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{{特殊文字|説明=[[補助漢字|JIS X 0212]]、[[JIS X 0213]]}}
'''九州王朝説'''(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、[[古田武彦]]によって提唱された、[[7世紀]]末まで九州に日本を代表する王朝があり、[[大宰府|太宰府]](だざいふ)がその[[首都]]であったとする説である。
{{複数の問題
| 独自研究 = 2021年2月5日 (金) 19:50 (UTC)
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[[ファイル:Japan Kyushu Map Chikei.gif|thumb|200px|right|九州周辺の地形図]]
'''九州王朝説'''(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、[[7世紀]]末まで九州に日本を代表する王朝があり、[[大宰府|太宰府]](だざいふ)がその[[首都]]であったとする説である。
 
本説は古田邪馬台国から5世紀の「[[多元的古代史観倭の五王]]」の主要な部分まで占め九州に比定す者は、古くは[[鶴峰戊申]]から太平洋戦争後は[[長沼賢海]]らがいる。[[古田は、「倭」とは武彦]]も九州のことであり「[[邪馬壹国説|邪馬壹國]][[邪馬台国|邪馬臺國]]は九州王朝が倭国の前身であるとし、その後、九州王朝に倭国が成立したが、[[663年天智天皇]]2年([[天智663年]]3年)「[[白村江の戦い]]」の敗北により滅亡にかったとしている。
 
ただ[[2021年]]([[令和]]3年)[[現在]]、[[井上光貞]]、[[榎一雄]]、[[山尾幸久]]など複数の東洋史・日本史学者等は古田説を批判しており、主要な百科事典や邪馬台国論争の研究書には記載されていない<ref group="注" name="saeki">『邪馬台国論争』(佐伯有清、[[岩波書店]]、[[2006年]]([[平成]]18年))には掲載されていない。</ref> <ref group="注">古田は自ら『学士会報』No857 2006-II所収「九州王朝の史料批判」において「'''これに対する学会の応答欠乏し'''」と述べている。</ref>。
邪馬台国から「[[倭の五王]]」までを九州に比定する論者は、古くは[[鶴峰戊申]]から、[[戦後]]では[[長沼賢海]]らがいるが、古田により7世紀まで、敷衍(ふえん)され、体系的なものに整備された。
 
{{Smaller|注:本記事は、古田史学会で発表された論文や九州王朝説支持者の著作の内容などを含むため、古田説とは異なる。また互いに矛盾する箇所もある<ref group="注" name="tigai">「[[九州王朝の二都制]]」「[[唐軍の北九州進駐]]」などは、執筆者の判断によって省略した。古田による邪馬台国説を改良、「壬申の乱九州内説」を採用、「[[大化の改新]]」の解釈を加え、九州倭国の滅亡・ヤマト王権の成立を[[文武天皇]]5年([[701年]])ではなく[[持統天皇]]9年([[695年]])とした(「乙巳の変」による政権簒奪時を政権交代時とした)。神武東征の時期を[[5世紀]] 〜 [[6世紀]]とし、[[欠史八代]]の時期を[[古墳時代|古墳時代後期]] 〜 [[飛鳥時代]]とした。[[#問題点]]で批判のあるような『通典』の解釈・古田による『魏志倭人伝』邪馬台国への所要日数(水行十日陸行一月)についての解釈なども省略した。そのほかにも古田武彦と違う面がある。</ref>。}}
ただし現在、本説は、[[井上光貞]]、[[榎一雄]]、[[山尾幸久]]を始めとする複数の東洋史・日本史学者等から批判されており、<ref>最新の邪馬台国論争史研究書である『邪馬台国論争』(佐伯有清、岩波書店、2006年)にも片言も掲載されていない。</ref>無視されている<ref>古田武彦氏は自ら『学士会報』No857 2006-II所収「九州王朝の史料批判」において「これに対する学会の応答欠乏し」と述べている。</ref>([[#説の歴史と問題点|後述]])。
 
<small>注:下記に記された内容は、古田史学会で発表された論文や九州王朝説支持者の著作の内容などを含むため、古田説とは異なる。また互いに矛盾する箇所もある。</small>
<ref name="tigai"> 「[[九州王朝の二都制]]」「[[唐軍の北九州進駐]]」などは、執筆者の判断によって省略した。古田による邪馬台国説を改良、「壬申の乱九州内説」を採用、「大化の改新」の解釈を加え、九州王朝の滅亡・ヤマト王権の成立を701年ではなく695年とした(「乙巳の変」による政権簒奪時を政権交代時とした)。[[#問題点]]で批判のあるような『通典』の解釈・古田による『魏志倭人伝』邪馬台国への所要日数(水行十日陸行一月)についての解釈なども省略した。そのほかにも古田武彦と違う面がある。</ref>。
[[ファイル:Japan Kyushu Map Chikei.gif|200px|right|九州周辺の地形図]]
 
== 概要 ==
=== 論争の経緯 ===
:''これは古田説の概要ではありません。学者・在野を問わず、各論者の説を執筆者が纏めたものです。''
[[古事記]]や[[日本書紀]](8世紀成立)には、[[邪馬台国]](邪馬壱国)や[[倭の五王]]の記述がないが、古い中国の史書とは時期も異なる。例えば、中国の[[魏志倭人伝]](3世紀成立)では、[[魏 (三国)|魏]]([[帯方郡]])への朝貢は[[卑弥呼]]・[[壱与]]という二人の女王の業績とされているが、日本書紀では魏に朝貢した倭王は[[神功皇后]]一人であるとされている。
* 「[[日本書紀]]」「[[古事記]]」の殆どは九州王朝(倭国)の史書からの盗用であり、紀元前から[[7世紀]]末まで[[日本]]を代表した政権は一貫して九州にあり、[[倭]](ゐ)、大倭(たゐ)、俀(たゐ)と呼ばれていた<ref name="joukoon">「委」は、上古音(周・秦・漢の音)では「uar わ」。中古音(隋・唐音)では「ui ゐ」(両唇音のwはなかった)。「法華義疏」に「大委国上宮王私集非海彼本」とある。倭を委としており、上古音で委の発音は倭(わ)と同じであった証拠の一つである。万葉仮名では「委」は「わ、ゐ」。藤原京出土の木簡に、「伊委之」(=鰯いわし)。[[藤堂明保]]著『漢字語源辞典』(学燈社、1965、ISBN 4312000018)によると、魏代の「倭(委)」は「(I)uar 」という読みである。</ref>。
* [[1世紀]]には倭国が[[北部九州]]を中心にとした地域に成立し、倭国王は博多湾近くに[[首都]]をおいて[[漢]]に朝貢し「漢委奴國王」を受領していた。
* 「[[魏志倭人伝]]」に見える[[3世紀]]の「邪馬壹国」([[邪馬台国]])を記録どおり「邪馬壹国」とする([[邪馬壹国説]])<ref>古田は、魏志倭人伝など古い記録は、邪馬壹国であり邪馬臺国の表記は誤り、邪馬壹国(やまいちこく)であるとしているが、後漢書倭伝に「邪摩惟(やまたい)」、隋書俀伝に「邪靡堆(やまたい)」等とあることから、南朝滅亡後の倭(ゐ)→大倭・俀(たゐ)への変化に伴い邪馬壹国→邪馬臺国になったとする説もある。</ref>。「邪馬壹国」は福岡平野の奴国(当時としては大都市の2万戸)を中心としていた。
* [[卑弥呼|卑彌呼]](ひみか)は、[[筑紫君]]の祖、[[甕依姫]](みかよりひめ)のことである。また、[[台与|壹與]](ゐよ)は、[[漢]]風の名(倭與)を名乗った最初の倭王である。
* [[日本神話]]の[[神武東征]]にある[[畿内]]の[[ヤマト王権]]は、九州王朝内の豪族の一派が東征してこれが成立した([[天孫降臨]]の地である[[筑紫]]の日向とは[[福岡市]]と[[糸島市]]との間にある[[日向峠]]付近であり、[[高千穂]]とは糸島市の[[高祖山]]のことである)。
* 倭の五王(讃、珍、済、興、武)も九州王朝の王であり、それぞれ倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武と名乗っていた。
* 筑紫君[[磐井]](倭わい)は倭の王であり、[[磐井の乱]]は[[継体天皇|継体]]による九州王朝に対する反乱であった<ref name="iwai"> 古田は「磐井の乱」を畿内大和の九州王朝に対する反乱とみていたが、最近は無かったと見ているようである。また九州内の内乱と見る説がある。この時期巨大な古墳の造営が続いた畿内大和にはまだ九州王朝に対抗する力は無く、九州年号に継体とあることから、磐井も継体も九州の王であるとする。(継体天皇は大和)続日本紀によれば、[[漢風諡号]]「継体」は天平宝字6~8年(764)に天智天皇の玄孫、[[淡海三船]]が撰進したとあるが、大和が滅亡させた九州王朝が制定した『九州年号にある「継体」』を淡海三船が参考にした可能性もある。</ref>。
* 日本で独自の[[元号]]([[#九州年号表|九州年号]])を初めて建てたのも九州王朝である。
* [[隋]]王朝との対等外交を行った「俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌」<ref name="tarisihoko">「姓は阿毎(アメ・アマ「天」)、字は多利思北(または比)孤(タリシホコ、「足彦」タラシヒコ)、阿輩鶏弥(オホキミ「大王・アメキミ説あり」)と号す」(※「大王」の使用例 伊予風土記逸文(「釈日本紀」)「法興六年十月歳在丙辰我'''法王大王'''与慧慈法師及葛城臣」万葉集 雑歌 柿本朝臣人麻呂「八隅知之 吾'''大王''' 高光 吾日乃皇子乃 馬並而」)</ref>は、九州王朝の倭国王であった。
* 「白村江の戦い」では、総司令官である九州王朝の天皇「筑紫君[[薩夜麻]](さちやま・倭薩)」が唐軍の捕虜になり、九州王朝側の敗北が決定した、これにより、日本国内での九州王朝の権威は失墜し、衰退に向かった。
* [[通説]]で[[飛鳥時代]]と呼ばれている時代までは、ヤマト王権はまだ日本を代表する政権ではなく畿内の地方政権にすぎなかった。
* [[大宰府#謎・矛盾|太宰府]]は倭京元年([[618年]])から九州王朝の滅亡まで倭京と呼ばれる九州王朝の都であり、日本最古の[[風水]]の[[四神相応]]を考慮した計画都市であった。
* 「[[壬申の乱]]」は九州を舞台としており、吉野とは[[佐賀県]][[吉野ヶ里遺跡]]の吉野であり、倭京とは[[飛鳥宮]]ではなく[[大宰府]]で、[[大津宮]]とは[[近江国|近江]]ではなく[[肥後国|肥後]]の大津のことである。
* 「壬申の乱」とは乱の前年に唐軍の捕虜から解放され倭(九州)に帰国した天皇である「薩夜麻(倭薩・[[高市皇子]])」と薩夜麻が不在中に政務を代行していた「中宮天皇-[[大友皇子]]」との対立に畿内大和の豪族[[大海人皇子]](天武)が介入し日本列島の[[覇権]]を得た事件で、勝敗を決したとされる[[美濃]]からの援軍とは畿内大和軍である。<ref>古田は、天武を九州王朝最後の天子としているが、これでは記紀改竄の理由が説明できない。{{要出典|date=2011年8月}}</ref>
* 「[[大化の改新]]([[乙巳の変]])」は九州年号の大和([[大化]])元年([[695年]])に[[藤原京]]で起こった事件であり、畿内大和の豪族と[[藤原鎌足|中臣鎌足]](=[[藤原不比等]])が九州倭国の天皇(高市皇子)を暗殺して皇権を簒奪した、[[下克上]]の[[クーデター]]である。
* [[藤原氏]]は、天武朝が断絶した後、滅亡した九州王朝末裔([[光仁天皇]])を天皇に擁立し、これを[[傀儡]]として権力を握って行った。
 
こうした矛盾は[[江戸時代]]から議論の対象となっていた。[[松下見林]]は[[異称日本伝]]において中国史書の内容は信用できないとして日本書紀を基準に解釈すべきことを主張し、邪馬台国も倭の五王もすべて日本書紀の記述に合致するように解釈し直したが、その内容は[[倭王武]]を[[雄略天皇]]と[[清寧天皇]]の二人に比定するなど現代の文献史学の水準からは稚拙な面も存在し、松下の[[邪馬台国畿内説]]や倭の五王近畿天皇家説は現在のように広く受け入れられていたわけではなかった。
== 根拠 ==
=== 山島(九州王朝の継続性) ===
古代において[[津軽海峡]]は[[蝦夷]]国(『新唐書』における、「都加留(つがる)」、「麁蝦夷(あらえみし)」、「熟蝦夷(にきえみし)」)にあり、倭人および漢人にとって本州が島であるか半島であるかは長い間不明であった。津軽海峡が現われる正史は、[[元 (王朝)|元]]の[[トクト|脱脱(トクト)]]の著わした『[[宋史]]』からで、[[紀元前]]から島と認識されていたのは[[九州]]や[[四国]]だけである。漢代から隋代までの[[正史]]によれば、倭・俀は「山島」と明記されているので、倭・俀とは、明確に島であると認識されていた九州の他にはない。<ref>。『日本書紀』によれば津軽海峡まで達したのは658年の[[阿倍比羅夫]]の蝦夷征討・粛慎討伐であり、8世紀には日本列島最古の地図([[行基図]])が作られ、日本国内では津軽海峡の存在が認識されていたと考えられる。
 
多くの[[国学者]]に影響を与えた[[本居宣長]]は[[馭戒慨言]]において邪馬臺国や倭の五王は本来の倭王である近畿天皇家ではなく、[[熊襲]]や[[任那日本府]]が倭王を僭称したとする[[熊襲偽僭説]]を主張した。この熊襲偽僭説を完成させたのが[[鶴峯戊申]]であり、彼は中近世文書に頻出する[[大宝 (日本)|大宝]]以前の古代逸年号についても古代の[[九州年号]]である、と主張するなど現在の九州王朝説に近い主張となっていた。[[明治維新]]以降も[[戦前]]・[[戦後]]を問わず[[神宮奉斎会]][[会長]]の[[今泉定助]]、[[東京帝国大学]][[教授]]の[[飯田武郷]]、[[九州帝国大学]]教授の[[長沼賢海]]、[[東北大学]][[名誉教授]]の[[井上秀雄]]らが熊襲偽僭説や九州王朝説を主張していた。
[[宋書]]「國之東境接海島夷人居所 身面皆有毛 東奥州産黄金 西別島出白銀以爲貢賦」「國の東境は夷人の住む島に接し、身体や顔の毛が濃い。東の奥州は黄金を産出し、西の別島は白銀を産出するので、これらを税金にしている。」</ref>(参考:[http://www.eastsea.org/map%20img/map1_1.jpg Harris, 1748] 本州が大陸と地続きの18世紀の地図)
 
こうした流れの中、在野の研究者であったものの[[親鸞]]研究等で学界からも一定の評価をされていた[[古田武彦]]の著書『失われた九州王朝』が[[ベストセラー]]となった。彼の九州王朝説による論文「多元的古代の成立」は[[史学雑誌]]にも掲載され、[[井上光貞]]や[[安本美典]]らとの間で論争となった。[[市民の古代研究会]]が結成されると古田の学説は「古田史学」と呼ばれ、主にアマチュアの研究者の間で広まった。
* 『[[後漢書]]』「卷八十五 東夷列傳第七十五 倭人」
** 「倭在韓東南大 海中'''依山島'''為居 凡百餘國」
* [[三国志]]『魏書』巻三〇「烏丸鮮卑東夷伝 倭人の条」
** 「倭人在帶方東南大海之中 '''依山島'''爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」
* 『[[晋書]]』四夷傳(東夷条)
** 「倭人在帶方東南大海中 '''依山島'''爲國」
* 『[[隋書]]』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」<ref >通説では『隋書』の「山島」は、『隋書』以前の史書の記述を単に再録したものであり、この時代には九州は倭国(ヤマト王権)の領土であったと見る。</ref>
** 「倭國在百濟新羅東南 水陸三千里 於大海之中'''依山島'''而居」
 
一方、[[東日流外三郡誌]]を巡る論争での古田の学界での影響力の低下、市民の古代研究会の分裂、さらには学術論文の体裁を得ていないアマチュア論文の乱立もあり九州王朝説は一時期ほど広まっておらず、[[古田史学の会]]は定説派の学者も招聘した講演会<ref>古賀達也 [http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/wi-empire-kyushu-dynasty/%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%93%EF%BC%92%EF%BC%96%E8%A9%B1%e3%80%8020170122/ 新春講演会の挨拶]</ref>などの活動を行っている。[[2018年]]([[平成]]30年)に小説家の[[百田尚樹]]は『[[日本国紀]]』で九州王朝説を肯定的に扱っているものの、学界で扱われることは少なく、あったとしても[[所功]]の『元号 年号から読み解く日本史』のように否定的に論じられている。
=== 金印 ===
[[ファイル:Kan wana kokuo inbun.svg|150px|thumb|漢委奴國王印文]]
以下のことから博多湾の[[志賀島]]で発見された[[倭奴国王印|「漢委奴國王の金印」]]は、「漢」の「倭奴国」の「王」と読み、漢の家臣の倭国王(倭奴国王)の[[印綬]]であり、[[金印]]が発見された場所から遠くない場所に金印の所有者である「倭国王」の居城「倭奴国」があった。つまり博多湾の近くに倭国の首都があったと考えられる。
* [[皇帝]]が[[冊封]]国の王に与えた金印に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い<ref>「漢匈奴悪適尸逐王」の印を「漢の匈奴の悪適尸逐の王」と読み三段の国名の例が存在するとの意見もあるが、「悪適尸逐王」は匈奴の王号であり二段の国名である。また、この印は銅印である。</ref>(金印は陪臣に与えるものでない)こと及び、高位の印であることから、この金印は「委奴国王」=「'''倭国王'''」に与えられたものである。漢の印制度および金印の役割から通説のように金印を博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることはない。卑弥呼が賜ったとされる金印も「[[親魏倭王]]」であり倭王に対して下賜されたものである。「漢委奴國王」印も「親魏倭王」印も倭国の[[国璽]]として扱われ、漢王朝が続いている間は「漢委奴國王」印が、魏王朝が続いている間は「親魏倭王」印が使われ続けたと考えられる。
* 『[[旧唐書]]』倭国条の冒頭等、それ以後のいくつかの書物に「倭国者古倭奴国也」等との記事がある(今の倭国は昔の(漢書の)倭奴国のことだという意味)。倭奴国とは倭の中の小国「[[奴国]]」ではなく、倭国の一番南の地にあって(古田の解釈は異なる)、倭国を代表すると漢が認めた国であり、漢によって王<ref name="wakokuou">『漢書(前漢書)』地理志の「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」「楽浪海沖に倭人が現れる。100ヶ国余りに分かれているが、季節になると貢物を持って挨拶に来る。と云う。」から前漢の時代は100国あまりの小国分立の状態であったのが『後漢書』東夷傳では「自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統」「武帝が朝鮮を滅ぼして以来、30国ていどが漢と交流している。(それらの)国は全て代々王を称することを伝統としている。」となり国の数が30国あまりに減り統一が進むと共に、一時的に自称王が乱立していたことが察せられる。倭奴国は自己の申告により漢の皇帝から家臣としての王に任命されたもので倭国内の統治の実態は不明だが、王を自称していた他の30あまりの国にから異議が無いところから建武中元二年までに倭国内の他の国々の自称王を降し、初めて倭国を統一した者であろう。この後「桓 靈間 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主」「桓帝と霊帝の間、倭国が内戦状態になり、互いに攻め合い。長い間、君主が居なかった。」となり再び統一が乱れたことが察せられる。</ref>と認められた者の住む国である <ref name="zks">後漢書に「[[57年|建武中元二年]] '''倭奴國'''奉貢朝賀 使人自稱大夫 '''倭國'''之極南界也 光武賜以印綬 安帝[[107年|永初元年]] '''倭國王'''帥升等獻生口百六十人 願請見」「建武中元2年に倭奴國が朝貢してきた。使いの者は大夫と自称した。倭奴國は倭國の最南端である。光武帝は印章を授けた。安帝永初元年に倭國王の'帥升等が奴隷160人を献上して謁見を願ってきた。」とある。倭国が倭奴国と区別されており、倭奴国について「倭國之極南界也」とあることから倭奴国は倭国の一部であると考えられる。王については倭国の王、帥升(等)しか記されず倭奴国の王については記されていないことから、建武中元二年に「倭國之極南界」に在った倭奴国が使いを遣し漢より印を綬かって倭国全体の王に任ぜられ、倭国王になったと考えられる。</ref>。
* 「倭」の字が減筆され「委」の字が使用されていることから「倭」は「委」と同じ発音であったと考えられる<ref name="wai">「ゐ」は隋唐音であり、「倭」「委」はともに「わ」であるとする反論もある。</ref>。金印は「かん ゐど こく おう」又は「かん ゐな こく おう」と読むべきである。
* 現在でも韓国・朝鮮では日本を「[[倭奴]](ウェノム)」と呼ぶことがあることがある<ref name="kinnin">「倭奴」は日本の蔑称であり、しかも金印には「倭」の字が減筆されニンベンの無い「委」が用いられている([[新]]の[[王莽]]が[[匈奴]]に与えた「新匈奴單于章」の金印と同じ「漢の皇帝が属国の蛮王に与えた印」という侮辱的印と同じ)。</ref>。
* 「'''奴国王'''」の存在を記した文献資料は一つも無い。『後漢書』に記載されているのは「倭奴國」と「倭國王」だけである。3世紀の『魏志倭人伝』でも王が居る国は「女王国(邪馬壹国,伊都国)」」および敵国の「狗奴国」だけである。<ref>「奴国」は文中に二度登場するが一度目は官の正・副の存在が明記され、二度目は国名が紹介されたのみで王の存在は記されていない。</ref>
 
=== 邪馬壹国主な主張 ===
:''(以下は古田説の概要ではなく、学者・在野を問わず、各論者の説を纏めたもの。)''
* [[邪馬壹国説|邪馬壹国]]([[邪馬臺国]])は奴国を中心国邑とした26か国の国邑の連合体であり九州の北半分ほどの地域にあった、倭王は伊都国に居して倭の国々を支配していた。
* 紀元前から[[7世紀]]末まで[[日本]]を代表した政権は一貫して九州にあり、[[倭]](ゐ)、大倭(たゐ)、{{補助漢字フォント|俀}}(たゐ)と呼ばれていた<ref group="注" name="joukoon">「委」は、上古音(周・秦・漢の音)では「uar、わ」。中古音(隋・唐音)では「ui、ゐ」(両唇音のwはなかった)。「[[法華義疏]]」に「大委国上宮王私集非海彼本」とある。倭を委としており、上古音で委の発音は倭(わ)と同じであった証拠の一つである。万葉仮名では「委」は「わ、ゐ」。藤原京出土の木簡に、「伊委之」( = 鰯、いわし)。[[藤堂明保]]著『漢字語源辞典』([[学燈社]]、[[1965年]]([[昭和]]40年)、{{ISBN2| 4312000018}})によると、魏代の「倭(委)」は「( I ) uar 」という読みである。</ref>。
* [[1世紀]]には倭奴国(倭国)が[[北部九州]]を中心とした[[地域]]に成立し、倭奴国王(倭王)は[[博多湾]]近くに[[首都]]をおいて[[漢]]に[[朝貢]]し「[[漢委奴国王印|漢委奴國王]]」の[[金印]]を授与されていた。
* 倭王[[卑弥呼|卑彌呼]](ひみか)は[[伊都国]]に都し、倭国は[[福岡平野]]の[[奴国]](当時としては大都市の2万戸)を中心としていた<ref group="注">「[[魏志倭人伝]]」に見える[[3世紀]]の「邪馬壹国」([[邪馬台国]])を記録どおり「邪馬壹国」とする([[邪馬壹国説]])。古田は、魏志倭人伝など古い記録は、邪馬壹国であり邪馬臺国の表記は誤り、邪馬壹国(やまいちこく)であるとしているが、[[後漢書]]倭伝に「邪摩惟(やまたい)」、[[隋書]]{{補助漢字フォント|俀}}伝に「邪靡堆(やまたい)」等とあることから、[[陳 (南朝)|南朝]]滅亡後の倭(ゐ) → 大倭・{{補助漢字フォント|俀}}(たゐ)への変化に伴い邪馬壹国 → 邪馬臺国になったと考えられる。</ref>。漢が滅亡し魏が興ったことにより、「漢委奴国王」の金印に代わり魏より「親魏倭王」の金印が授与された。
* 卑弥呼は、[[筑紫]][[君]]の祖、[[甕依姫]](みかよりひめ)のことである。また、[[台与|壹與]](ゐよ)は、[[漢]]風の名(倭與)を名乗った最初の倭王である。
* [[倭の五王]](讃、珍、済、興、武)も九州倭国の王であり、それぞれ倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武と名乗っていた。
* [[磐井 (古代豪族)|筑紫君磐井]](倭わい)は倭(九州)の王([[武烈天皇]])であり、[[継体天皇|継体]]は九州南部の[[豪族]]である。[[磐井の乱]]とは、九州倭国において継体が反乱し、武烈朝を武力討伐した記事である<ref group="注" name="iwai">古田は当初、「磐井の乱」を[[畿内]]ヤマトの九州倭国に対する反乱とみていたが、最近は無かったと見ている。</ref>。
* 九州倭国の[[継体天皇|継体朝]]において日本で初めて独自の[[元号]]([[#経緯|九州年号]])が建てられた。
* [[隋]]王朝との対等外交を行った「{{補助漢字フォント|俀}}王姓阿毎 字[[多利思北孤]] 號阿輩{{JIS2004フォント|雞}}彌」<ref group="注" name="tarisihoko">「姓は阿毎(アメ・アマ「天」)、字は多利思北(または比)孤(タリシホコ、「足彦」タラシヒコ)、阿輩鶏弥(オホキミ「大王・アメキミ説あり」)と号す」([[※]]「大王」の使用例 [[伊予国風土記逸文]](「釈日本紀」)「法興六年十月歳在丙辰我'''法王大王'''与慧慈法師及葛城臣」万葉集 雑歌 [[柿本人麻呂|柿本朝臣人麻呂]]「八隅知之 吾'''大王''' 高光 吾日乃皇子乃 馬並而」)</ref> は、九州倭国の倭国王であった。
* [[大宰府#異説・俗説|太宰府]]は倭京元年([[618年]])から九州倭国の滅亡まで倭京と呼ばれる九州倭国の都であり、日本最古の[[風水]]の[[四神相応]]を考慮した計画都市であった。
* 「[[白村江の戦い]]」では、総司令官である九州倭国の天皇「[[筑紫薩夜麻|筑紫君薩夜麻]](さちやま・倭薩)」が唐軍の捕虜となったことで九州倭国は敗北した。
* 「[[壬申の乱]]」は畿内ではなく九州を舞台としており、乱の前年に唐軍の捕虜から解放され倭(九州)に帰国した薩夜麻(実は天皇の[[高市皇子]]のこと)と 薩夜麻が不在中に政務を代行していた中宮天皇([[十市皇女]])-大友皇子([[弘文天皇]])との対立に畿内の豪族大海人皇子([[天武天皇]])が介入し日本列島の[[覇権]]を得た事件で、勝敗を決したとされる[[美濃国|美濃]]からの援軍とは畿内日本軍である。
* 「壬申の乱」で九州倭国の天皇(高市皇子 = 薩夜麻)は大海人皇子(天武)の力を借り大友皇子らに勝利したが、協力を得る為に[[吉野の盟約]]で大海人皇子(天武)と九州倭国系の鸕野讚良皇女([[持統天皇]])の間の息子([[草壁皇子]])を後継者の皇太子とした。戦乱により九州の有力豪族の多くが滅亡したことにより[[天皇]](高市皇子 = 薩夜麻)の基盤は弱体化し、戦乱とそれに続く天災<ref group="注">[[筑紫地震]]([[678年]]):[[水縄断層]]系が起震断層とされ[[マグニチュード]]6.5〜7.5だったと推定されている。</ref> で荒廃した九州から天武の勢力圏である畿内へ天皇(高市皇子=薩夜麻)は移った。
* 「[[大化の改新]]([[乙巳の変]])」は皇太子であった草壁皇子が即位せずに逝去した為に、次の皇位に誰が付くか不明確となり、疑心暗鬼となった草壁皇子の子の軽皇子([[文武天皇]])と[[藤原鎌足|中臣鎌足]]([[藤原不比等]]と同一人物)が九州年号の大和([[大化]])元年([[695年]])に[[藤原京]]で天皇(高市皇子 = 薩夜麻)とその子を[[暗殺]]し、翌年の大化2年([[696年]])に軽皇子(文武天皇)が即位した[[事件]]である。
* [[神武東征]]は、[[6世紀]]に[[任那]]滅亡等により発生した[[難民]]の一部が九州から東征したもので、先に[[九州]]から[[畿内]]に植民して巨大[[古墳]]を築造していた[[邇藝速日命]]が支配する[[長髄彦]]等の国である日下(日本)を征服したものである。[[通説]]で[[飛鳥時代]]と呼ばれている時代までは、[[ヤマト王権]](日本・日下)はまだ日本を代表する政権ではなく[[畿内]]の[[地方]][[政権]]にすぎなかったが、文武の[[時代]]に九州倭国から政権を完全に奪い日本全体が「日本」と呼ばれるようになった。
* [[古事記]]・[[日本書紀]]は九州倭国の歴史書であり、[[続日本紀]]は天武朝の歴史書である。記紀に記された天皇の内初代[[神武天皇]]と第9代までの[[欠史八代]]の天皇および第40代[[天武天皇]]と第41代[[持統天皇]]、続日本紀に記された第42代[[天武天皇]]から第48代[[孝謙天皇]]までの7代、計18代だけが天武朝に連なる系譜である。記紀に記されている天武系の[[天皇]]は天皇ではなく畿内の地方[[豪族]]に過ぎなかった。記紀に記されたその他の天皇は九州倭国の天皇である。
* [[万葉集]]の歌なども[[8世紀]]までの古いものは、殆どが九州で詠まれたものである。
* [[神亀]]6年([[729年]])藤原氏は、九州倭国系である長屋親王を[[長屋王#長屋王の変|長屋王の変]]で抹殺。
* 第3回[[神宮式年遷宮]]([[神亀]]6年/[[天平]]元年([[729年]]) - 天平4年([[732年]]))により[[伊勢神宮]]が[[八代市]]から[[伊勢市]]に移された。
* [[神護景雲]]4年([[770年]])[[孝謙天皇|称徳天皇]]暗殺により天武朝が断絶、[[藤原氏]]は滅亡した九州倭国の[[親族#尊属と卑属|末裔]]([[光仁天皇]])を天皇に擁立した。
 
=== 古田説 ===
* 『魏志倭人伝』は正確を期するため同じ行程を距離と所要日数とで繰り返し併記しているのである。この解釈の方式であれば、従来は矛盾しているとされていた距離や方角、その他の問題も完璧に説明できる。<ref>古田は、この他にも『魏志倭人伝』では壱岐、対馬の外周を行程距離に算入しなければならない点など重要な指摘をしているが、朝鮮半島内陸行説や不弥国傍線行程説など強引な論理も展開している。</ref>。(この里は東夷で使われた短里であり1里≒76mであるとする)<ref>『魏志倭人伝』の距離に関する記述を太字にすると下記のようになる。
上記概要と古田説の主な異なる部分について、掲載する。古田の論文は『[[史学雑誌]]』や『[[史林]]』に掲載されるなど、九州王朝説論者の中では数少ない学説の形に世に問うたものであった。
: 「從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到其北岸狗邪韓國'''七千餘里''' 始度一海'''千餘里'''至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶島 '''方可四百餘里''' 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北糴 又渡一海'''千餘里''' 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 '''方可三百里''' 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耗田猶不足食 亦南北市糴 又渡一海'''千餘里'''至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之 東南陸行'''五百里'''到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐 東南至奴國'''百里''' 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸 東行至不彌國'''百里''' 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家」</ref>
 
なお、この説の出典は特記のない限り古田の著書『失われた九州王朝』・『古代は輝いていた』・『古田武彦の古代史百問百答』による。
*目的地まで(帯方郡郡治~奴国)を各距離(里数)と各所要時間(20日+10日+1日)と総距離(12,000里)とで3重に、旁國(奴国~奴国)を通過する国名と総距離(5,000里)とで2重に、(女王国~裸国 黒歯国)でも同じ行程を距離(4,000里)と時間(12日)とで2重に併記している。
 
* 九州王朝の始まりは後に[[天孫降臨]]として[[神話|神話化]]される出来事であり、天孫降臨の舞台となった場所は[[福岡県]]の糸島近辺である。また九州王朝の前には[[出雲王朝]]が存在しており、[[国造制]]・[[部民制]]の原型は既に出雲王朝の時代から存在していた。
参考→[http://www.d7.dion.ne.jp/~sekai/yamatai2.GIF 魏志倭人伝イメージ図]
* [[神武天皇]]は[[1世紀]]から[[2世紀]]頃に[[実在]]しており、神武東征も基本的に史実である。九州王朝の分家として大和王朝(近畿天皇家)は成立した。
==== 概要 ====
* 古田は近畿天皇家の天皇については、基本的に九州王朝の分王朝の大王として近畿に実在した、と考える。記紀には[[景行天皇]]の「九州大遠征」をはじめ、九州王朝の大王・天子の記事からの「盗用」はあるものの、例えば景行天皇自身が九州王朝の大王であった、とは古田は主張していない。
* 伊都国([[福岡県]][[糸島市]])が魏使の目的地であり、卑弥呼・壹與など代々の倭王は『[[魏志倭人伝]]』<ref>正式な名称は『三国志』魏書東夷伝倭人であるが説明には通称の『魏志倭人伝』を用いる。</ref>に「世有王 皆統屬女王國」「(伊都国には魏の)世に王(卑弥呼、壹與)がいて、(倭の国々は)皆、女王国に統屬していた」<ref>『魏略』逸文では「東南五百里 到伊都國 戸万餘 置曰爾支 副曰曳渓觚 柄渠觚 其国王皆屬王女也」とあり『魏志倭人伝』にある「世有王」が『魏略』逸文にはなく、皆が指すものは'''其国王'''以外にない。つまり『魏略』逸文の皆とは其国王のことであり、即ち'''倭国の王達'''のことである。同一の資料(又は『魏略』)を参考に作成されたと見られる『魏志倭人伝』の「皆統屬女王國」の皆も同様に'''倭国の国々'''を指していると考えられる。「皆統屬女王國」とは'''倭の国々は皆、女王国に統屬していた'''の意味なのである。すると「世有王」の王とは女王国の王である'''卑弥呼や壹與'''のことを指していると判明する。また「世有王」の世とは魏について記した『三国志』魏書の中に書かれた世であるから当然に魏の世を示しており、「世有王」とは'''魏の時代に(卑弥呼、壹與)王が伊都国にいた'''との意味であると結論される。(「世有王」であり「世世有王」ではないことに注意。世一字をもって代々と訳されたのは、皆が王を指していると誤解から王を複数にする為に生じたもの。)</ref>と記された伊都国<ref>尹は神杖をもつ形で、神意を媒介する聖職の人をいう。伊は神の憑りつくその呪杖をもつ人の意味。伊都=呪杖をもつ人の都=卑弥呼の都。
* [[欠史八代]]も含めた天皇は実在したが、当時は大和盆地の南部を支配しているだけであった。[[崇神天皇]]の時代になって[[銅鐸]]圏の諸国を滅ぼし、後の近畿天皇家(古田は近畿分王朝、近畿大王家等の呼称を提案している)が近畿一帯を支配するようになった。
: 「伊」は、「治める人」の意も表す。伊都=治める人の都=首都。
* 「[[磐井の乱]]」は、九州王朝の分家である[[ヤマト王権]]が武烈朝から継体朝に替わったことにより、九州王朝への臣従意識が薄れたヤマト(継体)による九州王朝への反乱であり、最終的にヤマトは[[糟屋屯倉]]の備蓄を戦利品としただけで、その後も九州王朝は存したとしていた。(もっとも後に「磐井の乱」はなかったとしている<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu8/noiwai.html 「磐井の乱」はなかった]</ref>。)
: なお古田は、「伊闕」を「天子の居所たる宮殿の近く」の意味、「伊邇」を「コレチカシ」の意味と解釈し「伊都」とは「女王の都に遠からず伊邇たる地」の意味としているが、「伊」単独では「コレ」の意味しかなく「チカシ」の意味は無い。</ref>に居して<ref>「郡使往来常所駐」「郡使の往来では常に駐まる」とあるので、郡使は毎回伊都国までしか来ていない。しかし、親魏倭王として魏の[[柵封]]を受けていた女王卑弥呼は、[[宗主国]]の使いが来れば、必ず合うのが柵封国の王の務めである。女王卑弥呼は郡使が来る度に常に伊都国で郡使と対面していたことになるが、「自為王以來 少有見者」「王となって以来見たものは少ない」で「唯有男子一人給飲食 傳辭出入」「ただ一人の男が食事の世話を行い、言葉を伝え居処に出入する」状態の卑弥呼が都から使者に会う為に特別に出向いていたとの記述はない。つまり卑弥呼は伊都国に住んでいたことになる。</ref>倭の国々を支配していた。<ref>古田は『邪馬台国論争は終わった』と全ての問題は解決したかの如く述べているが、古田の説明では九州の人口が3世紀にしては過剰になる上に邪馬壹国の位置について特定できていないので改良を加えた説を記載する。</ref>
* 乙巳の変については、近畿[[皇室|天皇家]]内部における「親九州王朝派」の蘇我氏が粛清された事件であるとする。
* 伊都国の説明で「世有王」と伊都国が王都であると解説し、王都近郊の奴国、不弥国まで紹介し終え距離(里数)での説明は終了。<ref>隋書』東夷傳では、都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里(都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里)とあり、帯方郡から邪馬台国までが、一万二千里であると明記されている。つまり「水行二十日」+「水行十日陸行一月」は出発地の帯方郡から到着地の奴国(邪馬台国)までを再度日程で記述したものである。</ref>「南至投馬國水行二十日」から行程の説明が時間(日数)に替わり、この文からは再度、帯方郡の郡治からの行程を時間で説明し直しているのである。<ref>「 南至投馬國'''水行二十日''' 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸 南至邪馬壹國 女王之所都 '''水行十日 陸行一月'''」
* [[天武天皇]]が近畿天皇家の人間ではなかった可能性については、根拠が[[中世]][[文書]]であるため懐疑的である。
:古田は、「南至投馬國水行二十日」の基点は女王国。「水行十日 陸行一月」の基点は帯方郡の郡治であるとしている。</ref>
 
また、古田の説で特徴的なものとしては、次のような主張がある。
: 同じ行程([[帯方郡]][[郡治]]~奴国)を各距離(里数)と各所要時間(日数)と総距離(12,000里)とで3重に併記している。
 
* 魏志倭人伝における原文改訂を一切認めない。
* 裸国・黒歯国は南米の[[エクアドル]]と[[チリ]]北部である。
* [[狗奴国]]は邪馬壱国の'''東方'''にある。(狗奴国南九州説を支持しない。)なお、狗奴国の位置については当初は「瀬戸内地方説」を唱え、その後「畿内説」を提唱している。
* 聖徳太子架空説は'''支持しない'''。
** [[推古天皇]]と[[聖徳太子]]は[[小野妹子]]を遣'''隋'''使ではなく遣'''唐'''使として派遣したのである。また、その内容も'''対等外交'''ではなく'''朝貢外交'''である。
** 聖徳太子は架空の存在ではなく、日本書紀も上宮法皇の記録をそのまま盗用したわけではない。
 
=== 九州王朝説論者の間の論争点 ===
:: 郡治 ~ [[狗邪韓国]] ~ [[対馬国]]   ~   [[一支国]]  ~  [[末盧国]]~[[伊都国]] ~ [[奴国]]
九州王朝説論者は古田が主唱者ではあるが、学術論文の形をとっていないアマチュアの研究発表を含めると数々の異説が存在する。その主な論点を記す。
::   七千里 + 千里+(四百里×2)+千里+(三百里×2)+千里 + 五百里 + 百里<ref>方可○○里(土地が正方形の場合一辺が○○里ほど)とあるので、対馬南島と壱岐をそれぞれ半周したと考え、2辺分の(四百里×2)(三百里×2)を行程に加えた。</ref>
; 神武東征説話の信憑性
: 古田は「神話はリアルである」と述べて、神武東征伝承は基本的に信用できるとした。そして九州王朝の王子であった神武天皇が弥生後期に大和盆地に侵入し、九州王朝の分王朝としての[[皇室|近畿天皇家]]の創始者となったとしている。
: これについて、九州王朝説論者の中には神武天皇非実在説や神武・崇神[[同一人物説]]を唱える者もいる。古田史学の会の代表である古賀達也は神武天皇の実在は認めつつ、その説話の中には九州王朝の[[天孫降臨]]説話からの盗用があるとしている。
; 近畿天皇家の存在について
: 古田の九州王朝説は[[多元王朝説]]の一環として主張されたものであり、近畿天皇家の存在自体を否定するものではなかった。むしろ神武天皇や欠史八代、神功皇后の実在を認める点では戦後の津田史学よりも古田史学の方が記紀の伝承を尊重しているとさえ言えた。
: だが、近畿天皇家の伝承のほぼすべてを九州王朝(や、豊前の分王朝)からの盗用とする主張や、[[応神天皇]]以降の歴史のみが近畿天皇家の歴史であるというもの、[[景行天皇]]・[[応神天皇]]・[[仁徳天皇]]・[[継体天皇]]・[[欽明天皇]]等の数多くの天皇が実際には九州王朝の天皇であったとするものも存在している。なお、近畿天皇家の天皇の一部が実際には近畿ではなく九州に存在していたとする説は九州王朝説論者以外に[[水野祐]]や[[坂田隆]]も主張していたが、こうした主張を古田は否定していた(水野の主張は『盗まれた神話』で、坂田の主張は「記・紀批判の方法 --坂田隆氏の問いに答える」で、それぞれ批判している)。
: [[壱岐一郎|いき一郎]]は日本書紀は[[藤原不比等]]による創作であり、[[畿内]]に存在したのは近畿天皇家ではなく[[扶桑国]]であると述べている<ref>[[いき一郎]]『扶桑国は関西にあった』</ref>。これについて古田は対案として「扶桑国関東説」を示唆しつつ、近畿天皇家自体が存在しなかったという主張には同意することはなかった。
; 狗奴国の位置
: 古田は当初狗奴国讃岐説を主張していたが、後に狗奴国近畿説に転向した。こうした古田自身の主張の変遷もあり、狗奴国の位置については九州王朝説論者の間でも意見が分かれる。
: 従来の[[邪馬台国九州説]]論者同様、狗奴国の位置を邪馬台国(邪馬壱国)の南方である南九州に比定する論者も存在する。
; 前期難波宮の位置付け
: [[前期難波宮]]は7世紀における[[太宰府|大宰府]]と並ぶ条坊都市である。古田は前期難波宮は[[孝徳天皇]]の[[難波長柄豊碕宮]]ではないことを主張していたが、では前期難波宮は何の遺跡であるのか、については明確な答えを出さなかった(古田は難波長柄豊碕宮は博多湾岸にあり、そこに[[白村江の戦い]]直前に九州王朝の呼びかけに応じてその分王朝である近畿天皇家のメンバーも終結していた、とした<ref>古田武彦 [http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nakatta5/taikakai.html 大化改新批判]</ref>)。
: 古賀達也は前期難波宮は前後の時代の近畿天皇家の宮殿との連続性が見られないこと、むしろ太宰府と似ている部分があること、前期難波宮の造営・焼失の年代と九州年号の改元が一致していること、等を根拠に「前期難波宮九州王朝副都説」を提唱した。これについは古田史学の会の内部でも議論がある。
; 聖徳太子について
: 古田は聖徳太子架空説を述べていないが、一般に聖徳太子の業績とされる遣隋使は実際には九州王朝が派遣したものであること(聖徳太子は遣唐使を派遣した)、[[法華義疏]]は聖徳太子の真筆ではなく九州王朝の上宮法皇が「収集」したものであること(聖徳太子と同年代の作であれば[[智顗|天台大師]]等の6世紀末・7世紀初頭の僧侶の説が反映されていない、法華義疏の奥付に切り取られた跡がある、等の不審な点を説明できない<ref>古田武彦 [http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/hokegiryu/jhokegi.html 「法華義疏」の史料批判]</ref>)、を始め聖徳太子の伝承の多くは後世による造作であったり別人物の業績からの盗用であるとした。
: これを受けて聖徳太子関連の業績のほぼ全てを九州王朝からの盗用とする論者や、聖徳太子架空説を主張する論者も存在する。
 
== 九州王朝説の根拠となる説明 ==
=== 九州(筑紫島) ===
592年に[[飛鳥京]]が設置されるよりも前に、九州(筑紫島)では[[筑紫国]]([[大宰府]])・[[豊国]]・[[日向国]]・[[肥国]]の4国がが[[日田街道]](ほぼ今日の[[朝倉街道]])・[[日向街道]]で繋がっており、その他に南部の[[熊曾国]]に[[隼人]]が住んでいた。
 
前者4国には国の制度として[[部民制]](べみんせい)があり、部族の世襲的な職業を定めていた。[[肥国]]には[[日下部]]・[[壬生部]]・[[建部氏|建部]]・[[久米部]]、筑紫国・豊国には[[物部]]や[[大神部]](おおがべ)、神職である[[祝部]](ほうりべ)、海事・漁業部であろう[[海部]]、などがあった(大分県の[[海部郡 (豊後国)|海部郡]]は、各地と異なり「あまべ」と読まれる)。当時の王朝は、諸地域の民や渡来人を組織して開墾を促し、[[屯倉]](みやけ、開墾地)に[[田部]]・[[額田部]]なども作ったが、特に九州内の[[豊国]]には、20個あまりの屯倉があった。また527年の[[磐井の乱]]の後には、軍事的部民も強化された。
: = 帯方郡 ~  [[投馬国]]   ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~  [[邪馬台国|邪馬壹国]]
::  水行二十日     +     水行十日     +     陸行一月(陸行一日)
 
また、古墳時代の貨幣に[[鉄鋌]]があるが、これまで発見された1147枚のうち1057枚は畿内に集中しており、畿内では古墳時代には鉄器製造などができなかったことがうかがえる<ref>鈴木靖民『倭国と東アジア〈日本の時代史2〉』(吉川弘文館、2002年7月1日)113頁。{{ISBN2| 9784642008020}}。</ref>。
 
701年の[[大宝律令]]のあとは、九州は9国([[豊前国|豊前]]、[[豊後国|豊後]]、[[筑前国|筑前]]、[[筑後国|筑後]]、[[肥前国|肥前]]、[[肥後国|肥後]]、[[日向国|日向]]、[[大隅国|大隅]]、[[薩摩国|薩摩]])になり[[西海道]]とも呼ばれ、全体が大宰府の管轄となった。また「九州」という用語は本来古代では天子の直轄統治領域を意味するもので、中国では[[周]]代以前、全土を9つの州に分けて治める習慣があったことから、9つの国の意味ではなく、天下のことを表すこともある(参考:[[九州 (中国)]])。また[[新羅#九州|新羅の九州]]の実例もある<ref>古田武彦『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1993年1月){{ISBN2| 4022607505}} p330</ref>。ただし、天子の直轄統治領域を九州と呼ぶのは古代中国での用法であり日本でも同じように用いられたという証拠はない。
: = 帯方郡  ~ ~ ~ ~ ~ 萬  二  千  餘  里 ~ ~ ~ ~ ~   女王國
 
=== 金印 ===
[[ファイル:King of Na gold seal imprint 1935.jpg|150px|thumb|『[[漢委奴国王印]]』印影]]
博多湾の[[志賀島]]で発見された[[漢委奴国王印|「漢委奴國王の金印」]]は、「漢」の「倭奴国」の「王」と読み、漢の家臣の倭国王(倭奴国王)の[[印綬]]であり、[[金印]]が発見された場所から遠くない場所に金印の所有者である「倭国王」の居城「倭奴国」があったという主張がある。
* [[皇帝]]が[[冊封]]国の王に与えた金印に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い<ref group="注">「漢匈奴悪適尸逐王」の印を「漢の匈奴の悪適尸逐の王」と読み三段の国名の例が存在するとの意見もあるが、「悪適尸逐王」は匈奴の王号であり二段の国名である。また、この印は銅印である。</ref>(金印は陪臣に与えるものでない)こと及び、高位の印であることから、この金印は「委奴国王」 = 「'''倭国王'''」に与えられたものであると考えられる。漢の印制度および金印の役割から通説のように金印を博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることは考えにくい。卑弥呼が賜ったとされる金印も「[[親魏倭王]]」であり倭王に対して下賜されたものである。「漢委奴國王」印も「親魏倭王」印も倭国の[[国璽]]として扱われ、漢王朝が続いている間は「漢委奴國王」印が、魏王朝が続いている間は「親魏倭王」印が使われ続けたと考えられる。つまり漢委奴國王の金印を志賀島に埋めたのは卑弥呼であると考えられる。
* 『[[旧唐書]]』倭国条の冒頭等、それ以後のいくつかの書物に「倭国者古倭奴国也(今の倭国は昔の(漢書の)倭奴国のことだ)」等との記事がある<ref>
*「旧唐書倭国伝」倭国は、古(いにしえ)の倭奴国である。
*「新唐書日本伝」日本は、古(いにしえ)の倭奴国である。
*「宋史日本国伝」日本国は、もとは倭奴国であった。
*「元史日本伝」 日本国は東海の東に位置し、昔は倭奴国と称した。
*「明史日本伝」 日本は、古(いにしえ)の倭奴国である。</ref>。倭奴国とは倭の中の小国「[[奴国]]」ではなく、倭国そのものであると考えられ<ref group="注">この解釈は古田の解釈とは異なる</ref>、倭国を代表すると漢が認めた国であり、漢によって王<ref group="注" name="wakokuou">『漢書(前漢書)』地理志の「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」・「楽浪海沖に倭人が現れる。100か国余りに分かれているが、季節になると貢物を持って挨拶に来る。と云う。」から前漢の時代は100国あまりの小国分立の状態であったのが『後漢書』東夷傳では「自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統」「武帝が朝鮮を滅ぼして以来、30国ていどが漢と交流している。(それらの)国は全て代々王を称することを伝統としている。」となり国の数が30国あまりに減り統一が進むと共に、一時的に自称王が乱立していたことが察せられる。倭奴国は自己の申告により漢の皇帝から家臣としての王に任命されたもので倭国内の統治の実態は不明だが、王を自称していた他の30あまりの国にから異議が無いところから建武中元二年までに倭国内の他の国々の自称王を降し、初めて倭国を統一した者である可能性があると仮定する。この後「桓 靈間 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主」・「桓帝と霊帝の間、倭国が内戦状態になり、互いに攻め合い。長い間、君主が居なかった。」となり再び統一が乱れたことが察せられる。</ref> と認められた者の住む国である <ref group="注" name="zks">後漢書に「[[57年|建武中元二年]] '''倭奴國'''奉貢朝賀 使人自稱大夫 '''倭國'''之極南界也 光武賜以印綬 安帝[[107年|永初元年]] '''倭國王'''帥升等獻生口百六十人 願請見」「建武中元2年に倭奴國が朝貢してきた。使いの者は大夫と自称した。倭奴國は倭國の最南端である。'''光武帝は印章を授けた。'''安帝永初元年に倭國王の'帥升等が奴隷160人を献上して謁見を願ってきた。」とある。倭国が倭奴国と区別されており、倭奴国について「倭國之極南界也」とあることから倭奴国は倭国の一部であると考えられる。王については倭国の王、帥升(等)しか記されず倭奴国の王については記されていないことから、建武中元二年に「倭國之極南界」に在った倭奴国が使いを遣し漢より印を綬かって倭国全体の王に任ぜられ、倭国王になったと考えられる。</ref>。
* 「倭」の字が減筆され「委」の字が使用されていることから「倭」は「委」と同じ発音であったと考えられる<ref group="注" name="wai">「ゐ」は隋唐音であり、「倭」「委」はともに「わ」であるとする反論もある。</ref>。金印は「かん ゐど こく おう」又は「かん ゐな こく おう」と読むべきである。
* 現在でも韓国・朝鮮では日本を「[[倭奴]]((왜노)ウェノム)」と呼ぶことがある<ref>[[チョッパリ#チョッパリ以外の日本人への蔑称]]</ref><ref group="注" name="kinnin">「倭奴」は日本の蔑称であり、しかも金印には「倭」の字が減筆されニンベンの無い「委」が用いられている([[新]]の[[王莽]]が[[匈奴]]に与えた「新匈奴單于章」の金印と同じ「漢の皇帝が属国の蛮王に与えた印」という侮辱的印と同じ)。</ref>。
 
=== 邪馬壹国の産物・交通 ===
* 邪馬壹国は北部九州一帯にあった国邑の連合体であり、構成国は、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、[[不弥国]]、[[斯馬国]]~[[烏奴国]]の計26か国。<ref>邪馬壹国70,000戸の内訳は、1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)+20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸( 斯馬国~烏奴国の20国分)
{{出典の明記|date= 2021年2月5日 (金) 19:50 (UTC)}}<!--- 2014年11月以前より出典提示要求。脚注形式必要 --->
: (1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
<!-- 邪馬台国九州説 -->
: 奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国~烏奴国の戸数もこれと同じ戸数をとして計算
{{See2|[[古田武彦]]の主張については[[邪馬壹国説]]を}}
</ref>
* 「女王之所都」「女王の都のする所」<ref>邪馬壹国の解説に「女王之所都」「女王の都のする所」と記してあるのは直前の投馬国と区別して目的地である邪馬壹国を明確にし、邪馬壹国と「世有王」と記された伊都国を結び付ける為であり、邪馬壹国の中に女王の都である伊都国があったのである。</ref>と記された邪馬壹国の中で、跳びぬけて大きい人口を持つ奴国が女王国の中心国邑であり、行程や地理を説明する場合には基点として使われているが、女王国の都は前述した様に伊都国である。
 
[[魏志倭人伝]]によれば[[邪馬台国]]は、木材のクスノキ(櫲樟、柟)や鉱物の[[丹]](ニ)の産地であり[[帯方郡]]と貿易をしていたが、仏像や造船に使用されるクスノキは主に九州に分布し、また[[大分県]]の[[玖珠郡]] (クスは久須、球珠とも表記する)の地名は、クスノキに由来すると思われる。
* 投馬国は朝鮮半島南部の倭人の国邑が集まった連合体、投馬国の中心国邑が狗邪韓国。<ref>『三国志』魏書東夷伝馬韓の冒頭に「韓在帶方之南 東西以海為限 南與倭接(韓は帯方の南に在り、東西は海を以って限りと為す、南は倭と接す)」とあり、'''韓と倭は接していた(陸続きであった)'''。
続いて「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里(帯方郡より倭に至ること、海岸を水行し循って韓国を歴する。たちまち南し、たちまち東す。その北岸狗邪韓國に到る。7,000余里である。)」とあり'''帯方郡より倭までは、7,000余里'''である。
韓半島南部にあったにも係わらず狗邪韓国は『魏志倭人伝』に記されており、また「其北岸狗邪韓國」「其(倭国)の北岸の狗邪韓国」とあるので、'''狗邪韓国は倭人の国である'''。つまり、倭地は韓半島南部にもあり、この倭地の名称が投馬国である。</ref>
* [[狗奴国]]は、南部九州一帯。<ref>古田は、「其の南狗奴国あり」(魏志、要約)「女王国の東千里狗奴国あり」(後漢書、要約)より「狗奴国=讃岐」だとしている。</ref>
* 「參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里」「倭の地について聞き取り調査すると、海中の島の上に孤立して在り、途切れたり連なったりしているとのことだ。一周は5,000里と推察される。」<ref>「参問倭地」とは、倭について情報(問)を集める(参する)こと。古田は参問を訪問の意味としているが、参とは「集める」「集まる」の意味であり、二次的に「集まりに行く」「会いに行く」の意味はあっても単に「行く」との意味はない。この文で参を「集まりに行く」「会いに行く」としては意味が通じず参問を訪問と訳すのは誤り。</ref>: ここでも同じ行程(奴国~奴国)を通過する国名と総距離(5,000里)とで2重に併記しているのである。
: 「周旋可五千餘里」とは北部九州一周のことで、「奴国」からはじまり「奴国」に戻る道程。まず「奴国」から「不弥国」に向かい、その後は次々に「斯馬国」「已百支国」「伊邪国」「都支国」「彌奴国」「好古都国」「不呼国」「姐奴国」「對蘇国」「蘇奴国」「呼邑国」「華奴蘇奴国」「鬼国」「爲吾国」「鬼奴国」「邪馬国」「躬臣国」「巴利国」「支惟国」「烏奴国」「奴国」と21ヵ国を通るのである。
: 「周旋可五千餘里」の5000里は推定値であり、<ref>「可」は日本語訳では「ほどか」などと意訳されるが、直訳すると「推測可能」の意味で実測値でないことを示している(古田は「可」を「べし」と訳しているが、「べし」と訳した場合でも意味は推量の「・・・であろう」である)。既に「可七萬餘戸」をどの様にして推定されたか説明したが「方可四百餘里」「方可三百里」の場合も島の周囲を歩いたのではなく、離れた船上から遠望して島の寸法を推測したことを示しており、「周旋可五千餘里」も行ったことのない土地について推測したものである。「南至投馬國水行二十日」や「水行十日 陸行一月」も「二十日可」や「水行十日 陸行一月可」とは書かれていないので実体験に基く実測値であることを示している。</ref>実測した末盧国~伊都国の500里、伊都国~奴国の100里、奴国~不弥国の100里を用いて計算で推定したものである。<ref>: 奴国~不弥国の100里に末盧国~不弥国間の平均距離を21(不弥国から奴国までの国邑間の数)倍し加えた。
:   100里  + (500里+100里+100里)÷3 × 21 = 5000里
: 奴国~不弥国 末盧国~不弥国の平均距離      周旋可五千餘里</ref>
* (女王国~裸国 黒歯国)でも同じ行程を距離(4,000里)と時間(12日)とで2重に併記している。<ref>「女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國 在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國 黑齒國 復在其東南 船行一年可至(女王国の東、海を渡る千餘里。 また国が有り皆、倭種である。また侏儒國が其の南に在る。人長は三四尺である。女王を去る四千餘里また裸國・黑齒國が有る。また其(女王国)の東南に在って、船行では一年(十二日)で至と推定される。)」「可至」で終わっているのでこの文章全体が伝聞であろう。</ref>
:: 女王國~裸国・黒齒国=四千餘里=船行一年可(船行十二日可)
 
また丹は、仏像の鍍金や船底の防腐剤として使われた鉱物で水銀の材料であるが、[[豊日別]]・[[豊国]]跡の大分市には丹生神社があり[[丹]]の産地であったことがうかがえ、また港湾貿易の地として[[貴船神社]]も多い。
:[[侏儒国]]は、[[永納山城]]を中心とする[[愛媛県]]([[伊予国]])であろう。
 
また、卑弥呼や[[天照大神]]と同一人物かは不明であるが、[[イザナギ]]・[[イザナミ]]が生んだ[[ワダツミ]]の娘で神武天皇の祖母であり、[[祖母山]]信仰の祭神でもある[[豊玉姫]]、またその妹とされる[[玉依姫]]の2名の[[国津神]](くにつかみ)は、九州の[[日向国]]にいたとされており、双方が天津神(あまつかみ)と結婚している。さらに、のちの[[日本書紀]]の[[神武東征]]の逸話によれば、神武天皇は[[日向国]]から出立し、[[豊国]]の[[宇佐]]で[[ウサツヒコ]]建立の[[一柱騰宮]](あしひとつ あがりのみや)に滞在してから、[[近畿]]へ渡航して[[辰砂]]の鉱脈調査を行っている<ref>[[丹生川上神社#歴史]]。</ref>。
:裸国は、鬼城山城([[鬼ノ城]])[[大迴小迴山城]]を中心とする[[岡山県]]([[吉備国]])や[[播磨城山城]]を中心とする[[兵庫県]]南西部([[播磨国]])であろう。<ref>古田は、裸国や黒歯国を[[ペルー]]や[[エクアドル]]に比定し、実際に南米調査を行い、『なかった 真実の歴史学[第四号]』2008年ISBN 9784623050567で「アリカ」「アタカマ」「トリタ・ハマ」「マナビ」「チチカカ」など、日本語由来と推察される地名がある等としている。</ref>
 
また、記紀によればイザナギ・イザナミの最初の[[国産み]]が[[オノコロ島]](通説では[[淡路島]])であるが、淡路島には日本で最古の鉄器製造所であるとされる[[五斗長垣内遺跡]]があり、関西の平野部から離れた島に作られていることを考えると、造営者は、あるいは大阪平野部の部族ではなかったことも考えられる。
* 卑弥呼の国璽である「親魏倭王」印の前の国璽である「漢委奴國王」印が博多湾岸から出土しているので卑弥呼の都は博多湾の近くにあた。(新たに魏から「親魏倭王」印を授けたことにより、漢の「漢委奴國王」印は不要になり廃棄されたと考えられる、「漢委奴國王」印が出土した場所が卑弥呼の墓である可能性が高い。)
 
なお、鉄器以前の[[青銅器]]製造所は、[[弥生時代]]中期~後期に、九州北部または[[伊都国]]にあったことが判明している<ref>[http://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=101349 銅釧鋳型(どうくしろ いがた) 福岡市多田羅大牟田遺跡]、e[[国宝]]。</ref>。
==== 解説 ====
{{出典の明記|date=2012年1月}}
* 『魏志倭人伝』の記述から魏使は伊都国まで来ていることは確実で、伊都国について詳しく紹介し官や副の名称も記している。伊都国には「世有王」と記されており王が居た。官、副の名称を記しながら王の名称を記さないはずはなく、別に記された倭の女王、卑弥呼・壹與が伊都国に居た王である。
 
また王朝の首都と想定される大宰府には[[日田街道]]が通じており、この日田街道は、[[日田]]から久留米、中津、熊本、別府にそれぞれ街道が伸びており、さらに別府では[[筑紫国]]跡の福岡県東岸から[[日向国]]跡の宮崎県を繋ぐ[[日向街道]]に接続している。したがって、[[伊都国]]の[[一大率]]と同じく、為政者側は陸路でも相当広い範囲を移動することができた。
* 「到」=「至」+「人」であり、人が至るの意味が含まれている。狗邪韓国と伊都国だけに「到」の文字が使われそれ以外の国は「至」であるので、郡使の目的地が投馬国の狗邪韓国と邪馬壹国の伊都国であることがわかる。<ref>硬骨文字で「到」は「至人」と書かれている。硬骨文字で刀と人は似た形をしており、「到」では人が[[刀部]](りっとう)に変化した。([[白川静]]著『[[字統]]』 ISBN 978-4582128017 1984年8月[[平凡社]]「字の初形は、至と人に従う。至は矢の到達するところ、そこに人の立つ形である。」)</ref>
 
福岡県の[[船原古墳]]では2013年までに、[[古墳時代]]後期の馬具が、金銅製品鉄製品を合わせて200点以上発見されている<ref>[https://web.archive.org/web/20210506095450/https://horubai.jp/content/nnp_news/38]</ref>
* 一見して魏志倭人伝には多くの誤植が存在する。壱岐国を減筆しても一支国にしかならず「一大國」は明らか{{要出典|date=2012年1月}}誤植である。また「[[東冶]]」を「東治」<ref>古田は後漢書の「[[会稽]]東冶」などを安易な誤植扱いは危険だとして会稽東治は[[会稽山]]の東の地域であるとしている。</ref>「真朱([[水銀]])[[鉛丹]]各五十斤」と記すべきところを「真珠 鉛丹各五十斤」とするなども明らかな誤植もある。<ref>古田は、通説のような安易な誤植説は危険だとし『魏志倭人伝』の記述には全く間違いが無いとの仮説の元に推論を進めているが、最終的には狗奴国を[[瀬戸内海]]領域に比定するなど誤植説を用いている。{{要出典|date=2012年1月}}</ref>道路や橋の整備されていなかった古代において最も便利な交通手段は船であった。また船旅は盗賊等に襲われる心配も少なく安全である。古代の旅においては目的地の直近の港まで船で行きそこから陸路を採ったと考えられる。古代から近代まで徒歩の旅において1日の行程の目安は約30kmである<ref>人間の歩く速度は1時間に3~4kmであり、1日に7~8時間歩いたとして21~32kmとなる、古代から現代まで、世界中何処でも、人が旅する速度はほぼ同じで、旧日本陸軍でも歩兵の連続行軍は1日24km、強行軍で40kmである。</ref>。日本には海岸から1ヶ月(900km)も掛かる場所は無いので「陸行一月」は「陸行一日」の誤植である{{要出典|date=2012年1月}}と考えられる。<ref>古田は「陸行一月」を「韓国内を1ヶ月掛けてジグザグに陸行した」と主張しているが、韓国内にはそのようなジグザグな[[街道]]は存在せず、韓国内の移動に1ヶ月も必要とはしない。{{要出典|date=2012年1月}}また[[正始]]7年([[246年]])には帯方郡太守の[[弓遵]]が[[辰韓]]の8ヶ国を割譲させようとして韓に反撃され戦死しており、敵地である南韓を郡使が下贈品の財宝などを持って旅したとは考えられない。{{要出典|date=2012年1月}}倭人伝では「一支國」を「一大國」と誤って記している{{要出典|date=2012年1月}}が、同様に毛筆で書かれた「日」も「月」と見間違がわれる可能性が極めて高い。</ref>日本国内を端から端まで船で旅しても1年は掛らない。「船行一年可」も誤植で元の資料では「船行十二日可」であったのが「船行十二月可」と見間違がわれ{{要出典|date=2012年1月}}、「船行一年可」と書き改められた{{要出典|date=2012年1月}}可能性が高い。
 
=== 倭の五王は九州の大王 ===
* 邪馬壹国と投馬国の人口は国邑([[都市国家]])としては多過ぎる。邪馬壹国の人口は7万戸、1戸5人としても35万人にもなる。『三国志魏書』によると辰韓 ・弁辰は4~5万戸、馬韓は10万戸である。[[近代以前の日本の人口統計|奈良時代の日本の人口]]でさえ500万人弱といわれている。奈良時代と農業生産技術に大差がない3世紀の人口は、奈良時代より若干少ない程度であろう。日本の約1割近くの人口を擁した邪馬壹国の領域は、最低でも九州の北半分程度と考えられる。<ref>古田は、投馬国を九州南部に比定しているが、古田の説によると九州の人口が末盧国(4千戸)、伊都国(千戸)、奴国(2万戸)、不弥国(千家)、斯馬国~烏奴国の20国(2万~4万戸)、邪馬壹国(7万戸)、投馬国(5万戸)、狗奴国(5万戸)の20万戸以上となる。1戸あたり5人としても100万人以上となり、奈良時代の日本列島の人口が500万人弱であったことと比べて高密度となる。また韓の15万戸と比べても多くなり過ぎる。現在でも[[韓国]]の人口は4千8百万人で[[九州]]の人口千3百万人より遥かに多い。</ref>
「[[倭の五王]]」は畿内ではなく九州の[[大王]]であったという主張がある。
* [[古事記]]は、筑紫島(九州)は体は一つで顔が四つあるとしており、4つは[[筑紫国]](白日別)、[[豊国]](豊日別)、[[肥国]](建日向日豊 久士比泥別)、[[熊襲国]](建日別)である。ここに[[対馬]]か[[熊曾国]]を加えるとすれば5つになる。
* 「倭の五王」の在位年と『[[日本書紀]]』での各天皇の在位年とが全く合わない。また、ヤマト王権の[[大王]]が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など1字の漢風の名を名乗ったという記録は存在しない、[[南北朝時代 (中国)|南朝]]([[東晋]]-[[梁 (南朝)|梁]])側が勝手に東夷の王に漢風の名を付けることなども例が無く考えられないので、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではないと考えられる。
* [[近畿地方|畿内地方]]には多くの巨大[[古墳]]が造営されたが、同一の王権が大規模な対外戦争を継続しながら<ref group="注" name="wanogoou">倭(日本)による朝鮮半島への進出は、366年に百済と同盟してから663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て668年の高句麗の滅亡までの303年間で、倭(日本) が政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回にも及ぶ。これは4年に1回の割合でほとんど300年の間、連続的に起こっており、また倭(日本)は万余の大軍を朝鮮半島に送り続けたことが記録されている([[三韓征伐#概史・年表]])。九州王朝説でも九州では軍事が民生を圧迫していたと考えるが、九州の勢力は独自に軍事活動を行っていたと仮定する。</ref> 同時にこのような大規模な巨大古墳の造営を多数行うということは考えられないということにして、畿内地方に多くの巨大古墳を造っていたのは、朝鮮半島で活発に軍事活動を行っていた「倭」からはある程度独立した勢力だったと考えられる。また、[[古墳文化]]の広がりをもってヤマト王権勢力の拡大と見なす意見があるが、宗教文化の広がりと権力の広がりとは必ずしも一致するものではないと考えられる。古墳文化の広がりは宗教儀礼の広がりでもあり、これとヤマト王権が結びつくとの意見もあるが<ref group="注" name="kofunn">(1)出現期の前方後円墳の分布の中心は近畿の大和(2)出現期の前方後円墳の分布は瀬戸内海沿岸各地から北部九州。(3)九州南部では東西に[[地下式横穴墓]]、[[板石積石棺墓|地下式板石積石室墓]]という二大分布圏が存在。前方後円墳は沿岸部のみに分布する。(4)古墳時代前期後半に東日本、近畿、西日本各地で前方後方墳から前方後円墳への転換が確認されている。(5)3世紀中葉すぎ、[[近畿地方|近畿]]、[[中国地方]] → 北部九州への土器の移動が顕著に認められる。逆の動きはほとんど認められない。(参考 → [http://www.inuyama.gr.jp/ssinfo/contents/aotsuka/shinpo/shinpo7.html 「前方後円墳と前方後方墳」 白石太一郎講演] {{リンク切れ|date= 2021年2月}}))等を根拠であるとする反論。</ref> 根拠は明確にされておらず古墳文化の広がりを以てヤマト王権勢力の拡大とするには証拠として無理がある。[[古墳]]は[[豪族]]の[[墓]]であり、これが各地で造られたことは中央からは独立した地方勢力の存在を示すものであり、ヤマト王権勢力の支配力が拡大したとする説とも矛盾する。また、この時代は古墳の形態も地域によって特色があり、[[出雲国|出雲]]や[[吉備国|吉備]]等にも独立した勢力が存在したことを示していると考えられる。
* 『宋書』478年の[[倭王武]]の上表文で、「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」とあるが、倭王武は自らを東夷であると認識しており、通説のように倭を畿内とすると「東の毛人」 = [[中部地方|中部]]・[[関東地方|関東]]、「西の衆夷」 = [[畿内]]・[[中国地方|中国]]・[[四国]]・[[九州]]、「渡りて海北」 = [[疑問符|???]]、となり、比定地を自然に特定することができない(論者の様々に設定する特段の事情を勘案した場合には可能となるであろう)。しかし倭を九州とすると、「東の毛人」 = 畿内、「西の衆夷」 = 九州、「渡りて海北」 = [[朝鮮半島]]南部という形で、比定地の自然な特定が可能となろう。<ref group="注" name="tousei">[[現在]]でも、九州の北西部に広がる海域を[[玄界灘]]と言う。「玄」は「[[玄武]]」と同様に「北」の意味であり、玄界灘とは(荒い)北の海を意味する。なお、日本書紀にも2か所「北海」の表記はあるが、これは古代の言い回しとしてはあまりに機能的であり、あるいはむしろ九州倭国の史書からの盗用であると疑うことにも正当性が見えてくるであろう。</ref><ref group="注">根拠はないが、[[倭王武]]が九州倭国の王であるとすると、古事記や日本書紀が伝えるところの「ニニギノミコト」・「ヒコホホデミノミコト(山幸彦)」・「ウガヤフキアエズノミコト」は九州倭国の[[人間]]で、そこから東征に派遣された「カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)」の[[親族|子孫]]が巨大[[古墳]]を築造した畿内日本であることになる。[[多元王朝説]](古田武彦)は神武東征は単なる神話ではなく史実の反映であり、神武が畿内に入植したのは[[2世紀]]の頃ではないかと推定している。九州倭国は半島等での軍事活動で疲弊し[[高句麗]]のような強力な競争相手のいない新天地に入植した神武の子孫畿内日本はその後も東征を続け発展に向かい、[[近畿地方]]から[[東日本]]にかけて大勢力を築いたと推察することも可能であろう。</ref>。
 
=== 九州倭国の大陸との交流 ===
* 帯方郡から奴国までに記された行程を合計すると、帯方郡から女王國までの距離と同じ12000里となり、奴国は女王国の中にあったことになる。奴国は2万戸と記され倭の中心として十分な人口があった<ref>魏志倭人伝の奴国は2万戸(1戸5人平均としても10万人)とされている。ヤマト王権の拠点は藤原京が建設される694年まで京域も持たず転々と移動し、その人口は僅かであった。平城京でさえ役人程度しか居住せずその人口は数万人程度であったと考えられており3世紀の奴国(古代博多)より少ない。</ref>。また[[福岡市]][[博多区]]の[[那珂遺跡群]](奴国の遺跡)では[[3世紀]]頃の「[[都市計画]]」によって造られたとみられる国内最古の「道路(幅7メートル・南北へ1.5キロ以上の直線)」跡が見つかっている。地理的にも7世紀に倭の首都であった大宰府にも極めて近い(倭国王が1世紀に漢から受領した「漢委奴國王」の金印発見場所とされる志賀島にも近い<ref>「漢委奴國王」の金印について糸島市にある[[細石神社]]には「当社の宝物であったものが江戸時代に市中に流出した」との伝承がある。</ref>)。この[[計画都市]](奴国)こそ3世紀の倭の中心であったと考えられる。
漢代から代々に朝貢していたのは九州の大王であり、日本列島を代表して大陸と交流・交戦していたのも九州倭国だったという主張がある。
* [[好太王碑|広開土王碑]]、『[[三国史記]]』等の[[倭・倭人関連の朝鮮文献]]、『日本書紀』によれば、倭は[[百済]]と同盟した[[366年]]から「白村江の戦い([[663年]])」までの約300年間、ほぼ4年に1回の割合で頻繁に朝鮮半島に出兵している。通信手段が未発達な古代にあって朝鮮半島で戦うには、司令部は前線近くの北部九州に置かなければ戦闘に間に合う適切な判断や指示は下せない可能性がある<ref group="注">[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]でも[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]に際して[[豊臣秀吉]]は、肥前[[名護屋城]]を築城しそこから指揮を執っている。[[明治]]になっても[[日清戦争]]に際して日本政府は、[[大本営]]と首都機能を[[広島市]]に移して戦っている。</ref>。政治、祭事、軍事が未分化の時代、王は司令部のある北部九州に常駐することとなった可能性がある。そこで、ヤマト王権とは別の倭王が北部九州に常駐し、そこに倭の首都があったことになる、ということを考えられる。
* 倭は長い交流を通じて隋・唐の社会制度・文化や外交儀礼に詳しいはずなのに、初期の遣隋使派遣では、畿内日本は外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使したとされる<ref group="注">第1回遣隋使派遣は『日本書紀』に記載がなく『隋書』にあるのみ、また『日本書紀』では遣隋使のことが「[[遣唐使]]」となっている。</ref>。更に遣隋使・遣唐使とこれに随伴した留学生達によって、畿内地方に唐の社会制度・文化の多くが初めて直接伝えられたとされていることから、遣隋使・遣唐使以前は畿内地方には隋・唐の社会制度・文化は殆ど伝わっておらず、九州倭と畿内日本とは明らかに別物であると仮定できる。『[[新唐書]]』日本伝では「[[開皇]]年間([[581年]] 〜 [[600年]])の末に初めて日本国は[[隋]]と国交開始した。」と記しており遣隋使・遣唐使が畿内日本と隋・唐の初の直接交流である<ref group="注">『隋書』にある600年の第一回遣隋使は『日本書紀』に全く記載がなく、第二回の607年の遣隋使も隋ではなく大唐国に派遣したと記している。唐は618年に建国しており607年は隋代である。極めて可能性は低いが、「『唐土』としての『大唐』ではなく、王朝としての『唐』に行った」とすると618年以後のことと仮定することはできる。『日本書紀』の記す第二回遣隋使は実は唐代の619年であり、『日本書紀』では年代を12年繰り上げた為に隋代を大唐国と書いてしまったのではないかと仮定する。そうすると、607年の遣隋使は九州倭国の派遣したもので、隋の[[従八品]][[文林郎]]の[[裴世清]]は{{補助漢字フォント|俀}}国に来たのであり、619年にも唐の家臣となり降格した後の[[正九品]][[鴻臚寺]]の[[掌客]]の裴世清が[[小野妹子]]と供に来たと考えれば無理矢理ではあるが辻褄が合う。[[多元王朝説#12年後差説|約12年の誤差]]</ref>。
* [[5世紀]]の倭の五王は12回も中国の南朝に朝貢し、朝鮮半島で数世紀に亘って継続的な戦闘を続け、「白村江の戦い」では約1千隻の軍船・数万の軍勢を派遣し唐の水軍と大海戦を行うなど、高い航海術・渡海能力を有していたと考えられるが、この倭国軍に比べ、ヤマト王権の派遣した遣唐使船の航海の成功率は50%程度しかない。これも王朝が交代し航海技術が断絶した為であると考えられる。ただしこのように断言する為には倭の五王の航海成功率が有意な差を持って50%より100%に近いことの証明が必要である。
 
=== 磐井の乱 ===
* 「出真珠 青玉」とは[[天草]]等九州産の[[真珠]] <ref>倭人伝では真珠について「貢白珠五千孔」として白珠とも記されているが、この白とは単に白いの意味ではなく清い、汚れが無の意味で白珠とは献上品にされるような上等の真珠のこと。</ref>と九州産の[[クロム]]を含む緑色の[[白雲母]]岩で、<ref>[http://ichimen.com/entry/20080112-00000101-san-soci.html 「産経新聞2008年1月12日」九州の縄文人が愛好!? 緑色装身具7割が雲母 産地は熊本県南部有力]、 
527年の[[磐井の乱]]は継体が[[武烈天皇]]を武力討伐して政権を奪った九州内の王朝交代の[[記事]]であるという主張がある。
[http://www.47news.jp/CN/200801/CN2008011201000170.html 「共同通信2008年1月12日」緑色の装身具は7割が雲母 縄文人好み、九州に広まる]、 
: (上記[[古田武彦説]]にあるように古田は、磐井の乱とは九州王朝の分家である畿内ヤマトの九州王朝への反乱だと考えていたが、後に自説の矛盾に気がつき、磐井の乱は無かったとしている。)
[http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200706060182.html 「asahi.com 2007年06月06日」「新潟産ヒスイ」地元の石だった 交易史の書き換えも必要?]</ref>「山有丹」とは[[阿蘇]]黄土([[リモナイト]])を原料とする[[ベンガラ]]。「以朱丹塗其身體」の朱丹も身体に塗る物なので水銀朱ではなく人体に無害なベンガラである。
 
==== 磐井の乱は史実 ====
* 「方可四百餘里」「方可三百里」<ref>方○○とは一辺が○○の正方形のこと、漢籍では一辺が○○の正方形の面積としても使われる。</ref>について島の面積を示しているとする意見もあるが、面積を求めるには島を一周し全体の形状を把握する必要がる。郡使は旅の途中に船で島の横を通過しただけであり、島の片面しか見ていない。郡使が島の面積を求めることは不可能であり、「方可四百餘里」「方可三百里」は郡使が通った航路から導き出された島の外寸である。また対馬(北島と南島は陸続きであった)は壱岐より遥かに広く、面積が四百里四方と三百里四方では比率が全く合わない。「方可四百餘里」を対馬南島の外寸とすると「方可三百里」の壱岐と合致する。航路から導き出された島の外寸を記しているのだから、これを行程距離に含めるのは自然なことである。<ref>韓伝にも「方可四千里」とあり1里=76mとした場合、(4000×76m)×(4000×76m)=92,426k㎡となり
九州王朝が実在したと仮定した上で磐井の乱は史実であるとする主張は以下のとおりである。
現在の[[大韓民国]]の面積(98,480㎡)と略一致する</ref>
* 「記紀」や「筑後国風土記」等に同じ[[事件]]についての同じような記事がある。「記紀」や「筑後国風土記」等の著者に[[磐井 (古代豪族)|磐井]]のような[[地方]][[豪族]]の反乱の記事を捏造する必要性が無い。
* 「磐井の乱」を否定する根拠が無い<ref group="注">古田武彦は、九州年号の存在をもって磐井の乱は史実でないとしているが、磐井の乱を九州内の反乱・王朝交代と考えれば、否定の根拠にはならない。</ref>。
* [[福岡県]][[八女市]]に磐井の墓とされる[[岩戸山古墳]]が実存し、記録とも一致している<ref>『岩戸山歴史資料館 展示図録』p. 16</ref>
 
==== 継体天皇地方豪族説====
* [[古代山城]]「[[神籠石]]式山城」は、戦争の際に[[都市]]([[国邑]])の人々が避難する「逃げ込み城」である。古代山城があったということはその近くに都市(国邑)があったということである。古代において国家の多くは都市国家である。つまり、古代山城があるということはその近くに都市(国邑)があり、その都市(国邑)を中心とした国家があったということである。古代山城の分布(=古代国家の分布)と想定される「邪馬壹國」「倭種」「侏儒國」「黒齒國」「裸國」の位置{{要出典|date=2012年1月}}は実に良く一致する。<ref>「古代山城には石垣があるが3世紀の集落遺跡には、V字の堀があるだけで石垣は存在しないので古代山城は3世紀の建設でない。従って、古代山城は3世紀の国とは無関係であるという反論があるが、城砦である山城と居住空間である集落の構造を比べることには意味が無い。また5~6世紀に建設された神籠石と3世紀の邪馬台国とは関係ないとの反論もあるが、200~300年程度で国(国邑)の配置が大きく変化することはいし、神籠石が5~6世紀に建設されたとする根拠も希薄なものである。</ref>
[[継体天皇]]は地方豪族に過ぎなかったという主張がある。
* 『日本書紀』継体記末尾に『百済本記』(百済三書の一つ、[[三国史記]]の『百済本紀』とは異なる逸失書)から[[531年]]に「日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」〔日本の天皇、太子、皇子ともに死す〕」という記述が引用されている。しかし、継体天皇の子の[[安閑天皇|安閑]]・[[宣化天皇|宣化]]は、継体天皇の死後も生きていた。この記述は記録の齟齬ではなく継体天皇のことではないと考えられる。
* 継体21年([[547年]])、継体天皇は「[[社稷]]の存亡ここにあり」という詔を発しているが、天皇が一地方豪族を討伐するにしては大げさであるということにする。
* 継体天皇が[[物部麁鹿火]]に磐井征伐を命じたとき、「長門より東を朕とらむ。筑紫より西を汝とれ」と言っている。磐井を討伐しないと継体天皇は日本の支配権を得られなかったということにし、継体天皇には政権は無かったということであるということにする。
* 継体天皇は仁徳天皇系の最後の大王・武烈天皇から10親等も離れた応神天皇の5代の孫とされており、大王の継承資格がないということにする。
* 継体は、即位するとその正当性を担保するため武烈の姉の[[手白香皇女]]を皇后にしている。
 
==== 磐井は九州五王 天皇説 ====
* 『日本書紀』に逸書『百済本記』から〔日本の天皇、太子、皇子ともに死す〕という記述が引用されている。「[[磐井の乱]]」について百済では日本の天皇である磐井一族が滅ぼされたと認識していたということにする。<ref group="注" name="iwainoran">以下のように日本書紀と朝鮮側記録等の間には3年のずれがあるので、[[528年]]と記録のある「磐井の敗死」も3年ずらして、531年の「日本天皇・皇太子の同時死亡」のこととするのが妥当であるということにする。
以下のことから、「[[倭の五王]]」は畿内ではなく九州の[[大王]]であったと考えられる。
* 「倭の五王」の在位年と『[[日本書紀]]』での各天皇の在位年とが全く合わない。また、ヤマト王権の[[大王]]が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など1字の漢風の名を名乗ったという記録は存在しない、[[南北朝時代 (中国)|南朝]]([[東晋]]~[[梁]])側が勝手に東夷の王に漢風の名を付けることなども例が無く考えられないので、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではない。
* 畿内地方には多くの巨大[[古墳]]が造営されたが、同一の王権が大規模な対外戦争を継続しながら<ref name="wanogoou">倭(日本)による朝鮮半島への進出は、366年に百済と同盟してから663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て668年の高句麗の滅亡までの303年間で、倭(日本) が政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回にも及ぶ。これは4年に1回の割合でほとんど300年の間、連続的に起こっており、また倭(日本)は万余の大軍を朝鮮半島に送り続けたことが記録されている。
([http://cgi.din.or.jp/~washi/yamataikoku/paper/paper37.html 邪馬台国の位置と日本国家の起源&gt;倭の五王と九州王朝説]より)九州王朝説でも九州では軍事が民生を圧迫していたと考えるが、九州の勢力は独自に軍事活動を行っていたとする。
</ref>同時にこのような大規模な巨大古墳の造営を多数行うということは考えられないので、畿内地方に多くの巨大古墳を造っていたのは、朝鮮半島で活発に軍事活動を行っていた「倭」からはある程度独立した勢力だったとみられる。また、[[古墳文化]]の広がりをもってヤマト王権勢力の拡大と見なす意見があるが、宗教文化の広がりと権力の広がりとは必ずしも一致するものではない。古墳文化の広がりは宗教儀礼の広がりでもあり、これとヤマト王権が結びつくとの意見もあるが<ref name="kofunn">(1)出現期の前方後円墳の分布の中心は近畿の大和(2)出現期の前方後円墳の分布は瀬戸内海沿岸各地から北部九州。(3)九州南部では東西に地下式横穴墓、地下式板石積石室墓という二大分布圏が存在。前方後円墳は沿岸部のみに分布する。(4)古墳時代前期後半に東日本、近畿、西日本各地で前方後方墳から前方後円墳への転換が確認されている。(5)3世紀中葉すぎ、近畿、中国地方→北部九州への土器の移動が顕著に認められる。逆の動きはほとんど認められない。(参考→[http://www.inuyama.gr.jp/ssinfo/contents/aotsuka/shinpo/shinpo7.html 「前方後円墳と前方後方墳」 白石太一郎講演]))等を根拠であるとする反論。</ref>根拠は明確にされておらず古墳文化の広がりを以てヤマト王権勢力の拡大とするには証拠として無理がある。古墳は豪族の墓であり、これが各地で造られたことは中央からは独立した地方勢力の存在を示すものであり、ヤマト王権勢力の支配力が拡大したとする説とも矛盾する。また、この時代は古墳の形態も地域によって特色があり、[[出雲]]や[[吉備]]等にも独立した勢力が存在したことを示している。
* 『宋書』478年の[[倭王武]]の上表文で、「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」とあるが、倭王武は自らを東夷であると認識しており、通説のように倭を畿内とすると「東の毛人」=中部・関東、「西の衆夷」=畿内・中国・四国・九州、「渡りて海北」=???、となり、比定地を特定することができない。しかし倭を九州とすると、「東の毛人」=畿内、「西の衆夷」=九州、「渡りて海北」=朝鮮半島南部となり、比定地の特定が可能である<ref name="tousei">現在でも、九州の北西部に広がる海域を[[玄界灘]]と言う。「玄」は「[[玄武]]」と同様に「北」の意味であり、玄界灘とは(荒い)北の海を意味する。なお、日本書紀にも2箇所「北海」の表記はあるが、これは九州倭国の史書からの盗用であると考えられる。</ref><ref>[[倭王武]]が九州王朝の王であるとすると、古事記や日本書紀が伝えるところの「ニニギノミコト」「ヒコホホデミノミコト(山幸彦)」「ウガヤフキアエズノミコト」は九州王朝の人間で、そこから東征に派遣された「カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)」の子孫が巨大古墳を築造したヤマト王権であることになる。[[多元王朝説]]では神武東征は単なる神話ではなく史実の反映であり、神武がヤマトに入植したのは2世紀の頃ではないかと推定している。九州王朝は半島等での軍事活動で疲弊し高句麗のような強力な競争相手のいない新天地に入植した神武の子孫ヤマト王権はその後も東征を続け発展に向かい、近畿地方から東日本にかけて大勢力を築いたとする。</ref>。
 
* 継体18年([[524年]])百済の太子明、即位(逸書「[[百済本記]]」) ⇒ 527年百済[[聖王 (百済)|聖明王]]即位(遺事百済王暦)
=== 倭(九州王朝)の交流 ===
* 継体22年(528年)磐井滅亡(日本書紀本文) ⇒ 531年日本天皇太子皇子の死(三国史記「百済本紀」)
以下のことから、漢代から代々に朝貢していたのは九州の大王であり、日本列島を代表して大陸と交流・交戦していたのも九州王朝だったと考えられる。
* 継体23年([[529年]])[[加羅]][[金官国]]滅亡(日本書紀本文) ⇒ 532年(三国史記)
* [[広開土王碑]]、『[[三国史記]]』等の[[倭・倭人関連の朝鮮文献]]、『[[日本書紀]]』によれば、倭は[[百済]]と同盟した[[366年]]から「白村江の戦い([[663年]])」までの約300年間、ほぼ4年に1回の割合で頻繁に朝鮮半島に出兵している<ref name="wanogoou"> </ref>。ヤマト王権にはこれらの軍事活動に対応する記録は存在せず、ヤマト王権の大王が畿内を動いた形跡もない。通信手段が未発達な古代にあって朝鮮半島で戦うには、司令部は前線近くの北部九州に置かなければ戦闘に間に合う適切な判断や指示は下せない。政治、祭事、軍事が未分化の時代、必然的に王は司令部のある北部九州に常駐することとなる。つまりヤマト王権とは別の倭王が北部九州に常駐し、そこに倭の首都があったことになる。
* 継体25年([[531年]])継体の死(日本書紀本文(継体紀)) ⇒ 534年継体の死・[[安閑天皇|安閑]]即位(日本書紀或本(安閑紀))</ref>
* 漢~唐の[[正史]]によると、漢代から倭とは代々使者を送ったり迎えたりしているのに、『日本書紀』、『[[古事記]]』には[[遣唐使]]以前に使節を送った記録も、迎えた記録も無い。また、倭は長い交流を通じて隋・唐の社会制度・文化や外交儀礼に詳しいはずなのに、初期の遣隋使派遣では、ヤマト王権は外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使したとされる(第1回遣隋使派遣は『日本書紀』に記載がなく『隋書』にあるのみ、また『日本書紀』では遣隋使のことが「[[遣唐使]]」となっている)。更に遣隋使・遣唐使とこれに随伴した留学生達によって、畿内ヤマトに唐の社会制度・文化の多くが初めて直接伝えられたとされていることから、遣隋使・遣唐使以前は畿内ヤマトには隋・唐の社会制度・文化は殆ど伝わっておらず、倭と畿内ヤマトとは明らかに別物である。遣隋使・遣唐使が畿内ヤマトと隋・唐の初の直接交流である。<ref> 『日本書紀』には遣唐使の記録はあっても遣隋使の記録がない。『隋書』にある600年の第一回遣隋使は『日本書紀』に全く記載がなく、第二回の607年の遣隋使も隋ではなく大唐国に派遣したと記している。唐は618年に建国しており607年は隋代であり、唐に行ったことが事実とすると618年以後のこととなる。『日本書紀』の記す第二回遣隋使は実は唐代の619年であり、『日本書紀』では年代を12年繰り上げた為に隋代を大唐国と書いてしまったと考えられる。607年の遣隋使は九州王朝の派遣したもので、隋の[[従八品]][[文林郎]]の[[裴世清]]が俀国に来たのであり、619年にも唐の家臣となり降格した後の[[正九品]][[鴻臚寺]]の[[掌客]]の裴世清が[[小野妹子]]と供に来たと考え考えれば辻褄が合う。[[多元王朝説#12年後差説|約12年の誤差]]</ref>
* 福岡県八女郡、筑紫国磐井の墳墓とされる岩戸山古墳(前方後円墳)には、[[衙頭]](がとう)と呼ばれる祭政を行う場所や[[解部]](ときべ)と呼ばれる[[裁判官]]の石像がある。これは、九州に[[律令]]があったことを示すもので九州に王朝があったことを示唆するものであると考えられる。
* 倭は朝鮮半島で数世紀に渡って継続的な戦闘を続け、「白村江の戦い」では約1千隻の軍船・数万の軍勢を派遣し唐の水軍と大海戦を行うなど、高い航海術・渡海能力を有していたと考えられるが、この倭国軍に比べ、ヤマト王権の派遣した遣唐使船の航海の成功率は50%程度しかなく、航海技術が極めて稚拙である。これも王朝が交代し航海技術が断絶した為である。
* 古代わが国では「[[曲水の宴]]」は宮廷行事であり主催者は天皇であった。畿内地方で「曲水の宴」が開催されはたのは[[8世紀]]以降であるが、福岡県[[久留米市]]には、8世紀以前の「曲水の宴」のものだと考えられることができる遺構がある。
* 福岡県久留米市の[[高良山]]にある[[高良大社]]は、以下のことからここに王朝があったことを窺がわせるであろう。
* 高良大社が[[三種の神器]]、「[[干珠・満珠]]」の宝珠や[[七支刀]]を所蔵している。
** 高良大社の神職は[[丹波氏|丹波]]・[[物部]]・[[安曇]]部・[[草壁]]・[[百済]]の五姓である。
** [[中世]]末期に成立した高良大社に伝わる高良記によると高良大神の孫の子孫に「皇」(すめろぎ)や「[[連]]」(つら)などと言った称号を持った者がいる<ref group="注">(1)物部日良仁光連、(2)日往子明連、(3)日男玉頼連、(4)神力玉依連、(5)日光玉一連、(6)日往玉尊連、
 
1.日明玉連尚、2.舎男連常、3.日柱男連廣、4.大直連俊、5.大全神連親、6.日天男連信、7.大長津連秀、8.大勝津連平、9.神仲熊連豊、10.神天子連家、11.神道天連良、12.神司宮連法、13.神天仲連就、14.神頭国連軌、15.神斗玉連仍、16.神面土連篤、17.賢名皇連忠、18.意賢皇是連、19.賢天皇兼連、20.公兼皇連岩
=== 磐井の乱 ===
</ref>。ただしこれらの系図は古代のものとしては極めて稚拙であり偽作である可能性が高い。
以下のことから磐井は九州王朝の天皇であったと考えられる。
** 高良大社の祭神[[高良玉垂命]]は、[[武内宿禰]]と言われている。武内宿禰の[[子供]]達の[[名前]]の[[地名]]がこの一帯に散らばっている。羽田([[波多氏|波多]])、[[基肄郡|肥前基肄郡基肄]]([[紀氏|紀]])、[[佐賀郡|肥前佐嘉郡]][https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92840-0007+%E4%BD%90%E8%B3%80%E7%9C%8C%E4%BD%90%E8%B3%80%E5%B8%82%E5%B7%A8%E5%8B%A2%E7%94%BA%E5%A4%A7%E5%AD%97%E9%AB%98%E5%B0%BE/@33.2558453,130.321337,16z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x3541b5ebd938da03:0x2fef74105ef0e74d!8m2!3d33.254053!4d130.3241446?hl=ja 巨勢]([[巨勢氏|巨勢]])、[[肥前国#郡|肥前三根郡葛木]]・[[椎田町#近現代|椎田町葛城村]]([[葛城氏|葛城]])、[[早良郡#古代|曾我]]([[蘇我氏|蘇我]])、[[早良郡#古代|平群]]([[平群氏|平群]])。ただしこれらの地名は畿内により鮮明に残っている。
* 『日本書紀』に『百済本紀』(百済三書の一つ、[[三国史記]]の『百済本紀』とは異なる逸失書)から[[531年]]に「日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」という記述が引用されている。「[[磐井の乱]]」について百済では日本の天皇である磐井一族が滅ぼされたと認識していた。<ref name="iwainoran">以下のように日本書紀と朝鮮側記録等の間には3年のずれがあるので、[[528年]]と記録のある「磐井の敗死」も3年ずらして、531年の「日本天皇・皇太子の同時死亡」のこととするのが妥当である。
* 「[[筑紫葛子|筑紫君葛子]](ちくしのきみ かつし)は父の罪で命をとられることを恐れて、糟屋の[[屯倉]]を献上した。」とあるが、屯倉は、朝廷の直轄地であり、葛子が屯倉を譲ったということは、葛子が朝廷の人物であったということである。ただし、葛子がヤマト王権に仕えていた人間と仮定した場合にはこの矛盾が解消する可能性がある。
* 継体18年([[524年]])百済の太子明、即位(日本書紀([[百済本紀]]))⇒527年百済[[聖明王]]即位(遺事百済王暦)
* 継体22年(528年)磐井滅亡(日本書紀本文) ⇒531年日本天皇太子皇子の死(日本書紀(百済本紀))
* 継体23年([[529年]])[[加羅]][[金官国]]滅亡(日本書紀本文) ⇒532年(三国史記)
* 継体25年([[531年]])継体の死(日本書紀本文(継体紀)) ⇒534年継体の死・[[安閑]]即位(日本書紀或本(安閑紀))</ref>
* 福岡県[[八女郡]]、筑紫国磐井の墳墓とされる[[岩戸山古墳]](前方後円墳)には、[[衙頭]](がとう)と呼ばれる祭政を行う場所や[[解部]](ときべ)と呼ばれる[[裁判官]]の石像がある。これは九州に[[律令]]があったことを示すもので、九州に王朝があった証拠である。
* 古代わが国では「[[曲水の宴]]」は宮廷行事であり主催者は天皇であった。ヤマト王権で「曲水の宴」が開催されはたのは8世紀以降であるが、福岡県[[久留米市]]には、8世紀以前の「曲水の宴」の遺構があり、九州に王権があったことを窺わせる。
以下のことから磐井の乱は九州内の反乱・王朝交代と考えられる。
* 継体とは「体制を引継ぎ維持する」を意味する諡号である。<ref name="keitaijitou">「継体持統」とは「体制(皇室)を引継ぎ、正当な血統を維持する」という意味の四文字熟語</ref>。
* 「二中歴」によれば、九州年号は継体から始まっている。
 
=== 聖徳太子と九州年号 ===
[[ファイル:Umayado Miko.jpg|right|thumb|150px|[[聖徳太子]]?/厩戸王子([[菊池容斎]]・画、[[明治|明治時代]])]]
以下のことから厩戸王子と「日出處天子」は別人であり、「日出處天子」は九州王朝倭国の人物であったとする。<ref group="注" name="showtoku">九州年号に「聖徳」([[629年]])とあることを聖徳太子と結びつけ、伝説の聖徳太子は九州王朝倭国の王の一人であった(聖徳太子の[[太子]]は本来は、仏教に深く帰依した[[大師]]である)とする説もある。しかし、古田武彦はこの説をとらない</ref> で、[[冠位十二階]]、遣隋使派遣、仏教に深く帰依した。厩戸王子はヤマト王権畿内日本の人物で、これといった実績はないと考えられる。
* 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 {{補助漢字フォント|}}國」によれば、{{補助漢字フォント|}}国王の多利思北孤(日出處天子)の国は山島にあり、{{補助漢字フォント|}}国には[[阿蘇山]]があると明記されているので、{{補助漢字フォント|}}国は九州のことであるということにする<ref> group="注">「有阿蘇山 其石無故火起接天者 俗以為異 因行{{JIS2004フォント|}}祭 有如意寶珠 其色青 大如{{JIS2004フォント|}}卵 夜則有光 云魚眼精也」「阿蘇山がある。その石は訳も無く火が起り天に接するもの。習慣が異なり、よって祈祭をおこなう。如意宝珠あり、その色青く大きい{{JIS2004フォント|}}卵のようだ。夜はすなわち光あり、魚の眼精だという」</ref>
* 開皇二十年(600年)の「倭王姓阿毎字多利思北孤」「倭王、姓は阿毎、字は多利思北孤。」は男王であり「王妻號{{JIS2004フォント|}}彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」「王の妻は{{JIS2004フォント|}}彌(キミ)と号す。後宮に女が6~700600 - 700人いる。太子の名を利歌彌多弗利となす。」とあるので、聖徳太子が推古天皇の代わりを務めたことを考慮しなければ{{補助漢字フォント|}}国王自身は'''太子'''でも'''女帝'''([[推古天皇]])でもない。また、当時の{{補助漢字フォント|}}国の王が女性なら、儒教の影響の強い隋では大変珍しいので、隋の使者は見逃さずに必ず記録に留めた蓋然性が非常に高いと考えられる。<ref group="注">毎字多利思北孤(アメ又はアマ・タラシホ(ヒ)コ)は『古事記』、『日本書紀』に見られる呼称と一致し、大王・天君は[[首長]]以外にも用いられた尊称であるとして、『隋書』の「{{補助漢字フォント|}}王姓阿毎字多利思北孤」を厩戸王子を指すとする説もあるが厩戸王子は天皇ではない。新唐書では多利思北孤は[[用明天皇]]のことである。</ref>
* 古事記には [[用明天皇]]記において「厩戸豊聡耳命」という名の記載が1所あるだけで業績に関する記載は無い。ただ、記述が無いことは、書くに及ばない小さな業績が多数ある可能性までもは排除できず、業績そのものが無い証明にはならない。
* 『[[法隆寺金堂釈迦三尊像]]』は「厩戸王子」の像ではない。
** 『日本書紀』で厩戸皇子は推古29年(621年)2月癸巳(5日)に亡くなったとされているが、『[[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘]]』の上宮法皇登遐(とうか)は「癸未年(622年)2月22日」である。
** 『日本書紀』で厩戸の母は「間人皇女」、后は「菟道貝蛸皇女」であるが、『釈迦三尊像光背銘』の上宮法皇の母は「鬼前太后」、后は「干食王后」となっている。
 
=== 評を制定したのは九州倭国 ===
「評」を制定していたのはヤマト王権に先行した九州倭国であるという主張がある。[[#経緯|九州年号]]では大化元年は695年であり、大化の改新の政変により九州倭国に代わり畿内日本が政権を握り「評」に代わり「郡」が使われるようになったと考えることで、郡評論争を巻き起こした事実の背景をより体系的に説明できそうである。
* 『日本書紀』では「大化の改新」時に「[[郡]]」が成立したと記すが、出土した文書([[木簡]]類)により「郡」と言う用語が実際に用いられるのは、[[大宝律令]]が制定された文武天皇5年([[701年]])以降であり、文武天皇4年([[700年]])以前は「[[評]]」を使っていたことが確認されている<ref group="注" name="mokkan">[[名古屋市博物館]]の常設展示の藤原宮出土木簡には「庚子年(700年)四月/[[若狭国]]小丹生'''評'''/木ツ里秦人申二斗」・「[[尾治国]]知多'''郡'''/大宝二年(702年)」などの記載がある [http://mokuren.nabunken.jp/scripts/strieve.exe?USER=MOKDB&PW=MOKDB 奈良文化財研究所 木簡データベース]</ref>。
* 斉明7年(661年)6月と天智7年(688年)に二度も逝去記事がある[[伊勢王]]に関する次の記事は34年前の事であり、640年代に九州倭国は[[評]]制度を樹立改革していたと考えられる可能性がある。
** 朱鳥元年(686年)9月の天武天皇の葬儀 → 白雉3年(652年)の孝徳天皇の葬儀<ref group="注">書記には天武天皇には何度も葬儀記事がるが、孝徳天皇には一度も葬儀の記事が無いのはこの記事の入れ替えによると考えられる。また天皇が逝去したので九州年号白雉元年(652年)へ改元したと考えられる。</ref>
** 天武12年(683年)12月天下を巡行し、諸国の境界を分限 → 649年
** 天武13年(684年)10月諸国の境界を定めた → 650年
** 天武14年(685年)10月東国へ向った → 651年
* 『[[伊予三島縁起]]』には「[[孝徳天皇|孝徳]]天王位、番匠初。[[常色]]二戊申、日本国御[[巡礼]]給。」(孝徳天皇のとき、番匠(大規模な土木工事)がはじまり、九州年号の常色2年[[戊申]]([[648年]])には日本国に御巡礼される。)とある。つまり「孝徳天皇のとき前期[[難波宮]]造営がはじまり、大化4年([[648年]])に天皇が九州倭国から畿内日本国に[[行幸]]し、その途中に伊予に寄った。」とする自然な考えを論理的に否定することは難しい。
 
=== 九州倭国からヤマト王権 ===
[[File:SihaiHuayiZongtu.jpg|thumb|[[16世紀]]の[[中華人民共和国|中国]]で書かれた世界地図。九州が倭、本州が[[日本]]となっている。ただし、[[16世紀]]になってまで倭と日本が別の国だと認識されていたことは考えられないので根拠にはならない。]]
 
==== 神武東征 ====
{{出典の明記|date= 2021年2月5日 (金) 19:50 (UTC)}}
 
古田武彦を始めとする九州王朝説論者の主流派は次のように述べている。([http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jimmuj.html 古田史学の会の公式HP] より)
 
{{quotation|
 大王神武は神話の中の日本(倭)の創始者ではありません。大王神武と久米集団は、弥生後期に倭国から銅鐸国家圏へ攻撃を行いました。尚倭国とは三種の神宝ー鏡・矛・勾玉が祭祀と権力の象徴とする国で、銅鐸国家圏は銅鐸が祭祀と権力の象徴とする国です。神武と同行したのは、海兵隊としての久米の集団のみです。<br/>
 『古事記』によれば、日向(ひなた、糸島)から東に向かい、安芸([[広島県]])と吉備([[岡山県]])で植民し定住しようとしました。しかしそれは失敗し、その[[結果]]、銅鐸国家圏への侵略に切り換えました。<br/>
 そして大阪湾の浪速(なにはや 大阪中之島)を通り、河内湖と呼ばれた湖の端である日下の楯津へ上陸しました。しかし日下での戦いに敗れ、彼らは([[大阪市]])南方の水路を通って、血沼(ちぬ)の海(大阪湾)へ出ました。そこから彼らは紀伊半島を周り、山を越えて熊野から大和に突入しました。<br/>
 彼は東方侵略に賭け、大和侵入に成功した。大和では彼は倭国から神倭(かんやまと)伊波礼毘古命(いはれひこのみこと)と呼ばれた。
 
 それで彼は後世”大王”と呼ばれたり、[[神武天皇]]と呼ばれている。神武天皇とは漢風諡号(かんぷうしごう)といって、古事記・日本書紀編纂時の[[名前]]です。<br/>
 大王神武は実在である。神武東征は弥生後期の大阪湾の地図が根拠を明示しています。
}}
 
* 神武は天皇ではなかったという主張がある。
** 古代において天皇は姓を持たなかったと言われるが、神武の父の名は、「[[ウガヤフキアエズ|鵜葺草葺不合]]」(ウガヤフキアエズ)であり「鵜葺草葺(ウガヤフキ)」という姓を持っていた
** 神武は、鵜葺草葺不合の四男である。
** 天皇につながる神は皆「稲」に関する名を持つが、鵜葺草葺不合命は[[稲穂]]と無関係である。
** 古事記によれば、高千穂の宮で「東に行く」ことを決定したのは、[[兄]]の[[彦五瀬命]]と[[弟]]の神武の2人であり、最初軍を率いていたのは五瀬命である。五瀬命が[[死亡|死んで]]指揮権が神武に移っている。
 
ただしどれもが根拠たり得ない稚拙なものである。
 
* 『[[旧唐書]]』には、倭と日本について『倭国伝』と『日本国伝』の二つの記事が立てられ下記のように記されている。神武が征服した東方の小国「日下」が九州倭国を併合したと考えられる。
** 日の辺りに在るを以て、故に日本を以て名となす。
** 日本は旧・小国、倭の地を併す。
 
==== 欠史八代 ====
九州王朝説の古田武彦は欠史八代は神武天皇以来の近畿分王朝(九州王朝の分家)として実在した、と主張している。
 
=== 倭(九州王朝)から日本(ヤマト王権)へ ===
==== 記録が語る王朝交代 ====
以下のことから九州から王権が移動しヤマト王権が確立したのは7世紀末であると考えられいう主張がある。
* 古代国家成立の要件には、常設の政府(官僚機構)、常設の軍隊、首都(都城)等が挙げられるであろう。しかるにこれらが畿内地方で揃うのは[[持統天皇]]8年([[694年]])以降であり、その一方で九州には奴国や[[太宰府]]などの都城が古代から存在しこれらが揃っていたと考えられる。
* 『魏志倭人伝』の邪馬壹國が北部九州に在ったとする説をとると当然ながらその後、九州からヤマト王権への権力の移動がなければならないが、漢から唐の歴代の正史では倭についての記述は一貫しており同一の国家についてのことと理解される。唐の[[正史]]『[[旧唐書]]』、『[[新唐書]]』の中で7世紀末に国号が「倭」から「日本」に国号が変わっているので、この時期に王朝が交代したと推定される<ref name="kougou"> 古田は、九州王朝の滅亡・ヤマト王権の成立を701年としたため九州王朝が7世紀末に日本の国号を使い始め、ヤマト王権が政権簒奪後も日本の国号を使い続けたとしている。</ref>。
* 『魏志倭人伝』の邪馬壹國が北部九州に在ったとする説をとると当然ながらその後、九州倭国から畿内日本への権力の移動がなければならないが、漢から唐の歴代の正史では倭についての記述は一貫しており同一の国家についてのことと理解される。唐の[[正史]]『旧唐書』、『新唐書』の中で7世紀末に国号が「倭」から「日本」に変わっているので、この時期に王朝が交代したと推定することに大きな蓋然性が見出される。<ref group="注" name="kougou">古田は、九州倭国の滅亡・[[ヤマト王権]]の成立を文武天皇5年([[701年]])としたため九州倭国が7世紀末に日本の国号を使い始め、ヤマト王権が政権簒奪後も日本の国号を使い続けたとしている。</ref>
* 漢文明圏では新たに成立した王朝は自らの権力の正当性を示すための[[歴史書]]「[[正史]]」を編纂するものであるが、『[[日本書紀]]』、『古事記』は[[8世紀]]初頭頃に編纂されているので、ヤマト王権が確立したのは7世紀末であると推定される。
** 『新唐書』の時期に、日本の[[歴史]]が改竄・捏造されたという考えのもとでならば矛盾なく説明できそうである。
* 日本各地の寺社の[[縁起]]や地方の地誌・歴史書等にヤマト王権以前に九州王朝が定めたとも考えられる「[[#九州年号表|九州年号]]」(継体元年([[517年]])~大長九年([[712年]])下記参照)が多数散見される。「九州年号」も8世紀初頭で終わっており、この時期に王朝の交代があったと推定される。
** 万葉集では、8世紀まで大宰府(倭)を日本とは別の国と認識しているという解釈をすることで、記述の混乱に対して矛盾のない説明が可能になるであろう。
* 日本書紀によると[[敏達]]13年([[584年]])にヤマトへ仏教を伝えたのは[[播磨]]にいた[[高句麗]]の還俗僧の[[恵便]]である。ヤマト以前に既に播磨へは仏教が伝来していたということであり、6世紀末播磨はヤマトにとって別の文化圏(=外国)だったということである<ref>百済への仏教伝来は[[沈流王]]元年([[384年]])と記録されている。一方、日本への[[仏教公伝]]は[[6世紀]]半ば頃とされ[[欽明天皇]]代に百済の[[聖王 (百済)|]]によって伝えられたとされる。
:: 八隅知之 吾大王乃 御食国者 日本毛此間毛 同登曾念(やすみしし わがおほきみの をすくには にほんもここも おなじとぞおもふ)八方を統べ治めるわが大君のお治めになる国は、日本もここ(大宰府・倭)も同じだと思う(大宰帥 大伴旅人 万6-956)
しかし倭国と百済は親密な関係にあり、倭国への伝来が百済より200年も後とは考えられない。倭国(九州)への仏教伝来は4世紀末から5世紀初頭の頃とであり、6世紀半ばの伝来は日本(畿内大和)への仏教伝来のことである。</ref>
 
* 天武より前の天皇の墓がない。現在天武より前の天皇陵とされているとこは全て推定でしかない。天武より前の天皇の墓は九州にあったと考えられる。
* 漢文明圏では新たに成立した王朝は自らの権力の正当性を示すため前王朝の[[歴史書]]「[[正史]]」を編纂するものであるが、『[[日本書紀]]』、『古事記』は[[8世紀]]初頭頃に編纂されているので、ヤマト王権が確立したのは7世紀末であると推定される。ただしこれには『[[天皇記]]』や『[[国記]]』などの6世紀に編纂された書物のことが考慮されていないので成り立たない。
* 日本各地の寺社の[[縁起]]や地方の地誌・[[歴史書]]等にヤマト王権以前に九州倭国が定めたということにできる「[[#経緯|九州年号]]」(継体元年([[517年]])-大長九年([[712年]])下記参照)が多数散見される。「九州年号」も8世紀初頭で終わっており、この時期に王朝の交代があったと推定することで矛盾の少ない説明が可能になるであろう。
* 日本書紀によると[[敏達天皇]]13年([[584年]])に畿内へ仏教を伝えたのは[[播磨]]にいた[[高句麗]]の還俗僧の[[恵便]]である。[[584年]]以前に既に播磨へは[[仏教]]が伝来していたということであり、6世紀末播磨は畿内にとって別の[[文化|文化圏]]( = [[外国]])だったということにすることもできる<ref group="注">百済への仏教伝来は[[枕流王]]元年([[384年]])と記録されている。一方、日本への[[仏教公伝]]は[[6世紀]]半ば頃とされ[[欽明天皇]]代に百済の[[聖王 (百済)|聖王]]によって伝えられたとされる。
しかし倭国と百済は親密な関係にあり、倭国への伝来が百済より200年も後とは考えられない。九州倭国への仏教伝来は4世紀末から5世紀初頭の頃であり、6世紀半ばの伝来は畿内日本への仏教伝来のことである。ただし、公的ではない日本国の仏教徒は仏教公伝以前にも[[司馬達等]]などがいるので、以上は日本国への公伝に対する異論の根拠にはならず、単にここで言う倭国のものに過ぎないと断言できる。</ref>。
 
=== 壬申の乱 ===
{{出典の明記|date= 2021年2月5日 (金) 19:50 (UTC)}}<!---2014年11月以前より出典提示要求。脚注形式必要--->
 
==== 壬申の乱の舞台は九州説 ====
672年の[[壬申の乱]]の戦闘があった地域は、九州内であったという主張がある<ref>大矢野栄次『壬申の乱の舞台を歩く 九州王朝説』([[2012年]]12月25日) {{ISBN2| 978-4870354760}}</ref>。
*ただ、この時期に[[平城京]]の[[法隆寺]]も焼失したうえ、後に[[北魏]]の様式に再建されているので、乱が全国的に発生していた可能性もある。
* この乱では、[[大分恵尺]]・[[大分稚臣]]等の九州の豪族が活躍している。また、大海人皇子は九州の豪族である[[宗像氏]]の娘(胸形[[尼子娘]])を妃にしていた。[[東国]][[豪族]]のことは考慮していないため強引ではあるが根拠とする。
* [[近江宮|大津京]]は近江大津([[大津市]])ではなく、肥後大津([[大津町]])にあったと考えることに十分な蓋然性が存している。
** 近江大津付近には京を設置できるような広い土地はないが、肥後大津付近は条坊制の跡と見做せなくはない東西と南北に直交する道等が残る広い平野が存在する。( → [https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E7%94%BA%E5%BD%B9%E5%A0%B4/@32.8735721,130.8693581,14.67z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0x403b4837e257fd0b!8m2!3d32.8789925!4d130.8682823 肥後大津付近])
** [[滋賀県]]の瀬田川に架かる[[瀬田の唐橋]]は長大で、日本書紀の記述のように[[壬申の乱]]で甲を重ねて刀を抜いて突破することは普通に考えれば大変に困難であろう。しかしこれが大津町瀬田付近の[[白川 (熊本県)|白川]]に架かっていたとすると橋は短くなり記述とおりの突破が見かけ上は可能になりそうである。
** 近江大津では大津京への遷都の理由説明が困難であるということにする。肥後大津なら「白村江の戦い」の敗戦による唐軍の侵攻に備えた[[太宰府]]から内陸部の大津京への[[首都]]の[[疎開]]である」と説明がつきそうである<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou82/kai8201.html 古田史学会報 81号 伊倉2 天子宮は誰を祀るか 古川清久]</ref>。
** 大津町の北側の[[菊鹿盆地]]は、[[古代]]には [[茂賀の浦]](しかのうら)と呼ばれた巨大な[[湖]]が存在していたといわれる。 → 淡海
* [[大分県]]には[[竹田市|竹田]]・ [[三重町|三重]]・[[大野町 (大分県)|大野]]・[[犬飼町|犬養]]・[[佐伯市|佐伯]]など壬申の乱に関係する地名が多数存在する。
** 上記が正しい場合には、不破の道とは竹田市付近の街道のことと考えられそうである。 → 不破関
*** 竹田市には西から道が集まっており、日本書紀の記述どおりに攻めてくる[[敵]]の各個撃破が無理なく可能であると考えられる。
* [[ふなんこぐい]]等のような壬申の乱に因む[[風習]]が残るのは、[[佐賀県]][[鹿島市|鹿島]]である。
* [[源氏]]が[[八幡神]]を[[氏神]]とし祀ったことから、八幡神が[[軍神]]とされるようになったといわれるが、源氏が八幡神を軍神として氏神に祀ったのは、壬申の乱の時の宇佐神宮の係わりに由来すると考えることで大きな矛盾は現れない。<ref group="注">[[藤原広嗣の乱]]の時も鎮圧に当った[[大野東人]]は戦いの前に宇佐神宮で[[勝利]]を祈願している。</ref>。
* 上記が正しい場合には、勝敗を決したとされる美濃から来た援軍は畿内日本国が美濃や大和の周辺で招集し九州倭国へ派遣した軍のことであると考えられそうである。
* さらに『日本書紀』に記された立田山や大坂山は九州内の山であり、難波は[[筑後平野]]に在ったと考えられそうである。<ref group="注">7世紀中頃は白村江戦の直前であり、博多湾岸のような敵の侵入を受けやすい所に九州王朝が宮殿を造営するとは考えられないにも拘わらず古田武彦は、博多湾岸にある類似地名(名柄川、豊浜)の存在を根拠に、「難波長柄豊碕宮」を[[福岡市]][[西区 (福岡市)|西区]]の愛宕神社に比定し、『[[皇太神宮儀式帳]]』を根拠にここで九州王朝は評制を樹立したとしている。『古代に真実を求めて』12集([[明石書店]]、[[2009年]](平成21年))『なかった』五号([[ミネルヴァ書房]]、[[2008年]](平成20年)6月)</ref> → 難波
** 『日本書紀』天武8年([[679年]])11月条に「初めて関を[[立田山 (熊本県)|竜田山]]、[[大坂山]]に置く、よりて[[難波]]に[[羅城]]を築く」とある。上町台地の難波宮に羅城(城壁)の痕跡は見つかっていない。
** 以下のことから難波(津)は[[上町台地]]ではなかったと考えても大きな矛盾は生じないであろう。 [http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho107/kai10701.html]
** 上町台地北端・[[道修町]][[高麗橋]]周辺は平安時代に[[渡辺津]]と呼ばれていた。
*** 『日本書紀』には、神武が瀬戸内海を経てたどり着いた所は「浪速国・浪花」と記されている。『古事記』でも「浪速」と記している。王仁の故事を無視するならば、大坂市の難波は元は浪花と呼ばれており、難波は後世に人為的に付けられた名前であるとすることができる。
*** [[仁徳天皇|仁徳]]紀に記された「[[難波の堀江]]」は、人工的に建設されたものとされる<ref group="注">通説では「弥生時代、上町台地の北に長柄砂州が続き、河内湖の水は、[[2021年]]([[令和]]3年)現在の[[新大阪駅]]の北にあった水路から大阪湾に流れていたが、[[古墳時代]]になると淀川上流から運ばれてくる土砂でこの水路が埋まり、出口を失った河内湖の水が溢れ出し洪水が多発、このために上町台地の北端、現在の[[大坂城|大阪城]]の北に堀江を掘削し、溢れた水を大阪湾に流れるようにした。この堀江が後に淀川本流となり、明治の淀川改修以降、現在の大川となった。」としている。</ref> が、上町台地の北端、現在の大阪城の北の水路は自然に形成されたもので、[[弥生時代]]には存在していたことが確認されており、人工的に掘削されたものではない。
*** 上町台は、7世紀頃まで大阪湾と河内湖に挟まれた[[砂洲]]であり狭小で多くの住民の住めるような土地もなく、ヤマト王権の本拠地である大和から遠く離れた僻地であったので、[[仁徳天皇]]が[[難波高津宮]]、[[孝徳天皇]]が[[難波長柄豊碕宮]]等の宮を置けるような場所ではないということにする。
** 長柄豊碕宮までの「難波」とは[[筑後川]]河口([[筑後平野]])付近に在ったと考えられるということにする。
*** [[柳川市]]内には、長柄([https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92832-0034+%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E5%B8%82%E5%8C%97%E9%95%B7%E6%9F%84%E7%94%BA/@33.1647544,130.4077331,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x3541b34a6c7555d5:0x6be3d910869cc45c!8m2!3d33.164636!4d130.409936 北長柄町]・[https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92832-0033+%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E5%B8%82%E5%8D%97%E9%95%B7%E6%9F%84%E7%94%BA/@33.1632128,130.4076536,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x3541b34a920d2a55:0x30cf81ddf2dc8b82!8m2!3d33.1631251!4d130.4096943 南長柄町])という地名が存在し、久留米市内には、[https://www.google.co.jp/maps/place/%E9%AB%98%E6%B4%A5%EF%BC%88%E3%83%90%E3%82%B9%EF%BC%89/@33.248625,130.3804179,13z/data=!4m5!3m4!1s0x3541b16c8206deab:0xe49d731cd775113!8m2!3d33.2510835!4d130.415984?hl=ja 高津] という地名も存在する。更に、[[三潴郡]][[大木町]]には、大隅([https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92830-0403+%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E4%B8%89%E6%BD%B4%E9%83%A1%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E7%94%BA%E5%A4%A7%E8%A7%92/@33.2261424,130.4431631,15z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x3541b1f34a0c2573:0x3a90a9f71e33a618!8m2!3d33.2265751!4d130.445935 大角])という地名も存在する。また、佐賀市には [https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92840-2204+%E4%BD%90%E8%B3%80%E7%9C%8C%E4%BD%90%E8%B3%80%E5%B8%82%E5%B7%9D%E5%89%AF%E7%94%BA%E5%A4%A7%E5%AD%97%E8%A5%BF%E5%8F%A4%E8%B3%80+%E9%B0%A1%E6%B1%9F%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC/@33.2055628,130.3218277,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x3541b545de4acd37:0xe28b493c4e9630ca!8m2!3d33.2055668!4d130.3240364 鰡江](しくつえ・祝津江)という地名が存在し、古代難波にあった宮の名が全て遺存する。
*** [[大阪府]]には、[[神崎川 (大阪府・兵庫県)|神崎川]]・[[大川 (大東市・東大阪市)|大川]]・[https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92569-0853+%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E9%AB%98%E6%A7%BB%E5%B8%82%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E7%94%BA/@34.8237035,135.5876946,16z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x6000e2a5589672bf:0x184e630bbd012828!8m2!3d34.8234579!4d135.5918495 柳川町]・[https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92598-0023+%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E6%B3%89%E4%BD%90%E9%87%8E%E5%B8%82%E5%A4%A7%E6%9C%A8/@34.3471722,135.3482841,13z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x6000cc7d26308991:0xb02736d8dd73af6f!8m2!3d34.3521161!4d135.3719005 大木] など筑後川河口にある地名([[神埼市]]・[[大川市]]・[[柳川市]]・[[大木町]])と同じ地名が存在する。難波の地名の移植に伴い同時に移植されたと考えても特に大きな矛盾は見つからない。
*** 筑後川中流域は、磐井([[武烈天皇]])が都を置いたという想像をすれば、倭国の中心部であったと考えられる。さらに想像を広げれば、[[応神天皇]]、[[仁徳天皇]]、[[欽明天皇]]、[[孝徳天皇]]など歴代の[[天皇]]が都を置いたかもしれない。
*** [[日羅]]は難波で暗殺され小郡の西畔丘に一旦仮埋葬されたとされる。仮埋葬地の小郡は難波から遠くない所であったと考えられるが、[[河内国]]には小郡は存在しない。[[小郡市]]があるのは筑後平野である。ただし小郡の地名は当時からあったわけではない。
*** 「壬申の乱」終息時に「大伴吹負」が「難波小郡」で「難波以西の国司」達から「官鑰驛鈴傳印」つまり「税倉」等の鍵や「官道」使用に必要な「鈴」や「印」などを押収している。「壬申の乱」は20日程度で終息しており、もし難波が上町台地であったなら20日程度で遠く離れた九州等の[[国司]]達に命令を伝えて上町台地へ集めることは不可能であり、その[[目的]]も不明である。しかし、この「難波小郡」が筑後の「小郡」のことなら「難波以西の国」は九州内だけの国司達のこととなり筑後の「小郡」へ集めることが可能であると考えられれば、一応はその目的も敵に協力した国司達の解任との推測が成り立つ。
*** [[古代]]筑後川は海が内陸まで入り込み船で中流域まで遡上できたと考えられている。
*** 古代難波には[[八十島]]といわれるほど、島が多くあったとされるが、河内湖は上町台地に遮られており、島が形成される余地は客観的に見て少なかったと言わざるを得ない。一方、筑後河口は巨大な[[三角州]]であり、陸化の過程で数多くの[[中州]]が形成され、有明海は潮の干満の差の大きな海であることから潮が引いた状態では更に多くの州が出現するのは事実である。
 
==== 壬申の乱は、易姓革命 ====
以下のことから壬申の乱により、王朝交代([[易姓革命]])があったと考えられる<ref>[[斎藤忠]]『倭国と日本古代史の謎 』(学研M文庫、 [[2006年]]6月1日) {{ISBN2| 978-4059011842}}</ref>。
* 『古事記』や『日本書紀』には、同父同母の[[天智天皇]]が「[[兄]]」で[[天武天皇]]が「[[弟]]」と書かれているが、天智天皇は天智天皇10年([[671年]])に46歳で[[崩御]]し、天武天皇は天武天皇15年/[[朱鳥]]元年([[686年]])に65歳で崩御しているので天武天皇のほうが4歳天智天皇よりも年上である。また天武天皇は天智天皇の[[娘]]を4人も妃にしているので、天武天皇と天智天皇が[[兄弟]]であることはない。
* 天武天皇は壬申の乱のおりに、自分を[[百姓]]([[侠客]])上がりの漢の高祖[[劉邦]]になぞらえて劉邦と同じ赤い旗を使用しているが、身内同士の争では例えとして合っていない。
* 「天智天皇」は、([[殷]])最後の暴君とされる([[紂王]])の愛した「[[天智玉]]」に由来し、「天武天皇」は、「天は武王を立てて悪しき王紂王を滅ぼした」に由来する。「天智天皇」・「天武天皇」の諡号は、殷王朝から[[周]]王朝への易姓革命を意識して付けられたものである([[森鷗外]]『帝謚考』)。
<div style="width:35%;float:right;border:1px dashed blue;background:#f9f9f9;padding:5px 10px;margin:1em">
〈史書の国号改称記事〉
; 『舊唐書』卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 倭國 日本國
: 「日本國者倭國之別種也 也以其國在日邊故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本 或云 日本舊小國併倭國之地」
; 『唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本
: 「惡倭名更號日本 使者自言 國近日所出以為名 或云 日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉」</div>
* 『旧唐書』には、倭ないし日本について『倭国伝』と『日本国伝』の二つの記事が立てられている。これは九州倭国と畿内日本とは別の国であり、九州が畿内により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたからである<ref group="注" name="kougou" /><ref group="注" name="tousyo">唐代には[[科挙]]に合格し唐の高官となった[[阿倍仲麻呂]]のように、[[遣唐使]]として多くの日本人が唐に渡っており、また[[白村江の戦]]でも多くの日本人が捕虜として唐に連行されている。これらのことからも、唐代には日本についての情報は豊富であり、[[旧唐書]]や[[新唐書]]の日本についての情報には事実を反映したものがあると考えられる。旧唐書や新唐書で日本國と倭國が別の國であるように記述されているのは、当時の日本が、漢や魏、南朝に臣従していた過去を否定するために、かつて册封をうけ臣従していた倭國と日本國は別であるとしたものとする解釈がある。</ref>。つまり、倭(九州)と日本(畿内)とは別の国であり、九州倭国が畿内日本により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたと考えられる<ref group="注">続けて「長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物([[長安 (元号)|長安]]3年([[703年]])、その国の大臣の朝臣真人が朝貢して来た)」とあることから、九州倭国から畿内日本への政権交代を唐に伝え、唐に日本を承認させたのはこの朝臣真人だと考えられる。</ref>。
* [[皇室|天皇家]]の最も重要な祭祀である[[大嘗祭]]は、天武天皇2年([[673年]])まで行われていない。それまで大和朝廷に政権がなかったからである。
* 天武天皇2年(673年)8月条に、「詔[[耽羅]]使人曰。天皇新平天下、初之即位。由是唯除賀使、以外不召。」とあり「詔で耽羅国の使人に曰く。天皇が新たに天下を平定し、初めて即位する。ゆえに祝賀使は受け入れるが、それ以外は受け入れない。」と宣言している。
* 漢文明圏では、新しく興った王朝が滅んだ前王朝の歴史を編纂するのが通例であるが、天武が歴史編纂を命じたのは天武天皇10年([[681年]])である。
* 日本書紀によると天武は、[[三種の神器]]の一つである[[草薙剣]]に祟られているので、天武は、本来正当な後継者ではなかったと考えられる。
 
==== 8世紀のヤマト王権 ====
[[8世紀]]は異常に多くの反乱やクーデターが発生しており、ヤマト王権は政権が安定していない。
* [[神亀]]6年([[729年]])[[長屋王#長屋王の変|長屋王の変]]([[長屋王]]を[[藤原氏]]が[[暗殺]]した[[事件]])
* [[天平]]12年([[740年]])[[藤原広嗣の乱]]([[藤原四兄弟]]が[[天然痘]]の流行によって全滅。[[鈴鹿王]]、[[橘諸兄]]が台頭し、失脚した藤原広嗣は大宰府において反乱を起し討伐された。)
* [[天平勝宝]]9歳([[757年]])[[橘奈良麻呂の乱]](孝謙天皇が藤原仲麻呂を利用して橘諸兄の子[[橘奈良麻呂|奈良麻呂]]等443人を粛清。)
* [[天平宝字]]8年([[764年]])[[藤原仲麻呂の乱]](孝謙上皇・[[道鏡]]が邪魔になった藤原仲麻呂を粛清しようとした。仲麻呂は軍事力をもって対抗しようとしたが失敗。)
* 神護景雲3年([[769年]])[[宇佐八幡宮神託事件]](称徳天皇(孝謙天皇)は宇佐八幡宮の託宣により道鏡に皇位を継がせようとしたが、[[和気清麻呂]]の妨害で失敗。)
* 神護景雲4年(770年)称徳天皇暗殺により天武朝が断絶、藤原氏は天智天皇の末裔(光仁天皇)を天皇に擁立した。
* [[天応 (日本)|天応]]元年([[781年]])[[氷上川継の乱]](天武天皇の[[続柄#曽孫(曾孫)|曾孫]]が[[計画]]したクーデタ未遂事件。)
 
==== 九州倭国の抵抗 ====
九州倭国が存在していたとの仮説が正しい場合には、九州倭国の抵抗が[[723年]]頃まで続いていたと推測されるべきかもしれない。
 
* 九州年号は大長([[704年]] - [[712年]])まで続いている。
==== 記録の消滅 ====
* [[続日本紀]]に下記のような記述がある。
次のことから、記紀の編纂時にヤマト王権以前の都合の悪い記録を意図的に消しさった(徹底した[[焚書]]があった)と考えられる。
** [[養老]]元年([[717年]])11月17日 亡命山沢。挟蔵兵器。百日不首。復罪如初(武器を持って山野に逃亡している者は100日以内に自首しないと恩赦を与えない)
* [[倭奴国王印|漢委奴国王印]]や[[親魏倭王印]]等の[[金印]]は倭が文字を理解したから皇帝から賜ったのであり、また倭も手ぶらで漢や魏に[[朝貢]]したのではなく[[上表文]]を携えて行っていることからも、倭では既に1世紀には文字の使用が一部では始まっていたことが推定できる。従って記紀の編纂時には古墳時代や飛鳥時代の多くの外交文書や歴史書等の資料が存在していたはずであるが、現在そのような物は一つも存在しない<ref name="kikihensan">「畿内では九州より遅れて文字の使用が開始されたため、古い記録が残っておらず記紀の編纂に当たっては九州王朝の記録が多く参考にされた」とする意見がある。</ref>。「正倉院文書」の日付の最も古いものは、[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])のものである。
** 養老7年([[723年]])4月8日 大宰府言。日向。大隅。薩摩三国士卒。征討隼賊。頻遭軍役(大宰府の報告によれば、日向・大隅・薩摩の3カ国の士卒は、[[隼人の反乱]]軍征討に頻繁に軍役に狩りだされている)
* 『日本書紀』冒頭の[[神代]]紀には「一書に曰く」という表現が数多くあり、参考にした書物の存在を示している。
** 養老7年(723年)5月17日 大隅・薩摩二国隼人等六百廿四人朝貢(大隅・薩摩の2カ国の隼人ら624人が朝貢してきた)
* 『続日本紀』和銅元年正月(708年) の詔に「亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。(禁書を隠し持って山野に逃亡している者は、100日以内に自首しなければ恩赦を与えない。)」とありこの時期にはヤマト王権の「正規の[[イデオロギー]](日本書紀)」と相反する書物が残っていたことを示している。
* 持統天皇5年([[691年]])8月13日条に、「十八氏に詔して其の祖等の[[墓記]]を上進らしむ」とある(「墓記」とは氏族の発祥・由来・顕彰事項を記した氏族の史書)。日本書紀の記述に合わせて各墓記を改竄したと考えられる。
* 『隋書』に「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」「邪靡堆(ヤマたゐ)に首都をおく、(この邪靡堆は)すなわち『魏志』の言う所の邪馬臺である。」とあり、7世紀までは邪馬壹国の流れを汲む王朝が続いていたと考えられるが、8世紀初めに編纂された「日本書紀」や「古事記」には邪馬壹国や卑弥呼について記述が無い。
* 古事記が4ヶ月で書かれたのに比べて、日本書紀は企画から完成まで数十年と異常に時間が掛かっている。また、九州と近畿・東海には、同じ地名や同じ名前の神社等が多数存在する。数十年掛けて日本書紀に合うように近畿・東海へ遺跡・遺物・伝承・住民等を移植したと推測される<ref>九州と近畿では地名の名付け方が一致している。十一組の似た地名を取り出す事が出来る。しかも位置や地形までが一致している。例えば、金印の出た志賀島の志賀と、近畿の滋賀は、どちらも音が『シガ』で、笠置山、三笠山の北にあり、水の近くにある。( [[鏡味完二]]『日本の地名』(角川書店)昭和39年より)
 
==== 防人 ====
[[安本美典]]はこれを発展させ、北の笠置山から始まって、時計の針の方向と逆に一周すれば、北九州・畿内二十四個の地名は、発音がほとんど一致していると指摘している。(ただし、安本美典は邪馬台国東遷説である)
[[防人]]の配置は、九州倭国制圧のために[[東国]]の[[蝦夷]]を利用したヤマト王権による「夷を持って夷を制する」政策であったと考えられるということにする。
:北九州:笠置山→春日→御笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→小田→三輪→雲堤→筑前高田→長谷山→加美(上)→朝倉→久留米→三潴→香山(高山)→鷹取山→天瀬→玖珠→鳥屋山→上山田→山田市→田原→笠置山
:畿内:笠置(笠置山)→春日→三笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯→大和高田→長谷山→賀美(上)→朝倉→久米→水間→天の香山(高山)→高取山→天ケ瀬→国樔→鳥見山→上山田→山田→田原→笠置山
古事記は第40代天皇の天武の序文があり、天武の勅撰とも考えられ712年には献上されたとされるのに、第33代天皇の推古でましか記されていない。日本書紀の第34代天皇舒明~第41代天皇持統期は、特に改竄が激しいと考えられる。</ref>
 
=== 宰府(倭京) ===
[[ファイル:Ruin the Tofuro Up200607030320.JPG|right|thumb|256px|国指定特別史跡、大宰府政庁跡(国の特別史跡)]]
以下のことから[[大宰府|太宰府]]は、九州王朝倭国の首都(倭京)であったと考えられことで多くの文献上の齟齬を解消できる。<ref group="注">[[内倉武久]]著『太宰府は日本の首都だった』ミネルヴァ書房 ([[2000年]](平成12年)7月)</ref>
 
==== 名称 ====
* 「宰」の本来の意味は[[中国の宰相|宰相]]([[総理大臣]])であり、「宰府」とは「[[政治]]を行う所」つまり「首都」という[[意味]]取れ解釈すこともできなくはない。[[宋 (南朝)|宋]]に朝貢していた倭王武は皇帝の最高位の臣(太宰)を自称していた<ref group="注">倭王武の上表文に「竊自假開府義同三司 其餘咸假授 以勸忠節」「ひそかに、みずから開府義同三司を仮に与え、その余はみな仮に授けて、もって忠節を勧める」とあり、宋代には[[三司]]が([[三公]]も含めて)最高クラスの[[官位]]になっていることから</ref>。
* 古代において大宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれていたが、「遠の朝廷」とは「遠くにある首都」という意味であり、遠くとは距離的に遠いだけでなく時間的に遠い、昔の首都という[[意味]]である<ref group="注">大槻文彦『大言海』「(一)京都ヨリ遠ク隔リテ、朝政ヲ行フ所。筑紫ノ太宰府、陸奥ノ鎮守府、諸国ノ國衙ナドナリ。コレヲ、ひなのみやこ(都)トモ云フ。(二)専ラ、太宰府ノ稱。(三)又、三韓ヲモ稱ス。」『日本国語大辞典』「(1)都から遠く離れた地にある官府。陸奥の鎮守府や諸国の国衙(こくが)などがこれにあたる。(2)特に、太宰府のこと。 (3)新羅(しらぎ)に置かれた官家」</ref><ref group="注">[[柿本人麻呂|柿本朝臣人麻呂]]筑紫国時海路作歌「大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念(細い水路を蟻が通り抜けるようにして大王の昔の首都(太宰府)に通う時、門のように並んだ二つの島(志賀島、能古島)を見ると、いよいよ繁栄していた神代の時代のことがしのばれる)」</ref>
* 宰府には「[[紫宸殿]]」「[[内裏]]」「[[朱雀]]門」といった地名[[小字|字]](あざ)が遺存し、宰府に「天子の居処」のあったことをうかがわせる<ref group="注"> [[吉田東伍]]『[[大日本地名辞書]]』、『[[筑前続風土記]]』によると、[[紫宸殿]][[内裏]]の名称は[[安徳天皇]]に由来するとされるが、『[[平家物語]]』『[[源平盛衰記]]』などの[[記録]]では庁舎が戦火で消失していたため平家は大宰府政庁に宮を置いていないので、これは[[地名]]の由来を説明するための後代の創作であると考えられる。</ref>
* 宰府政庁跡は現在、2022年でも都府楼跡と呼ばれているが石碑には「府楼跡あり本来は都督府跡のこで都督—評督制の名残と考えら呼ばる。ていた<ref>『日本書紀』[[天智天皇]]6年([[667]])条に「筑紫都督府」とある。</ref>。都督府とは中国の[[官職]]である[[都督]]に任ぜられた者が居る場所である。7世紀までは全国各地に[[評督]]が置かれていたことが判明しているが、評督とは都督の支配管理下にいる者である。
 
==== 記録の空白 ====
* 『[[日本書紀]]』などのヤマト王権の史書に宰府を何時設置したか記録がない。また[[都城]]本体の建設の記録もない。
* 古代防衛施設遺跡の配置は、北九州に集中しており、守るべき中心が[[畿内]]なかんずく特に[[大和国|大和]]ではなく、宰府であった事は明らかである([[水城]]や所在の明瞭な[[朝鮮式古代山城]]は、北九州に多い。またヤマト王権に建設築城の記録が無い古代山城「[[神籠石]](こうごいし)式山城」が北九州から[[瀬戸内]]沿岸に存在するが、神籠石式山城の大半も北九州に集中している)。
* [[魏志倭人伝]]によれば、九州には女王国とともに[[伊都国]]があり、女王国と大陸との貿易中継点として[[一大率]]が置かれ、「京都([[魏 (三国)|魏]])・[[帯方郡]]・韓諸国への使者、および帯方郡より倭国への使者を取り調べ、その文書・賜物を錯りなく女王に伝送する機能も果たした」ていたとされる。伊都国の地域では大陸との交易が盛んであったことを示す出土品が見つかっており、また帯方郡以前の紀元前1世紀の王墓も見つかっている。
*また一大率は、現在の福岡県西部(糸島)に常駐していたとされ、「女王国以北の周辺諸国の検察を行い諸国に畏憚されたとされている」<ref>{{コトバンク|一大率}}。</ref>。女王国が相当に広い範囲を治めることができたにも拘らず滅びたとすれば、交易先の[[帯方郡]]が5世紀頃[[百済]]に滅ぼされたため、戦馬などが得られなくなって大和国に制圧されたということも考えうる(大和朝廷が[[豊国]]を[[豊前国]]と[[豊後国]]に分割した理由も、良馬がおらず遠距離移動が困難になったためである可能性がある)。
*また、一大率の「率」が大陸の用字であること、のちの豊後国の初代国司[[陽侯真身]]が漢語の専門家であることを考えると、律令制以前には、[[豊国]](大分県)に至る地域の言語にも魏(帯方郡)の影響が強かったことが考えられる。
 
==== 都城 ====
'''===== 日本最古の都市である''' =====
* 下記のことから大宰府は、ヤマト王権最古の[[条坊制]][[都城]]である[[藤原京]](持統天皇8年([[694年]]))より古い、日本最古の本格的な計画都市であった可能性が高いと考えられる。
** 条坊の建設は単なる区画化した都市計画事業に過ぎず、[[城砦]][[城壁]]を建設するより遥かに簡単である。また何も無い所は攻撃の対象とならず防衛する必要もない。そこに重要な施設が存在していたからこそ、そこを防衛する設備が必要だったのである。『日本書紀』の記述が正しいとして、常識的に考えれば、多くの資材を投入して防衛のための付属施設である[[大野城 (筑前国)|大野城]]・[[水城]]等が建設築城されたとされる天智天皇3年([[664年]]には、既に本体である都城は存在し、資材を投入するに足りる発展を遂げていたことになる。
** 7世紀中頃に創建された[[観世音寺]]の遺構が宰府の条坊と正確に一致している。寺社に合わせて条坊が建設されることはな、寺社が条坊に合わせて建設されたと考えられることから、宰府の条坊は観世音寺が創建された7世紀中頃には存在していたことになる。
** [[竈門神社]]の社伝では、[[天智天皇]]の代に大宰府が現在地に遷された際、[[鬼門]](東北)に位置する[[宝満山]]に大宰府鎮護のため[[八百万の神々]]を祀ったのが竈門神社の始まりとされる。つまり大宰府は天智天皇の代(天智天皇7年([[668年]]) - 弘文天皇元年/天武天皇元年([[672年]]))にはあったことになる。
** [[新羅]]が西暦[[250年]] - [[300年]]頃には金城を整備し、高句麗も[[427年]]に都を[[平壌]]に遷している。更に百済は[[538年]]に [[泗沘]]都城を建設している。[[宋 (南朝)|宋]]の皇帝から[[安東大将軍]]に任命され、[[隋]]・[[唐]]朝時代には天子を自称した倭王が、7世紀末まで都城を建設しなかったとは考えられない。また博多では日本最古の計画都市(奴国)が発掘されている。
** 九州年号に倭京元年([[618年]])とあることから、この年に建設されたと考えられる。
[[ファイル:Dazaifu.gif|right|thumb|300px|太宰府条坊復元図]]
'''唐の首都(長安)をモデルとした都市である'''
: 都市の区画割が明らかに[[唐]]の[[長安]]を模した条坊制である(政庁の位置が創建当時から移動していないことから「都市プランは政庁創建当初からあった」と考えられる。ヤマト王権でこのように北に[[政庁]]を配置した条坊制の都は、[[平城京]]([[710年]])以降であり、これより46年~92年早い。またヤマト王権の都にはない都城周辺の城壁があったとも考えられている)。
'''日本最古の風水都市である'''
: [[竈門神社]]の縁起にあるように「[[四神相応]]の地」といわれ、首都としての立地条件を備えており、また、これは水城等の建設された664年や太宰府が建設された618年には確定していたから、ヤマト王権唯一の日本式[[風水]]([[陰陽道]])都市である[[平安京]]([[794年]])よりも130年~176年以上も早い。
 
===== 唐の首都(長安)をモデルとした都市 =====
==== 『日本書紀』『続日本紀』『魏志倭人伝』の記録 ====
* 都市の区画割が明らかに[[唐]]の[[長安]]を模した条坊制である(政庁の位置が創建当時から移動していないことから「都市プランは政庁創建当初からあった」と考えられる)。
* [[711年]]~[[800年]]の[[蓄銭叙位令]]などが示すように畿内大和は8世紀まで通貨経済は皆無であったが、『[[続日本紀]](しょくにほんぎ)』[[769年]]([[神護景雲]]3年)10月の記事で太宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也。」「この府は人の行き来や交易が盛んで、日本で一番の都会である。」と報告しているように太宰府は国際交易都市であり、役人程度しか住まなかったという藤原京や平城京などのヤマト王権の首都を凌ぎ、古代日本で最も繁栄していた都市であった。
* ヤマト王権でこのように北に[[政庁]]を配置した条坊制の都は、[[平城京]]([[710年]])以降であり、これより46年 - 92年早い。
* 『[[魏志倭人伝]]』によると3世紀の奴国(博多)でさえ2万戸(10万人以上)の人口があり藤原京や平城京より遥かに人口が多かった。また畿内大和は8世紀まで通貨経済は皆無であったが「國國有市、交易有無、使大倭監之。」「国々には市場があり、交易の有無を大倭(倭人で位の高い者)に監視させている。」とあり倭では交易が盛んであったことが窺える。
* ヤマト王権の都にはない都城周辺の城壁があったと考えられている。
* 『日本書紀』「[[壬申の乱]](672年)」の記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内大和には未だ[[京]]と呼べるような都市は無く([[飛鳥京跡|飛鳥宮]]等は宮殿のみで市街地は持たない)。これは当時日本に存在していた唯一の都市である'''太宰府'''のことと考えられる。
 
==== 『日本書紀』『続日本紀』『魏志倭人伝』『万葉集』等の記録 ====
* 和銅4年([[711年]]) - 延暦19年([[800年]])の[[蓄銭叙位令]]などが示すように畿内地方は8世紀まで通貨経済は皆無であったが、『[[続日本紀]]』[[769年]]([[神護景雲]]3年)10月の記事で大宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也。 この府は人の行き来や交易が盛んで、日本で一番の都会である。」と報告しているように大宰府は国際交易都市であり、役人程度しか住まなかったという藤原京や平城京などのヤマト王権の首都を凌ぎ、古代日本で最も繁栄していた[[都市]]であった。
* 『[[魏志倭人伝]]』によると3世紀の奴国(博多)でさえ2万戸(10万人以上)の[[人口]]があり[[藤原京]]や[[平城京]]より遥かに人口が多かった。また畿内地方は[[8世紀]]まで通貨経済は皆無であったが「國國有市、交易有無、使大倭監之。 国々には市場があり、交易の有無を大倭(倭人で位の高い者)に監視させている。」とあり倭では交易が盛んであったことが窺える。
* 「[[新唐書]]・日本伝」に、「其の王の姓は阿毎氏。自ら言う、初めの主は天御中主と号し、・・・筑紫城に居す。」とあり、 筑紫城 = 大宰府(都府楼)である。
* 『日本書紀』[[壬申の乱]](672年)の記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内地方には未だ[[京]]と呼べるような都市は無く([[飛鳥京跡|飛鳥宮]]等は宮殿のみで市街地は持たない)。これは当時日本に存在していた唯一の都市である'''大宰府'''のことと考えられる。
* 『万葉集』に大宰小弐[[小野老]][[朝臣]]が[[天平]]元年([[729年]])大宰府に着任した時、饗宴で「奈良の都」を偲んで詠ったとされる次の歌があるが、この歌は大宰府の繁栄を詠ったものであり、大宰府の繁栄を示すものである「青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有 あをによし ねいらのみやこは さくはなの にほふがごとく いまさかりなり 万3-238」
 
==== 測定調査・発掘 ====
* [[大宰府#発掘・調査|発掘・調査通説]]では、約300年にも亘って当初の計画に基づき建設され続けたことになるが、単なる区画整理事業に過ぎず月から数年で可能な条坊の建設に何故300年も要したのか?」「300年にも亘って[[計画]]を維持する事が可能か?」・「実施した者の正体は何か?」・「[[目的]]は何か?」などの疑問や矛盾が発生する。
* 現在{{いつ|date= 2021年2月5日 (金) 19:50 (UTC)}}の太宰府の年代測定は、[[年輪年代測定]]や[[放射性炭素年代測定]]等によるものではなく科学的根拠が無い。水城の建設等築城は、理科学的測定によれば下部は西暦240年、中部は西暦430年、上部は西暦660年で、水城の排水口の木部も西暦430年であったので『日本書紀』の記述等より90年以上も古くなり、宰府本体も古くなる可能性がある。[[鴻臚館]]の[[便所]]からは[[トイレットペーパー]]代わりに使われた西暦430年の木片も見つかっている。
* [[学習院大学]]年代測定室の[[放射性炭素年代測定]]によれば、[[1968年]](昭和43年)に大宰府遺跡で[[竹内理三]]教授等が発見した焼土層は1600年ほど前の物である。
 
=== 防人官僚機構 ===
7世紀末に突如として畿内地方に出現した[[官僚]]集団は、九州の大宰府(倭京)から連れて来られたものである。ヤマト王権は九州倭国の官僚機構を引き継ぐことにより、政権に必要な人材を確保することができたと考えられる。
* 『日本書紀』では、664年以降に[[防人]](さきもり)が置かれたとされているが、『萬葉集』には8世紀以前の防人の歌は無いので、防人が置かれたのは九州王朝が滅亡した7世紀末頃と考えられる。また当初、防人は[[東国]]から徴発されたが、(ヤマト王権の体制が固まった)[[757年]]以降は九州からのみの徴用となっており、これは防人の当初の目的が外敵に対する防衛ではなく九州制圧にあった為と考えられる。
* [[養老律令]]によれば9,000人以上の職員が宮殿や官衙(平城宮)で勤務していたとされるが、飛鳥京には9,000人もの職員やその家族を収容できるような宮殿も官衙も無い。
* ヤマト王権は持統天皇8年([[694年]])に行政が常駐する都(藤原京)を建設し、[[文武天皇]]5年([[701年]])に大宝律令を制定して官僚組織を整備しているが、7世紀まで日本(畿内)には[[文字]]が無かったとされている。
* 奈良時代の下級官僚は薄給であり誤字等に対する罰金制度等があり、妻を質入れするほど困窮する者もあったと記録されている。知識階級でありエリートであるはずの下級官僚に対するヤマト王権の扱いは極めて劣悪である。
* 下記のとおり『続日本紀』[[神護景雲]]3年([[769年]])10月[[甲辰]]の記事にあるように8世紀になっても大宰府では学問で身を立てようと志す者が多かった。
: 大宰府言 此府人物殷繁 天下之一都会也 子弟之徒 学者稍衆 而府庫但蓄[[五経]] 未有[[三史]]正本 渉猟之人 其道不広 伏乞 列代諸史 各給一本 伝習管内 以興学業 詔賜[[史記]] [[漢書]] [[後漢書]] [[三国志]] [[晋書]]各一部
: 大宰府の役人が「この府は人の行き来や交易が盛んで日本で一番大きい都会ですが、府庫には五経しかなく三史がないので、学生や学者が、本が読みたくても本が読めません。伏してお願いします。学業のために列代の諸史を各1冊下さい。」と言上してきたので、天皇の命令で史記、漢書、後漢書、三国志、晋書各一部を賜った。
 
=== 通貨貨幣経済 ===
次のことから、7世紀以前に[[無文銀銭]]や[[富本銭]]などの貨幣が発行されこれらの貨幣が流通していたのは九州であり、8世紀以後、ヤマト王権は九州の富本銭等を参考にして和開同珎([[和同開珎]]等の[[貨幣]]を発行したと考えられる。[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou32/furuta32.html 古田史学会報「二つの確証について」]
* [[西日本]]を中心に[[弥生時代]][[遺跡]]から秦や前漢の通貨である[[半両銭]]、前漢から隋の通貨である[[五銖銭]]、新の通貨である[[貨泉]]等が多数出土している。
* 魏志倭人伝に「乘船南北市糴(船に乗って南北に出かけて米の買い付けを行う)」「國國有市、交易有無、使大倭監之(町々には市場があり、交易の有無を位の高い者に監視させている)」とあり倭は交易が盛んであったと記されている。
* 『続日本紀』[[769年]]の記事で宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也(この府は人の行き来や交易が盛んで、日本一の都会である)」と報告しているように北部九州では[[8世紀]]既に[[経済|経済活動]]が活発であった。
* 『続日本紀』等の記事やその銭文が示すとおり、ヤマト王権が発行した最初の[[貨幣]]は和(708(慶雲5年/和銅元年([[708]]))である。しかし、古代日本には和珎より以前に無文銀銭や富本銭(683(天武天皇12年([[683]]))などの貨幣が存在している。
* 和珎等の銅銭でさえ周防国([[山口県]][[山口市]]鋳銭司・[[下関市]]長府安養寺町)等の西日本でその多くが鋳造されていた。
* [[和同開珎]]の私鋳銭が蔓延した716年には、朝廷は大宰府に対して材料取引の取り締まりを命じている<ref>[https://museum.city.fukuoka.jp/sp/exhibition/520/ 古代のお金] - [[福岡市博物館]]。</ref>。
* [[蓄銭叙位令]](711年~800年)などが示すように畿内大和では8世紀になっても通貨経済は未発達であった。
* 九州には古代から[[博多港]]・[[坊津]]・[[八代]]港などがあったが、畿内地方には、外洋航海ができるような大型商船が着岸できる[[貿易港]]は、[[平清盛]]が[[12世紀]]に[[大輪田泊]]([[神戸港]])を整備するまで無かった。
* [[蓄銭叙位令]](和銅4年([[711年]]) - 延暦19年([[800年]]))などが示すように[[近畿地方|畿内地方]]では8世紀になっても通貨経済は未発達であった。畿内地方で通貨経済が発展するのは、12世紀に平清盛によって多量の[[宋銭]]が輸入されてからである。
 
=== 九州万葉集 ===
『[[万葉集]]』に、九州・山陰山陽・四国の人の歌が無いのは、[[皇権簒奪]]の事実を隠すためであり、また解釈が皇国史観で歪曲されているからである<ref>『古代史の十字路 万葉批判』(東洋書林)[[2001年]](平成13年)4月20日</ref>。代表的[[歌人]]でありながら正体不明な「[[柿本人麻呂]]」や「[[額田王]]」等は九州倭国縁の人物である。[[山上憶良]]等も元は九州倭国の[[役人]]であったものがヤマト王権に仕えたものである。
「[[九州]]」の呼称は9国([[豊前]]、[[豊後]]、[[筑前]]、[[筑後]]、[[肥前]]、[[肥後]]、[[日向]]、[[大隅]]、[[薩摩]])からなっていたことに由来すると俗に言われるが、「九州」という用語は本来古代では天子の直轄統治領域を意味するもので、九つの国の意味ではなく天下のことである([[周]]代以前、全土を9つの州に分けて治める習慣から九州=天下(参考:[[九州 (中国)]]))。また[[新羅#九州|新羅の九州]]の実例もある。
 
==== 壬申九州歌である ====
以下万葉集ことから[[壬申古い歌乱]]の舞台殆ど九州であると考えら詠またものである。
* 7世紀以前の畿内ヤマトでは文字が普及しておらず、歌などの[[記録]]の保存が難しかったと考えられる。
* この記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内大和には未だ「京」と呼べるような都市は無く<ref>飛鳥宮等は宮殿のみで市街地は持たない6世紀末から7世紀末にかけて、飛鳥地方に諸天皇の宮殿が置かれた都の総称を飛鳥京と呼んだりするが、当時の飛鳥には宮の他には貴族の館や寺院が数軒あった程度であり、一般市民の住む市街地や毎日開かれるような大きな市場は無く京と呼ぶには、あまりにも貧弱である。(参考:[http://www.cvl.iis.u-tokyo.ac.jp/research/virtual-asukakyo/kawaradera.html バーチャル飛鳥京])</ref>「倭京」とは当時日本に存在していた唯一の都市である太宰府のことと考えられる。
* 大宰府(九州倭国)の花は[[梅]]、畿内日本の花は[[桜]]や[[キク|菊]]である、万葉集では梅118首、桜40首が詠まれ、菊は1首も詠まれていない。
* この乱では、[[大分恵尺]](えさか)・[[大分稚臣]](わかみ)等の九州の豪族が活躍している。[[多臣品治]]の[[多氏]]などの[[本貫]]は[[肥後国]]である。また、大海人皇子は九州の豪族である[[宗像氏]]の娘(胸形[[尼子娘]])を妃にしていた。
* 万葉集では北朝で使われた「[[紅葉]]」ではなく九州倭国が朝貢した南朝で使われた「黄葉」が多く使われている。
*[[近江宮|大津京]]は近江大津([[大津市]])ではなく、肥後大津([[大津町]])にあったと考えられる。
* 古代の河内地域には、巨大な[[河内湖]]([[草香江]])があり雄大な景色が広かってたと考えられるが、7世紀頃には陸化により消滅したといわれている。河内湖は瀬戸内海から大和への通り道であり[[人類学|古代人]]は頻繁にこれを通ったと考えられ、これを観たり通った古代人が歌を詠まないはずが無いが、万葉集にはこの雄大な河内湖そのものを詠んだ歌や船で河内湖を行く歌が存在しない。
**近江大津付近には京を設置できるような広い土地はないが、肥後大津付近は条坊制の跡らしき東西と南北に直交する道等が残る広い平野が存在する。
* 万葉集には「白村江の戦」に関する歌が無い。「白村江の戦」は九州倭国が主体として戦ったものであることを隠すために残されなったものである。
**[[滋賀県]]の瀬田川に架かる[[瀬田の唐橋]]は長大で、日本書記の記述のように壬申の乱で甲を重ねて刀を抜いて突破することは困難であるが、これが大津町瀬田付近の[[白川 (熊本県)|白川]]に架かっていたとすると橋は短くなり記述とおり突破が可能である。
<!--- *「倭国万葉集」の「大和篇」が「雑歌」として残され、それを出発点(巻一・二)として、巻三以降が増補され、現存の『万葉集』に至った。
**近江大津では大津京への遷都の理由説明が困難であるが、肥後大津なら「白村江の戦い」の敗戦による唐軍の侵攻に備えた太宰府から内陸部の大津京への首都の[[疎開]]である」と説明がつく<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou82/kai8201.html 古田史学会報 81号 伊倉2 天子宮は誰を祀るか 古川清久]</ref>。
** 万葉集は九州王朝時代の5〜8世紀にかけて詠まれた主に口誦歌を集めた歌集である。
* [[大分県]]には[[竹田市]]・ [[三重町]]・[[大野町 (大分県)|大野町]]・[[犬飼町]]・[[佐伯市]]など壬申の乱に関係する地名が多数存在する。
** 万葉集では巻末に置くべき雑歌(その他、雑)から始まっている。
* [[ふなんこぐい]]等のような壬申の乱に因む風習が残るのは、[[佐賀県]][[鹿島]]である。
** 万葉集には[[奥書]]がなく、誰が何時編纂したのか不明である。続日本紀・日本書紀にも編纂の記事がない。--->
* [[源氏]]が[[八幡神]]を[[氏神]]とし祀ったことから、八幡神が[[軍神]]とされるようになったといわれるが、源氏が八幡神を軍神として氏神に祀ったのは、壬申の乱の時の宇佐神宮の係わりに由来すると考えられる。<ref>[[藤原広嗣の乱]]の時も鎮圧に当った[[大野東人]]は戦いの前に宇佐神宮で勝利を祈願している。</ref>
* 旧唐書には[[麟徳]]2年([[665年]])[[高宗 (唐)|高宗]]が[[泰山]]で[[封禅]]を行った際に[[劉仁軌]]が、[[新羅]]・[[百済]]・[[耽羅]]・倭4国の酋長を率いて参加したと記録されている。このとき唐にいたのは筑紫君薩夜麻であるので、薩夜麻が倭の酋長(天皇)である。
* 筑紫君(天皇)薩夜麻が、「壬申の乱」の前年に唐軍の捕虜から解放され倭(九州)に帰国している。
次のことから壬申の乱は、[[易姓革命]](王朝交代)であったと考えられる。
* 『古事記』や『日本書紀』には、同父同母の天智が「兄」で天武が「弟」と書かれているが、天智は671年に46歳で没し、天武は686年に65歳で逝去しているので天武のほうが4歳天智よりも年上である。また天武は天智の娘を4人も妃にしているので、天武と天智が兄弟であることはない。
* 天武は壬申の乱のおりに、自分を[[百姓]]([[侠客]])上がりの漢の高祖[[劉邦]]になぞらえて劉邦と同じ赤い旗を使用しているが、身内同士の争では例えとして合っていない。
* 「天智」は、([[殷]])最後の暴君とされる([[紂王]])の愛した「[[天智玉]]」に由来し、「天武」は、「天は武王を立てて悪しき王紂王を滅ぼした」に由来する。「天智」「天武」の諡号は、殷王朝から[[周]]王朝への易姓革命を意識して付けられたものである([[森鴎外]]『帝謚考』)。
<div style="width:35%;float:right;border:1px dashed blue;background:#f9f9f9;padding:5px 10px;margin:1em">
&lt;史書の国号改称記事&gt;
; 『舊唐書』卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 倭國 日本國
: 「日本國者倭國之別種也 也以其國在日邊故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本 或云 日本舊小國併倭國之地」
; 『唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本
: 「惡倭名更號日本 使者自言 國近日所出以為名 或云 日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉」</div>
* 『旧唐書』には、倭ないし日本について『倭国伝』と『日本国伝』の二つの記事が立てられている。これは倭(九州王朝)と日本(ヤマト王権)とは別の国であり、倭がヤマト王権により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたからである<ref name="kougou"> </ref>。<ref name="tousyo"
> 唐代には[[科挙]]に合格し唐の高官となった[[阿倍仲麻呂]]のように、[[遣唐使]]として多くの日本人が唐に渡っており、また[[白村江の戦]]でも多くの日本人が捕虜として唐に連行されている。これらのことからも、唐代には日本についての情報は豊富であり、[[旧唐書]]や[[新唐書]]の日本についての情報には事実を反映したものがあると考えられる。旧唐書や新唐書で日本國と倭國が別の國であるように記述されているのは、当時の日本が、漢や魏、南朝に臣従していた過去を否定するために、かつて册封をうけ臣従していた倭國と日本國は別であるとしたものとする解釈がある。</ref>つまり、倭(九州)と日本(ヤマト)とは別の国であり、九州倭国がヤマトにより征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたと考えられる<ref>続けて「長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物([[長安 (元号)|長安]]3年([[703年]])、その国の大臣の朝臣真人が朝貢して来た。)」とあることから、倭(九州王朝)から日本(ヤマト王権)への政権交代を唐に伝え、唐に日本を承認させたのはこの朝臣真人だと考えられる。</ref>。
* 天皇家の最も重要な祭祀である[[大嘗祭]]は、[[673年]]まで行われていない。それまで大和朝廷に政権がなかったからである。
* 天武2年([[673年]])8月条に、「詔[[耽羅]]使人曰。天皇新平天下、初之即位。由是唯除賀使、以外不召。」とあり「詔で耽羅国の使人に曰く。天皇が新たに天下を平定し、初めて即位する。ゆえに祝賀使は受け入れるが、それ以外は受け入れない。」と宣言している。
* 漢文明圏では、新しく興った王朝が滅んだ前王朝の歴史を編纂するのが通例であるが、天武が歴史編纂を命じたのは天武10年([[681年]])である。
次のことから勝敗を決したとされる美濃から来た援軍は畿内大和軍のことだったと考えられる。
* 奈良時代になっても、[[濃尾平野]]の農民には、[[勲位]]を持つ者が多かった。これは壬申の乱の[[恩賞]]が残ったためと考えられる。
次のことから高市皇子が薩夜麻だったと考えられる。
*「壬申の乱」の前年に筑紫君薩夜麻が、唐軍の捕虜から解放され倭(九州)に帰国している。
* 藤原京は[[周礼]]によって建設されているが、これは建設の中心であった高市皇子が薩夜麻であり、8年間も唐に抑留され[[武則天]](則天武后)の周礼への復古調の強い影響を受けたことによると考えられる。
*次のことから天武は天皇ではなく畿内大和の一豪族に過ぎなかったと考えられる。
** [[氏姓]]は天皇が臣下へ賜与するものであり、古代日本において天皇は氏姓を持たなかった。しかし天武の倭風諡号は天淳中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)であり[[八色の姓]]「[[真人]]」を持っていた。
** 天皇家の[[菩提寺]]である[[泉涌寺]]に天武系天皇の[[位牌]]が無い。
** 天武が天皇であればその息子が天皇を継ぐのは当然である。ところが天武は[[吉野の盟約]]において皇族達に、自分と鸕野讚良皇女(持統天皇)の間の息子「[[草壁皇子|草壁王子]]」を天皇にすることを誓わせている。<ref>吉野の盟約は壬申の乱の直前672年の5月のことと考えられる。天武と高市皇子は親子ではなく、乱の主役は[[大友皇子]]対、高市皇子(倭薩)であり「自分の息子を次期天皇にする」は、天武が出した高市皇子への援軍要請の交換条件であったと考えられる。</ref>
* 次のことから[[高市皇子]]が天皇であったと考えられる。
** 壬申の乱では[[大伴吹負]]が「高市が来た」と偽の情報を流しただけで近江軍は戦わないで引き上げている。高市皇子は近江軍から大変畏怖されていたと考えられる。
** 高市皇子の長男・[[長屋王]]の邸宅跡から「長屋[[親王]]」「長屋[[皇宮]]」「長屋[[皇子]]」と記した[[木簡]]が多数発見されている上に、『[[日本霊異記]]』で「長屋親王」と称されていることなどから、長屋王は王ではなく親王であったと考えられる。律令制では天皇の子及び兄弟姉妹が親王であるから、親王の父である高市皇子は天皇である。<ref>「雅学寮移長屋王家令所」と記した木簡なども見つかっているが、「親王」が「王」と称されることはあっても、「王」が「親王」と称されることはないことから長屋は「親王」であったと考えられる。</ref>
** 高市皇子は、壬申の乱において、不破から全軍を指揮して戦っている。また乱後の処罰や論功行賞を行っている
** 天武・持統期において実質的に最高責任者として政治を行っていたのは高市皇子である。
** 万葉集の高市皇子への[[挽歌]]で、柿本人麻呂は、高市皇子を天皇のみに使われる「わが大王」という言葉で表現している。
** 天皇が交代すれば元号は必ず改元されるが、九州年号の白鳳は[[661年]]から[[684年]]まで続いているので、少なくともこの間は天皇は交代しておらず、同じ天皇の在位が続いていたと考えられる。従って中大兄皇子(天智)の即位([[668年]])・大海人皇子(天武)の即位([[673年]])は史実ではない。
** 『[[懐風藻]]』では、後皇子尊(高市皇子)が薨去の時の持統を「[[皇太后]]」と記しているので、持統も天皇ではない。
** 『日本書紀』では後皇子尊(高市皇子)が亡くなったのは持統10年(696年)7月10日、持統が譲位したのは持統11年8月1日。『日本書紀』には軽皇子(文武天皇)の立太子の記事がなく『続日本紀』持統11年に立太子記事がある。高市皇子の薨去によって、立太子できる状況になったと推測される。
* 次のことから天武と高市皇子は親子ではない。<ref>[[小林惠子]]は、『扶桑略記』の天智条に「三人即位一人不載系図」とあることから、大友と元明が即位していたとすると、系図に載っていない一人とは高市皇子のことであろうとし、高市は天智の息子であり、大友の兄弟であるとしている。</ref>
** 壬申の乱のとき天武(大海人皇子)は、「自分には幼い子供しかいない」と嘆いている<ref>日本書紀「其近江朝、左右大臣、及智謀群臣、共定議。今朕無與計事者。唯有幼少孺子耳」</ref>が、高市皇子は当時既に19歳前後<ref>高市皇子は[[白雉]]5年([[654年]])生まれで壬申の乱の時にはほぼ19歳となるが、軍の指揮や賞罰を行っていることから実際の歳はもっと多かったと考えられる。白村江の戦から8年間唐に抑留されていたとすると30~40歳であろう。通説では恋人である十市皇女は高市皇子より1~6歳年上であるが、高市皇子が5~15歳年上であろう。</ref>とされ、また全軍を指揮していたので幼くはない。
** 高市皇子と[[十市皇女]](天武の娘)は恋愛関係にあったとされている<ref>十市皇女が死んだとき、高市皇子が贈ったその死を惜しみ、恋慕うような追慕の歌から、2人は恋愛関係にあったとされている。
*万葉集 薨りましし時、高市皇子尊の作りませる御歌三首[http://www.asahi-net.or.jp/~IW2M-SMZ/takechi/utakai.htm 歌の解釈]
** 諸の神の神杉夢にだに見むとすれども寝ねぬ夜ぞ多き
** 三輪山の山辺真麻木綿短木綿かくのみゆゑに長しと思ひき
** 山振の立ち儀いたる山清水汲みに行かめど道の知らなく</ref>。実の姉弟や兄妹で恋愛関係にあったとは考えられないので高市皇子と十市皇女は、姉弟や兄妹ではない。
青龍山[[野中寺]](やちゅうじ)の[[弥勒]]像台座の[[下框]](かまち)部分には「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」という陰刻があり、これが丙寅年([[666年]])の四月に「中宮天皇」が病気になったとき栢寺の僧侶たちが平癒を請願して奉った弥勒菩薩像であることが分かる。しかし、666年には、既に[[斉明天皇]]は亡くなっており、[[穴穂部間人皇女]](あなほべのはしひとのひめみこ)が即位したこともなく、[[天智天皇]]が「中宮天皇」と呼ばれた文献資料も残されていない。つまり、この時期、ヤマト王権の正史にはない「[[中宮]]天皇」という天皇がいたことになる。
 
==== 大化の改新香具山 ====
万葉集の[[香具山]]は、[[久留米市]]南方の山(古田武彦は[[鶴見岳]]説)
{{独自研究|section=1|date=2010年7月}}[[ファイル:Fujiwara-Fuhito.jpg|thumb|200px|藤原不比等([[菊池容斎]]・画、明治時代)]]
* 万葉歌では香具山から見える鴎を詠った歌(万1-2)があるが、奈良県の香具山からは海は見えない。また標高が152.4メートルしかなく奈良県の山々の中で際立っているとは言い難い。
以下のことから「[[大化の改新]]」は、[[695年]]に畿内大和の豪族が九州王朝の実力者を暗殺し皇権を簒奪した[[下克上]]の[[クーデター]]であり、一方では藤原氏の政権掌握の功績は記述したいが、他方では皇権簒奪の事実は隠匿したいという欲求から生まれた年代・背景を改竄した記事であると考えられる。{{要出典|date=2010年3月}}(古田武彦の[[乙巳の変]]解釈はこの項目とはあまり関係ないため省略)
** 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜可國曽 蜻嶋 八間跡能國者 やまとには むらやまあれど とりよろふ あまのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ うなはらは かまめたちたつ うましくにぞ あきづしま やまとのくには([[山門郡]] - [[大和町 (佐賀県)]]には たくさんの山があるが そのなかでも際立っている 天の香具山に登り立って 領土を見渡せば 人々が暮らす平野には 炊煙が立ち昇り 海原では 鴎が飛び 素晴らしい国だよ ([[秋津島]])ヤマトの国は)万1-2
* 『日本書紀』の「大化の改新」に関する記事からは、新興勢力の豪族を誅した程度で、何故、政権を改新したり、改革したりすることができたのか全く不明である。もし既存の権力を倒して史書に記すような政治の大改革を行ったのであれば、倒された権力は、それ以前長期に亘り権力を掌握し、政治体制を維持してきた者でなければならないし、倒した側はそれまでの権力者とは全く違わなければならない。しかし『日本書紀』の記述では、倒された蘇我氏の歴史は100年にも満たないような新興勢力であり、倒した側は代々の天皇であり最高権力者である。『日本書紀』の記述には明らかにこのような矛盾がある。
* 下記のように「大化の改新」は7世紀末の出来事であると考えられる。
** 『日本書紀』は「大化の改新」の時に「[[郡]](こおり)」が成立したと記すが、「郡」と言う用語が用いられるのは、[[大宝律令]]制定以降であり、それ以前は「評(こおり)」を使っていた文書([[木簡]]類)が見つかっている<ref name="mokkan"> [[名古屋市博物館]]の常設展示の藤原宮出土木簡には「庚子年(700年)四月/[[若狭国]]小丹生'''評'''/木ツ里秦人申二斗」「[[尾治国]]知多'''郡'''/大宝二年(702年)」などの記載がある[http://mokuren.nabunken.jp/scripts/strieve.exe?USER=MOKDB&PW=MOKDB 奈良文化財研究所 木簡データベース]</ref>。
** 大化の改新の[[詔]]は文体が[[奈良時代]]のものと酷似している。
** [[646年]]正月の[[改新の詔]]の第一条で[[公地公民]]、(私地私民の廃止)をうたっていながら646年から後も[[伴造]](とものみやつこ)、[[国造]](くにのみやつこ)が所有する[[部曲]](かきべ)や[[田荘]](たどころ)の領有権が認められていた。
** 改新の詔において「初めて[[戸籍]]・計帳・[[班田収授法]]をつくれ」とあるが、戸籍・計帳・班田収授は[[大宝律令]]で初めて見られる用語であり、それ以前の文書には出てこない。
** 改新の詔に「初めて[[京師]]を修む」とあるが、ヤマト王権で初めて都城制が導入された都は、694年の藤原京が最初である。
** ヤマト王権最初の年号は大宝である。『続日本紀』で「対馬嶋、金を貢る。建元して大寶元年と為す」とあり大宝と改元(年号を変えた)したのではなく建元(年号を開始した)したとしている。
** 大宝律令が発布されたのは[[701年]]である。[[律令制度]]が定着したのは、大宝律令からである。
** 『日本書紀』大化元年七月の条に[[高句麗]]や[[百済]]の使者に「明神御宇日本天皇」と示したという記事があり、日本における「日本」という国号の最初の使用例となっている。しかし、唐の正史(『[[旧唐書]]』『[[新唐書]]』など)で日本の国号が「倭」から「日本」に変わっているのは7世紀末である。
** 以下のことから大化元年は『日本書紀』に記された645年ではなく、50年後の695年であると考えられる。
*** 『[[二中歴]]』など[[九州王朝説#九州年号|九州年号]]では、大化(大和)元年は[[695年]]である<ref name="taikadoki"> [[江戸時代]][[天保]]九年([[1838年]])春に出土の『大化五子年土器』は「大化五子年二月十日」と記されているが、『二中歴』では大化六年([[700年]])が庚子で子の年となっており、この土器とは干支が1年ずれているが、干支が1年ずれた暦法が採用されたためと考えれば一致する([http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kyusyune/koga02ko.html 二つの試金石 九州年号金石文の再検討]より)。一方、『日本書紀』の大化年間には全くこの年はない。従って、この土器の大化五子年は7世紀末の[[699年]]のこととなり、『二中歴』の「大化」の方が実際に使用されていたのである。</ref> 。
*** 元号は連続するものであるが、『日本書紀』では、大化から大宝の間の年号が飛んだり無かったりしている。
[[ファイル:Fujiwarakyo2.gif|right|thumb|256px|藤原京条坊]]
 
==== 吉野山 ====
* ヤマト王権初の本格的[[都城]]である[[藤原京]]が建設されたのは694年であるので、ヤマト王権の成立はこの頃と考えられる。
万葉集の[[吉野山]]は吉野ヶ里背面の山。
* 以下のことから「乙巳の変」の功績で[[藤原鎌足|中臣鎌足]]が藤原の姓と不比等(比べようの無いほどのモノ)の名を賜り、自分の功績と姓を賜った時期を50年前の父の代のこととしたと考えられる。{{要出典|date=2010年7月}}
*『[[日本書紀]]』によれば[[持統天皇]]は、持統3年([[689年]])1月から持統11年([[697年]])4月までの間に、31回も吉野に行幸している。これは、34年前の[[白村江の戦]]直前の九州倭国の天子の軍事的目的を持った[[佐賀県]][[吉野ヶ里遺跡|吉野]]への視察記事から盗用されたものである(部隊は[[軍事機密|機密]]保持のため[[有明海]]に集結し、有明海 → [[五島列島]] → 韓のコースを辿ったと考えられる)<ref>古田史学論集 第十一集「古代に真実を求めて」古田史学の会(編) [[明石書店]] [[2008年]](平成20年)3月 {{ISBN2| 978-4-7503-2762-4}}
** 「乙巳の変」の主役の中臣鎌足が[[藤原不比等]]自身だから多くいる中臣鎌足の息子とされる中で不比等だけが藤原姓を名乗ることが許されたのである。
** [[藤原氏]]という一族がいるのに藤原宮という家臣の名の付く宮を朝廷が建設するとは考えられない。藤原宮が先に有って藤原の姓が贈られたと考えられる。
** 不比等が鎌足自身だから、11歳の時に父の鎌足が死去し政治的な後ろ盾が無い筈の不比等が、軽皇子(文武天皇)を擁立し、その後見人になることができたのである。
** 「乙巳の変」があったのが695年だから、不比等が権力を握るまで645年から50年間も藤原氏が権力を得ることがなかったのである。
** 鎌足が不比等自身だから、「乙巳の変」以降の鎌足の業績がないのである。
** 鎌足が不比等自身だから、[[藤氏家伝]]に不比等の条が無いのである。
** 「[[尊卑分脈]]」では「不比等」が「[[氏長者]]始」と記されているので、藤原氏の始祖は鎌足ではなく不比等である。
** 日本書紀には、乙巳の変のときに「中大兄皇子が、[[衛門府]]に命じ一斉に12の通門を封鎖し往来を禁止した。また衛門府を一ヶ所に集め、手当てを渡した。」とある。衛門府は、律令制における宮門を守る[[官司]]であり、645年には存在しない。また飛鳥[[板蓋宮]]は規模が小さく通門が12もあったとは考えられない。この記述に合う宮は12の門を持ち周囲を5mの塀で囲まれた新益京藤原宮だけであるので、乙巳の変が起きたのは藤原宮(694年~710年)である。
** 軽皇子([[孝徳天皇]])と軽皇子([[文武天皇]])、[[間人皇女]]と[[穴穂部間人皇女]]、同じ人物が50年毎に現れる。また、この時期としては例外的に現役天皇が[[譲位]]するうということが[[645年]][[皇極天皇]]から軽皇子(孝徳天皇)へ、[[697年]][[持統天皇]]から軽皇子(文武天皇)へと行われ、50年毎に女帝から軽皇子への譲位という同じ構図が繰り返されている。
** 乙巳以来の功を大上中下で査定確認した記事が、続日本紀の[[天平宝字]]元年([[757年]])12月9日にある。乙巳の変が645年ならば112年も経ってからの功の査定確認で、これ程時が経過しての査定確認は不自然であり、極めて困難である。しかも、乙巳の変で活躍し死後91年経った[[佐伯古麻呂]]に、上功として功田四十町六段(上功なので三世)等とある。一世とは30年であり、三世では90年となり、上功でも既に失効したはずの功に対してである。しかし、乙巳の変が695年のことなら変からは62年しか経っていないので、証人もまだ生きていて査定確認可能であり、佐伯連古麻呂の上功の理由も納得できる。
** [[木梨軽皇子]]などは[[近親相姦]]で失脚して[[伊予]]の国へ流されるなどしているのに、この時期[[近親婚]]が多発している。これは記事と人物の入れ替えによって書記の血縁関係が混乱しているためと考えられる。
** 鹿児島と[[河内和泉]]南部には同じような鹿から生まれた鹿足の美少女の伝説(大宮姫伝説・[[光明皇后]]伝説)が残るが、この美少女を育てたのは鹿児島では中臣鎌足であり和泉では藤原不比等である。このように全国には中臣鎌足と藤原不比等が混同された伝承が多く残る。また鎌足や不比等の墓といわれる所は数多くあるが、殆どが鎌足と不比を混同している。
* 以下のことから[[蘇我氏]]とは九州王朝(倭国)の天皇家のことであったと考えられる。{{要出典|date=2010年7月}}
** [[蘇我稲目]](そが・の・いなめ)以前の蘇我氏の先祖が分からない。
** 蘇我氏が何故、短期間で権力を掌握できたか分からない。
** 蘇我氏は、渡来人の集団を支配し進んだ知識や技術を持っていたとされている。
** 当時、畿内大和で唯一蘇我氏だけが仏教を崇拝していたとされている。
** 蘇我氏の名は、[[蘇我馬子|馬子]]と[[蘇我入鹿|入鹿]]の二人の名を合わせると[[馬鹿]]になる<ref>馬鹿の語が文献で確認できるのは、[[室町時代]]の[[太平記]]での「馬鹿者(バカノモノ)」の使用が初出である。</ref>ことや[[蘇我蝦夷|蝦夷]]<ref>。「[[蝦夷]]」(えみし)は「毛人」と同じ意味である。蘇我蝦夷についても、「蘇我豊浦毛人」と記した記録がある。「毛人」は、[[小野毛人]]や[[佐伯今毛人]]といった例があり特殊な名ではないとする反論もある。</ref>など、実名ではないと考えられる点がある。
** 蘇我蝦夷の邸宅が「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅が「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼ばれていた。
** 蘇我入鹿の子らが親王の扱いを受けていた。
** 『[[国記]]』(くにつふみ)・『[[天皇記]]』(すめらみことのふみ)と言った皇室が代々受け継ぐべき史書を蘇我氏が所持し邸宅で保管していた。
* 以下のことからヤマト王権が皇権を倭から継承した方法は、倭の姫(女帝)との婚姻と[[宇佐神宮]]の[[神託]]を利用したと考えられる。{{要出典|date=2010年7月}}
** [[宇佐八幡宮神託事件|道鏡事件]]で称徳天皇([[孝謙天皇]])は、宇佐神宮の神託をもって愛人の[[道鏡]]に皇位を継がせようとした。これには先例があったからだと考えられる。
** 乙巳の変の中心であった[[中臣氏]]は、古代の日本において、神事・祭祀を掌っており、神託の捏造は容易であったと考えられる。道鏡事件のとき「道鏡が皇位に就くべし」との信託を受けたとされる大宰府の主神(かんづかさ)も[[中臣習宜阿曾麻呂]](なかとみのすげの あそまろ)であり、中臣氏である。
** 645年に皇位にあった皇極天皇も695年に皇位にあった持統天皇も女帝であったとされる。倭(九州皇権)からヤマト王権への皇位の異動は、女帝→軽皇子であると考えられる。
** 倭(九州皇権)とヤマト王権は、[[政略結婚]]により姻戚関係にあって当然と考えられる(天武は天智の娘を四人も妃にしている。)。
** 血統の異なる皇位の継承には、正統性を保証する演出が必要である。
** 藤原京(新益京藤原宮)は、大化の改新(695年)の前、690年(持統4)に着工され、694年(持統8)には完成している。皇権や皇位もないのに京や宮が建設されたとは考えられない。この時期既に畿内に天皇がいて、その天皇のために藤原京(新益京藤原宮)が建設されたと考えられる。
** 「持統」とは、「正当な血統を維持した」という意味の諡号である<ref name="keitaijitou"></ref>。つまり持統天皇とは九州倭国の血を引く女帝であると考えられる。
** 藤原宮の名称は[[衣通姫]]の故事に由来する。「日本書紀」では天皇が姫を寵妃にして住まわせたところが藤原宮である。ところが「古事記」ではこの姫は、軽皇子と情を通じた天皇の皇女とされている。
* 704年に文武天皇が、藤原宮に住んでいた九州王朝の天子を故郷九州へ戻らせて、自ら藤原宮の主人となったと考えられる。
** 鹿児島県『[[開聞古事縁起]]』には、「長らく外朝に暮らした天皇が、天智天皇10年([[671年]])または[[大長]]元年([[704年]])に九州に戻った」という大宮姫伝説がある。
** 続日本紀では「[[慶雲]]元年(704年)、11月20日、始定藤原宮地。宅入宮中百姓一千五百煙、賜布有差。(704年11月20日に始めて藤原宮の地を定む。(藤原の)宮中の住人1,505世帯に布を賜う。)」とある。
* 九州王朝滅亡後も九州王朝の皇族の一部は、引き続き太宰府や中央の官僚の地位を維持しており、天武朝断絶の後は九州王朝末裔から天皇が擁立されたと考えられる。<ref>[[鎌倉幕府]]の[[北条氏]]が[[源氏]]嫡流滅亡の後に[[摂家将軍]]や[[宮将軍]]を擁立したのと同じ様に、実力の無い者を天皇に擁立した方が当時の権力を持っていた藤原氏には都合が良かったと考えられる。</ref>
** [[光仁天皇]]は天智天皇の末裔とされており、九州王朝の皇統であると考えられる。
** [[左大臣]]を務めた[[橘諸兄]](たちばな の もろえ)も九州王朝王族の子孫であると考えられる<ref>『古田史学会報』96号</ref>。
** [[9世紀]]半ばになっても九州王朝の皇族の末裔とみられる大宰少典従八位上筑紫公文公貞直・筑紫公文公貞雄など「筑紫公(君)」が太宰府の官僚として実在していた<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin12/matuei.html 市民の古代第12集 九州王朝の末裔たち『続日本後紀』にいた筑紫の君][[古賀達也]]</ref>。
* 以下のことから、九州王朝の抵抗は[[723年]]頃まで続いていたと推測される。
** 九州年号は大長([[704年]]~[[712年]])まで続いている。
** [[続日本紀]]に下記のような記述がある。
*** [[養老]]元年([[717年]])11月17日 亡命山沢。挟蔵兵器。百日不首。復罪如初(武器を持って山野に逃亡している者は100日以内に自首しないと恩赦を与えない)。
*** 養老7年([[723年]])4月8日 大宰府言。日向。大隅。薩摩三国士卒。征討隼賊。頻遭軍役(大宰府の報告によれば、日向・大隅・薩摩の3カ国の士卒は、隼人の反乱軍征討に頻繁に軍役に狩りだされている)
*** 養老7年(723年)5月17日 大隅・薩摩二国隼人等六百廿四人朝貢(大隅・薩摩の2カ国の隼人ら624人が朝貢してきた)
* 8世紀は異常に多くの反乱やクーデターが発生しておりヤマト王権は、政権が安定していない。
** [[神亀]]6年([[729年]])[[長屋王#長屋王の変|長屋王の変]](九州王朝[[嫡流]]である長屋[[親王]]を藤原氏が暗殺した事件)
** [[天平]]12年([[740年]])[[藤原広嗣の乱]]
** [[天平勝宝]]9年([[757年]])[[橘奈良麻呂の乱]]
** [[天平宝字]]8年([[764年]])[[藤原仲麻呂の乱]]
** [[神護景雲]]3年([[769年]])[[宇佐八幡宮神託事件]]
** [[天応]]元年([[781年]])[[氷上川継の乱]]
 
『日本書紀』・「持統紀」の真実——書紀記事の「三十四年遡上」現象と九州年号——(正木裕)
=== 伊勢神宮 ===
 
[[伊勢神宮]]の始まりは福岡県[[糟屋郡]][[久山町]]猪野の[[天照皇大神宮]]であり、[[倭姫命]]の定めた伊勢とは[[熊本県]][[八代市|八代地方]]のことで、現在の伊勢に移る前の伊勢神宮は全て九州内だった。<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou69/kai06901.html 古田史学会報No.69 阿漕的仮 さまよえる倭姫]</ref>。万葉集などの淡海とは[[八代海]]であり、後世に、淡海と[[近江]]が混同されたのである。
[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jyoshino/yosino2.html この歌は大和吉野の歌ではない]</ref>。
* 日本書紀によれば伊勢神宮の起源は、崇神天皇が住む宮殿内に祭られていた[[天照大神]]といわれるが、福岡県糟屋郡久山町猪野には神功皇后が天照大御神を祭った天照皇大神宮(伊野皇大神宮(倭の皇大神宮?))が存在する。<ref>日本書紀によると第14代[[仲哀天皇]]が亡くなったので、[[神功皇后]]が福岡の[[香椎宮]]の近くに[[天照大神]]を祀り[[斎宮]]を建てたとあり、これが伊勢神宮の起源と考えられる。ところが、崇神記によれば、第10代[[崇神天皇]]の6年、皇女・[[豊鍬入姫命]]に託して天照大神を宮中から[[笠縫邑]]に移したとある。神功皇后と豊鍬入姫命の時代は逆転しているが、大化の改新等と同じく記事が入れ替えられたとすれば、本来は神功皇后の話が伊勢神宮の起源と考えられ、崇神天皇の宮は福岡の近くにあったことになる。 </ref>
** 春8回、夏9回、秋8回、冬6回と亡き夫を偲ぶにしては、季節に関係なく1年中行っている。冬山に天皇が[[行幸]]したとは考えられない。
* 18世紀後半に編纂された『[[肥後國史]]』によると「八代」の地名は天照大神を祀る社(やしろ)が上古に在ったことに由来する。
** 持統天皇8年([[694年]])[[夏]]4月の吉野行幸から帰った日に「[[丁亥]]」とあるが、この年の4月に「丁亥」はない。しかし34年前の[[斉明天皇]]6年([[660年]])4月なら「丁亥」がある。
* 万葉集に現れる「淡海」は、鯨や魚を取りに船出して行くといった歌(巻2 153番)があるので、湖でなく海である。また淡海の[[チドリ科|千鳥]]を詠った歌(巻3 266番)があるが、琵琶湖には千鳥が生息するような場所はない。一方、球磨川河口はシギ・チドリ等の水鳥の大生息地である。
* 「淡海」は、「塩味の淡い海」の意味。古代の球磨川河口(現在の八代市高田~金剛)は浅い海であり、海底から球磨川の伏流水が噴きあげ海水が薄まっていたと考えられる。<ref>日本書紀の景行天皇18年4月の条によれば、球磨川河口にある水島から真水の湧水があったとされ、最近まで大島や白島などでも湧水が自噴していた。(農業や工業用水の大量汲み上げにより近年自噴井は少なくなっている。)</ref>
* 淡海の[[枕詞]]「石走(いわばしる)」は、「水が岩に当たってしぶきをあげる」の意。急流「[[球磨川]]」にこそ相応しい。
* 『倭姫命世記』には淡海浦の西に7個の嶋があったと記されている。[[琵琶湖]]には竹生島・沖島・多景島・沖の白石の4島しかないが、八代市内には大島・高島・白島・[[大鼠蔵]]・小鼠蔵・[[水島 (熊本県)|水島]]・加賀島の7つの島がある。(現在は干拓により水島と加賀島を除く五つの島が陸続きとなり小山のように見える。)
* 『日本書紀』巻六垂仁天皇二五年(丙申前五)三月丁亥十や『倭姫命世記』には、伊勢國は『傍國可怜國(かたくにのうまし国) 』との表現があり、これは「その海岸には[[干潟]]が出来て、それがだんだん陸地となるというまことに結構な国である」との意味である([[喜田貞吉]]「伊勢人考」)。この表現通り八代平野の大部分は球磨川からの堆積物による自然陸化と干潟の[[干拓]]によるものであるが、三重県には、このような土地はない。
* 八代市には『倭姫命世記』に現れる「[[肥後二見駅|二見]]」という地名が遺存し、熊本県には「[[御船町|御船]]」と地名も遺存する。
* 現在でも鹿児島県[[伊唐島]]では、八代海のことを伊勢海と呼ぶ。また下記のように鹿児島県の北薩一帯を中心に「伊勢」関連地名が多く存在し、鹿児島県には24社と日本で最も多くの[http://www.jinja.in/search/node/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E7%A4%BE 伊勢神社]と称する神社が存在する。
** [[出水市]] :[[伊勢山]](地名)
** [[薩摩川内市]] :[[伊勢美山]]、伊勢ケ迫(地名)、[[伊勢皇大神社]]
** [[人吉市]]紺屋町:伊勢大神宮
* 古代伊勢の枕詞は「[[神風]]」である。しかし三重県は[[台風]]が多くないし[[紀伊半島]]に遮られ大風も吹かない。一方、南九州は台風が頻繁に接近・通過する。
* [[上天草市]][[姫戸町]]姫戸の由来は、この地に辿り着いた謎のお姫様であり、町内の「[[姫石神社]](姫石さん)」でこの謎のお姫様を祭っている。[[奈良県]]にも「姫石明神(姫石さん)」があり倭姫命に関係する神社であり、この謎のお姫様は倭姫命であると考えられる。姫戸は[[元伊勢]]の一つということになる。
* 古来、球磨川の河口は、九州内陸地域と海外を結ぶ貿易港として栄え、中世には「[[徳渕津]]」と呼ばれ5万の人口があり、[[平氏]]や[[北条氏]]、[[豊臣氏]]が直轄地にするなど博多と並ぶ九州経済の中心地であった。
* 以下のことから[[安濃津]]・阿漕ヶ浦は、[[三重県]]の[[津市]]ではなく八代の港「徳渕津」等であったと考えられる。
** 阿漕ヶ浦は、伊勢神宮に供える神様専用の漁場であったとされるが、津市から伊勢市までは約50kmもあり、倭姫命の命令どおり朝夕鮮魚を運ぶには離れすぎている。
** 阿漕(アコギ)←阿漕(アコウ)←[[アコウ (植物)|アコウ]]→安濃(アコウ)→安濃(アノウ)となったとされており、阿漕ヶ浦(安濃津)とは、アコウの木の生える場所の意味である。八代を含む[[有明海]]・[[不知火海]]沿岸にはアコウの木が自生するが、津市を含む伊勢湾のような北国ではアコウの木は自生しない。
** 安濃津は、博多津(福岡県福岡市)、 [[坊津]](鹿児島県坊津)とならんで日本三津に明代の歴史書(「[[籌海図編]]」(1561年)、「[[日本風土記]]」(1591年)、「[[武備志]]」(1621年))で数えられているが、漢人に知られる程の貿易港が三重県にあったとは考えられず、津市には貿易港だった痕跡もない。前述のように八代は古代から中世九州まで博多と並ぶ海外貿易港であり、坊津の記述があるのに八代の「徳渕津」の記述が無いのは異常である。安濃津とは「徳渕津」のことだと考えられる。
*八代市には[[懐良親王]](かねながしんのう)の菩提寺「悟真寺」があり、[[宮内庁]]が認定した御陵があるが、懐良親王が亡くなったのは福岡県[[八女郡]][[矢部]]であり、その御陵とされる場所も福岡県[[星野村]]の「大円寺」や[[久留米市]]の「千光寺」にもある。八代市の御陵は、伊勢神宮の跡地だったのではないかと推定される。
* 第1回[[神宮式年遷宮]]は、倭国(九州王朝)滅亡直前の690年である。<ref>式年遷宮の目的は、本来定められた場所でない土地に御神体を持って行ったことを誤魔化し神の怒りをかわないようにするためと考えられる。</ref>
 
== 関連する主張 ==
=== 日向・高千穂 ===
* [[人類学]]では[[骨格]]の研究により、[[北部九州]]([[福岡県]]北部、[[佐賀県]]北部、[[山口]]県西部)に東北アジア系の渡来人集団が[[弥生時代]]中期以後定住し、徐々に勢力を[[西日本]]一帯に拡大し、それまで[[日本列島]]で暮らしていた縄文系の人々を征服し、あるいは混血しつつ[[古墳時代]]までには近畿地方まで広がったとする説(≒埴原和郎の仮説)がある。この人類学が描く弥生人の広がりと九州王朝説の倭(九州王朝)勢力の拡大は極めてよく一致すると考える意見がある。
* [[天孫降臨]]の地である筑紫の日向とは[[福岡市]]と[[糸島市]]との間にある[[日向峠]]付近であり、[[高千穂]]とは糸島市の[[高祖山]]のことである。(「怡土志摩郡地理全誌」によると高祖山付近をクシフル山と呼んでいた)<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku6/kourin7.html 『天孫降臨地の解明』古田武彦]</ref>
* [[景行天皇]]の九州大遠征説話や[[神功皇后]]の筑後平定説話などは九州王朝の史書からの盗用である。
* 『[[日本書紀]]』によれば[[持統天皇]]は、持統3年([[689年]])1月から持統11年([[697年]])4月までの間に、31回も吉野に行幸している。これは、34年前の[[白村江の戦]]直前の九州王朝の天子の軍事的目的を持った[[佐賀県]][[吉野ヶ里遺跡|吉野]]への視察記事から盗用されたものである(部隊は[[機密]]保持のため[[有明海]]に集結し、有明海→[[五島列島]]→韓のコースを辿ったと考えられる)。
* 「[[遣隋使]]」はもちろん、「[[遣唐使]]」も7回目([[669年]])までは九州王朝が派遣したものであり、[[小野妹子]]らのヤマト王権の者は九州王朝の遣隋使に同伴させてもらったのである<ref name="zuisyo"> </ref>。
* 「[[正倉院]]文書」中の正税帳によると、当時の税は、[[稲]]・[[塩]]・[[酒]]・[[粟]]などを納めるのが普通だが、「筑後国」の貢納物は[[鷹狩]]のための養鷹人と[[猟犬]]。[[白玉]]・[[青玉]]・[[縹玉]]などの玉類などである。[[鷹狩]]・[[曲水の宴]]などの貴族趣味は畿内大和にはなく、筑後にはあった。
* 奈良正倉院の宝物の殆どは[[天平]]10年([[738年]])に九州筑後の正倉院から献上されたものであり、元は九州王朝の[[宝物]]である。
* [[法隆寺]]西院伽藍は筑紫の寺院(太宰府都城の[[観世音寺]]又は福岡市難波池の[[難波天王寺]]又は[[筑後国放光寺]])が移築されたものである。
* [[道鏡事件]]で[[和気清麻呂]]が宇佐神宮の[[神託]]を訊きに行く等、古代において国家の大事や天皇の即位時には[[宇佐神宮]]へ[[勅使]]が必ず遣わされ、古代日本では[[伊勢神宮]]より九州の宇佐神宮が重要視されていた。つまり、古代日本では九州に権威があった。
* 「[[君が代]]」は九州王朝の春の祭礼の歌である。
* 『[[万葉集|萬葉集]]』の代表的歌人でありながら正体不明な「[[柿本人麻呂]](かきのもとのひとまろ)」や「[[額田王]](ぬかたのおおきみ)」等は九州王朝縁の人物である。また[[山上憶良]]等も元は九州王朝の役人であったものがヤマト王権に仕えたものである。
* ヤマト王権は694年に行政が常駐する都(藤原京)を建設し、701年に大宝律令を制定して[[官僚]]組織を整備しているが、これに必要とされた多くの人材は、滅亡した九州王朝の官僚を再雇用したものである。7世紀末に突如として畿内大和に出現した官僚集団は、九州の太宰府(倭京)から連れて来られたものである。ヤマト王権は九州王朝の官僚機構を引き継ぐことにより、政権に必要な人材を確保することができたのである。また、知識階級であり[[エリート]]であるはずの下級官僚に対するヤマト王権の奴隷的な扱いはこの為である。
* [[2004年]]秋に[[中華人民共和国]][[陝西省]][[西安市]]の西北大学が西安市内から日本人遣唐使「[[井真成]]」の墓誌を発見した。この「井真成」は死後に皇帝から「尚衣奉御」(尚衣局の責任者)の位を授けられており「尚衣奉御」が歴代皇帝の親族がその任に当たっていたことや、現在「井」という[[姓]]は九州[[熊本県]]の[[産山村]]・[[南小国町]]・[[一の宮町]]などに多く存在すること、また井は倭(ゐ)に通じることから、この「井真成」は、九州王朝の皇族であると考えられる。
* 『萬葉集』に、九州・山陰山陽・四国の人の歌が無いのは、皇権簒奪の事実を隠すためである。
* [[住吉神社]]、[[八幡宮]]など九州を始原とする神社が日本全国に多く分布するのは、九州王朝の信仰をヤマト王権が引き継ぎ広まったものである<ref>[[神道]]発祥の地は壱岐市の[[月讀神社 (壱岐市)|月読神社]]といわれており、日本最古の住吉神社は壱岐市にある[[住吉神社 (壱岐市)]]や福岡市の[[住吉神社 (福岡市)]]である。また[[八幡様]]の総本宮は[[宇佐神宮]]であり、宇佐神宮の本宮は[[飯塚市]][[大分八幡宮]](だいぶはちまんぐう)である。</ref>。
* 福岡県久留米市の[[高良山]]にある[[高良大社]]は、以下のことからここに王朝があったことを窺がわせる。
**高良大社が[[三種の神器]]、「[[干珠・満珠]]」の宝珠や[[七支刀]]を所蔵している。
**高良神社の神職は[[丹波]]・[[物部]]・安曇部・草壁・[[百済]]の五姓である。
**中世末期に成立した高良大社に伝わる高良記によると高良大神の孫の子孫に「皇」(すめろぎ)や「[[連]]」(つら)などと言った称号を持った者がいる。<ref>①物部日良仁光連、②日往子明連、③日男玉頼連、④神力玉依連、⑤日光玉一連、⑥日往玉尊連、
 
=== 仏教伝来の経由地 ===
1.日明玉連尚、2.舎男連常、3.日柱男連廣、4.大直連俊、5.大全神連親、6.日天男連信、7.大長津連秀、8.大勝津連平、9.神仲熊連豊、10.神天子連家、11.神道天連良、12.神司宮連法、13.神天仲連就、14.神頭国連軌、15.神斗玉連仍、16.神面土連篤、17.賢名皇連忠、18.意賢皇是連、19.賢天皇兼連、20.公兼皇連岩
* 福岡県の[[千如寺]] - 寺伝によれば、[[天竺]](インド)霊鷲山の僧「清賀」が渡来し、178年に開創した。
</ref>
* 福岡県の[[英彦山]]の[[霊泉寺_(福岡県添田町)|霊泉寺]] - [[北魏]]の僧である善正上人が531年、彦山を練行の地と定め、洞窟で修行を始め、英彦山修験が成立した。 
* [[法隆寺]]西院伽藍は、筑紫の寺院(大宰府都城の[[観世音寺]]又は福岡市難波池の[[難波天王寺]]又は[[筑後国放光寺]])が移築されたものである<ref>米田良三『法隆寺は移築された』(新泉社、[[2007年]]2月){{ISBN2| 4787706039}}</ref>。
 
=== 九州倭国の九州統一 ===
[[景行天皇]]の九州大遠征説話は「[[筑前]]」を拠点として「九州統一」を成し遂げた九州倭国の史書からの盗用である<ref>古田 武彦 著『盗まれた神話』</ref>。
* 畿内の大王が、本拠地を遠く離れ7年間も九州に遠征したとは考え難い。
* [[筑後]]や[[肥後]]では現地側の歓迎を受けながら、[[豊前]]や[[球磨]]・[[大隅]]では現地側の勢力と戦闘を行っている(東が討伐で、西が巡行)のは、東の大和から来た遠征軍としては不自然である。
* [[浮羽郡|浮羽]]まで来ていながら、九州の中枢筑前へ入っていないのは、不可解である。
* 遠征の出発地点から最終地の浮羽まで詳述しながら、突如浮羽から、[[日向]]・大和へ帰り着いている。
* 遠征の出発地点から終点の浮羽まで地名が、異常に詳細に、かつ長大に記述されている。
* 古事記の景行記には「九州遠征」についての記述が全くない。
 
[[神功皇后]]の筑後平定説話は九州倭国の史書からの盗用である。
 
=== 神社・君が代 ===
* [[住吉神社]]、[[八幡宮]]など、九州を始原とする神社が日本全国に多く分布するのは、九州倭国の信仰をヤマト王権が引き継ぎ広まったものである<ref group="注">[[神道]]発祥の地は壱岐市の[[月讀神社 (壱岐市)|月読神社]]([[壱岐国]])といわれており、日本最古の住吉神社は壱岐市にある[[住吉神社 (壱岐市)|住吉神社]]や、福岡市の[[住吉神社 (福岡市)|住吉神社]]である。また[[八幡様]]の総本宮は[[宇佐神宮]]であり、宇佐神宮の本宮は[[福岡県]][[飯塚市]][[大分八幡宮]]である。</ref>。
 
*[[豊国]]の[[宇佐神宮]]は650年([[大化]]6年)、[[周防国]]に[[松崎八幡宮]]を勧請して建立したとされており<ref>[[延喜式]]内の広島([[安芸国]])の[[多家神社|松崎八幡宮]](多家神社)とは別の宮である。</ref>、仏教を拡大する[[飛鳥京]]と併存した勢力であったかと思われる(769年、[[道鏡事件]]が起きている)。
 
*「[[君が代]]」は九州倭国の春の祭礼の歌である<ref>『奪われた国歌「君が代」』([[株式会社 (日本)|株式会社]]情報センター出版局)[[2008年]](平成20年)8月11日 『日本の秘密 「君が代」を深く考える』([[五月書房]])[[2000年]](平成12年)1月28日</ref>。
#[[千代町|千代]] - 福岡市の中心街の地名。
# 細石(さざれいし) - 福岡県糸島市に[[細石神社]]がある。
# 巌(いわお) - 福岡県糸島市に井原(いわら)という地名あり。
# 苔のむすまで - 福岡県糸島市に[[若宮神社 (糸島市)|若宮神社]]があり、祭神は「苔牟須売神([[コケムスメ]]・苔むすめ)」他である。
 
=== 正倉院 ===
奈良正倉院の宝物の殆どは[[天平]]10年([[738年]])に九州筑後の正倉院から献上されたものであり、元は九州倭国の宝物である<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou32/furuta32.html 古田武彦氏講演会(四月十七日) 抄録]</ref>。
* 「[[正倉院]]文書」中の正税帳によると、当時の税は、[[稲]]・[[塩]]・[[酒]]・[[粟]]などを納めるのが普通だが、「筑後国」の貢納物は[[鷹狩]]のための養鷹人と[[猟犬]]。白玉・青玉・縹玉などの玉類などである。[[鷹狩]]・[[曲水の宴]]などの貴族趣味は畿内地方にはなく、筑後にはあった。
* 玄界灘の真っ只中、九州本土から約60kmに浮かぶ[[沖ノ島]]は、[[宗像大社]]の神領であり、日本で最も多くの[[国宝]]が出土しており、「海の正倉院」と称されている<ref>[[伊藤まさこ]]著「太宰府・宝満・沖ノ島」([[不知火書房]]、[[2014年]](平成26年)8月)</ref>。沖ノ島から出土した土器のほとんどは[[北部九州|北部九州製]]であり、一部が[[山口県]]の土器である<ref>[[古田武彦]]著『ここに古代王朝ありき』([[ミネルヴァ書房]]、[[2010年]](平成22年)9月)</ref>。
 
=== 源氏物語等 ===
* 『[[源氏物語]]』はもともと九州『倭国』における作品で、[[平安時代]]に[[紫式部]]により今風に手を加えられ世に出たものである。[[物語]]の舞台の中心は7世紀前半の大宰府都城である<ref>[[米田良三]]著『続・法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』</ref>。
 
=== 九州年号表井真成 ===
[[2004年]]秋に[[中華人民共和国]][[陝西省]][[西安市]]の西北大学が西安市内から[[日本人]][[遣唐使]]「[[井真成]]」の墓誌を発見した。以下のことから、この「井真成」は、九州倭国の[[皇族]]であると考えられる<ref>『和姓に井真成を奪回せよ』(同時代社([[2005年]](平成17年)7月)){{ISBN2| 4886835562}}</ref>。
日本各地の寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等には[[私年号]](逸年号。朝廷が定めた元号以外の年号。)が多数散見される。<ref name="gengou2">「白鳳」は、『続日本紀』[[神亀]]元年冬十月条([[724年]])「白鳳以来、朱雀以前、年代玄遠、尋問難明」という記事があり、「法興」は、法隆寺金堂(こんどう)釈迦三尊像の[[光背]](こうはい)[[金石文]]や「伊予温湯碑」([[愛媛県]][[道後温泉]]、碑は現存せず、伊予風土記逸文(「釈日本紀」)による)などに記載がある。</ref>九州年号は[[鶴峰戊申]]が、邪馬台国=[[熊襲]]説(倭の五王も熊襲の王とする)を述べた著書『[[鶴峰戊申#襲国偽僣考|襲国偽僣考]]』のなかで、それらを熊襲の年号として考証したものである。古田武彦の『失われた九州王朝』で再評価された。史料はこのほかに『[[二中歴]]』『[[海東諸国記]]』などがある。
* 死後追贈された役職「尚衣奉御」は、皇帝の衣服を管理する部門の責任者で単なる留学生に与えられるものではない。当時この官職に就くことができたのは、皇子を含む皇室貴族だけだった。
* 井真成の死は皇帝に報告され、葬儀の費用は唐政府が負担したと記されているが、これは三等官以上の外国使節に対する扱いである。
* 現在{{いつ|date= 2021年2月5日 (金) 19:50 (UTC)}}「井」という[[姓]]は九州[[熊本県]]の[[産山村]]・[[南小国町]]・[[一の宮町]]などに多く存在する<ref group="注">「井」一族は神武天皇とも関わりのある古い時代からの姓で、有力豪族だったという。また[[本姓]]は「井」だが「井野(イの)」等の[[苗字]]を名乗っている家も多い。</ref>。
* 井は倭(ゐ)に通じる。
 
=== 地名 ===
次に挙げるのは『襲国偽僣考』の考証を修正したものである(「[[二中歴]]」によれば、「継体」という年号をもって「開始年号」としている。二中歴以外の文献では、「継体」を欠いて二つ目の「善記(善化)」から始まる。二中歴では大化は6年(700年)で終わり九州年号は終了するが、大化を9年(703年)までとし更に大長を加え、大長9年(712年)を九州年号の終わりとする。)。
* 大宰府政庁の「[[蔵司]]」「[[老司]]」、[[北九州市]]の「[[門司区|門司]]」、山口県の「[[下関市|下関]]」、大分県の「[[佐賀関]]」等々は、九州倭国の役所と考えられる<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nikki9/nikki520.html 古賀達也の洛中洛外日記第520話 2013年(平成25年)2月2日]</ref>。
* 大分県の「[[国東半島]]」の国東とは、九州倭国の東という意味である。
 
=== 駅路 ===
(九州年号が制定された理由は、[[南北朝時代 (中国)|南朝]]との交流が[[502年]]の[[梁]]への[[朝貢]]で最後となり、[[冊封体制]]から外れた為に自前の年号が必要になったからと考えられる。また倭のライバル[[高句麗]]では[[391年]]に[[好太王]](永楽太王)が[[永楽 (高句麗)|永楽]]の年号を用いており、倭や高句麗に従属されられていた[[新羅]]でさえ[[536年]]には[[建元 (新羅)|建元]]と云う年号を建元している。[[天子]]を自称していた倭の[[大王]]が年号を定めなかったことはありえないと考えられる。)
[[古代]][[日本]]では、[[駅路]]という全長6,300kmにも及ぶ幅6-30mの直線的道路が本州をほぼ縦断して全国に作られ、沿線には「[[駅家]](うまや)」という休憩・[[宿泊施設]]も作られていた。これは2021年(令和3年)現在の[[日本の高速道路|日本の高速道路網]]にも匹敵するものであるが、これだけの[[道路]]の建設にもかかわらず、どれだけ費用がかかり、誰が負担したかと言う事がわかっていない。当時の[[人口]]は500万人程度と推測されており、建設には長い歳月と膨大な労力が必要だったと考えられる。これらも九州倭国が、半島での[[戦争]]を遂行するために兵員の移動・物資の補給用に建設したものであると考えられる<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho108/kai10803.html 『古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?』]</ref>。
{|border="1" cellspacing="0" cellpadding="5"
|-bgcolor="#EEEEEE"
!開始年<br/>(西暦)!!元号名!!読み!![[干支]]!!天皇年代
|-
|517||[[継体]]||けいたい||[[丁酉]]||継体11年
|-
|522||[[善化]](善記)||&nbsp;||[[壬寅]]||継体16年
|-
|526||[[正和 (九州年号)|正和]]||&nbsp;||[[丙午]]||継体20年
|-
|531||[[発倒]](教到)||&nbsp;||[[辛亥]]||継体25年
|-
|536||[[僧聴]]||&nbsp;||[[丙辰]]||[[宣化]] 1年
|-
|541||[[同要]](明要)||&nbsp;||[[辛酉]]||[[欽明]] 2年
|-
|552||[[貴楽]] ||&nbsp;||[[壬申]]||[[欽明]]13年
|-
|554||[[結清]](法清)||&nbsp;||[[甲戌]]||欽明15年
|-
|558||[[兄弟 (九州年号)|兄弟]] ||&nbsp;||[[戊寅]]||欽明19年
|-
|559||[[蔵和]] ||&nbsp;||[[己卯]]||欽明20年
|-
|564||[[師安]] ||&nbsp;||[[甲申]]||欽明25年
|-
|565||[[和僧]] ||&nbsp;||[[乙酉]]||欽明26年
|-
|570||[[金光]] ||&nbsp;||[[庚寅]]||欽明31年
|-
|576||[[賢接]](賢稱)||&nbsp;||[[丙申]]||[[敏達]] 5年
|-
|581||[[鏡當]] ||&nbsp;||[[辛丑]]||敏達10年
|-
|585||[[勝照]] ||&nbsp;||[[乙巳]]||敏達14年
|-
|589||[[端政]] ||&nbsp;||[[己酉]]||[[崇峻]] 2年
|-
|594||[[従貴]](告貴)||&nbsp;||[[甲寅]]||[[推古]] 2年
|-
|601||[[煩転]](願転)||&nbsp;||辛酉||推古 9年
|-
|605||[[光元]] ||&nbsp;||[[乙丑]]||推古13年
|-
|611||[[定居]] ||&nbsp;||[[辛未]]||推古19年
|-
|618||[[倭京]] ||&nbsp;||戊寅||推古26年
|-
|623||[[仁王 (九州年号)|仁王]] ||&nbsp;||[[癸未]]||推古31年
|-
|629||[[聖徳]](なし)||しょうとく||[[己丑]]||[[舒明]] 1年
|-
|635||[[僧要]] ||&nbsp;||[[乙未]]||舒明 7年
|-
|640||[[命長]] ||&nbsp;||[[庚子]]||舒明12年
|-
|647||[[常色]] ||&nbsp;||[[丁未]]||[[孝徳]] 3年
|-
|652||[[白雉]]||はくち||[[壬子]]||孝徳 8年
|-
|661||[[白鳳]]||はくほう||辛酉||[[斉明|齊明]] 7年
|-
|684||[[朱雀]]||すざく||甲申||[[天武]]12年
|-
|686||[[朱鳥]]||しゅちょう・あかみとり||[[丙戌]]||天武14年
|-
|695||[[大化]]||たいか||乙未||[[持統]] 9年
|-
|704||[[大長]] ||&nbsp;||[[甲辰]]||[[文武]] 8年
|}
 
== 説の歴史と問題点 ==
=== 説の歴史 ===
九州王朝説の提唱者である古田は[[親鸞]]研究での堅実な実績で知られ、当初は『[[史学雑誌]]』78-9や『[[史林]]』55-6、56-1など、権威あるとされる研究誌で公表を行い、一定の評価を得ていた。九州王朝説に関しても、一時期は[[高等学校]][[日本史]][[教科書]]の脚注で「邪馬台国(邪馬壱国とする説もある)」と言及されたこともある。しかしその後、勤務校の[[紀要]]を除けば、学術雑誌や学会発表などの手段によって主張を公表する過程を踏むことが少なくなり、学界からの反応がなくなった。また古田は『[[東日流外三郡誌]]』に深く関与しており、『東日流外三郡誌』関連文書にある一節「磐井王は筑紫の邪馬壹之系なり」が本説を補強すると考えていた<ref>古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版</ref>
 
歴史学、考古学等の研究者は、本説の内容に関して、自らの考古学の資料解釈の成果とそぐわないこと等をもってから、検証に耐えうる内容ではないとしており<ref group="注">[[安本美典]] 『古代九州王朝はなかった』([[新人物往来社]])には、[[井上光貞]]が九州王朝説を「空中楼閣」と評したとしている。{{PDFlink|[http://www.teikokushoin.co.jp/teacher/junior/bookmarker/pdf/200409h/bookmarker2004.09-02-04.pdf 東アジアの視点で、日本の歴史を学ぶ]}} {{リンク切れ|date= 2021年2月}}・{{PDFlink|[httphttps://www.teikokushoin.co.jp/teacher/juniorjournals/bookmarker/pdf/200504h/bookmarker2005.04-14.pdf/%E4%B8%AD%E6%AD%B42005.04-14%E3%80%8C%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%8E%8B%E6%A8%A9%E3%81%AF%EF%BD%9E%E3%80%8D%E3%80%8C%E9%89%84%E7%A0%B2%E3%81%AF%EF%BD%9E%E3%80%8D.pdf ヤマト王権は鉄を使って勢力を広げたって本当?]|206&nbsp;[[キロバイト|KB]]}} {{ja icon}}
</ref>、当初古田が権威あるとされる研究誌での公表を行っていた頃には評価とあわせ批判をしていたものの、現在では主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書においても記載されることていく無視されて<ref group="注" name="saeki" />
 
その一方で、[[市民|一般市民]]や在野の研究者の中には熱心な支持者が存在し、従来の古代日本史学をいまだ[[皇国史観]]の影響下にあるものと見て、本説はそれに代わる新しい史観であり、「日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できる」と主張している。また本説からは多くの亜流が生まれている。
 
=== 問題点 ===
九州王朝説は現在のところ、日本古代史学界からは「批判・検証を受ける段階に無い」と見られ黙殺されている。それは以下のような理由による。
# 通説とあまりにかけ離れており日本古代史学界の多くの研究成果と整合しない<ref group="注">日本古代史考古学界では[[年輪年代学]]の成果から[[3世紀]]中葉に[[畿内]]を中心とする連合が形成されたとする見解が主流となりつつある([[参照 (書誌学)|参照]]:[[白石太一郎]] 『古墳とヤマト政権』 [[文藝春秋]]、[[1999年]](平成11年) {{ISBN2| 4166600362}})。</ref>。
* 古田武彦やその支持者が史料批判など歴史学の基礎手続きを尊重していない。<ref>一例を挙げると、同時代史書と後代史書が矛盾する場合は、同時代史書を優先、自国史書より利害関係のない外国史書を優先という方法により立論していながら自説と矛盾する『通典』を無視していると思われる発言を支持者がしている。(出典:[http://6516.teacup.com/yasyut/bbs?OF=20&BD=11&CH=5 古田史学の会 横田幸男氏の発言]に「最後に当会は、屁理屈も理屈であると言われる日野陽仁(川村明)氏の九州王朝説批判を批判することはありません。これは、当会の考えとして元の史料である『通典』『唐会要』『太平御覧』の史料批判から出発すべきだと考えるからです。'''それらの史料性格については、大昔に古田氏が『邪馬臺国の常識』(松本清張編 毎日新聞社)で論じているところ'''であり、新しい知見や再解釈が行なわれば公開させていただきます。そんなことは'''当面ありそうにない'''です。」とあり、『通典』とそれを根拠にした'''批判を無視していくことを公言'''している。なお、別の九州王朝説論者による批判は存在する。)。</ref>
# 古田武彦やその支持者が[[史料批判]]など歴史学の基礎手続きを尊重していない<ref group="注">一例を挙げると、同時代史書と後代史書が矛盾する場合は、同時代史書を優先、自国史書より利害関係のない外国史書を優先という方法により立論していながら自説と矛盾する『通典』を無視していると思われる発言を支持者がしている。(出典:[https://web.archive.org/web/20140729052409/http://6516.teacup.com/yasyut/bbs?OF=20&BD=11&CH=5 古田史学の会 横田幸男の発言] に「最後に当会は、屁理屈も理屈であると言われる日野陽仁(川村明)氏の九州王朝説批判を批判することはありません。これは、当会の考えとして元の史料である『通典』・『唐会要』・『太平御覧』の史料批判から出発すべきだと考えるからです。'''それらの史料性格については、大昔に古田氏が『邪馬臺国の常識』(松本清張編 毎日新聞社)で論じているところ'''であり、新しい知見や再解釈が行なわれば公開させていただきます。そんなことは'''当面ありそうにない'''です。」とあり、『通典』とそれを根拠にした'''批判を無視していくことを公言'''している。なお、別の九州王朝説論者による批判は存在する。)。</ref>。
* 日本古代史学界の研究成果に合わない。<ref>日本古代史考古学界では[[年輪年代学]]の成果から3世紀中葉に畿内を中心とする連合が形成されたとする見解が主流となりつつある(参照:[[白石太一郎]] 『古墳とヤマト政権』 文藝春秋、1999 ISBN 4166600362)。</ref>
*# 古田武彦の漢文の読み方が恣意的である<ref group="注">[[山尾幸久]] 『新版 魏志倭人伝』 [[講談社]][[1986年]](昭和61年) ISBN{{ISBN2| 406148835X}} P62、P255~P255 - [[参照 (書誌学)|参照]]。張明澄「誤読だらけの邪馬台国 中国人が記紀と倭人伝を読めば」[[久保書店]][[1992年]](平成4年) は「古田説はただの帳尻合わせ」とする。謝銘仁 『邪馬台国 中国人はこう読む』 [[立風書房]][[1983年]](昭和58年)は「水行十日・陸行一月」を帯方郡からのトータルの所要日数とする古田説について、極端な漢文の読み方であり問題にならないとする。『歴史と旅』秋田書店、1984「東アジアからみた邪馬台国」「魏志倭人伝の読み方、日本人のここが間違っている 謝銘仁vs張明澄 司会安本美典」は「水行十日陸行一月」について「帯方郡から邪馬台国まで、すなわち全程(たとえば古田説)に要した距離ではない。漢文上そういう読み方は無理。その場合は「自帯方郡・・・至邪馬台国…」のようになる。」とする。</ref>
#重要な古文書をまともに読んでいない<ref>聖徳太子研究者の[[石井公成]]は[https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/c/869a6dd5f61c8a24bcb2b8a723659d8d 自身の「聖徳太子をめぐる珍説奇説」の一連ブログ記事]において聖徳太子関連についてトンデモが多いと批判している</ref>。
飛鳥時代以前を記録した一次史料が[[金石文]]や発掘された[[木簡]]など僅かしか存在しない、従って説の論拠となる史料は、僅かな一次資料と記紀や漢~唐、朝鮮の歴史書等に散見される間接的な記事、九州年号(逸年号が九州年号である証明は無い)や大宰府など僅かに残されたものに止まっている。この資料の少なさが、九州王朝否定論の論拠の一つとなっており、また多くの亜流を生む原因ともなっている。通説側から九州王朝の存在を仮定しての[[日本書紀]]等の既存資料の解釈が恣意的であると問題視されているが、九州王朝説からすると「古代大和王朝の存在を裏付ける一次資料は全く無く、通説は大和一元論を前提に資料を曲解しており、資料の扱いが恣意的である」となる<ref name="shiryou">『日本書紀』の神代巻に「筑紫」は14回出現するが「大和」は1回も出現しないことなどから、神代の舞台は九州であるとする意見は九州王朝説に限らず多いが、九州王朝説では上記のように「壬申の乱」の舞台までも九州であるとして、記紀の殆どは「九州王朝」の史書からの盗用であり、「古代大和王朝」の文献資料など存在しないとするものもある。</ref>。
 
=== 問題点に対する九州王朝説側からの意見等 ===
また、九州王朝説の支持研究者間でも、白村江の戦いまでを九州王朝の歴史と見る、壬申の乱までを九州王朝の歴史と見る、大化の改新まで九州王朝の歴史と見る<ref name="iwai"> </ref> 等考え方は様々であり定まっていない。[[中小路駿逸]](元[[追手門学院大学]]教授)は、雑誌「[[市民の古代]]」への投稿について「控え目に言って玉石混淆」と評しており、一部の支持者の主張が突拍子もないと言う類であることを認めている。
飛鳥時代以前を記録した一次史料は[[金石文]]や発掘された[[木簡]]など僅かしか存在しない、従って説の論拠となる史料は、この僅かな一次資料と記紀や万葉集、漢-唐、朝鮮の歴史書等に散見される間接的な記事、九州年号や大宰府、[[那珂遺跡群]]、金印、神籠石などである。この資料の少なさが、九州倭国否定論の論拠の一つとなっており、また多くの亜流を生む原因ともなっている。通説側から九州倭国の存在を仮定しての[[日本書紀]]等の既存資料の解釈が恣意的であると問題視されているが、九州王朝説からすると「古代ヤマト王権の存在を裏付ける都城などの遺跡、官僚機構の存在を示す木簡などの一次資料は全く存在せず、通説は二次資料・三次資料である記紀を鵜呑みにしたヤマト王権一元論を前提にその他の資料を無視したり曲解しており、資料の扱いが恣意的である」となる。
 
『日本書紀』の神代巻に「筑紫」は14回出現するが「大和」は1回も出現しないことなどから、神代の舞台は九州であるとする意見は九州王朝説に限らず多いが、九州王朝説の一部の論者の中には上記のように「壬申の乱」の舞台までも九州であるとして、記紀の殆どは「九州倭国」の史書からの盗用であり、「古代ヤマト王権」の文献資料など存在しないとする見方もある。
 
九州王朝説は九州王朝一元論に陥り易いが、これは記紀の基になった九州王朝の史書が九州王朝一元論によって書かれていたためにそう観えるのであり、現実を正確に反映しているわけではない。古田武彦は自分の仮説は九州王朝と大和王朝の双方の存在をみとめる「[[多元王朝説]]」なのであって九州王朝一元説は支持しない{{Refnest|group="注"|「私は九州王朝一元史観ではないわけでありまして、多元史観なわけですね。私のいっているのは、多元史観が大事であると、多元史観というのは今おっしゃいました出雲であるとか、吉備であるとか、日向であるとか、そういったところの、それぞれの[[歴史]]を大事にしていくということでありまして、その一つを原点にして、全部を説明していく、というやり方をしないということなんです。だから'''近畿天皇家一元主義にかわる九州王朝一元主義をとるというんじゃない'''んですね。」<ref>{{Cite web2 |url=https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin13/onamekei.html |title=大嘗祭と九州王朝の系図 |date=1991-02-09 |publisher=市民の古代第13集 1991年 市民の古代研究会編 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20240503125819/https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin13/onamekei.html |df=ja |url-status=dead |archivedate=2024-05-03 |accessdate=2024-05-03}}</ref>}}と明言している。
 
また、九州王朝説の支持研究者間でも、白村江の戦いまでを九州倭国の歴史と見る、壬申の乱までを九州倭国の歴史と見る、大化の改新まで九州倭国の歴史と見る<ref group="注" name="iwai" />等考え方は様々であり定まっていない。かつて古田の弟子であり今は袂を分かった[[原田実 (作家)|原田実]]のように、九州王朝は磐井の乱で大和朝廷に屈したと考える論者もいる。[[中小路駿逸]](元[[追手門学院大学]]教授)は、雑誌「[[市民の古代]]」への投稿について「控え目に言って玉石混淆」と評しており、一部の支持者の主張が突拍子もないと言う類であることを認めている。
<!-- 放送日不明
古事記研究家の[[竹田恒泰]]は、八代市で行った講演で上記「八代伊勢説」を紹介等したにもかかわらず[[テレビ番組]]「[[そこまで言って委員会NP]]」の中では「記紀は我々日本人にとって真実なのであり、海外の[[参考文献|文献]]と比較して事実を暴く様な事をしてはいけない。」・「日本史の教科書に魏志倭人伝等載せるべきではない。」等と発言している。
-->
 
== 関連書 ==
=== 肯定側 ===
* [[古田武彦]] 『[[邪馬台国はなかった|「邪馬台国」はなかった]]』 朝日新聞社(のち角川文庫、朝日文庫)、1971年 ISBN{{ISBN2| 978-4022607416}}
* 古田武彦 『失われた九州王朝』 朝日新聞社(のち角川文庫、朝日文庫)、1973年 ISBN{{ISBN2| 978-4022607508}}
* 古田武彦 『盗まれた神話-記・紀の秘密-』 朝日新聞社(のち角川文庫、朝日文庫)、1975年 ISBN{{ISBN2| 978-4022607836}}
* 古田武彦編 『邪馬壹国から九州王朝へ』 新泉社、1987年 ISBN{{ISBN2| 978-4-7877-8720-0}}
* 古田武彦 『古代は輝いていた一-『風土記』にいた卑弥呼-』 朝日新聞、1988年 ISBN{{ISBN2| 978-4022604972}}
* 古田武彦 『古代は輝いていた二-日本列島の大王たち-』 朝日新聞、1988年 ISBN{{ISBN2| 978-4022604989}}
* 古田武彦 『古代は輝いていた三-法隆寺の中の九州王朝-』 朝日新聞、1988年 ISBN{{ISBN2| 978-4022604996}}
* 古田武彦 『古代史60の証言』 かたりべ文庫、1991年 ISBN{{ISBN2| 978-4-397-50339-9}}
* 古田武彦、[[福永晋三]]、[[古賀達也]] 『九州王朝の論理「日出ずる処の天子」の地』 明石書店、2000年 ISBN {{ISBN2|4-7503-1293-2}}
* 古田武彦、谷本茂 『古代史の「ゆがみ」を正す「短里」でよみがえる古典』 新泉社、1994年 ISBN{{ISBN2| 4-7877-9403-5}}
* [[内倉武久]] 『太宰府は日本の首都だった—理化学と「証言」が明かす古代史』 ミネルヴァ書房、2000年 {{ISBN2| 4-6230-3238-8}}
:* 以上、[[多元王朝説]]論者による古田武彦支持の書籍。
* [[草野善彦]] 『放射性炭素年代測定と日本古代史学のコペルニクス的転回』 本の泉社、2003年 {{ISBN2| 4-8802-3646-2}}
* [[内倉武久]] 『太宰府は日本の首都だった―理化学と「証言」が明かす古代史』 ミネルヴァ書房、2000年 ISBN 4-6230-3238-8
* 九州古代史の会編 『「磐井の乱」とは何か—九州王朝多元説を追う』 同時代社、2006年 {{ISBN2| 978-4-88683-593-2}}
* [[草野善彦]] 『放射性炭素年代測定と日本古代史学のコペルニクス的転回』 本の泉社、2003年 ISBN 4-8802-3646-2
* 九州古代史の会編 『「磐井の乱」とは何か―九州王朝多元説を追う』 同時代社、2006年 ISBN 978-4-88683-593-2
:* 以上、[[九州王朝一元説]]に代表される素人研究者の書籍。
 
=== 否定側 ===
* [[岡田英弘]] 『倭国東アジア世界の中で』 中央公論新社、1977年 ISBN{{ISBN2| 4121004825}}
* [[山尾幸久]] 『新版 魏志倭人伝』 講談社、1986年 ISBN{{ISBN2| 406148835X}}
* [[安本美典]] 『虚妄(まぼろし)の九州王朝—独断と歪曲の「古田武彦説」を撃つ』 梓書院、1995年 ISBN{{ISBN2| 4-87035-066-1}}
* 安本美典 『古代九州王朝はなかった古田武彦説の虚構』 新人物往来社、1986年 ISBN{{ISBN2| 4-404-01352-3}}
* 安本美典 『邪馬一国はなかった』 徳間書店、1988年 ISBN{{ISBN2| 4195986060}}
* [[高木彬光]] 『邪馬壱国の非論理』 私家版、1977年
* 高木彬光 『邪馬壹国の陰謀』 日本文華社、1978年
* [[原田実 (作家)|原田実]] 『幻想の多元的古代万世一系イデオロギーの超克』 批評社、2000年 ISBN{{ISBN2| 4826502958}}
* 原田実 『トンデモ日本史の真相』 文芸社、2007年 ISBN{{ISBN2| 4286027511}}
* [[久保田穣]] 『古代史のディベート』 大和書房、1994年 ISBN{{ISBN2| 447995029X}}
* [[鷲﨑弘朋]] 『邪馬台国の位置と日本国家の起源』 新人物往来社、1996年 ISBN{{ISBN2| 4404024053}}
* [[西野凡夫]] 『古代天皇の系譜と紀年 さらば九州王朝論』 高城書房出版、1997年 ISBN {{ISBN2|4924752584}}
* [[張明澄]] 『誤読だらけの邪馬台国 中国人が記紀と倭人伝を読めば』 久保書店、1992年
 
=== 参考脚注 ===
{{脚注ヘルプ}}
* [[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]他 『日本書紀(1)』 岩波書店、2003年 ISBN 4-00-007230-7
* [[石原道博]] 『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』 岩波書店、1985年 ISBN 4-00-334011-6
* 石原道博 『新訂 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』 岩波書店、1986年 ISBN 4-00-334021-3
* [[久保田穣]] 『古代史における論理と空想』 大和書房、1992年 ISBN 4479950265
* [[長沼賢海]] 『邪馬台と大宰府』 太宰府天満宮文化研究所、1968年 ASIN B000J9GZO2
* [[佐伯有清]] 『邪馬台国論争』 岩波書店、2006年 ISBN 4-00-430990-5
* [[家永三郎]]・古田武彦 『聖徳太子論争』
 
=== 外部リンク注釈 ===
{{Reflist|group="注"|2}}
=== 史料 ===
* [http://www.gakushuin.ac.jp/univ/sci/top/nendai_data/index.htm 学習院大学年代測定室]
 
=== 肯定側出典 ===
{{Reflist|2}}
* [http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta3.html 古田史学会の会報]
* [http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/kaihou08.html 古田史学の会のために]
 
=== 否定側参考文献 ===
* [[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]他 『日本書紀(1)』 岩波書店、2003年 {{ISBN2| 4-00-007230-7}}
* [http://www8.ocn.ne.jp/~douji/shihou.htm 歴史を捻じ曲げる日本の司法(※古田武彦氏の情報操作について)]
* [[石原道博]] 『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』 岩波書店、1985年 {{ISBN2|4-00-334011-6}}
* [http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu.htm 九州王朝説批判]
* 石原道博 『新訂 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』 岩波書店、1986年 {{ISBN2| 4-00-334021-3}}
 
* [[久保田穣]] 『古代史における論理と空想』 大和書房、1992年 {{ISBN2| 4479950265}}
=== 参考 ===
* [[長沼賢海]] 『邪馬台と大宰府』 太宰府天満宮文化研究所、1968年 ASIN B000J9GZO2
* [http://puzhai.cocolog-nifty.com/zazhi/2005/12/post_b1ef.html 朴斎雑志 研究と「研究ごっこ」の境]
* [[佐伯有清]] 『邪馬台国論争』 岩波書店、2006年 {{ISBN2| 4-00-430990-5}}
* [http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_040710.htm 古代日向の謎]
* [[家永三郎]]・古田武彦 『聖徳太子論争』
 
== 関連項目 ==
* [[津田左右吉]]
* [[日本神話|記紀神話]]
* [[倭・倭人関連の中国文献]]
* [[倭・倭人関連の朝鮮文献]]
576 ⟶ 557行目:
* [[多氏]]
 
== 脚注外部リンク ==
{{col-begin}}
<div class="references-small"><references/></div>
{{col-2}}
{{デフォルトソート:きゆうしゆうおうちようせつ}}
; 肯定側
[[Category:日本の歴史]]
* [http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta3.html 古田史学会の会報] {{ja icon}}
* [http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/kaihou08.html 古田史学の会のために] {{ja icon}}
{{col-2}}
; 否定側
* {{Wayback|url=http://www8.ocn.ne.jp/~douji/shihou.htm |title=歴史を捻じ曲げる日本の司法(※ 古田武彦の情報操作について) |date=20040619133010}}
* [https://web.archive.org/web/20210418181337/http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu.htm 九州王朝説批判] {{ja icon}}
{{col-end}}
; 参考
* [http://puzhai.cocolog-nifty.com/zazhi/2005/12/post_b1ef.html 朴斎雑志 研究と「研究ごっこ」の境] {{ja icon}}
* [http://nire.main.jp/rouman/sinwa/yamatohime.htm 神話の森 倭姫命世記] {{ja icon}}
* [https://web.archive.org/web/20200313085939/http://yamatai.cside.com/index.htm 邪馬台国の会ホームページ] {{ja icon}}
* [https://web.archive.org/web/20020811051541/http://inoues.net/yamataikoku/index.html 邪馬台国大研究] {{ja icon}}
 
{{DEFAULTSORT:きゆうしゆうおうちようせつ}}
[[Category:倭人伝]]
[[Category:日本の史学史]]
[[Category:日本の歴史論争]]
[[Category:かつて存在したアジアの国家]]
[[Category:日本の古代国家]]
[[Category:弥生時代]]
590 ⟶ 584行目:
[[Category:奈良時代]]
[[Category:九州地方の歴史]]
[[Category:仮説]]
{{japanese-history-stub}}
 
[[zh:九州王朝说]]