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この方針に沿って貞臣は7月に高崎山城へ入ったが菊池武光の息子[[菊池武政]]の軍に包囲され苦戦、翌年の[[文中]]元年/応安5年([[1372年]])1月まで防衛に徹した。一方、仲秋は11月に肥前へ移り、応安5年2月に攻めて来た武政の軍を破り筑前へ進出した。了俊も応安4年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]に九州へ渡り、豊前[[門司区|門司]]へ上陸した後、応安5年に筑前の諸城を攻略した。そして8月に肥前から筑前に入った仲秋と合流し[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]に征西府の大宰府を攻略、懐良親王・菊池武光等を[[筑後国|筑後]][[高良山]]([[福岡県]][[久留米市]])に退去させ、大宰府を北朝方の拠点とした{{sfn|川添昭二|1964|p=89-94,97-98}}{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=417-418}}。
 
今川軍と征西府軍は[[筑後川]]を挟んで膠着状態になったが、了俊は九州各地の国人へ書状を送り招集に尽くす傍らで、仲秋や貞臣末子の[[今川満範|満範]]を肥前へ派遣して肥前の支配を固め、豊前[[高畑城 (豊前国)|高畑城]]主[[城井直綱]]の反乱にも弟の氏兼を差し向けて対処した。かたや征西府は文中2年/応安6年([[1373年]])[[11月16日 (旧暦)|11月16日]]に武光を、翌文中3年/応安7年([[1374年]])[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]に武政を相次いで失い弱体化、10月に懐良親王・[[菊池武朝]](武政の子)らは高良山を捨て[[菊池氏]]本拠の[[肥後国|肥後]][[菊池城]](隈府城)へ撤退した。この後戦局は肥後へ移り、[[天授 (日本)|天授]]元年/[[永和 (日本)|永和]]元年([[1375年]])3月に了俊は肥後へ出陣、[[7月15日 (旧暦)|7月15日]]には水島(現在の[[熊本県]][[菊池市]])まで出兵した{{sfn|川添昭二|1964|p=99-110}}{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=418}}。
 
水島での会戦に備えて勢力結集をはかり、九州三人衆と呼ばれる豊後の[[大友親世]]、筑前の[[少弐冬資]]、[[大隅国|大隅]]の[[島津氏久]]らの来援を呼びかけた。三人衆のうち大友親世は来陣、島津氏久も甥の[[島津伊久]]と共に来陣、唯一九州探題と対立していた少弐冬資は着陣を拒んだが、氏久の仲介で来陣した。ところが[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]、水島の陣において了俊は宴の最中に冬資を謀殺する挙に出た。この[[水島の変]]により氏久は離反して帰国、[[島津氏]]は了俊の九州経営に抵抗するようになった。また、親世も探題に対して嫌疑を抱き、了俊への支援を止めてしまった。了俊が自ら招いた孤立に乗じて筑後の南朝方が蜂起、菊池武朝も反撃に出たため了俊は[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]に水島から撤退を余儀なくされ、10月には肥前にまで追いやられた{{#tag:ref|了俊と冬資の対立は九州探題と[[少弐氏]]の九州の主導権を巡る争いが歴史的背景にあったが、両者の直接の対立は冬資の所領拡大に伴う土地侵犯を了俊が阻止したことにあるほか、応安7年の冬資に「荒説」があると氏久から認識されており、了俊に非協力的な態度を取っていたことが窺える。冬資謀殺の理由は『山田聖栄自記』では了俊に反発して征西府に寝返ろうとしたためと記している。その後少弐氏は了俊に服従したが、氏久と親世の離反は了俊の九州経営の障害になった{{sfn|川添昭二|1964|p=121-126}}{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=412-414,419}}。|group=*}}{{sfn|川添昭二|1964|p=110-114}}{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=418-419}}。
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九州の有力大名の離反によって一転して窮地に陥った了俊は幕府に支援を要請、幕府は了俊と同盟関係にあった[[大内氏]]に協力を要請する。これに対して大内弘世は了俊との軍事行動には非協力的で、応安4年に子の義弘共々軍を率いて九州に上陸したが、翌応安5年に勝手に帰国したり、了俊が守護だった安芸を侵略して足並みを乱した{{sfn|平瀬直樹|2017|p=25-27}}。この時も難色を示し出兵を拒否したが、義弘は了俊を支持し、年末に自ら援軍を率いて豊後に上陸、翌天授2年/永和2年([[1376年]])には姻戚関係にあった親世と共同で筑前[[有智山城]]を攻撃して冬資の弟[[少弐頼澄]]を追い出した(義弘は姉妹が冬資と親世の妻になっており、自らも了俊の姪で仲秋の娘を妻にしていた)。以後、了俊の軍事は義弘に支えられていった{{sfn|川添昭二|1964|p=125,127}}{{sfn|平瀬直樹|2017|p=32-36}}。
 
了俊も態勢を立て直すために策を巡らし、3月に島津伊久へ本領安堵をちらつかせて氏久に同調しないよう牽制、島津氏の分断を図った。5月には5男の[[今川肥前から満範|満範]]を[[薩摩国|薩摩]]・大隅・[[日向国|日向]]3ヶ国の大将として南九州へ派遣することを薩摩国人[[入来院重頼 (室町時代)|入来院重頼]]・[[伊集院久氏]]に伝えて氏久の孤立を画策、6月に満範は肥後国人[[相良前頼]]に[[人吉市|人吉]]で迎えられ、大隅国人[[禰寝久清]]らを勧誘しつつ氏久の居城・日向[[志布志城]]への侵攻ルートにある日向庄内(現在の[[宮崎県]][[都城市]])の三俣院へ進軍した。[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]に了俊は幕府から氏久・伊久に代わり大隅・薩摩守護に補任、満範は[[8月28日 (旧暦)|28日]]に三俣院へ着陣、9月には氏久の叔父[[樺山資久]]が籠る日向[[小山城 (日向国)|小山城]]を落として日向[[月山日和城|高城]]から移り、島津氏攻略の準備を整えた。しかし、満範は小山城から氏久の従弟[[北郷義久]]・[[樺山音久]]兄弟が籠る日向[[都之城]]を攻撃目標にしたが、国人がなかなか参陣しないため都之城を包囲出来ないでいた{{sfn|川添昭二|1964|p=132-137}}{{sfn|都城市史編さん委員会|2005|p=124-128}}{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=419-420}}{{sfn|新名一仁|2023|p=46}}。
 
そんな時、天授3年/永和3年([[1377年]])9月に氏久・伊久が武家方に復帰、了俊に従う国人衆を動揺させた。[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]に国人衆は氏久の報復からの自己防衛として[[南九州国人一揆]]を結成、島津氏が一揆に所領を要求したり合戦をしかけた場合は了俊の指示を待たずに防戦すること、所領問題では了俊の意向を請けつつ一揆構成員の談合で処理することを決めた。この一揆結成は了俊の意向があったとされるが、領土確保に動いた国人衆の自主的な結成であることから否定されている。了俊は国人一揆に対しては島津氏が不穏な動きを見せたら幕府へ訴えることを約束したが、所領問題で一揆に不利な対応を取ったため彼等から不信感を抱かれた(後述){{sfn|都城市史編さん委員会|2005|p=128-131}}{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=420-421}}。
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[[和歌]]は祖母の香雲院や[[二条為基]](京極為基)、[[冷泉為秀]]らに学び、[[連歌]]では[[二条良基]]らに学び、貞治5年の二条良基主催の[[年中行事歌合]]に参加している。正徹とも交友。[[禅]]や[[儒教|儒学]]なども行う。『言塵集』という歌論書や、九州探題としての赴任途中の紀行文『道ゆきぶり』を残す。
 
『了俊一子伝』によると、12、13歳頃に祖母から「歌と云物を詠まずしてはあさましき事なり」と諭されて和歌を始めたとされる。16、17歳頃に京極為基の指導で和歌を教わり、20歳頃から冷泉為秀の門に入り、[[興国]]7年/[[貞和]]2年([[1346年]])には[[勅撰和歌集]]の『[[風雅和歌集]]』に為基・為秀の斡旋で1首入った。為基からは「歌というのはありのままに詠むものだ」と教わり、為秀からは和歌の技術として「替言」を教わり「心風情はそのままにして歌語に反省を加え、ただ1つの言葉に選び尽くす」という歌論を著作で主張するようになった。こうして[[冷泉派]]の歌人として成長、為秀を中心とする和歌の文芸[[サロン]]に参加する一方で勅撰和歌集に歌が選ばれ、『[[新拾遺和歌集]]』に2首、『[[新後拾遺和歌集]]』『[[新続古今和歌集]]』に1首ずつ入り、『風雅和歌集』と合わせて5首が勅撰和歌集に入った。貞治5年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]の年中行事歌合に参加して6首出詠、翌貞6年[[3月23日 (旧暦)|3月23日]]の新玉津島社歌合にも参加して3首出詠、[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]の中殿御会には参加しなかったが侍所頭人として警護役を務めた。為基・為秀の知り合いである[[卜部兼好|兼好法師]]とも交流があったという{{sfn|川添昭二|1964|p=30-42}}{{sfn|三浦三夫|2008|p=195-196}}。
 
了俊の歌学書には歌の風体と作歌の実態についての心掛けを説いた物と、詞の注釈をした物がある。前者は『二言抄』・『了俊一子伝』・『了俊歌学書』・『落書露顕』、後者は『言塵集』・『師説自見集』・『歌林』・『了俊日記』である。『了俊一子伝』では『[[古今和歌集]]』・『[[後撰和歌集]]』・『[[拾遺和歌集]]』・『源氏物語』を読むことを勧め、歌は上中下の3段階で学ぶべしと説き、心と風情を求めて詠めば珍しい詩が出てくると記した。『二言抄』では歌言と唯言の区別を説き、前者は勅撰和歌集や[[三十六歌仙]]の家集『[[三十六人家集]]』に詠まれた歌で、後者はそれらにまた詠まれていない世俗の歌であるという{{sfn|川添昭二|1964|p=238-240}}{{sfn|三浦三夫|2008|p=198-199}}。
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晩年には学者として著作に専念し、『[[難太平記]]』は古典『[[太平記]]』を難ずる意味の歴史書で、応永の乱における自らの立場や、『太平記』に記されない一族の功績を記している{{sfn|川添昭二|1964|p=232-234}}。『難太平記』は『太平記』批判が目的であるかのように広まっているがそうではなく、今川氏の歴史を子孫に伝えるために書いた家訓というべき書物である(題名の難太平記は後人の命名で原書名は不明)。この書物は政道批判の書としての一面があり、自分を九州探題解任に追い込んだ斯波義将・渋川満頼、恩を仇で返した泰範への憎悪、彼等の振る舞いを許した義満への不満が込められている。加えて、応永の乱における満兼の挙兵の正当化と自らの関与否定も書いている{{sfn|桜井英治|2001|p=48-49}}{{sfn|小川剛生|2012|p=192-193}}。
 
故実書『[[今川大双]]』・指南書『[[今川状]]』(または今川壁書)は著作とされるが、後世の作品として否定されている{{sfn|川添昭二|1964|p=205,250-253}}。
 
== 人物 ==
[[ファイル:Eiyū Hyakunin Isshu, Imagawa Sadayo.jpg|thumb|「英雄百人一首」より『今川伊豫守貞世』[[水谷緑亭|緑亭川柳]]著、[[歌川貞秀|橋本貞秀]]画]]
了俊の評伝を書いた[[川添昭二]]は了俊を高く評価して次の文を残している。「性格は慎重で、いわゆる遠謀深慮であり、軍略用兵に秀で、教養は多方面にわたり、雄勁な書を書いた。まさに当代第一級の人物である」{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=415}}{{sfn|川添昭二|1964|p=1}}。了俊と交流があった[[友山士偲]]は著書『友山録』で了俊について「幕府要人にふさわしい出自を持ち、公家高官とも交わりがあり、文事にも堪能で、何よりも宗家足利氏に対する忠誠は抜きんでており、親に仕えては孝を尽くす」との人物評を記した{{sfn|川添昭二|1964|p=60-61}}。
 
了俊が九州の征西府を制圧出来た理由に、一門子弟を代官として派遣し、全九州の軍事組織と軍事行動を組成・推進出来たことが挙げられる。肥前に仲秋、豊後に貞臣、日向に氏兼、薩摩・大隅に満範をそれぞれ派遣、国人掌握に当たらせた。こうした上からの国人の組織化にある背景には、九州探題は将軍の分身であるとの了俊の政治思想があり、独立性・自立性が強く幕府や守護に抵抗しつつ、自分達が結集するための核として貴種(足利直冬・懐良親王など)を求める国人に対抗し、国人は守護ではなく直接将軍の分身である探題の下に結集し将軍に忠をなすべきと繰り返し強調した{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=420-421}}{{sfn|川添昭二|1964|p=128-132,146-148}}。