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'''大東亜共栄圏'''('''だいとうあきょうえいけん''')とは、[[東アジア]]・[[東南アジア]]に共存共栄の新秩序を建設するという意味のスローガンであり、[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]]・[[15年戦争]])において[[日本]]が大義名分として掲げた。
[[1940年]]に[[近衛文麿]]内閣が決定した基本国策要綱の中で大東亜共栄圏の構想が提唱された。日本・満州・中国を一つの経済共同体とし、東南アジアを資源の供給地域に、南太平洋を国防圏として位置づけるものである。
 
{{出典の明記|date=2010年1月}}
==[[大東亜会議]]==
{{混同|大東亜帝国}}
[[1943年]][[11月5日]]~[[11月6日]]に[[東京]]で[[日本]]の影響下にある東[[アジア]]諸国の首脳([[汪兆銘政権|中華民国国民政府]]行政院長[[汪兆銘]]、[[タイ王国|タイ]]総理大臣[[ルワン・ピブーンソンクラーム|ピブーンソンクラーム]]代理[[ワンワイタヤーコーン]]、[[満州国]]国務総理大臣[[張景恵]]、[[フィリピン]]大統領[[ホセ・ラウレル]]、[[ビルマ]]内閣総理大臣[[バー・モウ]]、陪聴者[[自由インド仮政府]]首班[[スバス・チャンドラ・ボース|チャンドラ・ボース]])が集まり、大東亜共栄圏の理念に基づいた[[大東亜宣言]]が採択された。大東亜各国を米英から解放し、共存共栄の秩序を建設すること、相互の自主独立と伝統を尊重すること、[[人種差別]]を撤廃することなどが宣言の内容。
{{基礎情報 過去の国
|略名 =
|日本語国名 = 大東亜共栄圏
|公式国名 = {{kyujitai|大東亞共榮圈}}
|建国時期 = [[1940年]]
|亡国時期 = [[1945年]]
|先代1 =
|先旗1 =
|先代2 =
|先旗2 =
|次代1 =
|次旗1 =
|次代2 =
|次旗2 =
|国旗画像 = War flag of the Imperial Japanese Army (1868–1945).svg
|国旗リンク = [[旭日旗#旧陸軍|旭日旗]]{{small|(陸軍)}})<br/>[[File:Flag of Japan (1870–1999).svg|border|125px]]<br/>([[日本の国旗|事実上の国旗]]
|国旗幅 = <!-- 初期値125px -->
|国旗縁 = <!-- no と入力すると画像に縁が付かない -->
|国章画像 = Naval ensign of Japan (1889–1945).svg{{!}}border
|国章リンク = [[旭日旗#旧海軍|旭日旗]]{{small|(海軍)}})<br/>[[File:Japanese Imperial Seal.svg|90px]]<br/>([[日本の国章|事実上の国章]]
|国章幅 = 125
|標語 = {{kyujitai|[[八紘一宇]]}}
|標語追記 =
|国歌 = [[君が代]]{{ja icon}}<br/>[[File:Kimi ga Yo 1930.ogg]]
|国歌追記 =
|位置画像 = Greater Asian Co-prosperity sphere.png
|位置画像説明 = {{legend|#ee0303|[[大日本帝国|日本]]}}
{{legend|#e65e5e|占領地}}
{{legend|#b90303|[[枢軸国|同盟国]]}}
|位置画像幅 = <!-- 初期値250px -->
|公用語 = [[日本語]]<br>[[中国語]]
|首都 = [[東京都]]
|最高指導者等肩書 = [[天皇]]
|最高指導者等年代始1 = 1942年
|最高指導者等年代終1 = 1945年
|最高指導者等氏名1 = [[昭和天皇]]
|元首等肩書 = [[内閣総理大臣]]
|元首等年代始1 = 1942年
|元首等年代終1 = 1944年
|元首等氏名1 = [[東条英機]]
|元首等年代始2 = 1945年
|元首等年代終2 = 1945年
|元首等氏名2 = [[鈴木貫太郎]]
|首相等肩書 = [[大東亜大臣]]
|首相等年代始1 = 1942年
|首相等年代終1 = 1944年
|首相等氏名1 = [[青木一男]]
|首相等年代始2 = 1945年
|首相等年代終2 = 1945年
|首相等氏名2 = [[重光葵]]
|面積測定時期1 = 1935年 - 1940年
|面積値1 = 13,881,100
|面積測定時期2 =
|面積値2 =
|人口測定時期1 = 1935年 - 1940年
|人口値1 = 707,684,000
|人口測定時期2 =
|人口値2 =
|変遷1 = [[大東亜会議]]
|変遷年月日1 = [[1943年]][[11月5日]]
|変遷2 = [[大東亜共同宣言]]
|変遷年月日2 = [[1943年]][[11月6日]]
|変遷3 = [[玉音放送]]
|変遷年月日3 = [[1945年]][[8月15日]]
|通貨 = [[圓]]<br>[[大東亜戦争軍票]]
|通貨追記 =
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|ccTLD =
|ccTLD追記 =
|国際電話番号 =
|国際電話番号追記 =
|現在 = {{Asia}}
*{{JPN}}
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*{{RUS}}([[北方地域|北方領土]])
|注記 =
}}
[[file:Manchukuo011.jpg|thumb|日華満協助天下太平のポスター]]
[[file:Greater East Asia Conference.JPG|thumb|[[大東亜会議]]に参加した各国首脳。左から[[バー・モウ]]([[ビルマ国|緬]])、[[張景恵]]([[満洲国|満]])、[[汪兆銘]]([[汪兆銘政権|華]])、[[東條英機]]([[大日本帝国|日]])、[[ナラーティップポンプラパン|ワンワイタヤーコーン]]([[タイ王国|泰]])、[[ホセ・ラウレル]]([[フィリピン第二共和国|比]])、[[スバス・チャンドラ・ボース]]([[自由インド仮政府|印]])]]
'''大東亜共栄圏'''(だいとうあきょうえいけん/{{旧字体|'''大東亞共榮圈'''}}/{{Lang-en|Greater East Asia Co-Prosperity Sphere または Greater East Asia Prosperity Sphere}}<ref name="長谷川2009-624"/>)は、[[大東亜戦争]]([[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側呼称・[[太平洋戦争]])を背景に、[[第2次近衛内閣]]([[1940年]]〈[[昭和]]15年〉)から[[日本の降伏]]([[1945年]]〈昭和20年〉)まで唱えられた日本の対[[アジア]][[政策]]構想である<ref name=2>{{Kotobank|1=大東亜共栄圏|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>。
 
大東亜戦争期、日本政府がアジア諸国と協力して提起したもので<ref name="長谷川2009-624">[[長谷川啓之]]「大東亜共栄圏」『現代アジア事典』[[文眞堂]]、2009年7月20日 第1版第1刷発行、ISBN 978-4-8309-4649-3、624頁。</ref>、[[欧米]][[帝国主義]]国の[[植民地]]支配下にあった[[アジア]]諸国を解放して、日本を盟主とした共存共栄のアジア経済圏をつくろうという主張であった<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%85%B1%E6%A0%84%E5%9C%8F-91667 日本大百科全書(ニッポニカ)] </ref>。[[東條英機]]の表現によれば、共栄圏建設の根本方針は「帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立」することにあった<ref name=2/>。先立つ[[1931年]]9月の[[満洲事変]]当時には「日満一体」<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%85%B1%E6%A0%84%E5%9C%8F-91667 大東亜共栄圏] コトバンク</ref>、[[1938年]]11月に[[第1次近衛内閣]]が[[日中戦争]]の長期化を受けて「[[東亜新秩序]]」の建設を声明しており、この時には日本・満洲・中国に限定された構想にすぎなかったが、[[南進論]]が強まる中で「[[大日本帝国|日]]・[[満洲国|満]]・[[汪兆銘政権|華]]」に[[東南アジア]]や[[インド]]、[[オセアニア]]までの大東亜共栄圏構想が生まれた<ref>{{Kotobank|1=大東亜共栄圏|2=世界大百科事典 第2版|3=リンク表示名(省略可)}}</ref><ref>[[山本有造]]『「大東亜共栄圏」経済史研究』[[名古屋大学出版会]]、2011年 月9日30日 初版第1刷発行、ISBN 978-4-8158-0680-4、ii頁。</ref>。
==大東亜共栄圏の実態と評価==
上記の大東亜宣言を善解すれば、大東亜共栄圏の目的は、アジア各国を列強の植民地支配から解放、独立させ、[[欧州連合|EU]]のような対等な国家連合を実現させることであったとも理解できる。もしこれが本当に実現していれば、大東亜共栄圏への今日的評価は大きく異なっていたであろう。一方で、日本軍占領下で形式上の独立を果たした諸国([[フィリピン]]、[[ベトナム]]、[[ラオス]]、[[ビルマ]]、[[カンボジア]]、[[満州国]])の政府と[[汪兆銘政権]]([[中華民国の歴史|中華民国]])は、いずれも日本政府の絶対的指導権の下に置かれており、[[ソビエト連邦|ソ連]]に対する[[東欧]]諸国、[[アメリカ合衆国]]に対する[[中南米]]諸国のような、事実上の[[植民地]]([[衛星国]])化を目指したに過ぎないという考えもある。また、1943年5月31日に決定された*[[wikisource:大東亜政略指導大綱|大東亜政略指導大綱]]では英領マレー、蘭領東インドは日本領に編入することとなっていた。[[シンガポール]]は[[昭南特別市]]と改名され正式に日本に併合された。日本の同盟国であったヴィシー・フランスの植民地インドシナ連邦では、日本軍占領下における植民地支配をフランス本国で[[ヴィシー政権]]が崩壊したのちの1945年3月9日まで承認していた。
 
== 概要 ==
大東亜共栄圏の真意がどこにあったにせよ、日本軍は占領者、[[植民地]]的支配者として敗北し撤退した。その結果として「日本の行為は、入植者を追い出したのは一時的に過ぎなかったうえ、しかもその際の戦闘で多くの犠牲をもたらした。そして、日本もまた、その『一時的』の間は侵略者であった」という評価もある。しかしながら、日本軍が宗主国勢力を排除したことが結果として独立に繋がったという評価や、日本軍統治下で様々な近代化が行われたため、旧宗主国に比すれば日本はよりましな統治者であったという評価もあり、今なお議論が続いている。
[[ファイル:DaitouaKyoueiken.JPG|thumb|right|180px|日本の10銭切手(1942年発行)。地図は切手の縦横比に収まるように[[デフォルメ]]され、島や大陸の位置関係が実際より縮小気味に描かれている<br/>([[インドネシア]]地図参照)。]]<!--切手のなかに「大東亜」という文字が見つからないのですが-->
大東亜共栄圏は「日本を盟主とする[[東アジア]]の広域[[ブロック経済|ブロック化]]の構想とそれに含まれる地域」を指す<ref name=4>[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%85%B1%E6%A0%84%E5%9C%8F-91667#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 日立ソリューションズ・クリエイト 「大東亜共栄圏」『世界大百科事典 第2版』 日立ソリューションズ・クリエイト]</ref>。[[第2次近衛文麿内閣]]の発足時の「[[基本国策要綱]]」(1940年7月26日)に「大東亜新秩序」の建設として掲げられ、国内の「新体制」確立と並ぶ基本方針とされた<ref name=4/><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=アジ歴トピックス - I 戦争・事件 - 太平洋戦争/大東亜戦争 - 大東亜共栄圏|url=https://www.jacar.go.jp/topicsfromjacar/01_warissues/index01_001.html#sub08|website=www.jacar.go.jp|accessdate=2021-02-02|publisher=}}</ref>。これは[[ドイツ国]]の「[[生存圏]](Lebensraum)」理論の影響を受けており、「共栄圏」の用語は[[外務大臣 (日本)|外相]][[松岡洋右]]に由来する<ref name=4/><ref name=":0" />。
 
アジア諸国が一致団結して欧米勢力をアジアから追い出し、'''[[大日本帝国|日本]]・[[満洲国|満洲]]・[[汪兆銘政権|中国]]・[[フィリピン第二共和国|フィリピン]]・[[タイ王国|タイ]]・[[ビルマ国|ビルマ]]・[[自由インド仮政府|インド]]'''を中心とし、[[フランス領インドシナ]](仏印)、[[イギリス領マラヤ]]、[[英領北ボルネオ|イギリス領北ボルネオ]]、[[オランダ領東インド]](蘭印)、[[オーストラリア]]による政治・経済的な共存共栄を図る政策であった<ref name="3">[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%85%B1%E6%A0%84%E5%9C%8F-91667#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 日立ソリューションズ・クリエイト 「大東亜共栄圏」『百科事典マイペディア』 日立ソリューションズ・クリエイト]</ref>。
==関連==
[[Wikipedia:ウィキポータル 大東亜共栄圏]] - 本項目に関連したリンク集
 
=== 「大東亜が日本の生存圏」 ===
[[category:大東亜戦争]]
{{See|生存圏}}
日本・満洲国・中国をひとつの[[経済統合|経済共同体]]([[日満経済ブロック|日満支経済ブロック]])とし、[[東南アジア]]を[[資源]]の供給地域に、[[南洋諸島|南太平洋]]を[[絶対国防圏|国防圏]]として位置付けるものと考えられており、「大東亜が日本の生存圏」であると宣伝された。ただし、「大東亜」の範囲や「共栄」の字義などは当初必ずしも明確にされていなかった。
 
用語としては[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の[[岩畔豪雄]]と[[堀場一雄]]が作ったものともいわれ、[[1940年]]([[昭和]]15年)7月に近衛文麿内閣が決定した「[[基本国策要綱]]」に対する外務大臣[[松岡洋右]]の談話に使われてから[[流行語]]化した。公式文書としては[[1941年]](昭和16年)1月30日の「対仏印、泰施策要綱」が初出とされる。ただし、この語に先んじて[[1938年]](昭和13年)には「[[東亜新秩序]]」の語が[[近衛文麿]]によって用いられている。
[[en:Greater East Asia Co-Prosperity Sphere]]
 
[[de:Gro%C3%9Fostasiatische_Wohlstandssph%C3%A4re]]
=== 大東亜共同宣言 ===
[[1941年]](昭和16年)に日本が[[アメリカ合衆国]]や[[イギリス帝国]]に[[宣戦布告]]をして[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])が勃発し、アジアに本格的に進出すると、日本は大東亜共栄圏の建設を対外的な目標に掲げることになった<ref>Akira Iriye (1999), Pearl Harbor and the Coming of the Pacific War: A Brief History with Documents and Essays, Boston and New York: Bedford/ St. Martins, p.6.</ref>([[大東亜建設審議会]]も参照)。[[1943年]](昭和18年)には日本の[[占領]]地域で欧米[[列強]]の植民地支配から「独立」させた大東亜共栄圏内各国首脳が東京に集まって[[大東亜会議]]を開催し、[[大東亜共同宣言]]が採択された。
 
=== 東条首相の説明 ===
1941年(昭和16年)12月の開戦直後に開かれた第79回[[帝国議会]]の会期中、1942年(昭和17年)1月に行われた[[東條英機]]首相の[[施政方針演説]]で「大東亜共栄圏建設の根本方針」を「大東亜の各国家及各民族をして、各々其の処を得しめ、帝国を核心とする道義に基く共存共栄の秩序を確立せんとするに在る」<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰(1959)『昭和史』[新版]、岩波書店 〈岩波新書355〉、216ページ</ref><ref>[{{新聞記事文庫|url|0100172891|title=大東亜宣言の世界史的意義 : 英米旧秩序を破砕 淵源は肇国の大精神|oldmeta=00501987}} 大東亜宣言の世界史的意義]、東京朝日新聞、1942年1月23日(神戸大学電子図書館システム)</ref>と説明した。重要資源を取るための国は主に[[満洲国]]、[[汪兆銘政権|中華民国]]、[[フランス領インドシナ]]([[仏印]])、[[タイ王国|タイ]]、[[イギリス領ビルマ]]、[[イギリス領マラヤ]]、[[オランダ領東インド]](蘭印)、[[フィリピン]]からであった。
 
== 実態と評価 ==
[[File:Greater Asian Co-prosperity sphere.png|thumb|300px|大東亜共栄圏の最大版図領域。[[大日本帝国]]の領域(南樺太、千島、朝鮮、台湾を含む)は濃い赤、その「同盟国」は暗赤色。 従属国・占領地は薄い赤で表示される。 ]]
大東亜共栄圏は、アジアの欧米列強植民地をその支配から独立させ、大日本帝国・[[満洲国]]・[[汪兆銘政権|中華民国]]を中心とする[[国家連合]]を実現させるものであるとされた。大東亜共同宣言には、『相互協力・独立尊重』などの旨が明記されている。
 
当初は、アジアは日本の勢力圏であると独伊に認識させることが目的であったことから、国策でありながら抽象的な理念やスローガンが先行し、詳細な計画は後から作るという泥縄式となっていた<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=コロナ対策、戦時の状況に通底 東北大院・安達宏昭教授が「大東亜共栄圏」刊行 |url=https://kahoku.news/articles/20220802khn000032.html |website=河北新報オンラインニュース |date=2022-08-03 |access-date=2022-08-04 |language=ja}}</ref>。
 
[[大東亜建設審議会]]では[[企画院]]と[[商工省]]の対立が激しくなったことで計画の調整がつかなかったが、実施段階で問題が起きることを認識しながら資源確保に関して曖昧な内容の決定を行った<ref name=":1" />。計画が曖昧なことから軍部との調整もつけられず、資源輸送に使う大型船舶を取り合う事態となった<ref name=":1" />。戦線が拡大すると軍による船舶の徴用が進んだため、限られた船舶を使った少量の資源輸送に終始した<ref name=":1" />。
 
大東亜共栄圏を構成していた[[フィリピン第二共和国]]、[[ラオス王国]]、[[ビルマ国]]、[[満洲国]]、[[汪兆銘政権|中華民国]]の各政府は、実際にはいずれも日本政府や日本軍の指導の下に置かれた[[傀儡政権]]または[[従属国]]であるとされることもあり、「実質的には日本による植民地支配を目指したものに過ぎなかった」とする意見もある。特に、フィリピンとビルマに関しては戦前には[[選挙|民選]]による自治政府が存在し、日本の影響下に置かれた大東亜共栄圏内にあっては選挙などの民主的手続きによらず、政府首脳には日本側が選任した人物(親日的、協力的な人物)が就任していたため、「実質的な独立からはむしろ遠ざかったのではないか」という批判もある。
 
[[1943年]](昭和18年)[[5月31日]]の[[御前会議]]で決定された「[[s:大東亜政略指導大綱|大東亜政略指導大綱]]」では[[イギリス領マラヤ]]、[[オランダ領東インド]](蘭印)は日本領に編入することとなっていた(ただし、蘭印については、[[1944年]]〈昭和19年〉[[9月7日]]の[[小磯声明]]で将来的な独立を約束した)。特にイギリス領マラヤの一部であった[[シンガポール]]は、日本への編入を見越して昭南特別市と改称された。この「[[s:大東亜政略指導大綱|大東亜政略指導大綱]]」にはこれらの地域を日本領とする理由が「重要資源ノ供給源」とするためと明確に謳われており(第二 六 (イ))、しかもこれについては「当分発表セス」とされていた。大東亜政略指導大綱による日本政府の意図としては、大東亜共栄圏はあくまで日本が戦争を遂行するためのものであった。また、当時の日本の知識人も「大東亜の民族解放は民族皇化運動である」<ref>『大東亜皇化の理念 』国防科学研究叢書 富士書店 1942年</ref>、「大東亜共栄圏の構想に於いては、個別国家の観念は許されるべきではない」<ref>『大東亜戦争の神話的意義』 [[大串兎代夫]] 文部省数学局 1942年</ref>などと明言しており、大日本帝国を頂点とした階級的組織構造にアジア各国を組み込んでいく構想であったことが窺える。
 
フィリピンは[[1944年]]の独立がすでにアメリカによって約束されており、日本も大東亜政略指導大綱でフィリピンを独立させる方針を打ち出した。[[1945年]]の日本の敗戦後、[[1946年]]の[[マニラ条約 (1946年)|マニラ条約]]により[[フィリピン第三共和国]]が独立した。
 
[[1941年]]にドイツの強い影響下にあった[[ヴィシー政権|ヴィシー・フランス]]の植民地[[フランス領インドシナ|インドシナ連邦]](仏印)においては、日本軍はヴィシー政府と協定を結んでインドシナに駐留し([[仏印進駐]])、フランス植民地政府による支配を[[1945年]](昭和20年)[[3月9日]]の[[明号作戦]]発動まで承認した。[[日本の降伏|日本の敗戦]]後、インドシナ支配を回復したフランスと独立を目指す[[ベトミン]]の間で[[第一次インドシナ戦争]]が勃発し、長い[[インドシナ戦争]]の時代を迎えることになった。
 
日本は共栄圏内において[[日本語]]による[[皇民化教育]]や[[宮城遥拝]]の推奨、[[神社]]造営、人物両面の資源の収奪などをおこなったこともあり、実質的な独立を与えないまま敗戦したことから、日本もかつての[[宗主国]]と同じかそれ以上の加害者であったという見方がある。一方で、同じアジア人が白人の支配を排除したこと、現地人からなる近代的な軍を創設し、戦後は実戦経験のある日本人将兵の一部([[残留日本兵]])が独立のために加勢するなど、後の独立に繋がる手助となったこともあり、解放者であったという評価もある。基本的には日本を加害者としつつも、大東亜共栄圏下で様々な施政の改善(学校教育の拡充、現地語の[[公用語]]化、在来民族の高官登用、[[華人]]や[[インド|インド人]]などの外来諸民族の権利の剥奪・制限など)が行われたため、階級や民族の分断で支配を行った旧宗主国よりはマシな統治者であったという見方もある。また、計画の曖昧さと政府と軍部の調整不十分により、[[皇民化教育]]や宗教政策は不完全なまま終わり<ref name=":1" />、現地人のアイデンティティー(言語や宗教)は奪われなかったという意見もある。
 
1943年(昭和18年)7月1日の[[厚生省]]研究所人口民族部(現・国立社会保障・人口問題研究所)が作成した報告書では、日本人はアジア諸民族の家長として「永遠に」アジアを統治する使命があると記されているが([[大和民族を中核とする世界政策の検討]])、欧米列強が詳細な長期計画に基づいて実行した[[植民地主義]]による支配とは異なり、大東亜共栄圏は[[プロパガンダ]]としてスタートした曖昧な計画であり、大半の施策が中途半端なまま終戦を迎えているたなど、2022年時点でも議論が続いている<ref name=":1" />。
 
肯定的な評価としては、イギリスの歴史学者[[アーノルド・J・トインビー|トインビー]]が1956年10月28日の英紙『[[オブザーバー (イギリスの新聞)|オブザーバー]]』に発表した以下のような分析が知られている<ref name="Toynbee">[[アーノルド・J・トインビー]]「Historian en Route The Shopkeepers From China」、英紙『[[オブザーバー (イギリスの新聞)|オブザーバー]]』11面(1956年10月28日)</ref><ref name="mizu">{{Harvnb|水間|2013|p=1}}</ref><ref>[https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000197177 レファレンス共同データベースI160803181420]</ref><ref>[https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000152313 レファレンス共同データベースI140304191445]</ref><ref>[https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150318/dms1503181550005-n1.htm 【日本に魅せられた 西洋の知性】アーノルド・J・トインビー 西洋は無敵でないこと示した日本](zakzak、2015年3月18日)</ref><ref name="henry">{{Harvnb|ヘンリー|2012|pp=127-128}}</ref>。
{{Quotation|第二次世界大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。|[[アーノルド・J・トインビー]] 英紙『オブザーバー』11面、1956年10月28日<ref name="Toynbee"/><ref name="mizu"/>{{refnest|group="注釈"|ちなみに{{Harvnb|ヘンリー|2012|pp=127-128}}での日本語訳では以下のように書かれている。{{Quotation|日本は第二次世界大戦において、自国ではなく、大東亜共栄圏の他の国々に思いがけない恵みをもたらした。それまでアジア・アフリカを200年の長きにわたって支配してきた西洋人は、無敵で、あたかも神のような存在だと信じられてきたが、日本人は実際にはそうではなかったことを、人類の面前で証明してしまった。これは、まさに歴史的な偉業であった。…日本は白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、植民地主義、人類差別に終止符を打つことをなしとげた。|アーノルド・J・トインビー 英紙『オブザーバー』1956年10月28日<ref name="henry"/>}}}}}}
 
=== 計画の破綻とその後 ===
[[日本の敗戦]]を前にして計画は棚上げ状態となっており、敗戦前に破綻していたという意見もある<ref name=":1" />。
 
終戦後には[[オランダ]]、[[イギリス帝国|イギリス]]、[[フランス第四共和制|フランス]]などの旧宗主国が植民地支配の再開を図ったが、[[オランダ領東インド|インドネシア]]や[[フランス領インドシナ|インドシナ]]、さらには[[イギリス領インド帝国|インド]]などでも日本占領下で創設された民族軍とそれに共感した日本兵が独立勢力として旧宗主国と戦い独立を果たすことになる。日本軍による占領をきっかけとする各民族の独立機運の高まりにより、旧宗主国による植民地支配の終焉へとつながったとする見解もしばしば主張される<ref name=":1" />。一方でフィリピンの[[フクバラハップ]]や[[ベトナム民主共和国|ベトナム]]の[[ベトミン]]のような現地住民による抗日ゲリラもしばしば発生しており、これらが後の[[独立運動]]に与えた影響も大きい。
 
== 八紘一宇 ==
{{main|八紘一宇}}
大東亜共栄圏を語る上で重要な概念にこの語がある。この語は日本が大東亜共栄圏の建設を推進するための政策標語([[スローガン]])として広く掲げられた。
 
== アジア主義との関係 ==
大東亜共栄圏構想は、アジアが一体となって欧米に対抗すべきであるという[[汎アジア主義]]の影響を受けている。汎アジア主義を唱えた近代日本の思想家としては[[北一輝]]、[[石原莞爾]]などがあげられる。また、江戸時代後期の[[経世家]][[佐藤信淵]]にその思想的ルーツを求める見解もある<ref>ロバート・D・エルドリッヂ『硫黄島と小笠原をめぐる日米関係』、[[南方新社]]、31ページ</ref>。
 
自民党議員で[[鹿島建設]]会長の[[鹿島守之助]]は、外交官を務めていた戦前より「汎アジア」を提唱していた。その「汎アジア」を外交官時代の鹿島に熱心に説いたのは、「汎欧州」を掲げる[[欧州連合の父]][[リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー|クーデンホーフ=カレルギー伯爵]]である<ref>{{Citation |last= 平川 |first= 均 (名古屋大学経済学研究科教授) |date= 2011年2月15日 |url= https://web.archive.org/web/20141129012955/http://www.aisf.or.jp/sgra/member/gcitizen/report/SGRAreport58.pdf |title= 鹿島守之助とパン・アジア論への一試論 |work= SGRAレポート 58 |publisher= 公益財団法人 渥美国際交流財団 関口グローバル研究会|accessdate=2014-12-09|page=5}}</ref>。鹿島は第二次世界大戦中、「汎アジア」と大東亜共栄圏を同一視し始めた<ref>{{harvnb|平川|2011|pp=31-33}}</ref>。鹿島は『帝国の外交と大東亜共栄圏』(翼賛図書刊行会、1943年)において、クーデンホーフ=カレルギー伯爵は汎アジア主義を抱いていたと証言している<ref>{{harvnb|平川|2011|p=15}}</ref>。
{{Quotation|{{kyujitai|大東亞共榮圏の建設は私の二十年来の持論であり又理想である。抑も之を實現せしむべく熱心に説いた者は日本人を母に持つ墺洪國貴族クーデンホーフカレルギー伯であつた。}}|鹿島守之助|『帝國の外交と大東亞共榮圏』(翼贊圖書刊行會、1943年)}}
 
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|author1=[[ヘンリー・スコット・ストークス]] |author2=[[加瀬英明]] |translator=藤田裕行 |date=2012-08 |title=なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか |publisher=[[祥伝社新書]] |isbn=978-4396112875 |ref={{Harvid|ヘンリー|2012}}}}
* {{Citation|和書|author=[[水間政憲]] |date=2013-08 |title=ひと目でわかる「アジア解放」時代の日本精神 |publisher=[[PHP研究所]] |isbn=978-4569813899 |ref={{Harvid|水間|2013}}}}
*安達宏昭『「大東亜共栄圏」の経済構想-圏内産業と大東亜建設審議会』[[吉川弘文館]] 2013 オンデマンド版 2024,ISBN 9784642738200
 
== 関連文献 ==
* 判澤純太「[https://web.archive.org/web/20111020141047/http://www.niit.ac.jp/lib/contents/kiyo/genko/10/13_hanzawa.pdf 「大東亜会議」外交と東南アジア=欧米植民地の初期独立]」[https://web.archive.org/web/20160304204723/http://www.niit.ac.jp/lib/contents/kiyo/genko/10/CONTENTS.HTM 『新潟工科大学研究紀要』第10号]、2005年12月
* 中尾幸「[https://web.archive.org/web/20171215142831/http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf09/9-17-28-nakao.pdf 大東亜共栄圏構想の成り立ちと国益]」[https://web.archive.org/web/20190303020822/http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/journal/no9jp/ 『日本大学大学院総合社会情報研究科 電子紀要第9号』]、2008年7月
 
== 関連項目 ==
* [[大東亜省]]
* [[興亜院]]
* [[アジア主義]]
* [[大東亜会議]]
* [[大東亜共同宣言]]
* [[雁行形態論]]
* [[世界征服]]
* {{仮リンク|肌の色による差別|en|Discrimination based on skin color}}
* [[第二次世界大戦における枢軸国の勝利]]
** [[大ゲルマン帝国]]
** [[東方生存圏]]
** {{仮リンク|新秩序 (ナチズム)|en|New Order (Nazism)}} - [[ナチズム]]による戦後世界の構想
** {{仮リンク|ラテン民族圏 (同盟構想)|en|Latin Bloc (proposed alliance)}}
** [[高い城の男]] - [[枢軸国]]が勝利したという設定の[[フィリップ・K・ディック]]の[[サイエンス・フィクション|SF]]小説。
 
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