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{{Infobox 人物
| name = ハロルド・エイドリアン・ラッセル<br>・「キム」・フィルビー
| image = Kim Philby 1955.jpg
| imagesize = 200px
| caption =
| birth_date = [[1912年]][[1月1日]]
| birth_place = {{IND1885}}、[[アンバーラー]]
| death_date = {{SSR}}<br />{{RUSSR}}、[[モスクワ]]
| death_place = {{死亡年月日と没年齢|1912|1|1|1988|5|11}}
| occupation = [[ジャーナリスト]]<br>[[イギリス情報局秘密情報部|MI6]]職員<br>[[内務人民委員部|NKVD]]協力者<br>[[ソ連国家保安委員会|KGB]]協力者
| salary =
| networth =
| spouse = アリス・「リッツィ」<br>アイリーン<br>メリンダ
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| footnotes =
}}
'''ハロルド・エイドリアン・ラッセル・「キム」・フィルビー'''(Harold Adrian Russell "Kim" Philby:[[1912年]][[1月1日]] - [[1988年]][[5月11日]])は、[[イギリス]][[秘密情報部]](MI6)職員で[[ソビエト連邦]][[情報機関]]([[内務人民委員部|NKVD]]、[[ソ連国家保安委員会|KGB]])の[[スパイ|工作員]]となった。
イギリスの[[上流階級]]出身者から成るソ連のスパイ網「[[ケンブリッジ・ファイヴ]]」の一人でその中心人物。[[秘密情報部|MI6]]の長官候補にも擬せられたが、[[二重スパイ]]であることが発覚しソ連に亡命した。
==生涯==
===生い立ち===
[[イギリス領インド帝国]][[パンジャーブ]]の[[アンバーラー]]で、植民地行政官の[[ジョン・フィルビー]]を父として生まれる<ref name = "macIntyre_p35">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、35頁</ref>。ジョンは後に[[サウジアラビア]]の建国にも関与した著名なアラブ学者となった<ref name = "macIntyre_p43">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、43頁</ref>。愛称の「キム」は、[[ラドヤード・キップリング]]の小説「少年キム」の主人公にちなんで父親が名付けた<ref name = "macIntyre_p53">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、53頁</ref>。厳格かつ奇矯な性格で家庭においては暴君だった父親との関係は、フィルビーの性格とスパイとしての活動に影響を与えることになる<ref name = "macIntyre_p56">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、56頁</ref>。
===
父と同様に、[[パブリックスクール]]の[[ウェストミンスター・スクール]]を経て[[1929年]]に[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に入学した<ref name = "macIntyre_p36">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、36頁</ref><ref name = "macIntyre_p55">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、55頁</ref>。当時のイギリスは大恐慌の影響で社会矛盾が露呈し、ヨーロッパにおいては[[ファシズム]]が勃興していた<ref name = "macIntyre_p56"/>。
1930年代のケンブリッジにおいては、反ファシズムに加え[[共産主義]]思想に惹かれ共産党に入党する学生が多かった<ref name = "macIntyre_p56"/>。フィルビーはここで後にスパイ仲間となる[[ガイ・バージェス]]、[[ドナルド・マクリーン]]らと知り合っている<ref name = "macIntyre_p56-57">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、56-57頁</ref>。フィルビーは大学の[[社会主義]]協会に所属し、[[労働党 (イギリス)|労働党]]の選挙運動を手伝った<ref name = "macIntyre_p57">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、57頁</ref>。1933年には[[ドイツ]]を訪れ、[[ナチス]]による[[反ユダヤ主義]]政策を目の当たりにしてショックを受けた<ref name = "macIntyre_p57"/>。
帰国後[[マルクス主義]][[経済学者]]の[[モーリス・ドッブ]]に紹介される形で語学留学の名目で[[ウィーン]]に赴き、[[ドイツ共産党]]の[[ヴィリ・ミュンツェンベルク|ミュンツェンベルグ]]を中心としたナチスからの[[亡命|亡命者]]支援組織に関わる<ref name = "macIntyre_p57-58">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、57-58頁</ref>。ウィーンでは紹介されたユダヤ人家庭の娘アリス・「リッツィ」・コールマンと交際を始め、[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]のみならず[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー]]でも共産党の地下活動に従事した<ref name = "macIntyre_p58-59">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、58-59頁</ref>。だがリッツィに逮捕状が出たのを機に、1934年2月に彼女と結婚しイギリスへと帰国した<ref name = "macIntyre_p59">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、59頁</ref>。
ロンドンにおいてリッツィを通して[[アルノルド・デイチ|アルノルト・ドイッチュ]]に紹介された<ref name = "macIntyre_p60-61">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、60-61頁</ref>。[[チェコ]]出身のユダヤ人で当時[[ロンドン大学]]大学院に籍を置いていたドイッチュは、[[NKVD]]のスパイ徴募係であった<ref name = "macIntyre_p60-61"/>。ドイッチュから勧誘されたフィルビーは迷うことなくスパイとなることを承諾した<ref name = "macIntyre_p63">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、63頁</ref>。NKVDは中東における著名人であるフィルビーの父親がイギリスの情報部員であると疑っており、フィルビーはテストとして父親の書斎から最も重要と思われる書類を写真に撮るよう求められ、これを実行した<ref name = "macIntyre_p65">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、65頁</ref>。ドイチュはフィルビーが両親とその階級に心からの軽蔑と憎しみを示していると報告している<ref name = "macIntyre_p65"/>。リッツィとはこの頃別居した<ref name = "macIntyre_p67">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、67頁</ref>。
===ジャーナリスト時代===
ドイッチュの指示でフィルビーはひとまずジャーナリズムに就職することを決めた<ref name = "macIntyre_p66">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、66頁</ref>。いくつかの雑誌を渡り歩くとともに、カムフラージュとしてイギリスにおけるファシスト組織であった英独友好協会へ加入した<ref name = "macIntyre_p66-67">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、66-67頁</ref>。協会の代表としてドイツを訪問し、[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]にも面会している<ref name = "macIntyre_p67">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、67頁</ref>。共産主義シンパである友人の中には、フィルビーの思想転向に怒り絶交するものもいた<ref name = "macIntyre_p67"/>。
フィルビーは[[外務省]]に入省していたマクリーンをスパイ網に引き入れた<ref name = "macIntyre_p68">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、68頁</ref>。バージェスの方は性格的に不安定で採用を躊躇したが、これを察したバージェスは強引に認めさせた<ref name = "macIntyre_p68"/>。バージェスはさらに[[美術史]]家の[[アンソニー・ブラント]]をスカウトした<ref name = "macIntyre_p69">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、69頁</ref>。
1936年に[[スペイン内戦]]が勃発すると、[[フランシスコ・フランコ]]が率いるナショナリスト陣営の情報を集めるよう指示を受けた<ref name = "macIntyre_p69-70">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、69-70頁</ref>。資金を用意されたフィルビーはフリーランスの記者としてスペインへと向かった<ref name = "macIntyre_p69-70"/>。フランコ軍に同行しスパイ活動に従事するとともに、イギリスの新聞へ記事を書き送った<ref name = "macIntyre_p69-70"/>。後に父親のコネを用いて[[タイムズ]]紙の特派員に任命された<ref name = "macIntyre_p69-70"/>。NKVDではフィルビーにフランコを暗殺させる計画を立てたが、フィルビーとその管理官はこれを実現不可能だとして拒否している<ref name = "macIntyre_p69">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、69頁</ref>。1937年の大晦日に[[テルエルの戦い]]を取材中のフィルビーは、共和国軍の砲撃を受けて九死に一生を得た<ref name = "macIntyre_p72">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、72頁</ref>。フランコからは直接勲章を授与され、さらにこのニュースによってジャーナリストとして名を知られるようになった<ref name = "macIntyre_p72"/>。
===MI6入局===
スペイン内戦がフランコの勝利で終結すると、フィルビーはロンドンへと戻った<ref name = "macIntyre_p72"/>。当時ソ連では[[ヨシフ・スターリン]]による[[大粛清]]の最中であり、NKVDもその対象となった<ref name = "macIntyre_p72"/>。フィルビーのロンドンにおける管理官はソ連へと呼び戻され、ドイツの二重スパイだと糾弾され殺害された<ref name = "macIntyre_p72-73">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、72-73頁</ref>。パリにおける管理官とその後任も「人民の敵」として処刑された<ref name = "macIntyre_p72-73"/>。個人的にも友人であったこれらの諜報機関職員の処刑によってもフィルビーの共産主義に対する信念は揺るがなかったが、1939年に[[独ソ不可侵条約]]が締結されたことはフィルビーを動揺させた<ref name = "macIntyre_p73-74">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、73-74頁</ref>。この時期ソ連諜報機関からの接触が一時的に途絶えた<ref name = "macIntyre_p74">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、74頁</ref>。
当時のイギリスの外務省や情報機関は、上流階級出身者同士の個人的関係を元に徴募、運営されている排他的な組織であった。NKVDの指示によりアンソニー・ブラントはMI5へ、ガイ・バージェスはMI6へ加わった<ref name = "macIntyre_p74"/>。
[[1939年]]9月に[[第二次世界大戦]]が勃発した。フィルビーは1940年春に[[イギリス海外派遣軍]]に同行する特派員に選ばれ[[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]]から記事を執筆した<ref name = "macIntyre_p75">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、75頁</ref><ref name = "macIntyre_p31">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、31頁</ref>。1940年に[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]により戦線が突破されると、フィルビーはドイツ軍が到着しつつある[[アミアン]]から船で脱出した<ref name = "macIntyre_p31"/>。ロンドンへ向かう列車の車内で[[サンデー・エクスプレス]]紙の記者である女性記者と同室になった<ref name = "macIntyre_p32-33">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、32-33頁</ref>。情報機関に関係する彼女に諜報活動への興味を伝えると、MI6の採用担当者から連絡を受け、既にMI6に入局していたガイ・バージェスの立会もあり面接後ただちに採用された<ref name = "macIntyre_p32-33"/>。身元証明は当時MI6の副長官で父の知己であったヴァレンタイン・ヴィヴィアンが行った<ref name = "macIntyre_p33-34">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、33-34頁</ref>。スパイ養成学校に送られた後、[[特殊作戦執行部]](SOE)においてプロパガンタに関する授業で教鞭をとった<ref name = "macIntyre_p33-34"/>。同僚として知り合い親友となったニコラス・エリオットは、フィルビーは「素朴な愛国心を持つ魅力に富んだ人物」で「政治的動物のようにはまったく見えなかった」と後に述べている<ref name = "macIntyre_p36-37">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、36-37頁</ref>。同様に、後に著名な歴史学者となる[[ヒュー・トレヴァー=ローパー]]は、フィルビーを知的に洗練された非凡な人物だったと評価している<ref name = "macIntyre_p36-37"/>。フィルビーはエリオットを通してMI5、MI6の若手職員の集まりに顔を出すようになった<ref name = "macIntyre_p38-39">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、38-39頁</ref>。ガイ・バージェスやアンソニー・ブラント、[[ヴィクター・ロスチャイルド]]、[[ガイ・リデル]]もその常連だった<ref name = "macIntyre_p38-39"/>。
フィルビーはMI6内における重要部局であるセクションVに配属された<ref name = "macIntyre_p41-42">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、41-42頁</ref>。この部は敵国の諜報活動を監視するとともに、MI5との連絡役も務めていた<ref name = "macIntyre_p41-42"/>。中立国である[[イベリア半島]]のスペインと[[ポルトガル]]はスパイ活動の最前線となっていた<ref name = "macIntyre_p41-42"/>。スペイン内戦での特派員だったフィルビーはその経験を買われてセクションVのイベリア半島担当班班長に任命された<ref name = "macIntyre_p41-42"/>。ロンドン郊外の邸宅に設けられたセクションVの本部で勤務し、その付近に借りたフィルビーの家は部員の溜まり場となった<ref name = "macIntyre_p44-45">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、44-45頁</ref>。当時フィルビーの部下であった[[グレアム・グリーン]]も日曜にしばしば訪れている<ref name = "macIntyre_p46">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、46頁</ref>。グリーンもまた、フィルビーの有能さと自然な魅力を証言している<ref name = "macIntyre_p46"/>。[[ブレッチリー・パーク]]を本部にする[[政府暗号学校]]の成果を利用して、イベリア半島における大規模な[[アプヴェーア]]のスパイ網を敵手として取り組んだ<ref name = "macIntyre_p48">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、48頁</ref>。
それと同時にフィルビーは、ソ連のスパイとしての活動も続けていた<ref name = "macIntyre_p52">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、52頁</ref>。ロンドンにおいてソ連大使館員に偽装したNKVD将校と接触し、MI6の資料を手渡した<ref name = "macIntyre_p52">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、52頁</ref>。本部での当直任務の際にはソ連に役に立つ情報が流れてこないかチェックした<ref name = "macIntyre_p81-82">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、81-82頁</ref>。ソ連に送られた資料の中には、同僚の評価に加えて、スパイ任務を知らない自身の妻の政治的傾向を冷静に描写し、今は無理でも将来的にはその矯正を試みたいと希望する文章も含まれていた<ref name = "macIntyre_p82">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、82頁</ref>。自身にスパイ疑惑がかけられた際の対策としてMI5の職員に接近し、その中でもガイ・リデルとは親しくなった<ref name = "macIntyre_p79">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、79頁</ref>。MI6長官の[[スチュワート・メンジーズ]]はフィルビーを高く評価しており、外務省からのフィルビー引き抜きの要請にも断りを入れている<ref name = "macIntyre_p80">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、80頁</ref>。
1937年にイギリスに亡命した[[ウォルター・クリヴィツキー]]を1940年にMI5が改めて尋問した際、クリヴィツキーはスペイン内戦時にソ連のスパイとして働いていた上流階級出身のジャーナリストがいたことを暴露したが、これをフィルビーと結びつける者は誰もいなかった<ref name = "macIntyre_p83">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、83頁</ref>。
フィルビーたちが送る情報の質が高く互いに矛盾しないことは、NKVDに疑惑を抱かせた<ref name = "macIntyre_p84">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、84頁</ref>。全てはイギリスが仕組んだ二重スパイの罠だと疑ったのである<ref name = "macIntyre_p84"/>。この疑惑を解消するために、ソ連国内で活動するスパイの身元を明かすよう指令があった<ref name = "macIntyre_p84"/>。フィルビーはMI6の資料保管施設からソ連における活動記録を取り寄せたが、ソ連は重要視されておらず[[ポーランド人]]の情報提供者が数名いるだけだった<ref name = "macIntyre_p85-86">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、85-86頁</ref>。この報告書を見たソ連当局者は特大の赤い[[疑問符]]を上書きした<ref name = "macIntyre_p86-87">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、86-87頁</ref>。皮肉なことにソ連側からフィルビーの信頼度は疑われていた<ref name = "macIntyre_p87">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、87頁</ref>。
それまで諜報活動に無関心だった[[アメリカ合衆国]]が[[OSS]]を設立し、ロンドンに部員を送り込んでくると、フィルビーは彼らの教官としてMI6の組織構造、任務、暗号解読作業などを教えこんだ<ref name = "macIntyre_p101-102">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、101-102頁</ref>。若く有能な[[ジェームズ・アングルトン]]はフィルビーと師弟関係を築いた<ref name = "macIntyre_p102">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、102頁</ref>。
イベリア半島におけるアプヴェールの活動を抑えこむことに成功したフィルビーは、連合国軍の上陸が迫る[[北アフリカ]]と[[イタリア]]も担当することになった<ref name = "macIntyre_p105-106">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、105-106頁</ref>。ソ連当局では相変わらずフィルビーの信頼性を決めかねていた<ref name = "macIntyre_p107">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、107頁</ref>。
1943年に[[エーリッヒ・フェアメーレン]]とエリザベト夫妻がイギリスへの亡命を申し出た<ref name = "macIntyre_p115">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、115頁</ref>。アプヴェーア職員となりイスタンブールに赴任したフェアメーレンは妻とともに、大量の資料を持って高速艇に乗りカイロへと無事脱出した<ref name = "macIntyre_p19-120">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、119-120頁</ref>。こうしてエリオットの主導で亡命した夫妻を、ロンドンにおいてフィルビーとエリオットが尋問した<ref name = "macIntyre_p122">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、122頁</ref>。この事件は[[アドルフ・ヒトラー]]を激怒させ、アプヴェーアの解体につながった<ref name = "macIntyre_p125">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、125頁</ref>。フェアメーレンの持参した記録の中で、ドイツのカトリック系上流階級における反ナチ・反共産主義者たちのリストは敗戦後のドイツの政治的指導者候補になるため、重要視された<ref name = "macIntyre_p128">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、128頁</ref>。イギリス政府はこの情報をソ連に渡さなかったが、フィルビーにより漏洩された<ref name = "macIntyre_p128-129">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、128-129頁</ref>。ソ連軍のドイツ占領の混乱の中でその多くが殺害された<ref name = "macIntyre_p129">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、129頁</ref>。
フィルビーはメンジースに対し、戦後に起こりうる対立を考慮に入れて対ソ連専門部局を設立するよう進言した<ref name = "macIntyre_p132">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、132頁</ref>。メンジースはこれを受け入れ1944年9月にフィルビーを新たに設けたセクションIXの部長に任命した<ref name = "macIntyre_p132"/>。
===大戦終結後===
[[1945年]]8月に、駐[[イスタンブール]]のソ連副領事でNKVDのトルコ駐在副部長である[[:w:Konstantin Volkov (diplomat)|コンスタンティン・ヴォルコフ]]がイギリスへの[[亡命]]を申し出た<ref name = "macIntyre_p141-142">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、141-142頁</ref>。ヴォルコフはイギリス外務省、情報機関におけるソ連のスパイの情報を持っていること、その中でも情報機関幹部に大物スパイがいることを伝えた<ref name = "macIntyre_p142">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、142頁</ref>。この情報を受け取ったメンジースは、対ソ部局長であるフィルビーに連絡した<ref name = "macIntyre_p143">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、143頁</ref>。パニックに陥ったフィルビーは、NKVDの担当官と連絡したうえで作戦を立てた<ref name = "macIntyre_p144-145">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、144-145頁</ref>。フィルビーは自身がヴォルコフを直接尋問・脱出させることにしてメンジースの承認を受け、できるだけ時間をかけたうえでトルコに向かった<ref name = "macIntyre_p145-146">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、145-146頁</ref>。到着したのはヴォルコフの告白からすでに22日が経過していた<ref name = "macIntyre_p146">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、146頁</ref>。その数時間前にヴォルコフとその妻は鎮静剤を打たれ包帯で全身をぐるぐる巻きにされた状態で担架でモスクワ行きの航空機に乗せられていた<ref name = "macIntyre_p147-148">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、147-148頁</ref>。ヴォルコフ夫妻は拷問の末に処刑された<ref name = "macIntyre_p148">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、148頁</ref>。フィルビーはのちにこの事件について、「卑劣な奴が当然の報い」を受けたと語っている<ref name = "macIntyre_p148"/>。MI6内部において、この失敗はヴォルコフが勘付かれたためだと結論付けられた<ref name = "macIntyre_p148-149">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、148-149頁</ref>。
フィルビーは1945年にソ連政府から[[赤旗勲章]]を授与された<ref name = "macIntyre_p151">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、151頁</ref>。翌1946年にはイギリス政府から[[OBE]]に叙任された<ref name = "macIntyre_p151">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、151頁</ref>。[[1946年]]の年末にはトルコのMI6支局長に任命された<ref name = "macIntyre_p163">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、163頁</ref>。フィルビーはソ連[[カフカス]]への協力者の浸透工作を実施したが、もちろんその情報は全てソ連へと渡していた<ref name = "macIntyre_p165">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、165頁</ref>。トルコの[[アメリカ空軍]]のインシルリク基地の情報もソ連に引き渡している。この時期フィルビーは秘書と不倫しており、妻のアイリーンの神経症が悪化した<ref name = "macIntyre_p170-172">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、170-172頁</ref>。2年後にフィルビーはアメリカの[[ワシントンD.C.]]でMI6局長となり、米国の情報機関との連絡役に任じられた<ref name = "macIntyre_p172-173">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、172-173頁</ref>。
戦後[[エンヴェル・ホッジャ]]によって[[共産主義]]政権が成立していた[[アルバニア]]に対して、MI6は亡命アルバニア人を協力者に用いた転覆工作である[[ヴァリアブル作戦]]が実行された<ref name = "macIntyre_p174-175">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、174-175頁</ref>。英米の共同作戦であるためフィルビーがイギリス側の立案担当者に任命され、フィルビーはソ連に亡命アルバニア人がアルバニアの海岸に上陸する日時を逐一連絡した<ref name = "macIntyre_p174-175"/>。ほとんどの亡命アルバニア人が直ちに捉えられ処刑された<ref name = "macIntyre_p200-201">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、200-201頁</ref>。彼らの家族も同様に殺された<ref name = "macIntyre_p200-201"/>。犠牲者の数は亡命アルバニア人が100から200名、その家族は数千人にのぼるとみられる<ref name = "macIntyre_p200-201"/>。
===疑惑===
第二次世界大戦中から英米両国はソ連の外交暗号を傍受解読しており、それらの情報は「[[ヴェノナ]]」の暗号名で知られていた<ref name = "macIntyre_p176">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、176頁</ref>。ソ連の担当者のミスにより解読が進むと、[[マンハッタン計画]]に潜り込んでいたソ連のスパイである[[クラウス・フックス]]が逮捕された<ref name = "macIntyre_p202-203">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、202-203頁</ref>。さらにのちにニューヨークにおけるスパイ網の統括者であった[[ローゼンバーグ事件|ローゼンバーグ夫妻]]も逮捕され、処刑された<ref name = "macIntyre_p202-203"/>。戦時中の駐ワシントン英国大使館に暗号名「ホメロス」というスパイ(ドナルド・マクリーン)がいることが確実視されていた<ref name = "macIntyre_p176-177">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、176-177頁</ref>。さらにイギリス情報機関の「スタンリー」(フィルビー)なる大物スパイの存在も示唆された<ref name = "macIntyre_p204">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、204頁</ref>。間もなくバージェスもワシントンDCに赴任しフィルビーの自宅に同居した<ref name = "macIntyre_p207">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、207頁</ref>。常軌を逸した振る舞いを繰り返すバージェスによってアイリーンの精神はさらに不安定になった<ref name = "macIntyre_p207-208">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、207-208頁</ref>。
1951年にアメリカは「ヴェノナ」情報から、スパイ「ホメロス」がマクリーンである証拠を掴んだ<ref name = "macIntyre_p212">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、212頁</ref>。マクリーンは当時英国外務省のアメリカ局局長にまで出世していた。アメリカ側から連絡を受けたMI6本部はフィルビーにこの情報を折り返し伝えた<ref name = "macIntyre_p213">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、213頁</ref>。フィルビーはマクリーンに警告するため、バージェスを使いとしてロンドンへ送ることにした<ref name = "macIntyre_p213"/>。バージェスは一日の間に3回のスピード違反を繰り返し、そのたびに[[外交特権]]を主張し、警官を侮辱した<ref name = "macIntyre_p213"/>。激怒したアメリカ[[国務省]]は抗議を行い、イギリス外務省はバージェスに対してロンドンへの帰還を命じた<ref name = "macIntyre_p213-214">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、213-214頁</ref>。
帰国したバージェスはまずアンソニー・ブラントを経由してKGBの担当官に連絡した<ref name = "macIntyre_p214">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、214頁</ref>。[[5月25日]]にバージェスとマクリーンは[[フランス]]へ向かう遊覧船に乗り込み、さらにパリ、スイス、[[チェコスロバキア]]の[[プラハ]]を経由してソ連に亡命した<ref name = "macIntyre_p216-218">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、216-218頁</ref>。
スパイの疑いをかけられたイギリス外務省の幹部2人が失踪したというニュースは英米の情報機関を震撼させた<ref name = "macIntyre_p219">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、219頁</ref>。FBIとMI5は、ワシントンにおいてバージェスと同居していたフィルビーが、二人に警告したのではないか、さらには彼自身もスパイなのではないかとの疑惑を持った。スペイン内戦時にジャーナリストとして働くソ連スパイがいたという証言、ヴォルコフ亡命事件における奇妙な失敗、ヴァリアブル作戦の情報漏洩など、フィルビーに不利な間接証拠は多かった<ref name = "macIntyre_p233">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、233頁</ref>。MI5はフィルビーを尋問したが、直接的証拠に欠けていたこと、ニコラス・エリオットとCIAのアングルトンが無実を信じて擁護したことによって捜査は打ち切られた<ref name = "macIntyre_p235-237">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、235-237頁</ref>。フィルビーは辞表を提出し、当時の金額で4,000ポンド(2014年の価値で560万円)ほどの退職金を受け取ってMI6を離れた<ref name = "macIntyre_p237">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、237頁</ref>。
収入を失ったフィルビーは田舎へ引きこもり、友人から紹介された仕事で食いつないだ<ref name = "macIntyre_p238">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、238頁</ref><ref name = "macIntyre_p250-251">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、250-251頁</ref>。エリオットの伝手で、学費の安いパブリックスクールに息子を入学させてもらっていた<ref name = "macIntyre_p253">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、253頁</ref>。フィルビーの行動を疑っていた妻のアイリーンとの仲は破綻しており、ついにはフィルビーは自宅の庭にテントを貼ってそこで寝泊まりするようになった<ref name = "macIntyre_p254">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、254頁</ref>。アイリーンがかかっていた精神科医は、フィルビーが彼女に自殺するよう圧力をかけていたと診断している<ref name = "macIntyre_p254"/>。
1954年4月にKGBの大佐{{仮リンク|ウラジーミル・ペトロフ (外交官)|label=ウラジーミル・ペトロフ|en|Vladimir Mikhaylovich Petrov (diplomat)}} が[[オーストラリア]]に亡命した<ref name = "macIntyre_p256">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、256頁</ref>。ペトロフは外交官に偽装し世界各地の大使館に赴任しているKGB将校のリストと共に、バージェスとマクリーンが「第三の男」から警告を受けていたとの情報を提供した<ref name = "macIntyre_p256-257">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、256-257頁</ref>。MI5は引き続きフィルビーの監視を続けていた。1955年9月18日の英国紙の報道によって、外交官の失踪事件は実は上流階級出身者からなるスパイの亡命であったことが明らかとなり大騒動となった<ref name = "macIntyre_p264-265">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、264-265頁</ref>。FBI長官の[[ジョン・エドガー・フーヴァー]]は、イギリスがフィルビーを未だに逮捕していないことに激怒しており、フィルビーが「第三の男」であることを新聞に漏洩した<ref name = "macIntyre_p265">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、265頁</ref>。10月にフィルビーの自宅は新聞記者に取り囲まれた<ref name = "macIntyre_p271">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、271頁</ref>。労働党議員[[マーカス・リプトン]]が議会において[[不逮捕特権]]を利用してフィルビーの疑惑を取り上げ、これを新聞が間接的に報道することでついにフィルビーの名前が一般に顕になった<ref name = "macIntyre_p269-270">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、269-270頁</ref>。事なかれ主義をとる[[ハロルド・マクミラン]]外相は、エリオットの台本通りに、フィルビーがマクリーン、バージェスに警告した証拠と彼が「第三の男」である証拠は共に一切ないことを言明した<ref name = "macIntyre_p273">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、273頁</ref>。11月8日にフィルビーは母のアパートメンにおいて記者会見を行った<ref name = "macIntyre_p275">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、275頁</ref>。フィルビーは、学生時代に一時的に共産主義にかぶれていたが、それ以後は「相手が共産主義者だと知った上で共産主義者と話したことはない」と疑惑を否定し、記者たちはその弁明に納得した<ref name = "macIntyre_p276-277">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、276-277頁</ref>。リプトンは告発を正式に取り下げ謝罪した<ref name = "macIntyre_p278">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、278頁</ref>。ソ連の担当官は「息を呑む名演技であった」と賞賛している<ref name = "macIntyre_p278/>。
エリオットの斡旋で1956年から[[オブザーバー (イギリスの新聞)|オブザーバー]]及び[[エコノミスト]]の中東特派員として[[レバノン]]の[[ベイルート]]で働き始めた<ref name = "macIntyre_p295-296">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、295-296頁</ref>。同時にMI6にも情報収集員として復帰した<ref name = "macIntyre_p295-296"/>。当時MI6の長官を務めていたのは以前MI5に所属しフィルビーを追求していたディック・ホワイトであったが、彼はこの人事に特に反対を示さなかった<ref name = "macIntyre_p257">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、257頁</ref><ref name = "macIntyre_p295-296"/>。ベイルートに着任しジャーナリストとMI6の仕事を兼務していたフィルビーの元に、安全を確認したKGBから連絡があった<ref name = "macIntyre_p303">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、303頁</ref>。フィルビーは再びソ連のスパイとしての活動を再開した<ref name = "macIntyre_p303"/>。ニューヨーク・タイムズ紙の特派員の妻エレナと不倫し、イギリスに放置してきたアイリーンの死とエレナの離婚後、1959年にエレナと再婚した<ref name = "macIntyre_p300-301">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、300-301頁</ref><ref name = "macIntyre_p306-307">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、306-307頁</ref>。1960年の父の死、1961年の[[ジョージ・ブレイク]]の逮捕などで心労がかさみ、同年8月に飼っていた狐が事故で死んだときには周囲に心配されるほどのショックを見せた<ref name = "macIntyre_p328-330">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、328-330頁</ref><ref name = "macIntyre_p337">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、337頁</ref><ref name = "macIntyre_p340">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、340頁</ref>。
===亡命===
[[1962年]]末にKGB大佐の[[アナトリー・ゴリツィン]]が亡命してきた<ref name = "macIntyre_p341">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、341頁</ref>。ゴリツィンは英米の徹底的な尋問を受けた<ref name = "macIntyre_p341"/>。彼は「ケンブリッジ・ファイブ」の存在を暴露し、この情報を元にMI6内部の二重スパイの捜査が再開された<ref name = "macIntyre_p341"/>。KGB工作員がフィルビーに警告した形跡があったことは疑惑を深めた<ref name = "macIntyre_p341"/>。さらに、前妻の友人であったロシア系ユダヤ人のフローラ・ソロモンからは、1930年代にフィルビーからスパイになるよう勧誘されたという証言が得られた<ref name = "macIntyre_p346">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、346頁</ref>。ソロモンはフィルビーの妻に対する仕打ちと彼の記事に見られた「反ユダヤ性」に激怒していた<ref name = "macIntyre_p345-347">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、345-347頁</ref>。MI6のディック・ホワイト、ニコラス・エリオットもフィルビーの裏切りを認めた<ref name = "macIntyre_p350">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、350頁</ref><ref name = "macIntyre_p354">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、354頁</ref>。自ら尋問を志願したエリオットはベイルートへと向かい、盗聴された一室においてフィルビーを追及した<ref name = "macIntyre_p359-360">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、359-360頁</ref>。フィルビーは言い訳や反論を行ったが、訴追免除を条件に、罪をしぶしぶ認めた<ref name = "macIntyre_p364-368">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、364-368頁</ref>。彼は簡単な供述書にサインし、尋問は後日再開されることになった<ref name = "macIntyre_p368-370">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、368-370頁</ref>。しかし[[1月23日]]にフィルビーは妻との約束を放り出して突然行方不明となった<ref name = "macIntyre_p381-384">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、381-384頁</ref>。KGBの助けにより貨物船に乗りこみオデッサへ渡りソ連に亡命した<ref name = "macIntyre_p382">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、382頁</ref>。1963年3月にイギリス政府はフィルビーが行方不明になったことを発表し、それと同じくしてソ連の機関紙[[イズヴェスチヤ]]にフィルビーが亡命したとの記事がプーシキン広場に立つ彼の写真とともに掲載された<ref name = "macIntyre_p390">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、390頁</ref>。
フィルビーはモスクワにおいてアパートを与えられた<ref name = "macIntyre_p393">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、393頁</ref>。バージェスは1963年に死んだが再会する機会はなかった<ref name = "macIntyre_p393"/>。KGBから俸給を与えられロンドンからは家具や服、パイプを取り寄せてもらったが、口頭で約束されていたKGBにおける階級は与えられなかった<ref name = "macIntyre_p393"/><ref name = "macIntyre_p400">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、400頁</ref>。エレナをモスクワに呼び寄せしばらく暮らしたが、1964年にフィルビーがマクリーンの妻メリンダと不倫したことを知り、二人は離婚した<ref name = "macIntyre_p396">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、396頁</ref><ref name = "macIntyre_p359-360">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、359-360頁</ref><ref name = "macIntyre_p403">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、403頁</ref>。エレナはソ連を去り3年後に亡くなった<ref name = "macIntyre_p403"/>。ジョージ・ブレイクから紹介された20歳年下のルフィーナと結婚<ref name = "macIntyre_p411">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、411頁</ref>。
=== 自叙伝を出版 ===
1968年、KGBの監修のもとで回顧録『My Silent War』を出版(邦訳『プロフェッショナル・スパイ ―英国諜報部員の手記』は翌1969年に刊行)<ref name = "macIntyre_p410-411">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、410-411頁</ref>。ただしその内容は嘘と虚飾が含まれていると指摘されている<ref name = "macIntyre_p410-411"/>。同書には作家の[[グレアム・グリーン]]が好意的な序文を寄せた。グリーンは、「フィルビーは国を裏切ったではないか」という非難に対し「そう、たしかにそうかもしれない。だが、国より大事な何かや誰かのために、裏切りを犯さない人などいるだろうか」と答えた<ref>{{Cite book |和書
|author = アダム・シズマン
|translator = [[加賀山卓朗]]、鈴木和博
|title = ジョン・ル・カレ伝 <下>
|date = 2018-5-25
|page = 22
|publisher = [[早川書房]]
|isbn =
}}</ref>。
グリーンと同じくMI6に在籍したことのある作家、[[ジョン・ル・カレ]]は『[[サンデー・タイムズ]]』紙上で、「(フィルビーは心と体を)行ったこともない国、深く学んだこともないイデオロギー、長く怖ろしい粛清によって、他国でかかわることすら危険だった体制に捧げた。三十年ものあいだ、だまし、裏切り、ときに殺すことによって、自分の決断に忠実だった」と書いた。フィルビーの回顧録が出た同じ年に『サンデー・タイムズ』の執筆者チームによる暴露本『Philby: The Spy Who Betrayed a Generation』が出版された。この暴露本は、ル・カレが『サンデー・タイムズ』に書いた文章が序論として使われ、ベストセラー1位に輝いた<ref>『ジョン・ル・カレ伝 <下>』 前掲書、23頁。</ref>。
[[ファイル:The Soviet Union 1990 CPA 6266 stamp (Soviet Intelligence Agents. Kim Philby).jpg|サムネイル|フィルビーを顕彰したソ連切手(1990年)]]
その後、[[レーニン勲章]]を授与された<ref name = "macIntyre_p412">[[#マッキンタイアー|マッキンタイアー(2015年)]]、412頁</ref>。ソ連が崩壊する直前の1988年5月11日にモスクワで死去した<ref name = "macIntyre_p412"/>。{{没年齢|1912|1|1|1988|5|11}}。死後、彼の記念切手が発行され、2011年には記念銘板も作られた<ref name = "macIntyre_p412"/>。
== 出典 ==
{{Reflist|24em}}
== 関連書籍 ==
===著書===
*{{Cite book |和書 |author = |others = 笠原佳雄 訳|title = プロフェッショナル・スパイ ―英国諜報部員の手記 |url={{NDLDC|11930227}} |url-access=registration |date = 1969-08-20 |publisher = [[徳間書店]] |ref= {{SfnRef|フィルビー|1969}} }}
=== 参考文献など===
* Bruce Page, David Leitch and Phillip Knightley, ''Philby: The Spy Who Betrayed a Generation'', 1968, published by André Deutsch, Ltd., London.
* {{Cite book|和書|author=ベン・マッキンタイアー|translator=小林朋則 |date=2015-05-10|title=キム・フィルビー : かくも親密な裏切り|publisher=[[中央公論新社]]|ISBN=978-4-12-004719-0|ref=マッキンタイアー}}ジョン・ル・カレによる「あとがき」
**文庫版{{Cite book|和書|author=|translator=|date=2024-02-22 |title=キム・フィルビー : かくも親密な裏切り|publisher=[[中公文庫]] |series= |ISBN=978-4-12-207489-7 }}
===フィクション===
*{{Cite book |和書
|author = [[ジョン・ル・カレ]]
|translator = [[菊池光]]
|title = [[ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ]]
|date = 1975
|page =
|publisher = [[早川書房]]
|isbn =
}}のちハヤカワ文庫
**{{Cite book |和書
|author =
|translator = [[村上博基]]
|title = ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ:新訳版
|date = 2012-3
|page =
|publisher = [[ハヤカワ文庫]]
|isbn = 978-4150412531
}}[[電子書籍]]も刊
*{{Cite book |和書
|author = [[グレアム・グリーン]]
|translator = [[宇野利泰]]
|title = [[ヒューマン・ファクター (小説)|ヒューマン・ファクター]]
|date = 1979-7
|page =
|publisher = 早川書房
|isbn = 978-4152073853
}}のち「全集」、ハヤカワ文庫
**{{Cite book |和書
|author =
|translator = [[加賀山卓朗]]
|title = ヒューマン・ファクター:新訳版
|date = 2006-10
|page =
|publisher = 早川書房・ハヤカワepi文庫
|isbn = 978-4151200380
}}電子書籍も刊
*{{Cite book |和書
|author = [[チャールズ・カミング]]
|translator = [[熊谷千寿]]
|title = ケンブリッジ・シックス
|date = 2013-01
|page =
|publisher = ハヤカワ文庫
|isbn = 978-4150412753
}}電子書籍も刊
==外部リンク==
* [http://svr.gov.ru/history/fil.html SVR公式HPの経歴] {{Ru icon}}
* [http://clark.cam.muskingum.edu/uk_folder/ukspycases_folder/ukspiestoc.html Annotated bibliography of the Philby Affair] {{En icon}}
* [
* [http://www.defenddemocracy.org/in_the_media/in_the_media_show.htm?doc_id=332842&attrib_id=7378 Kim Philby was here] {{En icon}}
{{ソ連のスパイ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふいるひい きむ}}
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