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{{出典の明記| date = 2021年8月}}
{{buddhism}}
'''三武一宗の法難'''(さんぶ いっそう ほうなん)と、[[中国語]]:三武之禍、[[拼音]]: sān wǔ zhī huò)は、[[中国]]の歴代王朝が[[仏教]]を弾圧した[[事件]]中でうちとりわけ規模大きく、また後世への影響力も大きかった4度の廃仏事件を、4人の[[皇帝]]による廃仏事件のことである。各皇帝の[[廟号]]や[[諡号]]をとってこう呼んでばれている。'''三武一宗の廃仏'''とも。
 
== 廃仏の状況 ==
[[後周]]の場合は、廃仏にあたって道教徒と関わった事実が存在しなかったので、[[柴栄|世宗]]自身の意志で断行されたと認められている。但し、廃仏の後に4人の皇帝とも若くして非業の死を遂げており、仏教者の側から「すべて仏罰である」ということを強調する時には、後周の世宗も含まれている。
 
[[北魏]]の[[太武帝]]と[[唐]]の[[武宗 (唐)|武宗]]とは、[[道教]]を保護する一方で仏教を弾圧したが、[[北周]]の[[武帝 (北周)|武帝]]は、道教も仏教もともに弾圧した。その一方で、[[通道観]]という施設を新設し、仏教・道教を研究させている。後に述べるように道教の保護だけに留まらず経済政策の意味もあった。
 
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*北周 : [[衛元嵩]]([[還俗|還俗僧]])・[[張賓 (北周)|張賓]](道士)
*唐 : [[李徳裕]](唐の[[僕射|左僕射]])・[[趙帰真]](道士)
 
== 中国の仏教弾圧 ==
仏教弾圧(=[[法難]])事件についてであるが、皇帝権力の強い中国においては、この4度に限らず、仏教を排斥する政策は度々とられている。その場合は、大規模な廃仏とは区別する意味で、「[[沙汰]]」という用語が用いられたり、現代的には「仏教統制政策」と呼んだりしている。例えば、[[玄奘三蔵]]の大々的な訳経事業を外護した[[唐]]の[[太宗 (唐)|太宗]]も、「仏教を沙汰する[[詔]]」を発している。
 
弾圧する為政者側からは「[[廃仏]]」と呼ぶが、弾圧される[[仏教]]側からは非難の意味を込めて、仏教にとってこの皇帝の時代は不運であったことを表す用語として「[[法難]]」という語が用いられる。古くは、後述される政治・経済上の要因まで考慮されることがなく、仏教に対する攻撃の裏には必ず道教勢力の暗躍があったため、それに扇惑された皇帝が廃仏事件(仏教側から見た法難)をひき起こしたのだとする一方的な見方をされるのが常であった。
 
== 弾圧政策の内容 ==
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== 仏教の影響力 ==
軍事面でも、出家して軍籍から離脱する国民が大量に出ることは、戦乱の時代にあっては痛手であった。特に[[五胡十六国時代]]には、それまで啓示系の宗教が中国には無かったこともあって、仏教の影響力は絶大で、[[北斉]]の史官[[魏収]]は、寺3万、僧尼200万と記しており、この数字を鵜呑みにするならば、全人口が1000万にも達しなかったであろう当時の割拠政権にとって、そのような膨大な人口を再び国に戻すことは、必要に迫られた国家的であったと言える。ただ、3万箇寺、僧尼2百万人というのは、北朝・南朝にかかわらず、『[[魏書]]』以外の史料に見える数字と比較しても著しく突出しており、仏教崇拝の弊害を強調しようとして誇張したものと考えられる。
 
== 関連項目 ==
* [[法難]]
* [[廃仏毀釈]] (日本の[[明治時代]]の仏教弾圧)
* [[サムイェー寺の宗論]]([[792年]] - [[794年]])
 
== 外部リンク ==
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[[Category:中国仏教]]
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