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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 加藤 重次
| 死没 = [[慶長]]18年([[1613年]])
| 諡号 =
{{武士/主君 |[[佐々成政]]→[[加藤清正]]、[[加藤忠広|忠広]]}}▼
| 戒名 =
{{武士/氏族 |[[渋谷氏]]}}▼
| 墓所 =
{{武士/兄弟 |'''重次'''、[[井上吉弘]]}}▼
| 官位 = [[従五位|従五位下]]、[[大和国|大和]][[国司|守]]
| 幕府 =
'''加藤 重次'''(かとう しげつぐ)は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期の[[武将]]。[[近江国]]甲賀に住む[[渋谷氏]]の出自で、[[加藤清正]]・[[加藤忠広|忠広]]の[[家老]]だった。食禄六千五百石、後に一万六千七百弐拾二石に加増。▼
| 藩 =
| 父母 =
| 妻 =
| 子 = [[加藤重季|重季(與平次)]]、娘3人
| 特記事項 =
}}
▲'''加藤 重次'''(かとう しげつぐ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期の[[武将]]。[[近江国]]甲賀に住む[[渋谷氏]]の出自で、[[加藤清正]]・[[加藤忠広|忠広]]の[[家老]]
初め[[富山城]]主[[佐々成政]]の重臣として仕え、成政が[[隈本城]]主として肥後に転封すると、実弟・[[井上勘兵衛]](弥一郎)と共に肥後入る。佐々成政が[[肥後国人一揆]]への不手際により切腹させられると、新しい熊本領主・[[加藤清正]]に仕えた。▼
== 生涯 ==
清正からの信任厚く、豊臣秀吉の下命もあって清正から加藤姓を賜り、[[佐敷城_(肥後国)|佐敷城]]の[[城代]]を任された。また清正に従い[[天草一揆]]を鎮圧している。▼
▲初め近江の[[六角氏]]に従うが六角氏滅亡後、[[富山城]]主[[佐々成政]]の重臣として仕え、成政が[[熊本城|隈本城]]主として[[肥後国]]に
[[朝鮮の役]]でも主君・清正に付随。ここでも武勲を挙げ、武勇に優れたところを示している。[[文禄の役]]では清正軍の一員として[[京城]]に入り、[[海汀倉の戦い]]での朝鮮軍に大勝に寄与。[[咸鏡道]]を占領すると、[[端川]]城城代に任じられた。▼
▲[[文禄・慶長の役|朝鮮の役]]でも主君・清正に付随。ここでも武勲を挙げ、武勇に優れたところを示している。[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]では清正軍の一員として[[京城]]に入り、[[海汀倉の戦い]]での朝鮮軍に大勝に寄与。[[咸鏡道]]を占領すると、[[端川市|端川城]]
[[慶長の役]]では講和破談後の主君は、加藤重次、[[飯田覚兵衛]]、[[森本儀太夫]]、井上勘兵衛([[梅北一揆]]を鎮圧後に渡海し合流)等側近500名で未完成の[[蔚山城]]に入城。乏しい食料の中、[[明]]軍の大軍を撃破した([[蔚山城の戦い]])。その後、秀吉死去のため清正軍も[[李氏朝鮮|朝鮮]]から撤退。▼
▲[[文禄・慶長の役#慶長の役|慶長の役]]では講和破談後の主君・清正は、加藤重次、[[飯田
清正の死後は、肥後加藤氏の2代・[[加藤忠広|忠広]]を支える大老5人の一人となった。後に[[隠居]]して子の與平次改め重季に佐敷城代を譲る(継嗣なし、二代藩主忠広公改易後忠広末子與七郎養子ニ入ル)佐敷に前主・清正の福報祈願の為[[実照寺]]を再興し、また移墓を建立する。他にも重次、弥一郎の母のため佐敷に[[来迎寺]]を再興する。▼
▲清正の死後は、
== 関連項目 ==
*[[渋谷氏]]
{{DEFAULTSORT:かとう しけつく}}
[[Category:尾張加藤氏|臣しけつく]]▼
[[Category:戦国武将]]
[[Category:熊本藩士]]
[[Category:1560年生]]
[[Category:1613年没]]
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