「新潟デザイナー誘拐殺人事件」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
 
(16人の利用者による、間の26版が非表示)
1行目:
{{Infobox 事件・事故
'''新潟デザイナー誘拐殺人事件'''(にいがたデザイナーゆうかいさつじんじけん)とは[[新潟県]]で発生した[[身代金]]目的の[[誘拐]][[殺人]][[事件]]である。なお事件名の由来は被害者の職業に由来する。また[[死刑囚]]になった犯人が獄中で[[自殺]]した事例である。
|名称=新潟デザイナー誘拐殺人事件
|場所={{JPN}}・[[新潟県]]
|緯度度=|緯度分=|緯度秒=
|経度度=|経度分=|経度秒=
|標的=
|日付=[[1965年]]([[昭和]]40年)[[1月13日]]
|時間帯=[[UTC+9]]
|手段=誘拐
|被害者=デザイナーの女性(事件当時24歳)
|死亡=1人
|犯人=男Y(事件当時23歳)<ref name="毎日新聞1977-05-23"/>
|容疑=
|動機=
|対処=
|刑事訴訟=[[日本における死刑|死刑]]([[日本において獄死もしくは恩赦された死刑囚の一覧#戦後、自殺した主な死刑囚|未執行のまま自殺]])
}}
'''新潟デザイナー誘拐殺人事件'''(にいがたデザイナーゆうかいさつじんじけん)とは、[[1965年]]([[昭和]]40年)[[1月13日]]に[[新潟県]]で発生した[[身代金]]目的の[[誘拐]][[殺人罪 (日本)|殺人]][[事件]]であるなお事件名の由来は被害者の職業に由来する。また[[死刑囚新潟市]]になっ住んでい犯人デザイナーの女性(事件当時24歳)獄中で[[自誘拐され、]]し害された事である。
 
犯人の男Y(事件当時24歳)は[[1971年]](昭和46年)に[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]で[[日本における死刑|死刑]]が[[確定判決|確定]]したが、約6年後の[[1977年]](昭和52年)5月21日、収監先の[[東京拘置所]]で[[自殺]]した(36歳没)<ref name="毎日新聞1977-05-23"/>。
 
営利誘拐で700万円の[[身代金]]は、日本の犯罪史上例のない高額の要求であった<ref>{{Cite news|title=新産都市へかけた夢のはて|newspaper=読売新聞|date=1965年1月24日朝刊|page=15}}</ref>。また本事件は戦後日本で初めて、成人が犠牲となった身代金目的の誘拐殺人事件である<ref>『[[中日新聞]]』1980年12月27日朝刊第12版第二社会面18頁「Aさん事件 テレビそっくりの手口 身代金、夜の国道が舞台」「自己顕示欲強い犯人 頭よいが感受性欠く 識者分析」「身代金誘かい 戦後では106件 成人の場合、大半は無事」「[[金城学院大学|金城学院]] バイト学生が急増 “お嬢さん学校”のイメージだが…」([[中日新聞社]]) - 『中日新聞』[[新聞縮刷版|縮刷版]] 1980年(昭和55年)12月号850頁。[[名古屋女子大生誘拐殺人事件]]の記事。</ref>。
 
== 事件の概略 ==
[[1965年]]([[昭和]]40年)[[1月13日]]の午前820時半ごろ、[[新潟市]]の[[ガソリンスタンド]]経営者の自宅に警察を名乗る者から、そちらの乗用車が邪魔になっているという[[電話]]が掛かってきた。この電話に出たこの家のデザイナーの三女(当時24歳)は、電話では話の要領を得ないとして自宅から300m300&nbsp;[[メートル|m]]離れた現場に向かったが、これは誘拐犯の罠であった。121間後40分ごろ娘を預かっているから明日の朝10時までに700万円用意しろとの脅迫電話がかかってきたことから、誘拐事件と判明した<ref name="yomiuri0115">{{Cite news|title=新潟で誘かい殺人 24歳の娘さん 犯人は複数? 電話で700万円要求|newspaper=読売新聞|date=1965年1月15日朝刊|page=1}}</ref>
 
翌14日の午前11時4550分に犯人から午後113時までに[[日本国有鉄道|国鉄]](現在の[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])[[新潟駅]]の待合室に金を持ってこいと電話してきた。そこで家族は10万円と[[新聞紙]]で札束に偽造した包みを持っていったが、そこには犯人は現れなかった。しかし新潟駅の案内所に家族宛に呼び出し電話がかかってきて、午後113時27分に発車する[[柏崎駅]]行きの[[越後線]]の列車に乗り、赤い旗のある所で金を投げろと中年の女らしい声で指示する内容であった。この手口は[[黒澤明]]監督作品の映画『[[天国と地獄 (映画)|天国と地獄]]』([[1963年]]公開)の身代金受渡し方法と同じであった<ref>{{Cite news|title=「天国と地獄」まねた惨劇 新潟の誘かい殺人 列車の窓から金を|newspaper=読売新聞|date=1965年1月15日朝刊|page=15}}</ref>(後にYは『天国と地獄』からヒントを得て、犯行計画を立てたことを自供している<ref>{{Cite news|title=「天国と地獄にヒント」と自供|newspaper=読売新聞|date=1965年2月5日朝刊|page=14}}</ref>)。家族は指示とおり列車に飛び乗ったが、赤い旗があったのは新潟駅から約1&nbsp;[[信濃川キロメートル|km]][[鉄橋信濃川]]橋梁新潟駅側の東詰手前、すなわち列車車直後の地点であっ見しため確認できず機会を逸して現金を投げることできなかった<ref name="yomiuri0115"/>
 
一見すると綿密な犯行計画であったが、駅の直後に赤い旗を置いたように犯人の短気な性格から逮捕されることになった。現金の受渡しに失敗した14日の午後517時27分、被害者の絞殺遺体が自宅から遠くない新潟市(現在の同市[[中央区 (新潟市)|中央区]])[[関屋_(新潟市)|関屋]]海岸沿松林の中の広道路の真中という発見されやすい場所に遺棄されてい。そのうえ現場は積雪がぬ<ref name="yomiuri0121">{{Cite news|title=誘るんで殺人 車が割り出しため、「Y」タイヤ痕を採取できた。不審な車の目撃証言から該当車両を絞り込んでいたが、該当車両が自動車修理工場で発見され、その工場の経営者の息子Y(当時23歳)を被疑者して逮捕したピタリと一致|newspaper=読売新聞|date=1965年1月21日朝刊|page=15}}</ref>
 
1月15日、司法解剖が行われ、被害者は13日の21時から14日の9時までの間に殺害されたことが判明し、身代金を受け取ろうとした時点ではすでに殺害されていたことが判明した<ref>雇い人らのアリバイ調査 誘かいの夜?殺す ○○さんの死体解剖</ref>。
Yは当時病院に入院しており、言語障害と半身不随を装い筆談で取り調べに応じていたが、検査の結果異常がなく、逮捕から4日目の23日に自分の口で単独犯行を認めた。
 
現場は積雪でぬかるんでいたため、タイヤ痕、足跡数個が採取された。不審な車の目撃証言から該当車両を絞り込んでいた。当初、[[トヨペット]]、[[ダットサン]]、[[いすゞ]]、[[プリンス自動車工業|プリンス]]の4種類の車の情報があり、タイヤ跡、チェーンの長さ、車軸の幅から、プリンス、トヨペットの中型車と断定された。さらに1月18日に誘拐現場近くを20時30分ごろに誘拐現場と見られる場所を車で通りかかり、若い男女が話しているのを目撃した自動車会社従業員の証言から黒色の[[日産・グロリア|プリンス・グロリア・デラックス]]に捜査範囲は絞られた。該当車両のカシミヤ・グレーのプリンス・グロリアが自動車修理工場で発見され、その工場の経営者の息子Y(当時23歳)を被疑者として逮捕した。被害者は前年8月に犯人から中古の[[日産・ブルーバード|ダットサン・ブルーバード]]を購入していた<ref>{{Cite news|title=Yを逮捕、留置 新潟の誘かい殺人 内妻も取り調べ 犯行否認しつづける|newspaper=読売新聞|date=1965年1月21日朝刊|page=1}}</ref>。
司法解剖により、14日の最初の電話以前に殺害されていたことが判明しており、殺害は家族や警察の落ち度ではなく、最初から殺害するつもりだったか、潜伏中に監禁しておくのが困難になったために殺害したものと思われる。
 
Yは当時[[新潟大学医歯学総合病院|新潟大学付属病院]]に入院しており、[[言語障害]]と半身不随を装い筆談で取り調べに応じていたが、逮捕から2日目の21日に、被害者を[[新潟市立寄居中学校]]前で車に乗せ、13日に絞殺し、14日朝、死体遺棄を行ったことを自供した<ref>{{Cite news|title=誘かい殺人 Y自供始める 筆談で"私がやった" 当局、さらに共犯を追及|newspaper=読売新聞|date=1965年1月21日夕刊|page=7}}</ref><ref>{{Cite news|title=「いっさい私1人で」誘かい殺人「Y」の自供 犯行隠すため金要求|newspaper=|date=1965年1月22日朝刊|page=26}}</ref>。検査の結果異常がなく、逮捕から4日目の23日15時30分より、口頭で自供を始め、単独犯行を認めた。犯行動機には、前年の[[新潟地震]]で工場が大きな被害を受け、父親が病気のため経営不振となったことから金目当てで犯行に及んだこと、助手席に乗せた被害者を絞殺したことなどを自供した<ref>{{Cite news|title=「Y」ほぼ全容を自供 新潟・誘かい殺人 工場経営の金ほしさ|newspaper=読売新聞|date=1965年1月24日朝刊|page=15}}</ref>。
 
1月25日、Yが犯行のときに使ったゴム長靴が[[西蒲原郡]]黒埼村(のちの[[黒埼町]]、現在の新潟市[[西区 (新潟市)|西区]])の[[国道8号]]脇の水田で発見された<ref>{{Cite news|title=ゴム長も発見|newspaper=読売新聞|date=1965年1月26日朝刊|page=15}}</ref>。
 
== 犯人のその後 ==
2月11日、Yは身代金目的拐取、同要求、殺人、死体遺棄罪で起訴された<ref>{{Cite news|title=誘かい殺人、Y起訴|newspaper=読売新聞|date=1965年2月11日夕刊|page=7}}</ref>。
Yは起訴されたが、一審公判では単独犯ではなく4人共犯で自分はおどかされて一連の犯行をしたなどと主張したが、認められることはなかった。一審の[[新潟地方裁判所]]は[[1966年]][[2月28日]]に死刑を言い渡した。控訴審も[[1968年]][[12月19日]]に棄却し、上告審も[[1971年]][[5月11日]]に棄却し死刑が確定し、[[東京都]]小菅の[[東京拘置所]]に死刑囚として収監され、[[法務大臣]]による死刑執行命令を待つ身柄となった。
 
3月22日に[[新潟地方裁判所]]で開かれた[[刑事手続|刑事裁判]][[審級|第一審]]の初[[公判]]で、[[被告人]]Yは[[罪状認否]]を拒んだ<ref>罪状認否こばむ 誘かい殺人「Y」の初公判</ref>。4月30日に行われた第2回公判では共犯者が3人おり、殺害したのは自分ではなく、単独犯でも自分が主犯というわけでもないと主張した<ref>{{Cite news|title=Y、単独犯行を否認 新潟の誘かい殺人公判|newspaper=読売新聞|date=1965年4月30日夕刊|page=9}}</ref>([[日本弁護士連合会|日弁連]]もまた、被害者宅にかかった脅迫電話に女の声が入っていたこと、事件当時Yの所有車に複数の人物が乗っていたとの目撃証言、自白内容と遺体の痕跡との食い違いなどを理由に、事件の[[冤罪]]性を指摘している<ref>日弁連 (1977) 317頁</ref>)。単独犯ではなく身元のわからない3人組に強制されて犯行に加わったと主張、起訴事実のうち、死体遺棄しか認めなかったが、12月21日の[[論告]][[求刑]]公判で死刑を求刑された<ref>{{Cite news|title=Yに死刑求刑 新潟の誘かい殺人|newspaper=読売新聞|date=1965年12月21日夕刊|page=7}}</ref>。
[[1977年]][[5月21日]]の[[土曜日]]、この日は死刑執行が行われない日であり、また週二回の入浴日であることから死刑囚達は和んだ雰囲気であった。しかしYは朝食中の午前7時53分に[[ガラス]]窓を割りその破片で看守の制止よりも早く首の[[頚動脈]]を切断した。そのためYは[[出血多量]]で救命措置の甲斐もなく午前9時15分に死亡した。35歳であった。
 
新潟地裁(石橋浩二裁判長)は[[1966年]](昭和41年)[[2月28日]]、求刑通りYに死刑[[判決 (日本法)|判決]]を言い渡した<ref>{{Cite news|title=Yに死刑判決 ○○さん誘かい殺人 共犯説は認めず|newspaper=読売新聞|date=1966-02-28|edition=東京夕刊|page=11}}</ref>。新潟地裁ではこれ以降、1988年(昭和63年)3月30日に新潟市の一家5人殺傷事件の被告人([[主文#死刑判決の冒頭主文朗読の例]]を参照)に対し死刑判決が言い渡されるまで、22年間にわたって死刑判決が言い渡されていなかった<ref>『[[新潟日報]]』1988年3月30日夕刊下版1頁「一家5人殺傷事件 ××被告に死刑判決 新潟地裁」(新潟日報社)</ref><ref>『新潟日報』1988年3月31日朝刊第12版総合面1頁「新潟市の一家5人殺傷事件 22年ぶりの死刑判決 新潟地裁「皆殺し狙い悪質」」(新潟日報社)</ref>。Yは[[控訴]]したが、[[東京高等裁判所]]第4刑事部(久永正勝裁判長)は[[1968年]](昭和43年)[[12月19日]]にYの控訴を[[棄却]]する判決を宣告<ref>『毎日新聞』1968年12月20日東京朝刊第14版第一社会面19頁「「天国と地獄」まねた誘かい Yに死刑の判決 控訴審」(毎日新聞東京本社) - 『毎日新聞』縮刷版 1968年(昭和43年)12月号599頁。</ref>。Yは[[上告]]したが、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第一[[小法廷]]([[藤林益三]]裁判長)が[[1971年]](昭和46年)[[5月11日]]に上告棄却の判決を言い渡したため<ref>{{Cite news|title=Y、死刑確定 新潟のデザイナー殺し|newspaper=読売新聞|date=1971年5月20日夕刊|page=8}}</ref>、Yは同年6月1日付で死刑が[[確定判決|確定]]した<ref name="毎日新聞1977-05-23">『[[毎日新聞]]』1977年5月23日東京夕刊第4版第二社会面8頁「「天国と地獄」誘かい殺人 死刑囚「Y」が自殺 東京拘置所」([[毎日新聞東京本社]]) - 『毎日新聞』[[新聞縮刷版|縮刷版]] 1977年(昭和52年)5月号610頁。</ref>。そして、Yは[[死刑囚]]([[日本における死刑囚|死刑確定者]])として[[東京拘置所]]に収監され、[[法務大臣]]による[[死刑執行命令]]を待つ身柄となった。
後に[[森山真弓]]法務大臣が死刑存廃問題で、日本に死刑制度がある理由として「日本には死んでお詫びをする文化がある」として肯定したが、死刑囚が自殺すると国家によって死刑執行されないことになる。なおYは遺書を残していないため、自殺の動機は被害者への謝罪のためか、単に拘禁による精神の崩壊で発作的にした行為なのかは明らかではないが、国家による死の断罪を拒否したのだけは確実である。
 
[[1977年]](昭和52年)[[5月21日]]の[[土曜日]]、この日は死刑執行が行われない日であり、また週2回の入浴日であることから死刑囚たちは和んだ雰囲気であった。しかしYは朝食中の午前7時53分に[[ガラス]]窓を割りその破片で看守の制止よりも早く首の[[頚動脈]]を切断した。そのためYは[[出血多量]]で救命措置の甲斐もなく午前9時15分に死亡した。35(36であ没)。同年3月4日に新潟地裁に請求されていた[[再審]]の証人調べが開始された直後の出来事だった<ref>日弁連 (1977) 318頁</ref>。なおYは遺書を残さなかった。
 
== 脚注 ==
''以下の出典において、記事名に実名が使われている場合、その箇所を伏字としている。''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=[[日本弁護士連合会]]編|title=再審|year=1977|publisher=[[日本評論社]]|isbn=978-4535575073}}
* 村野薫増補・改訂版 戦後死刑囚列伝[[宝島社]] [[2002年]] 165〜175頁
 
== 関連項目 ==
* [[日本における死刑囚の一覧 (1970年代)]]
* [[誘拐]]
** [[日本において獄死もしくは恩赦された死刑囚の一覧#戦後、自殺した主な死刑囚]]
 
{{死刑囚}}
{{DEFAULTSORT:にいかたてさいなゆうかいさつしんしけん}}
 
[[Category:昭和時代の殺人事件 (戦後)]]
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:にいかたてさいなゆうかいさつしんしけん}}
[[Category:日本の誘拐事件]]
[[Category:昭和時代戦後の殺人事件 (戦後)]]
[[Category:1965年の日本の事件]]
[[Category:新潟市日本歴史誘拐事件]]
[[Category:新潟市の歴史|てさいなあゆうかいさつしんしけん]]
[[Category:冤罪が指摘されている事件]]
[[Category:1965年1月]]
[[Category:戦後の新潟]]
[[Category:日本の誘拐死刑確定事件]]
[[Category:犯人が自殺した事件]]