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{{Otheruses|七年戦争
{{Battlebox
|battle_name=プラハの戦い
|campaign=七年戦争▼
▲|image=[[画像:Schlacht von Prag.jpg|200px]]
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|conflict=[[七年戦争]]
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|place=現[[チェコ]]、[[プラハ]]城外
|result=プロイセンの勝利
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|combatant2={{flagicon2|Habsburg Monarchy}} [[ハプスブルク帝国|オーストリア]]
|commander1={{flagicon2|Prussia|1750}} [[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]
|commander2={{flagicon2|Habsburg Monarchy}} [[カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン]]<br />{{flagicon2|Habsburg Monarchy}} [[マクシミリアン・ユリシーズ・フォン・ブラウン]]
|strength1=64,000
|strength2=60,000
|casualties1=死傷 14,000
|casualties2=死傷 12,000<br />捕虜 5,000
'''プラハの戦い'''
== 背景 ==
前年に始まった七年戦争は、この年から各国ともに本格的な交戦に入った。プロイセンは先制攻撃の有利を得て、前年中に全[[ザクセン
オーストリア軍の総司令官は[[神聖ローマ皇帝|皇帝]][[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]の弟[[カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン|カール・アレクサンダー公子]]であった。その後見役である[[マクシミリアン・ユリシーズ・フォン・ブラウン]]は、[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]は必ずや攻勢を仕掛けてくるから、その前にこちらから攻め込んで主導権を握り、ベーメンではなくザクセンを戦場とすべきだと進言した。しかしカールはこれを用いなかった。
この春に大王が行った[[機動]]は、[[ナポレオン戦争|ナポレオニック]]な戦争のやり方の先行例として知られる。すなわち、大王はオーストリア軍が広く分散宿営していることを利用して、自軍では冬営を畳むと同時に、これを1
またしても先手を取られたオーストリア軍は、分散されたままの部隊を急遽退却させ、捕捉されないようにするのが精いっぱいで、プロイセン軍の進撃を阻止することができなかった。[[4月21日]]には[[ライヘンベルクの戦い]]で双方の軍団が交戦し、オーストリアが敗北した。
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== 戦闘 ==
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七年戦争において大王は敵片翼への集中攻撃を行うことが多く、今回もシュヴェリーンにオーストリア軍右翼への攻撃を命じた。これに対してシュヴェリーンは地形の
▲七年戦争において大王は敵片翼への集中攻撃を行うことが多く、今回もシュヴェリーンにオーストリア軍右翼への攻撃を命じた。これに対してシュヴェリーンは地形の[[偵察]]が必要と答え、[[ハンス・カール・フォン・ヴィンターフェルト]]がこれを行った結果、敵右翼前面には草地が広がっていて攻撃に適すと報告した。
こうしてプロイセン軍は攻撃に着手した。シュヴェリーンが主攻を担い、その左翼を[[ハンス・ヨアヒム・フォン・ツィーテン]]の[[騎兵|騎兵隊]]が援護したのだったが、実際にその場所に着いてみると、ヴィンターフェルトは丘の斜面しか見ておらず、地形の凹凸でそれが見えなかったのだが、オーストリア軍陣地の前に広がっていたのは草地どころか沼地で、オーストリア軍はその向こう側で丘に陣取って有利な位置を占めていた。
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ブラウンはプロイセン軍による右翼への攻撃に対し急いで部隊を移動させ、相対させた。結果として陣形はL字型になった。プロイセン軍は沼地を越えるまでにオーストリア軍の強力な砲撃を受け、丘を登ろうとしてオーストリア軍の猛射を浴びた。ヴィンターフェルトは撃たれて後送され、部隊には動揺が走って前進が止まった。シュヴェリーンは兵士たちを奮い立たせるために[[軍旗]]を掲げて最前列に立ち、再び前進させようとしたが、銃弾を受けて戦死した。オーストリア軍でもブラウンが撃たれて重傷を負い、プラハに送られた。
右翼のオーストリア軍はプロイセン軍の攻撃を防ぎ、反撃によって逆に圧迫しつつあった。しかし同時にその過程で、右翼と中央とのあいだに間隙を生じさせていた。大王は左翼部隊を立て直すとともに、第二戦列を投入してオーストリア軍を攻撃させた。ベーヴェルンや、[[フェルディナン
ついにオーストリア軍は崩れ、大部分がプラハ城内に逃げ込み、プラハに逃げられなかった残りの部隊は遠くの友軍目指して敗走した。
== 結果 ==
プロイセン軍は、カールと4万の軍隊をプラハに囲むこととなった。大王はカールに対して
オーストリア軍は1万7千の兵を失ったが、プロイセン軍も側面攻撃の失敗により1万4千を失った。したがって戦術的には小勝利といえる。しかし、戦略的にはその勝利は大きいものであった。オーストリア軍の主将のカールと主力たる4万もの軍隊を包囲下に置くことができたからである。そしてそれをもたらしたのは大王の優れた機動であった。もしこの軍団が降伏すれば、オーストリアの権威と戦力は決定的打撃を受け、[[ウィーン]]進軍も困難ではなくなったであろう<ref>クラウゼヴィッツ 著\岩田英雄 訳『戦争論』 下269頁。</ref>。
「
== 参考資料 ==
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* クラウゼヴィッツ 著\[[篠田英雄]]訳『戦争論』(岩波文庫、1968年)
* 林健太郎、堀米雇三 編『世界の戦史6 <small>ルイ十四世とフリードリヒ大王</small>』([[新人物往来社|人物往来社]]、1966年)
* [[伊藤政之助]]『世界戦争史6』(戦争史刊行会、1939年)
* 久保田正志『ハプスブルク家かく戦えり <small>ヨーロッパ軍事史の一断面</small>』([[錦正社]]、2001年)
* 有坂純 著「戦史分析 七年戦争」『歴史群像』N0.64 ([[学研ホールディングス|学習研究社]]、2008年)
* preussenweb [http://www.preussenweb.de/preussstart.htm]
== 脚注 ==
{{reflist}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふらはのたたかい}}
[[Category:七年戦争の戦闘]]
[[Category:プラハの歴史]]
[[Category:1757年の戦闘]]
[[Category:1757年のオーストリア]]
[[Category:ハプスブルク帝国の戦闘]]
[[Category:プロイセンの戦闘]]
[[Category:フリードリヒ2世 (プロイセン王)]]
[[Category:カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン]]
[[Category:クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン]]
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