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[[Image:Comet 1.jpg|thumb|280px|DH.106 コメット Mk.I]]
{{ Infobox 航空機
[[Image:DeHavilland_Comet.jpg|thumb|280px|イギリス空軍のコメット C.2]]
| 名称=デ・ハビランド DH.106 コメット
'''デ・ハビランド コメット''' ('''de Havilland DH.106 Comet''') は、[[イギリス]]の[[デハビランド]]社が製造した世界初の[[ジェット機|ジェット]][[旅客機]]。「コメット」の名称は自社のデハビランド DH.88に続いて二代目である。
| 画像=File:Comet 4.jpg
| キャプション=英国海外航空のDH.106 コメットIV
| 用途=[[旅客機]]、[[軍用機]]
| 分類=第1世代ジェット旅客機
| 設計者=
| 製造者=[[デ・ハビランド・エアクラフト]]
| 運用者 more=:
** [[英国海外航空]]
** [[メキシカーナ航空]]
** [[アルゼンチン航空]]
** [[エールフランス航空]]
** [[オリンピック航空]]
** [[ミドル・イースト航空]]
** ほか
| 初飛行年月日=[[1949年]][[7月27日]]
| 生産数=114
| 生産開始年月日=
| 運用開始年月日=[[1952年]][[5月2日]]
| 退役年月日=[[1997年]][[3月14日]]
| 運用状況=全機退役
| ユニットコスト= }}
'''デ・ハビランド コメット''' ('''de Havilland DH.106 Comet''') は、[[イギリス]]の[[デ・ハビランド・エアクラフト|デ・ハビランド]]社が製造した世界初の大型[[ジェット機|ジェット]][[旅客機]]。「コメット」の名称は自社の[[デ・ハビランド DH.88 コメット|デ・ハビランド DH.88]]に続いて二代目である。
 
定期運航就航後、程なくして、与圧された胴体の繰返くりかえし変形による[[金属疲労]]が原因の空中分解事故を連続して起こしたが、そで得ららの多くの犠牲者を出し教訓がそ事故無数教訓によって航空技術、就中とりわけ安全性を向上させることなっした役割もまた非常に大きい
 
== 概要 計画==
=== 開発ブラバゾン委員会 ===
イギリスでは1930年代、[[インペリアル・エアウェイズ]]や[[ブリティッシュ・エアウェイズ]](当時)が、大型の陸上機・[[飛行艇]]を用いて、世界各地の海外[[植民地]]への航空輸送路を開拓し、[[アメリカ合衆国]]と覇を競い合った。インペリアルとブリティッシュ・エアウェイズは1939年に合併して[[英国海外航空]](BOAC)になるが、[[第二次世界大戦]]の激化により、民間長距離航空路の開拓は一時休止を強いられる。
[[第二次世界大戦]]中の[[1944年]]にブラバゾン委員会(戦後の航空輸送に関する委員会)が纏めた「500mph(800km/h)で大西洋横断可能」なジェット旅客機計画を受け、デハビランド社が英軍需省の補助金を得て、[[1946年]]から開発に着手した。初期案は24席の無尾翼機であった。
 
第二次世界大戦中、イギリス政府は[[アメリカ合衆国]]との取り決めで、欧州戦線に投入する重[[爆撃機]]の生産に集中することになり、一方のアメリカは[[輸送機]]供給を担当することになった。
開発が難航していた[[ロールス・ロイス エイヴォン]]の実用化は[[1950年]]より先になるという予想の下、敢えて旧式ながら実績のある自社製のゴースト ([[:en:De_Havilland_Ghost|Ghost]]) が採用された。アンダーパワーを克服し、高与圧と低温に耐える必要から、機体構造には[[デハビランド モスキート|モスキート]]など同社のお家芸とも言える木製高速機で十分な経験を積んだ、[[接着剤#接着剤の種類#有機系接着剤#合成系接着剤|エポキシ接着剤]]リダックス ([[:en:Redux_%28adhesive%29|Redux]])が多用され、圧倒的軽量化と平滑化、高剛性化が図られた。
 
アメリカはこの取り決めにより、高性能旅客機の設計をベースとした軍用輸送機を大量生産した。主力双発機のダグラス[[C-47 (航空機)|C-47]]([[ダグラス DC-3|DC-3]]の軍用型)のみならず、C-54([[ダグラス DC-4]]の軍用型)や、与圧機構装備のC-69([[ロッキード コンステレーション]]の軍用型)など、当時最大級の4発の大型プロペラ輸送機をも生産・供給し、その過程で後年にまで至る大型輸送機の製造・運用ノウハウを蓄積していったのである。
=== 完成 ===
[[画像:Delta DC-7.jpg|thumb|220px|ダグラスDC-7]]
[[1946年|同年]]に愛息を自社の高速研究機 [[デハビランド DH.108|DH.108]] の事故で失ったサー・ジェフリー・デハビランド ([[:en:Geoffrey_de_Havilland|Geoffrey de Havilland]]) にとって、世界初のジェット旅客機の完成は悲願になり、[[1949年]]7月27日(自らの57回目の誕生日)の初飛行時には、チーフ・テストパイロットの[[ジョン・カニンガム]]元空軍大佐と共に、自ら操縦席に座った。これは当時の最新鋭レシプロ機ダグラス[[DC-7]]よりも早く、[[ロッキード・コンステレーション|ロッキード・スーパーコンステレーション]]とほぼ同時であり、追従者は他にない独走状態であった。因みに試作2号機の処女飛行も、翌年の同じ7月27日に同じメンバーで為された。
 
対[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]戦での機材供給合理化には両国分担も適切であったが、イギリスからすれば、自国メーカーがその能力を爆撃機生産に傾注し続けることは、戦争終結後に見込まれる民間輸送機需要へのノウハウ構築に寄与しないのは明らかであった。
しかし敗戦国ドイツから多くの航空技術者を移入させたアメリカは、青天井の予算を与え戦時中のプロジェクトを継続させた結果、早くも[[1947年]]には後退翼の超革新的な大型ジェット爆撃機[[B-47]]を進空させ、その「フラミンゴのようにスマート」と評されたほど優美なフォルムで全世界に衝撃を与えた。対して保守的な外観のコメットには失望の声も半ばしていたという。
 
当時の[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]政権は、戦後の民間航空分野でも自国の先進性を保持し、その市場のニーズを探る目的で、[[保守党 (イギリス)|保守党]]の政治家であると共に英国航空界の指導的立場にあった[[ジョン・ムーア=ブラバゾン|ロード・ブラバゾン・タラ]]を委員長とする[[ブラバゾン委員会]]を[[1943年]]2月に立ち上げ、具体的なプランを検討させることになった。翌[[1944年]]にはタイプ1からタイプ4までの旅客機案がまとめられ、各々が国内の航空機メーカーに提示された。
 
===コメットの開発===
[[Image:RM2 aka De Havilland Ghost.jpg|thumb|240px|コメット Mk.I に装着された物と同系の「ゴースト」エンジン]]
後にコメットと呼ばれる機体は、当初タイプ4として提案されたカテゴリー、即ち超高速で[[大西洋]]横断飛行可能な「ジェット郵便輸送機」として計画されていた<ref group="注釈">郵便物は軽荷重で旅客機に比べて安全面での制約も厳しくないので、開発のハードルは旅客機に比べると低い。</ref>。
 
しかし、同国初ジェット[[戦闘機]]の開発に成功していた老舗航空機メーカー・[[デ・ハビランド・エアクラフト|デ・ハビランド]]社は、より大型化した「ジェット旅客機」という全く新しいジャンルに挑むことを表明し、[[軍需省 (イギリス)|軍需省]]から2機、[[英国海外航空]](BOAC、現[[ブリティッシュエアウェイズ]])から7機の仮発注を受け、[[国家プロジェクト]]として[[1946年]]9月に開発が始動した。
 
計画着手時には24席クラスの無尾翼機案が有力だったが、[[1946年|同年]]、デ・ハビランド社がドイツの[[メッサーシュミット Me163|Me163「コメート」]]を摸して開発した無尾翼高速研究機[[デ・ハビランド DH.108|DH.108]]は試験飛行中に墜落、同社創業社長サー・ジェフリー・デ・ハビランド([[:en:Geoffrey_de_Havilland|Geoffrey de Havilland]])の息子で事故機の操縦者だったジェフリー・ジュニアは死亡した。このためデ・ハビランド社長にとって、世界初のジェット旅客機を自らの手で早期に完成させることは悲願になり、機体は堅実な緩後退翼案に転換すると共に、融通性重視で自社製[[ターボジェットエンジン]]「[[デ・ハビランド ゴースト|ゴースト]]」 エンジンが選定された。
 
イギリスで開発され、[[第二次世界大戦]]終結時には既に十分な実績を積んでいた[[遠心式圧縮機|遠心圧縮式]]ターボジェットエンジンだったが、機械的限界から推力5,000[[重量ポンド|ポンド(lbf)]](≒22k[[ニュートン (単位)|N]], 2,300[[キログラム重|kg]])以上に向上する余地がほとんどなく、当時における最強水準であったデ・ハビランド「ゴースト」や[[ロールス・ロイス ニーン|ロールス・ロイス「ニーン」]]とて例外ではなかった。
 
ジェットエンジンの改良面で、遠心式よりも構造は複雑化するが、小径で応答性に勝り、制御パラメータがより多く取れ、発展性のある[[軸流式圧縮機|軸流式]]への転換は技術的必然であった。しかし後退翼と同様に、軸流式ターボジェットエンジンの分野で先陣を切っていたドイツの技術者は、ドイツ敗戦と同時に米ソが奪い合う形で自国に招聘していたため、英仏は独自開発を余儀なくされ、大きく出遅れていた。コメットの設計着手時に基礎研究段階にあった、軸流式エンジンの[[ロールス・ロイス エイヴォン|ロールス・ロイス「エイヴォン」]]、並びに[[アームストロング・シドレー サファイア|アームストロング・シドレー「サファイア」]]の開発は難航し、実用化は[[1950年]]以降になると予想された。それらの完成を待っていてはコメット計画全体が遅延するため、敢えて小出力の「ゴースト」で試作が進められることになった。
 
機体の規模に対して、4発をもってしても推力が不足する「ゴースト」の採用は、設計全体に影響を及ぼした。コメットがいまだ製図板上にあった[[1947年]]末に、米[[ボーイング]]はドイツから受け入れた亡命技術者達に青天井の予算を与え、戦時中のプロジェクトを継続させた結果、[[翼平面形|後退翼]]を持つ超革新的な6発式大型ジェット[[戦略爆撃機]] [[B-47 (航空機)|B-47]] を進空させると共に、後に主流となる主翼[[パイロン]]吊下式のエンジン搭載法を特許で固めてしまった(ボーイングはその後1952年に進空させた超大型ジェット爆撃機・[[B-52 (航空機)|B-52]]において、8発ものエンジンを吊下式で搭載して必要なパワーを確保している)。このため、デ・ハビランド社の主任技師ロナルド・ビショップ(Ronald Bishop)は、空気抵抗の低減を兼ねて主翼付根に大径な遠心式エンジンを2基ずつ埋め込む回避策を選んだ。
 
推力の不足を補い、高[[与圧]](高度 35,000 ft=約 10,000 m 時に 0.75 気圧=2,700 m 相当を保つ)と、-60 度Cに達する低温に耐える必要から、機体には[[デ・ハビランド モスキート|「DH.98 モスキート」]]など同社のお家芸とも言える木製高速機で十分な経験を積んだ、[[接着剤#有機系接着剤|合成系接着剤]]が多用され、新開発の[[ジュラルミン|超々ジュラルミン]]薄肉[[モノコック]]構造による徹底した軽量化と、表皮の平滑化が図られた。後にすべての大型機に装備される[[ボギー台車|ボギー式]][[降着装置|主輪]]を初採用したのもコメットで、これらは[[ロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント]] (RAE) との共同開発である。
 
== 完成 ==
===試験飛行===
[[File:Dh Comet.jpg|220px|thumb|試作初号機]]
コメット試作初号機の進空が行われた[[1949年]][[7月27日]]は、ジェフリー・デハビランド社長自身の57歳の誕生日であった。彼はこの日、世界初のジェット旅客機の初飛行にあたり、チーフ・テストパイロットの[[ジョン・カニンガム]]元空軍大佐と共に、自ら操縦席に座った。
 
これは当時の最新鋭機である[[ダグラス DC-7]]よりも早く、ロッキード コンステレーションの改良版であるL-1649スーパーコンステレーションとほぼ同時であるものの、アメリカのライバル達はいずれも巡航速度500km/h台以下の[[レシプロエンジン|レシプロ]]機であり、コメットの実用化は他の追随を引き離した独走状態であった。
 
しかし同時期の軍用機分野では、既に[[1947年]]に後退翼の[[B-47 (航空機)|大型ジェット戦略爆撃機B-47]]が実用化されており、そのスケールと共に「[[フラミンゴ]]のようにスマート」と評されたほど優美なフォルムで全世界に衝撃を与えていた。対してまるでレシプロ機をジェットエンジンに換装したのみのように見え、さらに後退翼もない保守的な外観のコメットには失望の声も半ばしていたという。
 
[[プロトタイプ|試作]]2号機の処女飛行も、[[1950年]]の同じ7月27日に同じメンバーでなされた。その後テスト飛行が本格化され、離着陸時の安定性や、舗装が貧弱な滑走路への重量配分を考慮し、主脚が大型のタイヤ1個から現代の大型旅客機でもよくみられる4個のものに変更されるなど、就航を見すえて様々な改良が施された。
 
=== 就航 ===
[[File:BOAC Comet 1952 Entebbe.jpg|thumb|220px|英国海外航空のコメットMk.I([[エンテベ国際空港]])]]
速度・高度共に前人未到の領域を飛ぶ初のジェット旅客機には、地上支援体制を始め運航システムの殆ど総てを新規開発する必要があり、英空軍、[[英国海外航空]](BOAC、現[[ブリティッシュ・エアウェイズ]])と協働の上、航路開拓も含めて2年間の入念な準備期間が置かれ、その間2機の試作機(G-ALVG, G-ALZK)は世界各地に飛来し先々で羨望を浴びた。
[[1951年]][[1月9日]]にはコメット Mk.Iの最初の量産型(G-ALYP)が[[英国海外航空]](BOAC)に納入された。速度・高度共に前人未到の領域を飛ぶ初のジェット旅客機には、地上支援体制を始め運航システムのほとんどすべてを新規開発する必要があり、[[イギリス空軍]]、英国海外航空と協働の上、航路開拓も含めて2年間の入念な準備期間が置かれ、その間2機の試作機(G-ALVG、G-ALZK)は世界各地に飛来し、先々で羨望を浴びた。
 
[[1952年]][[5月2日]]に、満を持した初の商用運航がBOAC英国海外航空のコメット Mk.I によって[[ヒースロー空港|ヒースロー]] - [[ヨハネスブルグ]]([[ローマ]]、[[カイロ]]、[[ハルツーム]]、[[エンテベ]]、[[リヴィングストン (ザンビア)|リビングストン]]経由)間で行われ、所時間を一気に半減させてみせた。乗客数こそ従来のプロペラ機と等かそれ未満だったが、従来の2倍の速度だけでなく、天候の影響を受け年内くい高高度を飛行することによって快適性もレシプロは5機の比ではない事コメットMk.I明らかになり完成し、定時発着率の高さも実証期運航や試験飛行に使用され、初た。同度だけで3万人7月8日にはBOACのコメットMk.I搭乗する人気を博[[東京国際空港]](羽田)に試験飛行で飛来、[[ロンドン]]・[[東京]]間を27時間22分という新記録を打ち立て<ref>{{Cite journal|和書|date=1952-07-08|title=「コメット」号東京に到着 {{small|成層圏定期航路に大収穫}}|journal=朝日新聞|page=3}}</ref>
 
コメットMk.Iは乗客数は[[ダグラス DC-6]]やロッキード・コンステレーションなどの従来のプロペラ機と同等かそれ未満で、航続距離も同様であり、太平洋はおろか大西洋横断路線の無着陸横断も不可能であった。
順次航路を全世界に拡大し、翌[[1953年]]には試作2号機が[[ファーンボロ]][[航空ショー]]で超低空90度バンクターンを決めてみせ、[[ヨーロッパ航空航路#南回りヨーロッパ線|南回り航路]]経由で[[ヒースロー空港|ヒースロー]]~[[羽田空港|羽田]]間にも定期就航した。占領下で航空機開発の一切を禁じられ、ジェット時代の到来に為す術なくいた日本の旧航空技術者達は、コメットの銀翼と快音に切歯扼腕したという。
 
しかし、従来の2倍の速度だけでなく定時発着率の高さも実証され、さらに天候の影響を受けにくい高高度を飛行することや、ピストンエンジンと違い振動も少なくスタートまでの時間も短いなど快適性もレシプロ機の比ではない事が明らかになり、英国海外航空のみが就航させていた初年度だけで3万人が搭乗する人気を博した。
[[エールフランス]]やトランス・カナダ航空などでも運航開始され、懸念された燃費も低廉なジェット燃料と高い満席率で相殺されることが分かり、就航当初の様子見気分は払拭された。[[日本航空インターナショナル|日本航空]]や[[パンアメリカン航空]]などの世界中の一流[[航空会社]]から50機以上のバックオーダーを抱え、量産体制に入ったデハビランド社は前途洋々であった。
 
=== 運航拡大 ===
=== 金属疲労による連続事故 ===
[[File:DH Comet 1 BOAC G-ALYP.jpg|thumb|220px|英国海外航空のコメットMk.I(G-ALYP、ヒースロー空港)]]
[[File:Air France De Havilland DH.106 Comet 1A (F-BGNX) at Hatfield.jpg|thumb|220px|エールフランスのコメットMk.I]]
翌[[1953年]]には試作2号機が[[ファーンボロー国際航空ショー]]で超低空90度[[バンク]]([[ローリング]])ターンを決めて見せたほか、[[エリザベス・ボーズ=ライアン|エリザベス王太后]]らを乗せた招待飛行を行うなど、イギリス航空界はその存在を存分にアピールした。
 
さらに8月には[[ヨーロッパ航空航路#南回りヨーロッパ線|南回り航路]]でヒースロー-羽田間<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=qJCGEuT0WI0&t=885s あの街この街 英映画社]
NPO法人科学映像館</ref>([[ローマ]]、[[ベイルート]]または[[カイロ]]、[[バーレーン]]、[[カラチ]]、[[カルカッタ]]、[[ラングーン]]、[[バンコク]]、[[香港]]、[[マニラ]]、[[沖縄]]経由、週2便運航)や、ヒースロー-イギリス領[[シンガポール]]という長距離路線にも定期就航した。
 
第二次世界大戦中に[[橘花 (航空機)|ジェット機の試作と量産開始]]にまで成功したものの、[[占領]]下で航空機開発の一切を禁じられ、ジェット時代の到来になす術もなくいた[[日本]]の元航空[[技術者]]たちは、コメットの銀翼と快音に悔しがったと言う。
 
「[[ドル箱]]路線」の1つであった[[大西洋]]横断路線にこそ就航していなかったものの、順次航路を全世界に拡大したのみならず、まもなく[[エールフランス]]や[[エア・カナダ|トランス・カナダ航空]]、UATなどでも運航開始され、懸念された[[燃費]]も低廉な[[ジェット燃料]]と高い満席率で相殺できることがわかり、就航当初の様子見気分は払拭された。また、[[イギリス王室]]メンバーの海外訪問や[[オーストラリア]]などの[[イギリス連邦]]諸国、そして[[植民地]]訪問にも頻繁に利用され、その威信を内外に誇示した<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=Dy-cMeHIh48 B.O.A.C Year Of History (1952) ]</ref>。
 
ロールス・ロイス・エイヴォン・エンジン搭載のパワーアップ型 Mk.IIは、[[日本航空]]や[[パンアメリカン航空]]、[[エア・インディア]]、[[南アフリカ航空]]、アルゼンチン航空など世界中の長距離国際線を運航する[[フラッグ・キャリア]]から50機以上のバックオーダーを抱え、コメットは順風満帆の船出であった。
 
さらに[[大西洋横断飛行]]用に航続距離延長と機体の延長が施されることとなったコメットMk.IIIは、パンアメリカン航空やキャピタル航空などの[[アメリカ]]の航空会社からの発注を受けるなど、[[大量生産|量産]]体制に入ったデ・ハビランドは前途洋々であった。
 
== 連続事故 ==
===運航停止と再開===
{{Main|コメット連続墜落事故}}
 
就航から1年の間に3機の Mk.I/IA [[離陸|]][[着陸]]時の事故で失われたが、[[旅客|乗客]]に死者は出なかった。何れも高速機特有の挙動に不慣れな[[パイロット (航空)|パイロット]][[パイロットエラー|操縦ミス]]によるものと判断されたが、[[マニュアル]]が改訂され運用法が変更された他、既存機にも[[失速]]性能向上のための改良が施された。
 
しかし[[1954年]]1月に、[[ローマ]]の[[チャンピーノ空港]]を離陸後、[[イタリア]]近海を飛行中の英国海外航空のMk.I/IAが墜落し、乗客乗員35人が全員死亡した([[英国海外航空781便墜落事故]])。回収された残骸の状況などより[[空中分解]]が疑われ、本件事故の発生を受けた英国海外航空はコメット全機の運航を停止し、[[東京都|東京]]、[[シンガポール]]、[[ヨハネスブルグ]]に駐機していた3機を、[[郵便]]物以外空席のまま低空飛行でロンドンに呼び戻した。
 
その後[[耐空証明]]を取り消されたが、問題部分と思われた個所を改修後に運航が再開された。しかし運航再開後の同年4月にも、イタリア近海を飛行中の南アフリカ航空のMk.I/IA機が墜落し、乗客乗員21名が全員死亡した([[南アフリカ航空201便墜落事故]])。
 
しかし[[1954年]][[1月]]と[[4月]]に[[イタリア]]近海で2機が連続して墜落し、共乗客乗員が全員死亡した。回収された残骸の状況などより[[渡る空中分解]]が疑われたが、当初原因不明とされたため、を受けてコメットは[[再び耐空証明]]を取り消され全機運航停止処分になった。この時羽田空港に滞在していた英国海外航空機BOAC機も、運航停止の報を受けて乗客を乗せず、低高度飛行をして急遽本国に取って返している。
 
=== 徹底調査 ===
[[Imageファイル:Comet 1 G-ALYP - wreckage recovered png.png|thumb|220px|回収され復元されたG-ALYP機と亀裂発生個所]]
[[File:DH.106 Comet C.2 XK697 216 Sq LHR 21.06.65 edited-3.jpg|thumb|220px|イギリス空軍のコメット C.2]]
時のイギリス首相の[[ウィンストン・チャーチル]]の厳命を受けた[[ロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント]] (RAE)によって、1月に墜落した機体の大規模な[[サルベージ]]と復元作業が行われ、徹底的な調査が実施された。
時のイギリス首相の[[ウィンストン・チャーチル]]から「資金と人員を惜しまず徹底調査せよ」との指示を受けた[[ロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント]] (RAE) によって、イタリア沖に1月に墜落した機体の大規模な[[サルベージ]]と[[復元]]作業が行われ、イギリス国内のみならず、アメリカから[[ダグラス・エアクラフト|ダグラス]]も参加して徹底的な調査が実施された。
 
いくつかの事故原因が取りざされる中、最も有力な説として与圧された胴体が金属高高度を飛行する中で[[疲労 (材料)|金属疲労]]で破壊された可能性が指摘された。そこで実際に英国海外航空で使用されていコメットMk.I1機を試験用に廃用、巨大な[[水槽]]を建造して中に胴体を沈め、[[水圧]]を掛けて地上で人工的に与圧状態を作り出し、これを解除するサイクルを繰り返す、極めて大がかりな再現実験が行われた。アメリカから[[ダグラス・エアクラフト|ダグラス]]も参加した解析の結果、数万フライト分とされていた構造寿命が、実際には一桁低かったことが判明した。
 
人力制御で1954年6月初旬から開始された試験では、致命的な破損が発生まで数ヶ月かかると予想されたところ、実際には3週間足らずで発生した。その後実験データを解析した結果、数万フライト分と計算されていた[[1955年構造]][[2月寿命]]が、実際には一桁低かったことが判明した。[[1955年]]2月には、離着陸サイクルで加減圧と熱収縮の反復に晒されたことで発生した[[金属疲労]]が原因だとする、最終報告が纏められた。窓枠の角、或いは航法装置取付部に亀裂が発生し、これが成長して機体が破裂的な空中分解に至ったのである。このシーケンスが明らかになったことで、その後のジェット旅客機は窓などの開口部の角が落とされ、また万一亀裂が生じてもその成長を食い止める[[フェイルセーフ]]構造が採り入れられた
 
この[[シークエンス]]が明らかになったことで、その後のジェット旅客機は、[[応力]]の集中する窓などの開口部の角を丸くし、また万一亀裂が生じてもその成長を食い止める[[フェイルセーフ]]構造が採り入れられた。
=== 再デビュー ===
[[Image:Comet 4.jpg|thumb|220px|英国海外航空のコメット4]]
連続墜落事故発生当時、製造ライン上にあったエイヴォン搭載のパワーアップ型 Mk.II は、世界各国のエアラインからの発注を総てキャンセルされたが、胴体構造を強化変更し飛行回数を制限した上で、英空軍の輸送機として継続運用され、安全性を実証する傍らデータ収集が続けられた。
 
なお、連続墜落事故発生当時、製造ライン上にあったMk.IIは量産型13機が完成した。日本航空やパンアメリカン航空など世界各国の航空会社から受けていた発注をすべてキャンセルされたが、胴体構造を変更、強化し、飛行回数を制限した上で、イギリス空軍の[[輸送機]]として継続運用され、安全性を実証する傍ら飛行データの収集が続けられた。
続く Mk.III は抜本的な改設計を受け、大西洋横断飛行が可能なストレッチ版の本格仕様に成長し[[1954年]]末に初飛行したものの、同年[[ボーイング367-80|367-80]](後の[[ボーイング707]])を進空させたアメリカの[[ボーイング]]が、自社の新型機が実用化するまでの間、[[FAA]]に政治的圧力を掛け耐空証明再発行を先延ばしし続けさせたとも言われ、設計着手から10年を経たコメットはこの空白期間にリードを失い、陳腐化を余儀なくされてしまった。
 
== 再就航 ==
[[1958年]]に Mk.IV が英国海外航空の手によって漸くロンドン-[[ニューヨーク]]間の定期便に再就航したが、わずか1カ月弱後にデビューしたより高速でより大型のボーイング707や[[ダグラス・エアクラフト|ダグラス]][[DC-8]]ら第2世代機との競合に敗退し、英国海外航空までがボーイング707を発注する上に、事実上の後継機となるイギリス製のヴィッカース[[VC-10]]が就航したことなどによりオーダーが途絶えたために、[[1964年]]末にシリーズ合計112機をもって生産を中止した。
===Mk.IIIの登場===
[[ファイル:DH106 Comet 3 G-ANLO FAR 1954.jpg|thumb|220px|英国海外航空のコメットMk.III]]
[[File:Mexicana de Aviacion Comet 4C - N888WA (8038234793).jpg |thumb|220px|コメットMk.IVのインテリア]]
[[File:G-APDC DH106 Comet 4 G-APFH B707-436 BOAC LHR 02SEP63 (6812607529).jpg|thumb|220px|英国海外航空のボーイング707に囲まれるコメットMk.IV]]
 
続くMk.IIIはこれらのフィードバックを受けて抜本的な改設計を受け、[[大西洋横断飛行]]が可能なストレッチ版の本格仕様に成長し、[[1954年]]末に初飛行し、1機だけ生産された原型機は主にロールス・ロイス社のジェットエンジンの試験機(フライング・テストベッド)として運用された。
その後も長らくの間アルゼンチン航空やダン・エアなどでも運用され、Mk.II, Mk.IV シリーズの事故率は同時代に就航していた競合機より明らかに低く、安全対策が完全に奏功したことを実証してみせたものの、[[1982年]]までに全機退役した。
 
しかし同年[[ボーイング367-80|367-80]](後の[[ボーイング707]])を進空させたアメリカの[[ボーイング]]が、自社の新型旅客機が実用化するまでの間、[[連邦航空局|FAA]]に政治的圧力を掛けてアメリカの耐空証明の再発行を先延ばしさせ続けさせたとも言われ、また英国海外航空も1956年にはボーイング707を発注していた<ref>[https://www.britairliners.org/airliners-article?title=history-of-boac&id=24 BOAC]</ref>。
 
さらにパンアメリカン航空や日本航空、アリタリア航空などの航空会社からはコメットの再発注を得られず、設計着手から10年を経ていたコメットはこの空白期間にリードを失い、陳腐化を余儀なくされてしまった。
 
===Mk.IVの登場===
改良型のMk.IVは、かねてから運航を行っていた英国海外航空に併せて、アルゼンチン航空、{{仮リンク|ダン・エア|en|Dan-Air}}、[[オリンピック航空]]や[[メキシカーナ航空|メヒカーナ航空]]、[[マレーシア航空|マレーシア・シンガポール航空]]など多数の航空会社からの発注を受け、[[1958年]][[10月4日]]に英国海外航空の手によって漸くロンドン(ヒースロー) - [[ニューヨーク]](アイドルワイルド)間の定期便に再就航した。
 
===競争の激化===
しかしMk.IVは、わずか1か月弱後に就航した、より高速でより多くの客と荷物を収納できる大型のボーイング707や、[[ダグラス DC-8]]や[[コンベア880]]ら第2世代機との競合に敗退していった。そこで、乗客数の少ない路線にターゲットを絞ったが、皮肉なことにそちらは血縁関係ともいえる中短距離用の[[シュド・カラベル]]が好調なセールスとなっていた。
 
[[ファイル:Duxford Vickers VC10.jpg|thumb|220px|right|BOAC[[キュナード・ライン|キュナード]]航空のVC10]]
さらに[[1960年]]10月には英国海外航空のボーイング707が納入されたため、就航からわずか2年でドル箱であるヒースロー-アイドルワイルド線から撤退した。以降は[[北アメリカ]]や[[極東]]、[[オーストラリア]]路線からも逐次撤退し、[[中東]]や[[西アジア]]、[[アフリカ]]などの比較的競争が激しくない中距離帝国(MRE、Medium-Range Empire)ルートを中心に飛ぶようになった。
 
1962年には事実上の後継機となるイギリス製の[[ビッカース VC10]]や、中短距離向けの[[ホーカー・シドレー トライデント]]が就航したことなどによりオーダーが途絶え、[[1964年]]にコメット4の生産は79機で終了した。
 
コメットにはジェットエンジンをロールスロイス「コンウェイ」に換装し、座席を増加させたコメット5の開発計画もあったが、発注がなかったため実現せず、コメットシリーズは全シリーズ合計112機をもって生産を終了した。
 
===退役===
[[File:G-AROV DH106 Comet 4C Dan-Air MAN MAY79 (6812605709).jpg|thumb|220px|ダン・エアのコメットMk.IV]]
生産は終了したものの、Mk.IIとMk.IVシリーズの事故率は同時代に就航していた競合機より明らかに低く、連続事故後に施された安全対策が完全に奏功したことを実証してみせ、その後も[[英国欧州航空]]や[[TAP ポルトガル航空]]、[[ミドル・イースト航空]]、[[エジプト航空]]など世界各国の航空会社で運用された。
 
しかし、国際線旅客機の急速な大型化や高速化、さらに中近距離路線のジェット化により、英国海外航空を含む主要な運航航空会社もボーイング707やダグラスDC-8などへの代替を進め、英国航空会社はボーイング707やヴィッカースVC-10が揃った1960年代後半に運航を終了した。
 
さらにほかの航空会社も、より運航効率の良い[[ボーイング727]]やホーカー・シドレー トライデント、[[ボーイング737]]や[[マクドネル・ダグラス DC-9]]などの中型機が相次いで登場したこともあり、[[1982年]]までに全ての航空会社から全機退役している。なお貨物専用機にするには胴体が細く、また燃費も悪くわずか数機が貨物専用機にコンバートされたのみであった。最後まで使用した航空会社はイギリスのダン・エアであった。
 
== 仕様 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center"
{| {{prettytable}}
|- bgcolor="#B8CAF4" style="font-weight:bold"
!
|align="center" colspan="3"|'''コメット Mk. I'''
|align="center"|'''コメット Mk. II'''
|align="center"|'''コメット Mk. III'''
|align="center" colspan="3"|'''コメット Mk. IV'''
|- bgcolor="#FFDEAD"
!タイプ名
70 ⟶ 169行目:
!コメット 4C
|-
|align="center"|!全長
|align="center" colspan="3"|28.61 m
|align="center"|29.53 m
|align="center" colspan="2"|33.98 m
|align="center" colspan="2"|35.97 m
|-
|align="center"|!全幅
|align="center" colspan="6"|34.98 m
|align="center"|32.83 m
|align="center"|34.98 m
|-
|align="center"|!胴体幅
|align="center" colspan="8"|2.97 m
|-
|alalign="center"|!翼面積
|align="center" colspan="4"|188.30 m²
|align="center" colspan="2"|197.04 m²
|align="center"|191.30 m²
|align="center"|197.04 m²
|-
|align="center"|!高さ
|align="center"|8.70 m
|align="center" colspan="7"|8.99 m
|-
|align="center"|!自重
|align="center"|5,670 kg
|align="center" colspan="2"|5,350 kg
|align="center"|6,125 kg
|align="center"|9,160 kg
|align="center"|9,200 kg
|align="center" colspan="2"|10,930 kg
|-
|align="center"|!最大離陸重量
|align="center"|47,620 kg
|align="center"|52,160 kg
|align="center"|53,070 kg
|align="center"|54,430 kg
|align="center"|65,760 kg
|align="center"|73,480 kg
|align="center"|71,610 kg
|align="center"|73,480 kg
|-
|align="center"|!乗客
|36
|align="center"|36
|align="center" colspan="3"|44
|58
|align="center"|58
|56
|align="center"|56
|71
|align="center"|71
|79
|align="center"|79
|-
|align="center"|!乗員
|align="center" colspan="8"|4
|-
|align="center"|!巡航速度
|align="center" colspan="3"|725 km/h
|align="center"|770 km/h
|align="center" colspan="2"|805 km/h
|align="center"|850 km/h
|align="center"|805 km/h
|-
|align="center"|!最大限界上昇高度
|align="center" colspan="4"|12,800 m
|align="center" colspan="2"|12,200 m
|align="center"|11,500 m
|align="center"|11,900 m
|-
|align="center"|!航続距離
|align="center"|2,415 km
|align="center" colspan="2"|2,850 km
|align="center"|4,065 km
|align="center"|4,345 km
|align="center"|5,190 km
|align="center"|4,025 km
|align="center"|6,900 km
|-
|align="center"|!エンジン、推力
|align="center"|[[デハビランド ゴースト]] 50 Mk1 22.2&nbsp;kN Schub
|align="center"|デハビランド ゴースト 50 Mk2 22.8&nbsp;kN Schub
|align="center"|デハビランド ゴースト 50 Mk4 23&nbsp;kN Schub
|align="center"|[[ロールス・ロイス plc・ホールディングス|ロールス・ロイス]] [[ロールス・ロイス エイヴォン|エイヴォン]] 503 32.5&nbsp;kN Schub
|align="center"|ロールス・ロイス エイヴォン 523 44.5&nbsp;kN Schub
|align="center"|ロールス・ロイス エイヴォン 524 46.7&nbsp;kN Schub
|align="center" colspan=2|ロールス・ロイス エイヴォン 525B 46.7&nbsp;kN Schub
|-
|align="center"|!初飛行日
|align="center"|[[1949年]]
|align="center"|[[1952年]]
|align="center"|[[1957年]]
|align="center"|[[1953年]]
|align="center"|[[1954年]]
|align="center"|[[1958年]]
|align="center"|[[1959年]]
|align="center"|[[1959年]]
|-
|align="center"|!製造数
|11
|align="center"|11
|10
|align="center"|10
|4
|align="center"|4
|22
|align="center"|22
|1
|align="center"|1
|28
|align="center"|28
|18
|align="center"|18
|28
|align="center"|28
|}
 
=== ニムロッド ===
{{Main|BAE ニムロッド}}
コメットを原型として、燃費改善のため[[ロールス・ロイス スペイ]][[ターボファン]]エンジンに換装した[[対潜哨戒機]][[BAE ニムロッド|ニムロッド]]が[[1967年]]から64機製作され、2011年の退役まで[[イギリス空軍|英空軍]]で現用中であるされた
 
[[ロッキード L-188|ロッキード L-188 エレクトラ]]同様、劣速と低燃費が哨戒機としての適性を満たし、かつ適当なサイズ、出自が旅客機のため搭載電子機器にとっても良好な居住性、長時間滞空性能、ジェット燃料使用による資材共通化などが評価された。
 
主翼付根にエンジンを集中配置しているため、1発停止時の[[トリム]]変化も最少で済み、哨戒時には燃料節約のため単発飛行も可能である。
 
=== シュド カラベル ===
[[Imageファイル:SR Caravelle.jpg|thumb|220px|シュド・アビアシオン カラベル]]
{{Main|シュド・カラベル}}
[[エールフランス航空]]がコメット Mk.I を発注した際、距離向け双発ジェット旅客機の開発中だったシュド・エスト (SNACASE) 社との間で、開発期間の短縮を目的に、胴体設計、操縦系を含む運航システムの殆どを技術供与する旨の契約が交わされ、コメットの機首をそのまま流用した同機は[[1955年]]に初飛行した。
 
カラベルはこの[[リアエン]]方式で初めて成功したジェット旅客機なり、最終的にコメットを上回る279機が生産され[[2000年代]]まで運航された。
<!--
この英仏国際共同開発は、後の超音速機構想でも再び行われ、[[コンコルド]]に結実する。従ってコンコルドの操縦席周りの印象がコメット、カラベルと似ているのは、同じ血が流れているからであって偶然の一致ではない。
流用は共同開発とは言えず、情緒的な憶測でしかない。
-->
 
== 主なカスタマー(軍用機を含む) ==
=== 民間 ===
* 英国海外航空(BOAC)
[[File:Mexicana de Havilland Comet 4 APM.jpg|thumb|220px|メヒカーナ航空のコメット4]]
* 英国欧州航空(BEA)
[[ファイル:MSA Comet Groves.jpg|thumb|220px|マレーシア・シンガポール航空のコメットMk.IV]]
* [[英国海外航空]] (BOAC)
** 現在は[[ブリティッシュ・エアウェイズ]]
* [[英国欧州航空]] (BEA)
** 現在は[[ブリティッシュ・エアウェイズ]]
* BEA エアツアーズ
[[Image:Gatwick1976-mrh.jpg|thumb|220px|ダン・エアーのコメット4]]
* ダン・エアー
* チャネル・エアー
* [[エールフランス航空]]
* [[オリンピック航空]]
* [[ミドルイースト航空(MEA]] (MEA)
* ユナイテッド・アラブ航空
* [[エジプト航空]]
* イースト・アフリカン航空
* [[スーダン航空]]
* [[メヒカーナ航空]]
* [[アルゼンチン航空]]
* AREAエクアドル航空
 
=== 軍 ===
* [[イギリス空軍]]
* カナダ空軍
 
== 登場作品 ==
=== 映画・テレビドラマ ===
; 『[[超音ジェット機]]』
: 1952年のイギリス映画。
; 『[[高い城の男 (テレビドラマ)|高い城の男]]』
: シーズン2第3話に登場。ジョーが降り立ったベルリンの空港にて、1機がタキシングしている。
 
== 関連作品 ==
* ドキュメンタリー『[[衝撃の瞬間]]4』シリーズ(『衝撃の瞬間』シリーズ シーズン4) 第8回『コメット墜落の謎』([[ナショナルジオグラフィック (テレビチャンネル)|ナショナル・ジオグラフィック]])
* ドキュメンタリー『[[イギリス 発明の歴史]]』シリーズ 『1950年代 新しい時代へ』(ナショナル・ジオグラフィック)
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 文献 ==
* {{cite book|和書| author=坂出健 |title=イギリス航空機産業と「帝国の終焉」<small>軍事産業基盤と英米生産提携</small> | publisher=[[有斐閣]]| date=2010年|pages=|url=|isbn=4641163618}}
* {{cite journal|和書| author=坂出健 |title=アメリカ航空機産業のジェット化における機体・エンジン部門間関係 | publisher=|journal=富大経済論集 |volume=43|issue=3|| date=1998年3月|pages=|url=|isbn=}}
 
== 関連項目 ==
* [[南回りヨロッパ線ンズ]]
* [[マッハの恐怖]]
* [[ハンドレページ マラソン]] - ブラバゾン委員会での4種類の旅客機のうちの1つ
* [[ビッカース バイカウント]] - ブラバゾン委員会での4種類の旅客機のうちの1つ
* [[ブリストル・ブリタニア]] - ブラバゾン委員会での4種類の旅客機のうちの1つ
* [[Tu-104 (航空機)|Tu-104]] - コメットが運行停止中に唯一運用されていた、ソ連の[[ツポレフ|ツポレフ設計局]]製のジェット旅客機
 
== 外部リンク ==
* [http://www.dehavillandmuseum.co.uk/ de Havilland Aircraft Heritage Centre]
* [{{Wayback|url=http://www.geocities.com/CapeCanaveral/Lab/8803/comet.htm |title=Marc Schaeffer's De Haviiand Comet website] |date=19990117002626}}
* [http://www.dlyoung.freeserve.co.uk/DH106/COMET.htm de Havilland Comet DH106 by David Young]
* [http://user.itl.net/~colonial/comet/intro.html Comet 4C XS 235 "Canopus" restoring project]
* [httphttps://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU#/syugiin/048/0016/04803050016009c.htmldetail?minId=104803830X00919650305 第48回国会  運輸委員会議事録  第9号(昭和40年3月5日)]
* [https://web.archive.org/web/20070917122635/http://www.dehavillandaviation.com/ De Havilland Aviation]
* {{Cite web|和書|title=世界初のジェット旅客機「コメット」の悲しき顛末 相次いだ悲劇の原因は革新的すぎたから?|url=https://trafficnews.jp/post/107321|website=乗りものニュース|accessdate=2021-10-23|author=種山雅夫|date=2021-05-23}}
* {{Kotobank|コメット}}
* {{Kotobank|デハビランド・コメット}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てはひらんとDH106こめつと}}
[[Category:イギリスの旅客機]]
[[Category:イギリスデ・ハビランドの航空機|こめつと2]]
[[Category:4発ジェット機]]
 
[[de:De Havilland DH 106]]
[[en:De Havilland Comet]]
[[es:De Havilland Comet]]
[[et:De Havilland Comet]]
[[fi:De Havilland D.H.106 Comet]]
[[fr:De Havilland Comet]]
[[he:דה הבילנד קומט]]
[[id:De Havilland Comet]]
[[it:De Havilland DH.106 Comet]]
[[ko:드 하빌랜드 DH 106 코멧]]
[[lt:De Havilland Comet]]
[[nl:De Havilland DH.106 Comet]]
[[no:De Havilland Comet]]
[[pl:De Havilland Comet]]
[[pt:De Havilland Comet]]
[[ru:De Havilland Comet]]
[[sv:De Havilland DH 106 Comet]]
[[tr:De Havilland Comet]]
[[zh:哈維蘭彗星型]]