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[[画像:Kramskoi Christ dans le désert.jpg|
'''移動派'''(いどうは;{{lang-ru|
== 歴史 ==
[[ファイル:Artel of Artists.jpg|サムネイル|280x280ピクセル|
{{ubl|1863-1864年。左から右へ:
|{{Ill2|ボグダン・ヴェニグ|ru|Вениг, Богдан Богданович|label=}}
|[[フィルス・ジュラヴレフ]]
|[[アレクサンドル・イワノビッチ・モロゾフ]]
|[[イワン・クラムスコイ]]
|[[キリル・レモフ]]
|[[アレクサンドル・リトフチェンコ]]
|[[コンスタンチン・マコフスキー]]
|[[ニコライ・ドミトリエフ=オレンブルクスキー]]
|{{Ill2|ニコライ・ペトロフ (画家)|ru|Петров, Николай Петрович (художник)|label=ニコライ・ペトロフ}}
|{{Ill2|ヴァシリー・クレイタン|ru|Крейтан, Василий Петрович}}
|{{Ill2|ミハイル・ペスコフ|ru|Песков, Михаил Иванович}}
|{{Ill2|ニコライ・シュストフ|ru|Шустов, Николай Семёнович}}
|{{Ill2|アレクセイ・コルズヒン|ru|Корзухин, Алексей Иванович}}
|{{Ill2|アレクサンドル・グリゴリエフ|ru|Григорьев, Александр Константинович}}}}
]]
1860年代、[[サンクトペテルブルク美術大学|帝国美術アカデミー]]は社会批判的な作品をコンクールに出品することを禁じるようになった<ref name=":1">{{Cite journal|author=井伊裕子|year=2020|title=移動展覧会における風景画の位置づけ|url=https://doi.org/10.15026/100239|journal=スラヴ文化研究|volume=18|pages=90-102|doi=10.15026/100239}}</ref>。1863年、帝国美術アカデミーの14人の生徒が、卒業制作の主題を決める権利を求める請願書を提出したが却下された<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=移動派とは何者で、なぜロシア絵画芸術において重要なのか |url=https://jp.rbth.com/arts/82787-idoha-to-ha-nanimono |website=Russia Beyond |date=2019-11-01 |access-date=2022-10-11 |language=ja-JP |last=エレーナ・フェドトワ}}</ref>。これを受けて[[イワン・クラムスコイ]]ら14人はアカデミー主催のコンクールへの出品を拒否した({{Ill2|14人の反乱|ru|Бунт четырнадцати|en|Revolt of the Fourteen}})。同年14名は、芸術家のための自由協同組合としてロシア初となる「芸術家協同組合({{lang|ru|артель художников}})」を結成した<ref name=":1" />。美術評論家[[ウラディーミル・スターソフ]]は「『個』が表舞台にいる」と評し支持を表明した<ref name=":2">{{Cite journal|author=上野理恵|year=2008|title=移動展派の創作における個の問題 : クラムスコイとレーピンの作品を中心に|url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10065043-20080531-0177|journal=慶応義塾大学日吉紀要|volume=23|pages=177-203}}</ref>。
1870年、芸術家協同組合を前身として、クラムスコイ、[[グリゴリー・ミャソエドフ]]、[[ニコライ・ゲー]]、[[ヴァシリー・ペロフ|ヴァシーリー・ペロフ]]らにより、移動展覧会協会が結成された<ref name=":1" />。
移動派は、1871年から1923年にかけて48回の移動展覧会を行なった<ref name=":3" />。[[サンクトペテルブルク]]や[[モスクワ]]をはじめとして、[[キーウ|キエフ]]や[[ハルキウ|ハリコフ]]、[[カザン]]、[[オリョール]]、[[リガ]]、[[オデッサ]]などの諸都市で展覧会を開いた<ref>{{Cite web |title=НЭБ - Национальная электронная библиотека |url=https://rusneb.ru/ |website=rusneb.ru - Национальная электронная библиотека |access-date=2022-10-11 |language=ru}}</ref>。
1890年代初め、[[モダニズム]]の運動がおこり、1898年には『[[芸術世界]]』が創刊、「移動派は芸術を社会思想に従属させるもの」との批判を浴びるようになった<ref>{{Cite web|和書|title=ロシア美術とは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%BE%8E%E8%A1%93-152782 |website=コトバンク |access-date=2022-10-11 |language=ja}}</ref><ref>Ely, Christopher (2000). "Critics in the native soil: landscape and conflicting ideas of nationality in Imperial Russia". ''Ecumene'' '''7''' (3): 253-270.</ref>。
協会内では内紛が絶えず、[[イリヤ・レーピン]]は仲間の官僚主義を批判していた<ref name=":3" />。1901年には[[ヴァレンティン・セローフ]]、[[ミハイル・ネステロフ]]ら11人が脱退した<ref name=":3" />。
1923年の第48回巡廻美術展をもって移動派は公式に活動を終えた。[[画像:Surikov_streltsi.jpg|280x280px|thumb|『銃兵処刑の朝』 [[ワシーリー・スリコフ]]画]]
== 特徴 ==
[[画像:Utro_v_sosnovom_lesu.jpg|280x280px|thumb|『[[松林の朝]]』 シーシキンとサヴィツキーの共作]]
===
[[ヴィッサリオン・ベリンスキー|ベリンスキー]]や[[ニコライ・チェルヌイシェフスキー|チェルヌィシェフスキー]]らが提示した芸術論を源とする、芸術とは思想の表明であり、実生活に根差していなければならないとするロシア・リアリズムに影響を受けている<ref name=":2" />。
[[写実主義]]の美術として、しばしば批判精神を以て社会生活の多角的な特徴を示した。民衆の貧しさだけでなく美しさを、また苦しみだけでなく力強さや忍耐力を描いた。[[ロシア帝国]]の[[専制]]政治を糾弾し、[[イリヤ・レーピン]]の『宣伝家の逮捕』『懺悔の拒否』『[[思いがけなく]]』などにみられるように[[ナロードニキ]]運動は共感をもって描かれた。
光を描くにあたって、時代がかった伝統的な暗い色調とは対照的に、より自由な態度から、明るめの色調を選んだ。移動派は画像の自然さを狙って、人間の環境とのかかわりを描写した。後には[[ワシーリー・スリコフ]]の『銃兵隊処刑の朝』など[[歴史画]]で民衆を描いた。
[[画像:Kramskoy_Portrait_of_a_Woman.jpg|280x280px|thumb|『[[見知らぬ女]]』 クラムスコイ画]]
=== 運営 ===
移動展覧会設立規則にはその目的として、帝国内のすべての地域にロシア美術に触れる機会を提供すること、また販路の確保による芸術家の生活負担軽減が明記されている<ref name=":1" />。展覧会においては絵画や複製写真の売買もなされ、展覧会の入場料も徴収され、得られた収入は運営費にまわされた<ref name=":1" />。
富豪[[パーヴェル・トレチャコフ]]は1850年代という早い段階から、当時評価の定まっていない美術作品を収集しており、移動派の作品もその中に含まれるようになった<ref name=":2" />。
以前に一度も展示されたことのない新作のみを展示するという原則を有していた<ref name=":3" />。
[[ファイル:Peredvizhniki.jpg|サムネイル|
{{ubl|1885年。前列左から:
|{{Ill2|セルゲイ・アモソフ|ru|Аммосов, Сергей Николаевич}}
|[[アレクサンドル・キセリョフ]]
|{{Ill2|ニコライ・ネヴレフ|ru|Неврев, Николай Васильевич}}
|[[ウラジーミル・マコフスキー]]
|[[アレクサンドル・リトフチェンコ]]
|[[イラリオン・プリャニシニコフ]]
|[[キリル・レモフ]]
|[[イワン・クラムスコイ]]
|[[イリヤ・レーピン]]
|イワノフ(協力者)
|[[コンスタンチン・マコフスキー]]
|後列左から:
|[[グリゴリー・ミャソエドフ]]
|[[コンスタンチン・サヴィツキー]]
|[[ヴァシーリー・ポレーノフ]]
|{{Ill2|エフィム・ヴォルコフ|ru|Волков, Ефим Ефимович}}
|[[ワシーリー・スリコフ]]
|[[イヴァン・シーシキン]]
|[[ニコライ・ヤロシェンコ]]
|{{Ill2|パヴェル・ブリュロフ|ru|Брюллов, Павел Александрович}}
|{{Ill2|アレクサンドル・ベグロフ (画家)|ru|Беггров, Александр Карлович|label=アレクサンドル・ベグロフ}}
}}|280x280ピクセル]]
=== メンバー ===
帝国内の多くの地域から人材が集まった。[[ウクライナ]]や[[ラトビア]]、[[リトアニア]]、[[アルメニア]]出身者もいた。メンバーの作品だけでなく、[[彫刻家]]の[[マルク・アントコリスキー]]や、[[戦争画]]で知られる[[ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン]]らの作品も展示した。
協会の存続中に、会員数は100人を超えた<ref name=":3" />。
[[1890年代]]までにペテルブルク美術アカデミーの体制に移動派のメンバーも含まれるようになり、自然主義の画派に影響を見せるようになった。
=== アカデミーとの関係 ===
第1回移動展覧会を開催するにあたり、クラムスコイはペテルブルク新報に声明を発表しているが、署名でアカデミー会員を名乗っている。クラムスコイに限らず移動展覧会にはアカデミー会員や美術アカデミーの教授職についていた画家たち参加していた。このことから、アカデミーに迎合しないまでも、利用あるいは協調しつつ運営していたとみる向きがある<ref name=":2" />。
== 移動派の主なメンバー ==
=== 創立メンバー ===
*[[イワン・クラムスコイ]]
*[[グリゴリー・ミャソエドフ]]
*[[ヴァシリー・ペロフ|ワシーリー・ペロフ]]
*[[ニコライ・ゲー]]
*[[コンスタンチン・マコフスキー]]
*[[ニコライ・マコフスキー]]
*{{Ill2|レフ・カーメネフ (画家)|ru|Каменев, Лев Львович|en|Lev Lvovich Kamenev|label=レフ・カーメネフ}}
*{{Ill2|ミハイル・クロット|ru|Клодт, Михаил Константинович|en|Mikhail Clodt von Jürgensburg|label=ミハイル・コンスタンティノヴィッチ・クロット}}
*{{Ill2|ミハイル・クロット (1835年生まれの画家)|ru|Клодт, Михаил Петрович|||label=ミハイル・ペトロヴィッチ・クロット}}
*{{Ill2|アレクセイ・コルズヒン|ru|Корзухин, Алексей Иванович|en|Alexei Korzukhin}}
*[[キリル・レモフ]]
*[[イラリオン・プリャニシニコフ]]
*[[アレクセイ・サヴラソフ]]
*[[イヴァン・シーシキン]]
*{{Ill2|ヴァレリー・ヤコビ|ru|Якоби, Валерий Иванович|en|Valery Jacobi}}
=== 参加メンバー ===
* [[アルヒープ・クインジ]]
* [[ワシーリー・マクシモフ]]
*
*[[コンスタンチン・サヴィツキー]]
*
*
*
*[[イリヤ・レーピン]]
*[[ヴァシーリー・ポレーノフ]]
*{{Ill2|ラファイル・レヴィツキー|ru|Левицкий, Рафаил Сергеевич|en|Rafail Levitsky}}
*[[ワシーリー・スリコフ]]:曾孫[[アンドレイ・コンチャロフスキー]]は映画監督。
*[[イサーク・レヴィタン]]
*[[ニコライ・ドゥボフスコイ]]
*[[イリヤ・オストロウーホフ]]
*[[アブラム・アルヒーポフ]]
*[[アンドレイ・リャブシュキン]]
*[[ニコライ・アレクセーヴィチ・カサートキン]]
*[[エミリヤ・シャンクス]]
*[[アブラム・アルヒーポフ]]
*[[ヴァレンティン・セローフ]]
*{{Ill2|アレクセイ・コリン|ru|Корин, Алексей Михайлович|en|Aleksey Korin}}
*{{Ill2|イヴァン・ポヒトノフ|ru|Похитонов, Иван Павлович|en|Ivan Pokhitonov}}
*{{Ill2|1=ニコライ・ボグダノフ=ベルスキー|2=ru|3=Богданов-Бельский, Николай Петрович|4=en|5=Nikolay Bogdanov-Belsky}}
*[[ミハイル・ネステロフ]]
*[[アポリナリー・ヴァスネツォフ]]
*[[ニコライ・ピモネンコ]]
*[[ヴィトルド・ビヤリニツキー=ビルリヤ]]
*{{Ill2|アレクサンドル・モラホフ|ru|Моравов, Александр Викторович}}
*{{Ill2|ヴァルジェス・シュレニアンツ|ru|Суренянц, Вардгес Акопович|en|Vardges Sureniants}}
*{{Ill2|ピョートル・ケリン|ru|Келин, Пётр Иванович}}
===
*[[マルク・アントコリスキー]]
*[[ダヴィド・ブルリューク]]
*[[イサーク・ブロドスキー]]
*[[ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン]]
*[[オイゲン・デュッカー]]
*[[コンスタンチン・コローヴィン]]
*[[フィリップ・マリャーヴィン]]
*[[レオニード・パステルナーク]]:文豪[[ボリス・パステルナーク]]の父親。作曲家[[アレクサンドル・スクリャービン]]の友人。
*[[エレーナ・ポレーノヴァ]]
*[[パオロ・トルベツコイ]]
*[[エカテリーナ・ユンゲ]]
*[[コンスタンチン・ユオン]]
== 出典 ==
{{reflist}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いとうは}}
[[Category:移動派|*]]
[[Category:社会的リアリズム]]
[[Category:ロシアの画家|*]]
[[Category:ロシアの美術]]
[[Category:ロシア帝国の文化]]
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