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{{存命人物の出典明記|date=2016年7月}}
{{Infobox baseball player
|選手名 = 野口 茂樹
|英語表記 =
|所属球団 =
|役職 =
|背番号 =
|画像 =
|選手写真ファイル名 =
|写真サイズ画像説明 =
|写真のコメント =
|国籍 = {{JPN}}
|出身地 = [[愛媛県]][[東予市]](現[[西条市]])
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1974|5|13}}
|没年月日 =
|身長 = 179
|体重 = 88
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|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1992}}
|ドラフト順位 = ドラフト3位
|初出場 = NPB / 1994年8月25日
|最終出場 = NPB / 2007年8月14日
|年俸 =
|経歴 = <nowiki></nowiki>
* [[愛媛県立丹原高等学校]]
* [[中日ドラゴンズ]] (1993 - 2005)
* [[読売ジャイアンツ]] (2006 - 2008)
* [[三重スリーアローズ]] (2011)
|選出国 =
* [[スポーツ総合学園SEED|NPOルーキーズ]]
|選出年 =
|得票率 経歴補足題 = コーチ・監督歴
|選出方法 経歴補足 =
* NPOルーキーズ
}}
'''野口 茂樹'''(のぐち しげき、[[1974年]][[5月13日]] - )は、[[愛媛県]][[東予市]](現[[西条市]])出身の[[プロ野球選手]]([[投手]]、左投左打、野球指導者
 
現役時代は[[中日ドラゴンズ]]でエースとして活躍し、{{by|1999年}}には19勝を挙げ[[セントラル・リーグ]]優勝に貢献して[[最優秀選手 (日本プロ野球)|最優秀選手賞]](MVP)を受賞した。現役引退後は球界を離れ会社員に転身している。
 
== 経歴 ==
===プロ入り前===
[[愛媛県]][[東予市]](現[[西条市]])出身。[[愛媛県立丹原高等学校|丹原高校]]から[[1992年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1992年のドラフト]]で[[中日ドラゴンズ]]から3位指名を受け入団。ルーキーイヤーは一軍登板がなく、翌{{by|1994年}}8月25日の対[[広島東洋カープ]]戦([[ナゴヤ球場]])でプロ初登板。
{{節スタブ}}
東予東中3年の1989年、愛媛県中学総体で優勝。準々決勝から決勝まで3試合連続で完封した。四国総体では伊野中(高知)と香東中(香川)に敗れ、4位に終わる<ref>愛媛の野球100年史 P1446 愛媛新聞社</ref>。
 
平成2年、地元の[[愛媛県立丹原高等学校]]に入学。甲子園常連高から入学の誘いがあったものの、競争をするのは嫌だという理由で全て断っていた<ref>{{Cite web ja |url=https://web.archive.org/web/20111022022201/https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1108/kiji/K20110811001391530.html |title=【8月11日】1996年(平8) 立たされたり丸刈りにされたり…野口茂樹 6勝目は大記録 |website=スポーツニッポン |date=2011-08-11 |accessdate=2011-10-22}}</ref>。2年次の平成3年夏、全国高校野球選手権愛媛大会では3回戦で前年の覇者・松山商業を破りベスト8に進出。初戦の弓削戦から準々決勝の新居浜西戦までの4試合32イニングスで40奪三振の大会新記録を樹立した<ref>愛媛の野球100年史 P1486 愛媛新聞社</ref>。3年次の平成4年春の県大会で東予地区予選の新居浜南戦で8回参考記録ながらノーヒットノーランを達成。準決勝の八幡浜戦では、5回から7回までの9人連続を含む19奪三振を記録した。決勝でも、新居浜東から先発全員の14三振を奪い、チームを初優勝に導いた。しかし、センバツ帰りの松山商業とのチャレンジマッチでは、2回途中に肘の痛みを訴えて降板。3-9で敗れた。甲子園出場の期待がかかった高校3年夏の県大会では3回戦で、のちに日本ハムに進んだ[[今井圭吾]]擁する[[愛媛県立伊予高等学校]]と対戦。延長10回の熱戦の末投げ勝ちベスト4に進んだが、またしても松山商業に敗れ甲子園出場はならなかった。
{{by|1996年}}にプロ初完投勝利を含む5勝全てを[[完投]]であげる。8月11日の[[読売ジャイアンツ]]戦([[東京ドーム]])では[[四死球]]を6個与えながらも[[ノーヒットノーラン]]を達成。8月31日の読売ジャイアンツ戦では4番[[落合博満]]の左手首に死球を与え戦線離脱させてしまった。
 
[[1992年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1992年度のドラフト会議]]で[[中日ドラゴンズ]]から3位指名を受けて入団した。担当スカウトは[[早川実]]<ref>{{Cite web ja |url=https://full-count.jp/2022/11/09/post1304975/ |title=星野監督にバケツ持って立たされた左腕 苦悩からMVPまで見届けたスカウトの感慨 |website=Full-Count |date=2022-11-09 |accessdate=2025-02-04}}</ref>。
{{by|1998年}}のシーズンではルーキーの[[川上憲伸]]と並ぶ14勝(9敗)を挙げ、[[最優秀防御率]]のタイトルを獲得。
 
=== 中日時代 ===
{{by|1999年}}のシーズンでは19勝7敗の成績を残し、リーグ優勝に貢献。リーグMVPに輝く。10月10日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦([[明治神宮野球場]])で、20勝をかけて先発し9回途中まで無失点に抑えるも、打線の援護に恵まれず0-1のサヨナラ負けを喫する。
[[高木守道]][[プロ野球監督|監督]]時代の{{by|1993年}}(1年目)は一軍登板はなかった。
 
{{by|1994年}}には[[コロラド・ロッキーズ]]傘下の[[マイナーリーグベースボール|マイナーリーグ]](A級)[[バイセイリア・ローハイド|セントラルバレー・ロッキーズ]]に野球留学し、8月25日の対[[広島東洋カープ]]戦で一軍([[セントラル・リーグ]])公式戦初登板を果たす。
{{by|2001年}}には2度目の最優秀防御率のタイトルと[[最多奪三振]]を獲得する。完投数も初めて二桁(11完投)に到達。4試合連続無四球完投勝利(日本タイ記録)を達成。12月に長年バッテリーを組んでいた[[中村武志]]が横浜に移籍。(中村武志が中日の正捕手を務めていた頃、ヒーローインタビューでの決まり文句は「中村さんのおかげです」だった。)
 
{{by|1995年}}はチームが低迷しペナントレースから早々に脱落。高木監督がシーズン途中で解任されたチーム事情もあり、若手の先発候補として積極起用される。四球で自滅する不安定な投球も多かったが、5月4日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]戦では延長11回無失点の力投を見せた。
{{by|2002年}}は故障のためにわずか5試合の登板にとどまる。
 
[[星野仙一]]監督が就任した{{by|1996年}}、オープン戦で2試合連続で大量失点したことから星野に「おまえはずっと立っとけ!」と一喝され、ベンチのバットケースのそばで、試合終了まで直立不動をしていた。しまいには、そんな様子がテレビ中継に映り込んでいたなど下手をすれば炎上にもなることがあった<ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/377374 今なら炎上だけじゃ収まらない…星野監督は正捕手・中村武志さんを日常的にボコボコに]</ref>。さらには開幕から一軍の[[先発ローテーション]]に入るが勝ち星を挙げられず、4月末にはローテーションを外され[[中日ドラゴンズ (ファーム)|二軍]]([[ウエスタン・リーグ]])へ降格した。7月には再び先発復帰し同月11日にはプロ初[[完投]][[勝利投手|勝利]]を記録。8月11日、[[東京ドーム]]での対[[読売ジャイアンツ]](巨人)戦では[[矢野燿大|矢野輝弘]]とバッテリーを組み、[[四死球]]を6個与えながらも[[ノーヒットノーラン]]を達成。プロ初[[完封#日本プロ野球|完封勝利]]をノーヒットノーランで飾り、5勝全てを完投で挙げた。8月31日の巨人戦([[ナゴヤ球場]])で、[[落合博満]]に[[死球]]を与え骨折させた。
{{by|2003年}}のシーズンはギリギリで規定投球回に達したが、防御率は4点台中盤だった。シーズン終了後に10年近く住んでいた選手寮を退寮した。翌{{by|2004年}}シーズンは4勝に終わり、[[2004年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]は登板機会がなかった。
 
{{by|1997年}}、肩の怪我によりシーズンの大半を二軍で過ごし、8月から一軍の先発ローテーションに復帰したが未勝利に終わった。
{{by|2005年}}は3勝に終わる。シーズンオフに[[フリーエージェント (プロスポーツ)|FA権]]を行使して[[読売ジャイアンツ]]に移籍した。背番号は「'''31'''」。それに伴う人的補償で[[小田幸平]]が中日に移籍した。中日の生え抜き選手として初めてFA移籍した選手となった(それ以前にFA移籍した落合、[[前田幸長]]は他球団(いずれも[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]])から移籍してきた選手である)。なお、現時点でただ1人生え抜き選手でFAで国内他球団へ移籍している。(その後生え抜き選手で[[福留孝介]]、[[川上憲伸]]がFA移籍したがいずれも[[メジャーリーグ・ベースボール|MLB]]球団である。)移籍直後にはペーパードライバーのため電車通勤をして話題になった。<ref>[http://live14.2ch.net/test/read.cgi/wildplus/1134349607/ 野口が電車通勤](元記事スポニチ)</ref>
 
{{by|1998年}}、同年より投手コーチに就任した[[宮田征典]]の指導によって、課題であったコントロールが飛躍的に改善。チーム最多タイとなる14勝(9[[敗戦投手|敗]])を挙げ、[[規定投球回]]に到達して[[防御率]]は2.34を記録し、[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]のタイトルを獲得した。8月30日の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦では、延長12回・203球を投げた。なお、この日の野口を最後に現在まで1試合200球以上投げた投手はいない(野口以降の最多投球数は、{{by|2006年}}8月25日、[[千葉ロッテマリーンズ]]戦での[[有銘兼久]]([[東北楽天ゴールデンイーグルス]])が記録した188球)。
{{by|2006年}}は5月15日の対[[埼玉西武ライオンズ|西武]]戦で先発した1試合の登板に終わる(相方の捕手は同い年同期の[[村田善則]])。シーズンオフに背番号を「'''46'''」に変更する。
 
{{by|1999年}}のシーズンは19勝7敗という成績を残し、リーグ優勝に大きく貢献。リーグ[[最優秀選手 (野球)|MVP]]に輝く。10月10日の対ヤクルト戦で、20勝をかけて先発し9回途中まで無失点に抑えるも、打線の援護に恵まれず0-1のサヨナラ負けを喫する。19勝したものの、当時ルーキーの[[上原浩治]]が20勝したため[[最多勝利]]を獲得できず、ベストナインも上原浩治が受賞している。[[1999年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第1戦と第5戦に登板するが、いずれも敗戦投手となり1勝4敗で[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]に敗退。第1戦は0-0の6回に[[秋山幸二]]に先制ソロ本塁打、[[小久保裕紀]]と[[城島健司]]に連続四球で6回途中で降板し、後続の[[岩瀬仁紀]]が打たれ3失点(自責点も3)、第5戦は1点リードの3回に自身の失策で満塁とすると、[[福留孝介]]の失策に城島と[[松中信彦]]の適時打で一挙6点を失い4回で降板した(自責点は0)。
{{by|2007年}}は開幕[[先発ローテーション|ローテーション]]入りこそ逃したものの、[[リリーフ]]として開幕一軍入りした。5月1日に古巣である中日戦で移籍後初勝利を挙げる。しかし、徐々に打ち込まれるようになり8月中旬に一軍登録を抹消された。全てリリーフでの登板で31試合登板、防御率は4.30に終わった。
 
{{by|2000年}}、自身初の[[開幕投手]]を務めるも前年のような投球ができず、9勝11敗の成績で終わった。
契約更改では年俸1億円から75%減俸の2500万円となった。これは巨人史上当時最大、日本球界全体でも当時3位となる減俸率である(金額は推定)。
 
{{by|2001年}}は防御率2.46、187奪三振を記録し、2度目の最優秀防御率のタイトル獲得に加え、初の[[最多奪三振 (日本プロ野球)|最多奪三振]]も獲得、セ・リーグ投手二冠となった。完投数も初めて2桁(11完投)に到達。4試合連続無四球完投勝利(日本タイ記録)を達成。12勝9敗の成績を残し、完封も5回を記録した。一方で、開幕8連勝を達成するも初黒星を喫するとそこから3連敗。一つ勝って連敗二つ勝って連敗と好不調の波が激しく、6月以降はチームの低迷も重なり一度も勝ち越す月が無かった。同年オフには星野監督が辞任し、投手コーチだった[[山田久志]]が新監督に就任。同時にチームは[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]の権利を行使して[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ (MLB) ]]移籍を目指したものの断念した前[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]の[[谷繁元信]]を獲得したが、これに伴い活躍の場を奪われる危機感を感じた[[中村武志]]が移籍を志願して横浜へトレード移籍した{{Efn2|中村武志が中日の正捕手を務めていた頃、ヒーローインタビューでの決まり文句は「中村さんのおかげです」であった。}}。
{{by|2008年}}は2軍でも6試合しか登板せず、結局ルーキーイヤー以来の一軍登板無しに終わった。そして、10月1日に球団から[[戦力外通告]]を受けた。
 
{{by|2002年}}、怪我により8月まで続いた二軍生活が影響し、9月にようやく一軍昇格したものの、わずか5試合で2勝を挙げるににとどまった。
[[12球団合同トライアウト|トライアウト]]には参加せず、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の入団テストを受けるも不合格。その後、12月23日には同じ巨人から自由契約になった[[門倉健]]とともに[[シカゴ・カブス]]のトライアウトを受けた。
 
{{by|2003年}}、開幕第3戦で初先発するも5回を持たずに降板する。その後、野口が先発する試合では正捕手の谷繁ではなく[[柳沢裕一]]、[[中野栄一]]と捕手を代わる代わる変更させるなど試行錯誤したが、好不調の波が激しく防御率は4点台中盤で9勝11敗の成績であった。辛くも規定投球回に達したが、不安定な投球の一方で高い奪三振率を記録した。シーズン終了後には10年近く住んだ選手寮を退寮。山田も9月7日に監督を解任された。
{{by|2009年}}2月12日に[[トロント・ブルージェイズ]]とマイナー契約で合意したと報道されたが、契約前のメディカルチェックで左肘に異常が見られたため、契約を破棄された<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20090219-OHT1T00078.htm スポーツ報知:MLB 野口ブルージェイズから契約破棄]より</ref>。野口自身は現役続行を希望している。
 
{{by|2004年}}、落合博満が監督に就任。谷繁とバッテリーを組む機会が増えるが衰えや相性の悪さから低調な成績が続く。6月6日に二軍降格を命じられた際は二軍で徹底的な走り込みを行い、同月20日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]戦(ナゴヤドーム)では完封勝利を挙げたが、同月27日の対阪神タイガース戦(ナゴヤドーム)で4勝目を挙げて以降は勝ち星を挙げられなかった{{R|中日スポーツ20040808}}。同年8月7日の対広島戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])では初回に[[打順#二番打者|2番打者]]の[[アンディ・シーツ]]に2点[[本塁打]]を被弾、続く[[打順#三番打者|3番打者]]の[[嶋重宣]]は二ゴロに打ち取るも[[打順#四番打者|4番打者]]の[[グレッグ・ラロッカ]]、[[打順#五番打者|5番打者]]の[[前田智徳]]に2打者連続本塁打を被弾し、最後には[[打順#六番打者|6番打者]]の[[緒方孝市]]に[[二塁打]]を許したところでKOされた(自責点は5){{R|中日スポーツ20040808}}。投球回1/3イニングでのKOは自身のプロ入り後最短、そして1イニング3被本塁打もプロ入り最多で、試合中に落合から二軍落ちと名古屋への強制送還を言い渡された<ref name="中日スポーツ20040808">{{Cite web ja |title=野口、名古屋へ強制送還 プロ入り最短KO |website=中日スポーツ |date=2004-08-08 |accessdate=2024-06-21 |author=寺西雅広 |url=http://chuspo.chunichi.co.jp/dragons/tp2004/tp0808-1.htm |publisher=中日新聞社 |archive-url=https://web.archive.org/web/20040810104835/http://chuspo.chunichi.co.jp/dragons/tp2004/tp0808-1.htm |archive-date=2004-08-10}}</ref>。その次の登板となった8月21日の対横浜戦([[横浜スタジアム]])でも{{R|中日スポーツ20040822}}、3回に[[タイロン・ウッズ]]からソロ本塁打を打たれると、続く4回には[[佐伯貴弘]]に3点本塁打を被弾、直後にはウッズに2本目のソロ本塁打を打たれるなどして<ref>『中日新聞』2004年8月22日朝刊運動1面19頁「セ・リーグ 第21節 21日 中日連勝止まる 横浜10-5中日」「球心 野口ボロボロ 復帰戦また背信KO 『攻めたけど…』」(村井博美)「語録 使ったオレが悪い」(中日新聞社)</ref>3イニングで7失点KOされ、[[プロ野球コーチ#投手コーチ|投手コーチ]]の[[森繁和]]から「使ったオレが悪い」と酷評された<ref name="中日スポーツ20040822">{{Cite web ja |title=野口、悪夢再び ウッズに痛恨被弾2発 |website=中日スポーツ |date=2004-08-22 |accessdate=2024-06-21 |author=古田耕士 |url=http://chuspo.chunichi.co.jp/dragons/tp2004/tp0822-1.htm |publisher=中日新聞社 |archive-url=https://web.archive.org/web/20040823032529/http://chuspo.chunichi.co.jp/dragons/tp2004/tp0822-1.htm |archive-date=2004-08-23}}</ref>。それ以降登板機会が減り、一軍と二軍を行き来する状況となる。シーズン成績は4勝8敗・防御率5.65(17試合)。チームは5年ぶりにリーグ優勝したものの[[2004年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では登板機会がなかった。オフには球団首脳から「[[トレード]]要員」と明言され<ref>{{Cite web ja |title=野口「先発第4の男だ」 落合監督、トレード封印 |website=中日スポーツ |date=2004-12-13 |url=http://chuspo.chunichi.co.jp/dragons/tp2004/tp1213-1.htm |author=関陽一郎 |accessdate=2020-01-03 |publisher=中日新聞社 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050920041438/http://chuspo.chunichi.co.jp/dragons/tp2004/tp1213-1.htm |archivedate=2005-09-20}}</ref>、当時[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]・[[オリックス・バファローズ|オリックス]]の合併に端を発する[[プロ野球再編問題 (2004年)|プロ野球再編問題]]の中で、合併新球団オリックス・バファローズへの移籍を拒否していた[[岩隈久志]](後に[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]へ金銭トレード)との交換トレードも取り沙汰されたが<ref>{{Cite web ja |title=中日「岩隈欲しい」交換要員に野口 |website=[[日刊スポーツ|大阪日刊スポーツ]] |date=2004-11-30 |url=http://osaka.nikkansports.com/obb/p-ot-tp2-041130-0013.html |accessdate=2020-01-03 |publisher=大阪日刊スポーツ新聞社 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050311105950/http://osaka.nikkansports.com/obb/p-ot-tp2-041130-0013.html |archivedate=2005-03-11}}</ref>、最終的には中日に残留している。
== プレースタイル ==
[[1999年]]の[[最優秀選手 (野球)|MVP]]左腕で、変化の多彩なキレのある[[スライダー (球種)|スライダー]]が決め球。
 
{{by|2005年}}の開幕は二軍で迎えた。5月に入り一軍昇格し、同月15日の[[福岡ソフトバンクホークス]]戦で初先発するも、3回3失点でKOされ敗戦投手となり二軍落ち。再昇格後の6月9日、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]戦では谷繁とのバッテリーで完封しシーズン1勝目を挙げた(かつてバッテリーを組んだ中村武志とも1打席対決している)が、調子が上向くことはなかった。9月4日のヤクルト戦では2回まで無失点も、3回に[[岩村明憲]]に逆転3点本塁打を打たれ、2回2/3を3失点で敗戦投手となり試合後に二軍降格{{Efn2|落合監督は試合後のインタビューで「すべてはあの四球。1点をやりたくなくて3点やった。投げる前から打たれたらどうしようと考えている。自分でこうだと決めてしまう選手は一番使いづらい。あれは野球選手として一番やっちゃいけないこと。自分の中に恐怖心がある選手は使わない」と個人批判をあまりしない落合が珍しくマスコミの前で辛辣な苦言を呈した。}}、そのままシーズンを終了した。13試合の登板で3勝6敗・防御率4.00の成績に終わった。シーズンオフに[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA権]]を行使し、11月17日に2年契約・年俸1億円で巨人へ移籍。それに伴う人的補償として[[小田幸平]]が中日へ移籍することとなった。ちなみに、中日の生え抜き選手で、FAにより初めて国内移籍したのは野口である。
[[2007年]]は左打者は打率.228、ホームラン0本に抑え、スライダーは12球団の左打者に十分通用しているが、右打者とは70人と対戦し半分近くの33回の出塁を許し、4本のホームランすべてを右打者から打たれた。
 
=== 巨人時代 ===
[[1998年]][[8月30日]]のヤクルト戦([[ナゴヤドーム]])に先発した野口は延長12回・203球を一人で投げきり、かつ200球目でその日の最速144km/hを記録した(試合は12回表に打たれ、結局敗戦投手となってしまった)。ちなみに中6日で迎えた次の先発となった同年[[9月6日]]の横浜戦でも完投しており、豊富なスタミナの持ち主である。
{{by|2006年}}、[[内海哲也]]や[[高橋尚成]]、野口と同じく新加入した[[ジェレミー・パウエル]]らが一軍の開幕ローテーション入りを果たしたため二軍スタートとなった。[[上原浩治]]や高橋尚成らの故障もあり、5月14日の[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦にて移籍後初登板初先発を果たす。味方が初回に1点を先制するも、その裏に5失点を喫した。結果的に3回5失点でマウンドを降りたが、チームがその後追いつき負け投手にはならなかった。この試合直後に左肩痛を発症して二軍落ち。その後は出番を与えられず、わずか1試合の登板に終わった。
 
{{by|2007年}}、開幕[[先発ローテーション|ローテーション]]入りこそ逃したものの、[[リリーフ]]として開幕一軍入りし、5月1日に古巣の対中日戦で移籍後初勝利を挙げる。その後もリリーフの一角として登板を続けるが、徐々に打ち込まれるようになり8月中旬に一軍登録を抹消された。プロ入り初の全てリリーフでの登板で31試合登板、防御率は4.30に終わった。プロ入り後、初めて先発登板が一度もないシーズンとなった。契約更改では年俸1億円から75%減の2500万円となった<ref>[https://gendai.media/articles/-/37570?page=3 プロ野球特別読み物 小笠原道大よ、谷佳知よ、最初から分かっていたはず 巨人にFAで入っても幸せにはなれないのだよ カネに転んで「故郷」を捨てた男たちの末路]</ref>。これは巨人史上当時最大、日本球界全体でも3番目となる減俸率である(金額は推定)。
マウンド上では審判への礼儀を重んじる。球審からボールを貰う際は必ず帽子を脱いで受け取る。
 
{{by|2008年}}、先発の内海や、[[セス・グライシンガー]](ヤクルトから移籍)、中継ぎでは[[山口鉄也]]、[[越智大祐]]らの活躍もあり、ルーキーイヤー以来の一軍登板無しに終わった。10月1日に球団から[[戦力外通告]]を受ける。
 
=== 巨人退団後 ===
[[12球団合同トライアウト]]には参加せず、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の入団テストを受け、[[鉄平 (野球)|鉄平]]を含む打者5人と対戦。全員を打ち取るも直球のスピードが出ず、合格には至らなかった。その後、12月23日には同じく巨人から自由契約になった[[門倉健]]とともに[[シカゴ・カブス]]のトライアウトを受けた。
 
{{by|2009年}}2月12日、[[トロント・ブルージェイズ]]とマイナー契約で合意したと報道されたが、契約前のメディカルチェックで左肘に異常が見られたため、契約を破棄された<ref>{{Cite web ja |url=https://web.archive.org/web/20140801234944/http://www.47news.jp/CN/200902/CN2009021901000242.html |title=野口、大リーグの契約不成立 身体検査の結果受け |website=47NEWS |date=2009-02-19 |accessdate=2011-05-19}}</ref>。
 
巨人退団後は株式会社オーガニッククルーの顧問を務める傍ら、「Future's Baseball Academy」のメインアドバイザーを務めていた。
 
=== 独立リーグ時代 ===
その後、左肘の手術とリハビリを続けたことで、実戦復帰の目処が立ち、[[2011年]]5月、[[三重スリーアローズ]]([[四国アイランドリーグplus]])の練習に参加、19日には入団が発表された<ref>{{Cite web ja |url=http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2011051900633 |title=元中日の野口、三重入り=野球・四国アイランドリーグ |website=時事通信 |date=2011-05-19 |accessdate=2011-05-19}}</ref>。同月24日に入団会見を行い、背番号を中日時代と同じ「47」とした。同年シーズン終了後、スリーアローズ解散に伴い退団<ref>{{Cite web ja |url=http://www.mie-baseball.com/blog/index.php?e=1178 |title=退団選手のお知らせ |website=三重スリーアローズ オフィシャルブログ |date=2011-10-25 |accessdate=2011-10-26}}</ref>。12球団合同トライアウトを受験した<ref>{{Cite web ja |url=https://web.archive.org/web/20111113091838/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/npb/news/CK2011111102000068.html |title=野口 トライアウト挑戦 独立L三重解散…あきらめない |website=中日スポーツ |date=2011-11-11 |accessdate=2011-11-11}}</ref>が、打者5人に対し2四球と結果を残せず、いずれの球団からも誘いが無く、引退を決意した。
 
=== 引退後 ===
2012年より、[[愛知県]][[常滑市]]に拠点を置く[[特定非営利活動法人|NPO法人]]の社会人野球チーム「[[通信教育総合学園ROOKIES|NPOルーキーズ]]」のコーチに就任<ref>{{Cite web ja |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201202/2012020900737&rel=y&g=spo |title=元中日の野口氏、コーチに=NPO法人「ルーキーズ」-社会人野球 |website=時事ドットコム |date=2012-02-09 |accessdate=2012-02-09}}</ref>。2013年は[[選手兼任監督|監督兼任投手]]としてプレーした。さらに、[[東海ラジオ放送]]の野球解説者も務めた。
 
将来は妻の両親が経営する焼き鳥店を継ぐ予定であるとされていたが<ref>中日スポーツ2012年2月9日号より</ref>、2014年2月に石黒体育施設株式会社(本社:名古屋市、スポーツ施設・大規模集会施設の建設・メンテナンス)の営業社員として入社。同社へ[[小松辰雄]]が顧問(アドバイザー)就任となったと同時に退社した<ref>[http://www.isiguro.co.jp/company/index.html 石黒体育施設株式会社-会社概要]</ref>。2017年、カミヤ電機株式会社(愛知県西尾市)への入社が、オフィシャルホームページ内のブログで伝えられた<ref>[http://www.kamiyaelectric.co.jp/publics/index/35/#page35_95 野口茂樹さんが入社しました] 株式会社カミヤ電機 2017年6月14日</ref>。現在は同社の営業担当として従事しつつ、中日ドラゴンズが主催する少年野球スクールの講師やスポーツ専門チャンネルの解説も務めている<ref name="nikkansports20200114">{{Cite web ja |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202001140000845.html |title=元中日野口茂樹氏は営業マン、星野さんの説教に感謝 |website=日刊スポーツ |date=2020-01-20 |accessdate=2025-02-04}}</ref>。
 
== 人物 ==
審判からボールを貰う際、マウンド上で必ず帽子を脱いで礼を表す{{R|livedoornews}}。[[中村武志]]とバッテリーを組んで勝利した際、[[ヒーローインタビュー]]で「中村さんのおかげです」、「中村さんのミットめがけて投げました」としばしばコメントしていた<ref name="livedoornews">[https://news.livedoor.com/article/detail/16232504/ 99年MVP・野口茂樹投手の、超個性的なエピソードとは?] ライブドアニュース 2019年3月28日</ref>。
 
中日の選手寮に10年近く居座ったことから、当時のチームメイトから『宇宙人』の愛称で呼ばれていた。退寮後は名古屋でホテル暮らしをしていた{{R|livedoornews}}。巨人移籍後の当初もホテルに住んでいたが、[[ペーパードライバー]]で車を運転できなかったことを理由に挙げている{{R|nikkansports20200114}}。
[[中村武志]]が中日の正捕手を務めていた頃、ヒーローインタビューでの決まり文句は「中村さんのおかげです」であった。
 
巨人から戦力外通告を受けた半年後に保育士の女性と結婚。当時の野口はアルバイトをしつつトレーニングを続けたが赤字続きだったため、妻が引退まで家計を支え続けていた<ref>[https://web.archive.org/web/20210825135204/https://kakaku.com/tv/channel=6/programID=299/episodeID=542682/ 「バース・デイ ~VOL.320STORY 戦力外から3年… 野口茂樹37歳 現役復帰への挑戦 妻の支え~」2012年2月4日(土)放送内容] テレビ紹介情報 価格.com</ref><ref>[https://www.tbs.co.jp/birth-day/onair/20120204.html バース・デイ 2012.2.4のオンエア:バックナンバー]</ref>。
趣味は絵画(水彩画)。
 
== 出演番組 ==
かなりの天然ボケな人物であり中日時代からその事がよくマスコミや選手、ファンのあいだで話題になっていた。
* [[東海ラジオ ガッツナイター]] - ゲスト解説
* [[バース・デイ]](2012年10月14日・2015年7月4日、[[TBSテレビ|TBS]])
* [[情報フレッシュ便 さらさらサラダ]](2012年11月15日、[[NHK名古屋放送局]])
 
== 年度別投手成績詳細情報 ==
=== 年度別投手成績 ===
{| {{投手成績|リーグ=日本プロ野球}}
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1994}}
|rowspan="12" style="text-align:center; white-space:nowrap;"|[[中日ドラゴンズ|中日]]
|8||1||0||0||0||0||0||0||--||----||45||10.2||5||1||10||0||0||11||0||0||3||3||2.53||1.41
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1995}}
|30||19||1||0||0||3||10||2||--||.231||564||125.2||114||21||83||2||2||110||3||0||72||67||4.80||1.57
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1996}}
|21||18||5||2||0||5||5||0||--||.500||487||114.1||104||15||52||2||2||88||4||0||47||41||3.23||1.36
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1997}}
|11||7||0||0||0||0||1||0||--||.000||179||37.0||46||2||21||0||3||14||2||0||29||27||6.57||1.81
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1998}}
|27||27||6||1||0||14||9||0||--||.609||802||192.0||174||10||63||4||5||134||8||0||59||50||'''2.34'''||1.23
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1999}}
|29||'''29'''||7||4||0||19||7||0||--||.731||'''870'''||'''203.2'''||'''202'''||13||67||3||5||145||6||0||68||60||2.65||1.32
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2000}}
|33||27||4||1||0||9||11||0||--||.450||764||173.0||200||20||58||3||2||128||9||0||'''99'''||'''89'''||4.63||1.49
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2001}}
|26||26||11||'''5'''||'''5'''||12||9||0||--||.571||765||'''193.2'''||167||7||28||1||2||'''187'''||1||0||62||53||'''2.46'''||'''1.01'''
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2002}}
|5||5||0||0||0||2||1||0||--||.667||118||27.0||24||6||13||1||1||12||1||0||15||15||5.00||1.37
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2003}}
|29||26||1||0||0||9||11||0||--||.450||641||146.1||154||12||'''59'''||0||'''9'''||146||3||0||80||74||4.55||1.46
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2004}}
|17||15||1||1||0||4||8||0||--||.333||360||78.0||106||13||27||3||1||61||1||0||51||49||5.65||1.71
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2005}}
|13||13||1||1||0||3||6||0||0||.333||300||72.0||71||8||26||1||4||57||3||0||33||32||4.00||1.35
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2006}}
|rowspan="2" style="text-align:center;"|[[読売ジャイアンツ|巨人]]
|1||1||0||0||0||0||0||0||0||----||16||3.0||7||0||1||0||0||1||1||0||5||3||9.00||2.67
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2007}}
|31||0||0||0||0||1||1||0||4||.500||144||29.1||34||4||20||2||3||28||0||0||15||14||4.30||1.84
|-
!colspan="2" style="white-space:nowrap;"|通算:14年
|281||214||37||15||5||81||79||2||4||.506||6055||1405.2||1408||132||528||22||39||1122||42||0||638||577||3.69||1.38
|}
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高
 
=== タイトル・表彰 ===
; NPB
* [[最優秀選手 (野球)|MVP]]:1回(1999年)
* [[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]:2回(1998年2001年)
* [[最優秀バッテリー賞多奪三振 (日本プロ野球)|最多奪三振]]:1回(2001年、捕手は[[中村武志]]
* [[最多奪三振]]:1回(2001年)
* [[ゴールデングラブ賞]]:1回(2001年)
 
=== 記録表彰 == =
; NPB
* 初登板・初先発:1994年8月25日、対[[広島東洋カープ]]20回戦([[ナゴヤ球場]])
* [[最優秀選手 (野球)|最優秀選手]]:1回(1999年)
* 初勝利:1995年5月17日、対広島東洋カープ6回戦(ナゴヤ球場)
* [[ゴールデングラブ賞]]:1回(投手部門:2001年)
* 初セーブ:1995年6月15日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]9回戦(ナゴヤ球場)
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:4回(投手部門:1999年7月、1999年9月、2001年4月、2001年5月)
* 初完投勝利:1995年8月16日、対[[横浜ベイスターズ]]20回戦([[横浜スタジアム]])
* [[最優秀バッテリー賞]]:1回(2001年 捕手:[[中村武志]])
* 初完封勝利・ノーヒットノーラン:1996年8月11日、対[[読売ジャイアンツ]]19回戦([[東京ドーム]])
* [[IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞]]:1回(2001年)
* 試合[[奪三振]]セ・リーグ記録タイ・16個:2001年5月24日、対[[阪神タイガース]]10回戦([[石川県立野球場]])
* 優秀[[JCB・MEP賞]]:2回(1999年、2001年)
* 1000投球回数:2001年8月12日、対阪神タイガース21回戦([[ナゴヤドーム]])
* [[JA全農Go・Go賞]]:1回(最多奪三振賞:2001年5月)
* 1000奪三振:2004年5月29日、対阪神タイガース11回戦(ナゴヤドーム)、5回裏に[[杉山直久]]から
 
=== 背番号記録 ===
; NPB初記録
* '''57''' (1993年 - 1994年)
* 初登板・初先発登板:1994年8月25日、対[[広島東洋カープ]]20回戦([[ナゴヤ球場]])、3回3失点
* '''47''' (1995年 - 2005年)
* 初奪三振:同上、1回表に[[緒方孝市]]から
* '''31''' (2006年)
* 初勝利:1995年5月17日、対広島東洋カープ6回戦(ナゴヤ球場)、6回1/3を4失点
* '''46''' (2007年 - 2008年)
* 初セーブ:1995年6月15日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]9回戦(ナゴヤ球場)、6回表に2番手で救援登板・完了、4回1失点
* 初完投:1995年8月16日、対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]20回戦([[横浜スタジアム]])、8回4失点で敗戦投手
* 初完投勝利:1996年7月12日、対阪神タイガース15回戦(ナゴヤ球場)、9回5失点(自責点1)
* 初完封勝利:1996年8月11日、対[[読売ジャイアンツ]]19回戦([[東京ドーム]]) ※史上64人目のノーヒットノーラン
* 初ホールド:2007年4月21日、対[[阪神タイガース]]5回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に2番手で救援登板、1回1/3を1失点
; NPB節目の記録
* 1000投球回数:2001年8月12日、対阪神タイガース21回戦([[ナゴヤドーム]])、8回表二死目に[[今岡誠]]を遊撃ゴロで達成 ※史上290人目
* 1000奪三振:2004年5月29日、対阪神タイガース11回戦(ナゴヤドーム)、5回表に[[杉山直久]]から ※史上111人目
; NPBその他の記録
* 継投による1イニング4奪三振:1996年8月17日、対阪神タイガース19回戦(ナゴヤ球場)、4回表に野口が[[ケビン・マース]]・[[高波文一]]・[[山田勝彦 (野球)|山田勝彦]](振逃)から、後続の[[遠藤政隆]]が[[和田豊]]から ※史上初(2020年終了現在でも史上唯一、1イニング4奪三振自体は史上4度目)
* 1試合16奪三振:2001年5月24日、対阪神タイガース10回戦([[石川県立野球場]]) ※セ・リーグ記録
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:3回({{NPBオールスター|1998年|1999年|2001年}})
 
=== 独立リーグでの投手成績 ===
以下の数値は四国アイランドリーグplusウェブサイト掲載の各シーズン選手成績による<ref>[http://www.iblj.co.jp/record/5074/ 記録2011年] - 四国アイランドリーグplus</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small"
|-bgcolor="#efefef"
![[年度|年<br /><br />度]]!![[四国アイランドリーグplus|球<br /><br />団]]!![[防御率|防<br />御<br />率]]!![[登板|登<br /><br />板]]!![[勝利投手|勝<br /><br />利]]!![[敗戦投手|敗<br /><br />戦]]!![[セーブ|セ<br />丨<br />ブ]]!![[完投|完<br /><br />投]]!![[完封|完<br /><br />封]]!![[無四球試合|無<br />四<br />球]]!![[投球回|投<br />球<br />回]]!![[打者|打<br /><br />者]]!![[安打|被<br />安<br />打]]!![[本塁打|被<br />本<br />塁<br />打]]!![[三振|奪<br />三<br />振]]!![[四球|与<br />四<br />球]]!![[死球|与<br />死<br />球]]!![[失点|失<br /><br />点]]!![[自責点|自<br />責<br />点]]
|-
|style="text-align:center"|{{by2|2011}}
|rowspan="1" style="text-align:center;"|[[三重スリーアローズ|三重]]
|2.63||10||1||4||0||3||0||0||61.2||251||54||3||47||12||6||22||18
|-
!colspan="2"|通算:1年
|2.63||10||1||4||0||3||0||0||61.2||251||54||3||47||12||6||22||18
|}
 
=== 背番号 ===
* '''57'''(1993年 - 1994年)
* '''47'''(1995年 - 2005年、2011年)
* '''31'''(2006年)
* '''46'''(2007年 - 2008年)
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 関連項目 ==
160 ⟶ 222行目:
* [[中日ドラゴンズの選手一覧]]
* [[読売ジャイアンツの選手一覧]]
* [[日本人のマイナーリーグ選手一覧]]
* [[三重スリーアローズの選手一覧]]
* [[ノーヒットノーラン達成者一覧]]
 
== 外部リンク ==
{{NPB|71073887}}
{{MLBstats |cube=Shigeki-Noguchi |brm=noguch001shi}}
* [https://sp.baseball.findfriends.jp/player/19740060/ 選手情報] - 週刊ベースボールONLINE
* {{Instagram|shigekinoguchi}}
* {{Twitter|NoguchiShigek}}
* {{Facebook|jhawetip}}
 
{{Navboxes|title=業績
|list1=
</span>
{{日本プロ野球ノーヒットノーラン達成者}}
{{セントラル・リーグMVP}}
{{セントラル・リーグ最多奪三振}}
{{セントラル・リーグ最優秀防御率}}
{{セントラル・リーグ 最優秀バッテリー賞}}
{{日本シリーズ第1戦先発投手 (セ・リーグ)}}
{{中日ドセントル・リーグ ールデズ開幕グラブ (投手)}}
{{中日ドラゴンズ開幕投手|中日ドラゴンズ}}
}}
{{中日ドラゴンズ1992年ドラフト指名選手}}
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:のくち しけき}}
[[Category:日本の野球選手]]
[[Category:中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手]]
[[Category:読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手]]
[[Category:三重スリーアローズの選手]]
[[Category:東海地方の社会人野球チームに所属する選手]]
[[Category:最優秀防御率 (NPB)]]
[[Category:最多奪三振 (NPB)]]
[[Category:愛媛県出身の人物最優秀選手 (NPB)]]
[[Category:NPBオールスターゲーム選出選手]]
[[Category:日本の野球監督]]
[[Category:選手兼任監督]]
[[Category:社会人野球指導者]]
[[Category:愛媛県出身のスポーツ選手]]
[[Category:1974年生]]
[[Category:存命人物]]