「仁木頼章」の版間の差分
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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 仁木頼章
| 時代 = [[鎌倉時代]]後期 - [[室町時代]]前期
| 生誕 = [[正安]]元年([[1299年]])
| 死没 = [[正平 (日本)|正平]]14年/[[延文]]4年[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]([[1359年]][[11月4日]])
| 改名 =
| 別名 = 二郎三郎
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 = 持地院道璟
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[兵部大輔]]、[[周防守]]、[[伊賀守]]、[[左京大夫]]
| 幕府 = [[鎌倉幕府]]→[[室町幕府]]
| 主君 =
| 父母 = 父:[[仁木義勝]]
| 兄弟 = [[仁木義連|義連]]、'''頼章'''、[[仁木義長|義長]]、[[仁木頼勝|頼勝]]
| 子 = [[仁木義尹|義尹]]、養子:''[[仁木頼夏|頼夏]]''{{efn|『[[尊卑分脈]]』によると、[[細川清氏]]の庶長子で[[猶子]]。}}
| 特記事項 =
}}
'''仁木 頼章'''(にき よりあき)は、[[鎌倉時代]]後期から[[室町時代]]前期の[[武将]]で、[[室町幕府]]初代[[征夷大将軍|将軍]][[足利尊氏]]の[[執事]]。[[左京大夫]]{{Sfn|続群書類従完成会|1926|p=361}}。
[[仁木氏]]は[[清和源氏]][[足利氏]]の一族で、同族[[細川氏]]や[[高氏|高]]・[[上杉氏]]らとともに足利氏家臣団の主要メンバーでもあった。頼章も足利尊氏の側近として南北朝期に活躍する。[[後醍醐天皇]]の[[建武の新政]]に反旗を翻した尊氏が敗れて[[九州]]へ落ちる際、頼章は[[丹波国]]に留まって国内の武士をまとめ、[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])5月に東上した尊氏が[[摂津国|摂津]][[湊川の戦い]]で[[楠木正成]]らを破るとこれに合流し、6月には[[新田義貞]]を破って京都を奪還した。▼
== 生涯 ==
尊氏が[[室町幕府]]を開くと、頼章は弟[[仁木義長|義長]]らとともに[[北朝 (日本)|北朝]]・武家方の武将として[[越前国|越前]][[金ヶ崎城]]攻めや[[河内国|河内]][[四条畷の戦い]]など各地を転戦し、また丹波の守護に任ぜられた。▼
[[仁木義勝]]の子として生まれる{{Sfn|続群書類従完成会|1926|p=361}}。
[[三河国]][[額田郡]]仁木郷(現・[[愛知県]][[岡崎市]][[仁木町 (岡崎市)|仁木町]])出身。[[仁木氏]]は[[清和源氏]][[足利氏]]の一族で、同族[[細川氏]]や[[高氏|高]]・[[上杉氏]]らとともに足利氏家臣団の主要メンバーでもあった。頼章も足利尊氏の側近として早くから活躍していたようで、まだ尊氏が[[鎌倉幕府]]の与党であった[[1333年]]、後醍醐とその与党を討伐するために上洛する尊氏に供奉したことや、建武新政発足後、[[北条時行]]が北条の残党を糾合して鎌倉を占拠した際、これを討伐する尊氏に供奉したことなどが『[[太平記]]』に描かれている。
尊氏の[[執事#室町幕府の執事|執事]](後の[[管領]])[[高師直]]と尊氏の弟[[足利直義|直義]]の確執が尊氏派・直義派の抗争に発展すると([[観応の擾乱]])、頼章は一貫して尊氏派に属して直義派との戦いに活躍し、[[侍所]]頭人に任ぜられている。[[観応]]2年(南朝[[正平]]6年、[[1351年]])に師直が直義派の[[上杉能憲]]に謀殺された後は、頼章が執事を務めた。この間、丹波・[[丹後国|丹後]]・[[武蔵国|武蔵]]・[[下野国|下野]]の守護職を兼帯し、義長と合わせて仁木氏は一時9ヶ国を帯有して幕政に重きをなした。▼
▲
[[延文]]3年(正平13年、[[1358年]])4月に尊氏が死去すると、頼章は執事職を辞し、[[出家]]して道璟と号した。翌延文4年([[1359年]])10月13日に61歳で死去した。▼
▲尊氏が[[室町幕府]]を開くと、頼章は弟・[[仁木義長|義長]]らとともに[[北朝 (日本)|北朝]]・武家方の武将として[[越前国
▲尊氏の[[執事#室町幕府の執事|執事]](後の[[管領]])・[[高師直]]と尊氏の弟・[[足利直義|直義]]の確執が尊氏派・直義派の抗争に発展すると([[観応の擾乱]])、頼章は一貫して尊氏派に属して直義派と
▲*[[仁木氏]]
正平7年([[1352年]])1月以前、直義方だった上杉氏に代わって武蔵国守護に補任された{{Sfn|佐藤|1967|pp=135-136}}。同国守護としては同年12月まで在職の徴証がある{{Sfn|佐藤|1967|p=136}}。
頼章が尊氏の執事として発行した文書は多いが、文和3年([[1354年]])以前は出す書状の殆どが[[施行状]]であったが、同年以降は将軍[[御教書]]も並行して出すようになっている。[[森茂暁]]の指摘によれば、この頃から頼章は裁判の管轄を管掌し、政務長官としての役割を持つようになり、これが[[管領]]制の嚆矢になったという<ref>森「太平記の群像」173,174頁</ref>。なお、施行状の発給は高師直政権時代には執事固有の役割だったが、仁木政権時代には頼章自身だけではなく[[南宗継]](師直の又従兄弟)や[[今川範国]]、そして将軍尊氏自身が発給することもあるなど、変則的な状況になっていた{{sfn|亀田|2017|loc=第6章第1節}}。
▲正平13年/[[延文]]3年(
執事として政務にも辣腕を振るった頼章だが、『太平記』においては合戦で勇躍する武将としての活躍が強調されており、尊氏の執事として幕府を守り立てた業績についてはあまり言及されていない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* {{ Citation | 和書
| last=亀田
| first=俊和
| author-link=亀田俊和
| title=観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い
| publisher=[[中央公論新社]]
| series=中公新書 2443
| year=2017
| isbn=978-4121024435
}}
* 小泉宜右「仁木頼章」『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』第11巻、[[吉川弘文館]]、[[1990年]] ISBN 4-642-00511-0
* {{Citation|和書|date=1967-09-10|title=室町幕府守護制度の研究|volume=上|volume-title=南北朝期諸国守護沿革考証編|publisher=[[東京大学出版会]]|author=佐藤進一|id={{NDLJP|2993194}}|ref={{SfnRef|佐藤|1967}}}}{{要登録}}
* [[森茂暁]]「太平記の群像」(角川選書)
* {{Citation|和書|date=1926-04-30|chapter=巻第九十一 執事補任次第|title=続群書類従|volume=第四輯上|volume-title=帝王部.補任部|edition=再版|publisher=[[続群書類従完成会]]|id={{NDLJP|936499/185}}|ref={{SfnRef|続群書類従完成会|1926}}}}{{オープンアクセス}}
* {{Citation|和書|date=1966-03-30|title=読史備要|publisher=[[講談社]]|editor=[[東京大学史料編纂所]]|id={{NDLJP|3007343}}|ref={{SfnRef|東京大学史料編纂所|1966}}}}{{要登録}}
{{管領}}
{{people-stub}}
{{japanese-history-stub}}
[[Category:鎌倉時代の武士]]
[[Category:南北朝時代の
[[Category:室町幕府執事]]
[[Category:守護大名]]
[[Category:仁木氏|よりあき]]
[[Category:三河国の人物]]
[[Category:1299年生]]
[[Category:1359年没]]
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