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'''初世 浜村 蔵六'''(はつせ はまむら ぞうろく、男性、[[享保]]20年([[1735年]]) – [[寛政]]6年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]([[1794年]][[11月26日]]))は、[[江戸時代]]中期の日本の[[篆刻家]]である。5代に亙って篆刻家を輩出した[[浜村蔵六|浜村家]]の祖。
 
[[本姓]]は橘氏、[[名]]を茂喬、[[字]]は君樹、蔵六は[[号 (称号)|号]]。[[通称]]浜村六蔵。'''橘茂喬'''とも称される。[[武蔵国]][[葛飾郡|葛飾]]生まれ。
 
==略伝==
祖父の道綜の代に[[伊勢国|伊勢]][[度会町|度会]]から[[江戸]]に移り住む。父通寿、母関岡氏の長子として生まれる。若いうちから篆刻で著名な[[高芙蓉]]を敬慕し、[[京都]]に出て芙蓉の門下となる。その印法を学び、奥義を究める。後に江戸に戻り、芙蓉の[[日本の篆刻史|古体派]]と称される篆刻を伝え、その指導的な役割を担う。篆刻の技術はすこぶる巧みで特に鋳造印を得意とした。[[法帖]]の模刻にも巧みで、[[王寵]]の『白茆帖』の[[模刻]]は絶技と評された。朴訥で社交的な性格だったという。
 
[[天明]]4年(1784年)、芙蓉は江戸に出てすぐに没してしまう。蔵六は[[大典顕常|大典禅師]]に芙蓉の墓碑銘の撰文を請い、それを[[韓天寿]]が書し、蔵六が刻した。この墓碑はなんらかの事情で蔵六の存命中は建立されず、後に[[稲毛屋山]]と[[二世浜村蔵六]]によって江戸[[小石川]]無量院に建立された。現在は[[天徳寺 (東京都港区)|天徳寺]]([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[虎ノ門]]3丁目)に移されている。
 
寛政6年11月、江戸で没する。[[享年]]61。[[戒名|法名]]称樹院壇誉蔵六大徳。墓所は[[霊山寺 (東京都墨田区)|霊山寺]]にあり、二世蔵六・[[三世浜村蔵六|三世蔵六]]も合葬されている。なお、この墓石は、[[関東大震災]]により紛失した。
 
== 出典 ==
*[[中井敬所]]『日本印人伝』(収録『日本の篆刻』[[中田勇次郎]] 、[[二玄社]]、1966年)
 
==関連項目==
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*[[印譜]]
 
{{Normdaten}}
== 出典 ==
*[[中井敬所]]『日本印人伝』(収録『日本の篆刻』[[中田勇次郎]] 、[[二玄社]]、1966年)
 
 
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[[Category:江戸時代の]]
[[Category:日本の篆刻家]]
[[category:武蔵国の人物]]
[[Category:1735年生]]
[[Category:1794年没]]