943年]]、同地の産業開発に着目して進出した。柏原区長の守矢仁作らと[[白樺湖]]造営事業に深く関与するとともに、[[1944年]]には同地に高原野菜や酪農の研究を行う「高原農業研究所」を開設した<ref name="hirasawatoki">平沢茅邨『茅野市の観光』, pp.207-217, 甲陽書房,1960.</ref>。農業用地は当初守矢が池の平北東部の芦田村外三ヶ村共有財産組合所有地を借り受けた上でこれを実業教育振興中央会に転貸する予定であったが<ref name="asida">小林泉編『蓼科山と財産組合』, pp.261-267, 立科村外一町・一町一村財産組合, 1957. </ref>、共有財産組合がこれを知って拒否。[[1945年]]に共有財産組合が直接実業教育振興中央会に貸し付けた<ref name="asida" />。
鉱区は'''石遊場鉱床'''、'''明治鉱床'''<ref group="注">豊平村明治温泉より約150m上流の渋川右岸にあった。</ref>、'''糸萱'''(いとかや)'''鉱床'''(長尾根鉱区<ref group="注">現・鉄山地区の温泉施設「石遊の湯」周辺。同施設は諏訪鉱業開発の操業終了後も長尾根鉱区を所有していた日本鋼管が[[1990年]]に泉源を掘り当て[[1995年]]に営業を開始した。</ref>・金堀場=かねほりば=鉱区<ref group="注">現・鉄山地区集落周辺。</ref>・中山1〜3鉱区<ref group="注">長尾根鉱区から北東、のちの蓼科湖付近に至る一帯。もともと芹ヶ沢区などの農家が所有する田畑があり、日本鋼管が戦時中に操業終了後の田畑への回復を条件に借り上げたが約束は守られず、採掘で掘り返したまま放置した荒れ地の状態で戦後まもなく元の地権者に返還された。</ref>)のいずれも露天掘りの3鉱区。産出する[[鉄鉱石]]はリンを含む低品位(鉄含有率45%未満)の[[褐鉄鉱]]で、石遊場に鉱物中の[[酸化鉄]]を[[還元]]する簡易焼結炉20基を設け、鉄含有率を45%以上に引き上げた上で京浜地区へ送鉱した。
 
守矢は諏訪自動車の役員も務めており、同社は[[1948年]][[9月]]、省営バス(国鉄バス)に先手を打つ形で茅野-池の平間の免許を申請し<ref name="suwabus1948">『設立40年の歩み』, pp.119-120, 諏訪自動車株式会社, 1959-12.</ref><ref group="注">省営バスは戦前から諏訪湖北岸で諏訪自動車と激しい競合を繰り広げており、諏訪自動車の免許申請からおよそ半年後に国鉄(当時・運輸省鉄道総局)も和田峠線入大門から池の平を経由して茅野に至る路線延長の申請を行ったが、諏訪自動車の先行申請と重複する池の平以南は却下され、北山村など山浦地方への国鉄バスの進出を阻止する形となった。この時諏訪自動車も国鉄バス白樺湖線および和田峠線に重複する池の平-丸子町間の免許申請を国鉄への対抗措置として行い同様に却下されている。</ref>、[[1949年]][[2月]]に認可されて路線バス1往復の運行を始めた<ref name="suwabus1948" />。同年には琵琶石地籍で財産区によるバンガローの経営や観光馬車の営業が始まり、これを受けて実業教育振興中央会は「高原寮」を開設して学生を中心に一般観光客も対象にした旅館経営に乗り出した<ref name="hirasawatoki" />。
コンクリート製600t貯鉱槽2基を石遊場に、また同2000t貯鉱槽1基を芹ヶ沢神社(芹ヶ沢子之社)と湖東村花蒔区の間にある芹ヶ沢区下島(花蒔下)地籍の渋川南岸段丘崖に設け<ref>「戦時下における鉄道輸送」『茅野市史・下巻』p.546、茅野市、1988年3月31日</ref>、明治鉱床─石遊場 (2.9 km)・石遊場─花蒔 (4.6 km) に鉱石輸送用のバケットを設けた索道を設置。[[1942年]]には明治鉱床─石遊場間を3線に、石遊場─花蒔間を2線に増強した。花蒔までの鉱石搬出は約40分を要した。花蒔貯鉱場からは[[茅野駅]]までトラックで輸送し、[[1943年]]には[[鉄道省]]名古屋鉄道局茅野自動車区の'''[[国鉄バス|省営トラック]]'''(国鉄トラック)'''[[北山線]]'''が開設された。
 
高原寮はまもなく「'''池の平ホテル'''」と改称し<ref name="hirasawatoki" />、当時湖岸にあった[[三井不動産]](元三井本社所有)の山荘「'''三井寮'''」<ref group="注">白樺湖南岸、現在の白樺湖公民館の南方山手にあった。[[1943年]]に三井本社が豊平村塩之目区の藁葺き民家を購入して移築したもので、戦後の財閥解体で三井不動産所有となった。[[1949年]]に「三井不動産蓼科山寮」となり、三井系列社員の厚生施設として運営された。</ref>、柏原財産区買収完了後の池の平山番人を務めた柏原区民の両角万仁武が[[1934年]]から営んだ茶屋兼スキー小屋「'''丸万小屋'''」(雷小屋、[[1955年]]「'''雷ホテル'''」に改称)<ref group="注">白樺湖西岸の御座石遺跡前に立地。のち隣接するホテル山善に買い取られ湖岸の「ホテル山善南館」となった。</ref>、池の平に近い芦田村立科八ヶ野の「'''多留賀沢鉱泉'''」(樽ヶ沢温泉)の4者で[[1950年]][[11月20日]]に'''白樺湖地区観光協会'''が発足した<ref name="hirasawatoki" />。[[1951年]]には池の平土地改良区から湖上の管理運営権を得た代行組合によって貸しボートの営業が始まり、[[1952年]]には'''白樺湖旅館組合'''が発足。[[1953年]]には池の名称が正式に白樺湖に改められた。
さらに省営トラックの輸送力が追いつかなくなったことから1943年12月、軍需省は当時鉱業所を運営していた日本鋼管に鉱石輸送用の特殊専用側線<ref name="jnr">「戦時下の建設と改良」『日本国有鉄道百年史・第11巻』p.280、[[日本国有鉄道|公共企業体日本国有鉄道]]、1973年。</ref><ref group="注">本来「専用鉄道」の手続きが必要な延長3キロ以上の路線を簡易で迅速な手続きが可能な「側線」と見なす、戦時特例の「特殊専用側線」制度が適用され、全線が茅野駅の側線扱いとされた。なお『茅野市史』などでは「茅野ー花蒔間」とされているが、『日本国有鉄道百年史』のみ「茅野-松原間」と記述されている。</ref><ref group="注">専用側線が「国鉄北山線」とも呼ばれたとの説が[[2000年代]]半ばごろからインターネット上に出現して以降流布されているが、これは当側線着工前に既に開設され[[1983年]]まで存在した「国鉄トラック北山線」と混同した誤りである。</ref>(通称・'''諏訪鉄山鉄道''')を敷設するよう決めた。花蒔貯鉱場から上川沿いに米沢村、永明村を経て茅野駅に達する約10kmの路線は[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]が建設を受託施工し、鉱業所が日本鋼管鉱業に移管された後の1944年末に開通。国鉄上諏訪機関区の[[国鉄C12形蒸気機関車|C12形蒸気機関車]]が乗り入れて輸送を始めた。
 
柏原財産区では土地の賃貸料やバンガローなどの事業収益をもとに、任意団体の柏原農業協同組合所有地となった琵琶石地籍の白樺湖周辺に旅館やホテルの宿泊施設を建設するなど観光開発を推進し、[[1951年]]には湖東村金山区の保科尚文による「'''ヒュッテ'''{{ルビ|'''山善'''|さんぜん}}」(のち「ホテル山善」)<ref group="注">白樺湖西岸の御座石遺跡近くの山手側に立地。2年後の[[1953年]]に白樺湖開拓や御座石遺跡出土品保存に貢献した柏原区の篠原喜重・銀一親子が譲受して「ホテル山善」となり、1980年代にかけて急拡大して西白樺湖を代表するホテルとなったが2007年に廃業。旧雷ホテル跡地の南館を含めて長く湖畔の巨大廃墟として有名になり問題ともなったため、国の予算も投入されて2019年から2021年にかけて順次解体撤去された。保科は山善譲渡後、池の平土地改良区事務所(ボートハウス)近くの大門街道沿いで喫茶店「緑苑」を営み早世したが、緑苑も買い取られたあと1962年からホテルを併営。現在も食堂として営業する。</ref>が開業したほか、[[1955年]]にかけて「'''山彦荘'''」<ref group="注">1953年開業。現在の国道152号と県道諏訪白樺湖線の分岐部に位置し土産物店も併営。廃業後2023年まで空き家として残っていたが現在は更地。</ref>、「'''なかよし荘'''」(のち「ホテル夕月」)<ref group="注">1952年開業。「夕月館」とも。現在の「白樺湖ホテル・パイプのけむり」駐車場付近に立地。</ref>、「'''白樺湖ホテル'''」(のち「白樺湖グランドホテル」)<ref group="注">白樺湖南岸に1953年開業。1970年代以降経営者がたびたび変わり、バブル期にかけて巨額投資して成長したが2000年ごろ廃業。以後四半世紀にわたって廃墟として残っている。</ref>、「'''水明荘'''」<ref group="注">芦田村側の東白樺湖南部に1955年簡易旅館として開業。1971年に普通旅館となり、土産物店を併営した。廃業後2016年ごろ解体され、跡地は2022年、バンガローエリアに転用された。</ref>などの各旅館が次々に開業した<ref>『白樺湖と下水道のあゆみ』 p.29,白樺湖下水道受益者会,1990.9.</ref><ref name="hirasawatoki" />。
しかし中央本線の輸送力が元から貧弱であったことと、既に国内の鉄道貨物輸送は戦局の急速な悪化を受けて混乱状態で貨車の手配が困難であったことから、軍需省が定めた過大な計画どおりに京浜地区に送鉱することは不可能となっていた<ref name="yuso">「諏訪鉄山の採掘」『茅野市史・下巻』p.527、茅野市、1988年3月31日</ref>。さらに[[1945年]]春からは地方都市への空襲も激化したため、首都圏の精錬工場への鉱石輸送は麻痺状態に陥った<ref name="yuso" />。軍部は本土決戦における製鉄拠点として非常措置の対象とし、「諏訪地方決戦製鉄設備急設要項」を策定。[[山梨県]]の日本電化工業日下部工場に送鉱して鉄鉱および[[化学肥料]]の生産を行う現地製鉄作業案を内示したが、まもなく終戦を迎え、諏訪鉱業所の採鉱作業は終了した<ref name="yuso" />。
 
[[1954年]]には無線電話の回線が貸しボートのボートハウスを兼ねた池の平土地改良区事務所に開設されたほか、西白樺湖までの郵便物集配も始まった。茅野町合併後の[[1956年]]には琵琶石地籍が立科村([[1955年]]合併で発足)から茅野町に移管され、正式に柏原区に編入された。
 
一方、池の平ホテルを運営する実業教育振興中央会が芦田村外三ヶ村共有財産組合から借り受けていた東白樺湖の用地は[[1948年]]、営農不適地だと指摘する共有財産組合の反対を押し切って県が「池の平開拓地」開設のため周辺一帯を買収し、実業教育振興中央会が開拓地入植者の名目で県から貸与を受けていた<ref name="asida" />。しかし実際には貸与農地を使った旅館事業を展開していたことから、共有財産組合は開拓を装った観光開発業であると反発して土地の返還を求めた<ref name="asida" />。
 
県は[[1955年]]に実業教育振興中央会を「開拓者ではない」と認定し、同会の開拓農地について県の買収を取り消して共有財産組合に返還した<ref name="asida" />。共有財産組合は、このうち既に池の平ホテル敷地として使われてしまっている部分に限り、やむなく開拓地入植者でつくる柏原池の平開拓農業協同組合に無償譲渡することで手打ちとした<ref name="asida" />。
 
==== 蓼科高原 ====
[[File:Tateshinako (1959).jpg|thumb|250px|築造された蓼科湖の南岸に中山開拓団が建てたバンガロー。「蓼科湖のバンガロー村」として知られた([[1950年代]]後半)。]]
 
湯川財産区有地の蓼科高原では終戦後直ちに主に若者層の旅行者が増え<ref name="suwabus1946">『設立40年の歩み』, pp.116-117, 諏訪自動車株式会社, 1959-12.</ref>、戦時中に東諏自動車や渋の湯自動車を吸収合併した諏訪自動車は[[1946年]][[8月]]、旧東諏自動車線の湯川-小斉温泉間を再開させたが資材不足で同年[[11月]]に再び休止した<ref name="suwabus1946" />。その後地元の要請と旅行需要の高まりを受けて[[1948年]][[5月]]に小型バス3台、1日4往復体制で茅野駅-蓼科間の運行を再開<ref name="suwabus1946" />。同年6月から8月までの夏山輸送期間中に2万5000人、翌[[1949年]]の同期には5万3000人を輸送した。
 
1949年[[5月]]には'''蓼科観光協会'''が発足し、温泉保養地から観光地への脱皮を目指して初の観光ポスターを作成。茅野駅構内に観光案内所を開設して観光宣伝事業を始めた。プール平では旧保健郷道路に面し冬季にはスケートリンクが設置された広場(馬場)周辺に、観光貸馬数十頭の基地(立場)や「万葉堂」などの土産物店・飲食店が建ち並ぶ「'''蓼科銀座'''」<ref group="注">のちに諏訪バス蓼科線バスターミナルを兼ねて開設された東洋観光事業蓼科高原総合開発事務所(現アルピコリゾート&ライフ本社)の周辺。広場は1980年代前半にテニスコートとなった。蓼科銀座には別荘滞在者向けの食料品店や理髪店などのほか、バブル期には高級レストランも進出したが、現在は土産物店の万葉堂とそば店のみが残る。</ref>と呼ばれる通りが出現した<ref name="hirasawatoki2">平沢茅邨『茅野市の観光』, pp.226-242, 甲陽書房,1960.</ref>。
 
一方[[1952年]]には、湯川区出身者中心の中山開拓団が農業開拓に携わっていたプール平の入り口にあたる湯川山の採草地に農業用貯水池「'''[[蓼科湖]]'''」が築造され、観光地としての蓼科高原の範囲が中山地籍や南山地籍に広がった。これに合わせて開拓団員の手で同年、湖の南岸に23棟のバンガローが建設されたのを皮切りに、湖岸には次々とバンガローが設けられた。
 
この年には戦前からの滝の湯・親湯・小斉の湯([[1954年]]、「'''蓼科観光ホテル'''」に改称)・高原ホテル・三幸館(旧美遊喜館)・山紫閣の蓼科高原6湯請人が出資して'''蓼科観光株式会社'''が設立され、蓼科湖畔の観光開発を湯川区から受託。冬季の観光客誘致を目指して天然スケートリンクの整備に取り組んだ。同社のスキームによって他村の温泉経営者も加わる形で「'''湖畔ホテル'''」<ref group="注">湖畔ホテルは玉川村北久保区で温泉を経営していた小林完智が蓼科湖築造に合わせて移住して湖北岸の高台(現・「道の駅ビーナスライン蓼科湖」駐車場東側、飲食店敷地)に開業した。滝の湯からの引湯を受けて湖畔寄りに温泉プールを設けて営業し、1980年代に廃業して不動産業に業態転換し、建物は1990年代前半まで残っていたが解体整地された。プールは東洋観光事業の釣り堀となったあと埋設され2017年まで「子供の広場」(のち「蓼科湖レジャーランド」)の遊具が置かれたのち、駐車場の拡張用地を経て「道の駅ビーナスライン蓼科湖」が建設された。</ref>と「'''蓼科湖ホテル'''」<ref group="注">蓼科湖ホテルは湖畔ホテル温水プールの南に隣接する湖岸の半島部に立地し1969年ごろまで営業。廃業後まもなく跡地は東洋観光事業のゴーカートコース(2015年廃止撤去)になった。</ref>が開業し、土産物店として「蓼科湖ハウス」のほか、プール平の「万葉堂」<ref group="注">共に蓼科湖北西端に立地。蓼科湖ハウスは「湖美山荘」のち「湖の美荘」として湖面の貸しボートのほかバンガローや民宿も経営し[[2017年]]まで営業。のち旧蓼科観光ホテル(小斉の湯)経営者の孫で毎日新聞記者を経て衆院議員を務めた[[矢崎公二]]が「蓼科BASE」に改装した。蓼科湖の「万葉堂」はのち「萬葉荘」として食堂や土産物店、レンタサイクルを営んだ。建物は現在コーヒーショップなどに転用されている。</ref>も湖畔に出店した<ref name="hirasawatoki2" />。
 
一方で同社は、自家用バス2台を購入して無償を建前とする観光客輸送(実質的には有償の違法輸送)<ref name="suwabus1946" />も始めた上、蓼科線を持つ諏訪自動車に対して会社に出資するよう要求したが、諏訪自動車側がこれを断ったため、一時両社の関係が悪化した<ref name="suwabus1946" />。まもなく地元選出の代議士、[[小川平二]]の仲介で和解し、自家用バス輸送は廃止された<ref name="suwabus1946" />。
 
湯川財産区はこの間も、蓼科6温泉の営業は10年ごとの入札請負制に基づいて落札した財産区民にしか認めなかったが、経営者が固定しないため事業急拡大を目論んだ設備投資がしにくい弊害があった<ref name="onsen" /><ref group="注">昭和以降は6温泉の経営に新規に加わる湯川区民は少なく、おおむね区内の特定の家族やその縁故者が落札結果に応じ6温泉を相互に入れ替わる形で経営が続けられており、またその多くが北山村長を務めていた。</ref>。このため[[1960年]]に6温泉や蓼科湖などを含む湯川山206haを'''東洋観光事業株式会社'''([[トヨタ自動車|トヨタ自動車販売]]子会社、のち[[松本電気鉄道]]子会社)が湯川財産区から3億円で買収した際には、6温泉および蓼科湖ホテルと湖畔ホテルは賛同してこれを推進。それぞれいったん東洋観光事業の所有となったあと、それぞれの湯請人が買い戻しまたは借り受ける形で経営権を固定した<ref name="onsen" /><ref group="注">その後6温泉は高度成長期からバブル期にかけて施設の増築新築を繰り返して規模を拡大したが、1990年代に入ると経営難に直面し、山紫閣、高原ホテル、ホテル三幸は[[1999年]]までに東洋観光事業に所有権が移されたあと廃業、蓼科観光ホテルも廃業しており、いずれも施設は東洋観光事業の手でまもなく解体整地され廃墟化することなく姿を消している。</ref>。
 
====奥蓼科====
 
芹ヶ沢山外山財産区の渋の湯は[[天狗岳]]への登山口に面していることから、終戦と共に訪れた登山ブームを受けて渋の湯や渋の湯道沿いの各温泉では特に登山客の利用が急増。[[1950年代]]半ばには外山財産区から豊平村南大塩山にかけての一帯を「'''奥蓼科'''」と名乗るようになった<ref>『山と高原 263号』, p.24, 朋文堂,1958-09.</ref>。
 
姥の湯源泉を引く小松栄館は[[1950年]]、「'''渋の湯ホテル'''」<ref group="注">のち1968年に親湯が買収。2010年ごろに廃業した。</ref>に改称して登山客の宿泊に力を入れ、[[1953年]]には{{ルビ|御殿|おんとの}}の湯と同年発見の源泉長寿湯の2源泉を引いた旅館「'''渋御殿湯'''」が新たに開業した<ref name="okutateshina" />。また戦時中日本鋼管鉱業諏訪鉱業所の明治鉱宿舎に使われて閉業状態であった豊平村南大塩山の明治温泉では、宿泊客の急増で[[1949年]]に客室を増築、[[1952年]]には奥蓼科地域で初となるタイル貼りの浴場を新設した<ref name="okutateshina" />。
 
石遊場に近い県道穂積茅野線沿いの緑山地籍では、大正末期に開業しまもなく閉業した湖東村笹原区の「'''笹原温泉'''」の建物を移築して[[1936年]]に開業した「'''緑山温泉'''」があり、戦時中に日本鋼管諏訪鉱業所の徴用工収容施設となったため廃業したが、[[1951年]]に湖東村金山区民の保科政人がこの旧緑山温泉の源泉を引湯して横谷峡谷上流部の右岸に「'''渋川温泉'''」(保科館)<ref group="注">2009年に廃業したのち施設は解体整地され現存しない。</ref>を開業した。また同年には糸萱区民の宮坂元雄が緑山に宿泊施設の「'''緑山バンガロー'''」<ref group="注">1969年に施設を建て替えて「ホテル緑山」となり、2000年代に廃業して解体。跡地には内山・外山財産区から土地を賃借して同地で[[1964年]]から別荘地開発を行っている不動産会社の株式会社蓼科ビレッジが別荘地管理センターを[[2022年]]に建設した。</ref>を開業した。
 
横谷温泉(横谷温泉旅館)は[[1938年]]に施設が全焼する火災に見舞われたが、[[1953年]]に創業者の篠原寛によって再建を果たし営業を再開した<ref group="注">横谷温泉旅館はバブル期に本館や大浴場などの新築を行う巨額投資を行ったことから、同族企業の保証債務も合わせて60億円を超える債務を抱えて2011年に民事再生を申請。その後も営業を継続しながら経営再建を進めたが、2024年5月に新型コロナ雇用調整助成金などの1億円近い不正受給が発覚したのち、2025年2月から設備故障を理由に休業している。</ref>。また渋辰野旅館(辰野館)は[[1956年]]、八ヶ岳稜線の登山道に面した[[麦草峠]]付近の[[白駒池]]([[南佐久郡]][[北牧村]])にあった「麦草小屋」を元に旅館「'''白駒荘'''」を開設した<ref>『ハイカー 第13号』, 山と渓谷社, 1956-11.</ref>。
 
===蓼科湖築造の背景:農業水利と別荘地開発の対立===
[[File:Water Diversion Gate of Takinoyu-Segi Canal to Lake Tateshina.jpg|thumb|250px|小斉温泉の南西(養魚場裏)でいったん小斉川の水を取り込んだ滝之湯堰の水を写真左方にある蓼科湖に分ける湖東岸の水門([[2025年]])]]
[[File:Circular Tank Diversion of Lake Tateshina.jpg|thumb|250px|蓼科湖築造前の小斉川の分水割合に従い9割を滝之湯堰(写真右下)に、1割を久保田堰(写真左)に分水している[[円筒分水|円筒分水工]]([[2025年]])]]
{{see also|#滝之湯堰・大河原堰}}
湯川中山の採草地に1952年完成した[[蓼科湖]]は、江戸時代より滝ノ湯川支流の小斉川の水の9割を利用していた滝之湯堰側と、湯川財産区が開発を始めたばかりの別荘地への利水を目論んだ湯川区との、[[1930年代]]の水争いが発端となって誕生した<ref name="tateshinako">「蓼科湖」『諏訪の近現代史』pp.712-714、諏訪教育会、1986年。</ref>。
 
北山村内の芹ヶ沢区および糸萱区と豊平村、湖東村の滝之湯堰流域計16区でつくる滝之湯堰普通水利組合(現・滝之湯堰土地改良区)は[[1930年]]ごろ、流末の渇水予防のために流域に貯水池を築造する構想を持っていた<ref name="tateshinako" />。その矢先の[[1933年]]、湯川区は財産区が開発した小斉地籍の別荘地に供給する水を確保するため、栂ノ木平(プール平)東方の沢にある小斉川の湧水部をコンクリートで固めて引水する工事を行った<ref name="tateshinako" />。
 
これに対し滝之湯堰側は水利妨害排除の訴訟と仮処分の申請を行い、警察立ち会いのもと協定が両者間で結ばれた<ref name="tateshinako" />。滝之湯堰側は滝ノ湯川源流域にある城の平地籍の湧水を飲用水として湯川財産区の別荘地に供給することを認める一方で、小斉川湧水部については湯川区がコンクリート構造物を撤去し原状復帰すること、および将来の滝之湯堰貯水池建設時には湯川区が滝之湯堰普通水利組合に一時金を寄付することを取り決めた<ref name="tateshinako" />。
 
しかし湯川区側はその後も協定に基づく原状復帰を履行しなかったため、滝之湯堰側は協定の取り消し請求と再度の訴訟を起こすとともに、[[1935年]]には湯川区が撤去しようとしない湧水の構造物を取り除く工事を始めた滝之湯堰側に対し、湯川区民が詰めかけてこれを阻止しようとしたため、滝之湯堰関係区民も集結して数百人が栂ノ木平の広場(現・プール平テニスコート周辺)で対峙する、後年'''プール平事件'''と呼ばれる衝突が起きるなど<ref name="tateshinako" />、両者間で刑事事件や民事訴訟が相次いで発生した<ref name="tateshinako" />。
 
[[1936年]]、上諏訪警察署長の調停で湯川区が滝之湯堰普通水利組合に寄付金を支払って和解したのち<ref name="tateshinako" />、戦後の[[1949年]]になって、湖の管理と農業水利権は滝之湯堰が、ボートやスケートなどの湖面利用および養魚といった観光利用権は湯川区が持つ条件で、堰と湯川区の両者負担により、湯川財産区内の現在地に小斉川の貯水池を建設することで一致した<ref name="tateshinako" />。湖は[[長野県]]の土地改良事業として県単工事で築造され、以後滝之湯堰と湯川区との水争いはなくなった<ref name="tateshinako" />。
 
しかしこののち別荘地開発と農業水利に関わる同様の紛争は、観光開発の拡大に伴い、'''サカサ川水論'''(大河原堰×芹ヶ沢山内山・外山財産区、1964年~1973年)、'''蓼科山麓保健休養地開発水利論争'''(大河原堰×長野県公営企業局、1970年)などに広がっていくことになった。
 
== 諏訪鉄山 ==
北山村内芹ヶ沢山の鉄鉱石鉱床は古くから知られ、[[元亀]]・[[天正]]年間に[[武田信玄]]が当地で鉄の精錬を行ったという言い伝えもあった<ref name="kozanshashin">「諏訪鉄山」『鉱山写真帖』pp.200-201、鉱山工業社、1957年。</ref><ref name="miriyou">地下資源開発審議会鉱山部会未利用鉄資源開発調査分科会「低品位鉄鉱石鉱床調査各論 長野県 諏訪鉱山周辺」『未利用鉄資源 第7輯』pp.186-192、日本鉄鋼連盟、1960年。</ref>。鉱床は主に[[酸化鉄]]などを含有する[[褐鉄鉱]]で構成され、硫酸酸性の鉱泉成分が[[旧石器時代]]にかけて沢の緩傾斜地に沈殿し形成されたとみられている<ref name="miriyou" />。
 
[[1879年]]5月には湯川耕地の柳沢幸助らが芹ヶ沢山外山の{{ルビ|石安場|いしやすば}}(いしやすべ、'''石遊場'''<ref group="注">のちの諏訪自動車(現・アルピコ交通)鉄山バス停留所→緑山バス停留所周辺。</ref>)で「赤油岩」を発見し、[[内務省 (日本)|内務省]]が[[東京農学校]]で分析し褐鉄鉱との結論を得た。大正初期には芹ヶ沢山{{ルビ|外山|とやま}}財産区内の鉱業権設定区域を芹ヶ沢区などでつくる北山村湖東村一部事務組合から賃借して[[東京市]][[本郷区]]の鉱業代理人、西村三木雄が小規模な試掘を行ったが<ref name="miriyou" />、鉄鋼の強度や靭性を低下させるため製鉄上の不純物となる[[リン]]の含有量が高い'''含燐褐鉄鉱'''であることから、長らく開発は行われなかった<ref name="kozanshashin" />。
 
=== 日本鋼管諏訪鉱業所 ===
[[File:The Map of Ore Deposits of Former Suwa Iron Mine.jpg|thumb|250px|諏訪鉄山の諏訪鉱区で操業開始から閉山までに褐鉄鉱採掘が行われた鉱床。湯川山(湯川財産区)の中山第一~第三鉱床を除き明治鉱区も含めてすべて芹ヶ沢山(外山財産区および芹ヶ沢・糸萱区民の私有農地)にあった。]]
[[浅野財閥]]傘下の[[日本鋼管|日本鋼管株式会社]](現・JFEエンジニアリング)は[[1928年]]、西村より鉱業権を譲受し、北山村湖東村一部事務組合の許可を得て試掘を開始した<ref>「諏訪鉄山」『芹ヶ沢誌』p.67、茅野市北山芹ヶ沢区、1990年11月3日。</ref>。
 
日本鋼管は芹ヶ沢山の含燐褐鉄鉱について、[[転炉|トーマス転炉製鋼法]]を用いる新しい製鋼法を採用して製鋼利用するめどを立て<ref name="kozanshashin" /><ref group="注">褐鉄鉱中のリン成分は転炉の熱源および化学肥料の原料として活用した。</ref>、[[日中戦争]]勃発の[[1937年]]に直営の'''日本鋼管諏訪鉱業所'''を設置。翌[[1938年]]に日本鋼管川崎製鉄所(のち日本鋼管京浜製鉄所、現・[[JFEスチール東日本製鉄所]]京浜地区)に20tトーマス転炉5基を持つ工場が操業を開始したことを受け<ref>「転炉およびその他の製鋼炉」『金属工学講座 第4巻』p.307、橋口隆吉ほか編、朝倉書店、1960年。</ref>、関東運輸株式会社(旧・浅野同族株式会社回漕部)が下請けとして鉱業所を運営し、[[露天掘り]]による鉄鉱石の採掘を本格化させた。[[1944年]]には日本鋼管傘下の鉱業関係会社と直営鉱業所を統合して設立された戦時[[国策会社]]の日本鋼管鉱業株式会社に移管され、'''日本鋼管鉱業諏訪鉱業所'''となった。
 
====鉱区・設備====
 
鉱区は含燐褐鉄鉱を産出する'''諏訪鉱区'''(諏訪鉱)の{{ルビ|石遊場|いしやすば}}・{{ルビ|緑山|みどりやま}}・{{ルビ|長尾根|ながおね}}・{{ルビ|池ノ胡桃|いけのくるみ}}・{{ルビ|五味出|ごみいで}}・{{ルビ|鉄砲尾根|てっぽうおね}}・社宅裏鉱床<ref group="注">各鉱床とも糸萱区金堀場地籍を起点に北方から東方にかけての緑山および蓼科湖方面に至る各沢筋に分布。長尾根鉱床の下流末端部には後年、日本鋼管が温泉を採掘した入浴施設「石遊の湯」が立地した。</ref>と中山第一、中山第二、中山第三鉱床<ref group="注">糸萱集落の北東、のちの蓼科湖付近に至る湯川山の一帯で、中山第一、中山第二鉱床はほとんど採掘されずに終わった。現在の蓼科高原カントリークラブコース東隣の沢(常滑川支流上流部)にあった池ノ胡桃鉱床とあわせ、もともと芹ヶ沢区などの農家が所有する田畑が広がっており、日本鋼管が農地への復旧を約束して借り上げていたが、戦後荒れ地の状態で復旧されることなく返還された。中山3鉱床の区域のほとんどは現在ゴルフコース内となっている。</ref>、リン含有量の低い普通褐鉄鉱を産出する'''明治鉱区'''(明治鉱)の葦ぐろ・{{ルビ|豊平山|とよひらやま}}・{{ルビ|冷山官林|つめたやまかんりん}}鉱床と清水官林鉱床([[1952年]]から約3年稼行)で、いずれも機械力に依らない人力による露天掘りであった<ref name="miriyou" />。
 
主力である諏訪鉱区は芹ヶ沢山から湯川山にかけての約2km四方内にある沢筋を中心に各鉱床が点在する小規模鉱山で、最大の長尾根鉱床で長さ600m幅170m、1950年代前半まで鉱業所の中心となった石遊場鉱床は東西360m南北110m、厚さはおおむね2mから10mであった<ref name="katayama1">片山信夫「諏訪鉄山の鉱床」『新資源叢書第2 褐鉄鉱鉱床にともなうカリ・燐及び砒素』p.94、日本学術振興会鉱物新活用委員会編、碩学書房、1953年。</ref>。終戦までは長尾根鉱床および石遊場鉱床、池ノ胡桃鉱床が稼行の中心で、戦後は[[1950年代]]前半まで石遊場鉱床で稼行したほか、新たに鉱床を確認した緑山鉱床、鉄砲尾根鉱床、中山第三鉱床などに稼行が移った。
 
褐鉄鉱は含燐の諏訪鉱、普通の明治鉱とも低品位(鉄含有率45%未満)であったため、戦時末期には石遊場に鉱物中の[[酸化鉄]]を[[還元]]する簡易焼結炉20基を設け、鉄含有率を45%以上に引き上げた焼結鉱を作って日本鋼管川崎製鉄所へ送鉱した。コンクリート製600t貯鉱槽2基を石遊場に、また同2000t貯鉱槽1基を芹ヶ沢神社(芹ヶ沢子之社)と湖東村山口区{{ルビ|花蒔|はなまき}}地籍の間にある芹ヶ沢区{{ルビ|下島|しもじま}}(花蒔下)の渋川南岸段丘崖に設け<ref>「戦時下における鉄道輸送」『茅野市史・下巻』p.546、茅野市、1988年3月31日</ref>、明治鉱─石遊場 (2.9 km)・石遊場─花蒔 (4.6 km) に鉱石輸送用のバケットを設けた索道を設置。[[1942年]]には明治鉱─石遊場間を3線に、石遊場─花蒔間を2線に増強した。花蒔までの鉱石搬出は約40分を要した。
 
[[茅野駅]]構内北東側には側線に隣接する高さ2mほどのコンクリート擁壁上に設けた約2,000坪の敷地(のちの茅野市民会館および同駐車場用地、現・[[茅野市民館]]の一部)に諏訪鉱業所事務所と鉱石置場、鉱石積込場を置き<ref name="imai">今井泰男『信濃の鉄 中』p.248、銀河書房、1987年1月。</ref>、花蒔貯鉱場からトラックで輸送した鉱石を擁壁下の駅構内側線に停めた貨車上に直接積み卸した<ref>山崎生「諏訪鉄山視察記・八ヶ嶽山麓の増産譜」『鉱業之日本』第14巻5号、p72、鉱業之日本社、1943年5月。</ref>。[[1943年]]には[[鉄道省]]名古屋鉄道局茅野自動車区の'''[[国鉄バス|省営トラック]]'''(国鉄トラック)'''[[北山線]]'''が開設され、省営トラックで隊列を編成したピストン輸送が行われた<ref>桑原弥寿雄「鉱産資源の開発と輸送の問題」『日本鉱業協会誌1953年2月号』p.3、日本鉱業協会、1953年。</ref>。
 
====戦時体制とその崩壊====
 
[[軍需省]]が要求する送鉱量の急増に省営トラックの輸送力が追いつかなくなったことから、同省は1943年12月、戦時特例の「特殊専用側線」制度を適用して当時鉱業所を運営していた日本鋼管に鉱石輸送用の茅野駅専用側線<ref name="jnr">「戦時下の建設と改良」『日本国有鉄道百年史・第11巻』p.280、[[日本国有鉄道|公共企業体日本国有鉄道]]、1973年。</ref><ref group="注">本来「専用鉄道」の手続きが必要な延長3キロ以上の路線を簡易で迅速な手続きが可能な「側線」と見なす、戦時特例の「特殊専用側線」制度が適用され、全線が茅野駅の側線扱いとされた。なお『茅野市史』など地元資料ではすべて花蒔貯鉱場の名を採り「茅野ー花蒔間」としているが、『日本国有鉄道百年史』では国鉄トラック線の同貯鉱場貨物取扱駅であった信濃松原駅(湖東村山口区)の名を採って「茅野-松原間」と記述している。</ref><ref group="注">専用側線が「国鉄北山線」とも呼ばれたとの説が[[2000年代]]半ばごろからインターネット上に出現して以降流布されているが、これは当側線着工前に既に開設され[[1983年]]まで存在した「国鉄トラック北山線」と混同した誤りである。</ref>(俗に諏訪鉄山鉄道とも呼ばれた)を翌[[1944年]][[9月]]までに敷設するよう命じた。
 
花蒔貯鉱場から上川沿いに米沢村、永明村を経て茅野駅構内の既設側線群に接続する約10kmの駅専用側線は[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]が建設を受託施工し、鉱業所が日本鋼管鉱業に移管された後の1944年末に供用を開始。国鉄上諏訪機関区の[[国鉄C12形蒸気機関車|C12形蒸気機関車]]が乗り入れて輸送を始めた。
 
しかし中央本線の輸送力が平時から貧弱であったこと、さらに戦局の急速な悪化を受けて鉄道当局が日々設定する「空車回送計画」も破綻混乱して輸送に充てる貨車が満足に確保できなかったため、軍需省の現実離れした机上の計画どおりに京浜地区に送鉱することはそもそも不可能だった<ref name="yuso">「諏訪鉄山の採掘」『茅野市史・下巻』p.527、茅野市、1988年3月31日</ref>。
 
さらに[[1945年]]に入ると地方都市への空襲も激化して製鉄所への鉱石輸送は麻痺状態に陥り<ref name="yuso" />、各地からの送鉱が途絶えたことで国内の鉄鋼生産は軒並み停止状態に陥った<ref name="60nenshi20">『日本鋼管株式会社六十年史』p.754、日本鋼管、1972年。</ref>。日本鋼管川崎製鉄所では原料不足から同年2月の第3高炉休風を皮切りに7月には全高炉が休風して操業停止に追い込まれ<ref name="60nenshi20" />、諏訪鉱区産の含燐褐鉄鉱を原料とした製鉄は不可能となった。
 
しかし軍部はなおも連合軍上陸後の「本土決戦」における製鉄拠点であるとして、諏訪鉄山を「非常措置」の対象とし、「諏訪地方決戦製鉄設備急設要項」と称する計画策定を始めた<ref name="yuso" />。そして[[山梨県]]の日本電化工業日下部工場に送鉱して鉄鉱および化学肥料の生産を行う現地製鉄作業案を内示したものの、程なく終戦を迎えて諏訪鉱業所の採鉱作業は終了した<ref name="yuso" />。鉱業所最大の鉱床であった長尾根鉱床は、この戦時末期の濫掘で終戦時にはほぼ鉱床を掘り尽くした<ref name="kozanshashin" />。
 
1944年8月現在の鉱山労働者は1,639人で、内訳は鉱山作業員が鉱員328人、徴用工221人、臨時工69人。建設作業員が鉱員339人、徴用工682人。徴用工は諏訪郡内で兵役に服していなかった壮年男性約700人と、[[朝鮮半島]]の[[朝鮮人]]青壮年約200人で、ともに石遊場近くの緑山温泉に収容され採鉱作業に従事した。また[[立命館大学]]学生20人、諏訪中学校4年生100人が勤労奉仕隊員として小斉の湯に収容され、中学生は二交代制で石遊場での焼結作業に従事したほか、[[横浜市|横浜]]に収容されていた連合国軍(アメリカ・イギリス・オランダ)捕虜約250人が長尾根近くの収容所に移送され採鉱作業に従事していた。
 
終戦後、[[9月10日]]に連合国軍兵士は横浜に、朝鮮人徴用工は[[福岡市|博多]]にそれぞれ引き揚げた。鉱業所では明治鉱床で普通褐鉄鉱の採掘がごく小規模に継続されたもののほぼ休山状態となった<ref name="kozanshashin" /><ref name="miriyou" />。諏訪鉱業所は翌[[19471946年]]からのインフレ激化の中、化学肥料原料として特リン含有量の高い燐鉱および道施設明礬石鉱の生産を試みて操業を再開したものの、再開後に採算割れ全面撤去さ判明し、納入先に見込んだ企業も肥料生産事業を見合わせたため再び休山に追い込まれた<ref name="miriyou" />
 
軍需を背景に国家総動員体制が供給する安価で大量の労務者に支えられた<ref>『長野県勤労動員協議会状況 第1回 』p.66、長野県国民動員課、1944年3月。</ref>戦時中から一転して窮地に陥った諏訪鉱業所は、農機具の製造のほか、終戦と同時に若者層を中心に登山客やハイカーが復活していたにも関わらず<ref name="suwabus1946" />、戦時体制で没落した蓼科高原に観光客が戻ることはないと踏み、高原の別荘建屋を買い集めて運び去り戦災地が広がる住宅難の東京で販売する珍策までも鉱業所の正規事業として行おうとした<ref>「会社経理応急措置法適用さる」『林甚之丞氏の足跡』p.219、「林甚之丞氏の足跡」編輯会、1961年3月。</ref>。
 
こうして鉱業所の経営が社会変化に対応できず迷走混乱する中、[[1947年]]には供用開始以来所期の目的を果たすことができずに終わった茅野駅専用側線がわずか2年余で全面撤去された<ref group="注">花蒔貯鉱場の用途廃止時期ははっきりしないが、戦後の出鉱量ピークであった朝鮮戦争期間中の1952年ごろには、2線残存していた石遊場-花蒔間索道は送鉱に使用しておらず、石遊場鉱床出鉱分および1線のみ残存していた明治鉱-石遊場間索道で石遊場に上げた明治鉱出鉱分は共に花蒔貯鉱場に送ることなく石遊場の現地でトラックに積み込み茅野駅に直送する輸送形態を採っており(片山信夫「諏訪鉄山の稼行状況と含燐褐鉄鉱の利用」、『褐鉄鉱鉱床にともなうカリ・燐及び砒素』p.98、日本学術振興会鉱物新活用委員会編、碩学書房、1953年)、専用側線廃止とほぼ同じ時期であったとみられる。</ref>。
 
日本鋼管は[[1949年]][[1月]]、側線用地を沿線の地元町村に無償譲渡した。北山、米沢、湖東、豊平の4村は、長野県が戦後策定した「八ヶ岳総合開発計画」に基づく交通機関整備の一環として、側線跡地を「北山鉄道」として復活させようと同月から運輸省、農林省、長野県などに陳情を繰り返したものの実現せず、用地は[[1951年]][[1月]]に北山、米沢、ちのの各町村道に認可されて一般道路となり<ref>「新道路の建設と道路整備」『茅野市史・下巻』p.747、茅野市、1988年3月31日</ref>、「鉄山道路」と通称された。
 
=== 諏訪鉱業開発諏訪鉱業所 ===
[[file:The iron mine of Suwa.jpg|thumb|250px|諏訪鉱業開発時代の鉱床切羽の写真(撮影年不詳)。長尾根、石遊場鉱床の可能性もあるが稼行時期から鉄砲尾根鉱床の上部とみられる。]]
日本鋼管は[[1948年]][[5月]]、'''諏訪興業株式会社'''を設立し<ref name="tekko">『鉄鋼年鑑 昭和39年度版』p.581、鉄鋼新聞社、1964年。</ref>、関東運輸による操業開始時から鉄山運営を指揮してきた日本鋼管鉱業諏訪鉱業所所長の高野太治郎を社長に据えて諏訪鉱業所の鉱業権を譲渡した<ref name="kozanshashin" /><ref name="miriyou" />。日本鋼管川崎製鉄所では翌[[1949年]][[6月]]、戦時中に休風した全高炉のうち、トーマス転炉用高燐銑を出銑する第4高炉が火入れを行って復旧したことを受け<ref name="dodge">「ドッジ・ライン下における当社の発展」『日本鋼管株式会社六十年史』p.168、日本鋼管、1972年。</ref>、同年[[7月]]にトーマス転炉も操業を再開して<ref name="dodge" />含燐褐鉄鉱の受け入れが可能になった。鉱業所も本格的に操業を再開し<ref name="miriyou" />。[[1950年]]には'''諏訪鉱業開発株式会社'''に改称した<ref name="tekko" />。
 
諏訪鉱業開発は諏訪鉄山撤退時点でも日本鋼管が株式の35%を保有する<ref>日本鋼管株式会社50年史編纂委員会編 『五十年史』, p.1010, 日本鋼管, 1962.</ref>筆頭株主で、本社は[[東京都]][[千代田区]][[神田錦町]]の日本鋼管神田橋分室に置き、諏訪鉄山の施設のほか、茅野駅に隣接する鉱業所事務所、鉱石置場、鉱石積込場を承継した<ref name="kozanshashin" /><ref name="imai" />。計画生産能力は諏訪鉱(含燐褐鉄鉱)が月産5,000t、明治鉱(普通褐鉄鉱)が同1,500t<ref name="kozanshashin" />。[[1950年]]の[[朝鮮戦争]]勃発で採鉱量が急伸し、[[1953年]]にかけて毎年年産5万t以上、月産4,500t前後の褐鉄鉱を産出した。
 
採掘した褐鉄鉱は石遊場の切羽で直接トラックに積み込み茅野駅まで輸送して発送した<ref name="shinshigen">片山信夫「諏訪鉄山の稼行状況と含燐褐鉄鉱の利用」『新資源叢書第2 褐鉄鉱鉱床にともなうカリ・燐及び砒素』 pp.98-100、 日本学術振興会鉱物新活用委員会編、碩学書房、1953年。</ref>。明治鉱は索道で石遊場に送っており、明治鉱のうち[[1952年]]夏から採掘が始まった清水官林鉱床はガソリン動力の軌道で明治採鉱場まで運んでいた<ref name="shinshigen" />。ピーク時の[[1951年]]の従業員数は約150人だった。
 
====急速な鉱床の枯渇====
 
太平洋戦争中に鉱床がほぼ尽きていた長尾根鉱床に加え、朝鮮戦争が終結した[[1953年]]には他の各鉱床でも採鉱に耐えうる鉱石が尽き始めたことから、諏訪鉱業所の生産量は同年以降、縮小に転じた<ref name="kozanshashin" />。
 
諏訪鉱業開発は諏訪鉄山の資源枯渇を見越して[[1952年]]から[[1960年]]にかけて全国各地の小規模な低品位褐鉄鉱山などの鉱業権を多数譲受しており、このうち秋田鉱業所([[秋田県]])、青森鉱業所([[青森県]])、尾勢鉱業所([[岐阜県]])、伊那鉱業所(長野県[[伊那市]])、網走鉱業所([[北海道]])、豊栄鉱業所(長野県[[埴科郡]][[豊栄村]])の各鉱業所を開設<ref name="kozanshashin" /><ref>「鉱山精錬所名簿 鉱業所の部」『資源年鑑 鉱業版 1959年版』pp.324-353、資源新報社、1958年。</ref><ref name="tekko" />。採掘が終了した明治鉱から石遊場までの索道設備を撤去して[[1956年]]開設の秋田鉱業所に移設するなど<ref name="kyouikukai">「廃鉱と新開発」『諏訪の近現代史』p.756、諏訪教育会、1986年。</ref>、縮小が不可避となった諏訪鉱業所の設備や資機材、従業員をこれら他地域の鉱山に続々と転出させていた<ref name="kozanshashin" /><ref group="注">諏訪鉱業開発に限らずかつての日本の中小鉱では、鉱山の盛衰に伴って労働者や設備、資機材が土着することなく短期間のうちに全国規模で離合集散するのが一般的であり、鉱山の遺構や記録、証言が地元に残りにくい原因となっている。</ref>。
 
戦後の操業本格化からわずか10年後の[[1959年]]には、主力鉱床だった石遊場を含む7鉱床が枯渇で既に採鉱終了に追い込まれて撤退もしくは残鉱整理のみを行っており、稼行中の鉱床は糸萱上の鉄砲尾根鉱床<ref group="注">糸萱区上程堀場地籍。</ref>と五味出鉱床<ref group="注">金堀場地籍北部にあった長径50mほどの小規模鉱床。</ref>、それに大部分が採掘済みだった湯川山の中山第三鉱床<ref group="注">現在の蓼科湖南方の旧白林荘バンガロー敷地付近から蓼科高原カントリークラブのクラブハウス南方にかけての区域。</ref>の計3切羽<ref name="miriyou" />。長尾根鉱床での残鉱整理分<ref name="miriyou" />を合わせた生産量は、戦後最盛期の3割にも満たない月産約1,200t程度であった<ref name="miriyou" />。現地事務所は糸萱区{{ルビ|金堀場|かねほりば}}地籍に集約して<ref group="注">のちの釣り堀の道路向かいの西側にあたる。</ref>同地籍の事務所下手に売店と社宅、飯場と火薬庫を{{ルビ|常滑|とこなめ}}地籍に置き、{{ルビ|蕨原|わらびはら}}地籍の貯鉱槽(第一万石)で鉱石をトラックに積み込んで茅野駅の鉱業所鉱石置場に運んだ。
日本鋼管は[[1949年]][[1月]]、鉄道用地を沿線の地元町村に無償譲渡した。北山、米沢、湖東、豊平の4村は、長野県が戦後策定した「八ヶ岳総合開発計画」に基づく交通機関整備の一環として、鉄道跡地を「北山鉄道」として復活させようと同月から運輸省、農林省、長野県などに陳情を繰り返したものの実現せず、用地は[[1951年]][[1月]]に北山、米沢、ちのの各町村道に認可されて一般道路となり<ref>「新道路の建設と道路整備」『茅野市史・下巻』p.747、茅野市、1988年3月31日</ref>、「鉄山道路」と通称された。
 
減少する諏訪鉄山の可採鉱量把握のため、周辺の金堀場、蕨原、{{ルビ|楢ノ木|ならのき}}、{{ルビ|芳ヶ等|よしがとう}}、{{ルビ|遠見場|とおみば}}地籍などでは、1959年から[[1962年]]にかけて[[通産省]]東京通商産業局による試験探鉱が繰り返し実施された<ref name="miriyou9">地下資源開発審議会鉱山部会未利用鉄資源開発調査分科会編『未利用鉄資源 第9輯』pp.169-172、日本鉄鋼連盟、1962年。</ref>。新たな褐鉄鉱鉱床は確認できたものの、厚さ1mに満たない薄いものしかなく<ref name="miriyou9" />、さらに鉱床上の表土は厚く鉱石も土状の粉体を中心としたもので且つ低品位であることから<ref name="miriyou9" />、1962年に「企業化は困難」との結論に至った<ref name="miriyou9" />。諏訪鉱業開発は同年[[8月10日]]に諏訪鉱業所の操業を打ち切って諏訪地方から撤退し<ref name="kyouikukai" /><ref name="imai" />、諏訪鉄山は休山期を挟んでわずか20年余の稼行で閉山した。
==== 諏訪鉱業開発諏訪鉱業所 ====
関東運輸による操業開始時から鉄山運営を指揮してきた日本鋼管鉱業諏訪鉱業所所長の高野太治郎は、日本鋼管鉱業撤退時の[[1948年]]、'''諏訪鉱業開発株式会社'''を設立し、諏訪鉱業所の施設設備を譲受して採鉱を再開した。
 
== 電力 ==
[[1950年]]の[[朝鮮戦争]]勃発で採鉱量が急伸し、[[1953年]]にかけて毎年年産5万t以上、月産4,500t前後の褐鉄鉱を産出し、長尾根鉱区内の金堀場に設けた貯鉱槽(万石)でトラックに積み込み茅野駅まで輸送して発送した。ピーク時の[[1951年]]の従業員数は約150人だった。しかし海外産鉄鉱石の供給増大で1953年以降採鉱規模を縮小し、外部資本による周辺の観光開発が本格化した[[1965年]]に操業を終了した。
諏訪地方では明治から大正初期にかけて[[諏訪電気|諏訪電気株式会社]]が電力供給区域を逐次拡大していたが、北山村では同社の供給開始を待たずに[[1915年]][[5月18日]]、村会議員の篠原重蔵が<ref>三沢啓一郎編『郡制紀念史 長野県』p.371、郡制紀念史出版協会、1926年。</ref>自宅所在地に地元の滝ノ湯川を利用した発電を目的とする'''湯川水力電気株式会社'''を設立し、湯川区と電力供給契約を締結した。
 
功徳寺近くの湯川区{{ルビ|寺裏|てらうら}}地籍の滝ノ湯川に[[フランシス水車]]を用いたメーカー不詳の直流発電機(出力6kw)<ref>逓信省電気局編『電気事業要覧 第9回』p.200、電気協会、1917年。</ref>による発電所(のち湯川電気第一湯川発電所→諏訪電気湯川発電所)を建設し、同年[[11月]]に湯川区で送電を開始した<ref group="注">のちの茅野市域における諏訪電気の供給区域は1915年当時、麓の永明、宮川、玉川の3村にとどまっていた。</ref>。発電量が小さく、送電最大電圧は200V<ref name="denki12">逓信省電気局編『電気事業要覧 第12回』p.42、電気協会、1919年。</ref>と極めて低圧であったことから、区内でも発電所から遠い家では照明が暗い難点があった<ref>「電灯」『芹ヶ沢区誌』p.116、茅野市北山芹ヶ沢区、1990年。</ref>。
諏訪鉱業開発はこのほか、[[岐阜県]]や[[青森県]]、[[秋田県]]、[[三重県]]にあった同様の小規模な低品位鉄鉱石鉱山やマンガン鉱山を[[1950年代]]に譲受するなどしてそれぞれ鉱業所を設置、採鉱を行ったが、いずれも1965年までに閉山。一部は日本鋼管が[[1949年]]に日本鋼管鉱業に代えて改めて設立した鋼管鉱業株式会社(現・[[JFEミネラル]])に譲渡している。
 
篠原は[[1916年]][[1月]]に北山村長に就任したが<ref name="kitayama1941" />、[[1917年]][[9月]]には村長を退任して<ref name="kitayama1941" />会社を[[増資]]し'''湯川電気株式会社'''に改称<ref>『官報1848号 大正7年9月20日』p.398、大蔵省印刷局、1918年。</ref>。翌[[1918年]]、柏原区多々羅沢地籍の音無川に発電量の大きい水路式の交流発電機(出力70kw、最大電圧2,500V)による第二音無川発電所(のち諏訪電気音無川発電所、[[1931年]]廃止)を建設して<ref name="denki12" /><ref>『工業雑誌第666号』p.679、工業雑誌社、1919年。</ref>北山村全域への送電を開始した。[[1921年]]に諏訪電気に買収された。
=== 電力 ===
諏訪地方では明治から大正初期にかけて[[諏訪電気|諏訪電気株式会社]]が電力供給区域を逐次拡大していたが、北山村では同社の供給開始を待たずに[[1915年]][[5月18日]]、篠原重蔵が地元の滝ノ湯川を利用した発電を目的に'''湯川水力電気株式会社'''を独自に設立し、湯川区と電力供給契約を締結。湯川区内功徳寺横の滝ノ湯川に直流発電機(出力6kw)を設けた発電所(のち諏訪電気湯川発電所)を建設し、同年[[11月]]に湯川区で送電を開始した<ref group="注">のちの茅野市域における諏訪電気の供給区域は1915年当時、麓の永明、宮川、玉川の3村にとどまっていた。</ref>。さらに[[1918年]]には、柏原区内の音無川に発電量の大きい水路式の交流発電機(出力70kw)による第二発電所(のち諏訪電気音無川発電所、[[1931年]]廃止)を建設し、'''湯川電気株式会社'''に改称して北山村全域への送電を開始。[[1921年]]に諏訪電気に買収された。
 
== 文化 ==
江戸時代、上諏訪の町人を起点に諏訪郡一円に広まった俳諧熱は明治以降も続き、北山村でも郡内各村と同じく明治期より俳句、短歌に親しむ村民が多く、村内でも明治中期以降、結社や研究会が結成された。
* '''荻原春堂'''(玄寄、[[1807年]]-[[1886年]]) - 俳人。湯川区民。
* '''篠原志都児'''(しづこ、本名・篠原円太、[[1881年]]-[[1918年]]) - 歌人。[[伊藤左千夫]]門下。湯川区民で農業を営みつつ短歌研究や作歌活動に精通し、同門で諏訪郡[[上諏訪町]]角間区出身の[[島木赤彦]]をはじめ、[[長塚節]]、[[斉藤茂吉]]らとの交友も深く、赤彦らが[[1903年]]に創刊した諏訪地方の文学雑誌『氷むろ』(比牟呂)同人としても活動。大正初期にかけて「田園歌人」として名を成した。蓼科高原を避暑保養地として広く知らしめるきっかけをつくったことでも知られる。短歌結社「'''北山短歌会'''」を結成。
* '''北澤鹿右衛門'''(饒楽、[[1858年]]-1886年) - 俳人。芹ヶ沢区民。
* '''篠原'''{{ルビ|'''志都児'''|しづこ}}(本名・篠原円太、[[1881年]]-[[1918年]]) - 歌人。[[伊藤左千夫]]門下。湯川区民で農業を営みつつ短歌研究や作歌活動に精通し、同門で諏訪郡[[上諏訪町]]角間区出身の[[島木赤彦]]をはじめ、[[長塚節]]、[[斉藤茂吉]]らとの交友も深く、赤彦らが[[1903年]]に創刊した諏訪地方の文学雑誌『氷むろ』(比牟呂)同人としても活動。大正初期にかけて「田園歌人」として名を成した。蓼科高原を避暑保養地として広く知らしめるきっかけをつくったことでも知られる。短歌結社「'''北山短歌会'''」を結成。
* '''両角竹舟郎'''([[1882年]]-[[1954年]]) - 俳人。[[高浜虚子]]門下。柏原区民で、虚子による定型・季題の伝統を守り、諏訪地方の俳句界に貢献。俳句結社「'''交阿会'''」を結成。
<!--「北山村時代」の村内活動に関係しない近年の人物なのでコメントアウト
その他茅野市の教育に貢献した人物
* '''両角徹郎'''([[1933年]]-[[1998年]]) - 動物学者・[[岡谷市]]立長地小学校校長を定年まで勤め[[1995年]]茅野市教育長就任。
* '''両角源美'''([[1936年]]-[[2010年]]) - 動物学者・[[諏訪市立高島小学校]]校長を定年まで勤めた。[[1996年]][[八ヶ岳総合博物館]]館長、茅野市教育長を[[1998年]]から[[2004年]]まで勤めた<ref>[[信州市民新聞グループ|市民新聞]][[2019年]]11月22日号参照</ref>。-->
 
== 教育 ==
北山村域では[[1873年]]の学制頒布を受けて歓喜小校(柏原村歓喜院境内)、旭映小校(湯川学校・湯川村功徳寺境内)、開宗小校(芹ヶ沢学校・芹ヶ沢村泉渋院境内)がそれぞれ開校。[[1885年]]の教育令改正を受けた連合村単位の学区設定では、米沢村北大塩学校を本校とし、湯川、芹ヶ沢、埴原田の各校は同校に合併して支校となった。
 
[[1889年]]の連合村制度廃止と町村制施行に伴い北大塩学校から分離し、湯川区に北山尋常小学校、芹ヶ沢区に北山尋常小学校芹ヶ沢分教場が設置された。芹ヶ沢分教場は尋常科3年までを受け持ち、分教場児童も尋常科最終学年の4年次のみ湯川の本校に通った。[[1900年]]、小学校令改正に伴い高等科を設置し北山尋常高等小学校に改称。[[1901年]][[12月22日]]、湯川区と芹ヶ沢区の中間地点にあたる高台の湯川区{{ルビ|上溝|あげみぞ}}地籍に木造2階建ての新様式校舎を新築し本校および分教場を統合した。開校記念日(運動会)は参加する村民のために年末を避けて2か月前倒し、[[10月22日]]と決めた。当時の児童数346人。旧芹ヶ沢村の新田で湖東村へ編入された湖東村新井、金山区も当初の通学区となっていた。
 
=== 高等学校 ===
* '''[[長野県茅野高等学校|組合立長野県永明高等学校]]北山分校''' - 定時制分校、[[1948年]][[5月]]開校。湖東分校(定時制)と統合して[[1952年]]閉校し花蒔分校(湖東村山口区花蒔、現・)となる。のち長野県茅野高等学校花蒔分校。花蒔分校は[[1966年]]に募集停止し跡地は花蒔公園となった
 
=== 中学校 ===
* '''北山村立北山中学校''' - 北山小学校と校舎共用の形で[[1947年]]開校。湖東村との組合立化による校舎設置構想もあったが、北山村単独で[[1952年]]、小学校隣接地の湯川区{{ルビ|炭焼場|すみやきば}}地籍(現・茅野市北山保育園)に校舎新設。のち茅野町立北山中学校。[[1958年]]に茅野町立北部中学校北山部となり、校舎が完成した[[1960年]]、米沢部、湖東部、豊平部とともに[[茅野市立北部中学校]]に統合。
 
=== 小学校 ===
* '''北山村立北山小学校''' - 旧称は北山村立北山尋常小学校(1889年-1900年)、北山村立北山尋常高等小学校(1900年-[[1941年]])、北山村立北山国民学校(1941年-[[1947年]])。1901年建設の初代校舎(北校舎)が老朽化に伴う耐久性検査の結果使用禁止となったため、[[1954年]]に西体操場を残して木造2階建ての二代目校舎に建て替えた。のち茅野町立北山小学校。現・茅野市立北山小学校。
** 北山村立北山小学校蓼科分校 - 蓼科湖周辺の中山開拓地12戸の児童を対象に、湯川南山の長野県種畜場隣接地に[[1953年]][[6月1日]]開校。のち茅野市立北山小学校蓼科分校。[[蓼科有料道路]]開通で路線バスの運行本数が増えたことなどを受け[[1963年]]閉校。跡地は[[トヨタ自動車]]が[[1970年]]に建立した蓼科山[[聖光寺]]に転用された。
 
== 宗教 ==
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== 交通 ==
===道路===
[[file:Nagano prefectual road shirakabako (late 1950's).jpg|thumb|250px|県道11号上田茅野線になったころの大門街道白樺湖入口付近と白樺湖に向かう諏訪自動車池の平線の路線バス(1950年代後半)]]
* '''大門街道''' - 古来より大門峠から北山、湖東、豊平村を経て永明村で甲州街道に合流する「善光寺道」または「大門道」と呼ばれる主要道路があり、明治期に諏訪郡会による郡費管理ののち、'''県道大門街道'''に昇格した。北山村内における当時の県道ルートは、湯川区寺上の筆塚の三叉路から西に入り、芹ヶ沢区水上から渋川を飛岡橋で越して同区下島のお茶清水より段丘上に上がったのち、北山村・湖東村境沿いに南下して芹ヶ沢区角石で渋の湯道と合流していた(現在はすべて市道)。一方、湯川区寺上から北山尋常高等小学校の南を経て芹ヶ沢区城口の渋川橋北詰に至る「湯川道」は小学校の通学道路として大正末期に作られたもので、[[1932年]]に渋川橋からせいかん坂を経て角石地籍に至るルートが飛岡橋経由に代わって県道大門街道に編入された。のち[[1955年]]に県道上田茅野線となり、[[1993年]]に[[国道152号]]に編入<ref group="注">[[2001年]]の国道152号柏原バイパス開通に伴い柏原集落内ルートは市道に格下げ。</ref>。
* '''大門街道''' - 古来より大門峠から北山、湖東、豊平村を経て永明村で甲州街道に合流する'''善光寺道'''または'''大門道'''と呼ばれる主要道路があり、明治期に諏訪郡会による郡費管理ののち、'''県道大門街道'''に昇格した。北山村内における当時の県道ルートは、湯川区{{ルビ|寺上|てらうえ}}の筆塚から芹ヶ沢区{{ルビ|水上|みずかみ}}を経て渋川を{{ルビ|飛岡|とびおか}}橋([[1916年]]以前は現橋より約100m下流のお茶清水正面付近にあった)で越し、同区下島のお茶清水より段丘上に上がったのち、北山村・湖東村境沿いに南下して湖東村山口区{{ルビ|角石|かどいし}}で渋の湯道と合流していた(現在はすべて市道)。一方、湯川区寺上の筆塚から芹ヶ沢区{{ルビ|城口|じょうぐち}}の渋川橋北詰に至る「{{ルビ|湯川道|ゆがわみち}}」は、旧来北山尋常高等小学校の校地東側にあったもの(現在の北山小学校校地内市道)を大正末期、児童の通学道路として小学校の南側に付け替えて整備したもので「{{ルビ|新道|しんみち}}」とも呼ばれ、[[1932年]]にはこの湯川道新道から渋川橋、{{ルビ|湯殿坂|ゆどのざか}}、せいかん坂を経て角石地籍に至る芹ヶ沢集落経由ルートが飛岡橋経由に代わって県道大門街道に編入された。[[戦後]]は[[主要地方道]]上田ちの線に指定され、[[1955年]]に県道11号上田茅野線となり、[[1993年]]に[[国道152号]]に編入<ref group="注">[[2001年]]の国道152号柏原バイパス開通に伴い柏原集落内ルートは市道に格下げ。</ref>。
*'''穂積線''' - 八ヶ岳[[茶臼山 (八ヶ岳)|茶臼山]]南方の大石峠(標高2185m)は[[近世]]から[[昭和]]初期にかけて、佐久郡と諏訪郡を結ぶ'''大石道'''があった(登山道として現存)。[[1927年]]以降の農村恐慌を受けた県の「救農土木事業」の一環として、[[1932年]]から[[1933年]]にかけて大石峠南隣の別の鞍部(標高2120m、現・[[麦草峠]])を新たに開削して北山村より[[南佐久郡]][[穂積村 (長野県)|穂積村]](現・[[佐久穂町]])に至る道路の改修工事が行われ、北山村と湖東村の地域農民が従事した。北山村内では芹ヶ沢区から糸萱区に至る糸萱道を東に延伸する形となり、工事後の[[1935年]]に'''県道穂積茅野線'''に昇格。のち県道野沢茅野線([[1955年]])、県道茅野佐久町線([[1966年]])を経て[[1982年]]に[[国道299号]]に編入<ref group="注">[[1983年]]の糸萱大橋開通に伴う糸萱区内の渋谷橋経由ルートと[[1998年]]の国道299号芹ヶ沢バイパス開通に伴う芹ヶ沢集落内ルートはともに市道に格下げ。</ref>。
*'''穂積線''' - 八ヶ岳[[茶臼山 (八ヶ岳)|茶臼山]]南方の大石峠(標高2185m)は[[近世]]から佐久郡大石村と諏訪郡芹ヶ沢村を結ぶ'''大石道'''があり、江戸時代には馬による物資輸送が行われ、明治以降に北山浦諸村で盛んになった養蚕業従事のための住み込み雇人が佐久側から入るルートにもなった(登山道として現存)。[[1927年]]以降の農村恐慌を受けた県の「救農土木事業」の一環として、[[1932年]]から[[1933年]]にかけて大石峠南隣の別の鞍部(標高2120m、現・[[麦草峠]])を新たに開削して北山村より[[南佐久郡]][[穂積村 (長野県)|穂積村]](現・[[佐久穂町]])に至る道路の改修工事が行われ、北山村と湖東村の地域農民が従事した。北山村内では芹ヶ沢区四つ辻の{{ルビ|国道|くにみち}}地籍から糸萱区に至る「{{ルビ|糸萱道|いとかやみち}}」が相当し、工事後の[[1935年]]に'''県道穂積茅野線'''に昇格。戦後は主要地方道野沢ちの線に指定され、県道15号野沢茅野線([[1955年]])、県道15号茅野佐久町線([[1966年]])を経て[[1982年]]に[[国道299号]]に編入<ref group="注">[[1983年]]の糸萱大橋開通に伴う糸萱区内の渋谷橋経由ルートと[[1998年]]の国道299号芹ヶ沢バイパス開通に伴う芹ヶ沢集落内ルートはともに市道に格下げ。</ref>。
 
=== 自動車路線 ===
* '''諏訪自動車株式会社'''
**'''茅野営業所'''(のち[[諏訪バス]]株式会社茅野営業所、現・[[アルピコ交通]]株式会社茅野営業所
** *'''池の平米沢線'''(茅野駅-東白樺湖間、のち白樺湖線) - 茅野駅塩沢ー湯川間は)※一部が現・通勤通学バス米沢線。滝の湯自動車→東諏自動車線、[[1941年]]買収
** *'''蓼科北山線'''(茅野蓼科温泉間) - 湯川山寺-芹ヶ沢プール平間は旧滝の自動車→東諏自動車川)※現・通勤通学バスピアみどり
***'''渋川線'''(茅野-山寺-芹ヶ沢-糸萱-鉄山-渋川、糸萱-笹原)※一部が現・麦草峠線。当時の鉄山停留所は現在の緑山停留所。
** '''渋の湯線'''(茅野駅-渋御殿湯前間、のち奥蓼科線) - 旧渋の湯自動車線、1941年買収
*** '''池の平線'''(茅野-山寺-湯川-白樺湖)※一部が現・通勤通学バス白樺湖・車山高原線。[[1949年]]開設。[[1955年]]白樺湖-樽ヶ沢間延伸開業。当時の白樺湖停留所は現在の西白樺湖停留所。
* '''[[日本国有鉄道]]中部地方自動車事務所下諏訪自動車営業所'''(旧・鉄道省名古屋鉄道局甲府管理部茅野自動車区、のち国鉄中部地方自動車局下諏訪自動車営業所)
*** '''蓼科線'''(茅野-山寺-湯川-滝ノ湯-プール平ー親湯)※一部が現・北八ヶ岳ロープウェイ線。旧東諏自動車線。
** '''北山線'''(茅野-糸萱間・信濃松原-信濃湯川間・信濃湯川-蓼科間・信濃湯川ー池の平間) - [[1943年]]開設の[[国鉄バス|国鉄トラック]]路線。車扱貨物のみ取り扱い。開業時は茅野駅から日本鋼管諏訪鉱業所長尾根鉱区最寄りの糸萱駅の間と、途中の信濃松原駅から分岐する信濃湯川駅までの2区間で、戦後の[[1954年]]には信濃湯川駅から蓼科駅および池の平駅までの2区間が延伸開業した<ref group="注">北山村域外ではこれ以外に茅野町時代の[[1957年]]、矢ヶ崎-泉野間が開業している。</ref>。のち[[1967年]][[4月30日]]に信濃湯川駅以遠を含む路線の一部休止が行われ、旧北山村内着発の貨物は芹ヶ沢区の北山農業協同組合芹ヶ沢支所(県道茅野佐久町線芹ヶ沢交差点北西角、現存せず)内に設けられた「芹ヶ沢荷扱所」に集約された<ref>「荷扱い所」『芹ヶ沢誌』pp.120-121、茅野市北山芹ヶ沢区、1990年11月3日。</ref>。[[1983年]]に路線廃止。
*** '''奥蓼科線'''(茅野-山寺-堀-笹原-渋の湯、笹原-白井出)※現・奥蓼科渋の湯線。旧渋の湯自動車線。山寺経由以外に笹原止めの南大塩経由系統もあった。
* '''[[国鉄バス|日本国有鉄道自動車局]]中部地方自動車事務所'''(のち国鉄中部地方自動車局)
** '''下諏訪自動車営業所'''
*** '''白樺湖線'''(丸子町-大門落合-白樺湖) - 旅客自動車線。 [[1952年]][[7月]]に和田峠線(上田-下諏訪)支線として入大門-白樺湖(のち西白樺湖)間が開業。国鉄は当初大門街道を経由して北山村内を縦断し茅野までの路線開設を計画し免許申請したが、地元柏原区の区長が役員を務めていた諏訪自動車が池の平線を半年先行して免許申請して認可を受け開業([[1949年]])したことで国鉄側は白樺湖止まりとなった。
****茅野町合併直後の[[1955年]][[3月]]に白樺湖-東白樺湖-芦田-長窪古町間が開業して上田、小諸の2方面から白樺湖への乗り入れを開始。[[1957年]]に小諸線([[1972年]]白樺高原線に改称)支線に変更されて'''信越地方自動車事務所小諸自動車営業所'''(のち信越地方自動車部小諸自動車営業所→関東地方自動車局小諸自動車営業所→[[ジェイアールバス関東小諸支店]])に移管。[[1965年]]に信濃三本松-白樺湖-南平-蓼科温泉(プール平)間(のち蓼科高原線)が諏訪自動車、千曲自動車との共同運行で開業したほか、[[1968年]]には霧ヶ峰線(霧ヶ峰-白樺湖)が下諏訪自動車営業所との共同管理線として開業したが、蓼科高原線は[[1992年]]に、白樺湖線と霧ヶ峰線は[[2004年]]にそれぞれ廃止。
** '''伊那自動車営業所'''(元・名古屋鉄道局甲府管理部茅野自動車区→中部地方自動車事務所茅野自動車営業所)
*** '''北山線'''(茅野-糸萱、信濃松原-信濃湯川、信濃湯川-蓼科、信濃湯川ー池の平) - 貨物自動車線。[[1943年]]開設。開業時は茅野駅から日本鋼管諏訪鉱業所荷扱いの糸萱駅の間と、途中の同鉱業所花蒔貯鉱場荷扱いの信濃松原駅から分岐する信濃湯川駅までの2区間で、戦後の[[1954年]]には信濃湯川駅から蓼科駅および池の平駅までの2区間が延伸開業した<ref group="注">北山村域外ではこれ以外に茅野町時代の[[1957年]]、矢ヶ崎-泉野間が開業している。</ref>。
****のち[[1967年]][[4月30日]]に信濃湯川駅以遠を含む路線の一部休止が行われ、旧北山村内着発の貨物は芹ヶ沢区下小路の北山農業協同組合芹ヶ沢支所(県道茅野佐久町線芹ヶ沢交差点北西角、現存せず)内に設けられた信濃湯川駅芹ヶ沢荷扱所に集約された<ref>「荷扱い所」『芹ヶ沢誌』pp.120-121、茅野市北山芹ヶ沢区、1990年11月3日。</ref>。[[1983年]]に路線廃止。
 
=== 鉄道路線 ===
{{see also|#日本鋼管諏訪鉱業所}}
* '''日本鋼管鉱業諏訪鉱業所専用側線'''(花蒔─茅野間) - 通称・諏訪鉄山鉄道、貨物専用側線。[[1944年]]末開通、[[1947年]]廃止。延長約10キロ。茅野駅側線扱いの特殊専用側線<ref name="jnr" />で、芹ヶ沢区花蒔下地籍の花蒔貯鉱場と茅野駅構内を結んだ。側線跡は北山村、米沢村、ちの町の町村道、のち茅野町道、茅野市道となったあと(通称・鉄山道路)、米沢塩沢区以西のほぼすべてのルートが[[1963年]]供用開始の蓼科有料道路の一部に転用。[[1987年]]に一般道路となり県道(茅野停車場八子ヶ峰公園線)に編入された。
* '''日本鋼管鉱業諏訪鉱業所茅野駅専用側線'''(花蒔─茅野間) - 延長約10キロ。軍需省の命で日本鋼管鉱業が敷設保有した茅野駅の特殊専用側線<ref name="jnr" />で[[1944年]]末供用開始、[[1947年]]施設撤去。トラックへの鉱石積み込み施設として芹ヶ沢区下島(花蒔下)地籍に設けていた日本鋼管鉱業花蒔貯鉱場と茅野駅構内を結んだ(国鉄資料では花蒔貯鉱場が国鉄トラック北山線信濃松原駅所管の貨物取扱所であったことから松原-茅野間としている)。全線が茅野駅構内の貨物側線であったため、一般的な鉄道路線と異なり[[停車場]]も停留場もない簡素な路線であったが、「諏訪鉄山鉄道」とも俗称された。花蒔貯鉱場から茅野駅に向かう貨物列車は貯鉱場前のヤードからいったん東方の芹ヶ沢区{{ルビ|下原|しもはら}}地籍の渋川左岸沿い(芹ヶ沢区子之社西)に設けた引き上げ線に列車を引き上げたあと、渋川に沿って下り勾配で西方の米沢村塩沢区方面に向かう[[スイッチバック]]構造を採っていた。
** '''[[布引電気鉄道|佐久諏訪電気鉄道線]]'''(柏原-茅野間) - 未成線。第1期線([[信越線]][[田中駅]]-[[中央本線|中央線]][[茅野駅]]間)の一部として[[1924年]][[5月1日]]着工。延長4マイル。北山村内では芹ヶ沢、湯川、柏原の3か所に駅を設ける計画<ref> 「私設鉄道敷設計画」『茅野市史・下巻』pp.386-390、茅野市、1988年3月31日</ref>で、芹ヶ沢神社西隣の渋川鉄橋橋脚建設および北山尋常高等小学校校庭南東側の切り通し掘削工事が[[1929年]]ごろまで行われたが<ref name="syogakko">『北山小学校八十年・思い出のアルバム』p.67、北山小学校八十年思い出のアルバム編纂委員会、1980年10月22日</ref>、[[昭和恐慌]]により切り通し工事の途中で中断された<ref name="syogakko" />。当時の村道(現・[[国道152号]])に面した茅野方から掘削され途中で放棄された切り通しには[[1931年]]、北山尋常高等小学校高等科児童の手で[[カラマツ]]材と[[茅|カヤ]]を用いて屋根や囲いが設置され、[[修学旅行]]など学校活動に必要な費用補填を目的とした児童の「縄ない」の作業場として終戦時まで活用された<ref>『北山小学校八十年・思い出のアルバム』p.91、北山小学校八十年思い出のアルバム編纂委員会、1980年10月22日</ref>。切り通し跡は戦後もため池として残っていたが、[[1970年代]]半ばに埋め戻されて宅地に転用され現存しない。
**供用開始が大戦末期の輸送混乱期ですぐに鉱石輸送自体が不能となった上、1945年に入ると送鉱先である日本鋼管川崎製鉄所も原料不足による高炉休風が相次ぎ、結局全高炉が止まって1949年まで復旧できなかったことから、専用側線は供用開始以来ほぼ何の実績もないまま鉱業所休山中の1947年に日本鋼管が全施設を撤去した。用地は沿線自治体に無償譲渡され、北山村、米沢村、ちの町の町村道、のち茅野町道、茅野市道となったあと(通称・鉄山道路)、花蒔貯鉱場跡から米沢塩沢区にかけての旧北山村内区間と隧道があった旧永明村・米沢村境の鬼場橋付近を除くほぼすべてのルートが[[1963年]]供用開始の蓼科有料道路の一部に転用。[[1987年]]に一般道路となり県道(茅野停車場八子ヶ峰公園線)に編入された。
* '''[[布引電気鉄道|佐久諏訪電気鉄道線]]'''(柏原-茅野間) - 未成線。第1期線([[信越線]][[田中駅]]-[[中央本線|中央線]][[茅野駅]]間)の一部として[[1924年]][[5月1日]]着工。延長4マイル。北山村内では芹ヶ沢、湯川、柏原の3か所に駅を設ける計画<ref> 「私設鉄道敷設計画」『茅野市史・下巻』pp.386-390、茅野市、1988年3月31日</ref>で、芹ヶ沢区下島地籍の段丘上から下原地籍の渋川左岸に至る下り勾配の切り通し、下原から渋川右岸の同区水上地籍に至る渋川鉄橋橋脚建設および湯川区炭焼場地籍(北山尋常高等小学校校庭南東側)の上り勾配切り通し掘削工事が[[1929年]]ごろまで行われたが<ref name="syogakko">『北山小学校八十年・思い出のアルバム』p.67、北山小学校八十年思い出のアルバム編纂委員会、1980年10月22日</ref>、[[昭和恐慌]]により切り通し工事の途中で中断された<ref name="syogakko" />。
**湯川道(のち県道大門街道)に面した茅野方から掘削され途中で放棄された切り通しには[[1931年]]、北山尋常高等小学校高等科児童の手で[[カラマツ]]材と[[茅|カヤ]]を用いて屋根や囲いが設置され、[[修学旅行]]など学校活動に必要な費用補填を目的とした児童の「縄ない」の作業場として終戦時まで活用された<ref>『北山小学校八十年・思い出のアルバム』p.91、北山小学校八十年思い出のアルバム編纂委員会、1980年10月22日</ref>。炭焼場地籍の切り通し跡は戦後もため池として残っていたが[[1970年代]]半ばに埋め戻されて宅地に転用され、下原地籍段丘上の切り通し跡も用地転用のため埋め戻しが進んで[[1980年代]]半ばには痕跡を見いだせなくなり、共に現存しない。
 
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 ==
* [[蓼科高原]]
* [[奥蓼科温泉郷]] - [[横谷温泉]]
=== 芹ヶ沢区・糸萱区 ===
[[ファイル:Oni-ishi (Chino, Nagano pref.).jpg|thumb|鬼石]]
* '''朝倉山城'''(塩沢城) - [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、大門街道入り口にあたる湯川区を見下ろす朝倉山(北山村芹ヶ沢区・米沢村塩沢区境界)山頂に設けられた武田家の砦。稜線沿いに堀切で分割された主郭などの郭群跡が残る。
* '''お茶清水''' - 村内飛岡地籍(現在の[[長野県道192号茅野停車場八子峰公園線沢区{{ルビ|水上|みずかみ}}、湯川区{{ルビ|県道茅野停車場八子が峰公園線]]・[[八ヶ岳エコーライン]]の立体交差付近)の飛岡橋より大門峠に向|とびおう県道}}地籍周辺)を通っていた戦国時代の大門(現・茅野市道)は武田家の「中の棒道」といわれ、橋南方ちの下島地籍にある湧水信玄が茶を点てて飲んだと伝えられる。周辺は戦時中、日本鋼管鉱業諏訪鉱業所花蒔貯鉱場と専用線の貨物駅が設けられた。
* '''休息石''' - 芹ヶ沢区内の渋川橋に至る村道(のち県道上田茅野線、現・[[国道152号]])と県道穂積茅野線(のち県道茅野佐久町線→[[国道299号]]、現・茅野市道)が分かれる四つ辻(現・芹ヶ沢交差点)にかつて存在した石。武田信玄が休息したとのいわれがあった。ここより北に渋川橋までの緩い下り坂は「{{ルビ|湯殿坂|ゆどのざか}}」と呼ばれ、信玄が渋の湯の湯を運び入浴した言い伝えがある。またこの四つ辻から東の地籍である「{{ルビ|国道|くにみち}}」は、この場所で信玄が「国への道はいずれか」と尋ね、家来が東を示したことから名付けられたとされる。
* {{ルビ|'''冷山'''|つめたやま}}・'''渋の湯''' - 八ヶ岳の冷山(標高2193m)は、[[川中島合戦]]後にこの地を訪れた信玄が「この水冷たし」と言ったことから名付けられたとされる。このとき信玄は湯川村滞在時に夢で湯谷権現を見たことから冷山の麓の渋の湯に登り、21日間(三廻り)泊まって回復したことから、「三廻り止める」にさんずいを付けた「澁の湯」と名付けたという。
* '''鬼石''' - 湯川区から蓼科高原に上る古道・滝の湯道沿いにある石。上面に大きな鬼が[[浅間山]]から蓼科山へ一またぎした次の一歩の足跡が付いたとされている。のち横に蓼科有料道路が開削された。湯川区からの滝の湯道は、鬼石付近よりやや上で芹ヶ沢区からの滝の湯道と合流しており、以奥の滝の湯道は蓼科有料道路に転用された。この言い伝えでは、豊平村鬼場(鬼のさらに次の一歩の跡)、玉川村矢作神社(粟沢、神々が鬼退治のため矢を作った神社)、永明村矢ヶ崎(放った矢が飛んだ先)、宮川村茅野(矢を受けた鬼の血が流れた地)、米沢村埴原田(はいばらだ、鬼を焼いた灰に覆われた地)は、この時の一連の出来事に基づく地名とされる。
 
=== 湯川区 ===
[[ファイル:Oni-ishi (Chino, Nagano pref.).jpg|thumb|鬼石]]
*'''{{ill2|上之段石器時代遺跡|en|Uenodan stone age ruins}}''' - 湯川区集落の北方。[[尖石遺跡]](豊平村南大塩区)・[[駒形遺跡]](米沢村北大塩区)と並ぶ八ヶ岳山麓[[縄文時代|縄文]]遺跡を代表する遺跡の一つで、[[黒曜石]]産地であった[[和田峠 (長野県)|和田峠]]・[[霧ヶ峰|星糞峠]]の入り口に位置する。[[宮坂英弌]]が[[1936年]]に発掘調査を行い、畑の地下80センチメートルの場所に縄文時代中期の立体的把手と石囲炉址を発見した。晩期を中心に早期以降の縄文時代各期の土器が出土しているほか、平安時代にかけての遺物が多数出土している。尖石遺跡とともに[[1942年]]、[[中部地方の史跡一覧#長野県|国の史跡]]に指定。
* '''原の城''' - 戦国時代に飛岡橋より北方の湯川集落入り口に設けられた武田家の砦。北山小学校の西方一帯に相当する。軍勢の中継地や街道の関所として用いられたと見られ、大規模な掘り割りや土塁が設けられていた。
* '''枡形城''' - 戦国時代に原の城北方、滝ノ湯川左岸に設けられた武田家の砦。滝ノ湯川と「砦の沢」と呼ばれる東西に伸びる掘り割りに挟まれた台地に土塁や空堀を設けたもので、城門には武田家の城に特有の「丸馬出し」が設けられていた。付近には[[江戸時代]]、高島藩の関所が設けられた。戦後実施された耕地整理に伴い、砦の沢の一部が残る以外遺構は現存しない。
* '''鬼石''' - 湯川区から蓼科高原に上る古道・滝の湯道沿いにある石。上面に大きな鬼が[[浅間山]]から蓼科山へ一またぎした次の一歩の足跡が付いたとされている。のち横に蓼科有料道路が開削された。湯川区からの滝の湯道は、鬼石付近よりやや上で芹ヶ沢区からの滝の湯道と合流しており、以奥の滝の湯道は蓼科有料道路に転用された。この言い伝えでは、豊平村{{ルビ|鬼場|おにば}}(鬼のさらに次の一歩の跡)、玉川村矢作神社(粟沢、神々が鬼退治のため矢を作った神社)、永明村{{ルビ|矢ヶ崎|やがさき}}(ちの町本町、放った矢が飛んだ先)、宮川村{{ルビ|茅野|ちの}}(矢を受けた鬼の血が流れた地)、米沢村{{ルビ|埴原田|はいばらだ}}(鬼を焼いた灰に覆われた地)は、この時の一連の出来事に基づく地名とされる。
* '''だるま石''' - 鬼石よりさらに上、滝の湯道(現・県道茅野停車場八子が峰公園線)とお鹿山(おしかやま、現・東急リゾートタウン蓼科=鹿山財産区区有地)に入る道との分岐付近にある。立ち達磨と寝達磨の2つの石があり、旅人が寝達磨に腰を下ろしたところ、尻が石から離れなくなり、にらめっこしたが旅人が根負けして石にあやまったところ、自然への感謝の気持ちを忘れるなと石に諭された言い伝えがある。
* '''だるま石''' - 鬼石よりさらに上、滝の湯道(現・県道茅野停車場八子が峰公園線)とお{{ルビ|鹿山|しかやま}}(現・東急リゾートタウン蓼科=鹿山財産区区有地)に入る道との分岐付近にある。立ち達磨と寝達磨の2つの石があり、旅人が寝達磨に腰を下ろしたところ、尻が石から離れなくなり、にらめっこしたが旅人が根負けして石にあやまったところ、自然への感謝の気持ちを忘れるなと石に諭された言い伝えがある。
 
=== 柏原区 ===
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
 
== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
* [[長野県の廃止市町村一覧]]
* [[群馬鉄山]](日本鋼管鉱業群馬鉱業所) - 諏訪鉄山を運営した日本鋼管が[[1943年]]に鉱業権を取得した鉄鉱山で、日本鋼管鉱業移管後の[[1944年]][[12月]]に操業開始。諏訪鉄山と同様に低品位の褐鉄鉱を露天掘りで採掘し、諏訪鉄山閉山鉱業所同じ異なり戦後も鋼管鉱業経営が維持されたが、資源枯渇のため[[1965年]]に閉山。
 
== 外部リンク ==