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| campaign = ニューギニアの戦い
|colour_scheme = background:#ffccaa;color:#2222cc
| image = [[
| caption = 放棄された日本軍軽戦車
| conflict = [[太平洋戦争]]/[[大東亜戦争]]
| date = 1942年8月
| place = [[ニューギニア島]]東部[[ミルン湾]]ラビ
| result =
| combatant1 =
| combatant2 = {{AUS}}<br />{{USA1912}}
| commander1 = {{Flagicon2|日本|naval}} [[三川軍一
| commander2 = {{flagicon|Australia}} [[シリル・クローズ]]
| strength1 = 1,600 + 軍属 350
| strength2 = 9,000
| casualties1 = 戦死・不明 600、<br />戦傷 300<br />駆逐艦 1沈没
| casualties2 = 戦死・不明 180、<br />戦傷 200<br />輸送船 1沈没
}}
[[
'''ラビの戦い'''(
== 背景 ==
日本軍は、ニューギニア島南岸の連合軍拠点[[ポートモレスビー]]の攻略を計画したが、[[珊瑚海海戦]]の結果、海路からの攻略は失敗に終わった。その後、連合軍側は、なおも日本軍の攻略作戦が行われることを警戒し、ニューギニア島東端の良好な[[泊地]]である[[ミルン湾]]沿岸のラビに哨戒拠点を設置することにした。これには[[ラバウル]]攻撃のための出撃拠点とする目的もあった。[[1942年]]
一方
当時、第8艦隊司令部では、ラビの連合軍は展開して間もない[[歩兵]]2~3個中隊程度の小兵力と推定し、陸軍部隊に比べて戦力の劣る[[海軍
== 参加兵力 ==
=== 日本軍 ===
*地上部隊 - 戦闘員約1600名、後方要員約360名
**呉第5特別陸戦隊(呉5特)の主力 - 司令:{{仮リンク|林鉦次郎|en|Masajiro Hayashi}}[[中佐]]、兵力612名および[[九五式軽戦車]]2両
**呉第3特別陸戦隊の主力-司令:{{仮リンク|矢野実 (軍人)|en|Minoru Yano|label=矢野実}}中佐、兵力576名
**佐世保第5特別陸戦隊の一部 - 兵力228名(本隊353名は別に舟艇機動の予定も到達できず。)
**第10[[海軍設営隊|設営隊]]の一部 - [[軍属]]362名
*航空部隊 - [[零式艦上戦闘機|零戦]]約20機、[[九九式艦上爆撃機|99艦爆]]約10機がブナに展開。
=== 連合軍 ===
*「ミルン・フォース」 - 司令官:{{仮リンク|シリル・クローズ|en|Cyril Clowes}}豪陸軍[[少将]] 、総兵力約9000名
**オーストラリア軍 - 戦闘員約6500名(うち歩兵約4500名)、後方要員約1000名
***第7旅団 - 歩兵3個[[大隊]]
***第18旅団 - 歩兵3個大隊
***その他 - [[民兵]]2個
**アメリカ軍 - 第709[[高射砲|高射]]中隊および第43工兵連隊F中隊など
**航空部隊 - 3個飛行中隊([[P-40 (航空機)|P-40戦闘機]]約40機、[[ハドソン (航空機)|ハドソン爆撃機]]若干)のほかポートモレスビーより支援。
連合軍側には戦車はなく、日本軍の[[九五式軽戦車]]2両は大きな脅威となった。
== 戦闘の経過 ==
=== 日本軍の上陸 ===
[[
8月24日、攻略部隊(呉5特・佐5特の一部・第10設営隊)は、輸送船「[[畿内丸型貨物船|南海丸]]」と「[[畿内丸]]」に乗船し、第18[[戦隊]](軽巡「[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]]
[[橋頭堡]]の防衛を佐5特と設営隊に任せ、上陸部隊指揮官の林中佐は呉5特を率いてただちに飛行場への夜襲を実行しようとした。しかしながら、一帯は沼沢地のために夜明けまでに1kmほどしか前進できず、飛行場には到達できなかった。夜襲支援のために「天龍」以下の護衛艦隊が艦砲射撃を行ったが、効果は確認できなかった。空襲を避けるため、明け方までに船団と護衛艦隊は退避した。日本軍の上陸に気がついた連合軍は、8月26日早朝から航空部隊を出撃させて橋頭堡を攻撃した。これにより集積物資は全損し、海上機動用に残された[[大発動艇|大発]]も全滅してしまった。日中にはオーストラリア軍は第7旅団の第61大隊による反撃を行い、日本軍の[[斥候]]部隊を撃破したが、30名以上の損害を受けて6時間後には後退した。
=== 攻撃と停滞 ===
初日の攻撃に失敗した林中佐は、8月26日夜にも夜襲を試みたが、地理不案内のために今回も飛行場まで到達できなかった。軽巡「天龍」と駆逐艦2隻が支援砲撃を行うために湾内に突入したが、前線と連絡ができなかったため現地の状況がつかめず、橋頭堡から後衛部隊の負傷者を収容して引き上げた。
翌8月27日夜の日本軍の攻撃では、[[戦車]]隊(軽戦車2両)の活躍により連合軍の第一線陣地の突破に成功し、オーストラリア軍第18旅団第2/10大隊に70名以上の損害を与えた。しかし、建設中の第3滑走路に到達したところで第7旅団第25大隊ほかの激しい砲火に迎えられ、呉5特は1/3が死傷して後退に追い込まれた。それ以外にも泥土と皮膚病による歩行困難者が続出し、呉5特のうち攻勢に耐える者は100名程度にまで減少した。戦車も泥土のため行動不能となり放棄された。
日本軍はブナ飛行場に航空部隊を進出させて支援を行っていたが、悪天候に阻まれてほとんど成果を挙げることはできなかった。8月28日には戦闘機5機と艦爆8機がラビ攻撃に成功したものの、かえって戦闘機5機と艦爆1機を失った。被害に耐え切れなくなった航空部隊は、ブナから撤退してしまった。
[[ファイル:AWM 014700 No 3 Strip and Stephens Ridge at Milne Bay.jpg|thumb|right|250px|攻防の焦点となった第3滑走路]]
他方、連合軍側も日本軍の激しい攻撃に危機感を抱き、第3滑走路方面へ防衛戦力を集中させると同時に、航空部隊
=== 増援作戦 ===
日本海軍は現地の苦戦を見て
増援部隊と合流した日本軍は、8月30日夜に全力で夜襲を行った。再び第3滑走路付近で激戦となり、日本軍は大
9月1日、再度の増援として横5特の投入が試みられたが、湾内に有力な連合軍艦隊が在泊中との報告を受けて中止された。代わって駆逐艦
=== 日本軍の撤退 ===
[[
日本海軍第8艦隊司令部は、海軍独力での作戦続行は不可能と判断し、青葉支隊主力の到着する9月中旬の攻勢再開を計画した。そして、それまでの間、橋頭堡を持久するものとした。
しかし、連合軍が第18旅団を中心に反撃を強めたため、日本軍は追い詰められ、9月3日には暗号書の処分に至った。
[[士気]]の低下も著しく、負傷した矢野中佐は、現地の最先任にもかかわらず補給の駆逐艦に収容されて脱出してしまった。4日には、代わって最先任となった呉 [[ファイル:HMAS Anshun wreck.jpeg|thumb|right|250px|日本軍の攻撃で転覆した輸送船「アンシュン」(画面左)]]
こうした状況から、持久は不可能と判断した第8艦隊司令部は、ついに撤退を決断した<ref>[[#昭和17年9月~第8艦隊日誌(2)]]p.18『(2)「ラビ」方面作戦 「ラビ」ニ於ケル呉三特、呉五特、横五特ハ相当ノ損害ヲ蒙リタルモ部隊ヲ集結シ再度攻撃移転ニ決ス、然レ共其ノ後ノ攻撃モ所期ノ成果ヲ挙グル事能ハズ遂ニ現地徹底ヲ下令ス9月5日ヲ以テ徹底ヲ完了セリ』</ref>。9月5日、収容掩護部隊として横5特を乗せた軽巡「天龍」と哨戒艇2隻が赴き、生存者の収容を行った。収容漏れがあると見られたため、翌9月6日夜にも軽巡「龍田」と駆逐艦「[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]」が湾内に突入したが、生存者は発見できなかった。日本艦隊は、オーストラリアの輸送船「{{仮リンク|アンシュン|en|MV Anshun (1930)}}」(3188[[トン数|総トン]])を撃沈し、陸上への艦砲射撃で十数名を死傷させて帰還した
消息不明になっていた佐5特主力部隊の捜索は難航し、グッドイナフ島にいることが判明したのは部隊からの伝令がカヌーでブナに到着した9月9日であった。翌9月10日に駆逐艦「[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]」と「[[弥生 (睦月型駆逐艦)|弥生]]」が救出に向かったが、途中で「弥生」が連合軍の空爆により沈没し、佐5特部隊の救出作戦は一時中止になった<ref>[[#昭和17年9月~第8艦隊日誌(2)]]p.18『今日迄所在不明ナリシ佐五特ハ9月9日伝令ノ連絡ニ依リ「グッドイナフ」島ノ「ワッツ」岬ニ在ル事判明セリ。9月11日弥生、磯風ハ右救援ニ赴キタルモ敵機ノ襲撃ニ依リ弥生沈没シ目的ヲ達スル能ハズ、佐五特救援ハ一時延期スルノ止ムナキニ至レリ』</ref>。9月22日に漂流中のカッターが発見され、これを収容したところ「弥生」の生存者が近くの島にいることが判明し、駆逐艦「磯風」と「[[望月 (駆逐艦)|望月]]」が現地に向かった。9月26日に梶本艦長以下「弥生」乗組員83名が救出された。この頃になると連合軍の航空機の活動が活発になっており佐5特部隊の水上艦による救出は困難視された。そこで潜水艦による救出を行うことになり、10月3日に潜水艦「[[伊号第一潜水艦 (初代)|伊1]]」(潜水艦長[[安久榮太郎]])はグッドイナフ島に到着し部隊の傷病者(71名)を収容し、次いで伊1は大発2隻を島に輸送した。部隊は追加の大発の到着を待っていたが、10月23日に島に連合軍が上陸して戦闘になったので、翌24日に大発2隻でグッドイナフ島を離脱して近くのウェレ島に渡り、ここでようやく残りの部隊(261名)は軽巡「天龍」に収容された。消息不明になってから2ヶ月後のことであった。
佐5特部隊の消息が判明する前、捜索・連絡のためにラビの近くに20名の連絡員が派遣されたがこれも消息不明になってしまい、帰還できないままとなった<ref>戦史叢書 49 633ページ</ref>。
グッドイナフ島から救出された横須賀第5特別陸戦隊主力はブナに駐留するが、11月の[[ブナ・ゴナの戦い]]において南海支隊ともども全滅することとなる。
==両軍の損害==▼
▲== 両軍の損害 ==
*日本軍-戦死311名、不明301名、戦傷311名(収容者1318名中。なお残りも大半は歩行困難)
*連合軍
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**アメリカ軍-戦死14名、戦傷若干
== 評価 ==
日本海軍の当時の[[連合艦隊]]参謀長であった[[宇垣纏]]少将は、日記「[[戦藻録]]」のなかで、呉3特の司令と副官が部下を残して引き上げたことを非難するほか、次のように敗因分析をしている。
#敵の防御がある飛行場を、陸戦隊で奪取できるとしたこと。
#ガダルカナル問題をもてあましているときに、軽率に手をつけ、モレスビーと
#陸戦隊の素質が優良ではなくて30歳から35歳の応召兵が多く、忍耐力と攻撃精神が薄弱だったこと。
#降雨が多く(陸戦隊の移動が)渋停し水虫に災いされ、また天候不良の
4項の「水虫」について戦史叢書は「足痛(足傷)」として次のように述べている<ref>戦史叢書 49 624ページ</ref>。<br>
『泥濘の中を連日雨にぬれたまま行軍したためか、水虫によるものか、その他の細菌等によるものか原因不明であるが足がはれ、化膿して、歩行困難となる。』
==
*[[防衛庁]][[防衛研究所|防衛研修所]]戦史室(編)『[[戦史叢書]] 南東方面海軍作戦(1)ガ島奪回作戦開始まで』、1973年。▼
ラビの戦いで36人のオーストラリア兵が日本軍の捕虜になったが、一人も生還せず、そのうちの相当数は日本軍により処刑されたと考えられている。また、戦闘期間中に少なくとも59人の民間人が日本軍に殺害されたと考えられている。
歴史家のマーク・ジョンストンは、その後の戦いにおけるオーストラリア兵による日本兵捕虜への虐待・虐殺の遠因になったと指摘している。
== 注記 ==▼
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{Commonscat|Battle of Milne Bay}}
*[http://www.awm.gov.au/units/event_345.asp Battle of Milne Bay:Australian War Memorial]
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
▲==注記==
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030022500|title=昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)|ref=昭和17年9月~第8艦隊日誌(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030022600|title=昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(2)|ref=昭和17年9月~第8艦隊日誌(2)}}
{{
[[Category:太平洋戦争の作戦と戦い]]
[[Category:1942年のオーストラリア領パプア]]
[[Category:ミルン湾州]]
[[Category:1942年の戦闘]]
▲[[en:Battle of Milne Bay]]
[[Category:1942年8月]]
[[Category:1942年9月]]
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