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'''言語論的転回'''(げんごろんてきてんかい、
[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]]が[[1922年]]に出版した[[論理哲学論考]]({{lang-de-short|Logisch-Philosophische Abhandlung}})が決定的契機となり重要視されることとなった<ref>[[#ダメット(1993)|ダメット(1993)]] p.195</ref>。
==概要==
言語が現実を'''構成する'''という考え方は、言語を事物のラベルのように見なす[[西洋哲学]]の[[伝統]]や[[常識]]の主流に反していた<!--(西洋哲学に限らないのでは?)-->。たとえば、ここで言う伝統的な考え方では、まず最初に、'''実際のいす'''のようなものがあると思われ、それに続いて「いす」という言葉が参照する'''いす'''という意味があると考える。しかし、「いす」と「いす」以外の言葉(「つくえ」でも何でもいい)との差異を知らなければ、私たちは、いすがいすであると認識できないだろう。以上のように[[フェルディナン・ド・ソシュール]]によれば、言語の意味は音声的差異から独立しては存在しえず、意味の差異は私たちの知覚を構造化していると言う。したがって、私たちが現実に関して知ることができることすべては、言語によって条件づけられているというのである。▼
言語論的転回を始めたひとりとして、[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]]が挙げられる。彼の初期の仕事における、哲学的な問題が言語の論理の誤解から起こるという考え、および彼の後期の仕事における[[言語ゲーム]]に関する所見が、その起源と考えられている。▼
ある人が使用する言語表現は、完全ではないかもしれないものの、その人の思想の一つの表現であることに変わりはない。すなわち、その人が使用する言語が備える[[文法]]や[[語彙]]などの制限により、喩えれば、その人の思想の元の形に覆いを被せてしまうようなことになってしまうものの、言い換えれば、"思想が持っている形を言語という覆いでくるんだような"(conformal)状態にはなるものの、他者にも把握することができるような具体的な形状を持つことになる。
非常にさまざまな知的な運動が「言語論的転回」という用語に関連づけられたが、 この表現は[[分析哲学]]の伝統の中で研究していた[[リチャード・ローティ]]が [[1967年]]に編集した ''Linguistic Turn. Recent Essays in Philosophical Method'' [Rorty 1967] というアンソロジーでポピュラーになった。▼
他者の思想を把握するということを導く行為は複数あるにせよ、もっとも根拠のある科学的方法として採用され、[[20世紀]]で盛んに研究されたのが、この言語の分析による方法であり、この思想分析の具体的方法論の転換を'''言語論的転回'''(linguistic turn)と呼ぶ。
言語が思考の透明な媒体でないという事実は、[[ヨハン・ゲオルク・ハーマン]]と[[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト]]の仕事に始まる[[言語哲学]]によってすでに強調されていた。ただし[[分析哲学]]はこの伝統に関連しておらず、その問題意識は必ずしも同じではない。▼
例えば、[[日本]]では[[虹]]は[[赤]]・[[橙色|橙]]・[[黄色|黄]]・[[緑]]・[[青]]・[[藍色|藍]]・[[紫]]の「7色に見える」が、[[英語]]には藍に該当する単語がないので「6色に見える」<ref name=":0">{{Cite|和書|author=[[石原千秋]]|title=未来形の読書術|date=2007-07|publisher=筑摩書房|pages=31-34|ref=harv}}</ref>。また、ヨーロッパ文化圏には[[肩こり]]に当たる言葉がないので、「肩こりは起こらない」<ref name=":0" />。これらは言葉が身体感覚を規定する例であり、言葉が現実を構築する例である<ref name=":0" />。
1970年代に、[[人文科学]]は、構造化の動因である言語の重要性を認識した。人文科学における言語論的転回に決定的であったのは、[[フェルディナン・ド・ソシュール]](その業績は前述のウィトゲンシュタインよりもさらに遡る)の影響下にある[[構造主義]]および[[ポスト構造主義]]の仕事だった。 それぞれの理論における言語の重要性は異なるが有力な理論家として 『言葉と物』を著した[[ミシェル・フーコー]]、人間を言存在として定義した[[ジャック・ラカン]]とその弟子筋の[[リュス・イリガライ]]、[[ジュリア・クリステヴァ]]、脱構築を主導した[[ジャック・デリダ]]、時代はやや下るもののその影響下にある[[ジュディス・バトラー]]らが挙げられる。▼
==経緯==
▲言語が現実を'''構成する'''という考え方は、言語を事物のラベルのように見なす西洋哲学の伝統や常識の主流に反していた<!--(西洋哲学に限らないのでは?)-->。たとえば、ここで言う伝統的な考え方では、まず最初に、'''実際のいす'''のようなものがあると思われ、それに続いて「いす」という言葉が参照する'''いす'''という意味があると考える。しかし、「いす」と「いす」以外の言葉(「つくえ」でも何でもいい)との差異を知らなければ、私たちは、いすがいすであると認識できないだろう。以上のように[[フェルディナン・ド・ソシュール]]によれば、言語の意味は音声的差異から独立しては存在しえず、意味の差異は私たちの知覚を構造化していると言う。したがって、私たちが現実に関して知ることができることすべては、言語によって条件づけられているというのである。
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▲言語論的転回を始めたひとりとして、[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]]が挙げられる。彼の初期の仕事における、哲学的な問題が言語の[[論理]]の誤解から起こるという考え、および彼の後期の仕事における[[言語ゲーム]]に関する所見が、その起源と考えられている。
歴史的なディスコースにおける言語の力、特にある種の修辞的な[[比喩]]については、[[ヘイドン・ホワイト]]によって、研究された。▼
▲非常にさまざまな知的な運動が「言語論的転回」という用語に関連づけられたが、
▲言語が[[思考]]の透明な[[媒体]]でないという事実は、[[ヨハン・ゲオルク・ハーマン]]と[[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト]]の仕事に始まる[[言語哲学]]によってすでに強調されていた。ただし
[[1970年代]]に、人文科学は構造化の動因である言語の重要性を認識した。
<!-- とりあえず直訳しただけですので、自由にご改良下さい。 → 直訳がひどいので直しては見ましたが、人文科学の参照人物にはやや違和感あり。-->
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<references />
== 参考文献 ==
*Rorty, Richard, ed., 1967, ''The linguistic turn: Recent essays in philosophical method'', Chicago, Il.: University of Chicago press. → 1992, ISBN 0226725693.
*{{Cite book|和書|author=新田義弘
* {{Cite book | 和書 | author=マイケル・ダメット | editor=野本 和幸(訳) | title= 分析哲学の起源 言語への転回 | publisher=勁草書房 | year=1998 | ref=ダメット(1993) }}
== 関連項目 ==
* [[言語哲学]]
* [[分析哲学]]
* [[構造主義]]
* [[ポスト構造主義]]
* [[ポストモダニズム]]
* [[カタストロフ理論]]
* [[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]]
* [[ノーム・チョムスキー]]
== 外部リンク ==
* [https://kotobank.jp/word/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E8%AB%96%E7%9A%84%E8%BB%A2%E5%9B%9E-186004 言語論的転回] - [[コトバンク]]
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[[Category:
[[Category:文化史]]
[[Category:方法論]]
[[Category:哲学史]]
[[Category:言語哲学]]
[[Category:20世紀の哲学]]
[[Category:現代哲学]]
[[Category:分析哲学]]
▲{{Philos-stub}}
[[Category:社会構築主義]]
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