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[[南北戦争]]の'''東部戦線'''(とうぶせんせん、英:Eastern Theater of the American Civil War)は、[[アメリカ合衆国]]東部と[[大西洋]]岸で北軍と南軍が激突した戦線であり、戦争の全期間([[1861年]] - [[1865年]])、主戦場となった。本稿ではその戦いの流れを時間を追って概説する。
== 戦線の概要 ==
東部戦線の主戦場は[[バージニア州]]、[[ウエストバージニア州]]、[[メリーランド州]]および[[ペンシルベニア州]]であり、[[ワシントンD.C.|コロンビア特別区]]および海岸の要塞や[[ノースカロライナ州]]の海港も含まれる
東部戦線には南北戦争の経過の中で一般に名の知られた作戦が含まれている。これはその戦略的重要性の故ではなく、人口集中部に近く、大きな新聞の発行所があり、対立する両軍の主要都市があったからである。実際北部の首都である[[ワシントンD.C.]]と南部の首都である[[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]は両方とも東部に所在し、100マイル (160 km) 程度しか離れていない。あの広いアメリカではこれはほとんど目と鼻の先程度の距離であり、ワシントンD.C.に至っては目の前を流れている[[ポトマック川]]を越えたらそこはもう敵地([[バージニア州]])と言うような状態だった。結果的に両軍の首都攻防戦が何度も行われ、多くの人の記憶に残ることとなった(また、どちらの軍でも東部で指揮を任されることのほうが西部に派遣されるより名誉な事だと思われていた)。北部人も南部人もその想像力は、米軍屈指の名将として名高い[[ロバート・E・リー]]将軍が指揮する南部の[[北バージニア軍]]と、その名将に対抗するべくリンカーン大統領が次々と指揮官を変更した北部の[[ポトマック軍]]の間の壮大な戦いに捉えられてきた。南北戦争の中でも最も流血の多い戦い([[ゲティスバーグの戦い]])と流血の多い一日([[アンティータムの戦い]])もこの戦線でのできごとだった。南軍を倒すためには西部戦線の方が戦略的に重要だったという議論がなされてきたが、1865年のアポマットクス庁舎でのリーの降伏という決断無くして戦争が終わったと双方の文民が考えられたかといえば、それはあり得ないことである。
戦線は[[アパラチア山脈]]と大西洋に挟まれていた。戦闘の大半はワシントンとリッチモンドの間の地域で行われた。この地域では、多くの川が主に西から東に流れており、北軍にとって接近経路や通信線となるよりも障害となっていたので、南軍の守備隊には好都合であった。このことは西部戦線の初期とは全く異なっており、北軍は輸送経路として当時の主要道路にのみ頼っていたので、両軍共に冬季の作戦行動には制限があった。北軍の利点は海や主要河川を制していたことであり、海洋に近く駐屯する軍隊への補強や補給を容易にしていた。
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== 東部戦線の主要指揮官 ==
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File:Ulysses grant 001.jpg|<center>北軍中将<br>[[ユリシーズ・グラント]]
File:GeorgeMcClellan.jpeg|<center>北軍少将<br>[[ジョージ・マクレラン]]
File:John Pope (06341v).jpg|<center>北軍少将<br>[[ジョン・ポープ]]
File:Ambrose Everett Burnside.jpg|<center>北軍少将<br>[[アンブローズ・バーンサイド]]
File:Joseph Hooker - Brady-Handy.jpg|<center>北軍少将<br>[[ジョセフ・フッカー]]
File:George Gordon Meade.jpg|<center>北軍少将<br>[[ジョージ・ミード]]
File:Robert Edward Lee.jpg|<center>南軍大将
File:Pgt_beauregard.jpg|<center>南軍大将
File:Joseph Johnston.jpg|<center>南軍大将
File:James Longstreet.jpg|<center>南軍中将<br>[[ジェイムズ・ロングストリート]]
File:Jackson-Stonewall-LOC.jpg|<center>南軍中将<br>[[ストーンウォール・ジャクソン]]
File:JubalEarly.jpeg|<center>南軍中将<br>[[ジュバル・アーリー]]
</gallery>
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[[1861年]]4月、[[サムター要塞の戦い|サムター要塞の陥落]]後、両軍共に軍隊の創出で大わらわであった。[[エイブラハム・リンカーン]]大統領は反乱軍を抑えるために75,000名の志願兵の召集を命令し、これが即座にバージニア州を含む4つの州の脱退に繋がった。[[アメリカ陸軍]]には当時16,000名の兵士しかおらず、その半分以上は[[アメリカ合衆国西部|西部]]に散らばっていた。陸軍は[[米英戦争]]と[[米墨戦争]]の古参兵である年長の[[ウィンフィールド・スコット]]中将に指揮されていた。[[アメリカ連合国]]の方は、一握りの連邦軍士官と兵士が退役して南軍に加わった。連合国軍の体系は当初各州によって整えられた。(強い中央政府に対する各州の嫌悪感で助長された連合国防衛軍の分散した性格は戦争の間の南軍の弱みの一つでもあった。)
最初の敵対的行動の幾つかはバージニア州西部(現在のウエストバージニア州)で起こった。[[ジョージ・マクレラン]]少将が[[オハイオ
この戦争での最初の重要な戦闘は[[6月10日]]にバージニア州東部で起こった。北軍の[[ベンジャミン・フランクリン・バトラー (マサチューセッツ州知事)|ベンジャミン・バトラー]]少将は[[モンロー砦]]に駐屯しており、ハンプトンと[[ニューポートニューズ]]からの合流部隊を南軍の前線基地の攻撃に送った。モンロー砦近くの[[ビッグベセルの戦い]]で[[ジョン・マグルーダー]]大佐が南軍としては初めての勝利を掴んだ。
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== ノースカロライナ海岸 (1861年-1865年) ==
[[ノースカロライナ州]]は、[[ウィルミントン (ノースカロライナ州)|ウィルミントン]]に死活に関わる海港があり、また[[アウター
ノースカロライナ海岸でのその後の作戦抗争は[[1864年]]遅くに始まり、ベンジャミン・バトラーとデイビッド・ポーターが共にウィルミントンの海港を守っているフィッシャー砦の占領に失敗した。[[1865年]]1月に、[[アルフレッド・テリー]]、[[アデルバート・エイムズ]]およびポーターによる[[第二次フィッシャー砦の戦い]]で、[[ブラクストン・ブラッグ]]将軍を打ち負かし、2月にはウィルミントンを陥落させた。この時期に、西部戦線の[[ウィリアム・シャーマン]]少将率いる部隊がカロライナの内陸部に侵攻し、[[1865年]]4月遅くにジョセフ・ジョンストン将軍指揮下の南軍の最後の野戦部隊を降伏させた。
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ジョンストンがジャクソンに与えた命令は、かなり勢力的に劣勢なので会戦を避けること、ただし、同時にバンクスの部隊を牽制して、半島を進むマクレラン軍を支援できないようにしておくことであった。バンクスは誤った情報を元にジャクソンがバレーを出て行ったと判断し、東に動いてワシントンの近くまで行った。ジャクソンは、バンクスがまさに避けたい方向に進んだために動揺していた。
[[1862年]][[3月23日]]の[[第一次カーンズタウンの戦い]]で、北軍はジャクソンの動きを止めて反撃し、左側面を衝いて撤退させた。ジャクソンにとってはこの方面作戦で唯一の敗北だった。ジャクソンにとって戦術的な敗退であったが、南軍にとっては戦略的な勝利であった。リンカーン大統領はバンクス軍をバレーに、マクドウェルの30,000名の部隊はフレデリックスバーグに留まらせ、半島を侵攻するマクレラン軍に予定した勢力が50,000名少なくなったからであった。
ジャクソン軍は援軍が到着して17,000名になり、敵が部隊を併せて強力になるのを待つよりもバラバラになっている北軍を攻撃する決断をした。ジャクソン軍が敵に悟られないように間道を伝っているときに、[[5月8日]][[マクドウェルの戦い]]で敵に襲われたが、激しい戦闘の後で撃退に成功した。バンクスはフレデリックスバーグにいるマクドウェルに援軍を送り、残りは8,000名となっていたので、ストラスバーグの守りやすい場所に移った。
[[5月21日]]、ジャクソンはニューマーケットから北東に軍を進めた。ジャクソン軍の行軍速度はこの方面作戦で独特の速さがあり、その歩兵隊は「ジャクソンの歩く騎兵」という渾名を貰った。ジャクソンは騎兵隊を真っ直ぐ北に向かわせて、バンクスにはストラスバーグの攻撃に向かっていると思わせようとしたが、実際の作戦はフロント・ロイヤルの小さな基地を叩き、ハーパーズ・フェリーでバンクスの通信線を素早く攻撃することだった。
[[5月23日]]、[[フロント
ワシントンでは、リンカーン大統領と[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]の[[エドウィン・スタントン]]が、ジャクソン軍は単に北軍をリッチモンドから遠ざけているだけであるとしても、これを叩くのが優先課題だということで一致していた。リンカーン達はマクドウェルに20,000名の部隊をフロント・ロイヤルに送るよう、また[[ジョン・C・フレモント|フレモント]]にはハリソンバーグに移動するよう命令した。両軍がストラスバーグで落ち合えれば、ジャクソン軍の唯一の撤退路が塞がれることになる予定だった。この行動の直接の影響は、マクドウェルがマクレランと協働してリッチモンドを攻撃する計画を中止することだった。
[[6月2日]]、北軍の2隊がジャクソンを追撃した。ジャクソン軍は守備的な陣形を採って、[[6月8日]]の[[クロスキーズの戦い]]でフレモント軍を、翌9日の[[ポート
北軍はバレーから撤退した。ジャクソンは半島のリー将軍の部隊に加わり、[[七日間の戦い]]を戦った(おそらくバレー方面作戦でのストレスのために、ジャクソンの行動はいつになく無気力なものであった)。ジャクソンはマクレラン軍が必要としていた50,000名以上の軍隊を動けなくして、任務を果たした。バレー方面作戦の成功で、ジャクソンは南軍でも最も世に知られた軍人になり(少なくともリーにその地位を奪われるまでは)、大衆の士気を上げた。急襲や機動作戦など古典的な軍事作戦で、48日間に646マイル (1,040 km)を行軍させ、約17,000名の部隊で総計では60,000名の敵を向こうに回し、5度の意義有る勝利を挙げた。
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== 半島方面作戦 (1862年) ==
{{main|半島方面作戦|七日間の戦い}}
マクレランは1861年から1862年にかけての冬をその新しいポトマック軍の訓練に費やし、リンカーン大統領からの南軍に向けて進軍すべしという要求に応えようとした。リンカーンはジョンストン軍がワシントンから30マイル (50 km)しか離れていないセンタービルに駐屯していることを特に心配していた。マクレランはジョンストン軍の力を過大評価しており、対象を軍隊よりも南軍の首都リッチモンドに向けた。マクレランはラッパハノック川をアーバンナに進み、ジョンストン軍が遮る前に陸路リッチモンドに至るという提案をした。リンカーンは、陸路の進軍をすれば作戦が進行している間にワシントンを敵の攻撃から守ることになるので、陸路の方を好んだが、マクレランはバージニア州の道路の状態が耐え難いものであり、首都ワシントンには然るべき防衛措置を採ること、マクレランがリッチモンドに向かえばジョンストン軍もきっと追いかけてくると主張した。この作戦は首都ワシントンで3ヶ月も議論され、遂に3月初めにリンカーンが折れてマクレランの提案を承認した。しかし、[[3月9日]]にジョンストン軍がセンタービルからカルペパーまで後退し、マクレランのアーバンナ作戦を無効にした。マクレランは次にモンロー砦まで船で渡り、[[バージニア半島]]([[ジェ
マクレランは半島に向けて出発する前にポトマック軍をセンタービルに移動させ、「馴らし運転」させた。マクレランはそこで如何にジョンストン軍とその採っていた陣地が弱かったかが分かり、大きな批判を浴びることになった。[[3月11日]]、リンカーンはマクレランを総司令官の地位から外し、マクレランが向かう難しい作戦に集中できるようにした。リンカーン自身が、陸軍長官のスタントンと参謀士官の助力を得て、次の4ヶ月間陸軍の指揮を執った。ポトマック軍は[[3月17日]]にモンロー砦に向けて出港した。この出港のときは、新しく見つかった心配事があった。[[3月8日]]と9日に鉄製被覆船の最初の戦闘が起こった。[[バージニア (装甲艦)|CSSヴァージニア]]と[[モニター (装甲艦)|USSモニター]]が[[ハンプトン・ローズ海戦]]を行ったが決着は付かなかった。陸軍についての心配事は、輸送船がその経路でこの新しい武器に直接攻撃される怖れだった。[[アメリカ海軍]]はジェ
=== 半島侵攻 ===
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北軍は[[ヨークタウン (バージニア州)|ヨークタウン]]まで進み、包囲戦の準備のために手間取った後で、マクレランが小競り合いであった[[ヨークタウンの包囲戦 (南北戦争)|ヨークタウンの包囲戦]]で南軍を破った。この期間に[[ハンプトン・ローズ]]と[[ノーフォーク (バージニア州)|ノーフォーク]]を占領した。北軍が撤退する南軍を追って半島を北西にリッチモンドに向かって侵攻する途中で、マグルーダー砦の近くで1日だけの[[ウィリアムズバーグの戦い]]が起こったが決着は付かなかった。ウィリアムズバーグは植民地時代の古都であり、そこからは東に1マイル (1.6 km)しか離れていなかった。
5月の終りまでに、北軍はリッチモンドから数マイルの所まで前進したが、歩みは鈍かった。マクレランの作戦は大軍で包囲戦を行うことであり、そのための大量の装備や
北軍がリッチモンド外郭防御線の方に動いたとき、チカホミニー川で分断されて、前線に沿って引くも進むも儘ならないようになった。[[5月31日]]から[[6月1日]]にかけて[[セブンパインズの戦い]](フェア・オークスの戦いとも呼ばれる)が起こり、南軍が川の南にいた北軍の小部隊を攻撃した。この戦闘は戦術的には決着が付いていないが、戦略的には2つの効果があった。1つは、ジョンストンが戦闘中に負傷し、より攻撃的な性格のリー将軍に交代したことであった。リーは北バージニア軍を率いその後の戦闘で多くの戦勝をあげた。2つ目は、マクレランが攻撃的な姿勢を捨てて包囲戦を布くことを選んだことであり、リンカーンに要請した援軍が到着するのを待つことにした。マクレランは戦略的な機運を取り戻すことがなかった。
リーはリッチモンドの防御を固めて一月余もマクレランの進行を止めた。ジェ
=== 七日間の戦い ===
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|[[File:Seven Days July 1.png|thumb|none|七日間の戦い、[[7月1日]]]]
|}
リーが攻撃に転じて7日間に及ぶ戦いを仕掛け、マクレランをジェ
七日間の戦いの最初の会戦は[[6月26日]]、メカニックスビルあるいは[[ビーバーダム・クリークの戦い]]であった。リーはマクレランの陣地がチカホミニー川を跨いでいるのを見て取り、細かく分析して勝てると思った。リーは北岸にいるマクレラン軍の右翼を攻撃し、反撃されて大きな損失を蒙った。戦術的には北軍の勝利だったが、戦略的には壊走のはじまりであった。マクレランは南東に後退した。
[[6月27日]]、リーは[[ゲインズミルの戦い]]で攻撃を続けた。これは南軍としては南北戦争の中でも最大規模の攻撃になった(1864年のコールド・ハーバーの戦いでもほぼ同じ場所で戦闘があり、損失も同じくらいであった)。攻撃側の連携がうまく行かず、北軍は終日持ち堪えたが、最終的にリー軍が戦機を掴みマクレラン軍を再度後退させた。マクレラン軍はジェ
[[6月30日]]の[[グレンデイルの戦い]]では流血戦となり、南軍は3個師団が集結してホワイト・オーク・スワンプに撤退する北軍を追った。そこはフレイザーの農園近くであり、戦いの別名はフレイザー農園の戦いとなっている。このときはストーンウォール・ジャクソンが無気力な動きを示したために、リー軍は北軍がジェ
七日間の最後の戦闘は[[7月1日]]の[[マルバーンヒルの戦い]]であり、南軍が向こう見ずな攻撃を繰り返し、北軍は巧みな大砲の配置で堅固に守った。この徒労に終わった戦いでリー軍の損失は5,000名に達した。
七日間の戦いで半島方面作戦は終わった。マクレランは北軍の砲艦の保護が可能なジェ
両軍の損失は大きかった。リーの北部バージニア軍は七日間の戦いに投入した9万名以上の戦力のうち、およそ2万名の損失を蒙り、マクレラン軍は105,445名のうち、ほぼ16,000名の損失となった。
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=== バージニア軍 ===
リンカーン大統領はマクレランの失敗に反応して新しく結成された[[バージニア軍]]の指揮官には[[ジョン・ポープ]]を指名した。ポープは西部戦線で幾つかの成功を収めており、リンカーンはマクレランよりも好戦的な将軍を求めた。バージニア軍は3軍団で総計5万名以上の勢力だった。マクレランのポトマック軍のうち3軍団は後に戦闘の際に付け加えられた。2個歩兵軍団に2個騎兵連隊が付けられたが、中央の管制が及ばないようになり、作戦実行段階ではマイナスの効果しかなかった。
ポープの任務は2つの目標を果たすことだった。ワシントンとシェナンドー渓谷を守ること、および南軍をマクレラン軍から引き離し、ゴードンスビルの方向におびき寄せることだった。ポープは後者の任務を果たすために騎兵隊を派遣してゴードンスビル、[[シャーロッツビル]]および[[リンチバーグ (バージニア州)|リンチバーグ]]を結ぶ鉄道を破壊させようとした。その騎兵隊の出発が送れ、ストーンウォール・ジャクソンが14,000名の部隊でゴードンスビルを占領しているのを発見した。
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[[8月13日]]、リーは[[ジェイムズ・ロングストリート]]少将の軍をジャクソン軍の援軍に送り、翌日さらに2個旅団を残して他の全部隊を派遣した。このとき、マクレラン軍が半島を去ったことを確認できていた。リー自身は[[8月15日]]にゴードンスビルに到着し指揮を執った。リーの作戦はマクレラン軍が応援に駆けつける前にポープの軍を破ることであり、ポープ軍の後方の橋を落としておいてポープ軍の左翼と後方から攻撃を掛けようというものだった。ポープ軍はラッパハノック川の線まで後退した。ポープは北軍の騎兵による襲撃で南軍の命令書の写しを奪っており、リーの作戦に気付いていた。
[[8月22日]]から25日にかけて小競り合いが続き、ポープ軍は川沿いに釘付けになっていた。[[8月25日]]までにポトマック軍のうち3個軍団が半島から駆けつけてポープ軍を補強していた。リーは敵が増強され勢力的に劣勢になった状況に対し、新しい作戦としてジャクソンとスチュアートに全軍の半分を任せてポープ軍の側面に迂回させ、その通信線である[[オレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道]]を襲わせようとした。ポープ軍は後退を強いられ、移動中弱くなったところを叩けるというものだった。
[[8月26日]]の夕方、ジャクソン軍はポープ軍の右翼を迂回し、ブリストー駅で鉄道を破壊してさらに進軍し、[[8月27日]]の払暁にマナサス分岐点にあった北軍の大量の軍需物資を捕獲して破壊した。この急襲によって、ポープ軍はラッパハノック川に沿って急速に撤退させられることになった。[[8月27日]]から28日に掛けての夜、ジャクソンは第一次ブル・ランの戦場まで進軍し、そこでまだ工事の終わっていない鉄道路盤の背後に陣を布いた。ロングストリートの部隊はサラフェア・ギャップを通ってジャクソン軍に合流し、リー軍の2つの翼となった。
=== 第二次ブルランの戦い ===
ジャクソンはポープ軍を戦いに引き込むために[[8月28日]]に自隊の前を通り過ぎようとした北軍の1隊に攻撃を命じ、[[第二次ブルランの戦い]]の幕が切って落とされた。この戦いは北バージニア方面作戦の行方を決するものになった。戦闘は数時間続き、手詰まり状態になった。ポープはジャクソン軍が罠に嵌ったと考えるようになり、全勢力を集中させてジャクソン軍に対抗した。[[8月29日]]、ポープは未完成の鉄道路盤に沿ったジャクソンの陣地に数回の特攻をさせた。その攻撃は両軍ともに大きな損失を蒙ったうえで撃退された。正午、ロングストリート軍が戦場に到着し、ジャクソンの右翼に着いた。[[8月30日]]、ポープは再度攻撃を掛けさせたが、ロングストリート軍の到着を知らないように見えた。南軍の大砲攻撃が集中して北軍の攻撃部隊を壊滅させ、ロングストリートの右翼軍28,000名が一斉攻撃をかけた。これは南北戦争でも最大の同時大量攻撃だと言われている。北軍の左翼が潰されブルランまで後退した。北軍の後詰部隊の行動で第一次ブルランの戦いのときのような惨事は避けられた。それでもポープ軍のセンタービルへ向けた撤退は大慌てだった。翌日、リーは追撃を命じた。
ジャクソンは大きく側面を回りこんで北軍の退路を断とうとした。[[9月1日]]、ジャクソンは1個師団を送って[[シャンティリーの戦い]]で北軍の2個師団と戦わせた。南軍の攻撃は激しい嵐の間の戦闘で止められた。ポープは自軍がまだ危険な状態にあることを認識し、ワシントンまでの後退を命じた。
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リーはフレデリックスバーグから北西に進軍を始め、シェナンドー渓谷に進んだ。そこでは[[ブルーリッジ山脈]]がリー軍の北への動きを隠していた。ジョセフ・フッカーはまだポトマック軍の指揮を執っており、リー軍を見つけるために騎兵隊を放った。[[6月9日]]、[[ブランディ・ステーションの戦い]]が起こり、騎兵が大部分を占める戦いとしては最大規模のものとなったが、決着は付かなかった。フッカーは全軍で追跡を開始したが、[[6月28日]]、リンカーン大統領はとうとう忍耐できなくなり、フッカーを解任してその後釜に第5軍団の指揮官[[ジョージ・ミード]]少将を据えた。
リーは北軍が前と同じくらい機敏に動いているのを見て驚かされた。リー軍がポトマック川を渡ってフレデリックに入った時、南軍はペンシルベニア州にかなり広く広がっていた。イーウェル軍はハリスバーグから[[サスケハナ川]]を渡って進み、ロングストリート軍はチェンバースバーグの山の背後に回った。ジェブ・スチュアートの騎兵隊が北軍の東側側面を広範囲に荒らしまわり、柄にもなく本部には寄って来なかったので、リーは敵の位置や意図を掴めないままでいた。リーはメリーランド方面作戦の時と同様に、個別に撃破される前に全軍を集結させねばならないと考えた。リーは全軍にゲティスバーグの近辺に移動するよう命令を出した。
[[File:Gettysburg Campaign Retreat.png|thumb|left|ゲティスバーグ方面作戦([[7月5日]] - [[7月14日]])]]
[[ゲティスバーグの戦い]]は南北戦争の転回点と考えられることが多い。ミードは16万名の大軍を動員して3日かけてリー軍を破り、51,000名の損失を蒙った。[[7月1日]]の朝に会戦形式で始まり、南軍の[[ヘンリー・
ミードによるリー軍の追撃は恐る恐るのものであり、成果は無かった。リンカーンたちはゲティスバーグの後始末をうまくやっていれば戦争を終わらせることが出来たと信じたので、ミードを厳しく非難した。ミードが行ったその年の秋の2つの攻撃作戦、[[ブリストー方面作戦]]と[[マイン・ランの戦い]]は大した戦果を得られなかった。どちらの場合もリーは繰り返しミード軍を撃退した。ミードは正面衝突による損失を出すことを躊躇った。
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[[1864年]]3月、[[ユリシーズ・グラント]]は中将に昇進し北軍全体の指揮を任せられた。グラントは多方面から南軍に圧力をかける協調戦略を考案したが、これは開戦当初からリンカーンが将軍達に急かしていたことに似ていた。グラントは西部戦線の全軍指揮を[[ウィリアム・シャーマン]]少将に委ね、自分は東部に移動して作戦本部をバージニアのポトマック軍(指揮官はミードのままであった)に置き、そこから軍隊を動かしてリー軍との決戦に臨む考えであった。グラントの目標の2つ目はリッチモンドを占領することであったが、リー軍を倒せばリッチモンドは自動的に手に入るものと考えていた。その協調戦略では、グラントとミードが北からリー軍を攻め、ベンジャミン・バトラーは南東からリッチモンドに迫る、[[フランツ・シーゲル]]はシェナンドー渓谷を支配する、シャーマンは[[ジョージア州]]に侵攻しジョンストン軍を破って[[アトランタ]]を占領する、ジョージ・クルークとウィリアム・アバレルはウエストバージニアの鉄道補給戦に対して作戦を展開する、[[ナサニエル・バンクス]]は[[アラバマ州]][[モービル (アラバマ州)|モービル]]を占領する、というものであった。
これらの戦略の大半は失敗した。というのもグラントに付けられた将軍達は軍事的な理由というよりも政治的な色彩が強かったからである。バトラーの[[ジェ
== オーバーランド方面作戦 ==
[[File:Overland-Richmond.png|thumb|オーバーランド方面作戦、「荒野」からジェ
5月早くに、ポトマック軍はラピダン川を渡ってスポットシルバニアの荒野と呼ばれる地域に入った。そこは深い森のために北軍の大砲の威力が活かせず、リー軍は積極的にグラントとミードの軍に急襲を掛けた。2日間にわたる[[荒野の戦い]]では両軍に多くの損失をもたらしたが、決着は付かなかった。しかし、グラントはそれまでの前任者達とは異なり、戦闘後も退却しなかった。むしろ、南東へ部隊を動かして作戦行動を開始し、幾つかの流血の多い戦闘でリー軍を防衛一辺倒にさせ、さらにリッチモンドに迫った。グラントはその優勢な戦力と北部の人力があれば、リー軍やアメリカ連合国よりも消耗戦に耐えられることが分かっていた。グラント軍はこの方面作戦で55,000名という大きな損失を出したが、リー軍の方が損耗率が高く、しかも補充が適わなかった。
[[スポットシルバニア・コートハウスの戦い|スポットシルバニア郡庁舎の戦い]]で、リーはグラント軍を叩き、強固な防衛拠点を構築した。グラントは2週間以上にわたる一連の攻撃で、「ミュール・シュー」と呼ばれる突出部に集中して南軍の前線を攻撃した。[[5月12日]]にこの前線の「ブラッディ・アングル」と呼ばれる場所に向けて行われたウィンフィールド・ハンコックの[[第2軍団 (北軍)|第2軍団]]による総攻撃は、[[第一次世界大戦]]後半に[[塹壕]]に対する突破戦術として採用された。グラント軍は再度この前線を離れ、南東に移動した。
リーはグラントの移動を止めるためにノース・アンナ川の背後に軍を配置し、その突出部でグラント軍が分断されて攻撃するように仕向けた。リー軍にはグラント軍を打ち破るチャンスがあったが、その設定した罠を作動させるために必要なやり方で攻撃することができなかった。おそらくは病気のためと考えられている。グラントはさらに南東への移動を続けた。
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[[5月31日]]、北軍の騎兵隊がオールド・コールドハーバーの重要な道路交差点を確保した。一方で南軍はリッチモンドとトトポトミー前線から援軍が到着した。[[6月1日]]遅く、北軍の2個軍団がコールドハーバーに到着し、南軍の部隊を襲って少なからぬ成果を挙げた。[[6月2日]]までに両軍は戦場に到着し、7マイル (11 km)にわたる前線を作り上げた。[[6月3日]]の明け方、北軍の第2および第18軍団、さらに続いて第9軍団が前線に総攻撃をかけ、[[コールドハーバーの戦い]]が始まったが、すべて撃退された。この時の北軍の損失は12,000名以上に上り、グラントは他にも増して後悔することになった。後に北部の新聞はグラントを指してたびたび「ブッチャー」(肉屋)と呼んだ。
[[6月12日]]の夜、グラントは再びその左翼側に進軍しジェ
=== ピーターズバーグ ===
しかし、グラントはリッチモンドとリー軍を捕獲するさらに効率的な方法があると考えていた。リッチモンドから数マイル南にあるピーターズバーグ市内には首都に物資を供給するための重要な鉄道拠点があった。もし北軍がそこを占領すれば、リッチモンドは落とすことができる。しかし、以前にベンジャミン・バトラーがその占領に失敗し、続いてグラントの部下による決断力の無い進軍もボーリガードの手薄な防衛線を破ることに失敗していた。そのためにリー軍が到着し防衛線を張ることを許してしまった。両軍は包囲戦の配置に付いた。
包囲戦を打開するために北軍はアンブローズ・バーンサイドの軍団が南軍の前線の下にトンネルを掘り進んだ。[[7月30日]]、この軍団は爆発物を仕掛けて爆発させ、直径135フィート (41 m)もの穴を生じさせた。この穴は今でも見ることができる。この爆発で約350名の南軍兵士が即死した。北軍の計略の巧妙さにも拘らず、長い[[クレーターの戦い]]は損失が大きく、後にはまずい戦術と謗られ、南軍の決定的勝利ともなった。
その秋から冬にかけて両軍は念入りな塹壕を掘り進め、結果的にその総延長は30マイル (50 km)以上にもなった。北軍が南軍の右翼(西方)を奪おうとして、その結果供給線を破壊した。北部の世論はピータースバーグで進展がないように見えたので意気を失いかけていたが、シャーマンがアトランタで劇的な成功を収め、[[1864年アメリカ合衆国大統領選挙]]ではエイブラハム・リンカーンの再選が決まり、戦争は決着が付くまで戦うべしという気分に変わった。
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== シェナンドー渓谷 (1864年-1865年) ==
{{main|1864年のバレー方面作戦}}
シェナンドー渓谷は南軍にとって重要な地域であった。バージニアでも最も農業の盛んな地域であり、北部への重要な侵攻路であった。グラントは、フランツ・シーゲルに任せた
リーはピーターズバーグで包囲されており、ハンターの進軍を心配してアーリーの軍団を送り、バレーから北軍を一掃した後で、可能ならばワシントンを襲いたいと考えた。そうすればグラントがピーターズバーグに集めている軍隊を割かねばならなくなることも期待していた。アーリー軍は出立して緒戦は成功だった。バレーを抵抗も無く通過しハーパーズ・フェリーを迂回してポトマック川を渡り、メリーランド州に入った。グラントは[[ホレイショ・ライト]]指揮下の軍団とジョージ・クルークの部隊を派遣してワシントンを補強しアーリー軍を追わせた。
[[7月9日]]、フレデリックの近くの[[モノカシーの戦い]]で、アーリーは[[ルー・ウォーレス]]の小さな部隊を破ったが、このために進軍が遅れ、北軍がワシントンの防御を固める時間を与えてしまった。[[7月11日]]から12日にかけて、アーリーはワシントン北西の防衛拠点スティーブンス砦に攻撃を掛けたが([[スティーブンス砦の戦い]])、うまく行かずにバージニアに撤退した。8月の始めに幾つかの小さな戦闘をバレーで行って勝利し、ライトの軍団がピーターズバーグの応援に向かうことを阻止していた。またペンシルベニア州[[チェンバーズバーグ (ペンシルベニア州)|チェンバーズバーグ]]の町を焼き払った。
グラントは、アーリーがまだ野放しであれば、ワシントンが危ないままであることが分かっていた。グラントはアーリーを撃つことができる攻撃的な新しい指揮官を見出した。ポトマック軍の騎兵隊指揮官である[[フィリップ・シェリダン]]にその地域の全軍指揮の権限を与え、その軍を[[シェナンドー軍 (北軍)|シェナンドー軍]]と呼ばせた。この頃、大統領選挙が迫っており、リンカーンを負けさせてはならないために、敗北を慎重に避ける必要があったので、シェリダンは緩りと行軍を開始した。
シェリダンは9月に入って行動的になった。[[オペクォンの戦い]]とフィッシャーズヒルの戦いで続けてアーリー軍を破った。アーリー軍が損失を蒙り貼り付けになったことで、バレーは北軍が支配した。シャーマンがアトランタを占領したことで、リンカーンの再選は確実に思われた。シェリダンはバレーから緩りと軍隊を引き、11月のシャーマンによる[[海への進軍]]の前兆となる[[焦土作戦]]を展開した。その目的は南軍がバージニアから食糧を調達する手段を奪うことであり、シェリダン軍は穀物、納屋、製粉所および工場まで焼き払った。
この作戦は[[10月19日]]の[[シーダークリークの戦い]]で効果を挙げて終わった。アーリー軍は輝かしい急襲を掛けて、北軍の3分の2を敗走させたが、その軍隊は飢えており疲れ切っていたので、部隊から抜け出して北軍の宿営地を襲うようになった。シェリダンは軍隊を再集結させるとアーリー軍を決定的に叩き潰した。シェリダンはグラントを応援するためにピーターズバーグに戻った。アーリー軍の兵士の大半も12月にはピーターズバーグのリーの下に加わったが、アーリーは形骸化した軍の指揮官に留まり、[[1865年]]3月に任務を解かれた。
== アポマトックス (1865年) ==
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ピーターズバーグの包囲戦が続き、グラントは部隊を東から西に動かして防御を破るか南軍を取り囲もうと何度も務めた。3月までに、両軍共にこの包囲線に莫大な労力を費やしていたので、リーはピーターズバーグから引くことを決断した。[[ジョン・B・ゴードン]]将軍が北軍包囲線の東端にあるステッドマン砦を攻撃して北軍の包囲線を短くさせる作戦を立てた。この作戦は当初はうまく行ったが、数的に劣勢だったので最終的には撤退を強いられた。
シェリダンがバレーから戻り、南軍の側面を衝く任務を与えられた。これに対応するためにリーは[[ジョージ・ピケット]]少将の部隊を側面の防衛に送った。グラントはピケット軍を遮らせるために軍団を派遣したが、[[3月31日]]の[[ディンウィ
ファイブフォークスでの勝利の後の[[4月2日]]、グラントは南軍の前線への全面攻撃を指示し、[[第三次ピーターズバーグの戦い]]となって劇的な局面の打開に繋がった。その夜、リーはピーターズバーグとリッチモンドから兵を引き、アメリカ連合国政府を逃がす目的地である西の[[ダンビル (バージニア州)|ダンビル]]に向かった。そこから南のノースカロライナにいるジョンストン軍と合流する意図もあった。首都リッチモンドは[[4月3日]]に降伏した。
ここでの戦いはリーとシェリダンの競争になった。リーは撤退しながら補給を確保しようとし、シェリダンはリー軍の動きを遮断しようとした。[[4月6日]]、[[セイラーズクリークの戦い]]で、南軍の約4分の1(約8,000名、2個軍団の中心部隊)が切り取られ降伏させられた。南軍の補給列車の多くが捕獲された。[[4月9日]]、リーの最後の作戦として、ゴードンの消耗した軍団が北軍の前線を突破しリンチバーグの補給物資に辿り着こうとした。ゴードン軍はシェリダンの騎兵隊を簡単に追い払ったが、北軍第5軍団に行く手を抑えられた。ゴードン軍は
その後も南軍による小さな戦闘と降伏が続いたが、4月9日のリーの降伏が南北戦争の実質的な終わりであった。南軍の主力と最大の将軍が敗れたことで、寛大で名誉有る条件の降伏の申し出がなされた。リーはその参謀数人の助言を拒否し、兵士達が田園地帯に逃げ込んで[[ゲリラ]]として戦争を続けないようにすることを望んだので、それはその地域の回復に計り知れない助けとなった。
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== 参考文献 ==
* Eicher, David J., ''The Longest Night: A Military History of the Civil War'', Simon & Schuster, 2001, ISBN 0-684-84944-5.
* Esposito, Vincent J., [https://web.archive.org/web/20090109092636/http://www.dean.usma.edu/history/web03/atlases/american_civil_war/index.htm ''West Point Atlas of American Wars''], Frederick A. Praeger, 1959.
* Fuller, Maj. Gen. J. F. C., ''The Generalship of Ulysses S. Grant'', Da Capo Press, 1929, ISBN 0-306-80450-6.
* Hattaway, Herman, and Jones, Archer, ''How the North Won: A Military History of the Civil War'', University of Illinois Press, 1983, ISBN 0-252-00918-5.
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== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20090109092636/http://www.dean.usma.edu/history/web03/atlases/american_civil_war/index.htm ''West Point Atlas'' map of principal Civil War campaigns]
* [http://www.pueblo.gsa.gov/cic_text/misc/civilwar/civilwar.htm National Park Service Civil War at a Glance]
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