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[[File:Qing new army 1905.jpg|thumb|新軍(1905年)]]
'''新軍'''(しんぐん)または「'''新建陸軍'''」とは[[清|清朝]]政府が[[日清戦争]]後に軍を再編成して新たに作った、近代的[[陸軍]]である。新軍は[[軍制]]や訓練、
== 成立 ==
[[File:Chinese soldiers 1899 1901.jpg|thumb|upright=1.5|[[1899年]]から[[1901年]]にかけての中国の諸軍。左の2名が新軍歩兵、前面が軍楽隊、腰掛けているのが砲兵。右にいるのは義和団]]
[[1894年]]([[光緒]]20年)に[[日清戦争]]が勃発すると、[[広西]][[按察使]]・[[胡イツ
新軍が編成されたのと同時期に、[[両江総督]]の[[張之洞]]も{{仮リンク|自強軍|zh|自强军}}と呼ばれる軍隊を創建していた。自強軍もまた西洋式調練および編成を参考とし、歩兵、砲兵、騎兵、工兵合わせて2000人ほどの人数を揃えていた。自強軍は[[劉坤一]]などを後任とした後、最終的には袁世凱の手に渡って新建陸軍に吸収された。
1898年の時点で新建陸軍は、[[董福祥]]の{{仮リンク|甘軍|zh|甘军}}、[[聶士成]]の{{仮リンク|武衛軍|label=武毅軍|zh|武衛軍}}と並んで'''北洋三軍'''と称されるまでになっていた<ref name="来(1989)10">[[#来(1989)|来(1989)、p.10]]</ref>。
== 光緒新政における新軍改革 ==
[[1899年]]、[[栄禄]]の建議により、北洋各軍は{{仮リンク|武衛軍|zh|武衛軍}}へと再編された。武衛軍は左・右・前・後・中の5軍より編成されており、新建陸軍は'''武衛右軍'''へと改編、同時に定員も七千人から一万人に拡充された<ref name="来(1989)11">[[#来(1989)|来(1989)、p.11]]</ref>。間もなく勃発した[[義和団の乱]]では、武衛右軍は山東省に赴き鎮圧に尽力する一方、他の4軍とは異なり直接列強との戦争に参加しなかったためほとんど無傷であった。武衛右軍はやがて武衛軍の主力となり、同年には歩兵隊、騎兵隊、砲兵隊二十営を拡充した。1902年、[[直隷]]の義和団残党の鎮圧を終えると、武衛右軍は「'''北洋常備軍'''」と改称された<ref name="来(1989)13">[[#来(1989)|来(1989)、p.13]]</ref>。また、同年には一軍二鎮の設置を見越し、北洋常備左鎮が設置された。
一方、それまで革新的な改革を嫌っていた清朝も、義和団の乱による敗北をきっかけとして様々な政治改革に乗り出すようになる。軍制改革もその一環で、[[1903年]](光緒29年)10月には総理練兵所および督練公所を各省に設置して、新軍の訓練を監督させる一方で、従来の清朝の正規軍である「防軍」「練軍」「[[緑営]]」といった旧来の軍隊を大幅に削減して、残った若干名を後備や[[憲兵]]などに改編させた。清朝政府は袁世凱管轄の北洋新軍を中央の軍、各省の新軍を地方軍とすることを意図し、清朝が滅亡した時点までに、全国に新軍を十六鎮と十六個混成協(鎮・協は作戦単位)設置したが、中でも袁世凱が管轄する北洋六鎮(直隷、山東、[[満洲]]を管轄)は錬度・装備共にもっとも優れていた。また、これとは別に[[1909年]](宣統元年)、皇帝および王族を警護する近衛師団にあたる「禁衛軍」を編成した<ref name="文(1962)53">[[#文(1962)|文(1962)、p.53]]</ref>。禁衛軍は通常の軍隊とは異なる独自の軍服が採用され、新軍の中でもとりわけエリート部隊として認識されていた。
== 編制 ==
清朝政府が進める新政以後、新軍は国軍とされ人数は年々増加した。そのため、作戦単位を「鎮」([[師団]])「協」([[旅団]])「標」([[連隊]])「営」「隊」「排」「棚」と定めて、それらを率いる士官として「統制」「協統」「標統」「管帶」「隊官」「排長」などを設置した。鎮は師団とほぼ同じ規模で、12000人ほどの人数で、歩兵、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵からなっていた。士官は国外に留学して軍事を学んできた者、および国内の武備学堂(士官学校)の卒業生を充て、兵の充足は志願制を採用し、体格・年齢および知能などを一般より厳しい基準を用いて選抜された。
その基準は以下の通り<ref name="文(1962)46">[[#文(1962)|文(1962)、p.46]]</ref>。
*年齢は20歳~25歳。
*身長は4尺8寸以上、健康で五体満足、視力良好で身体・知的障害のない者。
*握力百斤以上。
*家が代々土着であり、かつ税の未納が無い者。
*品行方正で前科のない者。
また、辛亥革命勃発まで編成された部隊は以下の通り。
*{{仮リンク|陸軍第一鎮|zh|陆军第一镇}}:北京仰山窪駐屯、1905年6月成立
**歩兵第一協
**歩兵第二協
*{{仮リンク|陸軍第二鎮|zh|陆军第二镇}}:保定駐屯
**歩兵第三協
**歩兵第四協
*{{仮リンク|陸軍第三鎮|zh|陆军第三镇}}:1904年成立
**歩兵第五協
**歩兵第六協
**炮兵第三標
*{{仮リンク|陸軍第四鎮|zh|陆军第四镇}}:{{仮リンク|天津馬廠|zh|天津马厂}}駐屯
**歩兵第七協
**歩兵第八協
*{{仮リンク|陸軍第五鎮|zh|陆军第五镇}}
*{{仮リンク|陸軍第六鎮|zh|陆军第六镇}}
== 階級 ==
詳細は「[[清朝軍の階級]]」を参照
{| class="wikitable"
|+
!官位
!等級
!軍官
!軍佐
!警察
!相当する階級
|-
|超品
|第一等第一級
|大将軍
|
|
| rowspan="2" |元帥
|-
|正一品
|第一等第二級
|将軍
|
|
|-
|従一品
|上等第一級
|正都統
|
|庭丞
| rowspan="3" |将官
|-
|正二品
|上等第二級
|副都統
|
|總務処会事
|-
|従二品
|上等第三級
|協都統
|
|会知事
|-
|正三品
|中等第一級
|正参領
|同正参領
|五品警官
| rowspan="3" |佐官
|-
|従三品
|中等第二級
|副参領
|同副参領
|六品警官
|-
|正四品
|中等第三級
|協参領
|同協参領
|七品警官
|-
|正五品
|次等第一級
|正軍校
|同正軍校
|八品警官
| rowspan="3" |尉官
|-
|正六品
|次等第二級
|副軍校
|同副軍校
|九品警官
|-
|正七品
|次等第三級
|協軍校
|同協軍校
|一、二、三等巡官
|-
|
|額外
|額外軍官
|額外軍佐
|
|准尉
|-
|
| rowspan="3" |軍士
|上士
|
| rowspan="3" |巡長
| rowspan="3" |下士官
|-
|
|中士
|
|-
|
|下士
|
|-
|
| rowspan="3" |兵卒
|正兵
|
| rowspan="3" |巡警
|
|-
|
|一等兵
|
|
|-
|
|二等兵
|
|
|}
「軍佐」とは、軍医など特務士官であり、階級名は「同~」とした。しかし、不評であったため、後に「馬医協軍校」などと改められた。
准尉に相当する「額外」とは、額真(ejen)=士官ではない、という意味で、いわゆる准士官である。
== 新軍と革命 ==
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[[Image:Beiyang Army.jpg|thumb|250px|北洋軍閥軍]]
新軍、中でも袁世凱の北洋軍の軍事力は他に比べて圧倒的なものであり、これは後に袁世凱が拠り所とした北洋軍閥の源泉になる。辛亥革命勃発後に、袁世凱は北洋軍の軍事力を背景に宣統帝を退位させ、孫文との取引で中華民国大総統に就任したが、元々思想が異なる孫文と両立ができるはずもなく、中国は北洋軍閥中心の北京政府と孫文の革命派との間の長期にわたる内戦時代を迎える。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=文公直|authorlink=文公直|year=1962|title=中国現代史料叢書第4編 名人大事 最近六十年中国軍事史|publisher=[[文星書店]]|ref=文(1962)}}
*{{Cite book|和書|author=来新風|authorlink=来新風|year=1989|title=中国軍閥の興亡 その形成発展と盛衰滅亡|publisher=[[光風社出版]]|ref=来(1989)}}
== 関連項目 ==
*[[清朝]]
*[[清の兵制]]
**[[清軍]]
**[[湘軍]]
**[[淮軍]]
*[[八旗]]
*[[洋務運動]]
*[[近代化]]
*[[軍閥]] - [[北洋軍閥]]
*[[日清戦争]]
*[[辛亥革命]]
33 ⟶ 195行目:
[[Category:中国の制度史]]
[[Category:清朝の軍事]]
[[Category:1895年設立の組織]]
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