「8時だョ!全員集合の歴史」の版間の差分

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=== 1971年 ===
*[[1月1日]]([[金曜日]])、初の正月SP版『お正月だョ!全員集合』を14:45 - 15:56の[[ノンプライム|ノンプライム枠]]で放送。なお翌2日(土曜日)にも通常版を放送、2日連続して『全員集合』が見られた。なおこのSPは放送回数にカウントされない。
*[[1月23日]]と[[1月30日|30日]]に、視聴率が50.4%を記録する<ref name="videoresearch"/>。
*[[3月27日]]この日の放送を最後に番組が一旦終了。最終回には、クレージーキャッツ・[[由紀さおり]]・[[森進一]]・佐良直美・[[いしだあゆみ]]が出演。前半コントでは、クレージーキャッツ以外のゲストが参加。番組中盤には、最終回となる山本直純音楽コーナーでドリフの歌をクレージーキャッツ以外のドリフとゲストで交互に歌う企画。エンディングでは、次の番組を引き継ぐ[[ハナ肇]]といかりやのやりとりがあり、エンディングを迎えた。[[4月3日]]から[[9月25日]]の間は、[[ハナ肇とクレージーキャッツ]]出演の『[[8時だョ!出発進行]]』を放送。初回の観覧募集のテロップは、番組最終回で初めて流れた。
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=== 1972年 ===
*[[1月1日]]、開始後初めての[[元日]]放送{{Efn|なお、この年は土曜日から始まる年だったが、[[閏年]]のため[[大晦日]](12月31日)は日曜日だった。}}。このため、当時ドリフターズがレギュラー出演していた[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の新春恒例特番『[[新春かくし芸大会|新春スターかくし芸大会]]』は、翌[[1月2日|2日]]に放送した。
*[[2月26日]]、100回目の[[録画放送]]、[[ツーレロ節]]を歌ったシーンは最終回でカラーで流れた。
*[[4月1日]]、当時[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]との[[クロスネット局]](FNSのみ加盟)だった[[福島テレビ]]が、『全員集合』の放送を開始。これにより22局同時ネット。
*[[6月10日]]、長寿コーナーの「[[少年少女合唱隊]]」が始まる。それまでは、いかりやをドクターとする心の[[診断室]]「悩みあり〜」のコーナーであった、なお前の週には歴代出演回数3位の[[沢田研二]]が初出演。
*[[7月15日]]、初の[[東北]][[公演]]、視聴率が45.7%を記録する<ref name="videoresearch"/>。
*9月、それまで[[島根県]]のみを[[放送エリア]]にしていた[[山陰放送]]が、[[鳥取県|鳥取]]・[[島根県|島根]]両県の[[電波相互乗り入れ|相互乗り入れ]]に伴い、鳥取県でも『全員集合』の放送を[[9月23日|同月23日]]より開始{{Efn|山陰放送の本社は鳥取県[[米子市]]にあるが、相互乗り入れ前は島根県のみをテレビの放送対象地域としていた。なお同局のラジオ事業は開局当初から鳥取・島根両県を放送対象地域としている。}}。
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|<small>341</small>
|<small>10月9日</small>
|<small>ドリフの[[八丁目のダメ親父!カンナ・トンカチ・キリキリ舞い|チョウナ・ゲンノウ・キリキリ舞い]]</small>
|<small>文京公会堂</small>
|<small>大工コント</small>
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|<small>359</small>
|<small>2月12日</small>
|<small>ドリフの[[俺たちに明日はない]]</small>
|<small>文京公会堂</small>
|<small>ギャングコント</small>
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|<small>366</small>
|<small>4月2日</small>
|<small>ドリフの大家VS店子 [[仁義なき戦い]]</small>
|<small>行田産業文化会館</small>
|<small>アパートコント</small>
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|<small>368</small>
|<small>4月16日</small>
|<small>ドリフの[[新撰組]]を始末しろ</small>
|<small>入間市民会館</small>
|
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|<small>369</small>
|<small>4月23日</small>
|<small>ドリフの[[野球狂の詩|野球狂の食堂]]</small>
|<small>渋谷公会堂</small>
|
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|<small>375</small>
|<small>6月4日</small>
|<small>ドリフの[[フレンチ・コネクション|ハレンチコネクション]]</small>
|<small>渋谷公会堂</small>
|<small>刑事コント</small>
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|<small>379</small>
|<small>7月2日</small>
|<small>ドリフのガンマン [[昼下りの決斗|昼下がりの決闘]]</small>
|<small>川越市民会館</small>
|
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|<small>393</small>
|<small>10月15日</small>
|<small>ドリフの[[名もなく貧しく美しく]]</small>
|<small>渋谷公会堂</small>
|<small>母ちゃんコント</small>
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|<small>433</small>
|<small>8月5日</small>
|''<small>ドリフの強盗!工事現場に何埋めた?</small>''<ref group="注">{{Efn|オンデマンド配信では、「ドリフのGメン!ギャング団を捕まえろ!!」に変更。</ref>}}
|<small>取手市民会館</small>
|
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この年の年間平均視聴率も34.3%と3年ぶりに30%台に乗せた。
 
3月に『欽ドン』終了後、フジテレビは単発枠を編成せず、[[2時間ドラマ|長時間ドラマ]]と[[学園ドラマ]]人気に便乗、単発ドラマ枠『[[土曜ナナハン学園危機一髪]]』を半年放送し、9月を以て6年続いた土曜90分枠を廃止、そして10月から、日本テレビでは90分枠は継続するも単発枠を中断し、[[三波伸介 (初代)|三波伸介]]司会の演芸バラエティ『[[爆笑ヒット大進撃!!]]』を放送、一方フジテレビでは先述の萩本バラエティとの枠交換で、[[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|月曜21時ドラマ(「月9」の前身)]]枠が移動し、ドラマ『[[ピーマン白書]]』を放送したが、『全員集合』に太刀打ち出来ずに6回で打ち切られた。
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|+
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|<small>5月16日</small>
|<small>ドリフの香港ギャング団・縄ばりを守れ</small>
|<small>[[ららぽーとTOKYO-BAY|<small>船橋ららぽーと]]劇場</small>
|
|<small>30.2%</small>
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|<small>669</small>
|<small>2月26日</small>
|''<small>ドリフの本邦初公開・[[嵩山少林寺|少林寺]]への道?</small>''
|<small>入間市民会館</small>
|<small>2月16日収録</small>
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|<small>724</small>
|<small>3月24日</small>
|<small>ドリフの「[[荒野の七人|荒野の5人]]」?</small>
|<small>福生市民会館</small>
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|<small>741</small>
|<small>7月21日</small>
|<small>ドリフの[[影の軍団]]・忍びの道はツライでござる?</small>
|<small>日本青年館</small>
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*[[6月1日]]の放送で、全員集合最後の回り舞台を使用。
*[[7月19日]]、ついにTBSが「1985年9月限りで番組を終了する」と正式に発表。TBSは番組終了発表の中で「'''生放送を公開形式でやっていくことには限界があった。ナンセンスギャグもやり尽くした'''」ことを理由に挙げていた<ref>『朝日年鑑1986』p.331。</ref>。
*[[7月27日]]〜[[8月31日]]、6週間にり、メンバーが選んだ夏休み傑作特集を放送。1週目には、生放送の舞台裏を特集。
*[[9月7日]]、全員集合最後のスタジオ以外の公会堂での生中継になる、放送800回を達成。
*[[9月14日]]、この回をもって後半コントが最後を迎える。
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*[[2022年]][[2月16日]]放送の『[[しゃべくり007]]』(日本テレビ系)にて、ザ・ドリフターズ(加藤茶・仲本工事・高木ブー)がゲスト出演した際にオープニングの一部、たらいの落ちるシーン、加藤茶のちょっとだけよ、少年少女合唱隊(早口言葉)、陽のあたる急な坂道の映像が、'''映像提供:TBS「8時だョ!全員集合」'''として放送された。
*[[2024年]][[9月16日]]には当番組開始55周年とザ・ドリフターズ結成60周年を記念した3時間半の特番『'''今夜復活! 8時だョ!全員集合 不適切だけど笑っちゃう!ドリフ伝説コントBEST20!'''』が放送された<ref>[https://encount.press/archives/674286/ 伝説番組『8時だョ!全員集合』が復活 全803回の放送から珠玉の傑作コント20本を放送] - ENCOUNT、2024年9月9日配信、同日閲覧</ref>。
*[[2025年]][[4月6日]]には前年に続き、3時間特番第2弾として『'''今夜復活!8時だョ!全員集合 ドリフ伝説コント20連発'''』が放送された。
*[[2025年]][[10月13日]]には前回に続き、3時間特番第3弾として『'''復活!!8時だョ!全員集合'''』が放送された。全員集合のコント名場面の他に「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の名場面も放送。
 
== 視聴率 ==
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この番組については、本質的には'''舞台コントとして入念に練り込まれた笑い'''こそが最大の売りであり、[[アドリブ]]や出演者に起きる[[アクシデント]]の演出で笑いを取る事は一貫して是としなかった。
 
ただし、16年間という長期間にり[[生放送]](一部例外あり)・[[公開放送]]で続けられた番組であったため、コントやコント以外でも、放送中のトラブル・アクシデントや出演者を巡る出来事は数多く発生している。本項ではこれらについて記述する。
*1970年[[7月2日]]、加藤が[[交通事故]]を起こし、約1か月の謹慎。この間、仲本が加藤のいじられ役を代行<ref name="tvguide771202"/>。
*1972年[[4月1日]]、[[小田原市民会館]]でオープニングが終わってCMに入った時に回り舞台を動かし反転させて裏に控えていたセットを表へ出そうとしたが、スイッチを入れても全く動かず、何とか場をつなげようとしてちょうどトイレへ行こうとしていた[[池畑慎之介|ピーター]]をいかりやが呼び止めて予定されていた歌を歌うよう要請。オープニング後のCM明けに急遽歌のコーナーという異例の放送となったが、ピーターの歌の間に回り舞台を総点検、改めてスイッチを入れたら舞台が動いてコントのコーナーに入ることが出来た<ref name="tvguide771202">[[週刊TVガイド]] 1977年12月2日号 p.41 - 43「『8時だョ!全員集合』400回 茶の間をお騒がせして“スンズレイしました”」</ref>。
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*1980年9月、いかりやが[[声帯ポリープ]]の手術を受けた都合で、[[9月13日|13日]]と[[9月20日|20日]]の放送に声を出さずに出演した。13日放送のオープニングで、仲本が[[鉄琴]]を鳴らした後、「'''長らく世間に迷惑をかけたいかりやが声を出せない'''」旨を知らせた。「8時だョ!」のかけ声は加藤、「おいっすー!」「行ってみよう!」のかけ声と前半コントのツッコミ役は志村、少年少女合唱隊の司会は仲本、後半の進行役は高木と他メンバーが持ち回りでいかりや役を代行した。
*1981年
**[[2月18日]]、仲本と志村が番組プロデューサーの居作と共に競馬の[[ノミ屋|ノミ行為]]で任意の事情聴取を受け[[書類送検]]されたことが発覚、約1か月にり謹慎。仲本と居作は[[略式起訴]]され[[罰金刑]]となる(志村は賭け金が小額だったこともあり[[起訴猶予処分]])。この期間中、いかりや、加藤、高木の3人で番組やコントを進行した。仲本と志村の代わりに椅子などを使う形でコントを進行し、場がしらけると加藤が[[松村和子]]の『[[帰ってこいよ]]』を歌っていた。また、この間に新しいギャグ、加藤の「5秒前、4、3、2、1、デーン」と高木の「[[ピップエレキバン]]」が生まれた。この間、視聴率が平常に比べ10%アップしていた(不祥事発覚後初放送の同年[[2月21日]]の放送時は47.6%であった)。また仲本・志村復帰後、学校コントで「英語で“馬”は?」と聞かれた仲本が「もうやってません」と答え、志村が突っ込む自虐ネタもあった。
**[[3月14日]]、ゲストが坂道の上にある一軒家に駆け上がるコント「陽の当たる急な坂道」で、[[細川たかし]]がアキレス腱を切断し、長期入院を余儀なくされた。後に復帰したものの、仕事量が激減した細川は後日『[[欽ちゃんのどこまでやるの!?]]』にゲスト出演した際、[[萩本欽一]]に「仕事ないの?じゃあ毎回来る?」といわれ、同番組にレギュラー出演することとなった。このことがきっかけで、当時のシングル曲「[[北酒場]]」を『欽どこ』で毎回歌うこととなり、それにより大ヒットとなった。
*:{{See also|北酒場|欽ちゃんのどこまでやるの!?}}