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{{特殊文字|説明=[[補助漢字|JIS X 0212]]、[[JIS X 0213]]}}
{{複数の問題
| 独自研究 = 2021年2月5日 (金) 19:50 (UTC)
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[[ファイル:Japan Kyushu Map Chikei.gif|thumb|200px|right|九州周辺の地形図]]
'''九州王朝説'''(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、[[7世紀]]末まで九州に日本を代表する王朝があり、[[大宰府|太宰府]](だざいふ)がその[[首都]]であったとする説である。
ただ[[2021年]]([[令和]]3年)[[現在]]、[[井上光貞]]、[[榎一雄]]、[[山尾幸久]]など複数の東洋史・日本史学者等は古田説を批判しており、主要な百科事典や邪馬台国論争の研究書には記載されていない<ref group="注" name="saeki">『邪馬台国論争』(佐伯有清、[[岩波書店]]、[[2006年]]([[平成]]18年))には掲載されていない。</ref> <ref group="注">古田は自ら『学士会報』No857 2006-II所収「九州王朝の史料批判」において「'''これに対する学会の応答欠乏し'''」と述べている。</ref>。
{{Smaller|注:本記事は、古田史学会で発表された論文や九州王朝説支持者の著作の内容などを含むため、古田説とは異なる。また互いに矛盾する箇所もある<ref group="注" name="tigai">「[[九州王朝の二都制]]」「[[唐軍の北九州進駐]]」などは、執筆者の判断によって省略した。古田による邪馬台国説を改良、「壬申の乱九州内説」を採用、「[[大化の改新]]」の解釈を加え、九州倭国の滅亡・ヤマト王権の成立を[[文武天皇]]5年([[701年]])ではなく[[持統天皇]]9年([[695年]])とした(「乙巳の変」による政権簒奪時を政権交代時とした)。神武東征の時期を[[5世紀]] 〜 [[6世紀]]とし、[[欠史八代]]の時期を[[古墳時代|古墳時代後期]] 〜 [[飛鳥時代]]とした。[[#問題点]]で批判のあるような『通典』の解釈・古田による『魏志倭人伝』邪馬台国への所要日数(水行十日陸行一月)についての解釈なども省略した。そのほかにも古田武彦と違う面がある。</ref>。}}
== 概要 ==
=== 論争の経緯 ===
[[古事記]]や[[日本書紀]](8世紀成立)には、[[邪馬台国]](邪馬壱国)や[[倭の五王]]の記述がないが、古い中国の史書とは時期も異なる。例えば、中国の[[魏志倭人伝]](3世紀成立)では、[[魏 (三国)|魏]]([[帯方郡]])への朝貢は[[卑弥呼]]・[[壱与]]という二人の女王の業績とされているが、日本書紀では魏に朝貢した倭王は[[神功皇后]]一人であるとされている。
こうした矛盾は[[江戸時代]]から議論の対象となっていた。[[松下見林]]は[[異称日本伝]]において中国史書の内容は信用できないとして日本書紀を基準に解釈すべきことを主張し、邪馬台国も倭の五王もすべて日本書紀の記述に合致するように解釈し直したが、その内容は[[倭王武]]を[[雄略天皇]]と[[清寧天皇]]の二人に比定するなど現代の文献史学の水準からは稚拙な面も存在し、松下の[[邪馬台国畿内説]]や倭の五王近畿天皇家説は現在のように広く受け入れられていたわけではなかった。
多くの[[国学者]]に影響を与えた[[本居宣長]]は[[馭戒慨言]]において邪馬臺国や倭の五王は本来の倭王である近畿天皇家ではなく、[[熊襲]]や[[任那日本府]]が倭王を僭称したとする[[熊襲偽僭説]]を主張した。この熊襲偽僭説を完成させたのが[[鶴峯戊申]]であり、彼は中近世文書に頻出する[[大宝 (日本)|大宝]]以前の古代逸年号についても古代の[[九州年号]]である、と主張するなど現在の九州王朝説に近い主張となっていた。[[明治維新]]以降も[[戦前]]・[[戦後]]を問わず[[神宮奉斎会]][[会長]]の[[今泉定助]]、[[東京帝国大学]][[教授]]の[[飯田武郷]]、[[九州帝国大学]]教授の[[長沼賢海]]、[[東北大学]][[名誉教授]]の[[井上秀雄]]らが熊襲偽僭説や九州王朝説を主張していた。
こうした流れの中、在野の研究者であったものの[[親鸞]]研究等で学界からも一定の評価をされていた[[古田武彦]]の著書『失われた九州王朝』が[[ベストセラー]]となった。彼の九州王朝説による論文「多元的古代の成立」は[[史学雑誌]]にも掲載され、[[井上光貞]]や[[安本美典]]らとの間で論争となった。[[市民の古代研究会]]が結成されると古田の学説は「古田史学」と呼ばれ、主にアマチュアの研究者の間で広まった。
一方、[[東日流外三郡誌]]を巡る論争での古田の学界での影響力の低下、市民の古代研究会の分裂、さらには学術論文の体裁を得ていないアマチュア論文の乱立もあり九州王朝説は一時期ほど広まっておらず、[[古田史学の会]]は定説派の学者も招聘した講演会<ref>古賀達也 [http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/wi-empire-kyushu-dynasty/%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%93%EF%BC%92%EF%BC%96%E8%A9%B1%e3%80%8020170122/ 新春講演会の挨拶]</ref>などの活動を行っている。[[2018年]]([[平成]]30年)に小説家の[[百田尚樹]]は『[[日本国紀]]』で九州王朝説を肯定的に扱っているものの、学界で扱われることは少なく、あったとしても[[所功]]の『元号 年号から読み解く日本史』のように否定的に論じられている。
===
:''(以下は古田説の概要ではなく、学者・在野を問わず、各論者の説を纏めたもの。)''
* 紀元前から[[7世紀]]末まで[[日本]]を代表した政権は一貫して九州にあり、[[倭]](ゐ)、大倭(たゐ)、{{補助漢字フォント|俀}}(たゐ)と呼ばれていた<ref group="注" name="joukoon">「委」は、上古音(周・秦・漢の音)では「uar、わ」。中古音(隋・唐音)では「ui、ゐ」(両唇音のwはなかった)。「[[法華義疏]]」に「大委国上宮王私集非海彼本」とある。倭を委としており、上古音で委の発音は倭(わ)と同じであった証拠の一つである。万葉仮名では「委」は「わ、ゐ」。藤原京出土の木簡に、「伊委之」( = 鰯、いわし)。[[藤堂明保]]著『漢字語源辞典』([[学燈社]]、[[1965年]]([[昭和]]40年)、{{ISBN2| 4312000018}})によると、魏代の「倭(委)」は「( I ) uar 」という読みである。</ref>。
* [[1世紀]]には倭奴国(倭国)が[[北部九州]]を中心とした[[地域]]に成立し、倭奴国王(倭王)は[[博多湾]]近くに[[首都]]をおいて[[漢]]に[[朝貢]]し「[[漢委奴国王印|漢委奴國王]]」の[[金印]]を授与されていた。
* 倭王[[卑弥呼|卑彌呼]](ひみか)は[[伊都国]]に都し、倭国は[[福岡平野]]の[[奴国]](当時としては大都市の2万戸)を中心としていた<ref group="注">「[[魏志倭人伝]]」に見える[[3世紀]]の「邪馬壹国」([[邪馬台国]])を記録どおり「邪馬壹国」とする([[邪馬壹国説]])。古田は、魏志倭人伝など古い記録は、邪馬壹国であり邪馬臺国の表記は誤り、邪馬壹国(やまいちこく)であるとしているが、[[後漢書]]倭伝に「邪摩惟(やまたい)」、[[隋書]]{{補助漢字フォント|俀}}伝に「邪靡堆(やまたい)」等とあることから、[[陳 (南朝)|南朝]]滅亡後の倭(ゐ) → 大倭・{{補助漢字フォント|俀}}(たゐ)への変化に伴い邪馬壹国 → 邪馬臺国になったと考えられる。</ref>。漢が滅亡し魏が興ったことにより、「漢委奴国王」の金印に代わり魏より「親魏倭王」の金印が授与された。
* 卑弥呼は、[[筑紫]][[君]]の祖、[[甕依姫]](みかよりひめ)のことである。また、[[台与|壹與]](ゐよ)は、[[漢]]風の名(倭與)を名乗った最初の倭王である。
* [[倭の五王]](讃、珍、済、興、武)も九州倭国の王であり、それぞれ倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武と名乗っていた。
* [[磐井 (古代豪族)|筑紫君磐井]](倭わい)は倭(九州)の王([[武烈天皇]])であり、[[継体天皇|継体]]は九州南部の[[豪族]]である。[[磐井の乱]]とは、九州倭国において継体が反乱し、武烈朝を武力討伐した記事である<ref group="注" name="iwai">古田は当初、「磐井の乱」を[[畿内]]ヤマトの九州倭国に対する反乱とみていたが、最近は無かったと見ている。</ref>。
* 九州倭国の[[継体天皇|継体朝]]において日本で初めて独自の[[元号]]([[#経緯|九州年号]])が建てられた。
* [[隋]]王朝との対等外交を行った「{{補助漢字フォント|俀}}王姓阿毎 字[[多利思北孤]] 號阿輩{{JIS2004フォント|雞}}彌」<ref group="注" name="tarisihoko">「姓は阿毎(アメ・アマ「天」)、字は多利思北(または比)孤(タリシホコ、「足彦」タラシヒコ)、阿輩鶏弥(オホキミ「大王・アメキミ説あり」)と号す」([[※]]「大王」の使用例 [[伊予国風土記逸文]](「釈日本紀」)「法興六年十月歳在丙辰我'''法王大王'''与慧慈法師及葛城臣」万葉集 雑歌 [[柿本人麻呂|柿本朝臣人麻呂]]「八隅知之 吾'''大王''' 高光 吾日乃皇子乃 馬並而」)</ref> は、九州倭国の倭国王であった。
* [[大宰府#異説・俗説|太宰府]]は倭京元年([[618年]])から九州倭国の滅亡まで倭京と呼ばれる九州倭国の都であり、日本最古の[[風水]]の[[四神相応]]を考慮した計画都市であった。
* 「[[白村江の戦い]]」では、総司令官である九州倭国の天皇「[[筑紫薩夜麻|筑紫君薩夜麻]](さちやま・倭薩)」が唐軍の捕虜となったことで九州倭国は敗北した。
* 「[[壬申の乱]]」は畿内ではなく九州を舞台としており、乱の前年に唐軍の捕虜から解放され倭(九州)に帰国した薩夜麻(実は天皇の[[高市皇子]]のこと)と 薩夜麻が不在中に政務を代行していた中宮天皇([[十市皇女]])-大友皇子([[弘文天皇]])との対立に畿内の豪族大海人皇子([[天武天皇]])が介入し日本列島の[[覇権]]を得た事件で、勝敗を決したとされる[[美濃国|美濃]]からの援軍とは畿内日本軍である。
* 「壬申の乱」で九州倭国の天皇(高市皇子 = 薩夜麻)は大海人皇子(天武)の力を借り大友皇子らに勝利したが、協力を得る為に[[吉野の盟約]]で大海人皇子(天武)と九州倭国系の鸕野讚良皇女([[持統天皇]])の間の息子([[草壁皇子]])を後継者の皇太子とした。戦乱により九州の有力豪族の多くが滅亡したことにより[[天皇]](高市皇子 = 薩夜麻)の基盤は弱体化し、戦乱とそれに続く天災<ref group="注">[[筑紫地震]]([[678年]]):[[水縄断層]]系が起震断層とされ[[マグニチュード]]6.5〜7.5だったと推定されている。</ref> で荒廃した九州から天武の勢力圏である畿内へ天皇(高市皇子=薩夜麻)は移った。
* 「[[大化の改新]]([[乙巳の変]])」は皇太子であった草壁皇子が即位せずに逝去した為に、次の皇位に誰が付くか不明確となり、疑心暗鬼となった草壁皇子の子の軽皇子([[文武天皇]])と[[藤原鎌足|中臣鎌足]]([[藤原不比等]]と同一人物)が九州年号の大和([[大化]])元年([[695年]])に[[藤原京]]で天皇(高市皇子 = 薩夜麻)とその子を[[暗殺]]し、翌年の大化2年([[696年]])に軽皇子(文武天皇)が即位した[[事件]]である。
* [[神武東征]]は、[[6世紀]]に[[任那]]滅亡等により発生した[[難民]]の一部が九州から東征したもので、先に[[九州]]から[[畿内]]に植民して巨大[[古墳]]を築造していた[[邇藝速日命]]が支配する[[長髄彦]]等の国である日下(日本)を征服したものである。[[通説]]で[[飛鳥時代]]と呼ばれている時代までは、[[ヤマト王権]](日本・日下)はまだ日本を代表する政権ではなく[[畿内]]の[[地方]][[政権]]にすぎなかったが、文武の[[時代]]に九州倭国から政権を完全に奪い日本全体が「日本」と呼ばれるようになった。
* [[古事記]]・[[日本書紀]]は九州倭国の歴史書であり、[[続日本紀]]は天武朝の歴史書である。記紀に記された天皇の内初代[[神武天皇]]と第9代までの[[欠史八代]]の天皇および第40代[[天武天皇]]と第41代[[持統天皇]]、続日本紀に記された第42代[[天武天皇]]から第48代[[孝謙天皇]]までの7代、計18代だけが天武朝に連なる系譜である。記紀に記されている天武系の[[天皇]]は天皇ではなく畿内の地方[[豪族]]に過ぎなかった。記紀に記されたその他の天皇は九州倭国の天皇である。
* [[万葉集]]の歌なども[[8世紀]]までの古いものは、殆どが九州で詠まれたものである。
* [[神亀]]6年([[729年]])藤原氏は、九州倭国系である長屋親王を[[長屋王#長屋王の変|長屋王の変]]で抹殺。
* 第3回[[神宮式年遷宮]]([[神亀]]6年/[[天平]]元年([[729年]]) - 天平4年([[732年]]))により[[伊勢神宮]]が[[八代市]]から[[伊勢市]]に移された。
* [[神護景雲]]4年([[770年]])[[孝謙天皇|称徳天皇]]暗殺により天武朝が断絶、[[藤原氏]]は滅亡した九州倭国の[[親族#尊属と卑属|末裔]]([[光仁天皇]])を天皇に擁立した。
=== 古田説 ===
上記概要と古田説の主な異なる部分について、掲載する。古田の論文は『[[史学雑誌]]』や『[[史林]]』に掲載されるなど、九州王朝説論者の中では数少ない学説の形に世に問うたものであった。
なお、この説の出典は特記のない限り古田の著書『失われた九州王朝』・『古代は輝いていた』・『古田武彦の古代史百問百答』による。
* 九州王朝の始まりは後に[[天孫降臨]]として[[神話|神話化]]される出来事であり、天孫降臨の舞台となった場所は[[福岡県]]の糸島近辺である。また九州王朝の前には[[出雲王朝]]が存在しており、[[国造制]]・[[部民制]]の原型は既に出雲王朝の時代から存在していた。
* [[神武天皇]]は[[1世紀]]から[[2世紀]]頃に[[実在]]しており、神武東征も基本的に史実である。九州王朝の分家として大和王朝(近畿天皇家)は成立した。
* 古田は近畿天皇家の天皇については、基本的に九州王朝の分王朝の大王として近畿に実在した、と考える。記紀には[[景行天皇]]の「九州大遠征」をはじめ、九州王朝の大王・天子の記事からの「盗用」はあるものの、例えば景行天皇自身が九州王朝の大王であった、とは古田は主張していない。
* [[欠史八代]]も含めた天皇は実在したが、当時は大和盆地の南部を支配しているだけであった。[[崇神天皇]]の時代になって[[銅鐸]]圏の諸国を滅ぼし、後の近畿天皇家(古田は近畿分王朝、近畿大王家等の呼称を提案している)が近畿一帯を支配するようになった。
* 「[[磐井の乱]]」は、九州王朝の分家である[[ヤマト王権]]が武烈朝から継体朝に替わったことにより、九州王朝への臣従意識が薄れたヤマト(継体)による九州王朝への反乱であり、最終的にヤマトは[[糟屋屯倉]]の備蓄を戦利品としただけで、その後も九州王朝は存したとしていた。(もっとも後に「磐井の乱」はなかったとしている<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu8/noiwai.html 「磐井の乱」はなかった]</ref>。)
* 乙巳の変については、近畿[[皇室|天皇家]]内部における「親九州王朝派」の蘇我氏が粛清された事件であるとする。
* [[天武天皇]]が近畿天皇家の人間ではなかった可能性については、根拠が[[中世]][[文書]]であるため懐疑的である。
また、古田の説で特徴的なものとしては、次のような主張がある。
* 魏志倭人伝における原文改訂を一切認めない。
* 裸国・黒歯国は南米の[[エクアドル]]と[[チリ]]北部である。
* [[狗奴国]]は邪馬壱国の'''東方'''にある。(狗奴国南九州説を支持しない。)なお、狗奴国の位置については当初は「瀬戸内地方説」を唱え、その後「畿内説」を提唱している。
* 聖徳太子架空説は'''支持しない'''。
** [[推古天皇]]と[[聖徳太子]]は[[小野妹子]]を遣'''隋'''使ではなく遣'''唐'''使として派遣したのである。また、その内容も'''対等外交'''ではなく'''朝貢外交'''である。
** 聖徳太子は架空の存在ではなく、日本書紀も上宮法皇の記録をそのまま盗用したわけではない。
=== 九州王朝説論者の間の論争点 ===
九州王朝説論者は古田が主唱者ではあるが、学術論文の形をとっていないアマチュアの研究発表を含めると数々の異説が存在する。その主な論点を記す。
; 神武東征説話の信憑性
: 古田は「神話はリアルである」と述べて、神武東征伝承は基本的に信用できるとした。そして九州王朝の王子であった神武天皇が弥生後期に大和盆地に侵入し、九州王朝の分王朝としての[[皇室|近畿天皇家]]の創始者となったとしている。
: これについて、九州王朝説論者の中には神武天皇非実在説や神武・崇神[[同一人物説]]を唱える者もいる。古田史学の会の代表である古賀達也は神武天皇の実在は認めつつ、その説話の中には九州王朝の[[天孫降臨]]説話からの盗用があるとしている。
; 近畿天皇家の存在について
: 古田の九州王朝説は[[多元王朝説]]の一環として主張されたものであり、近畿天皇家の存在自体を否定するものではなかった。むしろ神武天皇や欠史八代、神功皇后の実在を認める点では戦後の津田史学よりも古田史学の方が記紀の伝承を尊重しているとさえ言えた。
: だが、近畿天皇家の伝承のほぼすべてを九州王朝(や、豊前の分王朝)からの盗用とする主張や、[[応神天皇]]以降の歴史のみが近畿天皇家の歴史であるというもの、[[景行天皇]]・[[応神天皇]]・[[仁徳天皇]]・[[継体天皇]]・[[欽明天皇]]等の数多くの天皇が実際には九州王朝の天皇であったとするものも存在している。なお、近畿天皇家の天皇の一部が実際には近畿ではなく九州に存在していたとする説は九州王朝説論者以外に[[水野祐]]や[[坂田隆]]も主張していたが、こうした主張を古田は否定していた(水野の主張は『盗まれた神話』で、坂田の主張は「記・紀批判の方法 --坂田隆氏の問いに答える」で、それぞれ批判している)。
: [[壱岐一郎|いき一郎]]は日本書紀は[[藤原不比等]]による創作であり、[[畿内]]に存在したのは近畿天皇家ではなく[[扶桑国]]であると述べている<ref>[[いき一郎]]『扶桑国は関西にあった』</ref>。これについて古田は対案として「扶桑国関東説」を示唆しつつ、近畿天皇家自体が存在しなかったという主張には同意することはなかった。
; 狗奴国の位置
: 古田は当初狗奴国讃岐説を主張していたが、後に狗奴国近畿説に転向した。こうした古田自身の主張の変遷もあり、狗奴国の位置については九州王朝説論者の間でも意見が分かれる。
: 従来の[[邪馬台国九州説]]論者同様、狗奴国の位置を邪馬台国(邪馬壱国)の南方である南九州に比定する論者も存在する。
; 前期難波宮の位置付け
: [[前期難波宮]]は7世紀における[[太宰府|大宰府]]と並ぶ条坊都市である。古田は前期難波宮は[[孝徳天皇]]の[[難波長柄豊碕宮]]ではないことを主張していたが、では前期難波宮は何の遺跡であるのか、については明確な答えを出さなかった(古田は難波長柄豊碕宮は博多湾岸にあり、そこに[[白村江の戦い]]直前に九州王朝の呼びかけに応じてその分王朝である近畿天皇家のメンバーも終結していた、とした<ref>古田武彦 [http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nakatta5/taikakai.html 大化改新批判]</ref>)。
: 古賀達也は前期難波宮は前後の時代の近畿天皇家の宮殿との連続性が見られないこと、むしろ太宰府と似ている部分があること、前期難波宮の造営・焼失の年代と九州年号の改元が一致していること、等を根拠に「前期難波宮九州王朝副都説」を提唱した。これについは古田史学の会の内部でも議論がある。
; 聖徳太子について
: 古田は聖徳太子架空説を述べていないが、一般に聖徳太子の業績とされる遣隋使は実際には九州王朝が派遣したものであること(聖徳太子は遣唐使を派遣した)、[[法華義疏]]は聖徳太子の真筆ではなく九州王朝の上宮法皇が「収集」したものであること(聖徳太子と同年代の作であれば[[智顗|天台大師]]等の6世紀末・7世紀初頭の僧侶の説が反映されていない、法華義疏の奥付に切り取られた跡がある、等の不審な点を説明できない<ref>古田武彦 [http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/hokegiryu/jhokegi.html 「法華義疏」の史料批判]</ref>)、を始め聖徳太子の伝承の多くは後世による造作であったり別人物の業績からの盗用であるとした。
: これを受けて聖徳太子関連の業績のほぼ全てを九州王朝からの盗用とする論者や、聖徳太子架空説を主張する論者も存在する。
== 九州王朝説の根拠となる説明 ==
=== 九州(筑紫島) ===
592年に[[飛鳥京]]が設置されるよりも前に、九州(筑紫島)では[[筑紫国]]([[大宰府]])・[[豊国]]・[[日向国]]・[[肥国]]の4国がが[[日田街道]](ほぼ今日の[[朝倉街道]])・[[日向街道]]で繋がっており、その他に南部の[[熊曾国]]に[[隼人]]が住んでいた。
前者4国には国の制度として[[部民制]](べみんせい)があり、部族の世襲的な職業を定めていた。[[肥国]]には[[日下部]]・[[壬生部]]・[[建部氏|建部]]・[[久米部]]、筑紫国・豊国には[[物部]]や[[大神部]](おおがべ)、神職である[[祝部]](ほうりべ)、海事・漁業部であろう[[海部]]、などがあった(大分県の[[海部郡 (豊後国)|海部郡]]は、各地と異なり「あまべ」と読まれる)。当時の王朝は、諸地域の民や渡来人を組織して開墾を促し、[[屯倉]](みやけ、開墾地)に[[田部]]・[[額田部]]なども作ったが、特に九州内の[[豊国]]には、20個あまりの屯倉があった。また527年の[[磐井の乱]]の後には、軍事的部民も強化された。
また、古墳時代の貨幣に[[鉄鋌]]があるが、これまで発見された1147枚のうち1057枚は畿内に集中しており、畿内では古墳時代には鉄器製造などができなかったことがうかがえる<ref>鈴木靖民『倭国と東アジア〈日本の時代史2〉』(吉川弘文館、2002年7月1日)113頁。{{ISBN2| 9784642008020}}。</ref>。
701年の[[大宝律令]]のあとは、九州は9国([[豊前国|豊前]]、[[豊後国|豊後]]、[[筑前国|筑前]]、[[筑後国|筑後]]、[[肥前国|肥前]]、[[肥後国|肥後]]、[[日向国|日向]]、[[大隅国|大隅]]、[[薩摩国|薩摩]])になり[[西海道]]とも呼ばれ、全体が大宰府の管轄となった。また「九州」という用語は本来古代では天子の直轄統治領域を意味するもので、中国では[[周]]代以前、全土を9つの州に分けて治める習慣があったことから、9つの国の意味ではなく、天下のことを表すこともある(参考:[[九州 (中国)]])。また[[新羅#九州|新羅の九州]]の実例もある<ref>古田武彦『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1993年1月){{ISBN2| 4022607505}} p330</ref>。ただし、天子の直轄統治領域を九州と呼ぶのは古代中国での用法であり日本でも同じように用いられたという証拠はない。
=== 金印 ===
[[ファイル:King of Na gold seal imprint 1935.jpg|150px|thumb|『[[漢委奴国王印]]』印影]]
博多湾の[[志賀島]]で発見された[[漢委奴国王印|「漢委奴國王の金印」]]は、「漢」の「倭奴国」の「王」と読み、漢の家臣の倭国王(倭奴国王)の[[印綬]]であり、[[金印]]が発見された場所から遠くない場所に金印の所有者である「倭国王」の居城「倭奴国」があったという主張がある。
* [[皇帝]]が[[冊封]]国の王に与えた金印に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い<ref group="注">「漢匈奴悪適尸逐王」の印を「漢の匈奴の悪適尸逐の王」と読み三段の国名の例が存在するとの意見もあるが、「悪適尸逐王」は匈奴の王号であり二段の国名である。また、この印は銅印である。</ref>(金印は陪臣に与えるものでない)こと及び、高位の印であることから、この金印は「委奴国王」 = 「'''倭国王'''」に与えられたものであると考えられる。漢の印制度および金印の役割から通説のように金印を博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることは考えにくい。卑弥呼が賜ったとされる金印も「[[親魏倭王]]」であり倭王に対して下賜されたものである。「漢委奴國王」印も「親魏倭王」印も倭国の[[国璽]]として扱われ、漢王朝が続いている間は「漢委奴國王」印が、魏王朝が続いている間は「親魏倭王」印が使われ続けたと考えられる。つまり漢委奴國王の金印を志賀島に埋めたのは卑弥呼であると考えられる。
* 『[[旧唐書]]』倭国条の冒頭等、それ以後のいくつかの書物に「倭国者古倭奴国也(今の倭国は昔の(漢書の)倭奴国のことだ)」等との記事がある<ref>
*「旧唐書倭国伝」倭国は、古(いにしえ)の倭奴国である。
*「新唐書日本伝」日本は、古(いにしえ)の倭奴国である。
*「宋史日本国伝」日本国は、もとは倭奴国であった。
*「元史日本伝」 日本国は東海の東に位置し、昔は倭奴国と称した。
*「明史日本伝」 日本は、古(いにしえ)の倭奴国である。</ref>。倭奴国とは倭の中の小国「[[奴国]]」ではなく、倭国そのものであると考えられ<ref group="注">この解釈は古田の解釈とは異なる</ref>、倭国を代表すると漢が認めた国であり、漢によって王<ref group="注" name="wakokuou">『漢書(前漢書)』地理志の「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」・「楽浪海沖に倭人が現れる。100か国余りに分かれているが、季節になると貢物を持って挨拶に来る。と云う。」から前漢の時代は100国あまりの小国分立の状態であったのが『後漢書』東夷傳では「自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統」「武帝が朝鮮を滅ぼして以来、30国ていどが漢と交流している。(それらの)国は全て代々王を称することを伝統としている。」となり国の数が30国あまりに減り統一が進むと共に、一時的に自称王が乱立していたことが察せられる。倭奴国は自己の申告により漢の皇帝から家臣としての王に任命されたもので倭国内の統治の実態は不明だが、王を自称していた他の30あまりの国にから異議が無いところから建武中元二年までに倭国内の他の国々の自称王を降し、初めて倭国を統一した者である可能性があると仮定する。この後「桓 靈間 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主」・「桓帝と霊帝の間、倭国が内戦状態になり、互いに攻め合い。長い間、君主が居なかった。」となり再び統一が乱れたことが察せられる。</ref> と認められた者の住む国である <ref group="注" name="zks">後漢書に「[[57年|建武中元二年]] '''倭奴國'''奉貢朝賀 使人自稱大夫 '''倭國'''之極南界也 光武賜以印綬 安帝[[107年|永初元年]] '''倭國王'''帥升等獻生口百六十人 願請見」「建武中元2年に倭奴國が朝貢してきた。使いの者は大夫と自称した。倭奴國は倭國の最南端である。'''光武帝は印章を授けた。'''安帝永初元年に倭國王の'帥升等が奴隷160人を献上して謁見を願ってきた。」とある。倭国が倭奴国と区別されており、倭奴国について「倭國之極南界也」とあることから倭奴国は倭国の一部であると考えられる。王については倭国の王、帥升(等)しか記されず倭奴国の王については記されていないことから、建武中元二年に「倭國之極南界」に在った倭奴国が使いを遣し漢より印を綬かって倭国全体の王に任ぜられ、倭国王になったと考えられる。</ref>。
* 「倭」の字が減筆され「委」の字が使用されていることから「倭」は「委」と同じ発音であったと考えられる<ref group="注" name="wai">「ゐ」は隋唐音であり、「倭」「委」はともに「わ」であるとする反論もある。</ref>。金印は「かん ゐど こく おう」又は「かん ゐな こく おう」と読むべきである。
* 現在でも韓国・朝鮮では日本を「[[倭奴]]((왜노)ウェノム)」と呼ぶことがある<ref>[[チョッパリ#チョッパリ以外の日本人への蔑称]]</ref><ref group="注" name="kinnin">「倭奴」は日本の蔑称であり、しかも金印には「倭」の字が減筆されニンベンの無い「委」が用いられている([[新]]の[[王莽]]が[[匈奴]]に与えた「新匈奴單于章」の金印と同じ「漢の皇帝が属国の蛮王に与えた印」という侮辱的印と同じ)。</ref>。
=== 邪馬壹国の産物・交通 ===
{{出典の明記|date= 2021年2月5日 (金) 19:50 (UTC)}}<!--- 2014年11月以前より出典提示要求。脚注形式必要 --->
<!-- 邪馬台国九州説 -->
{{See2|[[古田武彦]]の主張については[[邪馬壹国説]]を}}
[[魏志倭人伝]]によれば[[邪馬台国]]は、木材のクスノキ(櫲樟、柟)や鉱物の[[丹]](ニ)の産地であり[[帯方郡]]と貿易をしていたが、仏像や造船に使用されるクスノキは主に九州に分布し、また[[大分県]]の[[玖珠郡]] (クスは久須、球珠とも表記する)の地名は、クスノキに由来すると思われる。
また丹は、仏像の鍍金や船底の防腐剤として使われた鉱物で水銀の材料であるが、[[豊日別]]・[[豊国]]跡の大分市には丹生神社があり[[丹]]の産地であったことがうかがえ、また港湾貿易の地として[[貴船神社]]も多い。
また、卑弥呼や[[天照大神]]と同一人物かは不明であるが、[[イザナギ]]・[[イザナミ]]が生んだ[[ワダツミ]]の娘で神武天皇の祖母であり、[[祖母山]]信仰の祭神でもある[[豊玉姫]]、またその妹とされる[[玉依姫]]の2名の[[国津神]](くにつかみ)は、九州の[[日向国]]にいたとされており、双方が天津神(あまつかみ)と結婚している。さらに、のちの[[日本書紀]]の[[神武東征]]の逸話によれば、神武天皇は[[日向国]]から出立し、[[豊国]]の[[宇佐]]で[[ウサツヒコ]]建立の[[一柱騰宮]](あしひとつ あがりのみや)に滞在してから、[[近畿]]へ渡航して[[辰砂]]の鉱脈調査を行っている<ref>[[丹生川上神社#歴史]]。</ref>。
また、記紀によればイザナギ・イザナミの最初の[[国産み]]が[[オノコロ島]](通説では[[淡路島]])であるが、淡路島には日本で最古の鉄器製造所であるとされる[[五斗長垣内遺跡]]があり、関西の平野部から離れた島に作られていることを考えると、造営者は、あるいは大阪平野部の部族ではなかったことも考えられる。
なお、鉄器以前の[[青銅器]]製造所は、[[弥生時代]]中期~後期に、九州北部または[[伊都国]]にあったことが判明している<ref>[http://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=101349 銅釧鋳型(どうくしろ いがた) 福岡市多田羅大牟田遺跡]、e[[国宝]]。</ref>。
また王朝の首都と想定される大宰府には[[日田街道]]が通じており、この日田街道は、[[日田]]から久留米、中津、熊本、別府にそれぞれ街道が伸びており、さらに別府では[[筑紫国]]跡の福岡県東岸から[[日向国]]跡の宮崎県を繋ぐ[[日向街道]]に接続している。したがって、[[伊都国]]の[[一大率]]と同じく、為政者側は陸路でも相当広い範囲を移動することができた。
福岡県の[[船原古墳]]では2013年までに、[[古墳時代]]後期の馬具が、金銅製品鉄製品を合わせて200点以上発見されている<ref>[https://web.archive.org/web/20210506095450/https://horubai.jp/content/nnp_news/38]</ref>
=== 倭の五王は九州の大王 ===
「[[倭の五王]]」は畿内ではなく九州の[[大王]]であったという主張がある。
* [[古事記]]は、筑紫島(九州)は体は一つで顔が四つあるとしており、4つは[[筑紫国]](白日別)、[[豊国]](豊日別)、[[肥国]](建日向日豊 久士比泥別)、[[熊襲国]](建日別)である。ここに[[対馬]]か[[熊曾国]]を加えるとすれば5つになる。
* 「倭の五王」の在位年と『[[日本書紀]]』での各天皇の在位年とが全く合わない。また、ヤマト王権の[[大王]]が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など1字の漢風の名を名乗ったという記録は存在しない、[[南北朝時代 (中国)|南朝]]([[東晋]]-[[梁 (南朝)|梁]])側が勝手に東夷の王に漢風の名を付けることなども例が無く考えられないので、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではないと考えられる。
* [[近畿地方|畿内地方]]には多くの巨大[[古墳]]が造営されたが、同一の王権が大規模な対外戦争を継続しながら<ref group="注" name="wanogoou">倭(日本)による朝鮮半島への進出は、366年に百済と同盟してから663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て668年の高句麗の滅亡までの303年間で、倭(日本) が政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回にも及ぶ。これは4年に1回の割合でほとんど300年の間、連続的に起こっており、また倭(日本)は万余の大軍を朝鮮半島に送り続けたことが記録されている([[三韓征伐#概史・年表]])。九州王朝説でも九州では軍事が民生を圧迫していたと考えるが、九州の勢力は独自に軍事活動を行っていたと仮定する。</ref> 同時にこのような大規模な巨大古墳の造営を多数行うということは考えられないということにして、畿内地方に多くの巨大古墳を造っていたのは、朝鮮半島で活発に軍事活動を行っていた「倭」からはある程度独立した勢力だったと考えられる。また、[[古墳文化]]の広がりをもってヤマト王権勢力の拡大と見なす意見があるが、宗教文化の広がりと権力の広がりとは必ずしも一致するものではないと考えられる。古墳文化の広がりは宗教儀礼の広がりでもあり、これとヤマト王権が結びつくとの意見もあるが<ref group="注" name="kofunn">(1)出現期の前方後円墳の分布の中心は近畿の大和(2)出現期の前方後円墳の分布は瀬戸内海沿岸各地から北部九州。(3)九州南部では東西に[[地下式横穴墓]]、[[板石積石棺墓|地下式板石積石室墓]]という二大分布圏が存在。前方後円墳は沿岸部のみに分布する。(4)古墳時代前期後半に東日本、近畿、西日本各地で前方後方墳から前方後円墳への転換が確認されている。(5)3世紀中葉すぎ、[[近畿地方|近畿]]、[[中国地方]] → 北部九州への土器の移動が顕著に認められる。逆の動きはほとんど認められない。(参考 → [http://www.inuyama.gr.jp/ssinfo/contents/aotsuka/shinpo/shinpo7.html 「前方後円墳と前方後方墳」 白石太一郎講演] {{リンク切れ|date= 2021年2月}}))等を根拠であるとする反論。</ref> 根拠は明確にされておらず古墳文化の広がりを以てヤマト王権勢力の拡大とするには証拠として無理がある。[[古墳]]は[[豪族]]の[[墓]]であり、これが各地で造られたことは中央からは独立した地方勢力の存在を示すものであり、ヤマト王権勢力の支配力が拡大したとする説とも矛盾する。また、この時代は古墳の形態も地域によって特色があり、[[出雲国|出雲]]や[[吉備国|吉備]]等にも独立した勢力が存在したことを示していると考えられる。
* 『宋書』478年の[[倭王武]]の上表文で、「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」とあるが、倭王武は自らを東夷であると認識しており、通説のように倭を畿内とすると「東の毛人」 = [[中部地方|中部]]・[[関東地方|関東]]、「西の衆夷」 = [[畿内]]・[[中国地方|中国]]・[[四国]]・[[九州]]、「渡りて海北」 = [[疑問符|???]]、となり、比定地を自然に特定することができない(論者の様々に設定する特段の事情を勘案した場合には可能となるであろう)。しかし倭を九州とすると、「東の毛人」 = 畿内、「西の衆夷」 = 九州、「渡りて海北」 = [[朝鮮半島]]南部という形で、比定地の自然な特定が可能となろう。<ref group="注" name="tousei">[[現在]]でも、九州の北西部に広がる海域を[[玄界灘]]と言う。「玄」は「[[玄武]]」と同様に「北」の意味であり、玄界灘とは(荒い)北の海を意味する。なお、日本書紀にも2か所「北海」の表記はあるが、これは古代の言い回しとしてはあまりに機能的であり、あるいはむしろ九州倭国の史書からの盗用であると疑うことにも正当性が見えてくるであろう。</ref><ref group="注">根拠はないが、[[倭王武]]が九州倭国の王であるとすると、古事記や日本書紀が伝えるところの「ニニギノミコト」・「ヒコホホデミノミコト(山幸彦)」・「ウガヤフキアエズノミコト」は九州倭国の[[人間]]で、そこから東征に派遣された「カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)」の[[親族|子孫]]が巨大[[古墳]]を築造した畿内日本であることになる。[[多元王朝説]](古田武彦)は神武東征は単なる神話ではなく史実の反映であり、神武が畿内に入植したのは[[2世紀]]の頃ではないかと推定している。九州倭国は半島等での軍事活動で疲弊し[[高句麗]]のような強力な競争相手のいない新天地に入植した神武の子孫畿内日本はその後も東征を続け発展に向かい、[[近畿地方]]から[[東日本]]にかけて大勢力を築いたと推察することも可能であろう。</ref>。
=== 九州倭国の大陸との交流 ===
漢代から代々に朝貢していたのは九州の大王であり、日本列島を代表して大陸と交流・交戦していたのも九州倭国だったという主張がある。
* [[好太王碑|広開土王碑]]、『[[三国史記]]』等の[[倭・倭人関連の朝鮮文献]]、『日本書紀』によれば、倭は[[百済]]と同盟した[[366年]]から「白村江の戦い([[663年]])」までの約300年間、ほぼ4年に1回の割合で頻繁に朝鮮半島に出兵している。通信手段が未発達な古代にあって朝鮮半島で戦うには、司令部は前線近くの北部九州に置かなければ戦闘に間に合う適切な判断や指示は下せない可能性がある<ref group="注">[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]でも[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]に際して[[豊臣秀吉]]は、肥前[[名護屋城]]を築城しそこから指揮を執っている。[[明治]]になっても[[日清戦争]]に際して日本政府は、[[大本営]]と首都機能を[[広島市]]に移して戦っている。</ref>。政治、祭事、軍事が未分化の時代、王は司令部のある北部九州に常駐することとなった可能性がある。そこで、ヤマト王権とは別の倭王が北部九州に常駐し、そこに倭の首都があったことになる、ということを考えられる。
* 倭は長い交流を通じて隋・唐の社会制度・文化や外交儀礼に詳しいはずなのに、初期の遣隋使派遣では、畿内日本は外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使したとされる<ref group="注">第1回遣隋使派遣は『日本書紀』に記載がなく『隋書』にあるのみ、また『日本書紀』では遣隋使のことが「[[遣唐使]]」となっている。</ref>。更に遣隋使・遣唐使とこれに随伴した留学生達によって、畿内地方に唐の社会制度・文化の多くが初めて直接伝えられたとされていることから、遣隋使・遣唐使以前は畿内地方には隋・唐の社会制度・文化は殆ど伝わっておらず、九州倭と畿内日本とは明らかに別物であると仮定できる。『[[新唐書]]』日本伝では「[[開皇]]年間([[581年]] 〜 [[600年]])の末に初めて日本国は[[隋]]と国交開始した。」と記しており遣隋使・遣唐使が畿内日本と隋・唐の初の直接交流である<ref group="注">『隋書』にある600年の第一回遣隋使は『日本書紀』に全く記載がなく、第二回の607年の遣隋使も隋ではなく大唐国に派遣したと記している。唐は618年に建国しており607年は隋代である。極めて可能性は低いが、「『唐土』としての『大唐』ではなく、王朝としての『唐』に行った」とすると618年以後のことと仮定することはできる。『日本書紀』の記す第二回遣隋使は実は唐代の619年であり、『日本書紀』では年代を12年繰り上げた為に隋代を大唐国と書いてしまったのではないかと仮定する。そうすると、607年の遣隋使は九州倭国の派遣したもので、隋の[[従八品]][[文林郎]]の[[裴世清]]は{{補助漢字フォント|俀}}国に来たのであり、619年にも唐の家臣となり降格した後の[[正九品]][[鴻臚寺]]の[[掌客]]の裴世清が[[小野妹子]]と供に来たと考えれば無理矢理ではあるが辻褄が合う。[[多元王朝説#12年後差説|約12年の誤差]]</ref>。
* [[5世紀]]の倭の五王は12回も中国の南朝に朝貢し、朝鮮半島で数世紀に亘って継続的な戦闘を続け、「白村江の戦い」では約1千隻の軍船・数万の軍勢を派遣し唐の水軍と大海戦を行うなど、高い航海術・渡海能力を有していたと考えられるが、この倭国軍に比べ、ヤマト王権の派遣した遣唐使船の航海の成功率は50%程度しかない。これも王朝が交代し航海技術が断絶した為であると考えられる。ただしこのように断言する為には倭の五王の航海成功率が有意な差を持って50%より100%に近いことの証明が必要である。
=== 磐井の乱 ===
527年の[[磐井の乱]]は継体が[[武烈天皇]]を武力討伐して政権を奪った九州内の王朝交代の[[記事]]であるという主張がある。
: (上記[[古田武彦説]]にあるように古田は、磐井の乱とは九州王朝の分家である畿内ヤマトの九州王朝への反乱だと考えていたが、後に自説の矛盾に気がつき、磐井の乱は無かったとしている。)
==== 磐井の乱は史実 ====
九州王朝が実在したと仮定した上で磐井の乱は史実であるとする主張は以下のとおりである。
* 「記紀」や「筑後国風土記」等に同じ[[事件]]についての同じような記事がある。「記紀」や「筑後国風土記」等の著者に[[磐井 (古代豪族)|磐井]]のような[[地方]][[豪族]]の反乱の記事を捏造する必要性が無い。
* 「磐井の乱」を否定する根拠が無い<ref group="注">古田武彦は、九州年号の存在をもって磐井の乱は史実でないとしているが、磐井の乱を九州内の反乱・王朝交代と考えれば、否定の根拠にはならない。</ref>。
* [[福岡県]][[八女市]]に磐井の墓とされる[[岩戸山古墳]]が実存し、記録とも一致している<ref>『岩戸山歴史資料館 展示図録』p. 16</ref>
==== 継体天皇地方豪族説====
[[継体天皇]]は地方豪族に過ぎなかったという主張がある。
* 『日本書紀』継体記末尾に『百済本記』(百済三書の一つ、[[三国史記]]の『百済本紀』とは異なる逸失書)から[[531年]]に「日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」〔日本の天皇、太子、皇子ともに死す〕」という記述が引用されている。しかし、継体天皇の子の[[安閑天皇|安閑]]・[[宣化天皇|宣化]]は、継体天皇の死後も生きていた。この記述は記録の齟齬ではなく継体天皇のことではないと考えられる。
* 継体21年([[547年]])、継体天皇は「[[社稷]]の存亡ここにあり」という詔を発しているが、天皇が一地方豪族を討伐するにしては大げさであるということにする。
* 継体天皇が[[物部麁鹿火]]に磐井征伐を命じたとき、「長門より東を朕とらむ。筑紫より西を汝とれ」と言っている。磐井を討伐しないと継体天皇は日本の支配権を得られなかったということにし、継体天皇には政権は無かったということであるということにする。
* 継体天皇は仁徳天皇系の最後の大王・武烈天皇から10親等も離れた応神天皇の5代の孫とされており、大王の継承資格がないということにする。
* 継体は、即位するとその正当性を担保するため武烈の姉の[[手白香皇女]]を皇后にしている。
==== 磐井は九州倭国の
* 『日本書紀』に逸書『百済本記』から〔日本の天皇、太子、皇子ともに死す〕という記述が引用されている。「[[磐井の乱]]」について百済では日本の天皇である磐井一族が滅ぼされたと認識していたということにする。<ref group="注" name="iwainoran">以下のように日本書紀と朝鮮側記録等の間には3年のずれがあるので、[[528年]]と記録のある「磐井の敗死」も3年ずらして、531年の「日本天皇・皇太子の同時死亡」のこととするのが妥当であるということにする。
* 継体18年([[524年]])百済の太子明、即位(逸書「[[百済本記]]」) ⇒ 527年百済[[聖王 (百済)|聖明王]]即位(遺事百済王暦)
* 継体22年(528年)磐井滅亡(日本書紀本文) ⇒ 531年日本天皇太子皇子の死(三国史記「百済本紀」)
* 継体23年([[529年]])[[加羅]][[金官国]]滅亡(日本書紀本文) ⇒ 532年(三国史記)
* 継体25年([[531年]])継体の死(日本書紀本文(継体紀)) ⇒ 534年継体の死・[[安閑天皇|安閑]]即位(日本書紀或本(安閑紀))</ref>
* 福岡県八女郡、筑紫国磐井の墳墓とされる岩戸山古墳(前方後円墳)には、[[衙頭]](がとう)と呼ばれる祭政を行う場所や[[解部]](ときべ)と呼ばれる[[裁判官]]の石像がある。これは、九州に[[律令]]があったことを示すもので九州に王朝があったことを示唆するものであると考えられる。
* 古代わが国では「[[曲水の宴]]」は宮廷行事であり主催者は天皇であった。畿内地方で「曲水の宴」が開催されはたのは[[8世紀]]以降であるが、福岡県[[久留米市]]には、8世紀以前の「曲水の宴」のものだと考えられることができる遺構がある。
* 福岡県久留米市の[[高良山]]にある[[高良大社]]は、以下のことからここに王朝があったことを窺がわせるであろう。
* 高良大社が[[三種の神器]]、「[[干珠・満珠]]」の宝珠や[[七支刀]]を所蔵している。
** 高良大社の神職は[[丹波氏|丹波]]・[[物部]]・[[安曇]]部・[[草壁]]・[[百済]]の五姓である。
** [[中世]]末期に成立した高良大社に伝わる高良記によると高良大神の孫の子孫に「皇」(すめろぎ)や「[[連]]」(つら)などと言った称号を持った者がいる<ref group="注">(1)物部日良仁光連、(2)日往子明連、(3)日男玉頼連、(4)神力玉依連、(5)日光玉一連、(6)日往玉尊連、
1.日明玉連尚、2.舎男連常、3.日柱男連廣、4.大直連俊、5.大全神連親、6.日天男連信、7.大長津連秀、8.大勝津連平、9.神仲熊連豊、10.神天子連家、11.神道天連良、12.神司宮連法、13.神天仲連就、14.神頭国連軌、15.神斗玉連仍、16.神面土連篤、17.賢名皇連忠、18.意賢皇是連、19.賢天皇兼連、20.公兼皇連岩
</ref>。ただしこれらの系図は古代のものとしては極めて稚拙であり偽作である可能性が高い。
** 高良大社の祭神[[高良玉垂命]]は、[[武内宿禰]]と言われている。武内宿禰の[[子供]]達の[[名前]]の[[地名]]がこの一帯に散らばっている。羽田([[波多氏|波多]])、[[基肄郡|肥前基肄郡基肄]]([[紀氏|紀]])、[[佐賀郡|肥前佐嘉郡]][https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92840-0007+%E4%BD%90%E8%B3%80%E7%9C%8C%E4%BD%90%E8%B3%80%E5%B8%82%E5%B7%A8%E5%8B%A2%E7%94%BA%E5%A4%A7%E5%AD%97%E9%AB%98%E5%B0%BE/@33.2558453,130.321337,16z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x3541b5ebd938da03:0x2fef74105ef0e74d!8m2!3d33.254053!4d130.3241446?hl=ja 巨勢]([[巨勢氏|巨勢]])、[[肥前国#郡|肥前三根郡葛木]]・[[椎田町#近現代|椎田町葛城村]]([[葛城氏|葛城]])、[[早良郡#古代|曾我]]([[蘇我氏|蘇我]])、[[早良郡#古代|平群]]([[平群氏|平群]])。ただしこれらの地名は畿内により鮮明に残っている。
* 「[[筑紫葛子|筑紫君葛子]](ちくしのきみ かつし)は父の罪で命をとられることを恐れて、糟屋の[[屯倉]]を献上した。」とあるが、屯倉は、朝廷の直轄地であり、葛子が屯倉を譲ったということは、葛子が朝廷の人物であったということである。ただし、葛子がヤマト王権に仕えていた人間と仮定した場合にはこの矛盾が解消する可能性がある。
=== 聖徳太子と九州年号 ===
[[ファイル:Umayado Miko.jpg|right|thumb|150px|[[聖徳太子]]?/厩戸王子([[菊池容斎]]・画、[[明治|明治時代]])]]
* 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 {{補助漢字フォント|俀}}國」によれば、{{補助漢字フォント|俀}}国王の多利思北孤(日出處天子)の国は山島にあり、{{補助漢字フォント|俀}}国には[[阿蘇山]]があると明記されているので、{{補助漢字フォント|俀}}国は九州のことであるということにする<ref
* 開皇二十年(600年)の「倭王姓阿毎字多利思北孤」・「倭王、姓は阿毎、字は多利思北孤。」は男王であり「王妻號{{JIS2004フォント|雞}}彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」・「王の妻は{{JIS2004フォント|雞}}彌(キミ)と号す。後宮に女が
* 『古事記』には「 [[用明天皇]]記」において「厩戸豊聡耳命」という名の記載が1
* 『[[法隆寺金堂釈迦三尊像]]』は「厩戸王子」の像ではない。
** 『日本書紀』で厩戸皇子は推古29年(621年)2月癸巳(5日)に亡くなったとされているが、『[[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘]]』の上宮法皇登遐(とうか)は「癸未年(622年)2月22日」である。
** 『日本書紀』で厩戸の母は「間人皇女」、后は「菟道貝蛸皇女」であるが、『釈迦三尊像光背銘』の上宮法皇の母は「鬼前太后」、后は「干食王后」となっている。
=== 評を制定したのは九州倭国 ===
「評」を制定していたのはヤマト王権に先行した九州倭国であるという主張がある。[[#経緯|九州年号]]では大化元年は695年であり、大化の改新の政変により九州倭国に代わり畿内日本が政権を握り「評」に代わり「郡」が使われるようになったと考えることで、郡評論争を巻き起こした事実の背景をより体系的に説明できそうである。
* 『日本書紀』では「大化の改新」時に「[[郡]]」が成立したと記すが、出土した文書([[木簡]]類)により「郡」と言う用語が実際に用いられるのは、[[大宝律令]]が制定された文武天皇5年([[701年]])以降であり、文武天皇4年([[700年]])以前は「[[評]]」を使っていたことが確認されている<ref group="注" name="mokkan">[[名古屋市博物館]]の常設展示の藤原宮出土木簡には「庚子年(700年)四月/[[若狭国]]小丹生'''評'''/木ツ里秦人申二斗」・「[[尾治国]]知多'''郡'''/大宝二年(702年)」などの記載がある [http://mokuren.nabunken.jp/scripts/strieve.exe?USER=MOKDB&PW=MOKDB 奈良文化財研究所 木簡データベース]</ref>。
* 斉明7年(661年)6月と天智7年(688年)に二度も逝去記事がある[[伊勢王]]に関する次の記事は34年前の事であり、640年代に九州倭国は[[評]]制度を樹立改革していたと考えられる可能性がある。
** 朱鳥元年(686年)9月の天武天皇の葬儀 → 白雉3年(652年)の孝徳天皇の葬儀<ref group="注">書記には天武天皇には何度も葬儀記事がるが、孝徳天皇には一度も葬儀の記事が無いのはこの記事の入れ替えによると考えられる。また天皇が逝去したので九州年号白雉元年(652年)へ改元したと考えられる。</ref>
** 天武12年(683年)12月天下を巡行し、諸国の境界を分限 → 649年
** 天武13年(684年)10月諸国の境界を定めた → 650年
** 天武14年(685年)10月東国へ向った → 651年
* 『[[伊予三島縁起]]』には「[[孝徳天皇|孝徳]]天王位、番匠初。[[常色]]二戊申、日本国御[[巡礼]]給。」(孝徳天皇のとき、番匠(大規模な土木工事)がはじまり、九州年号の常色2年[[戊申]]([[648年]])には日本国に御巡礼される。)とある。つまり「孝徳天皇のとき前期[[難波宮]]造営がはじまり、大化4年([[648年]])に天皇が九州倭国から畿内日本国に[[行幸]]し、その途中に伊予に寄った。」とする自然な考えを論理的に否定することは難しい。
=== 九州倭国からヤマト王権 ===
[[File:SihaiHuayiZongtu.jpg|thumb|[[16世紀]]の[[中華人民共和国|中国]]で書かれた世界地図。九州が倭、本州が[[日本]]となっている。ただし、[[16世紀]]になってまで倭と日本が別の国だと認識されていたことは考えられないので根拠にはならない。]]
==== 神武東征 ====
{{出典の明記|date= 2021年2月5日 (金) 19:50 (UTC)}}
古田武彦を始めとする九州王朝説論者の主流派は次のように述べている。([http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jimmuj.html 古田史学の会の公式HP] より)
{{quotation|
大王神武は神話の中の日本(倭)の創始者ではありません。大王神武と久米集団は、弥生後期に倭国から銅鐸国家圏へ攻撃を行いました。尚倭国とは三種の神宝ー鏡・矛・勾玉が祭祀と権力の象徴とする国で、銅鐸国家圏は銅鐸が祭祀と権力の象徴とする国です。神武と同行したのは、海兵隊としての久米の集団のみです。<br/>
『古事記』によれば、日向(ひなた、糸島)から東に向かい、安芸([[広島県]])と吉備([[岡山県]])で植民し定住しようとしました。しかしそれは失敗し、その[[結果]]、銅鐸国家圏への侵略に切り換えました。<br/>
そして大阪湾の浪速(なにはや 大阪中之島)を通り、河内湖と呼ばれた湖の端である日下の楯津へ上陸しました。しかし日下での戦いに敗れ、彼らは([[大阪市]])南方の水路を通って、血沼(ちぬ)の海(大阪湾)へ出ました。そこから彼らは紀伊半島を周り、山を越えて熊野から大和に突入しました。<br/>
彼は東方侵略に賭け、大和侵入に成功した。大和では彼は倭国から神倭(かんやまと)伊波礼毘古命(いはれひこのみこと)と呼ばれた。
それで彼は後世”大王”と呼ばれたり、[[神武天皇]]と呼ばれている。神武天皇とは漢風諡号(かんぷうしごう)といって、古事記・日本書紀編纂時の[[名前]]です。<br/>
大王神武は実在である。神武東征は弥生後期の大阪湾の地図が根拠を明示しています。
}}
* 神武は天皇ではなかったという主張がある。
** 古代において天皇は姓を持たなかったと言われるが、神武の父の名は、「[[ウガヤフキアエズ|鵜葺草葺不合]]」(ウガヤフキアエズ)であり「鵜葺草葺(ウガヤフキ)」という姓を持っていた
** 神武は、鵜葺草葺不合の四男である。
** 天皇につながる神は皆「稲」に関する名を持つが、鵜葺草葺不合命は[[稲穂]]と無関係である。
** 古事記によれば、高千穂の宮で「東に行く」ことを決定したのは、[[兄]]の[[彦五瀬命]]と[[弟]]の神武の2人であり、最初軍を率いていたのは五瀬命である。五瀬命が[[死亡|死んで]]指揮権が神武に移っている。
ただしどれもが根拠たり得ない稚拙なものである。
* 『[[旧唐書]]』には、倭と日本について『倭国伝』と『日本国伝』の二つの記事が立てられ下記のように記されている。神武が征服した東方の小国「日下」が九州倭国を併合したと考えられる。
** 日の辺りに在るを以て、故に日本を以て名となす。
** 日本は旧・小国、倭の地を併す。
==== 欠史八代 ====
九州王朝説の古田武彦は欠史八代は神武天皇以来の近畿分王朝(九州王朝の分家)として実在した、と主張している。
==== 記録が語る王朝交代 ====
* 古代国家成立の要件には、常設の政府(官僚機構)、常設の軍隊、首都(都城)等が挙げられるであろう。しかるにこれらが畿内地方で揃うのは[[持統天皇]]8年([[694年]])以降であり、その一方で九州には奴国や[[太宰府]]などの都城が古代から存在しこれらが揃っていたと考えられる。
* 『魏志倭人伝』の邪馬壹國が北部九州に在ったとする説をとると当然ながらその後、九州倭国から畿内日本への権力の移動がなければならないが、漢から唐の歴代の正史では倭についての記述は一貫しており同一の国家についてのことと理解される。唐の[[正史]]『旧唐書』、『新唐書』の中で7世紀末に国号が「倭」から「日本」に変わっているので、この時期に王朝が交代したと推定することに大きな蓋然性が見出される。<ref group="注" name="kougou">古田は、九州倭国の滅亡・[[ヤマト王権]]の成立を文武天皇5年([[701年]])としたため九州倭国が7世紀末に日本の国号を使い始め、ヤマト王権が政権簒奪後も日本の国号を使い続けたとしている。</ref>
** 『新唐書』の時期に、日本の[[歴史]]が改竄・捏造されたという考えのもとでならば矛盾なく説明できそうである。
** 万葉集では、8世紀まで大宰府(倭)を日本とは別の国と認識しているという解釈をすることで、記述の混乱に対して矛盾のない説明が可能になるであろう。
:: 八隅知之 吾大王乃 御食国者 日本毛此間毛 同登曾念(やすみしし わがおほきみの をすくには にほんもここも おなじとぞおもふ)八方を統べ治めるわが大君のお治めになる国は、日本もここ(大宰府・倭)も同じだと思う(大宰帥 大伴旅人 万6-956)
* 漢文明圏では新たに成立した王朝は自らの権力の正当性を示すため前王朝の[[歴史書]]「[[正史]]」を編纂するものであるが、『[[日本書紀]]』、『古事記』は[[8世紀]]初頭頃に編纂されているので、ヤマト王権が確立したのは7世紀末であると推定される。ただしこれには『[[天皇記]]』や『[[国記]]』などの6世紀に編纂された書物のことが考慮されていないので成り立たない。
* 日本各地の寺社の[[縁起]]や地方の地誌・[[歴史書]]等にヤマト王権以前に九州倭国が定めたということにできる「[[#経緯|九州年号]]」(継体元年([[517年]])-大長九年([[712年]])下記参照)が多数散見される。「九州年号」も8世紀初頭で終わっており、この時期に王朝の交代があったと推定することで矛盾の少ない説明が可能になるであろう。
* 日本書紀によると[[敏達天皇]]13年([[584年]])に畿内へ仏教を伝えたのは[[播磨]]にいた[[高句麗]]の還俗僧の[[恵便]]である。[[584年]]以前に既に播磨へは[[仏教]]が伝来していたということであり、6世紀末播磨は畿内にとって別の[[文化|文化圏]]( = [[外国]])だったということにすることもできる<ref group="注">百済への仏教伝来は[[枕流王]]元年([[384年]])と記録されている。一方、日本への[[仏教公伝]]は[[6世紀]]半ば頃とされ[[欽明天皇]]代に百済の[[聖王 (百済)|聖王]]によって伝えられたとされる。
しかし倭国と百済は親密な関係にあり、倭国への伝来が百済より200年も後とは考えられない。九州倭国への仏教伝来は4世紀末から5世紀初頭の頃であり、6世紀半ばの伝来は畿内日本への仏教伝来のことである。ただし、公的ではない日本国の仏教徒は仏教公伝以前にも[[司馬達等]]などがいるので、以上は日本国への公伝に対する異論の根拠にはならず、単にここで言う倭国のものに過ぎないと断言できる。</ref>。
=== 壬申の乱 ===
{{出典の明記|date= 2021年2月5日 (金) 19:50 (UTC)}}<!---2014年11月以前より出典提示要求。脚注形式必要--->
==== 壬申の乱の舞台は九州説 ====
672年の[[壬申の乱]]の戦闘があった地域は、九州内であったという主張がある<ref>大矢野栄次『壬申の乱の舞台を歩く 九州王朝説』([[2012年]]12月25日) {{ISBN2| 978-4870354760}}</ref>。
*ただ、この時期に[[平城京]]の[[法隆寺]]も焼失したうえ、後に[[北魏]]の様式に再建されているので、乱が全国的に発生していた可能性もある。
* この乱では、[[大分恵尺]]・[[大分稚臣]]等の九州の豪族が活躍している。また、大海人皇子は九州の豪族である[[宗像氏]]の娘(胸形[[尼子娘]])を妃にしていた。[[東国]][[豪族]]のことは考慮していないため強引ではあるが根拠とする。
* [[近江宮|大津京]]は近江大津([[大津市]])ではなく、肥後大津([[大津町]])にあったと考えることに十分な蓋然性が存している。
** 近江大津付近には京を設置できるような広い土地はないが、肥後大津付近は条坊制の跡と見做せなくはない東西と南北に直交する道等が残る広い平野が存在する。( → [https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E7%94%BA%E5%BD%B9%E5%A0%B4/@32.8735721,130.8693581,14.67z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0x403b4837e257fd0b!8m2!3d32.8789925!4d130.8682823 肥後大津付近])
** [[滋賀県]]の瀬田川に架かる[[瀬田の唐橋]]は長大で、日本書紀の記述のように[[壬申の乱]]で甲を重ねて刀を抜いて突破することは普通に考えれば大変に困難であろう。しかしこれが大津町瀬田付近の[[白川 (熊本県)|白川]]に架かっていたとすると橋は短くなり記述とおりの突破が見かけ上は可能になりそうである。
** 近江大津では大津京への遷都の理由説明が困難であるということにする。肥後大津なら「白村江の戦い」の敗戦による唐軍の侵攻に備えた[[太宰府]]から内陸部の大津京への[[首都]]の[[疎開]]である」と説明がつきそうである<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou82/kai8201.html 古田史学会報 81号 伊倉2 天子宮は誰を祀るか 古川清久]</ref>。
** 大津町の北側の[[菊鹿盆地]]は、[[古代]]には [[茂賀の浦]](しかのうら)と呼ばれた巨大な[[湖]]が存在していたといわれる。 → 淡海
* [[大分県]]には[[竹田市|竹田]]・ [[三重町|三重]]・[[大野町 (大分県)|大野]]・[[犬飼町|犬養]]・[[佐伯市|佐伯]]など壬申の乱に関係する地名が多数存在する。
** 上記が正しい場合には、不破の道とは竹田市付近の街道のことと考えられそうである。 → 不破関
*** 竹田市には西から道が集まっており、日本書紀の記述どおりに攻めてくる[[敵]]の各個撃破が無理なく可能であると考えられる。
* [[ふなんこぐい]]等のような壬申の乱に因む[[風習]]が残るのは、[[佐賀県]][[鹿島市|鹿島]]である。
* [[源氏]]が[[八幡神]]を[[氏神]]とし祀ったことから、八幡神が[[軍神]]とされるようになったといわれるが、源氏が八幡神を軍神として氏神に祀ったのは、壬申の乱の時の宇佐神宮の係わりに由来すると考えることで大きな矛盾は現れない。<ref group="注">[[藤原広嗣の乱]]の時も鎮圧に当った[[大野東人]]は戦いの前に宇佐神宮で[[勝利]]を祈願している。</ref>。
* 上記が正しい場合には、勝敗を決したとされる美濃から来た援軍は畿内日本国が美濃や大和の周辺で招集し九州倭国へ派遣した軍のことであると考えられそうである。
* さらに『日本書紀』に記された立田山や大坂山は九州内の山であり、難波は[[筑後平野]]に在ったと考えられそうである。<ref group="注">7世紀中頃は白村江戦の直前であり、博多湾岸のような敵の侵入を受けやすい所に九州王朝が宮殿を造営するとは考えられないにも拘わらず古田武彦は、博多湾岸にある類似地名(名柄川、豊浜)の存在を根拠に、「難波長柄豊碕宮」を[[福岡市]][[西区 (福岡市)|西区]]の愛宕神社に比定し、『[[皇太神宮儀式帳]]』を根拠にここで九州王朝は評制を樹立したとしている。『古代に真実を求めて』12集([[明石書店]]、[[2009年]](平成21年))『なかった』五号([[ミネルヴァ書房]]、[[2008年]](平成20年)6月)</ref> → 難波
** 『日本書紀』天武8年([[679年]])11月条に「初めて関を[[立田山 (熊本県)|竜田山]]、[[大坂山]]に置く、よりて[[難波]]に[[羅城]]を築く」とある。上町台地の難波宮に羅城(城壁)の痕跡は見つかっていない。
** 以下のことから難波(津)は[[上町台地]]ではなかったと考えても大きな矛盾は生じないであろう。 [http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho107/kai10701.html]
** 上町台地北端・[[道修町]][[高麗橋]]周辺は平安時代に[[渡辺津]]と呼ばれていた。
*** 『日本書紀』には、神武が瀬戸内海を経てたどり着いた所は「浪速国・浪花」と記されている。『古事記』でも「浪速」と記している。王仁の故事を無視するならば、大坂市の難波は元は浪花と呼ばれており、難波は後世に人為的に付けられた名前であるとすることができる。
*** [[仁徳天皇|仁徳]]紀に記された「[[難波の堀江]]」は、人工的に建設されたものとされる<ref group="注">通説では「弥生時代、上町台地の北に長柄砂州が続き、河内湖の水は、[[2021年]]([[令和]]3年)現在の[[新大阪駅]]の北にあった水路から大阪湾に流れていたが、[[古墳時代]]になると淀川上流から運ばれてくる土砂でこの水路が埋まり、出口を失った河内湖の水が溢れ出し洪水が多発、このために上町台地の北端、現在の[[大坂城|大阪城]]の北に堀江を掘削し、溢れた水を大阪湾に流れるようにした。この堀江が後に淀川本流となり、明治の淀川改修以降、現在の大川となった。」としている。</ref> が、上町台地の北端、現在の大阪城の北の水路は自然に形成されたもので、[[弥生時代]]には存在していたことが確認されており、人工的に掘削されたものではない。
*** 上町台は、7世紀頃まで大阪湾と河内湖に挟まれた[[砂洲]]であり狭小で多くの住民の住めるような土地もなく、ヤマト王権の本拠地である大和から遠く離れた僻地であったので、[[仁徳天皇]]が[[難波高津宮]]、[[孝徳天皇]]が[[難波長柄豊碕宮]]等の宮を置けるような場所ではないということにする。
** 長柄豊碕宮までの「難波」とは[[筑後川]]河口([[筑後平野]])付近に在ったと考えられるということにする。
*** [[柳川市]]内には、長柄([https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92832-0034+%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E5%B8%82%E5%8C%97%E9%95%B7%E6%9F%84%E7%94%BA/@33.1647544,130.4077331,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x3541b34a6c7555d5:0x6be3d910869cc45c!8m2!3d33.164636!4d130.409936 北長柄町]・[https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92832-0033+%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E5%B8%82%E5%8D%97%E9%95%B7%E6%9F%84%E7%94%BA/@33.1632128,130.4076536,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x3541b34a920d2a55:0x30cf81ddf2dc8b82!8m2!3d33.1631251!4d130.4096943 南長柄町])という地名が存在し、久留米市内には、[https://www.google.co.jp/maps/place/%E9%AB%98%E6%B4%A5%EF%BC%88%E3%83%90%E3%82%B9%EF%BC%89/@33.248625,130.3804179,13z/data=!4m5!3m4!1s0x3541b16c8206deab:0xe49d731cd775113!8m2!3d33.2510835!4d130.415984?hl=ja 高津] という地名も存在する。更に、[[三潴郡]][[大木町]]には、大隅([https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92830-0403+%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E4%B8%89%E6%BD%B4%E9%83%A1%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E7%94%BA%E5%A4%A7%E8%A7%92/@33.2261424,130.4431631,15z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x3541b1f34a0c2573:0x3a90a9f71e33a618!8m2!3d33.2265751!4d130.445935 大角])という地名も存在する。また、佐賀市には [https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92840-2204+%E4%BD%90%E8%B3%80%E7%9C%8C%E4%BD%90%E8%B3%80%E5%B8%82%E5%B7%9D%E5%89%AF%E7%94%BA%E5%A4%A7%E5%AD%97%E8%A5%BF%E5%8F%A4%E8%B3%80+%E9%B0%A1%E6%B1%9F%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC/@33.2055628,130.3218277,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x3541b545de4acd37:0xe28b493c4e9630ca!8m2!3d33.2055668!4d130.3240364 鰡江](しくつえ・祝津江)という地名が存在し、古代難波にあった宮の名が全て遺存する。
*** [[大阪府]]には、[[神崎川 (大阪府・兵庫県)|神崎川]]・[[大川 (大東市・東大阪市)|大川]]・[https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92569-0853+%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E9%AB%98%E6%A7%BB%E5%B8%82%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E7%94%BA/@34.8237035,135.5876946,16z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x6000e2a5589672bf:0x184e630bbd012828!8m2!3d34.8234579!4d135.5918495 柳川町]・[https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92598-0023+%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E6%B3%89%E4%BD%90%E9%87%8E%E5%B8%82%E5%A4%A7%E6%9C%A8/@34.3471722,135.3482841,13z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x6000cc7d26308991:0xb02736d8dd73af6f!8m2!3d34.3521161!4d135.3719005 大木] など筑後川河口にある地名([[神埼市]]・[[大川市]]・[[柳川市]]・[[大木町]])と同じ地名が存在する。難波の地名の移植に伴い同時に移植されたと考えても特に大きな矛盾は見つからない。
*** 筑後川中流域は、磐井([[武烈天皇]])が都を置いたという想像をすれば、倭国の中心部であったと考えられる。さらに想像を広げれば、[[応神天皇]]、[[仁徳天皇]]、[[欽明天皇]]、[[孝徳天皇]]など歴代の[[天皇]]が都を置いたかもしれない。
*** [[日羅]]は難波で暗殺され小郡の西畔丘に一旦仮埋葬されたとされる。仮埋葬地の小郡は難波から遠くない所であったと考えられるが、[[河内国]]には小郡は存在しない。[[小郡市]]があるのは筑後平野である。ただし小郡の地名は当時からあったわけではない。
*** 「壬申の乱」終息時に「大伴吹負」が「難波小郡」で「難波以西の国司」達から「官鑰驛鈴傳印」つまり「税倉」等の鍵や「官道」使用に必要な「鈴」や「印」などを押収している。「壬申の乱」は20日程度で終息しており、もし難波が上町台地であったなら20日程度で遠く離れた九州等の[[国司]]達に命令を伝えて上町台地へ集めることは不可能であり、その[[目的]]も不明である。しかし、この「難波小郡」が筑後の「小郡」のことなら「難波以西の国」は九州内だけの国司達のこととなり筑後の「小郡」へ集めることが可能であると考えられれば、一応はその目的も敵に協力した国司達の解任との推測が成り立つ。
*** [[古代]]筑後川は海が内陸まで入り込み船で中流域まで遡上できたと考えられている。
*** 古代難波には[[八十島]]といわれるほど、島が多くあったとされるが、河内湖は上町台地に遮られており、島が形成される余地は客観的に見て少なかったと言わざるを得ない。一方、筑後河口は巨大な[[三角州]]であり、陸化の過程で数多くの[[中州]]が形成され、有明海は潮の干満の差の大きな海であることから潮が引いた状態では更に多くの州が出現するのは事実である。
==== 壬申の乱は、易姓革命 ====
以下のことから壬申の乱により、王朝交代([[易姓革命]])があったと考えられる<ref>[[斎藤忠]]『倭国と日本古代史の謎 』(学研M文庫、 [[2006年]]6月1日) {{ISBN2| 978-4059011842}}</ref>。
* 『古事記』や『日本書紀』には、同父同母の[[天智天皇]]が「[[兄]]」で[[天武天皇]]が「[[弟]]」と書かれているが、天智天皇は天智天皇10年([[671年]])に46歳で[[崩御]]し、天武天皇は天武天皇15年/[[朱鳥]]元年([[686年]])に65歳で崩御しているので天武天皇のほうが4歳天智天皇よりも年上である。また天武天皇は天智天皇の[[娘]]を4人も妃にしているので、天武天皇と天智天皇が[[兄弟]]であることはない。
* 天武天皇は壬申の乱のおりに、自分を[[百姓]]([[侠客]])上がりの漢の高祖[[劉邦]]になぞらえて劉邦と同じ赤い旗を使用しているが、身内同士の争では例えとして合っていない。
* 「天智天皇」は、([[殷]])最後の暴君とされる([[紂王]])の愛した「[[天智玉]]」に由来し、「天武天皇」は、「天は武王を立てて悪しき王紂王を滅ぼした」に由来する。「天智天皇」・「天武天皇」の諡号は、殷王朝から[[周]]王朝への易姓革命を意識して付けられたものである([[森鷗外]]『帝謚考』)。
<div style="width:35%;float:right;border:1px dashed blue;background:#f9f9f9;padding:5px 10px;margin:1em">
〈史書の国号改称記事〉
; 『舊唐書』卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 倭國 日本國
: 「日本國者倭國之別種也 也以其國在日邊故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本 或云 日本舊小國併倭國之地」
; 『唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本
: 「惡倭名更號日本 使者自言 國近日所出以為名 或云 日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉」</div>
* 『旧唐書』には、倭ないし日本について『倭国伝』と『日本国伝』の二つの記事が立てられている。これは九州倭国と畿内日本とは別の国であり、九州が畿内により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたからである<ref group="注" name="kougou" /><ref group="注" name="tousyo">唐代には[[科挙]]に合格し唐の高官となった[[阿倍仲麻呂]]のように、[[遣唐使]]として多くの日本人が唐に渡っており、また[[白村江の戦]]でも多くの日本人が捕虜として唐に連行されている。これらのことからも、唐代には日本についての情報は豊富であり、[[旧唐書]]や[[新唐書]]の日本についての情報には事実を反映したものがあると考えられる。旧唐書や新唐書で日本國と倭國が別の國であるように記述されているのは、当時の日本が、漢や魏、南朝に臣従していた過去を否定するために、かつて册封をうけ臣従していた倭國と日本國は別であるとしたものとする解釈がある。</ref>。つまり、倭(九州)と日本(畿内)とは別の国であり、九州倭国が畿内日本により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたと考えられる<ref group="注">続けて「長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物([[長安 (元号)|長安]]3年([[703年]])、その国の大臣の朝臣真人が朝貢して来た)」とあることから、九州倭国から畿内日本への政権交代を唐に伝え、唐に日本を承認させたのはこの朝臣真人だと考えられる。</ref>。
* [[皇室|天皇家]]の最も重要な祭祀である[[大嘗祭]]は、天武天皇2年([[673年]])まで行われていない。それまで大和朝廷に政権がなかったからである。
* 天武天皇2年(673年)8月条に、「詔[[耽羅]]使人曰。天皇新平天下、初之即位。由是唯除賀使、以外不召。」とあり「詔で耽羅国の使人に曰く。天皇が新たに天下を平定し、初めて即位する。ゆえに祝賀使は受け入れるが、それ以外は受け入れない。」と宣言している。
* 漢文明圏では、新しく興った王朝が滅んだ前王朝の歴史を編纂するのが通例であるが、天武が歴史編纂を命じたのは天武天皇10年([[681年]])である。
* 日本書紀によると天武は、[[三種の神器]]の一つである[[草薙剣]]に祟られているので、天武は、本来正当な後継者ではなかったと考えられる。
==== 8世紀のヤマト王権 ====
[[8世紀]]は異常に多くの反乱やクーデターが発生しており、ヤマト王権は政権が安定していない。
* [[神亀]]6年([[729年]])[[長屋王#長屋王の変|長屋王の変]]([[長屋王]]を[[藤原氏]]が[[暗殺]]した[[事件]])
* [[天平]]12年([[740年]])[[藤原広嗣の乱]]([[藤原四兄弟]]が[[天然痘]]の流行によって全滅。[[鈴鹿王]]、[[橘諸兄]]が台頭し、失脚した藤原広嗣は大宰府において反乱を起し討伐された。)
* [[天平勝宝]]9歳([[757年]])[[橘奈良麻呂の乱]](孝謙天皇が藤原仲麻呂を利用して橘諸兄の子[[橘奈良麻呂|奈良麻呂]]等443人を粛清。)
* [[天平宝字]]8年([[764年]])[[藤原仲麻呂の乱]](孝謙上皇・[[道鏡]]が邪魔になった藤原仲麻呂を粛清しようとした。仲麻呂は軍事力をもって対抗しようとしたが失敗。)
* 神護景雲3年([[769年]])[[宇佐八幡宮神託事件]](称徳天皇(孝謙天皇)は宇佐八幡宮の託宣により道鏡に皇位を継がせようとしたが、[[和気清麻呂]]の妨害で失敗。)
* 神護景雲4年(770年)称徳天皇暗殺により天武朝が断絶、藤原氏は天智天皇の末裔(光仁天皇)を天皇に擁立した。
* [[天応 (日本)|天応]]元年([[781年]])[[氷上川継の乱]](天武天皇の[[続柄#曽孫(曾孫)|曾孫]]が[[計画]]したクーデタ未遂事件。)
==== 九州倭国の抵抗 ====
九州倭国が存在していたとの仮説が正しい場合には、九州倭国の抵抗が[[723年]]頃まで続いていたと推測されるべきかもしれない。
* 九州年号は大長([[704年]] - [[712年]])まで続いている。
* [[続日本紀]]に下記のような記述がある。
** [[養老]]元年([[717年]])11月17日 亡命山沢。挟蔵兵器。百日不首。復罪如初(武器を持って山野に逃亡している者は100日以内に自首しないと恩赦を与えない)
** 養老7年([[723年]])4月8日 大宰府言。日向。大隅。薩摩三国士卒。征討隼賊。頻遭軍役(大宰府の報告によれば、日向・大隅・薩摩の3カ国の士卒は、[[隼人の反乱]]軍征討に頻繁に軍役に狩りだされている)
** 養老7年(723年)5月17日 大隅・薩摩二国隼人等六百廿四人朝貢(大隅・薩摩の2カ国の隼人ら624人が朝貢してきた)
==== 防人 ====
[[防人]]の配置は、九州倭国制圧のために[[東国]]の[[蝦夷]]を利用したヤマト王権による「夷を持って夷を制する」政策であったと考えられるということにする。
===
[[ファイル:Ruin the Tofuro Up200607030320.JPG|right|thumb|256px|
==== 名称 ====
* 「
*
*
*
==== 記録の空白 ====
* 『[[日本書紀]]』などのヤマト王権の史書に
* 古代防衛施設遺跡の配置は、北九州に集中しており、守るべき中心が[[畿内]]
* [[魏志倭人伝]]によれば、九州には女王国とともに[[伊都国]]があり、女王国と大陸との貿易中継点として[[一大率]]が置かれ、「京都([[魏 (三国)|魏]])・[[帯方郡]]・韓諸国への使者、および帯方郡より倭国への使者を取り調べ、その文書・賜物を錯りなく女王に伝送する機能も果たした」ていたとされる。伊都国の地域では大陸との交易が盛んであったことを示す出土品が見つかっており、また帯方郡以前の紀元前1世紀の王墓も見つかっている。
*また一大率は、現在の福岡県西部(糸島)に常駐していたとされ、「女王国以北の周辺諸国の検察を行い諸国に畏憚されたとされている」<ref>{{コトバンク|一大率}}。</ref>。女王国が相当に広い範囲を治めることができたにも拘らず滅びたとすれば、交易先の[[帯方郡]]が5世紀頃[[百済]]に滅ぼされたため、戦馬などが得られなくなって大和国に制圧されたということも考えうる(大和朝廷が[[豊国]]を[[豊前国]]と[[豊後国]]に分割した理由も、良馬がおらず遠距離移動が困難になったためである可能性がある)。
*また、一大率の「率」が大陸の用字であること、のちの豊後国の初代国司[[陽侯真身]]が漢語の専門家であることを考えると、律令制以前には、[[豊国]](大分県)に至る地域の言語にも魏(帯方郡)の影響が強かったことが考えられる。
==== 都城 ====
* 下記のことから大宰府は、ヤマト王権最古の[[条坊制]][[都城]]である[[藤原京]](持統天皇8年([[694年]]
** 条坊の建設は単なる区画化した都市計画事業に過ぎず、[[城砦]]や[[城壁]]を建設するより遥かに簡単である。また何も無い所は攻撃の対象とならず防衛する必要もない。そこに重要な施設が存在していたからこそ、そこを防衛する設備が必要だったのである。『日本書紀』の記述が正しいとして、常識的に考えれば、多くの資材を投入して防衛のための付属施設である[[大野城 (筑前国)|大野城]]・[[水城]]等が
** 7世紀中頃に創建された[[観世音寺]]の遺構が
** [[竈門神社]]の社伝では、[[天智天皇]]の代に大宰府が現在地に遷された際、[[鬼門]](東北)に位置する[[宝満山]]に大宰府鎮護のため[[八百万の神々]]を祀ったのが竈門神社の始まりとされる。つまり大宰府は天智天皇の代(天智天皇7年([[668年]]) - 弘文天皇元年/天武天皇元年([[672年]]))にはあったことになる。
** [[新羅]]が西暦[[250年]] - [[300年]]頃には金城を整備し、高句麗も[[427年]]に都を[[平壌]]に遷している。更に百済は[[538年]]に [[泗沘]]都城を建設している。[[宋 (南朝)|宋]]の皇帝から[[安東大将軍]]に任命され、[[隋]]・[[唐]]朝時代には天子を自称した倭王が、7世紀末まで都城を建設しなかったとは考えられない。また博多では日本最古の計画都市(奴国)が発掘されている。
** 九州年号に倭京元年([[618年]])とあることから、この年に建設されたと考えられる。
[[ファイル:Dazaifu.gif|right|thumb|300px|太宰府条坊復元図]]
===== 唐の首都(長安)をモデルとした都市 =====
* 都市の区画割が明らかに[[唐]]の[[長安]]を模した条坊制である(政庁の位置が創建当時から移動していないことから「都市プランは政庁創建当初からあった」と考えられる)。
* ヤマト王権でこのように北に[[政庁]]を配置した条坊制の都は、[[平城京]]([[710年]])以降であり、これより46年 - 92年早い。
* ヤマト王権の都にはない都城周辺の城壁があったと考えられている。
==== 『日本書紀』『続日本紀』『魏志倭人伝』『万葉集』等の記録 ====
* 和銅4年([[711年]]) - 延暦19年([[800年]])の[[蓄銭叙位令]]などが示すように畿内地方は8世紀まで通貨経済は皆無であったが、『[[続日本紀]]』[[769年]]([[神護景雲]]3年)10月の記事で大宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也。 この府は人の行き来や交易が盛んで、日本で一番の都会である。」と報告しているように大宰府は国際交易都市であり、役人程度しか住まなかったという藤原京や平城京などのヤマト王権の首都を凌ぎ、古代日本で最も繁栄していた[[都市]]であった。
* 『[[魏志倭人伝]]』によると3世紀の奴国(博多)でさえ2万戸(10万人以上)の[[人口]]があり[[藤原京]]や[[平城京]]より遥かに人口が多かった。また畿内地方は[[8世紀]]まで通貨経済は皆無であったが「國國有市、交易有無、使大倭監之。 国々には市場があり、交易の有無を大倭(倭人で位の高い者)に監視させている。」とあり倭では交易が盛んであったことが窺える。
* 「[[新唐書]]・日本伝」に、「其の王の姓は阿毎氏。自ら言う、初めの主は天御中主と号し、・・・筑紫城に居す。」とあり、 筑紫城 = 大宰府(都府楼)である。
* 『日本書紀』[[壬申の乱]](672年)の記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内地方には未だ[[京]]と呼べるような都市は無く([[飛鳥京跡|飛鳥宮]]等は宮殿のみで市街地は持たない)。これは当時日本に存在していた唯一の都市である'''大宰府'''のことと考えられる。
* 『万葉集』に大宰小弐[[小野老]][[朝臣]]が[[天平]]元年([[729年]])大宰府に着任した時、饗宴で「奈良の都」を偲んで詠ったとされる次の歌があるが、この歌は大宰府の繁栄を詠ったものであり、大宰府の繁栄を示すものである「青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有 あをによし ねいらのみやこは さくはなの にほふがごとく いまさかりなり 万3-238」
==== 測定調査・発掘 ====
*
* 現在{{いつ|date= 2021年2月5日 (金) 19:50 (UTC)}}の太宰府の年代測定は、[[年輪年代測定]]や[[放射性炭素年代測定]]等によるものではなく科学的根拠が無い。水城の
* [[学習院大学]]年代測定室の[[放射性炭素年代測定]]によれば、
===
7世紀末に突如として畿内地方に出現した[[官僚]]集団は、九州の大宰府(倭京)から連れて来られたものである。ヤマト王権は九州倭国の官僚機構を引き継ぐことにより、政権に必要な人材を確保することができたと考えられる。
* [[養老律令]]によれば9,000人以上の職員が宮殿や官衙(平城宮)で勤務していたとされるが、飛鳥京には9,000人もの職員やその家族を収容できるような宮殿も官衙も無い。
* ヤマト王権は持統天皇8年([[694年]])に行政が常駐する都(藤原京)を建設し、[[文武天皇]]5年([[701年]])に大宝律令を制定して官僚組織を整備しているが、7世紀まで日本(畿内)には[[文字]]が無かったとされている。
* 奈良時代の下級官僚は薄給であり誤字等に対する罰金制度等があり、妻を質入れするほど困窮する者もあったと記録されている。知識階級でありエリートであるはずの下級官僚に対するヤマト王権の扱いは極めて劣悪である。
* 下記のとおり『続日本紀』[[神護景雲]]3年([[769年]])10月[[甲辰]]の記事にあるように8世紀になっても大宰府では学問で身を立てようと志す者が多かった。
: 大宰府言 此府人物殷繁 天下之一都会也 子弟之徒 学者稍衆 而府庫但蓄[[五経]] 未有[[三史]]正本 渉猟之人 其道不広 伏乞 列代諸史 各給一本 伝習管内 以興学業 詔賜[[史記]] [[漢書]] [[後漢書]] [[三国志]] [[晋書]]各一部
: 大宰府の役人が「この府は人の行き来や交易が盛んで日本で一番大きい都会ですが、府庫には五経しかなく三史がないので、学生や学者が、本が読みたくても本が読めません。伏してお願いします。学業のために列代の諸史を各1冊下さい。」と言上してきたので、天皇の命令で史記、漢書、後漢書、三国志、晋書各一部を賜った。
=== 通貨貨幣経済 ===
次のことから、7世紀以前に[[無文銀銭]]や[[富本銭]]などの貨幣が発行されこれらの貨幣が流通していたのは九州であり、8世紀以後、ヤマト王権は九州の富本銭等を参考にして和開同珎([[和同開珎]])等の[[貨幣]]を発行したと考えられる。[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou32/furuta32.html 古田史学会報「二つの確証について」]
* [[西日本]]を中心に[[弥生時代]]の[[遺跡]]から秦や前漢の通貨である[[半両銭]]、前漢から隋の通貨である[[五銖銭]]、新の通貨である[[貨泉]]等が多数出土している。
* 魏志倭人伝に「乘船南北市糴(船に乗って南北に出かけて米の買い付けを行う)」・「國國有市、交易有無、使大倭監之(町々には市場があり、交易の有無を位の高い者に監視させている)」とあり倭は交易が盛んであったと記されている。
* 『続日本紀』[[769年]]の記事で
* 『続日本紀』等の記事やその銭文が示すとおり、ヤマト王権が発行した最初の[[貨幣]]は和
* 和
* [[和同開珎]]の私鋳銭が蔓延した716年には、朝廷は大宰府に対して材料取引の取り締まりを命じている<ref>[https://museum.city.fukuoka.jp/sp/exhibition/520/ 古代のお金] - [[福岡市博物館]]。</ref>。
* 九州には古代から[[博多港]]・[[坊津]]・[[八代]]港などがあったが、畿内地方には、外洋航海ができるような大型商船が着岸できる[[貿易港]]は、[[平清盛]]が[[12世紀]]に[[大輪田泊]]([[神戸港]])を整備するまで無かった。
* [[蓄銭叙位令]](和銅4年([[711年]]) - 延暦19年([[800年]]))などが示すように[[近畿地方|畿内地方]]では8世紀になっても通貨経済は未発達であった。畿内地方で通貨経済が発展するのは、12世紀に平清盛によって多量の[[宋銭]]が輸入されてからである。
===
『[[万葉集]]』に、九州・山陰山陽・四国の人の歌が無いのは、[[皇権簒奪]]の事実を隠すためであり、また解釈が皇国史観で歪曲されているからである<ref>『古代史の十字路 万葉批判』(東洋書林)[[2001年]](平成13年)4月20日</ref>。代表的[[歌人]]でありながら正体不明な「[[柿本人麻呂]]」や「[[額田王]]」等は九州倭国縁の人物である。[[山上憶良]]等も元は九州倭国の[[役人]]であったものがヤマト王権に仕えたものである。
====
* 7世紀以前の畿内ヤマトでは文字が普及しておらず、歌などの[[記録]]の保存が難しかったと考えられる。
* 大宰府(九州倭国)の花は[[梅]]、畿内日本の花は[[桜]]や[[キク|菊]]である、万葉集では梅118首、桜40首が詠まれ、菊は1首も詠まれていない。
* 万葉集では北朝で使われた「[[紅葉]]」ではなく九州倭国が朝貢した南朝で使われた「黄葉」が多く使われている。
* 古代の河内地域には、巨大な[[河内湖]]([[草香江]])があり雄大な景色が広かってたと考えられるが、7世紀頃には陸化により消滅したといわれている。河内湖は瀬戸内海から大和への通り道であり[[人類学|古代人]]は頻繁にこれを通ったと考えられ、これを観たり通った古代人が歌を詠まないはずが無いが、万葉集にはこの雄大な河内湖そのものを詠んだ歌や船で河内湖を行く歌が存在しない。
* 万葉集には「白村江の戦」に関する歌が無い。「白村江の戦」は九州倭国が主体として戦ったものであることを隠すために残されなったものである。
<!--- *「倭国万葉集」の「大和篇」が「雑歌」として残され、それを出発点(巻一・二)として、巻三以降が増補され、現存の『万葉集』に至った。
** 万葉集は九州王朝時代の5〜8世紀にかけて詠まれた主に口誦歌を集めた歌集である。
** 万葉集では巻末に置くべき雑歌(その他、雑)から始まっている。
** 万葉集には[[奥書]]がなく、誰が何時編纂したのか不明である。続日本紀・日本書紀にも編纂の記事がない。--->
====
万葉集の[[香具山]]は、[[久留米市]]南方の山(古田武彦は[[鶴見岳]]説)
* 万葉歌では香具山から見える鴎を詠った歌(万1-2)があるが、奈良県の香具山からは海は見えない。また標高が152.4メートルしかなく奈良県の山々の中で際立っているとは言い難い。
** 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜可國曽 蜻嶋 八間跡能國者 やまとには むらやまあれど とりよろふ あまのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ うなはらは かまめたちたつ うましくにぞ あきづしま やまとのくには([[山門郡]] - [[大和町 (佐賀県)]]には たくさんの山があるが そのなかでも際立っている 天の香具山に登り立って 領土を見渡せば 人々が暮らす平野には 炊煙が立ち昇り 海原では 鴎が飛び 素晴らしい国だよ ([[秋津島]])ヤマトの国は)万1-2
==== 吉野山 ====
万葉集の[[吉野山]]は吉野ヶ里背面の山。
*『[[日本書紀]]』によれば[[持統天皇]]は、持統3年([[689年]])1月から持統11年([[697年]])4月までの間に、31回も吉野に行幸している。これは、34年前の[[白村江の戦]]直前の九州倭国の天子の軍事的目的を持った[[佐賀県]][[吉野ヶ里遺跡|吉野]]への視察記事から盗用されたものである(部隊は[[軍事機密|機密]]保持のため[[有明海]]に集結し、有明海 → [[五島列島]] → 韓のコースを辿ったと考えられる)<ref>古田史学論集 第十一集「古代に真実を求めて」古田史学の会(編) [[明石書店]] [[2008年]](平成20年)3月 {{ISBN2| 978-4-7503-2762-4}}
『日本書紀』・「持統紀」の真実——書紀記事の「三十四年遡上」現象と九州年号——(正木裕)
[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jyoshino/yosino2.html この歌は大和吉野の歌ではない]</ref>。
** 春8回、夏9回、秋8回、冬6回と亡き夫を偲ぶにしては、季節に関係なく1年中行っている。冬山に天皇が[[行幸]]したとは考えられない。
** 持統天皇8年([[694年]])[[夏]]4月の吉野行幸から帰った日に「[[丁亥]]」とあるが、この年の4月に「丁亥」はない。しかし34年前の[[斉明天皇]]6年([[660年]])4月なら「丁亥」がある。
== 関連する主張 ==
=== 日向・高千穂 ===
* [[天孫降臨]]の地である筑紫の日向とは[[福岡市]]と[[糸島市]]との間にある[[日向峠]]付近であり、[[高千穂]]とは糸島市の[[高祖山]]のことである。(「怡土志摩郡地理全誌」によると高祖山付近をクシフル山と呼んでいた)<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku6/kourin7.html 『天孫降臨地の解明』古田武彦]</ref>
=== 仏教伝来の経由地 ===
* 福岡県の[[千如寺]] - 寺伝によれば、[[天竺]](インド)霊鷲山の僧「清賀」が渡来し、178年に開創した。
* 福岡県の[[英彦山]]の[[霊泉寺_(福岡県添田町)|霊泉寺]] - [[北魏]]の僧である善正上人が531年、彦山を練行の地と定め、洞窟で修行を始め、英彦山修験が成立した。
* [[法隆寺]]西院伽藍は、筑紫の寺院(大宰府都城の[[観世音寺]]又は福岡市難波池の[[難波天王寺]]又は[[筑後国放光寺]])が移築されたものである<ref>米田良三『法隆寺は移築された』(新泉社、[[2007年]]2月){{ISBN2| 4787706039}}</ref>。
=== 九州倭国の九州統一 ===
[[景行天皇]]の九州大遠征説話は「[[筑前]]」を拠点として「九州統一」を成し遂げた九州倭国の史書からの盗用である<ref>古田 武彦 著『盗まれた神話』</ref>。
* 畿内の大王が、本拠地を遠く離れ7年間も九州に遠征したとは考え難い。
* [[筑後]]や[[肥後]]では現地側の歓迎を受けながら、[[豊前]]や[[球磨]]・[[大隅]]では現地側の勢力と戦闘を行っている(東が討伐で、西が巡行)のは、東の大和から来た遠征軍としては不自然である。
* [[浮羽郡|浮羽]]まで来ていながら、九州の中枢筑前へ入っていないのは、不可解である。
* 遠征の出発地点から最終地の浮羽まで詳述しながら、突如浮羽から、[[日向]]・大和へ帰り着いている。
* 遠征の出発地点から終点の浮羽まで地名が、異常に詳細に、かつ長大に記述されている。
* 古事記の景行記には「九州遠征」についての記述が全くない。
[[神功皇后]]の筑後平定説話は九州倭国の史書からの盗用である。
=== 神社・君が代 ===
* [[住吉神社]]、[[八幡宮]]など、九州を始原とする神社が日本全国に多く分布するのは、九州倭国の信仰をヤマト王権が引き継ぎ広まったものである<ref group="注">[[神道]]発祥の地は壱岐市の[[月讀神社 (壱岐市)|月読神社]]([[壱岐国]])といわれており、日本最古の住吉神社は壱岐市にある[[住吉神社 (壱岐市)|住吉神社]]や、福岡市の[[住吉神社 (福岡市)|住吉神社]]である。また[[八幡様]]の総本宮は[[宇佐神宮]]であり、宇佐神宮の本宮は[[福岡県]][[飯塚市]][[大分八幡宮]]である。</ref>。
*[[豊国]]の[[宇佐神宮]]は650年([[大化]]6年)、[[周防国]]に[[松崎八幡宮]]を勧請して建立したとされており<ref>[[延喜式]]内の広島([[安芸国]])の[[多家神社|松崎八幡宮]](多家神社)とは別の宮である。</ref>、仏教を拡大する[[飛鳥京]]と併存した勢力であったかと思われる(769年、[[道鏡事件]]が起きている)。
*「[[君が代]]」は九州倭国の春の祭礼の歌である<ref>『奪われた国歌「君が代」』([[株式会社 (日本)|株式会社]]情報センター出版局)[[2008年]](平成20年)8月11日 『日本の秘密 「君が代」を深く考える』([[五月書房]])[[2000年]](平成12年)1月28日</ref>。
#[[千代町|千代]] - 福岡市の中心街の地名。
# 細石(さざれいし) - 福岡県糸島市に[[細石神社]]がある。
# 巌(いわお) - 福岡県糸島市に井原(いわら)という地名あり。
# 苔のむすまで - 福岡県糸島市に[[若宮神社 (糸島市)|若宮神社]]があり、祭神は「苔牟須売神([[コケムスメ]]・苔むすめ)」他である。
=== 正倉院 ===
奈良正倉院の宝物の殆どは[[天平]]10年([[738年]])に九州筑後の正倉院から献上されたものであり、元は九州倭国の宝物である<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou32/furuta32.html 古田武彦氏講演会(四月十七日) 抄録]</ref>。
* 「[[正倉院]]文書」中の正税帳によると、当時の税は、[[稲]]・[[塩]]・[[酒]]・[[粟]]などを納めるのが普通だが、「筑後国」の貢納物は[[鷹狩]]のための養鷹人と[[猟犬]]。白玉・青玉・縹玉などの玉類などである。[[鷹狩]]・[[曲水の宴]]などの貴族趣味は畿内地方にはなく、筑後にはあった。
* 玄界灘の真っ只中、九州本土から約60kmに浮かぶ[[沖ノ島]]は、[[宗像大社]]の神領であり、日本で最も多くの[[国宝]]が出土しており、「海の正倉院」と称されている<ref>[[伊藤まさこ]]著「太宰府・宝満・沖ノ島」([[不知火書房]]、[[2014年]](平成26年)8月)</ref>。沖ノ島から出土した土器のほとんどは[[北部九州|北部九州製]]であり、一部が[[山口県]]の土器である<ref>[[古田武彦]]著『ここに古代王朝ありき』([[ミネルヴァ書房]]、[[2010年]](平成22年)9月)</ref>。
=== 源氏物語等 ===
* 『[[源氏物語]]』はもともと九州『倭国』における作品で、[[平安時代]]に[[紫式部]]により今風に手を加えられ世に出たものである。[[物語]]の舞台の中心は7世紀前半の大宰府都城である<ref>[[米田良三]]著『続・法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』</ref>。
===
[[2004年]]秋に[[中華人民共和国]][[陝西省]][[西安市]]の西北大学が西安市内から[[日本人]][[遣唐使]]「[[井真成]]」の墓誌を発見した。以下のことから、この「井真成」は、九州倭国の[[皇族]]であると考えられる<ref>『和姓に井真成を奪回せよ』(同時代社([[2005年]](平成17年)7月)){{ISBN2| 4886835562}}</ref>。
* 死後追贈された役職「尚衣奉御」は、皇帝の衣服を管理する部門の責任者で単なる留学生に与えられるものではない。当時この官職に就くことができたのは、皇子を含む皇室貴族だけだった。
* 井真成の死は皇帝に報告され、葬儀の費用は唐政府が負担したと記されているが、これは三等官以上の外国使節に対する扱いである。
* 現在{{いつ|date= 2021年2月5日 (金) 19:50 (UTC)}}「井」という[[姓]]は九州[[熊本県]]の[[産山村]]・[[南小国町]]・[[一の宮町]]などに多く存在する<ref group="注">「井」一族は神武天皇とも関わりのある古い時代からの姓で、有力豪族だったという。また[[本姓]]は「井」だが「井野(イの)」等の[[苗字]]を名乗っている家も多い。</ref>。
* 井は倭(ゐ)に通じる。
=== 地名 ===
* 大宰府政庁の「[[蔵司]]」「[[老司]]」、[[北九州市]]の「[[門司区|門司]]」、山口県の「[[下関市|下関]]」、大分県の「[[佐賀関]]」等々は、九州倭国の役所と考えられる<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nikki9/nikki520.html 古賀達也の洛中洛外日記第520話 2013年(平成25年)2月2日]</ref>。
* 大分県の「[[国東半島]]」の国東とは、九州倭国の東という意味である。
=== 駅路 ===
[[古代]][[日本]]では、[[駅路]]という全長6,300kmにも及ぶ幅6-30mの直線的道路が本州をほぼ縦断して全国に作られ、沿線には「[[駅家]](うまや)」という休憩・[[宿泊施設]]も作られていた。これは2021年(令和3年)現在の[[日本の高速道路|日本の高速道路網]]にも匹敵するものであるが、これだけの[[道路]]の建設にもかかわらず、どれだけ費用がかかり、誰が負担したかと言う事がわかっていない。当時の[[人口]]は500万人程度と推測されており、建設には長い歳月と膨大な労力が必要だったと考えられる。これらも九州倭国が、半島での[[戦争]]を遂行するために兵員の移動・物資の補給用に建設したものであると考えられる<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho108/kai10803.html 『古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?』]</ref>。
== 説の歴史と問題点 ==
=== 説の歴史 ===
九州王朝説の提唱者である古田は[[親鸞]]研究
歴史学、考古学等の研究者は、本説の内容に関して、
</ref>、
その一方で、[[市民|一般市民]]や在野の研究者の中には熱心な支持者が存在し、従来の古代日本史学をいまだ[[皇国史観]]の影響下にあるものと見て、本説はそれに代わる新しい史観であり、「日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できる」と主張している。また本説からは多くの亜流が生まれている。
=== 問題点 ===
九州王朝説は
# 通説とあまりにかけ離れており日本古代史学界の多くの研究成果と整合しない<ref group="注">日本古代史考古学界では[[年輪年代学]]の成果から[[3世紀]]中葉に[[畿内]]を中心とする連合が形成されたとする見解が主流となりつつある([[参照 (書誌学)|参照]]:[[白石太一郎]] 『古墳とヤマト政権』 [[文藝春秋]]、[[1999年]](平成11年) {{ISBN2| 4166600362}})。</ref>。
# 古田武彦やその支持者が[[史料批判]]など歴史学の基礎手続きを尊重していない<ref group="注">一例を挙げると、同時代史書と後代史書が矛盾する場合は、同時代史書を優先、自国史書より利害関係のない外国史書を優先という方法により立論していながら自説と矛盾する『通典』を無視していると思われる発言を支持者がしている。(出典:[https://web.archive.org/web/20140729052409/http://6516.teacup.com/yasyut/bbs?OF=20&BD=11&CH=5 古田史学の会 横田幸男の発言] に「最後に当会は、屁理屈も理屈であると言われる日野陽仁(川村明)氏の九州王朝説批判を批判することはありません。これは、当会の考えとして元の史料である『通典』・『唐会要』・『太平御覧』の史料批判から出発すべきだと考えるからです。'''それらの史料性格については、大昔に古田氏が『邪馬臺国の常識』(松本清張編 毎日新聞社)で論じているところ'''であり、新しい知見や再解釈が行なわれば公開させていただきます。そんなことは'''当面ありそうにない'''です。」とあり、『通典』とそれを根拠にした'''批判を無視していくことを公言'''している。なお、別の九州王朝説論者による批判は存在する。)。</ref>。
#重要な古文書をまともに読んでいない<ref>聖徳太子研究者の[[石井公成]]は[https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/c/869a6dd5f61c8a24bcb2b8a723659d8d 自身の「聖徳太子をめぐる珍説奇説」の一連ブログ記事]において聖徳太子関連についてトンデモが多いと批判している</ref>。
=== 問題点に対する九州王朝説側からの意見等 ===
飛鳥時代以前を記録した一次史料は[[金石文]]や発掘された[[木簡]]など僅かしか存在しない、従って説の論拠となる史料は、この僅かな一次資料と記紀や万葉集、漢-唐、朝鮮の歴史書等に散見される間接的な記事、九州年号や大宰府、[[那珂遺跡群]]、金印、神籠石などである。この資料の少なさが、九州倭国否定論の論拠の一つとなっており、また多くの亜流を生む原因ともなっている。通説側から九州倭国の存在を仮定しての[[日本書紀]]等の既存資料の解釈が恣意的であると問題視されているが、九州王朝説からすると「古代ヤマト王権の存在を裏付ける都城などの遺跡、官僚機構の存在を示す木簡などの一次資料は全く存在せず、通説は二次資料・三次資料である記紀を鵜呑みにしたヤマト王権一元論を前提にその他の資料を無視したり曲解しており、資料の扱いが恣意的である」となる。
『日本書紀』の神代巻に「筑紫」は14回出現するが「大和」は1回も出現しないことなどから、神代の舞台は九州であるとする意見は九州王朝説に限らず多いが、九州王朝説の一部の論者の中には上記のように「壬申の乱」の舞台までも九州であるとして、記紀の殆どは「九州倭国」の史書からの盗用であり、「古代ヤマト王権」の文献資料など存在しないとする見方もある。
九州王朝説は九州王朝一元論に陥り易いが、これは記紀の基になった九州王朝の史書が九州王朝一元論によって書かれていたためにそう観えるのであり、現実を正確に反映しているわけではない。古田武彦は自分の仮説は九州王朝と大和王朝の双方の存在をみとめる「[[多元王朝説]]」なのであって九州王朝一元説は支持しない{{Refnest|group="注"|「私は九州王朝一元史観ではないわけでありまして、多元史観なわけですね。私のいっているのは、多元史観が大事であると、多元史観というのは今おっしゃいました出雲であるとか、吉備であるとか、日向であるとか、そういったところの、それぞれの[[歴史]]を大事にしていくということでありまして、その一つを原点にして、全部を説明していく、というやり方をしないということなんです。だから'''近畿天皇家一元主義にかわる九州王朝一元主義をとるというんじゃない'''んですね。」<ref>{{Cite web2 |url=https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin13/onamekei.html |title=大嘗祭と九州王朝の系図 |date=1991-02-09 |publisher=市民の古代第13集 1991年 市民の古代研究会編 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20240503125819/https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin13/onamekei.html |df=ja |url-status=dead |archivedate=2024-05-03 |accessdate=2024-05-03}}</ref>}}と明言している。
また、九州王朝説の支持研究者間でも、白村江の戦いまでを九州倭国の歴史と見る、壬申の乱までを九州倭国の歴史と見る、大化の改新まで九州倭国の歴史と見る<ref group="注" name="iwai" />等考え方は様々であり定まっていない。かつて古田の弟子であり今は袂を分かった[[原田実 (作家)|原田実]]のように、九州王朝は磐井の乱で大和朝廷に屈したと考える論者もいる。[[中小路駿逸]](元[[追手門学院大学]]教授)は、雑誌「[[市民の古代]]」への投稿について「控え目に言って玉石混淆」と評しており、一部の支持者の主張が突拍子もないと言う類であることを認めている。
<!-- 放送日不明
古事記研究家の[[竹田恒泰]]は、八代市で行った講演で上記「八代伊勢説」を紹介等したにもかかわらず[[テレビ番組]]「[[そこまで言って委員会NP]]」の中では「記紀は我々日本人にとって真実なのであり、海外の[[参考文献|文献]]と比較して事実を暴く様な事をしてはいけない。」・「日本史の教科書に魏志倭人伝等載せるべきではない。」等と発言している。
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== 関連書 ==
=== 肯定側 ===
* [[古田武彦]] 『[[邪馬台国はなかった|「邪馬台国」はなかった]]』 朝日新聞社(のち角川文庫、朝日文庫)、1971年
* 古田武彦 『失われた九州王朝』 朝日新聞社(のち角川文庫、朝日文庫)、1973年
* 古田武彦 『盗まれた神話-記・紀の秘密-』 朝日新聞社(のち角川文庫、朝日文庫)、1975年
* 古田武彦編 『邪馬壹国から九州王朝へ』 新泉社、1987年
* 古田武彦 『古代は輝いていた一-『風土記』にいた卑弥呼-』 朝日新聞、1988年
* 古田武彦 『古代は輝いていた二-日本列島の大王たち-』 朝日新聞、1988年
* 古田武彦 『古代は輝いていた三-法隆寺の中の九州王朝-』 朝日新聞、1988年
* 古田武彦 『古代史60の証言』 かたりべ文庫、1991年
* 古田武彦、[[福永晋三]]、[[古賀達也]] 『九州王朝の論理
* 古田武彦、谷本茂 『古代史の「ゆがみ」を正す
* [[内倉武久]] 『太宰府は日本の首都だった—理化学と「証言」が明かす古代史』 ミネルヴァ書房、2000年 {{ISBN2| 4-6230-3238-8}}
* [[草野善彦]] 『放射性炭素年代測定と日本古代史学のコペルニクス的転回』 本の泉社、2003年 {{ISBN2| 4-8802-3646-2}}
* 九州古代史の会編 『「磐井の乱」とは何か—九州王朝多元説を追う』 同時代社、2006年 {{ISBN2| 978-4-88683-593-2}}
=== 否定側 ===
* [[岡田英弘]] 『倭国
* [[山尾幸久]] 『新版 魏志倭人伝』 講談社、1986年
* [[安本美典]] 『虚妄(まぼろし)の九州王朝—独断と歪曲の「古田武彦説」を撃つ』 梓書院、1995年
* 安本美典 『古代九州王朝はなかった
* 安本美典 『邪馬一国はなかった』 徳間書店、1988年
* [[高木彬光]] 『邪馬壱国の非論理』 私家版、1977年
* 高木彬光 『邪馬壹国の陰謀』 日本文華社、1978年
* [[原田実 (作家)|原田実]] 『幻想の多元的古代
* 原田実 『トンデモ日本史の真相』 文芸社、2007年
* [[久保田穣]] 『古代史のディベート』 大和書房、1994年
* [[鷲﨑弘朋]] 『邪馬台国の位置と日本国家の起源』 新人物往来社、1996年
* [[西野凡夫]] 『古代天皇の系譜と紀年 さらば九州王朝論』 高城書房出版、1997年
* [[張明澄]] 『誤読だらけの邪馬台国 中国人が記紀と倭人伝を読めば』 久保書店、1992年
{{脚注ヘルプ}}
===
{{Reflist|group="注"|2}}
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{{Reflist|2}}
* [[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]他 『日本書紀(1)』 岩波書店、2003年 {{ISBN2| 4-00-007230-7}}
* [[石原道博]] 『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』 岩波書店、1985年 {{ISBN2|4-00-334011-6}}
* 石原道博 『新訂 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』 岩波書店、1986年 {{ISBN2| 4-00-334021-3}}
* [[久保田穣]] 『古代史における論理と空想』 大和書房、1992年 {{ISBN2| 4479950265}}
* [[長沼賢海]] 『邪馬台と大宰府』 太宰府天満宮文化研究所、1968年 ASIN B000J9GZO2
* [[佐伯有清]] 『邪馬台国論争』 岩波書店、2006年 {{ISBN2| 4-00-430990-5}}
* [[家永三郎]]・古田武彦 『聖徳太子論争』
== 関連項目 ==
* [[津田左右吉]]
* [[日本神話|記紀神話]]
* [[倭・倭人関連の中国文献]]
* [[倭・倭人関連の朝鮮文献]]
576 ⟶ 557行目:
* [[多氏]]
==
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{{col-2}}
; 肯定側
* [http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta3.html 古田史学会の会報] {{ja icon}}
* [http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/kaihou08.html 古田史学の会のために] {{ja icon}}
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; 否定側
* {{Wayback|url=http://www8.ocn.ne.jp/~douji/shihou.htm |title=歴史を捻じ曲げる日本の司法(※ 古田武彦の情報操作について) |date=20040619133010}}
* [https://web.archive.org/web/20210418181337/http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu.htm 九州王朝説批判] {{ja icon}}
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; 参考
* [http://puzhai.cocolog-nifty.com/zazhi/2005/12/post_b1ef.html 朴斎雑志 研究と「研究ごっこ」の境] {{ja icon}}
* [http://nire.main.jp/rouman/sinwa/yamatohime.htm 神話の森 倭姫命世記] {{ja icon}}
* [https://web.archive.org/web/20200313085939/http://yamatai.cside.com/index.htm 邪馬台国の会ホームページ] {{ja icon}}
* [https://web.archive.org/web/20020811051541/http://inoues.net/yamataikoku/index.html 邪馬台国大研究] {{ja icon}}
{{DEFAULTSORT:きゆうしゆうおうちようせつ}}
[[Category:倭人伝]]
[[Category:日本の史学史]]
[[Category:日本の歴史論争]]
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