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{{出典の明記|date=2015年5月}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = タルマヌガラ王国
|日本語国名 = タルマヌガラ王国
|公式国名 =
|建国時期 = [[358年]]
|亡国時期 = [[669年]]
|先代1 = サラカナガラ王国
|先旗1 =
|先代2 =
|先旗2 =
|次代1 = スンダ王国
|次旗1 =
|次旗2 = ガルー王国
|次代3 =
|次旗3 =
|国旗画像 = <!-- 画像ファイル名を入力。例: Flag of Japan.svg -->
|国旗リンク = <!-- リンクを手動で入力する場合に指定 -->
|国旗幅 = <!-- 初期値125px -->
|国旗縁 = <!-- no と入力すると画像に縁が付かない -->
|国章画像 = <!-- 画像ファイル名を入力 -->
|国章リンク = <!-- リンクを手動で入力する場合に指定 -->
|国章幅 = <!-- 初期値85px -->
|標語 =
|標語追記 =
|国歌 =
|国歌追記 =
|位置画像 = Tarumanagara.svg
|位置画像説明 = タルマヌガラ王国の版図
|位置画像幅 = <!-- 初期値250px -->
|公用語 = [[スンダ語]]、[[サンスクリット|サンスクリット語]]
|首都 = スンダプラ
|元首等肩書 = 王
|元首等年代始1 =
|元首等年代終1 =
|元首等氏名1 = プールナヴァルマン
|元首等年代始2 =
|元首等年代終2 =
|元首等氏名2 =
|元首等年代始3 =
|元首等年代終3 =
|元首等氏名3 =
|首相等肩書 =
|首相等年代始1 =
|首相等年代終1 =
|首相等氏名1 =
|首相等年代始2 =
|首相等年代終2 =
|首相等氏名2 =
|面積測定時期1 =
|面積値1 =
|面積測定時期2 =
|面積値2 =
|人口測定時期1 =
|人口値1 =
|人口測定時期2 =
|人口値2 =
|変遷1 = 建国
|変遷年月日1 = 358年
|変遷2 = 滅亡
|変遷年月日2 = 669年
|通貨 =
|通貨追記 =
|時間帯 =
|夏時間 =
|時間帯追記 =
|ccTLD =
|ccTLD追記 =
|国際電話番号 =
|国際電話番号追記 =
|注記 =
}}
{{インドネシアの歴史}}
'''タルマヌガラ王国'''(タルマヌガラおうこく、Kerajaan Tarumanagara)は、[[インドネシア]]、[[ジャワ島]]西部のボゴール付近に[[5世紀]]初頭ごろに栄えた[[ヒンドゥー]]王国。'''タルマ'''国(タールマ国)とも呼ばれる。[[スンダ海峡]]の東岸に位置しているので、その交通路を支配してその交易の利によって繁栄したと推定される。国名の由来は、藍を意味するタルムという説と、西部ジャワ地方を流れる川チタルム(チは、スンダ語で「水」、「川」の意。タルム川)の名前に関連するという説がある。
== 碑文にみられるタルマヌガラ王国 ==
タルマヌガラ王国について刻んだ[[石碑|プラサスティ]](石碑)は7つ知られており、5つはボゴール周辺のチャルトゥン、クボンコピ、ジャンプ、パシルアゥイ、ムアラ・チアンテンで発見されている。残りの2つは、ジャカルタ市東部のチリンチン地方のトゥグ村と、南バンテン地方のチダンヒアン河岸のルバク村でそれぞれ発見された。
ボゴール付近のプラサスティはプールナヴァルマン王が刻んだもので、先代の王がチャンドラヴァーガ[[運河]]を海まで開鑿したこと、プールナヴァルマンは敵の町を滅ぼしたことなどが刻まれている。
トゥグ村で発見されたプラサスティには、プールナヴァルマン王が在位22年目に都と海の間を結ぶ運河を掘り、その長さは6,122ダヌス(約12キロメートル)で、21日で完成させたと刻まれている。[[バラモン]]たちは、この運河をゴーマティ運河と呼んだという。この運河については、水田の[[灌漑]]用水に使用したり、[[洪水]]対策のためという説と交易用の交通路の2つの説がある。
チャルトウンのプラサスティには、プールナヴァルマンは[[ヴィシュヌ]]神と同一視され、[[仏足石]]のようにその足型が銘文といっしょに刻まれている。トゥグとチャルトゥンのプラサスティは、ともに自然の丸い巨石をそのまま用いている。プラサスティの碑文の字体は、[[クタイ王国]]のものと酷似しており、縦線の書き始めにbox headと呼ばれる四角い穴ができる[[ブラーフミー文字]]であって、[[デカン高原]]の{{仮リンク|カダンバ朝|en|Kadamba Dynasty}}で用いられた書体であることが最近の研究で判明しているため、王国の繁栄時期は5世紀初頭と比定される<ref>インドネシア-多民族国家という宿命-水本達也 中央公論新社、2006年</ref>。
{{multiple image
| total_width = 600
| align = center
| caption_align = left
| image1 = Prasasti tugu.jpg
| caption1 = トゥグのプラサスティ
|image2 =Prasasti Ciaruteun.JPG
| caption2 = チャルトゥンのプラサスティ
}}
== 中国の文献などにみられるタルマヌガラ王国 ==
この当時の西部ジャワに関するものと考えられる記録は、[[法顕]]による『[[仏国記]]』の記述で、414年ごろ、師子国([[スリランカ]])から[[中国]]へ帰国するとき、嵐におそわれて耶婆提国に漂着したが「その国はバラモン教がはなはだ盛んで、[[仏教]]は言うに及ばない」という記録がある。
法顕のいう「耶婆提」は、「ヤーヴァドヴィーバ」の漢字音訳で「ジャヴァドヴィーバ」の雅語とすればジャワに比定されることになるが、[[スマトラ島|スマトラ]]、西カリマンタン、[[マレー半島]]とも考えられ、断定はできない。
また、5世紀ごろ中国へ盛んに朝貢している国に「訶羅単(からたん)」国がある。この国は、碑文がみつかったチアルトゥン川のアルトゥンを原音とみなすと、時期的にタルマヌガラと一致する。『通典』や『[[新唐書]]』に言及される7世紀ごろに存在した「多羅磨(たらま)」国は、タルマヌガラが7世紀まで存在したことを示しているかもしれない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[インドネシアの歴史]]
[[Category:ジャワ島の歴史]]
[[Category:かつて存在したアジアの君主国]]
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