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{{サッカー選手
'''野津 謙'''('''のづ ゆずる'''、[[明治]]32年([[1899年]])[[3月12日]] -[[昭和]]58年([[1983年]])[[8月27日]])は、[[医師]]([[小児科]]医)、[[医学博士]]で元[[サッカー選手]]、サッカー指導者、第4代[[日本サッカー協会|日本蹴球協会]]([[日本サッカー協会]](JFA))会長。元[[国際サッカー連盟]]([[国際サッカー連盟|FIFA]])理事。日本サッカー近代化推進者。[[1923年]][[東京帝国大学]][[医学部]]卒。[[1934年]][[ハーバード大学]][[公衆衛生]]学部卒。
| 名前 = 野津 謙
| 画像 = Yuzuru Notsu.jpg
| 本名 =
| 愛称 =
| カタカナ表記 = ノヅ ユズル
| アルファベット表記 = NOZU Yuzuru
| 原語名 =
| 原語表記 =
| 国 =
| 生年月日 = [[1899年]][[3月12日]]
| 出身地 = {{JPN1889}}, [[広島県]][[広島市]]
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1899|3|12|1983|8|27}}<br />{{JPN}}, [[東京都]][[世田谷区]]<ref name="asahi"/>
| 身長 =
| 体重 =
| 所属チーム名 =
| ポジション =
| 背番号 =
| 利き足 =
| ユースクラブ1 = [[東京大学ア式蹴球部|東京帝国大学]]| ユース年1 = 1919-1923
| 代表1 = {{JPNf}}<ref>[http://www.jfa.or.jp/archive/daihyo/daihyo/data/AGame.pdf 日本代表 試合別出場記録]</ref>
| 代表年1 = 1921
| 代表出場1 =2
| 代表得点1 = 0
| 代表成績更新日 =
}}
'''野津 謙'''(のづ ゆずる<ref name="闘魂90年の軌跡">[[#闘魂90年の軌跡]]「第一部 歴史編 草創期に礎築いた3偉人 (2)野津謙(大正12年卒)」、28–35頁</ref>、[[1899年]][[3月12日]]<ref name="闘魂90年の軌跡"/> - [[1983年]][[8月27日]])は、[[広島県]][[広島市]]出身の[[医師]]([[小児科学|小児科医]])、[[医学博士]]。[[サッカー選手]]、[[サッカー日本代表]]<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="footballjapan">[http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/person.php?person_id=10 日本サッカーアーカイブ 野津謙]</ref><ref name="todai-soccer">
{{Cite web|和書|date=|url=https://todai-soccer.com/?page_id=239|title=沿革・歴史|website=|publisher=[[東京大学運動会ア式蹴球部]]|accessdate=2025-06-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20250407203808/https://todai-soccer.com/?page_id=239|archivedate=2025年4月7日}}[http://www.lbsoccer.org/ 東大LB会]<!---[http://www.todai-soccer.com/club/history 東京大学ア式蹴球部]、[https://www.facebook.com/pg/Todai.ASHIKI/about/?ref=page_internal 東京大学運動会ア式蹴球部 - About | Facebook]---></ref>。サッカー指導者でもあり、第4代[[日本サッカー協会]]会長、[[アジアサッカー連盟]]副会長、[[国際サッカー連盟]]理事を歴任した<ref name="footballjapan"/>。柔和でおだやかな人柄で、回りから敬意と親しみをこめて「のづけん」さんと呼ばれた<ref name="闘魂90年の軌跡"/>。元[[日本損害保険協会]]会長の[[河野俊二]]は甥に当たる<ref>「東京海上火災保険会長 河野俊二さん 遺産寄付」[[朝日新聞]]、1994年2月22日、2014年9月2日閲覧</ref>。
 
== 生涯 ==
[[1899年]]([[明治]]32年)、[[広島県]][[広島市]]生まれ。父親も[[開業医]]だった。虚弱児童であったが<ref name="闘魂90年の軌跡"/>、[[1911年]](明治44年)4月<ref name="闘魂90年の軌跡"/>、広島県立広島第一中学校(現・[[広島県立広島国泰寺高等学校|広島県立広島国泰寺高校]])に進学すると<ref name="闘魂90年の軌跡"/>在学中に[[広島県立広島国泰寺高等学校#部活動|蹴球部(サッカー部)]]が創部されサッカーを始めた<ref>[http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/history.php?year=1914 1914年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ]</ref><ref name="hirosimaSoccor">『栄光の足跡 広島サッカー85年史』 「広島サッカー85年史編纂委員会」 財団法人 広島県サッカー協会、2010年、23頁<br />広島一中のサッカー部創設年は文献によって記述が異なる。</ref><ref name="bunka">横手三千雄{{PDFlink|[https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/archive/pdf/94183501_01.pdf <連載第7回> 人物を中心とした体育・スポーツ郷土史 ー広島県ー]}} [[文部省]]編『文部時報』
[[広島県]][[広島市]]生まれ。父親も[[開業医]]だった。サッカー部(蹴球部)創部間もない広島一中(現・[[広島県立広島国泰寺高等学校|広島県立国泰寺高校]])時代にサッカーを始め、大正5年([[1916年]])上京し[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]](一高)でサッカー部を作り、更に進学した[[東京帝国大学]]でもサッカー部(帝大蹴球団、[[東京大学ア式蹴球部]])を作る。当初は[[ボート]]競技が主でサッカーはかたわらにしていたが、[[大正]]10年([[1921年]])、[[上海]]で行われた第5回[[極東選手権競技大会]]に日本代表選手として参加する。この時の代表チームは日本サッカー史上初めての選抜チームといわれているが、[[東京教育大学|東京高等師範学校]](現・[[筑波大学]])+東京蹴球団で編成したチームに唯一、東京帝国大学から参加したのが野津だった。日本サッカー初の海外遠征も、全敗に終わった悔しさから、以降サッカーに打ち込むようになったという。またこの年の大日本蹴球協会([[日本サッカー協会]](JFA))の創立にも参画した。
[[ぎょうせい]] pp.86–94 1977年3月号 [[文化庁]]</ref>。同級の[[灘尾弘吉]]は新入生で入った途端、蹴球部の先輩から猛烈な観誘を受けたが、結局一年生の半分が蹴球部に入ったと述べている<ref name="bunka"/>。また[[田中敬孝]]はサッカー部の同期、[[広島東洋カープ|広島カープ]]設立で知られる[[谷川昇]]も、年は違うが同期で谷川もサッカー部だったという<ref name="hirosimaSoccor"/>。[[1915年]]([[大正]]4年)の正月休みに、野津ら蹴球部が学校の承諾なく無断で[[夜行列車]]に乗って[[神戸市|神戸]]に遠征し<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="bunka"/>、[[兵庫県立神戸高等学校|神戸一中]]、[[兵庫県立兵庫高等学校|神戸二中]]を撃破し<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="bunka"/>、神戸外人チームと関西大会で優勝した<ref name="bunka"/>。[[全国高等学校サッカー選手権大会|高校サッカー選手権]]が始まる三年前であった。
同じ年の夏に[[全国高等学校野球選手権大会|全国中等学校野球選手権]]の[[第1回全国中等学校優勝野球大会|第1回大会]]が開催され、同じ広島一中の野球部が全国大会に出場したが、当時の弘瀬時治校長が「蹴球を校技として奨励したい」という願望をもち、サッカーを推奨したため、虐げられた野球部は弱体化した<ref name="闘魂90年の軌跡"/>。サッカーが面白くてやめられなかった野津は、[[1916年]](大正5年)に上京し<ref name="闘魂90年の軌跡"/>、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]](一高)に入学<ref name="闘魂90年の軌跡"/>。一高にはまだサッカー部がなく、[[ボート]]部に入ったが<ref name="footballjapan"/>、サッカーへの思いを忘れられず、三年生となった[[1919年]](大正8年)厳冬の正月、野球部独占の向陵グラウンドにサッカーゴールを建てサッカー部を作り<ref name="footballjapan"/>、更に進学した[[東京大学|東京帝国大学]]でも[[東京大学運動会ア式蹴球部|ア式蹴球部]] (サッカー部)を作った<ref name="todai-soccer"/><ref>自著『野津謙の世界』国際企画、1979年、152頁</ref><ref name="library.footballjapan">[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=1000 賀川サッカーライブラリー チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)]</ref><ref name="nikkei14620">{{Cite web|和書|author=河尻定 |date=2014-06-20 |url=http://style.nikkei.com/article/DGXNASFK1800P_Y4A610C1000000?channel=DF280120166608&style=1&n_cid=DSJN001&page=3 |title=東京ふしぎ探検隊 サムライブルーの起源は東大? サッカー伝来の地は… |work=NIKKEI STYLE |publisher=[[日本経済新聞社]] |accessdate=2017-06-20}}</ref><ref name="msummit">{{cite news|date=2016-12-26|url =http://magazinesummit.jp/sport_entertainment/1435164161226|title=「東京大学」が天皇杯サッカー優勝3回を誇る強豪だった理由|publisher=マガジンサミット|accessdate=2017-06-20}}</ref><ref name="townnews">[https://www.townnews.co.jp/0202/2017/03/03/372679.html 高津物語 | 高津区 | タウンニュース 連載第九八六回 「小児科医・野津謙」]</ref>。
 
[[1921年]]([[大正]]10年)、[[上海市|上海]]で行われた第5回[[極東選手権競技大会]]に[[サッカー日本代表]]選手として参加<ref name="闘魂90年の軌跡"/>。この時の代表チームは日本サッカー史上初めての選抜チームといわれているが、[[筑波大学蹴球部|東京高等師範学校]](現・[[筑波大学]])+[[東京蹴球団]]で編成したチームに唯一、東京帝国大学から参加したのが野津だった。日本サッカー初の海外遠征も、全敗に終わった悔しさから、以降サッカーに打ち込むようになったという<ref name="library.footballjapan"/>。またこの年の大日本蹴球協会([[日本サッカー協会]](JFA))の創立にも参画した。
東京帝大のサッカー部をいかに強くするか、また当時はマイナーな[[スポーツ]]であったサッカーをいかに発展させるか思案した野津は、学生サッカーの改革、発展に奔走した。大正11年([[1922年]])には関東の大学チームで互いに切磋琢磨し競技向上をを図るべく、[[早稲田大学ア式蹴球部]]、[[東京教育大学|東京高等師範学校]]、[[東京商科大学]]と共に日本最初のサッカーリーグ「専門学校蹴球リーグ戦」を開始させた。この大会は翌年に一旦中止となったが、再開に奔走し大正14年([[1925年]])から「ア式蹴球東京コレッヂリーグ」として再開された。これは現在の「関東大学リーグ」の大本となった。また官立の[[旧制高校]]による全国大会をやれば、旧制高校のレベルアップが図られ、そうした選手たちが最終的に東京帝大に進学し、東京帝大サッカー部が強くなると考えた野津は、この開催にあたり学業を放り出してまで奔走し、当時スポーツ行政の主務官庁だった[[内務省]]など各方面と交渉、大正13年([[1924年]])東京帝大主催により、第1回全国高等学校(旧制)ア式蹴球大会の開催にこぎつけた。以降この大会は[[学制改革]]により旧制高校制度が廃止されるまで25年間続き、野津のもくろみ通り、[[竹腰重丸]]や[[岡野俊一郎]]ら優秀な人材が東京帝大に集まり黄金時代を形成。更に大学サッカー界の活性化にも大きく貢献し、先の「ア式蹴球東京コレッヂリーグ」と合わせ「大学サッカー」の時代を創ることとなった。
 
東京帝大のサッカー部をいかに強くするか、また当時はマイナーなスポーツであったサッカーをいかに発展させるか思案した野津は<ref name="闘魂90年の軌跡"/>、学生サッカーの改革、発展に奔走した<ref name="msummit"/>。[[1922年]](大正11年)には関東の大学チームで互いに切磋琢磨し競技向上を図るべく、[[早稲田大学ア式蹴球部|早稲田大学]]、東京高師、[[一橋大学|東京商科大学]]と共に日本最初のサッカーリーグ「専門学校蹴球リーグ戦」を開始させた<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="todai-soccer"/><ref name="library.footballjapan"/><ref name="salon2002">{{PDFlink|[https://www.salon2002.net/src/pdf/monthly_report/2008/2008-1.pdf 高校サッカーと民放テレビ-首都圏開催問題を中心に]}} 《2008年1月例会報告》p.7 2008年1月23日 2002オフィシャルサイト,[https://web.archive.org/web/20090912024453/http://www.salon2002.net/monthly/2008/03.html 3月例会報告 -「サロン2002in岡山」 - サロン2002オフィシャルサイト]2008年3月29日(Internet Archive),中塚義実{{PDFlink|[https://www.salon2002.net/src/pdf/monthly_report/2018/2018-4.pdf 「高校サッカー百年」をめぐって -部活動のあり方を考え]}} ≪2018年4月(通算260回)月例会報告≫ pp.2–3 2018年4月26日 2002オフィシャルサイト</ref><ref>[http://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/colum5.htm ボトム・アップでレベル・アップした戦前の日本サッカー]</ref>。この大会は翌年に一旦中止となったが、再開に奔走し[[1925年]](大正14年)から「ア式蹴球東京コレッヂリーグ」として再開された<ref name="todai-soccer"/>。これは現在の「[[関東大学サッカーリーグ戦|関東大学リーグ]]」の大本となった<ref name="todai-soccer"/>。また官立の[[旧制高校]]による全国大会をやれば、旧制高校のレベルアップが図られ、そうした選手たちが最終的に東京帝大に進学し、東京帝大サッカー部が強くなると考えた野津は<ref name="闘魂90年の軌跡"/>、この開催にあたり学業を放り出してまで奔走し、当時スポーツ行政の主務官庁だった[[内務省 (日本)|内務省]]など各方面と交渉、[[1924年]](大正13年)東京帝大主催により、第1回[[全国高等学校ア式蹴球大会]]の開催にこぎつけた<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="salon2002"/><ref>[http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/history.php?year=1923 1923年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ]</ref>。以降この大会は大日本蹴球協会とは直接関係なく発展し<ref>[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2046 旧制の全国高等学校大会は青春の気迫を現す場だった|賀川サッカーライブラリー]</ref>、[[学制改革]]により旧制高校制度が廃止されるまで25年間続き、野津のもくろみ通り、[[竹腰重丸]]や[[岡野俊一郎]]ら優秀な人材が東京帝大に集まり黄金時代を形成。更に大学サッカー界の活性化にも大きく貢献し、先の「ア式蹴球東京コレッヂリーグ」と合わせ「大学サッカー」の時代を創ることとなった<ref name="todai-soccer"/>。東京帝大サッカー部は、日本サッカー黎明期の中心的存在でもあった<ref name="todai-soccer"/>。[[サッカー日本代表#チームカラー|サッカー日本代表のユニホーム"サムライブルー"]]の起源は、東京大学ア式蹴球部の色が源流ともいわれる<ref name="todai-soccer"/><ref name="nikkei14620"/><ref name="msummit"/>。
大正12年([[1923年]])卒業後、同大学[[大学院]]で[[血清]]研究のち小児科教室副手。大正13年([[1924年]])JFA理事。昭和3年([[1928年]])[[アムステルダムオリンピック]]、昭和7年([[1932年]])[[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|ロサンゼルスオリンピック]]に日本選手団・本部役員として連続参加。この間欧州の医業も見学。小児科に於ける日本の予防医学の遅れを痛感。またアムステルダム五輪期間中、当時[[アムステルダム]]に事務所のあった[[国際サッカー連盟|国際蹴球連盟]]([[国際サッカー連盟|FIFA]])を訪れ大日本蹴球協会のFIFA加盟を申請。昭和5年([[1930年]])承認。昭和4年([[1929年]])[[日本体育協会|大日本体育協会]]専務理事。昭和6年([[1931年]])[[ジョン・ロックフェラー|ロックフェラー]][[フェロー]]に選ばれ[[ハーバード大学]][[公衆衛生]]部留学、小児衛生を専攻し昭和9年([[1934年]])同大学卒。帰国後、米国に於ける研鑽を活用し、日本の立ち遅れた予防医学の充実に尽力。当時は薬物中心の医学が主流だった。昭和10年([[1935年]])、東京都中央保健所学校衛生部長となり学校保健というまったく新しい分野に踏み込む。東京都の学童への[[ツベルクリン|ツベルクリン反応]]の実施計画に関わり、小児[[結核]]の早期発見と治療への道を開いた。当時は「結核」という言葉を聞くだけでも恐れられた時代だった。昭和13年([[1938年]])、[[厚生省]]体育官。[[日独防共協定]]が結ばれた昭和11年([[1936年]])には、学術的立場から国家施策を検討しようと同志らと「日独同志会(大日本同志会)」を結成。この関係で戦中は、[[大政翼賛会]]国民生活指導副部長、またその傘下である大日本産業報国会(産報)中央本部厚生局保健部長に就任。産報基本体操などを策定し、産業人の作業能率増進や結核予防運動に取り組んだ。 
 
[[1923年]](大正12年)大学卒業後、同大学[[大学院]]で[[血清]]研究のち小児科教室副手<ref name="townnews"/>。同年JFA理事。[[内務省 (日本)|内務省]]の主催する[[明治神宮競技大会]]の計画にJFAを代表して[[今村次吉]]JFA初代会長と共にその準備委員として加わる。このため[[1924年]](大正13年)の[[第4回ア式蹴球全国優勝大会]]([[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]の前身)は、第1回明治神宮競技大会のア式蹴球の部としてJFAが運営した(翌、[[1925年]](大正14年)[[第5回ア式蹴球全国優勝大会|第5回大会]]も)。同年、第7回[[極東選手権]]の出場チームを決める予選会に[[鯉城蹴球団]]を中心とした選抜チーム・ブラック・キャット(黒猫)クラブの監督を務める<ref name="salon2002"/><ref>[http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/history.php?year=1925 1925年の日本サッカー | 日本サッカーアーカイブ]</ref><ref>『京都大学蹴球部50年史』京都大学蹴球部50周年記念行事実行委員会、1977年、13頁</ref>。1925年(大正14年)、野津の提案により、一度の失敗を経て運営体系を立て直した新たなリーグ「ア式蹴球東京コレッジリーグ」が創設される。これが後の「[[関東大学サッカーリーグ戦|関東大学リーグ]]」リーグとなる<ref name="todai-soccer"/>。また全国中等学校蹴球選手権大会(現[[全国高等学校サッカー選手権大会]])運営にも関与。[[1926年]](大正15年)から同大会が全国大会に移行するにあたり、[[毎日新聞]]大阪本社の中村元一や第14代田辺五兵衛([[田辺治太郎]])、[[鈴木重義 (サッカー選手)|鈴木重義]]らと諸問題の解決に尽力。[[戸籍法]]による戸籍を持たず、生年月日の確認が困難な朝鮮地区代表選手や[[師範学校]]選手の年齢制限問題に「一緒にやるべし」と推したのは野津という。中等学校と師範大会を分けてやるという案も出たが、中村が「主催者として現在師範大会を開く意志はない」といったこともあり一緒にやることになったようである。野津は同年[[第9回全国中等学校蹴球選手権大会|第9回大会]]の審判員も務めている。また田辺と野津は戦後[[1957年]](昭和32年)、[[国民体育大会サッカー競技|国体サッカー競技]]の教員大会を創設した<ref>全国高校サッカー40年史、[[毎日新聞]]大阪本社、1962年、220、221頁</ref>。 
戦中に国の政策に関わったため戦後は公職を去り昭和22年([[1947年]])、[[神奈川県]][[川崎市]][[溝口 (川崎市)|溝の口]]に野津診療所を開業。西洋医学に携わりながら[[東洋医学]]の[[鍼灸]]に興味を持ち、[[経絡治療|良導絡]]という電気バリの研究・治療も行う。また[[弘前大学]]の前身の一つである[[弘前医科大学 (旧制)|青森医学専門学校]]設立などに尽力。昭和26年([[1951年]])JFA理事長。昭和30年([[1955年]])、[[高橋龍太郎]]が[[プロ野球]]・[[高橋ユニオンズ]]のオーナーとなり会長を辞退したため、第4代日本蹴球協会(日本サッカー協会)会長に推挙され就任。サッカー選手出身として初めての選出だった。当時のアマチュアスポーツ団体のトップは政財界の有名人の飾り・名誉職が多かったため「キャプテン会長」と呼ばれた。以降10期26年間の長きに渡り会長を務める。昭和33年([[1958年]])、[[アジアサッカー連盟]](AFC)副会長。昭和34年([[1959年]])から開催されたアジアユース選手権([[AFCユース選手権]])は、サッカー後進地・アジアの競技向上のため、野津が当時のAFC会長で[[マレーシア]]の首相だった[[トゥンク・アブドゥル・ラーマン|ラーマン]]に提案し実現したもの。この大会から[[杉山隆一]]や[[宮本輝紀]]ら後の日本代表の主力が育った。昭和37年([[1962年]])、[[1962年アジア競技大会|アジア競技大会]]([[ジャカルタ]])日本代表選手団団長。日本代表を欧州に初めて50日間の長期遠征をさせたり、B代表を編成したりするが[[東京オリンピック]]([[1964年]])をひかえて代表チームは、東京[[アジア大会]]([[1958年]])から[[ローマオリンピック|ローマ五輪]]([[1960年]])予選と不振が続く。
 
[[1925年]](大正14年)[[日本体育協会|大日本体育協会]]理事<ref name="townnews"/>、[[1928年]](昭和3年)[[1928年アムステルダムオリンピック|アムステルダムオリンピック]]、[[1932年]](昭和7年)[[1932年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルスオリンピック]]に日本選手団・本部役員として連続参加<ref name="townnews"/>。この間欧州の医業も見学。小児科に於ける日本の予防医学の遅れを痛感。またアムステルダム五輪期間中、当時[[アムステルダム]]に事務所のあった[[国際サッカー連盟|国際蹴球連盟]]([[国際サッカー連盟|FIFA]])を[[岸清一]]大日本体育協会会長と共に訪れ、大日本蹴球協会のFIFA加盟を申請<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref>[http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/history.php?year=1928 1928年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ]</ref><ref name="webcache.googleusercontent">[https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:9XCKEpJ0LqUJ:library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php%3Fstory_id%3D1001+%E9%87%8E%E6%B4%A5%E8%AC%99&cd=11&hl=ja&ct=clnk&gl=jp 賀川サッカーライブラリー 伝統的な哲学を持ちつつ日本のサッカーとスポーツの国際化を図ったドクター 野津謙(下)]</ref>。日本サッカーが国際舞台に踏み出すその第一歩を記す<ref name="闘魂90年の軌跡"/>。[[1929年]](昭和4年)、第18回FIFA総会で正式に加盟承認。当時の加盟国の数は39カ国だった。同年、大日本蹴球協会の理事改選で、同協会専務理事に就任<ref name="闘魂90年の軌跡"/>。[[新田純興]]ら大学系理事と、それまで協会を牛耳っていた師範系幹部の追い落としを計り、以降、大学勢が協会の主導権を握る<ref>[http://fukuju3.cocolog-nifty.com/footbook/2006/06/post_a719.html 東京蹴球団と大日本蹴球協会: 蹴球本日誌]</ref>。
当時の日本人のサッカーへの認識は[[ホッケー]]、[[水球]]と同列だった。国際大会の予選で負け続けるサッカーに国民はまったく関心を示さず。東京オリンピック直前、メダル獲得が有力視された“[[東洋の魔女]]”こと[[バレーボール全日本女子]]などから入場券は売り切れ、「オリンピック入場券の残りは、不人気のサッカーだけ」と言い立てられた。前途に一筋の光明をも見出せない寒々とした時代、野津は外国のプロコーチ招聘を画策。内部の反対を押し切って[[ドイツ]]に渡り、直接交渉(医師のため[[ドイツ語|独語]]が堪能)し[[デットマール・クラマー]]を招聘した。親交のあった西ドイツサッカー協会会長の推薦があったとは言え、当時のクラマーは西部サッカー連盟([[デュースブルク|デュイスブルグ]]スポーツシューレ)の一青少年指導コーチに過ぎなかった。また外国人指導者の招聘など、当時他のスポーツ種目では考えもしない時代でもあった。更に昭和39年([[1964年]])、同郷で33歳と若い[[長沼健]]を日本代表監督(コーチ・岡野俊一郎(32歳))に抜擢、クラマーの技術指導を請けたスタッフ、選手らによって東京オリンピックで[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]を破る金星を挙げ、サッカーブームを興した。ようやく日本サッカー浮揚、普及の手応えを掴んだ野津は、強化策の総仕上げとして、次なる[[メキシコオリンピック]]出場を絶対に果たさなければならない日本サッカー界の悲願とし、度重なるソ連、ヨーロッパ遠征、またヨーロッパ、南米の強豪チームを招き強化試合を重ねた。昭和40年([[1965年]])には、クラマーから日本サッカー強化にはリーグ戦を通じて試合数を増やすべき、との提案を受け、現在の[[Jリーグ]]の前身、[[日本サッカーリーグ]](JSL)をスタートさせる。そしてアジア予選を通過した代表チームは、昭和43年([[1968年]])[[メキシコオリンピック]]に於いて銅メダル獲得という偉業を達成した。
 
[[1931年]](昭和6年)[[ジョン・ロックフェラー|ロックフェラー]][[フェロー]]に選ばれ[[ハーバード大学]][[公衆衛生]]部留学、小児衛生を専攻し[[1934年]](昭和9年)同大学卒。帰国後、米国に於ける研鑽を活用し、この分野でわが国の第一人者として<ref name="footballjapan"/>日本の立ち遅れた予防医学の充実に尽力<ref>{{Cite report|和書|author=七木田文彦 |date=2009 |url=http://id.nii.ac.jp/1586/00011009/ |title=近代日本におけるHealth Promoting Schools システムの成立過程 : 外的身体管理から内的身体管理への転換 |journal=総合研究機構研究プロジェクト研究成果報告書 |issue=プロジェクト番号: A08-08 |publisher=埼玉大学総合研究機構}}</ref>。当時は薬物中心の医学が主流だった。[[1935年]](昭和10年)、東京都中央保健所学校衛生部長となり学校保健というまったく新しい分野に踏み込む<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="webcache.googleusercontent"/>。東京都の学童への[[ツベルクリン|ツベルクリン反応]]の実施計画に関わり、小児[[結核]]の早期発見と治療への道を開いた。当時は「結核」という言葉を聞くだけでも恐れられた時代だった。[[1938年]](昭和13年)、[[厚生省]]体育官。[[日独防共協定]]が結ばれた[[1936年]](昭和11年)には、学術的立場から国家施策を検討しようと同志らと「日独同志会(大日本同志会)」を結成<ref name="闘魂90年の軌跡"/>。この関係で戦中は、[[大政翼賛会]]国民生活指導副部長、またその傘下である大日本産業報国会(産報)中央本部厚生局保健部長に就任<ref name="闘魂90年の軌跡"/>。産報基本体操などを策定し、産業人の作業能率増進や結核予防運動に取り組んだ<ref name="闘魂90年の軌跡"/>。戦争遂行の政策に協力する立場を取ったため、[[戦後#日本における「戦後」|戦後]]は[[公職追放]]に遭う<ref name="闘魂90年の軌跡"/>。 
メキシコ五輪後、[[小野卓爾]]専務理事らと次の目標を[[ワールドカップ]]出場とし、その実現のためプロ化を標榜。野津は[[プロ野球]]経営で実績のある[[読売新聞]]社を訪れ、読売グループの天皇・[[正力松太郎]]にプロサッカーチームの設立を依頼した。正力の亡くなる前年の事だった。この時、野津は正力の問いに「5年後にはプロ化がスタートすると思ってください」と答えた。
 
[[1940年]](昭和15年)に開催される予定だった[[1940年東京オリンピック|東京オリンピック]]の[[オリンピック村]]は、[[神奈川県]][[川崎市]]の[[久地#津田山(七面山)|津田山]]を予定していたが<ref name="townnews"/><ref name="野津謙の世界170">『野津謙の世界』、170-171頁</ref>、これは野津と、当時[[東京都庁|東京市役所]]にいた[[谷川昇]]、[[東京急行電鉄|東急]]の[[五島慶太]]、[[黒川渉三]]を中心に[[日本体育協会]]、[[東京都]]、[[厚生省]]等が打ち合わせて決めたものだという<ref name="townnews"/><ref name="野津謙の世界170"/>。野津は戦前[[麻布]]に住んでいたが<ref name="townnews"/>、戦中に津田山に[[疎開]]し、旧日本軍が作った[[弾薬庫]]に山荘を造って住み込み、[[戦後#日本における「戦後」|戦後]]も籠城<ref name="townnews"/>。野津が中心になって津田山は国民体育の道場として使われた<ref name="townnews"/>。[[太平洋戦争|戦中]]に国の政策に関わったため戦後は[[公職追放|公職を去り]]<ref name="闘魂90年の軌跡"/>、[[1947年]](昭和22年)、津田山に近い川崎市[[溝口 (川崎市)|溝の口]]に野津診療所を開業<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="footballjapan"/><ref name="townnews"/>。西洋医学に携わりながら[[東洋医学]]の[[鍼灸]]に興味を持ち、[[経絡治療|良導絡]]という電気バリの研究・治療も行う。神奈川には縁を持ち、[[1964年東京オリンピック]]の[[1964年東京オリンピックのサッカー競技|サッカー競技]]の試合会場は5箇所だが、その一つ[[三ツ沢公園球技場]]開催は、[[第5回極東選手権競技大会|第5回極東選手権]]で同じ日本代表(全日本)の同僚だった佐藤實横浜サッカー協会第3代会長から野津への働きかけで決定したといわれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.f-marinos.com/tricolore_plus/article/566|title=30周年記念コラム(6):ホームスタジアム物語|author=根本正人|website=TRICOLORE+横浜F・マリノス公式サイト|date=2022-09-25|accessdate=2025年6月15日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20250602001241/https://www.f-marinos.com/tricolore_plus/article/566|archivedate=2025年6月2日}}</ref>。また[[弘前大学]]の前身の一つである[[弘前医科大学 (旧制)|青森医学専門学校]]設立などに尽力。[[1951年]](昭和26年)、[[1951年アジア競技大会|第1回アジア競技大会]]には日本蹴球振興会理事長として側面的援助に働く。同年JFA理事長。サッカー底辺の拡大と戦前の学校教員主導のサッカー指導復活を目指し、田辺五兵衛らと[[1953年]](昭和28年)から[[国民体育大会サッカー競技|国体サッカー競技]]の一般参加を教員に限定、[[1957年]](昭和32年)からは教員部門を新たに設け三部制にし、[[1959年]](昭和34年)から全国教育系大学の大会を創設した。これらは[[1960年]](昭和35年)、小学校・中学校の正課体育の中にサッカーが取り入れられることに繋がった。
昭和44年([[1969年]])[[国際サッカー連盟|FIFA]]理事就任。同年、第1回FIFAコーチングコース日本開催。日本の組織的なコーチ育成のスタートを切る。昭和45年([[1970年]])それまで決勝戦だけ、それも一部地域のみ[[NHK]]でテレビ中継だった[[全国高等学校サッカー選手権大会]]を憂い「若い世代でサッカーを普及させるためテレビ放映をやって欲しい」と[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]に要請。当時同局スポーツディレクターだった[[坂田信久]](のち[[東京ヴェルディ|東京ヴェルディ1969]]社長)らの奔走で同大会は、昭和51年([[1976年]])からの首都圏開催などの改革を経て、現在の“冬の風物詩”として定着したものである。また昭和45年(1970年)のワールドカップを視察し、[[ペレ]]を生で見た野津は、日本でワールドカップを開催できないか と考え、当時のFIFA会長[[スタンリー・ラウス|サー・スタンリー・ラウス]]と相談するが昭和51年(1976年)、直系の子分とも言うべき長沼らがクーデターを起こし、野津は会長の座を追われた(名誉会長)。10数年前自らが抜擢した若手に今度は自分が追われる結果となった。
 
[[1955年]](昭和30年)、[[高橋龍太郎]]が[[プロ野球]]・[[高橋ユニオンズ]]のオーナーとなり会長を辞退したため、第4代日本蹴球協会(日本サッカー協会)会長に推挙され就任<ref name="footballjapan"/><ref name="闘魂90年の軌跡"/>。サッカー選手出身として初めての選出だった<ref>{{cite news|author=[[後藤健生]]|date=2008-07-10|url=http://www.jsports.co.jp/press/article/N2008071013202702.html|title=【後藤健生コラム】 まもなく決まる、日本サッカー協会新会長 これからの時代の理想の会長像とは?|publisher=[[J SPORTS]]|accessdate=2017-06-20}}</ref>。当時のアマチュアスポーツ団体のトップは政財界の有名人の飾り・名誉職が多かったため、選手出身の野津は「キャプテン会長」と呼ばれた<ref name="webcache.googleusercontent"/><ref>[https://web.archive.org/web/20030217195035/http://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/diary7.htm 2002年5月7日~2002年 - 日本サッカー・ブック・ガイド]</ref>。以降10期26年間の長きに渡り会長を務め<ref name="闘魂90年の軌跡"/>、[[太平洋戦争]]後の混乱期に疲弊した日本サッカー界を立て直し<ref name="闘魂90年の軌跡"/>、代表の強化、選手育成、指導者養成の礎を築く<ref name="footballjapan"/>。[[1958年]](昭和33年)、[[アジアサッカー連盟]](AFC)副会長。[[1959年]](昭和34年)から開催されたアジアユース選手権([[AFCユース選手権]])は、サッカー後進地・アジアの競技向上のため、野津が当時のAFC会長で[[マレーシア]]の首相だった[[トゥンク・アブドゥル・ラーマン|ラーマン]]に提案し実現したもの<ref name="footballjapan"/><ref name="library.footballjapan"/>。この大会から[[杉山隆一]]や[[宮本輝紀]]ら後の日本代表の主力が育った。[[1962年]](昭和37年)、[[1962年アジア競技大会|アジア競技大会]]([[ジャカルタ]])日本代表選手団団長。日本代表を欧州に初めて50日間の長期遠征をさせたり、B代表を編成したりするが、[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]([[1964年]])をひかえて代表チームは、[[1958年アジア競技大会]]から[[1960年ローマオリンピック|ローマ五輪]]([[1960年]])予選と不振が続く<ref name="jfa210908">
野津はワールドカップの日本開催を昭和61年([[1986年]])に考えていた。この大会は[[1986 サッカー・ワールドカップ|メキシコ]]で行われ[[ディエゴ・マラドーナ|マラドーナ]]が伝説のプレイを魅せた。あのまま野津が会長だったら日本のプロ化も10年早かった、という声もある。
{{Cite web|和書|date=2021-09-08|author=国吉好弘|url=https://www.jfa.jp/news/00027856/|title=JFA100周年カウントダウンコラム第2回~黎明期~|website=ニュース|publisher=[[日本サッカー協会]]|accessdate=2025-06-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20250413215728/http://www.jfa.jp/news/00027856/|archivedate=2025年4月13日}}</ref>。当時の日本サッカーは「アジアでも最弱」のレッテルが貼られる程弱く<ref name="footballchannel">{{Cite web|和書|date=2018-12-31|author=加部究|authorlink=加部究|url=https://www.footballchannel.jp/2018/12/31/post302885/|title=「アジア最弱」だった日本。その成長の軌跡とは? 64年東京五輪なくして今の日本はない【日本サッカー戦記(1)】|website=フットボールチャンネル|publisher=[[カンゼン]]|accessdate=2025年6月15日}}</ref><ref name="soccerhihyo210709">{{Cite web|和書|date=2021-07-09|author=後藤健生|authorlink=後藤健生|url=https://soccerhihyo.futabanet.jp/articles/-/90421?page=1|title=後藤健生の「蹴球放浪記」連載第66回「後藤健生、“放浪”のはじまり」の巻(1)すべてのスタートは1964年の東京オリンピック|website=[[サッカー批評|サッカー批評Web]]|publisher=[[双葉社]]|accessdate=2025年6月15日}}</ref>、大日本蹴球協会は「デルトマケ(出ると負け)協会」などと陰口をたたかれた<ref name="jfa210910">
{{Cite web|和書|date=2021-09-10|url=https://www.jfa.jp/about_jfa/news/00027872/|title=田嶋幸三会長メッセージ 日本サッカー協会100年の歩み~JFA100th Anniversary Celebration|website=ニュース|publisher=[[日本サッカー協会]]|accessdate=2025-06-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230203012409/https://www.jfa.jp/about_jfa/news/00027872/|archivedate=2023年2月3日}}</ref><ref name="jdzb">
{{Cite web|和書|date=|url=https://jdzb.de/ja/blog/71179|title=デトマール・クラマー――大和魂をもったドイツ人(リレー❤︎エッセイ 日独交流の懸け橋をわたった人)|website=|publisher=[[ベルリン日独センター]]|accessdate=2025-07-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20250423041712/https://jdzb.de/ja/blog/71179|archivedate=2025-04-23}}</ref><ref>{{Cite news|和書|date=2021-09-11|author=|url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/294608|title=日本サッカー協会100周年式典で釜本邦茂氏「ゴールを貪欲に目指せ」と喝!|newspaper=[[日刊ゲンダイ#日刊ゲンダイDIGITAL(旧称ゲンダイネット)|日刊ゲンダイDIGITAL]]|publisher=日刊現代|accessdate=2025年6月15日}}</ref>。
 
この時代、日本人のサッカーへの認識は[[ホッケー]]、[[水球]]と同列だった。国際大会の予選で負け続けるサッカーに国民はまったく関心を示さず<ref name="jfa210908"/>。東京オリンピック直前、メダル獲得が有力視された“[[東洋の魔女]]”こと[[バレーボール日本女子代表|バレーボール全日本女子]]などから入場券は売り切れ、「オリンピック入場券の残りは、不人気のサッカーだけ」と言い立てられた。野津は「この状況を打破しなければいけない。地元で開催されるオリンピックで無様な試合はできない」と奮起し<ref name="jdzb"/>、外国のプロコーチ招聘を画策。内部の反対を押し切って[[西ドイツ]]に渡り、直接交渉(医師のため[[ドイツ語]]が堪能)し[[デットマール・クラマー]]を招聘した<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="footballjapan"/><ref name="library.footballjapan"/><ref name="salon2002"/><ref name="jfa210908"/><ref name="soccerhihyo210709"/><ref name="musashino">[[川淵三郎]]{{PDFlink|[https://www.musashino-music.ac.jp/application/files/4816/2683/6591/tomorrow_vol102.pdf 夢があるから強くなる]}} 広報誌「MUSASHINO for TOMORROW」pp.1–3 2012年7月1日発行 vol.102 [[学校法人武蔵野音楽学園]]</ref><ref>[http://kagawa.footballjapan.jp/2006/11/jfa_e72c.html 賀川浩の片言隻句: クラマーとJFAの野津謙・元会長]、
サッカー以外のスポーツに於ける大きな業績では、西ドイツスポーツユーゲント(ドイツスポーツ少年団)を習い、[[石井光次郎]]や[[竹田宮恒徳王|竹田恒徳]]らと[[東京オリンピック]]二年前の1962年、[[スポーツ少年団]]を創設し、その立ち上げと発展に大きな尽力があった。当時の日本の少年スポーツは「学校が唯一のスポーツの場」と考えられていたため、この常識を覆す新しい動きであった。その施設造りの課程で補助金を[[日本船舶振興会]]・[[笹川良一]]に依頼。[[ブルーシー・アンド・グリーンランド財団|B&G財団]]は、これをきっかけに設立された。
* [http://kagawa.footballjapan.jp/2013/05/j20-j-650e.html 賀川浩の片言隻句: Jリーグ20周年レセプションでの感慨 〜 このときというタイミングで見事に立ち上げ、その後の発展に努力したJの関係者にまずお礼を]、[http://www.clair.or.jp/j/forum/forum/sp/157_5/INDEX.HTM 特集:ワールドカップを契機とした地域の国際化]、[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/japan/athens/column/200408/at00002064.html 「伝説のキャプテン」八重樫茂生 第1回]
* {{Cite web|和書|date=2024-01-12|author=加部究|authorlink=加部究|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=145996|title=並外れて創造的な芸術家は、比類なき闘争心を内に秘め、冷徹に振る舞う。そんなベッケンバウアーが約30年前に予言していたことは?【追悼コラム】|website=[[週刊サッカーダイジェスト|週刊サッカーダイジェストWeb]]|publisher=[[日本スポーツ企画出版社]]|accessdate=2025年6月15日}}*
{{cite news|author=六川亨|date=2015-09-24|url=http://web.ultra-soccer.jp/index/index/?c=t_rokukawa&id=20150924|title=クラマー氏を招聘した大英断|publisher=超WORLDサッカー!|accessdate=2017-06-20}}</ref><ref name="chujonote">[http://www.vivasoccer.net/guest/chujo/note3.htm 中条一雄クラマー取材ノートから(3).野津謙会長の功績]、[http://www.vivasoccer.net/guest/chujo/note7.htm クラマー取材ノートから(7)] - [http://www.vivasoccer.net/ 牛木素吉郎&ビバ!サッカー研究会 公式サイト]</ref><ref name="中条一雄">[[中条一雄]]『デットマール・クラマー 日本サッカー改革論』、ベースボール・マガジン社、2008年、12-26頁</ref><ref name="スポーツ昭和史">『「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史 第二巻』、文藝春秋、1988年、309、310頁</ref><ref name="日刊スポーツ連載">[https://web.archive.org/web/20161025052034/http://blog.nikkansports.com/sports/legend/2008/03/post_39.html#more 日刊スポーツ連載 メキシコ五輪サッカー銅~クラマーの息子たち、2007年9月19日7面](Internet Archive)</ref>。親交のあった西ドイツサッカー協会会長の推薦があったとは言え<ref name="jdzb"/>、当時のクラマーは西部サッカー連盟([[デュースブルク]]スポーツシューレ)の一青少年指導コーチに過ぎず<ref name="闘魂90年の軌跡"/>、高校卒業前に落下傘部隊に入って戦地に赴いたため、充分な学歴も無かった<ref name="批評35">[[加部究]]「47年前の改革第1回クラマーとともに歩み、戦った日本代表の物語」『[[サッカー批評]]』35、2007年7月8日発行、[[双葉社]]、74-81頁。</ref>。当時日本蹴球協会理事会を支配していたのは、[[ベルリンの奇跡]]のメンバーだったため、選手として無名の人物に日本代表の指導を託すことは、彼らのプライドが許さなかった<ref name="salon2002"/><ref name="chujonote"/><ref name="批評35"/>。指導者招聘の任を得ていた[[成田十次郎]]に、野津は「[[1960年ローマオリンピック|ローマ五輪]]視察の途中でドイツに寄るので、そこで決めよう」と最終返答し、クラマーの部屋を訪れた野津が、壁に掛かった額に書かれたクラマーの[[座右の銘]]「物事を見るのは目ではなく、物事を聞くのは耳ではない。それは精神である」を見て{{refnest|group=注|Das Auge an sich ist blind,das Ohr an sich ist taub.Es ist der Geist, der sieht,es ist der Geist, der hört.<ref name="闘魂90年の軌跡"/>。ーこれを訳す場合「目、それ自体は見ることはできない、耳、それ自体は聞くことはできない。ものを見るのは精神であり、音を聞くのは精神である」のように訳されるが、古い文献では、め〇ら、つ〇ぼ、お〇と今日では差別用語とされる語が使用されているものもある<ref name="jdzb"/>。}}、これは日本サッカーの将来を託すに値する人物だと確信しクラマー招聘を決めた<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="salon2002"/><ref name="chujonote"/><ref name="批評35"/>。野津の先見の明とリーダーシップがなければクラマーの来日は実現しなかった<ref name="中条一雄"/><ref name="スポーツ昭和史"/><ref name="日刊スポーツ連載"/>。また外国人指導者の招聘など、この頃他のスポーツ種目では考えもしない時代でもあり、当時の日本蹴球協会とは名ばかりの貧乏長屋の寄合所帯<ref name="闘魂90年の軌跡"/>。僅かな財政では非常に大きな負担でもあった<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="スポーツ昭和史"/>{{refnest|group=注|日本蹴球協会には金がなく、クラマーの給料は払えず。当時の[[ドイツサッカー連盟|西ドイツサッカー協会]]が払ってくれた<ref name="jdzb"/>。}}。コーチを呼ぶにしても協会幹部の中には、サッカーの母国・イングランドを推す者や、南米の雄ブラジルを推す者もいたと言われる<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="salon2002"/><ref name="chujonote"/>。野津は「この時の協会の決断はまさしく、賭けそのものだったのである。私はクラマーのその人となりを十分理解していたし、その指導理念を尊崇していた(中略)外部からの反対にいかに対処すべきかについては、苦慮の連続であった。短兵急な日本人気質は、その結果をのみ評価することは目に見えていたからである。私の懸念もまた、成績如何ではこの白髮首だけではおさまりそうにない」「クラマーは個々技術の修練もさることながら、個の有機的統一を常々説いていた。ドイツの集団教育理念は、ある意味で日本人風土に見事に定着するのは、事サッカーだけではないのかも知れないが、私はこの時その実際を垣間見た気がした」などと述べている<ref name="闘魂90年の軌跡"/>。近年「日本サッカーの歴史」はクラマーから語ることが多いが、この時野津の英断がなければ、野津が会長でなければ、その後の「日本サッカーの歴史」は、まったく違った物語になっていたことになる<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="footballchannel"/><ref>{{Cite web |和書|author=出嶋剛 |date=2021-09-24 |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/849908?page=1 |title=サッカー日本代表PRESS 「日本サッカーの父」クラマーを連れてきた“知られざる丸腰の留学生”とは《革命的な“止める・蹴る”とメンタル指導秘話も》 |website=[[Sports Graphic Number|Number Web]] |publisher=[[文藝春秋]] |accessdate=2025年6月15日 }}</ref>。<!---出典 <ref name="chujonote"/>、日刊スポーツ連載 メキシコ五輪サッカー銅~クラマーの息子たち、2007年9月19日 、「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史 第二巻、309~310頁 --->[[山本昌邦]]は「クラマーさんは『日本サッカーの恩人』と称されるけれど、財政的に決して豊かではなかった時代に、そのクラマーさんの招請を実現させた当時の野津会長の決断も本当にすごい」と讃えている<ref>{{Cite news|和書|author=山本昌邦|authorlink=山本昌邦|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQODH210TR0R20C21A9000000/|title=勝利のメンタリティー(山本昌邦)100年を紡いだ日本サッカー 先人に感謝、未来へ決意|date=2021–09–23|newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=[[日本経済新聞社]]|accessdate=2025年7月19日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230329214001/https://www.nikkei.com/article/DGXZQODH210TR0R20C21A9000000/|archivedate=2023年3月29日}}</ref>。[[田嶋幸三]]は「クラマーさんが日本で指導してくださったことにより、日本のサッカーの歴史は30年くらい早回しされたと私は考えています」と述べている<ref name="jdzb"/>。
なぜドイツだったのか、という点については、野津が医者で[[ドイツ語|独語]]が堪能だったなどの説があるが、野津が育った広島の地が[[第一次世界大戦]]中に[[似島]]のドイツ人捕虜チームとの交流で、ドイツのサッカーに馴染みがあったこと<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="chujonote"/>、また似島へ行った[[田中敬孝]]は野津の中学時代の同級で、一緒にボールを蹴った仲間でもあり、野津がドイツのサッカーに並々ならぬ興味を抱いていたともいわれる<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="中条一雄"/><ref>[http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/history.php?year=1920 1920年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ]</ref><ref>[http://www.2002world.com/history/japan/jh_009.html サッカー オンラインマガジン 2002world..com 日本サッカーの歴史]</ref>。今日一般新聞でも使われる"ゲルマン魂"という言葉は野津が最初に使ったものという<ref>布施鋼治『東京12チャンネル 運動部の情熱』[[集英社]]、2012年、81頁</ref>。
 
更に[[1964年]](昭和39年)、同郷で33歳の[[長沼健]]を日本代表監督(コーチ・岡野俊一郎(32歳))に抜擢<ref name="salon2002"/<ref name="jfa210908"/><ref name="批評35"/>、クラマーの技術指導を請けたスタッフ、選手らによって東京オリンピックで[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]を破る金星を挙げ、サッカーブームを興した<ref name="jfa210908"/>。ようやく日本サッカー浮揚、普及の手応えを掴んだ野津は、強化策の総仕上げとして、次なる[[1968年メキシコシティーオリンピック|メキシコオリンピック]]出場を絶対に果たさなければならない日本サッカー界の悲願とし、度重なるソ連、ヨーロッパ遠征、またヨーロッパ、南米の強豪チームを招き強化試合を重ねた<ref name="jfa210908"/><ref name="musashino"/><ref>[http://fc40.wablog.com/file/川淵三郎_私の履歴書_2008.pdf 私の履歴書 川淵三郎]</ref>。[[1965年]](昭和40年)には、クラマーから日本サッカー強化にはリーグ戦を通じて試合数を増やすべき、との提案を受け、現在の[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の前身、[[日本サッカーリーグ]](JSL)をスタートさせる。そしてアジア予選を通過した代表チームは、[[1968年]](昭和43年)メキシコオリンピックに於いて銅メダル獲得という偉業を達成した。
野津は医師(小児科医)としても、日本に於ける公衆衛生、予防衛生面での先駆者、また保健所活動の産みの親ともいわれ大きな業績を残している。国際学校保健協会副会長、日本良導絡自律神経学会会長などを務め、東京オリンピックでの体操選手などに良導絡治療を導入した。その他[[色盲]]研究などでも知られる。尚、野津在任中の日本サッカー協会は名ばかりで、慢性的にお金が無く、野津の医師としての信用でお金を借りる事がしばしばあったという。
 
メキシコ五輪後、[[小野卓爾]]専務理事らと次の目標を[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]出場とし、その実現のためプロ化を標榜。野津は[[プロ野球]]経営で実績のある[[読売新聞]]社を訪れ、読売新聞社主の[[正力松太郎]]にプロサッカーチームの設立を依頼した<ref name="salon2002"/><ref>[https://web.archive.org/web/20041207044308/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/toyotacup/2004/column/200412/at00003198.html トヨタカップを呼んだ男たち 第2回 坂田信久 - スポーツナビ](Internet Archive)</ref><ref name="サッカーと郷愁と">[[成田十次郎]]『サッカーと郷愁と』不昧堂出版、2010年、105-107頁</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2022-02-23|author=坂田信久|authorlink=坂田信久|url=https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h3279|title=敗者への讃歌 巻頭随筆|website=[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋+]]|publisher=[[文藝春秋]]|accessdate=2025年6月15日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230923135420/https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h3279|archivedate=2023年9月23日}}</ref>。正力の亡くなる前年の事だった。この時、野津は正力の問いに「5年後にはプロ化がスタートすると思ってください」と答えた。野津は成田十次郎にも「成田君はヨーロッパのプロやスポーツクラブのことをよく知っているだろうから、これから読売新聞と日本テレビがバックアップをするから、そこへヨーロッパ的なクラブを作って、それをプロへつなげるという仕事をして下さい」と、チーム作り([[読売サッカークラブ]])を依頼したという<ref name="salon2002"/><ref name="サッカーと郷愁と"/>。
1964年、[[褒章|藍綬褒章]]。1969年、[[勲三等]][[瑞宝章]]。1970年、[[英国]][[ナイト]]勲章などを受けた。
 
[[1969年]](昭和44年)、[[国際サッカー連盟|FIFA]]理事就任([[市田左右一]]に続き日本人二人目)<ref name="footballjapan"/><ref>{{Cite web |和書|author1=木崎伸也 |author2=岡部恭英 |authorlink2=岡部恭英 |date=2015-08-25 |url=https://newspicks.com/news/1125115/body/ |title=日本サッカー協会名誉会長インタビュー(第2回) 小倉名誉会長が語る「FIFAで活躍するために必要なこと」 |website=[[NewsPicks]] |publisher=[[ユーザベース]] |accessdate=2025年7月19日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160201084414/http://qoly.jp/2016/01/25/column-nakanishi-jfa-presidency-1?part=2 |archivedate=2016年2月1日 }}</ref>。“ドクター・ノヅ”の誠実な人柄は、[[スタンリー・ラウス|サー・スタンリー・ラウス]]FIFA会長や、[[トゥンク・アブドゥル・ラーマン]][[アジアサッカー連盟|AFC]]会長にも信頼された<ref name="footballjapan"/>。同年、クラマーを主任指導員としアジア13カ国から43名のコーチを集め、FIFAとAFCの主催・JFAを主管とする第1回FIFAコーチングスクール開催<ref name="footballjapan"/>。当時としては破格の約2000万円を出費し<ref name="闘魂90年の軌跡"/>、日本の組織的なコーチ育成のスタートを切る<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="footballjapan"/>。これは暑熱の3ヶ月間にわたって行われ、クラマーが途中過労のため倒れる程であったが、指導者養成とその組織の確立の重要性を世界のサッカー界に認識させた。[[1970年]](昭和45年)それまで決勝戦だけ、それも一部地域のみ[[日本放送協会|NHK]]でテレビ中継だった[[全国高等学校サッカー選手権大会]]を憂い「若い世代でサッカーを普及させるためテレビ放映をやって欲しい」と[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]に要請。当時同局スポーツディレクターだった[[坂田信久]](のち[[東京ヴェルディ1969]]社長)らの奔走で同大会は、[[1976年]](昭和51年)からの首都圏開催などの改革を経て、現在の“冬の風物詩”として定着したものである。また[[1970年]](昭和45年)のワールドカップを視察し、[[ペレ]]を生で見た野津は、当時のFIFA会長[[スタンリー・ラウス|サー・スタンリー・ラウス]]から「これまでヨーロッパと南米で交互に開かれていた大会を、アジアでも開催できるようにしたい」との示唆<ref name="新聞197082">[[読売新聞]]1970年8月2日、[[毎日新聞]]1970年8月2日14面、[[朝日新聞]]1970年8月2日20面、1996年10月26日</ref><ref>[http://www.vivasoccer.net/freekick/freekick11_2.htm フリーキック#11-2]</ref>、或いは直接ラウスから「[[1986 FIFAワールドカップ|1986年のワールドカップ開催地]]に日本が立候補してほしい」と持ちかけられ<ref name="闘魂90年の軌跡"/>、[[1986 FIFAワールドカップ|メキシコ大会]]の[[スポンサー]]になった[[ザ コカ・コーラ カンパニー|米国コカコーラ]]の会長もその場に同席していて「日本で開催するなら協力を惜しまない」と応援してくれたとされ<ref name="闘魂90年の軌跡"/>、帰国後8月1日、[[岸記念体育会館]]で記者会見を開き「[[1986年]](昭和61年)のワールドカップ開催地として日本が立候補したい」と発表した<ref name="footballchannel"/><ref name="新聞197082"/>。「いい話だから日本で世論の支持を得られるようにキャンペーンしよう」と野津から指示を受けた[[牛木素吉郎]]が『[[サッカーマガジン]]』で「ワールドカップを日本で」という連載をしたが、協会内の若手にこの案を潰されたといわれる<ref name="闘魂90年の軌跡"/>。
==著書・参考文献==
*ア式蹴球 野津謙、[[鈴木重義]]共著、アルス運動叢書、1928年
*野津謙の世界、自著、国際企画、1979年
*日本サッカーは本当に強くなったのか、大住良之、後藤健生、中央公論新社、2000年
*日本サッカー史、[[後藤健生]]、双葉社、2002年
*時代の証言者・「サッカー」、長沼健、読売新聞社、2006年
*スポーツ20世紀⑥「サッカー名勝負の記憶」、[[ベースボール・マガジン社]]、2000年11月
*若き血潮は燃える、旧制全国高等学校ア式蹴球大会編集委員会、[[朝日新聞社|朝日新聞東京本社]]、1985年11月
*[[月刊グラン]] 2007年6月、7月号、[[中日新聞社]]
 
[[1974年]](昭和49年)縁のある西ドイツで開催された[[1974 FIFAワールドカップ]]では、同組織委員会委員として成功に貢献<ref name="footballjapan"/>。協会の[[財団法人]]化を実現<ref name="footballjapan"/>。同年刊行した日本蹴球協会編『日本サッカーのあゆみ(日本蹴球協会創立満50年記念出版)』([[講談社]])の中で野津は「我が国のサッカー界は、今後なお解決すべき幾多の問題を抱えているが、以下の5項目を体験することによって、サッカーが1人でも多く無我の境地を会得し、人間形成の実を挙げることを願ってやまない」と説き、「ルールを守る」「不可能を可能にする」「チームと個人の調和について」「good loser(良き敗者)」「スポーツによるほんとうの友情」の五つの課題を書き記している<ref name="jfa210910"/>。
==関連項目==
 
*[[鯉城蹴球団]]
1976年(昭和51年)、直系の子分とも言うべき長沼らがクーデターを起こし、野津は会長の座を追われた(名誉会長)。10数年前自らが抜擢した若手に今度は自分が追われる結果となった<ref name="salon2002"/><ref>{{Cite web |和書|author=駒場野/中西正紀 |date=2016-01-25 |url=https://qoly.jp/2016/01/25/column-nakanishi-jfa-presidency-1?part=2 |title=田嶋幸三vs原博実-JFA会長選挙を読む |website=football webmagazine Qoly |publisher=ファッションニュース通信社 |accessdate=2025年7月19日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160201084414/http://qoly.jp/2016/01/25/column-nakanishi-jfa-presidency-1?part=2 |archivedate=2016年2月1日 }}</ref>。
*[[堀江忠男]]
 
*[[新田純興]]
[[1983年]]8月27日、[[東京都]][[世田谷区]]の[[公立学校共済組合関東中央病院|関東中央病院]]で[[心不全]]により死去した<ref name="asahi">「野津謙氏 訃報」[[朝日新聞]]、1983年8月29日、2014年9月2日閲覧</ref>。没後の2005年に第1回[[日本サッカー殿堂]]に選出された<ref name="footballjapan"/>。
*[[竹腰重丸]]
 
=== サッカー ===
''詳細は、上記『生涯』の項目を参照''
 
=== スポーツ ===
西ドイツスポーツユーゲント(ドイツスポーツ少年団)を習い、[[石井光次郎]]や[[竹田宮恒徳王|竹田恒徳]]らと[[1964年東京オリンピック]]二年前の1962年、[[スポーツ少年団]]を創設し、その立ち上げと発展に貢献した<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="footballjapan"/><ref name="webcache.googleusercontent"/><ref>[http://www.japan-sports.or.jp/club/tabid/909/Default.aspx 記念誌の発刊 - 日本スポーツ少年団創設50周年記念事業 ... - 日本体育協会「日本スポーツ少年団50年史【簡易版】」]</ref><ref>[http://tenohirahokyu.sblo.jp/archives/201001.html 型付け職人のブログ-2010年1月14日]([http://www.tenohirahokyu.jp/thk.html スポーツセンター廿日市] の店長は野津の甥という)。</ref>。当時の日本の少年スポーツは「学校が唯一のスポーツの場」と考えられていたため、この常識を覆す新しい動きであった。その施設造りの課程で補助金を[[日本船舶振興会]]・[[笹川良一]]に依頼。[[ブルーシー・アンド・グリーンランド財団|B&G財団]]は、これをきっかけに設立された。
 
[[青森県]]と縁を持ち、当地おける保健衛生体育の発展に寄与<ref>[http://www.music-tel.com/naosuke/nao-h/20000127oinomori.html 狼森覚書]</ref><!---<ref name="nozuyuzuru">[http://www.geocities.jp/bane2161/nozuyuzuru.htm 野津謙]</ref>--->。またスポーツ少年団本部長だった野津の尽力により1972年、弘前市海洋センター、1975年[[弘前市]]近くにスポーツセンターが建設された<ref name="野津謙の世界">[[#野津謙の世界]]、174頁</ref>。これらは多くのスポーツ選手の鍛錬の場となり、[[1977年]]の[[第32回国民体育大会|青森国体]]の青森県天皇杯獲得に貢献した<ref name="野津謙の世界"/>。弘前市の[[旧弘前偕行社]]内に野津の[[銅像]]がある<!---<ref name="nozuyuzuru"/>--->。
 
=== 医学 ===
野津は、日本に於ける公衆衛生、予防衛生面での先駆者、また保健所活動の産みの親ともいわれる。国際学校保健協会副会長、日本良導絡自律神経学会会長などを務め、東京オリンピックでの体操選手などに良導絡治療を導入した。その他[[色盲]]研究などでも知られる。尚、野津在任中の日本サッカー協会は名ばかりで、慢性的にお金が無く、野津の医師としての信用でお金を借りる事がしばしばあったという。神奈川県川崎市高津区で、野津診療所(内科・小児科)を営んでいた。
 
== 叙勲歴 ==
* 1964年 - [[褒章|藍綬褒章]]<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="footballjapan"/>
* 1969年 - [[勲等|勲三等]][[瑞宝章]]<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="footballjapan"/>
* 1970年 - [[ナイト]]勲章([[大英帝国勲章]])<ref name="闘魂90年の軌跡"/><ref name="footballjapan"/>
* 1983年 - [[賞杯|銀杯]]一個
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 著書 ==
* [[鈴木重義 (サッカー選手)|鈴木重義]]共著『ア式蹴球』、アルス運動叢書、1928年
* {{Cite book|和書|author=|title=野津謙の世界|publisher=国際企画|year=1979|ref=野津謙の世界}}
 
== 参考文献 ==
* 全国高校サッカー40年史、[[毎日新聞]]大阪本社、1962年1月
* 高校サッカー60年史、全国高等学校体育連盟サッカー部、[[講談社]]、1983年4月
* 若き血潮は燃える、旧制全国高等学校ア式蹴球大会編集委員会、[[朝日新聞社|朝日新聞東京本社]]、1985年11月
* 「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史 第二巻、[[文藝春秋]]、1988年8月
* 日本サッカーのあゆみ、日本蹴球協会、講談社、1974年2月
* 日本サッカーは本当に強くなったのか、大住良之、後藤健生、中央公論新社、2000年
* スポーツ20世紀⑥「サッカー名勝負の記憶」、[[ベースボール・マガジン社]]、2000年11月
* 日本サッカー史、[[後藤健生]]、双葉社、2002年
* 時代の証言者・「サッカー」、長沼健、読売新聞社、2006年
* [[月刊グラン]] 2007年6月『[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=1000 チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)]』、7月号『[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=1001 伝統的な哲学を持ちつつ日本のサッカーとスポーツの国際化を図ったドクター 野津謙(下)]』、[[中日新聞社]]
* [[日刊スポーツ]]連載 メキシコ五輪サッカー銅~クラマーの息子たち、2007年9月~10月
* デットマール・クラマー 日本サッカー改革論、[[中条一雄]]、ベースボール・マガジン社、2008年8月
* サッカーと郷愁と、[[成田十次郎]]、不昧堂出版、2010年9月
* 栄光の足跡 広島サッカー85年史、広島サッカー85年史編纂委員会、財団法人 広島県サッカー協会、2010年5月
* {{Cite book|和書|author=東大LB会|url=http://www.lbsoccer.org/wplb/wp-content/uploads/2020/11/c163b12fbe7c2cacd2daef9b1a43ac53-1.pdf|title=東京大学ア式蹴球部90年記念誌 東京大学のサッカー 「闘魂90年の軌跡」/「ライトブルーの青春譜」|publisher=東大LB会|year=2008|ref=闘魂90年の軌跡}}
 
== 関連項目 ==
* [[鯉城蹴球団]]
* [[堀江忠男]]
* [[新田純興]]
* [[竹腰重丸]]
 
== 外部リンク ==
* [http://wwwarchive.jfa.orfootballjapan.jp/user/scripts/user/person.php?person_id=10 財団法人日本サッカー協会アーカイブ 野津謙]
* [http://wwwlibrary.2002worldfootballjapan.comjp/historyuser/history_indexscripts/user/story.htmlphp?story_id=1000 日本賀川サッカーの歴史ライブラリー 野津謙(上)]
* [https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:9XCKEpJ0LqUJ:library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php%3Fstory_id%3D1001+%E9%87%8E%E6%B4%A5%E8%AC%99&cd=11&hl=ja&ct=clnk&gl=jp 賀川サッカーライブラリー 野津謙(下)]
* [http://www.vivasoccer.net/ 牛木素吉郎&ビバ!サッカー研究会 公式サイト]
* [http://www.med.hirosaki-u.ac.jp/~sasakin/nao-h/20000127oinomori.html 「狼森」覚書]
 
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