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{{Redirect|ナガサキ|その他の用法|長崎}}
[[Image:AtomicEffects-p10a.jpg|thumb|250px|原爆投下前の爆心地付近(長崎市浦上地区)]]
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[[Image:AtomicEffects-p10b.jpg|thumb|250px|投下後の同一地点 目標が完全に破壊されている]]
*{{Pathnav|核兵器|核爆弾|原子爆弾|ファットマン}}
[[Image:UrakamiTenshudoJan1946.jpg|thumb|right|250px|破壊された[[浦上天主堂]]]]
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*{{Pathnav|第二次世界大戦|太平洋戦争|日本本土の戦い|日本本土空襲|日本への原子爆弾投下}}
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}}
'''長崎市への原子爆弾投下'''(ながさきしへのげんしばくだんとうか)では、[[第二次世界大戦]]末期の[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月9日]]、午前11時2分<ref>アメリカ軍の記録による投下時刻は午前10時58分</ref>に、[[アメリカ軍]]が[[日本]]の[[長崎市]]に対して投下した[[原子爆弾]]<ref>アメリカは長崎に投下した原子爆弾のコードネームを[[ファットマン]] (Fat Man) と名付けていた。制式名称はMk-3核爆弾。</ref>に関する記述を行う。これは実戦で使われた二発目の[[核兵器]]である。<ref>現時点では実戦で使われた核兵器は広島・長崎の二発である</ref>この一発の兵器により当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約14万8千人が死傷、建物の約36%が全焼または全半壊した。<ref>原爆死没者名簿の人数は2006年8月9日現在で14万144人。</ref>
{{暴力的}}
{{参照方法|date=2015-06-20}}
{{coord|32|46|25.4|N|129|51|47.6|E|type:event_region:JP|display=title|notes=<ref group="注釈">[[平和公園]]に置かれている原爆落下中心碑の座標。この地点の上空、高度約500メートルの地点で、原子爆弾[[ファットマン]]が爆発した。</ref>}}
{{Infobox military operation
| name = 長崎市への原子爆弾投下
| partof = [[太平洋戦争]]([[第二次世界大戦]])
| image = [[File:Nagasakibomb.jpg|280px]]
| image_size = 300px
| type = [[核戦争]]
| alt = 1945年長崎市への原資爆弾投下
| caption = 長崎市に投下された原爆の[[キノコ雲]]
| date = 1945年8月9日<ref>{{Harvnb|戦史叢書19|p=2c|loc=付表第二、本土空襲状況並に邀撃、戦果損害一覧表(昭和二十年二月十六日~八月十五日)}}</ref>
| ___location = [[長崎県]][[長崎市]]
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| executed_by = {{longitem|[[アメリカ合衆国]]
*[[マンハッタン計画]]
*[[第509混成部隊]]
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| casualties = {{longitem|日本:
*死者:60,000–80,000名}}
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}}
'''長崎市への原子爆弾投下'''(ながさきしへのげんしばくだんとうか)は<ref>{{Harvnb|戦史叢書19|pp=646a-647|loc=原子爆弾第二号 ― 長崎}}</ref>、[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]])末期の[[1945年]](昭和20年)[[8月9日]](木曜日)に、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の[[アメリカ合衆国]]が[[枢軸国]]の[[大日本帝国|日本]]の[[長崎市|長崎]]に対して[[原子爆弾]]「[[ファットマン]]<ref group="注釈">[[アメリカ合衆国連邦政府]]は、長崎市に投下した原子爆弾の[[コードネーム]]を「[[ファットマン]]({{en|Fat Man}})」と名付けていた。正式名称はMk.3核爆弾。</ref>」(以下原爆と記す)を投下し<ref group="注釈">アメリカ軍の記録による投下時刻は午前10時58分。</ref>、午前11時02分に炸裂<ref>{{Cite news ja |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230808/k10014157441000.html |title=長崎原爆資料館 11時2分の表記「投下」から「さく裂」に統一へ |website=NHK NEWS WEB |publisher=日本放送協会 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230809042652/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230808/k10014157441000.html |archive-date=2023-08-09}}</ref>した出来事である<ref>{{Cite web|和書|url= https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001530002_00000 |title = 長崎原爆の映像 |work = NHKアーカイブス| accessdate = 2025-06-01}}([[NHKアーカイブスポータル]])</ref>。
 
[[戦略爆撃機]][[B-29 (航空機)|B-29]]「[[ボックスカー]]」により投下された原爆は<ref>{{Harvnb|戦史叢書19|pp=656-657|loc=第二回原爆攻撃 ― 長崎}}</ref>、[[広島市|広島]]へ[[広島市への原子爆弾投下|原爆投下]]<ref>{{Harvnb|戦史叢書19|pp=627-630|loc=原子爆弾第一号 ― 廣島}}</ref>([[リトルボーイ]])に続き<ref>{{cite web|url= https://www.britishpathe.com/asset/70843/ |title = NAGASAKI AND HIROSHIMA (1945) | website = www.britishpathe.com | publisher = UNISSUED / UNUSED |date= 1945 | accessdate = 2025-06-01}}</ref>、人類史上において実戦に使用された2回目の[[核兵器]]である<ref>{{cite web|url= https://www.britishpathe.com/asset/110532/ |title = SECOND ATOMIC BOMB OF WORLD WAR II EXPLODES OVER NAGASAKI (1945) | website = www.britishpathe.com | publisher = GAUMONT BRITISH NEWSREEL (REUTERS) |date= 1945 | accessdate = 2025-06-01}}</ref>。2025年時点では最後の実戦使用例である。
敗北寸前の日本に対しての原子爆弾投下はほぼ戦略上無意味であり、核の威力を実験した意味合いが強い。[[ソビエト連邦|ソ連]]に対抗する為とも言われ(当時、アメリカは既に仮想敵国としてソ連を想定していたといわれる。[[冷戦]])。このような諸説が入り混じり、正確な理由は分かっていない。(原子爆弾投下理由に関する論争は[[原子爆弾]]を参照。)
 
長崎市への原爆投下は、[[日本本土の戦い]]における[[日本本土空襲]]の<ref name="作戦概況p1" />、一局面であった<ref>{{Harvnb|戦史叢書19|pp=362-363|loc=大東亜(太平洋)戦争戦史叢書、第19冊附録 東久邇宮防衛総司令官と国土防空の想い出、加藤義秀}}</ref><ref>{{Harvnb|戦史叢書19|p=6b|loc=付図第六、内地戦災都市一覧図(全国県別空襲被害概見表)}}</ref>{{Efn|1945年時点で九州地方の防衛を担当していたのは<ref>{{アジア歴史資料センター|C12121382000|「1 1945年4月末日本陸軍(地上軍)概見表」、軍戦備調査集録 昭和15~20年(防衛省防衛研究所)}}</ref>、[[第16方面軍 (日本軍)|第16方面軍]]([[西部軍管区 (日本軍)|西部軍管区]])である{{Sfn|戦史叢書19|p=647}}。長崎市には独立混成第122旅団(司令官[[谷口元治郎]]陸軍中将)が配備されていた([[長崎要塞]])<ref name="長崎要塞p5" />。}}。
長崎県、長崎市などを指す「'''長崎'''」が「'''ナガサキ'''」とカナ表記される場合は'''長崎市への原子爆弾投下'''を指すことが多い。
 
[[爆心地#ナガサキ|爆心地]]は長崎市[[松山町 (長崎市)|松山町]]で<ref>{{Harvnb|NARA、id23793|p=470sec|loc=(動画開始7分50秒)}}</ref>、現在は[[平和公園]]となった。当時の長崎市の[[人口]]24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡{{Efn|1945年(昭和20年)11月25日の長崎市調査によれば、死者23,753名、重軽傷者40,993名、行方不明1,927名、罹災者176,987名(昭和19年2月22日国政調査時の長崎市人口270,113名)<ref>{{Harvnb|戦史叢書19|p=649|loc=被害概況}}</ref>。}}、建物は約36%が全焼または全半壊した<ref>{{Cite web|和書|title=原爆の威力 {{!}} 原爆の惨状 {{!}} 長崎の原爆 {{!}} 調べる {{!}} ながさきの平和【公式】 |url=https://nagasakipeace.jp/search/about_abm/scene/iryoku.html |website=ながさきの平和 |access-date=2023-08-09 |language=ja}}</ref><ref group="注釈">原爆死没者名簿の人数は2009年8月9日現在で14万9266人。</ref>。同年9月中旬以降<ref name="NARA、id2521114">{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/2521114 |title = Entrance to Nagasaki Harbor: Prisoners of War Aboard Ship | website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1945-09-16 | accessdate = 2025-06-01}}</ref>、進駐してきた連合軍が被災後の長崎を撮影し、当時の惨状を記録した{{Sfn|NARA、id23793}}。
== 原子爆弾投下時 ==
=== テニアンから小倉上空 ===
[[8月6日]]の[[広島市への原子爆弾投下]]作戦において観測機[[B-29 (爆撃機)|B-29]]「[[グレート・アーティスト]]」を操縦した[[チャールズ・スウィーニー]]少佐は、[[テニアン島]]へ帰還した夜、部隊の司令官であり、広島へ原爆を投下したB-29「[[エノラ・ゲイ]]」の機長であった[[ポール・ティベッツ]]大佐から、再び原爆投下作戦が行われるためにその指揮を取ること、目標は第一目標が[[小倉市]]、第二目標が長崎市であることを告げられた。
 
長崎県、長崎市を指す「'''長崎'''」が「'''ナガサキ'''」と[[片仮名]]表記される場合は、長崎市への[[原子爆弾]]投下に関する言及である場合が多い。
その時に指示された戦術は、1機の気象偵察機の飛来後に、護衛機無しで3機のB-29で都市上空に侵入するという、広島市への原爆投下の際と同じものであり、日本軍はこれに気づいて何がなんでも阻止するだろうとスウィーニーは懸念を抱いたという<ref>当時の長崎県知事であった[[長野若松]]の証言(長崎市編『ナガサキは語りつぐ』40頁)によると、8月8日夜の警察との会議では、長崎はほとんど無傷に近いので、広島と同じ爆弾が長崎にも落とされるに違いないとの結論が出ていた。翌9日の午前9時前には気象観測機ラッギン・ドラゴンと思われる爆撃機に対する空襲警報も発令された後、爆弾投下直前の10時53分には2機が視認されており、スウィーニーの懸念のように、広島爆撃と同様の状況であることは日本側も察知していた。それにもかかわらず、有効な迎撃手段はとれなかったということになる。</ref>。
{{see also|日本への原子爆弾投下|広島市への原子爆弾投下}}
 
== 原爆投下時 ==
出撃機は合計6機であり、気象観測機は小倉へはB-29[[エノラ・ゲイ]](ジョージ・マクォート George W. Marquardt 大尉)、長崎へはB-29[[ラッギン・ドラゴン]](チャーリー・マクナイト Charles F. McKnight 大尉)が飛び、計測機としてB-29[[グレート・アーティスト]]([[フレデリック・ボック]] Frederick C. Bock 大尉)、写真撮影機としてB-29[[ビッグ・スティンク]](ジェームス・ホプキンズ James I. Hopkins 中佐)、予備機としてB-29[[フルハウス (B-29)|フルハウス]](ラルフ・テイラー Ralph R. Taylor 少佐)、爆弾投下機はB-29[[ボックスカー]]であった。
1945年(昭和20年)[[8月6日]]の[[広島市への原子爆弾投下|広島原爆投下]]作戦において<ref name="nhk広島原爆">{{Cite web|和書|url= https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001530001_00000|title = 広島原爆の映像 |work = NHKアーカイブス| accessdate = 2025-06-01}}([[NHKアーカイブスポータル]])</ref>、観測機を務めた[[B-29_(航空機)|B-29]]「[[グレート・アーティスト]]」を操縦した[[チャールズ・スウィーニー]]少佐は、[[テニアン島]]へ帰還した夜、部隊の司令官であり、広島へ原爆を投下したB-29「[[エノラ・ゲイ]]」の[[機長]]であった[[ポール・ティベッツ]]大佐から、再び原爆投下作戦が行われるためにその指揮を執ること、目標は第一目標が[[小倉市]](現・[[北九州市]])、第二目標が長崎市であることを告げられた。
 
その時に指示された戦術は、1機の気象観測機が先行し目標都市の気象状況を確認し、その後、護衛機無しで3機のB-29が目標都市上空に侵入するというものであった。この戦術は、広島市への原爆投下の際と同じものであり、[[日本軍]]はこれに気付いて何がなんでも阻止するだろうとスウィーニーは懸念を抱いた{{refnest|group="注釈"|当時の長崎県知事であった[[永野若松]]の証言<ref>{{Harvnb|語りつぐ|1991|p=40}}</ref>によると、8月8日夜の警察との会議では、長崎はほとんど無傷に近いので、広島と同じ爆弾が長崎にも落とされるに違いないとの結論が出ていた。翌9日の午前9時前には気象観測機「[[ラッギン・ドラゴン]]」と思われる[[爆撃機]]に対する[[空襲警報]]も発令された後、爆弾投下直前の10時53分には2機が視認されており、スウィーニーの懸念のように、広島爆撃と同様の状況であることは日本側も察知していた。それにもかかわらず、有効な迎撃手段はとれなかったということになる。}}<!--出典と注釈的な文章全体の関係が不明瞭-->。
スウィーニーの搭乗機は通常はグレート・アーティストであったが、この機体には広島原爆投下作戦の際に観測用機材が搭載されていた。これをわざわざ降ろして別の機体に搭載し直すという手間を省くため、ボック大尉の搭乗機と交換する形で、爆弾投下機はボックスカーとなったのである。しかし、これらの機体の愛称は出撃時には機体に描かれていなかったため、唯一人これらの原爆投下作戦の取材許可を得ていた「[[ニューヨーク・タイムズ]]」の記者[[ウィリアム・ローレンス]]はこの交換のことを知らず、後の記事で「爆弾投下機はスウィーニー少佐の搭乗したグレートアーティスト号」としてしまい、これが原因で戦後しばらくの間は爆弾投下機の名前が間違って伝わることとなった<ref>ローレンスはこの原爆投下作戦に関する記事で1946年の[[ピューリッツァー賞]]を授章している。</ref>。
 
出撃機は合計6機であった<ref group="注釈">気象観測機は小倉へはB-29「エノラ・ゲイ」(ジョージ・マクォート George W. Marquardt 大尉)、長崎へはB-29「ラッギン・ドラゴン」(チャーリー・マクナイト Charles F. McKnight 大尉)が飛び、計測機としてB-29「グレート・アーティスト」([[フレデリック・ボック]] Frederick C. Bock 大尉)、写真撮影機としてB-29「[[ビッグ・スティンク]]」(ジェームス・ホプキンズ James I. Hopkins 中佐)、予備機としてB-29「[[フルハウス (航空機)|フルハウス]]」(ラルフ・テイラー Ralph R. Taylor 少佐)、爆弾投下機はB-29「[[ボックスカー]]」であった。</ref>。
ボックスカーには、スウィーニーをはじめとする乗務員10名の他、レーダーモニター要員のジェイク・ビーザー中尉、原子爆弾を担当する[[フレデリック・アッシュワース]]海軍中佐、フィリップ・バーンズ中尉の3名が搭乗した。ボックスカーは出撃直前になって後部爆弾倉ブラダの予備タンクの燃料ポンプに故障が見つかり、2000リットルの燃料が使えないままになることが判った。しかしスウィーニーは修理することは原爆投下作戦の延期につながると考え、ぎりぎりで帰還できると見込み、修理はせずに日本時間8月9日午前2時45分に離陸した。
 
スウィーニーの搭乗機は通常は「グレート・アーティスト」であったが、この機体には広島原爆投下作戦の際に観測用機材が搭載されていた。これをわざわざ降ろして別の機体に搭載し直すという手間を省くため、ボック大尉の搭乗機と交換する形で、爆弾投下機は「ボックスカー」となった<ref group="注釈">これらの機体の愛称は出撃時には機体に描かれていなかったため、ただ一人これらの原爆投下作戦の取材許可を得ていた『[[ニューヨーク・タイムズ]]』の[[記者]][[ウィリアム・L・ローレンス]]はこの交換のことを知らず、後の記事で「爆弾投下機はスウィーニー少佐の搭乗したグレートアーティスト号」としてしまい、これが原因で戦後しばらくの間は爆弾投下機の名前が間違って伝わることとなった。なおローレンスはこの原爆投下作戦に関する記事で1946年の[[ピューリッツァー賞]]を受賞している。</ref>。
先行していたエノラ・ゲイからは小倉市は[[靄|朝靄]]がかかっているがすぐに快晴が期待できる、ラッギン・ドラゴンからは長崎市は朝靄がかかっており曇っているが、[[雲]]は10分の2であるとの報告があった。
 
「ボックスカー」には、スウィーニーをはじめとする乗務員10名の他、[[レーダー]]モニター要員の[[ジェイコブ・ビーザー]]中尉、原爆を担当する[[フレデリック・アッシュワース]]海軍中佐、フィリップ・バーンズ中尉の3名が搭乗した<ref group="注釈">なお「ボックスカー」は出撃直前になって後部爆弾倉ブラダの予備タンクの燃料ポンプに故障が見つかり、2,000リットルの燃料が使えないままになることが分かった。しかしスウィーニーは修理することは原爆投下作戦の延期につながると考え、ぎりぎりで帰還できると見込み、修理はせずに[[日本標準時|日本時間]]8月9日午前2時45分に離陸した。</ref>。
[[硫黄島]]上空を経て、午前7時45分に[[屋久島]]上空の合流地点に達し、計測機のグレート・アーティストとは会合できたが、誤って高度12000メートルまで上昇していた写真撮影機のビッグ・スティンクとは会合できなかった<ref>スウィーニーは著書『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』において、会合できなかった理由はビッグ・スティンク機長のホプキンズ中佐のミスであり、作戦前の打合せをホプキンスが拒絶したからであると回想している。また、この合流失敗の際に、ホプキンズが「スウィーニーは止めたのか?」と通信したことから、テニアン基地では「スウィーニーは止めた」と受信し、作戦を中止し帰還するのだと考えたという。</ref>。40分間経過後、スウィーニーはやむなく2機編隊で作戦を続行する事にした。
 
先行していたエノラ・ゲイからは小倉市は[[靄|朝靄]]がかかっているがすぐに快晴が期待できる、「ラッギン・ドラゴン」からは長崎市は朝靄がかかっており曇っているが、雲量は10分の2であるとの報告があった。この2機に関しては9日朝に[[国東半島]]付近を飛行中に目撃され、[[西部軍管区 (日本軍)|西部軍管区]]司令部(第16方面軍司令部兼任)は午前7時50分に空襲警報を発令した{{Sfn|秦|1978|pp=29}}。午前8時30分、空襲警報は解除された{{Sfn|戦史叢書19|p=646b}}。
午前9時40分、[[大分県]][[姫島]]方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。しかし爆撃手[[カーミット・ビーハン]]陸軍大尉が目視による投下目標確認に失敗する<ref>原爆は目視による投下が厳命されていたが、前日小倉よりおよそ7km離れた[[八幡市 (福岡県)|八幡市]][[空襲]]の残煙と靄に目標が覆い隠されていたためといわれる</ref>。その後別ルートで爆撃航程を少し短縮して繰り返すものの再び失敗、再度3度目となる爆撃航程を行うがこれも失敗。この間およそ45分。
 
前回の広島市への原爆投下では、3機の合流地点は、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]上空であった。しかし、今回は、[[台風]]が硫黄島付近で勢力を増しつつあり、そのため合流地点を[[屋久島]]へ変更していた<ref>{{Harvnb|スウィーニー|2000|p=222}}</ref>。3機は屋久島まで個々に飛行を行った。
この小倉上空での3回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上ボックスカーは燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。その間に天候が悪化、日本軍[[高射砲]]からの対空攻撃が激しくなり(スウィーニーの回想では、弾着を示す黒い塊が周囲にいくつも浮かんでいたということで、この時点でボックスカーは高射砲の射程圏内にあったと考えられる)、また、陸軍芦屋基地から飛行第59戦隊の[[五式戦闘機]]、海軍築城基地から第203航空隊の[[零式艦上戦闘機]]10機が緊急発進してきた事も確認されたので、目標を小倉市から第二目標である長崎市に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した。
[[File:Atomic bomb 1945 mission map.svg|thumb|upright=1.3|1945年8月6日と9日の原爆投下の飛行ルート|alt=原爆投下のための飛行ルートを示す日本とマリアナ諸島の地図。 テニアン基地から硫黄島を経て広島へ直行。投下後、同じルートを戻る。 もう1つは、テニアン基地から合流地点の屋久島へ飛行。そこから、第1目標の小倉へ。目視投下できず第2目標の長崎へ飛行。そして原爆投下。燃料不足により沖縄へ。燃料補給後テニアンに戻る。]]
午前7時45分に屋久島上空の合流地点に達し、計測機の「グレート・アーティスト」とは会合できた{{Efn|日本時間8時12分に屋久島に到着。前方400フィートに「ボックスカー」を発見<ref>{{Harvnb|ローレンス|1950|p=282}}</ref>。しかし、William L. Laurence, “Dawn Over Zero: The Story of the Atomic Bomb” には「4,000フィート前方」と書かれている。換算すると約1,200メートルである。}}が、島の西側を旋回していた写真撮影機の「ビッグ・スティンク」とは会合できなかった{{Sfn|秦|1978|pp=29}}。それでも高度12,000メートルの地点で「エノラ・ゲイ」、「ラッギン・ドラゴン」からの気象報告を受信したスウィーニーは2機編隊で作戦を続行することにした{{Sfn|秦|1978|pp=29}}<ref group="注釈">日本時間8時56分に出発開始。ウィリアム・ローレンス、崎川範行訳『0の暁』</ref>。この気象報告は[[埼玉県]]の[[大和田通信所]]で傍受されており、直ちに西部軍管区に転送された{{Sfn|秦|1978|pp=29}}。
 
午前9時40分、[[大分県]][[姫島村|姫島]]方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である[[小倉陸軍造兵廠]]上空へ到達。爆撃手[[カーミット・ビーハン]]陸軍大尉が[[ノルデン爆撃照準器]]から目標を確認し、それを受けてスウィーニーが投下用意を令して爆弾倉を開け、スウィーニー以下全搭乗員が保護メガネを着用して爆発に備えた{{Sfn|秦|1978|pp=29-30}}。ところが、当日の小倉上空を漂っていた霞もしくは煙のために照準器の視野が遮られ、目視による投下目標確認に失敗する{{Sfn|秦|1978|pp=29-30}}。この時視界を妨げていたのは、前日([[8月8日]])にアメリカ軍が敢行した[[八幡大空襲|八幡市空襲]](八幡・小倉間の距離はおよそ7キロメートル)の<ref>{{Harvnb|戦史叢書19|p=622|loc=北九州における戦闘}}</ref>、残煙と靄だといわれる{{Efn|アメリカ軍の報告書にも、小倉市上空の状況について『雲』ではなく『煙』との記述が見られる{{Sfn|秦|1978|pp=29}}。}}。また、この時地上では広島への原爆投下の情報を聞いた[[日本製鐵]][[官営八幡製鐵所|八幡製鉄所]]の従業員が、9日朝、敵機が少数機編隊で北上している報を聞き、上司の命令で煙幕装置に点火。新型爆弾を警戒して「コールタールを燃やして煙幕を張った」と証言しており、これが影響した可能性もある<ref>{{Cite news |和書 |title=原爆:投下の日「煙幕」…八幡製鉄所の元従業員が証言 |newspaper=毎日新聞 |date=2014-07-26 |author1=比嘉洋 |author2=高芝菜穂子 |author3=曽田拓 |url=http://mainichi.jp/select/news/20140726k0000m040114000c.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140726051543/http://mainichi.jp/select/news/20140726k0000m040114000c.html |archivedate=2014-07-26 |accessdate=2025-08-18}}</ref><ref group="注釈">[[テレビ西日本]]が2015年5月に放送したドキュメンタリー内で検証が行われたが、コールタールを燃やすと煤は出るが煙幕と呼べるものにはならず、八幡市空襲の残煙が「煙幕」の原因と結論付けている。</ref>。「ボックスカー」は旋回して爆撃航程を少し短縮して爆撃態勢を繰り返すものの煙で依然として目標がつかめなかったばかりか、日本軍[[高射砲]]からの対空攻撃が激しくなり、「ボックスカー」の周囲には高射砲からの弾着が取り巻いて機体が爆風で揺さぶられるようになった{{Sfn|秦|1978|pp=29-30}}。
=== 長崎上空 ===
長崎に向かう途中、ボックスカーではとんだ椿事が発生した。グレート・アーティストの居場所について声をかけられた航法士が、インターフォンのボタンを押したつもりが誤って無線の送信ボタンを押してしまったのである。直後、「チャック! どこにいる?」という、未だ屋久島上空で旋回しているホプキンズからの返事が返ってきた。結果的に無線封止を破ってしまったボックスカーは、なぜか急旋回してグレート・アーティストと[[ニアミス]]。危うく空中衝突をするところであった。
 
日本軍において、九州の防空を担っていたのは[[第6航空軍 (日本軍)|第6航空軍]]であった<ref name="戦史叢書19p7b" />。さらに、大和田通信所からの情報を転送された各基地のうち、陸軍[[芦屋基地|芦屋飛行場]]から飛行第59戦隊の[[五式戦闘機]]、海軍[[築城基地]]から第203航空隊の[[零式艦上戦闘機]]10機が緊急発進してきたことも確認された{{Sfn|秦|1978|pp=29-30}}<ref group="注釈">ウィリアム・ローレンス、崎川範行訳『0の暁』には、「21機の日本戦闘機が雲から現われ、われわれに向かって旋回上昇してくるのをみつけた。」と記されている。</ref>。「ボックスカー」は東側に転じて3度目となる爆撃航程を行うがこれも目標を確認することが出来ず失敗{{Sfn|秦|1978|pp=30}}。この間およそ45分間が経過した。この小倉上空での3回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上「ボックスカー」は燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。その間に天候が悪化して目視爆撃が難しくなり、目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更すべく午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した<ref>{{Cite web |url=https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.84862 |title=Dawn Over Zero: The Story of the Atomic Bomb |access-date=2022/11/02 |publisher=Internet Archive}}</ref><ref group="注釈">日本時間10時33分に西方約160Kmの長崎へ向かう。ウィリアム・ローレンス、崎川範行訳『0の暁』</ref>。
長崎天候観測機ラッギン・ドラゴンは「長崎上空好天。しかし徐々に雲量増加しつつあり」と報告していたが、それからかなりの時間が経過しておりその間に長崎市上空も厚い雲に覆い隠された。
 
=== 長崎上空 ===
3回原爆投下を試みたが、果たせなかったスウィーニーは小倉から攻撃開始地点の姫島へ戻ろうとした。コックピットの他の隊員から第2目標の長崎行きを勧められる。突然、スウィーニーは右旋回して長崎の方向に向かった<ref>{{Harvnb|スウィーニー|2000|p=240}}</ref>。このとき、右側後方を飛行していたボック大尉操縦の「グレート・アーティスト」と危うく空中衝突しそうになる{{Sfn|秦|1978|pp=31}}。スウィーニーは航法士にボックの位置を確認するため振り向いたとき「ボックはどこだ?」と聞いたが、この際にインターフォンと間違えて通信機器に触れて無線封止の命を破る形となり、「ボックはどこだ?」という音声通信はホプキンス中佐が操縦する「ビッグ・スティンク」に伝わってしまった{{Sfn|秦|1978|pp=30}}。ボックは左側後方を無事に飛行していた。直後、「チャック! どこにいる?」というホプキンス中佐からの音声通信が返ってきたが、それには答えることなく長崎へ向かった<ref>{{Harvnb|スウィーニー|2000|pp=240-241}}</ref>。「ビッグ・スティンク」は、いまだ屋久島上空で旋回していた{{Sfn|秦|1978|pp=30}}。長崎への天候観測機「ラッギン・ドラゴン」は「長崎上空好天。しかし徐々に雲量増加しつつあり」とすでに報告していたが、それからかなりの時間が経過しておりその間に長崎市上空も厚い雲に覆い隠された。「ボックスカー」は小倉を離れて約20分後、長崎県上空へ侵入、午前10時50分頃、「ボックスカー」が長崎市上空に接近した際には、高度1,800メートルから2,400メートルの間が、80パーセントから90パーセントの[[積雲]]で覆われていた<ref name="p242">{{Harvnb|スウィーニー|2000|p=242}}</ref>。
 
補助的にAN/APQ-7“イーグル”レーダーを用い、北西方向から照準点である長崎市街中心部上空へ接近を試みた。スウィーニーは目視爆撃が不可能な場合は[[太平洋]]に原爆を投棄せねばならなかったが、兵器担当のアッシュワース海軍中佐が「レーダー爆撃でやるぞ」とスウィーニーに促した{{refnest|group="注釈"|レーダーモニター要員のビーザー中尉の回想でもアッシュウォース中佐がレーダー爆撃の命令を出す責任を取ったとしている。一方、スウィーニー少佐の回想ではレーダー(照準)で投下しようと提案したのはスウィーニーであり、アッシュウォース中佐は「わからんな」「精度に自信が持てるか?」と応え、スウィーニーがそれに対し「全責任を負う」と言ったとしている<ref name="p242"/>。}}。命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点であったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。ビーハンは大声で叫んだ。
ボックスカーは小倉を離れて約20分後、長崎県上空へ侵入、午前10時50分頃、ボックスカーが長崎上空に接近した際には、高度1800メートルから2400メートルの間が、80~90%の積雲で覆われていた<ref>『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』242頁</ref>。
{{Quotation|「街が見える!」
 
「'''Tally ho!'''<ref group="注釈">軍事用語で「攻撃目標視認」の意。「I have insight」と同義。</ref> 雲の切れ間に第2目標発見!」}}
補助的にAN/APQ-7“イーグル”レーダーを用い、北西方向から照準点である長崎市街中心部上空へ接近を試みた。スウィーニーは目視爆撃が不可能な場合は太平洋に原爆を投棄せねばならなかったが、兵器担当のアッシュワース海軍中佐が「レーダー爆撃でやるぞ」とスウィーニーに促した<ref>レーダーモニター要員のビーザー中尉の回想でもアッシュウォース中佐がレーダー爆撃の命令を出す責任を取ったとしている。一方、スウィーニー少佐の回想ではレーダー(照準)で投下しようと提案したのはスウィーニーであり、アッシュウォース中佐は「わからんな」「精度に自信が持てるか?」と応え、スウィーニーがそれに対し「全責任を負う」と言ったとしている。出典:『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』242頁</ref>。命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点であったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。ビーハンは大声で叫んだ。
スウィーニーは直ちに[[オートパイロット|自動操縦]]に切り替えてビーハンに操縦を渡した。工業地帯を臨機目標として、午前10時58分、高度9,000メートルから「ファットマン」を手動投下した。ファットマンは[[放物線]]を描きながら落下、約4分後の午前11時2分、市街中心部から北へ約3キロメートルそれた(目標地帯からは500 - 600メートル北とする説もある<ref name=":0">{{Cite web |url=https://nagasakipeace.jp/search/about_abm/scene/1102.html |title=11時2分 {{!}} 原爆の惨状 {{!}} 長崎の原爆 {{!}} 調べる {{!}} ながさきの平和【公式】 |access-date=2023-12-6 |publisher=長崎市}}</ref>)松山町171番地の[[別荘]]の[[テニスコート]]上空503メートル±10メートル<ref group="注釈">1976年にアメリカ・[[オークリッジ国立研究所]]のジョージ・D・カーの推定による数値。</ref>で炸裂した<ref group="注釈">当初の投下目標は市街地の中心を流れる[[中島川]]にかかる常盤橋だった。実際の[[爆心地]]一帯は、予定通り当初の目標上空で爆発した場合、被害地域の最北端と試算された場所であった。</ref>。
: 「街が見える!」
: 「Tallyho!(※) 雲の切れ間に第2目標発見!」
: ※「攻撃目標確認」の意。
スウィーニーは直ちに自動操縦に切り替えてビーハンに操縦を渡した。工業地帯を臨機目標として、高度9000メートルからMk-3核爆弾[[ファットマン]]を手動投下した。ファットマンは[[放物線]]を描きながら落下、約1分後の午前11時2分、長崎市街中心部から約3kmもそれた別荘の[[テニス]]コート上空、高度503mプラスマイナス10メートル<ref>1976年にアメリカ・オークリッジ国立研究所のジョージ・D・カーの検討による数値。</ref>で炸裂した(松山町171番地)<ref>当初の投下目標は市街地の中心を流れる中島川にかかる常盤橋だった。実際の[[爆心地]]一帯は、予定通り当初の目標上空で爆発した場合、被害地域の最北端と試算された場所であった。</ref>。
[[Image:Nagasakibomb.jpg|right|250px|thumb|キノコ雲]]<!-- http://www.archives.gov/education/history-day/bright-ideas/digitized-images.html -->
 
ボックスカーは爆弾を投下後、[[衝撃波]]を避けるため北東に向けて155度の旋回と急降下を行った。爆弾投下後から爆発までの間には後方の計測機グレートアーティストから爆発の圧力、気温{{要出典|date=2025年2月|title=気温を測定したとする出典を求める。}}などを計測する3個の[[ラジオゾンデ]]が[[パラシュート|落下傘]]をつけて投下された<ref group="注釈">広島原爆投下時と同じく、この落下傘をつけたラジオゾンデを目撃した市民は多く、このことから戦後しばらくの間、原爆は落下傘をつけて投下されたものと考えられていた。</ref>。これらのラジオゾンデは、原爆の爆発後、長崎市の東側に流れ、正午頃に戸石村上川内(爆心地から11.6キロメートル、田結村(12.5キロ)、江の浦村(13.3キロ)に落下した<ref>ラジオゾンデは[[諫早市]]で回収されたとする資料があるが、これは落下後に諫早市の海軍士官宿舎に送られたためである。</ref>。これらのラジオゾンデには8月9日の広島原爆投下作戦にも同行した物理学者[[ルイ・アルヴァレ]]らから、旧友である当時[[東京帝国大学]]教授であった[[物理学者]][[嵯峨根遼吉]]に宛てた手紙が入れられており、原爆の威力について理解できるはずの嵯峨根から日本政府に降伏を働きかけるようにとの勧めが書かれていた<ref>この手紙が嵯峨根博士に渡ったのは終戦後の9月になってからであった。画像は[http{{Google maps | url =https://www.rikengoogle.co.jp/r-worldmaps/infoplace/release%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E8%A6%B3%E6%B8%AC%E7%94%A8%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%87%E8%90%BD%E4%B8%8B%E5%9C%B0%E7%82%B9/riken88@32.7807231,129.988355,90m/text/no09data=!3m1!1e3!4m15!1m8!3m7!1s0x35401b3ee46a5ee9:0x396b71def2fd48f6!2z44CSODU0LTAwMzcg6ZW35bSO55yM6Kur5pep5biC5bed5YaF55S6!3b1!8m2!3d32.8474026!4d130.html]で参照することができる。</ref>。0812491!16s%2Fg%2F1pxy_n20v!3m5!1s0x354001e68405edb7:0xa65ebe4f89a4c979!8m2!3d32.7807346!4d129.9885761!16s%2Fg%2F11c548k_75?entry=ttu
|title =原子爆弾観測用ラジオゾンデ落下地点(戸石村上川内、現:長崎市川内町)| accessdate = 2024-01-23}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.nagasaki-np.co.jp/peace_article/2126/
|title=’’’癒えぬ心の傷’’’  未指定地域の「被爆者」たち 3(ピースサイト関連企画)|accessdate=2024-01-22|author=長崎新聞社|date=2001-06-23 |year=2001|website= https://www.nagasaki-np.co.jp/|ref=harv}}</ref>、田結村補伽(同12.5キロメートル)<ref>{{Google maps | url = https://www.google.co.jp/maps/@32.7857306,129.9982537,3a,75y,179.44h,80.2t/data=!3m8!1e1!3m6!1sAF1QipMh-YZn9RXu-c-jnwUeUEuHTtnXBf6ahMjswgsk!2e10!3e11!6shttps:%2F%2Flh5.googleusercontent.com%2Fp%2FAF1QipMh-YZn9RXu-c-jnwUeUEuHTtnXBf6ahMjswgsk%3Dw203-h100-k-no-pi-0.5019536-ya99.74745-ro-1.7401491-fo100!7i5376!8i2688?entry=ttu| title =原子爆弾観測用ラジオゾンデ落下地点(田結村補伽、現:諫早市飯盛町平古場) | accessdate = 2024-01-23}}</ref><ref>{{Google maps | url =https://www.google.co.jp/maps/@32.7857291,129.9985303,3a,75y,293.61h,91.63t/data=!3m7!1e1!3m5!1sJMM2OwKNmcioNo34jY0_CA!2e0!6shttps:%2F%2Fstreetviewpixels-pa.googleapis.com%2Fv1%2Fthumbnail%3Fpanoid%3DJMM2OwKNmcioNo34jY0_CA%26cb_client%3Dmaps_sv.tactile.gps%26w%3D203%26h%3D100%26yaw%3D158.77896%26pitch%3D0%26thumbfov%3D100!7i16384!8i8192?entry=ttu|title =原子爆弾観測用ラジオゾンデ落下地点(田結村補伽、現:諫早市飯盛町古場)県道138号・田結久山線から案内板を見る。川の奥に小さく案内板が見える。| accessdate = 2024-01-23}}</ref>、江の浦村嵩(同13.3キロメートル)<ref>{{Google maps | url =https://www.google.co.jp/maps/@32.7817096,130.0032221,3a,85.5y,173.29h,84.66t/data=!3m8!1e1!3m6!1sAF1QipPMFrKHk1trwz8JK34wfa_6ig97_JBnwSkpSoMb!2e10!3e11!6shttps:%2F%2Flh5.googleusercontent.com%2Fp%2FAF1QipPMFrKHk1trwz8JK34wfa_6ig97_JBnwSkpSoMb%3Dw203-h100-k-no-pi2.2567062-ya64.51095-ro5.9501357-fo100!7i5376!8i2688?entry=ttu
| title =原子爆弾観測用ラジオゾンデ落下地点(江の浦村嵩、現:諫早市飯盛町平古場) | accessdate = 2024-01-23}}</ref>に落下した{{Sfn|碑は訴える|p=176}}<ref group="注釈">ラジオゾンデは[[諫早市]]で回収されたとする資料があるが、これは落下後に同市の海軍士官宿舎に送られたためである。</ref>{{refnest|group="注釈"|これらのラジオゾンデには8月6日の広島原爆投下作戦にも同行した[[物理学者]][[ルイ・アルヴァレ]]らから、旧友である当時[[東京大学|東京帝国大学]]教授であった物理学者[[嵯峨根遼吉]]に宛てた[[手紙]]が入れられており、原爆の威力について理解できるはずの嵯峨根から日本政府に降伏を働きかけるようにとの勧めが書かれていた。しかし、この手紙が嵯峨根博士に渡ったのは終戦後の9月になってからであった<ref>檜山良昭の閑散余録 [http://www.slownet.ne.jp/sns/area/culture/reading/kansanyoroku/200708090922-9592430.html 「第141回 原爆投下秘話 一通の手紙」] (2007年8月9日 手紙の写真あり)</ref>。}}。
 
ボックスカーグレート・アーティストはしばらく長崎市上空を旋回し被害状況を確認し、テニアン基地に攻撃報告を送信した。
 
: ''{{Quotation|長崎を090158Zに有視界で爆撃した。[[戦闘機]]の迎撃も、対空砲火もなし。結果は「技術的には成功」といえるが、他の要素のため、次の行動に移る前に、会議が必要である。外見上の効果は広島と同じ。投下後の機内の故障により、[[沖縄県|沖縄]]に向かう必要あり。燃料は沖縄までしかない。|長崎市編『ナガサキは語りつぐ』岩波書店 1991年 91頁)<ref group="注釈">(原文)"Bombed Nagasaki 090158Z visually with no fighter opposition and no flak. Results 'technically successful' but other factors involved make conference necessary before taking further steps. Visible effects about equal to Hiroshima. Trouble in airplane following delivery requires us to proceed to Okinawa. Fuel only to get to Okinawa."</ref>}}
: (長崎市編『ナガサキは語りつぐ』岩波書店 1995年 91頁より引用)
 
[[ファイル:Atomic cloud over Nagasaki from Koyagi-jima.jpeg|thumb|[[香焼町|香焼島]]から撮影された長崎原爆の[[キノコ雲]](松田弘道撮影)]]
: "Bombed Nagasaki 090158Z visually with no fighter opposition and no flak. Results 'technically successful' but other factors involved make conference necessary before taking further steps. Visible effects about equal to Hiroshima. Trouble in airplane following delivery requires us to proceed to Okinawa. Fuel only to get to Okinawa."
この時の原爆爆発の様子は16mmのカラーフィルムに3分50秒の映像として記録された。この映像には爆発時の火の玉から[[キノコ雲]]までがはっきりと写っている<ref>{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/76482 |title = NAGASAKI BURST | website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1945| accessdate = 2025-06-01}}</ref><ref group="注釈">[[広島市への原子爆弾投下]]時の映像が一部しか残っていない現在、これは実戦においてほぼ唯一の原爆投下の映像である。この映像は[[1980年]](昭和55年)に[[日本]]へ提供され、今でも[[テレビ]]などで用いられている。</ref>。
: (原文)
 
長崎のキノコ雲については、爆心地から約10キロメートル離れた香焼町で炸裂から約15分後に住民が撮影した写真や、[[大村市]]の大村海軍病院から撮影された写真<ref name="yasu58">[[#泰山]] P.58</ref>が残されている他、遠くの県からも見えたとの証言もある。約100キロメートル離れた[[熊本県]][[熊本市]]でも「ピカッと閃光が走り、空気がぶるぶるっと震え、遠くにキノコ雲が上がるのが見えた」との証言がある<ref>{{Cite web |date=2006-08-09 |url=http://blogs.yahoo.co.jp/miamasavin/16333828.html |title=遠くの県からも原爆は見えた |website=[[Yahoo!ブログ]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20170202145650/http://blogs.yahoo.co.jp/miamasavin/16333828.html |archive-date=2017-02-02 |access-date=2025-08-12}}</ref>。また遠く200キロメートル離れ、[[九州山地]]の東側に位置する[[大分県]][[中津市]]でも「あの日長崎方面から立ち上がるキノコ煙が見え、何事かと不安になり恐ろしかった」と当時を語る証言もある。
このときの原爆爆発の様子は16mmのカラーフィルムに3分50秒の映像として記録された。この映像には爆発時の火の玉からキノコ雲までがはっきりと写っており、[[広島市への原子爆弾投下]]時の映像が現像失敗等で殆ど残っていない現在、これは実戦に於いてほぼ唯一の原子爆弾投下の映像である。この映像は[[1980年]]に日本へ提供され、今でもテレビなどで用いられている。
 
=== 帰還 ===
ボックスカーは長崎市上空を離脱する際には残燃料約10001,000[[リットル]]であり、計算では沖縄の手前120キロメートルから80キロメートルまでしか飛べないと考えられた。スウィーニーはエンジン回転を落とし徐々に降下しながらすることで燃料を節約する方法で午後2し、14時に[[沖縄県]]の[[読谷飛行場]]に緊急着陸した<ref>{{refnest|group="注釈"|伊江飛行場とする説もあるが、スウィーニー少佐はその回想記の中では読谷管制塔を呼び出し着陸したとしている。チャールズ・W・<ref>{{Harvnb|スウィーニー 黒田剛訳『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』原書房 |2000|p=249}}</ref>。}}。残燃料はわずか26リットルであったという。着陸後、スウィーニーは[[ドーリットル空襲]]で名を馳せたアメリカ第8航空軍司令官[[ジミー・ドーリットル]]陸軍中将と会談した。燃料補給と整備が終了したボックスカー」、「グレート・アーティスト」、「ビッグ・スティンク」{{Efn|「ビッグ・スティンク」のレーダーオペレーターだったキャノン伍長(Cpl. Richard F. Cannon)の証言。沖縄に着陸したとき、機体に残っているガソリン午後5、200[[ガロン]](約760リットル)強だった{{Sfn|The 509th Remembered|2013|p=51}}。}}の3機は16時過ぎに離陸{{Efn|「1945年8月9日センターボード作戦午後11第509特殊爆撃任務16着陸報告」によれば、3機が沖縄に着陸し、090705Z(091605J)に沖縄からテニアンへ発進した。帰還予定時刻:091315Z(092215J) {{Sfn|原爆投下の経緯|p=127}}。}}、3機は、日本時間21時25分から21658分にテニアン島に帰還した{{Efn|「第509群団特殊爆撃任務16、センターボード攻撃、飛行45年8月9日に関する着陸報告」によれば3機は091225Z(092125J)から091258Z(092158J)に沖縄から帰還した{{Sfn|原爆投下の経緯|p=128}}。}}
 
== 長崎原爆の威力 ==
{{節stub}}
長崎原爆は[[プルトニウム]]239を使用する原子爆弾である。
{{Main|ファットマン}}
プルトニウム原爆は[[原子爆弾#インプロージョン方式|インプロージョン方式]]起爆する。
長崎原爆は[[プルトニウム239]]を使用する原子爆弾である。このプルトニウム原爆は[[原子爆弾#インプロージョン型|インプロージョン方式]]で起爆する。長崎原爆「[[ファットマン]]」は[[トリニトロトルエン|TNT火薬]]換算で22,000[[トン]](22キロトン)相当の規模にのぼる。この規模は、広島に落と投下された[[ウラン235]]235の原爆「[[リトルボーイ]]」([[TNT(TNT火薬]]15,000t000トン相当)の1.5倍の威力であった。
 
目視確認した上での投下が重要命令であったものの、当日は街が雲で覆われていてわずかな雲の切れ間から街が見えたチャンスにそこに投下することとなり、その結果、投下地点は予定していた市街地の中心部ではなくなった<ref name=":0" />。長崎市は周りが山で囲まれた特徴を持つある地形であったため[[熱線]][[爆風]]が山によって遮断された結果、広島よりも破壊被害は軽減されたが、周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島のそに落とさた「リトルボーイ」の威力えたとも言われている。また仮に当初目標の小倉に投下された場合、[[山口県]][[下関市]]を含めた[[関門海峡]]周囲の壊滅が予想され、広島よりも大きな被害になったとされる。
<ref>[[1945年]][[7月16日]]に[[アメリカ合衆国]][[ニューメキシコ州]][[アラモゴード]]のホワイトサンズ射爆場で行われた世界史上初の[[核実験]]『トリニティ』及び[[1946年]]に[[マーシャル諸島]]の[[ビキニ環礁]]で行われた[[核実験]]『クロスロード・エイブル』([[クロスロード作戦]]を参照せよ)の実験結果から、仮に東京都心上空で爆発させたと仮定した場合、[[山手線]]の内側を壊滅させるだけの強大な破壊力を有していた。したがって、現在の東京都心に対してファットマンによる昼間攻撃を行ったと仮定した場合、死者100万人を超す被害が想定される。 -- この想定には異論あり(ノート参照)</ref>
 
長崎県知事が広島原爆教訓をもとに、9日に避難命令の検討を行おうとしていたが、間に合わなかった。同じく投下目標都市になっていた新潟は、10日に知事が命令を決定し、11日から集団疎開が始まった([[原爆疎開]])。
{{節stub}}
 
== 長崎原爆投下の背景と経緯 ==
長崎型の原爆は自然界に極微量しか存在しない元素[[元素]]プルトニウム]]239を(原子炉を運転して人工的に製造して)使用する。また爆弾の材料のプルトニウム原爆その同位体純度から来る問題や高濃縮ウラン原爆とは異なる挙動反応特性示す持つため、爆弾の動作原理と構造には全く異なるものが必要であになる。そのため、その開発は[[ウラン]]を使用する広島原爆とは違った道程を辿たどった。
 
=== アメリカとイギリスと日本の軍事的な経緯 ===
=== 超ウラン元素プルトニウム ===
プルトニウムの歴史は、まずウラン[[原子核]]([[原子番号]]92)の[[核分裂反応|核分裂]]の実験の際に、原子番号93,94の元素の存在が予言されたことに始まる。[[1940年]]に原子番号93の[[ネプツニウム]]が発見された。次いで[[1941年]]2月に原子番号94のプルトニウムが[[カリフォルニア大学]]バークレー校の[[グレン・シーボーグ]]により発見された。
 
1939年8月2日、[[イギリス委任統治領パレスチナ]]の[[ヘブライ大学]]建設資金集めに尽力してきた[[ユダヤ人]][[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]が、[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領に宛てた手紙([[アインシュタイン=シラードの手紙]])で、「大量のウランが[[核分裂連鎖反応]]を起こす現象は、新型爆弾の製造につながるかもしれない。飛行機で運ぶには重過ぎるので、船で運んで港湾ごと爆破することになる。アメリカで連鎖反応を研究している物理学者グループからなる諮問機関をつくるのがいい」と進言。
このころの世界情勢は[[1939年]]9月にヨーロッパで[[第二次世界大戦]]が勃発しており、またその頃に亡命物理学者[[レオ・シラード]]が[[ルーズベルト]]大統領あてに原子爆弾開発の歴史的な進言書を送っていた。
 
1939年9月1日、[[第二次世界大戦]]勃発。
プルトニウムが兵器原子爆弾の原材料としての関心を集めるのも時間の問題であった。
 
1939年10月11日、その手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)が[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領に届けられる。
{{wikisource|en:Frisch-Peierls memorandum|「フリッシュ&パイエルス覚書」}}
なお1940年3月には「フリッシュ&パイエルス覚書」([[:en:Frisch-Peierls memorandum|Frisch-Peierls memorandum]])により、原子爆弾の実現可能性が示されており、核分裂のエネルギーを利用する軍事研究が既に始まっていた。
 
1939年10月21日、アメリカは[[S-1ウラン委員会|ウラン諮問委員会]]を設置。
=== プルトニウム生産原子炉 ===
[[プルトニウム]]は自然界に極微量しか存在しない[[超ウラン元素]]である。従いプルトニウム原爆の第一の関門は如何にしてプルトニウムを生産するかである。プルトニウムは[[ウラン238]]が[[中性子]]を吸収し、二段階の[[ベータ崩壊]]を起こしてプルトニウム239に変換することにより生成する。この過程を効率よく行う課題があった。
 
1940年4月10日、イギリスが第一回ウラン爆発軍事応用委員会([[MAUD委員会]])の会議を開催。
[[1941年]]12月の日本軍の[[真珠湾攻撃]]により[[太平洋戦争]]が勃発した。この直後、[[シカゴ大学]]の[[アーサー・コンプトン]]は「冶金研究所」 ([[:en:Metallurgical Laboratory|Metallurgical Laboratory]], 隠蔽の為に無関係な名称が付けられた) にてプルトニウムの研究を開始する。研究のため、コンプトンは[[エンリコ・フェルミ]]、[[レオ・ジラード]]、[[グレン・シーボーグ]]など核分裂の研究者をシカゴ大学に呼び集めた。
 
1940年4月、[[理化学研究所]](理研)の[[仁科芳雄]]がウラン爆弾計画を[[安田武雄]][[陸軍航空技術研究所]]長に進言<ref>[https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_17-01-01-03.html (2000)"''原子力資料集(年表など)_原子力年表_黎明期(1895年~1952年)_1940年~1943年(昭和15年~18年)''". 高度情報科学技術研究機構.2016年8月25日閲覧]</ref>。
[[Image:Nuclearmonument.jpg|thumb|250px|CP-1跡の記念碑<br/>制作[[ヘンリー・ムーア]]]]
[[1942年]]5月、プルトニウム増殖の技術研究の原子炉[[シカゴ・パイル1号]](CP-1)の開発が開始した。原子炉CP-1はシカゴ大学キャンパス内のアメフト場([[:en:Stagg Field|Stagg Field]])に作られ、その年の12月にはパイルは[[臨界]]実験に成功する。1942年8月には、シーボーグは計量可能量のプルトニウムの分離に成功する。しかしCP-1はプルトニウムの実生産にはスケールが小さすぎるため、直ちに実生産プラントの計画が始まった。プルトニウム原子爆弾の製造に必要量のプルトニウムを生産するためには、巨大設備が必要であることが判明した。
 
1940年4月、安田武雄中将が部下の鈴木辰三郎<ref name="nigo"/>に「原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査を命じる。
なお、1942年5月には[[ジェームズ・コナント]] ([[:en:James Bryant Conant|James Bryant Conant]], [[ハーバード大学]]総長及び[[:en:National Defense Research Committee|National Defense Research Committee]]議長)より、ウラン原爆とともにプルトニウム原爆の開発に着手するよう、[[科学研究開発局]]局長の[[ヴァネヴァー・ブッシュ]]に進言している。
 
1940年6月、鈴木辰三郎は[[東京大学|東京帝国大学]]の物理学者[[嵯峨根遼吉]](当時は助教授)の助言を得て、2か月後に「原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出<ref name="nigo"/>。
ブッシュ等は巨費を要する原子爆弾の開発・製造を国家事業とするように[[ルーズベルト]]大統領に提言し、大統領はこれを承認した。これをうけ、1942年9月に[[レズリー・グローヴス]]を統括指揮官とする秘密国家プロジェクト「マンハッタン工兵管区」が開始された。通称[[マンハッタン計画]]と呼ばれる原子爆弾の開発・製造プロジェクトである。
 
1940年7月6日、すでに理研の仁科芳雄らがイギリスの学術雑誌『[[ネイチャー]]』に投稿していた『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons([[高速中性子]]によって生成された[[核分裂生成物]])』と題する、2個の中性子が放出される(n. 2n)反応や、複数の対象[[核分裂反応|核分裂]]を伴う[[核分裂連鎖反応]]([[臨界事故]])を起こした実験成果が掲載された<ref>{{cite journal |journal=Nature |volume=146 |title=Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons |first1 = Y. |last1 = Nishina |first2 = T. |last2 = Yasaki |first3 = H. |last3 = Ezoe |first4 = K. |last4 = Kimura |first5 = M. |last5 = Ikawa |url=https://doi.org/10.1038/146024a0 |date=06 Jul 1940 |page = 24 | doi=10.1038/146024a0| issn = 0028-0836 }}</ref>。この実験では[[臨界量]]を超える[[天然ウラン]]([[ウラン238]]-99.3%, [[ウラン235]]-0.7%)に[[高速中性子]]を照射したが、現在ではそのことによって[[プルトニウム239]]が生成されることや、核爆発が起きることが知られている<ref>{{Cite web |url=https://www.antiatom.org/GSKY/jp/Rcrd/Basics/jsawa-06.htm |title=第6回 英国生まれの原爆原理 |work=澤田昭二の反核ゼミ |publisher=[[原水爆禁止日本協議会]] |access-date=2025-08-12}}</ref>。
マンハッタン計画の元、プルトニウム生産の巨大プラント建設が始まった・・・
 
1941年4月、[[大日本帝国陸軍]]が理研に原爆の開発を依頼。[[ニ号研究]]と名付けられる<ref name="nigo">{{Cite news |title=幻の原爆開発 科学者が巻き込まれた2つの出来事とは…|newspaper=産経新聞|date=2015-08-03|author= |url=https://www.sankei.com/article/20150803-SHBXLPLK45M6BPC5LGLFLAXWHE/|accessdate=2016-08-26}}</ref>。
{{節stub}}
 
1941年7月15日、イギリスのMAUD委員会は、ウラン爆弾が実現可能だとする最終報告を承認して解散。
 
1941年10月3日、イギリスのMAUD委員会最終報告書が、公式にフランクリン・ルーズベルト大統領に届けられる。
 
1941年11月末、[[連合国軍最高司令官総司令部]]の主要メンバーとなる[[ユダヤ人]][[ベアテ・シロタ・ゴードン]]の母で、[[貴族院_(日本)|大日本帝国貴族院]]議員の[[サロン]]を主催していたオーギュスティーヌが、夫[[レオ・シロタ]]と共に[[ハワイ]]から再訪日。
=== 長崎原爆投下都市の選択 ===
[[長崎市]]が原爆投下目標都市リストに選ばれた理由の一つに、その特異な地形がある。
[[広島市]]のような平坦な[[三角州]]と異なる地形に原爆を投下した場合に、どのような爆撃効果が現れるのかを知ることは重要な選択ポイントであった。
 
1941年12月8日、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])勃発、日本がアメリカ、イギリスと開戦。
 
1942年9月26日、アメリカの[[:en:War Production Board|軍需生産委員会]]が、[[マンハッタン計画]]を最高の戦時優先等級に位置づけた。
 
1942年10月11日、アメリカはイギリスにマンハッタン計画への参画を要請。
 
1944年7月9日、朝日新聞に、『決勝の新兵器』と題して「ウラニウムに中性子を当てればよいわけだが、宇宙線には中性子が含まれているので、早期爆発の危険がある。そこで中性子を通さないカドミウムの箱に詰め、いざという時に覆をとり、連鎖反応を防ぐために別々に作ったウラニウムを一緒にして中性子を当てればよい」という記事が掲載された。ウラン原爆の起爆操作と全く同じであった<ref>{{Cite journal |和書 |author=深井佑造 |title=「二号研究」の原子炉物理を再現する 一'2'と云う数詞に辿り着いた研究一 |year=2011 |journal=技術文化論叢 |issue=14 |publisher=[[東京工業大学]] |pages=10-11 |url=http://www.sts.shs.ens.titech.ac.jp/ronso/ronso/ronso_vol14/vol14.pdf |format=PDF |crid=1520009408947369856 |access-date=2016-08-25}}</ref>。
 
=== 超ウラン元素プルトニウム ===
プルトニウムの歴史は、まずウラン[[原子核]]([[原子番号]]92)の[[核分裂反応|核分裂]]の実験の際に、原子番号93,94の元素の存在が予言されたことに始まる。[[1940年]]に原子番号93の[[ネプツニウム]]が発見された。次いで[[1941年]]2月に原子番号94のプルトニウムが[[カリフォルニア大学バークレー校]]の[[グレン・シーボーグ]]により発見された。
 
この頃の世界情勢は[[1939年]]9月に[[ヨーロッパ]]で[[第二次世界大戦]]が勃発しており、またその頃に亡命物理学者[[レオ・シラード]]が[[フランクリン・ルーズベルト|F・D・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]宛に原爆開発の歴史的な進言書([[アインシュタイン=シラードの手紙]])を送っていた。プルトニウムが兵器原爆の原材料としての関心を集めるのも時間の問題であった。
 
なお1940年3月には「フリッシュ&パイエルス覚書」([[:en:Frisch-Peierls memorandum|Frisch-Peierls memorandum]])により、原爆の実現可能性が示されており、核分裂のエネルギーを利用する軍事研究が既に始まっていた。
{{wikisourcelang|en|Frisch-Peierls memorandum|「フリッシュ&パイエルス覚書」}}
 
=== プルトニウム生産原子炉 ===
前述の通り、[[プルトニウム]]は自然界に極微量しか存在しない[[超ウラン元素]]である。従いプルトニウム原爆の第一の関門は如何にしてプルトニウムを生産するかである。プルトニウムは[[ウラン238]]が[[中性子]]を吸収し、二段階の[[ベータ崩壊]]を起こしてプルトニウム239に変換することにより生成する。この過程を効率よく行う課題があった。
 
[[1941年]]12月8日の日本軍の[[真珠湾攻撃]]により日米間が開戦した。この直後、[[シカゴ大学]]の[[アーサー・コンプトン]]は「[[冶金研究所]]」({{Lang|en|Metallurgical Laboratory}}, 隠蔽のために無関係な名称が付けられた)にてプルトニウムの研究を開始する。研究のため、コンプトンはレオ・シラード、[[グレン・シーボーグ]]、[[イタリア]]からの亡命科学者の[[エンリコ・フェルミ]]など核分裂の研究者をシカゴ大学に呼び集めた。
 
[[1942年]]5月 プルトニウム増殖の技術研究の[[原子炉]][[シカゴ・パイル1号]](CP-1)の開発が開始した。原子炉CP-1はシカゴ大学キャンパス内のアメフト場([[:en:Stagg Field|Stagg Field]])に作られ、その年の12月にはパイルは[[臨界状態|臨界]]実験に成功する。1942年8月には、シーボーグは計量可能量のプルトニウムの分離に成功する。しかしCP-1はプルトニウムの実生産にはスケールが小さすぎるため、直ちに実生産プラントの計画が始まった。プルトニウム原爆の製造に必要量のプルトニウムを生産するためには、巨大設備が必要であることが判明した。
 
なお、1942年5月には[[ジェームズ・コナント]]({{Lang|en|James Bryant Conant}}, [[ハーバード大学]]総長および[[国防研究委員会]]議長)より、ウラン原爆とともにプルトニウム原爆の開発に着手するよう、[[科学研究開発局]]局長の[[ヴァネヴァー・ブッシュ]]に進言している。
 
ブッシュらは巨費を要する原爆の開発・製造を国家事業とするようにルーズベルト大統領に提言し、大統領はこれを承認した。これをうけ、1942年9月に[[レズリー・グローヴス]]を統括指揮官とする秘密国家プロジェクト「マンハッタン工兵管区」が開始された。通称[[マンハッタン計画]]と呼ばれる原爆の開発・製造プロジェクトである。
 
マンハッタン計画の下、プルトニウム生産の巨大プラント建設が始まった。
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=== 長崎原爆投下都市の選択 ===
{{main|日本への原子爆弾投下#原子爆弾投下都市の選定経緯}}
 
== 被爆以前の長崎 ==
[[1570年]] 日本初の[[キリシタン大名]]とされる[[大村純忠]]による長崎開港以降、それまで一寒村に過ぎなかった長崎は[[ポルトガル]][[中国]]との海外[[貿易]]の拠点として飛躍的に発展、[[長崎港]]に注ぐ[[中島川]]沿いを中心に街が形成されていった。[[1641年]]には、[[ポルトガル人]]が追放され「空き物件」となっていた[[出島]](1636年完成)に[[平戸市|平戸]]から[[オランダ商館]]が移転。1859年の開国まで、[[西洋]]との唯一の窓口となる。
 
一方原爆が投下された浦上地区は、中島川流域とは[[金比羅山 (長崎市)|金比羅山]]([[高さ|標高360m)]]360メートル)で隔てられていた(原爆被害を考える上でこの地理関係は重要である)。長崎港に注ぐ[[浦上川]]の下流に[[新田]]や[[塩田]]が開発されたが、[[長崎街道]]の「脇道」である[[時津街道]]が通る一農村に過ぎなかった。しかし、多くのキリシタンが地下組織をつくり、禁教下も独自の[[信仰]]を守り続けた[[隠れキリシタン]]の里であった。
 
[[明治維新]]後、これまで「裏道」に過ぎなかった浦上地区に[[九州鉄道]](現:[[長崎本線]])が敷設され開発が進む。長崎も「西洋との唯一の窓口」という役割は終えたが、[[長崎海軍伝習所]]の流れをむ造船業や、[[上海市|上海]]など[[中国大陸|大陸]]と日本を結ぶ船舶航路の拠点として発展を続ける。長崎港口に浮かぶ[[伊王島町|伊王島]]、[[高島町 (長崎県)|高島]]、[[軍艦 (長崎県)|端島(軍艦島)]]では[[石炭]]が見つかり、[[鉱山]]として開発され、多くの労働力も集まった。主力産業であった造船、鉱業は[[三菱財閥]]により支えられており、[[企業城下町]]でもあった。
 
信仰の自由を得た浦上の信徒らは、[[1914年]]、約30年の歳月を費やし、東洋一の[[ロマネスク|ロマネスク様式]]の名建築とも評された[[カトリック浦上教会|浦上天主堂]]を建立する。[[1920年]]に浦上が長崎市に編入されたあとも、[[長崎電気軌道]]の延伸などもあり、三菱製鋼所や[[三菱重工業長崎兵器製作所|三菱兵器工場]]などの工場施設<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=I34pxr23Nhw&t=482s Third Atomic Bomb Attack - Japan 1945] Mark Felton Productions</ref>、[[長崎医科大学 (旧制)|長崎医科大学]]や[[長崎市立長崎商業高等学校|長崎商業学校]]、[[鎮西学院高等学校|鎮西学院]]などの文教施設、[[競馬場]][[刑務所]]などの公的施設が整備、拡充されていった。
 
長崎市の人口数は[[1940年]]の調査で252,630人で全国11位、九州では幕末以降も長きにわたり最多だったが、[[八幡市 (福岡県)|八幡市]]<ref group="注釈">現在の[[北九州市]][[八幡東区]]・[[八幡西区]]。</ref>・[[福岡市]]<ref group="注釈">現在の[[中央区 (福岡市)|中央区]]・[[博多区]]と、[[南区 (福岡市)|南区]]・[[早良区]]・[[西区 (福岡市)|西区]]の一部のみ。なお、現在でも福岡市は九州最大の人口規模を誇る。</ref>に追い抜かれた。
== 長崎原爆の被害 ==
原爆は浦上地区の中央で爆発しこの地区を壊滅させた。なお長崎の中心地は爆心地から3kmと離れていること、金比羅山など多くの山による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて被害は軽微であった<ref>長崎市全体の家屋被害比率が広島市のそれより小さくみえるのはそのためである。このため[[香焼町]]など一部地域ではきのこ雲を見ているが直接的な被害を受けていない人間なども存在している。最終的に爆心地から3.4キロ離れた県庁付近まで延焼しているが、このあたりが火災発生地域のほぼ南端にあたる。貴重な建築物であった[[グラバー|グラバー邸]]や[[大浦天主堂]]等は被害を免れた。国宝であった広島城等、貴重な文化財の殆どが破壊・消失した広島市とは対照的である。また、キリスト教徒が多い浦上が被災し、長崎の中心街に爆発による直接被害がなかったことが宗教的、地理的な感情にもむすびつき、地域間の温度差を助長する結果となったとの指摘もある。</ref>。特異例として広島で被爆後親戚を頼って長崎へ疎開していた人物が再び長崎で被爆・または出張等で広島を訪れていた人物が被爆し、実家のある長崎で再び被爆したと云う事例(二重被爆)も確認されている<ref>1950年の被爆生存者資料によれば10名。</ref>。
 
=== 被爆の実相の伝承 ===
浦上地区の被爆の惨状は広島市と同じく悲惨な物であった。浦上天主堂でミサを行っていた神父・信者は爆発に伴う熱線あるいは崩れてきた瓦礫の下敷きになり全員が即死、長崎医科大学でも大勢の入院・通院患者や職員が犠牲となった。長崎市内には捕虜を収容する施設もあり、連合軍兵士の死傷者も大勢出た(主に[[イギリス]]・[[オランダ]]人兵士)と云われている<ref>幸運にも生還したオランダ人捕虜[[レネ・シェーファー]]氏は、後に『長崎被爆記』と題した手記を出版している</ref>。
[https://www.peace-nagasaki.go.jp/ 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館]と[https://www.recna.nagasaki-u.ac.jp/recna/ 長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)]{{Efn|RECNA: '''RE'''search '''C'''enter for '''N'''uclear Weapons '''A'''bolition, '''NA'''gasaki University}}は、2021年から取り組んでいる《「被爆の実相の伝承」のオンライン化・デジタル化事業》の一環として、2023年3月7日に「[https://dl-archive.jp/ 被爆前の日常アーカイブ]」を公開した<ref>{{Cite web |date=2023-03-07 |url=https://www.recna.nagasaki-u.ac.jp/recna/topics/42767 |title=「被爆の実相の伝承」のオンライン化・デジタル化事業Webサイト「被爆前の日常アーカイブ」を公開 |publisher=長崎大学核兵器廃絶研究センター |accessdate=2025-08-18}}</ref>。連合軍撮影のドキュメンタリーにも、被災前の長崎を断片的に収録した事例がある{{Sfn|NARA、id23793}}<ref>{{Harvnb|NARA、id23804|pp=125-201sec|loc=(動画開始2分5秒~3分21秒)}}</ref>。
 
[[日本の降伏]]後、連合国軍は[[日本列島]]各地に[[進駐]]した<ref name="NARA、id2521114" /><ref>{{Cite web|和書|url= https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001530017_00000 |title = 進駐軍 その1(1945年) |work = NHKアーカイブス| accessdate = 2025-06-01}}(NHKアーカイブスポータル)</ref>。9月中旬には[[アメリカ海兵隊]]の[[第2海兵師団_(アメリカ軍)|第2海兵師団]]が{{Sfn|長崎要塞歴史の梗概|p=7}}、長崎に上陸した<ref>{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/79959 |title = NAGASAKI, JAPAN | website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1945-09-18 | accessdate = 2025-06-01}}</ref>。
この際に兵士や調査班が各自に写真や動画を撮影し{{Sfn|NARA、id64456}}、一部は[[アメリカ国立公文書記録管理局]]に保存された。また被災後の市街地映像は諸外国のニュースでも放映され、各報道機関の映像資料としてオンラインで閲覧できる<ref>{{cite web|url= https://www.britishpathe.com/asset/136353/|title = ATOMIC BOMB DESTRUCTION IN JAPAN (1945) | website = www.britishpathe.com | publisher = GAUMONT BRITISH NEWSREEL (REUTERS) |date= 1945 | accessdate = 2025-06-01}}</ref>。
 
連合軍は日本側の撮影隊と共に『[[広島・長崎における原子爆弾の影響]]』に代表される[[ドキュメンタリー]]を制作し、短縮版{{Sfn|NARA、id23798}}、長編版{{Sfn|NARA、id65518}}が、オンラインで閲覧できる。
 
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== 原爆投下直前 ==
長崎への原爆投下時、日本軍において九州の防衛を担当していたのは、[[第2総軍_(日本軍)|第2総軍]]隷下の<ref>{{アジア歴史資料センター|C12121382100|「2 陸軍軍制機関系概見表」、軍戦備調査集録 昭和15~20年(防衛省防衛研究所)}}</ref>、[[第16方面軍_(日本軍)|第16方面軍]](司令官[[横山勇]]陸軍中将。司令部は[[西部軍管区 (日本軍)|西部軍管区]]司令部兼任)であった<ref>{{Harvnb|戦史叢書19|pp=619-623|loc=第十六方面軍の防空作戦}}</ref><ref>{{Harvnb|戦史叢書19|p=8b|loc=付図第八、本土(臺灣を除く)地上防空部隊配置要図(終戦時における)}}</ref>。航空兵力として、日本陸軍の[[第6航空軍 (日本軍)|第6航空軍]]などが展開していた<ref name="戦史叢書19p7b" />。長崎市には、独立混成第122旅団([[長崎要塞]]、司令官[[谷口元治郎]]陸軍中将)<ref name="長崎要塞p5" />、第134高射砲連隊{{Sfn|附記(長崎要塞)|p=2}}、重砲兵第17連隊や特設警備大隊等が配備されていた{{Sfn|附記(長崎要塞)|pp=4-5}}<ref>{{Harvnb|戦史叢書57|pp=582-583|loc=原爆第二号長崎投下}}</ref>。日本海軍は、九州に[[第三航空艦隊]](司令長官[[寺岡謹平]]海軍中将)と{{Sfn|芙蓉部隊天号作戦々史|pp=5-6}}、[[第五航空艦隊]](司令長官[[宇垣纏]]海軍中将)を配置していた。
 
屋久島上空から小倉へ原爆投下に向かうB-29により、長崎には朝から空襲警戒警報が出ていた。一旦は避難した市民も多かったが、午前10時過ぎには解除されたため、大半の労働者・徴用工・[[女子挺身隊]]は、[[軍需工場]]の作業に戻ったとされている。
 
長崎原爆戦災誌によると、広島の新型爆弾の惨状を聞いた[[永野若松]]県知事は8日夜、警察の部課長や署長を官舎に集め、同じ爆弾が長崎に落とされる恐れもあるとして、明日にでも会議を開いて対策を検討しようと指示を出した。
 
そして9日、避難命令が一番いいと考えた永野知事は会議を招集したものの、朝は空襲警報が出ており、警察幹部は長崎市立山の県防空本部([[立山防空壕]])を動けなかったため、知事が自ら同本部へ駆けつけ、会議を始めた途端に爆弾が投下され、壕内の電気が消え真っ暗になったとされている。また[[同盟通信社]]長崎支局には、当日午前11時に県の防空課長から、新型爆弾に対する戦訓を広く発表したいとの招集があったとされる。
 
西部軍管区は北九州へむかうB-29少数機を原爆搭載機と判断し、午前10時53分に空襲警報を発令した{{Sfn|戦史叢書19|p=647}}。B-29が八幡上空を旋回したあと長崎方面に移動したので、第16方面軍は「B-29少数機、長崎方面に侵入しつつあり、全員待避せよ」と各種メディアにより緊急連絡したが、特殊爆弾(原爆)投下の疑いありとは付け加えなかった{{Sfn|戦史叢書19|p=647}}。
また前述の長崎上空での無線傍受により、原爆投下直前の10時58分から「長崎市民は全員退避せよ」との臨時ニュースが佐賀、熊本、福岡3県のラジオで流れたことも分かっている<ref group="注釈">「長崎原爆戦災誌」の総説編の改訂版に収録[https://web.archive.org/web/20090210100639/http://www.47news.jp/CN/200605/CN2006052001003694.html 共同通信2006年5月20日付] また別証言で佐賀市内の学校でラジオを聞きながら同時刻を迎えた人の手記に、長崎からのラジオの叫び声が11:02に途切れ無音になったというものがある。</ref>。その臨時ニュースは、「総退避」の叫び声が流れる中、原爆の投下と同時に[[無変調]]となった。
 
== 人体への影響 ==
{{main|被爆者}}
[[ファイル:General Effects of Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki.ogv|thumbtime=10|thumb|『The General Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki』。[[日本映画社]]撮影映像を米軍が編集したもの。]]
原爆は浦上地区の[[酸素魚雷]]の工場の直上で爆発し、付近一帯を壊滅させた。爆心地である浦上地区は長崎市中心部から3キロメートルと離れていること、金比羅山など多くの山による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて被害は軽微であり、広島市の場合と異なり県や市の行政機能は全滅を免れている<ref>{{Harvnb|大東亜戦史資料報告(長崎要塞)|p=11|loc=(爆撃被害状況地図)}}</ref>。浦上地区の被爆の惨状は広島市と同じく悲惨な物であった。[[カトリック浦上教会|浦上教会]](浦上天主堂)では原爆投下時に[[告解]]([[ゆるしの秘跡]])を行っていたが、[[司祭]]の西田三郎・玉屋房吉を始め、数十名の信者は爆発に伴う熱線あるいは崩れてきたがれきの下敷きになり全員が即死、長崎医科大学でも大勢の入院・通院患者や職員・学生が犠牲となった<ref>{{Cite book|和書|title=医師の証言・長崎原爆体験|date=1982-11-10|publisher=東京大学出版会|author=調来助,吉澤康雄|page={{要ページ番号|date=2025年8月}}}}</ref>。
 
大村海軍病院に収容された負傷者は、誰も履物を履いておらず、着衣がボロボロ{{refnest|group="注釈"|背中から布がぶら下がっていると思いみると[[皮膚]]の一部だったという証言がある<ref name="yasu60">[[#泰山]] P.60</ref>。}}という凄惨な状態で、「地獄か修羅場の絵巻物」という有様だった<ref name="yasu60"/>。大村海軍病院は9日の内に758人の負傷者を収容したが、翌10日の朝までに約100人が死亡したほか、10数名が重症を負っているにもかかわらず親類の安否を気遣い退院しようとするため、院長の判断で大村駅までトラックで送った<ref>[[#泰山]] P.63</ref>。
 
長崎市内には[[捕虜]]を収容する施設もあり、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]兵士(主に[[イギリス軍|英軍]]・[[オランダ軍|蘭軍]]兵士)の死傷者も大勢出たと言われている{{refnest|group="注釈"|幸運にも生還したオランダ人捕虜[[レネ・シェーファー]]は、後に『オランダ兵士長崎被爆記』と題した手記を出版している。この手記では、日本側の捕虜に対する対応が行き届いていたとする証言や、日本軍による連合軍捕虜虐待行為に対し(オランダ人による植民地住民に対する蛮行や、東京大空襲などの連合軍による国際法違反行為を例に出して)、心情に理解を示す記述が多く、本国オランダでの出版は出来ないでいた。その後日本の出版社に直接原稿を持ち込んで日本で最初に出版された<ref>{{Cite book |和書 |author=レネ・シェーファー |others=緒方靖夫(訳) |year=1983 |title=オランダ兵士長崎被爆記 |publisher=草土文化 |page=165 |doi=10.11501/12179960}}</ref>。}}。
 
<gallery>
File:Victim of Atomic Bomb of Nagasaki 01.jpg|全身に大火傷を負い8月10日に収容された14歳の少女{{refnest|group="注釈"|現存するカルテは「8月12日午前11時50分重症認定」で終わっており、この前後に死亡したと推定されている<ref>[[#泰山]] P.41</ref>。}}([[国立病院機構長崎医療センター|大村海軍病院]]にて、同日撮影)
File:Injured people next to corpses in endless wait for relief under the blazing sun - 10 August 1945 near Iwakawa-machi, Nagasaki City.jpg|爆心地から約1kmの岩川町で救援を待つ被爆者(1945年8月10日)
File:UrakamiStationAug1945.jpg|[[浦上駅]]のプラットホームで死亡した親子(1945年8月10日)
</gallery>回収された遺体等などは畑や空き地などに山のように積まれていたと証言などもあった。<ref>{{Cite news |和書 |title=積み上げられた遺体の横を…広島と長崎で被爆した91歳男性 「思い出すの今でもきつい」2度の「地獄」 |newspaper=長崎新聞 |date=2025-08-06 |url=https://www.nagasaki-np.co.jp/kijis/?kijiid=ee5342b8ab01492480b439480fba3010 |access-date=2025-08-06 |language=ja}}</ref>
 
== 二重被爆者 ==
特異例として広島で被爆後親戚を頼って長崎へ[[疎開]]していた人物が再び長崎で被爆・または出張などで広島を訪れていた人物が被爆し、実家のある長崎で再び被爆したという事例([[二重被爆]])も確認されている<ref group="注釈">1950年の被爆生存者資料によれば10名確認されている。</ref>{{refnest|group="注釈"|厚生労働省(当時厚生省)では二重被爆の事例を確認していない状態が続き、二重被爆者は広島・長崎どちらかの被爆事例のみを被爆者手帳に記録されるのみであった。[[2009年]][[3月23日]]に二重被爆体験者である[[山口彊]](認定当時93歳)が、長崎市から初めてその事実を認定され、被爆者手帳に両市での被爆の事実を追加記述した。広島・長崎両県市では、「把握している限りでは二重被爆の事実を手帳に記述するのは初めて」のことだという<ref>{{Cite news|和書|url=http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090324ddm012040136000c.html|newspaper=毎日新聞|date=2009-03-24|title=二重被爆:長崎市が初認定 健康手帳に「広島」追加|archive-url=https://web.archive.org/web/20090402065024/http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090324ddm012040136000c.html|archive-date=2009-04-02}}</ref>。}}。
 
8月7日に広島市に入市し原爆の惨状を見た後、職場のある長崎に戻り、原爆の犠牲となった[[長崎医科大学 (旧制)|長崎医科大学]]学長、[[角尾晋]]のような人もいる。
 
1955年、アメリカのニューヨーク・タイムズの記者だった(1954年から61年と64年から68年まで2度、ニューヨーク・タイムズ東京支局長)ロバート・トランブルは[[二重被爆]]について関心を持ち、長崎の[[原爆傷害調査委員会]](ABCC)の資料などを調査し、18人の生存を確認した。そして、取材に応じた9人の証言を1957年アメリカで出版した。この中に、[[山口彊]]、[[西岡竹次郎]]などが含まれている。この翻訳本が2010年日本で出版された。この時点で165人の二重被爆者がいることがわかった<ref>{{Cite book|和書|title=キノコ雲に追われて 二重被爆者9人の証言|date=2010-07|publisher=あすなろ書房}}</ref>。
 
2024年10月20日から31日に国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館において、第14回体験記企画展「幼い姉弟が見た広島・長崎」が開催された<ref>{{Cite web |date=2024-09-13 |url=https://www.peace-nagasaki.go.jp/information/4463 |title=第14回体験記企画展「幼い姉弟が見た広島・長崎」 |publisher=国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館 |archive-url=https://web.archive.org/web/20241015091849/https://www.peace-nagasaki.go.jp/information/4463 |archive-date=2024-10-15 |accessdate=2025-08-17}}</ref>。
 
[[青森県]]在住の二重被爆者、福井絹代<ref>{{Cite web |date=2021-02-22 |url=https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=103806 |title=街は遺体ばかり 長崎で再び地獄 故相川さん「原爆の絵」 姉が語る二重被爆 |website=中国新聞 ヒロシマ平和メディアセンター |accessdate=2025-08-17}}</ref><ref>{{Cite web |date=2021-02-22 |url=https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=103798 |title=二重被爆伝える「原爆の絵」 広島の資料館 所蔵5000枚で唯一 |website=中国新聞 ヒロシマ平和メディアセンター |accessdate=2025-08-17}}</ref>の被爆体験講話が行われ、一緒に二重被爆した弟(相川國義{{Efn|相川國義が広島の原爆資料館に寄贈した65枚の「原爆の絵」は広島平和記念資料館 平和データベースで見ることができる<ref>[https://hpmm-db.jp/list/?cate=picture&search_type=list&creator_name=%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%83%AF&match_type=include&page_num=1 「原爆の絵」 相川 國義] 広島平和記念資料館 平和データベース</ref>。}}、2017年に84歳で死去)の描いた証言記録簿(絵画と体験説明文)91点などが展示された<ref>{{Cite news ja |title=「二重被爆者」のきょうだいの体験を紹介 長崎市で企画展 |website=長崎 NEWS WEB |date=2024-10-29 |url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20241029/5030022370.html |publisher=日本放送協会 |access-date=2025-08-17}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title=広島で原爆に自宅吹き飛ばされ、親族頼って長崎でまた被爆…姉弟の「二重被爆」体験知る企画展|newspaper=読売新聞|date=2024-10-31|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20241030-OYT1T50254/|accessdate=2025-08-16}}</ref><!-- <ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/1f4f5d9209c4a2178100ef5d28a4d07afe4c8f0a わが子や医者に隠した二重被爆 「最後の機会になるかもしれない」94歳が伝える広島・長崎の体験(西日本新聞me)] YAHOO!ニュース 2024-10-29</ref> -->。
{{節stub}}
 
== 被爆後の救援 ==
{{multiple image
[[Image:NagasakiSurvivors1945.jpg|thumb|250px|逃れる被爆者たち]]
| width1 =270
薬品や器材が不足する中、生き残った医師や看護師たちによって救護活動が開始されたが、原爆は事前に定められていた医療救護体制にも大きな打撃を与えたため、負傷者に対して応急処置などを十分に施せるような状態ではなかった。こうした混乱の中、[[日本国有鉄道|国鉄]]の救護列車4本が核爆発から僅か3時間後で炎がまだ燃え盛る爆心地近くまで接近し、多数の負傷者を乗せて沿線の病院などへ搬送した。夕方には、近郊の病院などの救護隊が、夜には県下の警防団などで組織された救護隊がそれぞれ救護活動を開始し、県警が周辺県警などに救援隊派遣を要請した。
| image1 = NagasakiSurvivors1945.jpg
| footer = (左)逃げる被爆者たち([[山端庸介]]撮影)<br/>(右)復旧した[[長崎本線]]([[1946年]]、[[米国戦略爆撃調査団]]撮影)。画面中央は未復旧の[[長崎電気軌道]]の線路である。
| width2 =240
| image2 = Nagasaki-Honsen Restoration from atomic bomb.jpg
}}
当時、長崎県庁の防空本部は、市内[[鎮西大社諏訪神社|諏訪神社]]下の山腹に設けられた地下壕にあり、被爆時たまたまここで空襲対策会議中だったこともあって、[[永野若松]]県知事以下の防空本部機構は健在であった。しかしながら、被爆直後現地とは一時通信が途絶し、また火災が急速に拡大する中で救護活動の立ち上がりは困難を極めた。
 
日本陸軍の[[長崎要塞]]部隊(独立混成第122旅団)は、戦死60名以上、重軽傷200名以上(のち30名以上死亡)を出した<ref>{{Harvnb|大東亜戦史資料報告(長崎要塞)|pp=12-13|loc=原子彈ニ依ル被害}}</ref>。
 
市外では、15時頃に警察から市内に火災が発生し死傷者多数の電話があった大村海軍病院が救護隊を派遣した<ref name="yasu58"/>。現地では、薬品や器材が不足する中、生き残った[[永井隆 (医学博士)|永井隆]]を初めとする[[医師]]や[[看護師|看護婦]]たちによって救護活動が開始されたが、原爆は事前に定められていた医療救護体制にも大きな打撃を与えたため、負傷者に対して[[応急処置]]などを十分に施せるような状態ではなかった。所轄[[警察署]](稲佐署・長崎署)や[[警備隊 (府県警察部)|警察警備隊]]からも救護隊が出動したが、道路の途絶や激しい火災が活動の立ち上がりを阻んだ。
 
こうした混乱の中、[[日本国有鉄道|国鉄]]の救援列車(市内被爆のため[[長与駅]]で抑止されていた下り旅客列車を転用したもの{{refnest|group="注釈"|被爆当日救援列車運行に当たった乗務員の証言によると、最初に救援に入った第311列車([[鳥栖駅]]6時40分発)は途中で15分の遅れが出たため長与駅の到着は11時。出発準備の最中に原爆投下があり、当時長与駅に隣接して設置されていた長崎管理部の職員が同乗して[[道ノ尾駅]]まで入ったのが12時頃。被爆者を乗せて13時頃出発し、諫早・大村・川棚の海軍病院に輸送した。この後14時頃に第807列車、16時頃に第317列車、19時頃に第329列車が救援列車として[[浦上川]]鉄橋直前まで入った(爆風により橋脚がずれたためこれより先には進めなかった)。さらにもう一本救援列車が運転されたとの話があるが、確認されていない。第311列車が所定のダイヤ通りの運行だと原爆投下時には浦上川鉄橋あたりを走行していたことになるが、途中での遅れのために後続の貨物列車が途中で先行し[[浦上駅]]で被爆。乗務員は全員死亡したという<ref>{{Cite journal |和書 |author=壇上完爾 |title=桐と動輪(14)「原子野に汽笛は響く」 |date=1979-02 |journal=鉄道ジャーナル |issue=No.82 |publisher=鉄道ジャーナル社}}</ref>。}} )が、原爆投下から3時間後で炎がまだ燃え盛る[[爆心地]]近くまで接近し、多数の負傷者を乗せて沿線の病院などへ搬送した。
 
夕方には、近郊の病院などの救護隊が、夜には県下の[[警防団]]などで組織された救護隊がそれぞれ救護活動を開始し、県警が周辺県警などに救援隊派遣を要請した。救援列車は、夜半頃までの間、最初の列車を含めて4本が運転され、負傷者を諫早、大村、川棚、早岐方面の医療施設へ搬送した。大村海軍病院は、17時頃に山口尚章大村市長から1,000人収容の要請があり、864人の医療要員が収容準備に入り、20時に[[大村駅 (長崎県)|大村駅]]に負傷者を乗せた列車が到着<ref>[[#泰山]] P.59</ref>。消防車とトラックで数十人ずつ大村海軍病院に搬送した<ref name="yasu60"/>。
 
== 被爆者を使った人体実験 ==
[[東京大学|東京帝国大学]]が、1945年8月6日の広島と9日の長崎の原爆による被爆者を使って、戦後2年以上に渡り、[[日本国憲法]]施行後も、あらゆる人体実験を実施したことを、[[日本放送協会|NHK]]が2010年8月6日放映の[[NHKスペシャル]]『封印された原爆報告書』にて調査報道した。その報道の内容は次の通り<ref>{{Cite web |url=http://www.nhk.or.jp/peace/library/program/20100806_02.html |title=NHKスペシャル 封印された原爆報告書 |publisher=日本放送協会 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140608010106/http://www.nhk.or.jp/peace/library/program/20100806_02.html |archive-date=2014-06-08 |accessdate=2025-08-18}}</ref><ref>[https://www.amazon.co.jp/NHK%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB-%E5%B0%81%E5%8D%B0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%8E%9F%E7%88%86%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8-DVD-%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BC/dp/B004YV05OW "''NHKスペシャル 封印された原爆報告書''", NHKエンタープライズ]</ref>。
<div style="margin:1em 2em;padding:1em 2em;background-color:light-dark(#f8f8f8, #333);color:light-dark(#333, #fff);border:1px black solid;">
字幕:昭和20年8月6日、広島。昭和20年8月9日、長崎。
 
ナレーター:広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾、その年だけで、合わせて20万人を超す人たちが亡くなりました。原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦と共に、その規模を一気に拡大します。国の大号令で全国の大学などから、1300人を超す医師や科学者たちが集まりました。調査は巨大な国家プロジェクトとなったのです。2年以上かけた調査の結果は、181冊。1万ページに及ぶ報告書にまとめられました。大半が、放射能によって被爆者の体にどのような症状が出るのか、調べた記録です。日本はその全てを英語に翻訳し、アメリカへと渡していました。
</div>
<div style="margin:1em 2em;padding:1em 2em;background-color:light-dark(#f8f8f8, #333);color:light-dark(#333, #fff);border:1px black solid;">
字幕:東京大学
 
ナレーター:日本が国の粋を集めて行った原爆調査。参加した医師は、どのような思いで被曝者と向き合ったのか。山村秀夫さん90歳、都築教授が率いる東京帝国大学調査団の一員でした。当時、医学部を卒業して2年目の医師だった山村さん。調査は全てアメリカのためであり、被曝者のために行っている意識は無かったと言います。
 
山村さん:もういっさいだって、結果は日本で公表することももちろんダメだし、お互いに持ち寄って相談するということもできませんですから。とにかく自分たちで調べたら全部向こうに出すと。
 
ナレーター:山村さんが命じられたのは、被曝者を使ったある実験でした。報告書番号23、山村さんの論文です。被曝者にアドレナリンと言う血圧を上昇させるホルモンを注射し、その反応を調べていました。12人の内6人は、わずかな反応しか示さなかった。山村さんたちは、こうした治療とは関係のない検査を毎日行っていました。調べられることは全て行うのが、調査の方針だったと言います。
 
山村さん:生きてる人は生前にどういう変化を起こしているかということを、少しでも何かの手掛かりは見つけて、調べるということだけでしたから、それ以外何にもないですね。あんまり他のことも考えれなかったですね。とにかくそれだけやると。
 
NHKインタビュアー:今となってみたらどうお感じになりますか?そのことは。
 
山村さん:(苦笑)、今となってみたらねぇ。そうですねえ、まあもっと他にいい方法があったのかも知れませんけど、だけど今と全然違いますからねぇ、その時の社会的な状況がね。
</div>
 
== 長崎原爆の遺跡・祈念碑・場所など ==
[[画像:Memorial service at the Urakami Roman Cathoric Cathedral.jpg|thumb|230px|浦上天主堂跡における慰霊祭(1945年11月23日)]]
[[画像:Nagasakinokane.JPG|thumb|right|230px|長崎の鐘(後ろの建物は[[北九州市立中央図書館]])]]
長崎市では[[被爆建造物|被爆建物]]の保存よりも復興を優先的に実施したと言われている。そのため、浦上天主堂をはじめとする被爆建物のほとんどが取り壊され、[[原爆ドーム]]のような被爆の状況を視覚的に理解できる遺構は極めて少ない。遺跡の文化財指定の機運が高まり、[[長崎原爆遺跡]]が2013年に国登録記念物、2016年に国史跡に指定された。
*[[平和祈念像]]
*[[平和公園]]
*[[カトリック浦上教会|浦上天主堂]]
*[[長崎市立城山小学校]](爆心地付近の遺構として当時の建物の一部が保存されている<ref>{{Cite web |url=http://park10.wakwak.com/~cdc/nagasaki/shirosyo/index.html |title=長崎市立城山小学校(旧城山尋常小学校) |website=へんぼの目 |accessdate=2025-08-18}}</ref>。)
*[[長崎原爆資料館]]
*[[国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館]]
*[[山王神社 (長崎市)|山王神社]](一本柱[[鳥居]]や被爆[[クスノキ]]が残っている)
*[[福済寺]](長崎観音)
 
2022年8月、[https://www.idsci.nagasaki-u.ac.jp/ 長崎大学情報データ科学部]の[https://www.idsci.nagasaki-u.ac.jp/research_ac/facultylist/staff3 全炳徳](チョンビョンドク)教授が、[https://www.idsci.nagasaki-u.ac.jp/archives/3091 原爆で壊滅する前後の長崎市街地を“上空”から閲覧できるデジタル立体地図]を、ウェブ上で公開した<ref>{{Cite web|和書|url=https://nordot.app/940434828309839872?c=174761113988793844 |title=立体で見る「被爆前後の長崎」 遺構CGで再現 長崎大教授らウェブで公開 |access-date=2022-09-08 |publisher=長崎新聞社}}</ref>。
 
=== 北九州市(旧小倉市)の祈念碑 ===
前述した通り、8月9日当時の原爆投下第一目標は当時の小倉市であった。しかし天候不順など様々な要因が偶発的に重なり、小倉市は原爆投下を免れ、第二目標の長崎市に投下された。
 
戦後この事実が明らかにされた北九州市では、当初の予定通り小倉市へ原爆が投下された場合、目標とされていた旧[[小倉陸軍造兵廠]]跡地の[[勝山公園 (北九州市)|勝山公園]]に祈念碑を立てた。その後長崎市から「長崎の鐘」が贈られ、毎年8月9日に原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を行っている。
== 長崎原爆の遺跡・祈念碑・場所等 ==
* [[平和祈念像]]
* [[平和公園]]
* [[浦上教会]]
* [[長崎原爆資料館]]
* [[国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館]]
* [[山王神社 (長崎市)]]
* [[福済寺]]
 
== 長崎原爆をテーマとした作品 ==
<!--各ジャンル内は出版(発表)順に並べる。-->
<!--
;小説
: 各ジャンル内は出版(発表)順に並べる。
*[[井上光晴]]
-->
**『地の群れ』(1963年)
**『明日 一九四五年八月八日・長崎』(1982年)
*[[井上靖]]『城砦』(1964年)
*後藤みな子『刻を曳く』(1971年)
*[[佐多稲子]]『樹影』(1972年)
*[[林京子]]
**『祭りの場』(1975年)
**:第73回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]受賞作。自らも長崎原爆を取り扱った長編小説を執筆した選考委員の井上靖は、〈戦後三十年、漸くにして、このような作品が、芥川賞候補作として登場して来たといった、ある感慨があった〉と本作を激賞した<ref>{{Cite web|和書|url=https://prizesworld.com/akutagawa/jugun/jugun73HK.htm|title=林京子(はやし きょうこ)-芥川賞受賞作家|芥川賞のすべて・のようなもの|accessdate=2020-08-25|publisher=}}</ref>。
**『ギヤマンビードロ』(1977年)
**『無きが如き』(1981年)
**『やすらかに今はねむり給え』(1990年)
**『長い時間をかけた人間の経験』(1999年)
*[[遠藤周作]]『女の一生・2部 サチ子の場合』(1982年)
*[[カズオ・イシグロ]]『[[遠い山なみの光]]』(1982年)
*:1982年{{仮リンク|ウィニフレッド・ホルトビー記念賞|en|Winifred Holtby Memorial Prize}}受賞。日本語訳は当初『女たちの遠い夏』の題で刊行されたが、後に改訳され『遠い山なみの光』に改められた。
*[[笹本祐一]]『[[ARIEL (小説)|ARIEL]]』(1996年) - 長崎に向う途中の「ボックスカー」が、現代へ[[タイムスリップ]]してくるエピソードがある。
*[[青来有一]]
**『聖水』(2000年)
**『爆心』(2006年)
*[[鹿島田真希]]『六〇〇〇度の愛』(2005年)
*[[田口ランディ]]『被爆のマリア』(2006年)
 
;戯曲
=== 小説 ===
* [[井上光晴田中千禾夫]]『マリア群れ19631959年
*[[野田秀樹]] 『パンドラの鐘』 1999年
* 後藤みな子『刻を曳く』1971
*[[松田正隆]]『涙の谷、銀河の丘』2003年
* [[佐多稲子]]『樹影』1972
* [[林京子]]『祭りの場』1975
* 林京子『ギヤマンビードロ』1977
* [[カズオ・イシグロ]]『遠い山なみの光』1982
* 井上光晴『明日 一九四五年八月八日・長崎』1982
* 林京子『やすらかに今はねむり給え』1990
* 林京子『長い時間をかけた人間の経験』1999
* [[青来有一]]『聖水』2000
* [[鹿島田真希]]『六〇〇〇度の愛』2005
* [[田口ランディ]]『被爆のマリア』2006
 
;詩集
=== 戯曲 ===
*山田かん『山田かん詩集』など
* [[田中千禾夫]]『マリアの首』1959
*『第二楽章 長崎から』詩・[[福田須磨子]]、下田秀枝、筒井茅乃、香月クニ子、朗読 [[吉永小百合]]、1999年
* [[野田秀樹]] 『パンドラの鐘』 1999
* [[松田正隆]]『涙の谷、銀河の丘』2003
 
;歌集・句集
=== 詩集 ===
*[[松尾あつゆき]]「原爆句抄」など
* 山田かん『山田かん詩集』など
* 詩・[[福田須磨子]]、下田秀枝、筒井茅乃、香月クニ子、朗読 [[吉永小百合]]『第二楽章 長崎から』1999
 
;随筆・手記
=== 歌集・句集 ===
*[[永井隆 (医学博士)|永井隆]]
* [[松尾あつゆき]]「原爆句抄」など
**『[[この子を残して#随筆|この子を残して]]』(1948年)
**『[[長崎の鐘]]』(1949年)
*筒井茅乃(永井隆の実娘)『娘よ、ここが長崎です』(1985年)
*[[秋月辰一郎]]
**『長崎原爆記』(1966年)
**『死の同心円』1972年
*福田須磨子『われなお生きてあり』(1967年)
*[[美輪明宏]]『紫の履歴書』(1968年)
*調来助『長崎原爆体験 医師の証言』(1982年)
*マリー゠エマニュエル・グレゴリー 『長崎の原爆で終わった抑留』(1947年)
*:長崎に抑留されていたフランスのカトリック修道女の回想録。
 
;証言記録
=== 随筆・手記 ===
*スーザン・サザード著 宇治川康江訳『ナガサキ 核戦争後の人生』(原題:NAGASAKI) 2019年
* [[永井隆 (医学博士)|永井隆]]『長崎の鐘』1949
* 永井隆『この子を残して』
* [[筒井茅乃]](永井隆の実娘)『娘よ、ここが長崎です』
* [[秋月辰一郎]]『長崎原爆記』1966
* 福田須磨子『われなお生きてあり』1967
* [[美輪明宏]]『紫の履歴書』1968
* 秋月辰一郎『死の同心円』1972
* 調来助『長崎原爆体験 医師の証言』1982
 
=== ;映画 ===
*『[[長崎の鐘#映画|長崎の鐘]]』 - 監督:[[大庭秀雄]]『長崎の鐘』1950
* [[木下恵介]]『この子を残して#映画|この子を残して]] - 監督:[[木下惠介]]、1983
*『[[せんせい (1983年の映画)|せんせい]]』 - 監督:[[大澤豊 (映画監督)|大澤豊]]、1983年
* [[大澤豊]]『せんせい』1983
*『[[TOMORROW 明日]]』 - 監督:[[黒木和雄]]『TOMORROW 明日』1988
* [[黒澤明]]『八月の狂詩曲]] - 監督:[[黒澤明]]、1991
* [[有原誠治]]『NAGASAKI1945NAGASAKI 1945 アンゼラスの鐘]] - 監督:[[有原誠治]]、2005
*『[[二重被爆 (ドキュメンタリー映画)|二重被爆]]』 - 監督:[[青木亮]]、2006年 ※ドキュメンタリー
* 青木亮『[[二重被爆]]』2006
*『馬頭琴夜想曲』 - 監督:[[木村威夫]]、2006年
*『[[ヒロシマナガサキ]]』(原題『WHITE LIGHT/BLACK RAIN: the Destruction of Hiroshima and Nagasaki』- 監督:[[スティーブン・オカザキ]]、2007年 ※ドキュメンタリー
*: 2007年8月6日に[[HBO]]局にて全米放送され、話題となった。
*『[[爆心 長崎の空]]』 - 監督:[[日向寺太郎]]、2013年
*『[[ウルヴァリン:SAMURAI]]』 - 監督:[[ジェームズ・マンゴールド]]、2013年
*『[[母と暮せば]]』 - 監督:[[山田洋次]]、2015年
*『[[長崎-閃光の影で-]]』 - 監督:[[松本准平]]2025年
 
=== ;音楽 ===
長崎への原爆や平和をテーマにした歌は約90曲存在するという<ref>{{Cite web |author=宮川密義 |url=https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/uta/020725/index.html |title=長崎の歌 (10) 原爆・平和の歌 |website=ナガジン! |publisher=長崎市 |accessdate=2025-08-18}}</ref>。
* 作詞 [[永井隆]]、作曲 木野普見雄 『あの子』1949
*『あの子』(1949年、[[長崎市立山里小学校]]弔歌) - 作詞:[[永井隆 (医学博士)|永井隆]]、作曲:[[木野普見雄]]
* 作詞 [[サトウハチロー]]、作曲 [[古関裕而]]、歌 [[藤山一郎]]『長崎の鐘』1949
*『[[長崎の鐘#歌謡曲|長崎の鐘]]』(1949年、[[藤山一郎]]) - 作詞:[[サトウハチロー]]、作曲:[[古関裕而]]
* 作詞 島内八郎、作曲 木野普見雄 『子らの魂よ』1951
*『子らのみ魂よ』(1951年、[[長崎市立城山小学校]]弔歌) - 作詞:島内八郎、作曲:木野普見雄
* 作詞・作曲・歌 [[丸山明宏]]『ふるさとの空の下で』1965
*『ふるさとの空の下で』(1965年、[[美輪明宏|丸山明宏]]) - 作詞・作曲:丸山明宏
* 作詞・作曲・歌 [[さだまさし]]『祈り』 1983
*『[[風のおもかげ|祈り]]』(1983年、[[さだまさし]]) - 作詩<ref group="注釈" name="さだまさし">さだまさしの楽曲クレジットでは一貫して「作詩」の表記が用いられており、本項でもこれに倣う。</ref>・作曲:さだまさし
* 作詞・作曲・歌 さだまさし『広島の空』 1993
*『[[逢ひみての|広島の空]]』(1993年、さだまさし) - 作詩<ref group="注釈" name="さだまさし" />・作曲:さだまさし
*: それぞれ、1番が長崎、2番が広島の被爆者に関して歌っている
*『千羽鶴』(1995年、被爆50周年記念歌<ref>{{Cite web |date=2024-11-11 |url=https://www.city.nagasaki.lg.jp/page/1493.html |title=被爆50周年記念歌「千羽鶴」 |publisher=長崎市 |accessdate=2025-08-18}}</ref>) - 作詞:横山鼎(島根大学名誉教授 原文は詩)、作曲:[[大島ミチル]]
* 作詞 横山鼎、作曲 [[大島ミチル]]『千羽鶴』 1995
*『リボン~Ribbon』(2003年、[[槙健一]]) - 作詞・作曲・歌 槙健一『リボン~Ribbon』 2003
*『little Fát Màn boy』(2006年、[[LM.C]]) - 作詞・作曲:LM.C
* [[オペラ]]『ジュニア・バタフライ』原作[[島田雅彦]]『彗星の住人』より、作曲[[三枝成彰]](『[[蝶々夫人]]』の続編として)。
*『[[HUMAN (福山雅治のアルバム)|クスノキ]]』(2014年、[[福山雅治]]) - 作詞・作曲:福山雅治
<!--
*[[オペラ]]『ジュニア・バタフライ』(2004年) - 原作:[[島田雅彦]]『彗星の住人』より、作曲:[[三枝成彰]]
*[[オラトリオ]]『[[長崎 (シュニトケ)|長崎]]』(1958年) - 作曲:[[アルフレート・シュニトケ]]([[米田栄作]]と[[島崎藤村]]の詩も用いられている)
 
;絵本
=== 漫画 ===
*[[松添博]]『ふりそでの少女』1992年
-->
*[[葉祥明]]『あの夏の日』2000年
<!--
 
;写真集
=== 童話 ===
*[[土門拳]]、[[東松照明]]『hiroshima-nagasaki document』1961年
-->
*東松照明『〈11時02分〉NAGASAKI 』1966年
*[[山端庸介]]『長崎ジャーニー・山端庸介写真集』1995年
*写真 山端庸介、[[林重男]]、[[松本栄一]]、H・Jピーターソンほか、長崎市編『被爆記録写真集』1996年
 
;テレビドラマ
=== 絵本 ===
*『約束の地』([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]、1983年) - 原作:林京子『無きが如き』、脚本:[[中島丈博]]、 出演:[[香川京子]]ほか
* [[葉祥明]]『あの夏の日』2000
*『明日―1945年8月8日・長崎』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、1988年) - 原作:井上光晴、脚本・[[市川森一]]、出演:[[大竹しのぶ]]ほか
*『[[海に眠るダイヤモンド]]』([[TBSテレビ|TBS]]、2024年) - 脚本:[[野木亜紀子]]、出演:[[神木隆之介]]ほか
 
;ラジオドラマ
=== 写真集 ===
*[[長崎放送]] 『原子野発 臨時列車』 ナレーション [[小池朝雄]] 1971年11月6日放送
* [[土門拳]]、[[東松照明]]『hiroshima-nagasaki document』1961
* 東松照明『&lt;11時02分&gt;NAGASAKI 』1966
* [[山端庸介]]『長崎ジャーニー・ 山端庸介写真集』1995
* 写真 山端庸介、[[林重男]]、[[松本栄一]]、H・Jピーターソンほか、長崎市編『被爆記録写真集』1996
<!--
 
;ラジオ ドキュメンタリー
=== 絵画集 ===
*[[長崎放送|NBC長崎放送]] 『長崎は証言する』
-->
*:<!--(毎週土曜日 朝06:40-06:45 放送)-->被爆者の体験を生の声で保存し、後世に伝えることを目的としたラジオ番組<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nbc-radio.jp/radio/program/?af=6|title= NBC長崎放送ラジオ 番組表 (nbc-radio.jp) |accessdate=2023-07-16|author=NBC長崎放送|website=https://www.nbc-radio.jp/}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://moonsick.jp/program/JP42/NBC/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E3%81%AF%E8%A8%BC%E8%A8%80%E3%81%99%E3%82%8B |title=長崎は証言する(NBC長崎放送 ラジオ番組)- moonsick |trans-title= |accessdate=2023-07-16|author=露崎勇大|date=2021|year=2021 |website=https://moonsick.jp |ref=harv}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://nordot.app/430024984937940065?c=174761113988793844 |title=ラジオ「長崎は証言する」 被爆者の思い伝え半世紀(長崎新聞) |accessdate=2023-07-17|author=長崎新聞社|date=2018-10-31 |year=2018|publisher=長崎新聞社}}</ref>。
<!--
;創作能
*[[多田富雄]]『長崎の聖母』2005年
 
=== ;ドキュメンタリー ===
*[[ナショナルジオグラフィック (テレビチャンネル)|ナショナルジオグラフィック]] 『[[衝撃の瞬間]]6「長崎~2発目の原子爆弾」』
=== TVドキュメンタリー ===
**この放送では、防空壕に'''避難'''した当時10歳だった女性と、郵便配達を行っていた当時郵便局員だった男性の証言などが放送された<!---本編では実名が出てるが、個人情報保護の観点から記載しません。--->。
-->
 
;絵画集
== 脚注 ==
*深水経孝『崎陽のあらし』1946年 - 刊行は1982年(原爆絵巻「崎陽のあらし」を出版する会)と2003年(人吉高校英語研究会・編、草の根出版会、ISBN 4876481865)
<references/>
 
=== TVドラマ特記 ===
1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原爆投下<ref>{{Harvnb|戦史叢書19|pp=655-656|loc=第一回原爆攻撃 ― 廣島}}</ref>、8月8日の[[ソ連対日宣戦布告]]([[ソ連対日参戦]])<ref>{{Harvnb|戦史叢書19|pp=644-646|loc=ソ連の参戦}}</ref>、8月9日の長崎市への原爆投下を経て(3発目の原子爆弾は8月12日東京投下予定との情報分析もあった){{Sfn|親展電報S20.05~09(9)|pp=38-39}}、大日本帝国政府([[鈴木貫太郎内閣]])と[[大本営]]([[参謀本部 (日本)|陸軍部]]、[[軍令部|海軍部]])は[[本土決戦]]([[決号作戦]])を諦め{{Sfn|1.終戦の大詔渙発|1945|pp=1-2}}、[[御前会議]]で[[ポツダム宣言]]受託を決定した{{Sfn|戦史叢書19|pp=654, 658}}<ref>{{Harvnb|戦史叢書57|pp=584-585|loc=戦争終結に関する中央の動向}}</ref><ref name="作戦概況p1" />。
* [[NHK総合]] 『約束の地』 原作 林京子 出演 [[香川京子]] [[南田洋子]] [[久我美子]] [[佐々木すみ江]] [[高橋昌也]] 主題歌 [[さだまさし]]([[1983年]])
* [[日本テレビ]] 『明日-1945年8月8日・長崎』 脚本・[[市川森一]] 出演、[[大竹しのぶ]]ほか([[1988年]])
 
8月15日、[[日本の降伏]]を[[昭和天皇]]が公表した[[玉音放送]]では、「しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず ひいて人類の文明をも破却すべし かくの如くは 朕何をもってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや 是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり」と言及している<ref>{{Harvnb|1.終戦の大詔渙発|1945|pp=7-8|loc=詔書 昭和二十年八月十四日}}</ref><ref>{{Harvnb|第2、停戦|1945|pp=9-11|loc=詔書}}</ref>。
=== 創作能 ===
 
* [[多田富雄]]『長崎の聖母』2005
[[上皇_(天皇退位特例法)|上皇]][[明仁]]は[[慰霊の日|沖縄慰霊の日]](6月23日)・[[広島市への原子爆弾投下|広島原爆の日]](8月6日)・長崎原爆の日(8月9日)・[[終戦の日|終戦記念日]](8月15日)を「忘れてはならない日」として挙げ、[[宮内庁]]ホームページには「忘れてはならない4つの日」として掲載されている<ref>{{Cite news ja|title=天皇陛下、平和への思い強く=「四つの日」一家で黙とう-終戦記念日|url=https://www.jiji.com/amp/article?k=2019081500122&g=soc|website=時事ドットコム|access-date=2020-06-23|archive-url=https://web.archive.org/web/20191220160323/https://www.jiji.com/amp/article?k=2019081500122&g=soc|archive-date=2019-12-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/odemashi/irei.html|title=戦没者慰霊|accessdate=2020-06-23|publisher=宮内庁}}</ref>。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em
|refs=
<ref name="作戦概況p1">{{Harvnb|第1、終戦前の作戦概況|1945|pp=1-2|loc=一、大型機の本土戰略爆撃の強化}}</ref>
<ref name="長崎要塞p5">{{Harvnb|長崎要塞歴史の梗概|pp=5-6|loc=十二、要塞司令部ノ復員、獨立混成旅團の編成}}</ref>
<ref name="戦史叢書19p7b">{{Harvnb|戦史叢書19|p=7b|loc=本土(臺灣を除く)飛行部隊 航空地区部隊 展開配置図(終戦時における)}}</ref>
}}
 
== 参考文献 ==
<!--ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順-->
* 秦郁彦『八月十五日の空 -日本空軍の最後-』文芸春秋 1978年
*<!-- オクズミ1996 --> {{Cite book |和書 |others=奥住喜重、工藤洋三(共訳) |year=1996 |title=米軍資料 原爆投下の経緯 ウェンドーヴァーから広島・長崎まで|publisher=[[東方出版]] |isbn=4-88591-498-1|ref={{SfnRef|原爆投下の経緯|1996}} }}
* 長崎市編 長崎国際文化会館監修 『ナガサキは語りつぐ 長崎原爆戦災誌』岩波書店 1995年
*<!-- シラベ1982 --> 調来助・吉澤康雄 『医師の証言・長崎原爆体験』 東京大学出版会 1982年11月
* チャールズ・W・スウィーニー 黒田剛訳『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』原書房 2000年
*<!-- スウィ2000 --> {{Cite book |和書 |author=チャールズ・W・スウィーニー |authorlink=チャールズ・スウィーニー |others=黒田剛(訳) |year=2000 |title=私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した |publisher=[[原書房]] |isbn=4-562-03218-9 |ref={{SfnRef|スウィーニー|2000}} }}
*<!-- トランブル1957 --> Robert Trumbull『Nine who survived Hiroshima and Nagasaki』 1957年
** ロバート・トランブル(著) 吉井知代子(訳) 『キノコ雲に追われて 二重被爆者9人の証言』あすなろ書房 2010年7月
*<!-- ナガサキコクサイ1986 --> {{Cite book |和書|editor=長崎国際文化会館 |date=1986-03 |title=碑は訴える|publisher=長崎市|page=176 |doi=10.11501/9775936 |ref = {{Harvid|碑は訴える}} }}
*<!-- ナガサキシ1991 --> {{Cite book |和書 |editor=長崎市 |others=長崎国際文化会館(監修) |year=1991 |title=ナガサキは語りつぐ 長崎原爆戦災誌 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-001540-0 |ref={{SfnRef|語り継ぐ|1991}} }}
*<!-- ナガサキソウゴウ1995 --> 長崎総合科学大学平和文化研究所編、新版『ナガサキ −1945年8月9日』[[岩波ジュニア新書]]260(岩波書店、1995年7月)
*<!-- ナガサキショウゲン2016 -->長崎の証言の会編 『証言2016 -ナガサキ・ヒロシマの声(第30集)』 汐文社 2016年10月 ISBN 978-4-8113-0228-7
*<!-- ハタ1978 -->{{Cite book|和書|author=秦郁彦|authorlink=秦郁彦|year=1978|title=八月十五日の空 {{small|−日本空軍の最後−}}|publisher=[[文藝春秋]]|ref={{SfnRef|秦|1978}}}}
** 後に文庫化([[文春文庫]]は7-3、ISBN 978-4167453039、1995年)
*<!--ホウエイチョウ19 -->{{Cite book|和書|editor=防衛庁防衛研修所戦史室|editor-link=防衛研究所|title=本土防空作戦|date=1968-10|publisher=[[朝雲新聞|朝雲新聞社]]|series=[[戦史叢書]]19|url=https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=019|accessdate=2025-08-17|ref={{SfnRef|戦史叢書19}}}}
*<!--ホウエイチョウ57 -->{{Cite book|和書|editor=防衛庁防衛研修所戦史室|title=本土決戦準備 (2) 九州の防衛|date=1972-07|publisher=朝雲新聞社|series=戦史叢書57|url=https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=057|accessdate=2025-08-17|ref={{SfnRef|戦史叢書57}}}}
*<!-- マツモト1998 --> 松元寛『新版 広島長崎修学旅行案内 −原爆の跡をたずねる』岩波ジュニア新書300(岩波書店、1998年5月発行)
*<!-- ヤスヤマ2007 --> {{Cite book|和書|author=泰山弘道|year=2007|title=完全版 長崎原爆の記録|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4-86223-202-1|ref=泰山}}
*<!-- ローレンス1946 --> Laurence, William. L ''Dawn Over Zero: The story of the atomic bomb.'' New York: Knopf, 1946.
** {{Cite book |和書 |author=ウィリアム・ローレンス |authorlink=ウィリアム・L・ローレンス|others=崎川範行(訳)|year=1950 |title=0の暁 <!--原子爆弾の発明・製造・決戦の記録(創元社版には副題なし)-->|publisher=[[創元社]] |doi=10.11501/1161470 |ref={{SfnRef|ローレンス|1950}} }} 創元文庫 1951年、角川文庫 1955年
*<!-- ワタナベ2002 --> 渡辺浩著『15歳のナガサキ原爆』岩波ジュニア新書416(岩波書店、2002年11月発行)
<!-- 日本語版では、日本語文献を先に列挙する -->
* {{Cite book|editor=Robert Krauss|others=Amelia Krauss|title=The 509th remembered: A History of the 509th Composite Group As Told by the Veterans That Dropped the Atomic Bombs on Japan|year=2013|publisher=Robert Krauss|language=en|isbn=0-923568-66-2|ref={{SfnRef|The 509th Remembered|2013}} }}
 
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C12121074400}} |title=「西部軍管区直轄部隊」、陸軍部隊(主として内地)調査表 昭和20年8月15日現在|ref={{SfnRef|西部軍管区直轄部隊|1945}}|publisher=防衛省防衛研究所}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C12121381200}} |title=「第16方面軍」、本土配備部隊行動概況表、中央-軍事行政編制-421|ref={{SfnRef|第16方面軍(中央-軍事行政編制-421)}}|publisher=防衛省防衛研究所}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C13120006900}} |title=「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」、芙蓉部隊 天号作戦々史 昭和20年2月~20年8月|ref={{SfnRef|芙蓉部隊天号作戦々史}}|publisher=防衛省防衛研究所}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C14110930500}} |title=「長崎要塞歴史の梗概」、長崎要塞司令部歴史 明治33.5.4~昭和20.8.15|ref={{SfnRef|長崎要塞歴史の梗概}}|publisher=防衛省防衛研究所}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C14110930600}} |title=「附記」、長崎要塞司令部歴史 明治33.5.4~昭和20.8.15|ref={{SfnRef|附記(長崎要塞)}}|publisher=防衛省防衛研究所}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C14110930700}} |title=「大東亜戦史資料報告」、長崎要塞司令部歴史 明治33.5.4~昭和20.8.15|ref={{SfnRef|大東亜戦史資料報告(長崎要塞)}}|publisher=防衛省防衛研究所}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C16120692500}} |title=「第2項 終戦前の作戦概況並に停戦/第2 停戦/1.終戦の大詔渙発」、終戦前の政戦両略の交錯|ref={{SfnRef|1.終戦の大詔渙発|1945}}|publisher=防衛省防衛研究所}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C16120698300}} |title=「第1、終戦前の作戦概況」、終戦前の作戦概況並に停戦 |ref={{SfnRef|第1、終戦前の作戦概況|1945}}|publisher=防衛省防衛研究所}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C16120698400}} |title=「第2、停戦」、終戦前の作戦概況並に停戦|ref={{SfnRef|第2、停戦|1945}}|publisher=防衛省防衛研究所}}
**{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C19010011400}} |title=「親展電報 昭和20年5月~昭和20年9月(9)」、昭和20年5~昭和20年9 親展 電報|ref={{SfnRef|親展電報S20.05~09(9)}}|publisher=防衛省防衛研究所}}
 
 
* [http://www.archives.gov NARA公式サイト]{{en icon}}([[アメリカ国立公文書記録管理局]])
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/23793 |title = JAPANESE FILM ON ATOMIC BOMB DAMAGE ON NAGASAKI, JAPAN | website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1945 |accessdate = 2025-06-01|ref={{SfnRef|NARA、id23793}}}}(長崎への原爆投下と被爆後の市街地を撮影した短編ニュース映画)
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/23794 |title = JAPANESE FILM ON ATOMIC BOMB DAMAGE ON NAGASAKI, JAPAN | website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1945 |accessdate = 2025-06-01|ref={{SfnRef|NARA、id23794}}}}(上記映像の続き)
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/23795 |title = JAPANESE FILM ON ATOMIC BOMB DAMAGE ON NAGASAKI, JAPAN | website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1945 |accessdate = 2025-06-01|ref={{SfnRef|NARA、id23795}}}}(上記映像の続き。浦上天主堂の映像など)
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/23804 |title = ATOMIC BOMB DAMAGE AND MEDICAL CARE OF VICTIMS | website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1946 |accessdate = 2025-06-01|ref={{SfnRef|NARA、id23804}}}}(被爆後の長崎市映像)
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/23798 |title = JAPANESE FILM OF ATOM BOMB DAMAGE ON "BLAST" | website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1945 | accessdate = 2025-06-01|ref={{SfnRef|NARA、id23798}}}}(“Effect of Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki”の映像を使用、10分18秒)
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/64456 |title = Physical Damage, Nagasaki| website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1945 |accessdate = 2025-06-01|ref={{SfnRef|NARA、id64456}}}}(被爆後の長崎市、カラー映像)
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/64457 |title = Physical Damage, Nagasaki| website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1945 |accessdate = 2025-06-01|ref={{SfnRef|NARA、id64457}}}}(被爆後の長崎市、カラー映像)
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/64458 |title = Physical Damage, Nagasaki| website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1945 |accessdate = 2025-06-01|ref={{SfnRef|NARA、id64458}}}}(被爆後の長崎市、カラー映像)
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/64459 |title = Physical Damage, Nagasaki | website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1945| accessdate = 2025-06-01|ref={{SfnRef|NARA、id64459}}}}(被爆後の長崎市、カラー映像)
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/64460 |title = Physical Damage, Nagasaki | website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1945| accessdate = 2025-06-01|ref={{SfnRef|NARA、id64460}}}}(被爆後の長崎市、カラー映像)
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/64461 |title = Physical Damage, Nagasaki | website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1945| accessdate = 2025-06-01|ref={{SfnRef|NARA、id64461}}}}(被爆後の長崎市、カラー映像)
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/65518 |title = Effect of Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki |chapter=(邦題)広島・長崎における原子爆弾の影響 | website = www.archives.gov | publisher = アメリカ国立公文書資料館 |date= 1946 | accessdate = 2025-06-01|ref={{SfnRef|NARA、id65518}}}}(長編ドキュメンタリー映画、約170分)
 
== 関連項目 ==
{{commons|Category:Nagasaki in ruins}}
* [[ファットマン]]
{{columns-list|3|
* [[ボックスカー]]
*[[プルトニウム]]
* [[広島市への原子爆弾投下]]
* [[二重被爆ファットマン]]
* [[原爆忌ボックスカー]]
*[[日本への原子爆弾投下]]
**[[広島市への原子爆弾投下]]
*[[二重被爆]]
*[[原爆忌]]
*[[浦上燔祭説]]
*[[パンプキン爆弾]]
*[[レスリー・グローブス]]
*[[プレスコード]]
*[[日本における検閲]]
*[[ジョー・オダネル]]
*[[ノルデン爆撃照準器]]
*[[太陽の帝国]]
*[[綜合原爆展]]
*[[焼き場に立つ少年]]
}}
 
== 外部リンク ==
=== 『長崎原爆戦災誌』英語版の公開(2018年) ===
{{commons|Category:Nagasaki in Ruins}}
国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(Nagasaki National Peace Memorial Hall for the Atomic Bomb Victims)は、2006年から『長崎原爆戦災誌第一巻総説編改訂版』を英語に翻訳する事業をはじめ、全巻の翻訳を2014年3月に完成させた。監修委員会と協議のうえ、2018年に全文を公開した<ref>{{Cite web |url=https://www.peace-nagasaki.go.jp/abombrecords/top-j.html |title=「長崎原爆戦災誌」英語版の公開について|accessdate=2024-02-12|author= 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(Nagasaki National Peace Memorial Hall for the Atomic Bomb Victims)|year=2018|website=https://www.peace-nagasaki.go.jp/|ref=harv}}</ref>。
 
* {{Cite web |url=https://www.peace-nagasaki.go.jp/abombrecords/index-e.html |title=The Nagasaki Atomic Bomb Damage Records|trans-title=「長崎原爆戦災誌」英語版 |accessdate=2024-02-12 |author= Nagasaki National Peace Memorial Hall for the Atomic Bomb Victims(国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館)|year=2017|website=https://www.peace-nagasaki.go.jp/|language=English|ref=harv}}
=== 長崎市によるWebページ ===
* [httphttps://www1.city.nagasaki.nagasakinabmuseum.jp/na-bomb/museum/ 長崎原爆資料館] ([[長崎原爆資料市平和会館]])
* [http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/abm/ 長崎平和宣言 The Nagasaki Peace Declaration]
 
=== その他 ===
* [https://hisaikyo.jp/ 長崎原爆被災者協議会]
* [http://base.mng.nias.ac.jp/ No more NAGASAKI]
* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/s20hibaku/ |title=被爆者の声 |date=20190101000000}} 肉声による被爆証言
* [http://www.geocities.jp/torikai007/war/1945/hiroshima.html 原子爆弾投下と広島・長崎・終戦]
* [https://www.nagasaki.mapping.jp/ ナガサキ・アーカイブ] - 被爆証言や当時の写真をGoogle Earthにマッピング
*[http://www1.cncm.ne.jp/~hisaikyo/index.htm 長崎原爆被災者協議会]
* [https://www.atomicarchive.com/index.html 原子力資料館] - 広島や長崎の資料も紹介している(英語)。
* Merle Miller, [https://ahf.nuclearmuseum.org/ahf/profile/abe-spitzer/ Abe Spitzer]. "''[[iarchive:WeDroppedTheA-Bomb-nsia|We Dropped the A-Bomb]]"''{{en icon}} - New York: Thomas Y. Crowell Company, 1946.
* {{Wayback|url=https://www.atomicheritage.org/sites/default/files/resources/Abe%20Spitzer%20Diary.pdf |title=Abe Spitzer の日記|date=20161224164323}}{{en icon}} - テニアン島での日々、日本へのパンプキン爆弾投下、広島・長崎への原爆投下の体験などが日記形態で記載されている。タイプライターおよび自筆による英語 pdfファイル
* アメリカの原爆関連サイト(B-29爆撃機乗組員の詳細など検索できる):[https://ahf.nuclearmuseum.org/voices/about-us/ The Atomic Heritage Foundation (AHF)]{{en icon}}
* {{Wayback|url=https://www.idsci.nagasaki-u.ac.jp/archives/3091 |title=立体で見る「被爆前後の長崎」 遺構CGで再現|date=20230810230608}}
* Hoover Institution Library & Archives が 2018/06/05 公開。 Motion picture film(広島原爆・長崎原爆に関連する動画映像) [https://www.youtube.com/watch?v=fy39k8wJKiw Harold Agnew Atomic Bomb film] - [[YouTube]]
* Laurence, William. L (1947), ''[[iarchive:in.ernet.dli.2015.84862|Dawn Over Zero: The Story of the Atomic Bomb]],'' Bristol: Western Printing Services Ltd. - [[インターネットアーカイブ|Internet Archive]]
* [https://www.youtube.com/@長崎原爆チャンネル 長崎原爆チャンネル - YouTube]
* [https://dl-archive.jp/ 被爆前の日常アーカイブ] 長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)
* [https://www.smithsonianmag.com/videos/pumpkin-practice/ パンプキン爆弾投下訓練] 1945年、ニューメキシコ州のサンディア山脈近く。極秘テスト。カラー映像 (02:33)。
長崎に投下されたプルトニウム原爆と同型で訓練。
* [[渡邉英徳]](東京大学教授)のX(旧 Twitter)。 1945年8月9日、11時2分過ぎ、[[香焼町|香焼島]]にあった[[川南工業|川南工業香焼島造船所]]から松田弘道が撮影した[[キノコ雲]](モノクロ写真)をカラー化したもの)を投稿。{{Twitter status|hwtnv|1740714041528680784}}
* 長崎原爆 空撮によるカラー記録映像(1946年)。「昭和館デジタルアーカイブ」が2020-10-16 に公開した。1946年、原爆で破壊された長崎市街地を上空から撮影したカラー動画映像。{{YouTube| hpXYV49XUn4|長崎(原爆);空撮 記録映像}}
* [https://www.nids.mod.go.jp/ 防衛省防衛研究所]
** [https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/CrossSearch 戦史史料・戦史叢書検索]
 
=== [[報道機関]]・連載特集 ===
{{columns-list|2|
* [http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/index.html 長崎新聞:NAGASAKI PEACE SITE] (1998年 - 、[[長崎新聞]]社)
** [httphttps://www.nagasaki-np.co.jp/feature/peace-site/hibaku-note/index.html 「忘られぬあの日 私の被爆ノート」] - [[被爆者]]500人以上の証言集
* [http://www2.nbc-nagasaki.co.jp/peace/ 平和と長崎] (NBC[[長崎放送]])
 
}}
* [http://www.nishinippon.co.jp/media/news/9708/nagasaki/nagasaki.html 長崎被爆52年] (1997年、[[西日本新聞社]])
{{Normdaten}}
* [http://www.nishinippon.co.jp/media/news/9808/nagasaki/naga0.htm 揺れる被爆地ナガサキ・核拡散の危機の中で] (1998年、同上)
{{太平洋戦争・詳細}}
* [http://www.nishinippon.co.jp/media/news/9908/genbaku/genbakutop.html 原爆54回目の夏] (1999年、同上)
{{マンハッタン計画}}
* [http://www.nishinippon.co.jp/media/news/0007/genbaku/ 原爆55回目の夏] (2000年、同上)
* [http://www.nishinippon.co.jp/media/news/0108/genbaku/top.html 長崎原爆のPage] (2001年、同上)
* [http://www.nishinippon.co.jp/media/news/0208/genbaku/index.html 長崎原爆のページ] (2002年、同上)
* [http://www.nishinippon.co.jp/news/genbaku/2003/index.html 58回目・長崎原爆のページ] (2003年、同上)
* [http://www.nishinippon.co.jp/news/genbaku/2004/index.html 59回目・長崎原爆忌] (2004年、同上)
 
{{太平洋戦争 1945年}}
 
{{DEFAULTSORT:なかさきしへのけんしはくたんとうか}}
[[Category:長崎原爆|*]]
[[Category:1945年の日本]]
 
[[Category:第二次世界大戦中のアメリカ合衆国の戦争犯罪]]
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[[Category:アメリカ合衆国の反日感情]]
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