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大仏殿の周囲は、道に沿った高い場所で、一番前の広場は、高さに合わせて、ほとんど二間ばかり、四角の大きな石で方形に囲まれていた。また寺を取り巻いている回廊からは外は見えないが、内側は開いている。その屋根は約三間の高さで、どの側も長さいっぱいに二十五本の丸い柱と、横は全て三本ずつ並んだ柱で支えられている。入口の門は高い支柱と立派な二重屋根を持った建物である。その両側にある高さ一間の台座の上に、ただひらひらする布を腰に巻き付けた、黒く太った裸の、獅子のような姿をした身長四間もある勇士の立像 [金剛力士像] が見えた。それらの一つ一つにはそれぞれ特別な意味があるが、名匠は肢体の部分の釣合を大変上手く造り上げていた。この門のすぐ向かいの敷地の真ん中に寺の建物 [大仏殿] が立っていた。それは高さでは京都の町にある他の全ての建物をしのいでいたし、それだけでなく私がこれまでに日本中で見た最高のものであった。この建物には二重の屋根があり、92本の柱を用いて建てられている。第一の屋根の下まで続いている細長い幾つかの扉があって、ほとんどどこからでも出入りできる。内部は一番上の屋根の所まで吹抜になっていて、その屋根はたくさんの梁を変わったやり方で繋ぎ合わせて固定してあり、梁は朱色に塗ってあった。高くて上の方は光が差さないので、ほとんど真っ暗である。寺の床は、これまでの普通の方法とは異なって、四角形の石が敷き詰めてあったが、支柱 [金剛柵] はこれに反して木製で、何本かの角材を寄せ合わせ、太さは二間半あり、他の全ての木部と同様に朱色に塗ってあった。信じがたいくらいの大きさで全身金張りした一体の仏像の他には、内部に何一つ飾りはなかった。非常に大きく平らな手のひらには、畳三枚が敷けるほどである。この仏像は牛のような長い耳をしていて、縮れ毛で額の前に黄金を塗っていないほくろ [白毫] があり、頭には黄金の冠 [他の文献記録に大仏の冠の記述はないので詳細不明] をかぶっていたが、それは第一の屋根の上方の窓 [観相窓] を通して見ることができた。肩口はあらわで、胸と腹はひらひらする布で覆うようになっていた。右手は少し高く挙げ、左手は体の前で開いていて、インド風に蓮の花の中に座っていた。この蓮の花は、葉と一緒に地中から伸びている石膏細工のもう一つの花に囲まれていたが、両方とも床から二間ばかり高くなっていた。背後は丈の高い長方形の葉型の装飾 [光背] で覆われていて、その幅は四本の柱に渡っていた。光背には、蓮の花に座っている人間の形をした小さい仏像が数個付いていた。しかし大仏そのものは非常に肩幅が広く、肩が一本の柱からもう一本の柱まで及んでいて、我々が測った所では五間はあった。八角形の木の格子 [金剛柵] が、蓮の花や台座の回りを囲んでいたので、真ん中の所では四本の柱が省かれていた。一重の屋根のあるもう一つの門を出て、すぐそばにあった広場に出たが、そこで驚くばかりの大きな鐘 [国家安康の鐘] を見せられた。その鐘は低い木の櫓 [鐘楼] の中に架かっていて、厚さはたっぷり一指尺、高さは番所役人の持つ槍ほどあり、しかも周囲は21フィートもあった。<ref>ケンペル著・斎藤信訳『江戸参府旅行日記』平凡社、1977年、228-231頁。</ref>}}
ケンペルの遺稿をもとに編さんされた『[[日本誌]]』に、2代目大仏殿の絵が掲載されるほか、3代目大仏の全身を描いたケンペルのスケッチも現存しており、[[大英博物館]]に所蔵されている<ref name="#19" />。ケンペルの描いた3代目大仏のスケッチについて、彼の遺した手稿や収集品は大部分が[[大英博物館]]に所蔵されているが、歴史学者の[[:en:Beatrice Bodart-Bailey|ボダルト=ベイリー]]が、膨大な所蔵品の中から発見したものである<ref name="#19"/>。スケッチには『日本誌』に3代目大仏の図を掲載するとの覚書があるが、掲載されることはなかった<ref name="#19"/>。
 
方広寺大仏は、江戸時代中頃には人気の観光地となった{{Sfn|村山|2003|p=149}}。天下泰平の世が続き、(現代ほどではないにせよ)旅行に行きやすくなったこともそれを後押しした。『[[東海道中膝栗毛]]』では弥次喜多が大仏を見物して威容に驚き「手のひらに畳が八枚敷ける」「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」とその巨大さが描写されている <ref name="#20">麻生磯次 校注『東海道中膝栗毛(下)』岩波書店 1983年 p.172</ref>。なお初版刊行の1802年には、後述のように大仏・大仏殿は既に焼失している<ref name="#20"/>。また先述のケンペルのように[[長崎市|長崎]][[出島]]の外国人も、[[江戸]]参府のおりに訪れる者が多かった。[[朝鮮通信使]]一行も[[江戸幕府]]の案内で当寺を訪問しているが、「秀吉の寺」として、また[[豊臣秀吉]]の朝鮮出兵における朝鮮の戦死者の耳鼻を埋葬した[[耳塚]]が門前にあることから、訪問を拒絶されるケースもあり、トラブルに発展してしまうこともあった([[海游録]])。方広寺訪問を拒絶した[[享保]]4年(1719年)の第9回[[朝鮮通信使]]一行に対し、一行に随行していた[[雨森芳洲]]は「現在の方広寺は徳川の世([[江戸幕府]]成立後)に再建されたもので、[[豊臣秀吉]]とは無関係である」との弁明を行ったが、詭弁だとして一蹴されてしまった<ref>申維翰 姜 在彦訳注 『海遊録―朝鮮通信使の日本紀行』平凡社〈[[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]]〉</ref>。この時の双方の歴史認識を巡る議論は丁々発止なものとなり、芳洲は怒りをあらわにし、鬼のような形相で、日本側の主張を熱弁したという。方広寺での饗応を巡るトラブルは、朝鮮側の正使と副使が饗応に儀礼的に参加し、他の一行は不参加とする、饗応の間は耳塚に囲いを設けて見えなくするということで最終決着が着いた。第10回朝鮮通信使以降は、方広寺が旅程に組み込まれなくなった。なお芳洲の上記の弁明は、日本側の外交官としての立場上行ったもので、芳洲の意に反したものであったようである<ref name="信原1989">{{Cite journal|和書|author=信原修|title=誠信と屈折の狭間―対馬藩儒雨森芳洲をめぐって|journal=総合文化研究所紀要|publisher=同志社女子大学総合文化研究所|volume=第6巻|year=1989}}</ref><ref name="鄭2011">{{Citation|和書|editor1=荒武賢一朗|editor2=池田智恵|author=鄭英實|chapter=18世紀初頭の朝鮮通信使と日本の知識人|publisher=関西大学文化交渉学教育研究拠点|year=2011}}</ref>。後に芳洲が著した『交隣提醒』では、方広寺での饗応を計画したことは、[[朝鮮通信使]]一行に無配慮であったとしている <ref name="信原1989"/><ref name="鄭2011"/>。またその著作の中で芳洲は、方広寺での饗応の目的は、[[江戸幕府]]が一行に巨大な方広寺大仏・大仏殿を見せつけ国威発揚を図る狙いがあったと思われるが、日本の一般大衆に「方広寺は秀吉の寺」と認知されているにもかかわらず、「方広寺は秀吉と無関係」とする嘘を重ねた事で朝鮮通信使一行の感情を逆撫でしてしまったこと及び、仏の功徳は大小によらないのに巨額な財を費やして無益な大仏を作ったと、一行に嘲られる事につながってしまったことを批判している。なお朝鮮通信使の旅程に方広寺が組み込まれた経緯について、芳洲は日本側の国威発揚が狙いではないかとしているが、寛永20年(1643年)の第5回朝鮮通信使一行が方広寺大仏の拝観を希望し、それ以降慣行化したためではないかとする反論もある。[[九州国立博物館]]は膨大な対馬宗家文書を所蔵しているが、その中に[[松平信綱]]から対馬藩主[[宗義成]]への書状があり、「朝鮮通信使が京へ着いた際に大仏見物をしたいとのこと。将軍の耳に入れたところ、許可を得たので通信使に伝えるように。また[[京都所司代]]にも伝えた。」と書き記されている<ref>[https://collection.kyuhaku.jp/souke/introduce/02_4.html 松平信綱の書状] 九州国立博物館 対馬宗家文書</ref>。上記が第5回朝鮮通信使一行が方広寺大仏の拝観を希望したことの証左とされる。ただ第5回朝鮮通信使一行は、方広寺大仏を発願したのが秀吉だということを知らずに、大仏見物を希望した可能性もある。
 
なお[[妙法院]]に残る史料からは、[[朝鮮通信使]]の方広寺参詣に備え(日本側の体面もあり)、[[京都所司代]]の主導で、大規模な事前準備がなされていたことが分かる{{Sfn|村山|2003|p=165}}。[[正徳 (日本)|正徳]]元年(1711年)の第8回朝鮮通信使の来日に際しては、京都所司代の命で、[[耳塚]]の傍の住宅を取り壊して道を広げ、竹藪の伐採がなされたほか{{Sfn|村山|2003|p=165}}、大仏殿・回廊・鐘楼の建築物破損箇所の修理が行われた{{Sfn|村山|2003|p=165}}。鐘楼の近くには茶屋があったが、見苦しいとして取り壊しがなされた{{Sfn|村山|2003|p=165}}。妙法院(方広寺)には[[朝鮮通信使]]をもてなすための茶・菓子・煙草の用意を命じている{{Sfn|村山|2003|p=166}}。方広寺でのトラブルの生じた[[享保]]4年(1719年)の第9回[[朝鮮通信使]]来日に際しては、京都所司代により大仏殿修理工事の入札が行われ、相当の工事がなされたほか{{Sfn|村山|2003|p=166}}、饗応のための屋舎が建てられた{{Sfn|村山|2003|p=166}}。また[[蚊帳]]を104帳も用意させた。歴史学者で妙法院史料研究者の[[村山修一]]は、方広寺大仏殿に蚊が多かったのかは不明で、ここまで大量の蚊帳が用意された理由は分からないとしている{{Sfn|村山|2003|p=166}}。蚊帳はその後入札が行われ、払い下げられたという{{Sfn|村山|2003|p=166}}。
上記が[[朝鮮通信使]]接待のために、[[京都所司代]]の主導でなされた施策である。第9回朝鮮通信使の通信使側の記録では、[[雨森芳洲]]ら日本側の外交官が、方広寺での饗応参加を拒絶しているにもかかわらず、しつこく参加を迫ってきたとしており、その背景には上記の方広寺での施策に大金を注ぎ込んでおり、それを安易に無駄にできないとする日本側の都合もあったと思われる。
 
[[File:todaiji tatejiwariitazu.jpg|thumb|220px|{{Bracket|参考}} 東大寺大仏殿内部に掲示される「東大寺大仏殿建地割板図」]]
戦国時代に兵火で損壊していた[[東大寺]]大仏も江戸時代中期に再建が行われた。[[貞享]]元年([[1685年]])、[[公慶]]は[[江戸幕府]]から勧進(資金集め)の許可を得て、東大寺大仏再興に尽力し、元禄5年([[1692年]])に大仏の開眼供養が行われ、[[宝永]]6年([[1709年]])東大寺3代目大仏殿(現存)が落慶した。3代目東大寺大仏殿は従前の東大寺大仏殿とは外観が大きく異なる点が多い(堂外から大仏の御顔を拝顔できるようにする観相窓の採用、観相窓上部の唐破風の設置など)。[[方広寺]]2代目大仏殿の設計図は今日現存しているが、それと現存する3代目東大寺大仏殿を見比べると、間口(建物の横幅)が減じられていること以外はほぼ建物の外観が瓜二つであることが分かる。これは東大寺2代目大仏殿の焼失から百数十年が経過し、それの技法に倣うことは難しいが、同時代には[[方広寺]]2代目大仏殿が京都に存在しており、[[公慶]]など東大寺大仏殿再建に当たった者達が、それの意匠・技法を参考にしたためではないかと考えられている<ref>奈良国立博物館『特別展 東大寺公慶上人 江戸時代の大仏復興と奈良』2005年</ref>。またその根拠として以下もある。東大寺大仏殿内部に設けられている売店の上方の壁に、江戸時代の東大寺大仏殿再建にあたり作成された設計図面である、巨大な「東大寺大仏殿建地割板図」が飾られている。上記は経年劣化のため図面が読めなくなっていたが、赤外線撮影による調査を行った所、大仏殿の計画が間口11間から7間に縮小する以前の、当初設計図面であることが判明した。上記図面は現存の東大寺大仏殿の意匠・構造よりも、より方広寺大仏殿のそれに近似しており、建築史学者の[[黒田龍二]]は'''「(東大寺大仏殿建地割板図は)方広寺大仏殿を参考に東大寺大仏殿再建のための雛形として描かれたと考えるのが妥当である」'''としている<ref>[[黒田龍二]]、石田理恵「東大寺大仏殿内建地割板図について」『奈良国立博物館研究紀要』6号、2004年。</ref>。
 
2代目東大寺大仏殿の焼失後に「2代目東大寺大仏殿焼失→初代方広寺大仏殿造立・焼失→2代目方広寺大仏殿造立→3代目東大寺大仏殿造立」と年数がさほど空くことなく、大仏殿が日本に存在し続けていたことは、大仏殿造立の技法が継承される上で好事となった。また単に技法が継承されるだけでなく、新たな技法の確立や建築意匠の改良もなされ、3代目東大寺大仏殿の柱材について、寄木材(鉄輪で固定した集成材)となっているが、この技法は2代目方広寺大仏殿で確立されたものとされ<ref >大林組『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』 2016年</ref>、東大寺大仏殿にも取り入れられたとされる。[[豊臣秀吉]]による方広寺初代大仏殿造営時に、日本各地の柱材に適した巨木を伐採しつくしたため、森林資源が枯渇したようであり、苦肉の策と言える。かつての2代目方広寺大仏殿の遺物として、寄木柱を束ねていた鉄輪は、方広寺の鐘楼や[[京都国立博物館]]の庭園に保存されている。
 
[[宝永]]6年([[1709年]])から寛政10年(1798年)までは、京都(方広寺)と奈良([[東大寺]])に、大仏と大仏殿が双立していた。江戸時代中期の国学者[[本居宣長]]は、双方の大仏を実見しており、感想を日記に残している(在京日記)。方広寺大仏については「此仏(大仏)のおほき(大き)なることは、今さらいふもさらなれど、いつ見奉りても、めおとろく(目驚く)ばかり也<ref>『本居宣長全集 第16巻』1974年出版 在京日記 宝暦七年の条 p.106</ref>」、東大寺大仏・大仏殿については「京のよりはやや(大仏)殿はせまく、(大)仏もすこしちいさく見え給う<ref name="#21">『本居宣長全集 第16巻』1974年出版 在京日記 宝暦七年の条 p.136</ref>」「堂(大仏殿)も京のよりはちいさければ、高くみえてかっこうよし<ref name="#21"/>[東大寺大仏殿は方広寺大仏殿よりも横幅(間口)が狭いので、[[視覚効果]]で高く見えて格好良いの意か?]」「所のさま(立地・周囲の景色)は、京の大仏よりもはるかに景地よき所也<ref name="#21"/>」としている。また両者の相違点として、東大寺には大仏の脇に脇侍が安置されている点を挙げており、方広寺大仏には脇侍はなかったようである。
 
(京都史上最悪の大火とされる、天明8年(1788年)の[[天明の大火]]では焼失を免れたが、[[寛政]]10年([[1798年]])の旧暦7月1日(新暦では8月12日)の夜に大仏殿に落雷があり、それにより火災が発生し、翌2日まで燃え続け、2代目大仏殿と3代目大仏は灰燼(かいじん)に帰した{{Sfn|村山|2003|p=157}}。火災による大仏殿からの火の粉で類焼も発生し、仁王門・回廊も焼失した{{Sfn|村山|2003|p=157}}。なお「国家安康」の梵鐘や、方広寺境内に組み込まれていた[[三十三間堂]]は類焼を免れた。大仏殿はその巨大さゆえに落雷の被害に遭う確率が高く、直近では[[安永]]4年(1775年)8月11日に大仏殿北西隅の屋根に落雷があり、枡形([[組物]])より出火したが、この時は消火に成功していた{{Sfn|村山|2003|p=154}}。歴史学者で[[妙法院]]史料研究者の[[村山修一]]は、妙法院に残る大仏殿及びその周辺への落雷の記録は全て大仏殿の北西部に集中しているが([[享保]]18年(1733年)7月9日に大仏殿北西隅の屋根に落雷・[[宝暦]]5年(1755年)6月[[晦日]]に大仏殿北西隅の松の木に落雷)、その原因について大仏殿北西隅近辺に松の巨木があり、それが雷を誘雷していたのではないかとしている{{Sfn|村山|2003|pp=149・154・157}}。
京都史上最悪の大火とされる、天明8年(1788年)の[[天明の大火]]では焼失を免れたが、[[寛政]]10年([[1798年]])の旧暦7月1日
(新暦では8月12日)の夜に大仏殿に落雷があり、それにより火災が発生し、翌2日まで燃え続け、2代目大仏殿と3代目大仏は灰燼(かいじん)に帰した{{Sfn|村山|2003|p=157}}。火災による大仏殿からの火の粉で類焼も発生し、仁王門・回廊も焼失した{{Sfn|村山|2003|p=157}}。なお「国家安康」の梵鐘や、方広寺境内に組み込まれていた[[三十三間堂]]は類焼を免れた。大仏殿はその巨大さゆえに落雷の被害に遭う確率が高く、直近では[[安永]]4年(1775年)8月11日に大仏殿北西隅の屋根に落雷があり、枡形([[組物]])より出火したが、この時は消火に成功していた{{Sfn|村山|2003|p=154}}。歴史学者で[[妙法院]]史料研究者の[[村山修一]]は、妙法院に残る大仏殿及びその周辺への落雷の記録は全て大仏殿の北西部に集中しているが([[享保]]18年(1733年)7月9日に大仏殿北西隅の屋根に落雷・[[宝暦]]5年(1755年)6月[[晦日]]に大仏殿北西隅の松の木に落雷)、その原因について大仏殿北西隅近辺に松の巨木があり、それが雷を誘雷していたのではないかとしている{{Sfn|村山|2003|pp=149・154・157}}。
 
[[寛政]]10年([[1798(1798]])の落雷による焼失の過程は[[大田南畝]]著とされる『半日閑話(街談録)』や、[[平戸藩]]藩主の[[松浦清]]が著した『[[甲子夜話]]』に記述されるほか、『洛東大仏殿出火図([[国際日本文化研究センター]]所蔵)』に絵図で記録されている<ref>[https://twitter.com/nichibunkenkoho/status/1303893942035832832/ 国際日本文化研究センター公式Twitter 蔵書紹介 洛東大仏殿出火図]</ref>。その絵図では火消し達が懸命に消火活動にあたる姿も描かれているが、当時は[[竜吐水]]など性能の低い放水設備しかなく、[[破壊消火]]も不可能なため、初期消火に失敗し、大火となった。大規模に燃え広がってしまったので、自身の所有する放水設備のみならず、本願寺より大水鉄砲の貸与を受け、放水を試みたとされるが<ref>『史籍集覧』の「京大仏殿火災」</ref>、先述のように当時の放水設備には性能に限界があり、焼け石に水であった。2日には大仏殿より炎が高く立ち登って京都市街からも確認でき{{Sfn|村山|2003|p=158}}、日中は火災による黒煙で太陽光が遮られ、暗闇のようであったという。火事を知らせる早鐘が乱打され、再び[[天明の大火]]のような大火になるのではと、京都の人びとを震撼させたが{{Sfn|村山|2003|p=158}}、不幸中の幸いか2日は無風のため、敷地外に火の粉は飛び散らず、市街へ燃え広がらなかった{{Sfn|村山|2003|p=158}}。『半日閑話(街談録)』では'''「(大仏は)御鼻より火燃出、誠に入滅の心地にて京中の貴賎、老若、其外火消のもの駆け付け、此時に至りいたし方なく感涙を催し、ただ合掌[[十念]]唱えしばかり也<ref name="名前なし-20230316112113-2">『大田南畝全集』第十八巻 岩波書店、1988年 p.173</ref>」'''とされるほか、「衆口斉唱南無仏<ref>「寛政戊午七月朔雷震燬方廣寺毘盧殿」(京都大学蔵)</ref>」と記録した文献もあり、それらによれば、焼けた柱棟が堂内に落下して3代目大仏像に寄りかかり、大仏は鼻から出火{{Sfn|田中|1957|p=12}}。火災現場に集まった僧侶・火消・京都民衆達は、恐らく大仏殿外部から扉・観相窓越しに、焼け落ちゆく大仏を目撃して、涙を流し、合掌をし、「南無(毘盧遮那)仏」と何度も唱えながら、3代目大仏の最期を見届けた{{Sfn|田中|1957|p=12}}。(補注:当時の一般大衆が方広寺大仏に対する念仏をどのように唱えていたか詳細は不明である。浅井了意『かなめいし』で、寛文近江・若狭地震での方広寺大仏の被災を描いた部分では、「南無釈迦如来」との記述がある。本来方広寺大仏は毘盧遮那仏であって釈迦如来ではないが、妙法院の公的文書でも方広寺大仏を釈迦大像と表記することもあったので、「南無釈迦如来」もしくは「南無釈迦仏」と唱えられていた可能性もある。)なお治承4年(1181年)の平家による[[南都焼討]]での[[東大寺]]大仏殿火災では、大仏殿に取り残された者や、東大寺大仏に殉じて炎に飛び込んだ者が落命したとするが<ref>『吾妻鏡』治承5年正月18日条</ref>、方広寺大仏殿の火災では幸いなことに、そのような人的被害(死者)は記録されていない。ただし消火活動中に高所から落下して、負傷した者があったという{{Sfn|村山|2003|p=158}}。
 
先述の方広寺大火について、方広寺を管理する[[妙法院]]有事の際の防火管理体制の不備が原因ではないかとする見解がある。前述のように[[大田南畝]]作とされる『半日閑話(街談録)』には、伝聞ではあるが、方広寺焼失時の出来事が記述されており、それによれば概略は以下の通りである。「7月1日の夜は大雨で、大仏殿北東隅に落雷があり、堂守が落雷箇所に火のくすぶっているのを確認し、太鼓を鳴らして火消を召集した。竜吐水の放水が届かない高所のため即席の足場を組み、火を打ち消した。その後外を見廻り、火の手はないように見えたので火消は引き上げた。しかし火は完全に消えておらず棟木が燃え始めた。そのため再び太鼓を鳴らして火消を召集したが、屋根板の裏面へ火が廻ってしまい、消火を諦め退避した。<ref name="#22">『大田南畝全集』第十八巻 岩波書店、1988年 p.171-173</ref>{{Sfn|村山|2003|p=158}}{{efn|現代の火災においても、天井や屋根裏板に炎が廻ってしまった場合、もはや消火器等による初期消火は不可能で、強力な放水設備での放水か、酸素を遮断する窒息消火等によらなければ消火は不可能とされる。}}」「仁王門に安置されていた巨大な仁王像について、火の手が回る前に搬出しようと試み、仁王像に綱を掛け、無理矢理引き倒して搬出しようとしたが、綱が切れてしまった。これは仁王像が地震対策のため、鎖で仁王門に緊結されていたことを失念していたためで、それに気付き鎖を取り外すそうと、もたもたとしている間に仁王像は火に飲み込まれた。<ref name="#22"/>{{Sfn|村山|2003|p=158}}」上記について、見方によれば大仏殿の消火は可能であったと考えられるし、仁王像の搬出も可能であったとも考えられる。歴史学者で[[妙法院]]史料研究者の[[村山修一]]は、方広寺大仏殿の当時の防火管理体制について「(半日閑話等の記述が正しいとすれば)平素より火災への対策が皆無に等しく、せめて[[屋根裏]]へ登る階段や足場を用意しておけば屋根裏の火を見逃すことはなかったのではなかろうか。また仏像搬出も多少は可能であったろう。当時の消火技術が大災害に追付けなかったことは認められるとしても被害を最小限に抑える工夫が足りなかったのは失態というほかはない。(補注:現存する設計図及び各種文献記録から、方広寺大仏殿に天井板は張られておらず屋根板現しで、[[屋根裏]]空間は存在しないとされる。その点については村山の誤認と思われる)」と批判している{{Sfn|村山|2003|p=158}}。一方で村山は、方広寺大仏殿は経年劣化で修繕に多額の費用を要するようになり、その捻出に[[妙法院]]が四苦八苦していたこと、妙法院が[[江戸幕府]]([[京都所司代]])に対し大仏殿修繕の工事費用の融資を度々依頼していたことから、皇族が門主を務める[[門跡]]寺院とはいえ、一民間寺院である妙法院が、方広寺大仏殿のような巨大建造物を維持管理するのは大変な困難を極めていたともしている。江戸期の寺社の知行(領地)について[[興福寺]]・[[増上寺]]など1万石を越える寺社もあるなか、[[妙法院]]の知行は約1,600石であった<ref>妙法院史研究会編「妙法院史料」1巻 p.12</ref>。これは[[東大寺]]の知行約2,000石をも下回る。
 
方広寺大仏・大仏殿の、[[妙法院]]が負担する維持管理費が増大した理由について、経年劣化のほか、[[朝鮮通信使]]の旅程から外れたためという点もある。[[朝鮮通信使]]の旅程に組み込まれていた頃は、日本側の体面もあり、[[京都所司代]]により大仏殿などの方広寺の修繕工事の入札がなされていて{{Sfn|村山|2003|p=165}}、通信使の来日に合わせて数十年間隔で修繕工事が行われていた。しかし先述の方広寺での饗応を巡るトラブルで[[朝鮮通信使]]の旅程から外され、[[京都所司代]]による方広寺修繕工事の入札がなされなくなってしまった(修繕工事に公金が投入されなくなった)。
 
方広寺焼失時の出来事の記録については、先述のように『[[甲子夜話]]』にも記述がある<ref>『史料京都見聞記』第5巻、1992年 p.134-136</ref>。それは[[東福寺]]の僧印宗より聞いた話としている。概略は以下の通りであるが、『半日閑話』の記述と相反する部分もある。『[[甲子夜話]]』では、7月1日夜は雷鳴がとどろいていたが、落雷は2日八つ時(午前1時)にあり、大仏殿の北西隅に落ちたとする。大火の原因については、『半日閑話』の記述のような、火消の火の消し漏れではなく、出火点が高所のため簡単に消火できず、足場を設けた頃には火が他所へも移ってしまったためとする。2日の朝六つ半(午前5時半)過ぎ頃、(屋根に火が回ったためか)屋根瓦の一部が落ち、火の勢いがますます盛んになったが、[[組物]]や垂木は直ぐには焼け落ちなかった。しかし屋根材の堂内への落下が起こり始め、この頃大仏は燃えたとする。この時の方広寺大仏殿から立ち上る炎は東福寺からも見えたという。『半日閑話』の記述と異なって落雷があってから雨が降り始めたとし、それは大変な豪雨であったが、大仏殿屋内側で火が燃え広がってしまったので火の勢いを弱めることはできなかったとする。朝五つ時(午前6時半)頃に雨が小降りになり、四つ時(午前9時)頃に雨が止んだ。四つ半(午前10時半)頃に大仏殿の屋根が焼け落ち、九つ半(午後1時)過ぎには大仏殿が崩れ去ったとしている。ただ大仏殿が崩れ去った後も直ぐに鎮火とはならず、完全な鎮火までには時間を要したという。なお仁王像が地震対策のため鎖で仁王門に緊結されており、搬出できなかったという話は『[[甲子夜話]]』にも記録されている。『[[甲子夜話]]』では、2日八つ時(午前1時)の出火から日中過まで大仏殿が火災で崩壊しなかったのは、秦の[[始皇帝]]が造立した[[阿房宮]]のように、方広寺大仏殿は巨大建造物であったこと(『[[史記]]』に[[阿房宮]]は[[項羽]]によって焼き払われたが、3か月間にわたって火が消えなかったとする記述がある)、また柱一本毎に数個の鉄輪で固め、横架材も巨大なかすがいで頑丈に固定してあったことが、その大きな要因であろうとしている<ref name="名前なし-pYxu-10">『史料京都見聞記』第5巻 1992年 p.136</ref>。また作者([[松浦清]])の感想として、方広寺大仏が焼失したことについて、釈迦の入滅時にはその亡骸から火が自ずと出火して、焼き尽くしたとも言われているので、今回の落雷で大仏が焼失したことは、人知を超えた出来事で仏力によるものなのだろうと書き記している<ref>『史料京都見聞記』第5巻、1992年 p.137</ref>。
 
なお方広寺大火の原因について、先述の有事の際の防火管理体制の不備のほか、7月1日の夜は新月であったことも、消火活動をするにあたり不利になったと考えられる。旧暦は月の満ち欠けを基準とする[[太陰太陽暦]]であり、[[新月]]を1日(朔日)とする。そのため火災の発生した[[寛政]]10年([[1798年]])7月1日の夜は新月であり、暗闇が消火活動の妨げになった可能性がある。
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[[長沢芦雪]]は『大仏殿炎上図(個人蔵)』と題される、方広寺大仏殿が炎上する様を描いた抽象的な絵を残している<ref>[[榊原悟]]『江戸の絵を愉しむ』2003年</ref>。落款に「即席漫写 芦雪」とあり、実際に方広寺大仏殿が焼け落ちゆくのを眺めながら、それを描いたとされる。
 
当時京都のランドマークになっていた大仏の焼失は、人びとに大きな衝撃を与えた。焼失後も往時の大仏に郷愁を覚える者が多く、[[横山華山]]作の花洛一覧図(木版摺)は、大仏焼失後の文化5年(1808年)に出版の京都の鳥瞰図であるが、巨大な方広寺大仏殿があえて描かれている<ref name="野村2022"/><ref>[https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/karaku/karaku.html 花洛一覧図 <nowiki>[文化5年(1808)]</nowiki>] - 国立歴史民俗博物館</ref>。文久2年([[1862年]])刊行の東山名所図会も、大仏焼失後の刊行であるが、こちらも往時の方広寺大仏殿絵図があえて掲載されており、絵図中に「寛政中回禄の後、唯礎石のみ存るといへども、帝畿第一の壮観の廃れたるを慨歎に堪ず。故に旧図の侭を挙るなり。」との注記書がある。京都に伝わる「京の 京の 大仏つぁんは 天火で焼けてな [[三十三間堂]]が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン 後ろの正面どなた」という[[童歌|わらべ歌]]はこの時の火災のことを歌っている{{Sfn|田中|1957|p=7}}。[[水木しげる]]の[[妖怪画談|『幽霊画談』]]では、大仏の焼失後、大阪の寺町の松の茂みが、往時の大仏を彷彿とさせると、大仏を懐かしむ民衆の間で口こみが広がり、当地は訪問者で連日賑わったとの逸話が紹介されている(「仏の幽霊」)。「仏の幽霊」の出典は『[[絵本小夜時雨]]』の「樹木仏像に見ゆ」で、「樹木仏像に見ゆ」の論考は『百鬼繚乱 江戸怪談・妖怪絵本集成』に掲載がある。「樹木仏像に見ゆ」には大仏に見えた松の繁みが大坂寺町のどこにあったかが記述されていないが、他の史料にも当該松の茂みについて記録したものがあり(『摂陽奇観』)、それによれば[[真言坂]]([[生國魂神社]]から北へ下る坂道)の南とされる<ref>近藤瑞木『百鬼繚乱 江戸怪談・妖怪絵本集成』2002年 p.144-145</ref>。なお『摂陽奇観』には当該茂みを夜分に見れば大仏に見えるので、夜分に賑わったとある。また上記との関連は不明だが、『大和怪異記』には方広寺大仏が焼失した同時刻(7月2日の未明)に大坂に大仏(の霊?)が出現したという記述がある<ref>藤沢衛彦『図説日本民俗学全集 民間信仰・妖怪編』1960年 p.345</ref>。このことについて歴史学者の[[江馬務]]は「大仏の一念が創立者秀吉の縁故の大坂にとどまっていたゆえであろうか」と述べている<ref>[[江馬務]]『江馬務著作集 (第6巻) 生活の陰翳』1988年 p.399</ref>
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Engelbert Kaempfer.jpg|3代目大仏を記録した[[エンゲルベルト・ケンペル]]の肖像画。