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{{独自研究|date=2020年11月}}
'''生原 昭宏'''(いくはら あきひろ、通称'''アイク生原'''[[1937年]][[1月20日]] - [[1992年]][[10月26日]])は、[[日本]]の野球関係者。日米間の野球交流発展に尽力した。
{{Infobox baseball player
|選手名 = 生原 昭宏
|英語表記 =
|所属球団 =
|役職 =
|背番号 =
|国籍 = {{JPN}}
|出身地 = [[福岡県]][[田川郡]][[香春町]]
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1937|01|20|no}}
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1937|01|20|1992|10|26}}
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* [[福岡県立田川高等学校]]
* [[早稲田大学野球部|早稲田大学]]
* [[リッカー硬式野球部|リッカーミシン]]
|経歴補足題 = 監督・コーチ歴
|経歴補足 =
* [[亜細亜大学硬式野球部|亜細亜大学]]
|選出国 = 日本
|選出年 = [[2002年]]
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}}
 
'''生原 昭宏'''(いくはら あきひろ、通称'''アイク生原'''[[1937年]][[1月20日]] - [[1992年]][[10月26日]])は、[[日本]]の[[野球]]関係者。日米間の{{R|野球交流発展に尽力した殿堂博物館}}。[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]球団職員
 
日米間の野球交流発展に尽力し{{R|中日新聞1992-10-27}}、親身になって野球留学生を世話するなどして、[[山本昌]]などを初め<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/baseball/2022/01/15/0014986336.shtml|title=山本昌氏 野球殿堂入り 星野氏、アイク氏に捧ぐ栄誉「たくさんの人に支えられた」|newspaper=デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ|date=2022-01-15|accessdate=2023-01-24}}</ref>、多くの野球人に慕われた{{R|野球殿堂博物館}}。
 
[[福岡県]][[田川郡]][[香春町]]出身<ref name=朝日新聞1997-04-07>『[[朝日新聞]]』1997年4月7日西部夕刊第一社会面7頁「赤鬼監督(偏西風)」([[朝日新聞西部本社]] [[行橋市|行橋]]支局長:有馬護宏)</ref>。'''アイク生原'''の愛称・通称で知られる。
 
== 来歴・人物 ==
[[福岡県]][[香春町]]出身。[[福岡県立田川高等学校|福岡県立田川高校]]から[[早稲田大学野球部|早稲田大学]]へ進学し{{R|中日新聞1992-10-27}}、[[早稲田大学野球部|野球部]]選手として活躍。卒業後{{by|1959年}}に指導者の道を歩み[[亜細亜大学リッカー硬式野球部|亜大野球部リッカーミシン]]監督25歳の若さ入社して社会人野球就任活躍ているその後[[1965{{by|1961]]、}}には[[ロサンゼルス・ドジャース亜細亜大学硬式野球部]]監督(当時は[[ウォルター・オマ東都大学野球連盟|東都大学リー]]オーナーと親交のあった[[鈴木惣太郎]]の紹介3部)より渡米。ドジャース傘下のマイナーチームの用具係からたたき上げでドジャースの職員となり、いつ就任か苗字か名前か不明であるが冒頭の{{R|中日新聞1992-10-27}}、{{by|1964年}}秋には同分(おそらく'''A.IK'''uharaから)取って'''アイク'''の愛称で呼ばれるよう1部昇格させなど、アマチュア野球指導者として活動していた{{R|朝日新聞1997-04-07}}。
 
自身の指導法に疑問を抱き{{R|中日新聞2015-11-01}}、野球を探求するため、{{by|1965年}}3月に当時[[読売ジャイアンツ]]の顧問を務めていた[[鈴木惣太郎]]{{Efn2|鈴木は昭和初期からアメリカとの交流に努めており、生原にドジャースのオーナーであった[[ウォルター・オマリー]]を紹介した<ref name=朝日新聞2006-01-24>『朝日新聞』2006年1月24日東京夕刊第一総合面1頁「(ニッポン人脈記)野球、海を渡る:2 メジャー結ぶ「陰の立役者」」([[朝日新聞東京本社]] 記者:安藤嘉浩)</ref>。}}の紹介で[[アメリカ合衆国]]へ渡り、[[ウォルター・オマリー]]会長の指示を受けて[[ロサンゼルス・ドジャース]]傘下の[[マイナーリーグ|マイナーチーム]]である[[:w:Spokane Indians|スポケーン・インディアンス]]で用具係になった{{Efn2|当時は2年間の自費留学の予定だったが、27年間にわたって働いた{{R|東京新聞2013-05-29}}。}}{{R|朝日新聞2006-01-24}}。
その後ウォルターの息子である[[ピーター・オマリー]]がオーナーに就任すると、生原は[[1982年]]からドジャース球団のオーナー補佐兼国際担当として、[[読売ジャイアンツ|巨人]]や[[中日ドラゴンズ|中日]]の[[ベロビーチ]]キャンプ実現の便宜を図ったり、日本のプロ球団から送られてくる野球留学生の面倒を見るなど、アメリカにおける日本人選手の父親的存在として知られていた。1992年10月26日死去。[[享年]]55。
 
渡米当初は[[英語]]が話せず、時には[[人種差別]]を受けることもあったが、靴磨きや洗濯を黙々とこなし{{R|東京新聞2013-05-29}}、ドジャースでメジャー組織と球団経営を学んだ{{R|中日新聞1992-10-27}}。やがてチームから信頼を得るとともに、早大の先輩である[[広岡達朗]]ら多くの日本人から頼られるようになり{{R|朝日新聞2006-01-24}}、鈴木からは「いくはら」の姓とアイゼンハワー元大統領の愛称にちなみ「アイク」と呼ばれるようになった<ref name=東京新聞2013-05-29>『[[東京新聞]]』2013年5月29日朝刊特報第二面23頁「アイク生原氏の評伝連載 故郷・福岡 「日米野球交流を教材に」 ドジャース会長補佐 五輪採用に奔走」([[中日新聞東京本社]])</ref>。生原の没後、[[国際野球連盟]] (IBA) 会長のロバート・E・スミスは「[[オリンピックの野球競技|野球]]の[[オリンピック競技|オリンピック正式競技]]採用にアイクが果たした役割は大きい」と述べている{{R|中日新聞1993-03-17}}。
それを如実に表すエピソードとして、1992年に生原が亡くなった際に日本で行われた葬儀に参列した[[山本昌]](中日)は棺の前で泣き崩れ、同じく野球留学で生原の世話になった[[長嶋一茂]]([[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]、巨人)らに脇を抱えられなければ立ち上がれないほどだったという(山本曰く、「他の留学生と違い、自分は入団5年目でロサンゼルスに送られ、後がない状態だったのに、アイクさんが試合でリラックスするコツや、チェンジアップやスクリューを投げるタイミングを教えてくれたおかげで、自分は日本に戻って自信をもってプレーすることができたから、アイクさんから離れたくない思いが強かった」)。
 
{{by|1982年}}1月からは[[ピーター・オマリー]]会長の補佐(国際担当)として、日米間の交流に尽くし{{R|中日新聞1992-10-27}}、巨人{{Efn2|巨人は{{by|1961年}}の[[川上哲治]]監督時代に初めて[[フロリダ州]]ベロビーチのドジャー・タウンで海外キャンプを行い、その後も数度ベロビーチでキャンプを行っている。[[長嶋茂雄]](生原より1歳年上)が新[[プロ野球監督|監督]]に就任した{{by|1975年}}春にもベロビーチで春季キャンプを開催している{{R|朝日新聞2006-01-24}}。また、生原は後に現場を離れた[[長嶋亜希子|長嶋の妻]]に対し、「長嶋さんが監督に復帰したら、(巨人の)[[プロ野球コーチ|コーチ]]として迎えていただける。そのときこそドジャースを去る時だ」と語っていた{{R|朝日新聞2006-01-24}}。}}や[[中日ドラゴンズ]]{{Efn2|中日の[[星野仙一]]監督は{{by|1987年}}の沖縄キャンプで臨時コーチとして生原を招聘し、それ以降も生原をコーチとして招聘しようとしたが、「その度に『彼を独り占めしちゃいけない』と思いとどまったんだ」と回顧している{{R|朝日新聞2006-01-24}}。}}のベロビーチでの[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]を実現させたり、[[日米大学野球選手権大会|日米大学野球]]開催{{Efn2|早大時代の監督・[[石井連藏]]と[[南カリフォルニア大学]]監督のラウル・デドーを引き合わせて日米大学野球選手権の創設を実現した{{R|朝日新聞2006-01-24}}。}}など、[[日本のプロ野球|プロ]]・アマチュアを問わず日米野球交流に尽力した{{R|野球殿堂博物館}}。
現在ドジャースはオマリー家の家族経営から離れてしまったが、生原はロサンゼルス郊外にあるオマリー家代々の墓の隣にある墓で眠っている。日米の野球交流に多大な貢献をした功績が認められ、[[2002年]]、特別表彰にて[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入りした。
 
また、[[中華人民共和国|中国]]・[[ソビエト連邦]]など野球の国際的普及にも尽力した{{R|朝日新聞1997-04-07}}ほか、{{by|1983年}}には前年シーズン途中に右肘を痛めて選手生命の危機に立たされていた[[村田兆治]]([[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]])に[[整形外科]]医の[[フランク・ジョーブ]]博士を紹介<ref name=朝日新聞2006-01-30>『朝日新聞』2006年1月30日東京夕刊第一総合面1頁「(ニッポン人脈記)野球、海を渡る:6 復活を果たした「魔法の手」」(朝日新聞東京本社 記者:[[西村欣也]]・安藤嘉浩)</ref>。村田は同年8月24日に[[トミー・ジョン手術]]を受け、リハビリを経て復活した{{R|朝日新聞2006-01-30}}。
 
日本のプロ球団から送られてくる野球留学生{{Efn2|中日の選手では[[山本昌]]や[[山﨑武司]]が若手時代に生原の下で野球留学した<ref>『朝日新聞』2007年8月30日名古屋朝刊第一地方面31頁「(大リーグ道中記)マサも縁、アイク生原氏 /愛知県」([[朝日新聞名古屋本社]] ドラ番記者・坂名信行)</ref>。}}の面倒を見るなど、アメリカにおける日本人選手の父親的存在として知られていた。ウォルターの息子である[[ピーター・オマリー]](後のドジャース球団オーナー)とは長年行動をともにした<ref name=野球殿堂博物館>{{Cite web|和書|url=http://www.baseball-museum.or.jp/baseball_hallo/detail/detail_142.html|title=殿堂入りリスト 生原 昭宏(アイク生原) いくはら あきひろ|accessdate=2020-11-08|publisher=公益財団法人野球殿堂博物館|website=野球殿堂博物館|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200918230132/http://www.baseball-museum.or.jp/baseball_hallo/detail/detail_142.html|archivedate=2020-09-18}}</ref>。
 
{{by|1992年}}6月に[[長嶋一茂]]([[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]])を指導するために訪れた[[フロリダ州]]ベロビーチ([[インディアンリバー郡 (フロリダ州)|インディアンリバー郡]])で腹部に異常を訴えて入院し、同月18日に日本で手術を受けた{{R|中日新聞1992-10-27}}。7月16日にはアメリカに戻り、8月に再手術を受けたが、同年[[10月26日]]に病気療養中のセンチネラ病院で死去{{Efn2|死去当時は[[癌]]で入院中で、その11日前(10月15日)には親交のあった[[長嶋茂雄]]が翌{{by|1993年}}から巨人の監督に就任する旨を電話で生原の弟に報告していた{{R|朝日新聞2006-01-24}}。}}<ref name=中日新聞1992-10-27>『[[中日新聞]]』1992年10月27日朝刊社会面25頁「【ロサンゼルス26日[[共同通信社|共同]]】ドジャース会長補佐 中日ナインとも縁 アイク生原氏死去」([[中日新聞社]])</ref>({{没年齢|1937|1|20|1992|10|26}}/死因:[[胃癌]]{{R|中日新聞2015-11-01}})。
 
現在1998年にドジャースはオマリー家の家族経営から離れてしまったが、生原はロサンゼルス郊外にあるオマリー家代々の墓の隣にある墓で眠っている{{R|朝米の野球交流に多大な貢献をした功績が認められ、[[2002年]]、特別表彰にて[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入りした新聞2006-01-24}}
 
日米の野球交流に多大な貢献をした功績が認められ、1992年10月31日には[[日本野球機構]] から特別表彰を受けた<ref>『中日新聞』1992年11月1日朝刊第一運動面25頁「故アイク氏特別表彰 日本野球機構」(中日新聞社)</ref>。また、IBAは{{by|1993年}}に「アイク生原賞」{{Efn2|同賞は創設から10年間、少年を対象としてIBAが主催する3大会に参加した選手の中から最も優れた選手に贈呈された{{R|中日新聞1993-03-17}}。}}を創設した<ref name=中日新聞1993-03-17>『中日新聞』1993年3月17日朝刊第二運動面22頁「脱衣室」(中日新聞社)</ref>。
 
{{by|2002年}}、特別表彰にて[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入りした<ref>『中日新聞』2002年1月12日朝刊第二運動面26頁「8氏が野球殿堂に [[山内一弘]]氏 [[鈴木啓示]]氏 [[福本豊]]氏 [[田宮謙次郎]]氏 [[中澤不二雄|中沢不二雄]]氏 生原昭宏氏 [[正岡子規]] [[フランク・オドール]]氏」(中日新聞社)</ref>。
 
== エピソード ==
1988年、[[山本昌]]は半年間にわたり生原の下で野球留学したが、生原は山本に対し練習・試合・食事も一緒に献身的に指導していたため、山本が「いつ寝ているのか」と疑問に思うほどであった<ref name=中日新聞2015-11-01>『中日新聞』2015年11月1日朝刊言論面4頁「ニュースを問う 秦融(編集委員) 山本昌と恩師アイク生原氏 背中押し続けた言葉の力」</ref>。また、{{by|1990年}}1月(当時53歳)には[[オーストラリア]]・[[ゴールドコースト (クイーンズランド州)|ゴールドコースト]]で開かれた中日の自主トレーニングに臨時コーチとして参加していたが、その際にはパームメドウズ球場から宿舎のホテルまで十数[[キロメートル]] (km) の道のりを約1時間にわたり走って戻ったにも拘らず、全く息切れしておらず、選手やコーチたちが驚くほどだった<ref>『中日新聞』1990年1月27日朝刊第一運動面23頁「【ゴールドコースト(豪州)二十六日安藤特派員】中日豪州トレ 首脳陣ら現地入り 一枝コーチ満足げ お目付け参上で選手ピリッ 生原氏 さっそく指導」(中日新聞社)</ref>。
 
肉を1切れ食べれば野菜をボウル1個分は食べたというほど健康に気を遣う人物でもあった。
 
アイクが身体に異常を覚えた際に指導していた長嶋一茂は「日本では教師からも腫物を触るように扱われていた自分を長嶋茂雄の息子ではなく長嶋一茂個人として初めて扱って指導してくれた人物」として感謝の念を表明している。<ref>{{Cite web|和書|title=長嶋一茂 「とにかく厳しかった」恩師の死に目に会えず後悔「会えなかったのが今でも心残りで」(スポニチアネックス) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/26cc0b393feb81d852008ff6e7e51196cadcf00d |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-10-28 |language=ja}}</ref>
 
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Ikuhara01.jpg|ikuhara at the cemetery
Ikuhara02.jpg|ikuhara
Ikuhara03.jpg|ikuhara & omalley
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== 著書 ==
* 競争に生き残る男 : 最強プロ集団が教える大リーグの熾烈な闘いで何が相手に差をつけるか(1984年、[[主婦と生活社]]、ISBN 978-4391107562)
* ドジャーウェイ : アメリカ大リーグの経営戦略(1985年、[[エイデル研究所]]、ISBN 978-4871680332)
 
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
*ベースボール・マガジン社『133キロ怪速球』(山本昌、2009年) ISBN 978-4583101699 p.124-130
 
== 関連項目 ==
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* [[早稲田大学の人物一覧]]
 
{{野球殿堂表彰者 (日本)}}
{{DEFAULTSORT:いくはら あきひろ}}
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:いくはら あきひろ}}
[[Category:日本のアマチュア野球選手]]
[[Category:早稲田大学野球部の選手]]
[[Category:大学野球指導者]]
[[Category:日本の野球監督]]
[[Category:日本亜細亜大学野球殿堂人物]]
[[Category:ロサンゼルス・ドジャース関連人物]]
[[Category:野球に関する記事]]
[[Category:山本昌]]
[[Category:日本の野球殿堂表彰者]]
[[Category:在アメリカ合衆国日本人]]
[[Category:福岡県出身の人物]]
[[Category:胃癌で亡くなった人物]]
[[Category:1937年生]]
[[Category:1992年没]]