「連合国軍占領下の日本」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
 
(2人の利用者による、間の8版が非表示)
78行目:
[[画像:MacArthur and Sutherland.jpg|サムネイル|220ピクセル|[[バターン号]]で[[厚木海軍飛行場]]に到着したアメリカ軍のマッカーサー陸軍大将]]
[[画像:Surrender of Japan - USS Missouri.jpg|サムネイル|220ピクセル|降伏文書調印に向かう日本政府全権]]
[[日本国政府]]は、[[1945年]]([[昭和]]20年)8月9日の[[ソ連対日参戦]]をうけ、翌[[8月10日]]に中立国の[[スイス]]および[[スウェーデン]]経由で連合国に対し条件付きでの[[ポツダム宣言]]の受諾意思を報知し、[[大日本帝国|日本]]側の条件に対する連合国の回答、および昭和天皇の聖断などを経て[[8月14日]]には詔勅によりポツダム宣言の正式受諾を通告した。翌[[8月15日]]正午、[[昭和天皇]]はラジオで終戦の詔書を日本国民に発表した([[玉音放送]])。
 
停戦から2週間後の28日、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてチャールズ・テンチ大佐率いる45機の[[ダグラス・エアクラフト|ダグラス]][[C-47]]輸送機からなる[[アメリカ軍]]の先遣部隊が神奈川県の[[厚木飛行場]]に到着。同基地を占領した。30日、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)の総司令官として連合国の日本占領の指揮に当たる[[アメリカ陸軍]]の[[元帥 (アメリカ合衆国)|元帥]]の[[ダグラス・マッカーサー]]大将も厚木飛行場に到着した。続いてイギリス、中華民国、ソ連、オランダ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、フランスなどの占領軍が上陸した。
 
1945年(昭和20年)[[9月2日]]、[[日本国政府|日本政府]]代表は[[東京湾]]の[[横須賀市|横須賀]]沖に浮かぶ[[ミズーリ (戦艦)|戦艦ミズーリ]]の艦上で[[日本の降伏文書|降伏文書]]に正式に調印し、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[イギリス帝国|イギリス]]、[[国民政府|中華民国]]などの連合国に対して[[日本の降伏|降伏]]、日本は連合国軍最高司令官総司令部の占領下に入った。占領軍総司令官はマッカーサーであったが、その政治顧問として、国務省からは[[ジョージ・アチソン]]<ref name="ndl">{{Cite web|和書|author=国立国会図書館|date=2003-05-03|url=https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/jinbutsu.html#s6_1|title=日本国憲法の誕生 人物紹介|publisher=国立国会図書館|language=日本語|accessdate=2010-02-21}}</ref>が任命された。また、イギリス、中華民国、ソ連、オランダ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、フランスなど他の連合国軍部隊も派遣され、当初はアメリカ、イギリス、ソ連、中国によって[[日本の分割統治計画|日本を分割統治する案]]も存在した。実際に日本国の占領統治を行っていたのは約75パーセントの将兵を擁したアメリカ軍と、約25パーセントの将兵を擁した[[イギリス軍]]であり、思想面でアメリカ合衆国との[[冷戦|対立状態]]が始まっていた[[ソビエト連邦|ソ連]]や、終戦後すぐに勃発した[[国共内戦]]のほか、兵站が乏しい[[国民政府|中華民国]]は、アメリカやイギリスのように日本占領で影響力を行使することはできなかった。
 
当時「連合国は日本本土に対して[[軍政 (行政)|軍政]]を実施する」との情報があり、[[9月3日]]に「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言をトルーマン大統領の言うとおりに反故にし、行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く方針を示した。占領下の公用語も[[日本語]]と[[アメリカ英語]]にするとした。実際に[[千葉県]]の一部地域では既に前日([[9月2日]])から先行する形で事実上のアメリカ軍による[[占領統治|直接統治]]が開始されており、[[教育機関]]や[[エンターテインメント|娯楽施設]]が閉鎖されたほか、[[夜間外出禁止令|夜間外出禁止命令]]も出される事態になった<ref>{{Cite web|title=<つなぐ 戦後78年>「カニンガム・レポート」4日間の「軍政」触れず 終戦直後の館山 明らかに|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/270205|website=東京新聞|access-date=2025-08-22|date=2023-08-15|author=山本哲正}}</ref>。
1945年(昭和20年)[[9月2日]]に、[[日本国政府|日本政府]]代表は[[東京湾]]の[[横須賀市|横須賀]]沖に浮かぶ[[ミズーリ (戦艦)|戦艦ミズーリ]]の艦上で、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[イギリス帝国|イギリス]]、[[国民政府|中華民国]]などの連合国に対して降伏し、[[日本の降伏文書|降伏文書]]に正式に調印した。また、その時降伏した相手には連合国の本国だけでなく[[イギリス領インド帝国|英領インド]]や[[オーストラリア]]、[[フィリピン・コモンウェルス|米領フィリピン]]など、連合国の植民地も含まれていた。そして、その時の[[日本の降伏|降伏]]により、日本は連合国軍最高司令官総司令部の占領下に入った。総司令官は[[アメリカ陸軍]]の[[元帥 (アメリカ合衆国)|元帥]]ダグラス・マッカーサーであったが、その政治顧問として、国務省からは[[ジョージ・アチソン]]<ref name="ndl">{{Cite web|和書|author=国立国会図書館|date=2003-05-03|url=https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/jinbutsu.html#s6_1|title=日本国憲法の誕生 人物紹介|publisher=国立国会図書館|language=日本語|accessdate=2010-02-21}}</ref>が任命された。また、他の連合国軍部隊も派遣され、当初はアメリカ、イギリス、ソ連、中国によって[[日本の分割統治計画|分割統治される案]]も存在したが、前述の理由によりソ連や中華民国がそれほど強い影響力を及ぼすことはなかった。そのため、日本は分割統治を免れた。
 
これに対して日本の外相[[重光葵]][[外務大臣 (は、日本)|外務大臣]]([[東久邇宮内閣]])は即日が連合国軍の命令ダグラス・マッカーサー忠実面会し、「占領軍によ従ってい現在の状態で軍政は日本の主権認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツ敷くこ日本違う。ドイツは政府が壊滅したが日本占領軍の利益は政府が存在する」ならない猛烈に抗議マッカーサー最高司令官に布告の即時取り下げを要求した直接物申しこれ重光の抗議の結果、連合国軍は軍政実施令を撤回させた<ref name=nagaikazu>[https://web.archive.org/web/20021108002226/http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/GHQFILM/DOCUMENTS/Missouri/sugita2.html 杉田一次の回想-2-杉田一次著『情報なきミズリー号艦上の降伏調印] 映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る- [[永井和]]</ref>{{efn|[[永井和]]によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、[[無条件降伏]]があくまで[[日本軍]]に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする。}}。その結果、占領政策は日本政府を通した間接統治となった。とはいえ、この後マッカーサーあるいはGHQの指示、示唆などは超法規的と見なされることとなる
当時「連合国は日本本土に対して[[軍政 (行政)|軍政]]を実施する」との情報があり、[[9月3日]]に「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言をトルーマン大統領の言うとおりに反故にし、行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く方針を示した。占領下の公用語も[[日本語]]と[[アメリカ英語]]にするとした。実際に[[千葉県]]の一部地域では既に前日([[9月2日]])から先行する形で事実上のアメリカ軍による[[占領統治|直接統治]]が開始されており、[[教育機関]]や[[エンターテインメント|娯楽施設]]が閉鎖されたほか、[[夜間外出禁止令|夜間外出禁止命令]]も出される事態になった<ref>{{Cite web|title=<つなぐ 戦後78年>「カニンガム・レポート」4日間の「軍政」触れず 終戦直後の館山 明らかに|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/270205|website=東京新聞|access-date=2025-08-22|date=2023-08-15|author=山本哲正}}</ref>。
 
これに対して[[重光葵]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]([[東久邇宮内閣]])は即日にダグラス・マッカーサーに面会し、「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを要求。直接物申しこれを撤回させた<ref name=nagaikazu>[https://web.archive.org/web/20021108002226/http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/GHQFILM/DOCUMENTS/Missouri/sugita2.html 杉田一次の回想-2-杉田一次著『情報なきミズリー号艦上の降伏調印] 映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る- [[永井和]]</ref>{{efn|[[永井和]]によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、[[無条件降伏]]があくまで[[日本軍]]に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする。}}。その結果、占領政策は日本政府を通した間接統治となった。とはいえ、この後マッカーサーあるいはGHQの指示、示唆などは超法規的と見なされることとなる。
 
一方、[[南西諸島]]および[[小笠原諸島]]は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下ないし勢力下にあり、本土復帰まで被占領の歴史を歩んだ。大陸や南方、北方の旧領土および占領地の日本軍はイギリス軍や中華民国軍、ソビエト連邦軍やフランス軍などそれぞれ現地の連合国軍に降伏し、海外領土および占領地の行政権は連合国軍に剥奪された(日本本土除く)。占領軍は日本の外交権を停止し、日本人の海外渡航を制限し貿易、交通を管理した。漁業活動のための航海は、「[[マッカーサー・ライン]]」を暫定的に引き、「サンフランシスコ講和条約」を結ぶことによる廃止がなされるまでの間、[[アメリカ合衆国連邦政府]]の制限下に置いた。
 
[[1951年]](昭和26年)[[9月8日]]、日本政府は「サンフランシスコ平和条約」(正式名:[[日本国との平和条約]])に調印した。同条約は[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]に発効し、日本は正式に国家としての主権を回復した。外交文書上での正式な戦争終結日は'''1945年(昭和20年)9月2日'''であるが、占領状態および戦争状態の最終的な解決となる平和条約の発効日は'''1952年(昭和27年)4月28日'''である
 
== 統治 ==
252 ⟶ 250行目:
=== 文化・思想 ===
; [[言論統制]]([[検閲]])
: 1945年(昭和20年)[[10月8日]]に、SCAPは「自由の指令」を出し思想・言論規制法規の廃止を命令すると、翌日から[[朝日新聞]]、毎日新聞、[[讀賣報知]]、[[日本経済新聞|日本産業経済]]、[[東京新聞]]の在京5紙に対して事前[[検閲]]を開始した<ref name=ndlhistory01/>。GHQは言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書([[SCAPIN]]-16)や[[プレスコード]]、[[ラジオコード]](SCAPIN-43)などを発して[[民間検閲支隊]]などにより地方紙も含めた新聞、雑誌などあらゆる出版物、学術論文、放送、手紙、電信電話、映画などへの検閲を行った。それらに携わった日本人スタッフへの給与およびすべての経費は日本政府が負担し、『終戦処理費』あるいは『その他』経費として計上され、国民には秘匿された。
: 連合国の批判、占領軍の政策への批判、極東国際軍事裁判を批判したもの、戦時中の連合軍の虐待行為、原爆に関する情報、占領軍兵士による殺人・強盗・強姦事件・売春、満州国や中華民国、ソ連における日本人処遇への批判、欧米諸国における有色人種差別、冷戦の高まり、文学作品ですら飢餓の表現や戦災がもたらした死や破壊の悲しみの表現は禁じられるなど、報道・出版を許されない項目は多岐にわたった。東京の[[日本外国特派員協会]]が連合国のジャーナリスト向けにサービスを提供した。報道規制は海外から日本に配信されたニュースにも及んだ。沖縄県の報道も禁じられていた。連合国への批判の禁忌は中世や近世にまで及び、ヨーロッパ近世においてイギリスやフランス、オランダによってアジア各地で行われ、戦争勃発の原因となった植民地支配について触れた記述も削除を命じた。
: 第二次世界大戦中に日本により独立がなされた、もしくは確約されたものの、戦後にイギリスやオランダ、アメリカやフランスなどの連合国によって再植民地化されたアジア各地で勃発した独立闘争も、一切の報道を禁じられた。
: 連合国の威信を傷つける記述はすべて削除された。占領軍の行進の写真に子犬が写っているだけでも発行禁止とされた。日本の雑誌や映画に性的表現を「自由化」するよう命じられる一方、アメリカのポルノグラフィについては言及するだけでも削除を命じられた<ref>ダワー著『敗北を抱きしめて』参照</ref>。
: SCAPが日本国憲法を起草したこと、SCAPが作成に関与したことも、国民に知らせないよう命じられた。SCAPの憲法作成関与に対する批判も処分の対象となった。日本のメディアは「変な日本語」と言及することによって検閲を逃れた。
: また日本政府が連合国軍に支払っている巨額の占領軍維持経費を報道することも許されなかった。1946年(昭和21年)、GHQ検閲局はどうしても経費に触れなければならない場合は「終戦処理費」と呼ぶように命じ、1947年(昭和22年)は「その他」経費とするよう命じた。
: また軍国主義的とされるもの、戦前・戦中の日本を擁護するもの、日本の価値観を肯定するもの、検閲が行われていることへの言及などは[[発行禁止]]や記述の削除、書き換えを行い、言論を統制した
: 検閲指針に違反した社は廃刊や発行停止、記者等は解雇を命じられるか、連合国軍の軍事法廷で裁判が行われ、有罪者は[[アメリカ合衆国による沖縄統治|沖縄]]で強制重労働3年から5年に処せられた。強制労働は主に占領軍基地づくりである。
: GHQによる検閲は秘匿される一方、日本政府による統制を廃止させ、言論の自由を強調した。新聞、ラジオ、雑誌の事前検閲は1948年(昭和23年)7月までに廃止され、事後検閲に切り替わり、新聞、ラジオの事後検閲は1949年(昭和24年)[[10月18日]]をもって廃止された<ref>『日本メディア史年表』(2018年1月1日、吉川弘文館発行、土屋礼子著)171頁。</ref>が、プレスコードによる[[言論統制]]は依然として存在した。事後検閲になってからは出版停止や回収などの経済的リスクを負うことを恐れ、記者、編集者や作家らはかえって用心するようになり、[[自己検閲]]が進んだ。が、ジャーナリズムの活動は広がりつつあった。こうして、戦後日本の世論に大勢順応的な姿勢が形成されていった<ref name="中正樹">{{Cite web|和書
|author = 中正樹
|url = http://www.kushima.org/is/wp-content/uploads/2014/08/Naka.pdf
270 ⟶ 268行目:
}}</ref>。
; 郵便物、電報および電話通話の検閲
: GHQは進駐部隊同士の連絡網確保のためあらゆる運輸通信の施設・装置を現状のまま良好な状態で保存・復活することを政府に指示する<ref name="yr248">『郵便の歴史 -飛脚から郵政民営化までの歩みを語る-』(2018年3月10日、鳴美発行、井上卓郎、星名定雄著)248ページ。</ref> ともに、郵便局に検閲局を置き、市民の郵便物を検閲した。多いときで約87008,700人の日本人を動員し、郵便物の検閲を行わせた。学生が多かったとされる。日本人検閲官は事前に和文英訳のテストを受けレベルごとに振り分けられ、郵便局に集まった私信を英訳した上で検閲局の許可を仰いだ。特に占領軍への批判や意見、イギリス軍やアメリカ軍、ソ連軍兵士の動向のほか、復員、物価や食料難、公職追放のその後の動向、労働組合、企業の経営状態、政治や共産党の動きなどを翻訳対象とした。検閲の仕事については秘匿とされた。検閲官の給与も日本政府が負担するよう命じられた。この他、[[1945年]][[11月11日]]には連合国軍の公的郵便と連合国軍兵員の私用郵便のうち、日本にある官公署と個人に宛てたものは無料扱いにすることを政府に求めたため、政府は同年[[12月16日]]からはがきと書状を無料にする措置をとった<ref name="yr248" />。
: 主要な電話回線は連合国軍によって押さえられ、通信網や電話施設の保守に日本側が要員、資材を提供しなければならなかったので、一般の電話の復旧には手が回らない状態であった<ref name="yr248" />。
: 切手・はがき類についても軍国主義や神道などを表す切手類を「追放切手」として、[[1947年]][[9月1日]]までに順次使用禁止とした<ref>『郵便の歴史 -飛脚から郵政民営化までの歩みを語る-』(2018年3月10日、鳴美発行、井上卓郎、星名定雄著)249 - 250ページ。</ref>。
: 1952年(昭和27年)3月、「連合国占領軍の為す郵便物、電報及び電話通話の検閲に関する件を廃止する法律」が国会で可決、サンフランシスコ平和条約効力発生と同時に施行された。
; 書籍の没収([[焚書]])
: GHQの指令により[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京大学文学部]]の教授陣数名が中心になり、[[1928年]][[1月1日]]から[[1945年]][[9月2日]]まで刊行された約22万冊中92889,288冊の単行本を選び出し、審査に掛け、その中の77697,769冊の歴史関係の文献を「[[宣伝用刊行物の没収|没収宣伝用刊行物]]」に指定して、全国の書店、古書店、官公庁、倉庫、流通機構から輸送中のものも含め、全て没収された。なお、アメリカは「焚書」と呼ばず「Confiscation」を主に使用し、日本政府がそれを「没収」と訳していた<ref>『GHQ焚書図書開封』(2008年6月30日、西尾幹二著、徳間書店発行)p16 - 17。</ref>。[[西尾幹二]]は、焚書とは書籍を廃棄して国民に読ませないようにすることであるが、GHQによる書籍没収は焚書行為であったとする([[検閲]]とは別であるとする)<ref>『GHQ焚書図書開封』(2008年6月30日、西尾幹二著、徳間書店発行)p.15 - 17.</ref>。
; 思想工作活動
: [[キャノン機関]]などを通じて、日本人に対する思想改変・スパイ活動が行われた。[[鹿地事件]]などが知られる。
285 ⟶ 283行目:
; [[戦争花嫁]]
: 当時の欧米諸国には厳格な有色人種差別があった。イギリス連邦占領軍は[[人種差別]]の観点から日本人女性との交際禁止策を取っていたため、将兵は恋愛感情があろうとも日本女性との結婚許可を取ることはできず、これに違反して子供が生まれたことが見つかってしまった場合は、強制的に家族から離される事になった。
: 特に多種多様な人種からなるにもかかわらず、当時法の下で有色人種に対する差別が保証されていたアメリカ軍では異人種間の結婚は禁止され、おおむね白人と黒人からなるアメリカ兵は、被占領国民でかつ黄色人種である日本人女性に産ませた子供を認知する義務すらなかった。また[[排日移民法]]のために日本人妻子のアメリカ入国は不可能であった。1946年(昭和21年)6月29日、アメリカ軍においては[[GIフィアンセ法]]の制定により、日本人女性とアメリカ軍兵士・軍属との結婚が可能になり、1947年にはアメリカ軍兵士との国際結婚の届け出数が822組を記録する。これで認められたのはアメリカ軍兵士と日本人女性との姻戚関係のみ。
: 1950年(昭和25年)、アメリカ軍兵士と日本人女性間の結婚禁止令が解かれる。GIフィアンセ法が改正され、アメリカ軍兵士の妻子が人数制限なしに、アメリカに入国可能になる。
: イギリス連邦では1952年にこの禁止令は解かれ、何百人もの戦争花嫁がオーストラリアやイギリスに向かったが、これによる悲劇が多数起きたと報告された<ref>http://australia.or.jp/culture_old/articles/walter_hamilton 「占領の子供たち」ウォルター・ハミルトン オーストラリア大使館</ref>。
; [[夏時間|サマータイム]]
: 1948年(昭和23年)4月28日に、GHQの要請により[[夏時刻法]]が公布・施行され、サマータイムが導入された。しかし生活リズムの乱れや交通の混乱、労働条件の悪化などといった問題が発生したことから、主権回復直前の1952年(昭和27年)4月11日に廃止された。
; [[国民の祝日]]
: 1948年(昭和23年)7月20日、それまでの[[祝祭日]]に代って[[国民の祝日]]が制定された。この際、祝祭日で定められていた[[紀元節]]がGHQによって削除されている。なお、紀元節は[[1966年]]に[[建国記念の日]]に名称を変えて復活し、現在に至る。
: 駐留した英米の将兵たちは、休日になると街へ繰り出したが、その際に日本では珍しいカラーフィルムで、町並みや人を写真機や映画用カメラで撮影しており、映像資料の少ない地方の様子を知る資料となっている<ref>[https://web.archive.org/web/20180124142634/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201708/20170805_13020.html 米従軍医、1951年に宮城の浜をカラー撮影 貴重な写真ネットで公開 | 河北新報オンラインニュース]</ref>。
 
=== メディア ===
301 ⟶ 299行目:
: GHQは学校教育現場でのラジオ放送教育と校内放送を奨励して立ち入り監視と指導・勧告を行った。戦争末期からアメリカのコーデル・ハルは「日本人をアジア解放に殉じたと思わせてはならない」とルーズベルトに進言していた。米政府は、連合国軍の平和目的を伝え、「外国人」への尊敬を持たせ、「外国人」と交流を持つことが「honor」であるよう印象付けるように占領後の教育方針を組んでいた<ref>1944年7月1日に国務省極東局日本担当のローリーが起草した「日本・軍政下の教育制度」</ref>。
[[画像:Call of the Yukon in Japan 1945.JPG|サムネイル|220ピクセル|日劇小劇場で上映された外国映画「ユーコンの叫び」]]
: 日本から連合国への敵対心をなくし、特に親英米的な国に作り替える方針の下、アメリカ軍占領区域では占領軍として進駐していたアメリカに対して好感を持つような世論誘導が行われ、その一例としてアメリカ軍の兵士が、[[ガム]]や[[チョコレート]](これらの菓子代も占領経費として計上され、日本政府が負担していた)を食糧難に喘ぐ少年たちに与えることにより、「無辜の民を殺戮した」残虐な日本軍と、「食べ物を恵んでくれた寛大なアメリカ軍」という図式を作り、[[親米]]感情の醸成を試みた。なおこのようなことはイギリス占領地域ではほとんど行われていなかった。なお報復行為を避けるため、対日戦に参加したアメリカ兵は極力日本に駐屯させないようにした。特に沖縄県では、沖縄を日本から分断させるために同種の世論操作が熱心に行われた。
: また同時期に[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]や[[イギリスの映画|イギリス映画]]の上映や、ラジオにおける英語講座の開設<ref>{{NHK放送史|D0009060071_00000|英語会話}}</ref>など、メディアを使ったキャンペーンを展開した。否定的なイメージを取り除くために「占領軍」を「進駐軍」と呼ばせた。
: その一方で、イギリス軍人やアメリカ軍人を中心とした占領軍兵士による強盗や強姦、殺人などの重大事件に対しては報道管制を敷いてこれを隠ぺいし、反連合国軍感情が起こることを防いだ。連合国軍兵士による性犯罪を防ぐために占領軍兵士のための[[慰安所]]を各地に作った。
 
316 ⟶ 314行目:
ラジオについては、終戦直後にそれまで休止していた[[NHKラジオ第2放送|ラジオ第2放送]]が再開された一方、海外放送は外国語、日本語共に1945年9月10日から1952年2月1日までGHQにより停止された。占領期間中は進駐軍向け放送局が主要都市に置かれ(アメリカ軍向けは後にFEN→[[AFN]])、一部の局については日本放送協会から施設や役務の提供が行われた。番組面では終戦直後から前述の通り世論対策として『[[眞相はかうだ]]』などの番組を放送していた。また、1945年の大晦日に『[[NHK紅白歌合戦]]』の前身である『[[紅白音楽試合]]』を放送している。タイトルが「'''合戦'''」ではなく「'''試合'''」となっているのは、GHQ(特にその中の一部局であるCIE)が、「敗戦国がバトル(合戦)とは何事だ」との判断を下したためである。
 
[[民間放送]]については、GHQは当初、軍事的な立場から、1945年12月11日付の「日本放送協会の再組織に関する覚書」で、「'''NHK独占、民放却下'''」の原則を打ち出していた。民間放送を許可すると急進的な放送局の出現の可能性があるというのが理由で、GHQは「平和日本の実現・推進のために、放送事業を官営、半官半民のいずれかにすべき」とし、結果、イギリス、中華民国、ソ連3国の一致で、放送国営が多数決で採択と発表され、民放は否定されることになった<ref>『北日本放送十年史』(1962年4月17日、北日本放送発行)10 - 12ページ『白眼視し合うNHKと民放』より。</ref>。その後、1951年[[9月1日]]には日本で最初の民放ラジオ局の[[中部日本放送]](現・[[CBCラジオ]])、新日本放送(現・[[MBSラジオ]])が、同年[[12月23日]]にはラジオ東京(現・[[TBSラジオ]])が開局している。
 
[[テレビ]]については、GHQの意向で1946年7月まで研究自体が禁止されたが、同年11月よりNHKがテレビ研究を再開している。また、1951年には軍事戦略のひとつとして占領国でのテレビ放送利用を重要視していたアメリカの圧力によりアメリカ式([[NTSC|NTSC方式]])の技術標準が日本で採用されることになり、1953年のNHKと[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の開局に至る。
 
1950年には[[電波法]]、[[放送法]]、[[電波監理委員会設置法]]の電波3法が施行され、NHKが社団法人から[[特殊法人]]となった。
328 ⟶ 326行目:
[[File:Gaetano Faillace - Occupied Tokyo - film.webm|thumb|[[東京]](1945)]]
 
1945年(昭和20年)に入り激化した[[日本本土空襲|空襲]]により都市部の家屋の多くが焼失して約420万人が住居を失った上、大陸からの引き揚げ者や強制帰国を命じられた日系移民らが[[難民]]となって帰国したこと、さらにはその後[[ベビーブーム]]が到来したために住居不足に陥った。さらに、都市部のみならず、占領軍とその家族のためにビル、商業・娯楽施設、学校、病院、市民公園、住宅、土地など連合国軍に、家財もろとも強制接収された。接収対象の住民は、行くあての有無にかかわらず強制的に立ち退かされた。接収地はフェンスを張り巡らされ、日本人は立ち入り禁止となった。さらに戦後の極度の物資不足のため建築資材を欠いた状態で、家屋を失った国民の多くは雨露を防ぐための粗末なバラック小屋生活や仮住まい生活を強いられていた。老朽化したバスや路面電車、国鉄の客車などを空き地に移動して仮設住宅に転用したり、旧兵舎や軍需工場なども引揚者のための寮に転用されたケースもあった<ref name="p28">『ビジュアル 日本の住まいの歴史4 近現代(明治時代~現代)』(2019年10月29日、ゆまに書房発行)28ページ。</ref>。1948年(昭和23年)になっても、約370万世帯が住居のない状態であった。
 
また、戦後のドイツとヨーロッパ諸国が住宅復興に重点を置いたこととは対照的に、占領期間中のGHQは日本の住宅復興対策に関心を向けず、建築物資の横流しを防ぐための建築制限および、占領軍とその家族のための住宅の強制接収と建築資材供給および建設・改築命令を出した程度であった。日本政府はその対応だけで予算の相当部分をつぎ込まされ、国民の住宅復旧にまで手が回らない状態であった。占領軍のための物資の確保すらままならず、また納期期限が厳格であり、政府自ら建築資材を闇市から調達するなど奔走していた。
 
1950年(昭和25年)には、[[連合国軍人等住宅公社法]](1952年〈昭和27年〉に廃止)が成立した。連合国軍人等住宅公社の運営には[[対日援助見返り資金]]が使われた。
 
サンフランシスコ平和条約による日本の主権回復以降も多くの接収地域が連合国軍およびその家族に占拠・支配されたままで、元住民の元には講和条約締結から数十年たってからやっと、更地にされた上で返還された。米軍は原状復帰の義務をっていなかった。
 
上記のように、占領期間は、航空産業はじめその他の重工業と同様、日本の建築業界にとっても著しい立ち遅れを余儀なくされた『空白の7年間』であった。
340 ⟶ 338行目:
; 公共住宅の建設
: 上記のGHQの政策とは別に、1945年に政府は住宅不足解消のため年間30万戸の応急住宅の建設計画を発表したが、資材難のため実現できたのは翌1946年3月までに全国で8.3万戸(雨漏りがして建て付けが悪い粗末な造り)が整備された程度に留まっている<ref name="p28" />。
: 終戦直後は[[同潤会]]を前身とする[[住宅営団]]が公共住宅の建設に取り組んでいた。だが連合軍の占領下に入ってからは国策営団とみなされ、GHQから1946年(昭和21年)に閉鎖指令を受けた。同年12月に閉鎖し、それ以降は建設計画の断念を余儀なくされる。まだ建築途中の住宅については、しばらく整理委員会の管理下に取り扱われることとなった。
: [[1948年]]、東京都[[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]に戦後最初の鉄筋コンクリート造4階建て2棟48戸の都営アパートが試作建設された。翌1949年には一気に18631,863戸に増加している<ref>『ビジュアル 日本の住まいの歴史4 近現代(明治時代~現代)』(2019年10月29日、ゆまに書房発行)29ページ。</ref>。
 
; 住宅金融公庫法と公団住宅法等の成立
349 ⟶ 347行目:
; 道路交通
: 終戦と同時に自動車の国内生産が原則停止し、海外からの[[輸入車]]も途絶。バスの走行[[キロメートル|粁]]は1936年度の10{{nbsp}}%程度でしかなかった<ref name="400p">『富山地方鉄道50年史』(昭和58年3月28日、富山地方鉄道株式会社発行)400ページ</ref>。
: 道路も戦争の影響で荒廃していたため、GHQは軍事的に重要な道路路線を整備することを日本政府に要求した<ref>浅井建爾『日本の道路がわかる辞典』(日本実業出版社、2015年10月10日、初版)、75ページ。</ref>。これを受けて日本政府は[[1948年]](昭和23年)11月、「日本の道路及び街路網の維持修繕五箇年計画」の覚書を出し、財政難の中連合国軍の援助を受けながら荒廃した道路の路面補修や橋梁修繕<ref>武部健一『道路の日本史』中央公論新社〈中公新書)、2015年5月25日、178 - 180ページ。</ref> などを、サンフランシスコ講和条約に伴う覚書失効まで段階的に実施した。
: 日本の警察再編により、再び[[道路交通法]]を作成する必要が生じたが、「警察による[[自動車検査登録制度|車検]]は必要ない」とGHQがいうので、運輸省の管轄となった。日本の通行区分である[[対面交通|左側通行]]についても、アメリカ軍の占領地域においては右側通行に変更するよう厳しい要請があったが、財政難と物資不足のため路線バスの改造や停車場の変更は不可能だと反論し、イギリス軍の占領地域通りに左側通行の継続が認められた。しかし、終戦前にアメリカ軍により直接占領されていた沖縄県や小笠原諸島などはアメリカと同じ右側通行にて道路敷設が行われ、[[トカラ列島]]、[[奄美群島]]、小笠原諸島は日本の主権回復まで、沖縄県は[[730 (交通)|1978年(昭和53年)7月29日まで]]右側通行が続いた。
: 1950年(昭和25年)には自動車による輸送[[トン]]数が戦前の水準まで回復し、主権回復後の1952年(昭和27年)7月1日の石油類の統制撤廃をもって自動車関係の諸統制は全て廃止された<ref name="400p" />。
; 幻の戦災復興計画
: 敗戦前年の1944年(昭和19年)9月、敗戦の可能性を察知した大橋武夫は「勝っても負けても日本の復興は必要」と、災害に強い都市の復興計画を密かに主導していた。1945年(昭和20年)11月5日、大橋の立案によって、事業推進のために[[戦災復興院]](計画・土地・建築・特別建設の4局)が設立された。同年12月30日[[戦災復興計画基本方針]]<ref>戦災復興誌 第3巻 建設省編 都市計画協会 1958 pp.1-4</ref> を閣議決定し、[[経済安定本部]]とともに国策として計画推進を図った。
: 計画は画期的かつ水準の高いもので、戦前より都市部を中心に進んできていた車社会の到来を予想した上で、主要幹線道路の幅員は大都市では50メートル以上、中小都市でも36メートル以上とし、さらに必要な場合には緑地帯と防火帯を兼ねた100メートル幅での道路建設を促した。電線は地下埋設とし、また、都市公園の拡充を考え、緑地面積の目標を市街地面積の10{{nbsp}}%以上としていた<ref name="ReferenceA">『日本経済新聞』2011年8月10日朝刊「戦災復興 日本再生の記憶と遺産 ①」</ref>。
: 戦災都市として指定されたのは全国の115都市で、復興事業へはその費用の9割を国庫補助するという極めて積極的な財政措置が取られた<ref name="ReferenceA"/>。
: しかしGHQは、復旧計画に対して厳しい制限措置をとった。その理由は、占領軍側は日本のインフラ整備と都市復興が進んで近代化することをまったく歓迎していなかったからであった。せいぜい昭和初期の復旧程度しか許さず、日本の復興計画には極めて冷淡な態度をとった。そのため多くの復興工事は、主権回復まで待たなければならなかった。特に[[100m道路|100メートル道路]]の建設については「戦勝国の記念道路のようだ」と許可しなかった<ref>越澤明「戦災復興計画の意義とその遺産」『都市問題』第96巻第8号</ref>。
: さらに1949年(昭和24年)、[[ドッジ・ライン]]で公共費が削減され、1949年(昭和24年)6月「戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針」が閣議決定され、115都市すべての復興計画の規模縮小を余儀なくされた。100m100メートル道路建設が実現したのは、名古屋と広島だけとなった。
; 自動車の生産
: 終戦直後、GHQはまず1945年(昭和20年)9月25日に、年間生産数量を15001,500台に限定した上で国産トラックの生産を許可した<ref name="si">『富山県自動車交通史』(1989年4月6日、桂書房発行)206ページ。</ref><ref name="sengojidousya">[http://www.erca.go.jp/yobou/taiki/siryou/siryoukan/pdf/W_A_006.pdf#search='1947%E5%B9%B46%E6%9C%88+%E9%99%90%E5%AE%9A+%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A+%E8%A8%B1%E5%8F%AF' 戦後復興期の自動車産業 産業復興から新産業政策まで]</ref> が、この時点では普通自動車の生産は禁止されていた。また、トラックについても戦時中の資材のストックが枯渇したこともあり年間生産台数の枠すら達成出来ない状況であった<ref name="si" />。
: 1947年6月、1500CC1,500cc以下の小型車の生産が在庫部品で300台の数量限定で許可され<ref name="syouwa" /><ref name="sengojidousya" />、同年8月には自動車の輸出が再開された<ref name="sengojidousya" />。1949年10月25日、すべての乗用車の生産制限が解除された<ref>『富山県にクルマの歴史を築いて100年 品川グループ100年の軌跡』(2017年12月20日、品川グループ本社発行)130頁。</ref>。
; 自転車の生産
: GHQは占領期間中、食糧輸入の見返りとして輸出される物資の一つとして[[自転車]]15万台の生産を指示していた。このため在来の13社のほか、大手旧軍需会社(不二越鋼材工業現・[[不二越]]、富士産業現・[[SUBARU]]、[[三菱重工業]]、大和紡績現・[[ダイワボウホールディングス]]、[[片倉工業]]、大同製鋼現・[[大同特殊鋼]]、中山太陽堂現・[[クラブコスメチックス]]、天辻鋼球製作所、中西金属工業、萱場工業現・[[カヤバ]]など)と合わせて28社各社が自転車の生産に乗り出していた<ref name="fuk" />。
; 鉄道
[[画像:Gate for AMP Only.JPG|サムネイル|220ピクセル|[[東京駅]]にあった連合軍専用出入口]]
[[画像:Mitaka Incident at Mitaka Station.jpg|サムネイル|220ピクセル|「[[三鷹事件]]」の現場]]
: 終戦に伴い戦争関係の旅客や資材を運搬する必要がくなったが、代わりに海外や疎開先から帰還する人々や買い出しに出ける人々の利用が増加した。これに加え、炭鉱で強制徴用されていた旧外地出身者が帰国したことや冬季で石炭ストーブを使用するために石炭を使用したために、1945年(昭和20年)から1947年(昭和22年)にかけて石炭不足に陥り、列車は戦時中より混雑した。旅客混雑解消のため[[急行列車]]の運転も取り止め、[[二等車]]の連結も中止となり、後述のGHQによる一部列車の接収もあり日本人が乗れたのは[[普通車 (鉄道車両)|三等車]]のみという状態であった<ref>『ビジュアル 日本の鉄道の歴史2 大正後期~昭和前期編』(2017年5月25日、ゆまに書房発行)37、39ページ。</ref>。
: 占領軍は鉄道の支配権も確保した。優等客車、食堂車、寝台車を重点において[[連合軍専用列車]]とし、約10{{nbsp}}%を接収した。また国鉄の貨物輸送量の10{{nbsp}}%以上を占領軍に優先的に輸送すべく命令した。駅舎に連合国軍専用の窓口と出入り口を設け、日本人利用者との差別化を図った。平和条約発効直前の1952年(昭和27年)4月1日以降は、元の専用列車の一部をアメリカ軍関係者を優先的に利用させる『特殊列車』として、1954年(昭和29年)9月30日まで運行された<ref>『ビジュアル 日本の鉄道の歴史2 大正後期~昭和前期編』(2017年5月25日、ゆまに書房発行)45ページ。</ref>。
: 終戦直後は職員や資材が不足し、戦災に遭った設備も多かったため、[[肥薩線列車退行事故]]や八高線列車正面衝突事故などの事故が多発した([[日本の鉄道事故 (1949年以前)]]も参照)<ref>『ビジュアル 日本の鉄道の歴史2 大正後期~昭和前期編』(2017年5月25日、ゆまに書房発行)37ページ。</ref>。これに加えて占領軍による車両の接収や石炭不足もあり、日本の鉄道輸送力は1947年(昭和22年)[[12月15日]]の時点で運転延約34万[[キロメートル]]分の列車のうち半分が運転不可になるなど著しく低下し<ref>『ビジュアル 日本の鉄道の歴史2 大正後期~昭和前期編』(2017年5月25日、ゆまに書房発行)39ページ。</ref>、日本政府は急いで復興作業に取り組もうとした。
: 日本では、第一次世界大戦終結当時から[[鉄道の電化|鉄道電化]]によって石炭エネルギーに代えようという計画があり、戦後の[[新幹線]]計画の基となった「[[弾丸列車計画]]」すなわち主要幹線および山岳線区の大規模な電化計画が立てられ、すでに一部で工事を進めていたが、軍部に反対されて中断していた。空襲被害によって発電所や変電所が破壊されると交通がマヒしてしまうというのがその理由であった。平和国家としての再出発に際し、政府はこの計画を復活させ、戦前に着工していたトンネルを利用して長期的な新幹線計画を再編することになった。
: ところがGHQはここでも厳しい制限を課し、電化工事のほとんどが禁止された。GHQは新車両の製造にも制限を加え、フィリピンからアメリカ製SLを移送させたりした。GHQは日本にもディーゼル化を勧めた上で日本にアメリカ製の在庫の[[ディーゼル機関車]]を購入させようとしていた{{efn|ただし、これはGHQが電化計画自体に理解がなかったことが原因となっていたようである。オーストラリアでは鉄道はほとんど使用されていなかったし、イギリスやアメリカではまだディーゼル機関車が主流だった。}}。電化による[[動力分散方式|動力分散]]を計画していた日本にとっては、アメリカ製SLもディーゼル機関車もありがた迷惑であったが、電化計画と新幹線計画は主権回復後を待たざるを得ず、それまでの期間はSLで場を繋いでやり過ごすことにした。
: その一方で、客車の更新に関しては寛容であった。連合国軍の民間運輸局(CTS)は国有鉄道や後身の[[日本国有鉄道]]に対して、全ての客車を木製から鋼鉄製に変更する命令および、[[リクライニングシート]]を備えた客車を二等車を中心に製造する命令を下している。1949年(昭和24年)当時、国有鉄道が所有していた約1万1000両の客車のうち半数の55005,500両が木製だったこともあり、安全性の向上と修理費の節減のために必要であった。国鉄はこれを受けて、1956年春までに全車体の載せ替え工事を済ませている<ref>『ビジュアル 日本の鉄道の歴史2 大正後期~昭和前期編』(2017年5月25日、ゆまに書房発行)44ページ。</ref>。
: 1949年(昭和24年)[[6月1日]]には[[日本国有鉄道]]が発足したものの、直後の7月、国鉄初代総裁[[下山定則]]が謎の死を遂げる[[下山事件]]が発生、1か月以内に[[三鷹事件]]、[[松川事件]]が連続発生している。この影響で国鉄の職員の数が49万人にまで減少している<ref>『ビジュアル 日本の鉄道の歴史2 大正後期~昭和前期編』(2017年5月25日、ゆまに書房発行)41ページ</ref>。
: [[戦時統合|戦時中に統合]]されていた大都市の私鉄の多くは分離・独立した一方、[[戦時買収私鉄|戦時中に国有化された私鉄]]については、引き続き国鉄が所有することになった<ref>『ビジュアル 日本の鉄道の歴史2 大正後期~昭和前期編』(2017年5月25日、ゆまに書房発行)40ページ。</ref>{{efn|なお、戦時中に[[富山地方鉄道]]から国鉄によって買収された国鉄富山港線(旧・[[富山地方鉄道富山港線|富山地方鉄道富岩線]])については、その後[[富山ライトレール]]富山港線を経て、[[2020年]][[2月22日]]に買収前の[[富山地方鉄道]]の路線(富山地方鉄道富山港線)に復帰した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55944650R20C20A2LB0000/ |title=富山ライトレール、2月22日に富山地鉄が吸収合併|newspaper=日本経済新聞|date=2020-02-21|accessdate=2020-02-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://news.mynavi.jp/article/railwaynews-171/|title = 富山地方鉄道・富山ライトレール合併、富山港線が77年ぶり地鉄に|publisher = [[マイナビニュース]]|date = 2019-05-02|accessdate = 2019-08-10}}</ref>。}}
: 1949年(昭和24年)[[9月15日]]には、1944年4月1日以降姿を消していた[[特別急行列車|特急列車]]が復活、東京 - 大阪間の『へいわ』が戦前の『[[つばめ (列車)|つばめ]]』より1時間遅い9時間で結ばれた。この際、連合国軍から一等車や食堂車を連結するため、客車を返還してもらっている<ref>『ビジュアル 日本の鉄道の歴史2 大正後期~昭和前期編』(2017年5月25日、ゆまに書房発行)42ページ</ref>。
378 ⟶ 376行目:
[[画像:Japan Airlines Martin 2-0-2 Mokusei Air Hostesses 25 October 1951.png|サムネイル|220ピクセル|日本航空の[[マーチン2-0-2]](1951年)]]
: 1945年(昭和20年)[[10月10日]]に終了した[[緑十字飛行]]を最後に、連合国令により日本企業および政府による航空機の開発および運航は全面的に禁止され、さらに[[大日本航空]]によって定期運航されていた[[バンコク]]や[[新京]]、[[サイパン]]などへの国際線の運航も全面的に禁止された。
: 1947年以降に[[東京国際空港]]などに[[ノースウェスト航空]]や[[英国海外航空]]、[[カナダ太平洋航空]]などの定期旅客および貨物便の乗り入れが開始されたものの、[[1951年]](昭和26年)に[[日本航空 (曖昧さ回避)|日本航空]]が運航を開始するまで、日本企業による国内及び線・国際線の定期旅客および貨物便の運航は禁止されていた。しかしこの際も委託先のノースウェスト航空のアメリカ人運航乗務員による運航で、日本人の運航乗務員による運航は、[[1953年]]の[[日本航空]]株式会社(特殊会社)設立に伴う日本航空の自主運航開始まで行われなかった。
; 船舶
{{節スタブ}}
386 ⟶ 384行目:
=== 占領軍への労務と物資の調達 ===
: 1945年(昭和20年)9月3日、[[SCAPIN]]-2「日本政府は連合軍の必要とするすべての資材を供給しなければならない。日本政府は各地の占領軍司令官の指示された時と所に、必要な技能を備えた労働者を提供しなければならない。日本政府は占領軍の要求に従い、適切なすべての建物を提供しなければならない」が発令された。
: 1945年(昭和20年)9月22日に米国務省から発表された「降伏後二於ケル米国ノ初期ノ対日方針」には、占領軍の必要とする物資および役務の調達に関しては、そのため日本国民に「飢餓、広範囲の疾病及び甚だしき肉体的苦痛を生じない範囲」において日本政府が提供するよう指示している。
: 日本政府の占領軍向け支出は、1946年(昭和21年)度で一般会計予算の3分の1を超えていた。この費用は、占領軍の命令で「[[終戦処理費]]」あるいは単に「その他の費用」と粉飾して呼ばされていた<ref>J.ダワー著『敗北を抱きしめて』1999年</ref>。「終戦処理費」は約50億ドル(当時)に達した。
; 物資とサービスの調達例
393 ⟶ 391行目:
: 連合国軍は使用する兵舎、工場、飛行場、病院、通信、倉庫、学校、宿泊施設、交通機関、ビルディング、市民の土地家屋や娯楽施設を強制接収した。さらに、占領軍の兵舎や住宅の建設工事、施設や飛行場の清掃・整備、道路、橋梁の修理、舗装あるいは軍需品の運搬作業、日常生活上のサービス、娯楽提供者、家政婦など、多岐にわたる労働力を要求した。
: 1945年(昭和20年)10月2日に出されたSCAPIN-80から例を挙げると、「建築資材、燃料、布、家具、事務機材、石鹸、ろうそく、氷」などの23の物資、「娯楽(音楽・演劇・レスリングなど)、設備の修繕、洗濯、ドライクリーニング、靴の修繕、洋服の仕立て」などの19のサービスが列挙されている。
: 調達命令の形式がはっきりしなかった占領初期は、調達命令書を発行せず、各部隊や個人が自分の必要で勝手に注文をしてきた。物資は強制的に強奪されることも多かった。民家に押し入って勝手に物資を奪うことは普通であり、気に入った家に赤札を張って強制的に土地家屋を接収して住民を追い出した。日本人民間人を捕まえて「マネー、マネー」とって金品を奪う例も多かったが、それら事件の報道は禁じられた。
: 連合国軍将兵の[[買春]]のための女性調達と施設の建設も命じられており、都内の花柳界はあらかた連合国軍、その中でも関東を占領地域としていたアメリカ軍専用に接収された。
; 連合国軍のゴミ処理
: 1947年(昭和22年)2月27日に出されたSCAPIN-1548で、日本政府に占領軍の施設と住居から出たゴミと廃棄物の収集と処理の責任を負うように命じている。
: 命令書には「日本帝国政府が受け取る占領軍のゴミは、収集処理の費用と同等以上の価値があるため、これは占領軍へのサービスとは認められない。それゆえに、調達命令書は一切発行しない」とある。
; 占領初期の労務調達の実態
: イギリス軍やアメリカ軍は日本全国で基地や連合国軍の住居の建設を政府に命じた。また日本民間人から強制接収した住居の改造や修理、さらに接収した住居内で働かせるメイドや料理人や下男、占領軍へのサービス従事者など、占領軍が必要とする日本人労働者を差し出すよう日本政府に命じた。占領軍が日本人に給与を支払わずに済むのをいことに、占領軍の一家屋につき複数名の日本人をメイドや下男として召し抱え、権力を誇示することが通例となっていた。占領初期は、占領軍への不安から進んで就労に応じる日本市民はほとんどいなかったため、占領軍から直接に労務提供の命令を受けた地方庁、市町村、警察を通じ、強制的に行わせていた。
: この間、占領軍が現金ではなくチョコレートや食事などの物品を賃金の代わりに支給したり、占領軍が日本人労働者の逃亡を防ぐために身体に「マーク」を付けるなどの事例が報告されている<ref>防衛施設行政45年の軌跡</ref>。占領軍は基本的に日本人労働者を無報酬で働かせ、代わりに日本の自治体が米1合などを配給していた<ref>「道新」10月19日</ref>。1946年(昭和21年)3月18日のSCAPIN-764A、日本政府は占領軍に雇われている日本人と外国人への賃金支払いを日銀を通して行うよう命じられている。
; [[特別調達庁]]の設置
: 1947年(昭和22年)5月10日、[[特別調達庁法]](昭和22年法律第78号)が施行され、占領軍が必要とする施設(土地・建物)・物資・役務の調達・管理を任務とする[[特別調達庁]]の設立準備が始まり、9月1日に発足する。以降、労動力や物資の占領軍への調達は特別調達庁を仲介して行われることになった。労働の形態としては、日本政府が雇用し給与を支払ってやり、占領軍や占領軍の住居で働く間接雇用である。
: 1947年(昭和22年)のアメリカ軍[[三沢基地]]建設工事開始時には、全国各地から1万5千人の労働者が集められた。総事業費は当時で15001,500億円の負担を強いられ、のべ300万人の日本人労働者が建設に従事させられた。
: 朝鮮戦争勃発時には、調達庁を仲介せずに、占領軍が直接に所有者から土地建物を強制接収するという混乱が再び起こった。
: サンフランシスコ平和条約締結後、旧安保条約と日米行政協定に基づいて、不動産および労務以外の工事、役務、需品などについては、アメリカ軍やイギリス軍が国内業者と直接契約をすることにより調達することとなった。しかし旧日米安保条約では占領期の法的状況が継続され、陸海空軍の基地を日本中どこでも何所でも設定・維持することができ、必要な物資および労働者を調達することになった。1960年(昭和35年)の[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|新安保条約]]によって条件が改善されたが、今でも[[在日米軍]]基地問題、[[日米地位協定]]など多くの論争を残している。
 
=== 日本への食糧・物資援助と貸与 ===
[[File:1946-06-20 Japan Today.ogv|thumb|連合国軍占領下の日本(1946年)]]
 
第二次世界大戦後、日本本土では燃料不足や交通および流通網の損害、さらに友好国や占領地を含む諸外国からの輸入が途絶えたことなどによる食糧不足が進み、海外からの食料援助や貸与を受け入れることを余儀なくされた。日本が受けた支援は、ユニセフからの援助と、[[ララ物資]]、[[ケア物資]]の民間団体などである。アメリカ政府からはGARIOA2、EROA3に代表されるGHQを経由した物資輸出(貸与)が挙げられる。アメリカからの食料支給は、日本が輸入禁止を解きアメリカの要望を受け入れたことへの見返りでもあり、[[1954年]](昭和29年)に施行されたアメリカの[[余剰農産物処理法]]の最大対象先に日本が指定されたためである<ref name=matsuoka>[https://1000ya.isis.ne.jp/1541.html ラーメンと愛国] 松岡正剛の千夜千冊1541夜、2014年04月15日</ref>。しかし間もなく農業や漁業、交通網が復興したことでこのような援助は必要なくなった。
; 初期対日方針
: 連合国は占領目的の巨額な財政支出(例:[[終戦処理費]]として約50億ドル)と労働力を日本政府に負担させる一方で、日本の経済的困窮は日本の責任であると切り捨て、日本国民の努力でまかなうこととした。1945年(昭和20年)9月22日「降伏後二於ケル米国ノ初期ノ対日方針」には、「日本国民の経済上の困難と苦悩は日本の自らの行為の結果であり、連合国は復旧の負担を負わない。日本国民が軍事的目的を捨てて平和的生活様式に向かって努力する暁にのみ国民が再建努力すべきであり、連合国はそれを妨害はしない」との旨を明記してある。
416 ⟶ 414行目:
; 食料輸入禁止
: 占領期の日本は海外との自主的な貿易や渡航を禁じられており、海外からの寄付を含む輸出入はすべてGHQが統括していた。
: 1945年(昭和20年)9月29日に「本土に於ける食糧需給状況」をGHQに提出。日本政府は、1945年産米の収穫量を55005,500万[[石 (単位)|石]]と予想し、穀類約300万[[トン]]、砂糖100万トン、[[コプラ]]30万トン、[[ヤシ油]]5万トンの輸入を要請したが、極東委員会の対日食糧輸出不要論に遭い、食糧や物資の輸入は許されなかった。本国が大きな戦争被害を受けていたイギリスや中華民国、ソ連、フランスなどは日本に食料を輸出する余裕はなく、またアメリカは世界的食糧不足で解放地域からの援助要請が殺到していたため対日輸出には消極的で、1946年(昭和21年)2月、「日本にはいかなる食糧も輸出できない」と回答する。
; 食糧メーデー
: 1946年(昭和21年)5月19日、食糧を求めるデモが東京の各地で繰り広げられた。およそ25万人の民衆が皇居前に結集。「[[飯米獲得人民大会|食糧メーデー]]」と呼ばれる大規模なデモへと発展する。民衆の食糧飢餓への批判はGHQではなく日本政府に向けられていた。
; 米国からの食糧輸出解禁
: 1946年(昭和21年)2月、GHQは日本への食糧輸出禁止に対し、「輸入食糧によって日本の食糧[[配給 (物資)|配給]]制度を持続しなければ、占領政策が困難な事態に直面する」とアメリカ政府に抗議した。3月にアメリカの農務長官[[クリントン・プレスバ・アンダーソン]]の特別使節としてレーモン ド・L・ハリソン大佐を団長とする食糧使節団や、アメリカ飢餓緊急対策委貞会(委員長フーバー元大統領)が来日調査しGHQの要請を支持し、1946年(昭和21年)5月から10月、日本に対して長年月に及んだ経済封鎖が解かれ、68万トンの食糧が輸出されることになった。この輸出量は、日本側が当初要望していた量の25{{nbsp}}%弱であった。
: 1946年(昭和21年)7月から[[エロア資金]]による援助プログラムが始まり、1948年(昭和23年)からは[[ガリオア資金]]に吸収される。アメリカ政府が国内で余剰物資を買い付け、その資金は貸与である。ガリオア物資による援助の対象品目としては、米(11万566トン)、小麦(505万9307トン)、塩(51万6312トン)、砂糖(79万6956トン)、缶詰(16万1935トン)などの食糧に加え、パルプ・紙(3254トン(3,254トン)、肥料(313万5360トン)、化学医薬品(1099(1,099万988トン)、牛など動物(1万179頭)。
: 1954年(昭和29年)のアメリカの余剰農産物処理法により、日本への輸出が増え、とくに小麦は日本人の常食を米食からパン食に移行させる日米の方針により、日本が引き受けた余剰物資の約半分に上った<ref name=matsuoka/>。しかしこのころには日本の農業や漁業、流通網は完全に回復しており援助としての食糧輸入は不要であった。なおアメリカからの援助目的の輸入総額は1961年(昭和36年)の通産省の認定では17億ドルから18億ドルとされ、1962年(昭和37年)1月、日本政府は西ドイツの返済率にならって4億9000万ドルを15年かけて返済することに同意した。
; ララによる支援
{{See also|ララ物資}}
: 1946年(昭和21年)11月から1952年(昭和27年)6月までに行われた救援物資。アメリカ国内で[[反日感情]]の根強い中、[[サンフランシスコ]]在住の[[日系アメリカ人]]浅野七之助によって生まれた日本向けの支援団体。アメリカ国内の日系宗教団体、労組、社会事業団体など13団体により組織されていた。アメリカのみならず[[カナダ]]や[[ブラジル]]、[[アルゼンチン]]など多数の国にまたがり、多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供であったためその救援総額は不明であるが、推定で当時の金額で400億円とされている。
: 南北[[アメリカ大陸]]在住の日系人が寄付の中心であったが、日本国内での物資配付にあたってはGHQの意向により日系人の関与については秘匿され、「アメリカからの援助物資」として配付されていた。ララ物資の贈呈式を記念して、12月24日を[[学校給食記念日]]としている。
; ケアによる支援
: 元々は1945年6月に、やはり戦災に見舞われたヨーロッパの困窮者に食糧や衣料などの援助物資を発送するために、アメリカの22団体が協力して設立されたNGO。日本に対する支援は1948年(昭和23年)から始まり、1955年(昭和30年)までの8年間、学童、青少年を対象に食糧、衣料、医薬品、学用品、寝具類などを無償配布した。8年間にわたった日本への援助総額は約290万ドル(当時)。
; ユニセフによる支援
: 1949年(昭和24年)からユニセフミルクとユニセフ原綿や衣料品が送られ、児童の給食や衣服に加工して配給した。ユニセフからの支援は主権回復後も続き、1964年(昭和39年)までに約65億円(当時)の支援を受けた。
434 ⟶ 432行目:
=== 占領軍等の犯罪 ===
{{See also|占領期日本における強姦}}
連合軍の統治下、外地から引き揚げようとしていた民間人が、満州国や日本の占領地域に侵略してきたソ連兵や朝鮮人や中国人から、虐殺や強姦、強制拉致、監禁、強奪などの激しい被害を受け続けていた。また日本から分断されていた沖縄県だけでなく、日本本土内においてもアメリカ軍兵士による夥しい暴行、殺人、強奪、レイプ事件が日常的に発生していた。占領初期の1か月、神奈川県下だけで29002,900件の強姦事件が発生し、神奈川県では女学校を閉鎖するなどの処置をとって強姦の防御に努めた。1945年(昭和20年)9月2日から1952年(昭和27年)4月28日にわたる約7年間の占領期間中、本土だけでも少なくとも25362,536件の占領軍による殺人と3万件以上の強姦事件が発生したとされている。
 
; 特殊慰安施設
{{See also|特殊慰安施設協会}}
: アメリカ軍が日本に進駐したわずか最初の10日間に、神奈川県下で13361,336件の強姦事件が発生した。[[沖縄戦]]でも目を覆うような強姦事件が繰り返されており、日本政府はそれらの被害報告を受け、アメリカ兵の強姦対策として銀座に慰安施設を設け、特殊慰安婦を集めた。同年9月28日、今度は連合国軍医総監から東京都衛生局に対し、慰安施設の増設を指示された。9月の同じ時期、千葉県と神奈川県でもアメリカ軍司令部から慰安所を設けるように要請を受けた。東京都や神奈川県の慰安所では開業前日にアメリカ兵が大挙して押し寄せ、無差別に強姦を行った。神奈川県の慰安所では、抵抗した慰安婦をアメリカ兵が絞殺する事件も起こっている。
: また国・四国地方においても、イギリス連邦軍兵士向けの慰安施設を設けたほか、性病が蔓延したためイギリス軍による性病対策の講義が基地の中で開かれている<ref>『英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争』P.114 サー・セシル・バウチャー著 社会評論社 [[2008年]]</ref>。
: 慰安所設置によって、確かに強姦事件は減少したと考えられている。実際に特殊慰安施設協会が廃止される前の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均数は40件だった一方、廃止後の強姦事件と婦女暴行の数は1946年前半の1日平均数で330件に増えている。
: 1945年(昭和20年)の12月25日、東京都の渉外部長(占領軍司令部の命令にサービスを提供する部署)だった[[磯村英一]]は、SCAPの将校から呼び出され、当時焦土と化していた「ヨシワラ」に宿舎を造営して復活させ、占領軍の兵隊のための「女性」を集めるよう命令された。東京都はすでに女性や子供をできるだけ田舎に避難させる政策をとっていたが、占領軍の命令には抗う術もなく、磯村自ら焼け跡地区で困窮生活をしていた一般女性に、食糧を支給すると約束して集める苦渋の決断を下した。都内の焼け残った花柳界も東京をはじめとする関東地域の占領業務に当たっていたアメリカ軍専用に接収された。
; レイプ記録に日英米間の差異
: イギリス連邦占領軍の公式報告では、軍所属の将兵が1946年5月から1947年までの期間に57件、1948年1月から1951年9月の間に、さらに23件の強姦を犯し有罪判決を受けたとされる。しかしながら、1946年2月から4月にかけてのイギリス連邦占領軍による公式占領当初の重大な犯罪の公式統計は存在しない{{sfn|Gerster|2008|pp=112–113}}。また、1945年8月以降のイギリス軍将兵の重大な犯罪の公式統計も存在しない。
: アメリカ軍の[[ロバート・アイケルバーガー]]将軍は、[[特殊慰安施設協会]]に乗り込んだ数百人のアメリカ軍兵士が女性たちをレイプしたことを[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]元帥と話し合ったことや、アメリカ軍兵士による日本女性への暴行を防ぐために日本人が設立した自警団を武装した戦闘車両で鎮圧し、自警団幹部らを長期間にわたって刑務所に監禁したことなどを回顧録に残しているが<ref>Terese Svoboda [http://www.japanfocus.org/-terese-svoboda/3148 U.S. Courts-Martial in Occupation Japan: Rape, Race, and Censorship - See more at: http://www.japanfocus.org/-terese-svoboda/3148#sthash.J2EixRRr.dpuf] The Asia-Pacific Journal: Japan Focus</ref>、占領初期のGHQによる1945年9月の「月例報告」では「日本人はアメリカ兵に協力的であり、占領は秩序正しく、流血なしで行なわれた」などと記載されている。また、GHQ外交局長W.J.シーボルドは「アメリカ兵たちはジャップの女なんかには、手を出す気もしない」と記していた。『敗北を抱きしめて』の著者[[ジョン・ダワー]]も、アメリカ軍自身が日本人慰安婦および施設を要請したことについては言及していない。
: 他方、特別高等警察(1945年〈昭和20年〉10月4日に解散させられ、記録は焼却、一部没収済み)の現存するファイルによれば、1945年8月30日から9月10日の間、占領軍による強姦事件は9ワイセツわいせつ事件6、警官に対する事件77、一般人に対する強盗・略奪など424件の記録が残っている。
: [[防衛施設庁|調達庁]]の資料では、7年の占領期間中にアメリカ軍兵士に殺された者が25362,536人、傷害を負った者が30123,012人とある。警察資料では、アメリカ軍兵士が日本人女性を襲った事件は2万件記録されている。なおイギリス軍兵士やそれ以外の将兵による事件記録は残されていない。
; 緘口令
: 1945年(昭和20年)9月19日、GHQから[[プレスコード]]が発令され、占領軍の犯罪行為の報道が日本のメディアから消えた。検閲の存在そのものにも緘口令が敷かれていた。連合国軍兵士の凶悪犯罪は「大男」と記すことによって検閲を免れていたことが、暗黙の了解となっていた。
; 私生児
: アメリカ軍兵士による強姦などにより「[[GIベビー]]」と呼ばれる占領軍兵士と日本人女性との混血児が大量に生まれる。混血児の多くは父親が誰か分からず、むろん母親からも歓迎されず、母親の親族や地域社会からも排斥されたため、線路脇などに遺棄されたり、嬰児の遺体を電車の網棚に遺棄するなどされていた。1948年(昭和23年)には混血児に対する民間の救済施設「[[エリザベス・サンダースホーム]]」が設立された。しかし同様の施設を日本政府やアメリカ軍が作ることはなかった。同1948年(昭和23年)に[[優生保護法]]が施行され、戦前は禁止されていた人工妊娠中絶が法的に認められた。1953年(昭和28年)に厚生省が行った調査によると、国内で49724,972人のGIベビーが確認されている。
{{See also|二日市保養所}}
 
; [[サンフランシスコ平和条約]]締結以降
: サンフランシスコ平和条約19条によって、「日本国と日本国民は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対するすべての請求権を放棄し、占領軍又は当局の存在、職務遂行又は行動から生じたすべての請求権を放棄。占領時代の指令や法律下での連合軍の作為・不作為による行為は民事又は刑事の責任に問ういかなる行動もとらない」とされた。
: 連合国軍による占領終了後の1958年においても、アメリカ軍兵士の日本における一年間の犯罪は公式に記録されていたものだけでも99989,998件、婦女暴行事件の件数は18781,878であった。
: 1971年(昭和46年)までアメリカ軍軍政下にあった沖縄県でのアメリカ軍人・軍属による刑事事件は、1953年(昭和28年)から1971年(昭和46年)までの18年間で1万5220件(このうち死亡222件、傷害560件)が記録されている。沖縄が日本に返還された後も沖縄県でのアメリカ軍人・軍属による刑事事件は多発している。
: 1961年(昭和36年)11月11日、日本政府は『[[連合国占領軍等の行為等による被害者等に対する給付金の支給に関する法律]]』を定め、「連合国占領軍等の行為等により負傷し、又は疾病にかかつた者、及び連合国占領軍等の行為等により死亡した者の遺族」に対し、日本政府から給付金を支給するように法制化した<ref>http://hourei.hounavi.jp/hourei/S36/S36HO215.php</ref>。
463 ⟶ 461行目:
 
== マッカーサーへの手紙 ==
占領期を通じて、内閣総理大臣を始めとする日本国民から連合国軍への手紙は50万通に及んだ。手紙の主は農民から学生、元右翼の巨頭でA級戦犯容疑者、公職追放中の政治家、県議会議員、工場労働者、とその職業、階層を選ぶことはかった。手紙の内容はそのほとんどがマッカーサーへの称賛であり批判は少数であった。その手紙の内容とは、松茸を送るから受け取って欲しい、就職の斡旋を頼みたい、マッカーサー元帥様の銅像を作りたい、村内の揉め事の裁決を願いたい、あなたの子供を産みたいという内容まであった。「世界中の主様であらせますマッカーサー元帥様」「吾等の解放者たるマッカーサー元帥閣下」「広大無辺の御容相」「日本の将来及ビ子孫の為め日本を米国の属国被下度(くだされたく)御願申上候」「私は貴国が枉げて日本を合併して下さることによりてのみ日本は救われるのだと固く信じます」「植えたカボチャが育ったので息子の観察日記を読んで」「私の恩師もマッカーサーというのですがもし親戚なら連絡の橋渡しをしてほしい」「競馬場で悪い事してる奴をなんとかして」。占領下のドイツの軍政責任者には、マッカーサーに寄せられたような熱烈な声は聞かれなかったという<ref>『拝啓マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』 袖井林二郎 岩波書店 2002/6/14</ref>
「世界中の主様であらせますマッカーサー元帥様」「吾等の解放者たるマッカーサー元帥閣下」「広大無辺の御容相」「日本の将来及ビ子孫の為め日本を米国の属国被下度(くだされたく)御願申上候」「私は貴国が枉げて日本を合併して下さることによりてのみ日本は救われるのだと固く信じます」「植えたカボチャが育ったので息子の観察日記を読んで」「私の恩師もマッカーサーというのですがもし親戚なら連絡の橋渡しをしてほしい」「競馬場で悪い事してる奴をなんとかして」
占領下のドイツの軍政責任者には、マッカーサーに寄せられたような熱烈な声は聞かれなかったという。
<ref>『拝啓マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』 袖井林二郎 岩波書店 2002/6/14</ref>
 
== 離日後のマッカーサーの米議会証言 ==
765 ⟶ 760行目:
== 江戸時代におけるマシュー・ペリー提督(黒船来航)との関係 ==
[[ファイル:Perry_flag_1945.jpg|サムネイル|[[第二次世界大戦]]後、戦艦ミズーリにおいて[[日本の降伏文書]]([[日本の降伏]])の際、右上の[[星条旗]]の星は31個あり、ペリーが日本に開国を要求した当時の星条旗である。]]
GHQによる日本占領時、[[江戸時代]]の[[幕末]]にて[[アメリカ海軍]]の[[マシュー・ペリー]]による'''[[黒船来航]]'''(日本に対する強制的な開国)を連想させることをさせた<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=「なぜアメリカ相手に戦争?」ペリー来航から“88年の怨念”が導いた太平洋戦争の末路とは |url=https://bunshun.jp/articles/-/15302 |website=文春オンライン |access-date=2023-10-18 |first=小池 |last=新}}</ref>。
 
日本による[[真珠湾攻撃]]の直後、[[ホワイトハウス]]では31州の星条旗を掲げた。これは再び日本に上陸し、アメリカ合衆国の意向によって強制的な再開国させるという意味である<ref name=":0" />。
773 ⟶ 768行目:
日本降伏の調印を終えたマッカーサーは米国民向けにこのような演説をおこなった。{{Quotation|今日、銃声は止み、悲惨な悲劇は終わった。我々は偉大な勝利を勝ち取った。きょうの私たちは92年前の同胞、ペリー提督に似た姿で東京に立っている。|ダグラス・マッカーサー}}{{要出典範囲|ペリーが日本に強制的に開国した当時の星条旗を飾られた理由としては諸説ある。[[黒船来航]]そのものが、アメリカ合衆国の意向によって、日本([[江戸幕府]])は強制的に開国されたというそのまま意味となり、これは事実上のアメリカ合衆国による日本([[江戸時代]])占領と見なし、アメリカ合衆国は2度目の日本占領を成し遂げたという説がある|date=2024年9月}}。
 
最も有力な説は、幕末のアメリカ合衆国による日本の強制開国によって、その後の近代化([[明治維新]])の道を開いたにもかかわらず、徐々に日本は当時の恩を忘れ仇で返し、アメリカ合衆国に対して歯向かったにもかかず、日本自身が壊滅的な悲惨な結果を招いた([[日本本土空襲|アメリカ合衆国による日本本土空襲]]や[[沖縄戦]]、[[日本への原子爆弾投下|アメリカ合衆国による日本への原子爆弾投下]])。 再びアメリカ合衆国によって日本を再開国させ、二度と歯向かわせないように教育する説がある<ref name=":0" />。
 
== 脚注 ==