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[[ファイル:Viking Ship Museum - Oseberg ship - 3.jpg|thumb|250px|[[ヴァイキング]]時代の到来。巧みな航海術を駆使した北欧の海賊はヴァイキングと呼ばれ恐れられた。画像は[[ノルウェー]]のオーセベリ墳丘墓から出土した[[オーセベリ船|船葬用の船体]]([[オスロ]]の[[ヴァイキング船博物館 (オスロ)|ヴァイキング船博物館]]蔵)。]]
[[ファイル:Wikinger.jpg|thumb|250px|[[イングランド]]を襲撃する[[デーン人]](ヴァイキング)。イングランド各地もデーン人の猛攻を受け、[[イーストアングリア]]の[[エドマンド殉教王|エドマンド王]]が殺害された。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。]]
[[File:Spillings Silver Hoard 2 closeup.jpg|thumb|right|250px|{{仮リンク|スピリングスの秘宝|en|Spillings Hoard}}。[[ゴットランド島]]はヴァイキングの通商・貿易の拠点であり、それを裏付けるよう1999年にこの島の北端スピリングスでヴァイキング時代の宝物が大量に発見されている。大量の銀製品の他にイスラムや[[ハザール]]の貨幣も出土している。]]
[[ファイル:Samara spiralovity minaret rijen1973.jpg|thumb|220px|[[マルウィヤ・ミナレット]](サーマッラーのミナレット)。[[アッバース朝]]第8代カリフの[[ムウタスィム]]が建築した[[サーマッラー]]の大モスク付属の螺旋式のミナレット。]]
[[ファイル:Harun Al-Rashid and the World of the Thousand and One Nights.jpg|thumb|right|180px|[[ハールーン・アッラシード]]。アッバース朝最盛期のカリフで、『[[千夜一夜物語]]』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。]]
[[ファイル:Maqamat hariri.jpg|thumb|220px|「[[知恵の館]](バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・[[マアムーン]]の治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画([[フランス国立図書館]]蔵)。]]
[[File:مجسمه امیر یعقوب لیث صفاری در زابل.jpg|thumb|right|220px|[[銅細工師]]サッファール。アッバース朝の衰退に伴い最初にイラン人王朝を建てたのが[[ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール]]である。ヤアクーブは銅細工師から[[アイヤール]](イラン世界における任侠の徒)となり、貧者に尽くす[[義賊]]であったとの伝説もあり、今日でもイラン人の評判は高い。画像は[[デズフール]]にあるサッファールの銅像。]]
[[ファイル:Manjusri Kumara (bodhisattva of wisdom), India, Pala dynesty, 9th century, stone, Honolulu Academy of Arts.jpg|thumb|200px|インド最後の仏教王朝の[[パーラ朝]]。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の[[文殊菩薩]]石像([[ホノルル美術館]])。]]
[[ファイル:Jingangjing.jpg|thumb|250px|[[敦煌文書]]。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は[[大英博物館]]所蔵の「[[金剛般若波羅蜜経]]」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の[[懿宗]]の治世の868年に作成されたもの。]]
[[File:Cover and page of Ennin's Diary - The Record of a Pilgrimage to China in Search of the Law 入唐求法巡禮行記.jpg|thumb|right|200px|『[[入唐求法巡礼行記]]』。日本僧[[円仁]]は[[最澄]]の下で天台教学を修めた後、遣唐留学生として中国に赴き詳細に渡る見聞をこの記録にまとめた。唐の[[武宗 (唐)|武宗]]による[[会昌の廃仏]]に遭遇するなど辛酸を舐めたが、それも含めてこの記録は晩唐の貴重な資料となっている。]]
[[ファイル:Famen temple 25.jpg|thumb|right|250px|[[法門寺]]宝物。唐では武宗による会昌の廃仏以後も仏教は衰えを見せなかった。歴代皇帝の尊崇を集めた法門寺からは1987年に地下宮殿が発見され多くの宝物が出土した。画像は法門寺の金銀器の一つで{{仮リンク|禁止出境展覧文物|zh|禁止出境展览文物}}でもある「八重宝函」。]]
[[File:Pressapochista4.jpg|thumb|right|220px|「海東の盛国」。[[靺鞨]]人と[[高句麗]]遺民により建国された[[渤海 (国)|渤海]]は、国王[[大仁秀]]と続く[[大彝震]]のもとで国力を増進し、唐や日本との良好な関係もあって、この時期「海東の盛国」と呼ばれた。画像は大彝震の年号「[[咸和 (渤海)|咸和]]」が刻まれた「咸和四年銘仏龕([[倉敷市]][[大原美術館]]蔵)」。]]
[[ファイル:Taizokai.jpg|thumb|220px|[[密教]]招来。[[空海]]らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる[[胎蔵界]][[曼荼羅]]で京都[[東寺]]所蔵のもの。]]
[[ファイル:Emperor Saga large.jpg|thumb|right|180px|崇文の治。[[薬子の変]]から[[承和の変]]までの嵯峨・淳和・仁明の三代の治世は、勅撰漢詩集の編纂にみられる文雅が重んじられた時代で、安定した政治が行われた。画像は[[三筆]]の一人でも名高い[[嵯峨天皇]]の肖像画([[御物]])。]]
[[File:Nakatsuhime Yakushiji.jpg|thumb|right|180px|[[神仏習合]]の深化。奈良時代に始まった神仏習合の流れから、平安時代前期には日本古来の神々の像が作られるようになった。画像は[[薬師寺|薬師寺休ヶ岡八幡宮]]にある[[国宝]]・[[八幡三神]]の[[比売神]]([[応神天皇]]皇后の[[仲姫命]])の神像。]]
[[File:Scène de l'Ise-monogatari par Nonomura Sōtatsu.jpg|thumb|right|220px|『[[伊勢物語]]』の世界。この物語の主人公は政治では不遇でありながら歌才に恵まれた貴公子[[在原業平]]がモデルとされている。画像は伝[[俵屋宗達]]の『伊勢物語図色紙』([[大和文華館]]蔵)六段芥川で業平が二条后高子を連れ出す場面。]]
[[ファイル:Ban dainagon ekotoba.jpg|thumb|450px|[[応天門の変]]。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「[[伴大納言絵詞]]」([[出光美術館]]蔵)。]]
[[ファイル:Tiwanaku - Versunkener Hof.jpg|thumb|right|250px|[[ティワナク]]。[[ボリビア]]の[[ラパス県 (ボリビア)|ラパス県]]の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。]]
[[ファイル:2002.12.29 18 Codz Poop Kabah Yucatan Mexico.jpg|thumb|right|250px|[[カバー (マヤ遺跡)|カバー]]遺跡。[[ユカタン半島]]北部の遺跡で、[[プウク式]]装飾で有名なコズ・ポープ神殿がある。画像は雨の神[[チャク]]神の仮面で覆われたコズ・ポープ神殿の[[ファサード]]で、裏手と側柱に9世紀の日付がなされている。]]
[[File:Igbo ukwu vass.png|thumb|right|250px|{{仮リンク|イボウクウ遺跡|en|Igbo-Ukwu}}。9世紀から10世紀に発展した[[ナイジェリア]]南東部の遺跡で、この地域最古の青銅器が発見されている。画像は巻き貝の形をした青銅製の儀式用具で細密な装飾文様が施されている(ナイジェリア国立博物館蔵)。]]
[[File:KarlII monks.jpg|thumb|right|200px|[[カロリング朝|カロリング帝国]]の分裂。[[ヴェルダン条約]]と続く[[メルセン条約]]でカール大帝の遺領は三分割された。画像は両条約で西フランク王となった禿頭王シャルル2世の肖像で、フランス国立図書館所蔵の『{{仮リンク|ヴィヴィアンの聖書|en|First Bible of Charles the Bald}}』の細密画。]]
[[ファイル:Siege of Paris (885–886).jpeg|thumb|250px|「[[パリ包囲戦 (885年-886年)|パリの戦い]]」。[[ウード (西フランク王)|パリ伯ウード]]は、885年に始まったヴァイキングの攻撃から[[パリ]]を死守し名声を高めた。画像は[[ジャン=ヴィクトール・シュネッツ]]の歴史画([[ヴェルサイユ宮殿]]「{{仮リンク|戦闘の回廊|en|Galerie des Batailles}}」蔵)。]]
[[File:Alfred-jewel-ashmolean.jpg|thumb|right|200px|[[アルフレッド大王]]。デーン人を下しイングランドの再建に貢献したことでアングロ・サクソン史上唯一の「大王」の名がつけられた。画像は「AELFRED MEC HEHT GEWYRCAN(アルフレッドの命で作られた)」の銘を持つ「{{仮リンク|アルフレッドの宝飾|en|Alfred Jewel}}([[アシュモリアン博物館]]蔵)」。]]
[[ファイル:Варяги.jpg|thumb|right|250px|[[ルーシ]]国家の成立。画像は[[スタラヤ・ラドガ|ラドガ]]にて東スラブ人と出会う[[ヴァリャーグ]]の[[リューリク]]一行を描いた[[ヴィクトル・ヴァスネツォフ]]の歴史画。]]
[[File:Clasm Chludov.jpg|thumb|right|200px|[[イコノクラスム]]の継続。[[第2ニカイア公会議]]以降も、東ローマ帝国では断続的に聖像破壊運動は続いた。画像は{{仮リンク|クルドフ詩編|en|Chludov Psalter}}挿絵で、キリストの受難になぞらえて836年に[[コンスタンディヌーポリ総主教|コンスタンティノポリス総主教]]となったヨハンネス7世の破壊運動を描いている場面。]]
[[ファイル:Apse mosaic Hagia Sophia Virgin and Child.jpg|thumb|right|200px|イコノクラスムの完全終結。東ローマ帝国では843年の[[コンスタンティノポリス]]での教会会議により聖画像崇敬派の勝利が確定し正教の教義が確認された。画像は870年頃に作られた[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア教会]][[アプス]]半ドームにある聖母子のモザイク画。]]
[[ファイル:Kyrill&Method.jpg|thumb|right|200px|スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟は[[グラゴール文字]]を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟の[[イコン]](聖画像)。]]
[[ファイル:Old Basilica in Pliska 2.JPG|thumb|right|250px|[[プリスカの戦い]]。プリスカは[[第一次ブルガリア帝国]]の都で、ここをめぐり東ローマ帝国と死闘を繰り広げた。811年にはバルビツィア峠でブルガリア皇帝[[クルム]]が東ローマ皇帝[[ニケフォロス2世]]を戦死させ大勝利を収めた。画像は現在の[[プリスカ (ブルガリア)|プリスカ]]遺跡。]]
'''9世紀'''(きゅうせいき)は、[[西暦]][[801年]]から西暦[[900年]]までの100年間を指す[[世紀]]。
[[ファイル:East-Hem 800ad.jpg|thumb|300px|9世紀初頭の世界地図([[東半球]])]]
[[ファイル:East-Hem 900ad.jpg|thumb|300px|9世紀末の世界地図(東半球)]]
== できごと ==
* 9世紀
** [[ウクライナ]]西部[[ポジーリャ]]の「[[ズブルチの偶像]]」が建造される。
*** 東欧各地にキリスト教が伝播する以前の数少ない[[異教]]信仰の痕跡(四面神[[スヴェントヴィト]]と推定)。
=== 800年代 ===
{{main|800年代}}
* [[800年]]頃
** [[チチカカ湖]]周辺の[[ティワナク文化]](ティワナクV期前半)が最盛期を迎える。
** インドの[[ラージャスターン州]][[ジャイプル]]近郊にある[[チャンド・バオリ]]の階段井戸が建設される。
** [[室生寺]]の五重塔が建立される。
* 801年
** [[征夷大将軍]]の[[坂上田村麻呂]]が[[陸奥国|陸奥]]へ向かう。
** [[畿内]]の[[班田]]を12年に一度とする。
** [[バルセロナ]]包囲戦でカール大帝がイスラム勢力に勝利し[[バルセロナ伯]]を設置。
* 802年
** {{仮リンク|ジャヤーヴァルマン2世|en|Jayavarman II}}が[[カンボジア]]を統一し、[[アンコール朝]]が成立。
** 東ローマ帝国で女帝[[エイレーネー (東ローマ女帝)|エイレーネー]]が政変で廃位され、皇帝[[ニケフォロス1世]]が即位。
** 坂上田村麻呂が[[胆沢城]]を築く。後に[[鎮守府 (古代)|鎮守府]]を置く。蝦夷の[[アテルイ|大墓公阿弖流為]]ら降伏する。
** [[スコットランド]]北西[[ヘブリディーズ諸島]]の[[アイオナ修道院]]がヴァイキングに襲撃される(続く806年、825年にも)。
* 803年
** カール大帝がアッバース朝の[[ハールーン・アッ=ラシード]]に派遣していた使節が[[アーヘン]]宮廷に戻る。
*** ハールーン・アッ=ラシードから贈られた象「[[アブル=アッバース]]」を伴っての帰国となる。
** ハールーン・アッ=ラシードが[[ジャアファル]]を処刑。バルマク家一族を粛清。
** 東ローマ皇帝ニケフォロス1世と西ローマ帝国カール大帝の講和({{仮リンク|ニケフォロスの平和|en|Pax Nicephori}})。
*** この講和により東ローマに服属しつつ、[[ヴェネツィア]]が事実上の独立を勝ち取る。
** 坂上田村麻呂が[[志波城]]を築く。
* 804年
** 坂上田村麻呂を再び征夷大将軍に任ずる。
** [[最澄]]と[[空海]]が唐にわたる。
* 805年
** 唐の皇帝[[順宗 (唐)|順宗]]が即位し政治改革を志す([[永貞 (唐)|永貞]]の革新)。
*** 宦官や保守派の巻き返しで退位させられ、息子の[[憲宗 (唐)|憲宗]]が即位。
*** {{仮リンク|王叔文|zh|王叔文}}・[[柳宗元]]・[[劉禹錫]]らの少壮官僚らが失脚({{仮リンク|ニ王八司馬事件|zh|二王八司马}})。
** 最澄が[[天台山]]の[[道邃]]や行満から[[天台宗]]を学んで帰国。空海が長安[[青龍寺 (西安市)|青龍寺]]の[[恵果]]から[[伝法灌頂]]を受ける。
** [[菅野真道]]と[[藤原緒嗣]]との間で「[[徳政相論]]」が行われる。
** カール大帝によりアーヘン宮廷礼拝堂([[アーヘン大聖堂]])が完成し奉献される(796年 - )。
* 806年
** [[桓武天皇]]が没し、第51代[[平城天皇]]が即位。
** [[真言宗]]を学んだ空海が唐から帰国し「[[請来目録]]」を朝廷に提出する。
** カール大帝による「国王分割令」(ディヴィシオ・レグノールム)。
** [[アッバース朝の小アジア侵攻 (806年)|アッバース朝の小アジア侵攻]]。
*** アッバース朝が東ローマ帝国から小アジアのティアナ・ヘラクレアを奪う。ラーフィー・イブヌル・ライスの反乱。
** [[アイオナ修道院]]が[[ヴァイキング]]に襲われ、以後修道士たちは[[アイルランド]]の{{仮リンク|ケルズ修道院|en|Abbey of Kells}}に退避する。
* 807年
** [[伊予親王の変]]。
** [[生野銀山]]が開坑される。
* 809年
** ハールーン・アッ=ラシードが死去。
** 平城天皇が譲位し、第52代[[嵯峨天皇]]が即位(崇文の治)。
=== 810年代 ===
{{main|810年代}}
* 810年
** [[薬子の変]]。
*** 乱に先んじて[[蔵人所]]を設置。平城上皇が旧都平城京に出奔。
*** [[藤原仲成]]が射殺され、[[藤原薬子]]が自殺、嵯峨天皇側が勝利。
*** 平城上皇が出家、[[高岳親王]]が[[廃太子]]となる。
*** 嵯峨天皇が皇女の[[有智子内親王]]を[[斎王]]とする([[賀茂斎院]]の始まり)。
** [[デンマーク]]王[[ゴズフレズ (デンマーク王)|ゴズフレズ]]がフランク王国支配の[[フリースラント]]を襲撃する。
* 811年
** 東ローマ皇帝ニケフォロス1世が[[プリスカの戦い]]でブルガリアの[[クルム (ブルガリア皇帝)|クルム]]に敗北し戦死。
** 征夷将軍[[文室綿麻呂]]が[[爾薩体村|爾薩体]]・[[閉伊郡|幣伊]]の二村の蝦夷を討つ(38年戦争終結)。
* 812年
** 東ローマ皇帝ミカエル1世ランガベーがカール大帝を「フランク族の皇帝」として承認。
** [[嵯峨天皇]]が[[神泉苑]]にて「花宴の節」を催す(記録に残る日本での[[桜]]の[[花見]]の初出)。
* 813年
** [[ガリシア]]の[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]で{{仮リンク|隠者ペラーヨ|es|Ermitaño Pelayo}}が聖[[ヤコブ (ゼベダイの子)|ヤコブ]]の墓を発見したという。
** アッバース朝6代カリフの[[アミーン]]が異母兄[[マアムーン]]に暗殺される。マアムーンが第7代カリフに即位。
* 814年
** 日本最初の勅撰漢詩集『[[凌雲集]]』が成立。
** 嵯峨天皇がその子女8人に源姓を賜い臣籍降下させる([[嵯峨源氏]]。賜姓[[源氏]]の始まり)。
** カール大帝死去、息子の[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]]が単独皇帝となる。
* 815年 - 東ローマ皇帝[[レオーン5世]]が再び聖像破壊令を出す(第二次[[イコノクラスム]] - 843年)。
* 816年
** 空海が[[高野山]][[金剛峯寺]]を開基。[[泰範]]の処遇をめぐり空海と最澄が訣別。
** [[アゼルバイジャン]]で{{仮リンク|ホッラム教徒|en|Khorramdin}}{{仮リンク|バーバク・ホッラムディン|en|Babak Khorramdin}}の反乱( - [[837年]])。
* 816年頃 - このころまでに[[検非違使]]が設置される。
* 817年
** 唐の皇帝憲宗の命で淮南西道節度使の呉元済が討伐される。
** 皇帝ルートヴィヒ1世が[[帝国整序令]]を発布。
* 818年
** [[菅原清公]]らが『[[文華秀麗集]]』を編纂。
** 嵯峨天皇が死刑停止の宣旨(『[[弘仁格]]』)を公布し死刑執行が停止される( - [[1156年]])。
** 嵯峨天皇の命により天下の儀式・男女の衣服・拝礼作法などが唐風とされ、[[大内裏]]諸門の名称も和名から唐名に変更される。
* 819年
** 皇帝憲宗に献じた[[韓愈]]の『[[論仏骨表]]』が勅勘を被り、韓愈が潮州刺史に左遷される。
** 最澄が天台僧養成のための『[[山家学生式]]』を朝廷に提出する。
*** 翌年には南都の仏教勢力の反発に対して『[[顕戒論]]』を執筆する。
=== 820年代 ===
{{main|820年代}}
* 820年
** 『[[弘仁格]]』と『[[弘仁式]]』が撰進される。
** 東ローマ帝国で[[レオーン5世]]が暗殺され、皇帝[[ミカエル2世]]が即位しアモリア朝が成立。
*** 小アジアではこれに反対する[[スラヴ人トマス#反乱|スラブ人トマスの反乱]]が起きる。
* 821年
** [[ホラサーン]]で[[ターヒル朝]]が自立する。
** 唐と吐蕃との間で[[長慶会盟]]が結ばれる。唐の[[穆宗]]の妹{{仮リンク|太和公主|zh|太和公主 (唐宪宗之女)}}が[[ウイグル]]の[[崇徳可汗]]と婚姻する。
** 空海が[[讃岐国]][[満濃池]]の改修工事に着手する。
* 822年
** 現存最古の説話集『[[日本現報善悪霊異記|日本霊異記]]』を[[景戒]]が編集。
** 最澄が死去、その7日後に[[比叡山]]の大乗戒壇建立が勅許される。
** 空海が[[東寺]]を賜与される。
** マヤの[[コパン]]第17代王ウキト・トーク即位の記録がある祭壇Lの年代。
* 823年
** 「[[唐蕃会盟碑]]」が建てられる。
** 嵯峨天皇が譲位し、第53代[[淳和天皇]]が即位。
* 825年
** [[イングランド]]で[[ウェセックス]]王国の[[エグバート (ウェセックス王)|エグバート]]王が[[マーシア]]を{{仮リンク|エランダンの戦い|en|Battle of Ellandun}}で破る。
** 後ウマイヤ朝の[[アブド・アッラフマーン2世]]が[[ムルシア]]を建設。
* 825年頃
** [[イニゴ・アリスタ]]がフランク王国に反乱を起こし[[ナバラ王国]]を建国。
* 827年
** [[チュニジア]]の[[アグラブ朝]]が[[シチリア島]]征服に着手。
** 菅原清公・[[良岑安世]]らが『[[経国集]]』を編纂。
** 東ローマ皇帝[[ミカエル2世]]からフランク王国のルートヴィヒ1世に『[[偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテース|偽ディオニュシオス]]文書』が贈られ[[サンドニ大聖堂]]に納められる。
* 828年 - エジプトの[[アレクサンドリア]]から[[マルコ (福音記者)|聖マルコ]]の遺骸が[[ヴェネツィア]]に運ばれる。
* 828年頃 - 空海が[[綜藝種智院]]を創設。
* 829年 - [[ウェセックス]]王国の[[エグバート (ウェセックス王)|エグバート]]がイングランドを統一。
=== 830年代 ===
{{main|830年代}}
* 830年頃
** [[チェック人]](西スラブ族)のモイミール1世が[[モラビア王国]]建設。
** 淳和天皇の命により空海が『[[十住心論]]』を撰述(略本が『秘蔵宝鑰』)。
* 830年
** [[唐]]で[[牛僧孺]]と[[李徳裕]]が争う([[牛李の党争]])( - 844年)。
** [[ハッラーン]]にて[[アッバース朝]]カリフの[[マアムーン]]が[[サービア教徒]]に遭遇する。
** カリフのマアムーンが[[バグダード]]に「[[知恵の館]]([[バイト・アルヒクマ]])」を建設する。
*** ハッラーンに続きバグダードでのギリシア語文献からアラビア語への翻訳が盛んになる。
** カロリング朝で父帝ルードヴィヒ1世に対する息子三兄弟のクーデタが起きる。
* 831年
** 淳和天皇の命により[[滋野貞主]]が日本最古の[[類書]](百科事典)の『[[秘府略]]』を編纂する。
* 832年
** カリフのマアムーンが[[クフ王のピラミッド]]の内部に調査隊を潜入させる。
** [[南詔]]が[[ピュー]](驃)を滅ぼす。
* 833年
** アッバース朝で[[ムウタスィム]]が[[カリフ]]に即位。トルコ人奴隷([[マムルーク]])で親衛隊を組織。
** 『[[令義解]]』が撰集される。淳和天皇が譲位し、第54代[[仁明天皇]]が即位。
* 834年
** 仁明天皇の勅により空海が宮中真言院にて最初の[[後七日御修法]]を行う。
** [[ハザール]]が[[ドン川]]下流域に交易都市[[サルケル]]を建設。
*** 同時期ハザールの同盟国だった東ローマ帝国は黒海北岸に[[テマ・ケルソーノス]]を設置。
* 835年
** 唐で[[甘露の変]]が起こる。
** 高野山にて空海が死去。
* 836年
** アッバース朝がバグダードから[[サーマッラー]]に遷都。
** [[プラティーハーラ朝]]の[[ボージャ1世]]が北インドの中心地[[カナウジ]]を制圧。
* 837年
** 唐の[[文宗 (唐)|文宗]]の命による「[[石経|開成石経]]」([[西安碑林博物館]]蔵)が完成する。
* 838年
** [[小野篁]]を[[隠岐国]]に配流。
** [[承和 (日本)|承和]]の[[遣唐使]](事実上の最後の遣唐使)で[[円仁]]が唐にわたる( - [[847年]])。
** [[アモリオンの戦い]]。
* 839年
** [[アマルフィ共和国]]が独立。
=== 840年代 ===
{{main|840年代}}
* 840年
** [[藤原緒嗣]]らにより『[[日本後紀]]』が完成する。
** [[ウイグル]]が[[キルギス人|キルギス]]の攻撃により崩壊。
*** 統一ウイグル国家の崩壊により、[[甘州ウイグル王国]]・[[天山ウイグル王国]]他の地域政権が成立。
*** この一部が[[カラ・ハン朝]]成立に合流。
** イタリア・[[カンパニア]]地方の中心都市[[カプア]]がイスラム教徒によって焼き払われる。
* 841年
** [[フォントノワの戦い]]。
** ヴァイキングによりアイルランドの[[ダブリン]]が創設される。
* 842年
** [[ストラスブールの誓い]]。[[マコン]]の和平。
** 嵯峨上皇が死去し、[[承和の変]]が起こる。
*** 皇太子[[恒貞親王]]が廃され、道康親王が太子となる。
*** [[橘逸勢]]・[[伴健岑]]らが配流となり、太子の外伯父[[藤原良房]]の勢力が拡大。
** 吐蕃の[[ランダルマ]]王が暗殺され、後継者争いから吐蕃は分裂する。
* 843年
** [[ヴェルダン条約]]で[[フランク王国]]が3つに分裂。
** コンスタンティノポリス教会会議で聖像崇敬派の最終的な勝利が確定し、[[イコノクラスム]]が終結する。
*** 主催者は東ローマ皇帝[[ミカエル3世]]の母{{仮リンク|テオドラ (テオフィロスの皇后)|en|Theodora (wife of Theophilos)}}と総主教メトディオス1世。
*** このことを記念して「{{仮リンク|正教勝利の主日|en|Feast of Orthodoxy}}」が制定される。
** [[ノルウェー]]のオーセベリ墳丘墓に[[オーセベリ船|船葬用の船体]]([[オスロ]]の[[ヴァイキング船博物館]]蔵)が埋められる。
** [[文室宮田麻呂]]が乱を企てたとして[[伊豆]]に流される。
* 844年 - クラビホの戦いで[[アストゥリアス州#歴史|アストゥリアス]]王[[ラミロ1世 (アストゥリアス王)|ラミロ1世]]がイスラム教徒に勝利。
* 845年
** 唐の[[武宗 (唐)|武宗]]が仏教を弾圧([[会昌の廃仏]])。
*** 唐では[[祆教]]・[[摩尼教]]・[[景教]]などの外来の[[三夷教]]も弾圧される。
** [[ハンブルク]]がデンマーク王ホリック率いるヴァイキングに襲撃される。
* 846年 - ローマを攻撃したイスラム軍を[[グイード1世・ディ・スポレート]]が撃退。
* 846年頃
** [[ブハーリー]]が[[ハディース]]『真正集([[サヒーフ・アル=ブハーリー]])』を完成させる。
** [[イブン・フルダーズベ]]がアラビア語として最古の地理文献である『諸道と諸国の書』を執筆。
*** この著作には東方諸国として「スィーン(支那=唐か)」「シーラ (新羅か) 」「[[ワクワク|ワークワーク]]([[倭国]]=日本か)」の記載がある。
* 847年
** ローマで「[[ボルゴの火災]]」。
** 円仁が唐から新羅船により日本に帰国。[[恵萼]]が唐僧[[義空]]を伴って唐から帰国、義空は嵯峨野[[檀林寺]]の開山となる。
* 849年
** イタリアの[[ナポリ]]・[[アマルフィ]]・[[ガエータ|ガエタ]]の艦隊がイスラム艦隊に勝利([[オスティアの海戦]])。
** 東ローマ皇帝ミカエル3世の叔父{{仮リンク|バルダス(東ローマ皇帝の叔父)|en|Bardas}}により[[コンスタンティノープル大学|コンスタンティノポリス大学]](マグナウラ宮殿大学)が再興される。
=== 850年代 ===
{{main|850年代}}
* 850年 - 仁明天皇が譲位し、第55代[[文徳天皇]]が即位。
* 850年頃 - 『{{仮リンク|偽イシドルス法令集|en|Pseudo-Isidore}}』が北フランスで編纂される。
** この法令集には教皇[[首位権]]を説いた「[[コンスタンティヌスの寄進状]]」も含まれる。
* 851年
** ジャングランの戦いで、[[ブルターニュ公|ブルターニュ王]]エリスポエが西フランク王[[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世]]に勝利し独立を獲得。
** [[常暁]]の奏上によりこの年から宮中で[[大元帥法]]が行われる。
* 853年 - 唐の商人[[欽良暉]]が[[博多]]から[[福州]]に[[円珍]]を送る。
* 855年
** [[斉衡]]地震により[[奈良]]の[[東大寺]][[大仏]]の頭部が落下する。
** [[ヴァランス (ドローム県)|ヴァランス]]教会会議で[[ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ]]が断罪される。
** [[ウェセックス]]王[[エゼルウルフ]]が末子アルフレッドを連れてローマに巡礼する( - [[856年]])。
**
*** {{仮リンク|プリュム条約|en|Treaty of Prüm}}に基づき王国は、[[ロタリンギア]]・[[プロヴァンス王国|プロヴァンス]]・[[イタリア王国 (中世)|イタリア]]に三分割される。
* 856年
** [[懐建可汗]]が唐から冊封を受けて[[天山ウイグル王国]]が成立する。
** イランのダムガンで死者20万人の大地震([[ヘカトンピュロス]]の地震)。
* 858年
** 文徳天皇が没し、第56代[[清和天皇]]が即位。
*** 外祖父の[[藤原良房]]が臣下としては初の[[摂政]]となる。
* 859年
** 唐で[[裘甫の乱]]が起こる。
** [[南詔]]王世隆が皇帝を自称する。
** [[モロッコ]]・[[フェズ]]の[[カラウィーイーン大学]]が創設される。
** [[剛勇のビョルン]]らヴァイキングによる地中海遠征( - 861年)。
* 859年頃
** シーア派に属していた{{仮リンク|イブン・ヌサイル|en|Ibn Nusayr}}が自立し[[アラウィー派]]の起源となる。
=== 860年代 ===
{{main|860年代}}
* 860年
** [[行教]]が[[清和天皇]]の命を受けて[[石清水八幡宮]]を創建。
** [[ヴァリャーグ]]が東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを攻撃するも撃退される([[ルーシ・ビザンツ戦争]])。
* 861年
** 日本で[[宣明暦]]が採用される。
*** 唐で822年に作成された暦で、1685年の[[貞享暦]]への改定まで使用され続ける。
** [[ヴェズレー]]の[[サント=マドレーヌ大聖堂 (ヴェズレー)|サント=マドレーヌ大聖堂]]がベネディクト会士により建立される。
* 862年
** 伝承では[[ノルマン人]]ルス族の[[リューリク]]が[[ノブゴロド公国]]を建国する。[[ロシア]]国家のはじまり。
** [[フランドル家]]のボードゥアン1世が西フランク王シャルル2世の王女ジュディトと結婚し、初代[[フランドル伯|フランドル辺境伯]]となる。
* 863年
** [[ララカオンの戦い]]で東ローマ帝国がアッバース朝アミールのウマル・アル=アクタに勝利。
** [[東ローマ帝国]]の[[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メトディオス]]、[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]](コンスタンティノス)兄弟が[[モラヴィア]]公ラスチスラフの要請で[[スラヴ人]]に対する[[キリスト教]]伝道を開始する。
** ローマ教皇[[ニコラウス1世 (ローマ教皇)|ニコラウス1世]]が[[コンスタンティノポリス総主教]][[フォティオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|フォティオス]]を破門にする。「フォティオスの教会分裂」の始まり( - [[867年]])。
** [[神泉苑]]にて最初の[[御霊会]]が行われる(→[[869年]])。
* 864年
** [[富士山_(代表的なトピック)|富士山]][[貞観大噴火]]。
*** 側火山である長尾山ほかが形成され、流れ出た青木ヶ原溶岩が[[青木ヶ原樹海|樹海]]のもとをなす。
*** [[剗の海]]が埋没し[[富士五湖]]の[[西湖 (富士五湖)|西湖]]・[[精進湖]]が形成される。
** [[カスピ海]]南岸に[[アラヴィー朝]](ザイド朝)が成立。
** 西フランク王シャルル2世によりヴァイキングに対する組織防衛や[[パリ造幣局|造幣局]]に関する{{仮リンク|ピトレ勅令|fr|Édit de Pîtres}}が出される。
** [[コンク]]の修道士アリヴィスクスが[[アジャン]]教会所蔵の[[聖フォワ|聖女フォワ]]の[[聖遺物]]を窃取する( - [[875年]])。
* 864年頃
** [[第一次ブルガリア帝国]]の[[ボリス1世]]がキリスト教に改宗する。
* 865年
** デーン人[[大異教軍]]がイングランド東部[[イースト・アングリア]]に上陸し各地を制圧する。
*** 以後デーン人が[[七王国]]に侵入し、彼らの定住地[[デーンロウ]]を形成する。
** [[高岳親王]](真如)が天竺行きの途上の羅越国にて死去する。入唐僧[[宗叡]]が帰国(入唐八家の最後の帰国)。
* 866年
** [[応天門の変]]がおこる。応天門放火の罪で[[大納言]][[伴善男]]が流罪となる。
** 日本最初の[[大師 (僧)|大師]]号として最澄に「伝教」、円仁に「慈覚」の号が贈られる。
* 867年
** 東ローマ帝国で[[ミカエル3世]]が暗殺され[[アモリア朝]]が断絶。
*** 政変を起こした[[バシレイオス1世]]が単独皇帝に即位し[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア朝]]が成立。
** コンスタンティノポリスの[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]][[アプス]]半ドームの「玉座の聖母子像」のモザイクが造られる。
** [[イラン]]に[[サッファール朝]]が興る。
* 868年
** 唐で[[龐勛の乱]]が起こる。
** [[エジプト]]に[[トゥールーン朝]]が興る。
** 『[[熊野年代記]]』に記録された慶竜による最古の[[補陀落渡海]]。
* 869年
** [[第4コンスタンティノポリス公会議]]による総主教フォティオスの追放( - 870年)。
** デーン人大異教軍との戦いで[[イースト・アングリア]]王[[エドマンド殉教王|エドマンド]]が殉教する。
** [[イラク]]で黒人奴隷が反乱を起こす([[ザンジュの乱]])。
** 藤原良房・[[春澄善縄]]らにより『[[続日本後紀]]』が完成する。『[[貞観格]]』が撰進され施行される。
** [[貞観地震]]発生、[[陸奥国]]を大津波が襲う。
** 疫病を鎮めるため卜部日良麿が神泉苑南端で矛を立て、[[祇園社]]の神輿を出し、[[牛頭天王]]を祀る御霊会を行う([[祇園祭]]の始まり)。
** 「石碑11号」に残る[[ティカル]]最後の王[[ハサウ・チャン・カウィール2世]]の[[マヤ文字]]の記録の年。
=== 870年代 ===
{{main|870年代}}
* 870年 - [[メルセン条約]]により中央フランクが東西に2分割される。
* 871年
** [[アルフレッド大王|アルフレッド]]がイングランド王となる( - 899年)。
**『[[貞観式]]』が撰進され施行される。
* 873年 - サッファール朝がターヒル朝を倒し[[ホラーサーン]]地方を獲得。
* 874年
** 唐の[[僖宗]]皇帝が[[法門寺]]に仏舎利ほかの宝物を寄進し封印する(法門寺地下宮殿宝物)。
** 『[[植民の書]]』では[[ノルウェー]]人首領[[インゴールヴル・アルナルソン]]が最初の[[アイスランド]]定住したと伝える。
** [[シーア派]]の第11代イマームの[[ハサン・アスカリー]]が[[サーマッラー]]で死去。
*** [[十二イマーム派]]では後継者となった息子の[[ムハンマド・ムンタザル]]が第12代[[イマーム]]となったとされる。
*** 父の葬儀を司式した後そのままムハンマド・ムンタザルは[[隠れイマーム]]([[ガイバ (イスラム教)|ガイバ]])となったと伝わる。
* 875年
** [[聖宝]]が[[醍醐寺]]を創建。
** 唐で[[黄巣の乱]]が起こる( - 884年)。
** 中央アジア最初のイラン系イスラム王朝である[[サーマーン朝]]が興る。
*** [[サーマーン・フダー]]の子孫[[ナスル1世]]がアッバース朝から支配権を認められ、[[サマルカンド]]で自立する。
** イタリアにおけるカロリング朝の断絶。
* 876年
** 清和天皇が譲位し、第57代[[陽成天皇]]が即位。
** [[正子内親王 (嵯峨天皇皇女)|淳和皇后]]が[[恒貞親王|恒寂]](恒貞親王)を開山に迎え[[大覚寺]](旧嵯峨院)が創建される。
** アンデルナハの戦いで、東フランク王[[ルートヴィヒ3世 (東フランク王)|ルートヴィヒ3世]]ら三兄弟が西フランク王[[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世]]を撃退。
* 877年
** トゥルーン朝が[[シリア]]を併合。
** {{仮リンク|キエルジー勅令|fr|Capitulaire de Quierzy}}により西フランク王シャルル2世が諸侯の官職の世襲を認める。
** ロカのヤルルン渓谷を叛徒に占領され吐蕃が滅亡する({{仮リンク|吐蕃の崩壊|en|Era of Fragmentation}})。
* 878年
** {{仮リンク|エサンドゥーンの戦い(エディントンの戦い)|en|Battle of Edington}}で、イングランド王アルフレッドが[[ヴァイキング]]のデーン人の侵入を撃退。[[ウェドモーアの和議]]が結ばれる。
** {{仮リンク|ギフレー1世|ca|Guifré el Pilós}}(多毛伯)が[[バルセロナ伯]]を世襲化する。
** [[元慶の乱]]が起こり[[藤原保則]]が陸奥の蝦夷平定に派遣される。
** [[広州大虐殺 (唐代)|広州大虐殺]]。
* 879年
** {{仮リンク|コンスタンティノポリス教会会議|en|Fourth Council of Constantinople (Eastern Orthodox)}}による総主教フォティオスの復権( - 880年)。
** [[ボソ (プロヴァンス王)|ボソ]]により[[キスユラブルグント王国|下ブルグント王国]]が独立し、プロヴァンス地方がその版図となる。
** [[クロアティア]]の独立がローマ教皇ヨハネス8世に認められる。
** 藤原基経らにより『[[日本文徳天皇実録]]』が完成する。
=== 880年代 ===
{{main|880年代}}
* 880年
** [[リブモント条約]]により西フランク王国がロレーヌ西部を放棄。カロリング家の領土相続争いが決着する。
** 黄巣が洛陽・長安を占領。皇帝僖宗は蜀に逃亡する。
* 881年 - [[ラインラント]]各地の都市が[[ヴァイキング]]に攻撃され、[[アーヘン]]では大聖堂が破壊される。
* 882年
** 黄巣配下の[[朱全忠|朱温]]が唐軍に帰順し、「全忠」の名を与えられ宣武節度使となる。
** [[オレグ (キエフ大公)|オレグ]]が[[リューリク]]の子[[イーゴリ1世|イーゴリ]]を擁して[[キエフ]]を占領し、[[キエフ大公国]]を建てる。
* 883年
** 唐の皇帝僖宗が安化公主を南詔王隆舜に降嫁する。
** [[モンテ・カッシーノ]]修道院がイスラム教徒サラセン人に破壊される。
* 884年
** [[藤原基経]]によって陽成天皇が事実上廃位させられ、第58代[[光孝天皇]]が即位。
** 王満渡の戦いで、黄巣が唐軍に大敗し逃亡、狼虎谷にて自殺する。
** アショト1世が[[バグラトゥニ朝アルメニア]]王国を建国する。
* 885年
** ノルマン人の[[パリ]]攻撃に対し[[ウード (西フランク王)|パリ伯ウード]]や{{仮リンク|パリ司教ゴズラン|en|bishop of Paris}}らが[[パリ包囲戦 (885年-886年)|籠城戦]]( - 886年)。
** [[ハーラル美髪王]]が[[ノルウェー]]を統一する。
** 宦官田令孜と節度使王重栄の対立から皇帝僖宗は鳳翔に逃亡。
* 886年
** イングランド王アルフレッドが[[ロンドン]]を奪還し、デーン王グスルムとの間で協定を結ぶ。
* 887年
** イタリアにおける[[カロリング朝]]断絶。
** 源定省が皇籍復帰し親王宣下の後、皇太子となる。父の光孝天皇の死去とともに、第59代[[宇多天皇]]として即位。
*** [[藤原基経]]が初の[[関白]]となる。これに絡み[[阿衡事件]]が起こる。
** [[仁和]]3年の[[浅間山]]大噴火。
* 888年
** 最後の統一フランク王のカール3世(肥満王)が死去。
*** 統一フランク王国は分裂し、東フランクと[[ロタリンギア]]を[[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]が、西フランクを[[ウード (西フランク王)|パリ伯ウード]]が、イタリアを[[フリウリ]]公[[ベレンガリオ1世]]が継承。
*** ルドルフ1世により[[ユーラブルグント王国|上ブルグント王国]]が独立し、スイス西部がその版図となる。
** {{仮リンク|ミラッツォの戦い|en|Battle of Milazzo (888)}}で東ローマ帝国にアグラブ朝が勝利する。
** 宇多天皇が[[仁和寺]]を創建。
* 889年 - [[高望王]]に平姓を賜う([[桓武平氏]])。
=== 890年代 ===
{{main|890年代}}
*
* 891年
** 藤原基経死去。宇多天皇は摂関を置かず、[[源能有]]・[[菅原道真]]らを登用して国政改革に着手([[寛平の治]])。
** ルーヴァンの戦いで、東フランク王[[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]がノルマン人ヴァイキングに大勝。
* 892年
** [[朝鮮半島]]で[[甄萱]]が[[完山]](全州)に[[後百済]]を建てる。[[新羅]]が分裂への道を歩み始める。
** アッバース朝がサーマッラーから再びバグダードに遷都。
** 菅原道真により『[[類聚国史]]』が完成する。
* 892年頃 - 東ローマ皇帝[[レオーン6世]]により「バシリカ法典」が出される。
* 893年
** ブルガリア王に[[シメオン1世]]が即位する。第一次ブルガリア帝国は全盛期を現出。
** 唐に滞在中の留学僧中瓘が日本に宛てて遣唐使中止を奏上。
* 894年 - 菅原道真の進言により、[[遣唐使]]が廃止される。
* 895年 - 東国で7年間に及ぶ群盗蜂起([[寛平・延喜東国の乱]])が勃発。
* 896年
**[[パンノニア]](現ハンガリー)に首長[[アールパード]]に率いられた騎馬民族[[マジャル人]]が定住。
** 教皇[[フォルモスス (ローマ教皇)|フォルモスス]]の「[[死体裁判]]」が行われる。
*** この時代から次の10世紀を教皇庁の「鉄の時代」と呼び、教皇の権威は低下しローマは混乱が続く。
* 897年 - 父である宇多天皇より位を譲られて、第60代[[醍醐天皇]]が即位する。
** 宇多天皇は譲位に際し[[帝王学]]の書である「[[寛平御遺誡]]」を醍醐天皇に与える。
* 898年 - [[古マタラム王国]]のバリトゥン王が即位。その治世で[[プランバナン寺院群]]を建立。
* 899年
** [[藤原時平]]が[[左大臣]]に、菅原道真が[[右大臣]]に就任、両者の対立が激化。
** カルマト派が[[クーファ]]近郊からイラク南部に勢力を拡大し反乱を起こす。
=== 900年代 ===
{{main|900年代}}
* 900年
** [[バルフ]]の戦いでサーマーン朝の[[イスマーイール・サーマーニー|イスマーイール]]はサッファール朝の[[アムル・イブン・アル=ライス]]に勝利。
*** サーマーン朝は[[ホラーサーン]]と[[マー・ワラー・アンナフル]]を支配下に置き最盛期を迎える。
** ランゴバルド系{{仮リンク|カプア公国|en|Principality of Capua}}が独立する。
** [[甄萱]]が[[後百済]]を建国。
== 時代の動向 ==
=== 東アジア ===
==== 大陸 ====
==== 朝鮮半島 ====
==== 日本 ====
日本では[[平安時代]]前期にあたり、唐制に基づく[[律令制]]が衰退に向かい、戸籍に基づく人別課税から、[[田堵]]と呼ばれる実際に公田を請け負い経営している[[富豪層]]を[[負名]]として土地課税する制度に移行する。変動する在地社会を現実に即して統治するために現地派遣の[[国司]]の筆頭者に大幅な権限が付与され、[[受領]]と呼ばれるようになる。
=== 西アジア ===
=== 南アジア ===
=== 東南アジア ===
=== ヨーロッパ ===
== 人物 ==
=== キリスト教世界 ===
==== フランク王国 ====
* [[カール大帝]]([[742年]] - [[814年]]) - フランク王(在位[[768年]] - [[814年]])・西ローマ皇帝(在位[[800年]] - [[814年]])
* [[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]](敬虔王)([[778年]] - [[840年]]) - カール大帝の子でフランク王・西ローマ皇帝(在位[[814年]] - [[840年]])
* [[ロタール1世 (フランク王)|ロタール1世]]([[795年]] - [[855年]]) - ヴェルダン条約による[[中部フランク王国|中央フランク王]](在位[[843年]] - [[855年]])
* [[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ2世]]([[804年]] - [[876年]]) - ヴェルダン条約による[[東フランク王国|東フランク(ドイツ)王]](在位[[843年]] - [[876年]])
* [[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世(禿頭王)]]([[823年]] - [[877年]]) - ヴェルダン条約による[[西フランク王国|西フランク(フランス)]]王(在位[[843年]] - [[877年]])
* [[
* [[
* {{仮リンク|メッツのオド|en|Odo of Metz}}([[742年]] - [[814年]]) - フランク王国の建築家・集中式プランの[[アーヘン大聖堂]]の宮廷礼拝堂を建設
* {{仮リンク|アニアーヌのベネディクトゥス|en|Benedict of Aniane}}([[750年]]頃 - [[821年]]) - 修道士・ルートヴィヒ敬虔王に近侍し[[ベネディクトゥス]]の修道規則を普及させる
* {{仮リンク|オルレアンのテオドゥルフ|en|Theodulf of Orléans}}([[750年]]/[[760年]]頃 - [[821年]]) - オルレアン司教・詩人・ジェルミニー=デ=プレの小礼拝堂を建設
* [[
* [[
* ヒンクマール([[806年]]頃 - [[882年]]) - [[ランス (マルヌ県)|ランス]]大司教・[[ランス大聖堂]]でのフランス王の塗油戴冠を定式化・『[[サンベルタン年代記]]』も執筆
* オルベのゴットシャルク([[808年]]頃 - [[867年]]頃) - 修道士・[[予定説|二重予定説]]を唱えヒンクマールらと対決するが異端の嫌疑を受け幽閉中に死去
* [[
* [[セドゥリウス・スコトゥス]](9世紀) - 修道士・『キリスト教徒の君主について』は「[[君主の鑑]]」の最も初期の作品とされる
==== イタリア ====
* [[ニコラウス1世 (ローマ教皇)|ニコラウス1世]]([[820年]]? - [[867年]]) - ローマ教皇(在位[[858年]] - [[867年]])・総主教フォティオスと対立
* [[ヨハネス8世 (ローマ教皇)|ヨハネス8世]](? - [[882年]]) - ローマ教皇(在位[[872年]] - [[882年]])・サラセン人の攻撃からローマを守る
* [[フォルモスス (ローマ教皇)|フォルモスス]](? - [[896年]]) - ローマ教皇(在位[[891年]] - [[896年]])・いわゆる「死体裁判」で辱めを受ける
==== イングランド・スコットランド ====
* [[エグバート (ウェセックス王)|エグバート]]([[775年]]? - [[839年]]) - [[ウェセックス]]王(在位[[802年]] - [[839年]])・[[マーシア]]を破り[[イングランド]]を統一
* [[エゼルウルフ]](? - [[858年]]) - ウェセックス王(在位[[839年]] - [[858年]])・エグバードの子・アルフレッド大王の父
* [[アルフレッド大王]]([[849年]] - [[899年]]) - イングランド王(在位[[871年]] - [[899年]])・海軍を創設しデーン人を追い払う
* [[ケネス1世 (スコットランド王)|ケネス・マカルピン]]([[810年]] - [[858年]]) - 最初の[[スコットランド]]王(在位[[848年]] - [[859年]])・[[アルバ王国]]を建設
==== 東ローマ帝国 ====
* ゲオルギオス・シュンケロス(? - [[810年]]以降) - 東ローマ帝国の修道士・年代記作者・帝都総主教タラシオスに仕え『年代記選集』を執筆
* [[テオファネス (証聖者)|テオファネス]]([[752年]]頃 - [[818年]]頃) - 東ローマ帝国の修道士・年代記作者・この時代の記録として『テオファネスの[[年代記]]』は重要
* [[ニケフォロス1世]]([[760年]]? - [[811年]]) - 東ローマ皇帝(在位[[802年]] - [[811年]])・[[アモリア朝]]の始祖・クルムに敗北し戦死する
* [[レオーン5世]]アルメニオス(? - [[820年]]) - 東ローマ皇帝(在位[[813年]] - [[820年]])・イコノクラスムを再開し総主教[[ニキフォロス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|ニケフォロス1世]]を解任
* {{仮リンク|テオドラ (テオフィロスの皇后)|en|Theodora (wife of Theophilos)|label=テオドラ}}([[815年]]頃 - [[867年]]以降) - 東ローマ皇帝[[テオフィロス]]の皇后・息子[[ミカエル3世]]の摂政として[[イコノクラスム]]を終結させる
* [[バシレイオス1世]]([[827年]] - [[886年]]) - 東ローマ皇帝(在位[[867年]] - [[886年]])・ミカエル3世を倒し[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]を開く
* [[フォティオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|フォティオス]]([[820年]] - [[897年]]) - [[コンスタンディヌーポリ総主教|コンスタンティノポリス総主教]]・神学者・古典文献学者・『図書総覧』を著す・ローマ教皇と対立
* [[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メトディオス]]([[826年]] - [[885年]]) - 東ローマ帝国の神学者・[[修道士]]・「スラブ人の使徒」・[[グラゴル文字]]を作る・キュリロスは弟
* [[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]]([[827年]] - [[869年]]) - 東ローマ帝国の神学者・修道士・「スラブ人の使徒」・[[グラゴル文字]]を作る・メトディオスは兄
==== 東欧 ====
* [[クルム]]([[755年]] - [[814年]]) - [[ブルガリア]]国王(ハーン)(在位[[803年]] - [[814年]])・[[プリスカの戦い]]で東ローマ帝国を破り領土を拡大
* [[リューリク]](? - [[879年]]) - [[ヴァリャーグ]]([[ヴァイキング]])の一族で[[ノヴゴロド公国]]の建国者(在位[[864年]] - [[879年]])
* [[ラスチスラフ]](? - [[870年]]) - [[モラヴィア王国]]の国王(在位[[846年]] - [[870年]])・メトディオスとキュリロス兄弟の宣教を支援
* [[ボリス1世]](? - [[907年]]) - ブルガリア国王(在位[[852年]] - [[889年]])・キリスト教(東方正教)を受容し従来の宗教を弾圧
* [[オフリドのクリメント]]([[840年]]頃 - [[916年]]) - [[オフリド]]の[[主教]]・スラブ人へ東方正教を宣教・スラヴ語での説教や著述活動を行う
* [[シメオン1世]]([[863年]]頃 - [[927年]]) - [[ブルガリア]]最盛期の君主・国王(在位[[893年]] - [[913年]])・皇帝(在位[[913年]] - [[927年]])
* [[オレグ (キエフ大公)|オレグ]](? - [[912年]]/[[922年]]) - リューリクの一族か・[[キエフ公国]]の建国者(在位[[882年]] - [[912年]])・[[ドニエプル川]]水系から[[黒海]]を支配
==== 北欧 ====
* {{仮リンク|アンスガル|en|Ansgar}}([[801年]] - [[865年]]) - [[ハンブルク]]と[[ブレーメン]]の司教・北ヨーロッパ各地に宣教活動を行い「北方の使徒」と呼ばれる
* [[ハールヴダン・ラグナルスソン]](? - [[877年]]) - [[デーン人]][[大異教軍]]の首領・[[ノーサンブリア]]から[[ダブリン]]を含めた地域を支配
* [[ハーラル1世 (ノルウェー王)|ハーラル1世]](美髪王)([[850年]]頃 - [[930年]]頃) - [[ノルウェー]]最初の統一国王(在位[[872年]]頃 - [[930年]]頃)
==== イベリア半島 ====
* [[アルフォンソ2世 (アストゥリアス王)|アルフォンソ2世]]([[760年]] - [[842年]]) - [[アストゥリアス王国|アストゥリアス王]](在位[[791年]] - [[842年]])・半世紀に及ぶ治世で聖[[ヤコブ]]の墓が発見されたという
* [[エウロギウス]]([[800年]] - [[859年]]) - [[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]のキリスト教聖職者・[[反イスラーム主義|反イスラム主義]]を唱え後ウマイヤ朝支配のもとで殉教する
=== イスラム世界 ===
==== アッバース朝 ====
* [[ハールーン・アッラシード]]([[763年]] - [[809年]]) - [[アッバース朝]]第5代カリフ(在位[[786年]] - [[809年]])・王朝の全盛期を現出 * [[ジャ
* [[
* [[マアム
* [[
* [[アリー・ブン・ムハンマド]](? - [[883年]]頃) - イラク南部での黒人反乱の[[ザンジュの乱]]の指導者・アッバース朝を弱体化させる
==== イラン系諸王朝 ====
* ターヒル・イブン・アル・フサイン(? - [[822年]]) - [[ターヒル朝]]の建国者(在位[[821年]] - [[822年]])・アッバース朝から最初に独立
* [[ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール]]([[840年]] - [[879年]]) - [[サッファール朝]]の建国者(在位[[867年]] - [[879年]])・[[アイヤール]](イラン世界における任侠の徒)出身
* [[ナスル1世|ナスル・イブン・アフマド]](? - [[892年]]) - [[サーマーン朝]]の建国者(在位[[875年]] - [[892年]])・ブハラを首都にマー・ワラー・アンナフルを支配
==== その他の王朝 ====
* アフマド・ブン・トゥールーン([[835年]] - [[884年]]) - [[トゥールーン朝]]の建国者(在位[[868年]] - [[884年]])・エジプトとシリアで独自勢力を保つ。
==== 宗教指導者 ====
* [[ムハンマド・ムンタザル]]([[868年]] - [[874年]]?) - [[シーア派]]([[十二イマーム派]])での第12代[[イマーム]]([[隠れイマーム]])・マフディー
* ハムダーン・カルマト(? - [[899年]]頃) - カルマト派の指導者・[[イスマーイール派]]から分派しクーファを中心に独自の組織を形成し反乱を起こす
==== 学者・詩人 ====
* [[アブー・アル=アターヒヤ]]([[748年]] - [[828年]]) - [[アッバース朝]]最盛期に活躍した詩人・人生の様々な機微を詠み清貧を称賛する作風の詩を残す
* [[アブー・ヌワース]]([[756年]] - [[814年]]) - [[アッバース朝]]最盛期に活躍した詩人・飲酒や少年愛などを享楽的な詩を歌ったことで知られる
* シャーフィイー([[767年]] - [[820年]]) - イスラム法学者・[[シャーフィイー学派]]の祖・著作に『起源の書』がある
* [[ジャーヒズ]]([[776年]] - [[869年]]頃) - アラブ古典散文学の確立者・著作に『けちんぼども』『動物の書』などがある
* [[フワーリズミー]]([[780年]]/[[800年]] - [[845年]]/[[850年]]) - 「知恵の館」で活躍・地理学者・天文学者・数学者として移項の原則をまとめる
* [[イブン・ハンバル]]([[780年]] - [[855年]]) - イスラム法学者・[[ハンバル学派]]の祖・著作に『ムスナド』がある
* {{仮リンク|アリブ・アル・マムニア|en|Arib al-Ma'muniyya}}([[797年]]/[[798年]] - [[890年]]/[[891年]]) - バグダード宮廷の歌姫(カイナまたはキヤーナ)・歴代カリフの寵愛を受け長寿で知られる
* {{仮リンク|アブー・マーシャル|en|Abu Ma'shar al-Balkhi}}([[787年]] - [[886年]]) - イスラム天文学者・占星術師・キンディーの弟子・著作に『大序説』がある
* [[アブー・タンマーム]]([[788年]]頃/[[807年]]頃 - [[845年]]頃) - アッバース朝のカリフに仕えた詩人・遠征に従軍し『ハマーサ』を残す
* [[キンディー]]([[801年]] - [[873年]]?) - 「知恵の館」で活躍・科学者・数学者・哲学者であり「アラブの哲学者」と呼ばれる
* [[フナイン・イブン・イスハーク]]([[808年]]頃 - [[873年]]頃) - 「知恵の館」
* [[アルフラガヌス|ファルガーニー]](9世紀前半) - 天文学者・『天の運動と天文知識の集成』やアストロラーベに関する著作がある
* [[ムハンマド・アル=ブハーリー|ブハーリー]]([[810年]] - [[870年]]) - イスラム法学者・[[スンナ派]][[ハディース]]集の最高峰とされる『[[サヒーフ・アル=ブハーリー|真正集]]』の編纂者
* [[アッバース・イブン・フィルナス]]([[810年]] - [[887年]]) - 後ウマイヤ朝の[[博学者]]・技術者・気象実験やレンズの製法のほか空中滑空でも有名
* バラーズリー(? - [[892年]]頃) - 歴史学者・イスラム帝国の拡大を描いた『諸国征服史』や有名人の伝記集『貴族の系譜』がある
* [[ヤアクービー|イブン・ワーディフ・ヤアクービー]](? - [[897年]]頃) - 歴史学者・シーア派の視点からを描いた『年代記』や歴史地理学の『諸国の書』がある
* ジュッバーイー(? - [[915年]]) - イスラム神学者・合理主義的神学[[ムウタズィラ派]]の代表・アシュアリーは弟子だったが後に離反
* [[イブン・フルダーズベ]]([[820年]]頃 - [[912年]]) - アッバース朝のペルシャ系官僚・地理学者・アラビア語最古の地誌『諸道と諸国の書』を執筆
* [[サービト・イブン・クッラ]]([[826年]] - [[901年]]) - 「知恵の館」で活躍・[[ハッラーン]]の[[サービア教徒]]の出身・数学者として[[友愛数]]を発見
* [[タバリー]]([[838年]] - [[923年]]) - イスラム法学者・歴史学者として『諸使徒と諸王の歴史』がある
* [[バッターニー]]([[850年]]? - [[929年]]) - シリアで活躍した天文学者・数学者・[[三角法]]の整理や私設天文台の設置で知られる
=== 南アジア・東南アジア・チベット ===
* ダルマパーラ(? - [[815年]]) - インドの[[パーラ朝]]の王(在位[[770年]] - [[815年]])・仏教を保護し[[ヴィクラマシーラ大学|ヴィクラマシーラ寺院]]を建立
*
* [[シャンカラ]]([[788年]]頃 - [[820年]]頃) - インドのヴェーダーンタ派の哲学者で不二一元論を提唱する・著作に『ブラフマ・スートラ注解』がある
* ジャヤーヴァルマン2世(? - [[834年]]) - [[カンボジア]]の[[アンコール朝]]の建国者(在位[[802年]] - [[834年]])・[[シャイレーンドラ朝]]から独立
* [[アモーガヴァルシャ1世]]([[801年]] - [[878年]]) - インドのラーシュトラクータ朝の王(在位[[814年]] - [[878年]])・『カヴィーラージャ・マールガ』を執筆
* [[ティツク・デツェン]](レルパチェン)(? - [[841年]]) - チベットの吐蕃の王(在位[[815年]] - [[841年]])・唐との間に[[長慶会盟]]を結び仏教興隆に尽くすが暗殺される
* [[ラン・ダルマ]]([[803年]]/[[809年]] - [[842年]]/[[843年]]) - チベットの吐蕃の王(在位[[841年]]? - [[842年]]/[[843年]])・ティツク・デツェンの弟・廃仏を行い暗殺される
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==== 唐 ====
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文宗]]を擁立・仇士良に倒される
* 仇士良([[
* [[李
* [[李賀]]([[791年]] - [[817年]]) - 唐の詩人・「蘇小小歌」など幻想的な作品を残し「鬼才」と評される
* [[呂洞賓]]([[798年]]? - ?) - 唐の道士・中国を代表する仙人の「[[八仙]]」の一人
* [[段成式]]([[803年]] - [[863年]]) - 唐の官僚・怪異をまとめた『[[酉陽雑俎]]』の著者
* [[杜牧]]([[803年]]- [[853年]]) - 唐の詩人・官僚・李商隠と共に「晩唐の李杜」とも称される
* [[李商隠]]([[812年]] - [[858年]]) - 唐の詩人・官僚・杜牧と共に「晩唐の李杜」とも称される
* [[武宗 (唐)|武宗]]([[814年]] - [[846年]]) - 唐の第18代皇帝(在位[[840年]] - [[846年]])・[[会昌の廃仏]]を行う
* [[趙帰真]](? - [[846年]]) - 唐の道士・皇帝武宗に近侍し会昌の廃仏を進める・廃仏中止で斬殺される
* [[宣宗 (唐)|宣宗]]([[810年]] - [[859年]]) - 唐の第19代皇帝(在位[[846年]] - [[859年]])・牛李の党争を抑え小康期をもたらす
* 裘甫(? - [[860年]]) - 唐の反乱指導者・没落農民の出身で浙江にて[[裘甫の乱]]を起こすが王式により鎮圧される
* 龐勛(? - [[868年]]) - 唐の反乱指導者・武寧藩鎮の軍人で桂州にて[[龐勛の乱]]を起こすが朱邪赤心に鎮圧される
* [[臨済義玄]](?- [[867年]]) - 唐の[[禅僧]]で[[臨済宗]]の開祖・[[語録]]に『臨済録』がある・「臨済の喝」で有名
* [[張彦遠]]([[815年]]頃 - [[877年]]頃) - 唐の官僚・著述家・『[[歴代名画記]]』を著し画史の祖とされた
* [[皮日休]]([[830年代]] - [[883年]]) - 唐の詩人・政治批判を多く含む詩文集『皮子文藪』がある・黄巣に与したが疑われ処刑される
* [[韋荘]]([[836年]] - [[910年]]) - 唐の詩人・黄巣の乱で荒廃した長安を「{{仮リンク|秦婦吟|zh|秦婦吟}}」で歌う・後に[[王建 (前蜀)|王建]]の[[前蜀]]に仕える
* 魚玄機([[844年]]頃 - [[871年]]頃) - 唐の女流詩人・女道士となり詩人[[温庭筠]]らと交わる・侍婢を殺した罪で処刑される
* [[王仙芝]](? - [[878年]]) - 唐末の反乱指導者・黄巣の協力者・後に黄巣と別れるが反乱は鎮圧される
* [[黄巣]](? - [[884年]]) - 唐末の反乱指導者・黄巣の乱を起こし大斉皇帝を名乗る(在位[[880年]] - [[884年]])・反乱は鎮圧される
* 楊復恭(? - [[894年]]) - 唐末の宦官・[[僖宗]]没後に[[昭宗 (唐)|昭宗]]を擁立するが討伐される・「門生天子、定策国老」の語は有名
* [[李克用]]([[856年]] - [[908年]]) - 唐末の[[突厥]][[沙陀部]]出身の軍閥指導者で黄巣の乱を鎮圧・後唐の[[李存勗]](荘宗)の父
==== 新羅 ====
* [[張保皐]]([[790年]]頃 - [[846年]]?) - 新羅の[[清海鎮]]大使・東シナ海に勢力を築き新羅の[[神武王]]を支援・日本僧[[円仁]]も経済援助する
==== 日本 ====
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* [[霊仙]]([[759年]]? - [[827年]]?) - 入唐僧・唐の憲宗により日本人唯一の[[三蔵法師]]の号を得る・帰国を許されず唐で死去
* [[藤原薬子]](? - [[810年]]) - [[尚侍]](女官)・兄の藤原仲成とともに平城上皇を擁して[[薬子の変]]を起こす
* [[景戒]](生没年不詳) - 法相宗(薬師寺)の僧・日本最初の仏教説話集『[[日本霊異記]](日本国現報善悪霊異記)』の著者
* [[最澄]](伝教大師)([[767年]] - [[822年]]) - 入唐僧・天台宗の祖で比叡山延暦寺開山・著作に『顕戒論』がある
* [[修円]](檉生禅師)([[771年]] - [[835年]]) - 法相宗の僧・興福寺別当・師の[[賢憬]]とともに大和国[[室生寺]]を創建する
* [[空海]](弘法大師)([[774年]] - [[835年]]) - 入唐僧・真言宗の祖で高野山金剛峰寺開山・書家([[三筆]]の一人)・著作に『[[三教指帰]]』がある
* [[藤原緒嗣]]([[774年]] - [[843年]]) - 公卿・左大臣(山本大臣)・[[菅野真道]]との徳政論争で有名・『[[日本後紀]]』や『[[新撰姓氏録]]』を編纂
* [[藤原冬嗣]]([[775年]] - [[826年]]) - 公卿・左大臣(閑院大臣)・最初の[[蔵人頭]]となる・『[[弘仁格式]]』や『[[内裏式]]』を編纂
* [[徳一]]([[781年]]? - [[842年]]?) - 法相宗の僧・[[恵日寺 (福島県磐梯町)|会津慧日寺]]開山・[[三一権実諍論]]で最澄と対決・著作に空海に宛てた『[[真言宗未決文]]』がある
* [[清原夏野]]([[782年]] - [[837年]]) - 公卿・右大臣(双岡大臣)・[[親王任国]]制などを献策・『[[令義解]]』を編纂
* [[橘逸勢]]([[782年]]? - [[842年]]) - 官人・書家(三筆の一人)・遣唐使で唐に渡る・[[承和の変]]で流罪となる
* [[嵯峨天皇]]([[786年]] - [[842年]]) - 第52代天皇(在位[[809年]] - [[823年]])・書家(三筆の一人)
* [[橘嘉智子]]([[786年]] - [[850年]]) - 嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)・[[仁明天皇]]の母・橘氏を支援し[[学館院]]を設立
* [[円仁]](慈覚大師)([[794年]] - [[864年]]) - 入唐僧・天台山門派の祖・『[[入唐求法巡礼行記]]』を著す
* [[高岳親王]](真如)([[799年]] - [[865年]]?) - 廃太子・空海の弟子となり入唐後さらに天竺を目指すが羅越国で没す
* [[小野篁]]([[802年]] - [[853年]]) - [[公卿]]・[[参議]]・学者・歌人・遣唐副使の任免で衝突し隠岐へ流される
* [[藤原良房]]([[804年]] - [[872年]]) - 公卿・太政大臣・人臣最初の[[摂政]]・承和の変や応天門の変に勝利し北家全盛を築く
* [[伴善男]]([[811年]] - [[868年]]) - 公卿・大納言・応天門の変の犯人とされ伊豆に流される
* [[円珍]](智証大師)([[814年]] - [[891年]]) - 入唐僧・天台寺門派の祖・長等山[[園城寺]](三井寺)を再興
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* [[益信]](本覚大師)([[827年]] - [[906年]]) - 真言宗の僧・東密広沢流の祖で[[円成寺 (奈良市)|円成寺]]開山・[[仁和寺]]で宇多法皇を受戒
* [[相応 (僧)|相応]]([[831年]] - [[918年]]) - 天台宗の僧・比叡山での[[千日回峰行 (比叡山)|千日回峰行]]の祖とされ数々の霊験譚が伝えられている
* [[聖宝]](理源大師)([[832年]] - [[909年]]) - 真言宗の僧・東密小野流の祖で[[醍醐寺]]開山・当山派[[修験道]]の祖
* [[藤原基経]]([[836年]] - [[891年]]) - 公卿・太政大臣・最初の[[関白]]・藤原良房の養子・陽成天皇を廃し光孝天皇を擁立
* [[安然]]([[841年]]? - [[915年]]?) - 天台宗の僧・[[東密]]に対する[[台密]]の教理を大成・著作に『悉曇蔵』などがある・通称は阿覚大師
* [[菅原道真]]([[845年]] - [[903年]]) - 公卿・右大臣・詩人・学者・宇多上皇の信任を得て昇進する・遣唐使を廃止
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
==
* [[年表]]
== 外部リンク ==
* {{Commonscat-inline}}
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