「水野忠実 (紀伊新宮藩主)」の版間の差分
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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 水野
| 画像 =
| 画像サイズ =
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| 生誕 = [[寛延]]2年[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]([[1750年]][[1月1日]])
| 死没 = [[文政]]5年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]([[1822年]][[6月14日]])
| 改名 = 福次郎(幼名)→忠寛→忠実
| 別名 = 忠奇
| 諡号 =
| 戒名 = 法心院殿永持日顕大居士
| 墓所 = 戒光寺([[東京都]][[新宿区]]
| 官位 = [[従五位|従五位下]]・[[土佐国|土佐守]]、[[対馬国|対馬守]]、[[飛騨国|飛騨守]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川家治]]→[[徳川家斉|家斉]]
| 藩 = [[紀伊国|紀伊]][[紀伊新宮藩|新宮藩]]主
| 氏族 = [[水野氏]]
| 父母 = 父:[[水野守鑑]]、養父:''[[水野忠興]]''
| 兄弟 = [[水野忠直|忠直]]、'''忠実'''、[[大聖院長昇]]
| 妻 = 正室:'''[[石川総候]]の娘'''
| 子 = [[水野範明|範明]]、[[水野延寿|延寿]]、[[井戸清眦]]、[[村上喜龍]]<br/>[[水野忠雅|忠雅]]、娘([[
| 特記事項 =
}}
'''水野 忠実'''(みずの ただざね)は、[[紀伊国|紀伊]][[紀伊新宮藩|新宮藩]]([[紀州藩]][[御附家老|附家老]])<ref>[[幕藩体制]]下では[[大名]]格の所領を有しながら[[陪臣]]として扱われ、[[明治維新]]までは大名とは見なされなかった。</ref>第7代
== 生涯 ==
[[寛延]]2年([[1749年]])11月23日、[[旗本]][[水野守鑑]]の次男として生まれる。[[
同族<ref>忠実は[[紀州藩]][[御附家老|附家老]]を務めた[[水野重央]]([[紀伊国|紀伊]][[紀伊新宮藩|新宮藩]]初代藩主)の次男・[[水野定勝|定勝]]の子孫である。</ref>である[[紀伊国|紀伊]][[紀伊新宮藩|新宮藩]]主・[[水野忠興]]の養子となり、[[宝暦]]13年([[1763年]])6月28日に養父が死去したため、同年8月6日に跡を継いだ。同年9月1日、第10代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家治]]に初[[御目見]]し、同年12月9日には[[従五位|従五位下]]・[[土佐国|土佐守]]に叙任する。
[[文政]]5年([[1822年]])4月25日、死去。[[享年]]73(満72歳没)。本来なら嫡男の[[水野範明|範明]]が跡を継ぐはずであったが、早世していたため、範明の長男の[[水野忠啓|忠啓]]が継いだ。▼
▲[[文政]]5年([[1822年]])4月25日、死去。[[享年]]73(満72歳没)。
{{紀伊新宮藩主|[[水野氏|新宮水野家]]|7代|1763年 - 1822年}}▼
松平定信への水野為長の秘密報告「よしの冊子」によれば、妻への暴力がひどく、妻に逃げられたこと。行列の際は横に広がって威張って道を進むのでトラブルが絶えないことなどが記録されている<ref>{{Cite journal|date=|title=「よしの冊子」巻の一三 「紀州は御家老水の對馬守、是又先年より大道せましと供を廣がらせ返いたし候よし。皆々憎がり候よし。 」|url=|journal=随筆百花苑〈第8巻〉〈第9巻〉風俗世相篇|volume=|issue=|pages=|doi=}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 『[[寛政重修諸家譜]]』第2輯、国民図書、1923年、866、882、886-887頁。
{{DEFAULTSORT:みすの たたさね}}
[[Category:
[[Category:
[[Category:1750年生]]
[[Category:1822年没]]
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