削除された内容 追加された内容
 
(95人の利用者による、間の182版が非表示)
1行目:
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 龍造寺 隆信
| 画像 = Ryūzōji Takanobu.jpg
| 画像サイズ = 200px230px
| 画像説明 = 龍造寺隆信像([[佐賀県立博物館宗龍寺]]蔵、佳山宗勗賛<br/>享保4(1719)年、佐賀県重要文化財
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]]
| 生誕 = [[享禄]]2年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]([[1529年]][[3月24日]])
| 死没 = [[天正]]12年[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]([[1584年]][[5月4日]])
| 改名 = 長法師丸<ref>{{Harvnb|川副|2006|ref=kaw|loc=p.105}}</ref>[[幼名]])→)、円月(法名)、龍造寺胤信、隆胤、隆信
| 別名 = 山城守、中納言、中将([[仮名 (通称)|通称]])、円月坊(号)<ref>{{Harvnb|川副|2006|ref=kaw|loc=p.107}}</ref>、肥前の熊(渾名)
| 別名 = [[諱]]:隆胤<br />[[受領名]]:[[山城守]]<br />号:円月坊<br />[[渾名]]:肥前の熊
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 = 龍泰寺法雲院殿泰宗龍大居士
| 霊名 =
| 墓所 = [[佐賀県]][[佐賀市]]の[[高伝寺]]
| 官位 =
| 幕府 =
| 主君 = [[少弐氏]]→[[龍造寺家兼]]→[[龍造寺胤栄|胤栄]]→[[大内義隆]]→[[大内義長|義長]]→[[大友義鎮]]→[[毛利元就]]→大友義鎮
| 主君 =
| 藩 =
| 氏族 = [[龍造寺氏]]
| 父母 = 父:[[龍造寺周家]] 母:[[慶誾尼]]([[龍造寺胤和]]女)
| 兄弟 = 女([[八戸宗暘]]室<ref name="北肥戦誌">『北肥戦誌』の記述</ref>、'''隆信'''、[[龍造寺信周|信周]]、<br>[[犬塚尚重]]継室<ref name="北肥戦誌"/>、[[龍造寺長信|長信]] <br/>義弟∶[[鍋島直茂]]
| 妻 = [[正室]]:'''[[龍造寺家門]]娘'''<ref>『肥陽軍記』の記述</ref>
| 子 = '''[[龍造寺政家|政家]]'''、[[龍造寺隆平|隆平]]、[[江上家種]]、[[後藤家信]]、[[玉鶴姫]]<br>''[[蒲池鎮漣於安]]''、[[倉町信俊]]室
| 特記事項 =
}}[[ファイル:龍造寺隆信.jpg|代替文=佐賀県立図書館データベース|絵葉書・写真データベース|龍造寺隆信|サムネイル|佐賀県立図書館データベース|絵葉書・写真データベース|龍造寺隆信]]
}}
'''龍造寺 隆信'''(りゅうぞうじ たかのぶ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にての[[武将]]。[[肥前国|肥前]]の[[戦国大名]]。
「九州三強の一人」や「肥前の熊」、「五州二島の大守」 などの異名が有名。
また、'''曾祖父から曾孫への家督継承'''という戦国時代以外でもそう類を見ない例を成功させている。
龍造寺嫡家は途絶えたとされるが、龍造寺一門のその子孫や後裔は現在の[[佐賀県]]・[[長崎県]][[諫早市]]・[[大村市]]などに点在するとされている。[[鍋島直茂]]は隆信の義弟である。
 
仏門にいた時期は'''中納言円月坊'''を称し、[[還俗]]後は初め'''胤信'''(たねのぶ)を名乗り、[[大内義隆]]から偏諱をうけて'''隆胤'''(たかたね)、次いで隆信と改めた。
“五州太守”の称号を好んで用い、「肥前の熊」ともいわれた。仏門にいた時期は「円月坊」、還俗後は「胤信」を名乗る。本姓は藤原氏を称した。[[大友氏]]を破り、[[島津氏]]と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・[[肥前有馬氏|有馬氏]]の連合軍との戦い([[沖田畷の戦い]])で敗死した。
 
「五州二島の太守{{Sfn|川副|2006|p=337}}」の称号を自らは好んで用いたが、'''肥前の熊'''の異名をとった。[[少弐氏]]を[[下剋上]]で倒し、[[大友氏]]を破り、[[島津氏]]と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・[[肥前有馬氏|有馬氏]]の連合軍との戦い([[沖田畷の戦い]])で不覚をとり、敗死した。
 
== 生涯 ==
龍造寺氏の出自については諸説があるが、[[藤原北家]][[藤原隆家|隆家流]]と称した[[肥前高木氏]]の支流が有力である。{{main|龍造寺氏}}
 
=== 家督相続 ===
[[享禄]]2年(1529([[1529]])2月15日、[[龍造寺家兼]]の孫に当たる[[龍造寺周家]]の長男として肥前[[佐賀郡|佐嘉郡]][[水ヶ江城]]主)長男として東館天神屋敷で誕まれる。幼少期は宝琳寺の大叔父・[[豪覚]]和尚の下に預けられて養育された{{Sfn|川副|2006|p=104}}
 
幼少期は[[鬼丸町#寶琳院|宝琳院]]の大叔父・[[豪覚]]和尚の下に預けられて養育された。[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])、7歳のときに出家して寺僧となり、中納言房あるいは中将を称し、法名を円月(圓月)とした<ref name="p2853">{{Harvnb|大日本人名辞書刊行会|1926|loc=p.2853}}</ref>。円月は、12、13歳の頃より、20歳くらいの知識があり、腕力も抜群であったとされる<ref name="日本の武将45">{{Harvnb|川副|1967|p=106}}</ref>。まだ15歳の僧侶であった頃、宝琳院の同僚が付近の領民と諍いを起こし、院内へ逃げ込み門戸を閉ざしていた。これを領民6、7人がこじ開けようとしていたのを円月が一人押さえていたが、力余って扉が外れ、領民4、5人がその下敷きになった。領民は恐れをなして逃げ帰ったという<ref name="日本の武将45"/>。
[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545年]])、祖父・[[龍造寺家純]]と父・龍造寺周家が、主君である[[少弐氏]]に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐氏重臣の[[馬場頼周]]によって誅殺される。隆信は曽祖父の家兼に連れられて[[筑後国|筑後]]の[[蒲池氏]]の下へ脱出した。翌天文15年([[1546年]])、家兼は[[蒲池鑑盛]]の援助を受けて挙兵し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興するが、その直後に家兼は高齢と病のために死去した。このとき、家兼は隆信の器量をすでに見抜いており、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継ぐようにと遺言を残している。
 
天文14年([[1545年]])、祖父・[[龍造寺家純]]と父・周家が、主君である[[少弐氏]]に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐氏重臣の[[馬場頼周]]によって誅殺された。円月は、曽祖父の家兼に連れられて[[筑後国]]の[[蒲池氏]]の下へ脱出した。天文15年([[1546年]])、家兼は[[蒲池鑑盛]]の援助を受けて挙兵し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興するが、まもなく家兼は高齢と病のために死去した。家兼は円月の器量を見抜いて{{Efn|曽祖父の家兼は幼い頃の隆信(円月)が、『[[平家物語]]』の中の[[壇ノ浦の戦い]]の話をすらすらと暗唱したので、只者ではないと感心したといわれている{{Sfn|川副|2006|p=106}}。}}、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継ぐようにと遺言を残した{{Sfn|川副|2006|p=108}}。それに従って翌年、円月は、重臣[[石井兼清]]の先導で、兼清の屋敷に入り、還俗して'''胤信'''を名乗り<ref name="p109">{{Harvnb|川副|2006|p=109}}</ref>、水ヶ江龍造寺氏の家督を継ぐことになった<ref name="p109"/>。しかし胤信が水ヶ江家の家督を相続するに及んでは一族・老臣らの意見は割れた。そこで[[八幡宮]]に詣でて[[くじ|籤]]を三度引き神意を問うたが、籤は三度とも胤信を選んだため、家督相続が決定したという{{Sfn|川副|1967|p=108}}。
こうして隆信(還俗後のこの時期は胤信と名乗っていた)は水ヶ江龍造寺氏の[[家督]]を継いだ。その後は龍造寺本家の当主・胤栄に従い、天文16年([[1547年]])には胤栄の命令で主筋に当たる[[少弐冬尚]]を攻め、[[勢福寺城]]から追放した。
 
その後、龍造寺本家の当主・[[龍造寺胤栄|胤栄]]に従い、天文16年([[1547年]])には胤栄の命令で主筋に当たる[[少弐冬尚]]を攻め、[[勢福寺城]]から追放した。天文17年([[1548年]])、龍造寺胤栄が亡くなったため、信はその未亡人を娶り{{Sfn|川副|2006|p=115}}、本家(村中龍造寺)の家督も継承することとなるした。しかし信の家督継承乗っ取りに不満を持つ[[綾部鎮幸]]等の家臣たちも少なくなく、信はこれを抑えるために当時西国随一の戦国大名であった[[大内義隆]]と手を結び、翌天文19年([[偏諱1550年]]よっは義隆から山城守を敷奏され、さらに実名の一字を与えられ[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]に'''隆胤'''と改め、ついで[[7月19日 (旧暦)|同月19日]]に'''隆信'''と名乗った{{Sfn|川副|2006|p=119}}<ref>『[[系図纂要]]』</ref>。隆信は大内氏の力を背景に家臣たちの不満を抑え込んだ
 
また、同年、祖父・家純の娘である重臣・[[鍋島清房]]の正室が死去すると、隆信の母・[[慶誾尼]]は、清房とその子・[[鍋島直茂|直茂]]は当家に欠かすことができない逸材として、押し掛ける形で後室に入って親戚とした<ref name="p109"/>。
 
=== 肥前統一 ===
[[ファイル:Akashidō Kawasoe Saga distant.JPG|thumb|200px|天文22年(1553年)隆信の軍勢が筑後から肥前に上陸した地にある「燈堂」(あかしどう)、佐賀市川副町犬井道。{{Efn|この地は当時海岸で灯火があり、上陸の目印となった。軍勢の水先案内をした2人の漁夫には定置網漁を許可する特権が与えられた。その子孫らにより1953年(昭和28年)に石像が建立された(写真の石像は2代目)<ref>「[http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=2058 龍造寺隆信公と網漁業(立切網・はじさし網)]」「[http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=5246 燈堂]」、佐賀市地域文化財データベースサイト さがの歴史・文化お宝帳、2018年2月14日閲覧。</ref>。}}]]
天文20年([[1551年]])、大内義隆が家臣の[[陶晴賢]]の謀反により死去すると、後ろ盾を失った隆信は、[[龍造寺鑑兼]]を龍造寺当主に擁立せんと謀った家臣の[[土橋栄益]]らによって肥前を追われ、筑後に逃れて再び[[柳川城]]主の蒲池鑑盛の下に身を寄せた。そして天文22年([[1553年]])、蒲池氏の援助の下に挙兵して勝利し、肥前の奪還を果たした。その際に[[小田政光]]が恭順、栄益は捕えられて処刑、鑑兼は幼少であった為に許されている。
 
天文20年([[1551年]])、大内義隆が家臣の[[陶晴賢|陶隆房(のちの晴賢)]]の謀反により死去する([[大寧寺の変]])と{{Efn|『歴代鎮西誌』によると、[[7月2日 (旧暦)|7月2日]](年度不明)に陶隆房から隆信へ派された使者が、「義隆が文事に耽って諌めても聞き容れないので、この際これを除こうと思う」と伝えたとする{{Sfn|川副|1967|p=118}}。}}、後ろ盾を失った隆信は、密かに大友氏に通じて[[龍造寺鑑兼]]を龍造寺当主に擁立せんと謀った家臣・[[土橋栄益]]らによって肥前を追われ、筑後に逃れて、再び[[柳川城]]主の蒲池鑑盛の下に身を寄せた{{Sfn|川副|2006|p=124}}。天文22年([[1553年]])、蒲池氏の援助の下に挙兵して勝利し、肥前の奪還を果たす。その際に[[小田政光]]が恭順し{{Sfn|川副|2006|p=133}}、土橋栄益は捕えられて処刑され<ref name="p134">{{Harvnb|川副|2006|p=134}}</ref>、龍造寺鑑兼は隆信正室の兄であり佐嘉郡に帰らせて所領を与えた<ref name="p134"/>。
その後は勢力拡大に奔走し、[[永禄]]2年([[1559年]])にはかつての主家であった少弐氏を攻め、勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込んで[[大名]]としての少弐氏を完全に滅ぼした。また、江上氏や神代氏などの肥前の諸豪族を次々と降し、永禄3年([[1560年]])には[[千葉胤頼]]を攻め滅ぼしている。さらに少弐氏旧臣の馬場氏、横岳氏なども下し、永禄5年([[1562年]])までに東肥前の支配権を確立した。
 
天文23年([[1554年]])、[[大友宗麟]]が肥前守護にも任命されたため形式上麾下の国人となった。
このような急速な勢力拡大は近隣の[[肥前有馬氏|有馬氏]]や[[大村氏]]などの諸大名を震撼させ、永禄6年([[1563年]])に両家は連合して東肥前に侵攻するが、隆信は[[千葉氏]]と同盟を結んでこの連合軍を破った。これにより南肥前にも勢威が及ぶようになったため、今度は[[豊後国|豊後]]の[[大友義鎮|大友宗麟]]が隆信を危険視し、少弐氏の生き残りである[[少弐政興]]を支援し、これに[[馬場氏]]や[[横岳氏]]ら少弐氏旧臣が加わって隆信に対抗する。永禄12年([[1569年]])には宗麟自らが大軍を率いて肥前侵攻を行なうが、[[毛利元就]]が[[豊前国|豊前]]に侵攻してきたため、宗麟は肥前から撤退した。
 
その後は勢力拡大に奔走し、[[永禄]]2年([[1559年]])にはかつての主家であった少弐氏を攻め、勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込んで[[大名]]としての少弐氏を完全に滅ぼした。また、江上氏や犬塚氏などの肥前の[[国人]]を次々と降し、永禄3年([[1560年]])には[[千葉胤頼]]を攻め滅ぼしている。さらに少弐氏旧臣の馬場氏、横岳氏なども下し、永禄4年([[1561年]])には[[川上峡合戦]]で[[神代勝利]]を破り<ref>{{Cite book|和書|author=秀村選三|title=水江臣記|series=九州史料落穂集 第五冊|publisher=文献出版|year=1986|page=38}}</ref>、永禄5年([[1562年]])までに東肥前の支配権を確立した。
その後、元就を破った宗麟は、[[元亀]]元年([[1570年]])に弟の[[大友親貞]]を総大将として6万と号する大軍を組織し、肥前に侵攻させる。しかし隆信はこれを[[鍋島直茂|鍋島信生]](後の直茂)による奇襲策によって撃退し([[今山の戦い]])、大友氏と有利な和睦を結ぶことに成功した。隆信は[[今山の戦い]]で勝利は収めたものの、その後も[[大友氏]]に従属していた。[[今山の戦い]]以降も、[[大友氏]]が軍勢動員の触れを隆信に送っており、また息子の[[龍造寺政家|政家]]が一時期「鎮賢」(大友義鎮の鎮から)と名乗っている。隆信が周辺豪族を滅ぼす、従属させるたびに宗麟から詰問の使者が来ていたが、結局既得権として切り取った領土を認められ、耳川の戦いまでに確実に領土を広げ、力を蓄えていた。
 
このような急速な勢力拡大は近隣の[[肥前有馬氏|有馬氏]]や[[大村氏]]などの諸大名を震撼させ、永禄6年([[1563年]])に両家は連合して東肥前に侵攻するが、隆信は[[千葉胤連]]と同盟を結んでこの連合軍を破った([[丹坂峠の戦い]]){{Sfn|川副|2006|pp=183-184}}。これにより南肥前にも勢威が及ぶようになったため、今度は[[豊後国]]の[[大友義鎮|大友宗麟]]が隆信を危険視し、少弐氏の生き残りである[[少弐政興]]を支援し、これに[[馬場氏]]や[[横岳氏]]ら少弐氏旧臣が加わって隆信に対抗する。永禄12年([[1569年]])には宗麟自らが大軍を率いて肥前侵攻を行なうが、[[毛利元就]]が[[豊前国]]に侵攻してきたため、宗麟は肥前から撤退した([[多布施口の戦い]])。その後、元就を破った宗麟は、[[元亀]]元年([[1570年]])に弟の[[大友親貞]]を総大将とする3千の軍を組織し、肥前に侵攻させる{{Sfn|川副|2006|p=225}}。しかし隆信はこれを鍋島信生(後の[[鍋島直茂]])による奇襲策によって撃退した。
元亀3年([[1572年]])には少弐政興を肥前から追放する。天正元年([[1573年]])には西肥前を平定し、天正3年([[1575年]])には北肥前を平定する。天正4年([[1576年]])には南肥前に侵攻し、天正5年([[1577年]])までに[[大村純忠]]を降し、天正6年([[1578年]])には[[有馬晴信]]を降して肥前の統一を完成した。これを機に家督を嫡男の龍造寺政家に譲って[[隠居]]する(隠居した年は天正9年(1581年)説もある)。しかしなおも政治・軍事の実権は握り続けた。
{{main|今山の戦い}}
 
その後、大友氏と有利な和睦を結ぶことに成功したが、隆信は今山の戦いで勝利は収めたものの、局地的な勝利に過ぎなかったので、この時点で大友氏の肥前支配を排除できなかった<ref>{{Cite journal|和書|author=堀本一繁|title=龍造寺氏の戦国大名化と大友氏肥前支配の消長|journal=日本歴史|issue=598号|year=1998}}</ref>。今山の戦い以降も、[[大友氏]]が軍勢動員の触れを隆信に送って、また子・[[龍造寺政家|政家]]が大友宗麟(義鎮)から[[偏諱]](「鎮」の字)を賜って一時期「鎮賢」(しげとも)と名乗っている。隆信が周辺の国人を滅ぼしたり、従属させるたびに宗麟から詰問の使者が来ていたが、結局既得権として切り取った領土を認められ、[[耳川の戦い]]までに確実に領土を広げ、力を蓄えていた。
 
元亀3年([[1572年]])、少弐政興を肥前から追放する。[[天正]]元年([[1573年]])には西肥前を平定し、天正3年([[1575年]])には東肥前を平定する{{Sfn|川副|2006|pp=281-282}}。天正4年([[1576年]])には南肥前に侵攻し、天正5年([[1577年]])までに[[大村純忠]]を降し{{Sfn|川副|2006|p=297}}、天正6年([[1578年]])には[[有馬鎮純]]の松岡城を降して肥前の統一を完成した{{Sfn|川副|2006|p=291}}。天正8年([[1580年]])4月に家督を嫡男・政家に譲って、自らは[[須古城]]へ隠居する{{Sfn|川副|2006|p=333}}。しかしなおも政治・軍事の実権は握り続けた。
 
=== 勢力拡大 ===
天正6年([[1578年]])、大友宗麟が[[耳川の戦い]]で[[島津義久]]に大敗すると、隆信は大友氏の混乱に乗じて大友氏の勢力圏領国を席捲し、大友氏から奪取に努め完全な自立を果たしそれまで対等な関係であった国衆を服属化させ戦国大名化した。天正8年([[1580年]])までに[[筑前国|筑前]]や[[筑後国|筑後]]、[[肥後国|肥後]]、豊前などの4ヵ国のかなりの部分を勢力下に置くことに成功している。しかし天正8年(1580年)、島津と通謀した筑後の[[蒲池鎮漣]]を謀殺し{{Sfn|川副|2006|p=342}}、次いで柳川の鎮漣の一族を皆殺しにし、また天正11年([[1583年]])に[[赤星統家]]が隆信の命に背いた際、人質として預かっていた赤星の幼い息子と娘を殺したため、隆信は麾下の諸将の一部からも冷酷な印象で見られるようになる
 
天正9年([[1581年]])、龍造寺軍は龍造寺政家を主将として肥後へ侵攻、4月までに[[山鹿郡]]の[[小代親伝]]、[[菊池郡]]の[[隈部親永]]、[[大津山資冬]]、[[戸原親運]]、[[益城郡]]の[[甲斐親直|甲斐宗運]]、[[合志郡]]の[[合志親為]]、[[飽田郡]]の[[城親賢]]、隈府の赤星統家、[[球磨郡]]の[[相良義陽]]が参陣した。また先陣の鍋島信昌は、隈府の[[赤星親隆]]、[[山本郡 (熊本県)|山本郡]]の[[内空閑鎮房]]を下し、肥後計略は完了、龍造寺軍は帰陣した{{Sfn|川副|2006|pp=334-336}}{{Efn|江戸期に書かれた『北肥戦誌』などの記述によるものである。城親賢に関しては[[名和顕孝]]と共に[[耳川の戦い]]の直ぐ後に島津家に従属しており、これを支援すべく島津軍は宇土半島の阿蘇家臣である[[中村惟冬]]の矢崎城及び、その弟の[[中村二大夫]]の綱田城を降して橋頭保を確保、[[鎌田政年]]らが手勢を率いて隈本の城へ入って常駐している。また『[[上井覚兼日記]]』の天正10年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]の項に安楽寺に来襲した龍造寺勢を城氏が撃退したとあり、龍造寺側の史書とは齟齬がある。}}。
しかし天正8年(1580年)、筑後の[[蒲池鎮漣|蒲池鎮並]]を謀殺し、次いで柳川の鎮漣の一族を皆殺しにし、さらに人質として預かっていた[[赤星統家]]の息子を殺すなど、次第に内部の[[粛清]]を頻繁に行うようになる。天正9年([[1581年]])には[[相良氏]]を破った[[島津氏]]の北上が始まったため、隆信はこれに対抗するために天正11年([[1583年]])、政家を肥後に侵攻させ、一時は島津軍を圧倒している。
 
同年8月、[[島津義弘|島津忠平]](義弘)が北上し[[相良氏]]の[[水俣城]]を攻めたため、相良氏、[[阿蘇氏]]、[[甲斐氏]]らは[[南関町|南関]]に陣する[[龍造寺家晴]]に救援を求めた。家晴は直ちに援兵を差し向けたので、島津忠平は八代に退いた{{Efn|『北肥戦誌』の記述。島津側が実際に八代を領有したのは天正10年である<ref>{{Cite book|和書|author=島津修久|title=島津義弘の軍功記|publisher=島津顕彰会|year=2000}}</ref>、<ref>{{Cite book|和書|author=池田こういち|title=肥後相良一族|publisher=新人物往来社|year=2005}}</ref>}}。
天正11年([[1583年]])、家晴は筑前、肥前、筑後並びに肥後の味方の兵を自ら率い(『北肥戦誌』では37,000余)、島津は[[伊集院氏|伊集院]]、[[新納氏|新納]]、[[樺山氏|樺山]]、[[喜入氏|喜入]]等の手勢を集め、高瀬川(現・[[菊池川]])を挟んで対峙したが、[[秋月種実]]の仲裁により、高瀬川より[[巽]](東南)を島津領、[[乾]](北西)を龍造寺領と定めて、天正12年([[1584年]])に両者和睦に至った。これを聞いた隆信は、島津と一戦もせずに講和したことを憤ったという{{Sfn|川副|2006|pp=350-351}}<ref>『北肥戦誌』</ref>。もっとも、島津氏の家老・上井覚兼の『[[上井覚兼日記]]』天正11年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]の項には、秋月種実の使者が隈本(熊本)に参じて、龍造寺との和平及び、共に大友を討つことを島津方に周旋した上で、隆信および種実は島津義久を九州の[[守護職|守護]]と仰ぎ奉ると述べたとし<ref>『大日本古記録 上井覚兼日記 上』 [[岩波書店]] 282頁</ref>島津側に立った記述がなされている。
 
=== 最期 ===
天正12年([[1584年]])3月、[[有馬晴信]]が龍造寺氏から離反する。晴信の縁戚である同地深江城主・[[安富純冶]]、[[安富純泰|純泰]]父子は依然龍造寺方であったが、有馬晴信は深江城を攻め島津がこれに加勢したため、隆信は深江城を救援し有馬を討つべく軍勢を差し向けた。しかし、有馬攻めは遅々として進まず、これに業を煮やした隆信は、自ら大軍を率いて島津・有馬連合軍との決戦を決意する。
天正12年(1584年)、有馬晴信が龍造寺氏から離反する。これを機に[[島原半島]]における龍造寺方の諸豪族が動揺し始めたため、隆信は自ら大軍を率いて島津・有馬連合軍との決戦を決意する。このとき龍造寺軍は6万(諸説あり)という大軍であり、島津軍はわずか5000と圧倒的な兵力差であったが、地形や戦術を巧みに使用した島津義久の弟[[島津家久]]の前に大敗北を喫し多くの将兵を失い、隆信自身も島津氏の家臣・[[川上忠堅]]に討ち取られてしまった([[沖田畷の戦い]])。[[享年]]56。この大敗は龍造寺氏の没落を決定づけ、重臣の鍋島直茂は主君である隆信の遺骸を放置したまま、かろうじて佐賀へ逃げ帰る有様だったとされる。
 
龍造寺軍は2万5千{{Efn|ルイス・フロイスの耶蘇会総長宛書簡による{{Sfn|川副|2006|p=354}}。}}の大軍であり、島津軍は僅か1万未満と圧倒的な兵力差であったが、龍造寺軍は大軍の進行が不可能な隘路に誘い込まれ、島津義久の弟・[[島津家久]]軍と有馬勢から挟撃されて、敗北を喫した。龍造寺方は多くの将兵を失ったのみならず、大将の隆信が島津氏の家臣・[[川上忠堅]]に討ち取られてしまった。享年56<ref name="p358">{{Harvnb|川副|2006|p=358}}</ref>。法名は泰巌宗龍、法雲院と号した。重臣の[[鍋島直茂]]は隆信の訃報に接し自害しようとしたが、家臣に押しとどめられ、柳河へと撤退した{{Sfn|川副|2006|p=359}}。
{{main|沖田畷の戦い}}
 
島津軍に討ち取られた隆信の首級は、島津家久によって首実検された後、龍造寺家が首級の受け取りを拒否したため、[[願行寺 (玉名市)|願行寺]]([[玉名市]])に葬られたと言われる{{Sfn|川副|2006|pp=360-361}}。現在、隆信の公式の墓所は[[鍋島氏]]と同じ[[佐賀県]][[高伝寺]]にあるが{{Sfn|川副|2006|p=360}}、戦いで討ち取られた首の行方には諸説あり([[#人物・逸話|人物・逸話]]も参照)、「隆信の塚」と称する物が[[長崎県]]や佐賀県内に散在している。
 
== 人物・逸話 ==
* [[今山の戦い]]で奇襲か籠城かで評定の意見が分かれた際に、母親の慶誾尼から奇襲をするように指摘されたので、奇襲を決めたとも言われる(『直茂公請考補』)<ref>{{Citation|和書|author=宮本義己|authorlink=宮本義己|chapter=龍造寺隆信の母―慶誾尼―|editor=小和田哲男|title=戦国の女性たち|publisher=河出書房新社|year=2005}}</ref>。
*母親に頭が上がらず、今山の戦いの奇襲は母親の叱咤で決めたとも言われる。
* 筑後の[[蒲池鎮漣]](鎮並)は、当初は隆信の筑後侵攻に協力した。鎮漣の父の鑑盛に助けられた恩から、後に隆信は娘の[[玉鶴姫]]を鎮漣の妻とする。隆信にとって、鎮漣は筑後における強力な与力でもあった。しかし、肥後北部の辺原親運を攻めた際に、鎮漣がときどき陣を抜け出して柳川へ通っていたことがわかり、これが佐賀勢の印象を悪くし、隆信との関係も悪化した。攻城戦の最中に陣を抜けるのは重大な現場放棄である。隆信は、天正8年(1580年)に2万の兵で[[柳川城]]を攻めている。しかし九州屈指の難攻不落の城はなかなか落ちず、また城方も城兵の疲弊が著しかったため、鎮漣の伯父であり、隆信側に立っていた[[田尻鑑種]]の仲介で和睦する。しかしその後、蒲池連並が島津氏と通謀していることが明らかになったため、天正9年([[1581年]])、隆信は[[鍋島直茂]]、田尻鑑種などと謀り、和解の猿楽の宴と称して鎮漣を肥前に誘き寄せて騙し討ちにし、残った柳川の蒲池氏一族も皆殺しにした([[柳川の戦い]])。蒲池氏は龍造寺氏にとって大恩ある家であったため、[[龍造寺四天王]]の一人・[[百武賢兼]]は、出陣を促す妻に対して「こたびの鎮漣ご成敗はお家を滅ぼすであろう」と答えてしきりに涙を流し、ついに最後まで出陣しなかったという。また隆信の尖兵となった田尻鑑種ものちに一時的にではあるが、隆信から離反している。
*曽祖父の家兼は隆信の才能を見抜き、「長法師丸は大器である」と評したとされる。
*宣教師が残した記録には、「肥前の国主は[[ユリウス・カエサル|カエサル]]に似たり」と記されている。
*若い頃から何度も肥前を追われた経緯からか、疑心暗鬼にかられやすい冷酷な人物であったと言われている。そのために「肥前の熊」という渾名をつけられた。また、普段から家臣に冷たく接していたため、沖田畷の戦いで敗色濃厚となったとき、隆信の輿を担ぐことに嫌気の差した側近たちは輿を放り捨てて逃げ、そのため隆信は逃げ遅れて討ち取られたという逸話がある。
*このように隆信の人間性については、事績に基づいて否定的に語られることが多い。しかし、そうした冷酷非情さや狡猾さがあればこそ、肥前の一国人にすぎなかった龍造寺氏が、隆信一代で九州三強の一角にまでのし上がったのではないかという意見もある。<ref>「その急激な成長の裏には、隆信の狡猾かつ残忍な政略が隠されて」おり、「仏門に身を置いた者とも思えぬ、相手を偽り、策を用いてこれを陥れる非情さが、彼の急成長の大きなバネであった」([[外山幹夫]]『中世の九州』)</ref>
*筑後の[[蒲池鎮漣]](鎮並)は、当初は岳父になる隆信(鎮漣の父の鑑盛に助けられた恩から、隆信は娘の[[玉鶴姫]]を鎮漣の妻にしていた)の筑後侵攻にも協力している。隆信にとっては鎮漣は娘婿であり筑後における強力な与力でもあった。しかし、隆信は九州中央への進出のため筑後を領有化せんとして鎮漣と対立し(蒲池氏と島津氏の接近も原因とされている)、口実を設けて天正8年(1580年)に2万の兵で[[柳川城]]を攻めている。しかし九州屈指の難攻不落の城に手こずり、とりあえず鎮漣の伯父であり、隆信側に立っていた[[田尻鑑種]]の仲介で和睦する。その後、天正9年([[1581年]])に[[鍋島直茂]]などと謀り、隆信は和解の猿楽の宴と称して鎮漣を肥前に誘き寄せて騙し討ちにし、残った柳川の蒲池氏一族も皆殺しにした([[柳川の戦い]])。その冷酷さは[[龍造寺四天王]]の一人・[[百武賢兼]]などの腹心からも疑問を持たれ、賢兼は出陣を促す妻に対して「こたびの鎮漣ご成敗はお家を滅ぼすであろう」と答えてしきりに涙を流し、ついに最後まで出陣しなかったほどであった。また隆信の尖兵となった田尻鑑種ものちに隆信から離反している。この蒲池鎮漣の謀殺と一族の殺戮は、[[黒木家永]]、[[蒲池益種]](黒木益種)、[[田尻鑑種]]など、筑後の[[国人]]のあいつぐ離反や蜂起を招き、結果的に隆信は筑後経営に手こずることとなり、没落の遠因の一つともなった。
*若い頃から肥前統一までは、英気にあふれた人物だったといわれる。しかし隠居した後は酒色に溺れて鍋島直茂を政務から遠ざけるなど、乱行が目立ったとされる。
* [[宣教師]][[ルイス・フロイス]]の書簡によれば、隆信は肥満体のため六人担ぎの駕籠に乗っていたという{{Sfn|川副|2006|p=357}}。
*相当に肥満した人物で、馬に乗ることができなかったという(異説あり)。沖田畷でも逃走する時に輿を使わざるを得なかったとされているが、そのために敵の武将・川上忠堅に場所を知られることになったとされる。
*沖田畷での敗戦は、龍造寺軍の将兵が泥田に足を取られて身動きできずにいたにも関わらず、隆信が無謀な攻撃命令を出したため、兵が自暴自棄になって敗れたという説もある。
*島津軍に討ち取られた隆信の首級は後に龍造寺家へ返還されることになったが、鍋島直茂に返還を拒否されたといわれている。ただし、これは島津が首級を返還しに来ると同時に、龍造寺家中の様子を探るつもりだと読んだ直茂が付け入る隙を与えないために拒否したものといわれる。島津側に持ち帰られた首は隆信に因縁のあった[[赤星親家]]の未亡人に引き渡されてなぶり物にされたとも、島津家久によって[[願行寺]]([[玉名市]])に葬られたとも、[[島原市|島原]]の川に流されたとも言われる。
*隆信の残した言葉として「分別も久しくすればねまる」というものがある。「ねまる」とは「腐る」の意で、熟慮も過ぎると却って期を逃したり、悪い結果になる事もあるので、ここぞという時は迅速な決断力が必要である、という意味である。この考えを実践した結果、一代で龍造寺家の版図を大きく広げた一方、少しでも疑いのある人物は次々に処断したりと人望を失う行為も多々行っており、良くも悪くも隆信の人生を左右する結果となった。
* 隆信はキリスト教には否定的だったようで、三男・[[後藤家信]]がキリスト教に入信しようとした際、これに猛反対して入信をやめさせた事もあるという([[フロイス日本史]])。
*辞世は「紅炉上、一点の雪」である。
*沖田畷での敗戦は、龍造寺軍の将兵が泥田に足を取られて身動きできずにいたにもかかわらず、隆信が無謀な攻撃命令を出したため、兵が自暴自棄になって敗れたという説もある。『北肥戦誌』では、軍勢が進まないため隆信に様子を見てくるよう遣わされた[[吉田清内]]が、「二陣・三陣がつかえて旗本勢が進めない。命を惜しまず攻めかかれとの下知である」と独断で告げたためであるとし、敗戦後に逐電していた清内は、見付けだされて処されたとしている。
* 辞世は「紅炉上一点の雪」である<ref name="p358"/>{{Efn|[[軍記物]]である『肥陽軍記』には記述があるが、『龍造寺記』・『北肥戦誌』などには見られない。また、[[勉誠社]]刊 『肥陽軍記』(現代語訳:原田種眞) ISBN 4-585-05105-8 のあとがきに於いて原田は、遺言を述べるような暇は無かったろうとしている。}}。
*隆信は扇型と四角型の二種類の印章を使用していたことが知られている<ref>{{Citation|和書|author=鈴木敦子|chapter=肥前国における戦国期の印章使用|editor=有光友学|title=戦国期印章・印判状の研究|publisher=岩田書院|year=2006}}</ref>。
*隆信がまだ若かった頃、[[龍造寺家兼]]により5人の家人が付けられていた。ある時、この5人を裸にして池に入れ、魚を探させた。そして自らも池に入ったが魚を捕まえることは出来なかった。5人の家臣たちはみな魚を捕らえて胤信に献上した。隆信は大いに喜んで5人を連れて館に帰り、これを肴に酒宴を開いた。その有様を見て、ある者は感心し、ある者は嫌ったという{{Sfn|川副|1967|p=114}}。
 
==家臣団 評価 ==
* 若い頃から何度も肥前を追われた経緯からか、疑心暗鬼にかられやすい冷酷な人物であったと言われている。そのために「肥前の熊」という渾名をつけられた。一方で、そうした冷酷非情さや狡猾さがあればこそ、肥前の一国人にすぎなかった龍造寺氏が、隆信一代で九州三強の一角にまでのし上がったのではないかという意見もある{{Efn|「その急激な成長の裏には、隆信の狡猾かつ残忍な政略が隠されて」おり、「仏門に身を置いた者とも思えぬ、相手を偽り、策を用いてこれを陥れる非情さが、彼の急成長の大きなバネであった」<ref>{{Citation|和書|author=外山幹夫|authorlink=外山幹夫|title=中世の九州|publisher=教育社|year=1979}}</ref>}}。
* 一門衆:[[龍造寺政家]]、[[江上家種]]、[[後藤家信]]、[[龍造寺信周]]、[[龍造寺長信]]、[[龍造寺家就]]、[[龍造寺鑑兼]]、[[龍造寺家晴]]、[[龍造寺家良]]、[[龍造寺康房]]
* [[ルイス・フロイス]]が残した記録「[[フロイス日本史]]」では、[[沖田畷の戦い]]に於ける隆信の軍備に対し、「細心の注意と配慮・決断は、[[ユリウス・カエサル|カエサル]]の迅速さと知恵でも企てられないように思えた<ref>『完訳 フロイス日本史 10』[[中公文庫]] ISBN 4-12-203589-9</ref>」と評している。カエサルも軍事に関しては速断の人であり、フロイスは隆信をそれ以上と評している。一方でカエサルは敵対した相手を許す場合が多く、当時のヨーロッパでは鷹揚な人物として有名で{{Efn|[[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャヴェリ]]の[[政略論]]で鷹揚な人物の代表として持ち出されているのがその一例である。}}、上述の隆信の人物評とは正反対である。
* 参謀:[[鍋島直茂]]
* [[龍造寺四天王]]:[[成松信勝]]、[[江里口信常]]、[[百武賢兼]]、[[円城寺信胤]]/[[木下昌直]]
* 両弾二島:[[大村弾正]]、[[犬塚鎮家|犬塚弾正]]、[[百武志摩守]]、[[上瀧信重|上瀧志摩守]]
* その他:[[小河信安]]、[[小河信俊]]、[[倉町信俊]]、[[執行種兼]]、[[納富信景]]、[[上瀧信重]]、[[鍋島信房]]、[[成富茂安]]、[[石井生札]]、[[安住家能]]、[[出雲氏忠]]、[[江副信俊]]、[[徳島胤順]]、[[秀島家周]]、[[内田兼智]]、[[鴨打胤忠]]、[[石井兼清]]、[[石井常忠]]、[[石井信忠]]、[[石井忠修]]
 
==脚注 系譜 ==
*父:[[龍造寺周家]](1504-1545)
<div class="references-small"><references /></div>
*母:[[慶誾尼]](1509-1600) - [[龍造寺胤和]]の娘
*正室:[[龍造寺家門]]娘 - 隆信に再嫁する前は[[龍造寺胤栄]]室
**長男:[[龍造寺政家]](1556-1607)
**女子(嫡女):嫁す
**三男:[[江上家種]](?-1593)
**男子:[[後藤家信]](1563-1622)
**男子:[[龍造寺隆平]]
**女子:玉鶴姫 - [[蒲池鎮漣]]室
*養子
**家均(晴明) - 後藤貴明の息子
**女子:於安 - 安子姫、秀の前、妙安尼、[[龍造寺胤栄]]と[[龍造寺家門]]娘との間に生まれた女子。すなわち妻の連れ子。[[小田鎮光]]室、のち[[波多親]]後室
 
*子孫
{{龍造寺氏歴代当主|水ヶ江龍造寺家当主(第5代:1545年-1578年)/龍造寺宗家|第19代:1548年-1578年}}
**[[夢野久作]] - 『[[ドグラ・マグラ]]』で知られた小説家で、隆信の末裔にあたる。
 
== 家臣・偏諱を受けた人物 ==
(*'''太字の「信」'''を含む人物が隆信より偏諱を賜った人物である。)
* 一門衆:[[龍造寺政家]]・[[江上家種]]・[[後藤家信]](ともに隆信の子)、[[龍造寺信周|龍造寺'''信'''周]]・[[龍造寺長信|龍造寺長'''信''']](ともに隆信の実弟)、[[龍造寺家就]]、[[龍造寺鑑兼]]、[[龍造寺家晴]]、[[龍造寺家良]]、[[龍造寺康房]]
* 参謀:[[鍋島直茂|鍋島'''信'''安]](のち'''信'''真→'''信'''昌→'''信'''生→直茂の順に改名)
* [[龍造寺四天王]]:[[成松信勝|成松'''信'''勝]]、[[江里口信常|江里口'''信'''常]]、[[百武賢兼]]、[[円城寺信胤|円城寺'''信'''胤]]/[[木下昌直]]
* 両弾二島:[[大村弾正]]、[[犬塚鎮家|犬塚弾正]]、[[百武志摩守]]、[[上瀧信重|上瀧'''信'''重(上瀧志摩守)]]
* [[肥前石井氏|石井党]]:{嫡男家([[石井常忠]]・[[石井信易|石井'''信'''易]]・[[石井信忠 (四郎左衛門)|石井'''信'''忠 (四郎左衛門)]])、二男家([[石井信忠 (安芸守)|石井'''信'''忠 (安芸守)]]・[[石井忠修]]・[[石井茂利|石井'''信'''俊]])、三男家([[石井生札]])、五男家([[石井兼清]])}
* その他:[[小河信安|小河'''信'''安]]、[[小河信俊|小河'''信'''俊]](鍋島直茂の実弟で信安の養子)、[[倉町信俊|倉町'''信'''俊]]、[[執行種兼]]、[[納富信景|納富'''信'''景]]、[[納富信純|納富'''信'''純]](信景の子、或いは義弟)、[[鍋島信房|鍋島'''信'''房]]、[[成富信種|成富'''信'''種]]、[[成富茂安|成富'''信'''安]](信種の子、後の茂安)、[[安住家能]]、[[出雲氏忠]]、[[江副信俊|江副'''信'''俊]]、[[徳島胤順]]、[[秀島家周]](納富信純の実弟)、[[内田兼智]]、[[鴨打胤忠]]、[[原田信種|原田'''信'''種]]、[[広橋信了|広橋'''信'''了]]、[[勝屋勝一軒]]、[[前田家定]]、[[綾部鎮幸]]
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* {{Citation |和書|last=川副|first=博|year=1967|series=日本の武将45|title=龍造寺隆信|publisher=[[新人物往来社|人物往来社]]|isbn= }}
** {{Citation |和書|last=川副|first=博|others=川副義敦(考訂)|year=2006|title =龍造寺隆信 : 五州二島の太守|publisher=[[佐賀新聞社]]|edition=改訂|isbn=4882981610}}
* {{Citation |和書|last=|first=|editor=大日本人名辞書刊行会|chapter=龍造寺隆信|year =1926|volume=下|title =大日本人名辞書|publisher =大日本人名辞書刊行会|url={{NDLDC|1879535/706}} 国立国会図書館デジタルコレクション}}
* 川副義敦『戦国の肥前と龍造寺隆信』[[宮帯出版社]]、2018年。
{{龍造寺氏歴代当主|水ヶ江龍造寺家当主(5代:1545年 - 1578年)/龍造寺宗家|19代:1548年 - 1578年}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:りゆうそうし たかのふ}}
[[Category:水ケ江龍造寺氏|たかのふ]]
[[Category:村中龍造寺氏|たかのふ]]
[[Category:戦国大名]]
[[Category:佐賀県の歴史]]
[[Category:肥前国の人物]]
[[Category:龍造寺氏|還俗しかのふ]]
[[Category:還俗安土桃山時代に戦死した人物]]
[[Category:日本の神 (人物神 戦国大名)]]
[[Category:1529年生]]
[[Category:1584年没]]
 
[[en:Ryūzōji Takanobu]]
[[id:Ryūzōji Takanobu]]
[[ko:류조지 다카노부]]
[[zh:龍造寺隆信]]