削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
 
2行目:
| 芸名 = 三船 敏郎
| ふりがな = みふね としろう
| 画像ファイル = StrayToshiro Dog59Mifune 1954 Scan10003 160913.pngjpg
| 画像サイズ = 220px
| 画像コメント = [[野良犬 (映画)|野良犬]]』([[19491954年]]
| 本名 = 三船 敏郎{{efn|name="Gendai"|三船敏郎の墓には『三'''舩'''家』と刻されている<ref>『週刊現代』2012年7月21日・28日号、カラーグラビア 有名人の墓所。</ref>。}}
| 本名 = 同じ
| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合記載。愛称の欄ではありません。 -->
| 別名 =
| 出生地 = {{CHN1912JPN}}・[[膠州湾租借地]](現・[[中華人民共和国|中国]][[山東省 (中華民国)|山東省]][[青島市]]
| 死没地 = {{JPNJPN1947}}・[[東京都]][[三鷹市]]{{R|zakzak}}
| 国籍 = {{JPN}}<!-- 中国生まれなので必要 --><!--「出生地」からは推定できないときだけ -->
| 国籍 = {{JPN}}
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 -->
| 民族 = [[日本人]]
| 身長 =
| 血液型 = [[ABO式血液型|O型]]
| 生年 = 1920
18 ⟶ 19行目:
| 没月 = 12
| 没日 = 24
| 職業 = [[俳優]]・[[映画プロデューサー]]・[[映画監督]]
| ジャンル = [[映画]]・[[テレビドラマ]]
| 活動期間 = [[1947年]] - [[19951997年]]
| 活動内容 =
| 活動内容 = [[1947年]]:デビュー<br />[[1962年]]:[[三船プロダクション]]設立<br />[[1965年]]:[[東宝]]より独立<br />[[1981年]]:[[三船芸術学院]]設立<br/>[[1997年]]:死去
| 配偶者 = [[吉峰幸子]]([[1950年]] - [[1月5日1995年]] -
| 著名な家族 = 父:[[三船徳造史郎]](長男)<br />妻:吉峰幸子三船武志(次男)<br />長男:[[三船史郎力也]](孫)<br />妾:[[喜多川美佳]]<br />娘:[[三船美佳]]<br />孫:三船力也(非嫡出子)
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = <!-- 発表年順。 -->'''日本映画'''<br />『[[銀嶺の果て]]』/『[[醉いどれ天使]]』<br />『[[野良犬 (1949年の映画)|野良犬]]』/『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』<br/>『[[七人の侍]]』/『[[宮本武蔵 (1954年の映画)|宮本武蔵]]』<br />『[[蜘蛛巣城]]』/『[[無法松の一生 (1958年の映画)|無法松の一生]]』<br />『[[隠し砦の三悪人]]』/『[[日本誕生]]』<br />『[[悪い奴ほどよく眠る]]』/『[[用心棒]]』<br />『[[天国と地獄 (映画)|天国と地獄]]』/『[[赤ひげ]]』<br />『[[太平洋奇跡の作戦 キスカ]]』<br />『[[日本のいちばん長い日#1967年版の映画|日本のいちばん長い日]]』/『[[黒部の太陽#映画|黒部の太陽]]』<br />『[[連合艦隊司令長官 山本五十六]]』<br />『[[日本海大海戦]]』/『[[上意討ち 拝領妻始末]]』<br />『[[風林火山 (映画)|風林火山]]』/『[[新選組 (1969年の映画)|新選組]]』<br />『[[待ち伏せ (映画)|待ち伏せ]]』/『[[制覇]]』<br />『[[男はつらいよ 知床慕情]]』<br />『[[千利休 本覺坊遺文]]』<hr />'''海外映画'''<small>※日本との合作含む</small><br />『[[価値ある男]]』/『[[太平洋の地獄]]』<br />『[[レッド・サン]]』/『[[ミッドウェイ (1976年の映画)|ミッドウェイ]]』<br/>『[[1941 (映画)|1941]]』/『[[武士道ブレード]]』<hr />'''テレビドラマ'''<br />『[[大忠臣蔵 (1971年のテレビドラマ)|大忠臣蔵]]』/『[[荒野の素浪人]]』<br/>『[[荒野の用心棒 (テレビドラマ)|荒野の用心棒]]』/『[[将軍 SHŌGUN]]』
| 主な作品 =『[[酔いどれ天使]]』<br />『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』<br />『[[七人の侍]]』<br />『[[蜘蛛巣城]]』<br />『[[用心棒]]』『[[椿三十郎]]』<br />『[[座頭市と用心棒]]』
| アカデミー賞 =
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[ヴェネツィア国際映画祭 男優賞|男優賞]]'''<br />[[1961年]]『[[用心棒]]』<br />[[第26回ヴェネツィア国際映画祭|1965年]]『[[赤ひげ]]』
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| セザグラミ賞 =
| エミー賞 =
| ジェミニ賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| グラジェ賞 =
| セザール賞 =
| ブルーリボン賞 = '''主演男優賞'''<br />[[1951年]]『馬喰一代』<br />[[1961年]]『用心棒』<br />[[1965年]]『赤ひげ』<br />'''助演男優賞'''<br />[[1987年]]『男はつらいよ 知床慕情』
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 = '''会長特別賞'''<br />[[第18回日本アカデミー賞|1994年]]<br />[[第21回日本アカデミー賞|1997年]]
| その他のブルーリボン賞 = '''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''主演男優賞'''<br />[[19571951]]『[[蜘蛛巣城馬喰一代]]』<br />1961年『用心棒』『[[下町 (映画)|下町価値ある男]]』、『[[どん底<br (1957/>1965の映画)|どん底]]『赤ひげ』<br />[[ヴェネツィア国際映画祭]]銀獅子'''助演男優'''<br />[[キネマ旬報|キネマ旬報1987年『男はつらいよ 知床慕情』<br />'''特別]]'''<br />[[紫綬褒章]]1961年[[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]1966年
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| その他の賞 = '''[[キネマ旬報ベスト・テン]]'''<br />'''主演男優賞'''<br />[[キネマ旬報#第35回(1961年度)|1961年]]『用心棒』『[[大坂城物語]]』<br />[[キネマ旬報#第42回(1968年度)|1968年]]『[[黒部の太陽#映画|黒部の太陽]]』『[[祇園祭 (1968年の映画)|祇園祭]]』『[[連合艦隊司令長官 山本五十六]]』
| 備考 =
}}
'''三船 敏郎'''(みふね としろう、[[1920年]]〈[[大正]]9年〉[[4月1日]] - [[1997年]]〈[[平成]]9年〉[[12月24日]])は、[[日本]]の[[俳優]]・[[映画監督]]・[[映画プロデューサー]]。本名は同じ{{efn|name="Gendai"}}。[[第二次世界大戦]]後の[[日本映画]]を代表する名優のひとりで、[[黒澤明]]監督作品への出演で知られる{{R|映画大事典}}。国際的にも知名度が高く、[[1960年代]]以降は日本国外の映画にも出演した。[[1961年]]と[[1965年]]には[[ヴェネツィア国際映画祭]]で[[ヴェネツィア国際映画祭 男優賞|男優賞]]を受賞した。
 
== 来歴 ==
'''三船 敏郎'''(みふね としろう、[[1920年]][[4月1日]] - [[1997年]][[12月24日]])は、[[日本]]の[[俳優]]、[[映画監督]]。
=== 誕生から終戦まで ===
[[File:Mifune-Toshiro-1.jpg|thumb|160px|left|1921年。満1歳のときの写真]]
[[1920年]][[4月1日]]([[木曜日]])、[[中国]][[山東省 (中華民国)|山東省]]の[[青島市|青島]]に、父・徳造と母・センの長男として生まれた{{Sfn|松田|2014|p=16}}。三船が生まれた翌年に次男の芳郎、4年後に長女の君子が生まれた{{Sfn|小林|2019|pp=24-25}}。徳造は[[秋田県]][[由利郡]][[川内村 (秋田県)|川内村]]小川(現在の[[由利本荘市]][[鳥海町]]小川)の漢方医の息子で、[[満州]]に渡って貿易商や写真師となり、青島と[[営口]]で三船写真館を経営していた{{Sfn|小林|2019|pp=24-25}}<ref>{{Cite web |url=https://www.sankei.com/article/20150719-KJJMNDY4AZK6RMVMDRUJJNU7RM/ |title=満州文化物語 (2) 「世界のミフネ」育てた写真館 「昔の面影すらないじゃないかっ」…変わり果てた街に絶句 |date=2015/7/19 |website=産経新聞 |accessdate=2020年10月11日}}</ref>。母は[[新潟県]]の[[旗本]]だった家柄の生まれである{{Sfn|松田|2014|p=16}}。[[1925年]]に家族は日本の[[租借地]]だった[[大連市|大連]]に移住したが、市内で転居が続き、それに伴い伏見小学校、聖徳小学校、朝日小学校と転校した{{Sfn|小林|2019|pp=24-25}}。[[1934年]]に三船は大連中学校に入学したが、徳造が病気で入院することが多くなると、彼が経営するスター写真館([[1929年]]に満州の連鎖商店街で開業{{Sfn|映画秘宝|2018|pp=24-29}})の仕事を手伝うようになった{{Sfn|小林|2019|p=26}}。父の目が届かなくなったことで、三船は盛り場で遊んで朝帰りをしたり、映画をたくさん見たりするなど、やりたい放題な生活を送った{{Sfn|小林|2019|p=26}}{{Sfn|三船|佐藤|1987|pp=138-139}}。
 
[[File:Mifune-Toshiro-3.jpg|thumb|180px|1939年、大連で撮影]]
[[ヴェネツィア国際映画祭 男優賞]]を2度受賞し、「世界のクロサワ」の[[黒澤明]]と共に「'''世界のミフネ'''」と呼ばれた。[[アメリカ合衆国の映画|米映画]]『[[グラン・プリ]]』、70mm『太平洋の地獄 Hell in the Pacific』、[[フランスの映画|仏映画]]『[[レッド・サン]]』など海外作品出演も多数。稼ぎも歴代の日本のスターの中で別格であり、経営する[[三船プロダクション]]は[[東京都|東京]][[世田谷区]]に大手の映画会社に次ぐ規模の[[スタジオ]]を所有し、大勢のスタッフを常時雇用していた。
大連中学校を卒業した三船は、[[1940年]]に[[徴兵検査]]で甲種合格となり、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]に応召された{{Sfn|映画秘宝|2018|pp=24-29}}。三船は[[広島市|広島]]の[[広島港|宇品港]]に招集され、初めて日本の土を踏んだが、すぐに貨物船に乗って満州に逆戻りし、[[公主嶺市|公主嶺]]にある陸軍第七航空教育隊に入隊した{{Sfn|映画秘宝|2018|pp=24-29}}{{Sfn|三船|佐藤|1987|pp=138-139}}。三船はさまざまな軍事訓練を受けたが、「鬼も泣く[[関東軍]]」と呼ばれた航空教育隊での上官のしごきは凄まじく、何かにつけて殴られ、声がデカイというだけで殴られることもあった{{Sfn|松田|2014|p=17}}。同隊で三船は写真の経験と知識があることから、写真部に配属された{{Sfn|小林|2019|p=27}}。
 
[[File:Mifune-Toshiro-2.jpg|thumb|180px|1943年]]
元俳優で映画プロデューサーの[[三船史郎]]は本妻(元女優の[[吉峰幸子]])との、タレントの[[三船美佳]]は内縁の妻(女優の[[喜多川美佳]])との間にできた子供。
[[1941年]]、三船は[[牡丹江市|牡丹江]]の第八航空教育隊に転属となったが、すでに引き揚げ準備が進行していたため日本に戻り、[[滋賀県]]の[[八日市飛行場]]に写真工手として配属された{{Sfn|三船|佐藤|1987|pp=138-139}}{{Sfn|小林|2019|pp=28-29}}。三船は[[偵察機]]が[[赤外線カメラ]]で撮影した航空写真を組み合わせ、敵地の地図を作成するという仕事に従事し、戦地に赴くことはなかった{{Sfn|松田|2014|p=17}}{{Sfn|小林|2019|pp=28-29}}。しかし、三船は上官に対して反抗的な態度を取っていたため、終戦まで[[上等兵]]のまま過ごした{{Sfn|松田|2014|p=17}}。三船は炊事場の責任者でもあり、よく仲間のために料理を作って酒盛りを始め、酔うと必ず[[バートン・クレーン]]の「酒が飲みたい」を唄った<ref>{{cite web |date=2008-12-19 |url= http://www.shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0000273 |title=八日市飛行場での「三船像」探る 『世界のミフネ』の航空兵時代 |publisher=[[滋賀報知新聞]] |accessdate=2020年3月29日}}</ref>{{R|うしお}}。後輩兵だった鷺巣富雄([[うしおそうじ]])によると、古参兵の三船は初年兵をよくかばったりするなど面倒見がよく、少年兵がいじめられているのも見過ごせず、上官が相手でも「お互い階級章を外して、人間対人間で行こう」と喧嘩腰になったこともあったという{{R|うしお}}{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=42-43}}。
 
[[1945年]]、三船は[[熊本県]][[上益城郡]](現在の[[熊本市]][[南区 (熊本市)|南区]][[城南町]]隈庄)の小さな[[特攻隊]]基地である隈庄飛行場の飛行第百十戦隊に配属された{{Sfn|映画秘宝|2018|pp=24-29}}。そこで[[沖縄]]の特攻作戦に向かう少年航空兵たちを教育し、彼らが出陣する前に遺影を撮影した{{Sfn|映画秘宝|2018|pp=24-29}}{{Sfn|小林|2019|pp=28-29}}。三船は料理の事務もしていたため、翌日に出撃する少年兵のために、なけなしの食糧から[[すき焼き]]を作って食べさせたり、酒を飲ませたり、[[メタンフェタミン#ヒロポン|ヒロポン]]を打って興奮状態にさせたりして送り出した{{Sfn|三船|佐藤|1987|pp=140-141}}。少年兵が飛び立つ時には、「『天皇陛下万歳!』なんて言うな。恥ずかしくないから『お母ちゃん!』と叫べ」と言ったという{{Sfn|松田|2014|p=18}}。やがて沖縄の特攻隊基地が手薄になり、同地に派遣されることが決まったが、その矢先に8月15日の終戦を迎えた{{Sfn|小林|2019|pp=28-29}}。それまでに両親は亡くなり、弟の芳郎も招集されたため行方が分からず、妹の君子も安否不明だった。それ以外の親戚もおらず、大連の写真館も爆撃で焼け落ちていたため、三船には帰る場所と迎えてくれる家族がいなかった{{Sfn|小林|2019|pp=28-29}}{{Sfn|松田|2014|p=20}}。
== 来歴・人物 ==
[[中華民国]]・[[山東省]][[青島市|青島]]で貿易商、[[写真]]業を営む三船徳造の長男として生まれる。父は[[秋田県]][[鳥海町]]出身。若い頃からワルだったと言う。その後[[大連市|大連]]に移り住み、大連中学卒業後、[[徴兵検査#内容|甲種合格]]で兵役につく。写真の経験・知識があるということから[[満洲国]]・公主嶺の[[大日本帝国陸軍|陸軍]]第七航空教育隊に配属され[[航空写真]]を扱う[[偵察機|司令部偵察機]]の偵察員となる。後年もカメラに対するこだわりは深かったという。
 
=== 東宝ニューフェイス ===
その後滋賀県八日市の「中部九八部隊・第八航空教育隊」に写真工手として配属され、[[1943年]]に同部隊に現役入隊した[[うしおそうじ|鷺巣富雄]]とは、その後生涯にわたる交友関係となった。鷺巣は三船の写真技術の高さを認め、[[円谷英二]]、[[大石郁雄]]と並んでの映画界の師と仰いでいる。
終戦で除隊した三船は、軍隊から二枚の毛布を貰い、汽車に乗って原隊の滋賀県まで向かった{{Sfn|三船|佐藤|1987|pp=140-141}}。しばらく[[琵琶湖]]辺りで遊んでいたが、東京出身の初年兵に誘われて[[田園調布]]に居着いたあと、兵隊仲間と[[横浜市|横浜]]の[[磯子]]で生活し、芳郎や君子と再会した{{Sfn|三船|佐藤|1987|pp=140-141}}{{Sfn|松田|2014|p=21}}。その後、芳郎は[[明治大学]]に進学したあと自衛隊に入隊し、君子は[[ハワイ]]に住む[[日系人]]と結婚した{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|p=91}}。三船は横浜で[[進駐軍]]が飲む[[コカ・コーラ]]の原液が入ったドラム缶を運ぶ肉体労働に従事していたが、それだけでは将来が不安なため、[[東宝スタジオ|東宝撮影所]]撮影部に所属する[[大山年治]]を訪ねた{{Sfn|三船|佐藤|1987|pp=140-141}}。大山は三船の航空教育隊時代の先輩兵で、当時大山に「満期除隊したら俺を訪ねてこい、撮影助手に使ってやるから」と誘われていたが、戦況の悪化で満期除隊がなくなり、その話は口約束のままとなっていた{{R|うしお}}{{Sfn|小林|2019|pp=31-32}}。大山を訪ねた三船は、約束の撮影助手採用を頼み込んだが、東宝撮影部は定員がいっぱいで空きがなかった{{Sfn|小林|2019|pp=31-32}}。そこで大山は、ちょうど募集していた第1回[[東宝ニューフェイス]]に合格して入社すれば、あとで空きが出たときに撮影部に入れてあげると助言し、三船はその言葉を信じて渋々ニューフェイスの試験を受けることに決めた{{Sfn|松田|2014|pp=21-22}}。
 
[[1946年]]6月、三船はニューフェイスの面接試験を受けたが、審査員に「泣いてみろ」と言われても「悲しくないのに泣けません」と言い返したりするなど、不機嫌な態度を取ったため顰蹙を買った{{Sfn|松田|2014|pp=21-22}}{{Sfn|三船|佐藤|1987|pp=141-142}}。試験会場に居合わせた[[高峰秀子]]によると、三船の振る舞いはほとんど無礼に近く、審査員の質問にはロクに返事もしなかったというが、そんな三船のふてくされた態度は「照れ隠しだった」としている<ref>{{Cite book |和書 |author=高峰秀子|authorlink=高峰秀子|title=わたしの渡世日記 (上) |publisher=[[新潮社]] |date=2012 |isbn=978-4101369815 |series=新潮文庫 |pages=295-296}}</ref>。最終的に三船は補欠で採用されることになり、応募者4000人の中から選ばれた、男性16人、女性32人の合格者の一人となった{{Sfn|三船|佐藤|1987|pp=140-143}}{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=94-95}}。同期には[[堀雄二]]、[[伊豆肇]]、[[堺左千夫]]、[[久我美子]]、[[若山セツ子]]、[[岸旗江]]、のちに三船の妻となる[[吉峰幸子]]などがいた{{Sfn|小林|2019|pp=34-37}}。しかし、三船のニューフェイス採用の経緯については諸説ある。
{{和暦|1940}}、三船はこの「中部九八部隊」で、先輩兵である[[大山年治]]([[東宝]]撮影所撮影部所属)から、「俺はこの3月に満期除隊となるが、来年はお前の番だ、満期になったら砧の撮影所へ来い。撮影助手に使ってやる」と誘われた。が、戦況が逼迫し、満期除隊は無くなってしまったため、以後敗戦まで6年間を「古参[[上等兵]]」のまま過ごすこととなった。戦争末期には[[熊本市|熊本]]の[[隈之庄]]の[[特攻隊]]基地に配属され、特攻兵の遺影(生前に撮る)の撮影に従事する。
 
[[黒澤明]]によると、審査委員長の[[山本嘉次郎]]は三船を推していたが、当時の東宝は[[労働組合]]の発言力が強く、審査委員も映画製作者側と組合側の半数ずつで構成されており、その投票による決議で不合格となったため、黒澤たちが「俳優の資質を見極めるのに専門家と門外漢(組合側)が同じ一票ではおかしい」と抗議し、結局山本が「監督として責任を持つ」と発言したことで合格になったという{{Sfn|黒澤|1990|pp=295-297}}。東宝宣伝部の斎藤忠夫も、三船採用を山本が唱え出したが、反対を唱える人もおり、山本の主張を後押ししたのは黒澤などだったとしている{{Sfn|映画秘宝|pp=45-46}}。
{{和暦|1945}}、特攻隊基地で終戦を迎える。三船は大山との約束をもとに、復員服のまま大山のもとを訪ね、撮影助手採用を願い出た。ところが、本土復員に伴う復帰社員が増加し、縁故採用が難しくなっていたため、大山は三船に「とりあえず第一回ニューフェイス募集をしてるから受けてみろ、貴様の面なら合格するはずだ、入ってしまいさえすれば撮影助手に呼べるからな」と手配。こうして不本意ながら俳優志望として面接を受けることになった<ref>うしおそうじ「夢は大空を駆けめぐる」角川書店刊より。「酒が飲みたい」のエピソードもこの文献から。うしおは三船一周忌の「偲ぶ会」で大山年治と会って直接この話を本人から聞いており、この際にTV番組「知ってるつもり」の三船特集の取材を受けている。</ref>。本意でないため、面接では審査員に「笑ってみて」と言われた際に、「面白くもないのに笑えませんよ」と答えるなど、人を食った態度を取り、不合格になりかけた。
 
撮影監督の[[山田一夫]]によると、大山に紹介された三船を見て、頑丈そうな体格のため撮影部で使えると思い、山本に頼んで試験を受けさせたが不合格となり、審査員の一人である撮影監督の[[三浦光雄]]とともに再度山本に採用を頼み、「ニューフェイスの末席にでも彼を置いて欲しい、撮影助手が必要になれば撮影部で引き受けるから」ということで話がつき、採用されたという<ref>「国際スター三船敏郎 その偉大なる愛」(『浪漫工房』第8号、1995年)所収の[[山田一夫]]へのインタビュー。{{Harvnb|小林|2019|pp=36-37}}に該当文が引用されている。</ref>。撮影課の前田実によると、三船の採否で糾弾していた時に、三船の本当の人柄を知る大山の証言を山本に伝えたのが採用につながったとしている{{Sfn|映画秘宝|pp=45-46}}。三船本人によると、一回不合格となったあと、三浦の口添えでもう一回試験をすることになったというが{{Sfn|映画秘宝|pp=45-46}}、山本が拾ってくれたことについては否定し、「山嘉次先生(山本嘉次郎)は僕を落としたほうですよ。態度悪いと言って…」と述べている{{Sfn|三船|佐藤|1987|pp=140-143}}。
ところが、[[山本嘉次郎]]監督が審査委員長をしていた中、山本の弟子ともいえる[[黒澤明]]がたまたまそれを目撃した。当時の審査委員会は監督など映画製作の専門家と[[労働組合|労組]]代表の半数ずつで構成されており、黒澤は「俳優の素質を見極めるのに専門家と門外漢が同じ一票ではおかしい」と抗議。結局山本が「彼を採用して駄目だったら俺が責任をとる」と発言し、なんとか及第となる。太々しさの中に見える大器の可能性も買われて補欠採用され、思わぬ形で役者の世界に入った。
 
=== 映画俳優としての活躍 ===
{{和暦|1947}}に黒澤が脚本、黒澤の盟友・[[谷口千吉]]が監督をつとめた映画『[[銀嶺の果て]]』でデビュー。雪山で遭難する3人のうちの一人を演ずるが、2人目は[[志村喬]]だった。
[[File:Sekai-Geino-Gaho-1954-May-2.jpg|thumb|190px|『[[七人の侍]]』(1954年)]]
[[File:Kinema-Junpo-1961-October-late-1.jpg|thumb|220px|『[[用心棒]]』の演技により[[ヴェネツィア国際映画祭]]の[[ヴェネツィア国際映画祭 男優賞|男優賞]]を受賞。三船と黒澤明(1961年9月7日)]]
1946年7月、三船は[[田中栄三]]が校長を務める俳優養成所に入り、半年の養成期間を過ごした{{Sfn |小林|2019|pp=39-40}}。その間に[[斎藤寅次郎]]監督の『婿入り豪華船』に[[エキストラ]]での出演が決まり、井戸の中に落ちる男性の役を貰ったが、三船の体重が重すぎて[[釣瓶]]が持ち上がらず、役を交代させられた{{Sfn|映画秘宝|pp=45-46}}。しかし、折から[[東宝争議]]が突入して多くのスター俳優が退社したため、三船などのニューフェイスが早くも主演級で起用されるチャンスが生まれた{{Sfn|映画秘宝|pp=45-46}}。三船のデビュー作は[[谷口千吉]]監督・黒澤明脚本の『[[銀嶺の果て]]』(1947年)で、雪山に逃げ込む銀行強盗三人組のひとりという主演級の役を演じた{{Sfn|小林|2019|p=71}}。谷口によると、三人組のうちの若い男のキャスティングに悩んでいたとき、偶然[[小田急小田原線|小田急]]の電車内で三船を見かけたのがきっかけで起用を決めたという<ref>「国際スター三船敏郎 その偉大なる愛」(『浪漫工房』第8号、1995年)所収の[[谷口千吉]]へのインタビュー。{{Harvnb|小林|2019|pp=71-72}}に該当文が引用されている。</ref>。三船は谷口のオファーに対して「僕は俳優になる気がありません。男のくせに、ツラで飯を食うというのはあまり好きじゃないんです」と断ったが{{Sfn|松田|2014|p=25}}、谷口は当時着る物をほとんど持っていなかった三船に背広を新調してプレゼントするという条件を出して説得し、それで三船は出演を決めた{{Sfn|小林|2019|pp=72-73}}。
 
{{和暦|[[1948}}年]]、デビュー3作目として黒澤監督『[[いどれ天使]]』に、主役の一人として破滅的な生き方をするチンピラヤクザ役で登場した。主演は医師役志村だったが作品により三船はスターとなる。しかしぎらぎら[[東宝争議]]が激化した野性味あふため撮影部転属を諦め、黒澤、志村と共に『酔いど天使』の舞台実圧倒、一躍人気が上昇全国を巡業する。
 
以後、三船は15本の黒澤映画に主演した。『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』は[[ヴェネチア国際映画祭]]でグランプリにあたる[[金獅子賞]]を受賞し、『[[七人の侍]]』では[[英国アカデミー賞 主演男優賞|英国アカデミー賞主演男優賞]]にノミネートされ、『[[用心棒]]』と『[[赤ひげ]]』ではヴェネツィア国際映画祭[[ヴェネツィア国際映画祭 男優賞|男優賞]]を受賞する等、世界的に高い評価を獲得した。黒澤は三船に自分の演じたいように演じさせており、三船が立てた演技プランを採用することも多かった{{R|座談会|sponichi1}}。『[[七人の侍]]』で演じた菊千代の演技プランも、三船のアイデアによるものだった{{R|sponichi1}}。[[野上照代]]によると、撮影中でも黒澤は三船の演技に注文をつけたことは無く、およそ、批判的な眼で三船を見ることは無かったという<ref>{{Cite book |和書 |author=野上照代|authorlink=野上照代 |date=2014-1 |title=もう一度 天気待ち 監督・黒澤明とともに |publisher=[[草思社]] |page=64}}</ref>。
その後、黒澤作品には欠かせぬ存在となり『酔いどれ天使』から『[[赤ひげ]]』までの16年間で出演しなかった黒澤映画は『[[生きる (映画)|生きる]]』1作のみである。現代劇、時代劇問わぬ黒澤映画の顔であったが、黒澤との確執も伝えられた。三船の死後、黒澤は「会って、三船君、本当によくやったなあ、と褒めてあげたかった。あんな素晴らしい俳優はもういません」とコメントした(ちなみに、三船の死から半年後に黒澤も死去)。
 
=== 海外からのオファー ===
黒澤作品以外にも[[稲垣浩]]監督の『戦国無頼』(1952年)、『宮本武蔵』(1954年)、『[[無法松の一生]]』(1958年)、[[岡本喜八]]監督の『[[侍 (映画)|侍]]』(1965年)、『赤毛』(1969年)、[[熊井啓]]監督の『[[千利休 本覺坊遺文]]』(1989年)など数多くの作品に主演。初期のころは『七人の侍』の影響か豪放な役が多かったが、その後戦国武将や[[東郷平八郎]]・[[山本五十六]]といった軍人・偉人の役が多くなった。
[[ファイル:Still cinematografico de animas trujano 2.jpg|thumb|220px|『[[価値ある男]]』(1961年)の三船(中央)。]]
『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』『[[七人の侍]]』『[[用心棒]]』『[[赤ひげ]]』などで黒澤明とともにその名が世界中に知れ渡った三船敏郎は世界中からオファーが舞い込むようになる。海外からの出演依頼はものすごい数になったと言われており、共演を熱望するスターも多かったが、三船は日本映画の出演を優先し、ほとんどの依頼を断っている{{R|cinema-magazine}}。
 
[[1961年]]、初の海外主演作品となるメキシコ人監督[[イスマエル・ロドリゲス]]による『[[価値ある男]]』にメキシコ人役で主演。この映画は主人公のメキシコ人を日本人が演じるという奇抜なアイデアであるにもかかわらず、1962年の[[アカデミー賞]]に外国語映画部門でノミネート、1961年に『[[用心棒]]』と併せて[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]で主演男優賞を受賞、日本映画記者会賞最優秀男優賞受賞、1962年の[[ゴールデングローブ賞]]に外国語映画部門でシルバーグローブを受賞、同じく1962年の[[サンフランシスコ国際映画祭]]でベスト・フィルム部門でゴールデン・ゲート・アワードを受賞するなどの結果を出す。また、この時の国際的活躍により[[1961年]]ブルーリボン賞特別賞を受賞した。
晩年は[[山田洋次]]監督『[[男はつらいよ 知床慕情]]』(1987年)の頑固者の老[[獣医師]]や、[[市川崑]]監督の『[[竹取物語]]』(1987年)の竹の造翁など、渋い演技を見せた。撮影に入る前に台詞・演技を全て体に覚えさせ、撮影に台本を持参しないことも多い、という高いプロ意識でも知られた。
 
[[1966年]]、3部門でアカデミー賞を受賞したカーレース映画『[[グラン・プリ]]』で初めてハリウッド映画に出演し、この際のステージ建設で示した日本映画人としての情熱を評価されてブルーリボン賞特別賞を受賞した。その後も、『[[太平洋の地獄]]』や『[[レッド・サン]]』、『[[太陽にかける橋/ペーパー・タイガー]]』などで海外のスターと共演する。
{{和暦|1950}}、東宝第一期ニューフェイスで同期だった女優・[[吉峰幸子]]と結婚。その後、女優・[[喜多川美佳]]との交際が発覚して幸子夫人と別居。実態は[[家庭内暴力]]に悩まされた幸子夫人により、三船が追い出された形だったが、本心は三船の改心を望んでいたという。しかし、三船側より離婚訴訟が起こされるに及んで、家庭内の振る舞いが暴露されることになり、そのイメージが大きく低下した。この間、内縁関係にあった喜多川との間にもうけた娘が[[三船美佳]]であるが、美佳とかなり年が離れているため、親子というよりはむしろ孫と祖父に見られる事も多かったと言う。不倫相手の名前である「美佳」を子供にそのまま付けるという皮肉な結果となった(ただし喜多川美佳という名前は本名ではない)。{{和暦|1992}}に[[心筋梗塞]]で倒れたのをきっかけに、三船は正妻のもとに戻った。
 
=== 三船プロダクション時代 ===
{{和暦|1961}}、初の海外主演作品となるメキシコ人監督[[イスマエル・ロドリゲス]]による『[[価値ある男]]』にメキシコ人役で主演。この映画は、主人公のメキシコ人を日本人が演じるという奇抜なアイデアであるにもかかわらず、1962年の[[アカデミー賞]]に外国語映画部門でオスカー賞にノミネート、1961年に『[[用心棒]]』と併せて[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]で主演男優賞を受賞、1962年の[[ゴールデングローブ賞]]に外国語映画部門でシルバーグローブを受賞、同じく1962年の[[サンフランシスコ国際映画祭]]でベスト・フィルム部門でゴールデン・ゲート・アワードを受賞するなどの結果を出し、以後国際俳優としての才能を発揮し始める。
[[File:Toshiro_Mifune_wearing_bandana.jpg|thumb|220px|『[[太平洋の地獄]]』撮影中の三船敏郎(1968年)。]]
{{see also|三船プロダクション}}
[[1962年]]、日本映画産業の再興のために、[[三船プロダクション]]を設立して、翌年には[[兵庫県]][[宝塚市]]にある[[宝塚映画]](現・宝塚映像)にて、映画『[[五十万人の遺産]]』を自らの主演で初監督した。『[[五十万人の遺産]]』は[[1963年]]の日本映画の興行成績で7位となるが、唯一の監督作品となった。
 
[[1966年]]、東京都世田谷区[[成城]]と調布市入間町にまたがる敷地に、時代劇も撮影できるオープンセットのある撮影所を建設。五大映画会社並みの規模のプロダクションとなる。
{{和暦|1962}}、[[三船プロダクション]]を設立し、翌年には映画『[[五十万人の遺産]]』を自らの主演で初監督。映画『[[黒部の太陽]]』([[石原プロモーション]]と合同で制作)のほか、『[[桃太郎侍]]』『[[荒野の素浪人]]』『大忠臣蔵』などテレビドラマを制作した。[[1979年]]に内紛で分裂し、その後は振るわなかった。
 
[[1968年]]には、[[三船プロダクション]]と[[石原プロモーション]]の合同制作の映画『[[黒部の太陽#映画|黒部の太陽]]』を主演。[[1969年]]、監督に[[稲垣浩]]を迎えて、中村錦之助、石原裕次郎らとともに『[[風林火山 (映画)|風林火山]]』を作った。この2作品はそれぞれ、その年の日本映画の興行成績1位となる。
{{和暦|1986}}、[[紫綬褒章]]、[[1993年]]に勲三等[[瑞宝章]]を受章。
 
『[[桃太郎侍]]』([[1967年]]、[[日本テレビ系]]、主演:[[尾上菊五郎 (7代目)|四代目尾上菊之助]])を皮切りに、『[[荒野の素浪人]]』([[1972年]]、[[テレビ朝日|NET]]系)、『[[大忠臣蔵 (1971年のテレビドラマ)|大忠臣蔵]]』([[1971年]]、NET系)、[[萬屋錦之介]]主演『[[破れ傘刀舟悪人狩り]]』([[1974年]]、NET系)などのテレビドラマも制作した。
{{和暦|1988}}、第6回[[川喜多賞]]を受賞。
 
[[1975年]]、ドイツのミュンヘンで日本料理店「ジャパン・レストラン三船」<ref>{{Cite web |url=https://mifune-leipzig.de/ |title=Mifune Gastronomie GmbH – Eine weitere WordPress-Seite |publisher= |accessdate=2019-06-26}}</ref>をオープンし、経営した<ref>{{Cite web |url=http://www.asmik-ace.com/AmeAgaru/Cast.html#mifune |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160729050943/http://www.asmik-ace.com:80/AmeAgaru/Cast.html#mifune |archivedate=2016-07-29 |title=雨あがる ~キャスト・プロフィール~ |publisher=アスミック・エース |accessdate=2019-06-26}}</ref>。
{{和暦|1997}}、12月24日に[[全機能不全]]のため77歳にて死去。晩年は軽度の[[認知症]]を発症していたといわれ、[[週刊誌]]や[[ワイドショー]]等の話題となっていた。[[遺作]]は1995年の『[[深い河]]』(熊井啓監督)だった。
 
[[1977年]]から[[1978年]]には、『[[日本の首領]]シリーズ』で初めて[[東映]]作品に出演した。
== 逸話 ==
{{出典の明記|section=1}}
*自社の事務所の掃除も自ら進んでする(訪問者が三船本人と気付かなかったという逸話がある)程の掃除好きだった。また、料理が好きで、[[中島春雄]]によると、一ヶ月にも及ぶ宿泊がざらだった[[御殿場]]でのロケでは、三船が肉や野菜を買ってきて自ら包丁を振るい、大鍋で豚汁を作ってロケ仲間に振舞うのが恒例で、弁当は握り飯しか出なかった現場で大好評だったそうである<ref>「[[三大怪獣 地球最大の決戦]]」DVDでの[[中島春雄]]のコメンタリより</ref>。 また達筆でも知られた。 「中部九八部隊」で写真技術の指導を受けた[[うしおそうじ|鷺巣富雄]]によると、古参上等兵だった三船は兵隊仲間の面倒見がよく、うしおら初年兵をよくかばってくれたという。炊事班(こわもてが多い)に顔が利き、ビールや缶詰をよく調達してきてくれたといい、酔うと必ず[[バートン・クレーン]]の『[[酒が飲みたい]]』を唄うのが通例で、初年兵全員にこれを合唱させていた。
*一方で酒癖の悪さでも知られ、飲むと性格が一変した。酔って[[日本のタクシー|タクシー]]内で[[安藤昇]]に殴りかかり、逆に殴り返され、顔が腫れて翌日は撮影にならなかったこともある<ref>『自伝安藤昇』ぶんか社より</ref>。[[浜美枝]]は、三船について「お酒さえ入らなければ、本当にやさしくていい人なんですけどねえ」と語っている<ref>「[[ホラ吹き太閤記]]」DVDの[[浜美枝]]のコメンタリより</ref>。* 海外で空港税関係員に「Do you have any <span style="text-decoration:underline;">spirits</span>?(あなたは<span style="text-decoration:underline;">蒸留酒</span>を持っていますか?)」と質問され、「Yes! I have Yamato-Damashii!(そうだ、俺は<span style="text-decoration:underline;">大和魂</span>を持っている)」と堂々と答えたことがある{{要出典}}。
* [[1956年]]の東宝映画「[[ならず者(映画)|ならず者]]」([[青柳信雄]]監督)では主役を演じるとともに主題歌「[[山の男の唄]]」(作詞:[[佐藤一郎 (作詞家)|佐藤一郎]]、作曲:[[佐藤勝]]。[[コロムビアミュージックエンタテインメント|コロムビアレコード]]。1956年5月発売)を歌った。
* [[1954年]]に黒澤明監督の映画である『[[七人の侍]]』において菊千代を演じた際、実際の撮影現場は[[2月]]の真冬で、その上土砂降りの豪雨の中で地肌に鋼の鎧を着て殺陣を行った。しかし撮影後、三船は体調を崩し[[風邪]]を引いてしまい2週間寝込んだという{{要出典}}。
* 『[[山本五十六]]』を数多く演じたことでも知られる。ハリウッド映画・日本映画映画を含め、山本を演じた回数では現在でも三船がトップである。
* 映画の撮影の合間に[[東宝スタジオ|砧撮影所]]から自宅まで甲冑姿のまま車を運転して帰り、周囲の度肝を抜いた{{要出典}}。
* [[岡本喜八]]監督とはお互いの貧乏時代からの友人で、俳優と監督でのコンビだけでなく、喜八プロに三船プロのセットを融通したりの友情が長く続いたが、同じ下宿に済んでいたころ三船は繕い物が上手かったという{{要出典}}。
* [[1981年]]の[[TBSテレビ|TBS]]正月[[特別番組|特番]]ドラマだった『[[関ヶ原 (テレビドラマ)|関ヶ原]]』の宣伝の一環として『[[8時だョ!全員集合]]』にゲスト出演。『関ヶ原』出演時と同じ鎧兜を付け、「石田家軍師[[島左近]]」として番組冒頭の[[コント]]劇に出演し、同じく戦国武将役の[[いかりや長介]]率いる部隊の窮地を救う役を演じる。その後、いかりやと二言三言の会話を交わし、三船が「カラスの歌を聞きたい」と言ったのでいかりやは[[志村けん]]を三船の前に呼び出して「♪カラスの勝手でしょ~」を歌わせた。三船は舞台袖に退場したが、その途中で突如、同番組名物だった[[ヒゲダンス]]を披露。客席からは笑いや悲鳴のような歓声、そして深いどよめきが起きた。いかりやは舞台上で「ああいう人が、ああいうことをやるなんて…」と真顔で驚嘆した。また三船は冒頭コント劇の後で「少年少女合唱隊」にも出演し、早口言葉コーナーでは真顔でドスの効いた声で「生麦生米生卵…」と歌い、さらには'''「生麦生米生ビール!」'''とボケてみせた。
* 娘の[[三船美佳]]が『[[ダウンタウンDX]]』で披露したプライベートビデオには、美佳相手にだじゃれを言う三船の姿が映し出されていた。
* 三船が逝去した際、[[フランス|フランス共和国]]と[[イタリア|イタリア共和国]]の[[国営放送]]の[[テレビ]][[ニュース]][[番組]]が『トシロー・ミフネの死去』をトップニュースで報じた。外国報道機関がトップニュースで日本の俳優の死去を報じたのは過去に例がない出来事だった{{要出典}}。
 
1984年に三船プロの撮影所を閉鎖し、経営縮小を余儀なくされたが、現在も三船プロダクションは小規模ながら活動している。
== 「世界のミフネ」 ==
[[1951年]]に『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』が[[ヴェネツィア国際映画祭]]で[[金獅子賞]]を受賞し、クロサワとともにミフネの名も世界に知れ渡った。[[1961年]]に初の海外作品『価値ある男』(メキシコ映画)ではメキシコ人役で主演。その後の海外の名優との競演は、以下の作品などが挙げられる。
 
=== 結婚と離婚裁判 ===
*1967年『[[グラン・プリ]]』([[ジョン・フランケンハイマー]]監督)[[イヴ・モンタン]]、[[ジェームズ・ガーナー]]
三船は[[1950年]]、東宝第一期ニューフェイスで同期だった女優・吉峰幸子と結婚、同年に息子の[[三船史郎]]をもうける。幸子は四十五年にわたる結婚生活を、「次男坊(武志)が十歳になるくらいまではよかった」と、友人に語っており、[[1970年]]あたりまで夫婦関係は順調だったことがうかがえる<ref>「墓碑銘:「世界のミフネ」の妻 幸子さんの愛憎四十五年」『週刊新潮』1995年10月5日号、新潮社。</ref>。1970年代に入ると夫婦関係は冷め切ったものとなり、三船の酒乱に悩まされた幸子により、三船は家から追い出される。
*1968年『太平洋の地獄』([[ジョン・ブアマン]]監督)[[リー・マーヴィン]]
*1971年 フランス映画『[[レッド・サン]]』([[テレンス・ヤング]]監督)[[アラン・ドロン]]、[[チャールズ・ブロンソン]]
*1976年『[[ミッドウェイ (映画)|ミッドウェイ]]』[[チャールトン・ヘストン]]、[[ヘンリー・フォンダ]]、[[ロバート・ミッチャム]]、[[グレン・フォード]]
*1976年『[[太陽にかける橋 ペーパータイガー]]』[[デビッド・ニーブン]]、[[ハーディ・クリューガー]]
*1979年『[[ウィンターキルズ]]』[[ジェフ・ブリジッス]]、[[アンソニー・パーキンス]]、[[エリザベス・テイラー]]
*1979年『[[1941 (映画)|1941]]』([[スティーブン・スピルバーグ]]監督)[[ジョン・ベルーシ]]、[[ダン・エイクロイド]]
*1980年『[[将軍 SHOGUN]]』[[リチャード・チェンバレン]]
*1980年『[[仁川インチョン!]]』([[テレンス・ヤング]]監督)[[ローレンス・オリビエ]]、[[ジャクリーン・ビセット]]
*1980年『[[最後のサムライ ザ・チャレンジ]]』([[ジョン・フランケンハイマー]]監督)[[スコット・グレン]]
*1980年『[[兜KABUTO]]』([[ゴードン・ヘスラー]]監督)[[ショー・コスギ]]
*1994年『[[シャドウ・オブ・ウルフ]]』[[ドナルド・サザーランド]]、[[ルー・ダイヤモンド・フィリップス]]
*1995年『[[ピクチャーブライド]]』([[カヨ・マタノ・ハッタ]]監督)
 
その後、三船は女優・[[喜多川美佳]]と交際し、[[1974年]]に来日した米[[ジェラルド・フォード|フォード]]大統領を迎賓館に招いた歓迎晩餐会では喜多川美佳を妻として同伴して出席している<ref>「衝撃!フォード大統領招待の晩さん会に『三船敏郎の妻』で出席した愛人」『ヤングレディ』1974年12月9日号、講談社。</ref>。[[1982年]]、喜多川との間に娘([[三船美佳]])をもうけ、喜多川の芸名である「美佳」を娘にそのまま付けた(喜多川の本名は大野照代)。娘・美佳が生まれて間もないころ、三船は喜多川と娘・美佳を連れてマスコミの前に現れて親子三人の写真を撮らせている。娘の美佳とはかなり年が離れているため、親子というよりはむしろ孫と祖父に見られる事も多かったという。
[[アラン・ドロン]]は三船を『日本の兄』と尊敬し、自らがプロデュースするブランドの[[香水]]「サムライ SAMOURAI」の香りのイメージを、「三船敏郎を基調とした日本のサムライ」とした。また20世紀を代表する世界的な有名俳優である[[マーロン・ブランド]]も飛行機に乗っていた際、三船が同乗している事を知るや自分から挨拶に行ったというエピソードがあり、三船が死去した時も[[弔電]]を(アラン・ドロンと同様に)送っている。
 
[[1992年]]に[[心筋梗塞]]で倒れたのをきっかけに、三船は喜多川美佳から関係を解消され、三船の看病を希望した幸子のもとに戻った。それ以後、幸子は時節体調のすぐれない三船を支え、円満な夫婦関係であったという{{R|nemzetihirhalo2}}。[[1995年]]、幸子が死去し、45年間の結婚に幕が下りた。
黒澤のファンとしてその影響を受けた[[ジョージ・ルーカス]]が監督を務めた『[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]]』(1977年)で、[[ダース・ベイダー]]役([[オビ=ワン・ケノービ]]役という説もあったが、[[三船美佳]]が「ダース・ベイダー」であったとコメント)の申し出を断り、、『[[スター・ウォーズ/ジェダイの復讐]]』(1983年)にて[[ダース・ヴェイダー]]の素顔、[[アナキン・スカイウォーカー]]の役をオファーされるが、これも辞退した。
 
=== 晩年・死去 ===
[[スティーヴン・スピルバーグ]]が監督を務めた『1941』(1979年)に日本人潜水艦長役で出演するが、興行的には失敗に終わった。なお、『[[ベスト・キッド]]』(1984年)のミヤギ役は断っている(代わりに出演した日系人俳優[[パット・モリタ]]は[[アカデミー助演男優賞]]にノミネートされた)。
[[File:三船敏郎の墓・神奈川県川崎市・春秋苑.JPG|thumb|220px| 神奈川県[[川崎市]]多摩区南生田8-1-1, 春秋苑内・三船家の墓]]
晩年は脇役を演じる事が多くなり、[[山田洋次]]監督の『[[男はつらいよ 知床慕情]]』(1987年)で頑固者の老[[獣医師]]を演じて[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]助演男優賞を受賞したほか、[[市川崑]]監督の『[[竹取物語 (1987年の映画)|竹取物語]]』(1987年)で竹の造翁、[[熊井啓]]監督の『[[千利休 本覺坊遺文]]』(1989年)で[[千利休]]を演じた。[[1990年代]]に入ると体調がすぐれないことが多くなり、晩年は軽度の[[アルツハイマー型認知症]]を発症していたといわれ、[[1995年]]に公開された『[[深い河#映画|深い河]]』が最後の出演作となった。
 
[[1997年]][[12月24日]]午後9時28分、[[多臓器不全|全機能不全]]のため[[東京都]][[三鷹市]]の[[杏林大学医学部付属病院]]で死去{{R|zakzak}}<ref>{{Cite web|url=https://web.archive.org/web/20220820023207/https://gendai.media/mwimgs/0/f/-/img_0fd9f8ab813393dc05d2af0945e6b79e847910.jpg|title=史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか|publisher=現代ビジネス|date=2011-08-17|accessdate=2021-02-05}}</ref>。77歳だった。国内のみならず、フランスやイタリアの[[国営放送]]のニュース番組でもその死をトップニュースで報じた。外国報道機関がトップニュースで日本の俳優の死去を報じたのは過去に例がない出来事だった{{R|cinema-magazine}}。アメリカの[[タイム誌]]でも三船の死を大きく取り上げている。
米国人に最も有名なのはテレビドラマ『[[将軍 SHOGUN]]』(1980)の将軍役で、ミフネ=サムライのイメージが固定した。1980年代のアメリカの人気テレビ『[[サタデー・ナイト・ライブ]]』では[[ジョン・ベルーシ]]が『[[用心棒]]』の主役の物まねで人気を博した。ベルーシは『[[1941 (映画)|1941]]』で三船と共演しているが、直接の絡みは無い。
 
生前の意向で葬儀は執り行われず、1ヶ月後の[[1998年]][[1月24日]]に三船プロ・黒澤プロ・東宝の合同葬という形で[[青山葬儀所]]でお別れの会が営まれた{{R|追悼}}。祭壇は黒澤映画の美術監督として有名な[[村木与四郎]]がデザインし、『[[蜘蛛巣城]]』をイメージした背景に、三船が演じた鷲津武時の兜を飾ったものになっていた{{Sfn|松田|2014|p=8}}。お別れの会には[[谷口千吉]]、[[岡本喜八]]、[[熊井啓]]、[[堀川弘通]]、[[千秋実]]、[[香川京子]]、[[八千草薫]]、[[久我美子]]、[[三橋達也]]、[[中野良子]]、[[竜雷太]]、[[松岡功]]東宝会長、[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]東映名誉会長ら約1800人が参列したほか、[[スティーヴン・スピルバーグ]]、[[アラン・ドロン]]、[[チャールトン・ヘストン]]、[[マーロン・ブランド]]ら世界各国の映画人から弔電が寄せられた{{R|追悼}}。当時患っていた黒澤は参列できず、代わりに三船の長男・[[三船史郎|史郎]]が託された弔文を読んだ。
米国産[[コンピュータRPG]]の『[[ウィザードリィ]]』には、敵役サムライの首領的存在として「ミフネ」が登場してくる。また『[[マトリックス・リローデッド]]』『[[マトリックス・レボリューションズ]]』には「ミフネ船長」なる人物も登場し、アジア系ではないが容姿の良く似た俳優が起用されている。
 
=== 死後 ===
海外での受賞やノミネート歴は、1955年『七人の侍』で[[英国アカデミー賞]]主演男優賞(外国語)ノミネート。1961年『用心棒』で[[ヴェネチア映画祭]]主演男優賞、シネマヌーヴァ金額賞。1965年『赤ひげ』でヴェネチア映画祭主演男優賞、1980年『将軍』で米国[[エミー賞]]主演男優賞ノミネート。その他、フランスの[[芸術文化勲章]]、[[モントリオール世界映画祭]]特別グランプリ、[[マニラ映画祭]]では「最もセクシーな俳優」に選ばれた事もある。
[[2014年]]、[[京都国際映画祭]]で国際的な影響力を持つ俳優に贈られる賞として三船敏郎賞が設けられ、第1回は[[役所広司]]、第2回は[[仲代達矢]]、第3回は[[阿部寛]]が受賞した<ref>{{cite web|url=https://eiga.com/news/20161016/14/|title=阿部寛、京都国際映画祭「三船敏郎賞」受賞!副賞は吉本興業から100万円|publisher=映画.com|date=2016-10-16|accessdate=2017-03-29}}</ref>。
 
[[2016年]]、[[スティーヴン・オカザキ]]が監督した三船のドキュメンタリー映画『[[MIFUNE: THE LAST SAMURAI]]』が公開され、[[第72回ヴェネツィア国際映画祭]]で上映されて高評価を得たほか、[[ロンドン映画祭]]、[[京都国際映画祭]]などで上映された<ref>{{cite web|url=https://eiga.com/news/20150910/9/|title=三船敏郎さんドキュメンタリー、ベネチアで高評価!|publisher=映画.com|date=2015-09-10|accessdate=2017-03-29}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.imdb.com/title/tt4000670/releaseinfo?ref_=tt_dt_dt|title=Mifune: The Last Samurai (2015) Release Info|publisher=IMDb|accessdate=2017-03-29}}</ref>。
三船は多くの日本の俳優([[渡辺謙]]や[[松田優作]]を含む)と違い、海外からの出演オファーは数え切れないほど多く、晩年においても一年で通常の段ボール箱が一杯になるほど依頼が殺到していた。三船の出演を決断させる要素は「日本人を茶化さない」、「三船プロの運営に支障をきたさない(『[[デルス・ウザーラ]]』や『[[スター・ウォーズ]]』の出演辞退はこれに該当)」、「制作サイドの誠意ある交渉」等があり、それらの条件をクリアした相手に対しては「出演させていただきます」というような誠意をもって応えた。ただし『デルス・ウザーラ』に関しては本人が自費で海外に渡航しスケジュールを調整していたと[[野上照代]]に話している(実際1972年から1975年まで海外の作品に出演していない)。
 
== 人物 ==
晩年は米映画『[[シャドウ・オブ・ウルフ]]』(1993年)の[[エスキモー]]族長役や『[[ピクチャー・ブライド]]』(1994年)の日本人[[弁士]]役としても出演した。
=== 演技 ===
[[File:The-Nihon-Eiiga-1953-August-3.jpg|thumb|220px|三船演じる菊千代ほか[[七人の侍]]]]
三船のノートには、細かく丁寧な字で演技プランがびっしり書き込まれており、『[[七人の侍]]』の菊千代や『[[用心棒]]』の桑畑三十郎などの地でやっているように見える演技は周到に計算されたものだった{{R|sponichi1}}。
 
アクション俳優としての一面もあり、その軽快な体さばきや体格の良さで迫力のあるアクションをすることも多い。特に、殺陣の腕前に関しては、黒澤をして「殺陣のオリンピックがあれば金メダルがある」と言わしめるほどである。殺陣師の宇仁貫三は、三船の殺陣の特徴として、迫力と眼光の鋭さをあげる。撮影で切りに行こうとしても、なかなか行けなかったという。さらに立ち回りでは、生身に当てて、その反動で次の相手を切っていたという。終わった後、ミミズ腫れが今日は何本入ってるか、数えていたと語っている{{R|文藝春秋}}。
『シャドウ・オブ・ウルフ』で共演した[[ドナルド・サザーランド]]は出演オファーを受けた際、三船が出演することが決まっていると聞き、脚本を読まずに出演を決めたと語っている。
 
また、『[[用心棒]]』における三船の殺陣は凄まじく早かったことを[[黒澤明]]は後に述べている。撮影時に三船が本気で刀を振ったら速すぎて太刀筋がカメラに映らなかった。フィルムのコマひとつひとつには光が流れているだけのように見え、映してみてはじめて刀の動きがわかる程度だった。『価値ある男』ではメキシコの軽快なダンスをそつなくこなしている。2007年、米誌「Entertainment Weekly」の「25 Awesome Action Heroes(尊敬すべきアクションスター25人)」に選ばれた<ref>{{Cite web |url=https://www.narinari.com/Nd/2007118198.html |title=米誌が「尊敬すべきアクションスター25人」発表、三船敏郎の名も。 | |website=ナリナリドットコム |accessdate=2019-06-26}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.ew.com/gallery/25-awesome-action-heroes |title=25 Awesome Action Heroes |website= Entertainment Weekly |accessdate=2019-06-26}}</ref>。また、『[[無法松の一生 (1958年の映画)|無法松の一生]]』では太鼓の腕前を披露した。大部屋俳優の[[中島春雄]]は、三船の立ち回りでは本物と同じ作りの鎧を[[竹光]]でへこませていたと証言している{{R|中島292}}。
なお、死後の[[1999年]]には、ミフネの演じたサムライへの[[オマージュ]]ともいえる[[デンマーク映画]]『[[ミフネ]]』が[[ベルリン映画祭]][[銀熊賞]]を受賞した。
 
中島によれば、三船はテープレコーダーを用いてセリフを覚えていたといい、現場に台本を持ち込むことはなかったと証言している{{R|中島292|円谷組}}。
 
=== 思想 ===
元来は俳優業を「男は顔で売るべきではない」と嫌っていたが、後に「俳優は人間の屑ではない。人間の宝石が俳優になるのだ。何故なら神なくして人間を創造するには、人間の屑では出来ないはずだ」と俳優業を誇るようになる{{R|sakura1}}。三船は、撮影現場に遅刻したことが一度もなく、撮影に入る前に台詞・演技を全て体に覚えさせ、撮影に台本を持参しないことも多い、という高いプロ意識でも知られた。『[[用心棒]]』の三船は本当に人を斬る気迫で殺陣をしており、殺陣の最中、三船は呼吸を止めていて、カットの声がかかると肩で息をするので、共演した[[司葉子]]が当時を振り返り、撮影中の三船は命がけで演技をしていたと語ったエピソードもあるほどである<ref>『黒澤明の世界』毎日新聞社{{Full citation needed |title=刊行年・ページ番号が不明。 |date=2019-06-26}}</ref>。
 
また、三船は日本人であることに誇りを抱いており、「私は日本と日本人のためにこれからも正しい日本人が描かれるよう断固戦っていく」と語っている{{R|sakura1}}<ref>キネマ旬報{{Full citation needed |title= |date=2019年6月27日}}</ref>。
 
=== 性格 ===
映画では『[[七人の侍]]』の菊千代のような豪放磊落な役を演じることが多く、実際そのような一面があった<ref>『黒澤明語る』原田眞人 福武書店(現・ベネッセ・コーポレーション){{Full citation needed |title=刊行年・ページ番号が不明。 |date=2019-06-27}}</ref>。酒癖が悪いことでも知られ、飲むと性格が一変した<ref>{{Cite news |date=2018-05-12 |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2018/05/12/0011248789.shtml |title=三船敏郎さん、酒を飲んで刀を振り回したことも…長男史郎氏が明かす |newspaper=デイリースポーツ online}}</ref>{{R|中島292}}。酔って[[日本のタクシー|タクシー]]内で[[安藤昇]]に殴りかかると逆に車外へ蹴飛ばされ更に殴り捲られ完全に伸びてしまい、翌日は派手に顔が腫れたままで撮影にならなかったというエピソードもある<ref>『映画俳優安藤昇』ワイズ出版{{Full citation needed |title=単行本と文庫版のどちらなのか不明、ページ番号が不明。 |date=2019-06-27}}</ref>。[[浜美枝]]は、三船について「お酒さえ入らなければ、本当にやさしくていい人なんですけどねえ」と語っている<ref>「[[ホラ吹き太閤記]]」DVDの[[浜美枝]]のコメンタリより。</ref>。中島春雄によれば、三船と飲んでいた際に絡んできたヤクザに対し、自宅からライフルを持ち出してきたこともあったという{{R|中島292|円谷組}}。
 
一方で、東欧のベテラン女性学芸記者との対談で、彼女に「私はミフネが世界で一番好き。だってセクシーでキュートだもの」と言われて顔を赤らめた{{R|sakura1}}こともあった。三船が助演で6度目のブルーリボンに輝いた際には、「まさか賞をいただけるとは思わなかった。寅さん(『[[男はつらいよ 知床慕情]]』)ですよね? 手応えあったかと言われても『[[竹取物語 (1987年の映画)|竹取物語]]』と掛け持ちでちょっとしか出てなかったし、俺はああいう無骨な役しかできないし」と三船にとっても驚きと戸惑いの方が大きかったようで、受賞インタビューでは「まあ、いただけるものならありがたく頂戴しますよ」と最後まで照れていた{{R|ブルーリボン}}。
 
三船はトップスターながら偉ぶらず、付き人もなしで、自分で車を運転して撮影所に現れて、誰に対しても気取らずに親しんで挨拶をした。エキストラにも挨拶をするので、スタッフがあわてたという{{R|中村敦夫}}。
 
スタッフの荷物運びや、ロケ終わりの後片付けを手伝うなど気さくな性格でもあった{{R|avanti}}。『銀嶺の果て』の雪山での撮影では、重い撮影機材を率先して山へ運び、撮影助手の仕事まで手伝ったという{{Sfn|小林|2019|pp=72-73}}。ある時、ロケ隊において皆に混じって荷物の整理を手伝う三船に、淀川が「あんたはそういう事しちゃ駄目よ、スターなんだから」と言われるも、三船は「だって俺、手空いてるもん?」と言ってせっせと作業を続けたという。ある海外の記者も、「彼(三船)の個性からにじみ出る簡素な自然の心で、温かくありのままに人と同じ目線で駆け引きなしで接した。将軍(三船)から発せられるオーラにより、会って数分で人はだれでも彼のことを好きになってしまう。私とも昔からの友人かの如く話をしてくれた。」と三船の気さくさを書いている<ref>[https://web.archive.org/web/20120316111239/http://www.nemzetihirhalo.hu/index.php?lap=public&iro=japan 「インタージャパンマガジン」のインタビュー記事] - Nemzeti Hírháló 2012.2.29</ref>。『[[黒部の太陽#映画|黒部の太陽]]』では、撮影中にNGを出した翌日はスタジオの掃除を行うなどスタッフの手伝いをしていたが、「すみません」とは言うことはなかった<ref>{{Cite book|和書|date = 2002-07-30|title = レインボーマン ダイヤモンド・アイ・コンドールマン大全|page=157|publisher = [[双葉社]]|isbn = 4-575-29442-X |author=川内康範(原著) |editor=岩佐陽一}}</ref>。『[[男はつらいよ 知床慕情]]』の撮影現場でも三船は周囲に気を遣い、運転してきたキャンピングカーにスタッフや役者を呼んでお茶会を開いたという<ref>[[文化放送]]「みんなの寅さん」 [[竹下景子]]さんインタビュー 第4回より{{出典無効|title=RADIOLISTEN|date=2025年6月}}</ref>。中島春雄は、三船はスターだからといって気取ったところのないいい人であったと述懐している{{R|中島292}}。
 
黒澤映画の撮影では、長時間たくさんのライトにさらされることがある。ライトの熱で着物が焦げ、煙が出ることもあったが、三船はそれでも微動だにせず待機していたという。このように、どの現場でも待つことを嫌がらず、苦情もまったく言わなかった。スタッフにもプレッシャーがかからないようにしていた{{R|文藝春秋}}。
 
中島によれば、金銭的な余裕はあったものの、ギャラで不当な扱いを受けると怒ることが多かったといい、『[[太平洋の地獄]]』で共演者の[[リー・マーヴィン]]とギャラに差がつけられていたことに憤っていたほか、三船プロダクションを設立したのも[[アリナミン]]のCMでの収入の半分以上を東宝が持っていったことが理由であったという{{R|中島292}}。
 
=== 趣味・私生活 ===
車を趣味としており、1952年型{{仮リンク|MG TD|en|MG T-type}}を45年間愛用。その他、米映画『[[グラン・プリ]]』出演の際買い求めた1962年型[[ロールス・ロイス・シルヴァークラウド]]など多数を所有した。レーシングカーデザイナーの[[ピート・ブロック]]とは懇意の仲で、1967年にはブロックが[[日野・コンテッサ]]をベースに開発した「サムライ」を、三船がチーム監督を務める形でレースに出走させる話が持ち上がり、実際に[[富士スピードウェイ]]にマシンを持ち込んだが、車検で不合格となり出走できなかったというエピソードもある<ref name=bestcar2>『日本クルマ界 歴史の証人10人』(佐藤篤司著、[[講談社ビーシー]]、[[2020年]])pp.123 - 125</ref>。
 
また、モーターボートを所有するほどの船好きでもあり、ジャパン・モーターボートクラブの会長に就任していたこともある{{R|mifuneproductions1|zak120203}}。[[1958年]]の[[狩野川台風]]で都内の[[仙川]]が氾濫し、自宅周辺の[[成城]]近隣が水没したときは、近隣の水没した世帯の取り残された住人18名を、自宅に所持していたモーターボートで[[成城警察署]]の署員と共に救出した{{R|zak120203|中島292}}。後日、消防庁が感謝状の授与式を大々的に行おうとしたが、三船は断りマスコミへの公表も差し止めた。
 
軍隊で炊事をやっていたこともあり、料理を得意としている。軍隊時代にシュークリームを作ったことがあり、この頃に9コースの中国料理も身につけ、後年その腕前を身近な人々に披露していた<ref>{{Cite web |url=https://jacircle.blogspot.com/2009/12/blog-post_21.html |website=JA Circle |title=三船敏郎を偲んで |accessdate=2019-06-26}}</ref>{{R|座談会}}。[[中島春雄]]によると、一ヶ月にも及ぶ宿泊がざらだった[[御殿場]]でのロケでは、三船が肉や野菜を買ってきて自ら包丁を振るい、大鍋で豚汁を作ってロケ仲間に振舞うのが恒例で、弁当は握り飯しか出なかった現場で大好評だったそうである<ref>『[[三大怪獣 地球最大の決戦]]』DVDでの中島のコメンタリより。</ref>。また、三船の自宅を訪れた際も三船自ら料理を振る舞ったという{{R|中島292|円谷組}}。
 
三船プロダクションの事務所や撮影スタジオの掃除は自ら進んでする(訪問者が三船本人と気付かなかったという逸話がある)程の掃除好きでもあった。ほかにも毛布からズボンを作るなど裁縫もこなし、達筆であるなど器用な一面もある<ref>{{Cite web |url=http://www.akita-kenmin.jp/yamabato/04_chokai_letter.html |title=三船敏郎氏直筆の手紙 |publisher=秋田県市民活動情報ネット |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121209120255/http://www.akita-kenmin.jp/yamabato/04_chokai_letter.html |archivedate=2012-12-09 |accessdate=2019-06-26}}</ref>。中島春雄によれば、三船プロで皆が脱いだ草履を一つ一つきれいにしたり、風呂掃除なども行っていたという{{R|円谷組}}。
 
銀幕の外では、洋装をよく着た。その洗練された着こなしは現在のファッション界にも影響を与えている。例えば、ポロシャツのボタンをいちばん上まで残らず留めたり、ズボンの裾を折り返してスウェードの靴を履いたり、長すぎる髭にスリーピースのスーツを合わせるという先進的な服飾を取り入れていた。「ヨーロッパ人でも稀なほどにスーツを着こなし、アメリカ人にもそうはいないほどスポーツウェアが似合った」と評される。新旧折衷、和洋折衷であり、服飾においても、グローバル性を纏っていた<ref>{{Cite web |url=http://gqjapan.jp/fashion/20140723/the-legends |title=メンズ・ファッションの現在に影響を与えるレジェンドな男たち |website= GQ JAPAN |archiveurl=https://archive.is/ehFDn |archivedate=2016-05-14 |accessdate=2019-06-26}}</ref>。
 
=== 交友関係 ===
三船と[[志村喬]]は『銀嶺の果て』を皮切りに51本の映画と2本のドラマ(2本とも[[三船プロダクション]]のドラマ)で共演した。黒澤作品では、三船と志村は対照的な役柄を演じることが多い。三船は志村夫妻を実の両親のように慕っていたという。デビュー後まもなくは志村の自宅に下宿していた(当時の三船への手紙にははっきりと「志村喬方」と明記されている)。[[土屋嘉男]]によると、志村は三船にとって親代わりのような存在で、ロケの時はいつも志村と三船が同室だったという。この親子のような関係は、黒澤が『[[醉いどれ天使]]』の頃になんとなく、志村に三船の親代わりを頼んだことに起因しているという<ref>{{Cite book |和書 |author=土屋嘉男|authorlink=土屋嘉男 |date=1999-9 |title=クロサワさーん! 黒澤明との素晴らしき日々 |publisher=[[新潮社]] |page=47}}</ref>。最後の共演は熊井啓の「[[お吟さま (1978年の映画)|お吟さま]]」で三船は[[豊臣秀吉]]、志村は[[千利休]]で出演。三船が所帯を持ってからも志村家と家族ぐるみの親交が続いた。三船が亡くなる前、志村喬の妻・島崎政子が三船を見舞い、「三船ちゃん、しっかりしなさいよ!」と耳元で励まして頬を叩くと、三船の目から一筋の涙が流れたという<ref>{{Cite web |url=https://gendai.media/articles/-/14797?page=4 |title=史上初の大調査著名人100人が最後に頼った病院あなたの病院選びは間違っていませんか(週刊現代) |website= 現代ビジネス |publisher=講談社 |accessdate=2019-06-26}}</ref>。
 
三船と[[山村聰|山村聡]]は、映画で5本とテレビドラマで1本共演している。山村と三船の初共演は[[1953年]]公開の谷口千吉監督による映画『[[吹けよ春風]]』だった。『[[太平洋奇跡の作戦 キスカ]]』と『[[日本のいちばん長い日#1967年版の映画|日本のいちばん長い日]]』では三船主演、山村準主演の立ち位置として描かれている。三船が[[山本五十六]]として[[特別出演]]している『[[激動の昭和史 軍閥]]{{efn|『[[日本のいちばん長い日#1967年版の映画|日本のいちばん長い日]]』と同じく山村は[[米内光政]]役で出演している。}}』では山村も特別出演している。1977年に公開された映画『[[人間の証明#映画|人間の証明]]』に三船が特別出演しているが、1978年に放映されたテレビドラマ『[[人間の証明#1978年版|人間の証明]]』で三船が演じた役柄を山村が演じている。(山村も特別出演という位置づけで出演)山村と三船の最後の映画共演作品は[[1978年]][[4月1日]]公開の[[中島貞夫]]監督による[[三船プロダクション]]製作による映画『[[犬笛 (小説)#映画|犬笛]]』であり山村は[[海上保安庁]]長官で特別出演している。1979年に[[テレビ朝日]]系で放映された『[[赤穂浪士 (1979年のテレビドラマ)|赤穂浪士]]』では山村は[[千坂高房|千坂兵部]]役で特別出演しており三船は第三十回「大石 東下り」で特別出演している。
 
[[岡本喜八]]監督とはお互いの貧乏時代からの友人で、俳優と監督でのコンビだけでなく、喜八プロに三船プロのセットを融通したりの友情が長く続いた{{R|kihachi}}。下宿に住んでいた頃の三船は繕い物が上手で、岡本の談話によると、三船は軍用毛布を材料にズボンを自作していたという{{R|kihachi}}。大映=勝プロ作品『[[座頭市と用心棒]]』で、勝は三船を立てるためにもっとも信頼の深い盟友として岡本監督を指名したが、この作品名で「用心棒」という言葉が使われたことに立腹した三船は、これ以降岡本作品にも出演しなくなる{{efn|三船プロとしての協力などある程度の友情は続いていたようである。}}。三船プロは計13本の映画を製作したが、うち3本を岡本が監督しており、他の監督は全て1本ずつである。
 
== 逸話 ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2021年1月}}
* 初期は似通った役(強盗やヤクザ)を立て続けに演じており、特に『[[酔いどれ天使]]』での松永が鮮烈で、街中で三船を見かけた暴力団員が道を開けてお辞儀をしたというエピソードがある<ref>{{Cite web |url=http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/yoidoretensi.html |title=酔いどれ天使 |archiveurl=https://archive.is/IYMh |archivedate=2012-07-12 |accessdate=2019-06-26}}</ref>。
* 『黒澤明語る』によれば、黒澤映画の中で若い頃の三船の地の性格に一番近かったのは『[[七人の侍]]』の菊千代だったという。三船本人も撮影前から「これは私ですね」と感激していたという。なお、最初剣の達人・久蔵役に三船を予定していたが、シナリオが進むにつれて百姓と侍を繋ぐジョーカーが必要なことに気が付き、菊千代という三船の性格を元にした役が作られた{{R|nifty1}}。
* [[1954年]]に『[[七人の侍]]』において菊千代を演じた際、実際の撮影現場は[[2月]]の真冬で、その上土砂降りの豪雨の中で地肌に鋼の鎧を着て殺陣を行ったが、風邪をひかなかった{{R|nifty1}}。
* 1962年『椿三十郎』の撮影で、2月の寒いときに斬られ役たちがバケツ一杯の血糊をかけられ凍えながら横たわっていた。そのことを知りながら若侍役の役者がラーメンを夜食に食べていたのを知り、その後の若侍を殴るシーンの撮影で本気で殴ったという。そして、寒い中で屍になって横たわってる人間がいるのに、自分らばかりが暖かいラーメンを食うなんて冗談じゃないと、あとで叱ったという{{R|文藝春秋}}。
* 映画の撮影の合間に[[東宝スタジオ|砧撮影所]]から自宅まで甲冑姿のまま車を運転して帰り、周囲の度肝を抜いた<ref>高瀬昌弘 『東宝砧撮影所物語 ― 三船敏郎の時代』 (東宝出版事業、2003年){{要ページ番号|date=2019-06-26}}</ref>。
* 三船敏郎は『[[価値ある男]]』でスペイン語のセリフを全部覚えて撮影に臨んだが、ネイティブによる吹き替えが使われた{{Sfn|朝日新聞社|1998|p=不明{{要ページ番号|date=2019-06-27}}}}。同作では三船がメキシコのダンスを踊るシーンがある。
* フランスで三船がボート遊びをしていたときに近くを客船が通って、ボートに乗っているのが三船だと分かると、客船の乗客が全員デッキに集まって来て "ミフネ!ミフネ!!"と叫んで手を振り、三船も手を力いっぱい振って答えたという。アメリカでボートに乗っていた時にも同様のエピソードがあり、隣に豪華客船が通り、その客船の乗客の1人が三船敏郎を見つけ、船中大騒ぎで 「ミフネー! ミフネー!」と乗客たちが手を振ってきた<ref>2003年5月29日放送の『ダウンタウンDX』より{{出典無効 |title= |date=2019-06-27}}</ref>。
* 三船がアメリカに行った際に、空港で空港税関係員に「Do you have any <span style="text-decoration:underline;">spirits</span>?(あなたは<span style="text-decoration:underline;">[[蒸留酒]]</span>を持っていますか?)」と質問され、「Yes! I have Yamato-Damashii!(そうだ、俺は<span style="text-decoration:underline;">[[大和魂]]</span>を持っている)」と堂々と答えたことがある<ref>『浪漫工房』第8号、創作工房、1995年{{要ページ番号|date=2021-05-6}}。</ref>。
* [[三船美佳]]は自身の幼少時を振り返り、「父が映画を撮りたがっていた『孫悟空』のストーリーを、寝る時によく父から聞かせてもらいました。でもいつも話してるうちに熱くなっちゃって、(孫悟空になりきって)棒を持って暴れはじめるんです(笑)」とのエピソードを披露している<ref>{{Cite web |url=https://eiga.com/news/20090311/8/ |title=三船美佳が父・敏郎から聞かされた「ベッドタイム・ストーリー」とは? |website=映画.com |accessdate=2019-06-26}}</ref>。
* [[香川京子]]は、『悪い奴ほどよく眠る』の撮影中に顔にけがをしたとき、三船が病室の前のドアに立ちふさがり、病院に駆けつけたマスコミの取材を断ってくれたという。後でそのことを知り、人のために一生懸命になってくれる方だと思ったという。またロケのスタッフにも、荷物運びを手伝うなど人気があり、特に女性ファンが多かったと語っている{{R|文藝春秋}}。
* 三船が亡くなった際、[[国民栄誉賞]]を与えるという話があったが、2023年現在受賞には至っていない<ref>{{Cite web |url=http://www.bunka.go.jp/geijutsu_bunka/03eiga_shinkou/eigashinkou_kondankai_giji_10.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130120095131/http://www.bunka.go.jp/geijutsu_bunka/03eiga_shinkou/eigashinkou_kondankai_giji_10.html |archivedate=2013-01-20 |title=映画振興に関する懇談会(第10回)議事要旨 |publisher=文化庁 |accessdate=2019-06-26}}</ref>。[[司葉子]]は当時の[[橋本龍太郎]]首相に、三船になぜ国民栄誉賞をあげないのかと直訴している。しかし、当時中国人とのスキャンダル対応に追われていた橋本から、「三船さんに賞をあげると僕がスキャンダルを書かれるから」と、はぐらかされてその話は消えたと言っている{{R|文藝春秋}}。
 
== 世界のミフネ ==
[[1951年]]に『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』が[[ヴェネツィア国際映画祭]]で[[金獅子賞]]を受賞し、クロサワとともにミフネの名も世界に知れ渡った。世界中のトップスターたちから「最も尊敬する俳優」と慕われ、共演を熱望された{{R|cinema-magazine}}。[[1961年]]に初の海外作品『[[価値ある男]]』(メキシコ映画)に主演して以来、多くの海外映画にも出演している。
{{See also|三船敏郎の出演作品}}
* [[チェ・ゲバラ]]は『用心棒』に感銘を受け、桑畑三十郎の恰好までするほどのファンであった<ref>三好徹『チェ・ゲバラ伝』原書房{{Full citation needed |title=刊行年とページ番号が不明。 |date=2019-06-26}}</ref>。
* [[マーロン・ブランド]]は飛行機に乗っていた際、三船が同乗している事を知るや自分から挨拶に行ったという<ref>{{Cite book |和書 |title=日本映画俳優全史 男優編 |author=猪俣勝人|authorlink=猪俣勝人 |authhor2=[[田山力哉]] |series=現代教養文庫 |publisher=社会思想社 |date= |page=}}{{Full citation needed |title=刊行年とページ番号が不明。 |date=2019-06-27}}</ref>。
* [[ジョージ・ルーカス]]は、『[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]]』(1977年)の初期構想で、[[オビ=ワン・ケノービ]]役に三船を起用することを考えていたが、その後にキャラクター設定が変わって厳粛な雰囲気を持つ俳優が演じる必要が出てきたため、三船ではなく[[アレック・ギネス]]を起用することになった<ref>{{Cite book|和書 |author=ジョン・バクスター |date=1999-9 |title=ジョージ・ルーカス |publisher=ソニーマガジンズ |page=220}}</ref>。また、三船は『グラン・プリ』と同時期にオファーを受けた『[[007は二度死ぬ (映画)|007は二度死ぬ]]』(1967年)の出演を断っており(代わりにその役を[[丹波哲郎]]が演じた)<ref>{{Cite news|和書|url=http://www.007magazine.co.uk/yolt50-1.htm|title=The Japanese Greta Garbos? / 50th Anniversary 1967–2017|work=JAMES BOND 007 MAGAZINE|date=2017|accessdate=2023-10-03}}</ref>、『[[ベスト・キッド]]』(1984年)のミヤギ役も断っている(代わりに出演した日系人俳優[[パット・モリタ]]は[[アカデミー助演男優賞]]にノミネートされた)<ref>{{Cite web|author=くれい響|date=2013-12-24|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0059149|title=映画のキャラ最強の師匠決定!空手の達人ミヤギとオビ=ワン・ケノービがデッドヒート!|website=[[シネマトゥデイ]]|publisher=株式会社シネマトゥデイ|accessdate=2021-02-19}}</ref><ref>{{Cite web|author=取材・文/細木信宏 Nobuhiro Hosoki|date=2021-01-31|url=https://eiga.com/news/20210131/8/|title=「ベスト・キッド」パット・モリタの知られざる生涯 ドキュメンタリー監督が明かす“素顔”とは|website=[[映画.com]]|publisher=株式会社エイガ・ドット・コム|accessdate=2021-02-19}}</ref>{{efn|『[[ベスト・キッド]]』で主演のダニエル役を演じた[[ラルフ・マッチオ]]の証言によると、「当時はミヤギ役に三船敏郎を起用しようとしていた…でも、三船は英語ができなかった」「人間版[[ヨーダ]]のようなパット・モリタは完璧だった」「最初はモリタを起用することにスタッフは乗り気じゃなかった」(米『[[ローリング・ストーン]]』誌 2020年8月30日)<ref>{{Cite web|author=BRIAN HIATT(ブライアン・ハイアット)/ 翻訳:Shoko Natori|date=2020-09-21|url=https://rollingstonejapan.com/articles/detail/34643/1/1/1|title=ラルフ・マッチオが語る、『ベスト・キッド』続編ドラマ『コブラ会』製作秘話|website=Rolling Stone([[ローリング・ストーン]])日本版|publisher=[[カルチュア・コンビニエンス・クラブ|CCC]]ミュージックラボ株式会社|accessdate=2020-09-22}}</ref><ref>{{Cite web|author=BRIAN HIATT(ブライアン・ハイアット)|date=2020-08-30|url=https://www.rollingstone.com/tv/tv-features/ralph-macchio-interview-cobra-kai-season-2-karate-kid-825860/|title=Ralph Macchio on ‘Cobra Kai’ and the Legend of ‘The Karate Kid’|website=Rolling Stone([[ローリング・ストーン]])|publisher=ペンスキー・メディア・コーポレーション|accessdate=2020-12-16}}</ref>}}。
* 米国人に最も有名なのはテレビドラマ『[[将軍 SHŌGUN]]』(1980年)の将軍役で、ミフネ=サムライのイメージが固定した。1980年代のアメリカの人気テレビ『[[サタデー・ナイト・ライブ]]』では[[ジョン・ベルーシ]]が『[[用心棒]]』の主役の物まねで人気を博した。ベルーシは『[[1941 (映画)|1941]]』で三船と共演しているが、直接の絡みは無い。
* 『[[マトリックス・リローデッド]]』『[[マトリックス・レボリューションズ]]』には、「ミフネ船長」なる人物が登場した。また『リローデッド』にて[[ローレンス・フィッシュバーン]]演じるモーフィアスが日本刀を手にして大立ち回りする場面は、三船にオマージュを捧げたものである<ref>{{Cite web |url=https://www.cinematoday.jp/page/A0000494 |title=『マトリックス リローデッド』7つの見どころ! |website=シネマトゥデイ |accessdate=2019-06-27}}</ref>。ちなみに主演の[[キアヌ・リーブス]]は2015年米制作の三船のドキュメンタリー映画『{{仮リンク|ミフネ:ザ・ラストサムライ|en|Mifune: The Last Samurai}}』にてナレーションを担当している。
* 『[[シャドウ・オブ・ウルフ]]』の出演オファーが来た[[ドナルド・サザーランド]]は、三船の出演が決まっていると聞き、脚本を読まずに出演を決めたと語っている。
* 三船の海外映画出演のギャラに関しては、『[[グラン・プリ]]』に出演の話があったときに、東宝のロサンゼルス支局の渡辺毅が、『[[グラン・プリ]]』のプロデューサー、エドワードルイスと交渉したものが、それ以後もベースになったという。当時、東宝からの出演料は600万円だったというが、これでは安いと判断した渡辺は、出演料は30万ドル(当時のレートで1億800万)であるとルイスにふっかけ、それを相手が承知したという{{R|文藝春秋}}。
* [[ソーレン・クラーク=ヤコブセン]]監督の[[デンマークの映画|デンマーク映画]]『[[ミフネ]]』(1999年)のタイトルは三船から付けられた{{R|大系}}。映画では子供たちが「ミフネごっこ」というチャンバラ遊びをしていたことが描かれているが、監督自身も子供時代に『七人の侍』の三船に夢中になり、ミフネごっこを実際にしていた{{R|大系|影響}}。
* 三船が他界した翌年の[[アカデミー賞]]授賞式のメモリアル映像では、三船の映像が映し出された時、大きく拍手喝采が起こった{{R|cinema-magazine}}。この映像集に登場したことは、三船がアカデミーの会員であったことを証明している。ある年のアカデミー賞授賞式のレッドカーペットでのセレブインタビューで「好きな日本の俳優は誰ですか?」と聞いたところ、ほとんどのセレブが「トシロー・ミフネ」の名をあげた。「他に誰がいるっていうの?」というセレブもいたという{{R|cinema-magazine}}。
* [[1983年]]、[[シカゴ]]で「三船敏郎フェスティバル」が開催され、翌年の[[1984年]]には[[ニューヨーク]]でも開催された{{R|mifuneproductions1}}。
* アメリカで三船のエージェントをしていた[[飛鳥井雅昭]]によれば、三船は深夜に英語の読みをカタカナで書く事で英語の台詞を覚えていたが、負担が大きく「毎回これでは死んでしまう」と述べていたとされる<ref>{{Cite book|和書|author= 西正|authorlink= 西正|year = 2002|chapter =飛鳥井雅昭という男 |title = コンテンツホルダー優位の時代―ムービーテレビジョンの挑戦|publisher = [[中央経済社]]|pages = 19 - 20|isbn = 978-4502581007}}</ref>。
 
== 家族 ==
* (本妻)吉峰幸子([[昭和]]21年[[東宝ニューフェイス]]第1期として吉峰幸子の本名でデビューした女優<ref>{{Cite web |url=https://kingendaikeizu.net/geinou/mihunetosirou.htm |title=三船敏郎 系図 |website=近現代・系図ワールド |accessdate=2019-06-26}}</ref>)
** (長男)[[三船史郎]](俳優、[[三船プロダクション]]社長)
*** (孫・長男)[[三船力也]]([[三船プロダクション]]所属の俳優<ref>{{Cite web |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121103101415/http://www.mifuneproductions.co.jp/actors_rikiya.html |url=http://www.mifuneproductions.co.jp/actors_rikiya.html |title=三船力也紹介ページ |publisher=三船プロダクション |archivedate=2012年11月3日 |accessdate=2019-06-26}}</ref>)
** (次男)三船武志
* (妾)[[喜多川美佳]](女優)
** (非嫡出子)[[三船美佳]](女優)
 
== 評価 ==
{{出典の明記|date=2020年9月|section=1}}
=== 映画監督 ===
[[File:Eiga-to-Ningenzo-1.jpg|thumb|190px|三船と[[黒澤明]]。『[[七人の侍]]』の撮影現場にて。]]
* [[黒澤明]]
** 『[[醉いどれ天使|酔いどれ天使]]』での三船について、「それまでの日本映画界では類のない才能であった。とくに表現力のスピードは抜群であった…動きの素早さは、普通の俳優が三挙動かかるところを、一挙動のように動いた。なんでも、ずけずけずばずば表現する、そのスピード感は、従来の日本の俳優には無いものであった。しかも、驚くほど、繊細な神経と感覚を持っていた…めったに俳優に惚れない私も、三船には参った」と自伝で述べている{{Sfn|黒澤|1990|p=298}}。
** 三船の死に際して「こんなつらい思いをしたことはない」と述べ、過去の自分の作品は「どれも君がいなかったらできなかった」と、三船がいたからこその黒澤映画であったことを悲しみの気持ちと共に語った{{Sfn|朝日新聞社|1998|p=不明{{要ページ番号|date=2019-06-27}}}}。
** 三船の葬式に次の弔電を贈った。「三船君の訃報を聞いて驚いています。具合が悪いと聞いていたので、三船君に会いたくてずっと気になっていた。会って、本当に素晴らしい役者だった、本当に君以上の俳優はいないと言いたかった。私が葬儀委員長を引き受けて、三船君らしく華やかに天国に送り出したい思いなのだが足腰を痛めて表に出られないので残念だ。急だったので、色々な思い出がいっぱいで気持ちがまだまとまらない。三船君、ありがとう、お疲れ様という気持ちです。黒澤明」<ref>[https://web.archive.org/web/20120316111239/http://www.nemzetihirhalo.hu/index.php?lap=public&iro=japan A Mifune legenda 日本映画史上において] - Nemzeti Hírháló 2012.02.29</ref>
* [[熊井啓]]
*: 「日本を代表する民間大使と言っても過言ではない」と評価した<ref>「聖教新聞」2006.1.18。{{要ページ番号|date=2019-06-27}}</ref>。
* [[橋本忍]](脚本家)
*: 「一言で言えば存在感の人である。三船ほどの俳優に会ったことがない」と評している。橋本の関わる作品の中では、『日本のいちばん長い日』での三船は、彼が一人いるだけで画面が引き締まると語った{{R|文藝春秋}}。
* [[オーソン・ウェルズ]]
*: 「三船氏の演技はスケールが大きく深みがある」と三船の演技を評価した<ref>{{Cite book |和書 |series=シネアスト:映画の手帖 |title=オーソン・ウェルズ |publisher=青土社 |date=1985 |pages=}}{{要ページ番号|date=2019-06-27}}</ref>。
* [[オタール・イオセリアーニ]]
*: 俳優業というものは概して個性を潰していくものであるが、三船は例外であり三船という役を演じていたと語る<ref>{{Cite web |url=https://eiga.com/news/20070925/10/ |website=映画.com |title=「ここに幸あり」のオタール・イオセリアーニ監督、映画論を語る |quote=俳優を職業としている人々は危険だ。彼らは役を演じるために個性を隠そうとし、メソッドを作り上げ、いつも同じ演技をするようになる。台所でさえも演じ続けるようになり、普通に話すことが出来なくなる。私はそういう俳優たちを何人も知っている。三船(敏郎)やジャン・ギャバンは例外で、(彼らは)三船やジャン・ギャバンという役を演じていた。 |accessdate=2019-06-27}}</ref>。
* [[宮崎駿]]
*: 『七人の侍』の三船を、『[[もののけ姫]]』の主人公アシタカの人物設定の参考にしている<ref>{{Cite book |和書 |title=「もののけ姫」はこうして生まれた。 |pages=27-28 |author=浦谷年良 |editor=アニメージュ増刊編集部 |publisher=徳間書店 |isbn=4198609306 |date=1998}}</ref>。
* [[松林宗恵]]
*: 「三船ちゃんは侍だから軍人の役をやる時は他の映画と掛け持ちしててもそれはそれこれはこれと、バッサリ髪を切ってくれた」と三船の映画に対する真摯な態度を称賛した<ref>『潜水艦イ-57降伏せず』のオーディオコメンタリーより。{{Full citation needed |title= |date=2019-06-27}}</ref>。
 
=== 俳優 ===
* [[夏木陽介]]
*: 夏木はテレビに出ると必ずと言っていい程、三船のエピソードを嬉しそうに話していた。「東宝の気さくな雰囲気は三船さんが作ったもの」と語る{{R|avanti}}。
* [[森繁久彌]]、[[小林桂樹]]
*: 森繁が「スターと呼ばれる人は数々いるけれど、僕たちの思うスターは、三船だね」と言い、小林はそれに大いに共感したという<ref>{{Cite book |和書 |author=小林桂樹 |others=中山敬三(聞き手) |title=役者六十年 |publisher=中日新聞社 |isbn=480620501X |date=2005-08 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-06-26}}</ref>。
* [[美輪明宏]]
*: [[スポーツニッポン]]のコラム『明るい明日を』にて、「三船さんはもっと高い評価を受けるべき俳優です。日本の映画評論家やジャーナリストのほとんどが、三船さんは黒澤明監督の映画に出演したおかげで「世界のミフネ」になったと思っているようですが、それは大きな間違いです。本当は「世界のミフネ」がいたから黒澤監督は「世界のクロサワ」になれたのです。」、「整った顔立ちをした美男子で、存在感、バイタリティーがあり、さらにインテリジェンス、繊細さもありました。あの鋭い眼光、野太い声も魅力でした。」と評価した{{R|sponichi1}}<ref>スポーツニッポン「明るい明日を」(2009年12月20日)</ref>。
* [[尾崎英二郎]]
*: 尊敬する俳優の一人に三船を挙げている{{R|Tomita&Ozaki}}。
* [[タムリン・トミタ]]
*: 三船と『[[ピクチャーブライド]]』で共演している。その経験を「あれは実にすばらしくユニークな経験だった。三船敏郎さんは神のような存在だからね。彼は謙虚で優雅でとにかくパワフルな人だったわ。“氣”を感じた。最高の俳優だった。」と言っている{{R|Tomita&Ozaki}}。
* [[アーノルド・シュワルツェネッガー]]
*: 『[[コナン・ザ・グレート]]』(1982年)で三船の演技を参考にした{{R|影響}}。
* [[クリント・イーストウッド]]
*: 三船の大ファンで、『用心棒』の三船の演技に影響を受けたことを公言している{{R|影響}}。
* [[アラン・ドロン]]
*: 三船をイメージして『samouraï<!--samuraiのフランス語表記-->(サムライ)』という名の香水を作った。日本のテレビ番組『[[SMAP×SMAP]]』出演時に「カッコイイ男性は?」と聞かれた時は「三船敏郎」と答え、「日本の兄」、「神のような存在」と評していた。
* [[イアン・マクシェーン]]
*: [[松崎悠希]]が『[[パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉]]』に出演した時に、イアンと彼の尊敬する三船敏郎について「三船さんすごいよね」「存在感がすごいよね。あの存在感を出せる俳優は今の時代いないよ」と盛り上がった<ref>{{Cite web |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0031858 |title=ジョニー・デップ、日本で行きたいところは東急ハンズ!?『パイレーツ』日本人キャスト・松崎悠希が明かす舞台裏 |website=シネマトゥデイ|quote=イアンとは彼の尊敬する三船敏郎について「三船さんすごいよね」「存在感がすごいよね。あの存在感を出せる俳優は今の時代いないよ」と話が盛り上がる |accessdate=2019-06-27}}</ref>。
* [[シンディ・ローパー]]
*: 2007年の[[サマーソニック]]の特番でバックステージで[[三船美佳]]にインタビューを受けていた際に、通訳に三船敏郎の娘であることを耳打ちされるとびっくりして「あなたのお父さんの大ファンなの!」と感激した。なお彼女の息子も三船敏郎の大ファンで、4〜5歳の頃からビデオショップに行くと、「クロサワ!ミフネ!」と興奮するような子だったという<ref>{{Cite web |url=https://www.j-wave.co.jp/original/tokiohot100/guest_past/past_20080518.htm |website=J-WAVE WEBSITE |title=TOKIO HOT100 |accessdate=2019-06-27}}</ref>。
* [[中村敦夫]]
*: 三船について、役を「演じる」俳優ではなく、役に「なってしまう」俳優だと自著に記した{{R|中村敦夫}}。
* [[ジョナサン・リース=マイヤーズ]]
*: 「僕にとって究極の“ナンバーワン監督”である黒澤明監督」と黒澤を評価するとともに「三船敏郎なんてものすごいリスクを冒してさまざまな役を演じている。まるで怪物のような役者だ」と語っている<ref>{{Cite web |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0024319 |title=ジョン・トラヴォルタ、スキンヘッドや『パルプ・フィクション』での長髪は僕の提案! |website=シネマトゥデイ |accessdate=2019-06-27}}</ref>。
* [[ハリソン・フォード]]
*: 尊敬する映画人の一人に挙げており、来日の度に面談をしていた。
* [[ブルース・リー]]
*: 生前、好んで観ていた映画が三船のサムライ映画であることが、未亡人の伝記本に記されている。
 
=== 評論家 ===
* [[佐藤忠男]]
*: 終戦後にデビューした三船について、「むき出しの野性と、見得を切る閑もなしに動く猛烈なスピードと、そして粗野な男くさいユーモアとでひとつの時代をつくり出した」と評した{{R|講座}}。
* [[白石かずこ]]
*: 白石の著書である『ダイナミックな国際性』において「三船敏郎こそは、まさに時代の人、あの戦争という日本人のエネルギー、明日をも知れぬ不安を抱きながら魂の噴火の最も強烈だった時代そのものを全身で現すことのできる人だった。」、「戦後は、三船という幟をたてて日本の映画が縦横無尽に走った、繁栄していった時代だった」と評価している。
* [[中野翠]]
*: 『七人の侍』の菊千代(三船)が尻を丸出しにして死ぬシーンから、「黒澤明は菊千代という人物の、そして三船敏郎というスターの個性の核心を、あの悍馬のような尻と太ももに見ていたんだなと、改めて気がついた」と三船について分析をしている<ref>{{Cite book |和書 |title=ぺこぺこ映画日記 1993-2002 |publisher=講談社 |date=2002 |author=中野翠 |isbn=4062116278 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-06-26}}</ref>。
 
== 出演 ==
{{Main|三船敏郎の出演作品}}
 
== 受賞 ==
三船は生涯に国内外で多くの栄誉を受けた。[[1986年]]には[[紫綬褒章]]、[[1993年]]には[[勲三等]][[瑞宝章]]を受章し、[[1989年]]には[[政府 (フランス第五共和政)|フランス政府]]から[[芸術文化勲章]]を与えられた{{Sfn|映画秘宝|2018|pp=24-29}}。また、1986年には[[カリフォルニア大学ロサンゼルス校]]から「国際的映画俳優として社会に貢献した」ことを称えられ、名誉学位にあたるUCLAメダルを与えられた(俳優では[[ローレンス・オリヴィエ]]に次いで二人目の授与となる){{Sfn|松田|2014|p=11}}{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=607-608}}。[[2016年]]には[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]で星を獲得し、日本関係で4番目となるハリウッドの殿堂入りを果たした<ref>{{cite web|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0074320|title=三船敏郎さんがハリウッド殿堂入り|publisher=シネマトゥデイ|date=2015-06-23|accessdate=2015-06-23}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.asahi.com/articles/ASJCH2RMXJCHUHBI00H.html|title=三船敏郎さん、ハリウッド殿堂入り 式典に孫ら出席|publisher=朝日新聞|date=2016年11月15日|accessdate=2017年3月29日}}</ref>。
 
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+ 三船敏郎の映画賞の受賞とノミネートの一覧
|-
!賞 !! 年 !! 部門 !! 作品名 !! 結果 !! 出典
|-
!rowspan="6" style="text-align:center"|[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]
|1951年||主演男優賞||『馬喰一代』<br/>『女ごころ誰か知る』|| {{won}}||<ref>{{Cite web |url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1951/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090207075458mp_/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1951/ |archivedate=2009/2/7 |title=ブルーリボン賞ヒストリー 第2回 |website=シネマ報知 |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
|rowspan="2"|1961年||主演男優賞||『[[価値ある男]]』<br/>『[[用心棒]]』||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web |url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1961/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090207075550mp_/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1961/ |archivedate=2009/2/7 |title=ブルーリボン賞ヒストリー 第12回 |website=シネマ報知 |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
|特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}
|-
|1965年||主演男優賞||『[[赤ひげ]]』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1965/ |archiveurl= https://web.archive.org/web/20090207075610mp_/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1965/ |archivedate=2009/2/7 |title=ブルーリボン賞ヒストリー 第16回 |website=シネマ報知 |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
|1966年||特別賞|| style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1966/ |archiveurl= https://web.archive.org/web/20090207075615mp_/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1966/ |archivedate=2009/2/7 |title=ブルーリボン賞ヒストリー 第17回 |website=シネマ報知 |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
|1987年||助演男優賞||『[[男はつらいよ 知床慕情]]』||{{won}}||{{R|ブルーリボン}}
|-
!style="text-align:center"|[[英国アカデミー賞]]
|1955年||[[英国アカデミー賞 主演男優賞|外国男優賞]]||『[[七人の侍]]』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=http://awards.bafta.org/award/1956/film? |title=Film in 1956 |website=BAFTA Awards |language=英語 |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
!rowspan="3" style="text-align:center"|[[毎日映画コンクール]]
|1957年||男優主演賞||『[[蜘蛛巣城]]』<br/>『[[下町 (映画)|下町]]』<br/>『[[どん底 (1957年の映画)|どん底]]』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://mainichi.jp/mfa/history/012.html |title=毎日映画コンクール 第12回(1957年) |publisher=毎日新聞 |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
|1987年||男優助演賞||『男はつらいよ 知床慕情』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://mainichi.jp/mfa/history/042.html |title=毎日映画コンクール 第42回(1987年) |publisher=毎日新聞 |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
|1997年||特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://mainichi.jp/mfa/history/052.html |title=毎日映画コンクール 第52回(1997年) |publisher=毎日新聞 |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
!rowspan="2" style="text-align:center"|[[キネマ旬報ベスト・テン]]
|1961年||主演男優賞||『用心棒』<br/>『[[大坂城物語]]』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1961.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1961年・第35回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
|1968年||主演男優賞||『[[黒部の太陽#映画|黒部の太陽]]』<br/>『[[祇園祭 (1968年の映画)|祇園祭]]』<br/>『[[連合艦隊司令長官 山本五十六]]』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1968.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1968年・第42回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
!rowspan="2" style="text-align:center"|[[ヴェネツィア国際映画祭]]
|1961年||[[ヴェネツィア国際映画祭 男優賞|男優賞]]||『用心棒』||{{won}}||rowspan="2"|{{Sfn|映画秘宝|2018|pp=24-29}}
|-
|[[第26回ヴェネツィア国際映画祭|1965年]]||男優賞||『赤ひげ』||{{won}}
|-
!rowspan="2" style="text-align:center"|日本映画記者会賞
|1961年||最優秀男優賞||『用心棒』<br/>『価値ある男』||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{Citation |和書 |editor=浜野保樹 |title=大系黒澤明 第4巻 |publisher=講談社|date=2010-4 |pages=856-857}}</ref>
|-
|1965年||最優秀男優賞||『赤ひげ』||{{won}}
|-
!style="text-align:center"|[[芸術選奨|芸術選奨文部大臣賞]]
|1967年||映画部門|| style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/jutenshien/geijutsuka/sensho/pdf/rekidai_jushosha.pdf |format=PDF |title=芸術選奨歴代受賞者一覧(昭和25年度~) |website=文化庁 |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
!style="text-align:center"|[[フォトグラマス・デ・プラータ]]
|1967年||外国俳優賞||『赤ひげ』||{{won}}||<ref name="受賞歴">{{Cite web |url=https://www.imdb.com/name/nm0001536/awards?ref_=nm_awd |title=Awards - Toshirô Mifune |website=IMDb |language=英語 |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
!rowspan="2" style="text-align:center"|[[ゴールデン・アロー賞]]
|1967年||大賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web |url=https://www.j-magazine.or.jp/assets/doc/golden_list2008.pdf |format-PDF |title=GOLDEN ARROW AWARDS 受賞者一覧 |website=日本雑誌協会 |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
|1997年||特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}
|-
!style="text-align:center"|[[プライムタイム・エミー賞]]
|1980年||主演男優賞<br />(リミテッド・シリーズ/テレビ映画部門)||『[[将軍 SHŌGUN]]』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.emmys.com/bios/toshiro-mifune |title=Toshiro Mifune |website=Emmy Awards |language=英語 |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
!style="text-align:center"|[[モントリオール世界映画祭]]
|1985年||特別グランプリ||style="text-align:center"|-||{{won}}||{{Sfn|映画秘宝|2018|pp=24-29}}
|-
!rowspan="3" style="text-align:center"|[[日本アカデミー賞]]
|[[第11回日本アカデミー賞|1987年]]||助演男優賞||『男はつらいよ 知床慕情』<br/>『[[竹取物語 (1987年の映画)|竹取物語]]』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=11 |title=第11回日本アカデミー賞優秀作品 |website=日本アカデミー賞 |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
|[[第18回アカデミー賞|1994年]]||会長特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=18 |title=第18回日本アカデミー賞優秀作品 |website=日本アカデミー賞 |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
|[[第21回アカデミー賞|1997年]]||会長特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=21 |title=第21回日本アカデミー賞優秀作品 |website=日本アカデミー賞 |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
!style="text-align:center"|[[牧野省三]]賞
|1987年||style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://www.toei-kyoto.com/about/movie.html|title=牧野省三賞|publisher=東映京都ナビ|accessdate=2017-03-29 |archiveurl=https://megalodon.jp/2015-0820-1254-01/www.toei-kyoto.com/about/movie.html |archivedate=2015-08-20}}</ref>
|-
!style="text-align:center"|[[川喜多賞]]
|1988年||style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.kawakita-film.or.jp/kawakita_award_3.html |title=第6回川喜多賞 三船敏郎氏 |website=公益財団法人川喜多記念映画文化財団 |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|-
!style="text-align:center"|[[日本映画批評家大賞]]
|1993年||ゴールデン・グローリー賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://jmc-award.com/award/1900.html |title=過去の受賞作品 1991年度~1999年度 |website=日本映画批評家大賞 |accessdate=2021年2月18日}}</ref>
|}
 
== 音楽活動 ==
; シングル
山の男の唄(1956年5月発売、[[日本コロムビア|コロムビアレコード]])
* 作詞:佐藤一郎、作曲:[[佐藤勝]]
*: 2011年1月1日に発売された「決定盤 伝説を聴く」([[日本コロムビア]])にも収録されている<ref>{{Cite web |url=https://columbia.jp/prod-info/COCP-36583-4/ |title=決定盤 伝説を聴く |website=日本コロムビアオフィシャルサイト |publisher=日本コロムビア |accessdate=2019-06-27}}</ref>。
 
== 三船敏郎をモデルとした作品 ==
{{出典の明記|date=2021年1月|section=1}}
=== 漫画・アニメ・小説 ===
* [[拝一刀]]([[子連れ狼]])
* 三船剛([[マッハGoGoGo]])
*: 『[[グラン・プリ]]』に出演した三船のオマージュ。
* 剣三十郎([[青山剛昌短編集]])
*: 代表作『[[椿三十郎]]』の名前。また、同作品中で仲代というキャラと対決している。
* 椿丹十郎([[落第忍者乱太郎]])
*: 『椿三十郎』をもとにしたキャラクター。
* ショーグン・ミフネ([[勇者特急マイトガイン]])
*: 決め台詞は「男は黙ってぇ〜」。
* 菊千代([[クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡]])
*: 『[[七人の侍]]』を元にしたキャラクターが登場。
* 電ボ三十郎、電ボ四十郎([[おじゃる丸]])
* ミフネ([[NARUTO -ナルト-|NARUTO]])
*: 名刀“黒澤”を使って戦う鉄の国の侍大将。
* ミフネ([[ソウルイーター]])
*: 多数の日本刀を駆使する流派「無限一刀流」の使い手である用心棒。
* ニルス・ショーン・ミフネ([[BASTARD!! -暗黒の破壊神-]])
*: 先の魔操兵戦争における五英雄の一人。「ミフネ」は侍総大将(サムライ・ハイマスター)の称号である。
* 三船入道コーチ([[新テニスの王子様]])
*: テニスのコーチ。アニメの第7話にて[[隠し砦の三悪人]]で真壁六郎太が太平と又七に穴を掘らせる場面に酷似するシーンがある。
* 菊千代([[花の菊千代]])
* キクチヨ([[SAMURAI 7]])
*: 農民出身者の機械のサムライ。機械であるが、人間よりも人間臭さを見せる。身の丈は普通の人間より一回り大きい。
* セッシュウ・ミフネ中将([[宇宙一の無責任男|無責任艦長タイラー]])、(宇宙一の無責任男)
* 村上源之助([[兎用心棒]]、[[ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ]])
*: 三船が演じた『用心棒』の三十郎のイメージキャラ。
* 飯沼誠次郎([[東のエデン]])
*: “平成の[[吉田茂]]”の異名を持つ[[内閣総理大臣]]。火中の栗を拾って、死に向かう日本を救おうとしたが、志半ばで死去する。三船が飯沼のモデルである。
* 宮本武蔵([[鬼武者シリーズ#Webアニメ|鬼武者]]<ref name="natalie495018">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/495018|title=ゲーム「鬼武者」初アニメ化!主人公・宮本武蔵のモデルは三船敏郎、総監督に三池崇史|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-09-25|accessdate=2022-11-02}}</ref>)
*: 2023年11月2日から[[Netflix]]で全世界配信予定のアニメ『鬼武者』の主人公である[[宮本武蔵]]は三船敏郎をモデルとしている。
 
=== ゲーム ===
役名 / ゲームタイトル
* MIFUNE([[ウィザードリィ]])
*: 敵モンスターの侍大将として登場。
* 三船徳川([[HARAKIRI]])
*: 『[[将軍 SHŌGUN]]』で三船が[[徳川家康]]の役を演じたことに由来する。
* 三船敏郎([[かまいたちの夜]])
*: 実名で三船敏郎として登場する。侍姿で主人公を斬り捨てる。とくにセリフはない。
* アーロン([[ファイナルファンタジーX]])
*: [[野村哲也]]が三船(『[[七人の侍]]』の菊千代)のフィギュアを参考にポーズ取りをして考案した。
* ミフネ([[サクラ大戦V 〜さらば愛しき人よ〜]])
*: 剣の達人として登場。
* ミフネス司令([[ジェットインパルス]])
* 砂嵐三十郎([[.hack]])
* トシロー・カゴ([[Fallout 3]])
*: 「Mothership Zeta」の登場人物の1人。エンジンコアにて冷凍保存されているサムライ。
 
== 主な出演作品 ==
=== 映画 ===
* トシロウ / ダイトウ([[レディ・プレイヤー1]])
[[ファイル:Drunken Angel116.png|thumb|275px|酔いどれ天使]]
*: 三船敏郎をモデルとしてCGで再現されたキャラクター、メカニカルな鎧武者の姿で登場。スピルバーグが生前の三船と友人だったことから、彼の遺族に了承を得て登場が実現した。
[[ファイル:Vlcsnap-82994.png|thumb|275px|野良犬]]
=== CM ===
★印は[[黒澤明]]監督作品。◎印は[[岡本喜八]]監督作品。
* [[サントリー]]「胡麻麦茶・赤ひげ先生篇」(2017年10月1日 - )
* 『[[銀嶺の果て]]』 ([[1947年]]/※DVD発売)…江島
*: [[黒澤明]]監督作品「[[赤ひげ]]」をオマージュ。[[増田雄一]]が三船敏郎そっくりに演じた<ref>{{Cite web |title=サントリー胡麻麦茶CMの赤ひげ先生役の男性俳優は誰?|Daily Breaker |url=https://daily-breaker.com/6465.html |website=Daily Breaker |date=2018-08-12 |access-date=2022-10-07 |language=ja}}</ref><ref>{{Citation|title=高橋克己 赤ひげ先生▶︎胡麻麦茶|url=https://www.youtube.com/watch?v=FofdtmJ4BWs|language=ja-JP|access-date=2022-10-08}}</ref>。
* 『[[新馬鹿時代 前篇]]』(1947年)
* 『[[新馬鹿時代 後篇]]』(1947年)
* ★『[[酔いどれ天使]]』([[1948年]]/※DVD発売)…松永
* ★『[[静かなる決闘]]』([[1949年]]/※DVD発売)…藤崎恭二
* 『[[ジャコ万と鉄]]』(1949年)…鉄
* ★『[[野良犬 (映画)|野良犬]]』(1949年/※DVD発売)…村上刑事
* 『[[石中先生行状記]]』([[1950年]])
* 『[[脱獄 (映画)|脱獄]]』(1950年)
* ★『[[醜聞|醜聞(スキャンダル)]]』(1950年/※DVD発売)…青江一郎
* 『[[婚約指環]]』(1950年)
* ★『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』(1950年/※DVD発売)〔ヴェネチア映画祭金獅子賞、米アカデミー賞外国語映画賞、米アカデミー賞美術賞ノミネート、ナショナル・ボード・オブ・レビュー監督賞・外国語映画賞〕…多襄丸
* 『[[愛と憎しみの彼方へ]]』([[1951年]])…坂田五郎
* 『[[悲歌 (映画)|悲歌]]』(1951年)…土岐大輔検事
* ★『[[白痴 (1951年の映画)|白痴]]』(1951年/※DVD発売)…赤間伝吉
* 『[[海賊船 (映画)|海賊船]]』(1951年)
* 『[[戦後派お化け大会]]』(1951年)
* 『[[完結 佐々木小次郎 巌流島決闘]]』(1951年)
* 『[[馬喰一代]]』(1951年)
* 『[[女ごころ誰が知る]]』(1951年)
* 『[[荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻]]』([[1952年]])
* 『[[霧笛 (映画)|霧笛]]』(1952年)
* 『[[西鶴一代女]]』(1952年/※DVD発売)ヴェネチア映画祭国際賞
* 『[[金の卵 Golden Girl]]』(1952年)※賛助出演
* 『[[戦国無頼]]』(1952年)
* 『[[東京の恋人]]』(1952年)
* 『[[激流 (映画)|激流]]』(1952年)
* 『[[港へ来た男]]』(1952年)
* 『[[吹けよ春風 (1953年の映画)|吹けよ春風]]』([[1953年]])
* 『[[抱擁 (1953年の映画)|抱擁]]』(1953年)
* 『[[ひまわり娘 (映画)|ひまわり娘]]』(1953年)
* 『[[太平洋の鷲]]』(1953年/※DVD発売)
* ★『[[七人の侍]]』([[1954年]]/※DVD発売)〔ヴェネチア映画祭銀獅子賞、米アカデミー賞美術賞・衣装デザイン賞ノミネート〕…菊千代
* 『[[宮本武蔵 (1954年の映画)|宮本武蔵]]』(1954年/※DVD発売)米アカデミー賞外国語映画賞
* 『[[潮騒 (1954年の映画)|潮騒]]』(1954年)
* 『[[密輸船 (日本映画)|密輸船]]』(1954年)
* 『[[男性No.1]]』([[1955年]])
* 『[[天下泰平]]』(1955年)
* 『[[続天下泰平]]』(1955年)
* 『[[男ありて]]』(1955年)
* 『[[続宮本武蔵 一乗寺の決闘]]』(1955年)
* ★『[[生きものの記録]]』(1955年/※DVD発売)〔カンヌ映画祭コンペティション〕…中島喜一
* 『[[決闘巌流島]]』([[1956年]])
* 『[[黒帯三国志]]』(1956年)
* 『[[暗黒街]]』(1956年)
* 『[[愛情の決算 (映画)|愛情の計算]]』(1956年)
* 『[[妻の心]]』(1956年)
* 『[[ならず者 (映画)|ならず者]]』(1956年)
* 『[[囚人船]]』(1956年)
* ★『[[蜘蛛巣城]]』([[1957年]]/※DVD発売)〔ヴェネチア映画祭コンペティション、ロサンゼルス映画賞〕…鷲津武時
* 『[[嵐の中の男]]』(1957年)
* 『[[この二人に幸あれ]]』(1957年)
* 『[[柳生武芸帳]]』(1957年/※ビデオ化)
* 『[[危険な英雄]]』(1957年)
* ★『[[どん底 (1957年の映画)|どん底]]』(1957年/※DVD発売)…捨吉
* 『[[下町 (映画)|下町]]』(1957年)
* 『[[柳生武芸帳 双龍秘剣]]』([[1958年]])
* 『[[東京の休日]]』(1958年)
* 『[[無法松の一生#映画・1958年版|無法松の一生]]』(1958年/※DVD発売)ヴェネチア映画祭金獅子賞
* 『[[弥次喜多道中記 (1958年の映画)|弥次喜多道中記]]』(1958年)
* 『[[人生劇場#映画化作品|人生劇場 青春篇]]』(1958年)
* ★『[[隠し砦の三悪人]]』(1958年/※DVD発売)〔ベルリン映画祭監督賞、国際批評家連盟賞〕…真壁六郎太
* 『[[暗黒街の顔役 (1959年の映画)|暗黒街の顔役]]』([[1959年]])
* 『[[或る剣豪の生涯]]』(1959年)
* 『[[戦国群盗伝 (1959年の映画)|戦国群盗伝]]』(1959年)
* ◎『[[独立愚連隊]]』(1959年/※DVD発売)
* 『[[日本誕生]]』(1959年/※DVD発売)
* ◎『[[暗黒街の対決]]』([[1960年]]/※DVD発売)
* 『[[国定忠治 (映画)|国定忠治]]』(1960年)
* 『[[ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐]]』(1960年/※DVD発売)
* 『[[男対男]]』(1960年)
* ★『[[悪い奴ほどよく眠る]]』(1960年/※DVD発売)〔ベルリン映画祭コンペティション〕…西幸一
* 『[[サラリーマン忠臣蔵]]』(1960年)
* 『[[大阪城物語]]』([[1961年]])
* 『[[続サラリーマン忠臣蔵]]』(1961年)
* ★『[[用心棒]]』(1961年/※DVD発売)〔ヴェネチア映画祭主演男優賞、米アカデミー賞衣装デザイン賞ノミネート〕…桑畑三十郎
* 『[[ゲンと不動明王]]』(1961年)
* 『[[価値ある男]]』(1961年、[[メキシコ]]映画)米アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、ゴールデングローブ賞外国語映画賞
* ★『[[椿三十郎]]』([[1962年]]/※DVD発売)…椿三十郎
* 『[[どぶろくの辰]]』(1962年)
* 『[[続社長洋行記]]』(1962年)
* 『[[忠臣蔵 花の巻 雪の巻]]』(1962年)
* 『[[太平洋の翼]]』([[1963年]]/※DVD発売)
* ★『[[天国と地獄 (映画)|天国と地獄]]』(1963/※DVD発売)〔ヴェネチア映画祭コンペティション〕…権藤金吾
* 『[[五十万人の遺産]]』(1963年/※DVD発売。製作・監督も担当)
* 『[[大盗賊]]』(1963年/※ビデオ化)
* 『[[士魂魔道 大龍巻]]』([[1964年]])
* ◎『[[侍 (映画)|侍]]』([[1965年]]/※DVD発売)
* ★『[[赤ひげ]]』(1965年/※DVD発売)〔ヴェネチア映画祭主演男優賞・サンジョルジュ賞〕…赤ひげ(新出去定)
* 『[[姿三四郎 (映画)#リメイク|姿三四郎]]』(1965年)…矢野正五郎
* 『[[太平洋奇跡の作戦 キスカ]]』(1965年/※DVD発売)
* ◎『血と砂』 (1965年)
* 『[[暴れ豪右衛門]]』([[1966年]])
* 『[[大菩薩峠]]』
* 『[[奇巌城の冒険]]』(1966年/※ビデオ化)
* 『[[怒濤一万浬]]』(1966年)
* 『[[上意討ち 拝領妻始末]]』([[1967年]])
* ◎『[[日本のいちばん長い日]]』(1967年/※DVD発売)
* 『[[グラン・プリ]]』(1967年)米アカデミー賞編集賞・音響賞・音響効果編集賞
* 『[[黒部の太陽]]』([[1968年]])
* 『[[連合艦隊司令長官 山本五十六]]』(1968年/※DVD発売)
* 『[[祇園祭 (映画)|祇園祭]]』(1968年)
* 『[[太平洋の地獄 Hell in the Pacific]]』(1968年/※DVD発売)
* 『[[風林火山 (映画)|風林火山]]』([[1969年]]/※DVD発売)
* 『[[栄光への5000キロ]]』(1969年)
* 『[[日本海大海戦]]』(1969年/※DVD発売)
* ◎『[[赤毛]]』(1969年/※DVD発売)
* 『[[新選組 (1969年の映画)|新選組]]』([[1970年]]/※DVD発売)
* ◎『[[座頭市|座頭市と用心棒]]』(1970年/※DVD発売)
* 『[[幕末 (映画)|幕末]]』(1970年/※DVD発売)
* 『[[待ち伏せ (映画)|待ち伏せ]]』(1970年/※DVD発売)
* 『[[ある兵士の賭け]]』(1970年)
* 『[[激動の昭和史 軍閥]]』(1970年/※DVD発売)
* 『[[レッド・サン]]』([[1971年]]、フランス映画)
* 『[[太陽にかける橋 ペイパー・タイガー]]』([[1975年]]、[[イギリスの映画|イギリス映画]])
* 『[[ミッドウェイ (映画)|ミッドウェイ]]』([[1976年]]/※DVD発売。アメリカ映画)[[山本五十六]]役
* 『[[人間の証明]]』([[1977年]]/※DVD発売)
* 『[[日本の首領#日本の首領 野望篇|日本の首領 野望篇]]』(1977年)
* 『[[柳生一族の陰謀]]』([[1978年]])
* 『[[犬笛 (小説)#映画・テレビドラマ|犬笛]]』(1978年)
* 『[[お吟さま (1978年の映画)|お吟さま]]』(1978年/※ビデオ化)
* 『[[日本の首領#日本の首領 完結篇|日本の首領 完結篇]]』(1978年)
* 『[[赤穂城断絶]]』(1978年)
* 『[[水戸黄門 (1978年の映画)|水戸黄門]]』(1978年)
* 『Winter Kills』([[1979年]]、アメリカ映画)
* 『[[金田一耕助の冒険]]』(1979年)
* 『[[隠密同心 大江戸捜査網]]』(1979年)
* 『[[1941 (映画)|1941]]』([[1980年]]、アメリカ映画/※DVD発売)
* 『[[仁川 (映画)インチョン!]]』(1980年、アメリカ韓国合作)
* 『[[二百三高地]]』(1980年/※DVD発売)
* 『[[将軍 SHOGUN]]』(1980年、アメリカ映画)
* 『[[制覇]]』([[1982年]])
* 『[[日本海大海戦 海ゆかば]]』([[1983年]]/※DVD発売)
* 『[[海燕ジョーの奇跡]]』([[1984年]])
* 『[[聖女伝説]]』([[1985年]])
* 『[[玄海つれづれ節]]』([[1986年]])
* 『[[シャタラー]]』([[1987年]]、日本・[[イタリアの映画|イタリア]]合作映画)
* 『[[男はつらいよ 知床慕情]]』(1987年/※DVD発売)
* 『[[竹取物語 (1987年の映画)|竹取物語]]』(1987年/※DVD発売)
* 『[[春来る鬼]]』([[1989年]])
* 『[[cfガール]]』(1989年)
* 『[[千利休 本覺坊遺文]]』(1989年/※DVD発売)ヴェネチア映画祭銀獅子賞
* 『[[ストロベリーロード]]』([[1991年]])
* 『[[兜 KABUTO]]』(1991年、アメリカ映画)
* 『[[深い河]]』([[1995年]]/※ビデオ化)モントリオール世界映画祭エキュメニカル賞
* 『[[シャドー・オブ・ウルフ]]』([[1996年]]、フランス・[[カナダの映画|カナダ]]合作映画)
* 『[[ピクチャーブライド]]』(1996年日本公開、アメリカ映画)カンヌ映画祭コンペティション
 
== 演じた俳優 ==
{{Commons|Category:Toshirō Mifune}}
* [[高嶋政宏]]
*: [[NHK BS4K]]『[[裕さんの女房 もうひとりの石原裕次郎|裕さんの女房]]』([[2021年]][[3月20日]]放送)
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3
|refs=
<ref name="zakzak">{{Cite news|url=http://www.zakzak.co.jp/geino/n_December97/nws1671.html|title=「世界のミフネ」逝く|publisher=ZAKZAK|date=1997-12-25|accessdate=2019-12-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040221124906/http://www.zakzak.co.jp/geino/n_December97/nws1671.html|archivedate =2004-02-21}}</ref>
<!--
<ref name="zak070524">{{cite web|url=http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_05/g2007052402.html|title=芸能プロ社長自殺で破産手続き…すでに事務所機能停止|publisher=ZAKZAK|date=2007-05-24|accessdate=2013-03-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170820073755/http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_05/g2007052402.html |archivedate=2017-08-20}}</ref>
-->
<ref name="sponichi1">{{Cite web |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/miwa/kiji/K20091229Z00000930.html |title=「世界のミフネ」いたからこそ |website=Sponichi Annex|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161009135531/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/miwa/kiji/K20091229Z00000930.html |archivedate=2016-10-09 |accessdate=2019-06-26}}</ref>
<ref name="cinema-magazine">{{Cite web |url=https://hizen.nagoya/news/1326 |title=三船敏郎 |website=ブンロク |accessdate=2019-06-26}}</ref>
<ref name="nemzetihirhalo2">[https://web.archive.org/web/20120316111239/http://www.nemzetihirhalo.hu/index.php?lap=public&iro=japan 三船史郎が語る<最後の6年>] - Nemzeti Hírháló</ref>
<ref name="追悼">{{Cite web |url=https://www.asahi-net.or.jp/~zc2t-ogw/MKHome/AKHome/mihune/mihune_honso.htm |title=追悼:三船敏郎 |publisher= |accessdate=2016年5月21日}}</ref>
<ref name="sakura1">[http://www.southeast.sakura.ne.jp/meigen2904.htm 次代への名言]{{リンク切れ|date=2016年10月}}</ref>
<ref name="ブルーリボン">{{Cite web |url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1987/ |archiveurl= https://web.archive.org/web/20090207075725mp_/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1987/ |archivedate=2009/2/7 |title=ブルーリボン賞ヒストリー 第30回 |website=シネマ報知 |accessdate=2021年5月5日}}</ref>
<ref name="avanti">{{Cite web |url=http://www.avanti-web.com/pastdata/20030125.html |title=SUNTORY SATURDAY WAITING BAR 2003年1月25日の放送 夏木陽介さんと江原達怡さん(俳優)の『東宝』の話 |publisher= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20030405194404/http://www.avanti-web.com/pastdata/20030125.html |archivedate=2003-05-04 |accessdate=2019-06-26}}</ref>
<ref name="mifuneproductions1">{{Cite web |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110810014718/http://www.mifuneproductions.co.jp/biography.html |website=三船敏郎 三船プロダクション 公式サイト |title=BIOGRAPHY |archivedate=2011年8月10日 |publisher=三船プロダクション |url=http://www.mifuneproductions.co.jp/biography.html |accessdate=2019-06-26}}</ref>
<ref name="zak120203">{{Cite web |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120206185316/http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20120203/dms1202030801000-n1.htm |url=http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20120203/dms1202030801000-n1.htm |archivedate=2012-02-06 |title=【ジェットコースター人生】“船仲間”前田武彦さんとの思い出秘話 |website=ZAKZAK |quote=本当にボートの好きな人で、当時、ジャパン・モーターボート・クラブの会長に就任していた。三船さんとは年に2、3回、船上でパーティーをしたことを思い出す。 |date=2012-02-03 |accessdate=2019-06-26}}</ref>
<ref name="nifty1">{{Cite web |url=http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/sitininhiwa.htm |title=「七人の侍」 製作秘話|archiveurl=https://archive.is/XiQd |archivedate=2012-07-13 |accessdate=2019-06-26}}</ref>
<ref name="Tomita&Ozaki">{{Cite web |url=https://dramanavi.net/special/sp-45-interview/interview03.html |title=特集 ハリウッドで活躍する“アジア系”俳優を追え! |website=海外ドラマNAVI |accessdate=2019-06-27}}</ref>
<ref name="座談会">「「スタア」の座談会」『文藝春秋』1989年12月臨時増刊号、文藝春秋。</ref>
<ref name="文藝春秋">「三船敏郎の栄光とその破滅」『[[文藝春秋]]』2013年11月号、文藝春秋。</ref>
<ref name="講座">{{Cite journal |和書 |author=佐藤忠男 |title=ヒューマニズムの時代 |date=1987-1 |journal =講座日本映画5 戦後映画の展開|publisher=[[岩波書店]] |isbn=9784000102551 |pages=8-9}}</ref>
<ref name="kihachi">{{Cite book |和書 |title=Kihachi フォービートのアルチザン |pages=157-158 |publisher=東宝出版事業室 |editor=スタジオ・ジャンプ |date=1992}}</ref>
<ref name="中村敦夫">{{Cite book |和書 |author=中村敦夫 |date=2000-12 |title=俳優人生 振り返る日々 |publisher=朝日新聞社 |page=不明{{要ページ番号|date=2019-06-27}}}}</ref>
<ref name="うしお">{{Cite book|和書 |author=うしおそうじ|authorlink=うしおそうじ |date=2001-12 |title=夢は大空を駆けめぐる 恩師・円谷英二伝 |publisher=[[角川書店]] |isbn=9784048836951 |pages=146-147}}</ref>
<ref name="映画大事典">[[岩本憲児]]「三船敏郎」『世界映画大事典』、[[日本図書センター]]、2008年7月、p. 859。</ref>
<ref name="大系">{{Cite book|和書 |author=浜野保樹|authorlink=浜野保樹 |chapter=解説・世界のクロサワと挫折-三船敏郎と三船プロダクション |date=2009-12 |title=大系黒澤明 第2巻 |publisher=[[講談社]] |pages=701-702}}</ref>
<ref name="中島292">{{Harvnb|中島春雄|2010|pp=292 - 295|loc=「第六章 一九五〇 - 一九七二 大部屋俳優として 三船敏郎さん」}}</ref>
<ref name="円谷組">{{Cite book|和書|author=東宝ゴジラ会|date=2010-10-09|title=特撮 円谷組 ゴジラと東宝特撮にかけた青春|publisher=[[洋泉社]]|pages=pp.131-132|chapter=第二章 円谷組スタッフインタビュー INTERVIEW10 中島春雄|isbn=978-4-86248-622-6}}</ref>
<ref name="影響">「影響を受けた人々」({{Harvnb|映画秘宝|2018|pp=114-115}})</ref>
}}
 
=== テレビドラマ参考文献 ===
<!-- 「参考文献」節には、本記事の出典として実際に使われている文献のみをご記入下さい。 -->
* 『[[大忠臣蔵 (1971年 テレビドラマ)|大忠臣蔵]]』[[大石良雄]]役(1971年)
{{参照方法|date=2019年6月26日 (水) 12:54 (UTC)|section=1}}
* 『[[荒野の素浪人]]』峠九十郎役(1972年、NET / [[三船プロダクション|三船プロ]])
* {{Citation |和書 |editor=石熊勝己、[[映画秘宝]]編集部 |date=2018-7 |title=三船敏郎全映画 |series=映画秘宝COLLECTION |publisher=[[洋泉社]] |isbn=9784800314802 |ref={{Harvid|映画秘宝|2018}}}}
* 『[[荒野の用心棒 (テレビドラマ)|荒野の用心棒]]』(1973年、NET / 三船プロ)
* {{Cite book |和書 |author=スチュアート・ガルブレイス4世 |title=黒澤明と三船敏郎 |others=櫻井英里子訳|publisher=[[亜紀書房]] |date=2015-10 |isbn=9784750514581 |ref={{Harvid|ガルブレイス4世|2015}} }}
* 『[[剣と風と子守唄]]』砦十三郎役(1975年、日本テレビ / 三船プロ)
* {{Cite book |和書 |author=黒澤明|title=蝦蟇の油|publisher=[[岩波書店]] |series=同時代ライブラリー|date=1990-3 |isbn=4002600122 |ref={{SfnRef|黒澤|1990}} }}新版・[[岩波現代文庫]]、2001年
* 『[[人魚亭異聞 無法街の素浪人]]』ミスターの旦那役(1976年、NET / 三船プロ)
* {{Cite book|和書 |author=小林淳 |date=2019-4 |title=三船敏郎の映画史 |series=叢書・20世紀の芸術と文学 |publisher=[[中川右介|アルファベータブックス]] |isbn=9784865980639 |ref={{Harvid|小林|2019}}}}
* 『[[隠し目付参上]]』(1976年)
* {{Cite book|和書 |author=高瀬昌弘|authorlink=高瀬昌弘 |date=2002-12 |title=東宝砧撮影所物語 三船敏郎の時代 |series= |publisher=東宝出版商品事業室 |isbn=9784924609822 |ref={{Harvid|高瀬|2002}}}}
* 『[[江戸特捜指令]]』(1976年)第1話ゲスト
* {{Cite book|和書|title=怪獣人生 元祖ゴジラ俳優・中島春雄|author=中島春雄|authorlink=中島春雄|date=2010-07-31|publisher=洋泉社|isbn= 978-4-86248-589-2|ref= harv}}
* 『[[大江戸捜査網]]』 第301話「壮烈! 首領、暁に死す」大滝幽玄役(1977年)
* {{Cite book |和書 |author=松田美智子|authorlink=松田美智子 (作家) |title=サムライ 評伝三船敏郎 |publisher=[[文藝春秋]] |date=2014-1 |isbn=9784163900056 |ref={{Harvid|松田|2014}} }}[[文春文庫]]、2015年11月
* 『[[江戸の鷹 御用部屋犯科帖]]』内山勘兵衛役(1978年)
* {{Cite journal |和書 |author=三船敏郎、[[佐藤忠男]] |title=戦後映画を駆け抜ける |date=1987-1 |publisher=[[岩波書店]] |journal=講座日本映画5 戦後映画の展開 |isbn=9784000102551 |ref={{Harvid|三船|佐藤|1987}} }}
* 『[[駆け込みビル7号室]]』三枝剛介役(1979年、CX / 三船プロ)
* {{Cite book |和書 |date=1998-1 |title=追悼・三船敏郎:男 |series=アサヒグラフ増刊 |publisher=[[朝日新聞社]] | ref={{Harvid|朝日新聞社|1998}} }}
* 『[[赤穂浪士 (テレビドラマ 1979年)|赤穂浪士]]』立花左近役(1979年)
* 『[[江戸の牙]]』朝比奈軍兵衛役(1979年 - 1980年)
* 『[[火曜サスペンス劇場]]「球形の荒野」』(1981年)「火曜サスペンス劇場」第1作。
* 『[[関ヶ原 (テレビドラマ)|関ヶ原]]』[[島清興]]役(1981年)
* 『[[素浪人罷り通る]]』素浪人春夏秋冬役(1981年)
* 『勇者は語らず いま、日米自動車戦争は』(1983年)
* 『[[山河燃ゆ]]』天羽乙七役(1984年)
 
=== 関連文献 ===
* 『[[阿部嘉典]]』 『「映画を愛した二人」 明 三船敏郎』 [[報知新聞社]]、1996年1月。ISBN 4978-8319-0112-14831901125。
* [[高瀬昌弘上島春彦]]東宝砧撮影所物語 ―血の玉座 黒澤明と三船敏郎の時代映画世界[[作品社]]、2010年4月。ISBN 4-924609-82978-X4861822551。
*『三船敏郎、この10本 黒澤映画だけではない、世界のミフネ』 高田雅彦編、三船プロダクション監修、[[白桃書房]]、2018年5月。ISBN 978-4561511014。
*『三船敏郎 さいごのサムライ』〈毎日ムック〉[[毎日新聞社]]、1998年1月。ISBN 978-4620790930。
 
== 注釈関連項目 ==
* [[日本の男優一覧]]
{{reflist}}
 
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Toshirō Mifune}}
*[http://www.mifuneproductions.co.jp/mifune.html 公式サイト]
* {{Official website|http://mifuneproductions.co.jp}}
* {{imdb name|0001536}}
* {{jmdb name|0139060}}
* {{allcinema name|42379}}
* {{kinejun name|48133}}
* {{Movie Walker name|44738|}}
* {{Tvdrama-db name}}
* {{NHK人物録|D0009070834_00000}}
 
{{Navboxes
|title = 受賞
|list =
{{キネマ旬報ベスト・テン主演男優賞}}
{{ブルーリボン賞主演男優賞}}
{{ブルーリボン賞助演男優賞}}
{{毎日映画コンクール男優主演賞}}
{{毎日映画コンクール男優助演賞}}
{{ヴェネツィア国際映画祭 男優賞}}
}}
{{NHK紅白歌合戦審査員}}
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:みふね としろう}}
[[Category:日本の俳優三船敏郎|*]]
[[Category:日本の男優]]
[[Category:剣劇俳優]]
[[Category:日本の映画監督]]
[[Category:20世紀日本の実業家]]
[[Category:日本の映画プロデューサー]]
[[Category:東宝の人物]]
[[Category:東宝の俳優]]
[[Category:NHK紅白歌合戦審査員]]
[[Category:勲三等瑞宝章受章者]]
[[Category:紫綬褒章受章者]]
[[Category:日本の能プロモーター術文化勲章受章者]]
[[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]
[[Category:アクション俳優]]
[[Category:ヤクザ映画の俳優]]
[[Category:日本の引揚者]]
[[Category:青島出身の人物]]
[[Category:1920年生]]
[[Category:1997年没]]
[[Category:山東省出身の春秋苑に埋葬されている人物]]
[[Category:引揚者]]
[[Category:特攻]]
{{Actor-stub}}
 
[[bg:Тоширо Мифуне]]
[[bn:তোশিরো মিফুনে]]
[[cs:Toširó Mifune]]
[[de:Toshirō Mifune]]
[[en:Toshirō Mifune]]
[[es:Toshirō Mifune]]
[[fi:Toshirō Mifune]]
[[fr:Toshirō Mifune]]
[[he:טושירו מיפונה]]
[[hu:Mifune Tosiró]]
[[id:Toshiro Mifune]]
[[it:Toshiro Mifune]]
[[ka:მიფუნე ტოსირო]]
[[la:Toshirō Mifune]]
[[nl:Toshiro Mifune]]
[[no:Toshiro Mifune]]
[[pl:Toshirō Mifune]]
[[pt:Toshiro Mifune]]
[[ru:Мифунэ, Тосиро]]
[[sh:Toširo Mifune]]
[[simple:Toshirō Mifune]]
[[sk:Toširo Mifune]]
[[sl:Toširo Mifune]]
[[sr:Тоширо Мифуне]]
[[sv:Toshiro Mifune]]
[[tr:Toşiro Mifune]]
[[zh:三船敏郎]]