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{{Pathnav|ヤクルト本社|frame=1}}
{{告知|提案|スワローズ戦の放送権事情の節について}}
{{野球チーム
| ページ名 = 東京ヤクルトスワローズ
| チーム名 = 東京ヤクルトスワローズ
| 英語表記 = Tokyo Yakult Swallows
|会社名 = 株式会社ヤクルト球団
| 会社名 = 株式会社ヤクルト球団
|加盟団体 = [[セントラル・リーグ]]
| 加盟団体 = [[セントラル・リーグ]]
|創設年度 = [[1950年]]
| 創設年度 = {{start date and age|1950|1|12}}
|チーム名の遍歴 = <nowiki></nowiki>
| ロゴデザイン = [[File:Tokyo Yakult Swallows insignia.svg|150px|]]
*国鉄スワローズ([[1950年]] - [[1965年]]途中)
| チーム名の遍歴 =
*サンケイスワローズ(1965年途中)
*サンケイアトム 国鉄スワロー([[1966(1950]] - [[19681965]]5月9日
* サンケイスワローズ(1965年5月10日 - 同年末)
*アトムズ([[1969年]])
*ヤクルト サンケイアトムズ([[1970(1966]] - [[19731968]]
*ヤクルスワロー([[1974年]] - [[2005(1969]]
*東京 ヤクルトスワローアトム([[2006(1970]] - 現在1973年
* ヤクルトスワローズ(1974年 - 2005年)
|フランチャイズの遍歴 = [[東京都]]([[1952年]] - 現在)
* 東京ヤクルトスワローズ(2006年 - 現在)
|縁故地 =
| フランチャイズの遍歴 =
|本拠地 = [[明治神宮野球場]](東京都[[新宿区]])[[画像:Remodeled meiji jingu stadium.jpg|300px|center]]
* 東京都(1952年 - 現在)
|キャパ = 36,011人(明治神宮野球場)
| 本拠地 = [[明治神宮野球場]]([[東京都]][[新宿区]])[[File:Meiji Jingu Stadium 20190601.jpg|center|270px]]
|永久欠番 = なし
| キャパ = 30,969人(明治神宮野球場)
|オーナー = [[堀澄也]](代行:[[鈴木正]])
| 永久欠番 = なし
|球団社長 = [[多菊善和]]→鈴木正
| オーナー = 成田裕(オーナー代行:林田哲哉)
|スポンサー = [[ヤクルト本社]]
| スポンサー = [[ヤクルト本社]]
|監督 = [[高田繁]]
| 球団社長 = 林田哲哉
|リーグ優勝回数=6
| GM = [[小川淳司]]
|日本一回数=5
| 監督 = [[池山隆寛|池山隆寛]]
|リーグ優勝=[[1978年の野球|1978]]・[[1992年の野球|1992]]・[[1993年の野球|1993]]・[[1995年の野球|1995]]・[[1997年の野球|1997]]<br />[[2001年の野球|2001]]
| 選手会長 = [[古賀優大 |古賀優大]]
|日本一=[[1978年の日本シリーズ|1978]]・[[1993年の日本シリーズ|1993]]・[[1995年の日本シリーズ|1995]]・[[1997年の日本シリーズ|1997]]・[[2001年の日本シリーズ|2001]]
| キャプテン = [[山田哲人]]
|シリーズ出場回数=6
| マスコット=[[つば九郎]]、[[つばみ]]、[[トルクーヤ]]
|シリーズ出場='''[[1978年の日本シリーズ|1978]]'''・[[1992年の日本シリーズ|1992]]・'''[[1993年の日本シリーズ|1993]]'''・'''[[1995年の日本シリーズ|1995]]'''・'''[[1997年の日本シリーズ|1997]]'''<br />'''[[2001年の日本シリーズ|2001]]'''
| リーグ優勝回数 = 9
| リーグ優勝 =
* [[1978年の野球|1978]]
* [[1992年の野球|1992]]
* [[1993年の野球|1993]]
* [[1995年の野球|1995]]
* [[1997年の野球|1997]]
* [[2001年の野球|2001]]
* [[2015年の野球|2015]]
* [[2021年の野球|2021]]
* [[2022年の野球|2022]]
| 日本一回数 = 6
| 日本一 =
* [[1978年の日本シリーズ|1978]]
* [[1993年の日本シリーズ|1993]]
* [[1995年の日本シリーズ|1995]]
* [[1997年の日本シリーズ|1997]]
* [[2001年の日本シリーズ|2001]]
* [[2021年の日本シリーズ|2021]]
| 交流戦優勝回数= 2
| 交流戦優勝 =
* [[2018年の日本プロ野球|2018]]
* [[2022年の日本プロ野球|2022]]
| シリーズ出場回数 = 9
| シリーズ出場 = 6勝3敗
* '''[[1978年の日本シリーズ|1978]]'''
* [[1992年の日本シリーズ|1992]]
* '''[[1993年の日本シリーズ|1993]]'''
* '''[[1995年の日本シリーズ|1995]]'''
* '''[[1997年の日本シリーズ|1997]]'''
* '''[[2001年の日本シリーズ|2001]]'''
* [[2015年の日本シリーズ|2015]]
* '''[[2021年の日本シリーズ|2021]]'''
* [[2022年の日本シリーズ|2022]]
|クライマックスシリーズ回数 = 7
|クライマックスシリーズ = 3勝4敗
* ''[[2009年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2009]]''
* [[2011年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2011]]
* ''[[2012年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2012]]''
* '''[[2015年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2015]]'''
* ''[[2018年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2018]]''
* '''[[2021年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2021]]'''
* '''[[2022年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2022]]'''
}}
{{基礎情報 会社
'''東京ヤクルトスワローズ'''(とうきょうヤクルトスワローズ、''Tokyo Yakult Swallows'')は、[[日本]]の[[日本プロ野球|プロ野球]]球団で[[セントラル・リーグ]]の球団のひとつ。
| 社名 = 株式会社ヤクルト球団
| 英文社名 = Tokyo Yakult Swallows
| ロゴ =
| 画像 =
| 画像説明 =
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 市場情報 =
| 略称 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 107-0061
| 本社所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[北青山]]二丁目12番28号<br />青山ビル4階
| 本店郵便番号 =
| 本店所在地 =
| 設立 = 1950年1月12日<br />(株式会社国鉄球団として)
| 業種 = サービス業
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 = プロ野球興行
| 代表者 = [[林田哲哉]]([[代表取締役]][[社長]]兼オーナー代行)
| 資本金 = 4億9500万円
| 発行済株式総数 =
|売上高 =
|営業利益 =
|経常利益 =
|純利益 =
* 5億123万4,000円
(2024年12月期)<ref name="fy2024">[https://catr.jp/companies/8e108/1691/settlements/7d114/396848 株式会社ヤクルト球団 第76期決算公告]</ref>
|純資産 =
|総資産 =
* 52億7,028万4,000円
(2024年12月期)<ref name="fy2024" />
| 従業員数 =
| 支店舗数 =
| 決算期 = 12月末
| 主要株主 = 株式会社[[ヤクルト本社]] 80%<br />株式会社[[フジ・メディア・ホールディングス]] 20%
| 主要子会社 =
| 関係する人物 = [[松園直已]]、[[松園尚巳]]、[[相馬和夫]]
| 外部リンク =https://www.yakult-swallows.co.jp
| 特記事項 = 旧商号・株式会社国鉄球団→株式会社サンケイアトムズ→株式会社アトムズ→株式会社ヤクルトアトムズ<!--球団名がヤクルトアトムズの時から会社名が株式会社ヤクルト球団となったのは間違いである。--><br />[[1973年]][[10月26日]]に現商号へ改称。
}}
{{Infobox YouTube personality
| name = 東京ヤクルトスワローズ
| channel_url = UCt7cNctKXoKece38M9gJV7A
| channel_display_name = 東京ヤクルトスワローズ
| years_active = 2006年3月16日 -
| genre = [[野球]]
| subscribers = 26.4万人
| views = 1億3254万回
| stats_update = {{Dts|2025-5-31}}<!-- 更新は1ヶ月に1度程度([[PJ:YOUTUBE#チャンネル登録者数・総再生回数の更新に関するガイドライン]]) -->
| silver_button = yes
| silver_year = 2022
| gold_button =
| gold_year =
}}
'''東京ヤクルトスワローズ'''(とうきょうヤクルトスワローズ、{{Lang-en|Tokyo Yakult Swallows}})は、[[日本]]の[[プロ野球チーム一覧#日本|プロ野球球団]]。[[セントラル・リーグ]]に所属する。 主要株主は「株式会社ヤクルト本社」が80%、「株式会社フジ・メディア・ホールディングス」が20%。
 
[[東京都]]を[[プロ野球地域保護権|保護地域]]とし、東京都[[新宿区]]にある[[明治神宮野球場]]を[[専用球場]](本拠地)としている。また[[東京ヤクルトスワローズ (ファーム)|二軍]]([[イースタン・リーグ]]所属)の本拠地は[[埼玉県]][[戸田市]]にある[[ヤクルト戸田球場]]を使用している。
 
1950年のリーグ分裂時に[[日本国有鉄道]](国鉄)にちなんで'''国鉄スワローズ'''として発足され、その後親会社が[[産業経済新聞社|産経新聞社]]→[[ヤクルト本社|ヤクルト]]と変遷した。一時期はアトムズの呼称を使用していたが、のちに発足当初のスワローズに戻っている。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。
[[東京都]]を[[プロ野球地域保護権|保護地域]]とし、都内[[新宿区]]にある[[明治神宮野球場]]を[[専用球場]](本拠地)としている。また、[[東京ヤクルトスワローズ (ファーム)|二軍]]([[イースタン・リーグ]]所属)の本拠地は[[埼玉県]][[戸田市]]にある[[ヤクルト戸田球場]]である。
 
== 球団の歴史 ==
=== 国鉄・サンケイ時代球団創立 ===
* [[{{by|1949年]]シーズン}}(昭和24年)オフに[[プロ野球再編問題 (1949年)|リーグ拡張方針に伴うプロ球団乱立]]あおりを受け、各地の[[日本国有鉄道|国鉄]][[鉄道管理]](当時)の野球部から[[プロ野球選手|選手]]が引き抜かれる事態が発生した。国鉄は同年の大幅な合理化で労使関係秋、当時の国鉄総裁[[加賀山之雄]]悪化「国鉄の新事態に即応して、身近なプロ球団を結成すということもあり国鉄職員どんなも団結だろうか」意志いう目的行った。新事態とは国鉄がこの年プロ球団設立を公共企業体としてしたことを指す当時また、未曽有の[[加賀整理解雇|人員整理]]や[[下山事件|下之雄]]総裁・[[三鷹事件|三鷹]]・[[松川事件|松川]]といった事件([[国鉄三大ミステリー事件]])も相次いで起こっていた。この暗い雰囲気を払拭して職員の士気を昂め、明るい職場づくりのためにスポーツ、特に人気の高い野球に取り組もうとしたものである<ref>{{Cite journal |和書 |title=交通協力会50年史 |publisher=財団法人交通協力会 |date=1993-04-01 |page=140 }}</ref>。加賀山が大の野球好きだったことも参入実現の一要因となった。
* 日本国有鉄道法に抵触するため国鉄が直接親会社になることは出来ず、国鉄の外郭団体である[[財団法人]]交通協力会が主体となり、財団法人[[鉄道弘済会]]、[[日本通運]]、[[ジェイティービー|日本交通公社(現JTB)]]などの企業により「国鉄野球株式会社」を設立。球団名を'''国鉄スワローズ'''とした。国鉄参入直前のセ・パはともに7球団であり、切りの良い8球団にしたいという思い、それも大企業である国鉄のプロ参入にセ・リーグ関係者は色めき立っていたが、パ・リーグとの勧誘合戦により参入が立ち消えになってしまうことを恐れ、セ・国鉄内部ともに極秘扱いで計画は進められた。参入の下準備も佳境に差し掛かる頃には巷間でも国鉄参入の噂が立っていたが、国鉄がプロ球団など作るはずがないとパ・リーグは高を括っており、参入は至って順調に成功した。
* 参入が他新球団より遅れていたため選手確保がままならず、自前の鉄道局野球部を中心に他の社会人や大学などのアマチュア野球に残っている人材をかき集めたが、プロ経験者は戦前の一時期[[オリックス・バファローズ|阪急]]に在籍した[[中村栄]]ただ1人という状態で、アマチュア野球では強豪の鉄道局野球部もプロでは通用せず、打てばゲッツー守ればエラーという散々な状態。エース・[[金田正一]]の投球がチーム成績を左右した。金田の活躍で最下位こそ少なかったが常に4位、5位。順位こそを振るわなかったものの、こと巨人戦では互角かそれ以上の試合を見せ、[[後楽園球場|後楽園]]の国鉄・[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦は関東で最も人気のある対戦だった。
* [[1961年]]に初めて3位になりAクラス入り。翌年の[[1962年]]、年々増大する経営費のために経営主体は交通協力会から鉄道弘済会へと変わっていたが、公共企業・国鉄の球団であるという体面もあり相当の緊縮財政だった。新人選手の契約金は高騰する一方で満足な補強もできず(当てになる戦力は金田だけだった)、更に前年に起こった[[三河島事故]]による批判は球団にも飛び火していた。同年[[8月]]、球団譲渡を前提とした業務提携を[[産業経済新聞社|産経新聞社]]、フジテレビジョン(現・[[フジ・メディア・ホールディングス]])と結び、[[フジサンケイグループ]]との関係が生じる。この時点で経営主体はフジサンケイグループに移る。
* [[1964年]]、主催試合を系列のフジテレビジョンで中継するために、本拠地を後楽園球場から[[明治神宮野球場|神宮球場]]へ移転する。同年オフ、当時の[[林義一]]監督の更迭・留任を巡り産経新聞と国鉄は激しく対立。エース・金田が「林監督がそのまま続投した場合移籍するが、解任された場合は残留する」との声明を出したことから国鉄は頑として林の更迭を主張、一方の産経サイドは他社マスコミ([[読売新聞]](巨人軍の親会社)、[[朝日新聞]]、[[毎日新聞]])により「林監督更迭」のスクープを先取りされていたことがあり、両者とも平行線を辿り最終的には経営主体の産経サイドが意見を押し切った。林は留任し、金田は[[フリーエージェント (プロスポーツ)#10年選手制度|10年選手]]の特権を行使して巨人に移籍した。金田を失ったことにより国鉄は経営意欲を完全に喪失し、フジサンケイグループへ経営権を全て譲渡して経営から撤退することとした。もとより国鉄球団は業務提携後フジサンケイグループの資金力に丸々依存しており、移譲は時間の問題と見られていたが、喧嘩別れで球団譲渡という結末となった。
* [[1965年]][[5月10日]]、産経新聞とフジテレビジョンへ正式に球団を譲渡し球団名を'''サンケイスワローズ'''に改称。
* [[1966年]]、少年野球ファン開拓のため[[鉄腕アトム]]をペットマークに使用しチーム名を'''サンケイアトムズ'''に改称。同年[[ヤクルト本社]]が株式を取得し球団運営に参加。
* [[1969年]]、産経新聞は本体の業績不振のため株式の一部をヤクルト本社へ売却。球団経営に積極的だった産経新聞・フジテレビジョン社長の[[水野成夫]]が病に倒れ、後を継いだ[[鹿内信隆]]がフジサンケイグループの事業見直しを行った結果、不採算だったプロ野球からの撤退を決めたもの。当時、ヤクルト本社は水野とは旧知の間柄だった[[南喜一]]が代表者を務めていた。表面上は共同経営とし球団名を'''アトムズ'''と改称運営会社名を'''株式会社アトムズ球団'''としたが、実質経営権はヤクルト本社が握った。
* [[1970年]][[1月7日]]、ヤクルト本社が公式に単独で経営権を持ち'''ヤクルトアトムズ'''に改称。
 
交通協力会理事長の[[今泉秀夫]](後に球団の専務取締役に就任)の草案による国鉄プロ野球団の「設置の効用」は(1)国民大衆と国鉄の結びつきを緊密、かつ和やかなものにする(2)野球を通じて国鉄職員の一本化を増進し相互の密着感を強化する(3)健全な精神、身体を持つ職員を養成する(4)国鉄部内の[[社会人野球|ノンプロ野球]]の発展を刺激する。<ref>{{Cite journal |和書 |title=交通協力会50年史 |publisher=財団法人交通協力会 |date=1993-04-01 |page=141 }}</ref>であった。
=== ヤクルト時代 ===
* 1970年、92敗と歴史的大敗を喫し、ダントツの最下位。8月には[[1936年]]の[[松竹ロビンス|大東京軍]]と並ぶ16連敗を喫した。この連敗記録は2リーグ分裂後、当時のワースト記録となり、現在もセ・リーグのワースト記録である([[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]では[[千葉ロッテマリーンズ]]が[[1998年]]に18連敗を喫した)。尚、セ・リーグでは[[2003年]]の[[横浜ベイスターズ]]が94敗を喫すまではシーズン90敗達成球団が出てこなかった。
* [[1971年]]に[[三原脩]]を監督に招聘するが3年連続Bクラス。
* [[1973年]][[11月26日]]、[[虫プロダクション]]の[[倒産]]に伴い[[鉄腕アトム]]のキャラクター使用を中止。チーム名を'''ヤクルトスワローズ'''に変更。
* [[1976年]][[5月13日]]より[[荒川博]]前監督に代わり[[広岡達朗]]が監督に就任。なお、国鉄時代の[[1962年]]からこの年まで15年連続シーズン負け越しでこれはセ・リーグワースト記録である。日本記録は[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]時代の[[1978年]]から[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]時代の[[1993年]]にかけて記録した16年連続。
* [[1978年]]、[[打者]]では[[若松勉]]、[[大杉勝男]]、[[チャーリー・マニエル]]、[[投手]]では[[松岡弘]]、[[安田猛]]、[[鈴木康二朗]]らが活躍し球団創設初優勝・[[1978年の日本シリーズ|日本一]]を達成した。しかし[[1979年]]は[[チャーリー・マニエル]]の放出を軸としたオフの補強に失敗し、[[森祇晶|森昌彦]]ヘッドコーチを解任したが、これに激怒した広岡監督途中休養(指揮権放棄)もあって、一転して最下位。
* [[1980年]]、[[武上四郎]]監督が就任。就任初年にチームは2位へ浮上するも、以後は低迷した。
* [[1984年]]、武上監督がシーズン途中で休養し、[[中西太]]代理監督が就任するが、中西監督も休養し、投手コーチだった[[土橋正幸]]監督が就任し、5位浮上。[[1985年]]・[[1986年]]と2年連続最下位に甘んじるが、[[広澤克実|広沢克己]]・[[荒木大輔]]が台頭。同時に日本一時のバッテリーだった松岡・大矢が[[1985年]]のシーズンを最後に引退した。
* [[1986年]]オフ、[[関根潤三]]監督を招聘。チームは低迷したが[[池山隆寛]]・[[栗山英樹]]ら若手が成長。
* [[1989年]]オフ、[[野村克也]]監督が就任。野村就任と同時に正捕手となった[[古田敦也]]の活躍もあって[[1992年]]・[[1993年]]とリーグ2連覇、1993年は日本一。[[1995年]]、[[1997年]]にも日本一に輝くなど、強豪チームへと成長した。[[1998年]]開幕直前に[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]との交換トレードで[[野口寿浩]]を放出し後の選手会長[[城石憲之]]を獲得。同年高卒新人[[五十嵐亮太]]を擁し球団史上初の[[ファーム日本選手権]]制覇を達成した。しかし一軍は4位に低迷し野村監督は同年限りで勇退し若松が監督就任。
*[[2001年]]に日本一となった。その後も2002年 - 2004年も3位以上を保ち、4年連続でAクラスになった。4年連続でAクラスを確保したのは、球団史上初の出来事である。ただし[[2003年]]は前年順位でヤクルトを上回る巨人と同率3位だったため開幕権を得られず、[[2005年]]の開幕はビジターで行われた。
 
しかし、[[運輸業]]とその関連事業以外の副業を禁じた[[日本国有鉄道|日本国有鉄道法]]に抵触するため国鉄が直接親会社になることはできず、国鉄の[[外郭団体]]である財団法人[[交通協力会]](現:公益財団法人交通協力会・株式会社[[交通新聞社]])が主体となり、{{by|1950年}}(昭和25年)1月12日に財団法人[[鉄道弘済会]]、[[日本通運]]、日本交通公社(現:[[日本交通公社 (公益財団法人)|公益財団法人日本交通公社]]・株式会社[[JTB]])などの企業により'''株式会社国鉄球団'''<ref>{{Cite book |和書 |author=徳永喜男 |title=ヤクルトスワローズ球団史 |year=1993 |publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |pages={{要ページ番号 |date=2015年10月}} |isbn=4583030339 |ref=harv }}</ref>(資料によっては'''国鉄野球株式会社'''となっている物もあり)<ref>{{Cite book |和書 |author=綱島理友|authorlink=綱島理友|title=プロ野球ユニフォーム物語 |year=2005 |publisher=ベースボール・マガジン社 |pages={{要ページ番号 |date=2015年10月}} |isbn=4583038070 }}</ref> を設立。なお、交通協力会が発行する鉄道業界紙である「[[交通新聞]]」では、1950年(昭和25年)1月12日に交通協力会理事長の今泉秀夫がセントラル・リーグに加入申込みを行った<ref>「国鉄でプロ野球団結成 セントラルに参加」『交通新聞』1950年1月14日.1面</ref>ものとされ、同じく交通協力会が発行する「交通年鑑」の「昭和25年交通年譜」では「5月18日 株式会社国鉄球団成立す<ref>{{Cite journal |和書 |title=交通年鑑1951 |publisher=財団法人交通協力会 |date=1951-03-10 |page=35 }}</ref>」とされている。チーム名を'''国鉄スワローズ'''(こくてつスワローズ、Kokutetsu Swallows)とし([[#球団名]]も参照のこと)、[[セントラル・リーグ]]に加盟。初代監督には[[西垣徳雄]]が就任。
=== 東京ヤクルト時代 ===
* [[2006年]]シーズンからは、[[古田敦也]]が[[選手兼任監督]]として指揮を執ることになった。2005年[[12月19日]]のプロ野球実行委員会において、古田の悲願だった「'''東京ヤクルトスワローズ'''」へのチーム名変更が全会一致で承認され、ユニフォームに国鉄以来となる「Tokyo」の文字が復活した。
* 2006年も前年同様、[[リック・ガトームソン]]の[[ノーヒットノーラン]]等の活躍で交流戦2位になるなど、交流戦で順位を上げたが、交流戦終了後ほぼ5割ラインに停滞し続ける。結果3位となり2年ぶりにAクラスは確保したが、優勝争いにからむことはほとんどなかった。
* 2007年は怪我に泣かされ続けた1年となった。五十嵐、[[石井弘寿]]のいわゆるロケットボーイズが2006年オフに行った手術の影響で1年を棒に振ったのを皮切りに[[ディッキー・ゴンザレス]]、[[アダム・リグス]]、[[高津臣吾]]など主力級が次々と離脱、まったく戦力が整わなかった。シーズン143試合目で[[1986年]]以来、21年ぶりの最下位が確定。
* [[8月]]から東京の[[UHF]]、[[東京メトロポリタンテレビジョン|東京メトロポリタンTV(TOKYO MX)]]で今年度初のテレビ中継が開始。以前から年間数試合は中継があったが、近年は1試合も中継が無い年もあった。
* [[2007年]][[9月]]、古田監督の現役引退及びヤクルト球団からの退団も併せて発表された。なお[[伊東昭光]]ヘッドコーチも辞意を表明しているため、最年長のコーチである[[八重樫幸雄]]打撃コーチがヘッドコーチ代理を兼任していた。10月25日に日本ハムのゼネラルマネージャーを退任した[[高田繁]]が次期監督に就任し、翌26日には西武ライオンズの投手コーチを退任した荒木が次期一軍投手コーチとしてチームに復帰することが決定した。年明けの[[2008年]]1月には[[藤井秀悟]]などを交換要員する3対3のトレードを日本ハムと行った。
* [[2008年]]は開幕3連戦で巨人に3連勝するなど4月終了時は3位に立ったが、石川、館山に続く先発がシーズン途中でローテーションを大幅に変更するなど不在、また[[福地寿樹]]や青木、[[飯原誉士]]をはじめとする俊足の選手が中心となったが、[[アーロン・ガイエル]]の離脱などで長打力に欠けた。夏場には[[北京オリンピック]]で青木と宮本が抜け戦力が安定せず、シーズン終盤に8連敗(そのうち2試合がサヨナラ)を喫し、CS争いを繰り広げる中日、広島に引き離された。
* [[2009年]][[1月]]、[[横浜ベイスターズ]]から[[フリーエージェント (プロスポーツ)|FA]]権を行使していた[[相川亮二]]を獲得。FA権が導入されてから初めてのFA補強を行った。
 
国鉄参入直前のセ・パはともに7球団であり、切りの良い8球団にしたいという思い、それも[[大企業]]である国鉄のプロ参入にセ・リーグ関係者は色めき立っていたが、パ・リーグとの勧誘合戦により参入が立ち消えになってしまうことを恐れ、セ・国鉄内部ともに極秘扱いで計画は進められた。参入の下準備も佳境に差し掛かる頃には巷間でも国鉄参入の噂が立っていたが、国鉄がプロ球団など作るはずがないとパ・リーグは高を括っており、参入は至って順調に成功した。本拠地は元[[逓信省]]総裁[[松前重義]]の尽力で、[[武蔵境]]の旧[[中島飛行機]]工場跡地に新しい野球場「[[武蔵野グリーンパーク野球場]]」が建設された(諸事情により1956年〈昭和31年〉閉鎖。7試合しか行われなかった)。
=== 主な株主 ===
 
''[[2008年]][[10月1日]]現在''
しかし、参入が他新球団より遅れていたため、選手確保がままならず、自前の鉄道局野球部を中心に他の[[社会人野球|社会人]]や[[日本の大学野球|大学]]などのノンプロ・[[アマチュア野球]]に残っている[[人材]]をかき集めたが、プロ経験者は[[第二次世界大戦前]]の一時期[[オリックス・バファローズ|阪急]]に在籍した[[中村栄]]ただ1人という状態だった。アマチュア野球では強豪の鉄道局野球部もプロでは全く通用しなかったため、[[松竹ロビンス]]の二軍監督・[[森谷良平]]と、かつて[[奉天満鉄倶楽部]]に在籍していた[[宇佐美一夫]]を追加補強して[[クリーンアップ]]に据えたものの、その後も貧打に悩まされた。
# 株式会社[[ヤクルト本社]] (80%)
 
# 株式会社[[フジ・メディア・ホールディングス]] (20%)
=== 後楽園球場時代 ===
==== 国鉄スワローズ時代 ====
; [[1950年の国鉄スワローズ|1950年]]<ref name="swhis50">この年の記述の出典は特記ない場合、ヤクルト球団公式サイトの [http://www.yakult-swallows.co.jp/pages/company/history/1950 球団のあゆみ 1950年代] とする</ref>
3月10日の球団初公式戦の対[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]戦(下関)に2対1で敗れ、続く11日の対[[広島東洋カープ|広島カープ]]戦<!-- 球団HPのヒストリーでは松山、アーカイブでは平和台となってる為、球場名表記は保留 -->に3対2で球団初勝利を挙げる。しかし翌12日から5連敗。その間の16日の[[阪神タイガース|大阪タイガース]]戦(倉敷)では相手先発の[[田宮謙次郎]]に9回2死までパーフェクトに抑えられ、27人目の打者・[[中村栄]]の三塁内野安打で辛うじて日本初の[[完全試合]]を阻止した。その後も3月21日から14連敗、4月26日からも10連敗で最下位に沈む。あまりの弱さにセ・リーグは5月末から6月上旬まで試合日程を組まず、ミニキャンプを強制させた。その前後には打線強化のため、4月には[[社会人野球]]・[[日本コロムビア硬式野球部|コロムビア]]の選手兼任監督・[[藤田宗一 (外野手)|藤田宗一]]を、5月には[[松竹ロビンス]]の二軍監督・[[森谷良平]]を、また6月には元・奉天満鉄倶楽部の[[宇佐美一夫]]を入団させた。
 
8月に[[享栄高等学校|享栄商]]の[[金田正一]]が高校を中退して入団し、10月1日にプロ初勝利を挙げるとこの年8勝を挙げ、チームは終盤13連敗の広島に代わって7位となった。
 
この年、チームは42勝94敗2分で首位松竹から57.5ゲーム、最下位広島と1.5ゲーム差の8球団中7位に終わる。オフに[[西日本パイレーツ]]がセ・リーグを脱退したため、セ・リーグは7球団となる。
 
; [[1951年の国鉄スワローズ|1951年]]<ref name="swhis50" />
開幕から4月にかけて12勝4敗で首位に立つが、5月に入り6連敗で2位に落ちると、6月には3勝10敗として、前半戦終了時には6位となっていた。8月に入り、金田正一がこの月6勝を挙げ、チームは11勝10敗で勝ち越し5位に浮上し、そのままシーズンを終える。金田は、22勝を挙げ、[[最多奪三振 (日本プロ野球)|最多奪三振]]を獲得<ref group="注釈">セ・リーグで最多奪三振がタイトル制定となったのは1991年。球団公式サイトの球団のあゆみではセ・リーグ表彰で記載。</ref>するとともに、9月5日に球団初となる[[ノーヒットノーラン]]を達成<ref group="注釈">18歳35日での達成は日本プロ野球史上最年少記録。</ref>。[[土屋五郎]]が球団初のタイトルとなる[[最多盗塁 (日本プロ野球)|最多盗塁]]を獲得<ref name="swhis50" />。
 
; [[1952年の国鉄スワローズ|1952年]]<ref name="swhis50" />
この年より[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ制]]が導入され、国鉄は[[読売ジャイアンツ]]、[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]、[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]、[[北海道日本ハムファイターズ|東急フライヤーズ]]と共に[[後楽園球場]]を本拠地とした。開幕から2勝2敗とした後は4連敗、4月に入り4連敗と6連敗、5月に10連敗と連敗を重ねたが、松竹と広島が低迷したことで5位でシーズンを終了。この年120試合制となり、初の50勝到達となったが、このうち半分近い24勝は金田正一で、二年連続奪三振王となった。[[佐藤孝夫]]が球団初の[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得。
 
; [[1953年の国鉄スワローズ|1953年]]
松竹と大洋が合併したことで、この年からセ・リーグは現在の6球団制に移行。国鉄は45勝79敗1分に終わり、首位巨人から42ゲーム差、5位大洋松竹と4.5ゲーム差で球団史上初の最下位となる。西垣徳雄が監督を退任、後任は[[藤田宗一 (外野手)|藤田宗一]]。
 
この年はセ・リーグが6球団制になった最初のペナントレースだったため<ref name="略史" />、国鉄は「セ・リーグが6球団になった初代最下位球団」となった<ref>{{Cite web|和書|title=年度別成績 1953年 セントラル・リーグ ■ チーム勝敗表|url=https://npb.jp/bis/yearly/centralleague_1953.html |website=NPB|accessdate=2025-07-18|publisher=日本野球機構}}</ref>。
 
; [[1954年の国鉄スワローズ|1954年]]
読売ジャイアンツから移籍した[[宇野光雄]]の活躍で同年の対巨人戦8連勝。宇野と[[箱田弘志]]が球団初の[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]を獲得する。首位[[中日ドラゴンズ|中日]]から32ゲーム差、55勝73敗2分の5位に終わる。
 
; [[1955年の国鉄スワローズ|1955年]]
10月19日、金田正一がシーズン350奪三振を記録、[[日本野球機構|NPB]]新記録<ref group="注釈">現在の記録は1968年に[[江夏豊]]が記録した401。</ref> となると共に[[メジャーリーグベースボール|大リーグ]]・[[ボブ・フェラー]]348を抜く世界新記録<ref name="swhis50" />。[[町田行彦]]が[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]を獲得。57勝71敗2分で、首位巨人と34.5ゲーム、4位広島と1ゲーム差の5位に終わり、藤田が監督退任、後任は宇野光雄。
 
; [[1956年の国鉄スワローズ|1956年]]
対巨人戦で11勝(13敗)と互角の試合を見せる。[[大脇照夫]]が5月3日の対中日戦([[ナゴヤ球場|中日]])でノーヒットノーラン、[[宮地惟友]]が対広島([[石川県営兼六園野球場|金沢兼六]])で球団初、日本プロ野球3人目となる[[完全試合]]を達成している<ref name="swhis50" />。チームは首位巨人と21ゲーム差、61勝65敗で4位に終わる。オフに[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]から[[飯田徳治]]を金銭トレードで獲得。
 
; [[1957年の国鉄スワローズ|1957年]]
金田正一は7月15日の対中日戦(中日)で2000奪三振を記録。8月21日の対中日戦(中日)でプロ野球4人目の完全試合を達成し、この年は[[最多勝利]]と[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]を獲得、[[沢村栄治賞|沢村賞]]と自身初の[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]に選ばれている。[[佐藤孝夫]]が22本塁打で本塁打王となる。チームは58勝68敗4分、首位巨人から15.5ゲーム差の4位に終わる。
 
; [[1958年の国鉄スワローズ|1958年]]
開幕戦の対巨人戦(後楽園)、金田正一が巨人のルーキー[[長嶋茂雄]]を4打席連続三振に抑えるなど、4対1で勝利する。翌4月6日の[[ダブルヘッダー]]でも4対2、4対3と勝利し、開幕3連勝とする<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_april/KFullNormal20080325154.html |title=【4月6日】1958年(昭33)デビュー4打席4三振 その後の長嶋茂雄 |publisher=[[スポーツニッポン]] |accessdate=2012-10-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130207010957/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_april/KFullNormal20080325154.html |archivedate=2013-02-07 |url-status=dead|url-status-date=2017-10}}</ref>。5月24日の対阪神戦(甲子園)で[[飯田徳治]]がアキレス腱切断、日本プロ野球記録の連続試合出場記録が1246で止まる<ref name="swhis50" />。6月6日、金田が球団初の通算200勝を達成<ref group="注釈">かつ、球団史上唯一。</ref>。チームは2年連続の58勝68敗4分、首位巨人から17.5ゲーム差の4位に終わる。金田正一が投手部門[[三冠 (野球)|三冠王]](最多勝、防御率、奪三振)と沢村賞を獲得。
 
; [[1959年の国鉄スワローズ|1959年]]
この年も開幕戦の対巨人戦(後楽園)で金田正一が巨人のルーキー[[王貞治]]を2三振に抑えている。チームは63勝65敗2分、首位巨人から15.5ゲーム差の4位に終わる。
 
; [[1960年の国鉄スワローズ|1960年]]
9月30日に金田正一が対中日戦(後楽園)で勝利して、10年連続20勝を達成するが<ref name="swhis60">{{Cite web|和書|url=http://www.yakult-swallows.co.jp/pages/company/history/1960 |title=球団のあゆみ 1960年代 |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2015-10-03 }}</ref>、チームは54勝72敗4分、首位大洋から17.5ゲーム差、1953年以来7年ぶりの最下位となる。{{by|1960年}}限りで宇野は監督を解任<ref>[https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180318-10 週刊ベースボール60周年記念企画【週ベ60周年記念企画142】『川上監督の考えた三つの人事~主将、あと一人のコーチ、トレード問題』【1960年12月28日号】][[週刊ベースボール]]</ref>。後任は[[砂押邦信]]。
 
; [[1961年の国鉄スワローズ|1961年]]
6月6日、森滝義己がプロ野球史上5人目となる完全試合を達成。67勝60敗3分で3位とし、球団史上初、国鉄球団として最初で最後となったAクラス、シーズン通算勝ち越しを記録する。
 
; [[1962年の国鉄スワローズ|1962年]]
9月5日、金田正一が[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]、[[ウォルター・ジョンソン]]の記録を抜く通算3,509奪三振を達成。51勝79敗4分、首位[[阪神タイガース|阪神]]から24ゲーム差の最下位となる。セ・リーグは3割打者が1人という投高打低のシーズンだったが、その中でも国鉄のチーム打率は.201(313得点)で、これは2リーグ制以降の最低の記録である。11月、東映と共に[[大韓民国|韓国]]に遠征し、親善試合を行う<ref name="swhis60" />。砂押は監督を退任、後任は[[浜崎真二]]。オフに西鉄から[[豊田泰光]]を獲得。
 
年々増大する経営費のために経営主体は交通協力会から鉄道弘済会へと変わっていたが、公共企業・国鉄の球団であるという体面もあり、相当の緊縮財政だった。新人選手の[[契約金]]は高騰する一方で満足な補強もできず(当てになる戦力は金田だけだった)、同年に起こった[[三河島事故]]による批判は球団にも飛び火していた。この年の8月、球団譲渡を前提とした業務提携を[[産業経済新聞社|産経新聞社]]、[[フジテレビジョン]]・[[ニッポン放送]]・[[文化放送]]と結び、[[フジサンケイグループ]]との関係が生じ、この時点で実質的な経営主体はフジサンケイグループに移る。
 
; [[1963年の国鉄スワローズ|1963年]]
5月8日の対大洋戦(後楽園)で金田正一が通算300勝を達成。チームは65勝73敗2分、首位巨人から18ゲーム差の4位。浜崎は監督を退任、後任は[[林義一]]。
 
=== 明治神宮球場移転後 ===
1964年から本拠地を後楽園球場から[[明治神宮野球場|明治神宮球場]]へ移転する(移転の経緯については後述の[[東京ヤクルトスワローズ#フジサンケイグループ|フジサンケイグループ]]及び[[明治神宮野球場#プロ野球]]を参照)。
 
; [[1964年の国鉄スワローズ|1964年]]
7月30日、金田正一が入団2年目の1951年から14年連続となるシーズン20勝を達成<ref name="swhis60" />。61勝74敗5分、首位阪神と18.5ゲーム差の5位に終わる。オフに林義一の監督更迭・留任を巡り、産経新聞と国鉄は激しく対立。エースの金田が「林監督がそのまま続投した場合移籍するが、解任された場合は残留する」との声明を出したことから国鉄は頑として林の更迭を主張、一方の産経サイドは他社マスコミ([[読売新聞]]、[[朝日新聞]]、[[毎日新聞]])により、「林監督更迭」のスクープを先取りされていたことがあり、議論は平行線を辿り最終的には経営主体の産経サイドが意見を押し切った。林は留任し、金田は[[フリーエージェント (日本プロ野球)#10年選手制度|10年選手]]の特権を行使して巨人に移籍した。金田を失ったことにより国鉄は経営意欲を完全に喪失し、フジサンケイグループへ経営権を全て譲渡して経営から撤退することとした。もとより国鉄球団は業務提携後フジサンケイグループの資金力に丸々依存しており、移譲は時間の問題と見られていたが、喧嘩別れで球団譲渡という結末となった。
 
==== サンケイ時代 ====
===== サンケイスワローズ時代 =====
1965年4月23日、国鉄は球団の経営権を[[産経新聞]]と[[フジテレビジョン|フジテレビ]]に譲渡することを発表し、5月10日、チーム名を'''サンケイスワローズ'''(Sankei Swallows)に変更。
 
; [[1965年のサンケイスワローズ|1965年]]
サンケイ初年度となったが、国鉄初年度以来の90敗以上となる44勝91敗5分。首位巨人とは45.5ゲーム差となった。この年から[[1965年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]が行われているが、1位指名の河本和昭を始め、11名中9名が入団拒否<ref group="注釈">指名後の入団交渉不実施による失効を含む。</ref>している<ref group="注釈">ただし、この時代はサンケイに限らず、指名されても入団拒否したり、指名しても交渉を実施せずそのまま失効する者は多かった。</ref>。
 
===== サンケイアトムズ時代 =====
1966年1月7日、少年野球ファン開拓のため<ref>{{Cite journal |和書 |author=[[綱島理友]] |title=綱島理友のユニフォーム物語(4) |journal=週刊ベースボール |publisher=ベースボール・マガジン社 |date=1999-05-10 |page=161 }}</ref> という理由に加え、フジテレビで[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]が放送されていたことや[[手塚治虫]]が当時球団後援会副会長(会長は[[徳川夢声]])だったという経緯もあって[[鉄腕アトム]]をペットマークに使い、チーム名を'''サンケイアトムズ'''(Sankei Atoms)、運営会社名を'''株式会社サンケイアトムズ'''に改称。[[ヤクルト本社]]が株式を取得して球団運営に参加。これに伴い、球団旗も当時の産経新聞の社旗をアレンジしたものを使っていた。
 
; [[1966年のサンケイアトムズ|1966年]]
52勝78敗で大洋と並んで5位、首位の巨人とは37ゲーム差。
 
; [[1967年のサンケイアトムズ|1967年]]
58勝72敗5分で首位の巨人と26ゲーム差の5位。巨人に3勝23敗の惨敗。後楽園球場で13連敗。[[武上四郎]]が新人王を獲得。
 
; [[1968年のサンケイアトムズ|1968年]]
1月28日、[[神奈川県]][[横須賀市]]に[[京浜急行武山球場|武山球場]]が完成、二軍本拠地となる。
 
5月26日には対広島戦に勝利し、球団通算1000勝を達成。来日2年目の[[デーブ・ロバーツ (1933年生の内野手)|デーブ・ロバーツ]]が40本塁打を打つなどして、ベストナインを獲得。投手では[[石戸四六]]がチームとしては金田正一以来となるシーズン20勝を挙げる。64勝66敗4分、首位の巨人とは13ゲーム差の4位。
 
==== アトムズ時代 ====
産経新聞は本体の業績不振のため、株式の一部をヤクルト本社へ売却。球団経営に積極的だった産経新聞・フジテレビジョン社長の[[水野成夫]]が病に倒れ、後を継いだ[[鹿内信隆]]がフジサンケイグループの事業見直しを行った結果、不採算だったプロ野球球団経営からの撤退、資本関係のみの継続を決めたもの。当時、ヤクルト本社は水野とは旧知の間柄だった[[南喜一]]が代表者を務めていた。実質の経営権はヤクルト本社が握ったが、表面上は共同経営とし、チーム名を'''アトムズ''' (Atoms) 、運営会社名を'''株式会社アトムズ球団'''とした。これは2リーグ分立以降でチーム名に企業名・地域名などの冠名がつかない唯一の例となった。
 
; [[1969年のアトムズ|1969年]]
[[ボブ・チャンス]]が24試合で12本塁打を記録し、58勝69敗3分で、首位の巨人と16.5ゲーム差の5位だった。
 
==== ヤクルト時代 ====
===== ヤクルトアトムズ時代 =====
1970年1月7日にヤクルト本社が公式に単独で経営権を持ち、球団名を'''ヤクルトアトムズ'''(Yakult Atoms)、運営会社名を'''株式会社ヤクルトアトムズ'''に改称となり、チームカラーもヤクルト本社の社色である赤・白・緑のものとなった(球団旗やユニフォームなどに使用)。
 
====== 別所監督時代 ======
; [[1970年のヤクルトアトムズ|1970年]]
序盤から大きく出遅れ、8月には1936年の[[松竹ロビンス|大東京軍]]と並ぶ16連敗を喫した<ref group="注釈">当時の日本プロ野球ワースト記録で、現在もセ・リーグワースト記録及び、間に引き分けを挟まない連敗のワースト記録である。日本プロ野球記録は[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]の[[千葉ロッテマリーンズ]]が{{by|1998年}}に記録した18連敗(引き分け1を挟む)。</ref>。この連敗期間中の8月20日に[[別所毅彦]]が監督を解任され<ref name="YS4043">{{Cite book |和書 |title=東京ヤクルトスワローズ40年史―1969-2009ツバメの記憶 |year=2009 |publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |series=B.B.MOOK スポーツシリーズ |page=43 |isbn=9784583616018 }}</ref>、二軍監督の[[小川善治]]がシーズン終了まで監督代行を務めた。結局、シーズン92敗を喫し<ref group="注釈">セ・リーグでの90敗到達球団はその後2003年まで現れなかった([[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]、94敗)。</ref>、33勝しかできず、勝率は3割を大きく下回る.264<ref group="注釈">日本プロ野球でシーズン最終勝率が3割を下回ったのは1961年の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファロー]]以来9年ぶり。これ以後、セ・リーグで勝率が3割を下回った例はなく、パ・リーグでも[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]が新規参入した1年目の2005年に.281を記録した1例のみ。</ref>で、首位の巨人に45.5ゲーム差を付けられ最下位に終わる。巨人戦、阪神戦ともに5勝21敗で後楽園球場では13戦全敗。2桁勝利投手ゼロは球団史上初{{Refnest|球団公式サイトにも1970年のみ該当者無しとある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yakult-swallows.co.jp/pages/company/archive/win_10over |title=球団アーカイブ 2桁勝利投手 |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。|group="注釈"}}。[[東条文博]]が28盗塁で盗塁王。
 
====== 三原監督時代 ======
; [[1971年のヤクルトアトムズ|1971年]]
[[三原脩]]が監督に就任。チームは52勝72敗6分けの勝率.419と前年より盛り返すものの2年連続最下位に終わる。[[松岡弘]]は14勝を挙げた。9月27日、二軍はイースタンリーグで初優勝している<ref name="YS4043" />。
 
; [[1972年のヤクルトアトムズ|1972年]]
前年に三原とともに入団した[[中西太]]打撃コーチのマンツーマン指導を受けた2年目の[[若松勉]]が首位打者、ルーキーの[[安田猛 (野球)|安田猛]]も1972年・1973年と2年連続で防御率1位となって頭角を現す。彼らの活躍もあり、この年は最下位を脱出、60勝67敗3分けの勝率.472の4位に浮上。8月12日、二軍は2年連続イースタンリーグ優勝<ref name="YS4043" />。
 
; [[1973年のヤクルトアトムズ|1973年]]
元々鉄腕アトムのイラストについては「限定的に使用する」ことで、[[手塚治虫]]および[[虫プロダクション]]と合意していたが、球団後援会が作成したファンサービス用グッズ(シャツ・灰皿・トランプなど)にアトムのイラストを使用したことで、前年12月に虫プロ側から「グッズを販売する業者から我々の著作権を侵害していると抗議が殺到した。商品化に結び付けるなら新たに版権の契約を結んでほしい」クレームが来た。その後版権料の問題で交渉がまとまらなかったことから、球団は手塚および虫プロに謝意を示した上で、1月からニックネームの変更の検討を開始した。
 
検討過程では「パンダ」「ベアーズ」「東京ヤクルト」「ファイアマン」などが挙がったが、「パンダース」は「売春宿の主人」を意味するスラングなことから、早々に候補から外れ、一旦は「'''ヤクルト・ジャガース'''」(豹)に内定し、オールスター後から使用すると発表したが<ref>[[日刊スポーツ]]、1973年5月1日付。</ref><ref>[[サンケイスポーツ]]、1973年5月5日付。</ref>、結局シーズン中の球団名変更は見送りとなった。その後の再検討の結果、球団名は「ジャガース」を撤回し、国鉄時代の「スワローズ」を復活させることになった<ref group="注釈">ヤクルトと同じくセ・リーグに属する[[阪神タイガース]]の[[阪神タイガース (ファーム)|二軍]]が、過去に類似した名称の『'''阪神ジャガーズ'''』を名乗っていたことによる、阪神球団との権利上の問題が関係しているかは不明。</ref>。
 
このシーズン途中から現役大リーガーの[[ジョー・ペピトーン]]が入団するも、大リーグ時代からの素行の悪さが改善されることはなく、無断欠場を繰り返した挙句、来シーズン開幕前に退団した。チームは62勝65敗3分けの勝率.488にて2年連続の4位に終わり、三原は監督を辞任。
 
===== ヤクルトスワローズ時代 =====
前述の著作権問題の経緯と[[虫プロダクション]]が1973年11月5日付での倒産不可避となったことが重なり、鉄腕アトムのキャラクター使用を中止した。1973年10月26日、球団名を株式会社「ヤクルト球団」、チーム名を「'''ヤクルトスワローズ'''」に変更<ref name="YS4043" />。キャラクターも[[ツバメ]]をモチーフにしたものに変更。
 
====== 荒川監督時代 ======
; [[1974年のヤクルトスワローズ|1974年]]
打撃コーチの[[荒川博]]が監督に昇格、コーチで入団した[[広岡達朗]]・[[沼澤康一郎]]・[[小森光生]]と「早大カルテット」を形成した。松岡が17勝、[[浅野啓司]]も防御率2位と活躍し、チームは60勝63敗7分けの勝率.488にて13年ぶりのAクラスとなる3位。
 
; [[1975年のヤクルトスワローズ|1975年]]
[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]との交換トレードで[[大杉勝男]]を獲得したが、結果は57勝64敗9分けの勝率.471の4位。オフに[[武上四郎]]が引退。
 
; [[1976年のヤクルトスワローズ|1976年]]
5月12日に監督の荒川が成績不振を理由に休養し、翌日からヘッドコーチの[[広岡達朗]]が監督代行として指揮を指揮を執ることを発表した。
 
====== 広岡監督時代 ======
※1976年6月16日までの監督代行時代も含める。
; 1976年
6月17日から監督代行の広岡が正式に監督として指揮を執ることを発表した<ref name="YS4043" />。結局、52勝68敗10分けの勝率.433の5位に終わり、国鉄時代の{{by|1962年}}からこの年まで15年連続シーズン負け越しを記録し、セ・リーグワースト記録となる<ref group="注釈">日本記録は[[南海ホークス]]時代の1978年から福岡ダイエーホークス時代の1993年にかけて記録した16年連続。</ref>。なお、全球団に負け越したにもかかわらず、最下位を免れたのはNPB史上初めてのケースだった。
 
; [[1977年のヤクルトスワローズ|1977年]]
大杉がこの年多くの記録を立て<ref group="注釈">6月5日に1000打点、6月22日に1500試合出場、8月11日に350本塁打、8月25日に1500本安打。</ref>、9月14日の大洋戦では1イニング5本塁打の日本タイ記録を達成した<ref name="YS4043" />。若松が2度目の首位打者、入団2年目の[[チャーリー・マニエル]]が42本塁打を放つ。62勝58敗10分けの勝率.517により、チームは球団創設以来初の2位に躍進。
 
; [[1978年のヤクルトスワローズ|1978年]]
前年の2位躍進に気をよくしたフロントは選手に対し「ブラジルへの慰安旅行」を計画したが広岡監督はこれに反対し「旅行するぐらいなら温暖な海外でキャンプを」と希望。これを受けて2月、球団史上初めて日本国外キャンプとなる[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ユマ (アリゾナ州)|ユマ]]キャンプを行う<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yakult-swallows.co.jp/pages/company/history/1970 |title=球団のあゆみ 1970年代 |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。広岡の参謀として巨人時代の同僚だった[[森祇晶|森昌彦]]がヘッドコーチで入団、キャンプでテストを受けた[[デーブ・ヒルトン (野球)|デーブ・ヒルトン]]も加わり打線は厚みを増した<ref>週刊ベースボールプラス6 1950-2011 わが愛しのスワローズ 国鉄から始まった栄光の軌跡、[[ベースボール・マガジン社]]、2011年、P39</ref>。初優勝を狙うチームは前半を首位で折り返すも、後半に入り、失速、3連覇を狙う巨人に抜かれ、8月には一時4.5ゲーム差を付けられるが、8月26日からの対巨人3連戦を松岡の完封、安田の連日の好リリーフで2勝1分けと持ち直し、巨人に代わり首位に返り咲く。9月に初めてマジックが点灯すると、9月19日の[[ダブルヘッダー]]第2試合、さらに[[杉浦享|杉浦亨]]が連日のサヨナラ打を放った20日・21日と3試合連続サヨナラ勝ちを収め、下位球団相手に取りこぼす巨人を尻目に一気に加速、10月4日の対中日戦(神宮)で創立29年目で初のリーグ優勝を本拠地で決めた<ref>{{Cite web|和書|title=球団のあゆみ 1978年|url=https://www.yakult-swallows.co.jp/pages/company/history/1970#y1978 |website=東京ヤクルトスワローズ|accessdate=2024-06-08|publisher=ヤクルト球団}}</ref>。これにより、セ・リーグ全球団がリーグ優勝をした。これは、セ・リーグが6球団になった1953年から数えて25年目のことだった<ref name="略史">{{cite web|和書|url=https://npb.jp/cl/history.html |title=セントラル・リーグの略史|website=NPB|publisher=日本野球機構|accessdate=2024-10-12}}</ref>。[[1978年の日本シリーズ|日本シリーズ]]ではそれまで3年連続日本一だった[[阪急ブレーブス]]を4勝3敗で下し、球団史上初の日本一。この年は開幕から129試合目まですべて得点を挙げていたが、最終戦の広島戦で[[大野豊 (野球)|大野豊]]に完封負けを喫し、全試合得点とはならなかった。なお、広岡監督が正力松太郎賞、若松がチーム初のセ・リーグ最優秀選手に選出された。
 
この年から1993年にかけて15年間、日本一から遠ざかることになる。
 
; [[1979年のヤクルトスワローズ|1979年]]
マニエルの近鉄への放出を軸としたオフの補強に失敗し、開幕8連敗と大きく出遅れる<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/tigers/2022/04/01/0015184649.shtml |title=阪神・藤浪「いいようにやられた」 初の3被弾で4回6失点KO、開幕7戦7敗ならセ初の屈辱|newspaper=デイリースポーツ online|date=2022-04-01|accessdate=2024-04-30|publisher=デイリースポーツ}}</ref>。5月に盛り返し、5月27日にはマニエルに代わる新外国人[[ジョン・スコット (野球)|ジョン・スコット]]がサイクル本塁打を放つ活躍で勝率を5割まで戻すが、その後は再び最下位を独走。8月17日に作戦兼バッテリーコーチへの役職変更を申し渡されたヘッドコーチの森と二軍への降格を申し渡された投手コーチの植村が休養し、これに激怒した監督の広岡が辞任し、翌日から打撃コーチの[[佐藤孝夫]]が監督代行として指揮を執ることを発表した。結局、48勝69敗13分で1971年以来8年ぶりの最下位。日本一の翌年に最下位に転落するのは1961年の大洋以来18年ぶり2度目の不名誉。
 
====== 武上監督時代 ======
; [[1980年のヤクルトスワローズ|1980年]]
武上四郎が球団初の生え抜きとして監督に就任。相性優先のローテーションで巨人・中日・阪神・大洋から15勝以上挙げるが、[[広島東洋カープ]]に大きく負け越し、結局この年優勝した広島に大差をつけられての68勝52敗10分けの勝率.567、2位に終わった。松岡が最優秀防御率のタイトルを獲得した。オフに[[福富邦夫]]が現役を引退した。
 
; [[1981年のヤクルトスワローズ|1981年]]
マニエルが近鉄から復帰し、優勝への期待が高まるが、マニエルは年齢的な衰えで12本塁打に止まり、さらに若松、スコットが相次いで負傷し、外野陣が崩壊、出場機会が大幅に増えた代走・守備固め専門の[[青木実]]が盗塁王を獲得したが、チームは56勝58敗16分け勝率.491の4位に終わる。
 
; [[1982年のヤクルトスワローズ|1982年]]
優勝当時の主力である大杉、[[大矢明彦]]、松岡らの衰えと外国人選手[[ラリー・ハーロー]]らの不振からシーズン序盤より最下位を独走。最終結果は45勝75敗10分け、勝率.375で首位の中日と23.5ゲーム離される。
 
; [[1983年のヤクルトスワローズ|1983年]]
ドラフトにて巨人との抽選の末入団交渉権を獲得した[[荒木大輔]]が入団し、近鉄とのトレードで[[井本隆]]を獲得する。しかし、チームは井本や松岡、[[ボビー・マルカーノ]]らの不振もあり、53勝69敗8分けの勝率.434にて2年連続最下位に終わった。オフに大杉が現役引退。
 
; [[1984年のヤクルトスワローズ|1984年]]
4球団競合の末ドラフト1位で獲得したルーキーの[[髙野光|高野光]]が開幕投手に大抜擢され話題となったが、開幕からチームは不振が続く。4月26日に監督の武上が成績不振を理由に辞任し、翌々日から西鉄・日本ハムでの監督を経験したヘッド兼打撃コーチの[[中西太]]が監督代行を務めた。結局、5月24日に監督代行の中西が成績不振を理由に辞任し、翌日から日拓ホームでの監督を経験した投手コーチの[[土橋正幸]]が監督代々行として指揮を執ることを発表した。
 
====== 土橋監督時代 ======
※1984年6月14日までの監督代行時代も含める。
; 1984年
6月15日から監督代行の土橋が正式に監督として指揮を執ることを発表した。51勝71敗8分けの勝率.418の5位となり、辛くも最下位を免れた。
 
; [[1985年のヤクルトスワローズ|1985年]]
明治大学の主砲広沢克己(後に[[広澤克実]])を獲得。[[八重樫幸雄]]が捕手として球団初の3割打者、杉浦享も自己最多の34本塁打と活躍したが、チームはシーズン早々から首位戦線から1チームだけ脱落し、神宮で阪神に優勝を決められ、結局46勝74敗10分け勝率.383の最下位。10月9日に若松が2000本安打を達成。オフに優勝バッテリーの松岡と大矢が共に現役を引退した。同年、[[日本プロ野球選手会]]は[[労働組合]]の資格を得たが、オーナーの[[松園尚巳]]は「(親会社の)ヤクルト本社をはじめ、グループ内で労組を結成している会社は無い」として、ヤクルト選手会を労組選手会から脱退させた。
 
; [[1986年のヤクルトスワローズ|1986年]]
マルカーノに代わり、[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]を自由契約になった[[レオン・リー]]が入団するが、この年もシーズン早々から首位戦線を脱落。10月に[[マーク・ブロハード]]の本塁打で巨人優勝の望みを打ち砕くも、2年連続で今度は広島に神宮で優勝を決められ、49勝77敗4分けの勝率.389と2年連続の最下位となり、土橋は辞任。
 
====== 関根監督時代 ======
; [[1987年のヤクルトスワローズ|1987年]]
[[関根潤三]]が監督、元阪神監督の[[安藤統男]]がヘッドコーチに就任。シーズン途中に入団した現役大リーガー[[ボブ・ホーナー]]が「ホーナー旋風」を起こし、9年ぶりに広島戦に勝ち越し、チームは58勝64敗8分け勝率.475にて4位に浮上。荒木が10勝を挙げて、2年目の[[荒井幸雄]]が新人王を獲得。ホーナーはシーズン終了後に退団。この年のドラフト会議で、[[長嶋一茂]]との交渉権を[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]と抽選の末に獲得。
 
; [[1988年のヤクルトスワローズ|1988年]]
前年に躍進した荒木が故障で途中離脱するなどシーズン5位に終わるが、抑えの[[伊東昭光]]が全て救援・規定投球回数未到達ながら18勝で最多勝。広沢と[[池山隆寛]]が30本塁打以上を放ち、[[栗山英樹]]が規定打席未到達ながら打率.331を記録し台頭。巨人戦も8年ぶりに勝ち越し。長嶋一茂の入団、若手の躍進で女性ファンが急増する。
 
; [[1989年のヤクルトスワローズ|1989年]]
新入団の[[ラリー・パリッシュ]]が[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]、新人の[[笘篠賢治]]が[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得。高卒3年目の[[内藤尚行]]が12勝8セーブと活躍、ドラフト1位の高卒新人・[[川崎憲次郎]]も巨人戦完封を含む4勝と躍進。一方でパリッシュ・広沢・池山が共に100三振を記録。55勝72敗3分けの勝率.433にてシーズン4位に終わり、関根が監督を勇退、若松が現役を引退。パリッシュは粗さが目立つために退団となって阪神へ移籍。オフにヤクルト選手会は労組選手会に復帰した。
 
====== 野村監督時代 ======
; [[1990年のヤクルトスワローズ|1990年]]
[[ID野球]]を掲げる[[野村克也]]が監督に就任。チームは前年本塁打王のパリッシュを解雇し(阪神に移籍)、代わりに[[ドウェイン・マーフィー]]を獲得、さらに当時メジャー133勝の実績を誇った[[フロイド・バニスター]]を獲得した。野村は新人の[[古田敦也]]を正捕手に起用、[[柳田浩一]]を外野のレギュラーに抜擢、またそれまで捕手だった俊足の[[飯田哲也 (野球)|飯田哲也]]をセカンドに、広沢が一塁、開幕マスクを被った[[秦真司]]は打撃を活かして外野手に[[コンバート (野球)|コンバート]]。高卒2年目の川崎憲次郎が12勝、新人の[[西村龍次]]は10勝と躍進。しかし、この年はマーフィーやバニスターの不振及び早期退団、荒木・高野・伊東らの長期離脱、内藤らの不振もあり、58勝72敗の勝率.446。中日戦で7年ぶりに勝ち越したが、優勝した巨人から30ゲーム差もつけられ、目の前で優勝を決められて5位に終わる。オフに[[栗山英樹]]が引退。
 
; [[1991年のヤクルトスワローズ|1991年]]
[[ジョニー・レイ]]が加入して、飯田は外野へコンバートされる。6月に球団新記録の12連勝(それまで当時の12球団で唯一、2ケタ連勝がなかった)で一時は首位に立つも、その後失速し優勝争いから脱落するが、最終戦に勝利し3位を確定。67勝63敗2分けの勝率.515にて11年ぶりのAクラスかつ5割以上を記録。広沢が[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]、古田は捕手としては野村以来26年ぶり、セ・リーグでは初の[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]となる。この年限りで[[尾花高夫]]が引退。
 
; [[1992年のヤクルトスワローズ|1992年]]
キャンプ中の怪我により前年14勝の川崎を欠く苦しいシーズンとなるも、広島・巨人・阪神との優勝争いとなる。西村と[[岡林洋一]]以外の先発陣が手薄だった投手陣は4月に高野、5月に伊東と、故障で長年離脱していたベテランが復活。開幕ダッシュに成功し首位を走るも、7月の巨人との天王山で3連敗。前半戦を3位で折り返す。後半に入ると、前半戦わずか8本塁打の[[ジャック・ハウエル]]が本塁打を量産し首位に返り咲く。一時は貯金15を数え、逃げ切れるかに見えたものの、100試合を過ぎた辺りから投手陣全体の駒不足に苦しみ始めた挙げ句大失速。チームは9月に入り9連敗<ref group="注釈">優勝チームとしてのワースト記録。セ・リーグでは1950年から1991年までの42年間、シーズン中に8連敗以上を記録したチームが優勝したことはなかった。その後、2015年にも9連敗を喫したが優勝している</ref> を喫した(この間に、阪神戦で一時抑えに回った岡林による9イニングに及ぶ救援投球という引き分け試合あり)。貯金3の3位まで転落するが、9月24日に荒木が1541日ぶりの復活登板を果たし息を吹き返す。<!--この年は混戦となったため、「[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)#1992年のセ・リーグ|プレーオフ]]委員会」が開かれ、「2勝したほうが優勝とし、第1戦を[[阪神甲子園球場|甲子園]]、2戦目を[[明治神宮野球場|神宮]]、3戦目を(雨天中止の可能性が極めて低い)[[東京ドーム]]でおこなう」プレーオフを実施するとあらかじめ決定していた。-->巨人、広島の脱落により、阪神との一騎打ちとなった本拠神宮球場での10月6日からの直接対決2連戦では、まず初戦は広沢の決勝ソロ、岡林の完封により勝利、ともに66勝60敗で並ぶ。翌7日は9回裏1死まで1-3と苦しい展開に追い込まれるも、広沢の四球を足がかりに、飯田の三塁内野適時打、荒井の左前適時サヨナラ打などにより奇跡的な逆転勝利を掴み、一気に優勝に近づいた。10月10日の甲子園での阪神との直接対決でハウエルが2打席連続本塁打、先発荒木の好投を受けて最後は伊東が締めくくり、1978年以来14年ぶりのリーグ優勝。後半戦だけで30本塁打のハウエルは首位打者と本塁打王の二冠となり、MVPも獲得した。最終成績は69勝61敗1分けの勝率.531。[[1992年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]と対戦。シーズン中同様に怪我人等の投手駒不足で、岡林が7戦中3戦先発完投(延長12回と延長10回が各1試合あり、計30回投球したことになる)、伊東・[[金沢次男]]が岡林が完投した試合以外中継ぎで全試合登板(中継ぎのみの登板はこの2名だけ)、シーズン未勝利の高卒新人[[石井一久]]を先発で起用と、総力戦で西武に食らいつき、第7戦延長10回まで行きながら3勝4敗で敗退。金沢の他に他球団で実績のある[[角盈男]]、[[新浦壽夫]]がこの年加入して(ともにシーズン終了後引退)、中継ぎで貢献するなど「野村再生工場」の発端も垣間見えた。同年オフ、長嶋一茂が巨人に移籍。この年のシーズン観客動員数247万7000人は、2024年現在、球団記録である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yakult-swallows.co.jp/pages/company/archive/audience |title=球団アーカイブ 観客動員数 |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。野村監督は球団をアピールするため、自らを含めて若手選手に積極的なメディア出演を進言したこともあって一躍人気球団となった。
 
; [[1993年のヤクルトスワローズ|1993年]]
前年苦しんだ投手陣の底上げを図る。前年不在だったストッパーの座に開幕直後は[[山田勉 (投手)|山田勉]]、5月からは[[高津臣吾]]が座り、先発投手陣では新人の[[伊藤智仁]]が故障で離脱するまで7勝、5完投、4完封、防御率0.91の驚異的な活躍で[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得。岡林は前年の酷使の影響で不調だったが、西村、伊東、荒木、そして故障から復活した[[川崎憲次郎]]と[[宮本賢治]]が投手陣を支えた。なお、5月19日の対広島戦では、互いに凄まじい打撃戦を展開の上、延長14回17-16にて勝利を収めている。ペナントレースは夏場から中日との一騎打ちとなり、8月末から9月頭のナゴヤ球場での直接対決3連戦での敗北で1度は首位を明け渡したものの、終盤での11連勝などが効き、中日を突き放した。広沢が2度目の打点王、ハウエルがサヨナラ本塁打5本と勝負強さを発揮しリーグ2連覇。広島戦では1987年以来6年ぶりに勝ち越した。[[1993年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも4勝3敗で西武に前年の雪辱を果たし、1978年以来15年ぶりの日本一、シリーズMVPの川崎はカムバック賞も受賞した。野村監督が現役時代からライバル心を燃やす長嶋茂雄の監督復帰に沸いた巨人とは互いに厳しい内角攻めなどから、翌年まで乱闘騒ぎが続いた。野村監督が正力松太郎賞、古田がシーズンMVPを獲得した。オフに八重樫幸雄と杉浦享が共に現役を引退した。
 
; [[1994年のヤクルトスワローズ|1994年]]
前年の日本一を機に帽子のマークが変更され、ペットマークに[[つば九郎]]が採用された。高津が[[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最優秀救援投手]]を初受賞するが、伊東、川崎、西村、荒木ら投手陣の不調・故障離脱が相次ぐ。さらに古田が右手負傷で戦線離脱したことや池山の怪我、ハウエルや新外国人[[ジェラルド・クラーク]]らの不調も響き、2年連続リーグ制覇から一転して62勝68敗の勝率.477で阪神と同率4位。初優勝時のメンバーで最後の現役選手だった[[角富士夫]]が現役を引退した。オフに広沢克が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]を宣言し巨人へ移籍、自由契約のハウエルも巨人に入団する。
 
; [[1995年のヤクルトスワローズ|1995年]]
広沢とハウエルが入団した巨人相手に不利が予想されたが、巨人との開幕第2戦を[[桑田真澄]]の危険球退場をきっかけに逆転勝ちし流れが一変。打撃陣は古田、飯田がシーズン通して活躍。[[土橋勝征]]が野村監督から影のMVPと賞賛される活躍で後半3番に定着、阪神を解雇された[[トーマス・オマリー]]が狭い神宮で本塁打を量産し、自身初の30本塁打。同じくロッテを解雇された[[ヘンスリー・ミューレン]]も下位打線で29本塁打を放ち、池山と「第2のクリーンアップ」を形成した。投手陣は春季キャンプでテスト入団の新外国人[[テリー・ブロス]]が9月9日の巨人戦で[[ノーヒットノーラン]]を達成、[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]を獲得する。開幕前に西村とのトレードで近鉄から移籍してきた[[吉井理人]]、2年目の[[山部太]]、4年目の石井一が揃って二桁勝利。9月30日に本拠地神宮球場にて巨人を5-0で下し、1993年以来2年ぶりのリーグ優勝(最終成績は82勝48敗の勝率.631)。[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]との対戦となった[[1995年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でもオマリーが活躍、古田を中心とするバッテリーも[[イチロー]]を中心とする相手打線を抑え、4勝1敗と1993年以来2年ぶりの日本一を初めて正式な本拠地で決めた{{Efn|[[1978年の日本シリーズ|1978年当時の日本シリーズ]]は[[デーゲーム]]開催だったため、[[六大学野球]]と重なったことにより、[[神宮球場]]ではなく、[[後楽園球場]]を借りて行われた<ref>{{Cite web|和書|title=日本シリーズ 1978年度日本シリーズ 試合結果|url=https://npb.jp/bis/scores/nipponseries/linescore1978.html |website=NPB|accessdate=2025-06-08|publisher=日本野球機構}}</ref>。}}<ref>{{Cite web|和書|title=球団のあゆみ 1995年|url=https://www.yakult-swallows.co.jp/pages/company/history/1990#y1995 |website=東京ヤクルトスワローズ|accessdate=2025-07-04|publisher=ヤクルト球団}}</ref>。
 
; [[1996年のヤクルトスワローズ|1996年]]
[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]から移籍の[[田畑一也]]が12勝、西武から戦力外通告を受け移籍の[[辻発彦]]がリーグ2位の打率3割3分3厘を記録。しかし、シーズンはブロスや山部、高津、古田、ミューレンの不調や岡林、川崎、石井一らの故障による長期離脱が相次ぎベストメンバーをそろえることができず、1度も首位戦線に絡めないまま61勝69敗、勝率.469のリーグ4位に終わる。
 
; [[1997年のヤクルトスワローズ|1997年]]
オマリーとミューレンが抜けたものの、この年も「野村再生工場」が冴え渡る。広島を自由契約になった[[小早川毅彦]]が入団、開幕戦の巨人戦で、それまで3年連続で開幕戦完封を続けていた[[斎藤雅樹]]から3打席連続本塁打。中日から自由契約となった[[野中徹博]]が13年目で初勝利、ダイエーから自由契約となった[[廣田浩章]]もリリーフ陣を支える。開幕前は低評価だった新外国人の[[ドゥエイン・ホージー]]が巨人・[[松井秀喜]]を抑え本塁打王を獲得。4番の座には古田が就き、本塁打こそ9本だったが、高打率を記録し、「つなぎの4番」として君臨した。投手陣では田畑が15勝、吉井が13勝、伊藤智も高津とのダブルストッパーで復活した。終盤、[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]に最大10あったゲーム差を3.5まで迫られるが、9月2日の直接対決で石井一がノーヒットノーランを達成すると、その後は横浜を突き放し、結果的に11ゲームという大差をつけ、1995年以来2年ぶりの優勝(最終成績は83勝52敗2分け、勝率.615)。[[1997年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも[[東尾修]]監督率いる西武を4勝1敗で退け、4度目の日本一。古田が4年ぶり2度目のシーズンMVPに輝いた。オフに吉井がFAでMLBの[[ニューヨーク・メッツ]]に移籍。
 
; [[1998年のヤクルトスワローズ|1998年]]
開幕直前に日本ハムとの交換トレードで[[野口寿浩]]を放出し、のちに選手会長となる[[城石憲之]]を獲得。同年、高卒新人の[[五十嵐亮太]]を擁し、球団史上初の[[ファーム日本選手権]]制覇を達成した。しかし、一軍は巨人との開幕3連戦3連敗もあって、シーズン当初から波に乗れず、川崎が17勝で最多勝、石井一が最多奪三振を獲得するも、新外国人[[ライル・ムートン]]や[[マーク・エーカー]]、ホージー、古田ら投打の歯車が合わず66勝69敗、勝率.489の4位に終わる。野村は同年限りで退団し、後任には打撃コーチの若松勉が就任。
 
====== 若松監督時代 ======
; [[1999年のヤクルトスワローズ|1999年]]
先発陣([[石井一久]]・[[伊藤智仁]]・[[川崎憲次郎]])が総じて1ケタ勝利に終わるなどし66勝69敗、勝率.489の4位と低迷したが、前年まで通算8勝の[[高木晃次]]がプロ入り初の[[規定投球回|規定投球回数]]に到達<ref group="注釈">この年規定投球回数に到達したのはハッカミー、高木、川崎のみであった。</ref> してチームの日本人最多の9勝を、新外国人の[[ジェイソン・ハッカミー]]がチーム最多の12勝を挙げた。野手陣ではハッカミー同様新外国人の[[ロベルト・ペタジーニ]]が44本塁打を放ち、[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]を獲得、オリックスからトレードで来た[[高橋智]]が復活をアピールし、主に守備要員だった[[佐藤真一]]が突然の打撃開眼でチームを牽引。また、プロ3年目の[[岩村明憲]]の成長など、明るい話題もあった。なお、長年続いていたユマキャンプはこの年限りで撤退している。
 
; [[2000年のヤクルトスワローズ|2000年]]
石井一久がシーズン最終登板で中日の[[山本昌]]を抜いて最優秀防御率のタイトルを獲得する。五十嵐も前半リリーフ登板だけで11勝を挙げる活躍をしたが、チームの好不調の波が激しく、66勝69敗1分け、勝率.489と過去2年と同じ成績で3年連続4位に終わるが、優勝した巨人には16勝11敗と勝ち越した。オフにハッカミーが退団。
 
; [[2001年のヤクルトスワローズ|2001年]]
投手陣は川崎がFAで中日に移籍、伊藤智、高木、山部等一軍実績のあるメンバーや新外国人[[アラン・ニューマン]]、[[ジョナサン・ハースト]]らの故障離脱で先発投手が不足する中、石井一以外、新しい投手陣に様変わり。2年目の[[藤井秀悟]]が14勝を挙げ最多勝、巨人を解雇され、テスト入団の[[入来智]]とオリックスを解雇され、テスト入団2年目の[[前田浩継]]の「リストラ組」もそれぞれ10勝、7勝とローテーションを支え、横浜を解雇された[[島田直也]]がチーム2位の53試合に登板。打線も、本塁打と打点の2冠のペタジーニ、打率2位の古田を筆頭にレギュラー8人(他は[[真中満]]、[[宮本慎也]]、[[稲葉篤紀]]、[[岩村明憲]]、[[アレックス・ラミレス]]、[[土橋勝征]])が全て規定打席到達という安定ぶりで、この年のみ採用の「勝利数優先」の順位決定方式を逆手に取り、巨人を振り切り、1997年以来4年ぶりの6回目のリーグ優勝をした。球団生え抜き監督によるリーグ優勝は球団史上初{{Efn|name="ヤクルトアトムズ"|他球団への移籍を一度も挟むことなく、ヤクルトアトムズ時代から一貫してヤクルトに18年在籍して引退した[[フランチャイズ・プレイヤー]]でもある<ref>{{Cite web|和書|title=若松 勉 わかまつ・つとむ 個人年度別成績|url=https://npb.jp/bis/players/11613843.html |website=NPB|accessdate=2024-05-28|publisher=日本野球機構}}</ref>。}}{{Efn|[[1978年のヤクルトスワローズ|1978年]]に優勝監督だった[[広岡達朗]]<ref name="廣岡">[https://baseball-museum.or.jp/hall-of-famers/hof-105/ 廣岡 達朗(ひろおか たつろう)] - 野球殿堂博物館</ref>、[[1992年のヤクルトスワローズ|1992年]]、[[1993年のヤクルトスワローズ|1993年]]、[[1995年のヤクルトスワローズ|1995年]]、[[1997年のヤクルトスワローズ|1997年]]に優勝監督だった[[野村克也]]<ref name="野村">[https://baseball-museum.or.jp/hall-of-famers/hof-094/ 野村 克也(のむら かつや)] - 野球殿堂博物館</ref>はどちらも現役時代に在籍歴がない。}}。10月6日、リーグ優勝を決め、胴上げされた直後のインタビューで、ファンへの感謝を言うべきところ「ファンの皆様、本当に…あのぉ、'''おめでとうございます!'''」と言い間違え、球史に残る名言となった。
 
[[2001年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[大阪近鉄バファローズ]]と対戦。近鉄自慢の「[[いてまえ打線]]」を封じ込めて4勝1敗で1997年以来4年ぶり5回目の日本一になった。球団生え抜き監督による日本一は球団史上初{{Efn|name="ヤクルトアトムズ"|}}{{Efn|[[1978年の日本シリーズ|1978年]]に日本一監督だった広岡<ref name="廣岡" />、[[1993年の日本シリーズ|1993年]]、[[1995年の日本シリーズ|1995年]]、[[1997年の日本シリーズ|1997年]]に日本一監督だった野村<ref name="野村" />はどちらも現役時代に在籍歴がない。}}。オフに石井一が[[ロサンゼルス・ドジャース]]に移籍。
 
この年のセ・リーグは勝数で順位を決定した。ただし、勝数が最も多い球団と勝率が最も高い球団が異なる場合はプレーオフで優勝決定する方式へと変更し、マスコミ等に掲載される順位表も勝数順とされた。しかし、各球団試合消化数には違いがあり、実際に優位に立つのは勝率の高いチームだった。
 
ドーム球場をフランチャイズとして順調に試合を消化した巨人に対し、雨天中止があるヤクルトは例年に比べてさらに試合消化が鈍かったことから、前半戦終了時には巨人の方が試合数が多いため、勝数も多く首位に立ったが、勝率ではヤクルトが上回り、ゲーム差(勝数優先の順位表では表示されなかったが)でも4.5をつけていた。この「隠れ首位」の状態は8月まで続いた。
 
このような経緯があったのか、翌年からは勝率優先の順位へと戻った。ただし、プレーオフで優勝を決定する方式は勝率が最も高い球団の勝利数が勝率が2番目に高い球団を下回った場合のみ開催される規定に変更された上で2007年の[[クライマックスシリーズ]]導入まで存在した。
 
ヤクルトは2006年からチーム名を東京ヤクルトスワローズに変更するため<ref>{{Cite web|和書 |title=球団のあゆみ 2006年 |url=https://www.yakult-swallows.co.jp/pages/company/history/2000#y2006 |website=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2025-06-08 |publisher=ヤクルト球団}}</ref>、ヤクルトスワローズとしてのリーグ優勝・日本シリーズ・日本一はこの年が最後となった<ref>{{Cite web|和書 |title=球団のあゆみ 2001年 |url=https://www.yakult-swallows.co.jp/pages/company/history/2000#y2001 |website=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2025-06-08 |publisher=ヤクルト球団}}</ref>が、それと同時にこの年から2021年にかけて20年間、日本一から遠ざかることになる。
 
この年は[[21世紀]]最初のペナントレースおよび日本シリーズだったため<ref>{{cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term/001.html |title=「21世紀の始まり」|website=NHK放送文化研究所|publisher=NHK|accessdate=2025-06-08}}</ref>、ヤクルトは「21世紀最初のセ・リーグ日本一球団」となった<ref>{{Cite web|和書|title=【プロ野球】歴代日本一チーム、日本シリーズMVP一覧|対戦カード・試合結果ほか (3/4)|url=https://www.baseballchannel.jp/npb/111309/3 |website=ベースボール チャンネル|date=2023-11-05|accessdate=2025-06-08|publisher=カンゼン}}</ref>。
 
; [[2002年のヤクルトスワローズ|2002年]]
チームは2位を確保。ルーキー・[[石川雅規]]が12勝を挙げ[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]に、[[石井弘寿]]が69試合に登板し[[最優秀中継ぎ投手]]に選出された。また、前年に途中入団した[[ケビン・ホッジス]]が最多勝を獲得した。黄金時代を支えた[[池山隆寛]]はこの年限りで引退。オフにペタジーニが巨人に移籍した。
 
; [[2003年のヤクルトスワローズ|2003年]]
シーズン前に西武を自由契約となっていた[[鈴木健 (内野手)|鈴木健]]を獲得。高津臣吾が[[佐々木主浩]]の持つ通算229セーブのプロ野球記録を更新し、最優秀救援投手を獲得した。高津はオフに大リーグの[[シカゴ・ホワイトソックス]]に移籍。また、来日3年目の[[アレックス・ラミレス]]が本塁打王・打点王・最多安打と3つのタイトルを獲得し、ペタジーニの穴を埋める活躍を見せた。チームは中日・巨人・広島とのAクラス争いの末、巨人と同率の3位。
 
; [[2004年のヤクルトスワローズ|2004年]]
年間の総得失点差が-73点だったにもかかわらず、最終戦で巨人を抜き72勝64敗の2位でシーズンを終え、球団史上初の4年連続Aクラスを達成した。オフに[[稲葉篤紀]]が日本ハムへFA移籍。
 
; [[2005年のヤクルトスワローズ|2005年]]
4月24日、古田が捕手としては野村克也以来史上2人目、大学・社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の通算2000本安打を達成。シーズン結果は4位。シーズン終了後、若松は監督を退任。後任は古田が[[選手兼任監督]]として就任した。二軍はこの年から社会人大会に出場している([[東京ヤクルトスワローズ (ファーム)#社会人野球大会出場|詳細]])。オフにメジャーから日本への復帰を果たした石井一を2年契約により獲得し、広島の4番打者だった[[グレッグ・ラロッカ]]も獲得するなど、積極補強に動いた。
 
一度も他球団への移籍を挟むことなく、ヤクルトスワローズ時代から一貫して東京ヤクルトに在籍し続けている現役生え抜き選手は石川雅規だけである。
 
===== 東京ヤクルトスワローズ時代 =====
2005年12月19日のプロ野球実行委員会で古田の悲願だった地元密着型として「'''東京ヤクルトスワローズ'''」へのチーム名変更が全会一致で承認され、ユニフォームに国鉄時代以来となる「Tokyo」の文字が復活した。
 
====== 古田監督時代 ======
{{Wikinews|プロ野球実行委員会「東京ヤクルト」を承認}}
; [[2006年の東京ヤクルトスワローズ|2006年]]
前年同様、[[リック・ガトームソン]]が[[ノーヒットノーラン]]を達成するなどの活躍で交流戦2位になるが、交流戦終了後はほぼ5割ラインに停滞し続ける。結果は3位となり、2004年以来2年ぶりにAクラスは確保したが、優勝争いにからむことはほとんどなかった。11月4日には神宮球場において[[東京六大学野球連盟|東京六大学]]選抜とヤクルトによるアマ・プロ交流試合が実施され、外国人選手とFA移籍を控えた岩村を除く一軍メンバーが出場。試合は3対2でヤクルトが勝利している。オフに岩村が[[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・デビルレイズ(当時)]]へ移籍。ガトームソンが[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]、ラロッカが[[オリックス・バファローズ]]へ移籍。
 
; [[2007年の東京ヤクルトスワローズ|2007年]]
五十嵐亮太、[[石井弘寿]]の「[[#ロケットボーイズ|ロケットボーイズ]]」が手術の影響でシーズンを棒に振ったのを皮切りに、[[ディッキー・ゴンザレス]]、[[アダム・リグス]]、[[高津臣吾]]などの主力級が次々と離脱、全く戦力が整わず、シーズンはナゴヤドームでの開幕3連戦3連敗から1度も立ち直れず、143試合目で1986年以来21年ぶり、球団名変更後初の最下位が確定した。8月から東京の[[極超短波|UHF]]、[[東京メトロポリタンテレビジョン]](TOKYO MX)で2007年度初のテレビ中継が開始<ref group="注釈">ただし、MXテレビの親会社・東京新聞の関係で対中日戦のみ。</ref>。以前から年間数試合は中継があったが、2013年からは福岡ソフトバンクホークス主催の対ヤクルト戦ビジターゲームのみ中継している。9月、古田の現役引退・退団が発表された。なお、[[伊東昭光]]も辞意を表明したため、チーム最年長コーチの八重樫幸雄がヘッドコーチ代理を兼任していた。後任監督は[[高田繁]]、一軍投手コーチに荒木大輔がヤクルトに復帰した。最終的に青木宣親が[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]、[[アレックス・ラミレス]]が打点王・最多安打、[[セス・グライシンガー]]が最多勝投手になるが、ラミレスとグライシンガーの両外国人選手が巨人、[[石井一久]]がFAで西武に移籍。石井の人的補償として[[福地寿樹]]を獲得。年明けには[[藤井秀悟]]を交換要員とする3対3トレードを日本ハムと行い、[[押本健彦]]、[[川島慶三]]らを獲得した。グライシンガーに変わる外国人として韓国プロ野球で通算90勝を挙げ、この年も22勝及びシーズンMVP、最優秀防御率、最優秀勝率、ゴールデングラブ賞を獲得した[[ダニエル・リオス]]を2年総額は最大で380万ドルで獲得した。
 
====== 高田監督時代 ======
; [[2008年の東京ヤクルトスワローズ|2008年]]
前年チーム勝利数1位グライシンガー(16勝)、2位石井一久(9勝)、3位藤井秀悟(7勝)が軒並み移籍し、残った選手の勝ち星が4勝以下だった事もあり不安視されたが、巨人に開幕3連勝をするなど4月終了時は3位に立った。しかし、石川雅規、[[館山昌平]]に続く先発投手が中々出てこず、柱として期待した22勝投手のリオスは、6月28日禁止薬物使用が発覚し1年間の出場停止を受け7月14日に自由契約となった。野手では[[福地寿樹]]や[[飯原誉士]]をはじめとする俊足の選手が中心となったが、前年本塁打王争いを演じた[[アーロン・ガイエル]]の離脱などで長打力に欠けた。夏場には[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]で青木と宮本が離脱したため戦力が安定せず、シーズン終盤に8連敗(そのうち3試合がサヨナラで7試合が1点差)を喫し、CS争いを繰り広げる中日、広島に引き離され、5位に終わった。先発では石川、館山が共に復活し、12勝を挙げ、3年目の[[村中恭兵]]が負け越しはしたものの、先発ローテーションに入り、6勝を挙げた。さらに、前年まで崩壊していたリリーフ陣が怪我で苦しんでいる最中に[[林昌勇]]、押本健彦が活躍し、前年登板が無かった五十嵐が復活、先発で結果が出なかった[[松岡健一]]が転向し、結果を残すなど、整備が進んだ。オフに長打補強のため、[[ジェイミー・デントナ]]、中日を自由契約となった[[森岡良介]]、ソフトバンクを自由契約となった[[吉本亮 (内野手)|吉本亮]]を獲得し、オリックスを自由契約となった[[ユウキ (野球)|田中祐貴]]と[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成契約]]を結び、横浜からFA宣言した[[相川亮二]]を獲得(ヤクルトでは初のFA獲得)。
 
; [[2009年の東京ヤクルトスワローズ|2009年]]
序盤から2位をキープし、5月11日に田中祐貴を支配下選手に復帰させ、前半戦で貯金を最大14まで伸ばしたが、後半戦に入った途端に急失速、8月には1971年8月以来となる月間18敗(7勝)、9月にも1992年以来の9連敗を喫し、さらにはチームを支えてきた[[田中浩康]]や飯原、宮本、[[川島慶三]]といった主力が怪我で離脱、宮本が強行出場するなど、厳しい状態が続き、一時は阪神や広島に抜かれ、5位に転落した。しかし、[[高木啓充]]や[[鬼崎裕司]]の登場で息を吹き返し、10月9日の対阪神戦との直接対決に勝利して3位が確定し、2006年以来3年ぶりのAクラス入りで球団史上初のクライマックスシリーズ出場を決めたが、結果的に後半戦の大失速が響き、球団史上初の勝率5割未満のクライマックスシリーズ出場チームとなっている<ref group="注釈">CS導入以前のパ・リーグ[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]では[[2005年のパシフィック・リーグプレーオフ|2005年]]の西武が勝率5割未満で進出している。</ref>。
 
中日との[[2009年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ第1ステージ]]では第1戦は石川の好投とデントナの逆転本塁打で勝利したが、[[2009年新型インフルエンザの世界的流行|新型インフルエンザ]]により、選手が離脱したことも響いて、2・3戦と中日に2連敗。1勝2敗で敗退した。オフに阪神からFA宣言した[[藤本敦士]]を獲得。五十嵐亮太が[[ニューヨーク・メッツ]]にFA移籍。
 
; [[2010年の東京ヤクルトスワローズ|2010年]]
藤本敦士の活躍で開幕3連戦で鬼門の[[東京ドーム]]で勝ち越すなど、好調な滑り出しだったが、4月中旬以降は失速。交流戦で9連敗を喫するなど、一時は最下位に転落した。5月26日の対[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]戦をもって監督の高田が成績不振の責任を取って休養・辞任し<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/red_mpl/topicsView2.cgi?TYPE=t&SEQ=12655 高田監督の休養について] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20100601212046/http://www.yakult-swallows.co.jp/red_mpl/topicsView2.cgi?TYPE=t&SEQ=12655 |date=2010年6月1日 }} 東京ヤクルトスワローズ 2010年5月26日付</ref>、併せてヘッドコーチの[[小川淳司]]が監督代行として指揮を執ることを発表した。
 
====== 第1次小川監督時代 ======
※2010年の監督代行時代も含める。
; 2010年
6月に打線の補強のために新外国人として[[ジョシュ・ホワイトセル]]、トレードではリリーフ陣の補強として[[渡辺恒樹]]や[[山岸穣]]を獲得。小川体制になってからは野手陣と投手陣共に奮起し、徐々にチーム状況が好転していく。6月に14勝8敗、7月に11勝8敗、8月に10連勝を含む18勝8敗と大きく勝ち越した。8月24日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]戦で勝率を5割に復帰させ、その後も勝率5割前後を維持しながら3位とのゲーム差を徐々に詰め、最小で3.5ゲームまで3位との差を詰める。しかし、最終的には前半戦の不振が響いた形となり、4位に終わり、CS進出はならなかったが、成績は72勝68敗4分けと2004年以来6年ぶりに勝ち越した。翌年から監督代行の小川が正式に監督として指揮を執ることを発表した。
 
この年は首位中日に相性が良く、セ・リーグ5球団が苦手としたナゴヤドームでリーグ唯一の勝ち越し(シーズン通算で7勝4敗1分。小川体制移行後に限れば5勝1敗)、シーズン対戦成績も15勝8敗1分と唯一勝ち越し、特に小川体制移行後は12勝3敗と圧倒し、高田監督時代に非常に苦手としていた3位巨人に対しても、後半戦は同一カード3連勝を含む対巨人戦5連勝などもあり、小川体制に代わってからは8勝7敗1分と勝ち越した。
 
; [[2011年の東京ヤクルトスワローズ|2011年]]
[[東日本大震災]]の影響により、開幕日が当初の3月25日から4月12日に延期された。開幕直後は[[ウラディミール・バレンティン]]や[[畠山和洋]]などが好調で4月下旬にはセ・リーグの首位に立った。その後も首位をキープし続け、8月には阪神に一時詰め寄られるも、9月に9連勝して阪神の追撃をかわし、対巨人戦は12勝8敗4分と2000年以来11年ぶりに勝ち越した。しかし、バレンティンや畠山ら主軸打者がシーズン終盤から相次いで打撃不振に陥ったことに加え、主力選手の離脱が相次ぎ、最大10ゲーム差をつけていた2位中日との直接対決は9月以降で1勝8敗と大きく負け越し、2位に後退したため、最終的には70勝59敗15分、首位とは2.5ゲーム差で2001年以来10年ぶりのリーグ優勝を逃した。10月25日に明治神宮球場で行われた引退試合を最後に石井弘寿が現役を引退した。[[2011年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズファーストステージ]]で巨人に2勝1敗で勝利、球団史上初のファイナルステージに進出したが、中日に2勝4敗で敗退した。バレンティンが本塁打王を獲得。オフに青木宣親がポスティングシステムでミルウォーキー・ブルワーズに移籍。
 
; [[2012年の東京ヤクルトスワローズ|2012年]]
3月19日には球団事務所が東京都港区の東新橋から明治神宮野球場にほど近い北青山に移転した<ref>{{Cite news|title=【ヤクルト】球団事務所が北青山引っ越し|newspaper=[[日刊スポーツ]]|date=2012-03-19|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20120319-919853.html |accessdate=2024-04-12|publisher=日刊スポーツ新聞社}}</ref>。3月30日の開幕・巨人戦で球団史上初の開幕戦完封勝ちを記録(対する巨人は球団史上初の開幕戦完封負け)し、4月24日に対中日戦(神宮)に勝利し、首位タイとすると<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20120424.html 04月24日(火)東京ヤクルトスワローズ-中日ドラゴンズ] ヤクルト球団公式サイト {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130526135254/http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20120424.html |date=2013-05-26}}</ref>、続く26日の同カードでも勝利して単独首位に立つが<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20120426.html 04月26日(木)東京ヤクルトスワローズ-中日ドラゴンズ] - ヤクルト球団公式サイト</ref>、交流戦では5月30日に対日本ハム戦(神宮)に敗れ、1973年以来39年ぶりとなる10連敗を記録するなど<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20120530.html 05月30日(水)東京ヤクルトスワローズ-北海道日本ハムファイターズ] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20130526071201/http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20120530.html |date=2013年5月26日}}ヤクルト球団公式サイト</ref>、9勝15敗の最下位に終わり、巨人・中日の首位争いから後退、前半戦は広島と同ゲーム差の4位となり、後半戦は広島との3位争いとなる。9月29日、対中日戦(神宮)に0対4で敗れたが、この日広島も阪神に敗れたため、3位が確定し、2年連続クライマックスシリーズ出場が決定した<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20120929.html 09月29日(土)東京ヤクルトスワローズ-中日ドラゴンズ] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130526071137/http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20120929.html |date=2013-05-26}}ヤクルト球団公式サイト</ref>。[[2012年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズファーストステージ]]では中日と対戦。1勝1敗とした第3戦で1対0でリードしていた8回裏に[[トニ・ブランコ]]に満塁本塁打を打たれて逆転され、1勝2敗で敗退した<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20121015.html 10月15日(月)中日ドラゴンズ-東京ヤクルトスワローズ]{{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121019165432/http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20121015.html|date=2012-10-19}}ヤクルト球団公式サイト</ref>。福地寿樹<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/information/detail.php?article_seq=15283 福地選手が現役引退を表明、ファンの皆様、関係者の皆様へ] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121012011243/http://www.yakult-swallows.co.jp/information/detail.php?article_seq=15283|date=2012-10-12}}ヤクルト球団公式サイト</ref>、[[宮出隆自]]<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/information/detail.php?article_seq=15282 宮出選手が現役引退を表明、ファンの皆様、関係者の皆様へ] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121025172059/http://www.yakult-swallows.co.jp/information/detail.php?article_seq=15282|date=2012-10-25}}ヤクルト球団公式サイト</ref>が現役を引退し、林昌勇が退団した<ref>{{Cite news|title=【ヤクルト】林昌勇退団…5年で128S|newspaper=日刊スポーツ|date=2012-11-15|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20121115-1047261.html |accessdate=2015-10-03|publisher=[[日刊スポーツ新聞社]]}}</ref>。5月4日に宮本慎也が通算2000本安打を達成した。バレンティンが2年連続本塁打王を獲得。オフに元楽天の岩村明憲が7年ぶりに復帰<ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/sports/news/20121212k0000m050022000c.html?inb=fa|title=ヤクルト:岩村が古巣復帰…7年ぶり|newspaper=毎日.jp|publisher=毎日新聞|date=2012-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131021150507/http://mainichi.jp/sports/news/20121212k0000m050022000c.html?inb=fa |archivedate=2013-10-21|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。
 
; [[2013年の東京ヤクルトスワローズ|2013年]]
5月に広島(8月以降にも3位)、6月に中日、7月にDeNAに3位を奪われ、最下位に低迷。9月23日の対阪神戦(甲子園)に0対2で敗れ、クライマックスシリーズ進出の可能性が消滅し、2010年以来3年ぶりのBクラス<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20130924/swa13092405020000-n1.html バレ沈黙3の0…ヤクルトCS完全消滅]{{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130930002521/http://www.sanspo.com/baseball/news/20130924/swa13092405020000-n1.html |date=2013-09-30}}スポーツニッポン2013年9月24日配信</ref>、続く10月1日の対巨人戦(神宮)に1対0で敗れ、2007年以来6年ぶりの最下位が確定した<ref>{{Cite news|title=ヤクルト 6年ぶり最下位決定「申し訳ない。監督の力不足」|newspaper=スポニチアネックス|date=2013-10-01|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/01/kiji/K20131001006728150.html |accessdate=2015-10-03 |publisher=[[スポーツニッポン新聞社]] }}</ref>。本拠地では31勝32敗1分だったが、ビジターでは26勝51敗3分と大きく負け越した<ref name="週刊ベースボール、2013年12月9日号">{{Cite journal|journal=[[週刊ベースボール]]|date=2013-12-09|page=92}}</ref>。投手では新人の[[小川泰弘]]が16勝4敗で最多勝と勝率第1位投手賞の2冠、野手ではバレンティンが8月に日本プロ野球新記録の月間18本塁打を記録するなど<ref>{{Cite news|title=バレンティン 月間本塁打日本新!8月17本目の51号|newspaper=スポニチアネックス|date=2013-08-28|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/28/kiji/K20130828006503890.html |accessdate=2015-10-03|publisher=スポーツニッポン新聞社}}</ref>、本塁打を量産、9月15日の対阪神戦(神宮)で日本プロ野球新記録のシーズン56号本塁打とアジア野球新記録の57号本塁打<ref>{{Cite news|title=バレンティン プロ野球新の次は2打席連続57号弾!アジア記録も抜く|newspaper=スポニチアネックス|date=2013-09-15|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/15/kiji/K20130915006623210.html |accessdate=2015-10-03|publisher=スポーツニッポン新聞社}}</ref>を記録し、この年60本として3年連続本塁打王を獲得した<ref>{{Cite news|title=バレ、3年連続本塁打王、ブランコ2冠、新人の小川が投手2冠|newspaper=スポニチアネックス|date=2013-10-08|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/08/kiji/K20131008006774860.html |accessdate=2015-10-03|publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。しかし、バレンティン以外は規定打席到達者が出ないなど、野手陣の不調・故障が響いた。[[宮本慎也]]、[[藤本敦士]]が現役を引退した<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20130827/swa13082705060003-n1.html 宮本、5年以内にヤクルト監督! 涙なし引退会見] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140113003613/http://www.sanspo.com/baseball/news/20130827/swa13082705060003-n1.html |date=2014-01-13}} サンケイスポーツ 2013年8月27日配信</ref><ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20130910/swa13091005020001-n1.html ヤクルト・藤本が引退会見「野球全うできて幸せ」] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140201204326/http://www.sanspo.com/baseball/news/20130910/swa13091005020001-n1.html|date=2014-02-01}} サンケイスポーツ 2013年9月10日配信</ref>。
 
; [[2014年の東京ヤクルトスワローズ|2014年]]
7月以降はDeNAに5位を奪われ、最下位に低迷。9月22日に小川淳司監督が球団に申し入れ、今季限りで監督を辞任することを会見で表明<ref>{{Cite news |title=ヤクルト 小川監督が辞意 球団に伝え受理「当然のこと」 |newspaper=スポニチアネックス |date=2014-09-22 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/22/kiji/K20140922008973540.html |accessdate=2015-10-03 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>、9月29日の対広島戦(マツダスタジアム)に敗れ、2年連続最下位が確定した<ref>{{Cite news |title=ヤクルト2年連続最下位「これが現状」 |newspaper=日刊スポーツ |date=2014-09-29 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20140929-1374993.html |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。打撃陣は規定打席に到達して3割2桁本塁打を達成した選手を5人([[山田哲人]]、[[雄平]]、[[畠山和洋]]、[[川端慎吾]]、バレンティン)擁し、チーム打率・得点数はリーグトップだった反面、規定投球回に到達した投手はリーグ防御率最下位の石川雅規のみであり、チーム防御率・失点数は最下位だった。10月8日、後任にチーフ打撃コーチの[[真中満]]の就任が発表された<ref>{{Cite news |title=ヤクルト真中新監督会見「覚悟して勝負」 |newspaper=日刊スポーツ |date=2014-10-08 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20141008-1379064.html |accessdate=2015-10-03 |publisher=日刊スポーツ新聞社 }}</ref>。
 
オフに相川亮二が[[読売ジャイアンツ]]にFA移籍。2年続けて最下位に陥った低迷から脱却するため、大型補強を敢行した。[[千葉ロッテマリーンズ]]からFA宣言した[[成瀬善久]]、[[北海道日本ハムファイターズ]]からFA宣言した[[大引啓次]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.npb.or.jp/players/2014fa_signed.html |title=2014年度 フリーエージェント宣言選手契約締結合意 |publisher=[[日本野球機構]] |accessdate=2014-11-25 }}</ref>、メジャーリーガーの[[ローガン・オンドルーセック]]<ref>{{Cite web |title=ヤクルト、守護神候補オンドルセク獲得「日本一に貢献したい」 |url=https://www.sanspo.com/article/20141230-LP66VCBF5RP5NG3H2IJA5VIC5E/ |website=サンスポ |date=2014-12-30 |access-date=2025-05-08 |language=ja}}</ref>、読売ジャイアンツにFA移籍した相川の人的補償として[[奥村展征]]を獲得<ref name="sponichi009600460">{{Cite news|title=人的補償でヤクルト移籍の奥村が会見「最初は驚きましたが…」|newspaper=スポニチアネックス|date=2015-01-09|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/01/09/kiji/K20150109009600460.html|accessdate=2015-10-03|publisher=スポーツニッポン新聞社}}</ref>。
 
====== 真中監督時代 ======
; [[2015年の東京ヤクルトスワローズ|2015年]]
開幕後はプロ野球記録となる14試合連続3失点以下を達成する<ref>{{Cite news |title=ヤクルト連続3失点以下の日本記録15戦目で途切れる |newspaper=日刊スポーツ |date=2015-04-13 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1460708.html |accessdate=2015-10-03 |publisher=日刊スポーツ新聞社 }}</ref>など、投手陣が好調だったこともあり、一時は首位に立ったが、5月に入ると9連敗を喫し、最下位に転落した<ref>{{Cite news |title=ヤクルト9連敗 真中監督「ずっとあと一本という展開」 |newspaper=産経ニュース |date=2015-05-16 |url=https://www.sankei.com/article/20150516-UOT4OWL2ZJIX3DKXRG2DD65XPQ/ |accessdate=2015-10-03 |publisher=産業経済新聞社 }}</ref>。バレンティンや[[ラスティングス・ミレッジ]]ら主軸選手の怪我もあり、5月22日に[[ミッチ・デニング]]([[オイシックス新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ|新潟アルビレックスBC]])と基本合意した<ref>{{Cite web|和書|date=2015-05-22|url=http://www.niigata-albirex-bc.jp/news.php/archives/id/1966/ |title=デニング選手東京ヤクルトスワローズとの移籍基本合意のお知らせ|publisher=新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ|accessdate=2015-05-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2015-05-22 |url=http://www.yakult-swallows.co.jp/news/detail/18340 |title=ミッチェル・ジョン・デニング選手と契約 |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2015-05-22 }}</ref>。前半戦は4位ながらも首位・DeNAとは僅差の状態でターンした<ref>{{Cite news |title=セ・リーグ6球団監督が前半戦を総括 |newspaper=日刊スポーツ |date=2015-07-16 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1507867.html |accessdate=2015-10-03 |publisher=日刊スポーツ新聞社 }}</ref>。後半戦突入後は阪神・巨人とのデッドヒートの末、9月24日の対DeNA戦に4-2で勝利し、2012年以来3年ぶりのAクラス入りとセ・リーグ一番乗りでのクライマックスシリーズ進出を決め<ref>{{Cite news |title=ヤ4-2D ヤクルトが4連勝|newspaper=産経新聞|date=2015-09-24|url=https://web.archive.org/web/20150925151247/http://www.sankei.com/sports/news/150924/spo1509240052-n1.html |accessdate=2015-09-24}}</ref>、9月27日の対巨人戦に勝利し、優勝へのマジックナンバー「3」を点灯させた<ref>{{Cite news|title=ヤクルト 優勝へのマジックナンバー3が点灯|newspaper=NHKニュース|date=2015-09-27|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150927/k10010249921000.html|accessdate=2015-10-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150929210513/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150927/k10010249921000.html |archivedate=2015年9月29日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。そして10月2日の対阪神戦(神宮)に2-1で勝利し、2001年以来14年ぶり、チーム名変更後初のリーグ優勝を前身を含め、本拠地で決めた<ref>{{Cite news|title=ヤクルト サヨナラで下克上V! 2年連続最下位から巨人4連覇阻止|newspaper=スポニチアネックス|date=2015-10-02|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/10/02/kiji/K20151002011247330.html |accessdate=2015-10-02|publisher=スポーツニッポン新聞社}}</ref>。前年度最下位からのリーグ優勝は1976年の巨人以来<ref group="注釈">セ・リーグでは4度目、パ・リーグ(後述の近鉄)を含め、5度目の事例。</ref>となり、2年連続最下位からのリーグ優勝は2001年の[[大阪近鉄バファローズ]]以来となった。また、巨人と中日以外のチームがリーグ優勝を果たすのは2005年の阪神以来10年ぶりである(2006年から2015年の間は中日と巨人がリーグ優勝をしていた)。バーネットが自身2度目となる[[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最多セーブ投手]]、川端慎吾が[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]と[[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]]、山田哲人が[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]と[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]と[[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]、畠山和洋が[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]のタイトルを獲得し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1584288.html |date=2017-10-04 |title=ヤクルト 打撃3冠部門の1、2位独占は史上初 |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2017-11-28}}</ref>、山田は史上9人目となる[[トリプルスリー]]も達成した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK00447_U5A001C1000000/ |date=2015-10-04 |title=ヤクルト・山田、トリプルスリー達成 史上9人目 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2017-11-28}}</ref>。なお打撃三部門をヤクルトの選手が独占したが、過去には三冠王や二冠王+他の同僚選手が一冠はあるものの、「同一チームの異なる3選手で打撃タイトル三部門を一冠ずつを獲得」は、今回のヤクルトが史上初である。[[2015年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]でも4勝1敗(アドバンテージの1勝を含む)で巨人を下し、2001年以来14年ぶりの日本シリーズ出場が決定。[[2015年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[福岡ソフトバンクホークス]]と対戦する中、10月29日に明治神宮球場で行われた第5戦を最後に[[松元ユウイチ]]が現役を引退した。その後、5戦全て先発投手<ref group="注釈">第1戦と第5戦は石川、第2戦が小川、第3戦は杉浦、第4戦は館山である。</ref>が5イニング持たずに1勝4敗で敗れ、2001年以来14年ぶり、チーム名変更後初の本拠地での日本一を逃した。
 
オフにオリックスを自由契約となった[[坂口智隆]]、北海道日本ハムファイターズを自由契約となった[[鵜久森淳志]]を獲得<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/1565730.html ヤクルトが坂口智隆と鵜久森淳志の獲得を発表] 日刊スポーツ 2015年11月13日</ref>。バーネットが[[テキサス・レンジャーズ]]に移籍<ref>[https://web.archive.org/web/20160813134529/http://www.iza.ne.jp/kiji/sports/news/151216/spo15121608440004-n1.html ヤクルト救援右腕のバーネット、レンジャーズへ「ずっと夢だった」] iza(産経新聞デジタル) 2015年12月16日</ref>。[[由規]]が肩の負傷を理由に戦力外として育成契約を結んだ。
 
; [[2016年の東京ヤクルトスワローズ|2016年]]
3月23日、選手10名が去年夏の高校野球決勝の勝利チームを予想し、賭け金を集め、予想の当たったものに分配していたことが発覚した<ref>{{Cite news |title=続々と出てくる「賭け問題」 2球団が相次ぎ発表 |newspaper=テレビ朝日 |date=2016-03-22 |url=http://news.tv-asahi.co.jp/news_sports/articles/000070879.html}}</ref>。{{Main|読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題}}
チームは主砲のバレンティンを欠いたことが響き、2007年以来9年ぶりの開幕4連敗を喫した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/03/30/kiji/K20160330012306830.html |title=ヤクルト9年ぶり開幕4連敗 真中監督「いつまで続くかね」 |publisher=スポーツニッポン |accessdate=2017-09-01}}</ref>。5月30日に新外国人として[[河載勲|ジェフン]]を獲得。以降もドラフト1位ルーキーの[[原樹理]]が右肩甲下筋肉離れ、エースの石川が左脹脛痛、館山も右肘の手術と投手陣だけでなく、山田が左第八肋骨骨挫傷、昨年首位打者の川端が右足舟状骨骨折、打点王の畠山も左手首痛、雄平が左脇腹痛、大引も腰痛で離脱と昨年にはなかった主軸の故障者が続出したことで、下位に低迷した<ref>[https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20160623/bbl1606231700008-n1.htm 燕・由規復帰は“株主対策”の切り札? 総会で投壊追及され球団社長は…] zakzak(夕刊フジ) 2016年6月23日</ref>。6月26日の中日戦では守護神・オンドルセクが守備固めで入っていた[[比屋根渉]]のミスで同点に追い付かれたことに対し、降板後に暴言を吐き、謹慎処分が下された事が引き金となって7月21日に退団<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1682192.html |title=オンドルセクがヤクルト退団「心の中では葛藤が…」 |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2017-09-01}}</ref>し、更なる苦境に陥った。低迷するチーム状況の中、7月5日に由規を支配下選手に復帰させ、17日にオリックスから[[八木亮祐]]とのトレードで[[近藤一樹]]を獲得し、テコ入れを図り、由規が24日の対中日戦で1786日ぶりの勝利を挙げた<ref>{{Cite news |title=ヤクルト由規1786日ぶり白星「感極まってます」 |newspaper=日刊スポーツ |date=2016-07-24 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1683810.html |accessdate=2016-07-24}}</ref>。しかし、9月19日にDeNAが勝利したことで、2014年以来2年ぶりのBクラスと2008年以来8年ぶりの5位が確定した<ref>{{Cite news |title=ヤクルト Bクラス確定 真中監督「結果が全て」 |newspaper=スポニチアネックス |date=2016-09-20 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/09/20/kiji/K20160920013387630.html |accessdate=2016-09-22 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。9月28日に明治神宮球場で行われた引退試合を最後に森岡良介が現役を引退した。山田が2年連続のトリプルスリーを獲得した<ref>{{Cite news |title=ヤクルト・山田哲人が2年連続「トリプルスリー」&100打点達成、史上初の快挙 |newspaper=産経ニュース |date=2016-10-01 |url=https://www.sankei.com/article/20161001-4UNHBLG4RBJRJLG5J5LAUC2MRI/ |accessdate=2016-10-02 |publisher=産経新聞社 }}</ref>ものの、投手陣はチーム防御率4.73(5位DeNAと約1点差)、失点694(5位DeNAと106点差)とセ・リーグ最下位<ref>{{Cite news |title=2016年度 セントラル・リーグ チーム投手成績 |url=http://npb.jp/bis/2016/stats/tmp_c.html |accessdate=2016-11-19 |publisher=[[日本野球機構]] }}</ref>、1970年以来の2桁勝利投手ゼロ<ref>{{Cite news |title=2016年度 東京ヤクルトスワローズ 個人投手成績(セントラル・リーグ) |url=http://npb.jp/bis/2016/stats/idp1_s.html |accessdate=2016-11-19 |publisher=[[日本野球機構]] }}</ref>と不名誉な記録を残した。
 
オフに田中浩康が自由契約となった(DeNAに移籍)。
 
; [[2017年の東京ヤクルトスワローズ|2017年]]
前年と同じく川端<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20170817-KM3IKOB7PJL7BMKBWARDPNVZUM/ |title=ヤクルト・川端がヘルニア手術決断 今季1軍復帰絶望 |publisher=サンケイスポーツ |accessdate=2017-09-01}}</ref>、畠山<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1810379.html |title=ヤクルト畠山、長期離脱濃厚…真中監督「故障多い」
|publisher=日刊スポーツ |accessdate=2017-09-01}}</ref>、バレンティン<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20170608-QRN2OB7D5RN6FGABDNBB34U6E4/ |title=ヤクルト、大きな痛手…バレが右足の違和感訴え抹消へ |publisher=サンケイスポーツ |accessdate=2017-09-01}}</ref>、[[中村悠平]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20170614-BYR376ZNXJJWNEMINYSVMG4TWM/ |title=ヤクルト・中村が右大腿骨の骨挫傷で抹消へ 「けがで離脱するのが一番悔しい」 |publisher=サンケイスポーツ |accessdate=2017-09-01}}</ref>、小川<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20170601-3L4LA4YKWNJVRKH6E2OKEB7THQ/ |title=ヤクルト・ライアン小川が肉離れ…復帰のめど立たず |publisher=サンケイスポーツ |accessdate=2017-09-01}}</ref>、[[秋吉亮]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/07/04/kiji/20170704s00001173297000c.html |title=ヤクルト守護神・秋吉 長期離脱か…右肩甲下筋肉離れ 最悪今季絶望も |publisher=スポーツニッポン |accessdate=2017-09-01}}</ref>、雄平<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1847774.html |title=ヤクルト雄平が右手首骨折、今季絶望的「痛手」監督 |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2017-09-01}}</ref>、大引<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20170707-RSEOYVCQDRLOVOR3BVC2IUVWYQ/ |title=“ヤ戦病院”5連敗…ヤクルト、左肩負傷の大引も離脱 |publisher=サンケイスポーツ |accessdate=2017-09-01}}</ref>らチームの主力級に故障が相次ぎ、交流戦から終盤にかけて最下位に低迷。5月30日の[[オリックス・バファローズ]]戦から6月10日の[[千葉ロッテマリーンズ]]戦まで10連敗、7月1日の阪神戦から7月21日の阪神戦まで14連敗を喫した。前半戦だけで二度の10連敗以上の大型連敗を喫し、これは1956年の[[高橋ユニオンズ]]以来61年ぶりであった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1854423.html |date=2017-07-12 |title=ヤクルト61年ぶりの珍記録!前半で2度の10連敗 |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2017-07-14}}</ref>。7月26日の対中日ドラゴンズ戦(神宮)で史上4度目、セントラル・リーグでは66年ぶりとなる最大10点差(延長10回)をひっくり返しての逆転勝利を収める<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/07/27/kiji/20170726s00001173226000c.html |date=2017-07-27 |title=ヤクルト セ66年ぶり10点差逆転勝利 大松今季2度目代打サヨナラ弾 |publisher=スポニチ |accessdate=2017-07-27}}</ref>も、記録的な低迷は続き、最終的には球団ワースト記録を更新する96敗を喫し、2014年以来3年ぶりの最下位が決定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201710040000106.html |date=2017-10-04 |title=ヤクルト最悪更新96敗 退任真中監督涙の胴上げ |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2017-10-13}}</ref>。また、チーム打率・得点・本塁打もリーグ最下位に終わった。真中監督が辞任し、後任監督として2014年まで指揮を執った小川淳司が復帰することになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201710050000461.html |date=2017-10-05 |title=ヤクルト小川淳司監督復帰 チーム力の強化を |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2017-10-13}}</ref>。オフに青木宣親が7年ぶりに復帰<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201802070000041.html |date=2018-02-07 |title=青木7年ぶり復帰会見「ヤクルトを愛しています |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2018-02-15}}</ref>。
 
====== 第2次小川監督時代 ======
; [[2018年の東京ヤクルトスワローズ|2018年]]
序盤は苦戦したものの、交流戦開始頃から巻き返し、6月17日の日本ハム戦に勝利して初めて交流戦最高勝率を決めた<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20180619013205/https://www.sanspo.com/baseball/news/20180617/npb18061718260005-n1.html |date=2018-06-17|title=ヤクルトが初の交流戦最高勝率、パは9年連続の勝ち越し|newspaper=サンケイスポーツ |accessdate=2018-10-12}}</ref>。過去2年は怪我人に泣かされたが、大きな故障者も出ず、後半戦でもAクラスを維持し、10月1日に2015年以来3年ぶりとなる3位以内とクライマックスシリーズ進出が決定した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK10986_R01C18A0000000/ |date=2018-10-01 |title=ヤクルトのCS進出決定 セ・リーグ、3年ぶり5度目|newspaper=日本経済新聞|accessdate=2018-10-12}}</ref>。2日のDeNA戦に3-2で勝利して2位が確定し、神宮球場でのクライマックスシリーズ開催権を得た<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/10/02/kiji/20181002s00001173417000c.html |date=2018-10-02|title=セはヤクルトが2位、パはソフトバンクの2位と日本ハムの3位が決定|newspaper=スポーツニッポン|accessdate=2018-10-12}}</ref>。しかし、迎えたクライマックスシリーズでは巨人に2連敗し、2015年以来3年ぶりの日本シリーズ進出はならなかった<ref>{{Cite web|和書|url=https://full-count.jp/2018/10/14/post227964/ |title=ヤクルトCS初のノーヒットノーランで終戦 小川監督「勝負に負けたということ」|website=Full-Count |date=2018-10-14|accessdate=2021-05-29}}</ref>。[[松岡健一]]、[[武内晋一]]、[[山本哲哉]]、鵜久森淳志が現役を引退した<ref>{{Cite web|和書|url=https://full-count.jp/2018/12/06/post261564/|title=最下位から2位に躍進したヤクルトの戦力整理…7選手に戦力外を通告|accessdate=2021-11-25|website=Full-Count}}</ref>。
 
オフに成瀬善久が自由契約となった(オリックスに移籍)。ソフトバンクを自由契約となった[[寺原隼人]]を獲得。
 
; [[2019年の東京ヤクルトスワローズ|2019年]]
1月30日にソフトバンクを自由契約となった五十嵐亮太が10年ぶりに復帰<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.zakzak.co.jp/article/20190125-JQPTGOR3WJMH5AICPXRGKXDAJA/ |title=五十嵐亮太、10年ぶりヤクルト復帰の"紆余曲折" 本人もビックリ「最初は間違い電話だと」|accessdate=2020-10-26|publisher=zakzak}}</ref>。4月26日と5月26日に青木宣親、[[山田哲人]]、[[ウラディミール・バレンティン|バレンティン]]による同シーズン2度の三者連続本塁打を記録したが、5月14日から6月1日にかけてリーグワーストに並ぶ16連敗を喫する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.baseballchannel.jp/npb/65974/ |title=ヤクルト、49年ぶりの屈辱。リーグワーストタイ16連敗 前半戦に大量失点、打線も4安打完封|accessdate=2020-10-26|website=ベースボールチャンネル}}</ref> など、序盤から苦しんだ。シーズンを通しては[[山田哲人]]、[[村上宗隆]]、[[ウラディミール・バレンティン|バレンティン]]の3人が30本塁打以上を記録したが、投手陣が苦しんだこともあり、前年の2位から一転して借金23の最下位に沈んだ<ref>{{Cite web|和書|url=https://spaia.jp/column/baseball/npb/9211 |title=数字で見る2019年のヤクルト、656得点はセ2位も投手成績は軒並みワーストを記録|accessdate=2020-10-26|website=SPAIA}}</ref>。[[小川淳司]]監督の辞任が決定し、[[宮本慎也]]ヘッドコーチの辞任も発表され<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201909100000476.html |title=ヤクルトが小川監督の辞任了承、宮本ヘッドも辞任|accessdate=2020-10-26|newspaper=日刊スポーツ}}</ref>、次期監督には二軍監督を務めていた[[高津臣吾]](2022年からは「髙津臣吾」表記<ref>{{Cite web|和書|url=https://shinsho.kobunsha.com/n/ne2f9273bb15f |title=一軍監督になって、すぐに変えられたこととは? ――髙津臣吾著『一軍監督の仕事』より本文、目次公開|date=2022-05-01|work=光文社新書 公式note|accessdate=2022-10-01}}</ref>)が就任することとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.baseballchannel.jp/npb/72192/ |title=ヤクルト、高津臣吾氏の監督就任を発表 現2軍監督、2015年には投手コーチでリーグV貢献|accessdate=2020-10-26|website=ベースボールチャンネル}}</ref>。村上宗隆は高卒2年目ながら36本塁打96打点を記録し、新人王のタイトルを獲得、10代におけるシーズン最多本塁打を更新、[[中西太]]が1953年に記録した高卒2年目以内の最多本塁打に並んだ<ref>{{Cite web|和書|url=https://full-count.jp/2019/09/21/post546638/ |title=燕村上が36号弾! 高卒2年目以内の最多本塁打記録に並ぶ|accessdate=2020-10-26|website=Full-Count}}</ref>。ドラフトでは目玉であった星稜高校の[[奥川恭伸]]を3球団競合の末に交渉権を獲得した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.baseballchannel.jp/npb/73104/ |title=【ドラフト速報】星稜・奥川泰伸は3球団競合でヤクルトが交渉権獲得! 大船渡・佐々木朗希は4球団競合でロッテ|accessdate=2020-10-26|website=ベースボールチャンネル}}</ref>。また、メジャー通算1367安打、14年は青木と同僚で15年には遊撃手として[[ゴールドグラブ賞]]を受賞した[[アルシデス・エスコバー]]<ref>{{Cite news|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/10/31/kiji/20191031s00001173071000c.html |title=ヤクルト、エスコバー獲得 メジャー1367安打の大物遊撃手、DeNAエスコバーのいとこ|accessdate=2020-10-26|newspaper=スポニチ}}</ref>、[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]を退団した[[嶋基宏]]、[[今野龍太]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://full-count.jp/2019/12/04/post624729/ |title=ヤクルト、楽天退団の嶋、今野の獲得を発表 背番号は「45」、「69」に決定|accessdate=2020-11-15|website=Full-Count}}</ref>、ソフトバンクとの再契約を保留していた[[長谷川宙輝]]を支配下選手として獲得<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20191123083300/https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/561953/ |title=ソフトバンク痛い流出「ルールなので…」 長谷川宙支配下でヤクルトへ|accessdate=2020-11-15|newspaper=西日本スポーツ}}</ref>。9年間在籍して主軸を張ってきたバレンティンがソフトバンクに移籍<ref>{{Cite news|和書|url=https://hochi.news/articles/20191216-OHT1T50254.html?page=1 |title=【ソフトバンク】バレンティン、年俸5億円2年契約 背番号4「全力を尽くす」|accessdate=2021-11-25|newspaper=スポーツ報知}}</ref>。館山昌平、畠山和洋、[[三輪正義]]、寺原隼人が現役を引退した<ref>{{Cite news|url=https://full-count.jp/2019/12/17/post637275/ |title=最下位ヤクルトの戦力整理…バレンティンが鷹移籍、館山や畠山が現役退く|accessdate=2021-11-25|website=Full-Count}}</ref>。
 
この年は[[令和]]最初のペナントレースだったため<ref>{{Cite web|和書|title=和暦・西暦・年齢対照表|url=https://center6.umin.ac.jp/cgi-open-bin/nengou.cgi |website=UMIN|accessdate=2024-04-27|publisher=国立大学病院長会議 大学病院医療情報ネットワーク協議会}}</ref>、ヤクルトは「令和最初のセ・リーグ最下位球団」となった<ref>{{Cite web|和書|title=シーズン成績 2019年度 セントラル・リーグ チーム勝敗表|url=https://npb.jp/bis/yearly/centralleague_2019.html |website=NPB|accessdate=2025-06-08|publisher=日本野球機構}}</ref>。
 
====== 高津(→ 髙津)監督時代 ======
; [[2020年の東京ヤクルトスワローズ|2020年]]
[[新型コロナウイルス感染拡大]]の影響で3月20日に予定されていたプロ野球の開幕は延期される<ref>{{Cite web|和書|url=https://thedigestweb.com/baseball/detail/id=11666 |title=プロ野球の開幕延期が決定。新型コロナ感染拡大を受け、NPBが発表|accessdate=2020-10-26|website=THE DIGEST}}</ref>ことになり、6月19日に無観客試合で開幕した<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASN6M4RZQN6KUTQP02B.html |title=【詳報】プロ野球、異例の開幕戦 コロナで無観客試合|accessdate=2020-10-26|newspaper=朝日新聞DIGITAL}}</ref>。序盤は上位争いを展開していたが、徐々に失速していった。10月14日のDeNA戦からベンチ担当の[[斎藤隆 (野球)|斎藤隆]]投手コーチとブルペン担当の石井弘寿投手コーチを入れ替えるなどしたが、2年連続最下位に終わった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202010300001237.html |title=ヤクルト2年連続の最下位確定「毎日反省」高津監督|accessdate=2021-11-24|newspaper=日刊スポーツ}}</ref>。五十嵐亮太、[[中澤雅人]]、[[井野卓]]が現役を引退した<ref>{{Cite web|和書|url=https://full-count.jp/2020/12/15/post1001301/|title=最下位ヤクルトが行った戦力整理 14年ドラ2右腕ら戦力外、新助っ人全員が自由契約|accessdate=2021-11-24|website=Full-Count}}</ref>。
 
オフに[[風張蓮]]、近藤一樹が自由契約となった(風張はDeNA、近藤は[[香川オリーブガイナーズ]]に移籍)。長打力不足による貧打解消のため、前[[ピッツバーグ・パイレーツ|パイレーツ]]の[[ホセ・オスナ]]<ref>{{Cite news|url=https://www.sanspo.com/article/20201127-G4HTJCIPMRKKBL245N5HVXIYJ4/|title=ヤクルト、新外国人選手にオスナ獲得 大リーグ24本塁打の三塁手|accessdate=2021-11-24|newspaper=サンケイスポーツ}}</ref>、前[[クリーブランド・ガーディアンズ|インディアンス]]の[[ドミンゴ・サンタナ]]<ref>{{Cite news|url=https://www.sanspo.com/article/20201203-YUWIYZV2VBOB3DJPUVYY4JZKCA/|title=ヤクルトがメジャー通算77発のドミンゴ・サンタナと1年契約|accessdate=2021-11-24|website=サンケイスポーツ}}</ref>、ソフトバンクを退団した[[内川聖一]]を獲得。
 
; [[2021年の東京ヤクルトスワローズ|2021年]]
開幕からサンタナ、オスナ二人を欠いたことが響き、開幕3連敗スタート、4戦目に初勝利を挙げた翌日に青木・川端を中心とした主力選手のコロナウイルスの離脱など出だしは苦難のスタートだったが、サンタナ、オスナ加入後のチームは投打ともに充実した成績を残し、7月時点で最大7ゲーム差をつけられていた阪神を追い抜き、9月以降は首位を堅持し、10月26日に2015年以来6年ぶりのリーグ優勝{{Efn|この年は73勝52敗18分(.584)での優勝であり、2位の阪神(77勝56敗10分)より4勝少なかったが、通期の勝率1位チームが勝星で(-4)勝であったのはNPB史上初である。}}。CSは[[読売ジャイアンツ]]相手に勝利し、2015年以来6年ぶりの[[2021年の日本シリーズ|日本シリーズ]]出場が決定した。シリーズはオリックス相手に全6試合2点差以内の接戦の中、4勝2敗で制し、2001年以来20年ぶり、チーム名変更後初の日本一を達成した。
 
先発含めて二桁勝利を挙げた投手は不在だったが、打者陣は村上がキャリアハイの39本塁打・112打点、山田も34本塁打を放ち、5年ぶりに100打点をマーク。塩見が中堅手に定着し、オスナとサンタナの両助っ人が1年通して機能した。
 
; [[2022年の東京ヤクルトスワローズ|2022年]]
セ・リーグ初の交流戦完全優勝と1993年以来29年ぶりのセ・リーグ連覇を達成<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/baseball/2022/09/25/0015669904.shtml |title=ヤクルトが連覇 コロナ禍乗り越え 球団では野村克也監督以来の金字塔 新人サヨナラ打の大仕事|newspaper=デイリー|publisher=デイリースポーツ|date=2022-09-25|accessdate=2023-04-29}}</ref>。村上がシーズンを通して圧倒的な成績を残し、9月13日には日本選手最多タイとなるシーズン55本塁打を記録した。村上は最終的に日本選手単独最多56本塁打を放ち、打撃三部門すべてのタイトルを獲得し令和初の[[三冠王]]となった。
 
CSは阪神をスイープ(3戦全勝)して2年連続で[[2022年の日本シリーズ|日本シリーズ]]に進出した。日本シリーズは前年と同様、オリックスとの顔合わせとなり、神宮での第1戦、京セラドーム大阪での第3戦は勝利し、第2戦も3点ビハインドの9回に内山が同点の3ランホームランで追いつき引き分けたが、シリーズを通して前年の日本シリーズは全て青木が務めていた2番が固定出来ず<ref group="注釈">山崎は第1戦と第2戦と第4戦で、宮本は第3戦、青木が第5戦と第6戦、マクガフと共に東京五輪の銀メダリストとなり、4月29日に加入した[[パトリック・キブルハン|パトリック・キブレハン]]が第7戦で務めた。</ref>.174。村上の前を打つ3番がノーヒット<ref group="注釈">第3戦以外は全て山田が務め20打数ノーヒット、それまでは1番を務めた塩見がその第3戦で3打数ノーヒットだった。</ref>だったのと抑えのマクガフが第5戦と第6戦で悪送球を犯して足を引っ張り、その村上も.192と低調で第4戦と第6戦は完封負け。第5戦はマクガフが[[吉田正尚]]にサヨナラの2ランホームランを浴び、第7戦は先発のサイスニードが1番に入った[[太田椋]]に日本シリーズ史上初の初球先頭打者本塁打を浴びると、5回2アウト満塁のピンチでは吉田正に押し出しのデッドボールを与えたのに続き、[[杉本裕太郎]]の放った打球をセンターの塩見(シーズンは2エラー)が後ろに逸らすミスを犯してしまい、走者一掃の3点タイムリーエラーとなり、これが致命傷となった。8回には村上のタイムリーとオスナのホームランで1点差に詰め寄るも、4-5で4連敗を喫し、2勝4敗1分けで2015年以来7年ぶりの本拠地での日本シリーズ敗退となり、2001年以来21年ぶり、チーム名変更後初の本拠地での日本一と同時に球団史上初の連続日本一を逃した。そのオスナも2勝1分だった第3戦までは13打数8安打と当たっていたのが、4連敗を喫した第4戦以降は17打数3安打とブレーキになってしまった。
 
; [[2023年の東京ヤクルトスワローズ|2023年]]
開幕5連勝(球団新記録)と上々のスタートとなったが<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/bis/teams/results_s_04.html |title=東京ヤクルトスワローズ 2023年度 試合結果 【3・4月】|website=NPB|accessdate=2024-02-05}}</ref>、GW前に7連敗、5月に12連敗<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202305310001553.html |title=【ヤクルト】12連敗 優勝翌年に12連敗は史上初の屈辱 単独最下位転落「歯車かみ合わない」|newspaper=日刊スポーツ |date=2023-05-31 |accessdate=2024-02-05}}</ref>を喫し、5月終了時点で最下位に低迷。前半戦は村上宗隆のWBC以来の不調、[[塩見泰隆]]の欠場が響いた。前年38セーブの[[スコット・マクガフ|マクガフ]]の穴は[[田口麗斗]]が埋めたが、ブルペン陣も前年までの精密さを維持できず、2020年以来3年ぶりのBクラスと2016年以来7年ぶりの5位が確定した。個人タイトルは0人で、ベストナイン・ゴールデングラブ・月間MVPにも1人も選ばれなかった。
 
; [[2024年の東京ヤクルトスワローズ|2024年]]
4月29日の巨人戦(東京ドーム)で勝利し、1950年に国鉄スワローズとして創設以来、球団通算4500勝目を挙げた<ref>{{Cite web |title=ヤクルト・村上 神業Wメモリアルアーチ!球団通算4500勝&父・公弥さん51歳誕生日 - スポニチ Sponichi Annex 野球 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2024/04/30/kiji/20240429s00001173746000c.html |website=スポニチ Sponichi Annex |access-date=2024-10-06 |language=ja}}</ref>。8月終了時点で最下位に低迷したものの、翌月18日に中日が阪神に敗れたことで、シーズン初の最下位脱出が決まり、最終的には辛うじて2年連続5位が確定した。[[吉村貢司郎]]とリリーフで60登板23ホールドの[[大西広樹]]が9勝、サンタナが最高出塁率、[[長岡弘樹|長岡秀樹]]が最多安打のタイトルを獲得した。
 
; [[2025年の東京ヤクルトスワローズ|2025年]]
FAにより楽天から[[茂木栄五郎]]が加入。開幕時点で主力の村上・塩見・山田を故障で欠き、巨人との開幕戦で5点リードを逆転されるなど、開幕カード3連敗と不穏なスタートとなった。ほどなく山田が復帰したものの、今度は長岡が長期離脱、交流戦は最下位、茂木も手術で今季絶望となり、投手は高橋が抹消、5位から大きく離された最下位で進んだ。球宴を挟み史上初の借金20以上からの8連勝を達成、その間に村上が復帰即本塁打や山田の球団新記録通算305本塁打などを記録した。
 
== 所属選手・監督・コーチ ==
{{See also|東京ヤクルトスワローズの選手一覧}}
{{東京ヤクルトスワローズの選手・スタッフ|state=expanded}}
 
== チーム成績・記録 ==
* チームに関する記録に関してのみ記載する、所属選手・監督の個人記録に関しては各個人のページ参照。
[[Image:Tokyo Yakult Swallows Ranking.svg|thumb|320px|1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す]]
 
* リーグ優勝 6回 -(1978年、1992年 - 1993年、1995年、1997年、2001年)
=== 試合、勝敗、勝率に関する記録 ===
* 日本一 5回 -(1978年、1993年、1995年、1997年、2001年)
[[Image:Tokyo Yakult Swallows Ranking.svg|thumb|320px|1950年から2016年までの順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す]]
* Aクラス 15回 -(1961年、1974年、1977年 - 1978年、1980年、1991年 - 1993年、1995年、1997年、2001年 - 2004年、2006年)※
{{See also|東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の年度別成績一覧}}
* Bクラス 44回 -(1950年 - 1960年、1962年 - 1973年、1975年 - 1976年、1979年、1981年 - 1990年、1994年、1996年、1998年 - 2000年、2005年、2007年 - 2008年)
* リーグ優勝 9回
* 連続Aクラス入り最長記録 4年 -(2001年 - 2004年)
: (1978年、1992年 - 1993年、1995年、1997年、2001年、2015年、2021年 - 2022年)
* 連続Bクラス最長記録 12年 -(1962年 - 1973年)
* 日本一 6回
* 最下位回数 13回 -(1953年、1960年、1962年、1965年 - 1966年、1970年 - 1971年、1979年、1982年 - 1983年、1985年 - 1986年、2007年)
: (1978年、1993年、1995年、1997年、2001年、2021年)
* セ・パ交流戦優勝・最高勝率 2回(2015年から2018年までは最高勝率)
: (2018年、2022年)
* クライマックスシリーズ優勝 3回
: (2015年、2021年 - 2022年)
* Aクラス 22回
: (1961年、1974年、1977年 - 1978年、1980年、1991年 - 1993年、1995年、1997年、2001年 - 2004年、2006年、2009年、2011年 - 2012年、2015年、2018年、2021年 - 2022年)
* Bクラス 54回
: (1950年 - 1960年、1962年 - 1973年、1975年 - 1976年、1979年、1981年 - 1990年、1994年、1996年、1998年 - 2000年、2005年、2007年 - 2008年、2010年、2013年 - 2014年、2016年 - 2017年、2019年 - 2020年、2023年 - 2025年)
* 最下位 18回
: (1953年、1960年、1962年、1965年 - 1966年{{Refnest|group="注釈"|1966年は[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]と同率最下位。}}、1970年 - 1971年、1979年、1982年 - 1983年、1985年 - 1986年、2007年、2013年 - 2014年、2017年、2019年 - 2020年)
* 連続Aクラス入り最長記録 4年(2001年 - 2004年)
* 連続Bクラス最長記録 12年(1962年 - 1973年)
* 最大連勝 12連勝(1991年)
* 最大連敗 16連敗(1970年、2019年)
** いずれも間に引き分けを挟んでいない連敗としては日本プロ野球ワースト記録である(引き分けを挟んだ場合の記録は1998年におけるロッテの18連敗)。
* 同一球場同一対戦相手の連敗記録 20連敗(1分け挟む)(1965年 - 1966年、神宮球場において中日相手に喫したもの。セ・リーグ記録{{Refnest|group="注釈"|パ・リーグ記録は、1954年から1956年にかけて、大映が後楽園球場で南海に喫した21連敗<ref>{{Cite journal |和書 |journal=週刊ベースボール |date=1999-12-13 |page=20 }}</ref>。}})
* すべて3点差以内の12連敗(1分け挟む)(2023年、プロ野球2リーグ制以降で史上初)
* 前年優勝チームによる12連敗(2023年、プロ野球史上初)
* 最多勝 83勝(1997年)
* 最多敗 9496(1950(2017年)
* 最多引分 18分(2021年){{Refnest|group="注釈"|2021年は新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から延長戦が無かった。延長戦がある年では1978年・1981年の16分が最多。}}
* 最多引分 16分(1978年、1981年)
* 最高勝率 .631(1995年)
* 最低勝率 .264(1970年)
* 最小ゲーム差 2.5ゲーム(2011年)
 
※2003年は巨人と同率の3位であり、2002年は巨人は優勝・ヤクルトは2位のため、2005年の開幕権を得られず。
 
== チーム個人記録 ==
* ノーヒットノーラン最年少記録 18歳1ヶ月 金田正一投手(1951年)
* 交流戦ノーヒットノーラン リック・ガトームソン投手(2006年)
 
== その他の記録 ==
* 年間最多併殺打 140個 (1996年、セリーグ記録)
* 最小ゲーム差 4.5ゲーム(1973年)
* 最大ゲーム差 57.5ゲーム(1950年)
 
* 最高連勝数 12連勝(1991年)
=== その他の記録 ===
* 最低連敗数 16連敗(1970年)
* 1シーズン最多併殺打 140個(1996年、セ・リーグ記録)
* 1シーズン連続試合得点 129試合(当時は130試合制、1978年4月1日(開幕戦)から10月8日まで、日本プロ野球記録)
* ゲーム最多得点 22(1955年7月13日・対広島)
* ゲーム最多失点 22(1999年7月22日・対横浜)
* 最多本塁打 181本(2004年)
* 最少本塁打 36本(1951年)
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* 最高防御率 2.29(1961年)
* 最低防御率 4.76(1984年)
* 連続安打打席数 11(2009年6月14日・対オリックス、日本プロ野球記録&ギネス世界記録)
* 開幕14試合連続失点3点以下(2015年、日本プロ野球記録)
* 延長1イニング最多得点 12(2019年4月10日・対広島、日本プロ野球記録)
* 開幕5試合 合計失点2点以下(2023年、プロ野球2リーグ制以降で史上初、プロ野球史上80年ぶり2度目)
* 開幕5試合で4度の完封勝利(2023年、プロ野球2リーグ制以降で史上初、プロ野球史上80年ぶり2度目)
 
=== チーム個人記録 ===
; 完全試合達成者
* [[宮地惟友]] 1956年9月19日 対[[広島東洋カープ|広島カープ]] ([[石川県営兼六園野球場]]) 球団初、プロ野球史上3人目
* [[金田正一]] 1957年8月21日 対[[中日ドラゴンズ]]([[ナゴヤドーム#概要|中日スタヂアム]])
* [[森滝義巳]] 1961年6月20日 対中日ドラゴンズ([[後楽園球場]])
: <!-- バグ回避のための行「Help:箇条書き#定義の箇条書き中の箇条書き」参照-->
; [[ノーヒットノーラン]]達成者
* [[金田正一]] 1951年9月5日 対[[阪神タイガース|大阪タイガース]]([[大阪スタヂアム]]) 球団初、NPB最年少記録(18歳35日)
* [[大脇照夫]] 1956年5月3日 対中日ドラゴンズ(中日スタヂアム)
* [[テリー・ブロス]] 1995年9月9日 対[[読売ジャイアンツ]]([[東京ドーム]])
* [[石井一久]] 1997年9月2日 対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]([[横浜スタジアム]])
* [[リック・ガトームソン]] 2006年5月25日 対[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]([[明治神宮野球場]]) 交流戦では初、及び球団としては本拠地での初達成
* [[小川泰弘]] 2020年8月15日 対[[横浜DeNAベイスターズ]](横浜スタジアム)
; 通算2000本安打達成者
いずれも[[日本プロ野球名球会|名球会]]メンバー
* [[大杉勝男]] 1981年7月21日 対中日ドラゴンズ([[浜松球場]]) 投手[[小松辰雄]]
* [[若松勉]] 1985年10月9日 対[[阪神タイガース]]([[阪神甲子園球場]]) 投手[[リチャード・ゲイル]]
* [[古田敦也]] 2005年4月24日 対[[広島東洋カープ]]([[松山中央公園野球場|坊っちゃんスタジアム]]) 投手[[大竹寛]]
* [[宮本慎也]] 2012年5月4日 対広島東洋カープ(明治神宮野球場) 投手[[福井優也]]
; 通算200勝達成者
[[日本プロ野球名球会|名球会]]創設メンバーだが、その後退会状態となった
* [[金田正一]] 1958年6月6日 対大阪タイガース(後楽園球場) NPB最年少記録(24歳10ヶ月)
; 通算250セーブ達成者
[[日本プロ野球名球会|名球会]]メンバー
* [[高津臣吾]] 2003年8月16日 対中日ドラゴンズ([[ナゴヤドーム]]) NPB史上初
; シーズン200本安打達成者
* [[青木宣親]](2005年・2010年)NPB史上2人目、複数回の達成はNPB史上初
* [[アレックス・ラミレス]](2007年)NPB史上3人目、右打者の達成はNPB史上初
; [[トリプルスリー]]達成者
* [[山田哲人]] 打率.329 本塁打38本 盗塁34個(2015年)プロ野球史上9人目、球団史上初
* 山田哲人 打率.304 本塁打38本 盗塁30個(2016年)2年連続、かつ複数回のトリプルスリー達成はNPB史上初
* 山田哲人 打率.315 本塁打34本 盗塁33個(2018年)
; シーズンホームラン記録
* [[ウラディミール・バレンティン]]60本(2013年)日本プロ野球記録、アジア野球記録
'''日本人シーズンホームラン記録'''
 
・[[村上宗隆]]56本(2022年) NPBにおけるアジア人打者・左打者としてのシーズン記録
 
== 歴代本拠地 ==
* 1950年 - 1963年:[[後楽園球場]]
: ([[プロ野球地域保護権|フランチャイズ制度]]の実施は1952年から)
* 1951年:[[後楽園球場]]、[[武蔵野グリーンパーク野球場]]
* 1951年:[[武蔵野グリーンパーク野球場]]
([[プロ野球地域保護権|フランチャイズ制度]]の実施は1952年から)
* 1964年 - :[[明治神宮野球場]]([[日本の大学野球|大学野球]]、[[日本の高校野球|高校野球]]等で神宮球場が使えない場合は主催試合を地方球場で開催する)
* 1952年 - 1963年:[[後楽園球場]]
: ※なお、試合前の事前練習は、[[学生野球]]([[東京六大学野球連盟]]他)を優先する関係で、本球場で使うのは学生野球の試合がない時に限られるため、原則として[[明治神宮外苑軟式グラウンド]]で唯一の[[人工芝]]対応であるこぶしグランド、ないしは[[明治神宮外苑室内球技場]]を使って行われる(神宮第2球場も人工芝球場であるが、学生野球の開催時間帯以外は、[[明治神宮外苑ゴルフ練習場]]西練習場として使うため、野球の練習・試合は事実上不可だった)。
* 1964年 - :[[明治神宮野球場]]([[日本学生野球連盟|大学野球]]、[[高校野球]]等で神宮球場が使えない場合は主催試合を地方球場で開催する。)
 
== チーム特徴 ==
=== 球団名 ===
「スワローズ」の名称は、当時の国鉄が当時最速を誇ったでは唯一の特急列車、かつ日本最速だった「[[つばめ_ (列車)#戦後・国鉄「つばめ」「はと」|つばめ]]」号に由来する。[[球団旗]]には列車の[[ヘッドマーク]]等に使用されていたつばめマークを採用し、「スワローズ」のロゴデザインは国鉄のデザイン室がデザインしたものを今日まで使用している。スポーツ新聞の見出しでも「'''燕'''」あるいは「'''ツバメ'''」と書かれる事もある。
* ニックネーム決定の際、国鉄職員を対象とした公募を行ったところ、鉄道関係では「スワロー」「アイヤンアイゼン」「ホイスル」「ホイール」「エンジン・レイルウエー」「レールロード」「エツキスプレス」「弁慶」「レツド・キャツプ(赤帽)」「大車輪」「ポツポ」「サービス」「ステーション」等が、動物名では「熊」「象」「麒麟」「ライオン」「コンドル」「かもめ」「むかで」「山猫」等が、変わったところでは「キリバース」「スリツパーズ」「ポパイ」等の応募があった<ref>「国鉄球団ニックネーム珍綺色々」『交通新聞』1950年1月26日.2-3面</ref>。最終案として残ったのが「スワローズ」と「キリバース」(<ref group="注釈">国鉄の[[社章|紋章]]「[[動輪]]に[[桐]]に由来。球団設立当初はユニフォームの袖章にも使われた。</ref>」の2つである。しかし、“国鉄の[[社章]]「動輪に桐は一般にそれほど知られていたわけではなくおらず、国鉄内部向けの印象が強かった。一方[[ツバメ]]は古来よりスピードの象徴でありスピードを重視する野球チームの愛称にふさわしく、またツバメは人の生活圏に営巣する習性があるので、人に愛される球団名として適切であることが考慮され、スワローズの方に」で決定した、といういきさつ経緯がある(徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史』参照)
* 元来「[[つばめ (列車)|]]」は国鉄の象徴的な存在だった。[[1950年]]、国鉄自動車局([[国鉄バス|国鉄自動車局]]がシンボルマークに「燕」を一般公募で採用しており、現在の[[JRバス]]各社がツバメをマスコットキャラクターとして継承しているのもその名残であり、る。[[コスモ石油|丸善石油(現在の[[コスモ石油]]。「Oh!モーレツ!!」のテレビコマーシャルで有名。)がツバメのマークを使用していたのも、開業当初[[鉄道省]](国鉄の前身)とのつながりが深かったからである。現在の[[九州新幹線]]でも列車の愛称に「[[つばめ (JR九州)|つばめ]]」号が使用されている。
* 英語では、燕を意味する {{lang-en-short|[[wikt:en:swallow|swallow]]}} の a はローマ字読みではなく、ショット {{lang-en-short|[[wikt:en:shot|shot]]}} の o と同じ発音であるため、スウォローズが近い。
* 『国鉄は当初「コンドルズ」にしようとしたが、本業の鉄道が「“混んどる”ず」ではマイナスイメージだから取り止めた』『「“座ろう”ず」にすれば鉄道業としては快適なイメージだから「スワローズ」を採用した』という俗説が有名であるが、これは誤りである。なお、似たような俗説は[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]にも存在する([[都市伝説#ジョーク都市伝説|『都市伝説』の該当項目]]参照)。
* 「国鉄は当初『コンドルズ』にしようとしたが、本業の鉄道が『“混んどる”ず』ではマイナスイメージだから取り止めた」「『“座ろう”ず』にすれば鉄道業としては快適なイメージだから採用した」という俗説が有名だが、これは[[漫才]]のジョークが元ネタである<ref name="unihomumonogatari" />。ただし、国鉄球団の母体となった交通協力会が発行する鉄道業界紙である「交通新聞」の国鉄球団特集記事において「国鉄球団ニックネーム懸賞応募の中で多いのはスワロー(燕)だが、一方コンドル(禿鷹)も相当ある。そこで懸賞子曰く『コンドルはいかんいかん、まるで「混んどる」みたいでよくない、矢つ張りスワローは「坐ろう」に通じて感じがいゝよ』」と掲載している<ref>「”禿鷹”より”燕”」『交通新聞』1950年1月26日.2面</ref>ので、あながち俗説と断じることはできない。なお、[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]にも「コンドル」をチーム名候補とした話があるが、こちらは球団史にも記載されており、根拠のないジョークではない。
 
* 「アトムズ」は当時の親会社だった[[フジテレビジョン|フジテレビ]]で[[アニメーション|アニメ]]が放映され、また球団改名後[[産経新聞|サンケイ新聞]]の日曜版にも漫画原作が連載されてい[[手塚治虫]]原作の『[[鉄腕アトム]]』からとった。なお[[広島東洋カープ]]が創設された当初、アトムズも球団名の候補に挙がっていたといわれている([[広島東洋カープ#チームの特徴]]を参照。由来は異なる)。なお前述の経緯から、1969年だけは球団名・法人名を純粋にニックネームのみの「アトムズ(球団)」とした。
 
=== マスコット ===
====; 現在====
* つば九郎 - 1994年登場、2025年2月活動休止。スワローズのヘルメットをかぶったツバメ。{{Main|つば九郎}}
* [[つば九郎]] - 1994年登場。スワローズのヘルメットをかぶったツバメ。尻が重いせいか、じれったいほど動きが鈍い。12球団のメインマスコットで唯一ユニフォームを着ていないため、背番号なし。ただし2008年にヤクルトアトムズの復刻ユニフォームを一時期着用しており、その際の背番号は2896(ツバクロと読める)であった。名前は公募により決定され、ツバメの別名「つばくろ」と9回・9人で行う野球の性質を合わせた名前となっている。「'''つば'''ぜり合いに強く、'''苦労'''しながら接戦をものにする」という意味も込められている。自身のブログでは文を全てひらがなで書いている。[[2008年]][[7月10日]]、主催試合での連続出場1000試合を達成した。
* つばみ - つば九郎の妹。1999年登場。{{Main|つばみ}}
* つばみ - つば九郎の妹。1999年に登場。つば九郎と同様ユニフォームは着用していない(一時期着用したアトムズユニフォームの背番号は283)が、スカートとサンバイザーを着用しているのが兄との違い。当初は眉毛のないつば九郎のような顔をしており、脚は黄色く細長であったが、2007年にイメージチェンジ。顔には短い睫毛が追加され、脚も股引をはいたような状態となり、つば九郎に近づいた。さらにスカートの柄もストライプから無地にかわっている。つば九郎からはバズーカで狙撃されたり、セクハラまがいのイタズラをされる苦労ツバメ。
[[ペットマーク]]は、基本的につば九郎を使ったものが使用されるが、一部メディアでは燕太郎を使ったものを使用。
* 燕太郎(えんたろう) - 2005年から登場した新顔。燕尾を持たずユニフォームを着込むなど動きがいいように設計されており、スワローズのマスコットでは貴重なアクロバット要員である。ブレイクダンスを得意とし、その身体能力は高い。漫画が好きなようで、2007年マスコットデーで行われた徒競走においてつば九郎は燕太郎に勝つため漫画により気をひく作戦を実施していた。当初の背番号は「102」(登場当時、チームスタッフのつけていた最大番号が「101」だったため)だったが、2008年シーズンより打撃投手となった[[石堂克利]]が背番号「102」をつけるようになったため「8960」(ヤクルトのもじり)に背番号が変更となった。最初は裸足であったが、現在は靴を履いている。
; 過去
** この内、つば九郎、つばみは[[フジテレビジョン|フジテレビ]]のイメージCMに出演したことがある<!--←いつごろの放送なのかの情報をお願いします。-->。内容はつば九郎(の役者)がつばみ(の役者)に「結婚してくれ」と愛を告白するが、それをたまたま盗み聞きした石井一久が(兄妹だろ、こいつら)と何故か「兄妹」の立場からツッコミをいれるという内容。
* アトム - アトムズ時代の1966年から1973年まで使用。漫画「[[鉄腕アトム]]」の主人公。[[球団旗]]や[[ペットマーク]]等に使用。
 
* ボールの顔をしたマスコット - 1978年登場。つば九郎の前のペットマークに使われたキャラクター。通称「ボール坊や」<!--オフィシャルグッズ販売カタログ表記より-->、正式名称はなし。<!--ヤクルトスワローズへ正式確認済み-->その後、復刻グッズでは「ボール君」表記。
====過去====
* [[ヤー坊]] - 1978年から1979年頃には登場し<ref group="注釈">1978年から1979年に在籍した[[デーブ・ヒルトン (野球)|デイヴ・ヒルトン]]の本塁打を出迎える写真が[[ベースボール・マガジン社]]に残っている(参考:『[[ベースボールマガジン]]1994年秋季号 一冊まるごと大特集 プロ野球の華 本塁打がすごい!』 - 23ページに写真掲載)。また、1979年12月発行の漫画単行本『[[がんばれ!!タブチくん!!]]』第3巻でツバメのマスコットがホームランを打った選手を出迎えるシーンの描かれた作品が掲載されている。</ref>、つば九郎登場(1994年)の前年まで存在したツバメのキャラクター。神宮球場での着ぐるみのみだったようで、ペットマーク等に起用されなかった。
* アトム - 愛称がアトムズだった、1966年から1973年まで使用。漫画「[[鉄腕アトム]]」の主人公。
* スーちゃん - ヤー坊と同時期に存在した女の子のツバメのキャラクター。
* ボールの顔をしたマスコット - 1978年登場。つば九郎の前のペットマークに使われたキャラクター。神宮球場にはボールをモチーフにした絵・キャラクターが多く、かなり神宮を意識したものと思われる。
** なおヤー坊、スーちゃんは、日本プロ野球初の着ぐるみキャラクターである。
* [[ヤー坊]] - 1978年〜1979年頃には登場し<ref>1978年〜1979年に在籍した[[デイヴ・ヒルトン]]の本塁打を出迎える写真が[[ベースボール・マガジン社]]に残っている(参考:「[[ベースボールマガジン]]1994年秋季号 一冊まるごと大特集 プロ野球の華 本塁打がすごい!」 - 23ページに写真掲載)。また、1979年頃の漫画「[[がんばれ!!タブチくん!!]]」でホームランを打った選手を出迎えるシーンが描かれている。</ref>、つば九郎登場まで存在したツバメのキャラクター。神宮球場での着ぐるみのみだったようで、ペットマーク等に起用されなかった。
** ヤー坊、スーちゃんの着ぐるみは2003年に春季キャンプ地の[[浦添市]]に寄贈され、同市で毎年2月に行われる「てだこウォーク」に参加していた。その後、担当職員の交代で寄贈の経緯や名前が分からなくなっていたが、2014年2月に浦添警察署に貸し出され「なんちゃってつば九郎」の名前で活動したことをきっかけにヤー坊とスーちゃんであることが確認された<ref>{{Cite news |title=浦添の「なんちゃってつば九郎」、正体判明 |newspaper=[[沖縄タイムス]] |date=2014-03-20 |url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/37904 |accessdate=2020-11-20 }}</ref>。
* スーちゃん - ヤー坊と同時期に存在したツバメのキャラクター。
* 燕太郎(えんたろう) - 2005年登場、2014年5月引退。スワローズのユニフォームを着たツバメ。{{Main|燕太郎}}
* トルクーヤ - 2014年6月登場、2023年2月引退。[[メキシコ]]出身の[[覆面レスラー]]。{{Main|トルクーヤ}}
 
=== 応援スタイル ===
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
[[画像:Meiji Jingu Stadium.JPG|thumb|right|200px|東京音頭に合せて踊るスワローズファン(神宮外野席)]]
{{See also|鳴り物応援|チャンステーマ}}
応援歌では、オリジナルで作曲したものと、従来のポップス曲に声援を加えたものとに分かれる。そして、得点が入ると[[傘|ビニール傘]]を振りながら[[東京音頭]]を歌うのが、スワローズの応援の特色。東京音頭を初めて応援に使ったのは[[千葉ロッテマリーンズ|東京オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)]]であるが、東京オリオンズの本拠地移動もあって、1978年の優勝と前後して始められた。神宮の応援団から始まったが、現在は全国で行われている。
* 東京音頭の前奏・間奏部分で以前は「くたばれ○○(相手球団)」であったが現在は相手球団とは無関係に一部のファン(現在は主に対戦相手球団のファン)が「くたばれ[[読売ジャイアンツ|讀賣]]」と歌詞を付ける。これは応援団主導で行っているのではなく、2010年から応援団は「東京ヤクルト」と連呼するようにと呼びかけられている<ref>{{Cite web|和書|author=sirguiel@ツバメ軍団 |date=2009-07-17 |url=http://blog.livedoor.jp/tsubame_okada/archives/50929688.html |title=7/16 東京音頭の前奏 |work=ツバメ軍団日誌! |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。
* 近年はチャンステーマに[[JITTERIN'JINN]]の「[[夏祭り (JITTERIN'JINNの曲)|夏祭り]]」や「[[ルパン三世のテーマ]]」、2012年度途中からは[[ポケットモンスター 金・銀|ポケモン金銀]]のエンディングBGMも使われる。
* 球団イメージカラーの明るい緑色は、ヤクルトの昔の球団旗とアトムズ当時のユニフォームのアクセント色に由来する(ビジターユニフォームのyakultのフォントに使用している)。ユニフォームの配色を赤と紺に変更して以降も、メガホンなどのグッズは依然として緑色のものが継続して売られている。
* 東京音頭で振る傘は、緑(または青)のビニール傘もしくは球団が発売している小さいマスコット傘が一般的であるが、特に決まっているわけではない。もともと「傘を振る」という応援方法自体が「応援グッズを買わずとも、家にあるもので応援に参加してもらえる」という趣旨で始まった、ということもあり、他の色のビニール傘や普通の傘を振っても、いっこうにかまわない。この傘を使った応援スタイルは、当時のツバメ軍団団長だった[[岡田正泰]]が「少しでもファンが多くいるように見せるために」考え出した苦肉の策だった。
* 傘応援については危ないという意見があり、[[横浜スタジアム]]では一時期傘を使った応援が禁止されていた。球場で販売されている応援用の傘は、危なくないように露先を柔らかい素材にしているとされている。また、現在発売している応援用の傘は骨の長さが30センチメートル前後とかなり小さなものとなっており([[石突]]には別売のつば九郎やつばみのマスコットが取り付けられるようになっている)、通常の雨傘としての使用は不適であるが、急な雨等の場合は使用するファンも多数見受けられる。
* 他球団ファンは、7回や勝利時に[[ジェット風船]]を飛ばしているが、2009年6月から神宮球場がジェット風船を禁止にしたことや、上記の傘を使った応援が浸透していることなどから、多くのヤクルトファンは「ゴミになるだけ」「神宮外苑の自然環境が悪化する」としての理由でジェット風船を使っていない。
* 本拠地とする神宮球場では、2012年まで夜6時以降のナイトゲームでの太鼓を使っての応援は禁止されていた。詳しくは、[[明治神宮野球場]]の項目を参照のこと。そのためにホームの神宮球場でのナイトゲームではリズムが取りづらく、全体的にテンポが速くなりやすい。なお、2009年まではデーゲームでも太鼓の使用は禁止されていた。
* 2006年より、選手紹介の場内アナウンスは2人体制となった。ビジターチームについては通常のウグイス嬢、ヤクルトチームについては通常のウグイス嬢によるアナウンスの後男性DJが担当している。2019年現在、公式DJとして[[パトリック・ユウ]]を起用している。
 
=== 営業・ファンサービス ===
応援歌では、オリジナルで作曲したものと、従来のポップス曲に声援を加えたものとに分かれる。そして、得点が入ると[[傘|ビニール傘]]を振りながら[[東京音頭]]を歌うのが、スワローズの応援の特色。東京音頭を初めて応援に使用したのは[[千葉ロッテマリーンズ|東京オリオンズ]]であるが、東京オリオンズの本拠地移動もあって、1978年の優勝と前後して始められた。神宮の応援団から始まったが、現在は全国で行われている。
==== 公式ファンクラブ「SWALLOWS CREW」 ====
* 近年はチャンステーマに[[JITTERIN'JINN]]の「[[夏祭り]]」が使用される。
2013年よりリニューアルされた公式ファンクラブで、2015年3月現在[[さだまさし]](歌手)と[[出川哲朗]]([[ピン芸人]])と[[村上春樹]](作家)が芸能人枠として「'''SWALLOWS CREW名誉会員'''」に登録している。本拠地である神宮球場で行われる試合の前売りチケット購入や常設グッズショップ(スタジアム通り・神宮軟式球場敷地内)でのショッピングでもポイントが貯められる。
* 東京音頭で振る傘は、緑(または青)のビニール傘もしくは球団が発売している傘が一般的であるが、特に決まっているわけではない。もともと「傘を振る」という応援方法自体が「応援グッズを買わずとも、家にあるもので応援に参加してもらえる」という趣旨で始まった、ということもあり、他の色のビニール傘や普通の傘を振っても、いっこうにかまわない。この傘を使った応援スタイルは、当時の応援団長だった[[岡田正泰]]が「少しでもファンが多くいるように見せるために」考え出した苦肉の策だった。
* 傘応援については危ないという意見があり、[[横浜スタジアム]]では一時期傘を使用した応援が禁止されていた。球場で販売されている応援用の傘は、危なくないように石突の部分を柔らかい素材にしているとされている。
<!--**[[札幌ドーム]]等、北海道でのゲームでは、東京音頭と[[北海盆唄]]がメドレーで歌われる。(事実が確認できないのでコメントアウト)-->
* 他球団ファンは、7回や勝利時に[[ジェット風船]]を飛ばしているが、[[明治神宮球場|神宮球場]]のライトスタンドがジェット風船禁止であることや、上記の傘を使った応援が浸透していることなどから多くのヤクルトファンは「'''ゴミになるだけ'''」「神宮外苑の自然環境が悪化する」との理由でジェット風船を使用していない。
* 本拠地とする神宮球場では、太鼓を使っての応援は禁止されている。詳しくは、明治神宮野球場の項目を参照のこと。そのためにホームの神宮球場ではリズムが取りづらく、全体的にテンポが速くなりやすい。
* 2006年から選手を紹介する場内アナウンスは2人体制になり、ビジターチームについては通常のウグイス嬢、ホームについては男性DJが担当している。
 
会員はプラチナ・ゴールド・レギュラー・キッズ・ライト(いずれも有料)・無料の6種類となっている。
=== 近年の戦績 ===
* 近年、Aクラスを維持する一方で試合消化の遅さが影響して、マジック対象チームになることが多く、2002年から「ヤクルトの敗北で優勝球団のマジックが0となり優勝決定」が3年続く珍事がおこった。
* 一昔前は常に最下位争いをしていたが、野村監督以降チーム力が格段と上がり1987年から20シーズンにわたり最下位に落ちることがなかった。1991年以降は2006年まで4位以上と安定した成績を保っていた。それに伴って監督在任期間も長くなり平成の19年で監督を務めたのは関根1年、野村9年、若松7年、そして昨年までの古田監督2年の計4名である。一時期に常に最下位争いしていた横浜(当時大洋)の10人、阪神の7人に比べると非常に少ない。
* Bクラスに低迷していた武上四郎、土橋正幸、関根潤三監督時代は、優勝チームの胴上げ試合がヤクルト戦となることが多かった。(83年巨人、85年阪神、86年広島、88年中日、90年巨人)広沢克己は「目の前で何度も胴上げを決められて、いつか俺たちが優勝してやると誓った」と後に語っている。また何故か[[星野仙一]]監督時代の中日での2度の優勝と阪神でのリーグ優勝は全てヤクルト戦に絡んだ試合である(88年は[[ナゴヤ球場]]で99年は本拠地神宮球場でそして03年は[[阪神甲子園球場]]での対広島戦でこの時のヤクルトとの対戦相手は横浜である)。ちなみに78年のヤクルト初優勝決定試合の対戦は同じく神宮球場での中日戦である。
* ヤクルトは[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]に強く、通算6回出場し5回優勝している。唯一日本一を逃した1992年も、黄金時代の[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]相手に3勝4敗だった。しかも最終戦は延長に入っての敗退で、当時の評論家たちからも「ヤクルトは大健闘した」と讃えられた。また日本一になった時は、1993年を除いては、ホームで胴上げを行っている(ただし、1978年のみ[[後楽園球場]])。神宮での最後の敗戦は1995年第4戦で、翌第5戦から1997年、2001年の第5戦まで7連勝中。また日本シリーズで出場経験のない楽天と日本シリーズで敗退経験のない横浜を除く全10球団で日本シリーズの敗退経験が1回しかないのは現在ではヤクルトだけとなった。日本シリーズ出場回数6回は日本プロ野球史上6位と決して多くはないものの、上記の通りシリーズでの勝率の良さのおかげで日本一5回は巨人、西武に次ぐ歴代3位に位置している。
* 1990年代は、日本一(奇数年)になった次の年(偶数年)に、その反動で成績を落として(94・96・98年4位)、そのまた次の年に日本一に返り咲くパターンを繰り返したため、球団史上5度の日本一の中で4度が奇数年で記録されている。1992年の西武を最後に日本シリーズを連覇するチームが出ていないが、このようなヤクルトの戦績が、少なからぬ影響を与えていると言える。
* 2007年に21年ぶりの最下位となる。これにより、平成になって最下位が一度もないのは巨人、西武の2球団だけとなった。
 
==== セ・リーグ首都圏3球団合同企画 ====
=== その他 ===
2012年から、東京ヤクルトスワローズ・[[読売ジャイアンツ]]・[[横浜DeNAベイスターズ]]との3球団合同で「'''[[セントラル・リーグ首都圏3球団合同企画 GSDB〜Get Stamp&DeKA Badge!|GSDBプロジェクト]]'''」を立ち上げファンクラブ会員に限り巨人・DeNA主催のヤクルト戦で来場ポイント付与や会員限定イベントの実施の他該当試合の前売りチケット優先販売や球場DJ・チアチーム・マスコットキャラクターの相互訪問を行っている。
* 同じ[[東京都]]を本拠地としているだけに、ファンの間では昔から巨人への対抗心は強い。球団も、国鉄時代は「巨人にだけは勝ち越せ」がスローガンだった。しかし[[松園尚巳]]オーナー時代は、オーナー自身が巨人ファンであることを明言するなど、後の[[桑原潤]]オーナー・野村監督体制まで、フロントの対抗心が比較的希薄だった点は否めない。松園オーナーは球団に愛情を持ってはいたが、いわゆる「出来の悪い子」が好きだったらしく、「(ヤクルトの販路はオフィスでの手売りが大きな割合を占めているので)ヤクルトが巨人に勝つと売り上げが下がるから、巨人には勝たなくていい」と公言していた。[[1978年]]のシーズン終盤に当時の広岡監督と面会した際も、「ここまでよく頑張った」と暗に優勝を巨人に譲れと言わんばかりの発言をし、これに監督以下選手たちが反発して初優勝を遂げたという話も伝えられている。
* [[1990年代]]以前は、スワローズでプレーしたことのない外部招請監督がほとんどであり、特に松園オーナー時代は一貫して巨人軍の大物OBを監督に据えている。このため、生え抜き監督は国鉄時代の[[藤田宗一 (国鉄)|藤田宗一]]、ヤクルト以降は[[武上四郎]]・[[若松勉]]・[[古田敦也]]の4人しかいない。すなわち古田の監督就任は、球団史上初の「生え抜き同士の監督交代」だった。
* 国鉄時代には金田、サンケイ〜ヤクルトになってからも若松や[[松岡弘]]など球史に残る大選手を擁しながらも人気の面では一貫して低迷を続け、本拠地の主催試合でもスタンドの大半は対戦チームのファンで埋まることが常だった。1978年の初優勝の際にも巨人戦ではジャイアンツファンに囲まれる中でのプレーを余儀なくされたが、1980年代に[[荒木大輔]]、[[ボブ・ホーナー]]、[[長島一茂]]などのスター選手を獲得してからは徐々に人気を伸ばし、90年代の飛躍へと繋がっていった。
* 神宮球場の他に、主催試合を行う地方球場として[[秋田県立野球場]](こまちスタジアム)、[[ひたちなか市民球場]]・[[いわきグリーンスタジアム]]、[[松山中央公園野球場]](坊っちゃんスタジアム)等がある。
** [[千葉マリンスタジアム]]でも、毎年5月末の東京六大学野球(早慶戦)の際に主催試合が開催されていたが、[[インターリーグ#日本のプロ野球におけるインターリーグ|セ・パ交流戦]]開催に伴い2005年は7月開催となり、2006年は実施されないことになった。
* 帽子マーク"Ys"の原型は、[[1969年]] - [[1970年]]のアトムズ時代に遡る(当時は"Ya"マーク)。[[1994年]]から変更されている。
* 帽子マークは、左に大きく「'''Y'''」・右に小さく「'''S'''」だが、チームのアルファベットでの略称はスワローズの頭文字である「'''S'''」としていることが多い。[[週刊ベースボール]]の2軍戦日程表では一時球団略称を'''Ys'''とし、[[湘南シーレックス]]([[横浜ベイスターズ]]2軍)をSとしていたが、「Sが1軍と2軍で異なるチームを表すのはおかしいのではないか」という意見もあり、ヤクルトをS、湘南をSRに変更した。
 
=== ファンクラブ地方開催 ===
本拠地の神宮球場が大学野球最優先でスケジュールを組んでいる関係で、かつては広島と並んで地方開催がセ・リーグで最も多かった。特にセ・パ交流戦導入以前は日本全国といって良いほど各地で試合を行っていたが、日本ハムの札幌移転や仙台を本拠とする[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]の新規参入といったパ・リーグ加盟チームの地方分散化、さらには交流戦開始などの影響もあり2000年代後半以降は他球団同様、地方開催を縮小する傾向にあり、現状では年間で4 - 5試合に抑えられている<ref group="注釈">広島は地方開催は徐々に縮小し、現在はおこなっていない。そのため、現状セ・リーグで試合数ベースで最も多く地方開催を行っているのは阪神であるが、そのほぼ全てが[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]であるため、実質(開催球場ベース)は巨人がセ・リーグで最も多く地方開催を行っている。</ref>。
*年会費
**プレミアム会員10,000円(2000名限定)
**大人会員5,000円
**子供会員3,500円(中学3年まで)
*特典
*プレミアム会員(2000名限定)
**2007年度
***自分で背ネームと背番号(当初後ろのみだったが、現在は前と後ろの両方)が決められるホーム用ユニフォーム(通常のレプリカには付いてこないユニデンのマーク付き)
**2008年度
***限定ナイキ製プロ選手仕様ジャンパー(プロコレクションでは今後販売しない)
*球場特典
**全会員共通
**球場で期間中にバッジプレゼント
**神宮球場開催のオープン戦が会員証提示で無料
**プレミアム会員、大人会員共通
**5試合の外野自由席無料券(ただしオールスターゲーム、プレーオフ、日本シリーズ、東京ドームのアジアシリーズには適用されない)
**子供会員(中学3年まで)
**全試合外野自由席が無料で試合観戦(ただしオールスターゲーム、プレーオフ、日本シリーズ、東京ドームのアジアシリーズには適用されない)
*その他特典
**戸田球場は元々無料である為、誰でも試合観戦は無料である、その他、大田スタジアム、スワローズ主催の地方球場、東京ドーム(ビジター)、神宮球場の東京ヤクルトの2軍戦が無料で試合観戦が可能。
**東京ドームにある野球博物館が割引価格で入場可能
**スワローズオンラインショップ及びグッズカタログ通販で購入時に10%割引特典
**オフシーズン、マスターズリーグの試合観戦が当初提示すれば指定席以外内外野自由席が無料で見られたが、観戦割引が適用。
 
なお、2020年は、[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]開催期間中とその前後は本拠地の神宮球場が資材置き場・VIP待機場所となるため使用不可となることから、巨人の本拠地である[[東京ドーム]]で初の主催試合を7月上旬から9月上旬にかけて11試合行う予定で、他に松山の2試合と合わせて地方開催を13試合行う予定としていたが<ref group="注釈">なお、同様の理由で本拠地の[[横浜スタジアム]]が使用不可となる[[横浜DeNAベイスターズ|DeNA]]も東京ドームでの主催試合を6試合行う予定となっていた。</ref><ref name="npb190722">{{Cite web|和書|format=PDF |url=http://npb.jp/games/2020/schedule_all_cl_20190722.pdf |title=2020年度セントラル・リーグ選手権試合日程 |publisher=[[日本野球機構]] |date=2019-07-22 |accessdate=2019-07-23 }}</ref>、東京オリンピックの開催が延期になったことを受けて、東京ドームでの主催試合開催分は全て神宮球場での開催に変更になった<ref>{{Cite web|和書|title=東京五輪延期に伴い、DeNAとヤクルトが主催試合の開催球場を変更…ハマスタ、神宮でそれぞれ11試合開催 |url=https://hochi.news/articles/20200415-OHT1T50102.html |website=スポーツ報知 |date=2020-04-15 |accessdate=2020-04-15 |publisher=}}</ref>。
=== ファンクラブの歴史 ===
* 2007年度のファンクラブ会員にプレミアム会員が誕生
* 2008年度のファンクラブ会員では子供会員以外長年続けていたファンクラブ用の帽子が打ち切りとなった。
 
2021年は、延期になった[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]開催期間中とその前後は本拠地の神宮球場が資材置き場・VIP待機場所となるため使用不可となることから、巨人の本拠地である[[東京ドーム]]で初の主催試合を8月下旬から9月上旬にかけて6試合を行い、他に松山の2試合及び静岡での2試合と合わせて地方開催を10試合行う。
== ユニフォームの変遷 ==
* [[1950年]] - [[1954年]] 帽子・アンダーシャツ・レター(胸ロゴ・番号)は濃紺を基調とした(レターは白の縁取り入り。1954年ホーム用除く)。また、上着・パンツは白のものとグレーのものが存在([[1952年]]のフランチャイズ制導入に伴い、白=ホーム・グレー=ビジターの概念生まれる)。
**ロゴは「'''Swallows'''」(1953年まで色は濃紺)で縁取りが白・左袖に金糸で国鉄社章のワッペンが入る。
**[[1951年]]の途中から国鉄のワッペンが外され、シンプルな形となった。また、ツバメのシルエットに「SWALLOWS」のマークが左胸に入ったものもつかわれた。ビジター用はTとKを重ねたマーク(濃紺・白縁取り)、「Swallows」を経て[[1953年]]から「Tokyo」となる。
**1954年のみホームユニフォームが緑色(帽子のツバとロゴと背番号、アンダーシャツとストッキング)でまとめられていた。ただし、こげ茶色のアンダーシャツもつかわれた。
* [[1955年]] - [[1960年]] レターから白の縁取りが消える。袖・パンツにラインが入る。また、ストッキングに赤が入った。1960年から胸番号が装着され、同時にビジター用の「Tokyo」の書体が変更。
* [[1961年]] - [[1965年]]5月 縁取りに赤を使用されストッキングのラインが廃止。[[1963年]]から「'''Tokyo'''」の書体を変更。1965年のみラインがWラインとなる。同時に国鉄最後のユニフォームとなった。5月10日より、国鉄から[[産業経済新聞社|産経新聞社]]へ経営母体が変わり球団名「サンケイスワローズ」に変更されたが、しばらくこのユニフォームが使われた。
* 1965年6月 - 閉幕 先述の経営母体変更に伴い、チームカラーが濃紺・赤から黒・朱色(産経のコーポレートカラー)に変更される。胸ロゴはホームが濃紺・赤→朱・黒縁にカラー変更、ビジター用は「SANKEI」(朱・黒縁)に変更された。そして、ホーム用の左袖にカタカナで「サンケイ」のロゴ(黒一色)が入り、ビジター用の左袖には「TOKYO」のロゴが入る(時期により、朱・黒縁、黒・朱縁のロゴが存在した)。
* [[1966年]] - [[1968年]] 球団名がサンケイアトムズとなり、レターのスペルが全て小文字(斜体文字)の「'''''atoms'''''」が登場。チームカラーが赤とブルーに変更され、アンダーシャツ・ストッキングも青に変更される。夏からビジター用も全て小文字(同じく斜体文字)の「'''''sankei'''''」となる。(※それまでは「SANKEI」)。帽子はブルー地で飾り紐が付き、マークは赤で「''a''」。背番号も斜体文字が採用される。左袖には『[[鉄腕アトム]]』の[[キャラクター]]・ワッペンが付く。斜体文字フォントは[[亀倉雄策]]が作成(以来、フォント自体は1993年のユニフォームまで残る)。人気ブランド「[[ヴァンヂャケット|VAN]]」が作成。
* [[1969年]] - [[1970年]] チーム名が[[ニックネーム]]のみの「アトムズ」(アトムズは1969年のみ、この年から[[ヤクルト本社]]と業務提携。翌1970年。ヤクルトが正式に親会社となり「ヤクルトアトムズ」となる)になり、レターは赤に白の縁取り・ラインが赤と白と青の組み合わせとなる。背番号の上に選手名が入る。帽子のマークが「''a''」から「''Ya''」(「''Y''」は赤、「''a''」はライトブルー)に変更。ホーム用の左袖に「''Yakult''」のマーク(文字の両脇をコバルトグリーンの左カッコと赤の右カッコで囲ったもの)が入る。
** ビジター用はスカイブルー地。胸ロゴが「'''''Yakult'''''」となる(サンケイ時代と同じフォント。以来、配色を変えながらも1993年までこのロゴを使用)。
**シーズン途中からレターが濃紺色に変更。
* [[1971年]] - [[1973年]] [[三原脩]]監督就任により、[[読売ジャイアンツ]]と同じ黒とオレンジを基調としたものへと大幅変更される。帽子、アンダーシャツ、ストッキングが黒、胸ロゴ・背番号・胸番号・選手名が黒にオレンジの縁取り。左袖の「鉄腕アトム」のキャラクター・ワッペンが廃止され「''atoms''」のマークになり、帽子のマークがYとAを重ねた形になる(色は白)。
** ビジター用はグレー地になる。
* [[1974年]] - [[1977年]] スワローズの愛称が復活し、球団名が「ヤクルトスワローズ」となる。同時に[[荒川博]]監督就任に伴い、ニット素材の丸首ブルオーバー・ベルトレスになり、基本カラーが濃紺と赤へ変更。背中の選手名が消え、番号フォントはゴシック体になる。
** 帽子、アンダーシャツ、ストッキングは紺、帽子のマークはYとSとを繋げた白になり、帽子のツバは赤。
*** ホーム用は、[[2005年]]までの31年間に渡り使用された赤のストライプを採用、「'''Swallows'''」ロゴは1965年までのものがそのまま採用。ロゴ・背番号・胸番号は濃紺地に赤の縁取り。首・袖・腰・パンツには濃紺・赤・濃紺のライン。
*** ビジター用は、スカイブルー地に白のストライプ。ロゴ・背番号・胸番号は赤地に濃紺の縁取り。首・袖・腰・パンツには濃紺・白・濃紺のライン。
**** [[1975年]]より、ビジター用の胸ロゴ・背番号・胸番号の縁取りが濃紺から白になる。
**** [[1976年]]より、ビジター用の首・袖・パンツのラインのうち白部分が赤になる。
**** [[1977年]]より、[[広岡達朗]]監督の要望により、ベルト式(ベルトの色は赤)になる。また、従来のニット地に加え、サプライヤーである[[デサント]]社の技術により、快適性・軽量化を図ったストライプを施した上でのメッシュ地の上着を[[阪神タイガース]]のホーム用と同時期に採用する。
* [[1978年]] - [[1989年]] 基本デザインが当時の[[アトランタ・ブレーブス]]を意識したものにモデルチェンジされ、これまでの濃紺・赤から青・赤になり、帽子が青一色になる。さらに首、袖、パンツのラインが赤一色、赤のVネックに、ベルトが赤になる。背番号の上には[[1973年]]以来の選手名が復活、背番号・胸番号の書体がオリジナルの角文字フォントに変わる。胸ロゴ・背番号は青に赤・白の縁取りになり、胸番号の縁取りは消える。またスパイクの色が赤地に白ラインとなる。
** ホーム用は赤ストライプが太くなり、左袖に紺地の「Yakult」のロゴ(ビジター用胸ロゴと同じフォント)刺繍が入る。
** ビジター用はスカイブルーの色がやや落ち着き、白ストライプが消える。左袖には紺地の「Swallows」のロゴ刺繍。
*** [[1980年]] - [[武上四郎]]監督就任時より、スパイクが白地に赤ラインになり、[[ゼット]]社のスパイクとなる。
*** [[1982年]] - ビジター用の首、袖、パンツのラインが赤から赤・青・赤の3本ラインになる。
* [[1990年]] - [[1998年]] [[野村克也]]監督就任により、パンツのライン・胸ロゴ・背番号の赤白の縁取りが消え、二桁の選手の背番号の間隔がやや狭くなる。
** ホーム用は、マイナーチェンジ。赤ストライプ、Vネックの幅がやや細くなる。
** ビジター用は大きく変更。光の加減でストライプに見える「シャドゥ・ストライプ」を採用。[[1977年]]のストライプメッシュ地のユニフォームを製造した[[デサント]]社の技術により実現。胸ロゴ・背番号には白いシャドゥがつき、シャドゥ・ストライプと併せて[[サッカー]]のユニフォームを意識したものになる。首、袖のラインは青・白・青となり、胸番号と左袖の「Swallows」ロゴが赤色になる。
*** [[1994年]]には、ホーム用の袖の赤ラインが消え、帽子のYSマークがアトムズ時代に使われた「Ys」型になり、ホーム用左袖・ビジター用胸に入っていた「'''Yakult'''」ロゴの書体が、1969年以来の亀倉雄策制作のフォントから改められ、亀倉フォントがユニフォームから完全消滅した。左袖には、ホームの'''Yakult'''、ビジターの'''Swallows'''のロゴの上に「つば九郎」のペットマークがつく。
*** [[1997年]]には、ビジター用の袖ラインも消え、スパイクの個人契約メーカーでの使用が認められる。
**** [[1970年代]] - [[1980年代]]、各球団ともビジター用のユニフォームの色はスカイブルー地が定番だったが、[[1990年代]]に入ると、各球団が徐々にグレーやチームカラーを施したものを採用しつつあったが、1998年まで12球団で唯一スカイブルー地を使用し続けた。
* [[1999年]] - [[2005年]] [[若松勉]]監督就任に伴い、ホーム用が9年ぶりモデルチェンジ。青から紺に戻る。ホーム、ビジター用共ボタン式になり、背番号・選手名の書体が[[中日ドラゴンズ]]に続いて、[[メジャー・リーグ]]で採用されているタイプになる。
** ホーム用は、首周りのラインが消え、赤ストライプがさらに細くなり、幅も狭くなる。
** ビジター用は、大幅にモデルチェンジし、提携していた[[クリーブランド・インディアンス]]のロード用のデザインを踏襲したものになる。
** 1999年夏場からビジター用のアンダーシャツ、キャップのツバが赤くなる。[[2000年]]には紺に戻るが、一時ホーム・ビジター用で、また赤が採用。赤いアンダーシャツ、キャップのツバは[[2002年]]に廃止された。2002年に1試合だけ若松監督のゲン担ぎでホームの試合で使用したのが最後である。なお最後に着た先発投手は[[入来智]]元投手であり、対巨人戦だったものの負け試合だった。ただし、2005年までユニフォームの登録はしていた模様<ref>「プロ野球ユニフォーム物語」([[2005年]][[3月]]、[[ベースボール・マガジン社]]発行)より。</ref>。
*** ビジター用は、本来1998年から導入される予定だったが、前年日本一になったことからゲン担ぎのために当時の監督・[[野村克也]]が導入を止めさせた。
* [[2006年]] - [[2008年]] [[古田敦也]]選手兼任監督就任、球団あげての観客増員プロジェクト「F-PROJECT」の一環として、「[[BEAMS]]」が手がける。ホーム、ビジター共基本カラーは変わらないが、首周りと袖に赤ラインが入り、肩から袖・パンツの腰から足首にかけて細くなる太ラインが入る。ホーム・ビジターともに右肩に「Tokyo」のロゴが入り、さらに選手名の書体が変わり、背番号・胸番号の書体が角が丸い角型に変わる。
** ホーム用は、[[1974年]]より32年間採用されていた赤ストライプが消える。胸ロゴに赤・白・水色の縁取りが入る。
** ビジター用は、背番号が赤地に白縁取りだったものが、白一色になる。
* 2008年[[3月31日]]、5月の神宮球場主催試合などにおいて、'''『ヤクルトアトムズ復活シリーズ』'''と題して、アトムズを名乗った1969年のビジターユニホームを復刻し、一軍全選手が着用して試合に臨むことが発表された。[[手塚治虫]]の生誕80周年記念事業として、彼の個人事務所[[手塚プロダクション]]協賛で行われる。対象となるのは5月3-5日の[[読売ジャイアンツ]]戦、9-11日の[[広島東洋カープ]]戦、13-15日の[[中日ドラゴンズ]]戦の神宮球場ホームゲーム3カード9試合と、[[インターリーグ|交流戦]]開幕シリーズの5月21-22日・埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)のビジターゲーム1カード2試合。なお、[[西武ドーム]]での[[埼玉西武ライオンズ|埼玉西武]]戦では、同じく手塚プロの[[レオ (埼玉西武ライオンズ)|レオ]]との共演となる<ref>『[http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20080331-342652.html ヤクルト、アトムズユニホームを復刻] 日刊スポーツ』 2008年3月31日 閲覧。</ref>。
**帽子・アンダーシャツの色は、2008年時点のチームカラー・濃紺になっており、必ずしも当時と同じものではない。
* [[2009年]] - ヤクルト球団設立40周年を記念し、3年ぶりにホーム、ビジターのデザインを一新した。選手名と背番号の書体が変更されている。スパイクは白から紺に変更。左袖にはつば九郎とは異なるツバメの顔がデザインされている。
**ホーム用は2006年使用モデルを基本に、太ラインを赤、ロゴマークを白と赤・紺に変更。
**ビジター用はライトグレー地を基調にしている。
 
{{main|東京ヤクルトスワローズ主催試合の地方球場一覧#一軍|明治神宮野球場#優先使用権}}
== スポンサー ==
{{see also|死のロード#他球団の例|読売ジャイアンツ#地方球場開催}}
セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、[[2002年]]度からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。スワローズでは2005年まで掲載していなかったが、2006年のユニデンから広告が入る。
 
地方開催の中でも特に開催の機会が多い球場として、[[秋田県立野球場|秋田県立野球場(こまちスタジアム)]]、[[福島県営あづま球場]]、[[静岡県草薙総合運動場硬式野球場]]、[[松山中央公園野球場|松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)]]等が挙げられ、年次によっては同一球場で2試合が組まれることがある。このうち松山は秋季キャンプで使用している縁から、基本的に毎年2試合組まれており(2019年・2023年は1試合のみ)、特に2013年は3試合が組まれた。これらの球場では交流戦開始前にはなかった対巨人戦も行われるようになり、2009年は福島県営あづま球場で1試合、2010年は坊っちゃんスタジアムで2試合、2011年はあづま球場で1試合<ref group="注釈">これとは別に、巨人主管の2試合(当初1試合だったが、[[宇都宮清原球場]]での1試合が球場施設損壊のため会場変更になった)が[[郡山総合運動場開成山野球場]]で行われ、福島県で3試合開催。</ref> と静岡県草薙総合運動場硬式野球場で4試合の計5試合<ref group="注釈">草薙の4月の3連戦のものは東日本大震災による関東地方([[東京電力エナジーパートナー|東京電力]]営業地域)のナイター開催自粛に伴う代替。</ref> の巨人戦が地方開催が行われている<ref group="注釈">本来、2009年は秋田こまちスタジアムでの2連戦開催が計画されたが、こまちスタジアムでは[[全国高等学校野球選手権秋田大会]]の開催と重複するため開催できず、その振り替えとして福島で1試合、もう1試合は神宮で開催。</ref>(2021年も松山で2試合を開催<ref name="npb190722" />)。
* ユニフォーム左胸 [[ユニデン]](2006年度 - 2007年度、オフィシャルパートナーシップ契約)
* ユニフォーム腰 [[インテル]](2007年度)
* ヘルメット [[レノボ|レノボ・ジャパン]](2007年度)
* ユニフォーム左胸 [ゼット](2009年度オフィシャルパートナーシップ契約)
 
かつては[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]の本拠地である[[千葉マリンスタジアム|千葉マリンスタジアム(現・ZOZOマリンスタジアム)]]でも東京六大学野球([[早慶戦]])が行われる毎年5月下旬に主催試合が開催されていたが、[[セ・パ交流戦]]開催に伴い2005年は7月開催となり、2006年以降は同球場を本拠地とするロッテ主催の交流戦に切り替えられて、ヤクルト主催では実施されていない。
== 歴代監督 ==
{{main|早慶戦#硬式野球|千葉マリンスタジアム#東京ヤクルトスワローズ}}
※太字は優勝監督
* 1950年 - 1953年 : [[西垣徳雄]]
* 1954年 - 1955年 : [[藤田宗一 (国鉄)|藤田宗一]]
* 1956年 - 1960年 : [[宇野光雄]]
* 1961年 - 1962年 : [[砂押邦信]](第一次)
* 1963年 : [[浜崎真二]]
* 1964年 - 1965年 : [[林義一]]
* 1965年 : 砂押邦信(第二次)※1
* 1966年 - 1967年 : [[飯田徳治]] ※2
* 1968年 - 1970年 : [[別所毅彦]] ※3 ※4
* 1970年 : [[小川善治]]
* 1971年 - 1973年 : [[三原脩]]
* 1974年 - 1976年 : [[荒川博]] ※5
* 1976年 - 1979年 : '''[[広岡達朗]]''' ※6
* 1980年 - 1984年 : [[武上四郎]] ※7
* 1984年 - 1986年 : [[土橋正幸]]
* 1987年 - 1989年 : [[関根潤三]]
* 1990年 - 1998年 : '''[[野村克也]]'''
* 1999年 - 2005年 : '''[[若松勉]]'''
* 2006年 - 2007年 : [[古田敦也]](選手兼任) ※8
* 2008年 - : [[高田繁]]
; ※1 ここからサンケイスワローズ
; ※2 ここからサンケイアトムズ
; ※3 ここからアトムズ
; ※4 ここからヤクルトアトムズ
; ※5 ここからヤクルトスワローズ
; ※6 1979年は8月17日まで指揮、残り試合は[[佐藤孝夫]]が代行
; ※7 1984年は4月26日まで指揮、5月22日までは[[中西太]]が代行
; ※8 ここから東京ヤクルトスワローズ
 
この地方開催の多さもあってか、他チーム主催の地方開催試合で相性の良さを発揮することもある。例えば[[富山市民球場|富山アルペンスタジアム]]で開催される巨人・中日主催試合では2016年9月現在8戦6勝2分けと負けがない。
== 永久欠番 ==
球団として公認された[[永久欠番]]は無い。欠番的な背番号には以下のものがある。
生え抜きで、かつ対象者が推薦が必要とされる。
<!--単なる「空き番号」は、ここに記すに値しないと考えます。どうしても賛同できない方は、ノートにご意見をお願いします。-->
* '''1''':[[若松勉]]
*: 1989年、若松の引退時に、背番号1番を永久欠番にとの署名などが多く集まり、球団が「生え抜きのみの選手が背負う準永久欠番」として当面欠番とすることを決定。入団当初「36」を着けていた池山が[[1991年]]オフに「1」を希望して[[1992年]]から昇番。[[2001年]]に池山が「1」を返上して「36」に戻ったのに伴って岩村に継承された。[[2006年]]限りで岩村がメジャーに移籍し、「1」を[[青木宣親]]に打診したが辞退したため、再び欠番となった。
* '''27''':[[古田敦也]]
*: [[2007年]]限りで引退した古田の功績を称え、球団は同年[[10月11日]]に「27」を“名誉番号”とすると発表。「実績を積んだ捕手だけが使用できる番号」で、生え抜き・移籍を問わず着用に相応しい選手が現れるまでは欠番となる。 なお、[[2009年]]に横浜ベイスターズからフリーエージェントで移籍した[[相川亮二]]に打診したが、辞退された。古田敦也の前には、[[根来広光]]→[[加藤俊夫]]→[[大矢明彦]]と、1985年まで歴代の国鉄→サンケイ→ヤクルトの正捕手が着けていた(1986年から1989年の途中までは空き番だったが、1989年の途中から投手の[[ロン・デービス]]が着用)。
 
==== 歴代長崎県と球団歌 ====
1970年代から2002年(平成14年)までのほぼ毎年、球団オーナー[[松園尚巳]]の出身地である長崎県での公式試合が開催されていた。
* とびだせヤクルトスワローズ(歌:[[松岡弘]])
*ビクトリーロード(歌:ILYS(アイリス)) - 東京ヤクルト戦で勝った場合最後に必ず神宮球場で流す曲。1978年9月発売。
1980年代後半頃から流れており流れ始めた時期は不明。なおNHKでもデーゲームで一部流れた事がある。
* 君こそヒーロー - 2006年度からヒットした時の音となる。
* 新とびだせヤクルトスワローズ
* 青春のダイヤモンド - スワローズの応援歌としては[[東京音頭]]があまりに有名なため、いずれもあまり知られていないが、熱心なファンには支持されている。なお「♪味方だ〜ヤクルトスワローズ」の部分を「♪味方だ〜東京ヤクルトスワローズ」と言っている人もいる。
* とびだせ東京ヤクルトスワローズ - 新とびだせヤクルトスワローズの「ヤクルトスワローズ」の部分の歌詞に「東京」を加えた替え歌
* アトムズマーチ(1969年製作 1970年にヤクルトアトムズとなったとき歌詞を一部変更した 歌手は1969年のものが[[ボニー・ジャックス]]、1970年の歌詞変更バージョンは[[砂川啓介]])
* スワローズ音頭 - 1983年4月発売。坂上二郎はじめ、荒木大輔・松岡弘・梶間健一・尾花高夫・大矢明彦・角富士夫・大杉勝男・若松勉らのスワローズ選手がコーラスを務めている。
*ディスコ翔べスワローズ! - 1979年5月発売。当時のディスコブームに乗って発売された。
 
1976年(昭和51年)ドラフト1位で入団した松園と同じ長崎出身の[[酒井圭一]]を当時球団最高額の契約金3,000万で契約、しかし松園は「酒井はゴールデンルーキーだ。手取りで3,000万円にできないものか」の鶴の一声で、800万円上乗せされた。さらに長崎市内のホテルで行われた酒井のためだけの入団発表には、松園オーナーも同席。その後、異例のパーティーまで開かれ、当時の長崎県知事ら県内の政財界の大物まで出席した。費用の200万円も球団が負担した<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20080117170936/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_november/KFullNormal20071120128.html |title=【11月29日】1976年(昭51) ヤクルト、怪物サッシーに破格の契約金 |publisher=スポーツニッポン |work=日めくりプロ野球11月 |accessdate=2015-11-29 }}</ref>。松園は翌1977年(昭和52年)、地元紙[[長崎新聞]]の社長に就任。1988年(昭和63年)に退任するが、その翌年の1989年(平成元年)、長崎県民放テレビ第3局[[長崎文化放送]](NCC)の初代代表取締役会長に就任。長崎文化放送は長崎新聞主導で設立され、ヤクルトスワローズの放送権を持っている[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]フルネット局となった。
== 主なキャンプ地 ==
* [[沖縄県]][[浦添市民球場]]
*神宮球場
*[[宮崎県]][[西都原運動公園野球場]]
 
一方、長崎出身の歌手[[さだまさし]]は巨人・長嶋茂雄の大ファンだったが、1980年(昭和55年)に長嶋が巨人監督を解任されると同郷の松園と親交が深かったこともありヤクルトファンに転向。選手の長崎遠征時には名物の[[卓袱料理]]でもてなすなどしている。{{main|さだまさし#スポーツの応援}}
== キーワード ==
=== 下山事件とプロ野球参入 ===
1949年にセ・パ[[プロ野球再編問題 (1949年)|2リーグ分立]]騒動が起こるが、当初国鉄は[[公共企業体]]という性質上、プロ野球参入には消極的だった。
 
1997年(平成9年)に開場した[[長崎県営野球場]]で初めて公式戦(対広島東洋カープ戦)を行った際、9月6日の1戦目が雨で中止、翌日の試合では7回途中・降雨コールド負けとなった。その後も長崎での公式戦を開催していたが、松園が1994年に死去、またヤクルト本社の事業再編による長崎工場の閉鎖もあったためか、2002年を最後にヤクルト主催の公式戦は開催されていない。2009年(平成21年)、7年ぶりに長崎で試合を行ったがこの試合は巨人主催のビジターゲームだった。
一方、[[1949年]][[7月5日]]、国鉄総裁・[[下山定則]]が失踪し、[[常磐線]][[綾瀬駅]]付近の線路上で謎の轢死体で発見された([[下山事件]])。その後下山の死因をめぐり、2リーグ分立の主役である[[読売新聞]]と[[毎日新聞]]の報道面での相違(読売と[[朝日新聞]]が他殺体と報道しているのに対して、毎日が自殺と報道した)があった。
 
==== 東日本大震災後の対応 ====
[[#球団の歴史|歴史]]の項でも触れたように2リーグ分立が具体化されると国鉄野球部員の集団引き抜きも相次ぎ、国鉄職員の団結力の向上を目指し、下山から総裁を引き継いだ[[加賀山之雄]]が、1950年1月に国鉄スワローズを結成。どちらのリーグに参加するかで話題となったが、「鉄道マンは鉄道自殺をしない」という験(げん)もあり、自殺説を報じた毎日主導の[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]への参加を断固拒否し、他殺説を報じた読売主導の[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]への加盟申請を行ったといわれている。
神宮球場は学生野球を最優先とするため、学生がデーゲームを基本とする以上、プロの試合はナイトゲームを原則とせざるを得ない。しかし、[[東日本大震災]]([[東北地方太平洋沖地震]])直後には学生との調整を行って、神宮球場でデーゲームを行った例もある。
 
地震発生直後の2011年3月、セ・リーグは一旦は3月25日に開幕させる決定をした。この時、ヤクルト球団事務所にはファンからの苦情電話が殺到した。9割が25日開幕に批判的な内容であったが、多くの企業が計画停電で損失を出している中で、デーゲームやドームを使わない、東北や関東での試合開催をしないという選択肢もありながら、新球団常務は「ヤクルト本社の損失も大きい」という理由から開幕を決断をした<ref>[http://www.daily.co.jp/newsflash/2011/03/18/0003875713.shtml ヤクルトに抗議電話殺到 セ開幕決定一夜明け デイリー 2011年3月18日] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20110322133946/http://www.daily.co.jp/newsflash/2011/03/18/0003875713.shtml |date=2011年3月22日 }}</ref>。その後、文部科学省からの要請を受けると、一転してナイターを自粛し開催地を地方球場に変更する可能性があることを示唆した<ref>{{Cite news |title=ナイター自粛…神宮のヤクルトは地方開催も |newspaper=スポニチ Sponichi Annex |date=2011-03-22 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/03/22/kiji/K20110322000478710.html |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。その後神宮を主会場とする[[東京六大学野球連盟|東京六大学]]・[[東都大学野球連盟|東都]]の両大学生野球連盟の協力を得て、草薙に球場を変えた4月26日 - 4月28日の巨人戦以外の4月の主管試合については神宮でのデーゲーム開催が実現(学生野球は午前9時から1試合のみ開催)した。{{main|東日本大震災によるスポーツへの影響#日本プロ野球|2011年の日本プロ野球#3月}}
※この項の参考資料『[[ザ・真相 - 大事件検証スペシャル|ザ・真相]]』(2004年10月11日放映・[[テレビ東京]])
 
=== フジサンケイグループその他 ===
* 選手の故障が多いことで知られる(例、[[荒木大輔]]・[[伊藤智仁]]・[[由規]]など)。[[落合博満]]が中日の監督を退いた後、ヤクルトの主力級選手の相次ぐ戦線離脱について、練習量が中日に比べて少ないことが原因と話した<ref>{{Cite web|和書|date=2012-10-12 |author=日刊SPA!野球取材班 |title=落合氏「巨人、中日にとって嫌なチームはヤクルト」 |url=https://nikkan-spa.jp/310440 |publisher=日刊SPA! |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。また、[[江本孟紀]]もヤクルトの練習の少なさやアメリカ式の球数制限を取り入れていた事を批判したことがある<ref>{{Cite web |title=ヤクルト アホみたいな米かぶれコーチ指導を江本孟紀氏批判 |url=https://www.news-postseven.com/archives/20131224_232967.html?DETAIL |website=NEWSポストセブン |access-date=2025-05-08 |language=ja |date=2023-12-24}}</ref>。主将を務めたことのある宮本慎也も、練習量の少なさを指摘している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/baseball/news/20171205/swa17120508000001-n3.html |title=【なるべく週刊エモト】宮本ヘッド就任でヤクルトは変わる! (3/3ページ) |publisher=サンケイスポーツ |date=2017-12-05 |accessdate=2021-05-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171222162537/https://www.sanspo.com/baseball/news/20171205/swa17120508000001-n3.html |archivedate=2017-12-22}}</ref>。選手としてだけでなくコーチ歴もある[[角盈男]]は、野村の監督時代は練習量は少なかったが、それだけが継承されていると評している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asagei.com/excerpt/94874 |title=2017プロ野球「行く年来る年」座談会(2)巨人・高橋監督は岡本と心中できるか |publisher=アサ芸プラス |date=2017-12-19 |accessdate=2021-05-29}}</ref>。それに伴い、二軍戦に出場できる選手が恒常的に不足気味になり、投手や捕手が内外野を守ることも珍しくなく、ついには球団スタッフとして契約していた元選手を[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手制度]]を活用して一時的に現役復帰させ、二軍戦に出場させたシーズンもある<ref>[https://baseballking.jp/ns/40047 満足に試合もできない!? ヤクルト二軍が迎える危機的状況 | BASEBALL KING] 2015年7月9日</ref>。この状態を通俗の[[野外病院|野戦病院]]にたとえた「'''ヤ戦病院'''」という[[インターネットスラング]]も広く使用されている<ref>[https://baseballking.jp/ns/column/122098 繰り返す悲劇…“ヤ戦病院”の元凶 | BASEBALL KING] 2017年6月27日</ref>。また、怪我の詳細は明かさず多くは「上半身(下半身)コンディション不良」と発表、若しくは選手の不出場理由を公表していない。
1963年に国鉄球団と業務提携を結んだフジテレビジョンは、当時後楽園球場のテレビ放映権が[[日本テレビ放送網]]しか与えられていなかったため、当時[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]がメイン球場としていた神宮球場を本拠地にすることを前提に球団経営を引き受けたといわれる。その後先述どおり1965年のシーズン開幕直後に正式に球団譲渡を受け入れてサンケイ(産経)スワローズ(1966年からサンケイアトムズ)とした。
* 1994年から2012年(ホームゲームのみ。ビジターは2014年まで)に使用された帽子のマーク“Ys”の原型は、1969年 - 1970年のアトムズ時代にさかのぼる(当時は“Ya”マーク)。ニックネームをスワローズに戻した1974年から1993年までは大フォントの小文字で「ys」だったが(2013年以降も同様)、左に大きく「'''Y'''」・右に小さく「'''s'''」に変更された。
* チームのアルファベットでの略称はスワローズの頭文字である「'''S'''」としていることが多い。[[週刊ベースボール]]の二軍戦日程表では一時球団略称を'''Ys'''とし、[[横浜DeNAベイスターズ (ファーム)|湘南シーレックス(現・DeNA二軍)]]をSとしていたが、「Sが一軍と二軍で異なるチームを表すのはおかしいのではないか」という意見もあり、ヤクルトをS、湘南をSRに変更した。
* 広島の[[大瀬良大地]]を大の苦手としている。大瀬良がプロ入りした2014年以降一度も勝てておらず、2019年7月26日の対広島戦でも大瀬良を攻略できず、同一投手が初対戦から同一カード12連勝以上はセ・リーグ新記録(パ・リーグも含めると史上3人目)となった<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201907260001226.html |title=大瀬良、初対戦から同一カード12連勝以上は3人目 |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |newspaper=[[日刊スポーツ]] |date=2019-07-27 |accessdate=2019-07-27 }}</ref>。2019年9月16日の試合で大瀬良を相手に初めて黒星を付けて、連敗を12で止めた。
* セ・リーグで史上初の昭和、平成、令和の3元号で日本一を達成している(パ・リーグも含めるとソフトバンクに次ぐ史上2球団目)。
 
== 球団旗の変遷 ==
国鉄から球団を買収した産業経済新聞社、フジテレビジョンは共に[[フジサンケイグループ]]の企業。1970年に産経新聞は球団経営から撤退したが、ヤクルトは引き続きフジサンケイグループが球団を後援する事を条件に経営を引き受けたという。2000年にヤクルト球団の第三者割り当てで、産経撤退後も5%弱の球団株を保有していたフジテレビは従来の分も併せて20%程度の株式を引き受ける事となり、球団と業務提携を締結した(以降、スタッフ社員も代替わりし、スタッフはほとんどフジサンケイグループの者が取り仕切り、資金面、管理はヤクルト本社系統、チームの運営等はフジサンケイ系統からヤクルト球団に転入したもので構成されているという)。
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
; 国鉄時代
国鉄の列車「つばめ号」の[[ヘッドマーク]]に使われていた「つばめマーク」を使用。
* 1950年 - 1952年:紺色地に白でつばめマーク。
** つばめマークの横に黄色の文字で「国鉄」と書かれていたものも存在。
* 1953年 - 1954年:つばめマークの翼が両翼のものから片翼のものに変更。
** つばめマークが白のものと黄色のものが存在。
* 1955年 - 1965年:白のつばめマークの上に「K」のマークを付けたものに変更。
<!-- バグ回避のための行「Help:箇条書き#定義の箇条書き中の箇条書き」参照-->
; サンケイ→アトムズ時代
当時の親会社、産経新聞社の[[社旗]](橙色地。中央に横の白地ライン、ライン部分に水色で「サンケイ」の文字)をアレンジしたものを使用。
* 1965年:「サンケイスワローズ」時代のもの。橙色地に白のライン、白の部分には水色の文字で「サンケイ」、右下に白文字でスワローズの略称である「S」。
* 1966年 - 1969年:球団名が「サンケイアトムズ」に。橙色地に白のライン、白の部分には水色の文字で「atoms」(球団名が「アトムズ」となった1969年も使用。)。
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; ヤクルト時代
* 1970年 - 1973年:ヤクルト本社の社色である赤・白・緑をモチーフに。白の斜線に上が青緑、下が濃いピンク。白の斜線に「鉄腕アトム」、その下に濃いピンクで「Yakult」。
* 1974年 - 1993年:球団名が「ヤクルトスワローズ」になる、デザインは1970年 - 1973年のデザインから「鉄腕アトム」を削除したもの。
* 1994年 - 2005年:白の斜線が反対になり上が青、下が赤。白の斜線に赤のストライプ、赤字で「Yakult」その下に青字で「Swallows」。
* 2006年 -:球団名が「東京ヤクルトスワローズ」になる。1994年 - 2005年のものをアレンジ、上の青の部分に赤字で「Tokyo」のロゴが入る。白の斜線の赤ストライプが消える、赤字で「Yakult」、その下に青字で「Swallows」。
 
== ユニフォームの変遷 ==
これに伴い、フジテレビと同じフジサンケイグループのラジオ局・[[ニッポン放送]]も従来以上にヤクルト球団をバックアップすることとなったが、しかしながらそのニッポン放送は1979年以来[[横浜ベイスターズ]](旧:大洋球団)の株式を保有し、フジテレビがニッポン放送(ニッポン放送ホールディングス)を吸収した2006年以降、フジテレビが横浜株を34万株(30.77%)保有している。同一企業およびそのグループが複数の、しかも同一リーグに所属するチームに関与している事が長年の問題になっているが(実際横浜が筆頭株主をニッポン放送に変更しようとした際に他球団のオーナーの猛反対にあい[[東京放送|TBS]]が筆頭株主となった)、2005年にゴールデンイーグルスのオーナーである[[楽天]]が、横浜ベイスターズのオーナー(約70%保有)であるTBSとの資本提携を図った際に、根来コミッショナーは「楽天とは異なり、フジテレビは横浜、ヤクルト両球団に対して実質的な支配権を持っていない」との見解を示している。
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
* 1950年 - 1954年:帽子・アンダーシャツ・レター(胸ロゴ・番号)は濃紺を基調とした(レターは白の縁取り入り。1954年ホーム用除く)。また、上着とパンツは白のものとグレーのものが存在(1952年のフランチャイズ制導入に伴い、白=ホーム・グレー=ビジターの概念生まれる)。
** ロゴは「''Swallows''」(1953年まで色は濃紺)で縁取りが白・左袖に金糸で国鉄[[社章]]「動輪に桐」のワッペンが入る。
** 帽子は、濃紺地に白文字の「S」。
** 1951年の途中から国鉄社章のワッペンが外され、シンプルな形となった。また、ツバメのシルエットに「''Swallows''」のマークが左胸に入ったものも使われた。ビジター用はTとKを重ねたマーク(濃紺・白縁取り)、「''Swallows''」を経て1953年から「''Tokyo''」となる。
** 1954年のみホームユニフォームが緑色(帽子のツバとロゴと背番号、アンダーシャツとストッキング)でまとめられていた。ただし、こげ茶色のアンダーシャツも使われた。
* 1955年 - 1960年:レターから白の縁取りが消える。袖・パンツに線が入る。また、ストッキングに赤が入った。1960年から胸番号が装着され、同時にビジター用の「''Tokyo''」の書体が変更。帽子マークは「''K''」。
* 1961年 - 1965年5月:縁取りに赤が使われてストッキングの線が廃止。1963年から「''Tokyo''」の書体を変更。1965年のみ線がW線となり、国鉄最後のユニフォームとなった。なお帽子マークはこの間、「K」と「S」の組み合わせや「S」など毎年の様に変更されていた。5月10日より、国鉄から[[産業経済新聞社|産経新聞社]]へ経営母体が変わり球団名「サンケイスワローズ」に変更されたが、しばらくこのユニフォームが使われた。
* 1965年6月 - 閉幕:先述の経営母体変更に伴い、チームカラーが濃紺・赤から黒・朱色(産経のコーポレートカラー)に変更される。胸ロゴはホームが濃紺・赤→朱・黒縁に色変更、ビジター用は「SANKEI」(朱・黒縁)に変更された。そして、ホーム用の左袖にカタカナで「サンケイ」のロゴ(黒一色)が入り、ビジター用の左袖には「TOKYO」のロゴが入る(時期により、朱・黒縁、黒・朱縁のロゴが存在した)。帽子マークは国鉄時代最末期の「'''S'''」をそのまま使用。
** サンケイアトムズへの改称当初は、暫定的にホーム用ユニフォームのみ「'''Swallows'''」を「'''A'''」([[オークランド・アスレチックス|カンザスシティ・アスレチックス]]に準じた書体)に貼り換えたものを練習用として使用した。
* 1966年 - 1968年:球団名がサンケイアトムズとなり、レターのスペルが全て小文字(斜体文字)の「''atoms''」が登場。チームカラーが赤と青に変更され、アンダーシャツ・ストッキングも青に変更される。夏からビジター用も全て小文字(同じく斜体文字)の「''sankei''」となる(それまでは「SANKEI」)。帽子は青地で飾り紐が付き、マークは赤で「''a''」。背番号も斜体文字が採用される。左袖には『[[鉄腕アトム]]』の[[キャラクター]]・ワッペンが付く。斜体文字フォントは[[亀倉雄策]]が作成(以来、フォント自体は1993年のユニフォームまで残る)。人気ブランド「[[ヴァンヂャケット|VAN]]」が作成。
** アトムズ→ヤクルトアトムズへの改称後も練習用および二軍用として使用されたが、ビジター用は胸ロゴの「sankei」を青色の「''Yakult''」(下記のユニフォームと同じ書体)に貼り替えていた。
* 1969年 - 1970年:チーム名が[[愛称|ニックネーム]]のみの「アトムズ」(アトムズは1969年のみ、この年から[[ヤクルト本社]]と業務提携。翌1970年、ヤクルトが正式に親会社となり「ヤクルトアトムズ」となる)になり、レターは赤に白の縁取り・線が赤と白と青の組み合わせとなる。背番号の上に選手名が入る。帽子のマークが「''a''」から「''Ya''」(「''Y''」は赤、「''a''」はライトブルー)に変更。ホーム用の左袖に「''Yakult''」のマーク(文字の両脇をコバルトグリーンの左カッコと赤の右カッコで囲ったもの)が入る。
** ビジター用はスカイブルー地。胸ロゴが「''Yakult''」に、(サンケイ時代と同じフォント。以来、配色を変えながらも1993年までこのロゴを使用)、左袖に鉄腕アトムのキャラクター・ワッペン(ホーム用と同様コバルトグリーンの左カッコと赤の右カッコで囲ったもの)が入る。
** シーズン途中からレターが濃紺色に変更。
* 1971年 - 1973年:[[三原脩]]監督就任により、[[読売ジャイアンツ]]と同じ黒とオレンジを基調としたものへと大幅変更される。帽子、アンダーシャツ、ストッキングが黒、胸ロゴ・背番号・胸番号・選手名が黒にオレンジの縁取り。ビジター用は左袖の「鉄腕アトム」のキャラクター・ワッペンが廃止され「''atoms''」のマークになり、帽子のマークがYとAを重ねた形になる(色は白)。
** ビジター用はグレー地になる。
*** ヤクルトスワローズへの改称直後の秋季練習・春季キャンプ・オープン戦では、帽子とウィンドブレーカーは下記と同一のものが新調されたが、ユニフォームは暫定的にアトムズ時代のものをそのまま使用した(ホーム用のみロゴをビジター用と同じ「''Yakult''」に変更)。
* 1974年 - 1977年:スワローズの愛称が復活し、球団名が「ヤクルトスワローズ」となる。同時に[[荒川博]]監督就任に伴い、ニット素材の丸首プルオーバー・ベルトレスになり、基本色が濃紺と赤へ変更。背中の選手名が消え、番号フォントはゴシック体になる。
** 帽子、アンダーシャツ、ストッキングは紺、帽子のマークはYとSとを繋げた形になる。帽子のツバは赤。
*** ホーム用は、トレードマークとなる赤ストライプを採用(一旦2005年に廃止されるが2014年に復活)、「''Swallows''」ロゴは1965年までのものをそのまま採用。ロゴ・背番号・胸番号は濃紺地に赤の縁取り。首・袖・腰・パンツには濃紺・赤・濃紺の線。
*** ビジター用は、スカイブルー地に白のストライプ。ロゴ・背番号・胸番号は赤地に濃紺の縁取り。首・袖・腰・パンツには濃紺・白・濃紺の線が入る。
**** 1974年オールスターゲームより、ビジター用の胸ロゴ・背番号・胸番号の縁取りが濃紺から白になる。
***** 書籍などでは1975年よりと記述されているものが多いが、1974年のオールスターゲームでの出場選手の集合写真では、すでにマイナーチェンジ後のものが着用されている。
**** 1976年より、ビジター用の首・袖・パンツの線のうち白部分が赤になる。
**** 1977年より、[[広岡達朗]]監督の要望により、ベルト式(ベルトの色は赤)になる。また、従来のニット地に加え、サプライヤーである[[デサント]]社の技術により、快適性・軽量化を図ったストライプを施した上でのメッシュ地の上着を[[阪神タイガース]]のホーム用と同時期に採用。また、スパイクが赤地に白線になる。
* 1978年 - 1989年 基本デザインが当時の[[アトランタ・ブレーブス]]を意識したものに変更され、これまでの濃紺・赤から青・赤になり、帽子が青一色になる。さらに首、袖、パンツの線が赤一色、赤のVネックに、ベルトが赤になる。背番号の上には1973年以来の選手名が復活、背番号・胸番号の書体がオリジナルの角文字フォントに変わる。胸ロゴ・背番号は青に赤・白の縁取りになり、胸番号の縁取りは消える。
** ホーム用は赤ストライプが太くなり、左袖に紺地の「''Yakult''」のロゴ(ビジター用胸ロゴと同じフォント)刺繍が入る。
** ビジター用はスカイブルーの色がやや落ち着き、白ストライプが消える。左袖には紺地の「''Swallows''」のロゴ刺繍。
*** 1980年、[[武上四郎]]監督就任時より、スパイクが白地に赤線になり、[[ゼット (企業)|ゼット社]]のスパイクとなる。
*** 1982年、ビジター用の首、袖、パンツの線が赤から赤・青・赤の3本線になる。
* 1990年 - 1998年:[[野村克也]]監督就任により、パンツの線・胸ロゴ・背番号の赤白の縁取りが消え、二桁の選手の背番号の間隔がやや狭くなる。
** ホーム用は、マイナーチェンジ。赤ストライプ、Vネックの幅がやや細くなる。
*** 時期によりビジター用と同様のシャドゥ・ストライプ素材を使用したものもあるが、赤ストライプが入っていたためほとんど目立たなかった。
** ビジター用は大きく変更。光の加減でストライプに見える「シャドゥ・ストライプ」を採用。1977年のストライプメッシュ地のユニフォームを製造したデサント社の技術により実現。胸ロゴ・背番号には白いシャドゥがつき、シャドゥ・ストライプと併せて[[サッカー]]のユニフォームを意識したものになる。首、袖のラインは青・白・青となり、胸番号と左袖の「''Swallows''」ロゴが赤色になる。
*** 1994年には、ホーム用の袖の赤ラインが消え、帽子のYSマークがアトムズ時代に使われた「Ys」型(「Y」が赤、「s」が青)になり、ホーム用左袖・ビジター用胸に入っていた「''Yakult''」ロゴの書体が、1969年以来の亀倉雄策制作のフォントから親会社のフォントをアレンジしたものに改められ、亀倉フォントがユニフォームから完全消滅した。左袖には、ホームの''Yakult''、ビジターの''Swallows''のロゴの上に「つば九郎」のペットマークがつく。
*** 1997年には、ビジター用の袖線も消え、スパイクの個人契約メーカーでの使用が認められる。
**** [[1970年代]] - [[1980年代]]、各球団ともビジター用のユニフォームの色はスカイブルー地が定番だったが、[[1990年代]]に入ると、各球団が徐々にグレーやチームカラーを施したものを採用しつつあったが、1998年まで12球団で唯一スカイブルー地を使い続けた。
* 1999年 - 2005年:[[若松勉]]監督就任に伴い、ホーム用が9年ぶりモデルチェンジ。青から紺に戻る。ホーム、ビジター用共ボタン式になり、背番号・選手名の書体が[[中日ドラゴンズ]]に続いて、[[メジャー・リーグ]]で採用されているタイプになる。左袖は「つば九郎」から「ボールと燕」を組み合わせたオリジナルエンブレムに変更(1999年のみ、球団創設50周年エンブレム)。
** ホーム用は首周りのラインが消え、赤ストライプがさらに細くなり、幅も狭くなる。
** ビジター用は、提携していた[[クリーブランド・ガーディアンズ|クリーブランド・インディアンス]]のロード用のデザインを踏襲したものに変更される。
** 1999年夏場からビジター用(紺ユニフォーム)のアンダーシャツ、キャップのツバが赤くなる。2000年には紺に戻るが、一時ビジター用でまた赤が採用される。赤いアンダーシャツ、キャップのツバは2002年に廃止された。2001年に1試合だけ若松監督のゲン担ぎでホームの試合(白ユニフォームとの組み合わせ)で使ったのが最後である。なお最後に着た先発投手は[[入来智]]であり、対巨人戦だったが負け試合だった。ただし、2005年までユニフォームの登録はしていた模様<ref name="unihomumonogatari">{{Cite book |和書 |author=綱島理友|authorlink=綱島理友|year=2005 |month=3 |title=プロ野球ユニフォーム物語 |publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |pages={{要ページ番号 |date=2015年11月}} |isbn=9784583038070 |oclc=69245565}}</ref>。
*** ビジター用は、本来1998年から導入される予定だったが、前年日本一になったことからゲン担ぎのために当時の監督・[[野村克也]]が導入を止めさせた。
*** ビジター用のアンダーシャツ、キャップのツバはもともと紺でデザインされていた。しかし完成後に着用して確認した若松が「雰囲気が大人しい、闘争本能が湧いてこない」と異論を唱えたことから急遽赤に変更されたものの最終的には定着せず終わった。
* 2006年 - 2008年:「'''東京ヤクルトスワローズ'''」への球団名変更及び[[古田敦也]]選手兼任監督就任、球団あげての観客増員プロジェクト「F-PROJECT」の一環として、「[[BEAMS]]」が手がける。ホーム、ビジター共基本色は変わらないが、首周りと袖に赤線が入り、肩から袖・パンツの腰から足首にかけて細くなる太線が入る。ホーム・ビジター共に右肩に「''Tokyo''」のロゴが入り、さらに選手名の書体が変わり、背番号・胸番号の書体が角が丸い角型に変わる。
** ホーム用は、1974年より32年間採用されていた赤ストライプが消える。胸ロゴに赤・白・水色の縁取りが入る。''Tokyo''ロゴは青色で、左袖のエンブレムの下に赤色の''Yakult''ロゴが配される。
** ビジター用は、背番号が赤地に白縁取りだったものが、白一色になる。''Tokyo''ロゴは赤色、左袖のエンブレム下には白色で''Swallows''ロゴが入る。
* 2009年 - 2012年:ヤクルト球団設立40周年を記念し、3年ぶりにホーム、ビジターのデザインを一新した(デザインは引き続きBEAMSによる)。選手名と背番号の書体が変更され、選手名は直線状に並ぶ。ワンポイントとして一番上のボタンのみ、赤色を使用(他はホーム用はユニホーム同色の白、ビジター用はグレー)。スパイクは白から紺に変更。左袖はエンブレムからつば九郎とは異なるツバメの顔のイラスト([[タツノコプロ]]デザイン)に変更。左右袖の「''Tokyo''」「''Yakult''(ホーム用)」「''Swallows''(ビジター用)」は赤色に統一。ホーム用は[[ゼット (企業)|ゼット]]製、ビジター用は2011年までは[[ミズノ]]製で2012年からはホーム用と同じくゼット製。
** ホーム用は2006年使用モデルを基本に、太線を赤、ロゴマークを白基調、赤と紺の縁取りに変更。
** ビジター用はライトグレー地を基調に、太線の配置をホーム用とほぼ同じとしている。
** 2009年のみ右胸部分にヤクルト球団設立40周年記念ロゴが入る。
*** 球団設立40周年記念ロゴは、内野のダイヤモンドを模したデザインで、各ベース部分には歴代の帽子マークをデザイン(本塁:スワローズ現行「Ys」、一塁:アトムズ「Ya」、二塁:アトムズ「YとA組み合わせ」、三塁:スワローズ「YS」)。
** 2011年度よりホームユニフォームのみシャツ本体の切り替え、胸マーク、背番号、胸番号、袖マークを昇華プリントに変更。
* 2013年 - 2015年:2013年シーズンこそは優勝したいと言う想いを込めて、1990年代の黄金期のユニフォームデザインを蘇らせたものに変更。選手名と背番号の書体が変更となり、選手名は曲線状に並ぶ。前年まで使用していたユニフォームと同様にワンポイントとして、一番上のボタンのみ赤色を使用(他はホーム用が白、ビジター用が同色のネイビー)し、左右袖の「''Tokyo''」「''Yakult''(ホーム用)」「''Swallows''(ビジター用)」は赤色に統一。なお、デザインは前年までのBEAMSではなく、ホーム、ビジター共にゼット社が手がけている。
** ホーム用は黄金期の象徴ともいえる「赤ストライプ」が8年ぶりに復活。白を基調に赤の縦線で、上下縦じまを採用。ロゴマークと背番号はネイビーで赤で縁取り、選手名はネイビー。肩口にネイビーと赤でツバメの優雅な飛翔を象徴したデザインを新たに施し、「伝統」と「最新」を融合させたデザインとなっている。帽子はネイビーの地に白字で「YS(1974年から1993年まで使用していたマークが復活)」。
** ビジター用はネイビーを基調にして力強さを表現。ロゴマークと背番号は赤で白で縁取り、選手名は白。肩口に白と赤でツバメの優雅な飛翔を象徴したデザインを施し、脇の所まで赤の直線が入る。また、脇から背中を廻る鮮やかな赤のウイニングラインが入り、上昇気流に乗って勝利を目指すツバメの軌跡をイメージしている。帽子は前年まで使用していたものを使用していたが、2015年よりホーム用と同じマークに統一。
*** また、キャプテンを務める選手の右胸にはキャプテンマーク(白縁に藍色の菱形、その上に赤字で「C」)のワッペンが付けられる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yakult-swallows.co.jp/photogallery/detail.php?photo_seq=12992 |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2013-03-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130315025404/http://www.yakult-swallows.co.jp/photogallery/detail.php?photo_seq=12992 |archivedate=2013-03-15 |url-status=dead|url-status-date=2017-10 }}</ref>。
*** 2015年はホーム・ビジターともに左袖に「ヤクルト」80周年記念エンブレムが入る。
* 2016年 - メーカーはゼットから[[マジェスティック・アスレティック]]に変更し、ユニフォームデザインを大幅に一新<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yakult-swallows.co.jp/pages/info/special/2016_uniform |title=2016年新ユニホームサプライヤーが「マジェスティック社」に決定! |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2015-11-24 }}</ref>。帽子はホーム/ビジターとも前年までのものを引き続き使用。
** ホーム用は、前年までのユニフォームと同様の赤いピンストライプを基調としたもの。1974年のヤクルトスワローズとして最初のユニフォームをモチーフに、赤のストライプは細く、間隔も広げた。首周りと袖口に配した紺・白・赤のトリコロール柄のリブが特徴。ワンポイントの赤ボタンは継承している。
** ビジター用は、新たな「東京スタイル」をコンセプトに、サードユニフォームで使用していた「グリーン」を配色に採用。紺色とグリーンを基調にしたデザインで、「Yakult」のロゴを筆記体に変更。首周りと袖口には緑・白・紺のトリコロール柄のリブ。ワンポイントのボタンは緑色となる。
** サードユニフォームは、独自のデザインであった2015年版のCREWユニフォームの進化系でありながらも、紺色と赤をメインカラーに使用。ホーム/ビジター同様に、首周りと袖口に採用したトリコロールリブを配した。なお、ホーム/ビジターとの相違点としては、帽子のつばが赤(1974 - 1977年仕様の復活とも言える)。
*** 2016年および2022年には前年度のセ・リーグ優勝を記念して、ホーム/ビジターとも右袖に[[チャンピオン・エンブレム]]が貼り付けられる。
*** 2019年のみ右袖にヤクルト球団設立50周年記念ロゴが入る。
 
{{Gallery
尚、[[フジテレビCS事業部|フジテレビ739]]([[フジテレビジョン]]のCS衛星放送)では、これまでの[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦の[[地上波]]との[[プロ野球トップ&amp;リレー中継|トップ&amp;リレーナイター]]に加え、[[2005年]]から巨人戦以外の主催ゲーム全62試合([[インターリーグ|交流戦(日本版インターリーグ)]]18試合含む)を『[[SWALLOWS BASEBALL L!VE]]』という題で[[通信衛星|CS衛星放送]]独占中継することになった(これまではフジテレビが資本参加する[[J SPORTS]]で放送されていた)。
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|File:Gk_ryoDSC_6809.jpg|ホームユニフォーム(2017年)
|File:山中 浩史.jpg|ビジターユニフォーム(2016年)
|File:20140713_Wladimir_Ramon_Balentien,_outfielder_of_the_Tokyo_Yakult_Swallows,_at_Meiji_Jingu_Stadium.JPG|2013年~2015年のホームユニフォーム
|File:20120501_Shingo_Kawabata,_infielder_of_the_Tokyo_Yakult_Swallows,_at_Yokohama_Stadium.JPG|2009年~2012年のビジターユニフォーム
}}
 
=== 最少観客動員限定版ユニフォーム ===
* 2008年3月31日、5月の神宮球場主催試合などで、「'''ヤクルトアトムズ復活シリーズ'''」と題し、アトムズを名乗った1969年のビジターユニフォームを復刻(この時から袖に「''Yakult''」のロゴが入る)し、全選手が着用し試合に臨むことが発表され、[[手塚治虫]]の生誕80周年記念事業として、手塚の個人事務所[[手塚プロダクション]]協賛で行われた。対象となるのは神宮球場ホームゲーム3カード9試合<ref group="注釈">5月3-5日の対[[読売ジャイアンツ]]戦、9-11日の対[[広島東洋カープ]]戦、13-15日の対[[中日ドラゴンズ]]戦。</ref> と、[[セ・パ交流戦|交流戦]]開幕シリーズの5月21-22日の対[[埼玉西武ライオンズ]]戦(西武ドーム)のビジターゲーム1カード2試合。なお、[[西武ドーム]]での対西武戦では、同じく手塚プロの[[レオ (埼玉西武ライオンズ)|西武のマスコット・レオ]]との共演となる<ref>{{Cite news |title=ヤクルト、5・3にアトムズユニホーム |newspaper=日刊スポーツ |date=2008-03-31 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20080331-342652.html |accessdate=2008-03-31 |publisher=日刊スポーツ新聞社 }}</ref>。ただし、帽子・アンダーシャツの色は、2008年時点のチームカラー・濃紺になっており、必ずしも当時と同じものではない。
サンケイアトムズ時代の[[1966年]][[10月12日]]に[[川崎球場]]で開催された中日ドラゴンズ戦[[ダブルヘッダー]]では、2試合ともたった100人の観衆しか集まらなかった。これはプロ野球の最少観客動員記録である。サンケイはその前日の[[10月11日]]にも同球場で広島カープ戦ダブルヘッダーを開催したが、こちらもそれぞれ250人、300人しか入らず、シーズン終盤の消化試合とはいえ、不人気ぶりを露呈する結果に終わった。
* 2009年 ホーム用交流戦ユニホームは、国鉄が1951年、本拠地構想があったとも言われている[[武蔵野グリーンパーク野球場]]開場当初だけ使った燕ロゴのユニホームが採用されている(背番号上の選手名のローマ字表記はない)。また、帽子の「S」マークはこのユニホームでは使われず、1960年代前半のマークをモチーフとしていた。
* 2010年 8月にセ・リーグ主催のイベント「[[「GREAT CENTRAL」〜オールドユニホームシリーズ2010〜|オールド・ユニフォーム・シリーズ]]」で1994年 - 1998年仕様の復刻ユニホームを使用。なおセ・リーグ6球団中唯一、ホーム用・ビジター用それぞれを用意していた<ref group="注釈">ビジター用は、対広島戦(8月17日 - 19日・マツダスタジアム)で、ホーム用は、対横浜戦(8月24日 - 26日・神宮球場)で使用。</ref>。
* 2012年8月 - 9月にセ・リーグ主催のイベント「[[「GREAT CENTRAL」〜レジェンドユニフォームシリーズ2012〜|レジェンド・ユニフォーム・シリーズ]]」において1978年の球団史上初優勝・日本一当時のホーム用ユニフォームを復刻。ただし、復刻版には「ミルミル」などの広告が張り付けられている。
* 2013年 「TOKYO 燕(エン)プロジェクト」の一環として勝利(白星)を表現する白地の限定ユニホームを7月13日 - 9月1日の主催8試合で着用。地色は白。左胸には、赤縁に黄緑色の「YS」マーク、袖には、赤と黄緑のライン。背番号は赤縁に黄緑。背ネームは無し<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/event/tokyo_en_project/uniform_p.html#tep_header TOKYO 燕(エン)プロジェクト] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20130607191953/http://www.yakult-swallows.co.jp/event/tokyo_en_project/uniform_p.html |date=2013年6月7日 }}</ref>。
* 2014年「TOKYO燕(エン)プロジェクト2014」の一環として“活気のある”“若々しい”という意味を持つ緑の限定ユニフォームを7月12日 - 9月7日の主催7試合で着用。地色は緑。左胸には、白に赤の「YS」マーク。袖には、白と赤のライン<ref>[http://yakult-swallows.mopita.com/index.php?uid=NULLGWDOCOMO&mopita=1&action_mobile_info_data=true&article_seq=16816&aid= TOKYO燕(エン)プロジェクト2014] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20140815055409/http://yakult-swallows.mopita.com/index.php?uid=NULLGWDOCOMO&mopita=1&action_mobile_info_data=true&article_seq=16816&aid= |date=2014年8月15日 }}</ref>。
* 2015年「TOKYO燕(縁)プロジェクト2015」の一環として、東京ドームと神宮球場で4月に行われるVS巨人戦全6試合(4月10日 - 12日の東京ドームでの3連戦、4月24日 - 26日の神宮での3連戦)を「TOKYOシリーズ」として開催。緑と紺を基調とし、胸に「TOKYO」の文字が入った「TOKYO燕パワーユニホーム」を着用<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yakult-swallows.co.jp/pages/info/event/tokyo_series |title=TOKYOシリーズ 東京は、燃えているか。 |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。
* 2016年、ホーム・ビジター・サードに続く第4のユニホームで、昨年に続き胸に「TOKYO」の文字を配置し、昨年よりも鮮やかなグリーンを全面に押し出したデザインが特徴の「TOKYO燕(えん)パワーユニホーム」を発表。4月12日の巨人戦(神宮)を皮切りに、7月の「TOKYO燕プロジェクト」や8月の「TOKYO燕日」のイベント試合で着用<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/news/detail/19120 2016TOKYO燕パワーユニホームを発表] 東京ヤクルトスワローズ 2016年2月17日</ref>。
* 2017年、昨年に続き胸に「TOKYO」の文字を配置した「TOKYO燕(えん)パワーユニホーム」を発表。4月28日の巨人戦(神宮)を皮切りに、7月の「TOKYO燕プロジェクト」や8月の「TOKYO燕日」のイベント試合で着用<ref>{{Cite web|和書|date=2017-02-03 |url=https://www.yakult-swallows.co.jp/news/detail/20294 |title=2017TOKYO燕パワーユニホームについて |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2020-07-19 }}</ref>。
* 2018年、昨年に続き胸に「TOKYO」の文字を配置した「TOKYO燕(えん)パワーユニホーム」を発表。「燕パワーFRIDAY」、「TOKYOシリーズ」、「TOKYO燕プロジェクト」、「TOKYO燕日」のイベント試合で着用<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yakult-swallows.co.jp/pages/info/special/2018_enpower-uniform |title=2018TOKYO燕パワーユニホーム |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2020-07-19 }}</ref>。
* 2019年、昨年に続き胸に「TOKYO」の文字を配置した「TOKYO燕(えん)パワーユニホーム」を発表。「TOKYOシリーズ」、「TOKYO燕プロジェクト」、「TOKYO燕日」のイベント試合で着用<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yakult-swallows.co.jp/pages/info/special/2019_enpower-uniform |title=2019TOKYO燕パワーユニホーム |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2020-07-19 }}</ref>。
* 2020年、昨年に続き胸に「TOKYO」の文字を配置した「TOKYO燕(えん)パワーユニホーム」を発表。「TOKYO燕プロジェクト」のイベント試合で着用する予定であったが、イベントは中止となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yakult-swallows.co.jp/pages/info/special/tokyo_en_project2020 |title=2020TOKYO燕プロジェクト |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2020-07-19 }}</ref>。
 
== スポンサー ==
=== 試合球到着遅延事件 ===
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
サンケイアトムズ時代の[[1967年]][[10月9日]]、[[横浜公園平和野球場]]で行われた中日ドラゴンズ戦ダブルヘッダーでの出来事。試合で使用する予定の公式球を搬送していたスポーツ店の自動車が交通渋滞のあおりを受けてしまい、試合開始予定の正午を過ぎても到着しないというハプニングが起きた。
=== トップスポンサー ===
2023年シーズン現在、下記6社がトップスポンサー契約締結している。
 
* [[オープンハウスグループ]]
その為公式記録員がセ・リーグの[[鈴木龍二]]会長に連絡を取ったところ、鈴木は「応急処置として中日側の了解を得て練習球で試合をするように」と指示を出したものの、中日側はこれを拒否。結果的には公式球の到着を待って37分遅れで試合が開始された。当時セ・リーグのアグリーメントでは「[[ダブルヘッダー]]で試合を行う場合、第1試合は日没5時間前までに開始しなくてはならない」と定められていたことから、中日の[[西沢道夫]]監督は「このままでは第2試合は中止になってしまうのではないか」と抗議したが、日程調整上当初のダブルヘッダー開催を強行した。
* [[麒麟麦酒|キリンビール]]
* [[コカ・コーラボトラーズジャパン]]
* [[マイナビ]]
* [[ファナティクス|Fanatics Japan]]
* [[ヤクルト本社]]
 
=== スワローズ・燕市交流事業 ===
=== 初優勝決定の日 ===
チームの愛称「スワローズ」が日本語で燕を意味することから、それと同じ名前を地名にしている[[新潟県]][[燕市]]と、燕市に本社を置く[[ツインバード]](家電)、[[和平フレイズ]](調理器具)、[[エコー金属]](日用品金属加工)、[[北越工業]](重機械)、[[燕食品]](食品加工)の5社が協賛し、2011年から「スワローズ・燕市交流事業」の取り組みをしている。([[#新潟県・新潟市による誘致構想|詳細後述]])
1978年10月4日、ヤクルトは地元・神宮で中日ドラゴンズを相手に試合をした。ヤクルトの応援席であるライト側外野席には「国鉄スワローズ→サンケイアトムズ→ヤクルトスワローズ初優勝!! 29年間のご支援ありがとう」という旨の横断幕が既に試合前から掲揚された。そして圧倒的な9-0のリードで迎えた9回1アウト1塁から[[谷沢健一]]の打球がセカンドゴロからのゲッツーとなり、念願の地元胴上げで初優勝を達成したのである。
 
=== ユニフォームスポンサー ===
決定の瞬間、選手らが1塁ベンチから飛び出して[[広岡達朗]]監督を胴上げすると、興奮の余りに客席からグラウンドに飛び出したファンからも祝福の胴上げや拍手をし、優勝記念の表彰式どころの騒ぎではなくなっていた。この模様は[[フジテレビジョン|フジテレビ]]から全国に放送された。
セ・リーグでは各球団の申し合わせにより、2002年度からホーム用ユニフォームに限定してスポンサー広告を掲出できるようになったが、スワローズでは2005年まで掲出していなかった。
 
2006年、オフィシャルスポンサーとなった[[ユニデンホールディングス|ユニデン]]がホームユニフォーム左胸、[[カカクコム]]がヘルメットにそれぞれ掲出を開始したのを皮切りに、ユニフォーム広告を採用した。契約満了後の2008年は掲出を見送ったが、ユニフォームのデザインを変更した2009年に再開。2010年からは親会社・ヤクルト本社の商品名を記したエンブレムやステッカーを掲出している。
更に[[バックスクリーン]]のスコアボードにもセ・リーグ参加の他5チームに対するお礼のコメントを書いた垂れ[[幕]]が掲げられた。
* [[読売ジャイアンツ]]「セ・リーグの繁栄を今日まで築いてくれた伝統の巨人軍ありがとう」
* [[阪神タイガース]]「熱心な浪速気質の声援に大きな刺激を受けました。阪神球団ありがとう」
* [[中日ドラゴンズ]]「ナゴヤ野球のしぶとさがやっと神宮に育ちました。中日球団ありがとう」
* [[広島東洋カープ]]「赤ヘル軍団の活躍が初優勝のよき刺激になりました。広島球団ありがとう」
* [[横浜ベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]「新球場([[横浜スタジアム]])進出でセ・リーグのイメージが一段と上がりました。大洋球団ありがとう」
 
「TOKYO」ロゴのサードユニフォームを巨人との「TOKYOシリーズ」のビジターゲームで着用する際には、2020年は規定に配慮して広告をユニフォームと同素材の当て布で隠していたが、時折はがれることがあったため、2021年は別に広告がないものを作成した。
阪神タイガースはその年、球団創設初の最下位だった。この前年までセ・リーグ6球団中、最下位シーズンの経験がなかったのは阪神だけであり、この1978年でセ・リーグの全球団(消滅した[[西日本パイレーツ]]を除く)が優勝と最下位を経験したことになる。
 
* ユニフォーム左胸
=== 背番号17番 ===
** [[マジェスティック・アスレティック]](現在 オフィシャルサプライヤー契約)
背番号17番は、スワローズの[[エースナンバー]]として正統に受け継がれている。現在までの着用者は以下の6名。
* ヘルメットおよび ユニフォーム腰部
** [[タフマン]](ヤクルト本社、2011年度途中-)
 
==== 過去 ====
*[[宮地惟友]]
* ユニフォーム左胸
*[[佐々木重徳]]
** [[ユニデンホールディングス|ユニデン]](2006年度 - 2007年度、オフィシャルパートナーシップ契約)
*[[鈴木皖武]]
** [[ゼット (企業)|ゼット]](2009年度-2015年度 オフィシャルサプライヤー契約)
*[[松岡弘]]
* ユニフォーム腰
*[[川崎憲次郎]]
** [[インテル]](2007年度)
*[[川島亮]]
* ヘルメット
** [[カカクコム|価格.com]](2006年度)
** [[レノボ|レノボ・ジャパン]](2007年度)
 
== 歴代監督 ==
=== 開幕129試合連続得点 ===
※'''太字'''はリーグ優勝、◎は日本一
初優勝した1978年、ヤクルトは開幕戦から完封負けも0-0の引き分けもなしの記録を129試合続け、ついにシーズン最終戦(対広島)を迎えることになった。広島の先発はプロでは完投経験もなかった2年目の[[大野豊 (プロ野球選手)|大野豊]]で、シーズン全試合得点の大記録達成は確実と思われた。ところがこの大野をヤクルト打線は打ち崩すことができずプロ入り初完封勝利を献上、あと一歩のところで記録を逃した。前年からの143試合連続得点は当時の日本記録。のちにシーズンを跨ぐ形の記録は更新されたが、1シーズン全試合得点の記録は2008年までまだ達成した球団はない。
# 1950年 - 1953年 : [[西垣徳雄]]
# 1954年 - 1955年 : [[藤田宗一 (外野手)|藤田宗一]]
# 1956年 - 1960年 : [[宇野光雄]]
# 1961年 - 1962年 : [[砂押邦信]]
# 1963年 : [[浜崎真二]]
# 1964年 - 1965年 : [[林義一]]<ref group="※">1965年は4月25日まで指揮。残り試合は砂押邦信が代行。</ref><ref group="※">ここからサンケイスワローズ</ref>
# 1966年 - 1967年 : [[飯田徳治]] <ref group="※">ここからサンケイアトムズ</ref><ref group="※">1967年は5月23日から7月4日まで[[中原宏]]が代行。</ref>
# 1968年 - 1970年 : [[別所毅彦]] <ref group="※">ここからアトムズ</ref><ref group="※">ここからヤクルトアトムズ</ref><ref group="※">1970年は8月18日まで指揮。残り試合は[[小川善治]]が代行。</ref>
# 1971年 - 1973年 : [[三原脩]]
# 1974年 - 1976年 : [[荒川博]] <ref group="※">ここからヤクルトスワローズ</ref><ref group="※">1976年は5月12日まで指揮、残り試合は広岡達朗が代行。</ref>
# 1976年 - 1979年 : '''[[広岡達朗]]'''◎<ref group="※">1979年は8月17日まで指揮、残り試合は[[佐藤孝夫]]が代行。</ref>
# 1980年 - 1984年 : [[武上四郎]] <ref group="※">1984年は4月26日まで指揮、5月22日までは[[中西太]]が代行。</ref>
# 1984年 - 1986年 : [[土橋正幸]]
# 1987年 - 1989年 : [[関根潤三]]
# 1990年 - 1998年 : '''[[野村克也]]'''◎
# 1999年 - 2005年 : '''[[若松勉]]'''◎
# 2006年 - 2007年 : [[古田敦也]] <ref group="※">ここから東京ヤクルトスワローズ</ref><ref group="※">選手兼任監督</ref>
# 2008年 - 2010年 : [[高田繁]] <ref group="※">2010年は5月26日まで指揮、残り試合は小川淳司が代行。</ref>
# 2011年 - 2014年 : [[小川淳司]](第1次)
# 2015年 - 2017年 : '''[[真中満]]'''
# 2018年 - 2019年 :小川淳司(第2次)
# 2020年 - 2025年 :'''[[高津臣吾]]◎'''<ref group="※">2022年は7月11日より7月19日まで[[松元ユウイチ]]が代行。</ref>
# 2026年 - :[[池山隆寛]]
{{Reflist|group="※"}}
 
== 永久欠番 ==
なお、大野はその後ヤクルト戦を得意とするようになり、1998年に引退するまで通算31勝10敗(大野自身の現役通算成績は148勝100敗)、1985年から88年までは12連勝を記録した。
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
球団として公認された[[野球界の永久欠番|永久欠番]]は2015年現在ない<ref group="注釈">[[大杉勝男]]の8番について、後年の文献では一旦永久欠番となった後[[広澤克実|広沢克己]]に禅譲したため失効したと、記述している物が見受けられるが(ベースボール・マガジン社『週刊プロ野球データファイル』等)、1983年11月9日の引退表明を1面で大きく扱った[[サンケイスポーツ]](東京版・1983年11月10日付)では、「球団は「背番号8」を'''保留欠番'''とし、来春3月下旬に引退試合を行うことを決めた。」とあり、明らかに誤りである。この発表からも、この段階で将来的には相応しい選手に与える意向があったとみられる。</ref>。他に欠番的な背番号には以下のものがある。
生え抜きまたはフリーエージェントで獲得した選手で、かつ対象者に推薦が必要とされる。
<!-- 単なる「空き番号」は、ここに記すに値しないと考えます。どうしても賛同できない方は、ノートにご意見をお願いします。-->
* '''1''':[[若松勉]]
*: 1989年、若松の引退時に、背番号1番を永久欠番にとの署名などが多く集まり、球団が「生え抜きのみの選手が背負う準永久欠番」として当面欠番とすることを決定。入団当初「36」を着けていた池山が1991年オフに「1」を希望して1992年から昇番。2001年に池山が「1」を返上して「36」に戻ったのに伴って岩村に継承された。2006年限りで岩村がメジャーに移籍し、「1」を[[青木宣親]]に打診しそのときは辞退したが、3年間の欠番の後に2010年より青木が「1」を着けることになったが、2011年限りで青木がメジャーに移籍することにより、再び欠番となった。2013年には岩村が復帰したものの、「1」以前につけていた「48」を着用した。2014年オフには北海道日本ハムファイターズからフリーエージェントで移籍した[[大引啓次]]に獲得のための誠意として提示されたが、前述の経緯を考慮して本人が辞退した。2016年から[[山田哲人]]が「1」を着けることが決まり、過去に山田同様「23」から「1」に変更した青木が背番号「1」のユニフォームを山田に手渡すサプライズが行われた<ref>{{Cite news |title=ヤクルト山田 2億2000万円で更改「気持ちよくサインした」 |newspaper=スポニチアネックス |date=2015-12-08 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/12/08/kiji/K20151208011649020.html |accessdate=2015-12-08 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。
* '''27''':[[古田敦也]]
*: 2007年限りで引退した古田の功績を称え、球団は同年10月11日に「27」を“名誉番号”とすると発表。「実績を積んだ捕手だけが使用できる番号」で、生え抜き・移籍を問わず着用に相応しい選手が現れるまでは欠番としていたが、2022年から[[中村悠平]]が「2」から変更して着用している。なお、2009年に横浜ベイスターズからフリーエージェントで移籍した[[相川亮二]]に打診したが、辞退された。古田敦也の前には、[[根来広光]](1958年 - 1966年)→[[加藤俊夫]](1967年 - 1970年)→[[大矢明彦]](1971年 - 1985年)と、1958年から1985年まで歴代の国鉄→サンケイ→ヤクルトの正捕手が着けていた(根来の前は、外野手の[[町田行彦]]が着用。1986年から1989年の途中までは空き番だったが、1989年の途中から閉幕まで投手の[[ロン・デービス]]が着用)。
 
== 沢村栄治賞受賞者 ==
=== 1978年の日本シリーズ ===
スワローズで[[沢村栄治賞]]を複数回受賞しているのは[[金田正一]]のみである<ref>[https://baseballking.jp/ns/column/170633 “真のエース”の証…?「沢村賞」を複数回受賞した投手たち | BASEBALL KING]</ref>。なお金田はプロ野球最多タイ記録となる3回受賞(史上2人目)を達成している。
{{Main|1978年の日本シリーズ}}
* [[金田正一]]:3回(1956年 - 1958年)※最多タイ記録
* [[松岡弘]] :1回(1978年)
* [[川崎憲次郎]] :1回(1998年)
 
== 三冠王(投手・打者) ==
==== 使用球場変更 ====
=== 投手三冠王 ===
1978年、ヤクルトは前身の国鉄時代から数えて29年目で初のリーグ優勝を決定し、[[1978年の日本シリーズ|日本シリーズ]]に駒を進めた。しかし、[[明治神宮野球場|神宮球場]]を本来使用するべきところだったが、この時期は東京六大学野球リーグ戦、[[東都大学野球リーグ]]戦と開催日が重複しているため、日本シリーズのナイター開催、あるいはその逆で学生野球のナイター開催を双方が提案したが折り合いが付かず、この年のシリーズのヤクルト主催ゲームは[[後楽園球場]]に代替して開催された。
スワローズでの[[三冠 (野球)|投手三冠王]]の達成者は1人<ref>[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/b0916054ddac843989a696eba0ca114a71dde34e 投手三冠で沢村賞を逃したのは1人だけ。千賀滉大は2人目になる!?]</ref>。
* [[金田正一]] :1回(1958年)
=== 打者三冠王 ===
スワローズでの[[三冠 (野球)|三冠王]]の達成者は1人<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/history/alltime/triplecrown.html |title=三冠王 <nowiki>|</nowiki> 各種記録達成者一覧 <nowiki>|</nowiki> 達成記録 |access-date=2022-10-05 |publisher=日本野球機構 |date=2022-10 |website=NPB.jp |archive-url=https://web.archive.org/web/20221005152919/https://npb.jp/history/alltime/triplecrown.html |archive-date=2022-10-05}}</ref>。
* [[村上宗隆]]:1回(2022年)
 
== 最優秀選手受賞者(複数回) ==
その後、1992年・1993年の日本シリーズは学生野球をナイター開催とし、日本シリーズ(デーゲーム開催)の神宮開催が実現している。
=== 投手の複数回受賞者 ===
2024年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/professional/record/mvp/pf-mvp_cl.html 最優秀選手 - プロ野球 : 日刊スポーツ]</ref>。
=== 打者の複数回受賞者 ===
スワローズの打者で[[最優秀選手 (日本プロ野球)|最優秀選手]]を複数回受賞しているのは2人<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/professional/record/mvp/pf-mvp_cl.html 最優秀選手 - プロ野球 : 日刊スポーツ]</ref>。
* [[古田敦也]] :2回(1993年、1997年)
* [[村上宗隆]] :2回(2021年、2022年)
 
== 主な歴代の球団歌・応援歌 ==
==== 上田抗議に大杉の2発 ====
{{節スタブ|国鉄・サンケイ時代の楽曲について|date=2015年10月}}
ヤクルトと[[オリックス・バファローズ|阪急(現在のオリックス)]]が共に3勝3敗で迎えた第7試合([[10月22日]])、ヤクルトが1-0でリードして迎えた6回裏、当時の4番・[[大杉勝男]]選手がレフトポールぎりぎりに[[本塁打|ホームラン]]を放った。しかし、これが後楽園球場のレフトポールを切れてスタンドに入ったのではないか(即ちファールボールではないか)と、阪急の[[簑田浩二]]選手と[[上田利治]]監督らが抗議。
2016年現在、球団公式サイトには応援ソングとして「We Are The Swallows」のみが掲載されている。
; アトムズ - ヤクルトアトムズ時代
* [[アトムズマーチ]](1969年製作。1970年にヤクルトアトムズとなったとき歌詞を一部変更した。歌手は1969年のものが[[ボニー・ジャックス]]、1970年の歌詞変更バージョンは[[砂川啓介]])
; ヤクルトスワローズ時代
* [[とびだせヤクルトスワローズ]](歌:[[松岡弘]]) - 初代の球団公式応援歌。
** 新とびだせヤクルトスワローズ(大洋ホエールズが横浜ベイスターズにチーム名を改めたのに伴い、関連する箇所の歌詞を変更したヴァージョン)
* スワローズ賛歌(歌:[[坂上二郎]])
* ビクトリーロード(歌:[[ザ・ヴィーナス|ILYS]](アイリス)) - 神宮球場で勝った場合、最後に場内で流す曲。1980年代頃と、2000年前後に流されていた。現在は使われていない。1978年9月発売。
* ディスコ翔べスワローズ! - 1979年5月発売。当時のディスコブームに乗って発売された。
* スワローズ音頭 - 1983年4月発売。メインボーカルは坂上二郎、[[荒木大輔]]・松岡弘・[[梶間健一]]・[[尾花高夫]]・[[大矢明彦]]・[[角富士夫]]・[[大杉勝男]]・[[若松勉]]らのスワローズ選手がコーラスを務めている。
* 君こそヒーロー - 「スワローズ・ビクトリー・マーチ」。球場では、ドリマトーンの演奏で使われたが、実際の曲は優勝セレモニーなど特別な場合以外は流されなかった。2006年以降、応援団によって四死球による出塁・盗塁成功時などのテーマとして使われていたが、2012年からは試合前、攻撃前に流される形式に変更されている。
* 青春のダイヤモンド - スワローズの球団歌。
* ラッキー・セブンの歌 - 1995年9月1日発売。
* Field Of Dreams (Beat Park Anthem) - 2005年9月21日発売。F-Projectの一環として作成。[[Zeebra]]と[[G.K.MARYAN]]によるパフォーマンス。曲はZeebraの[[Street Dreams]]と同一で歌詞だけが変更され球団応援になっている。曲中に「ヤクルト」「スワローズ」という単語が現れないが、「東京音頭」「神宮」「神宮外苑」という単語が出現し、また「とびだせヤクルトスワローズ」の冒頭の一節が使われている。
; 東京ヤクルトスワローズ時代
* [[We Are The Swallows]] - 2009年 ヤクルト球団創設40周年を記念し(ヤクルトスワローズへの改称以降)2代目の球団公式応援歌として制作。作詞・作曲は[[林田健司]]。2009年より応援団によって安打による出塁のテーマとして使われるようになり、2012年からは攻撃中の出塁全般に使用されている。
 
== 主なキャンプ地 ==
一時阪急は[[放棄試合]]も検討し始め、「審判があんな判定をするんだったら変えるべきだ」とまで要求してしまい、挙句の果ては[[金子鋭]][[コミッショナー]]が阪急のベンチに説得するまでの事態に発展。「(コミッショナーである)ワシが頭を下げてもダメなのか!?」と言わせてしまうまでに上田監督は試合再開をかたくなに拒否し、結局1時間19分という日本シリーズ史上最長の中断時間を経て試合が再開された(この時点で上田監督は辞任を決意していたという)。
* [[沖縄県]][[浦添市民球場]](一軍春季キャンプ)
* [[愛媛県]][[松山中央公園野球場|松山坊っちゃんスタジアム]](秋季キャンプ)
* [[宮崎県]][[西都原運動公園野球場]](二軍春季キャンプ)
* 明治神宮野球場
 
== エピソード ==
尚、この時の上田監督と金子コミッショナーの会話はテレビ中継の集音マイクで拾われており、そのまま放送されていた。
{{複数の問題
|section=1
|雑多な内容の箇条書き=2011年10月
|出典の明記=2013年1月
}}
=== フジサンケイグループ ===
1962年に国鉄球団と業務提携を結んだ[[フジテレビジョン]]は、当時後楽園球場のテレビ放映権が、包括的な放映権契約を独占で結んでいた[[日本テレビ放送網]]しか与えられていなかった<ref group="注釈">[[1978年の日本シリーズ]]・阪急戦のヤクルト主管(日本シリーズの場合NPB主催)4試合も学生野球の都合で後楽園だったが、この時は後楽園開催の条件として日テレに1試合だけ(第2試合)放送権を譲渡することが盛り込まれていた。それ以外の3試合はフジテレビから放送された(阪急主管の3試合も系列局の[[関西テレビ放送|関西テレビ]]が事実上の独占放送権を持っていたためフジテレビでの放送となった)。なおヤクルト戦共々、後楽園を当時本拠地としていた日本ハムの主催・主管試合放映権を主に持っていた[[テレビ朝日]]はこのシリーズの放映権を得ることができなかった。</ref> ため、当時[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]がメイン球場としていた神宮球場を本拠地にすることを前提に球団経営を引き受けたといわれる。その後先述どおり1965年のシーズン開幕直後に正式に球団譲渡を受け入れてサンケイ(産経)スワローズ(1966年からサンケイアトムズ)とした。
 
なお、国鉄球団がフジサンケイグループの後援を受け入れるにあたっては、後楽園の放映権の絡みから、神宮球場に隣接する神宮第2球場をフジサンケイグループ主導で建て替えて専用球場とする計画をしていたが、[[日本学生野球協会]]などからの反対意見や、明治神宮も第2球場をアマチュア専用球場にしたい意向もあったためか、第2球場ではなく学生野球との日程調整をし、それを優先させる形で主球場への移転を認めたという経緯がある<ref>[http://i.imgur.com/Iw51FDv.jpg 国鉄神宮進出の背景・1963年6月21日 朝日新聞 2015年11月15日閲覧)]</ref>。
異様な雰囲気が続く中、大杉はベンチの中で「人の仕事にケチをつけやがって」と1人憤慨していたという。その後8回裏に「正真正銘のホームラン」を放ち、阪急に引導を渡した。大杉はこのシリーズの[[最優秀選手 (野球)#日本シリーズMVP|MVP]]を獲得している。
 
国鉄から球団を買収した産業経済新聞社、フジテレビジョンは共に[[フジサンケイグループ]]の企業である。1970年に産経新聞は球団経営から撤退したが、ヤクルトは引き続きフジサンケイグループが球団を後援する事を条件に経営を引き受けたという。2000年にヤクルト球団の第三者割り当てで、産経撤退後も5%弱の球団株を保有していたフジテレビは従来の分も併せて20%程度の株式を引き受ける事となり、球団と業務提携を締結した。
なお試合終了=優勝決定後、1塁側内野席で日本一を称える[[くす玉]]が割られると同時に、リーグ優勝の時同様ファンがスタンドから飛び出し、広岡監督を選手共々胴上げする光景が見られた。
 
これに伴い、フジテレビと同じフジサンケイグループのラジオ局・[[ニッポン放送]]も従来以上にヤクルト球団をバックアップすることとなった。一方でニッポン放送は1979年以来[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ(当時)]](旧:大洋球団)の株式を保有し、同一企業とそのグループが複数の、しかも同一リーグに所属するチームに関与している事が長年の問題になっていたが(実際横浜が筆頭株主をニッポン放送に変更しようとした際に他球団のオーナーの猛反対にあい[[東京放送ホールディングス|TBS]]が筆頭株主となった)、2005年にゴールデンイーグルスのオーナーの[[楽天グループ|楽天]]が、横浜ベイスターズのオーナー(約70%保有)のTBSとの資本提携を図った際に、根来コミッショナーは「楽天とは異なり、フジテレビは横浜、ヤクルト両球団に対して実質的な支配権を持っていない」との見解を示していた。その後、保有していた両球団の株式はニッポン放送とフジテレビの持株会社化で[[フジ・メディア・ホールディングス]]へと移転したが、ベイスターズの株式については2012年以降同球団の親会社となった[[ディー・エヌ・エー]]に2016年までに売却したため、ようやく長年の問題が解決した。
=== 本拠地で優勝チームの胴上げ ===
ヤクルトは[[1985年]]と[[1986年]]に2年連続で最下位になったが、1985年は[[阪神タイガース]]の優勝、翌1986年は[[広島東洋カープ]]の優勝と2年連続で本拠地の神宮球場で許した。2年以上連続で最下位になったチームがその内2年以上連続で自分たちの本拠地で敵将の胴上げを許しているのはセ・リーグではヤクルトだけである。87年以降神宮球場での他球団胴上げは99年の中日ドラゴンズだった。しかし、2008年マジックナンバーを2とした読売ジャイアンツが神宮でスワローズに勝ち、同日遅れてマジック対象の阪神タイガースが敗れたため読売ジャイアンツの優勝が決定。神宮球場で胴上げとなった。(日本シリーズでは92年の西武ライオンズがある)
 
[[フジテレビONE]](フジテレビジョンのCS衛星放送)では、これまでの対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦の[[地上波]]との[[プロ野球トップ&amp;リレー中継|トップ&amp;リレーナイター]]に加え、2005年から巨人戦以外の主催ゲーム全試合([[セ・パ交流戦]]含む)を『[[SWALLOWS BASEBALL L!VE]]』という題で[[通信衛星|CS衛星放送]]独占中継することになった。それ以前の1998年-2004年までは、当時フジテレビが資本参加していた[[J SPORTS|スカイスポーツ→Jスカイスポーツ→J SPORTS]]で、フジテレビ・ニッポン放送とその関連法人である[[八峯テレビ]](現・[[フジ・メディア・テクノロジー]]<ref group="注釈">放送上の制作クレジットはJ SPORTS→フジテレビ単独表記であり、球団のクレジットは入っていないが、事実上、球団から公式映像制作を受託している。</ref>)との協力を得て、前述の巨人戦を除くヤクルト主催・主管の全試合を「[[J SPORTS STADIUM|スカイ・スタジアム→Jスカイ・スタジアム→J SPORTS STADIUM野球好き]]」にて放送していた。
=== 日本プロ野球選手会脱退 ===
[[1985年]]、[[日本プロ野球選手会]]は[[労働組合]]の資格を得た。だが、当時のオーナー[[松園尚巳]]は「(親会社の)ヤクルト本社をはじめ、グループ内で労組を結成している会社は無い」として、ヤクルト選手会を労組選手会から脱退させた。
 
フジテレビの定額制動画配信サービスであるFOD(旧[[フジテレビオンデマンド]])では、2019年に「SWALLOWS BASEBALL L!VE」を配信。[[DAZN]]による配信が再開された2020年は休止されたが、2021年からはDAZNと並行する形で配信を再開した。
この際、本社側からは「表向きには“労組脱退は選手の自発的な行動”とするように」などとする緘口令が敷かれたが、脱退を表明する記者会見で当時の選手会長[[角富士夫]]が声明文を読み上げる際『表裏一体』を“おもてうらいったい”と誤読してしまうハプニングがあった。
 
また、CSが普及する前は、巨人戦をフジテレビと[[テレビ朝日]](水・日曜を中心に、まれに金・土曜も)が放送していた。それ以外のカードは地方開催を中心とした一部のデーゲームをフジテレビとテレビ朝日を中心に、まれに[[テレビ東京]]で、巨人戦裏カードの全国中継ナイターはテレビ朝日(主に水 - 金曜日)が[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦と同様の扱いで平日を中心に年度によっては相当数を放送した、一方フジテレビは優勝争いがかかった時を中心に放送し、テレビ東京も年度により放送していたが、いずれも散発的なものだった。
プロ野球選手会には労組格と社団法人格の2組織があるが、ヤクルト選手会は、一方の社団法人格の選手会に関してはオーナー側から継続参加が認められた。当時のプロ野球選手会総会は社団法人格の総会と労組格の総会とを同時に行うことが多かったが、労組格を脱退している間、ヤクルト選手会幹部は労組総会が行われる際には全員退席していた。
 
その一方独立局では[[テレビ神奈川]]が随時『[[tvkプロ野球中継 横浜DeNAベイスターズ熱烈LIVE|TVKハイアップナイター]]』として、特に大洋との対戦(どちらの主催を問わず)を中心に、大洋戦の放送がない時も他カードを併せる形で年数十試合を放送し、特に対阪神戦は[[サンテレビジョン|サンテレビ]]や[[京都放送|KBS京都]]にネットすることがあった。またCSテレビが放送ではなく通信(配信)であった1990年代のごく一時期ではあるが、[[朝日ニュースター]](当時は[[朝日新聞社]]主導経営。現[[テレ朝チャンネル|テレ朝チャンネル2]])でごく数試合、テレビ朝日協力によるヤクルト戦の中継を[[ケーブルテレビ]]向けに配信したことがあった。
しかし[[1989年]]、当時の球団社長[[桑原潤]]が「労組といっても、政治的な背景があるわけではない」と活動に理解を示したことなどから、ヤクルト選手会は労組選手会に復帰した。
 
さらに1967年からごく数年間、当時[[独立局]]<ref group="注釈">現在の[[全国独立放送協議会]]に相当するもの</ref> で経営難にあえいでいた[[テレビ東京|東京12ch(現・テレビ東京)]]が全日放送に復帰するにあたり、番組ソフト不足解消の一環として、フジテレビから放映権を譲渡する形(ただし、制作主体は東京12chが行い、CXは制作協力だった)を取って、巨人戦以外のヤクルト主催・主管試合を東京12chから放送したこともあった。この時も球団資本の関係で、解説者とアナウンサーはCXからの派遣で賄っていた<ref>[https://web.archive.org/web/20081002075311/http://blogs.yahoo.co.jp/toruiwa2006/56766196.html MY BOOK 7]([[岩佐徹]])</ref>。
=== プロ野球史上最長試合 ===
[[1992年]][[9月11日]]の対阪神戦(甲子園)で記録(6時間26分)。
 
1974年まではTBSが優先権を持っていた大洋主催・主管試合とフジテレビのサンケイ→ヤクルト主催・主管試合の放送権の一部とを交換する形で、大洋戦の優先権がNETテレビ(現:テレビ朝日)に移動した1975年にはNET系からネットチェンジした直後の[[毎日放送]]が保有していた阪神主催試合の権利の一部と交換する形(当時TBSが編成していなかった金曜日の対巨人戦を[[関西テレビ放送|関西テレビ]]と交換)で、[[TBSテレビ]]もヤクルト主催・主管試合を水曜・日曜の対巨人戦を中心に放送していた。また神宮球場への移転でフジテレビに優先権が移った後も、1960年代にはフジテレビ・TBS・NETテレビのいずれも中継できない場合に限り[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]が対巨人戦を散発的に中継した例がある。
この試合、3対3で迎えた9回裏、阪神[[八木裕]]のレフトへの当たりが、一度はホームランと判定されて阪神のサヨナラ勝ちと思われたが、ヤクルト側の抗議を受けエンタイトルツーベースに訂正される。今度は阪神側が抗議し、この判定を巡って37分間中断。結局エンタイトルツーベースで試合が再開されるも、共に優勝を争う両軍は譲らず、7回からロングリリーフした[[岡林洋一]]の力投もあり、延長15回引き分けに終わった。
 
=== 試合球到着遅延事件 ===
この記録は2005年シーズン終了時でも破られておらず、また延長の規定が12回までと短縮されてしまったので、当分は破られそうにない。
サンケイアトムズ時代の1967年10月9日、[[横浜公園平和野球場]]<ref group="注釈">当時神宮球場で日中に[[日本の大学野球|大学野球]]が開催されており、それを優先させたため。当時、[[消化試合]]の多くは[[デーゲーム]]だったこともあり、アトムズ・スワローズ主催試合の一部は横浜や、[[川崎球場]](当時[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]本拠地)等を間借りして行ったことがあった。</ref> で行われた対中日戦[[ダブルヘッダー]]での出来事。試合で使う予定の公式球を搬送していたスポーツ店の自動車が交通渋滞のあおりを受け、試合開始予定の正午を過ぎても到着しないというハプニングが起きた。
 
そのため公式記録員がセ・リーグの[[鈴木龍二]]会長に連絡を取ったところ、鈴木は「応急処置として中日側の了解を得て練習球で試合をするように」と指示を出したものの、中日側はこれを拒否。結果的には公式球の到着を待って37分遅れで試合が始まった。当時セ・リーグのアグリーメントでは「ダブルヘッダーで試合を行う場合、第1試合は日没5時間前までに開始しなくてはならない」と定められていたことから、中日の[[西沢道夫]]監督は「このままでは第2試合は中止になってしまうのではないか」と抗議したが、日程調整上当初のダブルヘッダー開催を強行した。
なお、中断なしでの最長試合もヤクルトがらみ([[1996年]][[9月8日]]対横浜戦(下関) 6時間19分)である。
 
=== 初優勝決定の日 ===
交流戦での最も遅い終了時間としては、これもヤクルトがらみで[[2006年]][[5月21日]]のヤクルト-[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]戦において0時12分という終了時刻を記録した。なお、この時は東京六大学野球が長引き、試合開始時刻が30分遅れていた。
{{出典の明記|date=2013年3月|section=1}}
1978年10月4日、ヤクルトは地元・神宮で対中日戦を行った。ヤクルトの応援席のライト側外野席には「国鉄スワローズ→サンケイアトムズ→ヤクルトスワローズ 初優勝!! 29年間ご支援ありがとうございました」という旨の横断幕が既に試合前から掲揚された。それまで当時のセ・パ12球団中、唯一優勝経験がなかった<ref group="注釈">厳密には、[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]も1978年の段階では年間総合優勝を達成できなかった(年間初優勝は1979年)が、2シーズン制の[[1975年]]後期でのステージ優勝による胴上げ(年間総合優勝は[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]])はあった</ref>ため、その原因を「鉄腕アトムの呪い」という者も多かったが、圧倒的な9-0のリードで迎えた9回一死一塁から[[谷沢健一]]の打球がセカンドゴロからのゲッツーとなり、念願の地元胴上げで初優勝を達成した。
 
決定の瞬間、選手らが一塁ベンチから飛び出して[[広岡達朗]]監督を胴上げすると、興奮の余りに客席からグラウンドに飛び出したファンからも祝福の胴上げや拍手をし、優勝記念の表彰式どころの騒ぎではなくなっていた。この模様は[[フジテレビジョン|フジテレビ]]から全国に放送された。
=== 幻の「優勝決定プレーオフ」 ===
1992年のセ・リーグは史上まれにみる混戦となり、9月下旬の段階でヤクルト、阪神、巨人、広島の4チームに優勝の可能性があるという状態だった。最終的に優勝の可能性が残ったヤクルトと阪神が、同率で並ぶ可能性があったため、急遽「[[プレーオフ制度_(日本プロ野球)|プレーオフ]]委員会」が開かれ、「2勝したほうが優勝とし、第1戦を[[阪神甲子園球場|甲子園]]、2戦目を[[明治神宮野球場|神宮]]、3戦目を[[東京ドーム]]でおこなう」プレーオフを実施するとあらかじめ決定していた。第3戦が東京ドーム開催とされたのは、最終戦(10月11日)と日本シリーズ開幕(10月17日)の間にわずかな日数しかなく、雨天での順延を避けるためである。当時公式戦に使用できるドーム球場は東京ドームだけだった。
 
更に[[バックスクリーン]]のスコアボードにもセ・リーグ参加の他5チームに対するお礼のコメントを書いた垂れ幕が掲げられた。
甲子園で最後の直接対決2連戦を阪神が連勝すれば、プレーオフ実施となったところだったが、その1戦目(10月10日)でヤクルトが勝って優勝が決定し、プレーオフは幻に終わった。
* [[読売ジャイアンツ]]「セ・リーグの繁栄を今日まで導いてくれた伝統の巨人球団どうも有難う」
* [[阪神タイガース]]「熱心ななにわ気質の声援に大きな刺激を受けました 阪神球団どうも有難う」
* [[中日ドラゴンズ]]「ナゴヤ野球のしぶとさがやっと神宮に育ちました 中日球団どうも有難う」
* [[広島東洋カープ]]「赤ヘル軍団の活躍が初優勝のよき刺激となりました 広島球団どうも有難う」
* [[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]「新球場([[横浜スタジアム]])進出でセ・リーグのイメージが一段と上がりました 大洋球団どうも有難う」
 
=== ロケットボーイズ ===
=== 高得点の1点差試合の日本記録 ===
2人のリリーフ投手[[五十嵐亮太]]と[[石井弘寿]]のコンビ。五十嵐は日本人右投手最速の158[[キロメートル毎時|km/h]]の直球を、石井は日本人左投手最速の155km/hの直球をそれぞれ持った球界最速のリリーフコンビとしてその名をとどろかせた。「ロケットボーイズ」という愛称自体は、2002年5月にファンの公募で決められたものである。
[[1993年]][[5月19日]]・神宮球場での[[広島東洋カープ]]戦は、1回表に広島の先頭打者が一塁手・広沢のエラーで出塁するという、はなから波乱じみた幕開けとなった試合。ヤクルトの先制後に広島が逆転するが、ヤクルトが3回裏に[[池山隆寛]]の1イニング2本塁打(3ランと満塁)などで逆転した。しかし、広島もジワジワと追い上げ、ヤクルトはこの年から抑え投手となった[[高津臣吾]]を投入するが、8回に追いつかれてしまう(この試合の頃では高津は抑えとして信用されていたわけではなかった)。結局試合は延長戦に突入し、広島はエース[[佐々岡真司]]までも投入するが、午前0時を回った延長14回にヤクルトがサヨナラ勝ち。この試合がヤクルトの快進撃と広島の急降下のきっかけとなった。
 
もともとリリーフエースの[[高津臣吾]]へつなぐセットアッパーとしての役割を果たしていたが、高津が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]で[[シカゴ・ホワイトソックス]]に移籍したことで2004年から五十嵐がストッパーとなる。五十嵐は抑えの守護神として2004年度、リーグ最多の66試合に登板して球団新記録となる42[[セーブポイント (野球)|セーブポイント]]を挙げ、最優秀救援のタイトルを獲得した。一方の石井は2004年度、故障と[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]出場でチームを離れることが多かったが、後半戦での登板機会は多く、中継ぎエースとして活躍した。
試合終了後、インタビューに答えた池山が「1イニング2ホーマーが昨日のことのようだ」と話したが、すでに午前0時を回っていたため、本当に昨日のことだったという笑い話がある。
なお、この試合のスコアは以下のとおり。
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
!!!1!!2!!3!!4!!5!!6!!7!!8!!9!!10!!11!!12!!13!!14!!計
|-
!広島
|0||1||4||2||1||1||1||6||0||0||0||0||0||0||16
|- style="background-color: lightgreen;"
!ヤクルト
|2||0||11||0||1||0||2||0||0||0||0||0||0||1X||17
|}
 
しかし、2009年に五十嵐がFAで大リーグのニューヨーク・メッツに移籍したことに伴い、ロケットボーイズはコンビ解消となった。2011年に石井が現役を引退し、二軍コーチに就任。
=== 1995年の開幕3連戦 ===
1993年の日本一から、1994年は一転してあわや最下位のBクラス(4位)へ転落。さらに主軸の[[広澤克実|広沢克己]]、[[ジャック・ハウエル]]の2人が前年優勝の巨人へ移籍、そしてその巨人と開幕3連戦でぶつかることとなり、ヤクルトは最初から正念場に立たされた。初戦は[[斎藤雅樹]]に完封され、続く第2戦も[[桑田真澄]]に8回まで完璧に抑え込まれ、連敗の気配が濃厚となったその時、桑田が[[飯田哲也]]に頭部[[死球]]を与えてまさかの一発退場。突然の登板に戸惑う巨人のリリーフ投手陣に連打を浴びせ、土壇場で大逆転勝ちを収める。続く第3戦も接戦で制して、まさかの開幕戦勝ち越しを果たし、これがこの年の優勝へ繋がるシーズンの分岐点となった。
 
2018年、五十嵐が日本球界復帰後に在籍をしていたソフトバンクから戦力外通告を受けたことで、2019年春にヤクルト復帰が決まった。当時石井は一軍投手コーチであったため、選手とコーチの関係ではあるが、ロケットボーイズは10年ぶりに復活を果たした。翌2020年をもって五十嵐が現役を引退したことで、再びコンビ解消となった。
この「頭部死球は即退場」というルールは、この前年のヤクルト-巨人戦で、ヤクルトの[[西村龍次]]が巨人の[[村田真一]]の頭部に死球を与えたことを発端に定められたもので、それが皮肉にもヤクルトを利する結果となってしまった。
 
=== F-Projectとヤクルトタウン ===
=== 1997年優勝 ===
2005年秋に[[古田敦也]]が監督に就任し、日本プロ球界では29年ぶりとなる[[選手兼任監督]]が誕生した。[[日本プロ野球選手会]]の会長でもあった古田は、かねてから「ファンにとって、プロ野球をもっと身近な存在にしたい」という想いが強く、2004年の[[プロ野球再編問題 (2004年)|球界再編問題]]で自ら奔走した経験から、その想いをより強くした。そこで監督就任と共にファンサービス向上や地域密着の強化などを柱とした球団改革構想「'''F-Project'''」の活動を同年11月1日に開始した。
シーズン開幕前、[[トーマス・オマリー|オマリー]]が退団し4番が不在になり、落合の獲得を目指したが失敗。オマリーの後釜として期待された新外国人の[[ドゥエイン・ホージー|ホージー]]もキャンプで酷評されオープン戦でも不調で悲壮感が漂っていた。一方開幕戦の相手で連覇を目指す巨人は[[清原和博]]・[[エリック・ヒルマン|ヒルマン]]・[[石井浩郎]]を獲得。優勝の大本命に挙げられていた。
 
F-Projectの「F」は'''F'''uruta(古田)の他、プロジェクトが目指す'''F'''an(ファン)、'''F'''un(楽しむ)、'''F'''ull(満員の球場)の3つの言葉を表しており「よりファンと選手・チームの距離を身近なものにして、本拠地の明治神宮野球場をスワローズファンで満員にし、かつ単に応援するだけでなく、ファン自らチームに参加してもらい、共に楽しみを分かち合いたい」という願いが込められていた。プロジェクトには古田の他、ヤクルト球団職員、外部からも[[カカクコム]]社長の[[穐田誉輝]](当時。現相談役)や芸能・放送関係者を招聘し、IT産業やマスメディアを巻き込んだ球団の多角的経営を目指すことを打ち出した。同年11月23日に神宮で行われたファン感謝デーに合わせて、球団モバイルサイトのURLの[[QRコード]]が刷り込まれた名刺が作成され、当日は古田自らファンにこの名刺を配布するパフォーマンスが繰り広げられた。さらに、都内の企業ともオフィシャルパートナーシップを締結し、カカクコムの他、家電製造業の[[ユニデンホールディングス|ユニデン]]とも契約した(2006年からホーム用ユニフォーム左胸部分にロゴマークを掲出)。また、都民参加型のチームを作るという観点から[[東京都民銀行]]ともスポンサー契約を締結した。なお、これらの企業との契約は古田退任後に解消されたものも多く、東京都民銀行に至っては巨人の本拠地である[[東京ドーム]]での広告掲載に切り替えている。
迎えた開幕戦、巨人の先発は4年連続開幕戦完封勝利を目指す[[斎藤雅樹]]。しかしヤクルトは広島から移籍した[[小早川毅彦]]の3打席連続本塁打で斎藤を粉砕。[[野村克也]]監督が「135分の135。負けたら終わり」とまで言い切っていた開幕戦の勝利で勢いづいたチームは開幕ダッシュに成功。さらに怪我の[[高津臣吾]]に代わって[[伊藤智仁]]がストッパーに定着、抜群の安定感を見せる。また開幕前からダメ外人の烙印を押されていたホージーのまさかの活躍などもありペナントレースを独走。このまま優勝かと思われたが8月頃から横浜が猛追。最大10あったゲーム差を2.5まで縮められた。しかし大事な横浜との天王山で[[石井一久]]がノーヒットノーランを達成し勢いを取り戻し、最終的には横浜に9ゲーム差をつけ、開幕から1度も首位の座から転落することなく優勝した。
 
さらに古田は球団に対し、当時の球団名「ヤクルトスワローズ」に「東京」を冠し、地域密着をアピールすることを提案した。古田は1990年代半ばから契約更改交渉の席などで球団幹部に対し「球団名に都市名か地域名を入れることはできないか」と提案を続けてきたものの実現には至らなかったが、球団もF-Projectの立ち上げを機に協力することを決定。球団名を「東京ヤクルトスワローズ」と変更した(同年12月19日のプロ野球実行委員会で承認)。なお、球団名に「東京」を冠していた球団は過去に例があり、戦前の[[読売ジャイアンツ|東京巨人軍]]、[[翼軍|東京セネタース]]、[[松竹ロビンス|大東京軍]](いずれも消滅)、戦後の[[千葉ロッテマリーンズ|東京オリオンズ]]の4球団。東京オリオンズは1969年を最後に「ロッテ」に改称したが、東京ヤクルトはそれ以来37年ぶりに「東京」を冠する球団となった。また、これを機に神宮球場がある[[明治神宮外苑]]周辺の[[新宿区]]、[[港区 (東京都)|港区]]、[[渋谷区]]の3つの[[特別区]]をホームタウンと位置づけ、「スワローズタウン(ヤクルトタウン)」と銘打って地域密着活動を行う方針も決定した。もっとも、ヤクルト本社や全国のヤクルトの販売会社からは「東京偏重」と反対意見が出たという<ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20090910/bbl0909101622003-n2.htm ヤクルト“転地”より“人” 新潟がプロ野球の球団誘致 2009.09.10付ZAKZAK] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20100328035114/http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20090910/bbl0909101622003-n2.htm |date=2010年3月28日 }}</ref>。
=== 2001年のリーグ優勝 ===
シーズン開幕前は、[[川崎憲次郎]]の退団・[[伊藤智仁]]の怪我などがあり先発投手陣に不安を抱えていたため前評判は例によって著しく低かった。しかし、先発の穴を[[藤井秀悟]]・[[入来智]]・[[前田浩継]]の新戦力で埋め前半戦を2位(勝率では1位)で折り返す。
 
このF-Projectが立ち上げられた背景には、ヤクルトの主催公式戦の観客動員数が慢性的に減少していたという事実がある。14年ぶりのリーグ優勝を果たした1992年には2,477,000人を集めたが、以後は徐々に減少。2005年から動員数は実数発表となったが、同年は130万人台にとどまった。本拠地の神宮球場ではスワローズファンの来場者減少が顕著な一方で、巨人の本拠地である[[東京ドーム]]と比較してチケットが取りやすいことからビジター球団のファンの来場者が多く、ビジター側のファンがスワローズファンの数を上回ることがしばしばある。特に対巨人戦や対阪神戦ではビジター側の三塁・左翼側だけにとどまらず、あぶれた観客がホーム側の一塁・右翼側に入場するケースも多い。こうした現状に対し、選手会長の[[宮本慎也]]は「かなり複雑な気分。観客数が多くても自分たちを応援してくれる人が少ないのは寂しい」、[[五十嵐亮太]]も「神宮はヤクルトの本拠地だが、阪神ファンの方が多い」(実際神宮球場近隣には、阪神タイガースのグッズショップが存在している)と語るなど、選手の間からも現状を憂える声が挙がっており、スワローズのファン層を拡大し、来場者を増やすことが求められていた。
後半戦は開始当初は好調を維持していたが8月下旬に[[古田敦也]]が負傷し戦線離脱すると徐々に成績が低下。9月の2位巨人ホーム・ビジター各3連戦では3連敗を喫し、残りを大きく勝ち越さないと逆転優勝を許すという窮地に立たされる。しかし、その巨人がシーズンを4連敗で終えたうえ、ヤクルトも直後の中日との4連戦(ナゴヤドーム)で4連勝して再び突き放し、10月6日の横浜スタジアムで優勝を決めた。
 
また、神宮球場でのデーゲーム開催数を増やす方針も打ち出された。神宮球場は学生野球([[東京六大学野球連盟]]、[[東都大学野球連盟]])公式戦のスケジュールが優先されているため、ヤクルト主催公式戦は4月初旬の週末を除き、ほとんどがナイター開催となっていた。だが2005年から球団は学生野球側と積極的に折衝を行うようになり、デーゲームの開催数が増加。学生野球がシーズンオフになっている6月にもデーゲームが開催されるようになった。さらにF-Projectの活動開始に伴って折衝が行われた結果、2006年には東都リーグに割り当てられていた5月3日・5月4日のデーゲーム枠を取得(代わって東都はナイター開催)、集客力の高いゴールデンウイークのデーゲーム開催を実現した(神宮球場の使用権については[[明治神宮野球場#優先使用権]]も併せて参照)<ref group="注釈">2017年度も、5月4日・5月5日の阪神戦を対象にデーゲームを開催。これに伴って本来は原則木・金曜日(と、東京六大学野球連盟の予備日に充当している火・水曜で東京六大学連盟の試合がない場合)のデーゲームを基本使用日としている東都大学野球連盟は5月1日・5月2日の月・火曜日に前倒しを行った。</ref>。更にこれまで、暑さ対策のため自発的にデーゲームの開催を見合わせてきた8月についても2013年以後、一部の週末開催で、17時開始の薄暮デーゲーム(準ナイター)として行う試合もある(2018年は6月30日と7月1日のみ)。
そしてこのシーズンのキーワードのひとつになったのが'''勝ち数優先の順位決定'''である。2001年、セ・リーグは勝数で順位を決定、ただし、勝数が最も多い球団と勝率が最も高い球団が異なる場合はプレーオフで優勝決定する方式へと変更し、マスコミ等に掲載される順位表も勝数順とされた。しかし各球団試合消化数には違いがあり、実際に優位に立つのは勝率の高いチームだった。
 
この他、都内を本拠とする他のプロスポーツチームとの提携も積極的に進め、2006年7月には[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の[[FC東京]]と「東京のスポーツ振興」に共同で取り組むと発表。双方のファンの取り込みを目指した共同キャンペーンなどを展開している。また、同年9月には[[日本プロバスケットボールリーグ|bjリーグ]]の[[東京アパッチ]]<ref group="注釈">2011年解散。現在の[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|Bリーグ]]においてはいずれも渋谷区を本拠としたB1クラブの[[アルバルク東京]]、[[サンロッカーズ渋谷]]が実在する。</ref> とも提携を結んだ。2009年からはヤクルト球団・FC東京・[[大井競馬場]]による3者共同キャンペーンも行なっている。
ドーム球場をフランチャイズとし順調に試合を消化した巨人に対し、雨天中止があるヤクルトは例年に比べさらに試合消化が鈍かった。このため前半戦終了時には巨人の方が試合数が多いため勝数も多く首位に立ったが、勝率ではヤクルトが上回り、ゲーム差(勝数優先の順位表では表示されなかったが)でも4.5差をつけていた。この「隠れ首位」の状態は8月まで続き、ヤクルトはその間首位の重圧から解放され、巨人は首位にも関わらず追いつめられた状況に陥るなど、順位決定制度が精神的にヤクルト側へ有利に働くこととなった。
 
なお古田の引退・監督辞任により、F-Projectは2007年シーズンをもって活動を終えたが、球団は2008年以降もファンサービスの改善に取り組む意向を示しており、F-Projectで行われていた日替わりのデーイベントは同年以降も継続して実施している。
このような経緯があったためか、[[2002年]]からは勝率優先の順位へと戻った。ただし、勝率が最も高い球団と勝数が最も多い球団とが異なる場合はプレーオフで優勝決定する事は変わらない。
 
==== 主な活動 ====
=== 史上最速でのサイクルヒット ===
* 2006年 - プロジェクト初年度は「チームとファンの新しい関係」をテーマに、ファンに親しまれる球団をアピールする活動を行った。
[[2003年]][[7月1日]]の[[横浜ベイスターズ]]15回戦([[松本市野球場]])で、3番・右翼で先発した[[稲葉篤紀]]は第1打席から三塁打、本塁打の順に放ち、5回先頭の第3打席で単打、さらに打者一巡した第4打席で二塁打を放って、日本プロ野球史上56人目となる[[サイクルヒット]]を達成。5回でのサイクル達成は史上最速イニングの記録だった。試合は6回終了後に雨が激しくなったため[[コールドゲーム]]となり11-5でヤクルトが勝利したが、サイクル安打がコールドゲームで記録されたのも日本プロ野球史上初めてのことだった。
* 2007年 - 2年目は「ファンによる、ファンのための神宮」がテーマ。前年はファンの来場回数増加など一定の成果を挙げたが、ファンから寄せられた意見を反映して、より楽しめる環境づくりを目指した。
 
また同日、当時[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]に在籍していた[[村松有人]]も、[[大阪近鉄バファローズ]]16回戦([[大阪ドーム]])で史上57人目のサイクル安打を達成した。同じ日に2選手がサイクル安打を達成したのも、これが日本プロ野球史上初めてのことだった。
 
=== 対巨人8年連続負け越し中 ===
ヤクルトは巨人のエース[[上原浩治]]を大の苦手にしており、1点差や2点差の僅差の試合でも平気で完投させてしまっている。その中には1-0というスコアで完封勝利させてしまう試合まであった。ちなみに、ヤクルトの上原との通算対戦成績は勝利数、三振数、勝率、総得点ともにダントツでリーグワーストである。さらに、上原の自己最高記録である1試合14奪三振を2度も許している。上原に1試合14奪三振を許しているのはヤクルトと楽天だけである。
 
=== セ・リーグ1試合最多タイ本塁打 ===
その他にも[[桑田真澄]]をはじめとして苦手投手が多く、これが響いてかヤクルトは優勝した[[2001年]]から毎年巨人に負け越し続けている。2001年や[[2004年]]、[[2005年]]、[[2006年]]はセ・リーグ5球団の中で対巨人戦は勝率、敗数共にリーグワーストであり、特にBクラスに転じた[[2005年]]はその上原や桑田が大不振に陥っており、巨人が低迷していたにもかかわらずヤクルトは彼らからなかなか点を取ることができず、セ・リーグ5球団の中で唯一巨人に負け越した。
2007年7月11日の対[[広島東洋カープ]]戦で、両チーム12本(ヤクルト8本、広島4本)の本塁打を放ち、延長11回参考記録ではあるが1試合の合計本塁打数のセ・リーグ最多タイ記録を樹立した。また、1試合8チーム本塁打はスワローズの球団新記録である。試合は延長11回、ラミレスのサヨナラ本塁打でスワローズが12-10で勝利した。なお、この日は強い南風が吹いており、出場した[[宮本慎也]]等が「バックスクリーンから外野方向へのいわゆる『ホームラン風』がこの結果に影響した」と後に証言している。
 
=== 11打数連続安打(ギネス世界記録に認定) ===
[[2007年]]はチーム自体が低迷している中、7月6日 - 8日の神宮球場での3連戦で3連勝し、負け越しを阻止するかに見えたが、その後は4連敗を含む連敗を重ね、9月11日に5-6でジャイアンツに敗れ、7年連続負け越しが決定、同年10月2日の東京ドームでの試合で1点リードの9回裏、[[宮本慎也]]の悪送球でサヨナラ負けを喫し、1990年以来の17年ぶりに東京ドームでのジャイアンツの胴上げを目の前で見ることとなった。
ヤクルトは2009年6月14日の対[[オリックス・バファローズ]]4回戦([[大阪ドーム|京セラドーム大阪]])の5回表、プロ野球新記録となる11打数連続安打を含む打者15人の猛攻で10点を挙げた。
 
2-2の同点で迎えたこの回、先頭の[[青木宣親]]が中前安打したのを皮切りに、[[アーロン・ガイエル]]、[[飯原誉士]]の連打で勝ち越しに成功。さらに[[宮本慎也]]の三塁線への犠打が内野安打となり、その後[[田中浩康]]まで9者連続で単打を放って計6点を挙げ、通算8回目となる1イニング最多連続打席安打のプロ野球タイ記録(9者連続)に並んだ。さらに再び打席が回った青木の四球を挟んで、続くガイエルが満塁本塁打を放ち、この段階で[[千葉ロッテマリーンズ]]が3日前の同年6月11日に達成するなど、過去3回記録された1イニング最多連続打数安打のタイ記録(10打数連続)に並んだ後、飯原が二塁打を放って記録を11に更新した<ref group="注釈">「1イニング連続打数安打」は、NPBでは四死球を挟む場合のみを連続記録として認めており、打数には含まれないが打者アウトとなる犠打・犠飛を挟む場合は参考記録となる。後者の例として1999年6月30日、[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]が対[[広島東洋カープ]]11回戦([[富山市民球場アルペンスタジアム|富山市民]])の5回裏に11打数連続安打を達成しているが、このケースでは犠飛が含まれるため参考記録として扱われている。</ref>。試合はヤクルトが計20安打を放ち、乱打戦の末に14-10で勝利した。またヤクルトは過去、1998年4月22日の対[[中日ドラゴンズ]]戦([[明治神宮野球場]])の1回裏にも1イニング10打数連続安打を達成しており(前述のタイ記録3回のうち2回目の達成)、NPB史上初めて1イニング10打数以上の連続安打を2度記録したチームとなった。
[[2008年]]はチームの主砲だった[[アレックス・ラミレス]]と前年の最多勝投手[[セス・グライシンガー]]が巨人に移籍し、開幕カードこそ3連勝したものの、その後は一方的に負け続け、9月5日に13敗目を喫し8年連続負け越しが決定。巨人がリーグ優勝マジック2とした10月10日の試合でも敗北し、マジック対象チームである阪神も敗北したため巨人の優勝が決定し、本拠地である神宮球場での胴上げを許すこととなり、巨人がリーグ連覇で胴上げを許しているカードは共にヤクルトとなった。
 
6月16日、神宮での対ロッテ戦が中止となった際に行われたチーム全体練習で、1本目を放った青木が取材を受けた折、好調の相手打線について問われ「ロッテのマリンガン打線には負けませんよ。こっちは世界一。ツバメの'''ギネス打線'''です。打ち勝ちますよ」と答えたのをきっかけに、[[ギネス・ワールド・レコーズ]]社の関係者がこれに着目し、調査した結果「MLBでも達成されていない、価値のある記録」としてヤクルト球団関係者に記録申請を勧めた。球団内部には当初「記録は破られるもの」など申請に消極的な意見もあったが、選手側から「なかなかできない記録だし、ぜひとも名前を残したい」と強い要望が寄せられたことから協議した結果、6月29日に申請を決定。7月13日付けでギネス世界記録に認定された。7月15日の対[[読売ジャイアンツ]]10回戦(神宮)の試合前に認定証の贈呈式が執り行われ、ナインはその時使ったバットを持って記念撮影に臨んだ。当日の試合は青木が不振から先発を外れたものの、ヤクルトは奇しくも記録達成時と同じ20安打を放って巨人を圧倒し、13-7で快勝した。
[[1994年]]オフには[[ジャック・ハウエル]]、[[広澤克実]]が、[[2002年]]オフには[[ロベルト・ペタジーニ]]が、[[2007年]]オフにはアレックス・ラミレス、セス・グライシンガーとチームの主力選手が相次いで巨人へ移籍するという事態となっている。この出来事で巨人に対してヤクルト野球ファンから多くの批判がある。
[[2008年]]オフには東京ヤクルトスワローズを解雇されたディッキー・ゴンザレスを獲得した。
 
なお前述の通り、ヤクルトはこの記録達成と同時に四死球を挟まない1イニング最多連続打席安打のタイ記録も達成しているが、こちらは翌2010年6月7日、千葉ロッテマリーンズとオリックス・バファローズが共に10者連続安打を放って更新している。
*ヤクルトの対巨人戦対戦成績(1988年以降)
{| class="wikitable" style="text-align: rightcenter;"
!&nbsp;!!1!!2!!3!!4!!5!!6!!7!!8!!9!!計
![[年度]]!!監督!!ヤクルト順位!![[勝利]]!![[敗戦]]!![[引き分け|引分]]!!巨人順位
|- style="background-color: pink;"
! ヤクルト
|2||0||0||0||'''10'''||1||1||0||0||'''14'''
|-
! オリックス
|[[1988年]]||関根||5位||13||12||1||2位
|1||0||1||0||1||0||5||0||2||'''10'''
|-
|}
|[[1989年]]||関根||4位||7||19||0||1位
5回表の詳細
|-
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|[[1990年]]||野村||5位||7||19||0||1位
|-
|[[1991年]]||野村||3位||14||12||0||4位
|-
|[[1992年]]||野村||1位||13||13||0||2位
|-
! 打席 !! 打者 !! 結果 !! 得点 !! 備考
|[[1993年]]||野村||1位||12||14||0||3位
|-
| 1 || 青木宣親 || 中前安打 || ||
|[[1994年]]||野村||4位||11||15||0||1位
|-
| 2 || ガイエル || 中前安打 || ||
|[[1995年]]||野村||1位||17||9||0||3位
|-
| 3 || 飯原誉士 || 左前安打 || 1 ||
|[[1996年]]||野村||4位||7||19||0||1位
|-
| 4 || 宮本慎也 || 投前安打 || ||
|[[1997年]]||野村||1位||19||8||0||4位
|-
| 5 || [[ジェイミー・デントナ|デントナ]] || 左前安打 || 2 ||
|[[1998年]]||野村||4位||11||16||0||3位
|-
| 6 || [[相川亮二]] || 左前安打 || 1 ||
|[[1999年]]||若松||4位||12||15||0||2位
|-
| 7 || [[川島慶三]] || 左前安打 || ||
|[[2000年]]||若松||4位||16||11||0||1位
|-
| 8 || [[武内晋一]] || 一塁安打 || 1 ||
|[[2001年]]||若松||1位||12||16||0||2位
|-
| 9 || 田中浩康 || 中前安打 || 1 || 川島慶三は三本間で走塁死
|[[2002年]]||若松||2位||10||18||0||1位
|-
| 10 || 青木宣親 || 四球 || ||
|[[2003年]]||若松||3位||13||14||1||3位
|-
| 11 || ガイエル || 右越満塁本塁打 || 4 ||
|[[2004年]]||若松||2位||10||17||1||3位
|-
| 12 || 飯原誉士 || 中越二塁打 || ||
|[[2005年]]||若松||4位||10||12||0||5位
|-
| 13 ||宮本慎也 || 一邪飛 || ||
|[[2006年]]||古田||3位||8||14||0||4位
|-
| 14 || デントナ || 四球 || ||
|[[2007年]]||古田||6位||10||14||0||1位
|-
| 15 || 相川亮二 || 一直 || ||
|[[2008年]]||高田||5位||6||18||0||1位
|}
 
=== ロケットボ本拠地移転に関するエピソイズ ===
==== 後楽園から神宮移転の経緯 ====
2人のリリーフ投手[[五十嵐亮太]]と[[石井弘寿]]のコンビ。五十嵐は日本人右投手最速の158km/hの直球を、石井は日本人左投手最速の155km/hの直球をそれぞれ持った球界最速のリリーフコンビとしてその名を轟かせている。「ロケットボーイズ」という愛称自体は、2002年5月にファンの公募により決められた。
{{main|明治神宮野球場#国鉄→サンケイ→アトムズ→ヤクルトの本拠地}}
 
==== 仙台移転誘致構想 ====
もともとリリーフエース・[[高津臣吾]]へ繋ぐセットアッパーとしての役割を果たしていたが、高津が[[フリーエージェント (プロスポーツ)|FA]]で[[シカゴ・ホワイトソックス]]に移籍したことにより[[2004年]]から五十嵐がストッパーとなる。五十嵐は抑えの守護神として2004年度、リーグ最多の66試合に登板し球団新記録となる42[[セーブポイント]]を挙げ最優秀救援のタイトルを獲得した。一方の石井は2004年度、故障と[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]出場でチームを離れることが多かったが、後半戦における登板機会は多く、中継ぎエースとして活躍した。先発投手から石井→五十嵐への継投はヤクルトの盤石の投手リレーだった。
2004年6月、[[宮城県]]の複数の市民団体がヤクルトスワローズを同県[[仙台市]]の[[宮城球場]]に誘致する活動を開始した。宮城球場は1973年から1977年までの5年間、ロッテオリオンズ(現[[千葉ロッテマリーンズ]])が暫定的に本拠地とするなど多数のプロ公式戦が開催されていたが、近年は老朽化や狭隘化など設備の陳腐化が著しく、県の財政難などもあり改修・改築もままならない状況で、その打開策としてプロ球団を誘致する構想が浮上した。また、ヤクルト球団は神宮球場の使用契約更新を1年毎に行っているが、これが不安定要素であるとして「ヤクルトが本拠地移転を検討している可能性がある」との噂から、活動を活発化した。ただし当時、ヤクルト球団はその旨の意思表示は全く行っておらず、あくまでも東京に本拠地を置き続けながら、空白地帯だった東北地方の仙台でも定期的に主催試合を行い、サブフランチャイズとして市場開拓する意向があったと一部夕刊紙等で報じられた。団体は非公式ながら署名などの誘致活動を行い「5年後を目途に誘致したい」という意向を見せていたが、直後にオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併問題に端を発する[[プロ野球再編問題 (2004年)|再編騒動]]が勃発し、その後は宮城県を保護地域とする新規参入球団の構想が浮上した事で、同県のヤクルト誘致構想はそれに引き継がれる形で消滅した。宮城県の球団誘致は、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]として実現している。
 
==== 新潟県・新潟市による誘致構想 ====
=== 社会人野球大会出場 ===
2009年9月から、[[新潟県]]と[[新潟市]]がNPB球団の本拠地、もしくは年間10試合以上の主催ゲームを開催する「準本拠地」の誘致活動を水面下で開始した。同年7月1日に開場した[[新潟県立野球場]](HARD OFF ECOスタジアム新潟)が、NPB関係者から設備面で高い評価を得たことが背景にある。2010年1月には「原則として球団を特定せずにNPB12球団を対象とし、拠点の一つとして年間数試合を開催する『準フランチャイズ』としての球団招致」という方向性が決まり、3月24日に県・市・県内財界関係者などから成る「プロ野球新潟招致委員会」が発足。当面は公式戦の開催数増加を目指し、その上で準本拠地を招致し、最終的には本拠地招致を目標として段階的に誘致活動を実施することになり、NPBとセ・パ12球団に対し働きかけを進めることになった。一部報道では、ある関係者がセ球団の誘致候補としてヤクルトの名を挙げていたが<ref group="注釈">2010年1月21日付・朝日新聞新潟版より。同紙上ではヤクルトの他、[[福岡ソフトバンクホークス]]も招致候補とされている。</ref>、前述の通り現段階の方針はNPB全球団に対する活動が中心であり、県・市側からもヤクルト球団など各球団個別に対する公式な意思表示は行っていない(2011年末現在)。
[[2005年]]、スワローズの2軍は[[日本野球連盟_(社会人野球)|社会人野球]]の公式戦の一つ「[[JABA日立市長杯争奪大会]]」に初出場した。社会人野球の大会にプロの2軍チームが出場するのは[[広島東洋カープ]]が[[JABA広島大会]]に[[2002年]]から毎年恒常的に参加しているのと、[[2003年]]に[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]が1年限りで[[JABA九州大会]]に参加したが、それに次ぐ3例目である。チームは同年4月の大会で[[沖縄電力硬式野球部|沖縄電力]]、[[明治安田生命硬式野球部|明治安田生命]]、[[日立製作所硬式野球部|日立製作所]]と4チームによる総当り方式の予選リーグ戦を行ったが、1勝1敗1分けの成績で予選通過はならなかった。
 
新潟県は毎年9月に神宮球場でのヤクルト公式戦で日替わりのデーイベント「うまさぎっしり新潟Day」を開催しており、当日は[[泉田裕彦]]新潟県知事が観光PRを行っている他、始球式にも登板している。前述の経緯から泉田は2009年以降、新潟Day開催の折にヤクルト球団幹部に新潟での公式戦開催を要請しているが、球団側は2年連続で態度を留保していた。
[[2006年]]、スワローズ2軍は再び日立大会に参加。予選リーグでは[[JR東日本東北硬式野球部|JR東日本東北]]、[[東京ガス硬式野球部|東京ガス]]、[[住友金属鹿島硬式野球部|住友金属鹿島]]と同ブロックに振り分けられ、2勝1敗のブロック1位で予選を突破。決勝トーナメントに進出したが、同大会で優勝した[[富士重工業硬式野球部|富士重工業]]に1-6で完敗し、またも優勝を逃している。
 
その一方で、新潟市に隣接する[[燕市]]は同じ「つばめ」という縁から、2011年シーズンから[[#スワローズ・燕市交流事業|ヤクルト球団と交流・連携協定]]を締結し、2012年度以後も継続して展開している。
[[2008年]]、2年ぶりに日立大会に参戦。予選リーグ初戦で[[鷺宮製作所硬式野球部|鷺宮製作所]]に敗れるも、[[東海理化硬式野球部|東海理化]]、[[日立製作所硬式野球部|日立製作所]]に連勝してブロック1位として決勝トーナメントに進出した。準決勝では[[日本通運硬式野球部|日本通運]]と対戦したが、[[タイブレーク]]が適用される延長戦で敗れて4強に終わっている。
 
その内容としては、燕市民(同市在住・在学・在勤者)を対象としたコメの田植・稲刈りや、少年野球教室などのイベントに、球団マスコットの[[つば九郎]]や、試合出場機会の少ない若手・[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手]]、球団OBを派遣することや、神宮で行われるスワローズ主管全試合においての「燕市ヒーロー賞」(マン・オブ・ザ・マッチ相当)に選ばれた選手に対して、同市に本社などを置く上掲協賛各企業・団体からの商品の贈呈(燕市産の金属製洋食器セットや協賛企業の製品)など様々なコラボレーションを展開している。また上掲協賛各社は球団のオフィシャルスポンサーとして支援を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yakult-swallows.co.jp/pages/info/event/tsubame_city |title=新潟県燕市との交流事業 |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。
=== F-Projectとヤクルトタウン ===
[[2005年]]秋に[[古田敦也]]が監督に就任し、日本プロ球界では29年ぶりとなる[[選手兼任監督]]が誕生した。[[日本プロ野球選手会]]の会長でもあった古田は、かねてから「ファンにとって、プロ野球をもっと身近な存在にしたい」という想いが強く、また[[2004年]]の[[プロ野球再編問題_(2004年)|球界再編問題]]で自ら奔走した経験から、その想いをより強くした。そこで監督就任と共にファンサービス向上や地域密着の強化などを柱とした球団改革構想「'''F-Project'''」の活動を同年[[11月1日]]に開始した。
 
なお、ヤクルト球団では同球場で初の主催公式戦として、2012年9月8日・9月9日に対[[読売ジャイアンツ]]2連戦を開催した(ヤクルト球団と[[新潟総合テレビ]]が共同で主催、新潟市、燕市など共催)。ヤクルトが新潟県内で主催公式戦を開催するのは1991年以来、21年ぶりのことであった。
F-Projectの「F」は'''F'''uruta(古田)の他、プロジェクトが目指す'''F'''an(ファン)、'''F'''un(楽しむ)、'''F'''ull(満員の球場)の3つの言葉を表しており「よりファンと選手・チームの距離を身近なものにして、本拠地の明治神宮野球場をスワローズファンで満員にし、且つ単に応援するだけでなく、ファン自らチームに参加してもらい、共に楽しみを分かち合いたい」という願いが込められていた。プロジェクトには古田の他、ヤクルト球団職員、外部からも[[カカクコム]]社長の[[穐田誉輝]](当時。現相談役)や芸能・放送関係者を招聘し、IT産業やマスメディアを巻き込んだ球団の多角的経営を目指すことを打ち出した。同年[[11月23日]]に神宮で行われたファン感謝デーに合わせて、球団モバイルサイトのURLの[[QRコード]]が刷り込まれた名刺が作成され、当日は古田自らファンにこの名刺を配布するパフォーマンスが繰り広げられた。また都内の企業ともオフィシャルパートナーシップを締結、カカクコムの他、家電製造業の[[ユニデン]]とも契約した(2006年からホーム用ユニフォーム左胸部分にロゴマークを掲出)。また都民参加型のチームを作るという観点から[[東京都民銀行]]ともスポンサー契約を締結した。
 
なお、ヤクルト球団に在籍した事がある新潟県出身のプロ野球選手は、[[渡辺保]]<ref group="注釈">サンケイアトムズ時代に在籍。</ref>、[[大滝信孝]]<ref group="注釈">サンケイアトムズ時代に在籍。[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]に移籍。</ref>、[[黒坂幸夫]]、[[川村一明]]<ref group="注釈">[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]から移籍。</ref>、[[青島健太]]、[[本間忠]]、[[鈴木裕太]]の7人である<ref group="注釈">2022年6月20日現在。</ref>。
さらに古田は球団に対し、当時の球団名「ヤクルトスワローズ」に「東京」を冠し、地域密着をアピールすることを提案した。古田は1990年代半ばから契約更改交渉の席などで球団幹部に対し「球団名に都市名か地域名を入れることはできないか」と提案を続けてきたものの実現には至らなかったが、球団もF-Projectの立ち上げを機に協力することを決定。球団名を「東京ヤクルトスワローズ」と変更した(同年[[12月19日]]のプロ野球実行委員会で承認)。なお、球団名に「東京」を冠していた球団は過去に例があり、戦前の東京巨人軍([[読売ジャイアンツ]])、[[翼軍|東京セネタース]]、[[松竹ロビンス|大東京軍]](いずれも消滅)、戦後の東京オリオンズ(現[[千葉ロッテマリーンズ]])の4球団。東京オリオンズは1969年を最後に「ロッテ」に改称したが、東京ヤクルトはそれ以来37年ぶりに「東京」を冠する球団となった。また、これを機に神宮球場がある[[明治神宮外苑]]周辺の[[新宿区]]、[[港区 (東京都)|港区]]、[[渋谷区]]の3つの[[特別区]]をホームタウンと位置づけ、「スワローズタウン(ヤクルトタウン)」と銘打って地域密着活動を行う方針も決定した。
 
=== 二軍本拠地の移転構想 ===
このF-Projectが立ち上げられた背景には、ヤクルトの主催公式戦の観客動員数が慢性的に減少していたという事実がある。14年ぶりのリーグ優勝を果たした[[1992年]]には2,477,000人を集めたが、以後は徐々に減少。[[2005年]]から動員数は実数発表となったが、同年は130万人台にとどまった。本拠地の神宮球場ではスワローズファンの来場者減少が顕著な一方でビジター球団のファンの来場者が多く、ビジター側のファンがスワローズファンの数を上回ることがしばしばある。特に[[読売ジャイアンツ]]戦や[[阪神タイガース]]戦ではビジター側の三塁・左翼側だけにとどまらず、あぶれた観客がホーム側の一塁・右翼側に入場するケースも多い。こうした現状に対し、選手会長の[[宮本慎也]]は「かなり複雑な気分。観客数が多くても自分たちを応援してくれる人が少ないのは寂しい」、[[五十嵐亮太]]も「神宮はヤクルトの本拠地だが、阪神ファンの方が多い」と語るなど、選手の間からも現状を憂える声が挙がっており、スワローズのファン層を拡大し、来場者を増やすことが求められていた。
2022年現在二軍の本拠地となっている[[ヤクルト戸田球場]]は、元々河川敷ということで大雨による浸水などの問題を抱えている上に、施設の老朽化が進んでいる。また隣接する選手寮・室内練習場などは現代の基準ではやや手狭となってきており、敷地の都合上現在地でのこれ以上の拡張も難しいことから、ヤクルトの株主からは移転を求める声があった<ref name=nhk210623>[https://web.archive.org/web/20210623185159/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210623/k10013100581000.html 新しい神宮球場 使用開始は2032年に ヤクルト 衣笠球団社長] - NHK・2021年6月23日</ref>。球団では2021年時点では、戸田での施設整備を進める方針としていたが<ref name=nhk210623 />、内々に二軍本拠地の移転も含めて検討を行っていた。
 
これに対し、[[茨城県]][[守谷市]]が二軍施設を誘致する意向を表明したため、球団と守谷市では[[常総運動公園]]の敷地を実質拡大させ、新球場・サブグラウンド・選手寮等を建設し二軍本拠地を移転する方向で2022年4月に協議を開始<ref>[https://www.yakult-swallows.co.jp/news/detail/27017 東京ヤクルトスワローズ二軍施設の茨城県守谷市への移転に関する協議開始のお知らせ] - 東京ヤクルトスワローズ・2022年4月15日</ref>。[[2023年]]11月には球団・ヤクルト本社・守谷市・茨城県の四者による基本協定を締結した<ref>[https://www.yakult-swallows.co.jp/news/detail/29104 東京ヤクルトスワローズファーム施設の移転に関する基本協定締結のお知らせ] - 東京ヤクルトスワローズ・2023年11月10日</ref><ref>[https://www.city.moriya.ibaraki.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/007/935/setumeikai_sougou.pdf (仮称)守谷市総合公園都市計画原案の説明会]</ref><ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/290319 ヤクルト2軍施設が守谷に移転決定 市、茨城県と基本協定 27年から利用予定]</ref>。新しい二軍本拠地は、2027年より供用を開始する予定としている。
また、神宮球場でのデーゲーム開催数を増やす方針も打ち出された。神宮球場は学生野球([[東京六大学野球連盟]]、[[東都大学野球連盟]])公式戦のスケジュールが優先されているため、ヤクルト主催公式戦は4月初旬の週末を除き、ほとんどがナイター開催となっていた。だが2005年から球団は学生野球側と積極的に折衝を行うようになり、デーゲームの開催数が増加。東都リーグが開催されている6月にもデーゲームが開催されるようになった。さらにF-Projectの活動開始に伴って折衝が行われた結果、2006年には東都リーグに割り当てられていた[[5月3日]]・[[5月4日]]のデーゲーム枠を取得(代わって東都はナイター開催)、集客力の高いゴールデンウイークのデーゲーム開催を実現した(神宮球場の使用権については[[明治神宮野球場#優先使用権]]も併せて参照)。
 
=== 同一チームで打撃主要3部門を分け合い(史上初) ===
この他、都内を本拠とする他のプロスポーツチームとの提携も積極的に進め、2006年7月には[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の[[FC東京]]と「東京のスポーツ振興」に共同で取り組むと発表。双方のファンの取り込みを目指した共同キャンペーンなどを展開している。また同年9月には[[日本プロバスケットボールリーグ|bjリーグ]]の[[東京アパッチ]]とも提携を結んだ。
2015年は2001年以来、14年ぶりのセントラル・リーグ優勝を果たした。この年は破壊力ある強力打線が存在感をみせ、優勝の大きな原動力となった。なかでも、シーズン中盤から固定された2番[[川端慎吾]]、3番[[山田哲人]]、4番[[畠山和洋]]の活躍が大きく、川端は[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]と[[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]]を、山田は[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]と[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]、[[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]を、畠山は[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]を獲得し、プロ野球では11年ぶりに同一チームで打撃タイトルを独占した<ref>{{Cite news |title=ヤクルトが打撃タイトル総なめ 山田は3部門制覇 |newspaper=日刊スポーツ |date=2015-10-07 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1549611.html |accessdate=2015-10-08 |publisher=日刊スポーツ新聞社 }}</ref><ref name="excitenews20151007">{{Cite news |title=ヤクルトが04年ホークス以来、11年ぶり打撃タイトル独占! 山田は3冠 |newspaper=exciteニュース |date=2015-10-07 |url=http://a.excite.co.jp/News/baseball/20151007/Full_count_19663.html |agency=Full-Count |publisher=Creative2 |accessdate=2015-10-08 }}</ref>。また、打率(首位打者)打点(打点王)本塁打(本塁打王)の打撃タイトル主要3部門を同一チームの3人の選手で分け合うのはプロ野球史上初<ref name="excitenews20151007" />。
 
=== 「平成最後」と「令和最初」の三者連続本塁打 ===
なお古田の引退・監督辞任により、F-Projectは2007年シーズンをもって活動を終了したが、球団は2008年以降もファンサービスの改善に取り組む意向を示している。
2019年4月25日の対[[読売ジャイアンツ]]戦で[[菅野智之]]から、2番[[青木宣親]]、3番[[山田哲人]]、4番[[ウラディミール・バレンティン|バレンティン]]が三者連続本塁打を放った。4月30日から翌5月1日に当時の[[明仁|今上天皇]]から[[徳仁|皇太子]]への[[明仁から徳仁への皇位継承|皇位継承]]が行われたことで、平成から令和へ改元がなされたため、これが'''「平成最後の三者連続本塁打」'''となった。その試合から1ヵ月後の2019年5月26日の対[[中日ドラゴンズ]]戦で[[清水達也 (投手)|清水達也]]から、2番青木宣親、3番山田哲人、4番バレンティン、同シーズン2度目となる三者連続本塁打を放った。これが改元後初めての三者連続本塁打であるため、'''「令和最初の三者連続本塁打」'''となった。したがって「平成最後」と「令和最初」の両方を青木・山田・バレンティンの3人で記録した。
 
=== 全球団を相手にした連続カード勝ち越し(史上初) ===
==== 主な活動 ====
2022年6月26日の対[[読売ジャイアンツ]]戦に勝利し、11球団を相手に連続して同一カード[[勝ち越し]]を達成した。この記録を達成するためには交流戦で全カード勝ち越しが必要である。2011年に[[ソフトバンクホークス]]が交流戦でセリーグ全チームから勝ち越しを達成しているが、交流戦明けに[[日本ハムファイターズ]]に負け越して達成できなかった。
* 2006年 - プロジェクト初年度は「チームとファンの新しい関係」をテーマに、ファンに親しまれる球団をアピールする活動を行った。
* 2007年 - 2年目は「ファンによる、ファンのための神宮」がテーマ。前年はファンの来場回数増加など一定の成果を挙げたが、ファンから寄せられた意見を反映して、より楽しめる環境づくりを目指した。
 
==== 主な企画関連書籍 ====
* [[堀哲]]『国鉄スワローズ 1950-1964 400勝投手と愛すべき万年Bクラス球団』 [[交通新聞社]]〈[[交通新聞社新書]]〉 2010年 ISBN 978-4-330-15610-1
; 応援メッセージボードデー
: 紙・または布に選手への応援メッセージを書いてもらう(手持ちのみ可。所定サイズあり)
; 仮装応援デー
: ファンに[[コスチュームプレイ|コスプレ]]をして応援してもらう。その出来栄えを審査し、優勝者に黄金の傘をプレゼント(傘振りコンテストという[[東京音頭]]などに乗って傘を持って応援する技術を競うコンテストもあり(優勝者には黄金傘のプレセントあり))
; メガネデー
: 古田監督がメガネをトレードマークにしていることや、アイメトリックス社とコマーシャルキャラクター契約を結んでいることなどもあって企画されたものである。この日は球団関係者(選手含む)は皆メガネを着用して会場入りする。ファンもメガネ(伊達メガネもOK)を着用し、面白いものを審査して賞品をプレゼントする企画もある。詳細は[[古田敦也#野球に関する話題]]も併せて参照。
 
== 脚注 ==
=== 明治神宮外苑創建80年記念奉納試合 ===
{{脚注ヘルプ}}
明治神宮外苑創建80年を記念して、2006年11月4日に[[東京六大学野球連盟|東京六大学]]選抜とスワローズのアマ・プロ交流試合が実施された。「この一戦、球界史上初」と銘打たれたこの試合は、シーズンオフにも関わらず23,010人の観衆を集め、東京六大学合同応援団とスワローズ私設応援団とのエール交換など普段見られないシーンもあって盛り上がりを見せた。試合はスワローズが3-2と接戦を辛うじて制し、プロの意地を見せた。なお、記念試合は1度のみの予定であるが、古田監督は継続実施を希望するコメントを出しており、今後も継続して行われる可能性もある。
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注釈"|2}} <!--注釈文のrefタグに group="注釈" をつけて、出典と分ける。-->
ベンチは[[クラブハウス]]位置の関係でスワローズが1塁側、代わりに東京六大学選抜が後攻となった。通常内野席に陣取る東京六大学の応援団も、この日は外野席での応援だった。スワローズのメンバーは、帰国済みの外国人選手とFA移籍を控えた岩村明憲が欠場したものの、出場選手はほぼ一軍に在籍した選手が出場している。なお、同日に[[東京ドーム]]で実施されていた[[日米野球]]のメンバーに選ばれていた[[青木宣親]]が、[[早稲田大学]]出身ともあってこの試合に出場し、その後[[ナイター]]開催の日米野球にも出場する[[ダブルヘッダー]]をこなした。
=== 出典 ===
 
{{Reflist|3}}
=== セ・リーグ1試合最多タイホームラン ===
[[2007年]][[7月11日]]の[[広島東洋カープ]]との対戦において、両チーム12本のホームランを放ち、延長11回参考記録ではあるが1試合の合計本塁打数のセ・リーグ最多タイ記録を樹立した。また、1試合8チーム本塁打はスワローズの球団新記録である。試合は延長11回、ラミレスの[[サヨナラホームラン]]でスワローズが12-10で勝利した。
* ヤクルト '''8本'''(球団新記録)
** [[青木宣親]] 14号ソロ(1回)
** [[田中浩康]] 1号ソロ(1回)、2号ソロ(5回)
** [[アーロン・ガイエル|ガイエル]] 17号2ラン(1回)、18号ソロ(9回)
** [[宮出隆自]] 5号ソロ(5回)
** [[アレックス・ラミレス|ラミレス]] 12号2ラン(9回)、13号2ラン(11回)
* 広島 4本
** [[アレックス・オチョア|アレックス]] 2号2ラン(1回)
** [[前田智徳]] 8号ソロ(1回)、9号2ラン(7回)
** [[新井貴浩]] 21号ソロ(3回)
なお、この日は強い南風が吹いており、バックスクリーンから外野方向へのいわゆる『ホームラン風』がこの結果に影響したと、試合出場した[[宮本慎也]]等が後に証言している。
 
=== 人事面に関する問題 ===
東京ヤクルトは国鉄、サンケイ時代を通じた過去において、一軍で長年活躍し実績を挙げたチームの功労者を厚遇する一方、不振が続くと実績如何にかかわらず容赦なく人事整理を行ってきた一面がある。
 
==== 広岡監督電撃辞任騒動 ====
[[1978年]]、[[広岡達朗]]監督の下で球団史上初の日本一を勝ち取ったヤクルトは、翌[[1979年]]は開幕から失速し下位に沈んだ。7月、当時の球団オーナー[[松園尚巳]]はヘッドコーチの[[森祇晶|森昌彦]]、投手コーチの[[植村義信]]の両名を二軍降格するよう広岡に勧告。しかし広岡は現場一任を求め、事態は一旦収束した。ところが翌8月、突如として当時の球団社長が森、植村の無期限休養を一方的に発表した。また一連の動きが球団幹部からメディアに漏洩していたこともあって広岡は[[8月17日]]に電撃辞任、同日の[[読売ジャイアンツ]](巨人)戦は広岡、森、植村の3人が不在のまま、打撃コーチの[[佐藤孝夫]]が代理監督を務める異常事態となった。結局このシーズンは最下位に沈み、その後ヤクルトは実に14年もの間リーグ優勝から遠ざかり低迷を続けた。
 
==== 広沢克己への「君の時代は終わった」発言 ====
[[1984年]]秋のドラフト1位でヤクルトに入団した広沢は、ルーキーイヤーの翌[[1985年]]から主軸に定着し、チーム内・ファンからも愛された選手だった。ところが9年目のシーズンを終え、自身二度目のセ・リーグ打点王を獲得し主砲やリーダーとしてチームを15年ぶり日本チャンピオンに導いた[[1993年]]オフ契約更改交渉の席で、チームの看板選手としてのプライドを持っていた広沢に対し、既にチームの顔は広沢から急成長を遂げた古田へと移っていると考えていた球団社長は、「君の時代は終わった」と発言し、大幅年俸アップと幹部待遇を目論んでいた広沢の要求を拒んだとされる。後輩古田の方を重んじる球団の姿勢にショックを受けた広沢は、FA権を行使して翌[[1994年]]オフ、[[フリーエージェント (プロスポーツ)|フリーエージェント]]宣言し読売ジャイアンツに移籍した。
 
==== 古田選手兼監督に「引退勧告」 ====
[[2007年]]、[[選手兼任監督]]の[[古田敦也]]はかねてから傷めていた右肩の回復具合が思わしくなく、出場試合数も8月の段階で僅か3試合にとどまっていた。古田自身はシーズン序盤の段階で現役引退を決意し、シーズン終盤にタイミングを計った上で現役引退を表明する心積もりだった。一方、球団幹部は古田との2年契約が切れることから翌年以降の契約交渉を行うため、8月上旬の段階で「2008年以降は監督専任とし、現役は今季限りで引退」という条件を提示する意向を示していた。ところが、この旨を鈴木正球団社長がメディアを通じて公表したことで、これが事実上の“引退勧告”となったことから古田は態度を硬化、交渉は暗礁に乗り上げた。結局東京ヤクルトが[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|クライマックスシリーズ]]進出を逃しBクラスが確定した段階で、古田は「チームの不振の責任を取りたい」として現役引退、さらに監督も退任して退団する旨を表明した(当時の状況に関する詳細は[[古田敦也#現役引退、監督退任へ]]も併せて参照)。
 
==== 高津臣吾、突然の戦力外 ====
[[10月10日]]には[[高津臣吾]]が戦力外通告を受けた。また通告の旨を発表した際、鈴木は報道陣を前に「(“早めに去就を相談し、お別れ出場などの配慮を行うべきだったのでは”という問いに)それが配慮だとは思わない。現役を続けたければトライアウトを受ければいい」と発言した。この高津の解雇に対して球団には約600件の苦情が寄せられた。これを受け、球団は[[10月15日]]になって球団Webサイトに鈴木名義で謝罪文を掲載した。高津はその後、[[シカゴ・カブス]]とマイナー契約を結んだものの、結果を出せず3月中旬に解雇された。2008年6月に韓国プロ野球・[[ヒーローズ]]と契約し、韓国での選手生活は同年秋にNHK[[スポーツ大陸]]で紹介された。
 
==== 主力選手の相次ぐ移籍 ====
2004年シーズンオフの[[稲葉篤紀]]の[[北海道日本ハムファイターズ]]移籍、2007年シーズンオフの[[石井一久]]の[[埼玉西武ライオンズ]]移籍、同オフのアレックス・ラミレス、セス・グライシンガーの[[読売ジャイアンツ]]移籍、更には極秘に進んでいた[[藤井秀悟]]他の日本ハムへの電撃トレードなどのようにベテラン選手の移籍が相次ぎ、若手選手への急速な世代交代を進めている。ちなみに2009年現在では宮本など数えるほどの人数しかベテラン選手がいない。
 
 
 
=== 本拠地移転に関するエピソード ===
==== 後楽園球場から神宮球場移転の経緯 ====
1964年当時後楽園球場の放送権は日本テレビのみに放送権があり、国鉄から球団株が渡った産経新聞社、当時ニッポン放送と文化放送の合資子会社のフジテレビには放送権を持っておらず、当時東映フライヤーズが後楽園球場に移転した事により、フランチャイズを後楽園球場から神宮球場に変えた。しかし、内部抗争により金田正一投手等を放出することとなった。
 
なお当初は神宮第2球場を本拠地にすることを計画していたが、グラウンドサイズが公式野球規格に適合しない恐れがあることや、第2球場をアマチュア専用にしたいという意向・学生野球連盟の反対運動まであったことなどから第2球場の改修を見送って、本球場を通年利用できる[[専用球場]]として登録した。
 
==== 宮城球場移転誘致構想 ====
2004年6月、[[宮城県]]の複数の市民団体がヤクルトスワローズを同県[[仙台市]]の[[宮城球場]]に誘致する活動を開始した。宮城球場は1973年から1977年までの5年間、ロッテオリオンズ(現[[千葉ロッテマリーンズ]])が暫定的に本拠地とするなど多数のプロ公式戦が開催されていたが、近年は老朽化や狭隘化など設備の陳腐化が著しく、県の財政難などもあり改修・改築もままならない状況で、その打開策としてプロ球団を誘致する構想が浮上した。またヤクルト球団は神宮球場の使用契約更新を1年毎に行っているが、これが不安定要素であるとして「ヤクルトが本拠地移転を検討している可能性がある」との噂から、活動を活発化した。ただし当時、ヤクルト球団はその旨の意思表示は全く行っておらず、飽く迄も東京に本拠地を置き続けながら、空白地帯だった東北地方の仙台でも定期的に主催試合を行い、サブフランチャイズとして市場開拓する意向があったと一部夕刊紙等で報じられた。団体は非公式ながら署名など誘致活動を行い「5年後を目途に誘致したい」という意向を見せていたが、直後にオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併問題に端を発する[[プロ野球再編問題 (2004年)|再編騒動]]が勃発、その後は宮城県を保護地域とする新規参入球団の構想が浮上した事により、同県のヤクルト誘致構想はそれに引き継がれる形で消滅した。宮城県の球団誘致は、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]として実現している。
=== 助っ人外国人選手 ===
ヤクルトは助っ人外国人選手のスカウトの成功が多いチームとして有名であり、ヤクルト入団一年目からチームの勝利に貢献、もしくは個人タイトル争いを掻き回す[[ダークホース]]的存在となる選手が非常に多く、1992年には[[ジャック・ハウエル]]、1995年には[[トーマス・オマリー]]、2001年には[[ロベルト・ペタジーニ]]がMVPに輝いている(但し、オマリーは[[阪神タイガース]]から移籍した外国人選手である)。ちなみに、外国人選手が3度MVPに選出されているチームは他に[[大阪近鉄バファローズ]]のみ。そのため、オフシーズンになると今年のヤクルトの外国人スカウティングに注目しているメディアやファンも非常に多い。この外国人選手の活躍の理由に関しては「駐米スカウトが優秀である」「球団の新外国人獲得の方針が上手い」など諸説ある。しかしながら、年俸の高騰により契約が難航・交渉決裂し最終的に他球団へ移籍してしまうことが多い(例:[[セス・グライシンガー]]、[[リック・ガトームソン]]、[[アレックス・ラミレス]]など)。
 
== スワローズ戦の放送権事情 ==
<!--この節への加筆をされる前に、必ずノートでの議論に参加してください-->
=== 地上波ナイター中継での放送事情の歴史 ===
<!--この節への加筆をされる前に、必ずノートでの議論に参加してください-->
※デーゲーム地上波中継は時々、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[テレビ朝日]]、[[テレビ東京]]、[[日本放送協会|NHK]]、ビジターで[[東京放送|TBS]]で放送される為、ここではヤクルト対巨人戦以外での地上波ナイター中継のみ表示します。
* [[1950年]] [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]が[[読売ジャイアンツ|巨人]]と同じく放送権を保有。
* [[1964年]] 国鉄スワローズからサンケイスワローズに改称し、球場も[[後楽園球場]]から[[神宮球場]]に変更した為、日本テレビから放送権が外れる。(なお現在日テレはヤクルト球団と無関係の東京六大学野球中継と日米野球等のイベント時のみ神宮球場から中継することがある。また2軍の戸田球場での対2軍巨人戦の放送権を保有している。)
* 1964年 フジテレビ、テレビ朝日、TBS、NHKが放送権獲得し地上波放送を開始。しかし、他地域の敵チームのみ放送される事が多くなる。
* [[1967年]] [[テレビ東京]]でようやく地上波放送を開始。しかし、他地域の敵チームのみ放送される事が多い、
* [[1976年]] TBSが放送権から外れる。
* [[1978年]] 優勝マジック1になりかかった時に地上波放送が多くなる。
* [[1981年]] - [[2001年]] 巨人戦以外の中継はテレビ朝日が放送時間延長なしで年数回全国ネットで実施した。時折[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]主催ゲームとの二元中継も実施した。フジテレビは対戦相手の地元局向けの技術協力が主体となる。
* [[1992年]] [[サンテレビジョン|サンテレビ]]または[[朝日放送]]が単独及び共同(試合開始 - 7時、9時24分 - 試合終了までサンテレビ持ち、7時 - 9時24分まで朝日放送)で神宮球場での対阪神戦ビジター放送開始(関東ローカル及びテレビ朝日では放送されない、またトップ&リレー中継の元祖と言われている)。これとは別にテレビ朝日が全国ネットで中継することがあった。
* 1992年 優勝マジック1になりかかった時に12年ぶりに放送が見直され、フジテレビでは初めて番組を差し替えて放送。
* [[1995年]] [[東京メトロポリタンテレビジョン|東京MXテレビ]]が開局し放送される事が期待されるも神宮球場の対中日戦のみ中継開始。
* [[1997年]] 優勝マジック1になりかかった時の放送では[[ダウンタウンのごっつええ感じ]]を差し替えて放送し、スペシャル放送を1週遅れにした事による出演者とスタッフとの対立により、打ち切りに追いやった伝説がある。
* [[2001年]] 東京MXテレビがサンテレビの阪神戦を取り扱う様になり、時々甲子園球場と大阪ドームでの中継で放送される様になる。
* 2001年[[10月4日]] 神宮球場で[[世にも奇妙な物語]]を中断させて、緊急野球中継として、放送したが、阪神と引き分け、[[10月6日]]ではドラマ再放送枠を打ち切って放送された。
* [[2003年]] 日テレ系列で放送中の[[広島市民球場]]での広島対巨人戦が雨でノーゲームとなり、残りの時間は[[甲子園球場]]で阪神対ヤクルト戦を放送した。
* 2003年[[9月11日]] 放送権を横浜戦しか取り扱わない[[テレビ神奈川|tvk]]がサンテレビでの神宮球場のネット放送が中継される。
* [[2005年]] 巨人戦の視聴率不振により、ヤクルト戦がCS送りになり、初めてフジテレビ地上波で深夜放送される。なおBSフジは未放送。
* [[2006年]] 巨人戦の視聴率不振により、テレビ朝日でも東京ヤクルト戦の放送分がBS朝日にくら替え放送が多くなった。
* [[2007年]] 巨人戦の視聴率不振により、その中でも巨人戦中継を増やす考えを持っていたテレビ東京にも放映権が渡された。テレビ東京でヤクルト主催試合放送は久しぶりのこととなった。(オープン戦・裏送りは除く)
* [[2007年]][[10月7日]] [[古田敦也]]引退試合の模様を[[新報道プレミアA]]スペシャル内で放送(ただしアナウンサーとのからみなし)。
 
=== BS局での放送事情の歴史 ===
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<!--* [[1989年]][[6月1日]]に[[NHK-BS]]アナログ放送が放送開始と共に巨人以外のヤクルト戦の放送を始めて放送。-->
* [[2000年]][[12月1日]]に[[BSフジ]]が開局し翌年シーズンから開始。しかし横浜戦だけ優先させられ打ち切りとなり2002年〜2007年までの6年間、2006年のオールスター中継以外BSフジでは未放送だった。また[[BS朝日]]と[[BSジャパン]]も開局したが、[[BS朝日]]はテレビ朝日の東京ヤクルト戦が放送できない場合はナイター中継をカバーをするが、BS朝日、BSジャパンは巨人戦以外の東京ヤクルト戦ナイター中継は1度も放送していない(セ・パ交流戦を含む)。
* [[2006年]]当初[[テレビ朝日]]で放送予定だったヤクルト対巨人戦を急遽BS朝日で放送するという措置を取った。
* [[2008年]][[8月19日]]BSフジにて2001年の日本シリーズ以来(2006年のオールスター戦を除く)7年ぶりに神宮球場での東京ヤクルト主催の野球中継を放送、なお対巨人戦をBSフジ開局以来初中継を行う、なおCS放送フジテレビ739・フジテレビCSHDと同じ実況・解説陣を起用し、映像もCS放送の映像を19時〜20時55分まで中継([[8月20日]]、[[9月6日]]、[[10月10日]]、[[10月11日]]も中継を行う)。
* [[2008年]][[10月10日]]、BSフジにてレギュラーシーズンの東京ヤクルト主催の野球中継初の延長放送を行う、ちなみに地上波では中継されず、BSフジとフジテレビ739のみによる巨人優勝決定試合を中継し、神宮球場内でパブリックビューイングで流された[[TBSニュースバード]]の横浜対阪神戦の映像を一部流した。
 
=== CS局での放送事情の歴史 ===
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* [[1996年]]パーフェクTV開局、しかし、放送数が少なかった。
* [[1996年]]ディレクTV開局、パーフェクトチョイスで神宮球場の中継のみ一部[[テレビ神奈川]]運営の横浜ベイサイドTVでの放送があるものの、全試合放送カバーされる。ただし地上波とは違って有料放送。
* [[1998年]]ディレクTVとパーフェクTVが合併し、スカパーが開局。ホーム&ビジター含め全試合視聴可能になる。
* [[2002年]]CS日本開局により、東京ドームでの巨人対ヤクルト戦が時々見られなくなる現象が起る。
* [[2004年]]CS日本がスカパー2と合併し、スカパー110(現e2byスカパー)が誕生。G+がスカパーでも放送開始した為、東京ドームでの巨人対ヤクルト戦が時々見られなくなる現象が解消される。
* [[2005年]][[フジテレビ739]]が巨人戦を除く主催全試合を[[SWALLOWS BASEBALL L!VE]]として全試合放送する。[[2007年]]からは対読売ジャイアンツ戦を「プロ野球中継」枠で放送、[[2008年]]からはSWALLOWS BASEBALL L!VE枠で放送。また、[[2008年]][[4月]]放送分からは[[フジテレビCSHD]]でもハイビジョン放送となる([[F1グランプリ|F1]]が優先されるため、一部試合は従来通り739のみ放送)
* [[2007年]][[9月27日]]、jsportsの編成が間に合わなかった為、e2byスカパープロモ100ch及びスカパーパーフェクトチョイスのスペシャル放送として広島市民球場の対東京ヤクルト戦のビジター中継を無料放送。
* [[2007年]][[9月30日]]、27日と同上、jsportsの編成が間に合わなかった為とjsportsでは1度もダブルヘッダーの中継をした事がない為、e2byスカパープロモ100ch及びスカパーパーフェクトチョイスのスペシャル放送として横浜スタジアムの対東京ヤクルト戦のビジター中継のダブルヘッダーを無料放送される予定だったが、9月30日の中継が雨で中止になり、予備日に放送される事となった為、10月8日と9日に分割され、ナイターで放送された。なお10月9日が古田敦也の最後の出場試合となった。
 
== 関連項目 ==
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* [[ヒーローインタビュー (映画)|ヒーローインタビュー]]
 
* [[メークミルミル]]
* [[東京ヤクルトスワローズの選手一覧]]
* [[Template:東京ヤクルトスワローズ及びそ主催試合前身地方団ドラフト指名選手場一覧]]
 
== 脚注 ==
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