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{{出典の明記|date=2017年1月}}
'''鈴木 忠重'''(すずき ただしげ、[[
== 略歴 ==
天正17年([[
{{要出典範囲|19歳の時に出奔、その際に[[柳生宗章]]と出会い、弟子となった。また柳生の庄で[[柳生宗厳]]にも剣を学んだと言う。7年間漂泊の後に帰参したが、[[関ヶ原の戦い]]の前後に再度出奔した。理由はよくわからない。十余年後に真田氏に帰参し[[京都|京]]の伏見真田屋敷留守居役を務める。昌幸死後は沼田城主・[[真田信之]]の家臣として、真田氏の松代転封後は重臣に名を連ねた。主君・信之が[[参勤交代]]で江戸に向かった後には藩政を司るため[[松代城]]に残っていたとされる。|date=2017年1月}}
[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])、信之の長男[[真田信吉|信吉]]が[[沼田城]]主となると、その補佐役となった。しかし、信吉に対して憚らずに諫言したことにより疎まれ、出奔して浪人となった。信吉が死去した後、信之は家臣に命令して江戸に居住していた忠重を呼び返し、忠重は[[正保]]3年([[1646年]])に信之の元に復帰した<ref>『真田信之 父の知略に勝った決断力』405頁</ref>。
[[明暦]]元年([[1656年]])の信之隠居後、忠重も[[法泉寺 (長野市)|法泉寺]]の付近で隠棲し、ここから許可を得て信之の隠居所に伺候した。万治元年(1658年)10月17日に信之が病没した後、10月19日に法泉寺で[[殉死]]した。[[享年]]75。信之は殉死を禁じていたが、忠重だけには生前に許可を出していた<ref>『真田信之 父の知略に勝った決断力』404・406頁</ref>。
{{要出典範囲|出奔・帰参の前後に大きな戦い(関ヶ原・[[大坂の陣]])があることから、真田氏の諜報官であったとする説があるが、証拠になるような史料は見当たらない。|date=2017年1月}}▼
== 関連作品 ==
▲出奔・帰参の前後に大きな戦い(関ヶ原・大坂の陣)があることから、真田氏の諜報官であったとする説があるが、証拠になるような史料は見当たらない。
;小説
*[[池波正太郎]]『[[真田太平記]]』
*池波正太郎『男の城』(新潮文庫『あばれ狼』収録)
;テレビドラマ
*[[真田太平記 (テレビドラマ)|真田太平記]]([[NHK新大型時代劇]]) 演:岡村菁太郎(現・[[清元延寿太夫 (7代目)|清元延寿太夫]])
== 脚注 ==
<references/>
== 参考文献 ==
*[[平山優 (歴史学者)|平山優]]『真田信之 父の知略に勝った決断力』 PHP新書、2016年
{{DEFAULTSORT:すすき たたしけ}}
[[Category:戦国武将]]
[[Category:
[[Category:松代藩士]]
[[Category:上野国の人物]]
[[Category:自殺した日本の人物]]
[[Category:1584年生]]
[[Category:1658年没]]
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