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{{Otheruses|近鉄京都線の橋梁|その他の淀川橋梁|淀川橋梁 (曖昧さ回避)}}
{{橋
|名称=澱川橋梁
|画像={{Unbulleted list|[[ファイル:Yodogawa Railway bridge of Kintetsu 002 KYOTO JPN.jpg|300px]]|{{Infobox mapframe|frame-width=300|zoom=15|marker=bridge}}}}
|国=日本
|都市=[[京都府]][[京都市]][[伏見区]]
|水域=[[淀川|宇治川]]
|位置情報={{coord|34|55|31.6|N|135|45|56.3|E|type:landmark_region:JP-26|display=inline,title}}
| 緯度度 = 34 | 緯度分 = 55 | 緯度秒 = 31.6 | N(北緯)及びS(南緯) = N | 経度度 = 135 |経度分 = 45 | 経度秒 = 56.3 | E(東経)及びW(西経) = E | 地図国コード = JP
|長さ=162.4[[メートル|m]]<ref group="出典" name="鉄の橋 p150"/>
|最大支間長=164.59m(540フィート)<ref group="出典" name="鉄の橋 p150"/>
|幅=9.75m(32フィート:主構橋中心間隔)<ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 p524">[[#doboku-16-8-513_539|土木学会誌 第16巻8号]] p.524</ref>
|高さ=
|建築家と技術者=[[関場茂樹]](設計)<br />阪根繁三郎(製造監督)<ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 p515">[[#doboku-16-8-513_539|土木学会誌 第16巻8号]] p.515</ref><ref group="出典" name="鉄の橋 p150"/>
|形式=複線下路プラット分格トラス(ペティット(ペンシルバニア)トラス)<ref group="出典" name="鉄の橋 p150">[[#iron-bridges100|鉄の橋百選]] p.150</ref>
|素材=[[鋼材]]
|建設=[[1928年]][[4月1日]] - 1928年[[10月16日]]<ref group="出典" name="RP No.569 p.125">[[#rp569-124_132|鉄道ピクトリアル No.569]] p.125</ref>
}}
'''澱川橋梁'''(よどがわきょうりょう、'''{{Lang-en|Yodo-Gawa Bridge'''}})は、[[京都市]][[伏見区]]の[[淀川|宇治川]]にかかる鉄道用[[トラス橋]]である。[[奈良電気鉄道]]が自社線(現在の[[近畿日本鉄道]][[近鉄京都線|京都線]])の開業にあたり架設した。
 
本橋梁は比較的水量の多い河川を1径間で渡る長大な複線下路式トラス橋であり、完成以来[[20112024年]]現在まで、日本に存在する単純トラス橋としては最大の支間長を備えることで知られる。
'''澱川橋梁'''(よどがわきょうりょう、'''Yodo-Gawa Bridge''')は、[[京都市]][[伏見区]]の[[淀川|宇治川]]にかかる鉄道用[[トラス橋]]である。[[奈良電気鉄道]]が自社線(現在の[[近畿日本鉄道]][[近鉄京都線|京都線]])の開業にあたり架設した。
 
本橋梁は比較的水量の多い河川を1径間で渡る長大な複線下路式トラス橋であり、完成以来[[2011年]]現在まで、日本に存在する単純トラス橋としては最大の支間長を備えることで知られる。
 
== 建設経緯 ==
京都と奈良を結ぶ第2の鉄道として建設され、開通まで経由地や線形の変更を幾度となく繰り返してきた奈良電気鉄道線にあって、本橋梁も経路は変更されなかったものの、特異な経緯により桁形式が途中で全面変更されている。
 
=== 当初計画の頓挫変遷 ===
奈良電気鉄道線の建設計画を進めた浅井郁爾技師長を筆頭とする同社技術陣は、[[京都駅|京都]]起点4[[マイル]]6[[チェーン (単位)|チェイン]](約6.6[[キロメートル|km]])付近の宇治川(澱川<ref group="注">宇治川は淀川の本流に相当し、正式な河川名は淀川である。このため、本橋梁に「澱川」の名称が与えられている。</ref><ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 p514">[[#doboku-16-8-513_539|土木学会誌 第16巻8号]] p.514</ref>)を渡河するにあたって、当初は沿線に存在するもう一つの大河である[[木津川 (京都府)|木津川]]を渡る[[木津川橋梁 (近鉄京都線)|木津川橋梁]]と同様、河中に<!--(この記述は土木学会誌のみの出典の為、一時非表示にする。)7本の橋脚を立てて70[[フィート]](21.336[[メートル|m]])[[桁橋|プレートガーダー桁]]6連と40フィート(12.192m)プレートガーダー桁2連を架設する-->6本の橋脚を立てて70[[フィート]](21.336[[メートル|m]])[[桁橋|プレートガーダー桁]]7連を架設する案に従って橋梁の具体設計を進めていた。おり<ref>「奈良電気鉄道小倉伏見間工事施行一件」([[京都府立京都学・歴彩館]]所蔵)</ref>、
架橋を予定した地点の周辺には[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]の演習場(渡河訓練場)、そしてその北側には工兵大隊の工営が設置されていた。<ref group="注">[[1927年]]当時、この演習場では[[第16師団 (日本軍)|京都師団]][[工兵]]第16[[大隊]]による演習が頻繁に実施されており、その訓練計画も「工兵隊教育順次表」([[1925年]]11月発表)に従って年間予定が定められていた(京都教育大学紀要109号 pp.17-19)</ref>奈良電気鉄道は、工事速成のため工兵隊用地の一部について土地交換を申請した。それを受け師団側では調査を行い、本省へ伺いを出した。
[[1927年]]当時、<!--(長いの架橋演習場では京都[[師団]]工兵第16[[大隊]]による架橋演習と出典頻繁に実施されておりない為その訓練計画も「工兵隊教育順次表」<ref group="注釈">[[1925年]]11月発示にします</ref>に従って年間予定が定められていた<ref group="){{要出典" name="京都教育大学紀要 109 pp17-19">[[#kyoto-education範囲|京都教育大学紀要 109]] pp.17-19</ref>。この架橋演習には目視の困難な暗夜の演習が含まれていたため、多数の橋脚を河中に建設することは事故を誘発する危険があり絶対に認められない、と工兵第16大隊大隊長であった石井英橘[[大佐]]が奈良電気鉄道による河中への橋脚建設案に対し強硬に反対した。これに対し、建設コストが低廉なプレートガーダー桁を使用したい奈良電気鉄道側は再三にわたり陸軍当局に対し橋脚設置許可の陳情を重ねたが、遂にこの陳情が要望通りに聞き入れられることはなかった|date=2019年1月}}--><!--(無橋脚神話については整理を要すため、非表示にします。)<ref group="注">{{独自研究範囲|この陸軍による反対は、ときに軍部の横暴として語られることがある。だが、こと本橋梁に関する限りは、先に当該地区に演習場を開設していたのは陸軍側であり、石井大佐麾下の工兵第16大隊は上述したように奈良電気鉄道に対しては本橋梁の架設計画確定後に作業場1,800平方メートル、演習場2,300平方メートルと決して小さくない面積の軍用地を伏見地区高架線建設のために払い下げている。つまり、営業を継続した場合に高架化費用の負担を強いられることを嫌ってのものという事情があったとはいえ営業中の伏見貨物駅を廃止し同駅を含む旧奈良線用地を高架橋建設用地として払い下げた鉄道省と共に、この工兵第16大隊を擁する京都師団は奈良電気鉄道線建設に伴う用地確保について、この時代の日本陸軍としてはむしろ異例なほど好意的に協力しているのである。架橋演習場内の河中に橋脚を7本建設したい、とする奈良電気鉄道の要望が容れられなかったのは、工兵第16大隊が本橋梁の架橋予定地以外に渡河演習用地が確保できておらず、また宇治川流域の近隣地域での適切な代替地確保も困難な状況であった(そればかりか、工兵の訓練で宇治川上流へ遡航した際には、観光への悪影響を懸念する地元首長から宇治までこないよう申し入れられる有様であった)という陸軍側の切迫した訓練場用地事情による。この工兵大隊の演習場用地問題は、戦後帝国陸軍が解体されるまで遂に解決されなかった。|date=2018年2月}}</ref><ref group="出典" name="奈良電鉄社史 pp24-26">[[#naraden-history|奈良電鉄社史]] pp.24-26</ref><ref group="出典" name="京都教育大学紀要 109 p21">[[#kyoto-education|京都教育大学紀要 109]] p.21</ref>。-->
 
[[第16師団 (日本軍)|16師団]]条件と陸軍省の決定条件をまとめたものが以下の表になる。
だが、架橋を予定した地点の周辺には計画当時、[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]の架橋演習場(渡河訓練場)が設置されていた。奈良電気鉄道が宇治川渡河にあたってこの演習場用地の一部について払い下げを申請したことから、本橋梁の架橋計画は大きな変更を強いられることになる。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
! 16師団条件 !! 陸軍省決定条件 !! 備考
|-
| 軍用地1235坪4合と奈良電用地5万3137坪の交換
| 1235坪の払下げ(西側作業場539坪+練兵場696坪)
東側作業場700坪の保留<ref>土地建造物整理費予算財源として大蔵省に提供する予定の物</ref>・
減少した敷地増加と作業場新設の研究
| 減少した敷地は増加もなく、作業場新設もされることはなかった。
|-
| 橋梁の無橋脚化
| 一基までの設置を認める
| 奈良電側の判断にて無橋脚にて架橋
|-
| 工事期間の内7月から10月までは禁止
| 条件無し
| 工事は規制なく行われ、5月頃の杭打ちは工兵隊施工
|-
| 演習場附近高架下は陸軍・一般交通供用
| 条件無し
|
|}
 
橋脚に関しては一基まで認めるというものであったが、奈良電気鉄道側は回答を待たずに代案に着手することとなる<ref name="京都教育大学紀要 119 pp.6-7">[[#kyoto-education2|京都教育大学紀要 119]] pp.6-7</ref>。
[[1927年]]当時、この架橋演習場では京都[[師団]]工兵第16[[大隊]]による架橋演習が頻繁に実施されており、その訓練計画も「工兵隊教育順次表」<ref group="注釈">[[1925年]]11月発表。</ref>に従って年間予定が定められていた<ref group="出典" name="京都教育大学紀要 109 pp17-19">[[#kyoto-education|京都教育大学紀要 109]] pp.17-19</ref>。この架橋演習には目視の困難な暗夜の演習が含まれていたため、多数の橋脚を河中に建設することは事故を誘発する危険があり絶対に認められない、と工兵第16大隊大隊長であった石井英橘[[大佐]]が奈良電気鉄道による河中への橋脚建設案に対し強硬に反対した。これに対し、建設コストが低廉なプレートガーダー桁を使用したい奈良電気鉄道側は再三にわたり陸軍当局に対し橋脚設置許可の陳情を重ねたが、遂にこの陳情が聞き入れられることはなかった<ref group="注釈">この陸軍による反対は、ときに軍部の横暴として語られることがある。だが、こと本橋梁に関する限りは、先に当該地区に演習場を開設していたのは陸軍側であり、石井大佐麾下の工兵第16大隊は上述したように奈良電気鉄道に対しては本橋梁の架設計画確定後に作業場1,800平方メートル、演習場2,300平方メートルと決して小さくない面積の軍用地を伏見地区高架線建設のために払い下げている。つまり、営業を継続した場合に高架化費用の負担を強いられることを嫌ってのものという事情があったとはいえ営業中の伏見貨物駅を廃止し同駅を含む旧奈良線用地を高架橋建設用地として払い下げた鉄道省と共に、この工兵第16大隊を擁する京都師団は奈良電気鉄道線建設に伴う用地確保について、この時代の日本陸軍としてはむしろ異例なほど好意的に協力しているのである。架橋演習場内の河中に橋脚を7本建設したい、とする奈良電気鉄道の要望が容れられなかったのは、工兵第16大隊が本橋梁の架橋予定地以外に渡河演習用地が確保できておらず、また宇治川流域の近隣地域での適切な代替地確保も困難な状況であった(そればかりか、工兵の訓練で宇治川上流へ遡航した際には、観光への悪影響を懸念する地元首長から宇治までこないよう申し入れられる有様であった)という陸軍側の切迫した訓練場用地事情による。この工兵大隊の演習場用地問題は、戦後帝国陸軍が解体されるまで遂に解決されなかった。</ref><ref group="出典" name="奈良電鉄社史 pp24-26">[[#naraden-history|奈良電鉄社史]] pp.24-26</ref><ref group="出典" name="京都教育大学紀要 109 p21">[[#kyoto-education|京都教育大学紀要 109]] p.21</ref>。
 
ちょうどこの時期、即位したばかりの[[昭和天皇]]の[[即位の礼|御大典]]が[[京都御所]]で執り行われ、式典の終了後、各施設の拝観や御陵の参拝などが国民に認められることとなった。そのため、沿線に[[伏見桃山陵]]が存在し、開通の暁には[[大阪電気軌道]][[近鉄奈良線|奈良線]]へ乗り入れるだけでなく[[大和西大寺駅|大和西大寺]]から[[近鉄橿原線|橿原線]]へも直通し、[[京都駅|京都]]と[[橿原神宮前駅|橿原神宮前]]を直結する計画であった奈良電気鉄道は、大きな旅客需要が期待されるこの絶好のチャンスに、何としてでも全線開業を間に合わせる必要に迫られた。
 
こうして、路線建設のための時間的猶予を失った奈良電気鉄道は宇治川渡河について経済的なプレートガーダー桁案を放棄、高コストを承知で陸軍側の要望に従い、河中に橋脚を設けずに済む長大な単独トラス桁により本橋梁を架設することを決断<ref group="注">後日設計者らが発表した論文によれば「本土に未だ類例を見ざる大橋梁架設の臍を固めたり」としており、奈良電気鉄道本社はこの時点で本橋梁が巨額の費用を要する未有の巨大橋梁となることを覚悟していた。</ref><ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 p514"/>、これにしてり架橋演習場内への橋梁架設うやく着工ついて陸軍側の了解を得こぎ着けた。
 
=== 巨大トラス橋 ===
以上のような経緯で、本橋梁は無橋脚、1径間での渡河に適した長大な曲弦プラット分格トラス桁として架設されることとなり、その設計は当時の日本を代表する橋梁設計の大家であった[[関場茂樹(1876 - 1942)]]<ref group="注">長く橋梁設計の教科書として尊重された「標準橋梁仕様書」の著者であり、後には松尾鉄骨橋梁株式会社(後の松尾橋梁株式会社。現在の[[IHIインフラシステム]]の前身の一つ)の技師長に迎えられて[[参宮急行電鉄]]線の全橋梁設計に携わるなど、大正から昭和初期にかけて多くの橋梁設計を行った。</ref>の手に委ねられた。
 
もっともこの時代、この巨大橋梁が必要とする長さと厚さを備えた大型鋼材は日本国内に市中在庫が存在しなかった。また日本国内で唯一、その種の鋼材の製造供給が可能と目されていた[[官営八幡製鐵所|八幡製鐵所]]では当時軍用、特に軍艦用の需要を満たすのが精一杯で、発注後必要な納期にそれらを得ることもできなかった<ref group="注">後日発表された論文中では、当時の世相を反映し「我國3000年の光輝ある歴史に培はれたる大和民族の魂は我が社をして此の一大決心を敢てなさしめたり」と記されたものの、結局はアメリカの大手製鋼メーカーに主要部材の大半を求めざるを得なかった。同時期の鉄道省が蒸気機関車の台枠に用いる肉厚圧延鋼板の調達に難渋し、欧米の機関車(例えば、日本に輸入された[[J.A.マッファイ]]社製の[[国鉄4110形蒸気機関車#4100形蒸気機関車|4100形]]([[1912年]]製)や[[アメリカン・ロコモティブ]]社製の[[国鉄C52形蒸気機関車|8200形]]([[1925年]]製)など)で用いられていた100mm厚圧延鋼板ではなく、より入手性の高い90mm厚圧延鋼板(それでさえ、[[1922年]]の[[ワシントン海軍軍縮条約]]の締結に伴う[[八八艦隊]]計画の中止による余剰鋼材の有効活用、という形で初めて入手が可能となった)を使用するという妥協を強いられたことでも明らかなように、この時代の日本における製鉄事業者の製鋼能力は欧米、特にアメリカと比較して非常に貧弱であった。この状況は第二次世界大戦後の高度経済成長期まで続くこととなる。</ref>。
 
そのため、関場ら設計陣は設計着手後間もない[[1927年]]10月末までに最優先で必要部材の一覧表を作成、部材調達を請け負った[[浅野物産]]とアメリカ有数の大手製鋼メーカー[[ベスレヘム・スチール]]が東京に設けていた支店の連携によって、全体の83パーセントにあたる約1,500[[トン|t]]の鋼材<ref group="出典" name="奈良電鉄社史 p19">[[#naraden-history|奈良電鉄社史]] p.19</ref>の注文書をアメリカのベスレヘム・スチール社本社へ打電、可能な限り速く国内で入手が不可能な部材を調達する手配を行い、船便に恵まれたこともあて発注後2ヶ月半で大半の部材が[[神戸港]]へ入荷するという、当時の日米間貨物輸送体制では最良に近い成果を得<ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 p515"/>。なお、本橋梁の主部材はこのようにベスレヘム・スチール社からの輸入に拠ったが、それ以外にも[[USスチール|USスチール・プロダクツ]]社と八幡製鉄所から鋼材供給を受けている<ref group="出典" name="奈良電鉄社史 p16">[[#naraden-history|奈良電鉄社史]] p.16</ref>
 
これは、折良く日本へ向かう船便に恵まれたことから、発注後2ヶ月半で大半の部材が[[神戸港]]へ入荷するという、当時の日米間貨物輸送体制では最良に近い成果を得た<ref name="土木学会誌 16-8 p515"/>。なお、本橋梁の主部材はこのようにベスレヘム・スチール社からの輸入に拠ったが、それ以外にも[[USスチール|USスチール・プロダクツ]]社と八幡製鉄所から鋼材供給を受けている<ref name="奈良電鉄社史 p16">[[#naraden-history|奈良電鉄社史]] p.16</ref>。
だが、最良の結果を得たと言っても絶対的な工期の不足がほぼ致命的な水準に達していたことに変わりはなかった。国内で調達可能な補助部材については先行して調達と加工を実施するようにしたものの、主要鋼材到着後にそれらを工場で加工し、工場で一旦仮組みした後に分解、輸送し現場で再度組み立てるという、大規模構造物建築で常識とされる手順を踏んでいたのでは、1928年1月の鋼材到着後、1928年11月に予定された御大典までの10ヶ月に満たない短期間でこの橋梁を完成させ、路線そのものの開業にこぎ着けることは到底不可能であった。
 
だが、最大の難問であった鋼材納入について最良の結果を得たと言っても、その時点で絶対的な工期の不足がほぼ致命的な水準に達していたことに変わりはなかった。国内で調達可能な補助部材については先行して調達と加工を実施するようにしたものの、主要鋼材到着後にそれらを工場で加工し、工場で一旦仮組みした後に分解、輸送し現場で再度組み立てるという、大規模構造物建築で常識とされる手順を踏んでいたのでは、1928年1月の鋼材到着後、1928年11月に予定された御大典までの10ヶ月に満たない短期間でこの橋梁を完成させ、路線そのものの開業にこぎ着けることは到底不可能であった。
そこで関場らは、実際に橋桁の製造を担当する[[川崎造船所]]兵庫工場<ref group="注釈">本橋梁の架設当時、その桁材の加工に適した50t級の大型クレーンを所有する民間工場は日本国内ではそれほど多くはなく、大型機関車の製造を行う大手鉄道車両メーカーや一部の造船所などに設置されている程度であった。また、神戸港へ着荷する鋼材の輸入・通関手続きと加工後の輸送(本橋梁の加工済み部材は船によって兵庫→大阪→[[淀川]]の順で遡航し、現場へ送り込まれている)に有利な立地にあり、しかも本橋梁架設当時、第一次世界大戦の終結に伴う船舶需要の激減と[[1927年]]の世界恐慌で打撃を受けた結果、経営多角化に乗り出して橋桁製作を事業の一つとしていた川崎造船所→川崎車輛の兵庫工場は、その条件を満たす数少ない工場の一つであった。なお、この兵庫工場は本橋梁と前後して[[永代橋]]・[[清洲橋]]・[[勝鬨橋]](跳開橋部)と東京市の震災復興事業を象徴する[[隅田川]]の3橋梁の橋桁製作を実施するなどこの新分野での事業展開に積極的であったが、本業たる車両製作事業の繁忙から[[1937年]]末をもって橋桁製作から撤退した。</ref>(本橋梁工事中の1928年5月18日付で川崎造船所から独立<ref group="注釈">1927年の恐慌の影響で、川崎造船所は運転資金調達のための融資を受ける際に、抵当権設定の必要から兵庫工場を中心とした別会社を設立する必要に迫られた。</ref>、川崎車輛兵庫工場となる)<ref group="出典" name="蒸気機関車から超高速車両まで pp6-7">[[#hyogo90|蒸気機関車から超高速車両まで]] pp.6-7</ref>での仮組工程を省略し、加工済み部材を現場にて直接組み立てることを決断した。
 
そこで関場らは、実際に橋桁の製造を担当する[[川崎造船所]]兵庫工場<ref group="注">本橋梁の架設当時、その桁材の加工に適した50t級の大型クレーンを所有する民間工場は日本国内ではそれほど多くはなく、大型機関車の製造を行う大手鉄道車両メーカーや一部の造船所などに設置されている程度であった。また、神戸港へ着荷する鋼材の輸入・通関手続きと加工後の輸送(本橋梁の加工済み部材は船によって兵庫→大阪→[[淀川]]の順で遡航し、現場へ送り込まれている)に有利な立地にあり、しかも本橋梁架設当時、第一次世界大戦の終結に伴う船舶需要の激減と[[1927年]]の世界恐慌で打撃を受けた結果、経営多角化に乗り出して橋桁製作を事業の一つとしていた川崎造船所→川崎車輛の兵庫工場は、その条件を満たす数少ない工場の一つであった。なお、この兵庫工場は本橋梁と前後して[[永代橋]]・[[清洲橋]]・[[勝鬨橋]](跳開橋部)と東京市の震災復興事業を象徴する[[隅田川]]の3橋梁の橋桁製作を実施するなどこの新分野での事業展開に積極的であったが、本業たる車両製作事業の繁忙から[[1937年]]末をもって橋桁製作から撤退した。</ref>(本橋梁工事中の1928年5月18日付で川崎造船所から独立<ref group="注">1927年の恐慌の影響で、川崎造船所は運転資金調達のための融資を受ける際に、抵当権設定の必要から兵庫工場を中心とした別会社を設立する必要に迫られた。</ref>、川崎車輛兵庫工場となる)<ref group="出典" name="蒸気機関車から超高速車両まで pp6-7">[[#hyogo90|蒸気機関車から超高速車両まで]] pp.6-7</ref>での仮組工程を省略し、加工済み部材を現場にて直接組み立てることを決断した。
 
仮組を省略した場合、その分の所要時間を節約できるが、その反面、部材の切断ミスや接合用リベットのために予め開口された鋲孔のずれなどがあった場合、それらの修正のために架設工事全体が大きく遅れ、仮組を実施するよりもかえって時間がかかってしまう危険がある。そのため、川崎造船所で実際の桁製造を監督することになった阪根繁三郎技師はその部材製作工程の管理および工作精度の維持に細心の注意を払うことを強いられ、また設計を担当する関場らもミスが一切許されないため、本橋梁に関する各種図面の精査に追われた。
 
=== 工事 ===
現場での組み立て・橋台の施工、そして架設全般を担当したのは、奈良電気鉄道の大株主であった京阪電気鉄道および大阪電気軌道の双方に縁専務取締役[[長田桃蔵]]深く副支配人で、この種の架橋工事について経験の豊富な[[大林組]]であった。<ref group="注">主要株主の京阪電気鉄道および大阪電気軌道の工事を多く施工していた。</ref>
 
橋桁だけで1,810t、軌条や枕木を合わせて約2,000t、通過する60t級電車6両編成2本分の荷重720tを入れると総計2,700tもの重量になる<ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 p534">[[#doboku-16-8-513_539|土木学会誌 第16巻8号]] p.534</ref>本橋梁の場合、それを支える橋台の設計と施工には特に慎重な作業が要求され、しかも上述の通り工期が極端に短く失敗が許されなかった。そのため、当初は先行して架橋工事が完了していた木津川橋梁で実績があった、直径8フィート(243m2.43m)、深さ25フィート(7.62m)、厚さ8インチ(203.2mm)の円筒形鉄筋コンクリート製井筒3本2列を水中堀にして沈め、これらの上に橋台を構築することが検討された<ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 pp515-516">[[#doboku-16-8-513_539|土木学会誌 第16巻8号]] pp.515 - 516</ref>。
 
だが、本橋梁と同じ淀川水系での治水工事に経験豊富で工事現場の地質についても知悉した谷口三郎技師<ref group="注">内務省大阪土木出張所淀川増補改修事務所長(当時)。</ref>から大型構築物の[[ケーソン|沈函]]工法が適当との助言が得られ、この工法により1928年4月1日に橋台根掘りを開始、同年5月26日に鉄筋コンクリート製橋台の両岸への埋設作業が完了した<ref group="出典" name="奈良電鉄社史 p17">[[#naraden-history|奈良電鉄社史]] p.17</ref>。
 
その作業工程においては、時間的余裕が無く沈函後に試験荷重をかけてテストすることができなかった<ref group="注">それどころか、工程に対する経験の不足から右岸側の橋台工事完成が予定より遅れ、橋桁下弦材組み立て工程に混乱が生じる状況であった。</ref><ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 pp535-536">[[#doboku-16-8-513_539|土木学会誌 第16巻8号]] pp.535-536</ref>ため、通常40本の基礎杭を打設する所に直径10インチ(25.4[[センチメートル|cm]])長さ30フィート(9.14m)の松丸太による基礎杭を60本打設して地盤を徹底的に打ち固め、試験を行う必要性そのものを無くしている<ref group="注">試験荷重によるテストは最終的に行われなかったが、完成後1年が経過しても沈下が起きていないことが確認されている。</ref><ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 pp517-521">[[#doboku-16-8-513_539|土木学会誌 第16巻8号]] pp.517 - 521</ref><ref group="出典" name="土木建築工事画報 5-2 p5">[[#doboku-gaho5-2-5_6|土木建築工事画報 第5巻2号]] p.5</ref>。
 
こうして橋台が完成し、兵庫の川崎造船所から淀川を遡航して現場まで運ばれた部材により、橋桁本体の組み立てと架設が本格的に開始された。設計・製造の双方の努力が実り、現場に到着した各部材の加工精度はほとんど修正を要しない水準に達しており、むしろ高精度ゆえに弦材支承面の密着が良すぎて組み立て作業に手間取るほどであった<ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 p532">[[#doboku-16-8-513_539|土木学会誌 第16巻8号]] p.532</ref>。
 
また、橋桁本体を組み上げる工程においては、効率化を図って大林組が設計したゴライアスクレーン(門型自走式クレーン)が導入され、威力を発揮した。
 
このゴライアスクレーンは、橋桁本体の組み立てに用いる鋼製で大型のものと、船で運ばれてきた部材を仮設足場上へ揚陸するための木造で小型のものの2種が用意された。いずれも上部に電動巻き上げ機を、下部に台車をそれぞれ備え、橋桁の組み立て工程の進捗に合わせて仮設足場上に敷設された4列のレール上を移動する設計であった。大型のものは、工事完了後に柱部を分解し他の工事現場で工事用エレベーターに転用可能な寸法として設計され、高さ100フィート(30.48m)、長さ54フィート8インチ(16.66m)、と本橋梁の規模に見合った極めて巨大な構造物であった<ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 p523">[[#doboku-16-8-513_539|土木学会誌 第16巻8号]] p.523</ref>。
 
橋桁の組み立ては、当初計画では固定端とされた右岸側から順に下弦材を左岸まで並べて全長分を結合、他の主要部は大型ゴライアスクレーンを用いて右岸から中央付近まで組み立てた後、左岸までクレーンを移動、そこから再度中央へ向けて組み立てを進め、最後に中央部で結合して完成とする予定であった。
 
しかし、橋台の建設過程で右岸側が遅れたため、下弦材の組み立てについては右岸寄り2番目の部材を所定位置に置いて組み立てを開始し、順次左岸まで組み立て、最後に右岸寄り1番目の部材を結合するように変更した。ところが、これも渇水で淀川を遡航する船運に問題が生じ、予定通りに部材が届かなくなったため作業手順の再変更を迫られた。この結果、右岸寄りの一部床梁やストリンガーなどの組み立てを前倒しで行い、その後で部材到着順に左岸へ向けて下弦材を結合、左岸到達後に左岸から床梁やストリンガーの組み立てを始めて右岸寄りの組み立て済み部分に到達するまで作業を進め、床部の組み立てが終わったところで、既に組み立てが完了した下弦材と右岸橋台の間を結ぶ最後の下弦材を組み、そこの床梁とストリンガーの組み立てを行い床部全体を先に完成状態とするという、非常に込み入った複雑な作業手順とすることでこの工程での遅延の発生を最小限に抑えている<ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 p535">[[#doboku-16-8-513_539|土木学会誌 第16巻8号]] p.535</ref>。
 
続く上弦材の組み立て順序も、この下弦材組み立て工程の混乱の影響で組み立て順序が変更された。当初とは逆に左岸へ大型ゴライアスクレーンを移動してそこから中央へ向かって順に上弦材を組み立てた後、クレーンを右岸へ移動、そこから再度中央へ向けて上弦材を組み立て、最後に中央の水平な上弦材を組み付けることとなったのである<ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 pp535-536"/>。
 
この組み立て作業においては合計73,094本のリベットが使用された。それらの鉸鋲作業はスケジュールの関係で夏の炎天下での実施となったが、川崎造船所から派遣された工員30名がリベット打ち5組と穿孔機2組に分かれて従事し、約60日におよぶ作業日程で鉸鋲作業を全て完了した<ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 p538">[[#doboku-16-8-513_539|土木学会誌 第16巻8号]] p.538</ref>。
 
こうして組み上がった橋桁の塗装は浅野物産が担当し、同社の工員20名により'''Valdura Asphalt Paint'''と称する銘柄の塗料(色はダークグリーン)が塗布された。各部材には加工を行った川崎造船所で下地塗りとして[[鉛丹|光明丹]]が予め塗布されており、塗装工程では通常部位に2回ずつ、リベット結合部については3回ずつ塗装を行った。この作業には前後30日を要し、消費された塗料の総量は約1,300[[ガロン]]に及んだ<ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 p538"/>。
 
=== 完成 ===
こうして架設当時の最新技術を惜しみなく投入し、人智を尽くして工期短縮のための努力が重ねられた結果、総工費83万9千23円95銭を費やした本橋梁は、御大典を約1ヶ月後に控えた1928年10月16日に完成した。設計者である関場らは後日発表の論文の締めくくりにおいて「天帝の御加護に依り」と記したが、それは工事に関わったありとあらゆる人々の努力の賜であった。完工式には工兵第16大隊長も招待されたが、大隊長は橋梁やその架橋工事の大なることに驚き、1本2本の橋脚を立てる程度の設計変更を申し出ていれば工事を承認するつもりだったと述懐したという<ref>[[#佐藤、浅香 (1986)]] p.84</ref>
 
なお、奈良電気鉄道線そのものは難航した桃山御陵付近の高架線<ref group="注">伏見第一高架橋および伏見第二高架橋。いずれも鉄筋コンクリート製砂利道床構造の高架橋で、当初は桃山御陵参拝道との平面交差を認めない京都府の指示に従い、京阪電気鉄道新京阪線の[[西院駅|西院]] - 京阪京都(現在の[[大宮駅 (京都府)|大宮]])間と同様の設計で当初は地下線計画されたが、酒造に用いる地下水の水脈が絶たれることを危惧した沿線伏見酒造組合の反対により半地下式と大手筋への陸橋架橋の併用案を示したもののこの案も賛同を得られず、最終的に高架線へ変更された([[#佐藤、浅香 (1986)]] pp.82-83)。この一帯は工兵第16大隊の演習場もあったため、前述のとおり同演習場の一部と[[奈良鉄道]]時代の路線の名残である[[鉄道省]]奈良線の貨物支線と同線[[伏見駅 (京都府)|伏見駅]](1928年9月3日廃止)の跡地の払い下げを受けて用地を確保の上で建設された。伏見第一高架橋は本橋梁直前でS字カーブを描いているが、これはこうした工法および用地確保の紆余曲折に由来する。</ref><ref group="出典" name="RP No.569 pp121-122">[[#rp569-118_123|鉄道ピクトリアル No.569]] pp.121-122</ref><ref group="出典" name="土木建築工事画報 5-4 p16">[[#doboku-gaho5-4-16_18|土木建築工事画報 第5巻4号]] p.16</ref><ref group="出典" name="RP No.569 p.125"/>が71日間の突貫工事の末、同年11月12日に完成し、京都での即位の礼の儀式が全て終了した同月15日、京都 - 大和西大寺間34.5kmがようやく全線開業した<ref group="出典" name="奈良電鉄社史 pp34-35">[[#naraden-history|奈良電鉄社史]] pp.34-35</ref>。
 
[[ファイル:Yodogawa Railway bridge of Kintetsu 001 KYOTO JPN.jpg|thumb|right|250px|橋梁を通過中の列車長は約80m。]]
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本橋梁では、長さ46フィート(14.02m)幅21フィート(6.4m)、壁厚2フィート6インチ(762mm)の箱形鉄筋コンクリート製基礎を埋設して橋台としている。
 
橋桁は典型的な曲弦プラット分格トラス構造を採る。通常、この種の桁では対角材の経済的な傾斜角が45°となることから、必然的に背の高い中央部の分格長が長く、両端部の分格長が短く設計される。だが、本橋梁においては、仮設足場および上述したゴライアスクレーンの能力や、部材加工時の生産性向上、それに工事作業の簡略化を考慮して、全体を18に分け、各分格長を30フィート(9.144m)で統一している。また、中央の第9・第10分格の上弦材は水平として桁高を下弦材から80フィート(24.38m)の位置に置き、両端の第2・第17分格の下弦材はそれぞれ第1・第18分格との接合点での高さを40フィート(12.19m)としている<ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 pp523-524">[[#doboku-16-8-513_539|土木学会誌 第16巻8号]] pp.523 - 524</ref>。
 
[[ファイル:Nara_elc_rly_dehabo1000_no_1012.jpg|thumb|right|250px|奈良電気鉄道デハボ1000形デハボ1012<br />奈良電気鉄道開業時に唯一在籍した旅客車形式で自重34tの半鋼製車。<br />主要機器の艤装前の撮影で台車も仮台車である。]]
工事開始当時、奈良電気鉄道では車両限界の小さな16m級の中型電車<ref group="注">上述の通り、奈良電気鉄道ではその社名に反して奈良側に自社ターミナルを設置せず、大和西大寺より大阪電気軌道線に乗り入れを実施した。そのため、同社奈良線および橿原線の乗り入れ区間で規定される[[建築限界]]に抵触しない[[車両限界]]に従う寸法での車両製造が求められ、車体長16,320[[ミリメートル|mm]]、車体幅2,515mmと同時期に関西私鉄各社で計画あるいは製造されつつあった大型高速電車群より一回りあるいは二回り小さい寸法の車両を新造している。なお、最大幅は2,628mmで、[[生駒トンネル]]の小さな断面に制約された大阪電気軌道奈良・橿原両線の各形式(最大幅2,590mm)よりも若干大きな寸法が採用されている。</ref><ref group="出典" name="日本車輛製品案内 昭和3年(鋼製車輛) p54">[[#catalog-s3|日本車輛製品案内 昭和3年(鋼製車輛)]] p.54</ref><ref group="出典" name="近鉄旧型電車形式図集 pp73-140+259">[[#kintetsu-cars|近鉄旧型電車形式図集]] pp.73-140・259</ref>である[[奈良電気鉄道デハボ1000形電車|デハボ1000形]]1両あるいは2両編成での運行を計画しており、また財政的にも決して豊かでなかったことから短尺レールを使用するなど、低規格での路線建設を進めていた。しかし、本橋梁の設計にあたっては財政難であったにもかかわらず、またそうした当初の車両運行計画状況であったにもかかわらず、将来の車両大型化と橋梁そのものの長命化を見越して、その列車荷重や両側構間の間隔については大きな余裕を持たせた寸法・強度が設定された。
 
[[ファイル:Yodogawa Bridge Pennsylvania (Petit) truss.JPG|thumb|right|250px|橋梁上を[[京都市交通局10系電車]]が通過中。6両でも自重は約200tで、設計時に想定された6両編成(360t)よりも格段に軽い。]]
すなわち、[[活荷重|列車荷重]]は1901年に示された[[セオドア・クーパー|クーパー]]荷重にてE24<ref group="注">国鉄では1909年にクーパー荷重E33を架橋時の標準列車荷重として設定し、更に『国有鉄道建設規定』によりクーパー荷重E40を標準と定め、一部の幹線では軌間の1,067mmから1,435mmへの[[改軌]]を前提にクーパー荷重E45も採用していたから、これは決して大きな値ではない。ただし、国鉄の採用していたクーパー荷重E40は、1両で100t前後と自重の極端に大きな蒸気機関車が重連運転を行うことを前提とした値であるため、そうした重量級機関車の運行を想定しない本橋梁と、それら国鉄標準桁は単純比較できない。</ref><ref group="出典" name="土木史研究 12 p.199">[[#doboku-kenkyu16-197_202|土木史研究 第12号]] p.199</ref>とし、当時としては破格の60.8[[トン|t]]級電車<ref group="注">本橋設計時に想定された1両あたり60.8t、軸重15.2t、車体長18.3m、心皿中心間隔15.9mという重量・寸法は、奈良電気鉄道の一方の親会社である[[京阪電気鉄道]]が、子会社である[[新京阪鉄道]]の全線開業に備えて製造を進めていた[[新京阪鉄道P-6形電車|P-6形]]の初期グループ(公称自重41.66t、実測自重52t)や同じく京阪電気鉄道が建設に関与した[[阪和電気鉄道]]が製造しつつあった[[阪和電気鉄道の車両|モタ300形]](公称自重47.07t、メーカー実測自重53t)、あるいは本橋梁の完成後、もう一方の親会社である[[大阪電気軌道]]が自社とやはり子会社である[[参宮急行電鉄]]のために製造することになる[[大阪電気軌道デボ1400形電車|デボ1400形]](公称自重47.5t)および[[参宮急行電鉄2200系電車|デ2200形(新)]](公称自重47.5t)といった戦前の日本を代表する最重量級電車の、それも電動車でさえ到達するのが難しい値である。なお、奈良電気鉄道が開業時に用意したデハボ1000形は自重34tである。</ref><ref group="出典" name="土木史研究 12 p.199"/><ref group="出典" name="日本車輛製品案内 昭和3年(鋼製車輛) pp58+67">[[#catalog-s3|日本車輛製品案内 昭和3年(鋼製車輛)]] pp.58・67</ref><ref group="出典" name="近鉄旧型電車形式図集 pp17-18">[[#kintetsu-cars|近鉄旧型電車形式図集]] pp.17 - 18</ref>6両編成が橋梁上で行き交う状況を想定して設計し、なおかつその衝撃係数の算定に当たってアメリカAREA({{interlang|en|American Railway Engineering and Maintenance-of-Way Association#American Railway Engineering Association|American Railway Engineering Association}}:アメリカ鉄道技術協会)の衝撃係数式を採用したため、本橋の設計衝撃力は現在の標準的な設計の約1.2倍と非常に大きな余裕が与えられている<ref group="出典" name="土木史研究 12 pp.199-200">[[#doboku-kenkyu16-197_202|土木史研究 第12号]] pp.199 -200</ref>。また、建築限界に影響する両側構間の中心間隔は、やはり複線分としても大きく余裕を持たせ、32フィート(9.75m)幅としている<ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 pp523-526">[[#doboku-16-8-513_539|土木学会誌 第16巻8号]] pp.523-526</ref>。
 
本橋は日本では前例のない巨大橋梁であることから、強風時の風圧による風荷重や気温変化による熱応力についても慎重に余裕を持たせて設計された。特に副応力を最小限とするため、径間中央の縦桁に伸縮点を設けている<ref group="出典" name="土木学会誌 16-8 p527">[[#doboku-16-8-513_539|土木学会誌 第16巻8号]] p.527</ref>。もっとも風荷重については設計当時のアメリカの基準に依ったと見られ、145kg/m<sup>2</sup>とその後の日本における標準値である300kg/m<sup>2</sup>の半分以下の値として設計されている。ただし、この値については通風時の風下側での遮蔽効果についての計算基準が現在の標準とは異なっており、計算上現在の標準の約6割しか風荷重を受けないとされている<ref group="出典" name="土木史研究 12 p.200">[[#doboku-kenkyu16-197_202|土木史研究 第12号]] p.200</ref>。
 
こうした将来を見据えた配慮により、本橋梁は架橋から80年以上が経過し通過する電車が活荷重の大きな21m級大型電車6両編成となった2011年現在においても、設計衝撃力に大きな余裕を持たせて設計されていたことから活荷重増大分が相殺され、桁そのものについては設計に何ら手を加える必要もないまま、ほぼ完成時そのままの状態での使用が可能となっている。
 
== 現状 ==
本橋梁は木津川橋梁、伏見第一・第二高架橋と並ぶ奈良電気鉄道線の重要施設の一つであり、奈良電気鉄道が近畿日本鉄道へ吸収合併され同社京都線となった際にもそのまま承継された。そのため、完成以来実に80年以上にわたりほぼ竣工時のままの姿<ref group="注">竣工時との相違点は、橋梁の両端上部に掲げられていた橋梁名を記した扁額が喪われ、手すり付きの保守用通路が追加設置された程度で、橋桁の構造体については特に目立つ改造は施されていない。</ref>で、使用され続けている。
 
ただし、[[1977年]]に橋桁を支える主構可動支承のロッカー部分、つまり振動や熱膨張などによるずれ、あるいは伸縮を吸収する重要部品が損傷していることが明らかとなった<ref group="出典" name="土木史研究 12 p.201">[[#doboku-kenkyu16-197_202|土木史研究 第12号]] p.201</ref>。このため、[[1983年]]に問題となった主構可動支承ロッカー部の新型支承板への交換や、縦桁支承および端対傾構ガセットなどの摩耗部材について補修を実施することで延命が図られている<ref group="出典" name="土木史研究 12 p.201">[[#doboku-kenkyu16-197_202|土木史研究 第12号]] p.201</ref>。
 
ただし、[[1977年]]に橋桁を支える主構可動支承のロッカー部分、つまり振動や熱膨張などによるずれ、あるいは伸縮を吸収する重要部品が損傷していることが明らかとなった<ref group="出典" name="土木史研究 12 p.201">[[#doboku-kenkyu16-197_202|土木史研究 第12号]] p.201</ref>。このため、[[1983年]]に問題となった主構可動支承ロッカー部の新型支承板への交換や、縦桁支承および端対傾構ガセットなどの摩耗部材について補修を実施することで延命が図られている<ref group="出典" name="土木史研究 12 p.201">[[#doboku-kenkyu16-197_202|土木史研究 第12号]] p.201</ref>。
本橋梁は[[2001年]]10月18日に'''近鉄澱川橋梁'''という名称で「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として国の[[登録有形文化財]](登録番号26-0073)に指定されている。
 
本橋梁は[[20012000年]]10月18日に'''近鉄澱川橋梁'''という名称で「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として国の[[登録有形文化財]](登録番号26-0073)に指定登録されている。
== 注釈 ==
{{Reflist|group="注釈"}}
 
== 出典脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|2|group="出典"}}
{{Reflist|35em|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|group="出典"25em}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author = [[日本車製造]]|authorlink = 日本車輌製造|coauthors = |year = 1928|title = 日本車輛製品案内 昭和3年(鋼製車輛)|publisher = 日本車製造|ref = catalog-s3|id = |isbn = }}
* {{Cite journal|和書|author=浅井 郁爾|title=奈良電気鉄道建設工事に就て|journal=土木建築工事画報|volume=5|issue=2|pages=5 - 6|publisher=[[土木学会]]|ref = doboku-gaho5-2-5_6|year=1929|month=2|url=http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/05-02/05-02-0973.pdf|format=PDF}}
* {{Cite journal|和書|title=澱川大橋梁工事写真|journal=土木建築工事画報|volume=5|issue=2|pages=7 - 11|publisher=土木学会|ref = doboku-gaho5-2-7_11|year=1929|month=2|url=http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/05-02/05-02-0974.pdf|format=PDF}}
* {{Cite journal|和書|author=浅井 郁爾|title=奈良電鉄木津川橋梁工事  空堀にて井筒沈下の例|journal=土木建築工事画報|volume=5|issue=3|pages=26 - 28|publisher=土木学会|ref = doboku-gaho5-3-26_28|year=1929|month=3|url=http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/05-03/05-03-0999.pdf|format=PDF}}
* {{Cite journal|和書|author=浅井 郁爾|title=奈良電鉄伏見高架橋工事|journal=土木建築工事画報|volume=5|issue=4|pages=16 - 18|publisher=土木学会|ref = doboku-gaho5-4-16_18|year=1929|month=4|url=http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/05-04/05-04-1015.pdf|format=PDF}}
* {{Cite journal|和書|author=関場 茂樹・浅井 郁爾・江田 良治|title=澱川橋梁工事報告概要|journal=土木学会誌|volume=16|issue=8|pages=513 - 539|publisher=土木学会|ref = doboku-16-8-513_539|year=1930|month=8|url=http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/m_jsce/16-08/16-8-11868.pdf|format=PDF}}
* {{Cite book|和書|editor=奈良電気鉄道株式会社 社史編纂委員会|title=奈良電鉄社史|publisher=近畿日本鉄道|ref = naraden-history|year=1963|month=12}}
* {{Cite book|和書|editor=[[鉄道史資料保存会]]|editor-link=鉄道史資料保存会|title=近鉄旧型電車形式図集|publisher=鉄道史資料保存会|ref = kintetsu-cars|year=1979}}
* {{Cite book|和書|author=佐藤博之|coauthors=浅香勝輔|year=1986|title=民営鉄道の歴史がある景観 I|publisher=[[古今書院]]|isbn=4-7722-1427-5|ref=佐藤、浅香 (1986)}}
* {{Cite journal|和書|author=月岡 康一・小西 純一・和田林 道宣|title=澱川橋梁の設計について-現代トラス橋との比較の試み-|journal=土木史研究 |volume=16|pages=197 - 202|publisher=土木学会|ref = doboku-kenkyu16-197_202|year=1992|month=6|url=http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1992/12-0197.pdf|format=PDF}}
* {{Cite journal|和書|author=徳永慶太郎|title=近鉄昔ばなし|journal=[[鉄道ピクトリアル]]1992年12月臨時増刊号|volume=569|year=1992|month=12|pages=118 - 123|publisher=[[電気車研究会]]|ref = rp569-118_123}}
125 ⟶ 151行目:
* {{Cite book|和書|editor=川崎重工業株式会社 車両事業本部|title=蒸気機関車から超高速車両まで -写真で見る兵庫工場90年の鉄道車両製造史-|publisher=交友社|ref = hyogo90|year=1996|month|11}}
* {{Cite journal|和書|author=武島 良成|title=伏見の工兵部隊 : 工兵はそこで何をしていたのか|journal=京都教育大学紀要|issue=109号|year=2006|month=9|publisher=[[京都教育大学]]|ref = kyoto-education|pages=15 - 29|url=http://lib1.kyokyo-u.ac.jp/kiyou/kiyoupdf/no109/bkue10903.pdf|format=PDF}}
* {{Cite journal|和書|author=武島良成 |date=2011-09 |url=https://hdl.handle.net/20.500.12176/7177 |title=奈良電気鉄道の澱川橋梁と高架橋の神話 |journal=京都教育大学紀要 |ISSN=0387-7833 |publisher=京都教育大学 |volume=119 |pages=1-16 |hdl=20.500.12176/7177 |CRID=1050845762913145984 |ref=harv}}
* {{Cite web|和書|url=http://library.jsce.or.jp/jscelib/committee/2003/bridge/T5-013.htm|title=歴史的鋼橋一覧:T5-013 澱川橋梁|publisher=[[土木学会]]|accessdate=2010-09-22}}
 
== 関連項目 ==
{{commonscat}}
* [[木津川橋梁 (近鉄京都線)]] - 本橋梁と同時期に奈良電気鉄道によって架設された。
 
== 外部リンク ==
{{osm box|w|526821323}}
[http://www.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=101&item_id=00001924 国指定文化財等データベース 近鉄澱川橋梁]
* {{国指定文化財等データベース|101|00001924|近鉄澱川橋梁}}
 
{{Good article}}
{{淀川の橋}}
{{DEFAULTSORT:よとかわきようりよう}}
[[Category:京都府日本橋]]
[[Category:京都市日本建築物トラス橋]]
[[Category:伏見区京都市の橋]]
[[Category:トラス淀川の橋]]
[[Category:伏見区の交通]]
[[Category:日本の鉄道橋]]
[[Category:近畿日本鉄道|橋よとかわきようりよう]]
[[Category:京都府の登録有形文化財]]