「下岡蓮杖」の版間の差分
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下田での蓮杖は[[開国]]以前からあった、米国船が薪や水、食料などを買い付けるための市場「漂民欠乏所」の足軽として外使への給仕役として勤め、写真術を学ぶ機会を窺った。ここで安政3年([[1856年]])[[横浜市|横浜]]開港の談判のために来日した[[タウンゼント・ハリス]]の通訳である[[ヘンリー・ヒュースケン]]から、ようやく写真術の原理や基本概要を学ぶことが出来た。安政6年([[1859年]])12月に下田開港場は閉鎖され蓮杖もお役御免になると、菫川の[[江戸城]]再建に伴う絵画制作を手伝いに江戸に行く。ここで賃金100両を得るとどういう経緯は不明だが、開港した横浜で雑貨貿易商を営む[[ユダヤ人]]レイフル・ショイアーの元で働くことになった。ショイヤーの妻アンナは幼い頃から画を好み、蓮杖の日本画を高く評価したため、蓮杖はアンナから西洋画法を学び、蓮杖はアンナに日本画法を教えた。
そのショイアー家に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の写真家[[ジョン・ウィルソン (写真家)|ジョン・ウィルソン]](蓮杖の記録では「ウンシン」)が寄宿する。彼こそが蓮杖に写真術を授けた人物である。ただし、ウィルソンは同業者が増えるのを嫌い、容易に蓮杖を受け入れなかった。[[宣教師]]・[[サミュエル・ロビンス・ブラウン|S・R・ブラウン]]の長女・[[ジュリア・ラウダー|ジュリア・マリア・ブラウン]](後の[[ジョン・F・ラウダー|ラウダー]]夫人)がウィルソンから写真術を学ぶようになると、蓮杖はジュリアを通じて写真術を学べるようになるが{{refnest|group="注"|蓮杖が写真術を習ったとされる「宣教師の女ラウダ」は、[[ジョン・F・ラウダー]]の実母で、のちに初代駐日公使[[ラザフォード・オールコック]]と再婚したルーシー・ラウダーだと推測する説もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://pro.cocolog-tcom.com/edu/files/080125.pdf |title=下岡蓮杖とブラウンの周辺の写真について |format=PDF |publisher =慶應義塾大学 准教授 高橋信一 |date=2008-01-20 |accessdate=2025-10-12}}</ref> }}、薬品の調合や暗室作業の詳細などは解らないことが多かった。特にウィルソンは、[[写真湿板|コロディオン湿板ネガ]]から印字紙へプリントする技術を故意に教えなかったと思われ、蓮杖は大変苦労することになる。[[文久]]元年末([[1862年]]1月末)にウィルソンは離日するが、写真機材や薬品と蓮杖が描いた日本の景色風俗のパノラマ画86枚と交換し、翌年ウィルソンは[[ロンドン]]でパノラマ画の展示会を開いている。ウィルソンの写真機材を得た蓮杖は、努力と財産の全てを傾けて写真術の研究に没頭し、苦労の末どうにか鮮明な画像を得るのに成功した。
=== 写真館開業 ===
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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