「大御所 (江戸時代)」の版間の差分
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[[江戸幕府]]において'''[[大御所]]'''(おおごしょ)は、[[征夷大将軍]]職を退いて[[隠居]]した前将軍を指す[[尊称]]。
== 大御所の由来 ==
{{main|大御所}}
[[江戸幕府]]において大御所の名が正式に用いられるようになったのは、[[1603年]]に征夷大将軍となって[[江戸幕府]]を開いた[[徳川家康]]が、[[1605年]]に将軍職を子の[[徳川秀忠]]に譲って隠居したときに「大御所
[[駿府]]を中心に[[徳川家康]](大御所)が行った、[[徳川秀忠]]([[征夷大将軍]])との二元政治は「[[江戸幕府]]」を参照。
2代将軍・秀忠は[[1623年]]に将軍職を息子・[[徳川家光]]に譲って隠居している。そして[[1632年]]に病死するまで、政治の実権を握り続けた。西丸派(大御所)は秀忠側近を中心としているのに対し、本丸派(将軍)は新旧の譜代層から構成されていた。
▲== 江戸幕府の大御所 ==
;秀忠・家光 二元政治の幕閣<ref>藤野保『徳川幕閣』1990年、中央公論社</ref>
*江戸城西丸(大御所) [[徳川秀忠]]
**[[土井利勝]]・[[井上正就]]・[[永井尚政]]・[[青山幸成]]・[[森川重俊]](西丸老職・秀忠側近)
*江戸城本丸(将軍) [[徳川家光]]
**[[酒井忠世]]・[[酒井忠利]]・[[稲葉正勝]]・[[阿部正次]]・[[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]]・[[内藤忠重]](本丸老職)
**[[松平信綱]]・[[阿部忠秋]]・[[堀田正盛]]・[[三浦正次]](小姓組番頭・家光側近)
**[[米津田政]]・ [[島田利正]]([[江戸町奉行]])
11代将軍・[[徳川家斉]]は将軍就任直後、将軍でなかった実父・[[徳川治済]]に大御所号を贈ろうとして、老中・[[松平定信]]に先例が無いとして反対され、断念した(大御所事件)。
この他、15代将軍・[[徳川慶喜]]も生存中に将軍職を辞して、宗家の家督も[[徳川家達]]に譲り、過去の大御所と似た存在となった。しかし徳川幕府が
== 関連項目 ==
*[[大御所]]
*[[院政]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
{{DEFAULTSORT:おおこしよ}}
[[Category:江戸幕府]]
[[category:日本の敬称]]
[[Category:徳川家康]]
[[Category:近世日本の称号]]
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