削除された内容 追加された内容
 
1行目:
{{pp-move|small=y}}
{{Otheruses|政治家|同名の[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]|伊藤博文 (棋士)}}
{{Other people}}
{{政治家
| 人名 = {{big|{{ruby-ja|伊藤|いとう}} {{ruby-ja|博文|ひろぶみ}}}}
| 各国語表記 =いとう ひろぶみ{{Kyujitai|'''伊藤󠄁 博󠄁文󠄁'''}}
| 画像 = ItôITŌ Hirobumi.jpg
| 画像サイズ = 250px220px
| 画像説明 = [[フロックコート]]を着用し、胸に勲章の[[略綬]]を着けた伊藤<br>([[1900年]]<ref>[https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/595240 伊藤博文写真(第4次内閣総理大臣)] - 文化遺産オンライン</ref>)
| 国略称 = {{JPNJPN1870}}
| 生年月日 = [[1841年]][[10月16日]]<br/>(旧暦[[天保]]12年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]])
| 出生地 = {{JPNJPN1603}}[[周防国]][[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]][[束荷村]](現:[[山口県]][[光市]]束荷)
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1841|10|16|1909|10|26}}
| 死没地 = {{QIN1890}}・[[吉林省]][[浜江庁]]<br>(現:{{PRC}}・[[黒江省]][[ハルビン市|ハルビン]][[南崗区]])
| 出身校 = [[松下村塾]]
| 前職 = [[武士]]([[長州藩|長州]][[藩士]])
|所属政党 = [[立憲政友会]]
| 所属政党 = [[立憲政友会]]
|称号・勲章 = [[従一位]]<br/>[[大勲位菊花章頸飾]]<br/>[[公爵]]<br/>[[名誉博士]]([[イェール大学]])
| 称号・勲章 = [[従一位]]<br>[[ファイル:JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg|40px]] [[大勲位菊花章頸飾]]<br>[[ファイル:JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg|40px]] [[大勲位菊花大綬章]]<br>[[ファイル:JPN Toka-sho BAR.svg|40px]] [[勲一等旭日桐花大綬章]]<br>[[ファイル:JPN Kyokujitsu-sho 1Class BAR.svg|40px]] [[勲一等旭日大綬章]]<br>[[公爵]]<br>[[名誉博士]]([[イェール大学]])<br>[[校賓]]([[早稲田大学]])
|親族(政治家) = [[野村靖]]([[岳父]])<br/>[[末松謙澄]]([[娘婿]])<br/>[[松本十郎 (衆議院議員)|松本十郎]]([[義曾孫]])<br/>[[松本剛明]]([[玄孫]])
| 配偶者 = [[先妻・伊藤すみ子]]<br />継妻・[[伊藤梅子]]
| 子女 = 長女・貞子<br>次女・生子<br>三女・朝子<br>長男([[庶子]])・[[伊藤文吉 (男爵)|文吉]]<br>次男(庶子)・[[伊藤眞一|眞一]]
|サイン = ItoH kao.png
| 親族(政治家) = {{Collapsible list|title=一覧参照|祖父・[[秋山長左衛門]]<br>父・[[伊藤十蔵]]<br>養子・[[伊藤博邦]]<br>義兄・[[入江九一]]<br>義兄・[[野村靖]]<br>娘婿・[[末松謙澄]]<br>娘婿・[[西朝四郎]]<br>養孫・[[伊藤博精]]<br>養孫・[[清水博春]]<br>養孫・[[伊藤博通]]<br>養孫・[[伊藤博約]]<br>養孫・[[伊藤博忠]]<br>養孫・[[伊藤博臣]]<br>養孫・[[林博則]]<br>養孫・[[伊藤博経]]<br>養孫・[[伊藤博孝]]<br>養孫・[[伊藤博英 (昭和時代)|伊藤博英]]<br>孫・[[伊藤満洲雄]]<br>玄孫・[[藤崎一郎]]<br>玄孫・[[松本剛明]]}}
|ウェブサイト =
| サイン = Signature of Ito Hirobumi.svg
|サイトタイトル =
| 国旗 = JPNJPN1889
| 職名 = 初・第5・7・10代 [[内閣総理大臣]]
| 内閣 = [[第1次伊藤内閣]]<hr>[[第2次伊藤内閣]]<hr>[[第3次伊藤内閣]]<hr>[[第4次伊藤内閣]]
| 就任日 = [[1885年]][[12月22日]] - [[1888年]][[4月30日]]<hr>[[1892年]][[8月8日]] - [[1896年]][[8月31日]]<hr>[[1898年]][[1月12日]] - 1898年[[6月30日]]<hr>[[1900年]][[10月19日]]
|就任日 = [[1885年]][[12月22日]]
| 退任日 = [[18881901年]][[453010日]]
| 元首職 = [[天皇]]
| 元首 = [[明治天皇]]
| 国旗2 = JPN1889
<!-- ↓省略可↓ -->
| 職名2 = 初・第3・8・10代 [[枢密院 (日本)#歴代議長|枢密院議長]]
|国旗2 = JPN
| 内閣2 =
|職名2 = 第5代 内閣総理大臣
| 就任日2 = 1888年4月30日 - [[1889年]][[10月30日]]<hr>[[1891年]][[6月1日]] - 1892年8月8日<hr>[[1903年]][[7月13日]] - [[1905年]][[12月21日]]<hr>[[1909年]][[6月14日]]
|内閣2 =[[第2次伊藤内閣]]
| 退任日2 = [[18921909]][[810826日]]
| 元首職2 = 天皇
|退任日2 = [[1896年]][[8月31日]]
| 元首2 = 明治天皇
| 国旗3 = JPN1889
|元首2 = 明治天皇
| 職名3 = 初代 [[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]]
|国旗3 = JPN
| 就任日3 = [[1890年]][[10月24日]]
|職名3 = 第7代 内閣総理大臣
| 退任日3 = 1891年[[7月21日]]
|内閣3 =[[第3次伊藤内閣]]
| 元首職3 = 天皇
|就任日3 = [[1898年]][[1月12日]]
| 元首3 = 明治天皇
|退任日3 = [[1898年]][[6月30日]]
| 職名4 = [[ファイル:Flag of the Japanese Resident General of Korea (1905).svg|25px]] 初代 [[統監府|韓国統監]]
|元首職3 = 天皇
| 就任日4 = 1905年12月21日
|元首3 = 明治天皇
| 退任日4 = 1909年6月14日
|国旗4 = JPN
| 国旗5 = JPN1889
|職名4 = 第10代 内閣総理大臣
| 職名5 = [[無任所大臣 (日本)|班列]]
|内閣4 = [[第4次伊藤内閣]]
|就任日4 内閣5 = [[1900年]][[10月19日黒田内閣]]
|退任日45 = [[19011888]][[541030]]
| 退任日5 = 1889年10月30日
|元首職4 = 天皇
| 国旗6 = JPN1870
|元首4 = 明治天皇
| その他職歴1 = 第6代 [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]
|国旗5 = JPN
| 就任日6 = 第1次伊藤内閣)<br>([[1887年]][[9月17日]]
|職名5 = 初代 [[貴族院議長]]
| 退任日56 = [[18901888]][[102241日]]、総理兼任
| 国旗7 = JPN1870
|退任日5 = [[1891年]][[7月21日]]
| その他職歴2 = 初代 [[宮内省|宮内大臣]]
|元首職5 = 天皇
|元首5 就任日7 = 天皇:明治天皇)<br>([[1885年]][[12月22日]]
| 退任日7 = 1887年[[9月16日]]
|国旗6 = JPN
| 国旗8 = JPN1870
|その他職歴1 = 初代 [[工部省|工部卿]]
| その他職歴3 = 第6代 [[内務卿]]
|就任日6 = [[1873年]]
|退任日68 = [[1878年]][[5月15日]]
| 退任日8 = [[1880年]][[2月28日]]
|国旗7 = JPN
| 国旗9 = JPN1870
|その他職歴2 = 第4代 [[内務大臣 (日本)|内務卿]]
| その他職歴4 = 初代 [[工部省|工部卿]]
|就任日7 = [[1874年]][[8月2日]]
|退任日79 = 1874[[1873]][[11102825日]]
| 退任日9 = 1878年5月15日
|国旗8 = JPN
| 国旗10 = JPN1870
|その他職歴3 = 第6代 内務卿
| その他職歴5 = 第4代 [[内務卿]]
|就任日8 = [[1878年]][[5月15日]]
|退任日810 = [[18801874年]][[28282日]]
| 退任日10 = 1874年[[11月28日]]
|国旗9 = JPN
| 国旗11 = JPN1889
|その他職歴4 = [[宮内省|宮内卿]]
| その他職歴6 = [[貴族院 (日本)|貴族院議員]]
|就任日9 = [[1884年]][[3月21日]]
| 就任日11 = 1890年[[7月10日]] - 1891年7月21日)<br>([[1895年]][[8月5日]] - [[1907年]][[9月20日]])<br>(1907年[[9月21日]]
|退任日9 = 1885年[[12月22日]]
| 退任日11 = 1909年10月26日
|国旗10 = JPN
| 国旗12 = 兵庫県
|その他職歴5 = [[貴族院 (日本)|貴族院議員]]
| その他職歴7 = 官選初代 [[兵庫県知事一覧|兵庫県知事]]
|就任日10 = 1890年[[7月10日]] - 1891年[[7月]])<br/>([[1895年]][[8月]] - [[1907年]][[9月]])<br/>([[1907年]][[9月]]
|退任日1012 = 1909[[186810]][[72612]]
| 退任日12 = [[1869年]][[5月21日]]
|国旗11 =
| その他職歴68 = [[ファイル:Flag of the Japanese Resident General of Korea (1905)Rikken_seiyukai.svg|25px20px]] 初代 [[統監府|韓国統監立憲政友会]]総裁
| 国旗13 =
|就任日11 = [[1906年]][[3月3日]]
|退任日1113 = 1909[[1900]][[691415日]]
| 退任日13 = [[1903年]][[7月12日]]
|国旗12 = 兵庫県
|その他職歴7 = 初代 [[兵庫県]][[都道府県知事|知事]]
|就任日12 = [[1868年]][[5月23日]]
|退任日12 = [[1869年]][[4月10日]]
}}
'''伊藤 博文'''(いとう ひろぶみ、{{旧字体|'''伊藤&#xe0101; 博&#xe0101;文&#xe0101;'''}}、[[1841年]][[10月16日]]〈[[天保]]12年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]〉- [[1909年]]〈[[明治]]42年〉[[10月26日]])は、[[明治|明治時代]]の[[日本]]の[[政治家]]<ref name="asa"/>。[[位階]][[勲等]][[爵位]]は[[従一位]][[大勲位菊花章頸飾|大勲位]][[公爵]]。
 
[[大久保利通]]らの路線を受け継いで初代[[内閣総理大臣]]に就任し、近代[[立憲主義]]社会の基礎を築いた。
'''伊藤 博文'''(いとう ひろぶみ、[[天保]]12年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]([[1841年]][[10月16日]]) - [[明治]]42年([[1909年]])[[10月26日]])は、[[日本]]の[[武士]]([[長州藩|長州]][[藩士]])、[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾|大勲位]]。[[爵位]]は[[公爵]]。[[名誉学位|学位]]は[[名誉博士]]([[イェール大学]])。[[諱]]は博文(ひろぶみ。「ハクブン」と[[有職読み]]することもある)、[[幼名]]は利助(りすけ)、のち'''俊輔'''(春輔、舜輔)とも称した。[[雅号|号]]は「'''[[春畝]]'''(しゅんぽ)」、「'''滄浪閣主人'''(そうろうかくしゅじん)」など。「'''春畝公'''」と表記されることも多い。
4度にわたって内閣総理大臣([[第1次伊藤内閣|初代]]・[[第2次伊藤内閣|5代]]・[[第3次伊藤内閣|7代]]・[[第4次伊藤内閣|10代]])を務め、一次内閣時には[[大日本帝国憲法]][[起草]]の中心人物となり、二次内閣では[[日清戦争]]の講和条約である[[下関条約]]の起草にあたった。四次内閣の組閣に際して[[立憲政友会]]を結党して初代総裁となり、[[政党政治]]の道を開いた<ref name="asa"/>。その他、初代[[枢密院 (日本)|枢密院議長]]、初代[[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]]、初代[[統監府|韓国統監]]、[[元老]]などを歴任した<ref name="asa"/><ref name="nipo"/>。
[[今太閤]]とも称されたように、百姓の身分から初代内閣総理大臣に上り詰め、その後も元老として明治日本を牽引した、日本及びアジアの近代史を代表する人物の一人。
 
[[諱]]は、'''博文'''(ひろぶみ、「'''はくぶん'''」と読むこともある)。[[幼名]]は'''利助'''(りすけ)、後に[[吉田松陰]]から俊英の俊を与えられ、'''俊輔'''(しゅんすけ)とし、さらに'''春輔'''(しゅんすけ)と改名した。明治初期に政府公文書で[[本姓]]や[[カバネ]]を使うことが義務づけられていた時期には[[河野氏]]の末裔であることから'''[[越智氏|越智宿禰]]'''(おちのすくね)'''博文'''と署名した<ref>『読売新聞』1922年1月9日朝刊政治面3頁「[隈侯いろいろ]=2 菅原朝臣重信/縦横子(尾佐竹猛)(連載)」</ref><ref>{{Citation|和書|title=官員録 : 官板 明治3年|date=1870|publisher=[[須原屋茂兵衛]]|page=16|id={{NDLJP|1080835/16}}}}{{オープンアクセス}}</ref>。
[[周防国]]出身。[[長州藩]]の[[私塾]]である[[松下村塾]]に学び、[[幕末]]期の[[尊王攘夷]]・[[倒幕運動]]に参加。[[明治維新|維新]]後は[[薩長]]の[[藩閥]]政権内で力を伸ばし、[[岩倉使節団]]の副使、[[参議#明治政府における参議|参議]]兼[[工部省|工部卿]]、初代[[兵庫県]][[都道府県知事|知事]](官選)を務め、[[大日本帝国憲法]]の起草の中心となる。[[第1次伊藤内閣|初代]]・[[第2次伊藤内閣|第5代]]・[[第3次伊藤内閣|第7代]]・[[第4次伊藤内閣|第10代]]の[[内閣総理大臣]]および初代[[枢密院 (日本)|枢密院議長]]、初代[[貴族院議長]]、[[統監府|韓国統監府]]初代統監を歴任した。内政では、[[立憲政友会]]を結成し初代[[総裁]]となったこと、[[外交]]では[[日清戦争]]に対処したことが特記できる。[[元老]]。
 
== 概説 ==
[[アジア]]最初の[[立憲体制]]<ref>1876年発布の[[オスマン帝国憲法]](ミドハト憲法)は大日本帝国憲法より13年早いが、2年後の1878年から1908年まで停止しており、また現在の[[トルコ]]共和国政府はトルコを[[ヨーロッパ]]の国であるとみなしている。</ref>の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の[[議会]]政治家として、現代に至るまで大変高い評価をされている。[[ハルビン市|ハルビン]]で[[朝鮮独立運動]]家の[[安重根]]によって[[暗殺]]される。
[[周防国]]の[[百姓]]の子として生まれる。父が[[長州藩]]の[[足軽]]伊藤家に入ったため、父とともに下級武士の身分を得る。
 
[[吉田松陰]]の[[私塾]]である[[松下村塾]]に学んだ。[[尊王攘夷]]運動に参加したが、[[1863年]]には藩命により[[井上馨]]らとともに[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]に密航、留学して[[開国]]論者となる<ref name="bri">{{Kotobank|伊藤博文|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref><ref name="nipo"> {{Kotobank|伊藤博文|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。[[1864年]]に[[ロンドン]]で四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知り、急遽帰国し、藩主[[毛利敬親]]に開国への転換の必要を説いたが、受け容れられなかった。同年[[江戸幕府|幕府]]による第一次[[長州征伐]]に対する藩首脳の対応に憤慨した[[高杉晋作]]が起こした[[功山寺挙兵]]に参加。この藩内戦の勝利により藩主流派として藩政改革に参画するようになり、主に藩の対外交渉の任にあたった<ref name="nipo"/>。
 
[[明治維新]]後の[[1868年]]から[[日本国政府|政府]]に出仕し、外国事務掛、[[参与]]、外国事務局判事、初代[[兵庫県]][[都道府県知事|知事]]などを歴任。[[1869年]](明治2年)には[[陸奥宗光]]らとともに当面の政治改革の建白書を提出して開明派官僚として頭角を現した。また[[大蔵省|大蔵少輔]]兼[[民部省 (明治時代)|民部少輔]]として[[貨幣]]制度の改革を担当し、[[1870年]](明治3年)には財政幣制調査のために渡米、翌年の[[金本位制]]の採用と[[新貨条例]]の公布を主導した。[[1871年]](明治4年)[[岩倉使節団]]の副使として外遊。この間に[[大久保利通]]の信任を得た<ref name="nipo"/>。
 
[[1873年]](明治6年)の帰国後には大久保らとともに内政優先の立場から[[西郷隆盛]]の[[征韓論]]に反対し、同年10月に西郷らが下野すると大久保の片腕として[[参議#明治政府における参議|参議]]兼[[工部省|工部卿]]に就任した<ref name="asa">{{Kotobank|伊藤博文|2=朝日日本歴史人物事典}} </ref>。[[1878年]](明治11年)に大久保が不平士族に暗殺されると、その後を継いで[[内務卿]]に就任。政府の中心人物として[[琉球処分]]、[[侍補制度]]の廃止、[[教育令]]の制定などを推進した。
 
[[1881年]](明治14年)[[大隈重信]]がイギリス型議会政治を目指す憲法意見を提出すると、その急進的内容に伊藤が反対し、大隈ら開明派官僚は下野した([[明治十四年の政変]])<ref name="asa" /><ref name="nipo" />。[[1882年]](明治15年)[[ドイツ帝国|ドイツ]]や[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]の憲法調査を行い、[[1884年]](明治17年)に宮中に制度取調局を創設してその長官に就任、[[立憲主義|立憲体制]]への移行に伴う諸制度の改革に着手した<ref name="nipo" />。
 
[[1885年]](明治18年)12月に[[太政官 (明治時代)|太政官]]にかえて[[内閣制度]]を創設し、初代[[内閣総理大臣]]に就任した([[第1次伊藤内閣]])。[[井上毅]]や[[伊東巳代治]]、[[金子堅太郎]]らとともに憲法や[[皇室典範 (1889年)|皇室典範]]、[[貴族院令]]、[[衆議院議員選挙法]]の草案の起草にあたり、[[1888年]](明治21年)に[[枢密院 (日本)|枢密院]]が創設されるとその議長に就任し、憲法草案の審議にあたった。[[1889年]](明治22年)に日本最初の近代憲法[[大日本帝国憲法|明治憲法]]を制定。君主大権の強いドイツ型の憲法だったが、伊藤は立憲政治の意義が君権制限と民権保護にあることを強調し、立憲主義的憲法理解を示した<ref name="nipo" /><ref name="asa" />。
 
[[1890年]](明治24年)に[[帝国議会]]が創設されると初代[[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]]に就任([[第1回帝国議会|最初の議会]]のみ)。[[1892年]](明治25年)に[[第2次伊藤内閣]]を組閣し、衆議院の第一党だった[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]に接近。[[日清戦争]]では首相として大本営に列席するとともに[[日清講和条約]]に調印した。戦後は自由党と連携して連立政権を組織<ref name="asa"/>。[[1898年]](明治31年)に[[第3次伊藤内閣]]を組閣したが、自由党や[[進歩党 (日本 1896-1898)|進歩党]]との連携に失敗し、地租増徴が議会の反発で挫折したことで総辞職。他の[[元老]]たちの反対を押し切って大隈重信と[[板垣退助]]を後継に推して日本最初の政党内閣([[第1次大隈内閣]])を成立させた。さらに[[1900年]](明治33年)には[[立憲政友会]]を結党して、その初代総裁となり、[[第4次伊藤内閣]]を組閣。明治立憲制のもとでの政党政治に道を開いた<ref name="asa"/>。しかし[[1901年]](明治34年)に貴族院の反発と財政問題をめぐる閣内不一致で総辞職<ref name="nipo"/>。
 
同年に起こった[[日英同盟]]論には慎重で[[ロシア帝国|ロシア]]との協商を模索して訪露したが、具体的成果を得られず、結果的に日英同盟が促進された。帰国後は野党の立場を貫こうとする政友会の指導に苦慮し、[[1903年]](明治36年)に総裁を辞し、元老の立場に戻った<ref name="nipo"/>。
 
[[日露戦争]]開戦には慎重だったが<ref name="my"/>、日露戦争後の[[朝鮮]]・[[満洲]]の処理問題に尽力し、[[1905年]](明治38年)には初代[[統監府|韓国統監]]に就任<ref name="nipo"/>。[[大韓帝国|韓国]]の国内改革と保護国化の指揮にあたり、3度にわたる[[日韓協約]]で漸次韓国の外交権や内政の諸権限を剥奪した<ref>{{Kotobank|日韓協約|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説}}</ref>。伊藤は日本政府内では対韓慎重派であり、保護国化はやむなしとしたが、併合には慎重だったといわれる<ref name="my">{{Kotobank|伊藤博文|2=百科事典マイペディア}}</ref>。しかし韓国民族運動との対立の矢面に立つ形となり、[[1909年]](明治42年)に韓国統監を辞職した後、[[ハルビン]]駅において韓国の独立運動家[[安重根]]に狙撃されて死亡した<ref name="asa"/>。
 
開明派として日本の近代化、特に憲法制定とその運用を通じて[[立憲主義|立憲政治]]を日本に定着させた功績が評価される<ref name="asa"/>。
 
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[ファイルImage:HirobumiItou Ito 2Jyuzou.jpgjpeg|200px|thumb|left|200px|志士時代の父・伊藤博文十蔵]]
[[Image:Itou KoToko.jpeg|200px|thumb|母・伊藤琴子]]
[[周防国]][[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]]束荷村字野尻<ref>現 [[山口県]][[光市]]束荷字野尻</ref>の[[百姓]]・林十蔵(後に重蔵)の[[長男]]として生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。家が貧しかったため、12歳ごろから奉公に出されたという。父・十蔵が[[長州藩]]の[[武家奉公人#概要|蔵元付中間]]水井武兵衛の[[養子縁組|養子]]となり、武兵衛が[[安政]]元年([[1854年]])に周防国[[佐波郡 (山口県)|佐波郡]]相畑村の[[足軽]]・伊藤弥右衛門の養子となって、伊藤直右衛門と改名したため、十蔵、博文父子も足軽となった。
天保12年(1841年)9月2日、[[周防国]][[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]][[束荷村]]字野尻(現:[[山口県]][[光市]]束荷)の百姓・[[伊藤十蔵|林十蔵]](後に重蔵)の長男として生まれる。母は[[秋山長左衛門]]の長女、琴子。[[弘化]]5年([[1846年]])に破産した父が[[萩市|萩]]へ単身赴任したため母とともに母の実家へ預けられたが、[[嘉永]]2年([[1849年]])に父に呼び出され萩に移住した。萩では[[久保五郎左衛門]]の塾に通い(同門に[[吉田稔麿]])、家が貧しかったため、12歳ごろから父が[[長州藩]]の[[武家奉公人#種類|蔵元付中間]]・[[水井武兵衛]]の[[養子]]となり、武兵衛が[[安政]]元年([[1854年]])に周防[[佐波郡 (山口県)|佐波郡]]相畑村の[[足軽]]・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった<ref>{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=22 - 25}}</ref>。
 
彼は一人っ子であり兄弟姉妹はいない([[歴代内閣総理大臣]]としては他に[[三木武夫]]も一人っ子である)。
 
=== 松下村塾入門 ===
[[ファイル:Hirobumi Ito 2.jpg|left|thumb|150px|長州藩士時代の伊藤]]
[[画像:Takasugi Shinsaku and others.jpg‎|thumb|left|200px|[[高杉晋作]](中央)と伊藤博文(右)(左の少年は[[山田顕義]])]]
[[ファイル:Choshu Five.jpg|left|150px|thumb|[[長州五傑]]。上段左から[[遠藤謹助]]、[[井上勝|野村弥吉]](井上勝)、伊藤、下段左から[[井上馨|志道聞多]](井上馨)、[[山尾庸三]]]]
安政4年([[1857年]])[[2月 (旧暦)|2月]]、[[東京湾|江戸湾]]警備のため[[相模国]]に派遣されていたとき、上司として赴任してきた[[来原良蔵]]と出会い、その紹介で[[吉田松陰]]の[[松下村塾]]に入門する。伊藤は身分が低いため、塾外で立ち聞きしていたという。松蔭が[[安政の大獄]]で斬首された際、[[木戸孝允|桂小五郎]]の手附として[[江戸]]詰めしていた伊藤は、師の遺骸をひきとることになる。その後、同門の[[久坂玄瑞]]・[[高杉晋作]]・桂小五郎・[[井上馨|井上聞多]]らと[[倒幕運動]]に加わる。
[[画像:Takasugi Shinsaku and others.jpg|left|150px|thumb|左から[[三谷春道|三谷国松]]、[[高杉晋作]]、伊藤]]
 
安政4年([[1857年]])[[2月 (旧暦)|2月]]、[[東京湾|江戸湾]]警備のため[[相模国|相模]]に派遣されていたとき、上司として赴任してきた[[来原良蔵]]と昵懇となり、その紹介で[[吉田松陰]]の[[松下村塾]]に入門する。伊藤は友人の稔麿の世話になったが、身分が低いため塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったままの聴講に甘んじていた。
[[文久]]2年([[1862年]])には[[公武合体]]論を主張する[[長井雅楽]]の[[暗殺]]を画策し、[[品川 (東京都)|品川]][[御殿山 (東京都品川区)|御殿山]]の[[英国公使館焼き討ち事件|英国公使館焼き討ち]]に参加し、[[山尾庸三]]とともに[[塙忠宝|塙次郎]]<ref>塙次郎の子、[[塙忠韶]]は明治維新後政府から召しだされ大学少助教に任ぜられ、その後文部小助教、[[租税寮]]十二等出仕、修史局御用掛へと一旧幕臣でありながらと異例の出世を経験した。これについて[[司馬遼太郎]]は伊藤が後年自責の念から忠宝を礼遇したのではないかと推測している...「死んでも死なぬ」『幕末』収録より。</ref>・加藤甲次郎を暗殺するなど、[[尊王攘夷]]の[[志士]]として活動した。
*[[渡邊嵩蔵]] 「伊藤公なども、もとより塾にて読書を学びたれども、自家生活と、公私の務に服せざるべからざる事情のために、長くは在塾するを得ざりしなり」<ref>『吉田松陰全集 第12巻』</ref>
 
翌安政5年([[1858年]])7月から10月まで松陰の推薦で長州藩の京都派遣に随行、帰藩後は来原に従い長崎へ行き、安政6年([[1859年]])6月まで[[長崎海軍伝習所]]で勉学に努め、10月からは来原の紹介で来原の義兄の[[木戸孝允|桂小五郎]](のちの木戸孝允)の従者となり、長州藩の[[江戸]]屋敷に移り住んだ。ここで[[井上馨|志道聞多]](のちの井上馨)と出会い、親交を結ぶ。
=== 英国留学 ===
[[ファイル:Choshu Five.jpg|left|thumb|200px|[[長州五傑]]。上段左から[[遠藤謹助]]、[[井上勝|野村弥吉]]、伊藤、下段左から[[井上馨|井上聞多]]、[[山尾庸三]]]]
文久3年([[1863年]])には井上聞多・[[遠藤謹助]]・山尾庸三・[[井上勝|野村弥吉]]らと共に[[長州五傑]]の一人として[[イギリス帝国|イギリス]]に渡航する。伊藤の荷物は文久2年(1862年)に発行された間違いだらけの『[[英和対訳袖珍辞書]]』1冊と[[寝巻]]きだけであったという。[[ロンドン]]到着後[[ヒュー・マセソン]]の世話を受け[[アレクサンダー・ウィリアムソン]]([[ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン]]の[[教授]]、[[化学者]])の邸に滞在し、[[英語]]や礼儀作法の指導を受ける。ロンドンでは英語を学ぶとともに[[博物館]]、[[美術館]]に通い、[[イギリス海軍|海軍]]施設、[[工場]]などを見学して見聞を広めた。留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして[[開国#日本の開国|開国]]論に転じる。
 
松陰が同年10月に[[安政の大獄]]で斬首された際、桂の手附として江戸詰めしていた伊藤は、師の遺骸を引き取ることなる。このとき、伊藤は自分がしていた帯を遺体に巻いた。このあと、桂を始め[[久坂玄瑞]]・[[高杉晋作]]・井上馨らと[[尊王攘夷]]運動に加わる一方で海外渡航も考えるようになり、[[万延]]元年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]([[1861年]][[1月17日]])に来原に宛てた手紙でイギリス留学を志願している。
[[元治]]元年([[1864年]])、[[アメリカ合衆国|米]][[イギリス帝国|英]][[フランス第二帝政|仏]][[オランダ|蘭]]4国連合[[艦隊]]による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上とともに急ぎ帰国し戦争回避に奔走する。[[横浜市|横浜]]上陸後、[[駐日英国大使|英国公使]][[ラザフォード・オールコック|オールコック]]と通訳官[[アーネスト・サトウ]]と会見。しかし、伊藤、井上両名の奔走も空しく、[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]に4国連合艦隊の砲撃により[[下関戦争]](馬関戦争)が勃発、長州の砲台は徹底的に破壊される。伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、[[ユーライアラス_(蒸気フリゲート)|ユーリアラス]]号で艦長[[オーガスタス・レオポルド・キューパー|クーパー]]との[[平和条約|和平交渉]]にあたる。藩世子・[[毛利元徳]]へ経過報告したときには、攘夷派の暗殺計画を知り、高杉とともに行方をくらましている。そして、この和平交渉において、[[天皇]]と[[征夷大将軍|将軍]]が毛利藩宛に発した「攘夷実施の命令書」の写しをサトウに手渡したことにより、各国は[[戦争賠償|賠償金]]を[[江戸幕府|幕府]]に要求するようになる。
 
==== テロ活動 ====
[[文久]]2年([[1862年]])、[[公武合体]]論を主張する[[長井雅楽]]の暗殺を画策し、8月には自害した来原の葬式に参加、12月に[[品川 (東京都)|品川]][[御殿山 (品川区)|御殿山]]の[[英国公使館焼き討ち事件|英国公使館焼き討ち]]に参加する。[[文久]]3年(1863年)2月、[[山尾庸三]]と共に[[塙忠宝]]{{refnest|group=注釈|塙忠宝の子・[[塙忠韶]]は明治維新後政府から召しだされ大学少助教に任ぜられ、文部小助教、租税寮十二等出仕、修史局御用掛へと一旧幕臣でありながらと異例の出世を経験した。これについて作家[[司馬遼太郎]]は、伊藤が後年自責の念から忠宝を礼遇したのではないかと推測している<ref>司馬遼太郎「死んでも死なぬ」『幕末』(文春文庫ほか)収録より</ref>。}}・[[加藤甲次郎]]を九段坂の塙宅近辺で夜間待伏せて闇討ちにて暗殺<ref>春畝公追頌会編『伊藤博文伝』</ref>、また、3月には長州藩江戸上屋敷に呼び寄せた宇野東櫻(宇野八郎)を高杉晋作の指示のもと騙討ちにする<ref>{{Cite web |url=https://odknobu.hateblo.jp/entry/2021/10/27/172810 |title=8 【宇野東桜(吉良七郎)関係資料について】 |access-date=2024-10-18 |publisher=小高旭之}}</ref>等、尊王攘夷の[[志士]]として多くのテロ活動をした<ref>{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=22 - 25}}、{{Harvtxt|瀧井一博|2010|pp=3 - 5}}</ref>。筋肉質の体躯であったとされる。
 
=== イギリス留学 ===
[[ファイル:Itō Hirobumi 1863.jpg|right|thumb|200px|1863年の伊藤]]
文久3年([[1863年]])には井上馨の薦めで海外渡航を決意し、[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]に井上馨・[[遠藤謹助]]・山尾庸三・[[井上勝|野村弥吉]](後に井上勝)らとともに[[長州五傑]]の一人として[[イギリス帝国|イギリス]]に渡航する。伊藤の荷物は文久2年に発行された間違いだらけの『[[英和対訳袖珍辞書]]』1冊と寝巻きだけであったという。しかも途中に寄港した[[清]]の[[上海]]で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられた。
 
[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]の[[ロンドン]]到着後、[[ヒュー・マセソン (企業家)|ヒュー・マセソン]]の世話を受け化学者[[アレキサンダー・ウィリアムソン]]の邸に滞在し、[[英語]]や礼儀作法の指導を受ける。ロンドンでは英語を学ぶとともに[[博物館]]・[[美術館]]に通い、[[イギリス海軍|海軍]]施設、工場などを見学して見聞を広めた。留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして[[開国#日本の開国|開国]]論に転じる。
 
[[元治]]元年([[1864年]])3月、[[アメリカ合衆国|米]][[イギリス帝国|英]][[フランス第二帝政|仏]][[オランダ|蘭]]4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨とともに急ぎ帰国した。
 
[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]に[[横浜港|横浜]]上陸後長州藩へ戻り、戦争回避に奔走する。[[駐日英国大使|英国公使]][[ラザフォード・オールコック|オールコック]]と通訳官[[アーネスト・サトウ]]と会見したが、両名の奔走も空しく、[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]に4国連合艦隊の砲撃により[[下関戦争]](馬関戦争)が勃発、長州の砲台は徹底的に破壊される。
 
伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、[[ユーライアラス_(蒸気フリゲート)|ユーリアラス]]号で艦長[[オーガスタス・レオポルド・キューパー|クーパー]]との[[平和条約|和平交渉]]にあたる。藩世子・[[毛利元徳]]へ経過報告したときには、攘夷派の暗殺計画を知り、高杉とともに行方をくらましている。そして、この和平交渉において、[[天皇]]と[[征夷大将軍|将軍]]が長州藩宛に発した「攘夷実施の命令書」の写しをサトウに手渡したことにより、各国は[[戦争賠償|賠償金]]を[[江戸幕府]]に要求するようになる<ref>{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=25 - 45}}、{{Harvtxt|瀧井一博|2010|pp=7 - 12}}</ref>。
 
=== 挙兵 ===
オールコックらとの交渉で伊藤は井上馨とともに長州藩の外国応接係を任されるが、下関戦争と[[禁門の変]]で大損害を被った藩は幕府への恭順を掲げる俗論派が台頭、攘夷派の[[長州正義派|正義派]](革新派)との政争が始まった。伊藤は攘夷も幕府にも反対でありどちらの派閥にも加わらなかったが、9月に井上が俗論派の襲撃で重傷を負うと行方をくらました。
長州藩が[[長州征討#第一次長州征討|第一次長州征伐]]で[[江戸幕府|幕府]]に恭順の姿勢を見せると、高杉らに従い[[力士隊]]を率いて挙兵。この時、高杉の元に一番に駆けつけたのは伊藤だった。その後、[[奇兵隊]]も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、[[長州正義派|正義派]](革新派)が藩政を握った。後に伊藤は、この時のことを述懐して、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」と語っている。
 
11月、長州藩が[[長州征討#第一次長州征討|第一次長州征伐]]で幕府に恭順の姿勢を見せると、12月に高杉らに従い[[力士隊]]を率いて挙兵([[功山寺挙兵]])。このとき、高杉のもとに一番に駆けつけたのは伊藤だった。その後、[[奇兵隊]]も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派が藩政を握った。のちに伊藤は、このときのことを述懐して「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、このとき、一番に高杉さんのもとに駆けつけたことだろう」と語っている。
 
翌[[慶応]]元年([[1865年]])に藩の実権を握った桂の要請で行った[[薩摩藩]]や外国商人との武器購入および交渉がおもな仕事となり、[[長州征討#第二次長州征討|第二次長州征伐]]にも[[戊辰戦争]]にも加勢できずに暇を持て余す形になった。
 
[[慶応]]4年([[明治]]元年、[[1868年]])に[[外務大臣 (日本)|外国事務総裁]][[東久世通禧]]に見出され、[[神戸事件]]と[[堺事件]]の解決に奔走。これが出世の足がかりとなった<ref>{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=45 - 71}}</ref>。
 
=== 明治維新 ===
{{Main|明治維新}}
[[ファイル:Iwakura mission.jpg|thumb|250px|[[岩倉使節団]]。右から[[大久保利通]]、伊藤博文、[[岩倉具視]]、[[山口尚芳]]、[[木戸孝允]]]]
[[File:Ito Hirobumi, Okuma Shigenobu, Inoue Kaoru in their yonger days.png|thumb|神戸[[外務事務局]]時代の伊藤博文(左端)。その右に[[大隈重信]](横浜外務事務局)、[[井上馨]](造幣局)。後列左より久世治作、[[中井弘]](ともに造幣局)。]][[ファイル:木戸孝允・伊藤博文.jpg|thumb|250px|[[木戸孝允]](前列中央)と伊藤(後列右端)ら(明治3年)]]
維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、また[[英語]]に堪能な事を買われて[[参与]]、[[外国事務局]][[判事]]、[[大蔵省|大蔵]]兼[[民部省|民部]][[少輔]]、初代[[兵庫県]][[都道府県知事|知事]](官選)、初代[[工部省|工部卿]]、[[宮内省|宮内卿]]など[[明治政府]]の様々な要職を歴任する。
[[ファイル:Iwakura mission.jpg|thumb|250px|[[岩倉使節団]]右から[[大久保利通]]、伊藤、[[岩倉具視]]、[[山口尚芳]]、木戸孝允。]]
[[明治維新]]後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、[[英語]]に堪能なことを買われて[[参与]]、[[外国事務局]][[判事]]、[[大蔵省|大蔵]][[少輔]]兼[[民部省 (明治時代)|民部]]少輔、初代[[兵庫県]][[兵庫県知事一覧|知事]](官選)、初代[[工部省|工部卿]]、[[宮内省|宮内卿]]など[[明治政府]]のさまざまな要職を歴任する。これには木戸孝允の後ろ盾があり、井上馨や[[大隈重信]]とともに改革を進めることを見込まれていたからであった。
 
兵庫県知事時代の[[明治]]2年([[1869年]])[[1月 (旧暦)|1月]]、『[[国是綱目]]』いわゆる「兵庫論」を捧呈し、
# 君主政体
# 兵馬の大権を朝廷に返上
123 ⟶ 169行目:
を主張した。
 
明治3年([[1870年]])に発足した工部省の長である工部卿として、[[殖産興業]]を推進する。のちにこれは、[[内務大臣 (日本)|内務卿]]・[[大久保利通]]のもとで[[内務省 (日本)|内務省]]へと引き継がれる。また同年[[11月 (旧暦)|11月]]から翌年[[5月 (旧暦)|5月]]まで財政幣制調査のため[[芳川顕正]]・[[福地源一郎]]らと渡米し、[[中央銀行|ナショナル・バンク]]について学び、帰国後に伊藤の建議により、わが国日本最初の[[貨幣法]]である[[新貨条例]]が制定される。
 
明治4年([[1871年]])[[11月 (旧暦)|11月]]には[[岩倉使節団]]の副使として渡米、[[サンフランシスコ]]で「[[日の丸演説]]」を行う<ref>{{Cite book|url=https://archive.org/details/japaneseinameric00lanm |title=The Japanese in America |first=Charles |last=Lanman |pages=13-15 |year=1872}}</ref><ref group="注釈"> 引用内は西洋歴(新暦)。</ref>。明治76年([[1873年]])3月には[[ベルリン]]に渡り、[[ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]に謁見[[ドイツ国首相|宰相]][[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]と会見し、ビスマルクから強影響を受けた
 
{{Quotation|{{en|The red disc in the centre of our national flag shall no longer appear like a wafer over a sealed empire, but henceforth be in fact what it is designed to be, the noble emblem of the rising sun, moving onward and upward amid the enlightened nations of the world.}}<br />(国旗の中央なる吾等が緋の丸こそ最早閉ざされし帝国の封蝋の如く見ゆらざれ、将にその原意たる、旭日の貴き徽章、世界の文明諸国の只中に進み昇らん。)|Hirobumi Ito, 23rd of January 1872.}}
大蔵兼民部少輔を務めた際には、[[大隈重信]]と共に殖産興業政策の一環として、[[日本の鉄道|鉄道]]建設を強力に推し進め、[[京浜]]間の鉄道は、明治5年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]([[1872年]][[6月12日]])に[[品川駅|品川]] ― [[桜木町駅|横浜]]間で仮営業を始め、同年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]](1872年[[10月14日]])、[[汐留駅 (国鉄)|新橋]]までの全線が開通した<ref>朝日新聞 2008年6月3日付記事</ref>。
 
大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信とともに殖産興業政策の一環として[[日本の鉄道|鉄道]]建設を強力に推し進め、[[京浜]]間の鉄道は、明治5年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]([[1872年]][[6月12日]])に[[品川駅|品川]] - [[桜木町駅|横浜]]間で仮営業を始め、同年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]](1872年[[10月14日]])、[[汐留駅 (国鉄)|新橋]]までの全線が開通した<ref>朝日新聞 2008年6月3日付記事</ref>。
当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた[[版籍奉還]]に触れていたために大久保利通や[[岩倉具視]]の不興を買い、また大蔵省の権限を巡る論争でも大久保とは対立関係にあった。だが、[[征韓論|征韓論争]]では「内治優先」路線を掲げた大久保・岩倉らを支持して大久保の信任を得るようになった([[明治6年の政変]])。このとき、木戸孝允と大久保利通の間を取り結び、明治8年([[1875年]])1月の[[大阪会議]]を斡旋する。大久保暗殺後は内務卿を継承し、[[維新の三傑]]なき後の明治政府指導者の一人として辣腕を振るう。
 
当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた[[版籍奉還]]に触れていたために大久保利通や[[岩倉具視]]の不興を買い、大蔵省の権限をめぐる論争でも大久保とは対立関係にあった。また、岩倉使節団がアメリカで[[不平等条約]]改正交渉を始めた際、全権委任状を取るため一旦大久保とともに帰国したが、取得に5か月もかかったことで木戸との関係も悪化した(改正交渉も中止)。
明治12年([[1879年]])9月に「教育議」を上奏し、[[教育令]]発布となる。
 
だが、大久保・岩倉とは西欧旅行を通して親密になり、木戸とものちに和解したため、明治6年([[1873年]])に帰国して関わった[[征韓論]]では「内治優先」路線を掲げた大久保・岩倉・木戸らを支持して大久保の信任を得るようになった([[明治六年政変]])。このあと木戸とは疎遠になる代わりに、政権の重鎮となった大久保・岩倉と連携する道を選ぶ一方、盟友の井上馨とともに木戸と大久保の間を取り結び、[[板垣退助]]とも繋ぎを取り明治8年([[1875年]])1月の[[大阪会議]]を斡旋する。明治10年([[1877年]])に木戸が死去、同年に[[西南戦争]]で[[西郷隆盛]]が敗死、翌11年([[1878年]])に大久保も[[暗殺]]されたあとは内務卿を継承し、[[維新の三傑]]なき後の明治政府指導者の1人として辣腕を振るう<ref>{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=74 - 141}}、{{Harvtxt|瀧井一博|2010|pp=18 - 48}}</ref>。
明治14年([[1881年]])1月、井上馨、大隈重信と[[熱海市|熱海]]で会談。同年10月14日、大隈が下野し、明治政府は明治23年([[1890年]])に[[帝国議会|国会]]を開設することを約束する([[明治14年の政変]])。明治15年([[1882年]])3月3日、[[明治天皇]]に[[憲法]]調査のための渡欧を命じられ、3月14日、[[河島醇]]・[[平田東助]]・[[吉田正春]]・[[山崎直胤]]・[[三好退蔵]]・[[岩倉具定]]・[[広橋賢光]]・[[西園寺公望]]・[[伊東巳代治]]ら随員を伴い[[ヨーロッパ]]に向けて出発し、はじめ[[ベルリン大学]]の[[公法]]学者、[[ルドルフ・フォン・グナイスト]]に教示を乞い、[[アルバート・モッセ]]から[[プロイセン憲法]]の逐条的講義を受けた。のちに[[ウィーン大学]]の国家学教授・[[憲法学者]]である[[ローレンツ・フォン・シュタイン]]に師事し、[[歴史法学]]や[[行政]]について学ぶ。これが帰国後、近代的な[[内閣 (日本)|内閣]]制度を創設し、[[大日本帝国憲法]]の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。
 
明治12年([[1879年]])9月に「教育議」を上奏し、[[教育令]]発布となる<ref>{{Harvtxt|瀧井一博|2010|pp=75, 375}}</ref>。
明治18年([[1885年]])2月、伊藤は朝鮮で起きた[[甲申政変]]の事後処理のため[[清|清国]]に派遣され、4月18日には[[李鴻章]]との間に[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]を調印している。
 
明治14年([[1881年]])1月、日本の立憲体制をどう作るか井上馨や大隈重信と[[熱海市|熱海]]で会談。しかし大隈が急進的な構想を内密に提出、独走するようになると、政界追放を決め工作に取りかかり、10月14日の大隈下野で目的を果たし、明治23年([[1890年]])に[[帝国議会|国会]]を開設することを約束する([[明治十四年の政変]])。伊藤の漸進的な提案が通り、[[黒田清隆]]・[[西郷従道]]ら薩摩派とも提携したことで事実上伊藤が中心となる体制ができあがった。一方で[[井上毅]]が岩倉の指示を受け、大隈案への対抗から[[ビスマルク憲法|プロイセン憲法]]を元にした憲法の採用を提案したときは退けたが、これは井上が憲法制定を焦り、外国憲法をどう日本に定着させるかについて具体的に論じていないことと、上役の伊藤に憲法制定を促すなど分を越えた動きをしていたからであった。
 
明治15年([[1882年]])3月3日、[[明治天皇]]に[[憲法]]調査のための渡欧を命じられ、3月14日、[[河島醇]]・[[平田東助]]・[[吉田正春]]・[[山崎直胤]]・[[三好退蔵]]・[[岩倉具定]]・[[広橋賢光]]・[[西園寺公望]]・[[伊東巳代治]]ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発した。はじめ[[ベルリン大学]]の[[公法]]学者、[[ルドルフ・フォン・グナイスト]]に教示を乞い、[[アルバート・モッセ]]からプロイセン憲法の逐条的講義を受けた。のちに[[ウィーン大学]]の国家学教授・[[憲法学者]]である[[ローレンツ・フォン・シュタイン]]に師事し、[[歴史法学]]や[[行政]]について学ぶ。これが帰国後、近代的な[[内閣 (日本)|内閣]]制度を創設し、[[大日本帝国憲法]]の起草制定に中心的役割を果たすことにつながる。
 
明治18年([[1885年]])2月、朝鮮で起きた[[甲申政変]]の事後処理のため清に派遣され、4月18日には[[李鴻章]]との間に[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]を調印している<ref>{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=161 - 201}}、{{Harvtxt|瀧井一博|2010|pp=55 - 66, 75 - 77}}</ref>。
 
=== 初代内閣総理大臣就任 ===
明治18年(1885年)12月の内閣制度移行に際し、誰が初代[[内閣総理大臣]]になるかが注目された。衆目の一致するところは、[[太政大臣]]として名目上ながらも政府のトップに立っていた[[三条実美]]と、大久保利通の死後事実上の[[宰相]]として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。しかし三条は、[[藤原北家]]閑院流の嫡流で[[清華家]]の一つ[[三条家]]の生まれという高貴な身分、[[公爵]]である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも[[明治維新|維新]]の直前という低い身分の出身、お手盛りで[[伯爵]]になってはいるものの、その差は歴然としていた。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は、「これからの総理は赤電報(外国[[電報]])が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに[[山縣有朋]]が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の[[参議#明治政府における参議|参議]]も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務めることになる。なお、44歳2ヶ月での総理大臣就任は、2011年現在日本の[[内閣総理大臣の一覧|歴代総理大臣]]の中で最も若い記録である(2番目は[[近衛文麿]]の45歳)。維新以来、徐々に政府の実務から外されてきた[[公卿]]出身者の退勢はこれで決定的となり、以降、長きにわたって総理大臣はおろか、[[閣僚]]すらなかなか輩出できない状態となった。
 
太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいるなか、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国[[電報]])が読めなくては駄目だ」と口火を切り、これに[[山縣有朋]]が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成。これには三条を支持する保守派の[[参議#明治政府における参議|参議]]も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務めることになる。
明治19年([[1886年]])2月には各省官制を制定し、3月には[[帝国大学]](現在の[[東京大学]])を創設し、翌年3月には[[国家学会]]が創設されるが、これを支援した。
 
なお、44歳2か月での総理大臣就任は、2022年現在日本の[[内閣総理大臣の一覧|歴代総理大臣]]の最年少記録である(2番目は[[近衛文麿]]の45歳、[[日本国憲法|現行憲法]]下では[[安倍晋三]]の52歳)。維新以来、徐々に政府の実務から外されてきた[[公卿]]出身者の退勢はこれで決定的となり、以降、長きにわたって総理大臣はおろか、[[閣僚]]すらなかなか出せない状態となった。
明治20年([[1887年]])から[[夏島]]で伊東巳代治、[[井上毅]]、[[金子堅太郎]]らとともに憲法草案の検討を開始する。
 
[[第1次伊藤内閣]]では憲法発布前の下準備の機関創設に奔走、明治19年([[1886年]])2月には各省官制を制定し、3月には将来の官僚育成のため[[帝国大学]](現・[[東京大学]])を創設し、翌年3月には[[国家学会]]が創設、これを支援した。一方、井上馨を外務大臣として条約改正を任せたが、井上馨が提案した改正案に外国人判事の登用などを盛り込んだことで[[外国人司法官任用問題]]が起こって閣内分裂の危機を招いたため、明治20年([[1887年]])7月に外国へ向けた改正会議は中止、9月に井上馨が辞任したため失敗に終わった。同年6月から[[夏島町|夏島]]で伊東巳代治・井上毅・[[金子堅太郎]]らとともに憲法草案の検討を開始する。
明治21年([[1888年]])4月28日、[[枢密院 (日本)|枢密院]]開設の際に初代枢密院[[議長#議会における議長|議長]]となるために首相を辞任。
 
また[[自由党 (イギリス)|イギリス自由党]]議員で[[イギリスの鉄道史|鉄道]]事業家の[[ジャスパー・ウィルソン・ジョーンズ]]の義理の息子である[[法曹]]の[[フランシス・テイラー・ピゴット|フランシス・ピゴット]]を憲法を含む法制顧問に迎えるなどし、のちに刊行した『秘書類纂』にも数々のピゴットの論文(和訳)を納めた<ref>『[[s:貴族院議員資格及選挙争訟判決規則に対するピゴット氏意見|貴族院議員資格及選挙争訟判決規則に対するピゴット氏意見]]』など。1890年。</ref>。なおジョーンズの娘でピゴットの妻マーベルは1896年に植民地看護協会を設立しており、[[ウィンストン・チャーチル]]は新人議員のときに同協会を支援した。
=== 大日本帝国憲法発布 ===
明治22年([[1889年]])2月11日、[[黒田内閣]]のもとで[[大日本帝国憲法]]が発布される。これに際し、伊藤は[[華族同方会]]で憲法に関して演説し、立憲政治の重要性、とりわけ一般[[国民]]を政治に参加させることの大切さを主張する。また6月には『[[憲法義解]]』を刊行する。明治25年([[1892年]])には吏党の[[大成会]]を基盤にした政党結成を主張するが、天皇の反対により頓挫する。
 
明治21年([[1888年]])4月28日、枢密院開設の際に初代枢密院[[議長#議会における議長|議長]]となるために首相を辞任<ref>{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=201 - 208, 217 - 229}}、{{Harvtxt|瀧井一博|2010|pp=66 - 84}}</ref>。
=== 日清戦争 ===
 
伊藤が2度目の首相を務めていたとき、[[李氏朝鮮|朝鮮]]の[[甲午農民戦争]](東学党の乱)をきっかけに、7月に清軍と衝突、朝鮮の主権を巡って意見が対立して8月に[[宣戦布告]]、[[日清戦争]]がおこる。翌年の明治28年([[1895年]])4月に、[[陸奥宗光]]とともに全権大使として、李鴻章との間に下関の[[春帆楼]]で講和条約([[下関条約]])に調印する。
=== 大日本帝国憲法発布 ===
明治22年([[1889年]])2月11日、[[黒田内閣]]の下で[[大日本帝国憲法]]が発布される。これに際し、伊藤は[[華族同方会]]で[[憲法]]に関して演説し、立憲政治の重要性、とりわけ一般国民を政治に参加させることの大切さを主張する。また6月には『[[憲法義解]]』を刊行する。明治25年([[1892年]])には、吏党の[[大成会]]を基盤にした政党結成を主張するが、[[明治天皇]]の反対により頓挫する<ref>{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=295 - 298}}、{{Harvtxt|瀧井一博|2010|pp=92 - 103, 119}}</ref>。この時伊藤は枢密院の議長。
 
=== 第二次内閣 ===
この下関条約(馬関条約)が[[ドイツ帝国|ドイツ]]・[[フランス]]・[[ロシア帝国|ロシア]]の[[三国干渉]]を引き起こし、[[第2次伊藤内閣]]はこれを受け入れる。翌明治29年([[1896年]])8月31日、伊藤は首相を辞任する。
==== 日清戦争 ====
伊藤が明治25年から2度目の首相を務めていたとき、[[李氏朝鮮|朝鮮]]の[[甲午農民戦争]](東学党の乱)をきっかけに、7月に清軍と衝突、朝鮮の主権をめぐって意見が対立し、8月に[[日清戦争]]が起こる。翌年の明治28年([[1895年]])4月に、[[陸奥宗光]]とともに全権大使として、李鴻章との間に下関の[[春帆楼]]で講和条約の[[下関条約]](馬関条約)に調印する。また、戦争前に陸奥がイギリスと[[治外法権]]撤廃を明記した条約を結び、条約改正に大きく前進した。
 
朝鮮の独立(第一条)と[[遼東半島]]の割譲などを明記した下関条約が[[ドイツ帝国|ドイツ]]・[[フランス]]・[[ロシア帝国|ロシア]]の[[三国干渉]]を引き起こし、[[第2次伊藤内閣]]は遼東半島の放棄を決め、翌明治29年([[1896年]])8月31日、伊藤は首相を辞任する<ref>{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=309 - 373}}</ref>。
明治31年([[1898年]])1月、[[第3次伊藤内閣]]が発足。6月に[[衆議院]]を[[衆議院解散|解散]]、[[閣議]]で政党結成の意思を表明するなど、新党結成を唱えるが、山縣有朋の反対に会い首相を辞任。その後、同年8月に[[長崎県|長崎]]を出発し、朝鮮の[[漢城]]で[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]と会見。9月には清国の[[北京]]で[[愛新覚羅奕キョウ|慶親王]]・[[康有為]]らと面談、[[光緒帝]]に謁見し、10月には[[張之洞]]・[[劉坤一]]と会談している。
=== 第三次内閣 ===
明治31年([[1898年]])1月、[[第3次伊藤内閣]]が発足。6月に[[衆議院]]を[[衆議院解散|解散]]、[[閣議]]で政党結成の意思を表明するなど、新党結成を唱えるが、山縣有朋の反対に遭い首相を辞任。同年8月に[[長崎県|長崎]]を出発し、朝鮮の[[漢城]]で[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]と会見。9月には清の[[北京]]で[[愛新覚羅奕劻|慶親王]]・[[康有為]]らと面談、[[戊戌の変法|戊戌変法]]に取り組んでいた[[光緒帝]]に謁見し、10月には[[張之洞]]・[[劉坤一]]と会談している。北京滞在中の[[9月21日]]に保守派が決行した[[戊戌の政変]]に遭遇、そのときの状況と戸惑いを日本の梅子夫人に書き送っている。翌32年([[1899年]])4月から10月まで半年かけて全国遊説を行い、政党創立の準備と民衆への立憲体制受け入れを呼びかけている。また、1899年[[宮内省]]に設置された[[帝室制度調査局]]の総裁に就任し、[[皇室典範 (1889年)|皇室典範]]の増補と[[公式令]]の制定に取り組んだ。
 
=== 第四次内閣 ===
明治33年([[1900年]])には[[立憲政友会]]を創立し、初代[[総裁]]を務める。政友会はその後、[[立憲民政党]]とならぶ2大政党の1つとなり、[[大正デモクラシー]]などで大きな役割を果たすまでに成長した。また[[貴族院議長]]に就任。
明治33年([[1900年]])9月には[[立憲政友会]]を創立し、初代[[総裁]]を務める。10月に政友会のメンバーを大勢入れた[[第4次伊藤内閣]]が発足するが、政党としての内実が整わない状態での組閣だったため、内部分裂を引き起こし翌34年([[1901年]])5月に辞任。政友会はその後[[西園寺公望]]・[[原敬]]らが中心となり伊藤の手を離れるが、[[立憲民政党]]とならぶ2大政党の1つとなり、[[大正デモクラシー]]などで大きな役割を果たすまでに成長した。また[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]として[[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]]に就任する<ref>{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=393 - 405, 416 - 426, 434 - 457}}、{{Harvtxt|瀧井一博|2010|pp=120 - 129, 167 - 203}}</ref>。
 
=== 日露戦争 ===
日清戦争後、伊藤は対露宥和政策をとり、陸奥宗光井上馨らとともに[[日露協約|日露協商論]]・[[満韓交換論]]を唱え、[[ロシア帝国]]との不戦を主張した。同時に[[桂太郎]]・山縣有朋・[[小村壽太郎|小村寿太郎]]らの[[日英同盟]]案に反対した。さらに、自ら単身ロシアに渡って満韓交換論を提案するが、ロシア側から拒否される{{refnest|group=注釈|伊藤はロシアと戦うことに対しては終始慎重な態度をとり続け、「恐露病」と揶揄されることさえあった。伊藤が自らロシア入りして日露提携の道を探ったことが、逆にロシアとのあいだで[[グレート・ゲーム]]を繰り広げていたイギリスを刺激する結果となり、日英同盟締結へとつながったことはよく知られている。<ref>[[黒岩比佐子]]『日露戦争 勝利のあとの誤算』[[文藝春秋]]&lt;[[文春新書]]&gt;、2005年10月。{{ISBN2|4-16-660473-2}}、10頁</ref>}}
 
明治37年([[1904年]])から始まった[[日露戦争]]を巡っては、金子堅太郎をアメリカに派遣し、[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[セオドア・ルーズベルト]]に講和の斡旋を依頼している{{refnest|group=注釈|金子が「そのような重大な使命は果たせない」と固辞すると、伊藤は「ロシアが九州海岸へ来襲すれば自分も武器をとって戦う覚悟だ」と説き、金子はその気迫に感銘を受けて渡米を決意したといわれる。<ref>[[猪木正道]]『軍国日本の興亡』中央公論社<中公新書>、1995年3月。{{ISBN2|4-12-101232-1}}、36頁</ref>}}。これが翌38年([[1905年]])の[[ポーツマス条約]]に結びつくことになる。なおこの日露の講和に際して、首相の桂が日本の全権代表として最初に打診したのは、外相の小村ではなく伊藤であった。桂内閣は、講和条件が日本国民に受け入れがたいものになることを当初から予見し、それまで4度首相を務めた伊藤であれば国民の不満を和らげることができるのではないかと期待したのである。伊藤ははじめは引き受けてもよいという姿勢を示したのに対し、彼の側近は、戦勝の栄誉は桂が担い、講和によって生じる国民の反感を伊藤が一手に引き受けるのは馬鹿げているとして猛反対し、最終的には伊藤も全権大使への就任を辞退した<ref>{{Harvtxt|黒岩比佐子|2005|pp=9 - 10}}</ref>。また交渉の容易でないことをよく知っていた伊藤は、全権代表に選ばれた小村に対しては「君の帰朝の時には、他人はどうあろうとも、吾輩だけは必ず出迎えにゆく」と語り、励ましている<ref>{{Harvtxt|猪木正道|1995|pp=56 - 62}}</ref>。講和後は、勝利を手にした日本と敗戦国ロシアとの間の戦後処理に奔走した<ref>{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=458 - 495}}</ref>。
[[日露戦争]]をめぐっては、金子堅太郎をアメリカに派遣し、[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[セオドア・ルーズベルト]]に講和の斡旋を依頼している。これが[[ポーツマス条約]]に結びつく。講和後は、戦後処理に奔走する。
 
=== 韓国統監府初代韓国統監 ===
{{ページ番号|節|date=2015年10月21日 (水) 10:30 (UTC)}}
[[ファイル:Hirobumi Ito and Yi Un.JPG|thumb|200px|[[大韓帝国]][[皇太子]][[李垠]](右)と伊藤]]
[[ファイル:Hirobumi ItoPrince_Ito_and_Crown_Prince_of_Korea.jpg|thumb|200px|[[長谷川好道]][[大日本帝国陸軍|陸軍]][[陸軍大将#大日本帝国陸軍の大将|大将皇太子]]と共に[[統監府李垠]]へ向かう(右)と伊藤博文(手前)]]
[[ファイル:Hirobumi Ito.jpg|thumb|200px|[[長谷川好道]][[陸軍大将]]と共に[[統監府]]へ向かう伊藤(手前)]]
明治38年([[1905年]])11月、[[第二次日韓協約]]{{refnest|group=注釈|韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ。}}により[[統監府|韓国統監府]]が設置されると伊藤が初代統監に就任した。以降、日本は実質的な[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮の統治権を掌握]]した{{refnest|group=注釈|広義の日本統治時代として[[韓国併合]]時代の35年と[[保護国]]時代の5年をひとつながりでとらえることもある。}}。
 
伊藤は国際協調重視派で、[[中国大陸|大陸]]への膨張を企図して韓国の直轄を急ぐ山縣有朋や桂太郎・[[寺内正毅]]ら[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍閥]]としばしば対立した<ref>『伊藤博文と韓国併合』 [[青木書店]]</ref>。また、[[韓国併合]]について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取っていた。近年発見された伊藤の明治38年(1905年)11月の日付のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、これについて[[京都大学]]教授の[[伊藤之雄]]は「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」としている<ref>[https://web.archive.org/web/20120627072845/https://datazoo.jp/w/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E4%B9%8B%E9%9B%84/3922728 2010年8月22日放送 7:00-7:45 NHK総合]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20100824014714/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20100822/k10013492101000.html 韓国併合 伊藤博文のメモ見つかる] 2010年8月22日 NHKニュース・オンライン。</ref>。実際に、この文言は「第二次日韓協約」に盛り込まれ、調印された。
明治38年([[1905年]])11月の[[第二次日韓協約]](韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)によって[[大韓帝国]]が[[大日本帝国]]の[[保護国]]となり、[[統監府|韓国統監府]]が設置されると初代統監に就任した。日本は実質的な[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮の支配権を掌握]]した(広義の日本統治時代として植民地時代35年と保護国時代5年をひとつながりでとらえることもある)。
 
伊藤は韓国民の素養を認め韓国の国力自治力が高まることを期待し、韓国での教育にも力を注いだ。[[1907年]]4月14日、韓国に赴任する日本人教師たちの前で「徹頭徹尾誠実と親切とをもって児童を教育し裏表があってはならないこと」「宗教は韓国民の自由でありあれこれ評論しないこと」「日本人教師は余暇を用いて[[朝鮮語]]を学ぶこと」を訓諭した<ref>『伊藤博文演説集』〜普通教育に従事する日本人教師への訓諭〜(講談社学術文庫)</ref>。また明治40年([[1907年]])7月、京城(ソウル)にて新聞記者たちの前でも「日本は韓国を合併するの必要なし。韓国は自治を要す」と演説していた<ref name="#1">『伊藤博文演説集』(講談社学術文庫)</ref>。
伊藤は国際協調重視派で、[[中国大陸|大陸]]への膨張を企図して韓国の直轄[[植民地]]化を急ぐ山縣有朋や桂太郎・[[寺内正毅]]ら[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍閥]]と、しばしば対立した<ref>『伊藤博文と韓国併合』 [[青木書店]]</ref>。また、[[韓国併合]]について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取っていたが、統監であったことが韓国国民の恨みを買うことになり、朝鮮人[[安重根]]の[[暗殺]][[テロリズム|テロ]]に繋がり韓国併合を加速させた。近年発見された伊藤の明治38年(1905年)11月の日付のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、これについて伊藤博文研究の第一人者とされる[[京都大学]]教授の[[伊藤之雄]]は、「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」としている<ref>[http://datazoo.jp/w/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E4%B9%8B%E9%9B%84/3922728 2010年8月22日放送 7:00-7:45 NHK総合]</ref>。
 
明治42年([[1909年]])、統監を辞任、[[枢密院議長]]に復帰した。
[[原田豊次郎]]著『伊藤公と韓国』(日韓書房、1909年11月)に、韓国駐在の日本人記者を相手にした伊藤の演説の要旨が掲載されている<ref name="小島毅">[[小島毅]]『歴史を動かす―東アジアのなかの日本史』[[亜紀書房]]、2011/8/2、{{ISBN2|978-4750511153}}、p62-p63</ref>。「今回事件」とは、[[ハーグ密使事件]]のことであるが、日本人記者を相手にした演説であり、伊藤の本音か確証はないが、[[小島毅]]は「私は本音ととっていいのではないかと思います。研究者もそのようにとっています」「日韓併合については懐疑的な人」としている<ref name="小島毅"/>。
{{Quotation|吞噬は日本の意にあらず。韓国人は動もすれば日本の意を誤解す、日本は決して此の如き意思を有する者にあらず、素より之を敢てする者にあらざる也。又今回事件の起生せるを機とし、韓国を併合すべしと論ずる日本人ありと云ふ。余は合併の必要なしと考ふ。合併は却て厄介を増すに過ぎず、宜しく韓国をして自治の能力を養成せしむべき也。縦令国富み兵強くなるも、韓国の戈を倒にして我に打ちかかり来るが如き憂はなかるべし。韓国の富国強兵は日本の希望する所なれども、唯一の制限は韓国が永く日本と親しみ、日本と提携すべき事即ち是也。かの独逸連邦[[ヴュルテンベルク|ウルテンブルグ]]の如く韓国を指導し勢力を養成し、財政経済教育を普及して、遂には連邦政治を布くに至るやう之を導くを恐らくは日本の利益なりと、余は信ずる者也。}}
 
しかし、朝鮮内で独立運動である[[義兵闘争]]が盛んになるにつれて考え方を変え、明治42年(1909年)4月、時の首相・桂太郎と外相小村壽太郎が伊藤に恐る恐る「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策なかるべき事由を陳述」すると「公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明」し、なおかつ桂・小村の提示した「併合の方針」についても「その大綱を是認」した。その2週間後の東京での演説でも伊藤は「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせり」と併合を示唆し聴衆を驚かせたという。そして同年5月、統監職を辞職する。伊藤の翻意を確認した桂と小村は「対韓大方針」と「対韓施設大綱」を作成し「韓国」を併合する方針を明らかにした。韓国保護国化政策にまったく未練がなくなった伊藤は統監辞職後、4度目の枢密院議長に就任し、事後処理の為訪韓し陣頭指揮に立ち「韓国」政府に「韓国司法及監獄事務委託に関する覚書」を調印させ、また「韓国軍部廃止勅令公布」を行わせた<ref>伊藤博文伝 春畝公追頌会</ref>。併合方針の閣議決定に反対した形跡はない(適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事 明治42年([[1909年]])[[7月6日]])。また、伊藤は統監として日本の政策に対する韓国国民の恨みを買うこととなり、それは朝鮮民族主義者の[[安重根]]による暗殺事件につながった。事件に動揺した親日派は韓国併合を加速させたが、前述の通り、併合方針は事件前に内閣の閣議で決まっていた。
 
==== 年表 ====
*[[1905年]]11月、特派大使として韓国に渡り、ポーツマス条約に基づいて第二次日韓協約(韓国保護条約)を締結する。
*1905年11月22日、投石により韓国内で負傷する<ref>『伊藤博文伝』下巻p702</ref>。
*1905年12月、韓国統監府が設置され、初代統監に就任する。
*[[1906年]]2月、日本公使館を韓国統監府に改め、国内12か所に理事庁、11か所に支庁を置く。
*[[1907年]]6月、ハーグ密使事件。
*1907年7月、京城(ソウル)にて新聞記者達の前で「日本は韓国を合併するの必要なし」と演説する<ref name="#1"/>。
*[[1908年]]、韓国銀行(のちの朝鮮銀行)を設立する<ref name="#2">『ひと目でわかる「日韓併合」時代の真実』(PHP出版社)</ref>。
*1908年9月、京城(ソウル)に朝鮮皇室博物館(現・[[韓国国立中央博物館]])を造営する<ref name="#2"/>。
*[[1909年]]6月、韓国統監を辞任する。
*1909年10月26日、[[ハルビン駅]]で[[安重根]]に暗殺される。これが日本国内に報じられると、翌10月27日に[[国葬]]を行う旨の勅令314号が公布された。
*1910年8月29日韓国併合により朝鮮総督府が設置されたが、統監府及び所属官署は、当分の間存続し、朝鮮総督の職務は統監が行使するとされた。
 
=== 暗殺 ===
{{Main|伊藤博文暗殺事件}}
伊藤は、亡くなる1か月前に[[高杉晋作]]の顕彰碑に、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するものなし。これ、我が東行高杉君に非ずや」で始まる[[碑文]]を寄せている。
 
暗殺の1か月前、伊藤は高杉晋作の顕彰碑に「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するものなし。これ、我が東行高杉君に非ずや」で始まる[[碑文]]を寄せている。また、満洲での道中の旅順での歓迎会で「戦争の屡々起るは国家の不利益なるのみならず、人道のためにも好ましからず」、しかし「将来に国威を失墜せざらんと欲せば、多大の軍費は国民の負わざるを得ざる義務なり」などとする演説をした<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/1043541/1/476 伊藤博文伝 下 再販・第34編第4次枢密院議長時代]</ref>。
また、ハルビンで暗殺される前の歓迎会でのスピーチで「[[戦争]]が国家の利益になることはない」と語っている<ref>『実録 首相列伝』[[学研ホールディングス|学研]]</ref>。
[[ファイル:Ito_before_death.jpg|サムネイル|ハルビン駅に降り立った、暗殺直前の伊藤]]
明治42年(1909年)10月、[[ロシア帝国]][[財務大臣|蔵相]][[ウラジーミル・ココツェフ]](ココフツォフ)と[[満州]]・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れた[[ハルビン駅]]で、[[大韓帝国]]の民族運動家[[安重根]]によって狙撃された。このとき伊藤は「3発あたった。相手は誰だ」と叫んだという。安はロシア官憲にその場で捕縛された。伊藤は絶命までの約30分間に、側近らと幾つか会話を交わしたが、死の間際に、自分を撃ったのが[[朝鮮人]]だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれる。また、伊藤の孫にあたる伊藤満洲雄の話によれば、「俺は駄目だ。誰か他にやられたか?」と聞き、[[森槐南]]も傷ついたと知って「森もやられたか…」と言ったのが、伊藤の最後の言葉であったとされる。享年69。[[11月4日]]に[[日比谷公園]]で[[国葬]]が営まれた。
明治42年(1909年)10月26日、ロシア[[財務大臣|蔵相]][[ウラジーミル・ココツェフ]](ココフツォフ)と[[満洲]]、朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れた[[ハルビン駅]]で、[[大韓帝国]]の民族運動家[[安重根]]によって[[射殺]]された。
 
このとき、伊藤は「三発貰った、誰だ」と叫んだという。安はロシア官憲にその場で捕縛された。伊藤は絶命までの約30分間に、側近らといくつか会話を交わしたが、死の間際に自分を撃ったのが[[朝鮮人]]だったことを知らされ「そうか。馬鹿な奴じゃ」と呟いたといわれる<ref>『親日派のための弁明』{{ISBN2|4-594-04845-5}}</ref>。また、伊藤の孫にあたる伊藤満洲雄の話によれば「俺は駄目だ。誰か他にやられたか?」と聞き、[[森槐南]]も傷ついたと知って「森もやられたか……」と言ったのが、伊藤の最期の言葉だったという。[[享年]]69。{{Main|伊藤博文の国葬}}
伊藤の死に際しては、
[[11月4日]]に[[日比谷公園]]で[[国葬]]が営まれた<ref>{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=564 - 576}}</ref>。
{{quotation|伊藤のしたことに過失はあっても悪意はなく、あれくらい公平に国家のためを思えば、まず立派な政治家といってよかろう。|(政敵であった)[[尾崎行雄]]}}
{{quotation|韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで 起こった。その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた 高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。公を泰西の政治家と比較するに、公は[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]の如く武断的でなく、 平和的であったことはむしろ[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]に類するところである。|[[エルヴィン・フォン・ベルツ]]}}
{{quotation|我輩は伊博(伊藤博文の略)を平凡の常人なりとは云はない、されど彼の死は世界の大損失ドコロか、日本の小損失にもあらずとするのである。(中略)明治十三四頃、國會願望者なる者全國に蜂起して東京に押寄せ、若し之を聴かずんば極端の暴動も起こるべき[[世論|輿論]]の大勢に迫られ、餘義なく十年後を期して輿望を達せしむる事にしたのであって、在朝伊博の輩は、只其時代の要求に屈服したに過ぎないのである。斯かる輩を指して立憲の大元首と賞揚するが如きは、往事迫害を恐れずして[[自由民権運動|自由民権]]の論を主張せし民間の志士を無視するの甚だしき者である。(中略)非命の死に同情を寄せて、死者を哀惜するのは人情の常であるから、我輩とても亦其事を非難しないが、其程度を過ごせし没理狂的の哀惜には寧ろ大反対である。|[[宮武外骨]]|『大阪滑稽新聞』11月25日号、通巻26号}}
などの評価がある。宮武の評価は当時、異例のものであった。これまで伊藤を攻撃していたマスメディアまでも、その死に際して伊藤の死を日本の損失だと伝え、「明治維新の大功臣、憲法政治の大元首、古今無類の大偉人を失ひたりと嘆き」と、伊藤を高く評価した。
 
安重根はただちに捕縛され、共犯者の[[禹徳淳]]、[[曹道先]]、[[劉東夏]]の3名もまたロシア官憲に拘禁された。日本政府は彼らを[[関東都督府]][[地方法院]]に移し、明治43年([[1910年]])2月14日、安に[[死刑]]、禹に[[懲役]]2年、曹と劉に懲役1年6か月の判決を下した。
暗殺に関しては、安重根単独説のほかにも、暗殺時に伊藤の着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説もある<ref>上垣外憲一『暗殺・伊藤博文』ちくま新書、2000年、大野芳『伊藤博文暗殺事件 闇に葬られた真犯人』新潮社、2003年、海野福寿『伊藤博文と韓国併合』青木書店、2004年</ref>。
 
暗殺に関しては、安重根単独説のほかにも、異説が存在する<ref>[[#高松宮日記2巻]]263-264頁『六月九日(略)東京での話で、[[武藤山治 (実業家)|武藤氏]]の暗殺は刺客をまたその場で殺した人があるのださうだ。刺客の頭の弾丸ハ「ピストル」が異る弾丸ださうだ。その黒幕はまだ不明とか。ほんとに世の中がメンドウになる。そしたらハルピンの伊藤侯の殺されたのも、安重根ではなく、その時は弾丸とピストルを比べなかつたから、どうも近くの二階窓から打つたらしいと云ふ(その時ゐた人の話で疑つてゐるとのこと)。』</ref>。具体的には、暗殺時に伊藤が着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説もある<ref>[[上垣外憲一]]『暗殺・伊藤博文』ちくま新書、2000年、[[大野芳]]『伊藤博文暗殺事件 闇に葬られた真犯人』新潮社、2003年、[[海野福寿]]『伊藤博文と韓国併合』青木書店、2004年</ref>。当時伊藤に随行した[[室田義文]]首席随行員がおよそ30年後に話した舞台の真相によると、彼の肉に埋まっていた弾丸が安重根の[[ジョン・ブローニング|ブローニング]]7連発拳銃用のものではなく、フランス騎馬隊[[カービン|カービン銃]]用であり、また弾丸があけた穴の向きが下向きであることがおかしく、安重根からならば上向きになるはずであり、彼への命中弾は駅の上の食堂あたりからではなかろうか、ということである<ref>口述筆記の自叙伝『[https://books.google.co.jp/books?id=X3waPQAACAAJ&redir_esc=y&hl=ja 室田義文翁譚]』(共編: [[田谷広吉]]・[[山野辺義智]]、常陽明治記念会東京支部、1938年)</ref>。しかし室田は事件当時は混乱していたためか、安重根の裁判では「数発爆竹の如き音を聞きたるも狙撃者ありしことを気付かず、少時して洋服を着たる一人男が、露国軍隊の間より身を出して、拳銃を以て自分の方に向ひ発射するを認め、初めて狙撃者あることを知り(中略)狙撃当時の模様は是以外に知らず」と証言した<ref name="Asada">{{Cite journal|和書|author=[[麻田雅文]] |date=2012 |title=日露関係から見た伊藤博文暗殺 : 両国関係の危機と克服|url=https://hdl.handle.net/10097/53686|volume=16|pages=1-26|issn=1343-9332|journal=東北アジア研究|publisher=東北大学東北アジア研究センター}}</ref>。
== 死後 ==
[[ファイル:Grave of ito hirobumi nishioi shinagawa tokyo 2009.JPG|thumb|200px|[[東京都]][[品川区]][[西大井]]にある伊藤博文の墓。毎年命日([[10月26日]])前後に内部公開される。公開日は品川区HPにて記載される。]]
[[ファイル:Series C 1K Yen Bank of Japan note - front.jpg|246px|right|C号券(表)]]
[[ファイル:Series C 1K Yen Bank of Japan note - back.jpg|246px|right|C号券(裏)]]
埋葬は[[東京都]][[品川区]][[西大井]]六丁目の伊藤家墓所。霊廟として、[[山口県]][[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]][[大和町 (山口県)|大和町]]束荷(現[[光市]]束荷)の伊藤公記念公園内に伊藤神社があったが、[[昭和]]34年([[1959年]])に近隣の束荷神社境内に遷座した。記念公園には生家(復元)や[[銅像]]、伊藤公記念館、伊藤公資料館などがあり、[[サクラ|桜]]に混じって韓国国花[[ムクゲ]]が植えられている。[[平成]]18年([[2006年]])5月、山口県はこの公園に隣接した山林に、森林づくり県民税で「伊藤公の森」を整備して光市に引き渡した。後に[[日本銀行券]][[千円紙幣#C号券|C千円券]]([[1963年]][[11月1日]] - [[1984年]]11月1日発行)の肖像として採用された。
 
また別の例では、暗殺現場を間近で目撃したココツェフ蔵相が当日ただちに駐日大使に宛てて電報を次のように打っている。「……陰謀は明らかに組織的なものだった。昨晩、蔡家溝駅で我が警察はブローニング銃を持った3人の疑わしい朝鮮人たちをすでに逮捕していたという……」([[ウラジーミル・ココツェフ| {{lang|ru|В.Н. Коковцов}}]] - {{lang|ru|Н.А.Малевский-Малевичу 13 октября 1909 г. // АВПРИ, Ф. 150, Оп. 493, Д. 171, Л. 175}})<ref name="Asada" />。
安重根は暗殺後直ちに捕縛され、共犯者の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名もまたロシア官憲に拘禁された。日本政府は安らを[[関東都督府]][[地方法院]]に移し、明治43年([[1910年]])2月14日、安を[[死刑]]に、禹を[[懲役]]2年に、曹および劉を懲役1年6か月に処する判決が下された。
 
暗殺の報道は暗号電報を受けた[[五十嵐秀助]]電信技師が、全文を受ける前に金子堅太郎に電話した。彼はただちに大磯の別荘に急ぎ梅子夫人に見舞いの言葉を述べたが、夫人は涙一つ落とさなかった。「伊藤は予てから自分は畳の上では満足な死にかたはできぬ、敷居をまたいだときから、是が永久の別れになると思ってくれといっていた」という<ref>{{Harvtxt|松村正義|2014}}</ref>。
[[大韓民国|韓国]]では、[[2009年]]10月26日を「安重根が国権剥奪の元凶・伊藤博文をハルビンで狙撃した義挙から100周年に当たる」と位置付け、これに合わせ新しい記念館を[[ソウル特別市|ソウル]]南山にある現在の記念館付近に建設することを計画している。
 
[[1910年]](明治43年)2月、ロシア人が伊藤暗殺時の実写フィルムを日本に持ち込み、国技館で公開した<ref>{{Cite book |和書 |author=下川耿史 家庭総合研究会 編 |title=明治・大正家庭史年表:1868-1925 |publisher=河出書房新社 |year=2000 |page=359 |isbn=4-309-22361-3}}</ref>。
 
== 死後 ==
[[ファイル:Series C 1K Yen Bank of Japan note - front.jpg|thumb|200px|右|千円券の伊藤博文肖像]]
埋葬は[[東京都]][[品川区]][[西大井]]六丁目の伊藤家墓所。霊廟として、[[山口県]][[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]][[大和町 (山口県)|大和町]]束荷(現[[光市]]束荷)の伊藤公記念公園内に伊藤神社があったが、[[昭和]]34年([[1959年]])に近隣の束荷神社境内に遷座した。記念公園には生家(復元)や[[銅像]]、伊藤公記念館、伊藤公資料館などがある。[[平成]]18年([[2006年]])5月、山口県はこの公園に隣接した山林に、森林づくり県民税で「伊藤公の森」を整備して光市に引き渡した。のちに[[日本銀行券]][[千円紙幣#C号券|C千円券]]([[1963年]][[11月1日]] - [[1984年]]11月1日発行)の肖像として採用された。
 
== 人物・業績 ==
===; 明治天皇との関係 ===
: 4度も内閣総理大臣を務めた国家の重鎮・伊藤と[[明治天皇]]の関係は常に良好であったわけではない。明治10年代([[1877年]] - [[1886年]])、天皇は[[元田永孚]]・[[佐々木高行]]ら保守的な宮中側近らを信任したため、近代化を進める伊藤ら[[太政官 (明治時代)|太政官]]首脳との関係は円滑でないこともあった(後年、伊藤が初代の内閣総理大臣と宮内大臣を兼ねた背景には宮中保守派を抑えるとともに、天皇に[[立憲君主制]]に対する理解を深めてもらう面があり、[[機務六条]]を天皇に提示して認めてもている)。また、伊藤が立憲政友会を結成する際には政党嫌いの天皇の不興を買い、その説得に苦慮したという。
: しかし、明治天皇は伊藤を信頼していた。明治天皇の好みの性格は、お世辞を言わない無骨な正直者で、金銭にきれいなことだった。伊藤はこれに当てはまり、伊藤に私財のないこと{{refnest|group=注釈|私的蓄財はほとんどないとされていた伊藤だが、実は公債だけで14万円(2009年換算で約28億円)も溜め込んでいたことが明らかになっている<ref>{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=412 - 413}}</ref>。}}を知った明治天皇は、明治31年([[1898年]])に10万円のお手許金を伊藤に与えている。ただし、後述にもある伊藤の[[芸者]]好きに対してはほどほどにするようにと苦言を呈したこともあった。日露戦争開戦直前の[[御前会議]]当日の早朝、伊藤に即刻参内せよという勅旨が下り、伊藤が参内すると明治天皇は夜着のまま伊藤を引見し「前もって伊藤の考えを聞いておきたい」と述べた<ref name=miyoshi/>。これに対し伊藤は「万一わが国に利あらずば、畏れながら陛下におかせられても重大なお覚悟が必要かと存じます」と奏上した<ref name=miyoshi/>。また、伊藤は天皇から、東京を離れてはならぬとまで命じられていた<ref name=miyoshi>{{Cite book|和書|editor=学習研究社編集部|editor-link=学研ホールディングス|year=2003|month=7|title=実録首相列伝 国を担った男達の本懐と蹉跌|series=歴史群像シリーズ 70号|publisher=学習研究社|isbn=4-05-603151-7|ref=学習研究社2003|page=48}}</ref>。
; 女子教育
: 明治19年(1886年)、当時あまり顧みられていなかった[[女子教育]]の必要性を痛感した伊藤は、自らが創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会(翌年「女子教育奨励会」)」を創設した。委員には、伊藤の他に[[実業家]]の[[渋沢栄一]]、[[岩崎弥之助]]や、[[東京帝国大学]]教授の[[ジェームズ・メイン・ディクソン|ジェムス・ディクソン]]らが加わり、[[東京女学館]]を創設するなど女子教育の普及に積極的に取り組んだ。また、伊藤は[[日本女子大学]]の創設者、[[成瀬仁蔵]]から[[女子大学]]設立計画への協力を求められ、これに協力した。
: 女子教育者であった[[津田梅子]]とは[[岩倉使節団]]で渡米のとき同じ船に乗ってからの交流があった。日本に帰ってから津田は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在し、伊藤の娘の[[家庭教師]]となり、また「桃夭女塾」へ英語教師として通っている。津田は明治18年([[1885年]])に伊藤に推薦され、[[学習院]]女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった。また、津田とは気が合ったのか、帰宅してから家庭教師の津田と国の将来について語り合っていた。伊藤からみれば津田は同じ日本人の婦人というよりは、顧問のつもりであったという<ref>[[大庭みな子]]『津田梅子』朝日文芸文庫、朝日新聞社、{{ISBN2|4-02-264013-8}}</ref>。
;暮らしぶり
: 衣食住には頓着しない性格で、大磯で伊藤と隣り合わせで住んでいた[[西園寺公望]]は食事に招かれても粗末なものばかりで難渋したといい、晩年には私邸の滄浪閣を売り払って[[#住居|大井の恩賜館]]にでも隠棲しようかと梅子夫人を呆れさせてもいる。首相在任時にも自室の装飾などには無関心で、人から高価な珍品をもらっても惜しげもなく他人に贈ってしまったりしている。庭掃除などを官邸の使用人が手抜きしても気にもかけず、そのため次の総理が伊藤と知るや、使用人一同万歳したと言われている<ref>[[御厨貴]]編 『歴代首相物語』新書館、{{ISBN2|4-403-25067-X}} (伊藤の項目は[[坂本一登]]が執筆)</ref>。
; 女好き
: 女好きは当時から有名であり、女遊びの相手が掃いて捨てるほどいたことから「箒」(ほうき)という綽名(あだな)がついた。時には先述の明治天皇にすら「少し女遊びを控えてはどうか」と窘められたこともあるという。地方に行った際には一流の[[芸者]]ではなく、二流三流の芸者をよく指名していたという。これは、伊藤の論理によると「その土地々々の一流の芸者は、地元の有力者が後ろ盾にいる。そういう人間と揉め事を起こさないようにするには、一流ではない芸者を指名する必要がある」とのことであった。40度の高熱に浮かされているときでも両側に芸者2人をはべらせたという。[[柳橋_(花街)|柳橋]]の16歳の芸者りょうを[[大正天皇]]の伯父・[[柳原前光]]と後落を争い、結果、前光が囲って産まれたのが[[柳原白蓮]]である。このさまを[[宮武外骨]]は自身が発行する一連の新聞で、好色漢の代表格としてパロディの手法を使い、たびたび取り上げていた。しかし実際は、伊藤にはそれほど多くの子どもはできなかった。衆議院議員[[松本剛明]]はその子孫の一人である。
: ちなみに、日本で最初の[[カーセックス]]を行った人物と言われる。
; 民族衣装
: [[ファイル:Hirobumi Ito as Governor of Korea.jpg|thumb|250px|[[韓服|韓国の民族衣装]]を着て記念撮影におさまる伊藤(韓国統監時代、前列左から2番目が梅子夫人)]]
: 伊藤と妻の梅子が[[韓服|韓国の民族衣装]]を着ている写真が遺されている<ref>[[扶桑社]]刊の『[[新しい歴史教科書]]』と[[小学館]]刊の『21世紀子ども百科 歴史館』に所収。</ref>。韓国統監として[[朝鮮人]]の民族衣装を身に纏った。伊藤はまた韓国皇太子[[李垠]]を日本に招き、[[日本語教育]]を行っている。
; 操り人形発言
: [[お雇い外国人]]であったドイツ人医師の[[エルヴィン・フォン・ベルツ]]は『ベルツの日記』の中で、伊藤が会議の席上、半ば[[有栖川宮威仁親王]]の方を向き「[[皇太子]]に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、到るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言いながら、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたことを紹介している。
; 通称の変遷
: 当初は自身の曽祖父「利八郎」と「助左衛門」から「利」と「助」をとり「利助(りすけ)」と名づけられたが、「としすけ」とも読み「としすけ」の音から「俊輔」とも書かれるようになり、そうなると今度は「しゅんすけ」と読まれることになり、その音から「春輔」とも表記され、さらには「しゅんぽ」と読まれたため、最終的に「春畝」を[[雅号|号]]にしたものである。
; フグ料理との関わり
: 古来、毒魚とされ、明治維新後も食用を禁止されていたふぐ料理を明治21年(1888年)、周囲の反対を押し切って下関にて食した際に大変気に入り、当時の山口県知事に解禁するよう語って食用商用のきっかけをつくったと伝えられている。
 
; 父十蔵の厳しい教育と少年時代の厳しい境遇
しかし、明治天皇は伊藤を信頼していた。明治天皇の好みの性格は、お世辞を言わない無骨な正直者で、金銭にきれいなことだった。伊藤はこれに当てはまり、伊藤に私財のないこと<ref>私的蓄財はほとんどないとされていた伊藤だが、実は公債だけで14万円(2009年換算で約28億円)も溜め込んでいたことが明らかになっている。[[伊藤之雄]]『伊藤博文 近代日本を創った男』[[講談社]]、2009年</ref>を知った明治天皇は、[[1898年]](明治31年)に10万円のお手許金を伊藤に与えている。ただし、後述にもある伊藤の[[芸者]]好きに対してはほどほどにするようにと苦言を呈したこともあった。日露戦争開戦直前の[[御前会議]]当日の早朝、伊藤に即刻参内せよという勅旨が下り、伊藤が参内すると明治天皇は夜着のまま伊藤を引見し、「前もって伊藤の考えを聞いておきたい」と述べた。これに対し伊藤は「万一わが国に利あらずば、畏れながら陛下におかせられても重大なお覚悟が必要かと存じます」と奏上した。また、伊藤は天皇から「東京を離れてはならぬ」とまで命じられていた<ref>以上引用『実録 首相列伝』学研より。</ref>。
: 萩における利助は、「小若党」として藩士諸家のもとで雑用を務めていた。ある日、利助の仕事ぶりを十蔵が密かに窺ったことがある。十二歳の利助は福原家の玄関近くの一間で、夜中一人で留守番をしていたが、父の姿に気付いて、泣きながらこれにすがりつかんとした。父は子を厳しく叱りつけ、そのまま去ったという<ref name="#3">『史疑 幻の家康論』46頁</ref>。
 
: 児玉家に奉公していた時期、他家を訪問していた主人は、雪が降ってきたので、履物を借りて帰宅した。主人は利助に命じ、その履物を先方に返却してくるようにと言った。利助は大雪を冒して出かけ、その帰り道、余りの寒さに実家に立ち寄らんとする。しかし父は、白湯一杯さえ与えず利助を追い返したという<ref name="#3"/>。
=== 女子教育 ===
明治19年([[1886年]])、当時あまり顧みられていなかった、[[女子教育]]の必要性を痛感した伊藤は、自らが創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会」を創設した(翌年には「女子教育奨励会」となる)。委員には、伊藤の他に[[実業家]]の[[渋沢栄一]]、[[岩崎弥之助]]や、[[東京帝国大学]]教授のジェムス・ディクソンらが加わり、[[東京女学館]]を創設するなど女子教育の普及に積極的に取り組んだ。また、伊藤は[[日本女子大学]]の創設者、[[成瀬仁蔵]]から[[女子大学]]設立計画への協力を求められ、これに協力した。
 
; 伊藤公爵家系譜
女子教育者であった[[津田梅子]]とは[[岩倉使節団]]で渡米のとき同じ船に乗ってからの交流があった。日本に帰ってから津田は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在し、伊藤の娘の[[家庭教師]]となり、また「桃夭女塾」へ英語教師として通っている。津田は明治18年([[1885年]])に伊藤に推薦され、[[学習院]]女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった。また、津田とは気が合ったのか、帰宅してから家庭教師の津田と国の将来について語り合っていた。伊藤からみれば津田は同じ日本人の婦人というよりは、顧問のつもりであったという<ref>大庭 みな子『津田梅子』朝日文芸文庫、朝日新聞社、ISBN 4022640130</ref>。
:『伊藤博文伝』の冒頭には、「伊藤公爵家系譜」というものがある。全九ページにわたっていて、その始祖は[[孝霊天皇]]ということになっている<ref>『史疑 幻の家康論』60頁</ref>。
 
; その他のエピソード
=== 芸者好き ===
: [[ファイル:Marquis Itō with Marquis Yamagata.jpg|thumb|250px|1896年(明治29年)1月、[[小田原市|小田原]][[滄浪閣]]におけるの伊藤博文と山縣有朋]]
女好きは当時から非常に有名であり、女性とよく遊ぶことから「[[箒]]」(女が掃いて捨てる程いたため)というあだ名がついた。また、[[宮武外骨]]の発行した一連の新聞では、好色漢の代表格として[[パロディ]]の手法を使い伊藤を度々取り上げた(それに次ぐのが、同じ艶福家として知られていた[[松方正義]]である)。地方に行った際には一流の[[芸者]]ではなく、二流・三流の芸者をよく指名していたという。これは、伊藤の論理によると「その土地その土地の一流の芸者は、地元の有力者が後ろ盾にいる。そういう人間と揉め事を起こさないようにするには、一流ではない芸者を指名する必要がある」とのこと。40度の高熱に浮かされている時でも両側に芸者ふたりをはべらせたという。もっとも、同じ女好きの松方とは違って伊藤にはそれほど多くの子供はできなかった。衆議院議員[[松本剛明]]は子孫の一人。
: 当時[[大磯町|大磯]]には伊藤をはじめ、政治家の[[別荘|別邸]]が立ち並んでいたが、土地には伊藤の人柄について次のような逸話が残っている。「山縣は護衛の人が付き、陸奥は[[仕込み刀|仕込み杖]]をもつて散歩するが、伊藤博文は、平服で一人テクテク歩き、時には着物のしりをはしょつた姿で出歩き、農家に立ち寄り話しかけ、米の値段や野菜の価格なども聞き、暮らしのことなども畑の畦に腰掛け老人相手に話すことがあった。村の農民や漁民などは伊藤を「テイショウ(大将)」と気軽に呼んで、話しかけた」
: 憲法制定に際して担当官に対し「新憲法を制定するに、伊藤は一[[法律学者]]であり、汝らもまた一法律学者である。それ故、我が考えが非也と思わば、どこまでも非也として意見せよ。意見を争わせることがすなわち新憲法を完全ならしめるものである」と訓示している<ref>[http://www.jalsa.jp/kiji/6-11.pdf 一般社団法人全国日本語学校連合 留学生のための物語日本史]</ref>。今よりも特権意識の強い時代の政治家としては異例の見識であるとされている。
 
=== 民族衣装嗜好 ===
*[[関直彦]] 「伊藤伯もまた葉巻を好まる。嘗て余が東京日日新聞の社長たりし時、しばし伺候しては度々御厄介になりしのみか、憲法発布後その自著の憲法訳義一冊を自著して贈られたれば、その御礼に何がなと思いつつ葉巻が嗜好と気付きたれば、横浜に出向き、洋館の煙草屋にて一本一円ばかりの葉巻(専売前ゆえ、今日の二円のものより遥かに上等のもの)を二箱(五十本)を贈呈せり。その後十日ばかりを経て、再び伺候せしに、公は御機嫌にて、『関、貴公もシガーが好きらしいが、良い葉巻を一本分けてやろう、喫んで見よ』とて一本を割愛せらる。見れば先日余より贈呈したるものなるが、公は之を忘れられて、自慢せられて余に分かたれしものなりき。頭にはただ国家あるのみ、誰から何を贈られしか、そんな小事は気にも止めず、とんと忘却せらるるも誠に無理ならぬことなり。余としては進呈せしものが、公の意に叶いしを知り、大いに満足でありし」<ref name="#4">『七十七年の回顧』</ref>
[[ファイル:Hirobumi Ito as Governor of Korea.jpg|thumb|250px|[[韓服|韓国の民族衣装]]を着て記念撮影におさまる伊藤(韓国統監時代、前列左から二番目が梅子夫人)]]
伊藤と妻の梅子が[[韓服|韓国の民族衣装]]を着ている写真がある<ref>[[扶桑社]]刊の『[[新しい歴史教科書]]』と[[小学館]]刊の『[[21世紀子ども百科 歴史館]]』に所収。</ref>。韓国統監として[[朝鮮人]]の衣装を身に纏った。伊藤はまた韓国皇太子・[[李垠]]を日本に招き、[[日本語教育]]を行っている。
 
*[[松井広吉]]
=== 操り人形 ===
**「公は午餐に大抵軽い洋食を取られるが、晩は日本食が主で、時として洋食だとのこと。酒は葡萄酒と日本酒であった。葉巻煙草は当時の金で一本五十銭位なのを吹かし、鬚の焦るまで吸われる」<ref name="#5">松井広吉『四十五年記者生活』</ref>
[[お雇い外国人]]であった[[ドイツ人]]医師の[[エルヴィン・フォン・ベルツ]]は『ベルツの日記』の中で、伊藤が[[有栖川宮熾仁親王]]の方を向き、「[[皇太子]]に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで[[エチケット|礼式]]の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言いながら、操り人形を糸で踊らせるような身振りをしたことを紹介している。
**「早くから茶道の嗜好が深く、茶会の料理にも抜群の手腕があった。現に客などを招かれる場合には、公自身台所に出張して、一々盬梅を嘗め試みて、矢釜しく板前を指揮されたという。公の薨去後、同家の料理人は麻布桜田町へ興津庵という料亭を出したが、流石に公から仕込まれた包丁の腕前で、食通を悦ばせている。来客にも公と縁故のあった人々が多く、山縣公、杉孫七郎子、その他の連中も皆来客帳に自署しおられ、今や手狭ながら帝都名物の一つともなっている」<ref name="#5"/>
 
*[[吉田武子]]「公爵は琵琶が何よりもお好きのこととて、毎日自分に琵琶を弾ぜしめ、これを聞くを楽しみとなし居られたり」<ref>『嗚呼伊藤公爵』P60</ref>
=== 通称の変遷 ===
当初は自身の曽祖父「利八郎」と「助左衛門」から「利」と「助」をとり「利助(りすけ)」と名づけられたが「としすけ」とも読み、「としすけ」の音から「俊輔」とも書かれるようになり、そうなると今度は「しゅんすけ」と読まれることになり、その音から「春輔」とも表記され、こんどはそれが「しゅんぽ」と音読されたので、最終的に「春畝」を[[雅号|号]]にしたものである。
 
== 評価 ==
[[ファイル:Marquis Itō Hirobumi family (1899).jpg|thumb|250px|1899年(明治32年)10月29日、伊藤家の家族写真。後列右が博文、左が養子博邦。前列右から次女末松生子、孫末松春彦、梅子夫人、孫西清子、三女西朝子、博邦夫人多満子]]
[[ファイル:Ito hirobumi portrait.jpg|thumb|200px|晩年の伊藤]]
[[ファイル:Ito hirobumi portrait.jpg|thumb|200px|1909年(明治42年)8月、
* 幼年期には[[松下村塾]]に学び、[[吉田松陰]]から「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「俊輔、周旋(政治)の才あり」とされた。
大磯での博文]]
* 井上聞多は自身が刺客に襲われた際に駆けつけた伊藤の様子について「(伊藤は)自分の枕辺に涙をホロホロ落とした。自分は(喋ることも出来ないので)ただ手まねで、お前も危ないから一刻も早く帰ってくれと頼むようにせきたてたけれど、なかなか枕許を離れようとしなかった」と語っている。
伊藤博文は豊富な国際感覚を持っていた穏健な開明派で、日本の近代化、特に憲法制定とその運用を通じて立憲政治を日本に定着させた功績が大きい<ref name="asa"/>。
* よく同じ長州閥の[[山縣有朋]]と対比され「含雪公(山縣)と春畝公(伊藤)ほど対照的で、且つ力量の似通った一対も珍しい」と評された。現実に両者の政治姿勢は全く違うものであったが、当人たちの仲は非常に良く、お互いの良き相談役であった。二人が長州志士の中でもきわだって貧しい出身(木戸、井上、高杉らは中下級武士とはいっても家柄のはっきりした[[上士]]であり、[[足軽]]や[[農民]]である山縣、伊藤とは当時の意識としても雲泥の差があった)であったことも重要である。
 
* 同時代人が両者の特徴を評した言葉に次のようなものがある。「山縣は面倒見が良く、一度世話したものは死ぬまで面倒を見る。結果、山縣には私党ができる。一方、伊藤はそのような事はしない。信奉者が増えるだけで是が非でも伊藤の為に働こうとする者はいなかった。しかし伊藤はそれを持って自己の誇りとしていた」
明治初年より開明派と目されていた人物で、諸制度の近代化と立憲制への転換を主導した。議会の開設にあたって当初伊藤は「[[超然主義]]」を宣言して政党を無視する立場をとろうとしたが、初期議会の経験から政党内閣の必要性を痛感すると、自ら率先して政党の組織に乗り出すなど、状況の変化に柔軟に対応する人物だった<ref name="nipo"/>。
* [[犬養毅]]曰く「公は職務を行うに、[[賄賂]]を使ったことはなく、公自身もまた賄賂を要求することはなかった。公を批判する者はいれども、公の金銭に関する清廉さを非難する者はいない」。
 
* 大日本帝国憲法を制定する際に担当官に対し、「新憲法を制定するに、伊藤は一[[法律学者]]であり、汝らもまた一法律学者である。それ故、我が考えが非也と思わば、どこまでも非也として意見せよ。意見を争わせることがすなわち新憲法を完全ならしめるものである」と訓示している。今よりも[[特権]]意識の強い時代の政治家としては異例の見識であるとされている。
アジア最初の[[立憲体制]]{{refnest|group=注釈|1876年発布の[[オスマン帝国憲法]](ミドハト憲法)は大日本帝国憲法より13年早いが、2年後の1878年から1908年まで停止されており、また現在の[[トルコ共和国]]政府はトルコをヨーロッパの一国とみなしている。}}の生みの親であり、その立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、西洋諸国からも高い評価を得ている<ref>[[鳥海靖]]「伊藤博文」『朝日日本歴史人物事典』[[朝日新聞出版]]、{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=582 - 583}}</ref>。
* [[大隈重信]]は伊藤を次のように評している。「伊藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、道具立ては面倒であった。氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促されてすると云うほうだったから敵に対しても味方に対しても態度の鮮明ならぬ事もあった。伊藤のやり口は陽気で派手で、それに政治上の功名心がどこまでも強い人であるから、人心の収攬なども中々考えていた」
 
* また大隈は「(伊藤博文は)常に国家のために政治を行ふて、野心のために行はなかった」とも述べている。
伊藤は1882年(明治15年)から翌年にかけて[[ドイツ帝国|ドイツ]]・[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]・[[イギリス]]などヨーロッパ諸国を歴訪して憲法調査を行った。その際に伊藤は議会権力の弱いドイツ・オーストリア型ばかりに固執していたわけではなく、議会権力が強力なイギリス型も将来の視野に入れていた。そして1889年(明治22年)に明治憲法を制定して以降、明治天皇の理解も得て数度の憲法危機を憲法停止させずに乗り超えて立憲体制を維持した。1900年(明治33年)に[[立憲政友会]]を創設した後は政党政治も推進した。西洋のドイツでさえ憲法を一度停止する事態に追い込まれていたため、憲法を一度も停止することなく立憲体制を存続させた伊藤は、イギリスはじめ西欧諸国から立憲主義・議会政治の父として高い評価を受け続けた{{sfn|伊藤之雄|2009|p=581-583}}。
* 英国留学時代の学友、[[アルジャーノン・ミットフォード|ミットフォード]](のち[[外交官]])は、若き日の伊藤を評して、「精悍で野性的、[[隼]]のようであり、[[冒険]]好き、無類に陽気な青年であった。しかし、いざ仕事となると正確で機敏、天稟が高鳴りする人物だった」と述べている。
 
* 当時[[大磯町|大磯]]には伊藤をはじめ、政治家の[[別荘|別邸]]が立ち並んでいたが、土地には伊藤の人柄について次のような逸話が残っている。「山縣は[[護衛]]の人が付き、陸奥は[[仕込み刀|仕込み杖]]をもつて散歩するが、伊藤博文は、平服で一人テクテク歩き、時には着物のしりをはしょつた姿で出歩き、農家に立ち寄り話しかけ、米の値段や野菜の価格なども聞き、暮らしのことなども畑の畦に腰掛け老人相手に話すことがあった。村の農民や漁民などは伊藤を「テイショウ(大将)」と気軽に呼んで、話しかけた。」
外交面では冷徹な政治的リアニズムに基づき、国際協調路線を重視し、日露戦争開戦にも朝鮮併合にも慎重だった<ref name="my"/>。他方で朝鮮や中国に対する政策の面では強硬姿勢をとることもあり、日清戦争の講和交渉や日露戦争後の対韓政策などにおいて日本の利益実現のため強圧的交渉を行っている<ref name="nipo"/>。
 
伊藤の穏健な政治路線は、[[山縣有朋|山県有朋]]らの[[保守派]][[官僚]]層と対立することが多く、彼らは伊藤の外交を軟弱外交と批判し、また伊藤が政党を結成することに対しても否定的反応を示していたが、[[明治天皇]]からの信任は強く、明治期を通じて伊藤は元老中第一の実力者として内外政策に大きな影響力を持った<ref name="nipo"/>。陽気な開放的性格で国民からの人気は高かったが、強固な派閥を作らなかったため、晩年の国内政治への影響力は、広い派閥網を形成した山県有朋に劣ったという<ref name="asa"/>。
 
=== 同時代人の評価 ===
* [[吉田松陰]]
**「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」
**「俊輔、周旋(政治)の才あり」
 
*[[高杉晋作]] 「(井上)聞多は面白い奴なり。後来あるいは役に立つともあれば、御世話頼み申し候。(伊藤)俊介も才子なり。これまた同様御見捨てなく御教導を願い候」([[山縣有朋]]へ宛てた手紙)
 
*[[大久保利通]] 「伊藤は長州の人ではあるが実は天下の英物である。成程才子に相違ないけれども決して君の言う様な才子ぢゃァない。国家経綸上に就いて、自分はモウ悉く伊藤に相談をする。一から十まで話す。鎖港攘夷の時と違うのであるからドウかよく百年の後を達観する程の見識ある人とよく用いなければならぬ。それに当る者は伊藤である。しっかり見識が立ってそうして之れを応用する力の有る人である。私の政策は悉く彼の人に相談する。彼の人と共に談ってやるのである。すっかり信じて秘談を話す」<ref>『伊藤侯,井上伯,山県侯元勲談』</ref>
 
* [[井上馨]]は自身が刺客に襲われた際に駆けつけた伊藤の様子について「(伊藤は)自分の枕辺に涙をホロホロ落とした。自分は(喋ることも出来ないので)ただ手まねで、お前も危ないから一刻も早く帰ってくれと頼むようにせきたてたけれど、なかなか枕許を離れようとしなかった」と語っている。
 
*[[伊藤真一(伊藤博文の息子)|伊藤真一]] 「私の記憶に残っている父は、非常に記憶力のいい人でした。古い話を何月何日まで正確に覚えておりました。また浴衣を着て胡坐をかいている時でも、話が明治天皇のことになると、自分はもちろん私達もきちんと正座させられ『天子様がね……』というように話をされたものです。『キサマ維新史を読め』父は私に良くこう申しました」<ref>『歴史読本 臨時増刊'79-12』</ref>
 
* [[大隈重信]]
**「伊藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、道具立ては面倒であった。氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促されてすると云うほうだったから敵に対しても味方に対しても態度の鮮明ならぬ事もあった。伊藤のやり口は陽気で派手で、それに政治上の功名心がどこまでも強い人であるから、人心の収攬なども中々考えていた」
**「専門分野の知識に偏るのではなく多方面に知識が豊富な政治家であった」
**「常に国家のために政治を行ふて、野心のために行はなかった」{{sfn|春畝公追頌会(編)|2004|p=888-891}}。
 
* [[黒田清隆]] 「日本の今日あるは、実に公の慧眼達識に負う所多きは言うをまたず、殊に憲法制定の如き公なかりせば誰れが今日の如き良果を挙げ得べかりしかと思わるる位なり」<ref>『嗚呼伊藤公爵』P66</ref>
 
* [[松方正義]] 「(慶応三年)その時分から伊藤公は才気横溢して諸藩士の間に頗る重んぜられて居た。(新政府においても)工業に、法制に、行政に何事でも適く処として可ならざるはなかったのは、実に伊藤公が大智円満の人で、他に比類の少ない所であろうと思う」<ref>『嗚呼伊藤公爵』P67</ref>
 
* [[後藤象二郎]] 「公に於いてその最も偉大なりし点を言えば、その生涯の常に発展しつつ、進んで嘗て一日も一所に停滞する事をなさず、無限の精力を以て一意公に奉じ恬淡無欲遂に何事にも拘泥する事をしなかったという点にある。もし公の一生を通じ、何れの時代がその最も精力を蓋し、その最も能く修養鍛錬を経た時代かといえば、木戸、大久保両公の間に周旋して、その融和を計り、両公を開発指導して、その智願を開かしめ、終に維新回天の事業を成さしめたその時であろう。維新の業成ってその位置を作ってからは、周囲の人々は却って公を開発指導した。公はこの開発指導を受けて、能く之を消化し、之を容れて、即ち今日を円熟した人である。公の如く偉大にして、しかも順潮に最も立派なる一生を終始した人は、蓋し何れの時代の偉人と比較するも到底相比すべき者は一人もなかろう」<ref>『嗚呼伊藤公爵』P71</ref>
 
*[[板垣退助]] 「予は既往に於いては公を敵にもし、又味方にもしたりき。さればこの点に於いては単に公と交際厚き人の語る月旦よりは、予の述ぶる所は幾分かの興味多きを信ず。概言すれば、伊藤公は明治の国家に対しての大功労者たるに疑いを容れざるなり。木戸時代の知恵袋は伊藤公なりき。大久保を援けたるもまた伊藤公なりき。公は確かに明治政治家の大立者として、また文明の指導者として、終生忘る可からざるの恩人なり。公嘗て予に語って曰く『予は朝に在って憲法に尽力せり。君は野に在って憲政の民を指導促進せり。およそ人は始めあって終わり無かる可からず。憲政有終の美をなすは、互いの義務となさざる可からず』と。以ってその憲政指導者としての抱負を見るに足る可し」<ref>『嗚呼伊藤公爵』72P</ref>
 
*[[西園寺公望]] 「伊藤の話を聞いて見ると、その経綸の順序が立って居って、その遣り方には上手下手はあるかも知らんが、その順序は結構だと思った。また是だけの話が出来る人は多くあるまいと感心したのです。(大久保は)政治の事は殆んど伊藤に任せて居ったのであって、伊藤はその信任を得てこれを背景としてつかえて居ったから行けたのである。その代り総ての事が軍配は薩摩の方へ五分の三、長州の方へ五分の二を取ると云う地位を保って居た。且つ至って聡明な人であったから遣る事が私の心でないから行けたのです。その時分から能く言った事であるが、伊藤は鈍忠だと行って居た。その間には反対側からは色々悪口を言われたり、俗吏等からは怪しく見られたりした事もあったろう。伊藤は極く淡泊で金を出してやる事が嫌いであった。また自分と交渉がなければ相手にせぬと云うような風であった。山縣や大隈などと違って、薩摩人とも違って、執着が少ない。要するに何うも人を使う事を知らぬのです。山縣の評に伊藤は善い人だが自分の補佐の人を得なかったと今でも言うが兎に角、自分が聡明過ぎて居った為めに人を使ってはもどかしいのであったろうと思われる。それで子分と云う者がなかったようです。この点に於いては井上程人を世話すると云う事が出来なかったようです。また伊藤が人才を用うると云う場合には何処でも構いはない。それは長州人であろうと、薩摩人であろうとそんなことは構わなかった。しかし薩摩人には余程鉾先を避けて居ったようです。それも時代に依りますが、盛んな時と晩年とは余程差がありますが、先ず自分のものを一つ渡して向うのものを一つ取ろうと云う主義であった。桂(太郎)などは取るだけは自分で取ろうと云うのであったが、伊藤は之と違う。大久保の評でも伊藤は聡明な人であると云う事をたしかに言って居る。岩倉もそう言って居る。伊藤の一生に就て支那の[[李鴻章]]が伊藤を評して治国の才と言って居る。言を換えて云えば王佐の才と云うも同様で治国の才は容易く許すべきものではないのですが、是れがチャンと支那の歴史に載って居るのです。政党内閣を理想としたのも伊藤です。その点に於いては山縣などと違って憲法政治をやるようにしたのは伊藤の力であるのに徴してもわかるのです。一体伊藤は理屈が好きで演説などはまるで下手だけれども座談は中々上手で一杯酒でも飲んで調子に乗って来るとその鉾先あたるべからざるものであった。伊藤は勉強家ではなかったようです。尤も必要な時には偉い勉強もしたのですが、普段は決してしない。マア偉い勉強家とは思いません。手紙を書くことは中々上手でした。しかもその文章が一番上手で是れも初めのほうはそうでもなかったようですが、晩年に至ってはいくらか注意して書いたようでした。兎に角非常に聡明で智慧があったから前途を見て是れは止した方が宜いと見たら直ぐなげ出して仕舞う。前にも云う通り総てが彼の取りえは碁盤の目を盛ってからと云うそれだけです。それに基礎を置いて掛かるのだから究極に陥って腰弱く逃げ出すと云うような事はなかった。また涙脆いとか義侠心が何うと云う事は余り感じませんが廉潔であったことは非常なものです。兎に角皇室中心と云う事に基いて実際自ら手を附けてやって居る。誰でも忠義々々と口には言って居るけれども、実行と云うに至っては中々六かしい事である。それが維新後沢山の法規が出来て今にその遺志をつないでやって居るような訳で是れは伊藤の経綸の成功と謂って宜かろうと思います。伊藤の事を明治の[[叔孫通]]と評した者がありますが、是れは半分は悪口のようですが……。才不才の間と云う事を云いますが、明暗双双と云い伊藤はその評です。一方から見ると甚だ愚のような、目から鼻に抜けるような才ではないようでした。鈍なような人で所謂明ばかりでなく暗の方が沢山ありはすまいかと思うような事がありました。国家の政治の才から云えば、前申したようでありますが、個人としてつきあって見ますと明も沢山あるが暗の方も沢山あったようです。正直で一寸見ると鈍根ですナア」<ref>『園公秘話』141P</ref>
 
* [[渋沢栄一]]
**「私が初めて公にお目にかかったのは明治二年で、当時大蔵省に改正係というものがあって、制度文物百般の調査をして段々改善をして行くという今日の調査局見たやうなものであった。余は即ち其の掛り長で伊藤公は総裁というような役であった。其頃から公は事務に熱心で何も彼も自分で遣る。決して事を疎かにするような事はなかった。勿論当時は極めて百事錯綜して大いに改善して行かなければならぬという時であるから、安閑として椅子に凭れて居る訳にも行かなかった。併し公は特に熱心であった。人は地位が進み身分が高まると、兎角自ずから事務を執ることをしない。皆下級に命じて自分は何もしないで唯だ坐って居るという風であるが、公は決して其の事がない。是れは其の当時ばかりでなく終生変わらなかったようである。三十九年頃余は朝鮮に行って公に面した際にも公は卓によって切りに事務を執って居た。電信のようなものでも、又た一寸した意見書などのようなものでも総て自分で書かれた。実に敬服すべきである」<ref>『孝子伊藤公』P394</ref>
**「どうも激しい議論家で、どこまでも論じて、相手を説破せねば止まぬという風の人でありました」<ref>『伊藤博文公』</ref>
**「なかなか優れた才を持っておられた方ゆえ、志は政治にあっても、いろいろさまざまの芸があらせられた御仁で、詩も作れば書も達者、音曲のことも心得ておられるという風であったのだ。しかしやはり一生政治に囚われ暮された方で、死ぬまで政治の囚われより全く脱してしまわれる訳には参らなかったらしく思える。つまり哈爾賓で亡くなられるまで、政治癖から抜け切れなかった方であるとみるのが至当だろう。しかしまた公が政治に囚われて、政治に終始せられた結果、今日の日本をして、立憲国としての繁栄を享有するを得せしむるに至らせられたのは、全く以て同公に先見の明があらせられたからの事で、その功績に至っては、決して忘却すべからざるものである。この一点のみでも、伊藤公は実に優れた豪い人であったと謂わねばならぬのだ」<ref>『処世の大道』P613</ref>
**「伊藤公は何事においても、常に自分が一番えらい者であるということになっていたかった人である。そうじて長州人は薩摩人に比べれば人当たりが穏当なものであり、伊藤公とても決して人当たりが悪かった方ではない。至極穏当なところのあった御仁ではあるが、それでも横合いから他人が出てきて、公の知らずにいることを教えてあげようとでもすれば、『そんなことは疾うの昔から知ってるぞ』といったような態度に出られたもので、何事につけ、自分が一番えらく、自分が一番物知りになっていなければ気が済まなかった御仁である。伊藤公は碁なども打たれたが、決して上手ではなかった。むしろ下手な方でザル碁(漏れの多い下手くそな碁)の方だったのだが、それでもなお碁において『自分が一番だ』ということになっていたがった方だった。いかに盤を囲んで勝負が決まり、ご自分が負けになっても、決して『自分は碁が下手である』などと参ってしまわず、何のカンのと理屈をこねあげて、『やはり自分が、一番碁が上手』ということにしてしまわれたものである。また他人が起草した文章なんかを見られても、決してそれをすぐ誉めて、『なかなかうまい』などとはいわなかったものである。『そこの文字の用い方がどうである』『それでは少し書き方が長過ぎる』『そんなことは書かなくともいい』『もう少し何とか書きようがありそうなものだ』とか、いろいろ好んで難癖をつけた。文章においても『やはり自分が一番えらいのだ』ということになっていないと、気の済まなかった方である。しかし、『そんならどう訂正したらよろしかろうか』と、一歩踏み込んで問いかけてみると、公はもともと文章のうまく書けなかった御仁であるから、ちゃんとした返答ができず、とても曖昧な調子で、『そこはその……何とか考えて……うまく』などと答えられ、確かな文案があるのでも何でもなかったものである」<ref>『経営論語』</ref>
**「伊藤公の如きは何事にも自分が一番豪いと思ふ慢心があつて。下問を恥ぢぬといふ徳はなかつたやうに思はる」
**「明治維新前後には随分人物も多く現れたが。伊藤公でも、大隈候でもまた井上候でも。皆善に伐りたがる方であつて「おれは是程豪いぞ」と言はぬ計りに吹聴せられ。善に伐らぬ人は甚だ少なかつた」<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970987 『論語講義.乾』]</ref>
 
* [[犬養毅]] 「公は職務を行うに、[[賄賂]]を使ったことはなく、公自身もまた賄賂を要求することはなかった。公を批判する者はいれども、公の金銭に関する清廉さを非難する者はいない」
 
*[[谷干城]] 「公は憲法制定の大功臣である。初め自由党のごときは乱暴にも主権在民的憲法論を振り回して急いで憲政を敷くことを企図したものであるが、公はこの怒涛澎湃の中を漕ぎ抜けて万事遺漏なき準備の後、明治22年に至って公の起草した憲法を発布し、[[ヨーロッパ|欧州]]の憲法史に見られるような凄惨な流血の歴史を繰り返すことなく、平和円満のうちに我が国民を憲政の恩恵に浴せしめた。当時もし自由党の言う通りに行って、明治8年、9年ないし明治14年、15年の段階で憲法を発布したらどうだろう。我が国民はいまだ憲法が何であるか理解できる状況にない故にその議会政治も専らケンケンガクガクとした政客の論争で終わり、真の憲政の運用は到底実現することはなかったであろう。この点においても伊藤公は特に偉いと言わねばならない」{{sfn|春畝公追頌会(編)|2004|p=894-895}}。
 
*[[尾崎行雄]]
**「余が公の人物に於いて最も敬服せるは第一に公の人格が高潔にして且つ其の政治道徳の比較的秀でたる事、第二に性質円満にして調和的資質に富まれたる事、第三に事物に執拗凝滞せず且つ極めて利欲の念に淡かりし事、第四に天真流露、愛憎を以て公器を私せざりし事等の諸点なり」<ref name="#6">『嗚呼伊藤公爵』P68</ref>
**「山縣は面倒見が良く、一度世話したものは死ぬまで面倒を見る。結果、山縣には私党ができる。一方、伊藤はそのような事はしない。信奉者が増えるだけで是が非でも伊藤の為に働こうとする者はいなかった。しかし伊藤はそれを以て自己の誇りとしていた」<ref>尾崎行雄『近代快傑録』(千倉書房、1934年/[[中公クラシックス]]、2014年)p.55</ref>
**「伊藤伯は才子なり。才子の功労を経たるものなり稟質多血性なるがため、多情多愛にして、その嗜好する所広く且つ多し。詩文を作り、書画を好み、英語を善くし、弁論巧みに、学は即ち和漢洋の三端を窺へり。もし才芸の多少を比較すれば、世間恐らくは之が右に出るもの少なかるべし。(中略)伊藤伯の手腕は、山縣伯と比すれば頗る敏活なるべし。然れども勇断果快の資質に乏しきが故、鋭利の働きをなすあたわず。常に調和瀰縫の忙しくして、その束縛する所となる」<ref>尾崎行雄『内治外交』</ref>
**「伊藤公の人物について最も特色と見るべきことは執着心のないことである。人に対しても物に対しても。だから役人でも気に入る間は思い切って使うが、役に立たなくなると平気で棄ててしまう。あるとき身辺の者が公に向って『犬養でも星でも彼等には終身離れぬ乾分が大分ある』と話したところ、公は『俺はその反対で、乾分を作らぬということが俺の長所である』といった」<ref name="#7">尾崎行雄『咢堂放談』</ref>
**「経済のことは若い頃から井上候に一任して少しも研究しなかったためか、公私ともに公の経済知識はすこぶる幼稚であった」<ref name="#7"/>
**「伊藤公は大変怒りっぽい人だった」<ref name="#7"/>
**「公の主義思想は何事に対しても決して極端に走らず、常に中正を保ち、調和を旨とせられたり。世間往々公を評するに、姑息、八方美人を以てしたるは之が為めなり。是れ実に公の短所たると同時にまた得難き長所なりき。公はまた毫も物に凝滞せざる人なりき。例えば政治上に於ても敵を窮地に追及して完膚なからしむるが如きは、公の決して為さざりし所なり。その他一器一物に付ても毫も之に執着するの念なく、従って利欲に極めて冷淡なりしこと、また公の一美質とす」<ref name="#6"/>
**「伊藤のしたことに過失はあっても悪意はなく、あれくらい公平に国家のためを思えば、まず立派な政治家といってよかろう」<ref>[[ジョージ・アキタ]]著・荒井孝太郎、坂野潤治訳『明治立憲政と伊藤博文』、東京大学出版会、1971年、292頁。</ref>
 
*[[三浦梧楼]]
**「伊藤とは、俺は小僧の時からの知り合いだから、まあよく知って居るほうぢゃろう。あれはなかなか豪い奴だよ。井上がいう様に、伊藤の頭脳はあくまで組織的だ。それに欲がない。金の点に於いては大隈、伊藤は全く綺麗なものぢゃ。しかしな、欲といっても金ばかりが欲ぢゃないからのう。欲といえば、それは名誉さ。全く名誉の点に至っちゃ、伊藤は三つ四つの子供だよ。(中略)どうもその名誉欲は非常のものだった」<ref>『観樹将軍豪快録』</ref>
**「伊藤は存外稚気があって、比較的率直だった。山縣は『俺は唯一介の武弁だ』と言った調子で、表をつまらぬもののように見せかけておった。これが二人の間の相異なる点である。ある時、郷里のものが東京に出て来て、二人の所を訪ねた。それが後にて、『山縣さんへ行くと、お取扱いが誠に親切であったが、伊藤さんは大違いで、ろくに話も聞いて下さらない』と言うから、我輩が『なるほどそれはちょっと左様見えるが、伊藤の泣く折りは、本当の涙を出すが、どうも目白(山縣)の涙は、当てにならんぜ』と言ったことだが、これは二人に対する適評だと思う」<ref>『観樹将軍縦横談』</ref>
 
*[[高崎正風]] 「誠に大久保公の言われる通り、一を聴いて十を知るの才である」<ref>『伊藤候井上伯山縣候元勲談』</ref>
 
* [[牧野伸顕]]
**「伊藤さんは相手が大臣だろうが、書記官だろうが、また老人だろうが、青年だろうが、そのようなことには一切頓着なく、そういう意味で非常に親しみ易くて、誰であろうと相手の言うことを熱心に聞き、また時には言ってることが間違ってることを遠慮なく指摘するという風だった。全く坦懐な人で、満州で遭難された時は一時世の中が真暗になった気がした」<ref>『回顧録・上 P86』</ref>
**「伊藤さんは始終洋書等を読んでおられ、もの解りはよく、記憶もよく、山縣、井上など皆偉い人だったがそれぞれの型があったのに反して伊藤さんにはそれがなく、何でもござれという風で、好悪の感情によってではなく問題の如何で動く人だった」<ref>『回顧録・上 P138』</ref>
 
*[[関直彦]] 「伊藤公は官僚の巨頭」<ref name="#4"/>
[[ファイル:Chinese-style Octave in Seven-character Phrases by Hirobuni Ito.jpg|サムネイル|伊藤の漢詩の書([[東京国立博物館]]所蔵)]]
*[[松井広吉]]
**「英語はもとより達者であり、漢詩漢文から筆札も巧なので、その秘書官たる者は骨が折れるようで、実は一方ならぬ気苦労で、容易な人には勤まらぬ。伊東巳代治伯の如き人物なればこそ秘書官も書記官も勤まると、一時公の秘書官となった頭元元貞氏がシミジミ語られたこともある」<ref name="#5"/>
**「公の身体は先天的に強い上、少壮から鍛えに鍛えられた為か、驚くべき頑健振りで、喉頭病に罹られた場合など、医師の与えた濃茶褐色の薬液をば、公自身毛筆に浸して、無造作に口中へ突っ込み、グルグルかき回し、跡をうがいして、またまた煙草も吸い、酒も飲み続けられるという状態で、余はその無茶と健康とに舌を巻かざるを得なんだ」<ref name="#5"/>
**「公が開明的で、公明で、政権になど執着されぬ美点は別に伝わるものがあるから、余の申すを待たぬが、公は辞職をして悠々野鶴を学ぶと、やがて体重一貫匁位怱に増加するよといわれたことが一再でなかった。以て国家に奉公の苦心の尋常ならぬことが知られると共に、余などは自然に頭の下がるを禁じ得なんだ」<ref name="#5"/>
 
*[[中江兆民]] 「今日、伯子男爵政治家中、第一流の政治家なり。機敏幹錬周到、勤勉等の数形容詞は、伯の固有名詞の上に冠して始めて妥当なるを覚う」<ref>『中江兆民集』</ref>
 
*[[長澤柳政太郎]] 「明治十七八年当時に於いては、殆んど学問するものは寧ろ愚物視せられしを以て教育界の沈鬱せしもまたむべなりしなり。伊藤公が主としてこの情弊を破られ、人材登用の為に文官任用令を制定し、大いに教育ある人士を登用するの途を開かれたるは、単に行政上の功業たるのみならず、之が為に教育界の興隆を勧め、遂に今日の盛況を得たるなり。之れ実に伊藤公施政の結果として、国民は公の恩を謝せざるべからず」<ref>『嗚呼伊藤公爵』73P</ref>
 
*[[三輪田真佐子]] 「亡夫綱一郎と伊藤さんとは維新時代からの知己で御座いまして、その時分から能く御目に懸って居りましたが、昔から金銭と云う事には一向おかまいが無いようで御座いました。明治の初年から五六年頃迄のことでした、全国有志会と申すものが建てられまして、伊藤さんも綱一郎もその会に加わりましたが、その頃伊藤さんは御自分の月給全部を寄付なされて平気で居られたそうで御座います。また伊藤さんは位人臣を極める御身分でいらせられながら、その御手軽なことは昔日と少しも御変わりが御座いませんで、会抔へ御出に成りましても、何時御出に成りましたか判らぬ程で御座いまして『アア伊藤さんが御出なされたから御挨拶申上げて来よう』と申すような次第で御座います。御見受け申したところ、御服装も極めて質素な方で、別段是ぞと眼を止めるような派手なところも御座いません。併しお年齢に似合わず大変に若く見えます。そして暖炉の前でお腰を撫でながら昔話などを為されまして御演説とても学者らしく六ヶ敷事も仰らずに淡泊としたもので御座います。殊に吾々婦人が感謝しなければ成りませんのは、吾々の為に御尽力下さって婦人の地位を与えて下さったのも全く伊藤さんで御座います。以上申し上げた次第で詮じ詰めて申上げれば、極めて平和で円満なお方で御座いました。唯欠点と申しますれば、新聞などにも度々出ましたですが、婦人を側に近付けると言うような事で御座いまして、それさえ御座いませねば誠に神とも尊ぶべき方だろうと存じます」<ref>『嗚呼伊藤公爵』74P</ref>
 
*[[三宅雄二郎]] 「伊藤公の陰には必ず女があった。併し伊藤公の女に対する必ずしも多淫多情の結果ではない。一寸煙草を吸って気を転ずるその煙草代りに女を取ったのである。藤公は眼中唯国家あるのみ。風俗や人情や是等は顧みるにいとわなかったのであろう。婦人の貞操に対してもどの位まで尊重して居ったか……。かかる事には余り意を留めなかったらしい。故に文部大臣が折角真面目な訓令を発しても、上に立つ人が反対の行動を取る為め滑稽に感じらるる事もないでもなかった。併し翻って考えれば、藤公が女に対して自由主義、開放主義であった為、人も自然と近づき易く、その花々しい生涯は一は之あるが為めである。もし藤公が道徳堅固の君子人であったならば、今日の如き派手な名声は得られなかったかも知れぬ」<ref>『嗚呼伊藤公爵』75P</ref>
 
*[[宮武外骨]] 「我輩は伊博(伊藤博文の略)を平凡の常人なりとは云はない、されど彼の死は世界の大損失ドコロか、日本の小損失にもあらずとするのである。(中略)明治十三四頃、國會願望者なる者全國に蜂起して東京に押寄せ、若し之を聴かずんば極端の暴動も起こるべき[[世論|輿論]]の大勢に迫られ、餘義なく十年後を期して輿望を達せしむる事にしたのであって、在朝伊博の輩は、只其時代の要求に屈服したに過ぎないのである。斯かる輩を指して立憲の大元首と賞揚するが如きは、往事迫害を恐れずして[[自由民権運動|自由民権]]の論を主張せし民間の志士を無視するの甚だしき者である。(中略)非命の死に同情を寄せて、死者を哀惜するのは人情の常であるから、我輩とても亦其事を非難しないが、其程度を過ごせし没理狂的の哀惜には寧ろ大反対である」<ref>『大阪滑稽新聞』11月25日号、通巻26号</ref>
**一方では「伊藤公の死は日本の大損失」「明治維新の大功臣、憲法政治の大元首、古今無類の大偉人を失ひたりと嘆き」と高く評価したとも<ref>[[木本至]]『評傳宮武外骨』、社会思想社、1984年、290頁</ref>。
 
*[[エルヴィン・フォン・ベルツ]] 「韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで起こった。その時、武断派及び東京の言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた 高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。欧州においては韓国保護について新統治の峻厳を批判する者は多い。これらの批評者は日本当局が学校を創設し、農業を改善し、鉄道を敷設し、道路を開設し、船舶や港湾を建造し、かつ日本人移民によって勤勉な農夫、熟練工たる模範を韓国民に示そうという苦心経営の事実をことごとく無視する者である。私は三度現地に赴き、実際の状況を目撃して感服した。(略) 東京で公より話を聞いた時も、公が韓国とその人民の幸福を推進するためにいかに尊敬すべき企画を持ち、いかに多大な功績をあげたかを明白に推知しえた」{{sfn|春畝公追頌会(編)|2004|p=921}}
 
*[[フランシス・ブリンクリー]] 「公を西洋の政治家と比較するに、公は[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]の如く武断的でなく、 平和的であったことはむしろ[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]に類するところである。財政の知識の豊富なところは[[ロバート・ピール|ピール]]に比するところであり、策略の機敏かつ大胆なところは[[ベンジャミン・ディズレーリ|ビーコンズフィールド]]に似ている。公は全ての大政治家の特徴を一身に集めている如き観がある」{{sfn|春畝公追頌会(編)|2004|p=917}}
 
* [[アルジャーノン・ミットフォード]] 「精悍で野性的、隼のようであり、冒険好き、無類に陽気な青年であった。しかし、いざ仕事となると正確で機敏、天稟が高鳴りする人物だった」
 
== 言行語録 ==
* 「大いに屈する人を恐れよ、いかに剛にみゆるとも、言動に余裕と味のない人は大事をなすにたらぬ」
* 「今日の学問は全て皆、実学である。昔の学問は十中八九までは虚学である」
* 「いやしくも天下に一事一物を成し遂げようとすれば、命懸けのことは始終ある。依頼心を起こしてはならぬ。自力でやれ」
* 「お前に何でも俺の志を継げよと無理は言はぬ。持って生まれた天分ならば、たとえお前が乞食になたとて、俺は決して悲しまぬ。金持ちになったとて、喜びもせぬ」
* 「たとえここで学問をして業が成っても、自分の生国が亡びては何の為になるか」
* 「本当の[[愛国心]]とか勇気とかいうものは、肩をそびやかしたり、目を怒らしたりするようなものではない」
* 「国の安危存亡に関係する外交を軽々しく論じ去つて、何でも意の如く出来るが如くに思ふのは、多くは実験のない人の空論である」
* 「われわれに歴史は無い。我々の歴史は、今ここからはじまる」(『ベルツの日記』)
 
== 住居 ==
* [[山口県]][[萩市]]椿東 - 伊藤博文旧宅。元は萩藩の中間水井武兵衛(伊藤直右衛門)の住居。伊藤博文は父・林十蔵が伊藤家の養子となった安政元年(1854年)よりここに居住した。
[[ファイル:Azuma_Hiraku_Pavilion.jpg|thumb|200px|開東閣]]
* 山口県光市 - 生家(復元) - 平成3年(1991年)、[[伊藤公記念公園]]内に復元されている。
* [[山口県]][[萩市]]椿東
* [[兵庫県]][[神戸市]] - [[大倉喜八郎]]別邸(現:[[大倉山公園 (神戸市)|大倉山公園]]) - 大倉喜八郎の別荘であったが、親交のあった伊藤が専ら利用していた。
* 山口県[[光市]] - 伊藤博文自身による設計。現[[伊藤公記念館]]
* [[東京都]][[品川区]]西大井(旧・大井伊藤町) - 伊藤博文別邸。明治天皇から下賜された元赤坂仮皇居会食所を西大井(東京府荏原郡大井村)に移築し恩賜館(のちの[[明治記念館]])と命名し、その恩賜館の隣に建てられた住宅。[[伊藤博邦]]一家が居住した。この住宅は上杉伯爵家に譲渡されたのち[[日本光学工業]](ニコン)が所有した。老朽化のため平成10年(1998年)に解体し、玄関、大広間、離れ座敷が山口県萩市に移築された。
* 山口県光市 - 生家(復元)
* 東京都[[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]四丁目([[開東閣]]) - 伊藤博文旧邸宅地。のちに[[三菱財閥]][[岩崎家]]の所有となる。
* [[兵庫県]][[神戸市]] - [[大倉喜八郎]]別邸(現[[大倉山公園]])
* [[神奈川県]][[大磯町]]西小磯([[滄浪閣]]) - 旧伊藤博文邸。神奈川県[[小田原町]]に別荘を建て、のちに近隣の大磯町に移転し本邸とした。伊藤の死後、[[李王家]](大韓帝国皇帝家)に譲渡。関東大震災により倒壊し、再建。
* [[東京都]][[品川区]]西大井(旧・大井伊藤町)
* [[横浜市]][[金沢区]]野島町 [[野島公園]] - 旧伊藤博文金沢別邸。明治31年(1898年)竣工。明治36年(1903年)[[皇太子嘉仁親王]](のちの大正天皇)訪問。明治41年(1908年)大韓帝国皇帝家[[懿愍皇太子]](李垠)訪問。
* 東京都[[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]四丁目([[開東閣]])
* [[神奈川県]][[大磯町]]西小磯([[滄浪閣]])
* [[横浜市]][[金沢区]]野島町 [[野島公園]]
 
== 記念館 ==
*[[伊藤公記念公園]](山口県光市)
**[[伊藤公資料館]] - 1997年竣工。
**[[伊藤公記念館]] - 「旧伊藤博文邸」という名称で一般公開されている。林・伊藤一族の法要を用途として伊藤博文が基本設計した建築物。林淡路守通起の没後300年の明治43年(1910年)竣工。
**[[伊藤公記念館]]
 
== 銅像 ==
1901年に伊藤博文の還暦祝賀会招待者たちが銅像建設を決めたが、出来が悪かったため作り直すなどしてだいぶ遅れ、1904年10月22日に神戸の[[湊川神社]]に伊藤博文の銅像が建てられ除幕式が行われたが、伊藤がまだ存命であったのに像が立てられたことや、本来この神社に祭られている楠木正成より目立っている{{refnest|group=注釈|後述の「嗚呼醜臣軟猿乃図」では皇族である[[有栖川宮熾仁親王|有栖川宮大将]]の像でさえ、楠木正成の像がある宮城前には立てなかったという主張がある。}}ことが4日後の読売新聞で「嗚呼醜臣軟猿乃図」という挿絵入りの風刺記事として載せられる。
 
このときは揶揄の範囲であったが、日露戦争後の1905年9月7日、講和条約の内容に不満を持った人たちが大黒座で演説会を開いていたところ、湊川神社まであふれていた気のたった人たちが、工具を持ち込み像の頭を叩いたり鎖(像の周囲にあったものが切断されていた)を巻きつけて引っ張るなど像を倒そうとしている3人の男を見て感化され、いつの間にか集まった数十人で像を引き倒した。それを見た100名ほどの群衆たちは面白がって像を引きずり回し、通り道の派出所を破壊して回った{{refnest|group=注釈|なお、この事件の起こる2日前に東京でも日露戦争講和条約の内容に不満を持った人たちによる[[日比谷焼き討ち事件]]が起きている。神戸の場合主に被害に遭ったのは前述の銅像関係と有馬筋・西門筋・福原口の3か所の派出所。}}。最終的に警官隊によって群衆が追い払われ像が回収されたときには、銅像は「鼻がすりむけ、顔に3か所の穴、頭部はくぼんで全身に打撲傷多数の上、頭に小便をかけられていた」という<ref>[[平瀬礼太]]、「民衆が市中引き回し、のちに再建「伊藤博文像」」(銅像はつらいよ十選 1)、[[日本経済新聞]]、2013年12月13日</ref>。像本体以外も周囲の物で前述の鎖の切断、柵の杭になっていた石柱も抜かれて壊され、発起者名版も潰されているという破損であった<ref>平瀬礼太『銅像受難の時代』吉川弘文館、2011年、P106-108。</ref>。
 
その後銅像は警官隊が騒動の翌朝、検疫所に使っていた[[操江]]に運ばれ、以後数年間表に出ないまま本人が暗殺されてしまい、これを機に伊藤の評価も同情的なものに変わったことで、修繕した上{{refnest|group=注釈|前述の破損状況は『神戸新聞』1905年9月9日付けの説明なのだが、1909年12月6日付の同紙では前回と異なり「顔には別段異常はなく、後頭部は摩擦痕はあるが台座を高めにすれば目立たない、服のボタンやポケット付近に目立つ損傷があるがすぐに直せる範囲。」としている。}}で神戸市諏訪山公園に再建すべく、1910年2月4日から寄付金を集めたが、実際は1911年10月26日に諏訪山ではなく大倉山{{refnest|group=注釈|所有地寄付の申し出があったため}}、補修ではなく新造で再建された{{refnest|group=注釈|なお、引きずり回しにされた方の銅像は知人の[[服部一三]]がしばらく庭に置き、彼の死後の1930年に山口県萩市の伊藤旧宅隣に寄付されるが戦争中の金属供出に出され現存しない。}}<ref>平瀬礼太『銅像受難の時代』吉川弘文館、2011年、P108-109・112-119。</ref>。
 
== 栄典 ==
;位階
* 明治10年([[1877年]])11月2日:[[勲一等旭日大綬章]]
* 明治元年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]([[1868年]][[6月25日]])- [[従五位|従五位下]]<ref name="abcd">{{アジア歴史資料センター|A06051170400|伊藤博文}}</ref>
* 明治17年([[1884年]])7月7日:[[伯爵]]授爵
* 明治182[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]([[18851869年]])5[[92516]])- [[スウェーデン王国従五位]]<ref ヴァーサ勲章勲一等name="abcd"/>
* 明治183[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]([[18861870年]])9[[112712]])- [[オーストリア=ハンガリー帝国従四位]]鉄冠勲章勲一等<ref name="abcd"/>
* 明治7年([[1874年]])[[2月18日]] - [[正四位]]<ref name="abcd"/><ref>『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号109</ref>
* 明治19年([[1886年]])12月22日:[[ドイツ帝国]][[赤鷲勲章]]勲一等
* 明治17年([[1884年]])[[12月27日]] - [[従三位]]<ref name="abcd"/><ref>『官報』第452号「叙任及辞令」1884年12月27日。</ref>
* 明治22年([[1889年]])2月11日:[[勲一等旭日桐花大綬章]]
* 明治19年([[1886年]])[[10月19日]] - [[従二位]]<ref name="abcd"/><ref>『官報』第993号「叙任及辞令」1886年10月20日。</ref>
* 明治28年([[1895年]])8月5日:[[大勲位菊花大綬章]]、[[侯爵]]陞爵
* 明治2928年([[18961895年]])3)[[121920]] - [[ロシア帝国正二位]]<ref アレクサンドル・ネフスキー勲章一等name="abcd"/><ref>『官報』第3746号「叙任及辞令」1895年12月21日。</ref>
* 明治2942年([[18961909年]])10)[[10月26日]] - [[スペイン王国従一位]]カルロス三世勲章勲一等<ref name="abcd"/><ref>『官報』第7905号「叙任及辞令」1909年10月28日。</ref>
 
* 明治30年([[1897年]])10月4日:[[ベルギー王国]] レオポルド勲章一等
;爵位など
* 明治31年([[1898年]])4月29日:[[フランス共和国]] [[レジオンドヌール勲章]]勲一等
* 明治17年([[1884年]])[[7月7日]] - [[伯爵]]<ref name="abcd"/><ref>『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。</ref>
* 明治35年([[1902年]])3月15日:[[大英帝国]][[バス勲章]]勲一等
* 明治3522年([[19021889年]])3)[[11151]] - [[イタリア王国元勲優遇]]受胎告知勲章<ref name="abcd" /><ref>『官報』号外「詔勅」1889年11月1日。</ref>
* 明治28年([[1895年]])[[8月5日]] - [[侯爵]]<ref name="abcd" /><ref>『官報』第3631号「叙任及辞令」1895年8月6日。</ref>
* 明治39年([[1906年]])4月1日:[[大勲位菊花章頸飾]]
* 明治4029年([[19071896年]])9月21日:[[公爵8月31日]]陞爵 - 元勲優遇<ref name="abcd" />
* 明治31年([[1898年]])[[6月30日]] - 元勲優遇<ref name="abcd" /><ref>『官報』号外「詔勅」1898年6月30日。</ref>
* 明治42年([[1909年]])10月26日:[[従一位]]
* 明治34年([[1901年]])
** [[5月10日]] - 元勲優遇<ref name="abcd" />
** [[10月23日]] - [[法学]][[名誉博士|名誉博士号]]([[イェール大学]])
* 明治40年([[1907年]])[[9月21日]] - [[公爵]]<ref name="abcd" /><ref>『官報』第7272号「授爵・叙任及辞令」1907年9月23日。</ref>
 
;勲章など
{| class="wikitable"
|-
!受章年
!略綬
!勲章名
!備考
|-
|[[1877年]](明治10年)[[11月2日]]
|[[ファイル:JPN Kyokujitsu-sho (WW2) 1Class BAR.svg|50px]]
|[[勲一等旭日大綬章]]<ref name="abcd"/>
|
|-
|[[1889年]](明治22年)[[2月11日]]
|[[ファイル:JPN Toka-sho BAR.svg|50px]]
|[[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]<ref name="abcd" /><ref>『官報』第1683号「叙任及辞令」1889年2月12日。</ref>
|
|-
|1889年(明治22年)[[11月25日]]
|[[ファイル:JPN Imperial Constitution Promulgation Commemorative Medal BAR.svg|50px]]
|[[記念章|大日本帝国憲法発布記念章]]<ref name="abcd" /><ref>『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。</ref>
|
|-
|[[1890年]](明治23年)[[6月20日]]
|[[ファイル:Honor Medal Yellow Ribbon.jpg|50px]]
|[[褒章#旧黄綬褒章|銀製黄綬褒章]]<ref>『官報』第2094号「彙報」1890年6月24日。</ref>
|
|-
|1890年(明治23年)[[7月10日]]
|
|[[議員記章|貴族院議員章]]
|
|-
|[[1895年]](明治28年)[[8月5日]]
|[[ファイル:JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg|50px]]
|[[大勲位菊花大綬章]]<ref name="abcd" /><ref>『官報』第3632号「叙任及辞令」1895年8月7日。</ref>
|
|-
|1895年(明治28年)8月5日
|
|[[議員記章|貴族院議員章]]
|
|-
|1895年(明治28年)[[11月18日]]
|[[ファイル:JPN 1894-1895 Sino-Japanese War Medal BAR.svg|50px]]
|[[従軍記章#明治二十七八年従軍記章|明治二十七八年従軍記章]]<ref name="abcd" /><ref>『官報』第3950号・付録「辞令」1896年8月27日。p2</ref>
|
|-
|[[1898年]](明治31年)[[6月29日]]
|
|[[賞杯|金盃一組]]<ref name="abcd" />
|
|-
|[[1906年]](明治39年)[[4月1日]]
|[[ファイル:JPN Daikun'i kikkasho BAR for discussion.svg|50px]]
|[[大勲位菊花章頸飾|菊花章頸飾]]<ref name="abcd" /><ref>『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。</ref>
|
|-
|1906年(明治39年)4月1日
|[[ファイル:JPN 1904-1905 Russo-Japanese War Medal BAR.svg|50px]]
|[[従軍記章#明治三十七八年従軍記章|明治三十七八年従軍記章]]<ref name="abcd" />
|
|-
|[[1907年]](明治40年)[[9月21日]]
|
|[[議員記章|貴族院議員章]]
|
|-
|[[1909年]](明治42年)[[4月18日]]
|[[ファイル:JPN Crown Prince's Voyage to Korea Commemorative Medal BAR.svg|50px]]
|[[記念章#賞勲局所管の記念章|皇太子渡韓記念章]]<ref name="abcd" />
|
|}
 
;外国勲章佩用允許
{| class="wikitable"
|-
!受章年
!国籍
!略綬
!勲章名
!備考
|-
|[[1882年]](明治15年)[[9月29日]]
|{{flagicon image|Flagge Großherzogtum Sachsen-Weimar-Eisenach (1813-1897).svg}} [[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国]]
|[[File:Order of the White Falcon - Ribbon bar.svg|50px]]
|{{仮リンク|白鷲勲章|en|Order of the White Falcon|label=白鷲第一等勲章}}<ref name="abcd"/>
|
|-
|[[1883年]](明治16年)[[9月17日]]
|{{RUS1883}}
|[[File:Order White Eagle (Russia) ribbon.svg|50px]]
|{{仮リンク|白鷲勲章 (ロシア帝国)|en|Order of the White Eagle (Russian Empire)|label=白鷲大綬勲章}}<ref name="abcd"/><ref>『官報』第68号「賞勲敍任」1883年9月18日。p.2</ref>
|
|-
|[[1885年]](明治18年)[[3月7日]]
|{{DEU1871}}
|[[File:EST Order of the Cross of Terra Mariana - 1st Class BAR.png|50px]]
|{{仮リンク|王冠勲章 (プロイセン)|en|Order of the Crown (Prussia)|label=王冠勲一等勲章}}<ref name="abcd"/>
|
|-
|1885年(明治18年)[[5月25日]]
|{{flagicon image|Jack of Sweden and Norway (1844–1905).svg}} [[スウェーデン=ノルウェー連合王国]]
|[[File:Royal Order of Vasa - Commander Grand Cross.png|50px]]
|{{仮リンク|ヴァーサ勲章|en|Order of Vasa|label=ヴァーサ勲章}}勲一等<ref name="abcd"/><ref>『官報』第569号「賞勲」1885年5月27日。</ref>
|
|-
|[[1886年]](明治19年)[[9月27日]]
|{{AUT1867}}
|[[File:AUT KuK Order of the Iron Crown star BAR.svg|50px]]
|{{仮リンク|鉄冠勲章|en|Order of the Iron Crown (Austria)|label=鉄冠勲章}}勲一等<ref name="abcd"/>
|
|-
|1886年(明治19年)[[12月22日]]
|{{DEU1871}}
|[[File:Ord.Aquilarossa-GC.png|50px]]
|{{仮リンク|赤鷲勲章|en|Order of the Red Eagle|label=赤鷲大綬章}}<ref name="abcd"/>
|
|-
|[[1887年]](明治20年)[[5月3日]]
|{{ITA1861}}
|[[File:Cavaliere di gran Croce Regno SSML BAR.svg|50px]]
|[[聖マウリッツィオ・ラザロ勲章]]大十字騎士大綬章<ref name="abcd"/><ref>『官報』第1152号「叙任及辞令」1887年5月5日。</ref>
|
|-
|1887年(明治20年)[[8月25日]]
|{{PRT1830}}
|[[File:PRT Ordem de Nossa Senhora da Conceicao de Vila Vicosa Cavaleiro ribbon.svg|50px]]
|{{仮リンク|ヴィラ・ヴィソーザ無原罪の御宿り騎士団|en|Order of the Immaculate Conception of Vila Viçosa|label=ヴィラ・ヴィソーザ無原罪の聖母騎士団第一等勲章}}<ref name="abcd"/>
|
|-
|[[1888年]](明治21年)[[1月24日]]
|{{flagicon image|Flag of Siam (1855).svg}} [[タイ王国|シャム王国]]
|[[File:Order of the Crown of Thailand - 1st Class (Thailand) ribbon.svg|50px]]
|[[タイ王冠勲章|王冠勲一等勲章]]<ref name="abcd"/>
|
|-
|[[1896年]](明治29年)[[3月19日]]
|{{RUS1883}}
|[[File:Russian Imperial Order of Saint Alexander Nevsky ribbon bar.svg|50px]]
|[[聖アレクサンドル・ネフスキー勲章|アレクサンドル・ネフスキー勲章]]一等<ref name="abcd"/>
|
|-
|1896年(明治29年)[[10月26日]]
|{{Flagicon image|Flag of Spain (1785–1873, 1875–1931).svg}} [[スペイン王政復古|スペイン王国]]
|[[File:Order of Charles III - Sash of Collar.svg|50px]]
|{{仮リンク|カルロス3世勲章|en|Order of Charles III|label=カルロス3世勲章}}勲一等<ref name="abcd"/>
|
|-
|[[1897年]](明治30年)[[10月4日]]
|{{flagicon image|Flag of Belgium.svg}} [[ベルギー|ベルギー王国]]
|[[File:BEL - Order of Leopold - Grand Cordon bar.svg|50px]]
|{{仮リンク|レオポルド勲章|en|Order of Leopold (Belgium)|label=レオポルド勲章}}一等<ref name="abcd" />
|
|-
|1897年(明治30年)10月4日
|{{GBR5}}
|[[File:Queen Victoria Diamond Jubilee Medal (military) ribbon.PNG|50px]]
|銀製{{仮リンク|ヴィクトリア女王即位60周年記念章|en|Queen Victoria Diamond Jubilee Medal|label=ジュビリー記念章}}<ref name="abcd" />
|
|-
|[[1898年]](明治31年)[[4月29日]]
|{{flagicon image|Flag of France.svg}} [[フランス第三共和政|フランス共和国]]
|[[File:Legion Honneur GC ribbon.svg|50px]]
|[[レジオンドヌール勲章]]勲一等<ref name="abcd"/>
|
|-
|1898年(明治31年)[[12月5日]]
|{{flagicon image|Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg}} [[清|大清帝国]]
|[[File:Order of the Double Dragon (Empire of China).png|50px]]
|{{仮リンク|御賜双龍宝星|zh|御赐双龙宝星|label=頭等第三双龍宝星}}<ref name="abcd"/>
|
|-
|[[1902年]](明治35年)[[3月15日]]
|{{GBR5}}
|[[File:Order of the Bath ribbon.svg|50px]]
|[[バス勲章]]勲一等<ref name="abcd" /><ref name="asdfg">『官報』1902年3月22日「叙任及辞令」。</ref>
|
|-
|1902年(明治35年)3月15日
|{{RUS1883}}
|[[File:Russian Imperial Order of Saint Alexander Nevsky ribbon bar.svg|50px]]
|ダイヤモンド装飾・[[聖アレクサンドル・ネフスキー勲章|神聖アレキサンドル・ネフスキー勲章]]<ref name="abcd" /><ref name="asdfg" />
|
|-
|1902年(明治35年)3月15日
|{{DEU1871}}
|[[File:Ord.Aquilarossa-GC.png|50px]]
|ダイヤモンド装飾・{{仮リンク|赤鷲勲章|en|Order of the Red Eagle|label=赤鷲大綬章}}<ref name="abcd" /><ref name="asdfg" />
|
|-
|1902年(明治35年)3月15日
|{{ITA1861}}
|[[File:Order of the Most Holy Annunciation BAR.svg|50px]]
|[[聖アヌンツィアータ騎士団|アンノンシアード勲章]]<ref name="abcd" /><ref name="asdfg" />
|
|-
|[[1904年]](明治37年)[[4月18日]]
|{{KOR1897}}
|[[File:Korean Empire ribbon bar - Order of Taejo, Golden Ruler, Cheok Or.svg|50px]]
|[[大勲位金尺大綬章]]<ref name="abcd"/>
|
|}
 
== 系譜 ==
; 林氏(伊藤氏)
: 林氏は[[本姓]][[越智氏|越智]][[河野氏]]の支流といわれる。[[家紋]]はもと「折敷に三文字」だが、[[伊藤氏|伊藤]]姓に改姓以後「上がり藤」を用いた。
: 博文自身の語るところ<ref>{{refnest|group=注釈|明治42年(1909年)松山での講演会での発言。</ref>}}によれば「先祖は[[河野通有]]の裔で、[[淡路ヶ峠]]城主の[[林通起|林淡路守通起]]である」という。また「実家は[[周防国]][[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]][[束荷村]][[農家]]で、博文の祖父[[林助左衛門]]は、林家の本家[[林利八郎]]の[[養子縁組|養子]]となり本家を継いだ。林助左衛門の子[[伊藤十蔵|十蔵]]は[[萩藩]]の蔵元付[[武家奉公人|中間]][[水井武兵衛]]の養子となり「水井十蔵」と名乗るが、[[安政]]元年([[1854年]])に[[水井武兵衛]]が周防国[[佐波郡 (山口県)|佐波郡]]相畑の[[足軽]]で藤原姓を称する[[伊藤弥右衛門]]の養子となり、[[伊藤直右衛門]]と名を改めたため、十蔵も伊藤氏を称した<ref>{{refnest|group=注釈|『海南新聞』[[1909年]]([[明治]]42年)3月18日号の記事によると、同年3月16日松山道後を訪れた伊藤博文は、歓迎会演説の中で自らの出自に就いて 「予ノ祖先ハ當國ヨリ出デタル者ニテ、伊予ニハ予ト同シク河野氏ノ末流多シト存スルガ、予ノ祖先ハ300年以前ニ於テ敗戰ノ結果、河野一族ノ滅亡ト共ニ中國ヘ移リタル者テ「通起(みちおき)」ト称シ[[慶長]]16年([[1609年]])5月26日ニ死歿シタルガ故ニ、明年ニテ恰モ300年ニ相当ス。彼ハ「林淡路守通起」ト称シ、予ハ其レヨリ第11代目ニ當レリ。「通起」ハ敗戰ノ後、毛利氏ヲ頼リタルモ、毛利氏モ當敗軍ニ属シ、頗ル艱難ヲ極メタル時ナルカ故ニ、遂ニ村落ニ埋歿シ落魄シテ、眞ニ僻遠ナルカ寒村ニ居住シ、其裔孫此処ニ存続シテ、今ヤ一族60餘軒ヲ算スルニ至レリ。予モ即チ其一人ニシテ、明年ヲ以テ齢70ニ達スルガ故ニ、恰モ周防ニ移リタル通起ノ歿後230年ニ出生シタルモノナリ。予カ父母ニ擁セラレテ萩ノ城下ニ出デタルハ僅ニ8歳ノ時ニシテ、爾来幾多ノ変遷ヲ経テ、今日ニ及ベリ。近來家系ノ事ニツイテ當國ノ諸君ガ頗ル調査ニ盡力セラレタル結果、周防移住以前ノ事蹟、大ニ明確ト成リタレハ、明年ハ周防ニオイテ親族ヲ参集シ、通起ノ為ニ300回忌ノ法要ヲ營ム心算ナリ。今次當地ニ於テハ、諸君ガ頗ル厚意ヲ以テ來遊ヲ歓迎セラレタルハ、右ノ縁故ニ基クモノトシテ、予ハ殊更ニ諸君ニ対シテ感謝ノ意ヲ表スル次第ナリ。顧フニ古來成敗ノ蹟ニ就テ考フレハ、予ガ祖先ハ當國ヨリ出デタルモノナレバ、當國ハ即チ祖先ノ故郷ナリ。今ヤ祖先ノ故郷ヘ歸リ來リテ斯クノ如ク熱誠ナル諸君ノ歓迎ヲ受ク。胸中萬感ヲ惹カザルヲ得ズ。加之、本日ハ諸君ガ我過失ヲ論ゼズシテ、唯々微功ヲ録セラレタルニ至テハ、深ク諸君ノ厚意ヲ心ニ銘シテ忘却セズ」と発言している。</ref>}}」という。[[伊藤十蔵]]の長男が、伊藤博文[[公爵]]である。博文の跡は養子の[[伊藤博邦|博邦]](盟友[[井上馨]][[]])が継いだ<ref>『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 226、227頁</ref>。束荷村に嘗てあった林氏の[[菩提寺]]林照寺は、元[[真言宗]]寺院[[吉祥院]]であったが、江戸時代初めに林淡路守通起の菩提寺となり、[[浄土真宗]]に改宗して林照寺と改めた。明治維新後、[[廃寺]]となる<ref>[https://www.city.hikari.lg.jp/kyouiku/bunka/bunkazaiitiran.html 指定文化財]光市/指定文化財</ref><ref>[http://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/bunkazai/summary.asp?mid=90017 木造阿弥陀如来坐像 - 文化財要録]山口県/社会教育・文化財課/山口県の文化財</ref>。
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
<pre>
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">林氏系図(博文まで)</div>
                                        ┏女子(守田直吉妻)
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
                                        ┣女子(林新兵衛妻)
※実線は実子、点線は養子。
林通村┳通安┳秀貞━━勝久━━信吉━┳信顕━━━信久┳惣左衛門 ┏利八郎==増蔵┻伊藤十蔵
{{familytree/start|style=font-size:90%}}
   ┃  ┗通具 ┏通元━━信勝 ┃       ┗平治兵衛━┻利右衛門  ↑
{{familytree|border=0| |001|001=[[河野通有]]}}
   ┗通忠┳通政 ┣通代     ┃                    ┊
{{familytree|border=0| | |!| }}
      ┃   ┣通重     ┣作左衛門━源蔵━与一右衛門┳(増蔵)┄┄┄┙      
{{familytree|border=0| |002|002=(略)}}
      ┗通起━╋通好     ┣惣十郎          ┗助左衛門
{{familytree|border=0| | |!| }}
          ┣通定     ┗又左衛門
{{familytree|border=0| |002|002=[[林通村]]}}
          ┣通形
{{familytree|border=0| | |)|-|-|.| }}
          ┣通永
{{familytree|border=0| |003|004|003=[[林通安|通安]]|004=[[林通忠|通忠]]}}
          ┗通季
{{familytree|border=0| | |)|-|-|.| }}
</pre>
{{familytree|border=0| |005|006|005=[[林秀貞|秀貞]]|006=[[林通具|通具]]}}
{{familytree|border=0| | |!| }}
{{familytree|border=0| |007|007=[[林勝久|勝久]]}}
{{familytree|border=0| | |!| }}
{{familytree|border=0| |007|007=[[林信吉|信吉]]}}
{{familytree|border=0| | |)|-|-|-|-|-|v|-|-|v|-|-|.| }}
{{familytree|border=0| |008||||009|010|011|008=[[林信顕|信顕]]|009=[[林作左衛門|作左衛門]]|010=[[林惣十郎|惣十郎]]|011=[[林又左衛門|又左衛門]]}}
{{familytree|border=0| | |!||||||!| }}
{{familytree|border=0| |012||||013|012=[[林信久|信久]]|013=[[林源蔵|源蔵]]}}
{{familytree|border=0| | |)|-|-|.|||!| }}
{{familytree|border=0| |014|015|016|014=[[林惣佐衛門|惣佐衛門]]|015=[[林平治兵衛|平治兵衛]]|016=[[林与一右衛門|与一右衛門]]}}
{{familytree|border=0| | |,|-|-|(|||)|-|-|.| }}
{{familytree|border=0| |017|018|019|020|017=[[林利八郎|利八郎]]|018=[[林利右衛門|利右衛門]]|019=([[林増蔵|増蔵]])|020=[[林助左衛門|助左衛門]]}}
{{familytree|border=0| | |:| }}
{{familytree|border=0| |021|021=[[林増蔵|増蔵]]}}
{{familytree|border=0| | |)|-|-|v|-|-|.| }}
{{familytree|border=0| |022|023|024|022=[[伊藤十蔵]]|023=女子|024=女子}}
{{familytree|border=0| | |!| }}
{{familytree|border=0| |025|025='''博文'''}}
{{familytree/end}}
</div>
</div>
 
; 伊藤家
: 本姓[[藤原氏]]を称する。早川隆の著書『日本の上流社会と閨閥』によれば「もともと伊藤の家は[[小作人|水呑み百姓]]で父親十蔵は[[馬車]]ひきなどをしていたが食い詰めて[[長州藩]]の伊藤という[[武家奉公人|中間]]の家に[[使用人|下僕]]として住み込んでいるうちに子供のない同家の養子になり伊藤を名乗った。博文は幼名を利助といい[[孤児|捨て子]]だったという説もある。それが[[武士]]のはしくれから明治の指導者に出世すると[[家系]]が気になりだしたのか[[孝霊天皇]]の息子[[彦狭島命|伊予皇子]]の三男[[小千王子]]が祖先とか、[[河野通有]]の子孫とか言い出した。[[系図]]屋に、りっぱな系図を作らせるのは今も昔もよくある話で、とがめ立てするほどのこともあるまいが、偉くなってからの彼は[[故郷]]へはほとんど帰らなかった。昔の素性を知るものには頭が上がらないからである。だが、身分が低かろうが実力さえあれば偉くなれるという混乱期の日本を象徴するように首相、政党総裁、枢密院議長、[[公爵]]と位人臣(くらいじんしん)を極めた伊藤の生涯は、いわば明治版[[太閤記]]である」としている<ref>同書早川隆『日本の上流社会と閨閥』、211、214頁。角川書店</ref>。伊藤家の菩提寺は萩市津守町の[[浄土宗]]心徳院[[報恩寺]]<ref>[http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/news/digest/2009/0912/18p.html 萩の伊藤家墓碑修復 13日お披露目式][[山口新聞]] 2009年9月12日(土)掲載</ref><ref>[http://machihaku.city.hagi.lg.jp/onecoin/006/index.htm 伊藤博文公先祖の墓碑][[萩博物館]]</ref>。
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
<pre>
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">伊藤家系図</div>
伊藤弥右衛門=直右衛門(水井武兵衛)=伊藤重蔵(林十蔵)━伊藤博文(林利助)
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
</pre>
* 実線は実子。点線は養子
<pre>
* 右肩の数字は公爵位の襲爵順
桂太郎━━寿満子
{{familytree/start|style=font-size:90%}}
      ∥
{{familytree|001|001=<small>[[伊藤弥右衛門]]</small>}}
   ┏━伊藤文吉
{{familytree| |:| }}
   ┣━伊藤眞一
{{familytree|001|001=[[伊藤直右衛門|直右衛門]]}}
   ┣━━━生子
{{familytree| |:| }}
   ┃    ∥
{{familytree|001|001=[[伊藤十蔵|重蔵]]}}
   ┃  末松謙澄
{{familytree| |!| }}
   ┣━━━朝子
{{familytree|001| |||||||||||||||||||||||||002|001='''博文'''{{sup|①}}|002=[[桂太郎]]}}
   ┃    ∥
{{familytree|:| |`|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|.| | | |!| }}
   ┃  西 源四郎
{{familytree|001| |002|y|003||004|~|005||006||007|y|008|001=[[伊藤博邦|博邦]]{{sup|②}}|002=朝子|003=[[西源四郎]]|004=生子|005=[[末松謙澄]]|006=[[伊藤眞一|眞一]]|007=[[伊藤文吉 (男爵)|文吉]]|008=満寿子}}
伊藤博文===伊藤博邦━┳伊藤博精━┳博雅━━━┳智明
{{familytree| |!| |||||!| |||||||||||||||||||!| }}
            ┣清水博春 ┣邦子   ┗八重子
{{familytree| |!| |||||!| ||||||||||||||||||001|001=[[伊藤俊夫|俊夫]]}}
            ┣伊藤博通 ┣雪子
{{familytree|border=0| |!| ||||001|001=関連系図へ}}
            ┣伊藤博約 ┣━━文子
{{familytree| |)|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.| }}{{familytree|001||002||003||004||005||006||007||008||009||010||011||012||013|001=[[伊藤博精|博精]]{{sup|③}}|002=[[清水博春]]|003=[[伊藤博通|博通]]|004=琴子|005=[[伊藤博約|博約]]|006=永富愛子|007=[[伊藤博忠|博忠]]|008=[[伊藤博臣|博臣]]|009=[[林博則]]|010=[[伊藤博経|博経]]|011=鹽原十四子|012=[[伊藤博孝|博孝]]|013=[[伊藤博英 (昭和時代)|博英]]}}
            ┣伊藤博忠 ┃   ∥
{{familytree| |)|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.| }}
            ┣伊藤博臣 ┃ 千家達彦
{{familytree|001||002||003||004||005||006||001=[[伊藤博雅|博雅]]{{sup|④}}|002=西浦邦子|003=中山雪子|004=千家文子|005=広瀬典子|006=松平久子}}
            ┣林 博利  ┣典子
{{familytree| |)|-|-|-|-|-|-|-|.| }}
            ┣伊藤博経 ┗久子
{{familytree|001|~|002||003|001=博子|002=[[伊藤智明|智明]]|003=八重子}}
            ┣伊藤博孝
{{familytree/end}}
            ┣伊藤博英
----
            ┣琴子
; 関連系図
            ┣愛子
伊藤博文の娘・朝子からの系図。
            ┗十四子
{{familytree/start|style=font-size:90%}}
</pre>
{{familytree|001|001='''伊藤博文'''}}
{{familytree| |!| }}
{{familytree|001|y|002|001=朝子|002=[[西源四郎]]}}
{{familytree| |||!| }}
{{familytree| ||001|y|002|001=清子|002=[[藤井啓之助]]}}
{{familytree| |||||)|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|.| }}
{{familytree|001|y|002||003|~|004||005|y|006| |007|001=[[松本十郎 (衆議院議員)|松本十郎]]|002=悦子|003=蔦子|004=[[鶴見清彦]]|005=芙佐子|006=[[藤崎萬里|藤﨑万里]]|007=田付美代子}}
{{familytree| |||)|-|-|-|.| |||||||||||!| }}
{{familytree| ||001||002|~|003||||||004|001=[[松本剛明|剛明]]|002=玲子|003=[[寺内肇]]|004=[[藤崎一郎|一郎]]}}
{{familytree/end}}
</div>
</div>
 
=== 家族・親族 ===
* 父:[[伊藤十蔵]]{{smaller|(1816–1896)}}:百姓。はじめ林姓、のちに伊藤直右衛門の養子に入り重蔵と改名<ref name="霞会館167">霞会館、P167。</ref>。
* 先妻:すみ子 [[内務大臣 (日本)|内務大臣]][[野村靖]][[子爵]]の妹。
* 母:伊藤琴子{{smaller|(1819–1903)}}:秋山長左衛門の娘<ref name="霞会館167"></ref>。
* 継妻:梅子 [[木田久兵衛]]長女([[木田幾三郎]]の姉)。([[芸者]]時代はお梅と名乗る)
* 先妻:すみ子{{smaller|(生没年不詳)}}:入江嘉伝次の娘で[[入江九一]]と[[野村靖]](のちに[[内務大臣 (日本)|内務大臣]])の妹。文久3年(1863年)に結婚したが、そりが合わず慶応2年([[1866年]])に離婚<ref>{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=56 - 59}}</ref>。博文が留学中に十蔵の勧めで嫁入りし、萩の留守宅で博文の帰国を1年半待ったが、梅子が妊娠したことにより離縁され、のちに神戸税関員と再婚した<ref name=takeuchi/>。
** 養子:[[伊藤博邦]] [[井上光遠]]の四男。妻は、[[易者]]・[[高島嘉右衛門]]の長女たま子。高島嘉右衛門は伊藤博文と親交深く伊藤博文暗殺を易占し、本人に忠告した。
* 継妻:[[伊藤梅子|梅子]]{{smaller|(1848–1924)}}:木田久兵衛の長女、木田幾三郎の姉。実父は港湾労働者<ref name=takeuchi/>。元は[[下関市|下関]]の芸妓・小梅<ref>[https://www.aozora.gr.jp/cards/000726/files/4329_28181.html 『明治美人伝』][[長谷川時雨]]</ref>。慶応2年(1866年)に結婚<ref name="霞会館167"></ref><ref>{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=58 - 59}}</ref>。
** 長男:伊藤文吉 ([[妾]]腹の子で[[庶子]])[[木田幾三郎]]の長男として育てられたが、後に戸籍上伊藤の養子となる。[[農商務省 (日本)|農商務省]][[参事官]]。[[軍需省]]顧問。[[ジャパンエナジー|日本鉱業]]社長。後に独立して[[男爵]]。妻は元[[内閣総理大臣|首相]][[桂太郎]]の五女、寿満子。[[1939年]][[10月16日]]には、[[ウェスティン朝鮮ホテル|朝鮮ホテル]]で、伊藤を暗殺した安重根の息子、[[安俊生]]と面会し「死んだ父の罪を私が贖罪して全力で報国の最善をつくしたい」と謝罪を受けた<ref>[[聯合ニュース]] 2009年10月21日付{{kr icon}}</ref>。現在でもそのときの写真が残っている<ref>「[[毎日新報]]」1939年10月18日付より。</ref><ref>[http://specificasia.up.seesaa.net/BW_Upload/AKR20091019210900005_01_i.jpg 毎日新報に掲載された写真]。左端で腰掛けているのが安俊生、右端で腰掛けているのが文吉である。</ref>。
** 長女:伊藤貞子{{smaller|(1866–1869)}}:夭逝。母は梅子<ref>{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=62 - 63, 88}}</ref>。
** 次男:[[伊藤眞一]](庶子。母は[[新橋 (花街)|新橋]]の芸者・歌)
** 次女:末松生子{{smaller|(1868–1934)}}:母は梅子。明治22年(1889年)、内務大臣・[[末松謙澄]]と結婚<ref name="霞会館167"></ref><ref name="霞会館768">霞会館、P768。</ref>。
** 長女:生子 [[内務大臣 (日本)|内務大臣]][[末松謙澄]][[子爵]]の妻。
** ::西朝子 {{smaller|(1876–1944)}}:母は[[多摩地域]]出身で伊藤家の女中。明治26年(1893年)、[[ルーマニア]][[公使]][[西源四郎]]の妻と結婚<ref name="霞会館167"></ref><ref name="人事興信所42">人事興信所、フ42。</ref>
*** 孫:藤井清子{{smaller|(1895–1983)}}:朝子の娘。[[チェコスロバキア]]公使・[[藤井啓之助]]の妻<ref name="人事興信所42"></ref>。
*** 孫:[[伊藤満洲雄|満洲雄]]([[特定非営利活動法人]][[国際福祉環境推進機構]]代表)
**** 曽孫:田付美代子{{smaller|(1916–?)}}:清子の長女。[[デンマーク]][[大使]]・[[田付景一]]の妻<ref name="人事興信所42"></ref>。
*** 孫:[[伊藤博精|博精]](妻は元首相[[高橋是清]]の孫娘)
**** 曽孫:藤﨑芙佐子{{smaller|(1921–?)}}:清子の次女。[[最高裁判所裁判官]]・[[藤崎萬里|藤﨑万里]]の妻<ref name="人事興信所42"></ref>。
*** 孫:清子 [[チェコスロヴァキア]]公使[[藤井啓之助]]の妻。
***** 玄孫:[[藤崎一郎|藤﨑一郎]]{{smaller|(1947年生)}}:芙佐子の長男。元[[外務審議官]]、元駐アメリカ大使。
**** 曾孫:文子 [[出雲国造]]家の[[千家達彦]]の妻。
**** 曽孫:鶴見蔦子{{smaller|(1925年生)}}:清子の三女。[[ジュネーヴ]][[国際機関]]日本[[政府代表部]]大使・[[鶴見清彦]](東京出身、東大法学部卒業後外務省)の妻<ref name="人事興信所42"></ref>。
**** 曾孫:美代子 [[デンマーク]][[大使]][[田付景一]]の妻。
**** 曽孫:松本悦子{{smaller|(1928年生)}}:清子の四女。[[防衛庁長官]]・[[松本十郎 (衆議院議員)|松本十郎]]の後妻<ref name="人事興信所42"></ref>。
**** 曾孫:芙佐子 [[最高裁判所裁判官]][[藤﨑万里]]の妻。
***** 玄孫:[[松本剛明]]{{smaller|(1959年生)}}:悦子の息子。[[衆議院議員]]、([[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]→[[自由民主党 (日本)|自民党]])。元[[外務大臣]]([[菅直人内閣 (第2次改造)|菅第2次改造内閣]])、元総務大臣([[第2次岸田内閣 (第1次改造)|第2次岸田第1次改造内閣]])。
**** 曾孫:蔦子 [[ジュネーヴ]][[国際機関]]日本[[政府代表部]]大使[[鶴見清彦]]の妻
***** ::寺内玲子:悦子 の娘。[[防衛庁長財務省大臣]][[松本十郎 (衆議院議員)|松本十郎参事官]]・寺内肇の妻
[[image:MNSP1939y10m18d.jpg|thumb|right|220px|毎日新報に掲載された写真。左端で腰掛けているのが安俊生、右端で腰掛けているのが文吉である。]]
***** 玄孫:[[藤﨑一郎]](駐アメリカ大使、元[[外務審議官]])
***** 玄孫:[[松本剛明]]([[民主党 (日本 1998-)|民主党]]所属[[外務大臣 (日本)|外務大臣]])
***** 玄孫:令子 [[財務省大臣官房]][[参事官]][[寺内肇]]の妻
 
** 養子:[[伊藤博邦]]{{smaller|(1870–1931)}}:[[井上光遠]]の四男。井上馨の甥。妻は[[易者]]・[[高島嘉右衛門]]の長女・たま子<ref name="霞会館167"></ref>。嘉右衛門は博文と親交が深く、博文暗殺を易占して本人に忠告した。
== 脚注 ==
*** 養孫:[[伊藤博精]]{{smaller|(1899–1962)}}:博邦の息子。妻は高橋是福の娘で[[高橋是清]]の孫娘福子<ref name="霞会館167"></ref>。
{{脚注ヘルプ}}
**** 義曽孫:伊藤博雅{{smaller|(1929年生)}}:博精の長男。[[明治乳業]]勤務。妻は子爵谷閑衛([[京大]]工学部卒業後[[日本製鐵|日本製鉄]])長女。
{{reflist|3}}
**** 義曽孫:千家文子{{smaller|(1932年生)}}:博精の三女。[[出雲国造]]家の[[千家達彦]]の妻。
 
** 長男:[[伊藤文吉 (男爵)|伊藤文吉]]{{smaller|(1885–1951)}}:[[庶子]]。木田幾三郎の長男として育てられたが、のちに戸籍上伊藤の養子となる。[[農商務省 (日本)|農商務省]][[参事官]]。[[軍需省]]顧問。[[ジャパンエナジー|日本鉱業]]社長。のちに独立して明治42年(1909年)に[[男爵]]。妻は[[桂太郎]]の五女・寿満子。昭和14年([[1939年]])[[10月16日]]には、[[ウェスティン朝鮮ホテル|朝鮮ホテル]]で、伊藤を暗殺した安重根の息子、[[安俊生]]と面会し「死んだ父の罪を私が贖罪して全力で報国の最善をつくしたい」と謝罪を受けた<ref>[[聯合ニュース]] 2009年10月21日付{{ko icon}}</ref>。現在でもそのときの写真が残っている<ref>「[[毎日新報]]」1939年10月18日付より。</ref>。
== 参考文献 ==
** 次男:[[伊藤眞一]]{{smaller|(1890–1980)}}:庶子。母は[[新橋 (花街)|新橋]]の芸者・歌。母とその夫の家で育ち、仙台二高、東大法科を経て満鉄大阪事務所長などを務める<ref name="takeuchi">『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇』竹内正浩、実業之日本社, 2017、「伊藤博文」の章</ref>。[[牧野伸顕]]の姪・日高常子と結婚して一男一女をもうけたが離婚、常子は[[ロバート・W・アーウィン]]の長男と再婚した<ref>『フランクリンの果実』ユキコ・アーウィン、文藝春秋 (1988/05)、p26</ref>。
*{{Cite book|和書|author=浅野豊美|authorlink=浅野豊美|year=2008|month=2|title=帝国日本の植民地法制 法域統合と帝国秩序|publisher=名古屋大学出版会|isbn=978-4-8158-0585-2|ref=浅野2008}}
*** 孫:[[伊藤満洲雄]]{{smaller|(1932年生)}}:眞一の次男(満洲雄のインタビュー記事では4歳違いの兄がいたと記載されている<ref name="hohodue">{{Cite journal|和書|author1=澁澤健 |author2=伊藤満洲雄|title=博文異伝 世代を超えて未来を語る 第25回 |journal=ほほづゑ|issue=98 (2018年・秋号)|publisher=三好企画|date=2018-10-01|pages=84-91 |url=http://miyoshikikaku.com/pdf/98_070-079_hakubun.pdf |format=PDF}}</ref>)。[[住友軽金属工業]]勤務後に語学サービス企業を興した<ref name="hohodue"/>。
*{{Cite book|和書|editor=[[学習研究社]]編集部編|year=2003|month=7|title=実録首相列伝 国を担った男達の本懐と蹉跌|series=歴史群像シリーズ 70号|publisher=学習研究社|isbn=4-05-603151-7|ref=学習研究社2003}}
** 四女:大竹澤子{{smaller|(1899–1942)}}:庶子。戸籍上は日高憲明(鹿児島士族、警視庁警部、日本銀行守衛長)次女<ref name=takeuchi/>。次姉・生子夫妻の養女となり、[[大竹多気]]の息子・虎雄と結婚<ref name="霞会館768">霞会館、P768。</ref><ref>{{Harvtxt|伊藤之雄|2009|pp=378}}</ref>。
**{{Cite book|和書|editor=[[学習研究社]]編集部編|year=2006|month=9|title=実録首相列伝 国を担った男達の本懐と蹉跌|series=学研M文庫|publisher=学習研究社|isbn=4-05-901189-4|ref=学習研究社2006}} - 2003年刊の増訂版。
*{{Cite book|和書|author=早川隆|authorlink=早川隆|year=1983|month=9|title=日本の上流社会と閨閥|publisher=角川書店|isbn=978-4-04-820001-1|pages=211-215頁|ref=早川1983}}
*{{Cite book|和書|editor=[[檜山幸夫]]総編集|others=伊藤博文文書研究会監修|year=2007-2010年|title=伊藤博文文書|volume=全36巻|publisher=ゆまに書房|id=ISBN 978-4-8433-2294-9,ISBN 978-4-8433-2295-6,ISBN 978-4-8433-2296-3,ISBN 978-4-8433-2297-0,ISBN 978-4-8433-2520-9|ref=檜山2007-2010}}
*{{Cite book|和書|year=2003|month=9|title=日本の名家・名門 人物系譜総覧|series=別冊[[歴史読本]]57、第28巻26号|publisher=新人物往来社|isbn=4-404-03057-6|pages=226-227頁|ref=歴史読本2003}}
 
== 伝記 ==
*{{Cite book|和書|author=伊藤博文|editor=[[新人物往来社]]編|year=2010|month=4|title=伊藤博文直話 暗殺直前まで語り下ろした幕末明治回顧録|series=新人物文庫 71|publisher=新人物往来社|isbn=978-4-404-03839-5|ref=伊藤2010}} - 唯一の回顧記の復刻。
*{{Cite book|和書|author=伊藤之雄|authorlink=伊藤之雄|year=2009|month=11|title=伊藤博文 近代日本を創った男|publisher=講談社|isbn=978-4-06-215909-8|ref=伊藤2009}}
*{{Cite book|和書|author=佐々木隆|authorlink=佐々木隆 (歴史学者)|year=1999|month=7|title=伊藤博文の情報戦略 藩閥政治家たちの攻防|series=中公新書 1483|publisher=中央公論新社|isbn=4-12-101483-9|ref=佐々木1999}}
*{{Cite book|和書|editor=春畝公追頌会編|year=1940|title=伊藤博文伝|publisher=春畝公追頌会|volume=上・中・下巻|ref=春畝公追頌会1940}}
**{{Cite book|和書|editor=春畝公追頌会編|year=1970|title=伊藤博文伝|series=明治百年史叢書|publisher=原書房|volume=上・中・下巻|ref=春畝公追頌会1970}} - 春畝公追頌会(1940年)刊の複製。
*{{Cite book|和書|author=瀧井一博|authorlink=瀧井一博|year=2010|month=4|title=伊藤博文 知の政治家|series=中公新書 2051|publisher=中央公論新社|isbn=978-4-12-102051-2|ref=瀧井2010}} - 2010年[[サントリー学芸賞]]受賞。
 
== 関連作品 ==
; 書籍
*{{Cite book|和書|author=浅野豊美|authorlink=浅野豊美|year=2008|month=2|title=帝国日本の植民地法制 法域統合と帝国秩序|publisher=名古屋大学出版会|isbn=978-4-8158-0585-2|ref=浅野2008}}
* {{Cite book|和書|author=高松宮宣仁親王|authorlink=高松宮宣仁親王|others=[[細川護貞]]・[[大井篤]]・[[阿川弘之]]・[[豊田隈雄]]編集委員、発行者[[嶋中鵬二]]|title=高松宮日記 第二巻 {{small|昭和八年一月一日~昭和十二年九月二十六日}}|publisher=中央公論社|year=1995|month=6|ISBN=4-12-403392-3|ref=高松宮日記2巻}}
*{{Cite book|和書|author=早川隆|authorlink=|year=1983|month=9|title=日本の上流社会と閨閥|publisher=角川書店|isbn=978-4-04-820001-1|pages=211-215|ref=早川1983}}
*{{Cite book|和書|author=|title=伊藤博文文書|others=檜山幸夫総編集、伊藤博文文書研究会監修|year=2007-2010年|volume=全36巻|publisher=ゆまに書房|id={{ISBN2|978-4-8433-2294-9}},{{ISBN2|978-4-8433-2295-6}},{{ISBN2|978-4-8433-2296-3}},{{ISBN2|978-4-8433-2297-0}},{{ISBN2|978-4-8433-2520-9}}|ref=檜山2007-2010}}
*{{Cite book|和書|year=2003|month=9|title=日本の名家・名門 人物系譜総覧|series=別冊[[歴史読本]]57、第28巻26号|publisher=新人物往来社|isbn=4-404-03057-6|pages=226-227|ref=歴史読本2003}}
* 人事興信所編『人事興信録 第14版 下巻』人事興信所、1943年。
* [[霞会館]]華族家系大成編輯委員会編『[[平成新修旧華族家系大成]] 上巻』吉川弘文館、1996年。
*春畝公追頌会『伊藤博文の国際政治 上編・下編』[[書肆心水]]、2022年8月。
; 伝記
*{{Cite book|和書|author=|editor=新人物往来社|editor-link=新人物往来社|year=2010|month=4|title=伊藤博文直話 暗殺直前まで語り下ろした幕末明治回顧録|series=新人物文庫|publisher=新人物往来社|isbn=978-4-404-03839-5|ref=伊藤2010}} - 唯一の回顧記の復刻。
*{{Cite book|和書|author=佐々木隆|authorlink=佐々木隆 (歴史学者)|year=1999|month=7|title=伊藤博文の情報戦略 藩閥政治家たちの攻防|series=中公新書|publisher=中央公論新社|isbn=4-12-101483-9|ref=佐々木1999}}
*[[伊藤之雄]]『伊藤博文-近代日本を創った男』講談社、2009年。講談社学術文庫、2015年3月
*『伊藤博文を語る 人柄・政治・エピソード』書肆心水、2022年9月。平塚篤編
; 映画
* [[わが恋は燃えぬ]](1949年、日本、役者:[[東野英治郎]])
* [[明治天皇と日露大戦争]](1957年、日本、役者:[[阿部九洲男]])
* [[天皇・皇后と日清戦争]](1958年、日本、役者:阿部九洲男)
* [[日本海大海戦]](1969年、日本、役者:[[柳永二郎]])
* [[{{仮リンク|安重根 伊藤博文]]を撃つ|ko|안중근 이등박문을 쏘다}}(1979年、北朝鮮、役者:[[ファン・ヨンイル]])
* [[二百三高地]](1980年、日本、役者:[[森繁久彌]])
* [[幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬]](1986年、日本、役者:[[伊武雅刀]])
* [[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]](1986年、日本、役者:[[三橋達也]])
* [[ロスト・メモリーズ]](2002年、韓国、役者:[[ウ・サンジョン]])
* [[草の乱]](2004年、日本、役者:[[山本圭]])
* 多默安重根(2004年、韓国、役者:[[ユン・ジュサン]]、[[チョン・ジュファン]])日本未公開
* [[長州ファイブ|長州ファイブ -CHOSHU Five-]](2006年、日本、役者:[[三浦アキフミ]])
* 一八九四・甲午大海戦(2012年、中国、役者:[[平田康之]])日本未公開
* [[るろうに剣心 (実写映画)#るろうに剣心 京都大火編 / 伝説の最期編|るろうに剣心 伝説の最期編]](2014年、日本、役者:[[小澤征悦]])
* [[天外者]](2020年、日本、役者:[[森永悠希]])
* [[ハルビン (映画)|ハルビン]](2024年、韓国、役者:[[リリー・フランキー]])
; テレビドラマ
* [[三姉妹]](1967年、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、役者:[[福田善之]])
* [[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]](1968年、日本、NHK大河ドラマ、役者:[[中村敦夫]])
* [[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]](1977年、日本、NHK大河ドラマ、役者:[[尾藤イサオ]])
* [[風が燃えた]](1978年、日本、[[TBSテレビ|TBS]]、役者:青年期 [[三浦友和]] 壮年期 [[平幹二朗]])
* [[獅子の時代]](1980年、日本、NHK大河ドラマ、役者:[[根津甚八 (俳優)|根津甚八]])
* [[二百三高地#テレビドラマ|二百三高地]](1981年、日本、TBS、役者:[[小沢栄太郎]])
* [[ポーツマス波涛]](1985(1981、日本、NHK大河ドラマ、役者:[[伊丹十三鈴木瑞穂]])
* [[風雲 (1982年のテレビドラマ)|風雲]](1982年、[[韓国放送公社|韓国KBS]][[KBS大河ドラマ|大河ドラマ]]、役者:[[イ・スンホ (俳優)|イ・スンホ]])
* 新選組 第二部(1987年、日本、テレビ朝日TV時代劇スペシャル、役者:[[ASKA]])
* [[奇兵隊 (テレビド幕末青春グマ)|奇兵隊フィティ 坂本竜馬]](1989 (1982年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ年末時代劇]][[サントリー]]ドラマスペシャル、役者:[[堤大二郎井上陽水]])
* [[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く春の波涛]](1990(1985、日本、NHK大河ドラマ、役者:[[小倉久寛伊丹十三]])
* [[夜会新選組 (1987年果てテレビドラマ)|新選組]](1997 第二部(1987年、[[テレビ朝本、NHK]]TV時代劇スペシャル、役者:[[なべおさみASKA]])
* [[蒼天の夢奇兵隊 松陰と晋作・新世紀への挑戦(テレビドラマ)|奇兵隊]](2000(1989年、日本、NHK正月テレビ[[年末時代劇スペシャル]]、役者:[[高嶋政伸堤大二郎]])
* [[走向共和翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]](2003(1990年、中国、CCTVNHK大河ドラマ、役者:[[平田康之小倉久寛]])
* [[鹿鳴館夜会の果て]](2008(1997年、日本、テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャルNHK、役者:[[風間杜夫なべおさみ]])
* [[坂の上の雲 (世に棲む日日#テレビドラマ)|蒼天夢 松陰と晋作・新世紀へ挑戦]](2009 - 2011(2000、日本、NHK正月時代劇、役者:[[加藤剛高嶋政伸]])
* [[龍馬伝走向共和]](2010(2003年、日本中国NHK大河ドラマCCTV、役者:[[尾上寛平田康]]日本未公開
* [[虹を架ける王妃]](2006年、フジテレビ、演:[[上田耕一]])
* [[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]](2008年、NHK大河ドラマ、役者:[[岡本高英]])
* [[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]](2008年、テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャル、役者:[[風間杜夫]])
* [[坂の上の雲 (テレビドラマ)|坂の上の雲]](2009 - 2011年、NHKスペシャルドラマ([[プロジェクトJAPAN]])、役者:[[加藤剛]])
* [[龍馬伝]](2010年、NHK大河ドラマ、役者:[[尾上寛之]])
* [[蒼穹の昴]](2010 - 2011年、NHK(日中共同制作)、役者:[[平田満]])
* [[知られざる幕末の志士 山田顕義物語]](2012年、[[毎日放送|MBS]]・TBS、新春歴史スペシャル・日本大学創立123年記念番組、役者:青年期 [[小堀正博]]<ref>{{cite web|和書|url=https://www.maimupro.co.jp/profile/2316/
|title=小堀 正博 | PROFILE | MAIMU 舞夢プロ|東京・大阪の芸能プロダクション|publisher=[[舞夢プロ]]|accessdate=2023-11-02}}</ref> 壮年期 [[梅宮辰夫]])
* [[八重の桜]](2013年、NHK大河ドラマ、役者:[[加藤虎ノ介]])
* [[花燃ゆ]](2015年、NHK大河ドラマ、役者:[[劇団ひとり]])
* [[西郷どん (NHK大河ドラマ)|西郷どん]](2018年、NHK大河ドラマ、役者:[[浜野謙太]])
* [[ミスター・サンシャイン]](2018年、[[tvN]]土日ドラマ、役者:キム・イヌ)初めて登場した[[韓国ドラマ]]。
* [[いだてん〜東京オリムピック噺〜]](2019年、NHK大河ドラマ、役者:浜野謙太)※暗殺シーンのみ。大河ドラマ2作連続で、同一衣装による出演。
* [[青天を衝け]](2021年、NHK大河ドラマ、役者:[[山崎育三郎]])
* [[津田梅子〜お札になった留学生〜]](2022年、テレビ朝日、役者 : [[田中圭]])
; テレビ番組
*『NHK堂々日本史 日露戦争と下関会議』、役者:[[内藤武敏]]
; 漫画
* [[お〜い!竜馬]](原作:[[武田鉄矢]]、作画:[[小山ゆう]]) - [[テレビアニメ|アニメ版]]の[[声優]]は[[辻谷耕史]]。
* [[磯部磯兵衛物語~浮世はつらいよ~]]の第7巻(作者:[[仲間りょう]]) - 本作がすでに登場している徳川慶喜以外の明治維新の偉人の民間人として登場は初めて、主人公の磯兵衛の前に、始めての江戸を訪れる幼少のころの伊藤博文(本作の磯部磯兵衛では、幼名である'''利助'''と表記)が登場する。
* [[ねこねこ日本史]]の第4巻と第8巻(作者:[[そにしけんじ]]) - 高杉晋作と桂小五郎の回で登場する。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{reflist|3}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=春畝公追頌会|year=1940|title=伊藤博文伝|publisher=春畝公追頌会|volume=上・中・下巻|ref=春畝公追頌会1940}}
** {{Cite book|和書|editor=春畝公追頌会|year=1970|title=伊藤博文伝|series=明治百年史叢書|publisher=[[原書房]]|volume=上・中・下巻|ref=春畝公追頌会1970}}上記の復刻新版
** {{Cite book|和書|author=春畝公追頌会編|date=2004|title=伊藤博文伝(下)|series=明治百年史叢書 145|publisher=原書房|isbn=978-4562100460|ref=harv}}オンデマンド版
*[[礫川全次]]『史疑 幻の家康論 』[[批評社]]、2000年2月。ISBN 978-4826502924。新装増補改訂版
* {{Cite book|和書|author=伊藤之雄|authorlink=伊藤之雄|year=2009|month=11|title=伊藤博文 近代日本を創った男|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-215909-8|ref=harv}}
**新版『伊藤博文 近代日本を創った男』[[講談社学術文庫]]、2015年3月。ISBN 978-4-06-292286-9。
* {{Cite book|和書|author=瀧井一博|authorlink=瀧井一博|year=2010|month=4|title=伊藤博文 知の政治家|series=[[中公新書]]|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4-12-102051-2|ref=harv}}
** 2010年[[サントリー学芸賞]]受賞。編・解説に『伊藤博文演説集』講談社学術文庫、2011年7月 
* {{Cite book|和書|author=松村正義|authorlink=松村正義|year=2014|month=1|title=金子堅太郎 槍を立てて登城する人物になる|series=[[ミネルヴァ日本評伝選|日本評伝選]]|publisher=ミネルヴァ書房|isbn=978-4-623-06962-0|pages=204-206|ref=harv}}
* 伊藤之雄 『立憲国家の確立と伊藤博文 <small>内政と外交 一八八九~一八九八</small>』[https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b614955.html][[吉川弘文館]] 初版 1997年7月 オンデマンド版 ISBN 9784642736879
 
== 関連項目 ==
* [[幕末の人物一覧]]
* [[練兵館]]
* [[兵庫城]] - 兵庫県知事時代に県庁として利用された
* [[本山白雲]] - 戦前建てられていた伊藤博文の[[銅像]]の作者。
* [[西大井]] - 五丁目の全域と墓所のある六丁目の大部分は[[住居表示]]実施前まで大井伊藤町という名であった
* [[伊藤明瑞]] - 書家、伊藤博文の書生。
* [[品川区立伊藤小学校|伊藤小学校]]
* [[西大井]] - 五丁目の全域と墓所のある六丁目の大部分は[[住居表示]]実施前まで大井伊藤町という名であった。
* [[伊藤町 (神戸市)]]
* [[品川区立伊藤小学校]]
* [[日本銀行券]]
* [[千円紙幣]]
 
== 外部リンク ==
* [https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/12/ 伊藤博文 | 近代日本人の肖像]([[国立国会図書館]])
{{Commons|Ito Hirobumi}}
* [httphttps://burari2161www.fc2webboj.comor.jp/itouhirobuminote_tfjgs/note/valid/past_issue/pbn_1000.htm#p02/ 伊藤博文の千円紙幣(日本銀行)]
* [httphttps://www.ndlkantei.go.jp/portraitjp/datasrekidai/12souri/01.html?c=2 伊藤博文 | 近日本人総理肖像]([[国立国会図書館]写真と経歴 第1・5・7・10代 首相官邸サイト]
* [https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/kensei/itouhirobumi1 伊藤博文関係文書(その1) | 憲政資料室の所蔵資料 | 国立国会図書館]
* [http://www.boj.or.jp/type/list/yuko/data/sen.htm 伊藤博文の千円紙幣(日本銀行)]
* [https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/kensei/itouhirobumi2 伊藤博文関係文書(その2) | 憲政資料室の所蔵資料 | 国立国会図書館]
* [http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/05-31.html 日本の墓 伊藤博文]
* [https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/kensei/itouhirobumi3 伊藤博文関係文書(MF:個人蔵) | 憲政資料室の所蔵資料 | 国立国会図書館]
* [http://www5b.biglobe.ne.jp/~bosou/sansaku/itou/itou.htm 墓所:伊藤博文]
* [https://www.ndl.go.jp/jikihitsu/part2/s2_1.html#n052 第2章 歴代首相 | あの人の直筆] - [[国立国会図書館]]
* [http://1868.fc2web.com/anzaiito.html 伊藤博文と明治前期政治史に関する基礎的書誌]
* [httphttps://www.kvisionhama-midorinokyokai.neor.jp/~momorxpark/nojima/index.html 伊藤公資料館電脳頁博文金沢別邸]
* {{NHK for School clip|D0005310274_00000|伊藤博文}}
* [http://hagi.jp/~y-kaji/modules/xfsection/article.php?articleid=22 伊藤博文旧宅]
* {{Commonscat-inline}}
* [http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/souri/01.html 歴代総理の写真と経歴 第1・5・7・10代 首相官邸サイト]
* [http://kindai.ndl.go.jp/BIBibList.php?tpl_wid=WBPL110&tpl_wish_page_no=1&tpl_select_row_no=&tpl_hit_num=14&tpl_bef_keyword=&tpl_action=&tpl_search_kind=1&tpl_keyword=&tpl_s_title=&tpl_s_title_mode=BI&tpl_s_title_oper=AND&tpl_s_author=%e4%bc%8a%e8%97%a4%e5%8d%9a%e6%96%87&tpl_s_author_mode=BI&tpl_s_author_oper=AND&tpl_s_published_place=&tpl_s_published_place_mode=ZI&tpl_s_published_place_oper=AND&tpl_s_publisher=&tpl_s_publisher_mode=ZI&tpl_s_publisher_oper=AND&tpl_s_nengou=AD&tpl_s_published_year_from=&tpl_s_published_year_to=&tpl_s_ndc=&tpl_s_ndc_mode=ZI&tpl_s_heading=&tpl_s_heading_mode=ZI&tpl_s_heading_oper=AND&tpl_s_jp_num=&tpl_s_toc=&tpl_s_toc_oper=AND&tpl_item_oper=AND&tpl_sort_key=PUB_YEAR&tpl_sort_order=ASC&tpl_list_num=200&tpl_end_of_data= 著者=“伊藤博文”で検索]([[近代デジタルライブラリー]])
* [http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/itouhirobumi1.html 国立国会図書館 憲政資料室 伊藤博文関係文書(その1)]
* [http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/itouhirobumi2.html 国立国会図書館 憲政資料室 伊藤博文関係文書(その2)]
* [http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/itouhirobumi3.html 国立国会図書館 憲政資料室 伊藤博文関係文書(MF:個人蔵)]
 
{{Start box}}
<!-- 上を2行あける-->
{{start boxS-off}}
{{Succession box
{{s-par}}
| title = {{Flagicon|JPN1889}} [[枢密院 (日本)#歴代議長|枢密院議長]]
{{succession box
| years = 第10代:1909年<br/>第8代:1903年 - 1905年<br/>第3代:1891年 - 1892年<br/>初代:1888年 - 1889年
| title = {{Flagicon|日本}} [[貴族院議長]]
| before = [[山縣有朋|山県有朋]]<br />[[西園寺公望]]<br />[[大木喬任]]<br />''(新設)''
| before = 創設
| after = 山県有朋<br />山県有朋<br />大木喬任<br />大木喬任
| years = 初代:1890年10月24日 - 1891年7月21日
| after = [[蜂須賀茂韶]]
}}
{{Succession box
{{s-off}}
| title = {{Flagicon|JPN1889}} [[帝室制度調査局#構成員|帝室制度調査局総裁]]
{{succession box
| years = 1903年 - 1907年
| title = {{Flagicon|日本}} [[内閣総理大臣]]
| before = 創設<br/>[[正義]]<br/>[[松方正義]]<br/>[[山縣有朋久元]]
| beforenote = 総裁心得
| years = 初代:1885年12月22日 - 1888年4月30日<br/>第5代:1892年8月8日 - 1896年8月31日<br/>第7代:1898年1月12日 - 6月30日<br/>第10代:1900年10月19日 - 1901年5月10日
| after = ''(廃止)''
| after = [[黒田清隆]]<br/>[[松方正義]]<br/>[[大隈重信]]<br/>[[桂太郎]]
}}
{{successionSuccession box
| title = {{Flagicon|日本JPN1889}} [[枢密院 (日本)|枢密院議長法典調査会]]総裁
| years = 1900年 - 1901年<br />1898年<br />1893年 - 1896年
| before = 創設<br/>[[大木喬任]]<br/>[[西園寺公望]]<br/>[[山縣有朋]]
| before = [[山縣有朋|山県有朋]]<br />[[松方正義]]<br />''(新設)''
| years = 初代:1888年4月30日 - 1889年10月30日<br/>第3代:1891年6月1日 - 1892年8月8日<br/>第8代:1903年7月13日 - 1905年11月21日<br/>第10代:1909年6月14日 - 同10月26日
| after = [[大木喬任桂太郎]]<br />[[大木喬任隈重信]]<br />[[山縣有朋]]<br/>[[山縣有朋]]松方正義
}}
{{successionSuccession box
| title = {{Flagicon|日本JPN1889}} [[統監府帝室制度調査局#構成員|韓国統監帝室制度調査局総裁]]
| years = 1899年 - 1900年
| before = 創設
| before = ''(新設)''
| years = 初代:1906年3月3日 - 1909年6月14日
| after = [[曾禰荒助土方久元]]
| afternote = 総裁心得
}}
{{successionSuccession box
| title = {{Flagicon|日本JPN1870}} [[外務大臣参事院 (日本)|外務大臣参事院]]議長
| years = 1881年 - 1882年
| before = [[井上馨]]
| before = ''(新設)''
| years = 第2代:1887年9月17日 - 1888年2月1日(兼任)
| after = [[大隈重信山縣有朋|山県有朋]]
}}
{{successionSuccession box
| title = {{Flagicon|日本JPN1870}} [[法務大臣制局 (太政官制)|大臣制局]]長官
| years = 1875年 - 1879年
| before = [[山縣有朋]]
| before = [[塚本明毅]]
| years = 1893年3月11日 - 3月16日(臨時兼任)
| beforenote = 正院法制課長
| after = [[芳川顕正]]
| after = [[井上馨]]
}}
{{successionSuccession box
| title = {{Flagicon|日本JPN1870}} [[宮内工部#工部卿など|宮内大臣工部卿]]
| years = 1873年 - 1878年
| before = 創設
| before = ''(新設→欠員)''
| years = 初代:1885年12月22日 - 1887年9月16日
| after = ''(欠員→)''[[土方久元井上馨]]
}}
{{successionSuccession box
| title = {{Flagicon|日本JPN1870}} 宮内卿[[賞勲局#歴代局長|賞勲局長官]]
| years = 1876年 - 1878年<br />''賞勲事務局長官<br />1876年''
| before = [[徳大寺実則]]
| before = ''(新設)''
| years = 第2代:1884年3月21日 - 1885年12月22日
| after = 廃止[[三条実美]]
| afternote = 総裁
}}
{{successionSuccession box
| title = {{Flagicon|日本JPN1870}} [[内務大臣 (日本)|内務工部省#工部など|工部大輔]]
| years = 1871年 - 1873年<br /><small>(1872年から山尾庸三と共同)</small>
| before = [[大久保利通]]<br/>[[大久保利通]]
| before = [[後藤象二郎|後藤元曄]]
| years = 第4代:1874年8月2日 - 11月28日<br/>第6代:1878年5月15日 - 1880年2月28日
| after = [[大久保利通]]<br/>[[松方正義山尾庸三]]
}}
{{successionSuccession box
| title = {{Flagicon|日本JPN1870}} [[工部卿]]租税頭
| beforeyears = 創設1871年
| before = [[渋沢栄一]]''(→欠員)''
| years = 初代:1873年 - 1878年
| beforenote = 租税正
| after = [[井上馨]]
| after = ''(欠員→)''[[陸奥宗光]]
}}
{{successionSuccession box
| title = {{Flagicon|JPN1870}} [[造幣局 (日本)|造幣]]頭
| title = [[画像:Shadow picture of Hyogo prefecture.png|25px]] [[兵庫県|兵庫県知事]] [[画像:Flag of Hyogo.svg|25px]]
| beforeyears = 創設1871年
| before = [[馬渡俊邁]]
| years = 官選初代:1868年5月23日 - 1869年4月10日
| after = [[久我通城]]''(欠員→廃止)''
}}
{{Succession box
{{s-ppo}}
| title = {{Flagicon|JPN1870}} [[大蔵省|大蔵]][[少輔]]
{{succession box
| years = 1869年 - 1871年<br /><small>(1870年中[[吉井友実]]と、1870年から1871年途中まで[[井上馨]]と共同)</small>
| before = ''(新設)''
| after = [[津田出]]
}}
{{Succession box
| title = {{Flagicon|JPN1870}} [[民部省 (明治時代)|民部]][[少輔]]
| years = 1869年 - 1870年<br /><small>(1870年途中から吉井友実と共同)</small>
| before = ''(新設→欠員)''
| after = [[吉井友実]]
}}
{{S-ppo}}
{{Succession box
| title = [[立憲政友会|立憲政友会総裁]]
| before = 結成
| years = 初代:1900年 - 1903年
| before = ''(新設)''
| after = [[西園寺公望]]
}}
{{end boxS-reg|jp}}
{{Succession box
 
| title = 公爵
| years = 伊藤(博文)家初代<br />1907年 - 1909年
| before = 陞爵
| after = [[伊藤博邦]]
}}
{{Succession box
| title = 侯爵
| years = 伊藤(博文)家初代<br />1895年 - 1907年
| before = 陞爵
| after = 陞爵
}}
{{Succession box
| title = 伯爵
| years = 伊藤(博文)家初代<br />1884年 - 1895年
| before = 叙爵
| after = 陞爵
}}
{{End box}}
{{日本の公爵一覧}}
{{朝鮮総督|[[統監府#歴代統監|統監]]|1906年 - 1909年}}
{{日本国歴代内閣総理大臣
|当代=[[第1次伊藤内閣|1]]
523 ⟶ 1,037行目:
|4次首相名=桂太郎
}}
{{参議院議長|[[貴族院議長]]||1890年 - 1891年}}
{{外務大臣|1887年 - 1888年}}
{{宮内庁長官|1884年 - 1887年|[[宮内省|宮内卿・宮内大臣]]}}
{{内務大臣|1874年/1878年 - 1880年|内務卿|内務卿}}
{{兵庫県知事|官選初代:1868年 - 1869年}}
{{元老}}
{{内務大臣|内務卿}}
{{外務大臣}}
{{司法大臣}}
{{朝鮮総督|[[韓国統監府|韓国統監]]}}
{{歴代千円札}}
{{Portal bar|アジア|日本|山口県|朝鮮|歴史|政治学|人物伝}}
{{Normdaten|TYP=p|GND=11909648X|LCCN=n/83/57663|NDL=00769891|VIAF=59886675}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いとう ひろふみ}}
{{デフォルトソート:いとう ひろふみ}}
[[Category:松下村塾の人物]]
[[Category:日本から密出国した人物伊藤博文|*]]
[[Category:下関戦争の人物元老]]
[[Category:維新の元勲]]
[[Category:日本の条約改正の人物枢密院議長]]
[[Category:日清戦争の人物]]
[[Category:日本の内閣総理大臣]]
[[Category:日本の閣僚経験者]]
[[Category:日本の枢密顧問官]]
[[Category:貴族院伯爵議員]]
[[Category:貴族院侯爵議員]]
[[Category:貴族院公爵議員]]
[[Category:貴族院侯爵]]
[[Category:貴族院伯爵議員]]
[[Category:朝鮮時代の在留日本人]]<!-- 初代韓国統監として -->
[[Category:明治時代の貴族院議員]]
[[Category:日本の貴族院議長]]
[[Category:統監府の人物|統い]]
[[Category:日本の内閣総理大臣]]
[[Category:明治時代の閣僚]]
[[Category:日本の外務大臣]]
[[Category:日本の内務大臣]]
[[Category:日本の宮中顧問官]]
[[Category:日本の宮内大臣]]
[[Category:日本の参事院関係者|#]]<!-- ソートキー「#」は議長に付す -->
 
[[Category:工部省の人物]]
[[Category:戦前日本の大蔵官僚]]
[[Category:日本の官僚 (1868-1949)]]
[[Category:兵庫県知事]]
[[Category:東京地学協会の人物]]
[[Category:東邦協会の人物]]<!-- 東邦協会報告12会員姓名 -->
[[Category:東洋拓殖の人物]]
[[Category:岩倉使節団の人物]]
[[Category:日本のソーシャライト]]
[[Category:松下村塾の人物]]
[[Category:大日本帝国憲法関連の人物]]
[[Category:日本の条約改正の人物]]
[[Category:日清戦争の人物]]
[[Category:下関戦争の人物]]
 
[[Category:日本の紙幣の人物]]
[[Category:暗殺され在職中に死去し政治家日本の貴族院議員]]
[[Category:暗殺者]]<!-- 幕末に -->
[[Category:日本の神 (人物神 戦前日本)]]<!-- 旧吉田茂邸内の七賢堂 -->
[[Category:日本の神 (人物神 松門神社)]]
[[Category:日本から密出国した人物]]
[[Category:銅像]]<!-- 衆議院前庭 -->
[[Category:光市出身の人物]]
[[Category:山口県出身周防国の人物]]
[[Category:レジオンドヌール勲章受章者在イギリス日本人]]
[[Category:バス勲章暗殺された政治家]]
[[Category:日本の暗殺者]]
[[Category:品川区の歴史]]
[[Category:伊藤公爵家|ひろふみ]]
[[Category:従一位受位者]]
[[Category:大勲位菊花章頸飾受章者]]
[[Category:大勲位菊花大綬章受章者]]
[[Category:勲一等旭日桐花大綬章受章者]]
[[Category:勲一等旭日大綬章受章者]]
[[Category:銀製黄綬褒章受章者]]
[[Category:大勲位金尺大綬章受章者]]
[[Category:レジオンドヌール勲章グランクロワ受章者]]
[[Category:聖マウリッツィオ・ラザロ勲章受章者]]
[[Category:白鷲勲章受章者 (ロシア帝国)]]
[[Category:聖アレクサンドル・ネフスキー勲章受章者]]
[[Category:バス勲章]]
[[Category:赤鷲勲章受章者]]
[[Category:国葬された人物]]
[[Category:1841年生]]
[[Category:1909年没]]
 
{{Link FA|ru}}
 
[[ar:إيتو هيروبومي]]
[[be:Хірабумі Іта]]
[[be-x-old:Хірабумі Іта]]
[[bg:Ито Хиробуми]]
[[ca:Ito Hirobumi]]
[[cs:Hirobumi Itó]]
[[de:Itō Hirobumi]]
[[el:Ιτό Χιρομπούμι]]
[[en:Itō Hirobumi]]
[[eo:Ito Hirobumi]]
[[es:Itō Hirobumi]]
[[eu:Itō Hirobumi]]
[[fi:Itō Hirobumi]]
[[fr:Itō Hirobumi]]
[[he:איטו הירובומי]]
[[hu:Itó Hirobumi]]
[[id:Ito Hirobumi]]
[[it:Hirobumi Ito]]
[[ka:იტო ჰირობუმი]]
[[kk:Ито Хиробуми]]
[[ko:이토 히로부미]]
[[la:Itō Hirobumi]]
[[lt:Ito Hirobumi]]
[[mr:हिरोबुमी इतो]]
[[ms:Itō Hirobumi]]
[[nl:Ito Hirobumi]]
[[no:Hirobumi Ito]]
[[pl:Hirobumi Itō]]
[[pt:Ito Hirobumi]]
[[ru:Ито Хиробуми]]
[[sh:Itō Hirobumi]]
[[simple:Ito Hirobumi]]
[[su:Itō Hirobumi]]
[[sv:Hirobumi Ito]]
[[th:อิโต ฮิโระบุมิ]]
[[tl:Itō Hirobumi]]
[[tr:Itō Hirobumi]]
[[tt:Ито Хиробуми]]
[[uk:Іто Хіробумі]]
[[vi:Itō Hirobumi]]
[[war:Itō Hirobumi]]
[[yo:Itō Hirobumi]]
[[zh:伊藤博文]]
[[zh-classical:伊藤博文]]
[[zh-yue:伊藤博文]]