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文人・詩人として: 歩行西門行
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{{三国志の人物
| 名前 = 曹操
| 画像 = Cao Cao scth.jpg
| サイズ =
| 説明 =
| 王朝 = [[後漢]]
| 称号・役職 = [[丞相]]、[[魏 (三国)|魏]][[後漢の諸侯一覧|王]]・[[丞相]]・[[冀州]][[刺史|牧]]
| 出生 = [[永寿 (漢)|永寿]]元年([[155年]])
| 出身地 = [[豫州]][[沛国]]譙県(現[[安徽省]][[亳州市]][[譙城区]])
| 死去 = [[建安 (漢)|建安]]25年[[1月23日_ (旧暦)|1月23日]]([[220年]][[3月15日]])
| 死没地 = [[司隸]][[河南尹]][[洛陽市|洛陽県]](現:[[河南省]][[洛陽市]]
| ピン音 = Cáo Cāo(ツァオ・ツァオ)
| = 孟徳
| 諡号 = 武王→武皇帝
| 廟号 = 太祖
| 別名 = 幼名:阿瞞、吉利
| 主君 = [[霊帝 = (漢)|霊帝]]→[[少帝弁]]→[[献帝 (漢)|献帝]]
| 特記事項 =
}}
 
{{中華圏の事物
'''曹 操'''(そう そう、永寿元年([[155年]]) - 建安25年[[1月23日_(旧暦)|1月23日]]([[220年]][[3月15日]])は、[[中国]][[後漢]]末の武将、政治家。詩人、[[兵法]]家としても業績を残した。[[字]]は'''孟徳'''(もうとく)、幼名は'''阿瞞'''また吉利。[[沛国]]譙県(現在の[[安徽省]][[亳州市]]。また[[河南省]][[永城市]]という説もある)の人。
| タイトル = 曹操
| 画像種別 =
| 画像 =
| 画像の説明 =
| 英文 =
| 簡体字 = 曹操
| 繁体字 = 曹操
| ピン音 = Cáo Cāo
| 通用 =
| 注音符号 =
| ラテン字 =
| 広東語ピン音 =
| 広東語 =
| 上海語 =
| 閩南語発音 =
| 台湾語 =
| カタカナ =
| ひらがな = そう そう
}}
'''曹 操'''(そう そう、[[拼音]]:Cáo Cāo、[[永寿 (漢)|永寿]]元年([[155年]]) - [[建安 (漢)|建安]]25年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]([[220年]][[3月15日]]))は、[[後漢]]末期の[[軍人]]・[[政治家]]・[[詩人]]で、実質的な[[魏 (三国)|魏]]の創始者。[[字]]は'''孟徳'''(もうとく)。幼名は'''吉利'''、渾名は'''阿萬'''。[[豫州]][[沛国]]譙県(現:[[安徽省]][[亳州市]][[譙城区]])の出身。[[廟号]]は太祖、[[諡号]]は武皇帝。
 
== 生涯 ==
 
=== 出生 ===
後漢の[[丞相]]・魏王で、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]の基礎を作った。[[廟号]]は太祖、[[謚号]]は武皇帝。後世では'''魏'''の'''武帝'''、魏武とも呼ばれる。
 
== 経歴 ==
=== 出自 ===
[[Image:Family Tree of Cao Family.jpg|thumb|250px|曹氏系図]]
父は[[曹嵩]]。曹嵩はもともと[[夏侯氏]]であったが、[[中常侍]]・[[大長秋]][[曹騰]]の養子となり[[曹氏]]を継ぎ(高位の[[宦官]]は養子をとって家名を存続することが可能だった)、[[太尉]]となっている。曹氏の先祖は[[前漢]]の平陽侯[[曹参]]とされるが疑わしい。また、曹嵩の実家である夏侯氏の先祖は前漢の汝陰侯[[夏侯嬰]]とされている。彼の挙兵時から従軍した[[夏侯惇]]、[[夏侯淵]]等は従兄弟にあたる。
 
[[後漢]][[桓帝 (漢)|桓帝]]期の[[永寿]]元年([[155年]])に生まれる。[[本貫|本籍]]は[[沛国]]譙県(現在の[[安徽省]][[亳州市]]){{Sfn|石井|2013|p=46|ps= kindle位置No}}。その祖先は高祖[[劉邦]]に仕えた功臣[[曹参]]であると『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』「魏書武帝紀」には記されている{{Sfn|石井|2013|p=195|ps= kindle位置No}}。しかし曹参はその功績により平陽侯に封ぜられ、その家は魏晋時代まで存続していたことから、少なくとも曹操の家は曹参の嫡流ではないことは確定的で、曹操の祖先はおそらく一介の農民であったと思われる{{Sfn|堀|2001|p=4}}{{Sfn|石井|2013|p=211|ps= kindle位置No}}{{efn2|name=DNA|2013年11月11日、{{仮リンク|曹操宗族墓群|zh|曹操宗族墓群}}の元宝坑一号墓で発掘された、曹操の大叔父である[[曹鼎]](養祖父[[曹騰]]の弟)の歯をもとに、[[復旦大学]]所属の研究チーム主導で行われた古代DNA分析の最新結果が発表された。それによれば、曹操の子孫とは高い関連性が見られたものの、曹参および夏侯氏の子孫との関連性は認められなかった。このため、曹騰及び養子で曹操の実父の曹嵩は、曹参の家系には属さないと判断された<ref>{{Cite journal|和書|author=|title=曹操身世之謎:既非曹参後代亦非夏侯氏抱養|journal=歴史教学|issue=第23期|date=2013|page=7}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://spc.jst.go.jp/redirect.html?url=news/131102/topic_2_01.html |title=曹操の家族のDNAが判明、出生の謎を解くカギに|website=Science Portal China|publisher=[[科学技術振興機構]]|date=2013-11-12|accessdate=2025-4-28|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/13982669/spc.jst.go.jp/news/131102/topic_2_01.html |archivedate=2025-1-13}}</ref>。}}。
=== 治世の能臣、乱世の奸雄 ===
曹操は若くして機知・権謀に富んだが、放蕩を好み素行を治めなかったため世評は芳しくなかった。ただ太尉の[[橋玄]]は「天下は乱れようとしており、当代一の才の持主でなければ救う事はできない。天下をよく安んずるのは君である」などと曹操を高く評価した。また、橋玄が紹介した[[月旦評]]で有名な後漢の人物鑑定家の許子將([[許劭]])は、「{{Lang|zh-tw|子治世之能臣亂世之奸雄}}」(子は治世の能臣、乱世の奸雄(姦雄))<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』一 魏書巻一 武帝紀第一にある[[裴松之]]の註で引用された孫盛の『異同雜語』[[逸文]]による。</ref>または「{{Lang|zh-tw|君清平之奸賊亂世之英雄}}」(君は清平の奸賊、乱世の英雄)<ref>『[[後漢書]]』卷98 郭符許列傳第五十八</ref>と評した。曹操は後に橋玄を祀り、かつての恩義に報いた。
 
曹操の祖父[[曹騰]]は、[[安帝 (漢)|安帝]](在位106年-125年)の時に[[宦官]]として宮廷に入り、30年の長きに渡って政界を渡り歩いてきた政治家である{{Sfn|石井|2013|p=323|ps= kindle位置No323}}。[[順帝 (漢)|順帝]]の皇太子時代に勉強相手として任用され{{Sfn|石井|2013|p=282|ps= kindle位置No}}、順帝即位後には[[中常侍]]に抜擢される{{Sfn|石井|2013|p=310|ps= kindle位置No310}}。さらに[[梁冀]]による桓帝擁立に関わり、その功により費[[列侯|亭侯]]に封ぜられ{{Sfn|石井|2013|p=344||ps= kindle位置No}}{{Sfn|堀|2001|p=5}}、[[大長秋]]に昇る{{Sfn|堀|2001|p=5}}。
20歳のときに[[孝廉]]に推挙され、郎となった後、[[洛陽]]北部尉、頓丘[[県令]]、議郎を歴任した。
 
曹操の父[[曹嵩]]は、曹騰の養子である{{Refnest|group="注"|name="宦官養子"|当時の宦官は養子を迎えて家を構えることが認められていた{{Sfn|石井|2013|p=586|ps= kindle位置No}}。}}。『三国志』に注釈を施した[[裴松之]]が引く『{{仮リンク|曹瞞伝|zh|曹瞞傳}}』及び[[郭頒]]『魏晋世語』では、曹嵩はもともと[[夏侯氏]]で、曹操の部下の一人[[夏侯惇]]の叔父であったとするが、「武帝紀」では曹嵩の出自はよくわからないとしている{{Sfn|石井|2013|p=451|ps= kindle位置No}}{{Sfn|堀|2001|p=7}}{{efn2|name=DNA}}。曹嵩もまた官界に入り、[[司隷校尉]]・[[大鴻臚]]などを歴任した後に、[[三公]]の一つ[[太尉]]に昇る。この時に、その地位を得るために一億銭を使ったという{{Sfn|石井|2013|p=527|ps= kindle位置No}}{{Refnest|group="注"|name="官僚地位の売買"|当時の皇帝である[[霊帝 (漢)|霊帝]]は蓄財に非常に熱心で、宰相級の高官までも金で売ることが常態化していた([[売官]]){{Sfn|石井|2013|p=527|ps= kindle位置No}}。}}。
洛陽北部尉に着任すると、違反者に対して厳しく取り締まった。その任期中に、[[霊帝 (漢)|霊帝]]に寵愛されていた宦官[[蹇碩]]の叔父が門の夜間通行の禁令を犯したので、曹操は彼を捕らえて即座に打ち殺した。このため法の禁を犯す者は現れなくなり、曹操を疎んじた宦官などは追放を画策するも理由が見つからず、逆に推挙して県令に栄転させることによって洛陽から遠ざけた<ref>『三国志』一 魏書巻一 武帝紀第一裴松之の註『[[曹瞞伝]]』逸文</ref>。
 
曹騰には兄が3人おり、長兄・曹褒の孫に[[曹仁]]と[[曹純]]{{Sfn|石井|2013|p=4699|ps=kindle位置No}}。また、名前の伝わらない次兄の孫が[[曹洪]]・曽孫が[[曹休]]である{{Sfn|石井|2013|p=4699|ps=kindle位置No}}。
[[光和]]7年([[184年]])、[[黄巾の乱]]が起こると[[騎都尉]]として潁川での討伐戦に向かい、[[皇甫嵩]]や[[朱儁]]とともに黄巾軍に大勝し、その功績によって[[済南]]の[[諸侯相|相]]に任命された。済南では汚職官吏の罷免、[[淫祠邪教]]を禁止することによって平穏な統治を実現し、後に東郡太守に任命された。しかし、赴任を拒否し、病気を理由に故郷に帰った。若くして隠遁生活を送ることになった曹操だが、その間も文武の鍛錬を怠ることはなかったという。
 
=== 若き日 ===
[[中平]]5年([[188年]])、黄巾の乱平定に功のあった者が選ばれた[[西園八校尉]]に任命された。
 
曹操は若くして機知と権謀に富んだが、放蕩を好み品性や素行を治めなかったため世評は芳しくなかった{{Sfn|堀|2001|p=16}}。この時期の曹操の逸話として口うるさい叔父を仮病により陥れたという話{{Sfn|堀|2001|p=17}}やのちに争うことになる[[袁紹]]と花嫁泥棒を行って曹操の機知により窮地を脱した話などが残るが、いずれも信憑性は低い{{Sfn|堀|2001|p=18}}。
故郷にいるとき、王芬、[[許攸]]、周旌らによる霊帝廃位のクーデター計画に誘われるが、[[伊尹]]、[[霍光]]、[[呉楚七国の乱]]を例に挙げて参加を断った<ref>[[王沈]]『魏書』</ref>。
 
士大夫の中での評判が芳しくない中で、[[橋玄]]と[[何顒]]は曹操を高く評価した。橋玄は曹操の本貫譙県の近くにある梁国(現在の[[河南省]][[商丘市]]{{Sfn|堀|2001|p=24}})の人で、曹操を見るなり「天下はまさに乱れようとしている。天命の持ち主でなければ救うことは出来ない。それを収めるのは君である」と絶賛した{{Sfn|堀|2001|p=25}}。また何顒も曹操をひと目見て「天下を安んずるものはこの人である」と言ったと伝わる{{Sfn|堀|2001|p=26}}。
=== 反董卓連合軍 ===
後漢末期の黄巾の乱勃発以前に、朝廷の実権を握り、栄華をほしいままにしていた10人の宦官([[十常侍]])を粛清するため、[[大将軍]][[何進]]は諸侯へ向けて上洛を呼びかける檄文を飛ばした。曹操はこの宦官粛清計画を批判している<ref>。[[王沈]]の『[[魏書 (曖昧さ回避)|魏書]]』による。</ref>。
 
そして橋玄の勧めにより当時人物評価で著名であった[[許劭]]の元へ赴いて評価を求めたところ、許劭は「あなたは'''治世の能臣・乱世の奸雄'''だ」と述べたという(『異同雑語』){{Refnest|group="注"|name="許劭伝"|『後漢書』「許劭伝」では「清平の姦賊・乱世の英雄である」としている。また『[[世説新語]]』においてはこの評価は橋玄自身の言葉とされている{{Sfn|堀|2001|p=30}}。}}。
大義名分を何進の檄文が整えてくれている以上、都に上洛し宦官を排除して[[天子]]を補佐することが権力を握るための最短路となった。中平6年([[189年]])8月27日、首謀者の何進が[[段珪]]に殺されるも、[[袁紹]]と[[袁術]]が宮殿を攻めて宦官を皆殺しにしたことで、朝廷内に栄華を極めた宦官の時代もついに終焉を迎えた。
 
この評により郷里で名を知られるようになり、[[熹平]]三年、20歳のときに[[孝廉]]に推挙されて[[郎]](皇帝の身近に使える官。[[郷挙里選]]でふつう誰もが最初に着いて、ここから実際の職務に就く。)となり、[[洛陽]]北部尉(洛陽北部の警察担当)に任ぜられる{{Sfn|石井|2013|p=892|ps=kindle位置No}}{{Sfn|堀|2001|pp=32}}。曹操は着任すると、違反者に対して厳しく取り締まった。その任期中に、[[霊帝 (漢)|霊帝]]に寵愛されていた宦官[[蹇碩]]の叔父が門の夜間通行の禁令を犯したので、曹操は彼を捕らえて即座に打ち殺した。このため法の禁を犯す者は現れなくなり、曹操を疎んじた宦官などは追放を画策するも理由が見つからず、逆に推挙して頓丘令(頓丘県の[[県令]])に栄転させることによって洛陽から遠ざけた{{Sfn|堀|2001|pp=33-34}}{{Sfn|石井|2013|p=1058|ps=kindle位置No}}。[[光和]]元年(178年)に[[霊帝 (漢)|霊帝]]の皇后[[宋皇后 (漢霊帝)|宋皇后]]が廃位されるという事件があり、連座して免官された{{Sfn|堀|2001|p=34}}{{Sfn|石井|2013|p=1068|ps=kindle位置No}}。二年後に再び召されて議郎(政教の得失を議論した官)となる{{Sfn|堀|2001|p=34}}。
しかし、大宦官・曹騰の孫である曹操にとっては、安定して出世する事が出来たはずであった未来もまた、同時に失われたとも言える。
 
[[光和]]7年([[184年]])、[[黄巾の乱]]が起こると[[騎都尉]](皇帝の侍従武官)となり、[[皇甫嵩]]・[[朱儁]]の配下に入って[[潁川郡|潁川]]での討伐に向かった{{Sfn|堀|2001|p=39}}{{Sfn|石井|2013|p=1102-1118|ps=kindle位置No}}。ここで功績を挙げて[[済南郡|済南]]の[[諸侯相|相]]に任命された。済南でも辣腕を発揮し、郡下の10人いる県令のうち8人を汚職にて罷免。また[[新末後漢初]]の反乱の契機となった[[城陽景王]]の祠を淫祠邪教として廃棄し、官吏の祭祀を禁止した{{Sfn|堀|2001|p=42}}。その後に、[[東郡]]太守へと移るように言われたが、これを拒否して郷里に隠棲した{{Sfn|堀|2001|p=42}}。
何進の檄文にいち早く反応した[[董卓]]が洛陽に上洛、[[少帝弁]]を廃して[[献帝 (漢)|献帝協]]を立て、朝廷を牛耳った。董卓は曹操を仲間に引き入れようとするが、董卓の暴虐ぶりを見た曹操は洛陽から脱出し、故郷に逃げ帰った。
 
袁紹とはこの頃から親しい付き合いがあり、当時の政界に不満を持つ若手は袁紹を中心として一派閥を作り、これに袁紹の弟[[袁術]]が対抗した派閥を作っていた{{Sfn|石井|2013|p=1169|ps=kindle位置No}}。曹操もまた袁紹派の一人であり、前述の何顒や後の反[[董卓]]連合において主導した[[張邈]]なども袁紹の「奔走の友」と呼ばれた間柄であった{{Sfn|石井|2013|pp=1190-1198|ps=kindle位置No}}。
この帰郷の際の有名な逸話が呂伯奢の家族の殺害である。呂伯奢は曹操の知人で、呂伯奢本人は曹操が立ち寄った際には留守であったという。王沈の『魏書』では、呂伯奢の息子達による襲撃に対する正当防衛、『[[世語]]』では、呂伯奢の息子達の裏切りを心配した曹操の一方的な虐殺、『[[異同雑語]]』では、食器を用意する音を曹操殺害の準備と勘違いしたことによる、事故的な過剰防衛としている。また『異同雑語』では、曹操が「自分が人を裏切ることはあっても、人が自分を裏切ることは許さない」と言ったとされる。小説『[[三国志演義]]』では、この発言が曹操から[[陳宮]]が離れて行くことになった切っ掛けとしており、曹操の悪役のイメージを決定付ける逸話になっている。なお、『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』本文には、この逸話の記述はない。
 
黄巾の乱は終結していたもののその後も北の{{仮リンク|黒山軍|zh|黑山军}}・{{仮リンク|白波賊|label=白波軍|zh|黃巾軍人物#白波賊}}、西の[[辺章]]・[[韓遂]]など漢政府に対する反乱は続発しており{{Sfn|石井|2013|pp=1125-1141|ps=kindle位置No}}、曹操自身にも[[王芬]]・[[許攸]]・[[周旌]]らによる霊帝を弑逆せんとするクーデター計画の誘いが来ていた{{Sfn|石井|2013|pp=1141-52|ps=kindle位置No}}が、曹操はこれを断った{{Sfn|堀|2001|p=47}}{{Sfn|石井|2013|pp=1141-1169|ps=kindle位置No}}{{Refnest|group="注"|name="堀の曹操隠棲に対しての所見"|堀は曹操の隠棲について、当時の漢政府に対する曹操の深い絶望があり、大乱を起こすことなく天下を救うことは出来ないという曹操の展望があったとする{{Sfn|堀|2001|p=46}}。}}。
その後、曹操は私財を投じて陳留郡己吾において挙兵した<ref>『三国志』</ref>。『世語』では陳留郡の孝廉である[[衛茲]]の援助を受けたとしている。とはいえ当初の仲間は夏侯惇や夏侯淵、[[曹洪]]や[[曹仁]]・[[曹純]]兄弟といった身内が中心であり、その勢力は小さなものにすぎなかった。
 
[[中平]]5年([[188年]])、霊帝が新たに編成した西園軍の指揮官の一人([[西園八校尉]])、典軍校尉に任命された。この時に袁紹や[[淳于瓊]]などもこの八校尉に任命されている{{Sfn|堀|2001|pp=52-53}}{{Sfn|石井|2013|pp=1282-1298|ps=kindle位置No}}。
この後も董卓と諸侯の軋轢は進み、東郡太守[[橋瑁]]によって詔勅が偽造され、各地の諸侯に連合を呼びかける檄文が飛ぶに至る。
 
=== 反董卓連合 ===
[[初平]]元年([[190年]])、袁紹を盟主として[[陽人の戦い#反董卓連合軍|反董卓連合軍]]が成立すると、曹操もまた父・曹嵩の援助を受け、親友である袁紹(曹操自身は袁紹を親友だとは思っていなかったという)のもとに駆けつけた。しかし、董卓打倒を目指して集結したはずの連合軍であったが、諸侯は自らの利益を重視していたために積極的に攻める者は居らず、逆に恐れを抱き董卓の軍を目前にしながら毎日宴会を催し、やがて諸侯は互いに牽制を始めることになる。
 
霊帝が崩御すると霊帝の皇后である何皇后の子である弁と協皇子(陳留王、後の[[献帝 (漢)|献帝]])との間で後継争いが起きるが、弁側が勝利して皇帝となる([[廃帝弁]])。何皇后の兄である大将軍[[何進]]は自らの専権を確立するために[[十常侍]]に代表される宦官勢力を撲滅する計画を立てていたが、先んじられて何進は殺される。これに対して袁紹や袁術は宮中に乱入して宦官たちを殺害、混乱の中で皇帝弁と協皇子は宮廷外に脱出した{{Sfn|堀|2001|p=54}}。曹操は計画を先に聞かされていたが、反対していた{{Sfn|堀|2001|p=55}}。宦官討伐の計画に先んじて、何進は各地の将軍に対して洛陽に集まるようにと檄文を下していたが、これに応えて西北から[[董卓]]がやってきて、弁と協皇子を確保した{{Sfn|堀|2001|p=56}}。董卓は弁を廃して協皇子を自らの傀儡として皇帝(献帝)に立てる。この状況に曹操や袁紹は洛陽から逃走して郷里で挙兵した{{Sfn|堀|2001|p=57-58}}。
董卓が洛陽を焼き払い[[長安]]に遷都したので、曹操は盟主の袁紹に好機だと迫ったが、前述のような諸侯の打算により、攻撃命令は下されなかった。業を煮やした曹操は[[鮑信]]や[[張バク|張邈]]の配下の衛茲とともに董卓を攻撃した。しかし曹操・鮑信・衛茲の軍は董卓配下の[[徐栄]]との交戦により壊滅的な打撃を受け、衛茲は戦死した。その後、曹操は軍の再編をするために[[揚州]]などで徴兵し、兵に反乱を起こされたこともあったが鎮圧し、[[司隸]]の[[河内]]郡に駐屯した。董卓が長安に撤退し、[[孫堅]]が洛陽を制圧すると、反董卓連合軍は解散した。
 
曹操が洛陽から逃げ出す際に、呂伯奢という旧知の人の家を訪ねた時に曹操が殺人を犯したとの話が残る。まず『魏書』では「曹操が訪ねた時に呂伯奢は不在であり、呂伯奢の息子とその仲間が曹操の財物を奪おうとして争いになり、その際に曹操が数人を斬り殺した」としている。これに対して『世語』・『雑記』では「食器の音を武器の音と勘違いした曹操が無実の家人を殺した」という話になる。さらに『雑記』では「私が他人を裏切ったとしても他人が私を裏切ることは許さない」と言った話を付け加えている{{Sfn|堀|2001|p=58}}。その後、曹操は家財を投じて[[陳留郡]][[寧陵県|己吾]]において挙兵した{{Sfn|堀|2001|p=60}}。なおこの時に現地の有力者である[[衛茲]]の援助を受けたともいう(『世語』){{Sfn|堀|2001|p=59}}。
=== 雄飛 ===
初平2年([[191年]])、黒山軍の反乱をきっかけに曹操は袁紹によって東郡太守に任命された。この時期、曹操を慕って多くの勇将や策士が彼の下に集まった。この頃、曹操は胡母班の遺族とともに[[王匡 (河内太守)|王匡]]を殺害した。
 
[[初平]]元年([[190年]])に袁紹を盟主として[[陽人の戦い#反董卓連合軍|反董卓連合軍]]が成立し、曹操は行奮武将軍に推薦される(行は代理・臨時の意味){{Sfn|堀|2001|p=61}}{{Sfn|石井|2013|p=1602|ps=kindle位置No}}。同盟軍の中の一人[[鮑信]]は曹操を高く評価して行動をともにするようになる。連合軍の諸将は董卓軍を恐れてなかなか攻撃しようとしなかったが、曹操は鮑信・衛茲らと共に董卓軍の[[徐栄]]と戦うも敗北し{{Sfn|堀|2001|p=62}}{{Sfn|石井|2013|p=1619|ps=kindle位置No}}、衛茲や鮑信の弟である鮑韜も戦死した{{Sfn|石井|2013|p=1619|ps=kindle位置No}}。曹操は軍を立て直そうと各地で兵士を募集したが今ひとつうまく行かず{{Sfn|石井|2013|pp=1649-1662|ps=kindle位置No}}、わずかな兵とともに河内の袁紹に合流した{{Sfn|石井|2013|p=1662|ps=kindle位置No}}。
初平3年([[192年]])春、黒山軍の本拠地を攻め、[[スイ固|眭固]]や[[匈奴]]の[[於夫羅]]に大勝した。同年夏4月、董卓が[[呂布]]に[[暗殺]]された。また、[[エン州|兗州]]の[[刺史]]・[[劉岱 (東莱)|劉岱]]が[[青州]]から来た黄巾軍に殺された。そこで鮑信らは曹操を兗州牧に迎えた。曹操は黄巾討伐の詔勅を受け、黄巾軍を討伐し、黄巾軍の兵30万人、非戦闘員100万人を降伏させ、その中から精鋭を選んで自軍に編入し、「青州兵」と名付けた。これ以降、曹操の実力は大きく上昇した。
 
董卓は洛陽を焼き払い西の[[長安]]に遷都したので{{Sfn|堀|2001|p=64}}{{Sfn|石井|2013|p=1631|ps=kindle位置No}}、諸将の関心は董卓を相手にするよりも関東で誰が覇権を握るかに移った{{Sfn|石井|2013|p=1631|ps=kindle位置No}}。袁紹は[[幽州]][[刺史|牧]][[劉虞]]を皇帝に押し立てようとしたが、劉虞が拒否したために頓挫する{{Sfn|堀|2001|p=65}}{{Sfn|石井|2013|p=1711|ps=kindle位置No}}。その後、劉虞は部下であった[[公孫瓚]]に取って代わられ、[[冀州]]牧であった[[韓馥]]も公孫瓚に破れたので冀州を袁紹に譲り渡し、袁紹が冀州牧となる{{Sfn|堀|2001|p=65}}{{Sfn|石井|2013|p=1766|ps=kindle位置No}}。
袁術の配下の孫堅は[[豫州]]刺史であったが、初平2年(191年)頃、袁紹は[[周喁]]を豫州刺史として派遣したので、孫堅と孫堅の主である袁術は周喁・[[周昻]]・[[周キン|周昕]]と豫州を奪い合うこととなった。これにより袁術と袁紹が対立することとなり、それぞれ群雄と盟約を結び対抗した。袁紹と同盟したのが曹操・[[劉表]]・周喁など、袁術と同盟したのが孫堅・[[公孫サン|公孫瓚]]・[[陶謙]]などである。袁紹は董卓により擁立された献帝に対抗すべく、[[劉虞]]の擁立を計画したが、袁術はこれに反対し、劉虞自身も皇帝になるのを拒否している。
 
一方、南では袁紹の弟[[袁術]]が[[孫堅]]と同盟を組んで進軍し、洛陽一番乗りを果たすなど活躍した{{Sfn|石井|2013|p=1736|ps=kindle位置No}}。ここに至り、袁紹陣営と袁術陣営は完全に敵対関係となり、連合軍は解体した{{Sfn|石井|2013|p=1793|ps=kindle位置No}}。
初平4年([[193年]])頃、袁術は曹操の兗州に攻め込んだ。袁術は公孫瓚に救援を求め、公孫瓚は[[劉備]]や[[徐州]]牧・陶謙を派遣する。曹操は袁紹と協力してこれらと当たり、その全てを打ち破った(匤亭の戦い)。敗れた袁術は、劉表に背後を絶たれ、本拠地の南陽郡を捨て、[[寿春]]に落ち延びていった。
 
=== 飛躍 ===
この頃、曹操は陶謙に父・曹嵩や弟・曹徳を含めた一族を殺されていた<ref>曹嵩殺害の経緯については諸説ある([[陶謙#脚注]])</ref>。
初平4年(193年)秋、その恨みから復讐戦を行うことを決意し、徐州に侵攻し、陶謙から十数城を奪い、彭城での戦いで陶謙軍に大勝し、数万人を殺した。『[[後漢書]]』によれば、曹操は数十万人の男女を殺したという。『三国志』武帝紀によれば、通過した地域で多数の者を虐殺したという。この時、曹操の軍の通過した所では、鶏や犬の鳴く声さえ無く、死体のため泗水の流れが堰き止められたと言われるほどの惨状であったといわれ、この虐殺によって曹操は非常に評価を落としたとされる<ref>後世『三国志』の注釈を編んだ[[裴松之]]の注によれば、歴史家の[[孫盛]]もこの虐殺を批判している。ただし陳寿の本文では「陶謙伝」には住民の虐殺については書かれておらず、「陶謙軍の死体で泗水がせき止められた」とのみある。</ref><ref>この一連の徐州侵攻には袁紹も関与しており、193年か194年かは不明だが[[朱霊]]らの三陣営が曹操に加勢している。</ref>。
[[興平 (漢)|興平]]元年([[194年]])夏、曹操は再び徐州に侵攻し、通過した地域で多くの人を虐殺した。ところが、親友の[[張バク|張邈]]が軍師の陳宮と謀り呂布を迎え入れ反逆したため、領地である兗州の大半は呂布のものとなった。
 
初平2年([[191年]])、{{仮リンク|黒山軍|zh|黑山军}}が魏郡・東郡に攻め寄せて東郡太守の[[王肱]]はこれを防ぎきれなかったので、曹操は鮑信とともに軍を率いて黒山の一部を破った。これにより袁紹の推薦で東郡太守となった{{Sfn|堀|2001|p=66}}{{Sfn|石井|2013|p=1909|ps=kindle位置No}}。初平3年([[192年]])には黒山軍の本拠地を攻め、[[眭固]]や黒山に呼応した[[匈奴]]の[[於夫羅]]に勝利した{{Sfn|石井|2013|p=1909|ps=kindle位置No}}。
張邈は呂布が袁紹を見限って去った後に呂布と会い、深い親交を結んだために袁紹に嫉妬されていた。曹操は袁紹にそのことを言われる度に張邈を庇っていたが、張邈の方は曹操が袁紹との友誼を優先して自分を殺すのではないかと不安になり、裏切ったとされている。張邈と曹操とは古くからの付き合いで、互いが死んだ時には互いの家族の面倒を見る事を約束するほどの仲だった。それほどまでに信頼していた人間に裏切られた曹操は、愕然とする。
 
同年、[[兗州]][[刺史]]の[[劉岱 (東萊)|劉岱]]が[[青州 (山東省)|青州]]から来た黄巾軍に敗死する{{Sfn|堀|2001|p=67}}{{Sfn|石井|2013|p=1935|ps=kindle位置No}}。そこで鮑信らは曹操を迎えて兗州牧とした{{Sfn|堀|2001|p=68}}。そして黄巾軍と戦い、鮑信が戦死{{Sfn|石井|2013|p=1971|ps=kindle位置No}}するなど苦戦しつつも兵30万人、非戦闘員100万人{{Refnest|group="注"|name="黄巾の実数"|当時は戦果を十倍に報告するという慣例があり、実数はもっと少ないと思われる{{Sfn|石井|2013|p=197|ps=kindle位置No}}。 }}を降伏させ、その中から精鋭を選んで自軍に編入し、「青州兵」と名付けた{{Sfn|堀|2001|p=68}}{{Sfn|石井|2013|p=1971|ps=kindle位置No}}。
曹操は兗州に戻り、呂布を攻めたが敗れ、青州兵は大打撃を受けた上に、曹操自身も大火傷を負った。幸い[[荀イク|荀彧]]や[[程イク|程昱]]、夏侯惇などが本拠地を守り抜き、[[蝗害]]による飢饉が起き、兵糧の尽き果てた呂布が軍を引いたため、曹操は帰還を果たすことができた。
 
さらにこの時に袁紹の元にいた[[荀彧]]が曹操の元に馳せ参じ、曹操は「我が子房が来た」と大いに喜んだ{{Sfn|堀|2001|p=66}}{{Sfn|石井|2013|p=2097|ps=kindle位置No}}。荀家は士大夫の名門であり、荀彧はその人脈から[[荀攸]]・[[鍾繇]]・[[郭嘉]]など優秀な人材を曹操に推薦した{{Sfn|石井|2013|pp=2129-2183|ps=kindle位置No}}。
このような時、袁紹が機を見計らったかのように援助を申し入れてくるが、程昱の反対もあり、曹操はそれを断る。この年の秋、蝗害と旱魃のため穀物の値段は1石50余万銭にもなり、一帯では人が人を食らう状態になっていた。そんな中、徐州では陶謙が死に、劉備がそれに代わっていた。
 
この頃に長安から兗州牧として任命された[[金尚]]という人物がやってきたが、兗州を渡す気のない曹操はこれを追い返した{{Sfn|石井|2013|p=2044|ps=kindle位置No}}。金尚は袁術を頼っておちのび、袁術は初平4年([[193年]])に兗州へと攻め込んだ{{Sfn|石井|2013|p=2055|ps=kindle位置No}}。袁術は公孫瓚に救援を求め、公孫瓚は[[劉備]]や[[徐州]]牧・陶謙を派遣する。曹操は袁紹と協力してこれらを打ち破った{{Sfn|堀|2001|p=71}}。さらに侵入してきた袁術軍も打ち破り、劉表に背後を絶たれた袁術は本拠地の[[南陽郡]]を捨て、[[寿春]]に落ち延びていった{{Sfn|石井|2013|p=2055|ps=kindle位置No}}。
興平2年([[195年]])春、定陶郡を攻撃。南城を陥落させられなかったが、折り良く着陣してきた呂布の軍勢を撃破する。同年夏には鉅野を攻めて[[薛蘭]]や[[李封]]を撃破し、救援に現れた呂布を敗走させた。呂布は陳宮ら一万と合流して再度来襲してきたが、この時曹操軍はみな麦刈りに出向いて手薄だったので、曹操は急遽軍勢をかき集めると、伏兵を用いて呂布軍を大破した。呂布は劉備を頼って落ち延び、張邈もそれに付き従ったが、曹操は、張邈が弟である[[張超 (広陵太守)|張超]]に家族を預けているのを知ると、弟の張超を攻撃する。同年秋、根拠地の兗州を全て奪還した曹操は、兗州牧に任命された。同年冬、張超を破り、張邈の三族(父母・兄弟・養子)を皆殺しにした。張邈は部下に殺された。
 
これ以前に曹操は陶謙またはその配下に父の曹嵩や弟の曹徳を含めた一族を殺されている{{Sfn|堀|2001|p=20}}{{Sfn|石井|2013|p=|ps=kindle位置No}}{{efn2|曹嵩殺害の経緯については諸説ある([[陶謙#脚注]])}}。その恨みを晴らすべく、初平4年とその翌年の[[興平 (漢)|興平]]元年に徐州に二回の侵攻を行う。陶謙から十数城を奪い、至るところで殺戮を行い「男女数十万人」を殺し、鶏や犬すらいなくなったという([[徐州大虐殺]]){{Sfn|石井|2013|p=2378-2382|ps=kindle位置No}}{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=14}}{{Refnest|group="注"|name="徐州大虐殺"|石井仁はこの徐州大虐殺ともいうべき蛮行が士大夫層からの不信感を産み、曹操が最終的に統一を果たせなかった最大の原因であろうとしている{{Sfn|石井|2013|p=2394|ps=kindle位置No}}。 }}。
この頃、長安では呂布らを追った[[李カク (後漢)|{{Lang|zh|李傕}}]]らが朝廷の実権を握っていた。しかし、{{Lang|zh|李傕}}らは常に内紛を続けていた。
 
曹操が徐州に侵攻している隙を突いて張邈が曹操の部下[[陳宮]]と謀り、[[呂布]]を迎え入れ曹操に反逆したため、兗州は三城を除いて呂布のものとなった{{Sfn|堀|2001|p=72}}{{Sfn|石井|2013|p=2440|ps=kindle位置No}}。曹操は兗州に戻り、呂布と交戦するが中々決着がつかず、両軍ともに食糧不足に陥り戦闘は中断される{{Sfn|石井|2013|p=2440|ps=kindle位置No}}。この時期、袁紹から援兵5千の代わりに家族を袁紹の元に避難させよと申し入れがあり、弱気になった曹操はこの話を入れようとしたが[[程昱]]の反対もあり、これを断る{{Sfn|石井|2013|p=2451|ps=kindle位置No}}。
[[建安 (漢)|建安]]元年([[196年]])1月、荀彧と程昱の勧めに従い、長安から逃げてきた献帝を迎え入れるために、曹洪に献帝を迎えに行かせたが、[[董承]]に妨害された。同年2月、黄巾賊の[[黄邵]]や[[劉辟]]、[[何儀]]らを破り、[[豫州]]西部を制圧した。同年9月、[[董昭]]の策略を用いて、献帝を自らの本拠である[[許昌]]に迎え入れた。政敵の[[楊奉]]を討伐して、後漢政府から追放した。曹操は[[司空]]・[[車騎将軍]]に任命された。同年、曹操は[[屯田]]制を開始している。
 
興平2年([[195年]])春、呂布の勢力圏である定陶を攻撃。救援に駆けつけた呂布の軍勢を撃破する{{Sfn|石井|2013|p=2451|ps=kindle位置No}}。さらに同年夏には鉅野を攻めて[[薛蘭]]や[[李封]]を撃破した{{Sfn|石井|2013|p=2451|ps=kindle位置No}}。呂布と陳宮が数万の軍勢を率いて再度来襲してきたが、この時曹操軍はみな麦刈りに出向いて手薄だったので、曹操は急遽軍勢をかき集めると、伏兵を用いて呂布軍を大破した。呂布は陶謙死後に徐州牧になっていた劉備を頼って落ち延び、張邈もそれに付き従ったが、曹操は、張邈が弟である[[張超 (広陵太守)|張超]]に家族を預けているのを知ると、張超を攻撃する。これにより同年秋、兗州を全て奪還した曹操は、長安の朝廷から正式に兗州牧に任命された{{Sfn|堀|2001|p=73}}{{Sfn|石井|2013|p=2489|ps=kindle位置No}}。同年冬、屠城を加えて張超を破り、張邈の三族(父母・兄弟・養子)を皆殺しにした。張邈は逃走中に部下に殺された{{Sfn|石井|2013|p=2473|ps=kindle位置No}}。
建安2年([[197年]])春、[[宛]]に[[張繍]]を攻めて降伏させた。この際に曹操は張繍の叔父である[[張済 (後漢の武将)|張済]]の未亡人を妾としたが、そのことに張繍が腹を立てていると知って彼の殺害を考えるも、事前にそれを察知した張繍に先制され、敗れる。この敗戦で流れ矢に当たって右臂に怪我をし<ref>魏書</ref>、長男の[[曹昂]]と弟の子の[[曹安民]]と忠臣の[[典韋]]を失った。
 
この頃、長安では呂布らを追った[[李傕]]・[[郭汜]]・[[張済]]らが朝廷の実権を握っていた。しかし李傕らは常に内紛を続けており{{Sfn|石井|2013|pp=2496-2634|ps=kindle位置No}}、その隙を付いて[[董承]]や[[楊奉]]らに伴われて献帝は東へと脱出した{{Sfn|堀|2001|p=76}}{{Sfn|石井|2013|pp=2652-2660|ps=kindle位置No}}。[[建安 (漢)|建安]]元年([[196年]])1月、荀彧と程昱の勧めに従い、献帝を自らの本拠である[[許昌]]に迎え入れた。献帝は曹操を[[大将軍]]とし、武平侯に封じた{{Sfn|堀|2001|p=77}}{{Sfn|石井|2013|p=2743|ps=kindle位置No}}。献帝を手中にした曹操は袁紹に対して[[太尉]]の地位を送るものの曹操の大将軍よりも価値が劣ると感じた袁紹はこれを拒否した、そこで曹操は袁紹に大将軍の地位を譲り、自らは[[司空]]・行[[車騎将軍]]となった{{Sfn|堀|2001|p=79}}{{Sfn|石井|2013|p=2749|ps=kindle位置No}}。
建安3年([[198年]])、張繍を穣に包囲した。劉表が兵を派遣して張繍を助けたので窮地に陥ったが、伏兵を用いて敵軍を挟み撃ちにして散々に撃破した。同年4月、後漢王朝は裴茂・[[段ワイ|段煨]]らを派遣して、{{Lang|zh|李傕}}を滅ぼした<ref>『後漢書』卷9 孝献帝紀第九。『三国志』董卓伝では、197年に裴茂らは{{Lang|zh|李傕}}を滅ぼしたとしている。</ref>。同年冬、呂布を攻める。呂布は[[ヒ州市|下邳]]城に籠城したが、水攻めによって城兵の士気を挫き、落城させ、豫州東部と徐州を制圧した。
 
そしてこの年に曹操は[[棗祗]]・[[韓浩]]らの意見を採用して、[[屯田]]制を開始している([[#政治・軍事]]で後述)。
建安4年([[199年]])、袁紹は公孫瓚を滅ぼし、河北を平定した。袁術は呂布や曹操に敗北し勢力が衰え、袁紹のもとに身を寄せようとしたが、その途中で病死した。曹操と河北を制圧した袁紹の対決が必至となると、張繍は再び曹操に降伏し、曹操も過去の恨みを呑んで迎え入れた。
 
李傕は漢政府の命を受けた韓遂や馬騰によって滅ぼされ、郭汜も部下の裏切りによって殺される。張済は劉表との戦いで命を落としたが、従子の[[張繍]]が後を継ぎ、劉表と和解して[[宛城区|宛]]に駐屯した{{Sfn|石井|2013|p=2769|ps=kindle位置No}}。
[[関中]]には[[馬騰]]・[[韓遂]]が勢力を保っていたため、曹操は[[鍾ヨウ|鍾繇]]を[[司隷校尉]]に任じ、関中方面の軍事と統治を任せた。鍾繇は馬騰・韓遂を説得して、曹操に従わせ、馬騰・韓遂の子供を人質として献帝に参内させた。
 
建安二年([[197年]])春、宛に張繡を攻めて降伏させた{{Sfn|石井|2013|p=2830|ps=kindle位置No}}が、すぐに背いて反乱を起こし、曹操軍は大敗。長男の[[曹昂]]・弟の子の[[曹安民]]と勇将[[典韋]]を失い、曹操自身も矢傷を負った{{Sfn|石井|2013|p=2837|ps=kindle位置No}}。翌建安三年([[198年]])にも張繡を穣に包囲した。しかし袁紹が許都を狙っているとの情報が入ったので撤退。張繍・劉表軍から追撃を受けて苦戦するが、伏兵を用いて敵軍に大きな打撃を与えた{{Sfn|石井|2013|pp=2885-2893|ps=kindle位置No}}。そして建安四年([[199年]])に張繍は劉表から離れて曹操に降伏した{{Sfn|石井|2013|p=4889|ps=kindle位置No}}。
=== 官渡の戦い以後 ===
建安5年([[200年]])、[[官渡の戦い]]で最大の敵である袁紹を破り、その勢いを削いだ。
 
その頃、寿春に逃れていた袁術は[[孫策]]らを派遣して[[江淮]]・[[江東]]を制圧。勢力を立て直すことに成功していた{{Sfn|石井|2013|pp=2893-2914|ps=kindle位置No}}。これに気を良くした袁術は帝位を僭称し、仲という国を建てた{{Sfn|石井|2013|p=2925|ps=kindle位置No}}。曹操はこれに対して呂布や孫策と結んで袁術を包囲する。袁術は打開のために北へ出兵するがうまく行かず、曹操が出陣して袁術の主力軍を壊滅に追い込む。勢力を失った袁術は袁紹を頼ろうとするが劉備らに阻まれて途中で死亡した{{Sfn|石井|2013|p=2949|ps=kindle位置No}}。続いて徐州の呂布も滅ぼす([[下邳の戦い]])。ただし徐州大虐殺の影響は色濃く、曹操は徐州を[[臧覇]]ら[[泰山]]出身の諸将に任せる間接統治を取った{{Sfn|石井|2013|pp=2981-2987|ps=kindle位置No}}。
建安7年([[202年]])、袁紹が病死し、[[袁氏]]の勢力は袁紹の息子の[[袁譚]]と[[袁尚]]に分裂した。
 
=== 官渡の戦い ===
建安9年([[204年]])、袁尚の本拠である[[冀州]]の[[ギョウ|鄴]](現在の[[河北省]][[臨ショウ県|臨漳]])を攻め落とし、ここに本拠地を移す。
 
{{main|官渡の戦い}}
建安10年([[205年]])、袁譚を滅ぼし、冀州を平定した。同年、黒山軍の[[張燕]]が十数万人の軍勢を率いて降伏してきた。
[[画像:Guanduzhizhan ja.png|thumb|right|300px|官渡戦況図]]
 
同年、公孫瓚を滅ぼし、河北を完全に支配下に入れた袁紹は長子の[[袁譚]]を青州刺史、次子の[[袁煕]]を[[幽州]]刺史、甥の[[高幹]]を[[并州]]刺史においた{{Sfn|石井|2013|p=3075|ps=kindle位置No}}。
建安11年([[206年]])、袁紹の甥の[[高幹]]を討伐し、[[并州]]を平定した。
 
来る袁紹との決戦に備えて曹操は準備を始める。南の荊州を支配する[[劉表]]は袁紹と同盟していたので、劉表の将[[張羨 (後漢)|張羨]]に使者を送って味方につけて、牽制させた{{Sfn|石井|2013|p=3183|ps=kindle位置No}}。許都内部でも[[董承]]や{{仮リンク|呉子蘭|zh|吴子兰}}らが謀反を企んだとして処刑した{{Sfn|堀|2001|p=93}}{{Sfn|石井|2013|p=3189|ps=kindle位置No}}。朝廷内にいる反曹操分子を予め排除しておく意図があったと推察される{{Sfn|堀|2001|p=93}}{{Sfn|石井|2013|p=3265|ps=kindle位置No}}。またこの謀に参加していたとされる劉備は曹操によって徐州に派遣されていたが、そのまま徐州を乗っ取ってしまっていた{{Sfn|堀|2001|p=93}}。建安五年([[200年]])正月に曹操は劉備を討ちに徐州へ出兵する。袁紹軍の[[田豊]]はこの機に乗じて許都を襲うべきだと袁紹に図ったが、袁紹は子どもの病気を理由にこれを退けた{{Sfn|堀|2001|p=94}}{{Sfn|石井|2013|p=3270|ps=kindle位置No}}。曹操に破れた劉備は袁紹の元に走り、劉備の将[[関羽]]を捕らえて客将とした{{Sfn|堀|2001|p=94}}。
建安12年([[207年]])、袁氏に味方する[[トウ頓|蹋頓]]ら[[烏桓]]族を討ち、20数万人を降伏させ、袁紹の子の袁尚・[[袁煕]]を滅ぼし、[[幽州]]を平定し、河北([[黄河]]の北岸地域)を統一した。
 
曹操は黄河沿いにある[[官渡]]に城塞を築き、建安四年末にここに兵を進めた{{Sfn|石井|2013|p=3138|ps=kindle位置No}}。そして翌建安五年2月に袁紹が南下の軍を起こす([[官渡の戦い]])。その兵力は歩兵10万・騎兵1万、これに対して曹操軍は1万未満とされる{{Sfn|石井|2013|p=3377|ps=kindle位置No}}{{Refnest|group="注"|name="官渡の兵力について"|この袁紹軍11万、曹操軍1万未満という数字については『三国志』に注釈をつけた[[裴松之]]を始めとして「粉飾である」との見解が多数派である{{Sfn|石井|2013|p=3382|ps=kindle位置No}}。}}。袁紹軍はまず[[黎陽]](河南省[[浚県]])に集結し、曹操軍が守る対岸の白馬([[滑県]])を[[顔良]]を将軍として攻撃させた{{Sfn|堀|2001|p=94}}{{Sfn|石井|2013|p=3297|ps=kindle位置No}}。これに対して曹操は[[荀攸]]の「相手の後方を突くふりをして敵の兵力を分散させ、その隙に顔良軍を急襲する」という策を採用し、顔良を討った{{Sfn|堀|2001|p=95}}{{Sfn|石井|2013|p=3304|ps=kindle位置No}}。曹操軍は引き返し、袁紹軍はこれを追って黄河を渡る。袁紹軍の先鋒は[[文醜]]であったが、伏兵を持ってこれも討ち取ることに成功、兵を帰して官渡に布陣した{{Sfn|堀|2001|p=95}}{{Sfn|石井|2013|p=3304|ps=kindle位置No}}。袁紹軍はこれを追って官渡の北[[陽武]]に兵を進める{{Sfn|石井|2013|p=3312|ps=kindle位置No}}。袁紹軍は土山や櫓を作って城内に矢を射かける。これに対して曹操軍は発石車という[[投石機]]で対抗する。次に袁紹軍は城壁の下にトンネルを掘って城内に侵入しようとするが、曹操軍は塹壕を掘ってこれを妨害する{{Sfn|堀|2001|p=96}}{{Sfn|石井|2013|p=3326|ps=kindle位置No}}。戦いは長期戦の様相を呈するが、曹操軍は兵糧が不足し始め、脱出者も出るようになる{{Sfn|堀|2001|p=96}}。曹操自身も弱気になって留守を守る荀彧に退却しようかとの手紙を出すが、荀彧はこれを否定して曹操を励ました{{Sfn|堀|2001|pp=96-97}}{{Sfn|石井|2013|p=3401|ps=kindle位置No}}。
曹操の勢力は圧倒的なものとなり、残るは[[荊州]]の劉表、[[江東]]の[[孫権]]、[[益州]]の[[劉璋]]、[[漢中]]の[[五斗米道]]、[[関中]]の[[馬騰]]を筆頭とした群小豪族、寄る辺の無い[[劉備]]だけとなった。曹操は[[三公]]制を廃止し、自ら丞相となり天下統一への道を固めた。
 
十月、袁紹は大量の兵糧を北方から運ばせて烏巣(現在の[[延津県]]付近)に駐屯させた。袁紹の配下で曹操の旧知である[[許攸]]は曹操軍に寝返って、烏巣に大量の食料があることを告げる。これに応えた曹操は自ら兵を率いて烏巣を急襲し、兵糧を燃やした{{Sfn|堀|2001|p=97}}{{Sfn|石井|2013|pp=3424-3431|ps=kindle位置No}}。この報を聞いた袁紹は烏巣の救援と曹操の本拠地官渡を攻めるという2つの選択肢を2つとも採用して兵力を分割し、どちらも失敗するという最悪の結果に終わった({{仮リンク|烏巣の戦い|zh|乌巢之战}})。結果、袁紹は800ほどのわずかな供回りとともに河北に脱出{{Sfn|堀|2001|p=98}}{{Sfn|石井|2013|p=3439|ps=kindle位置No}}。戦いは曹操の勝利に終わった。この時に袁紹軍の7万とも8万ともいわれる大量の捕虜を獲得したが、曹操軍はこれを皆殺しにした{{Sfn|堀|2001|p=98}}{{Sfn|石井|2013|p=3449|ps=kindle位置No}}。この行為は徐州大虐殺と並んで曹操の悪名を高める大きな原因となった{{Sfn|石井|2013|p=3449|ps=kindle位置No}}。
建安13年([[208年]])冬、曹操は15万の軍を南下させ、病死した劉表の後を継いだ[[劉ソウ|劉琮]]を降し、[[長江]]を下って孫権領へ攻め込もうとした。だが孫権軍[[周瑜]]の部将[[黄蓋]]の策略に引っかかった曹操軍の軍船は火攻めに遭い、疫病に悩まされていたことも重なり、撤退を余儀なくされた([[赤壁の戦い]])。その後、劉備と孫権に荊州の大部分を奪われた。
 
なおこの戦いの終わる前に、袁紹の出身地である汝南で、黄巾の残党である[[劉辟]]らが兵を挙げており、袁紹は劉備を派遣してこれを支援したものの曹操に攻められて劉備は劉表の元へ逃亡した{{Sfn|堀|2001|pp=100-101}}{{Sfn|石井|2013|p=3369|ps=kindle位置No}}。
建安16年([[211年]])、[[馬超]]をはじめとする関中の軍閥連合軍を破った([[潼関の戦い]])。その後、曹操軍の夏侯淵らが関中の軍閥連合軍の残党を制圧した。
 
官渡で破れた袁紹に対して冀州の各所で反乱が起き、袁紹はこれを収めるも建安七年([[202年]])に病死する{{Sfn|堀|2001|p=103}}{{Sfn|石井|2013|p=3552|ps=kindle位置No}}。長子の袁譚と末子の[[袁尚]]との間で後継争いが勃発し、袁氏陣営は2つに分裂する{{Sfn|堀|2001|p=103}}{{Sfn|石井|2013|p=3552|ps=kindle位置No}}。曹操はこれらを撃破し、建安十一年([[206年]])までに河北の制圧を完了。翌建安十二年([[207年]])には諸将に対して大規模な論功行賞を行う{{Sfn|堀|2001|p=105}}{{Sfn|石井|2013|p=3564|ps=kindle位置No}}。袁尚と兄袁煕は[[烏桓]]に逃げ込んでいたが、これも討って袁氏兄弟は遼東太守の[[公孫康]]の元へ逃げるも公孫康は兄弟を殺して、その首を曹操へと送ってきた{{Sfn|堀|2001|p=106}}{{Sfn|石井|2013|p=3564|ps=kindle位置No}}。
建安18年([[213年]])に董昭らの提案に従い魏公となり、建安21年([[216年]])に魏王に封じられ、後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国という形で魏を建国。献帝には権力は無く、実際には後漢を背負う形であった曹操だが、最後まで帝位にはつかず後漢の丞相の肩書きで通した。簒奪の意を問われた曹操は「自分は([[周]]の)[[文王 (周)|文王]]たればよい(文王は[[殷]](商)の重臣として殷に取って代われる勢力を持っていたが死ぬまで殷に臣従し、殷を滅ぼした子の[[武王 (周)|武王]]によって「文王」を追号された)」としてその意を示唆したともいう。
 
=== 赤壁の戦い ===
建安20年([[215年]])、漢中の[[張魯]]を降伏させた([[陽平関の戦い]])。
漢中平定後、[[劉曄]]と[[司馬懿]]は、この勢いに乗じて劉備が支配して間もない益州に侵攻するよう曹操に進言したが、この意見は却下されている。
曹操軍はその後数年間にわたり、益州(蜀)を制圧した劉備軍と漢中周辺で激戦を繰り広げた。
 
{{main|赤壁の戦い}}
建安24年([[219年]])、漢中を守備している夏侯淵が劉備に討ち取られ([[定軍山の戦い]])、曹操自ら漢中に援軍に出向いたが、苦戦し被害が大きくなったので撤退、漢中を劉備に奪われた。また、劉備の部将の[[関羽]]が曹操の勢力下の[[樊城]]・[[襄陽市|襄陽]]を包囲し、曹操の部将の[[于禁]]・[[ホウ徳|龐徳]]を捕虜とした。曹操は[[司馬懿]]・[[蒋済]]の提案に従い、孫権と同盟を結び、関羽を破った([[樊城の戦い]])。
[[画像:Ja-Chibizhizhan.png|thumb|300px|赤壁の戦い要図]]
 
建安十三年([[208年]])、袁氏勢力を完全に滅ぼした曹操は江南征服に向けて[[鄴]]に玄武池という大きな池を作り、ここで兵士に水軍訓練を施した。江南には河川が多く、華北の兵にとって不慣れな水の上の戦いになることが想定されたからである{{Sfn|堀|2001|pp=118-119}}。そして[[三公]]制度を廃して漢初の[[丞相]]・[[御史大夫]]制度に戻し、自ら丞相となった{{Sfn|堀|2001|p=119}}{{Sfn|石井|2013|p=3645|ps=kindle位置No}}。
建安25年([[220年]])、病のため死去。「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れてはならず」との遺言を残した。死後、息子の曹丕が後漢の献帝から[[禅譲]]を受け皇帝となると、'''太祖武帝'''と追号された。
 
同年7月に曹操は南征を開始した{{Sfn|堀|2001|p=119}}{{Sfn|石井|2013|p=3683|ps=kindle位置No}}。同8月に劉表が病死する。劉表死後の陣営では長子の[[劉琦]]は[[江夏]]太守となり、弟の[[劉琮]]が後を継いで、曹操に降伏した{{Sfn|堀|2001|p=120}}{{Sfn|石井|2013|pp=3683-3706|ps=kindle位置No}}。劉表のもとで[[新野]]に駐屯していた劉備は降伏のことを聞かされていなかったので、慌てて逃げ出して長阪にて曹操の軽騎兵に追いつかれて追い散らされるも関羽の水軍および劉琦の軍と合流して夏口([[武漢]]付近)に布陣した{{Sfn|堀|2001|p=120}}{{Sfn|石井|2013|p=3706|ps=kindle位置No}}。
=== 子孫 ===
2009年に曹操の陵墓が発見されたが、その真偽を確かめるために、[[復旦大学]]では、被葬者の男性のDNAと全国の[[曹氏|曹姓]]の男性のDNAを照合することになった。漢民族では姓は[[男系]]で継承されるため曹姓の男性は曹操の[[Y染色体]]を継承していると考えられるためである<ref>{{Cite web|date=2010-01-27|url=http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010012701000955.html|title=遺骨のDNA鑑定を計画 曹操の陵墓真偽解明で|publisher=47NEWS|accessdate=2011-01-09}}</ref>。
 
[[江陵]]に入城した曹操は荊州の人士に対して論功行賞を行って荊州を治めつつ、東の[[孫権]]に対して降伏勧告の書状を送った{{Sfn|堀|2001|p=122}}。孫策は建安五年(200年)に刺客の手に倒れており、弟の孫権が後を継いでいた。孫権陣営は[[張昭]]を始めとした降伏派と[[魯粛]]・[[周瑜]]らの開戦派に分かれたが、劉備から使わされていた[[諸葛亮]]の言葉もあり、孫権は開戦を決断する{{Sfn|堀|2001|pp=122-124}}{{Sfn|石井|2013|pp=3762-3798|ps=kindle位置No}}。
曹髦の66代目の子孫、曹操から数えて70代目の直系子孫にあたると伝えられている曹祖義が遼寧省東港市に住んでいる。最近発見された曹操の墓の真偽の判定を下すため、復旦大学でDNA鑑定を受けた。
 
曹操軍と孫権・劉備連合軍は赤壁にて対峙するが、[[黄蓋]]による偽りの降伏と火攻めにより、曹操軍は大損害を受ける。さらに南の気候に不慣れな曹操軍の間では疫病が蔓延しており、不利を悟った曹操は北へ撤退する{{Sfn|堀|2001|p=125-127}}。
一方、曹操の墓の発見を受けて曹操の子孫を名乗る人々も現れている。なかには司馬氏の迫害を逃れるために「操」姓に改姓したという「操氏」の人々もいる<ref>[http://jp.ibtimes.com/article/biznews/100109/47848.html 自称「曹操」の子孫現れる] IB-TIMES 2010年1月6日</ref>。
 
=== 陵墓魏公・魏王へ ===
赤壁の敗戦は曹操の権威を大きく落とすこととなる。建安十四年([[209年]])、曹操は水軍を立て直し[[合肥]]に軍を進めて、北進してきた孫権軍と対峙し、同時に軍屯田を開いて持久戦の構えを整える{{Sfn|堀|2001|p=130}}{{Sfn|石井|2013|pp=3846-3855|ps=kindle位置No}}。
{{seealso|西高穴2号墓}}
曹操の埋葬地は長年不明であったが、1998年に中国[[河南省]][[安陽市]][[安陽県]][[安豊郷]][[西高穴村]]で発見された[[後趙]]時代の武人の墓誌から、同村付近にあると推定され、2005年に発見された同地の大型古陵が墓誌に記された方位と『元和郡県図誌』と合致することから、曹操の陵墓とみなして発掘調査を進めた<ref>[[明報]]「[http://hk.news.yahoo.com/article/091227/4/fuag.html 主張喪葬從簡 墓穴發掘不易]」2009年12月28日</ref>。
この結果、約740平方メートルの面積の陵墓から、曹操を示す「魏武王」と刻まれた石牌など200点以上の埋葬品や60代前後の男性の遺骨と女性2人の頭部や足の遺骨が発見され、中国河南省文物局が曹操の陵墓であるということを[[2009年]][[12月27日]]に発表<ref>中国河南省文物局「[http://www.haww.gov.cn/html/20091227/153670.html 曹操高陵在河南得到考古确认]」2009年12月27日</ref><ref>[[共同通信]]「[http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009122701000388.html 「三国志」曹操の陵墓発見 中国河南省、遺骨も出土]」2009年12月27日</ref><ref>AFPBB News「[http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2678344/5096081 「三国志」曹操の陵墓を発見、中国河南省 「魏武王」の文字]」2009年12月28日</ref>、[[中国社会科学院]]など他の研究機関も曹操高陵の可能性が高いとした<ref>[[北京の報道メディアの一覧|光明日報]]「[http://www.sach.gov.cn:8080/www.sach.gov.cn/tabid/116/InfoID/22652/Default.aspx 中國社會科學院等方面專家基本認定:西高穴大墓是曹操的陵墓]」2009年12月28日</ref>。
 
翌建安十五年([[210年]])に「求賢令」を出す。内容は「([[管仲]]を登用せずに)もし清廉な士だけを用いていたら[[桓公 (斉)|桓公]]は[[覇者]]になれただろうか。唯だ才能ある人物を挙げよ」という曹操の唯才主義を表明した文書として有名である([[#唯才主義]]で後述){{Sfn|堀|2001|pp=132-133}}{{Sfn|石井|2013|p=3855-3866|ps=kindle位置No}}。
== 人物・事績 ==
{{出典の明記|section=1|date=2010年1月}}
=== 外見・出自 ===
曹操の外見は「形陋<ref>『[[世説新語]]』容止篇</ref>」「姿貌短小<ref>[[劉孝標]]が注に引用する『魏氏春秋』</ref>」とあり、小男であったことが記述されている。これは『三国志』における人物の多くが、背が高い、見目麗しい、髭が立派など、優れた外見を記述されているのと対照的である。また、曹家は名臣曹参の裔を称しており、父の曹嵩が三公である太尉であったものの、祖父の曹騰が宦官である事から常に[[士大夫]]層からその事を馬鹿にされていた。袁紹の幕下にいた[[陳琳]]は、曹操との戦いに向けた[[檄文]]の中で、曹操を「贅閹の遺醜」(「宦官という卑しい存在の倅」という意味)と罵倒している。このように、曹操の血筋や家柄は、彼の敵手であった袁紹・袁術ほど、他者に大きく先行するものではなかった。
 
建安十六年([[211年]])、[[漢中]]を占拠していた[[五斗米道]]の[[張魯]]を討つために[[鍾繇]]を派遣すると、この動きに反応した[[馬超]]・韓遂ら関中の諸将が反乱を起こす{{Sfn|堀|2001|p=135}}{{Sfn|石井|2013|p=3918-3932|ps=kindle位置No}}。曹操は自ら軍を率いてこれを撃破。[[夏侯淵]]を長安において鄴へ帰還する{{Sfn|堀|2001|p=135}}{{Sfn|石井|2013|p=4034|ps=kindle位置No}}。その後も馬超・韓遂らは反乱を続けるが、夏侯淵の手によって建安十九年([[214年]])までに関中・涼州の制圧は完了する{{Sfn|堀|2001|p=135}}{{Sfn|石井|2013|pp=4041-4067|ps=kindle位置No}}。漢中の張魯も建安二十年([[215年]])に降伏し、華北の統一が完成した{{Sfn|堀|2001|p=135}}{{Sfn|石井|2013|pp=4412-4425|ps=kindle位置No}}。漢中の守将には夏侯淵が置かれた{{Sfn|石井|2013|p=4470|ps=kindle位置No}}。
=== 政治家として ===
出自に問題がある曹操はそれを逆手にとり、家柄や品行によらず、才能ある人材を積極的に登用することを求めた。建安15年(210年)に布告した「求賢令」では、[[呂尚]]や[[陳平]]のエピソードを挙げ、「才能を重視し、家柄や過去にこだわらず、当時身分の低かった専門職の人々も厚く用いる(唯才是挙)」という登用姿勢を打ち立てている。この方針は同時代ではかなり異例、異質なものであった。また『世説新語』軽詆篇によると、荊州の劉表は荷車は引けないが大食の巨大な牛を所有していて、それを自慢していた。だが曹操は荊州を征服した際、その牛を「どんなに大きくても役に立たないのでは意味が無い」と見なし、屠殺して宴の肴にしてしまったという。
 
並行して東の孫権軍とも何度か戦いを繰り返すがどちらも決定的な勝利を収めるには至らなかった([[濡須口の戦い]]){{Sfn|石井|2013|pp=4091-4127|ps=kindle位置No}}。
曹操は司空府・丞相府において[[尚書令]]の荀彧、中軍師の[[荀攸]]らを中心に軍師祭酒による参謀集団を構成し、政策・戦略決定に関与させた<ref>『[[通典]]』</ref>。これは制度化された本格的な軍師(参謀)官職としては、世界初の事例ともいわれる<ref>[[東アジア]]を中心に[[古代]]から参謀を兼する職務の存在自体は確認できる。</ref>。袁紹・劉表・劉備・孫権ら同時代の他の群雄は、客将・名士層や豪族を抱きかかえる目的を含めて、評定において従えた程度であったのに対し、曹操はより積極的に軍師・参謀を組織的な軍事・政治顧問として用いた。建安七子に数えられる陳琳・[[王粲]]・阮禹・徐幹ら文人は、曹操の秘書として機密を扱った。
 
建安十七年([[212年]])、関中から帰った曹操は「賛拝不名・入朝不趨・剣履上殿」の特典を得る{{Refnest|group="注"|name="蕭何の故事"|臣下は皇帝の前では小走りに走らなければならず、[[諱]]で臣操と名乗らなければならず、帯刀は許されなかった。これらを免除するという特典がこれで、漢建国最大の功臣である[[蕭何]]に与えられたのを始めとし、[[王莽]]・[[梁冀]]・[[董卓]]に与えられた{{Sfn|石井|2013|p=1876|ps=kindle位置No}}。}}。さらに曹操に[[九錫]]を与え、位を魏公に進める提案がなされたが、荀彧はこれに反対した{{Sfn|堀|2001|p=138}}{{Sfn|石井|2013|pp=4136-4174|ps=kindle位置No}}。その後、荀彧は[[尚書令]]を解任され、孫権との戦いに随行し、途中で病死したとされる{{Sfn|堀|2001|p=138}}{{Sfn|石井|2013|p=4162|ps=kindle位置No}}。しかし実際には荀彧には空の弁当箱を送り、自死を強いられたとも言われる{{Sfn|堀|2001|p=138}}{{Sfn|石井|2013|p=4162|ps=kindle位置No}}。
「[[孝廉]]」には儒教知識人が主に推挙されるが、曹操や曹操勢力の幹部である荀彧・荀攸・[[賈ク|賈詡]]・董昭・鍾繇・[[華キン|華歆]]・[[王朗]]らが孝廉に推挙されている。[[川勝義雄]]は「曹操の元に多くの名士(主に儒教知識人)が集まり、やがて武将を抑えて曹操政権内で大きな権力を持った。魏公国が出来たとき、政府の(文官系の)重要官職は名士らによって占められた」としている<ref>川勝義雄『魏晋南北朝』([[講談社学術文庫]]) 名士については諸説ある(「[[党錮の禁#党錮の禁に関する研究]]」「[[貴族 (中国)#研究]]」を参照)</ref>。
 
荀彧が死んだ後の建安十七年に曹操は冀州の十郡を領地として魏公の位に登り、九錫を与えられた{{Sfn|堀|2001|pp=139-140}}{{Sfn|石井|2013|p=4210|ps=kindle位置No}}。九錫は[[王莽]]に与えられた特典であり、[[簒奪]]の前段階であることは誰の目にも明らかであった{{Sfn|堀|2001|p=141}}。さらに漢中から帰った建安二十一年([[216年]])に魏公から魏王へと進む{{Sfn|石井|2013|p=4347|ps=kindle位置No}}
農政において、他の群雄達が兵糧確保の為に農民から略奪のような事をしていた当時、曹操は[[韓浩]]・[[棗祗]]らに提言された[[屯田]](屯田制)と呼ばれる農政を行った。屯田とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。屯田制は当初は難航したが、[[袁渙]]の提案や[[任峻]]の尽力などにより軌道に乗せることに成功した。これによって潤沢な食料を抱えることになった曹操は、各地の民衆を大量に集めることができるようになった。この先進的な屯田制が、後漢の群雄割拠の中でそれほど出自的に有利ではない曹操が、他の群雄を退け勝ち残る理由の一つとなった。
 
曹操の魏公・魏王就任に対する反発から朝廷内で曹操に対する不満は高まっていた。建安十九年(214年)に献帝の皇后[[伏皇后]]が殺されるという事件が起きる。伏皇后は献帝が曹操を恨んでいるという手紙をかつて父の[[伏完]]に送ったことがあり、露見して殺されるということになった。これに数百人が連座した{{Sfn|堀|2001|p=146}}。続けて建安二十三年([[218年]])に太医令[[吉本 (後漢)|吉本]]が[[耿紀]]らと共に反乱を起こして許都を攻めるが敗れてみな処刑された{{Sfn|堀|2001|p=147}}{{Sfn|石井|2013|pp=4509-4532|ps=kindle位置No}}。翌二十四年([[219年]])に[[魏諷]]が仲間を集めて鄴を占拠せんとしたが失敗して処刑された{{Sfn|堀|2001|p=147}}。
また強制婚姻による兵雇制度の改革(屯田制と相まって、軍の盤石化に効果を上げた)、朝廷内の意思を統一するため三公を廃止し丞相と御史大夫の復活による権限の一元化、禁酒法、軍閥の抑制を目的とした地方分権型から中央集権型軍隊への移行、州の区分けを再編することを目的とした合併独立などである。さらに建安10年([[205年]])には、世間の頌徳碑建立の盛行および厚葬の風潮を正し、石室・石獣・碑銘などを造り、豪奢な葬礼を行ない墓碑を立てることを禁止する薄葬令を発した<ref>『[[宋書]]』礼志</ref>。
 
劉備は益州の[[劉璋]]を攻めてこれを併合していたが、建安二十三年に益州から北上して漢中へと侵攻してきた。曹操も出陣して長安に兵を進めるが、陽平関にて夏侯淵は劉備軍に敗れて敗死([[陽平関の戦い]])。曹操は劉備を攻めるも守りが堅く、曹操が病気を発したので撤退した{{Sfn|堀|2001|pp=149-150}}{{Sfn|石井|2013|pp=4538-4567|ps=kindle位置No}}。荊州に駐屯していた[[関羽]]はこちらも北進の軍を起こして[[曹仁]]が守る[[樊城]]を攻めた{{Sfn|堀|2001|p=149}}{{Sfn|石井|2013|p=4574|ps=kindle位置No}}が、孫権は曹操の元へ使者を送り、劉備との同盟を破棄して関羽を攻撃することを約束した{{Sfn|堀|2001|p=149}}{{Sfn|石井|2013|p=4591|ps=kindle位置No}}。孫権の将軍[[呂蒙]]は荊州を攻撃して陥落させ、これを聞いた関羽は撤退しようとするが途中で呉軍に捕らえられて切られ{{Sfn|堀|2001|p=149}}{{Sfn|石井|2013|p=4601|ps=kindle位置No}}、その首は孫権から曹操へと送られた{{Sfn|堀|2001|p=149}}。
曹操は勢力圏の境界付近に住む住民を勢力圏のより内側に住まわせた。これは戦争時にこれらの人々が敵に呼応したりしないようにするためであり、敵に戦争で負けて領地を奪われても住民を奪われないようにするためでもある。後漢末・三国時代は相次ぐ戦乱などにより戸籍人口が激減しており、労働者は非常に貴重だった。曹操は降伏させた烏桓族を中国の内地に住まわせ、烏桓の兵士を曹操軍に加入させた。曹操軍の烏桓の[[騎兵]]はその名を大いに轟かせた。
 
=== 兵法家として最期 ===
建安二十五年([[220年]])正月、曹操は病死した。享年66{{Sfn|堀|2001|p=149}}{{Sfn|石井|2013|p=4621|ps=kindle位置No}}。
曹操は[[文章家]]でもあった。兵書『[[孫子 (書物)|孫子]]』を現在残る13篇に編纂したのは曹操である<ref>『[[李衛公問対]]』では、『新書』と呼ばれる曹操の書いた兵法書と孫子の注を別の書物として扱っている。『三国志演義』では、『孫子』に倣って13篇に編纂した『孟徳新書』という兵法書を著しているが、[[張松]]に盗作だと笑われたことに怒り焼き捨てている。</ref>。これは『魏武註孫子』として後世に伝わることになる<ref>『孫子』を曹操の偽作とする説もあったが、前漢時代の墓から『孫子』が出土したことにより、現在では否定されている。</ref>。また、『[[隋書]]』[[経籍志]]によると、曹操には『孫子』の他にも、『続孫子兵法』『太公陰謀』『兵書接要』『兵書論要』などの兵法書を著している(いずれも散逸)。
 
曹操は「天下は未だ収まっていないから古例に従うことは出来ない。埋葬が終わったならすぐに喪を明けよ。各地の軍隊は持ち場を離れてはいけない。官吏はその職務に努めよ。埋葬に当たっては平服を用い、金銀珍宝を副葬してはならない」と遺令した{{Sfn|堀|2001|p=150}}。
『[[李衛公問対]]』によれば、曹操は騎兵の運用法に優れ、[[唐]]の名将・[[李靖]]も参考にしていたが、曹操の著した『新書』という兵法書の記述は分かり難いとしている。また、同書では、曹操が書いた『新書』や『孫子』の注には、「兵を正兵と奇兵に分け、正兵に先に戦わせて、奇兵に敵側面を攻撃させる」と書かれているとある。
 
後を[[曹丕]]が継ぎ、同年十月に献帝から禅譲を受けて[[魏 (三国)|魏]]を建て、曹操は武帝の諡号と太祖の廟号を贈られた{{Sfn|石井|2013|p=54-60|ps=kindle位置No}}。
=== 将軍として ===
曹操は実戦においても優れた戦略家・軍略家であった。当初は董卓・[[劉焉]]・袁紹・袁術らのような有力な勢力ではなく、ただ群雄の一人として連戦連勝を重ねてのし上がり、最終的には中国北部全域を支配するまでに勢力を拡大している。特に匈奴・烏桓・[[羌]]などの[[遊牧騎馬民族]]との戦いでは無類の強さを発揮している。また、[[奇襲]]・[[伏兵]]を用いた戦いを得意とし、袁術・呂布との戦いでは水攻めを用いて勝利している。謀略に長じ、軍の統率にも大いに長け、また兵書を編纂し評論できるほどの確かな戦術理論を持っていた。
 
== 三国志演義の曹操 ==
曹操がこと戦役において、袁紹・呂布・袁術ら他の群雄と比べ瞭然として勝っていた部分は、部下の進言・献策を的確に見極めて取捨選択し、利己心無しに受け入れる能力と言える。多くの重要な戦役においては、それらによって曹操が一時不利な状況から勝利を収めた例が少なくない。しかし、曹操は利害が絡まないと厳しい対応を取る事も少なくなく、不遜な態度をとったことを理由に許攸・[[華佗]]・[[孔融]]・[[婁圭]]・[[崔エン|崔琰]]を処刑したり自害させている。
 
『[[三国志演義]]』における曹操は、卓越した知略と軍事的才能を持ちながらも、奸智に長け、猜疑心が強く、しばしば残忍さを見せる人物として描かれる。彼の行動は「治世の能臣、乱世の奸雄」という評語で象徴される。黄巾の乱後に台頭し、董卓討伐連合に参加、後に群雄割拠の時代において北方を統一。赤壁の戦いで劉備・孫権の連合軍に敗れるものの、最終的には中原を制し、魏の土台を築いた。
曹操は適材適所もわきまえており、『魏書』には「任された将兵は立場をよく理解し、自らの武と奇策をもって難に向かった」との記述が残る。荀彧によれば、曹操軍の軍法軍令は明白で、賞罰も的確に行われていた。
 
若年のころから聡明で、策略に長ける一方、狡猾さを見せる。祖父曹騰(宦官)や父曹嵩の家柄を背景に、若くして仕官する。董卓討伐連合で頭角を現すも、連合瓦解後に独自に勢力を拡大。徐州に侵攻した際には「父の仇」として陶謙を討とうとし、民を虐殺するなど冷酷な姿が強調される。
=== 文人・詩人として ===
曹操は「槊を横たえて詩を賦す<ref>[[北宋]]の[[蘇軾]]「前赤壁の賦」</ref>」と後世に言われたように、政治・軍事に多忙な中、多くの[[文人]]たちを配下に集めて文学を奨励すると同時に、自身もすぐれた詩人であった。彼は[[建安文学]]の担い手の一人であり、子の曹丕・[[曹植]]と合わせて「三曹」と称される。曹操は軍隊を率いること30数年間、昼は軍略を考え、夜は[[五経|経書]]の勉強に励み、高所に登れば詩を作り、詩ができると管弦にのせ音楽の歌詞にしたという<ref>[[王沈]]の『魏書』による</ref>。その記述の通り、現存する曹操の詩は、いずれも[[楽府]]という音楽の伴奏を伴った歌詞であり、代表的な作品として『[[文選 (書物)|文選]]』27巻 樂府上 樂府二首<ref>{{cite wikisource|昭明文選/卷27#.E6.A8.82.E5.BA.9C.E4.BA.8C.E9.A6.96|蕭統|zh|nobullet=yes}}</ref>に収録された下に記す「短歌行<ref>{{cite wikisource|短歌行_(曹操)|曹操|zh|nobullet=yes}}</ref>」が有名である。
 
また、「猜疑心の強さ」が悲劇を生む人物として描かれる。特に名高いのは「呂伯奢殺害事件」である。客人として立ち寄った呂伯奢の家で「まな板の音」を刺客と誤解し、一家を皆殺しにした逸話は、彼の残酷さを象徴する場面となっている。袁紹との決戦では劣勢ながらも智略を尽くし、烏巣の奇襲で勝利。以後、中原の覇権を握る。
{{Quotation|<poem>
{{lang|zh-tw|對酒當歌 人生幾何 譬如朝露 去日苦多
慨當以慷 憂思難忘 何以解憂 唯有杜康}}
(後略)</poem>|『昭明文選』27巻 樂府上 樂府二首 短歌行<ref>{{cite wikisource|昭明文選/卷27#.E7.9F.AD.E6.AD.8C.E8.A1.8C|蕭統|zh|nobullet=yes}}</ref>}}
 
南征により荊州を制圧するが、孫権・劉備の連合軍との赤壁の戦いで敗北。演義では「連環の計」や「苦肉の計」など、周瑜と諸葛亮の計略に翻弄される姿が描かれる。
酒には歌が付きもの 人生はどれほどのものだというのだ 朝露のような儚さじゃないか 思えば、空しく過ごしてしまったよ<br/>嘆いてみたってどうにもならないが 後悔の思いが頭から離れない どうすればこの憂いを忘れることができるのか 酒より他にないじゃないか<ref>三国志Ⅲ 非公式ガイドブック P.192</ref>
 
以後も北方の支配を強固にするが、劉備・関羽らとの抗争は続いた。曹操は[[左慈]]という仙人の妖術を見てから「頭痛」に悩まされた。また、神木を斬って宮殿を作ろうとしたため、名医・[[華佗]](かだ)を呼び寄せたところ、華佗は「頭を開いて脳を治療する手術が必要」と進言された。だが、曹操は、これを「自分を殺すための口実」と疑い、激昂。華佗を投獄し、最終的に殺害する。晩年の衰弱につながった。「魏王」として死去し、帝位には就かず、後に子の曹丕が魏を建国する。
曹操の詩に関する後世の評価には、[[梁 (南朝)|梁]]の[[鍾嶸]]『[[詩品]]』下巻 魏武帝魏明帝<ref>{{cite wikisource|卷下#.E9.AD.8F.E6.AD.A6.E5.B8.9D.E9.AD.8F.E6.98.8E.E5.B8.9D|鍾嶸|zh|nobullet=yes}}</ref>の「{{lang|zh-tw|曹公古直 甚有悲涼之句}}」(古直にして、甚だ悲愁)、[[明]]の周履靖の「自然沈雄」、陸時雍の「その言、鋒を摧(くだ)く斧の如し」、[[清]]の[[沈徳潜]]の「沈雄俊爽、時に覇気露わす」などがある。また、沈徳潜は曹操の詩には漢の空気が残り、曹丕以後は魏の作品であると記している。中国文学研究者の松本幸男は、曹操以後に従軍文学と言うべき作が多いと指摘している。現存する彼の詩作品は多くはないが、そこには民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、乱世平定への気概が感じられる。表現自体は簡潔なものが多いが、スケールが大きく大望を望んだ文体が特徴である。
 
== 人物・事績 ==
改革開放の父、[[鄧小平]]は、三度目の復活を果たした1977年7月、「志は千里に在り、壮心は已まず」という心境をもらした。老いてなお進取の意気込みを示した言葉は、実は曹操が残した『歩行西門行』(208年頃の作品)という楽府からの引用である。
=== 政治・軍事 ===
[[File:Levé de lune sur le Mont Nanping.jpg|thumb|『南屏山昇月』([[月岡芳年]]『月百姿』)赤壁を前にする曹操]]
 
曹操が始めた屯田制・戸調制・兵戸制などは魏に受け継がれ、その後の魏晋南北朝時代の制度の礎となった。
=== その他 ===
曹操は武芸にも優れており、揚州で兵を徴募した際、多数の兵卒が反乱を起こしたが、曹操は剣を手に数十人を殺し、残りのものは皆恐れをなしたといわれるほど、人並みはずれた腕力を持ち、自身で飛ぶ鳥を射たり猛獣を捕らえたりしたともいう<ref>『魏書』による</ref>。また曹操は[[張譲]]の邸宅に忍び込んで発見された際、手戟を振り回し土塀を乗り越えて逃げ、その人並外れた武技で誰も彼を殺害できなかったという<ref>東晋の孫盛の『異同雑語』による逸話</ref>。
 
当時は戦乱の影響により農民が逃げ出して流民となり、空いた耕地が多数残されていた。屯田制はこの空き地に流民を割り当てて耕作させるものである。当時の群雄たちの間では軍糧確保に窮しており、袁紹は桑の実を袁術は[[ドブガイ]]を食料としていたという{{Sfn|堀|2001|p=81}}{{Sfn|石井|2013|p=2775|ps=kindle位置No}}。曹操軍も程昱が食料に人肉を混ぜたとか、曹操の命令で食料支給を減らしたことで兵士から不満が出たので、担当官に罪をなすりつけて処刑したなどとの話が残る{{Sfn|石井|2013|p=2775|ps=kindle位置No}}。このような状況を打開するために建安元年(196年)に[[棗祗]]・[[韓浩]]の建議により屯田が行われた{{Sfn|堀|2001|p=81}}。
裴松之が引用する[[張華]]の『博物志』では、[[草書]]・音楽・囲碁に長けた当時の人物を紹介した後、彼らに劣らぬ腕前の持ち主として曹操の名を記している。また、食に対する興味・関心が深く、知識も豊富であったことが伺える<ref>『四時食制』と言う食に関しての著作の現存する部分から</ref>。なお、[[陝西省]][[漢中]]博物館には、曹操が書いたと伝わる文字(石刻)の拓本が残る。
 
屯田民には50畝(3.3ヘクタール)の土地および農具・耕牛が貸し与えられ、それに対して収穫の5割(牛を借りた場合は6割)という一般民の5から6倍という高額の税を収める{{Sfn|堀|2001|p=82}}。屯田民は一般民が郡県に所属するのに対して典農中郎将(郡の太守と同格)・典農校尉(小郡太守と同格)・典農都尉(県令と同格)ら田官の下の特別の戸籍に入れられた{{Sfn|石井|2013|p=2809|ps=kindle位置No}}{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=48}}。この政策により、曹操軍は百余万斛の食料を得た{{Sfn|石井|2013|p=2807|ps=kindle位置No}}。その後の魏晋南北朝時代においてもこの形態の屯田は続けて行われた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=48}}。<Ref group="注" name="占田課田の系譜">この屯田制が後の[[占田・課田制]]に繋がるとの[[宮崎市定]]の見解があるが、繋がらないと考える見解も多数ある。詳しくは[[占田・課田制#A説]]・[[占田・課田制#占田・課田制の歴史的位置付け、占田・課田制研究の歴史学的位置付け]]を参照。</ref>
曹操が発明した酒の醸造法「九蒕春酒法」は、現在の日本の酒造業界において尚行われている「段掛け方式」の元であると言われている。曹操が後漢の献帝に上奏した九蒕春酒法の上奏文は現存している。
 
兵戸制は特定の家に対して永代の兵役義務を負わせるもので、その元は上述の青州兵である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=11}}。兵戸制は呉や蜀でも行われ、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]まで続いた{{Sfn|石井|2013|pp=1985-1986|ps=kindle位置No}}。
『三国志』[[何キ|何夔]]伝によれば、曹操は厳しい性格で、職務で誤りを犯した属官をしばしば杖で殴っていた。曹操が司空だった時、何夔は属官となったが、毒薬を所持し、杖で叩かれたら毒薬を飲む覚悟で職務に当たっていた。
 
建安九年(204年)に新たな税として、畝ごとに田租4升・戸ごとに絹2匹・綿2斤を定めた。それまでの税は田租と算賦という[[人頭税]]の二本立てであり、ここで個人から戸ごとの徴収に切り替わったことが歴史的に見ても大きな意味を持つ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=48-49}}。
[[西晋]]の文学者[[陸機]]の「弔魏武帝文」によると、[[298年]]、陸機は宮中の書庫から曹操が息子たちに与えた遺言を目にする機会を得た。遺言には「生前自分に仕えていた女官たちは、みな銅雀台に置き、8尺の寝台と帳を設け、そこに毎日朝晩供物を捧げよ。月の1日と15日には、かならず帳に向かって歌と舞を捧げよ。息子たちは折にふれて銅雀台に登り、西にある私の陵墓を望め。残っている香は夫人たちに分け与えよ。仕事がない側室たちは履の組み紐の作り方を習い、それを売って生計を立てよ。私が歴任した官の印綬はすべて蔵にしまっておくように。私の残した衣服はまた別の蔵にしまうように。それができない場合は兄弟でそれぞれ分け合えよ」などと細々した指示が書き残されていたという。これを見た陸機は「愾然歎息」し、「徽清絃而獨奏進脯糒而誰嘗(死んだ後に歌や飯を供して誰が喜ぼうか)」「貽塵謗於後王(後の王に醜聞を伝える)」と批評している。
 
=== 唯才主義 ===
文武両面に非凡な才能を見せた曹操を[[陳寿]]は「非常の人、超世の傑」(類稀なる才の持ち主であり、時代を超えた英雄である)と評している。日本でも、三国志を題材にした小説を著した[[吉川英治]]は「書いているうちに曹操が魅力的に感じた」と後書きで告白している。
 
曹操を表す大きな特徴として「唯才主義」が挙げられる。
== 三国志演義における悪役のイメージ ==
[[File:Cao Cao Portrait ROTK.jpg|thumb|200px|三国志演義の曹操の肖像画]]
史実の曹操には、皇帝である献帝を蔑ろにし権力を握っていた事、徐州に於ける虐殺、[[孔子]]の子孫の[[孔融]]を一族もろとも処刑した事、名医と言われた[[華佗]]の殺害など、[[儒教]]思想的に非難されるべき行為が見られる。時代が下るにつれ、このような苛烈な処置ばかりが強調され、様々な業績は陰に隠れていくこととなる。こうした傾向は曹操没後百年近くたった[[五胡十六国]]時代に既に現れており、[[後趙]]の[[石勒]]は、曹操を司馬懿と並べて「孤児や未亡人を欺き、騙して天下を取った」と痛烈に批判している。
 
建安十五年(210年)に出した「求賢令」の中で「唯だ才是れを舉げよ」と述べたことは[[#魏公・魏王へ|前述]]したが、それ以前からその姿勢は一貫していた。潁川郡の名士である荀彧の紹介により数々の人材が曹操のもとに集ったが、そのうちの[[戯志才]]・[[郭嘉]]は素行が悪く、郭嘉は同僚の[[陳羣]]から糾弾されていたが曹操はますます重用するようになった{{Sfn|高橋|2019|p=122}}。またかつて曹操が孝廉に挙げた{{仮リンク|魏种|zh|魏种}}が裏切って逃げ出した時に曹操は「どこへ逃げても探し出してやるぞ」と怒っていたのだが、いざ魏种が捕らえられると再び採用し、その理由を聞かれると「唯だ其れ才なり」と答えたという。他にも官渡の戦いの前に袁紹陣営にいた[[陳琳]]が曹操の祖父・父のことから曹操自身のことまで罵った檄文を出したが、戦後陳琳が降伏してくると「自分のことを言うのは良いが、父祖のことまで悪く言ってくれるな」と言って陳琳を幕下に加えたなど、曹操の唯才主義を示すエピソードが多数残る{{Sfn|堀|2001|pp=162-163}}。
『三国志演義』の原型として確認できる最も初期のものとして、[[北宋]]の[[説話 (中国)|説話]]があげられる。『東京夢華録』に「説三分」なるジャンルがみられ、[[蘇軾]]『東坡志林』には、講談を聞いた子供たちは劉備が負けると涙を流し、曹操が負けると大喜びしたとの記述がある。
 
しかし一方で気に入らない人間には容赦なかった。[[孔融]]は[[孔子]]20世の子孫と言い、[[建安七子]]の一人に数えられることもある当時指折りの文化人であり名士であった。しかしその才は曹操が重視する実務に向かず、度々曹操の政策に弁舌を持って反対したために死刑に処された{{Sfn|堀|2001|p=188}}。孔融と仲の良かった人物に[[禰衡]]がおり、こちらも歯に衣着せぬ言説で有名であった{{Sfn|堀|2001|p=190}}。禰衡は曹操や荀彧を高く評価せず、孔融と[[楊修]]だけを認めた{{Sfn|石井|2013|pp=3218-3226|ps=kindle位置No}}。禰衡は曹操に仕えようとしたが、劉表の元へ送られ、そこで殺されることになる{{Sfn|堀|2001|p=190}}。
[[南宋]]から[[元 (王朝)|元]]の頃にはこれらの物語は書物にまとめられ、『[[三国志平話]]』と呼ばれる口語体による三国物小説が生まれた。『三国志平話』もまた、曹操を悪者としている。また明初のものとされる[[関索]]についての話本『[[花関索伝]]』も発見されている。
 
曹操の求めるのはあくまで実務の才であって、孔融のような浮華の徒は必要としていなかったのである{{Sfn|堀|2001|p=183}}。
その後、[[羅貫中]]が三国物語をまとめ直したものが『[[三国志演義]]』で、大まかな流れは外れないものの[[蜀漢]]の陣営を正統とみなし、大衆の判官びいきの心理への訴求と儒教的脚色がなされている。『三国志演義』が書かれる以前に[[東晋]]の[[習鑿歯]]が蜀漢正統論を唱えている。
 
しかし罪のない[[華陀]]{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=14}}や[[崔琰]]{{Sfn|堀|2001|p=184}}を殺したことには後世の批判が集まるところである。
また、中国は唐末・五代以降常に異民族に領土を蚕食され続け、南宋期にそれに対する反発として大義名分と正統を重んじる[[朱子学]]が完成されてからは長く官学としての主流となると、三国志もまた正統と異端を断ずる格好の材料となっていった。特に南宋では、中原を異民族王朝[[金 (王朝)|金]]に征服されていたこともあり、[[中原]]回復を唱えた[[諸葛亮]]を自らと重ね合わせていたために魏は金と重ねあわされ無条件に悪役にされ、魏を正統王朝としていることから陳寿も批判を受け、曹操は多くの論者によって悪とされた。蜀を正統王朝とする『続後漢書』のような史書も編纂され、曹操は正統王朝漢を乗っ取った悪人として広く一般に認識された。
 
=== 文化 ===
[[京劇]]でも曹操は悪役として扱われ、瞼譜(隈取)も悪役のそれ(二皮)である。
{{wikisourcelang|zh|作者:曹操}}
 
曹操は文化特に詩を愛すること深く、陣中にあっても読書・詩作に熱心であった{{Sfn|宇野|2005|p=53}}。曹操・[[曹丕]]・[[曹植]]の三人を合わせて「三曹」と呼び、[[建安文学]]の中心的存在とされる{{Sfn|宇野|2005|p=53}}{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=61}}。その文学サロンには当時の一流の文化人が集まり、その代表格を[[建安七子]]と呼ぶ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=61}}。曹操の詩は全て五言・四言の[[楽府]]である{{Sfn|宇野|2005|p=57}}。曹操の詩の特徴としては曹操以外の作者の建安詩に見られるような悲嘆を表現した詩と楽観的で豪放磊落な詩が両方存在していることにある{{Sfn|宇野|2005|p=57}}。代表的な作品として『[[文選 (書物)|文選]]』27巻 楽府上 楽府二首<ref>{{Cite wikisource|title=昭明文選/卷27#樂府二首|author=蕭統|wslanguage=zh}}</ref>に収録された下に記す「短歌行<ref>{{Cite wikisource|title=短歌行 (曹操)|author=曹操|wslanguage=zh}}</ref>」が代表作である<ref>{{Cite book|和書||author=井波律子|author-link=井波律子 |title=中国の五大小説 上 三国志演義・西遊記 |publisher=[[岩波書店]] |year=2008 |month=4 |url=https://books.google.com/books?id=TqlNAQAAIAAJ&q=短歌行 |page=108 |isbn=978-4-0043-1127-0}}{{ISBN2|4004311276}}。</ref>。
== 近・現代の再評価 ==
{{観点|section=1|date=2010年3月}}
 
詩以外にも文章・音楽に通じ、『[[孫子 (書物)|孫子]]』に注釈を付けている(『魏武注孫子』){{Sfn|金|2005|p=358}}。
『三国志演義』の影響によって悪役としての評価がほとんど定着してしまった曹操であるが、1950年代以降に入ってからは逆転し、急速に再評価が進んでいる。
 
=== 身体的特徴 ===
近代の中国においては、西欧の進出に対してその劣位が明白になり、幾度となく近代化を目指しては失敗した背景に、思想的な儒教・[[中華思想|華夷思想]]への偏重などがあったと反省され、思想的な枠組みを超えて合理性を追求した曹操の施策が、[[魯迅]]など多くの知識人によって再評価された<ref>しかし彼らは例外なく中華思想ならぬ欧米崇拝だった。</ref>。
 
曹操の身長は同時代人と比べても低かったとされる。後述の陵墓の発掘結果によれば、その身長は約155cm<ref>中国之声《央広新聞》(2009年12月27日)</ref>であった。同時代の劉備は七尺五寸・[[諸葛亮]]が八尺あったという(当時の尺は24cm余り){{Sfn|堀|2001|p=21}}。『世説新語』には「曹操が匈奴の使者と引見する時に、代わりに[[崔琰]]を立てて自分はその従者の振りをしていた」との話が残る。ただその後に匈奴の使者は「曹操(の振りをした崔琰)よりもその従者(の振りをした曹操)こそが英雄です」と応えたという話が続く{{Sfn|堀|2001|p=21}}。
特に曹操再評価を盛り上げたのは[[毛沢東]]で、彼の主導の下、曹操再評価運動が大々的に行われた。[[郭沫若]]が戯曲において曹操を肯定的に評価したのもこの頃である。また、[[文化大革命]]の時の[[批林批孔運動]]でも、曹操は反儒教の人物として肯定された。
 
==曹操の扱いの変遷 ==
現代中国では、思想の変遷が、儒教・[[道教]]の系譜(孔子、孟子などが中心)と、[[法家]]・[[兵家]]([[韓非|韓非子]]、孫子等)の系譜との対立軸を通じてとらえられることが多い{{要出典|date=2010年2月}}。[[共産主義]]の観点からすれば、これら二つの思想は「革命」の段階的進行であった、と説明されている。身分制度を重視し、男女差別を人倫の基とした儒教の系譜に対しては批判的な評価がなされ、合理性を追求した法家の思想には甘い評価が為される傾向がある<ref>しかし男女差別や身分制度は普遍的である</ref>。そのため、曹操も単なる「悪役」から多少味のある「悪役」程度には評価を変えてきているようである<ref>[[中国中央電視台]]のドラマ『[[三国演義 (テレビドラマ)|三国演義]]』でも父親の惨死に憤ったり、赤壁で大敗を喫した際に[[郭嘉]]の死を激しく嘆く等、人間的情感・味わいのある人物として描かれてはいる。また、テレビドラマ『三国志 Three kingdoms』では主人公格の一人として扱われ、天下統一のために非情に徹する一方、家来や領民に対する情をも見せる清濁併せ持った人物として描かれている。</ref>。
{{also|三国志演義の成立史#曹操}}
もっとも、圧倒的大多数が劉備を心情的に支持していることに変わりはない。
=== 清代までの曹操像 ===
[[File:Cao Cao Portrait ROTK.jpg|left|thumb|『三国志演義』で挿絵で描かれる、一般的な曹操の肖像画]]
[[File:Cao Cao in Beijing Opera.JPG|right|thumb|京劇の曹操]]
[[Image:Mask_of_Cao_Cao.jpg|thumb|right|215px|中国の儺劇の曹操の面([[清]]代)]]
 
『三国志』著者[[陳寿]]の曹操への評価は「非常の人、超世の傑」という絶賛と言えるものである{{Sfn|石井|2013|pp=67-71|ps=kindle位置No}}{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=13}}{{Sfn|田中|2019|p=48}}。もちろんこの評価には陳寿は魏から禅譲を受けた[[西晋]]に仕えており、魏を正統としていることに留意が必要である{{Sfn|田中|2019|p=48}}。
日本では[[吉川英治]]が小説『[[三国志 (吉川英治)|三国志]]』において曹操を悪役ではなく作品前半の主人公の一人として描き、新たな曹操像を提示した。[[1962年]]に[[吉川幸次郎]]が『三国志実録』において曹操の再評価を行い、特に文学の面での功績を高く評価した。またそれまで日本語訳の無かった<[[正史三国志]]>に着目し、曹操の事跡を正史によって詳しく紹介した。長年かけ弟子の[[井波律子]]らが完訳した。
 
西晋が追い落とされて、南へ逃れて[[東晋]]となった後は曹操への否定的評価が出てくる。[[習鑿歯]]が著した『漢晋春秋』はいわゆる「蜀漢正統論」を唱えた最初の書で曹操を簒奪者であるとしている{{Sfn|田中|2019|pp=49-50}}。しかしそれ以後も基本的には曹操英雄論、曹魏正統論が主流の時代が続く{{Sfn|田中|2019|p=51}}。[[北宋]]に入った後も[[司馬光]]の『[[資治通鑑]]』は曹魏を実質上正統とし{{Refnest|group="注"|name="司馬光正統論"|ただし司馬光は曹魏を正統としたのはやむを得ずとしている{{Sfn|田中|2019|p=51}} }}、曹操を肯定的に評価している{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=13}}。
[[陳舜臣]]作『秘本三国志』は、三国志演義の大筋に依拠しない、新しい史実解釈を用いた小説として、大きな影響を与えた。のちに作者は『曹操』、続編『曹操残夢』を著した<ref>いずれも[[中公文庫]]で再刊された</ref>。この他曹操を主役格に据えた作品として、[[北方謙三]]作『[[三国志 (北方謙三)|三国志]]』がある。漫画作品では吉川英治『三国志』を漫画化した[[横山光輝]]作『[[三国志 (横山光輝)|三国志]]』や、[[李學仁]]原案(原作)・[[王欣太]]作画『[[蒼天航路]]』が登場するなど、若年層への影響力も大きい。これら作品を中心とした中での曹操の人気は非常に高く、劉備に勝るとも劣らない支持を得ている。
 
これらの評価は漢魏の事例を初めとしてその後の[[魏晋南北朝時代]]・[[隋]][[唐]][[五代十国時代|五代]]において禅譲という行為が繰り返されたからという背景があるとも考えられる。宋の太祖[[趙匡胤]]もまた[[後周]]から禅譲を受けて宋を建てたのであり、『[[四庫全書総目]]』(巻45史部1)は太祖の事例が曹操のそれと似ていたために北宋の学者は曹操を批判することを避けたとしている{{Sfn|田中|2019|p=51}}。
歴史学的には、まず中国における郭沫若らの曹操論争があって文学的な評価が進み、その流れを受けて日本でも、[[京都大学]]の[[谷川道雄]]、[[川勝義雄]]らによる曹操集団および曹魏政権に対する再評価が進んだ。川勝らの曹操ないし曹魏政権、魏晋南北朝理解に対して、[[越智重明]]・[[矢野主税]]などとの間では1950年代から1970年代の間に活発な議論があったが、結局明確な結論が出ないままに論争の時代が終わってしまった{{要出典|date=2010年2月}}。1990年代以降、行き過ぎた曹操の再評価に対して抑制する動きが多く、また併せて川勝の理解に対しても修正する動きが見えている。
 
一方で同時代の[[欧陽修]]は当初曹魏を正統としていたが、後にそれを撤回して「曹魏の悪は子供でも知っている」と述べる{{Sfn|田中|2019|p=51}}。[[蘇軾]]は「赤壁賦」で曹操のことを英雄として評価しているが{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=13}}、曹操の残虐さを批判もしている{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=14}}。宋が華北を[[金 (王朝)|金]]に奪われて[[南宋]]となると、金を魏に宋を蜀漢にそれぞれ比定する考え方が生まれる。そして[[朱熹]]が『資治通鑑綱目』にて蜀漢を正統としたことで、蜀漢正統論が完全に主流となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=14}}。
== ことわざ ==
; 曹操の話をすると曹操が現れる(説着曹操、曹操就到)。
: 講談などで、曹操打倒の陰謀を図ると必ずといっていいほど露見してしまうことから、日本語での「[[wikt:噂をすれば影がさす|うわさをすれば影がさす]]」と同じ意味で使用される。
 
北宋代には説三分という講談調([[説話 (中国)|説話]])の三国志物語が街で行われており、[[蘇軾]]『[[東坡志林]]』には、「講談を聞いた子供たちは劉備が負けると涙を流し、曹操が負けると大喜びした」との記述がある{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=14}}{{Sfn|田中|2019|pp=53-54}}。[[南宋]]から[[元 (王朝)|元]]の頃にはこれらの物語が『[[三国志平話]]』と呼ばれる書物にまとめられた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=14}}。その後、[[羅貫中]]が三国物語をまとめ直したものが『[[三国志演義]]』で、[[蜀漢]]の陣営を正統とみなし、曹操は悪役として扱われる{{Sfn|石井|2013|p=94-95|ps=kindle位置No}}。『演義』を元とした[[京劇]]でも曹操は悪役として扱われ、[[臉譜]](隈取)も悪役を表す白塗りである{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=13}}。
== 血縁 ==
=== 父 ===
#[[曹嵩]]
 
このように金を敵視する南宋および元を追い落とそうとする[[紅巾の乱|紅巾軍]]では金・元を魏・曹操に、自らを蜀の[[諸葛亮]]らに重ね合わせた{{Sfn|石井|2013|pp=102-103|ps=kindle位置No}}{{Sfn|田中|2019|p=54}}{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=14}}。これにより曹操は正統王朝の漢を乗っ取った悪人として広く一般に認識されることになる{{Sfn|石井|2013|pp=102-103|ps=kindle位置No}}{{Sfn|田中|2019|pp=55-56}}。
=== 弟 ===
#[[曹徳]]
#[[曹彬]](薊恭公)
#[[曹玉]](朗陵哀侯)
#[[曹疾]]
#曹?([[海陽哀侯]])
 
=== 男子近現代の再評価 ===
[[File:Cao Cao statue 2016 Government Office of Prime Minister Cao Cao.jpg|right|thumb|許昌にある曹操像]]
# [[曹丕]] (文皇帝)母は[[武宣皇后卞氏|卞氏]]<ref>兄弟の長幼は不明な部分が多いため、ここでは『三国志』武文世王公伝の兄弟順に従う。裴松之はこれが生母の貴賤に拠った順序であると指摘している。</ref>
#:初代魏皇帝。卞氏の長男で、博覧強記で知られた。
# [[曹彰]] (任城威王)母は卞氏
#:とりわけ武勇に長け、曹操からは「黄鬚」とあだ名を付けられた。
# [[曹植]] (陳思王)母は卞氏
#:父や文帝以上に詩文に巧みで「詩聖」と呼ばれた。曹丕と後継者の座を争った。
# [[曹熊]] (蕭懐王)母は卞氏
#:病弱で、若くして死んだ。
# [[曹昂]](豊愍王)母は[[劉夫人]]
#:若くして討ち死にした。
# [[曹鑠]](相殤王)母は劉夫人
#:病弱で、若くして死んだ。
# [[曹沖]] (鄧哀王)母は環夫人
#:少年期より才幹目覚ましく、曹操の寵愛も厚かったが、病死した。
# [[曹據]](彭城王)母は環夫人
# [[曹宇]](燕王)母は環夫人
# [[曹林]](沛穆王)母は杜夫人
# [[曹袞]](中山恭王)母は杜夫人
# [[曹玹]](済陽懐王)母は秦夫人
#:早世し、沛王[[曹林]]の子[[曹贊]]が跡を継いだ。
# [[曹峻]](陳留恭王)母は秦夫人
# [[曹矩]](范陽閔王)母は尹夫人
#:早世し、樊安公[[曹均]]の子[[曹敏]]が跡を継いだ。
# [[曹幹]](趙王)母は王昭儀。<ref>『三国志』趙王幹伝が引く『魏略』は陳氏が生母であるとしている。</ref>
# [[曹上]](臨邑殤公子)母は孫姫
# [[曹彪]](楚王)母は孫姫
#:司馬懿に対する[[王凌]]のクーデター計画で、次の皇帝として担ぎあげられたが、失敗して自害した。
# [[曹勤]](剛殤公子)母は孫姫
# [[曹乗]](穀城殤公子)母は李姫
# [[曹整]](郿戴公子)母は李姫
#:従叔父の曹紹の跡を継いだ。
# [[曹京]](霊殤公子)母は李姫
# [[曹均]](樊安公)母は周姫
#:叔父の薊恭公曹彬の跡を継いだ。
# [[曹棘]](廣宗殤公子)母は劉姫
# [[曹徽]](東平霊王)母は宋姫
#:叔父の朗陵哀侯曹玉の跡を継いだ。
# [[曹茂]](楽陵王)母は趙姫
 
[[清]]代までこの状況は続いたが{{Sfn|田中|2019|p=56}}、清が倒れると曹操再評価の動きが見られるようになる。[[章炳麟]]や[[魯迅]]が曹操を評価し、京劇においても単なる悪役ではない曹操像が描かれるようになる{{Sfn|田中|2019|p=57}}。[[中華人民共和国]]が成立すると[[毛沢東]]は[[孔子]]を排撃する一方で、それまで非難されてきた[[始皇帝]]・[[王安石]]らと共に曹操を再評価しようとした{{Sfn|石井|2013|p=108-109|ps=kindle位置No}}{{Sfn|田中|2019|p=58}}。
=== 女子 ===
* [[清河長公主]]([[夏侯楙]]夫人、母は劉夫人)
* 安陽公主(荀彧の長子・[[荀惲]]の妻)
* 曹憲([[献帝 (漢)|献帝]]の貴人)
* [[献穆曹皇后|曹節]](献穆皇后、山陽公夫人)
* 曹華(献帝の貴人)
* [[金郷公主]]([[何晏]]夫人、母は杜夫人)
 
歴史学者であり、政府の要人でもあった[[郭沫若]]がこれに応えて1959年初めに曹操評価の論文を複数発表した。その中で「黄巾[[起義軍]]{{Refnest|group="注"|name="起義軍"|人民共和国のイデオロギーでは農民反乱を「起義軍」として高く評価する{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=15}}。 }}を鎮圧したが、その行動理念を継承して黄巾を青洲兵として組織化した。」「豪族を抑えて農民を保護した」「烏桓を討って辺境を安定させた。」「建安文学をおこした」などの評価を与えた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=15}}。これに対してそれから半年の間に140を超える賛否両論が出された。それらの主なものは翌1960年に『曹操論集』として出版された{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=15}}。
=== 従子・族子 ===
甥もしくは曹操より一世代下の親族
* [[曹安民]]
* [[曹休]]
* [[曹真]]
* [[夏侯楙]]
* [[夏侯覇]]
* [[夏侯威]]
* [[夏侯尚]]
 
現在では日本でも中国でも小説・漫画・ゲーム等々様々な媒体で曹操は理知的な英雄として描かれている{{Sfn|石井|2013|p=115-119|ps=kindle位置No}}。万能の天才・時代を超越した人物と陳寿の評に回り戻ってきたと言える{{Sfn|石井|2013|p=113-115|ps=kindle位置No}}{{Sfn|田中|2019|p=58}}。しかしこの現在の曹操像もまた先の時代の評価と同じく、時代の要求に沿った偏向が為されたものであることに留意が必要である{{Sfn|田中|2019|p=59}}。
=== 従兄弟 ===
 
いとこもしくは同世代の親族
== 陵墓 ==
* [[夏侯惇]]
{{seealso|西高穴2号墓}}
* [[夏侯淵]]
曹操の埋葬地は長年不明であったが、1998年に中国[[河南省]][[安陽市]][[安陽県]]安豊郷西高穴村で発見された[[後趙]]時代の武人の墓誌から、同村付近にあると推定され、2005年に発見された同地の大型古陵が墓誌に記された方位と『[[元和郡県志|元和郡県図誌]]』と合致することから、曹操の陵墓とみなして発掘調査を進めた<ref>[[明報]]「[https://web.archive.org/web/20091231165640/http://hk.news.yahoo.com/article/091227/4/fuag.html 主張喪葬從簡 墓穴發掘不易]」2009年12月28日</ref>。
* [[曹洪]]
 
* [[曹仁]]
この結果、約740平方メートルの面積の陵墓から、曹操を示す「魏武王」と刻まれた石牌など200点以上の埋葬品や60代前後の男性の遺骨と女性2人の頭部や足の遺骨が発見され、中国河南省文物局が曹操の陵墓であるということを[[2009年]][[12月27日]]に発表<ref>中国河南省文物局「[https://web.archive.org/web/20100218031046/http://www.haww.gov.cn/html/20091227/153670.html 曹操高陵在河南得到考古確認]」2009年12月27日</ref><ref>[[共同通信]]「[https://web.archive.org/web/20091231004701/http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009122701000388.html 「三国志」曹操の陵墓発見 中国河南省、遺骨も出土]」2009年12月27日</ref><ref>AFPBB News「[https://www.afpbb.com/articles/-/2678344?pid=5096081 「三国志」曹操の陵墓を発見、中国河南省「魏武王」の文字]」2009年12月28日</ref>、[[中国社会科学院]]など他の研究機関も曹操高陵の可能性が高いとした<ref>[[北京の報道メディアの一覧|光明日報]]「[https://web.archive.org/web/20100117212740/http://www.sach.gov.cn:8080/www.sach.gov.cn/tabid/116/InfoID/22652/Default.aspx 中國社會科學院等方面專家基本認定:西高穴大墓是曹操的陵墓]」2009年12月28日</ref>。2018年3月には河南省文物考古研究院によりこの陵墓が曹操のものであるとほぼ断定されており、改めて60代前後の男性の遺骨も曹操のもので間違いないと報じられている<ref>{{Cite news|url=http://news.ltn.com.tw/news/world/breakingnews/2377316|title=曹操遺骸大發現?考古團隊急發文:只是研究整理...|agency=[[自由時報]]|date=2018-03-26|accessdate=2018-03-28}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://hongkong-bs.com/topics/20180327/|title=三国志 曹操(そうそう)の遺骨と断定|agency=香港BS|date=2018-03-27|accessdate=2018-03-28}}</ref>。
* [[曹純]]
 
== 余談 ==
=== 子孫 ===
2009年に曹操の陵墓が発見されたが、その真偽を確かめるために、[[復旦大学]]では、被葬者の男性のDNAと全国の[[曹氏|曹姓]]の男性のDNAを照合することになった。漢民族では姓は[[男系]]で継承されるため曹姓の男性は曹操の[[Y染色体]]を継承していると考えられるためである<ref>{{Cite web|和書|date=2013-11-13|url=https://usfl.com/news/30805|title=遺骨のDNA鑑定を計画 曹操の陵墓真偽解明で|publisher=U.S. FrontLine - フロントライン|accessdate=2023-01-03}}</ref>。
 
復旦大学は中国全国の「曹」姓の家系258系統を調査。「曹操の子孫」の可能性がある8族についてさらに[[系統DNA検査]]を実施した。その結果6系統を「曹操の子孫」と断定した<ref>{{Cite news|title=曹操の子孫が集合、互いに「探り合い」でぎこちなく=中国 - ライブドアニュース|url=https://news.livedoor.com/article/detail/8288595/|date=2013-11-26|accessdate=2018-04-02|work=ライブドアニュース}}</ref>。
 
[[曹髦]]の66代目の子孫、曹操から数えて70代目の直系子孫にあたると伝えられている[[曹祖義]]が遼寧省東港市に住んでいる。最近発見された曹操の墓の真偽の判定を下すため、その他の曹姓の男性と共に復旦大学でDNA鑑定を受けた。検査の結果曹祖義は子孫とされる中で最も曹操の直系に近いとされた。
 
また、これまで曹操の血縁上の繋がりがあるとされてきた夏侯氏の子孫のDNA鑑定を行ったところ、曹氏と夏侯氏の血縁関係は認められなかった。
 
一方、曹操の墓の発見を受けて曹操の子孫を名乗る人々も現れている。なかには司馬氏の迫害を逃れるために「操」姓に改姓したという「操氏」の人々もいる<ref>{{Cite web|和書|url=https://media.yucasee.jp/2387/ |title=曹操の墓発見で“自称子孫”が次々現る |website=ゆかしメディア |date=2010-01-07 |accessdate=2023-01-03}}</ref>。
 
== 逸話 ==
* [[献帝 (漢)|献帝]]の[[初平]]年間(190年 - 193年)ごろに、[[長沙郡]](現在の[[湖南省]][[長沙市]])の人である桓という男が亡くなった。ところが棺に収めてから1か月余り経ってから、母親が棺の中で声がするのを聞きつけ、蓋を開けて出してやると、そのまま生きかえった。占いによると、「陰の極致が陽に変ると、下の者が上に立つ」ということである。その後果たして曹公(曹操)が平役人の中から頭角を現して来たのである{{sfn|干|1992|p=166}}。
* 魏武帝(曹操)が洛陽に建始殿を建てたとき濯龍園の木を伐採していたところ血が流れでた。また梨の木を移植しようとして根を傷つけたところ血が流れ出た。武帝(曹操)はこれを縁起でもないと嫌な気持ちでいたがやがて病に臥しその月に亡くなってしまった。この年を武帝(曹操)の[[黄初]]元年としたのである{{sfn|干|1992|pp=143-144}}。
* [[董遇]]が曹操の征西に付き従ったとき、[[孟津]]から[[弘農王]]の墓を通る道を取ったことがあった。曹操は参詣してよいものかどうか迷い、振り返って側の者に尋ねたが、側近には答えられる者がなかった。董遇はそこで身分を超えて進み出で、申し述べた「『春秋』の道理では、国君が即位して年を越さずに亡くなった場合は君主としての資格が不充分であるとしております。弘農王は位に就かれてから日が浅かった上、暴臣(董卓)に自由を奪われ、降等して藩国におられました。参詣すべきではありません。」曹操は参詣せずに通り過ぎた<ref>「王朗伝」が引く『魏略』</ref>。
* 『[[英雄記]]』には曹操が作った「董卓の歌」を載録している。その辞には、「徳行が欠けることがなくても、変事が起こって平常を保つことは難しい。鄭康成([[鄭玄]])は酒盛りのうちに、地面に伏して息絶え、郭景図([[郭図]])は桑畑で命を終わった」とある。この叙述の通りであれば、鄭玄は病気でもないのに死去したことになる。
* [[明]]代の[[張溥]]が著した過去の人物の史書などに記載された詩文をまとめた『{{日本語版にない記事リンク|漢魏六朝百三家集|zh|漢魏六朝百三家集}}』のうち、曹操について記載された『魏武帝集』には曹操が[[諸葛亮]]に対して、当時口臭予防に用いられた[[チョウジ|鶏舌香]]を五斤送って気持ちを表したとの記述がある<ref>{{Cite wikisource|title=魏武帝集#○與諸葛亮書|author=魏武帝集 巻三|wslanguage=zh}} - 今奉雞舌香五斤,以表微意。</ref>。
* 曹操が行軍中に兵が喉が渇いていて遅々と進まなかった。曹操は「前方に梅林がある」と言うと、兵士たちは[[梅]]と聞いて唾液が湧き、おかげで水源にたどりついた(望梅止渇)<ref>{{Cite web|url=https://japanese.cri.cn/941/2012/09/10/161s198041.htm|title=曹操にまつわる梅の話|website=中国国際放送局|publisher=|date=2025-03-04|accessdate=2025-03-04}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.rekishijin.com/12689|title=曹操の「スゴすぎる機転」 飲み水がなく苦しむ兵士たちにかけた言葉とは?|website=歴史人|publisher=|date=2021-06-21|accessdate=2025-03-04}}</ref>。
* 『世説新語』には「曹操が匈奴の使者と引見する時に、代わりに[[崔琰]]を影武者にして、自身は従者として使者に会った。その後、匈奴の使者は「曹操よりもその従者こそが英雄です」と応えたので、その使者を恐れて殺した{{Sfn|堀|2001|p=21}}。
 
=== 諺 ===
{{Wiktionary|說曹操曹操就到|说曹操曹操就到}}
; 曹操の話をすると曹操が現れる(説曹操,曹操到)。
: 講談などで、曹操打倒の陰謀を図ると露見してしまうことから、日本の「[[wikt:噂をすれば影がさす|噂をすれば影が差す]]」と同じ意味で使用される。
:
; 曹操が呂布を殺す(曹操殺呂布)。
: 後悔するの意味。
 
== 家族 ==
=== 父母 ===
*[[曹嵩]]
*丁氏
 
=== 弟 ===
#[[曹徳]]{{efn2|『後漢書』曹騰伝は「[[曹疾]]」と作る。また[[夏侯衡]]は曹操の弟である[[海陽哀侯]]の娘を娶っているが、海陽哀侯が誰を指しているかは不明。}}
#[[曹嵩#子|曹彬]](薊恭公)
#[[曹玉]](朗陵哀侯)
 
=== 妻子 ===
*正室:[[丁夫人]]
*継室:卞王后(贈[[武宣皇后卞氏|武宣皇后]])
**三男:文帝 [[曹丕]](子桓)- 初代皇帝
**四男:任城威王 [[曹彰]](子文)
**五男:陳思王 [[曹植]](子建)
**男子:蕭懐王 [[曹熊]] - 早世
*側室:[[劉夫人 (曹操)|劉夫人]]
**長男:豊愍王 [[曹昂]](子脩)
**次男:相殤王 [[曹鑠]] - 早世
**長女:[[清河長公主|清河公主]]
*側室:[[杜氏 (三国時代)|杜夫人]](沛王太妃)- 元[[秦宜禄]]の妻
**男子:沛穆王 [[曹林]]
**男子:中山恭王 [[曹袞]]
**女子:金郷公主 - [[何晏]]夫人
**女子:高城公主{{efn2|『文選』陸機「弔魏武文」の[[李善 (唐)|李善]]注が引く『魏略』に見られる。}} - 金郷公主との同一人物説がある
*側室:環夫人(環太妃)
**男子:鄧哀王 [[曹沖]](倉舒)
**男子:彭城王 [[曹拠]]
**男子:燕王 [[曹宇]](彭祖)- 第5代皇帝[[曹奐|元帝]]の父
*側室:秦夫人
**男子:済陽懐王 [[曹玹]] - 早世
**男子:陳留恭王 [[曹峻]](子安)
*側室:尹夫人 - 元[[何進]]の子の妻
**男子:范陽閔王 [[曹矩]] - 早世
*側室:[[王昭儀 (曹操)|王昭儀]]
*側室:孫姫
**男子:臨邑殤公 [[曹上]] - 早世
**男子:楚王 [[曹彪]](朱虎)
**男子:剛殤公 [[曹勤]] - 早世
*側室:李姫
**男子:穀城殤公 [[曹乗]] - 早世
**男子:郿戴公 [[曹整]]
**男子:霊殤公 [[曹京]] - 早世
*側室:周姫
**男子:樊安公 [[曹均]]
*側室:劉姫
**男子:広宗殤公 [[曹棘]] - 早世
*側室:宋姫
**男子:東平霊王 [[曹徽]]
*側室:趙姫
**男子:楽陵王 [[曹茂]]
*側室:陳姫
**男子:趙王 [[曹幹]]
*側室:[[張済 (後漢の武将) #妻について|某氏]]{{efn2|『三国志』では、彼女の姓氏には触れない。『三国志演義』では鄒氏と呼ばれる}} - 元[[張済 (後漢の武将)|張済]]の妻
*生母不詳の子女
**女子(一説に長女):曹憲 - [[献帝 (漢)|献帝]]貴人
**女子(一説に次女):[[献穆曹皇后|曹節]](献穆皇后)
**女子:曹華 - 献帝貴人
**女子:安陽公主 - [[荀惲]]夫人
*養子
**[[何晏]](連れ子)
**[[秦朗]](連れ子)
**[[曹真]](従子とも)
 
== 脚注 ==
{{reflist脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author1=[[窪添慶文]]|author2=[[關尾史郎]]|author3=[[中村圭爾]]|author=[[愛宕元]]|author5=[[金子修一]] |editor=[[池田温]] |title=中国史 三国〜唐 |year=1996 |publisher=[[山川出版社]] |___location= |series=世界歴史大系 |volume=2 |edition=初版 |isbn=4634461609 |ref={{SfnRef|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996}} }}
* {{Cite book|和書|author=[[金文京]]|year=2005 |title=中国の歴史4 三国志の世界 | publisher=[[講談社]] |edition= |series= |isbn=4062740540 |ref={{SfnRef|金|2005}} }}
** {{Cite book|和書|author=金文京|year=2020 |title=中国の歴史4 三国志の世界 |publisher=[[講談社]]|series=講談社学術文庫|isbn=978-4065215685|ref={{SfnRef|金|2020}} }}
* {{Cite book|和書|author=[[石井仁]]|title=曹操 魏の武帝 |year=2000 |publisher=[[新人物往来社]] |isbn=978-4404028464 |ref={{sfnref|石井|2000}} }}
** {{Cite book|和書|author= |title=魏の武帝 曹操 文庫版 |year=2010 |publisher=新人物往来社 |isbn=978-4404038944 |ref={{sfnref|石井|2010}} }}
** {{Cite book|和書|author= |title=魏の武帝 曹操 Kindle版 |year=2013 |publisher=[[新人物往来社]] |isbn= |ref={{sfnref|石井|2013}} }}
* {{Cite book|和書|author=[[堀敏一]]|title=曹操―三国志の真の主人公 |year=2001 |publisher=[[刀水書房]] |isbn=978-4887082830 |ref={{sfnref|堀|2001}} }}
* {{Cite book|和書|author=堀敏一他 |title=世界歴史 5 |year=1970 |publisher=[[岩波書店]] |___location= |series=岩波講座 |volume= |edition= |isbn= |ref={{SfnRef|岩波講座|1970}} }}
** {{Citation|和書|author=[[好並隆司]]|contribution=曹操政権論 |title=岩波世界史講座 |ref={{SfnRef|好並|1970}} }}
* {{Cite book|和書|editor=三国志学会 |year=2019 |title=曹操: 奸雄に秘められた「時代の変革者」の実像 | publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4634151536 |ref= }}
** {{Citation|和書|author=[[田中靖彦]]|contribution=後世、人物像はどう評価されてきたのか? |title=曹操: 奸雄に秘められた「時代の変革者」の実像 |ref={{SfnRef|田中|2019}} }}
** {{Citation|和書|author=[[高橋康浩]]|contribution=人材登用にどんな特徴があるのか? |title=曹操: 奸雄に秘められた「時代の変革者」の実像 |ref={{SfnRef|高橋|2019}} }}
* {{Cite book|和書|author=[[干宝]]|others=[[竹田晃]] 訳 |title=捜神記 |year=1992 |month=1 |edition=初版 |publisher=[[平凡社]] |isbn=978-4-5827-6322-5 |ref={{sfnref|干|1992}} }}
 
== 関連書籍 ==
* [[竹田晃]]『曹操 三国志の奸雄』([[講談社学術文庫]]、1996年)
* 石井仁[[中村愿]]三国志曹操 魏の武帝』([[新人物往来社]]20002007年)
* 中村愿『[[川合康国志]]『曹操 矛を横たえて詩を賦す』(新人物往来中国の英傑4:[[集英]]、1986年/[[ちくま文庫]]20072009年)
* [[堀敏一]]中島悟史『曹操 三国志註解 孫子真の主人公兵法』(刀水歴史全書57:[[刀水書房朝日新聞出版|朝日文庫]] 2001、2004年、新版2014年)
* [[合康三幸次郎]]『曹操 矛を横たえて詩を賦す三国志実録』(中国の英傑4:[[集英社]]筑摩書房19861962年/[[ちくま学芸文庫]] 2009、1997年)
* [[渡邉義浩]]『はじめての三国志 時代の変革者・曹操から読みとく』([[ちくまプリマー新書]]、2019年)
* 中島悟史『曹操註解 孫子の兵法』([[朝日新聞出版|朝日文庫]]、2004年)
* [[川勝義雄合康三]]編訳魏晋南北朝曹操・曹丕・曹植詩文選』(講談社学術[[岩波文庫]]20032022年)
* [[好並隆司]]『[https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I662454 曹操論集--曹操論争よりみた中国「中世」史の理論] 』(東洋学報 : 東洋文庫和文紀要 / 東洋文庫 編、1960年)
* 渡邉義浩訳『魏武注 [[孫子]]』(講談社学術文庫、2023年)
 
== 曹操を主題とした作品 ==
{{Dl2
| 小説 |
*[[陳舜臣]]『曹操 <small>魏の曹一族</small>』(1998年、中央公論社)
*[[塚本青史]]『三国志曹操伝』(2008年、光栄)
| 映画 |
*『[[三国志外伝 曹操と華佗]]』(別邦題:『三国志外伝』、1984年、中国、主演:[[王洪生]])
*『[[赤壁の戦い -英傑 曹操-]]』(別邦題:『三国志 曹操伝』、1999年、台湾、主演:[[柯俊雄]])
*『[[曹操暗殺 三国志外伝]]』(2012年、中国、主演:[[チョウ・ユンファ]])
*『[[三国志 黄巾の乱]]』(2017年、中国、主演:[[王峥|ワン・チェン]])
| テレビドラマ |
*『[[曹操 (1999年のテレビドラマ)|曹操]]』(別邦題:『三国志 曹操』、1999年、中国、主演:{{仮リンク|姚櫓|zh|姚橹}})
*『[[曹操 (テレビドラマ)|曹操]]』(2012年、中国、主演:{{仮リンク|趙立新|zh|赵立新|label=趙立新(チャオ・リーシン)}})
| 漫画 |
*『[[蒼天航路]]』(1994年-2005年、原作・原案:[[李學仁]]、作画:[[王欣太]]、講談社)
| コンピュータゲーム |
*『[[三國志曹操伝]]』(1998年、[[コーエー]](現:[[コーエーテクモゲームス]])
}}
 
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Cao CaoCao_Cao|Cao_Cao}}
{{wikisourcelang|zh|三國志/卷01|三國志  魏書  武帝紀}}
{{wikisourcelang|zh|作者:曹操|曹操の作品}}
* [[三国志演義の成立史]]
* 『[[孫子 (書物)|孫子]]』 - 曹操が注釈を付した(訳書は上記)
* [[箱入り娘 (パズル)|箱入り娘]] - 中国では「[[:zh:華容道 (遊戲)|華容道]]」といい、「娘」にあたる板は「曹操」である。
 
{{三国志立伝人物}}
* 『[[孫子 (書物)|孫子]]』:曹操が注釈を付した。
{{Normdaten}}
* [[箱入り娘 (パズル)|箱入り娘]]:中国では「華容道」といい「娘」にあたる板は「曹操」である。
{{Portal bar|中国|歴史|軍事|文学|人物伝}}
 
== 外部リンク ==
* [http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/koten/sonshi/gibu.htm 『魏武帝註孫子』原文]
* [http://www.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/sousou.html 曹操の宗教と思想]
* [http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/so_so/alcohol.html 『九蒕酒法』原文]
 
{{先代次代|[[後漢]]の[[後漢の諸侯王一覧|魏王]]|初代:216年 - 220年|―|[[曹丕]]}}
 
{{DEFAULTSORT:そう そう}}
[[Category:曹操|*]]
[[Category:曹氏|そう]]
[[Category:霊帝期の人物]]
[[Category:中国曹操軍追尊君主人物|*]]
[[Category:三国志の登場人物]]
[[Category:時代詩人追尊皇帝|魏 そう]]
[[Category:中国の軍学者]]
[[Category:亳州出身の人物]]
[[Category:2世紀中国の詩人]]
[[Category:3世紀中国の詩人]]
[[Category:2世紀中国の軍人]]
[[Category:3世紀中国の軍人]]
[[Category:2世紀中国の学者]]
[[Category:3世紀中国の学者]]
[[Category:中国の将軍]]
[[Category:2世紀アジアの政治家]]
[[Category:3世紀アジアの政治家]]
[[Category:155年生]]
[[Category:220年没]]
 
{{Link FA|de}}
 
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