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{{出典の明記|date=2012年10月}}
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{{Infobox Military Conflict
|conflict = アロー戦争<br />{{Lang|rus|Arrow War}}第二次アヘン戦争
|image = [[ファイル:Opium Wars, storming of the Taku Forts by British troops, 1860.JPG|300px200px|]]
|caption = [[大沽砲台]]へ攻撃した英国[[イギリス]]の67歩兵隊(67th Foot)
|date = [[1856年]][[6月28日]] - [[1860年]][[8月]]
|place = [[清|大清帝国]](現在の[[中華人民共和国|中国]])
|result =[[ イギリス帝国]][[フランス第二帝政|フランス帝、アメリカ合衆]]連合軍の勝利。[[天津条約 (1858年)|天津条約]]、[[北京条約]]の締結
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|}}
'''アロー戦争'''(アローせんそう、{{lang-zh-short|亞羅號戰爭}}、{{lang-en-short|Arrow War}})は、[[1856年]]から[[1860年]]にかけて、[[清]]と[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]・[[フランス第二帝政|フランス]]連合軍との間で起こった[[戦争]]である<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=アロー戦争とは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%BC%E6%88%A6%E4%BA%89-28932 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2022-03-12 |language=ja}}</ref><ref>[https://kids.gakken.co.jp/jiten/dictionary01100797 辞典]</ref>。戦争の理由の一つであった、[[中国人]]による多くのイギリス人との衝突のうち、もっとも象徴的な出来事が'''アロー号事件'''であったため、[[日本]]では「アロー戦争」と呼称される場合が多い。また、[[アヘン戦争]]に続きアヘンの密貿易に関連して起きた二度目の[[戦争]]であることから'''第二次アヘン戦争'''({{lang-zh-short|第二次鴉片戰爭}}、{{lang-en-short|Second Opium War}})とも呼ばれる<ref name=":0" />。この戦争で清は再び敗北し、不平等条約である[[天津条約 (1858年)|天津条約]]や[[北京条約]]を締結させられ、アヘン輸入の合法化を強いられることになった。
 
== 背景 ==
'''アロー戦争'''(アローせんそう、[[英語]]:''Arrow War'')は、[[1856年]]から[[1860年]]にかけて[[清]]と[[グレートブリテンおよびアイルランド連合王国|イギリス]]・[[フランス]]連合軍との間で起こった[[戦争]]である。最終的に[[北京条約]]で終結し、清の半植民地化が決定的なものとなった。きっかけとなったのは'''アロー号事件'''だが、戦争の目的から[[阿片戦争|アヘン戦争]]に続く'''第二次アヘン戦争'''(''en:Second Opium War'')とも呼ぶ。
[[1839年]]9月に武力行使が始まったアヘン戦争の[[講和条約]]として、1842年に締結された[[南京条約]]の規定により、英国は清国に対し、従来の[[広東省|広東]]([[広州市|広州]])に加えて、[[厦門市|厦門]]、[[福州市|福州]]、[[寧波市|寧波]]、[[上海市|上海]]の計5港を開港させ、それぞれに[[領事]]を置くこと、さらには[[香港]]の割譲も認めさせた。そして、[[広東十三行]]のような特許商人が貿易を独占して徴税請負を行い、外国商人や外国船の保証人となって、それらを強い、統制下に置く、という従来の制度を廃止させた。
また、南京条約締結後約一年の間に結ばれた諸協定により、公正公平な[[関税]]率の設定、[[領事裁判権]]、[[最恵国]]条項、開港五港にそれぞれ[[軍艦]]一隻を停泊できる権利などが取り決められた。また清国中央政府は公式には認めていないが、当時の[[欽差大臣]][[耆英]]が長江河口以南の[[アヘン]]貿易を非公式に黙認した。
 
南京条約及びその後結ばれた諸協定により、香港に駐在する英国公使兼香港総督に対する中国側の外交の窓口は、広東(広州)にほぼ常駐することとなる広東[[欽差大臣]]が担うこととなった。これによって、英国側の清国官吏との接触方法が、アヘン戦争前の公行商人を介在させた間接的な仕組みから大きく改善し、直接接触が可能となった。また開港五港の各英国領事は道([[省]]の下に置かれた行政区分)に置かれた道台(道の長官)と接触することが可能となった。しかし[[北京市|北京]]に外交使節が常駐することは認められなかった。
== アロー号拿捕事件 ==
[[ファイル:Chinese officers tear down the British flag on the arrow.JPG|thumb|left|250px|アロー号を拿捕する清国兵]]
[[1840年]]のアヘン戦争後の[[南京条約]]により、[[上海市|上海]]ほか5港の開港を清に約束させ、[[アヘン]]の輸出も事実上公認させたイギリスであったが、内地へと入ることは認められておらず、また清国内での反英運動も激しくなり、イギリスが期待した程の商業利益は上がらなかった。この理由を清の貿易機構に求めたイギリスの政界では、再び戦争を起こしてでも条約の改正を求めるべきだとの意見が強くなってきた。
 
またアヘン戦争後、1842年12月には大規模な広州英国商館焼き打ち事件が起こった。この時期からアヘン密売する[[イギリス人|英国人]]を対象とした衝突が増える。1846年1月に[[両広総督]][[耆英]]と広東巡撫黄恩彤は広州の城壁内へ英国人が入城する権利をいったん認めたが、これに反対する群衆が広州府知府の執務処と住居を焼き打ちしたため英国人入城許可を取消した。1847年3月には広州に近い[[仏山市|仏山]]鎮で英国人6名、米国人1名が住民から投石を受けるという事件が発生した。これを口実として香港から軍艦を派遣して広州港を侵略し英国商館街を占領した。その後も1847年12月には広州から3[[マイル]]上流の黄竹岐で英国人男性6名が切り殺されるという事件が起こった。その後再び入城問題について再提起され後任者が交渉を開始するものの清国側の方針が定まらず入城問題は一時棚上げされた。高揚するアヘンを密売するイギリス人への反感と反イギリス運動を取り締まるよう、[[外務・英連邦大臣|英国外務大臣]][[パーマストン]]は北京の清朝政府に抗議した。
その絶好の口実とされたのが'''アロー号事件'''である。[[1856年]][[10月8日]]に清の官憲はイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行い、清人船員12名を拘束し、そのうち3人を[[海賊]]の容疑で逮捕した(残りは抗議で釈放)。これに対し当時の[[広州]]領事[[ハリー・パークス]]は、清の[[両広総督]]・[[欽差大臣]]である[[葉名チン|葉名琛]]に対してイギリス(香港)船籍の船に対する清官憲の臨検は不当であると主張し、また逮捕の時に清の官憲がイギリスの[[国旗]]を引き摺り下ろした事は、イギリスに対する侮辱だとして抗議した。葉名琛はこれに対して国旗は当時掲げられていなかったと主張したが、パークスは強硬に自説を主張し、交渉は決裂した。実際には、事件当時に既にアロー号の船籍登録は期限を数日過ぎており、アロー号にはイギリス国旗を掲げる権利は無いし、官憲によるアロー号船員の逮捕は全くの合法であった。しかし、清国側の[[葉名チン|葉名琛]]も基本的な事実関係の調査を全く行わず、この事実に気がつかなかった。
 
1850年代初期の英清関係において外交面と通商面の2つの側面から不都合が浮かび上がってきていた。南京条約の改定交渉も1854年から開始された。
 
まず外交面では英国の英国公使兼香港総督と広東欽差大臣との交渉では、入城問題を通じて広東欽差大臣と清朝中央政府との意思統一がされず大いに混乱した。[[イギリス政府|英国政府]]は、清朝中央政府と直接交渉を試みたが、清国中央政府は、外交の窓口は広東欽差大臣であるとしてこれを突きかえした。英国政府にとっては英国人の広州入城権と他の滞在地でのフリーハンド確保をいかに実行するかということが喫緊の課題であったが、広東欽差大臣との交渉は遅々として進まなかったため、英国は北京の清朝朝廷と直接交渉できるような体制を作ることが是非とも必要であると考えるようになった。これは後に北京に常駐外交使節団と常駐公使館の設立を志向することにつながった。
 
通商面では、現状の大都市から離れた不便な開港五港以外に蘇州や杭州のような便の良い都市を新たに開港すること、汚職が蔓延し機能不全をおこしている担当部署を改革すること、イギリス人に不都合な既存の徴税機構に代わり新たな徴税機構を設けることが、イギリス政府の要求であった。
 
英国外務大臣パーマストンは、これらの不満を原因として清国に対し再び武力行使を計画し、1851年12月に外務大臣を辞職、1855年1月に[[イギリスの首相|首相]]として政界に復帰した。しかし当初は開戦理由として相応しい開戦理由がなかったため、武力行使の準備だけは十分に整えていつでも武力行使にすぐに踏み切れる体制を整えていた。
 
== アロー号拿捕事件 ==
[[ファイル:Chinese officers tear down the British flag on the arrow.JPG|thumb|right|250px|アロー号を拿捕する清国兵]]
こうした状況下で起きたのが'''アロー号事件'''であった。[[1856年]][[10月8日]]に清の官憲はイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に[[臨検]]を行い、清人船員12名を拘束し、そのうち3人を[[海賊]]の容疑で[[逮捕]]した(残りは抗議で釈放)。これに対し当時の[[広州]]領事[[ハリー・パークス]]は、清の[[両広総督]]・[[欽差大臣]]である[[葉名琛]]に対してイギリス(香港)船籍の船に対する清国官憲の臨検は不当であると主張し、また逮捕の時に清の官憲が[[イギリスの国旗]]を引き摺り下ろした事は、イギリスに対する侮辱だとして抗議した。葉名琛はこれに対して[[国旗]]は当時掲げられていなかったと主張したが、パークスは強硬に自説を主張し、交渉は決裂した。実際には、事件当時に既にアロー号の[[船籍]]登録は期限を数日過ぎており、アロー号にはイギリスの国旗を掲げる権利は無く、官憲によるアロー号船員の逮捕は全くの合法であった。しかし、清国側の葉名琛も基本的な事実関係の調査を全く行わず、この事実に気がつかなかった。
 
== 開戦 ==
[[ファイル:Second Opium War-guangzhou.jpg|thumb|left|250px|広州に侵入する英仏連合軍]]
[[File:Belvedere of the God of Literature, Summer Palace.jpg|thumb|240px|略奪直前の円明園(1860年10月)]]
[[ファイル:Auguste Chapdelaine.jpg|right|thumb|160px|[[広西省]]で殺害されたフランス人宣教師、[[オーギュスト・シャプドレーヌ]]]]
[[ファイル:Second Opium War-guangzhou.jpg|thumb|right|250px|広州に侵入する英仏連合軍]]
[[ファイル:French attack the Bridge, Pa-Li-Chian, 1860.jpg|thumb|right|250px|[[八里橋の戦い|八里橋へ侵攻する]]フランス軍]]
パークスの行動を見た清国駐在全権使節兼[[香港総督]]ジョン・ボーリングは現地の[[イギリス海軍]]を動かして広州付近の砲台を占領させた。これに対して広州の反英運動は頂点に達し、居留地が焼き払われた。
パークスの行動を見た清国駐在英国全権使節兼[[香港総督]][[ジョン・ボーリング]]は、現地の[[イギリス海軍]]を動かして広州付近の砲台を占領させた。これに対して広州の反英運動は頂点に達し、居留地が焼き払われた。
 
[[イギリス首相|イギリス首相]][[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]は現地の対応を支持し、本国軍の派遣を決定するが、[[イギリスの議会|議会]]の反対により頓挫した。パーマストンはこれに対して解散総選挙を行い、今度は議会の支持を受けて、現地に前[[カナダ]]総督の第8代[[エルギン伯ジェ爵]]兼第12代[[キンカムズ・ブルース|ディン伯爵]][[ジェイムズ・ブルース (第8代エルギン伯爵)|ジェイムズ第12代キンカブルディン伯爵)]] を司令官として兵士50005,000からなる遠征軍を派遣した。同時に[[フランス第二帝政|フランス]]皇帝[[ナポレオン3世]]に共同出兵を求め、フランスはフランス人宣教師の[[オーギュスト・シャプドレーヌ]]が逮捕され、斬首にあとなったこと口実理由として出兵した。司令官は[[ジャン・バティスト・ルイ・グロ|グロ男爵]]であった。
であった。
 
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ロシア帝国|ロシア]]は、戦争には加わらないものの条約改正には参加すると表明した。
 
[[1857年]][[12月29日]]、英仏連合軍は広州を占領して葉名琛を捕らえた。翌年2月にはイギリス、フランス、ロシア、アメリカの全権大使連名により[[北京市|北京]]政府に対して条約改正交渉を求めた。しかしこれに対する清の答に不満を持った連合軍は再び北上して[[天津市|天津]]を制圧し、ここで[[天津条約 (1858年)|天津条約]]を結んだ。この条約の内容は公使の北京駐在・[[キリスト教]]布教の承認・内地河川の商船の航行の承認・英仏に対する賠償金などである。またこの条約による関税率改定により、アヘンの輸入が公認化された。条約締結を見た連合軍は引き上げた。しかし、連合軍が引き上げた後の北京では天津条約を非難する声が強くなり、この条約内容を変更しようと動いていた。
 
[[1859年]][[6月17日]]、英仏の艦隊は天津条約の批准のために天津の南の白河口に来た。これに対する清の[[迎接]]は無く、また白河には遡行を妨げる障害物が配置されていた。これを取り除いている最中に大砲で[[の兵制|清軍]]の攻撃を受けた英仏艦隊は[[モンゴル]]人将軍[[センゲリンチン]]の軍に敗れて[[上海]]へ引き返した。
 
[[1860年]]夏、英仏軍は大艦隊と約1万7千人の兵隊という大軍で再度進軍して清の砲台を占領し、清側との交渉に当たった。しかし、ここでパークスらが清国皇帝の指示によってセンゲリンチンに囚われ、使節団のうち11名が拷問の上で殺害されるという事件が起こったために決裂し、連合軍は北京に迫ったため、狼狽した[[咸豊帝]]は[[熱河]]に避難した。
[[ファイル:Looting of the Yuan Ming Yuan by Anglo French forces in 1860.jpg|thumb|left|英仏軍の[[円明園]]の略奪]]
[[ファイル:French attack the Bridge, Pa-Li-Chian, 1860.jpg|thumb|right|250px|[[八里橋の戦い|八里橋へ侵攻する]]フランス軍]]
[[1860年]]夏、英仏軍は大艦隊と約1万7千人の兵隊という大軍で再度進軍して清の砲台を占領し、清側との交渉に当たった。しかし、ここでパークスらが皇帝の指示によってセンゲリンチンに囚われ、使節団のうち11名が拷問の上で殺害されると言う事件が起こったために決裂し、連合軍は北京に迫ったため、狼狽した[[咸豊帝]]は熱河に避難した。
 
== 円明園の略奪と破壊 ==
10月7日、8日、英仏連合軍ことに仏軍は[[円明園]]で略奪した<ref>英軍は、士官に限り僅かに略奪に参加した。英軍士官は、英軍が設立した分捕委員会に、略奪品を納めた(競売にかけられ、123,000円の売上金は、軍に配分された)。</ref><ref>『北京史話』によると、[[パリ]]の図書館と[[大英博物館]]には、[[東晋]]の[[顧愷之]]による『女史箴図』、[[清朝]]の[[沈源]]、[[唐岱]]による『円明園四十景図』などが所蔵されているという。</ref>。[[エルギン伯]]は7日夕方、円明園から引き上げてすぐに、その有様を「今や廃墟。見た限り、略奪、粉砕が半分もされなかった部屋はひとつもない。仏軍は織物を引き裂き、工芸品を壊して回り、尚且つ略奪した。」等と記している。10月18日、19日、英軍は清朝による捕虜殺害に対する報復として円明園を焼き払った。仏軍と英軍は、仏軍による略奪と英軍による焼き払いを、互いに非難し合った。
{{See also|円明園}}
[[ファイル:Belvedere of the God of Literature, Summer Palace.jpg|thumb|250px|略奪直前の円明園(1860年10月)]]
[[ファイル:Looting of the Yuan Ming Yuan by Anglo French forces in 1860.jpg|thumb|right|250px|英仏軍の[[円明園]]の略奪]]
10月7日、8日、英仏連合軍、ことに[[フランス軍|仏軍]]は[[円明園]]で略奪を行った{{refnest|group="注釈"|英軍は、士官に限り僅かに略奪に参加した。英軍士官は、英軍が設立した分捕委員会に、略奪品を納めた(競売にかけられ、123,000円の売上金は、軍に配分された)。}}{{refnest|group="注釈"|『北京史話』によると、[[パリ]]の図書館と[[大英博物館]]には、[[東晋]]の[[顧愷之]]による『女史箴図』、[[清朝]]の[[沈源]]、[[唐岱]]による『円明園四十景図』などが所蔵されているという。}}。[[エルギン伯]]は7日夕方、円明園から引き上げてすぐに、その有様を「今や廃墟。見た限り、略奪、粉砕が半分もされなかった部屋はひとつもない。仏軍は織物を引き裂き、工芸品を壊して回り、尚且つ略奪した。」等と記している。10月18日、19日、[[イギリス軍|英軍]]は清朝による捕虜殺害に対する報復として円明園を焼き払った。この時、園内から殺害された使節団の遺体が回収されている。仏軍と英軍は、仏軍による略奪と英軍による焼き払いを、互いに非難し合った。
 
== 北京条約 ==
{{main|北京条約}}
1860年、連合軍は北京を占領し、10・11月に[[ロシア帝国|ロシア]]公使[[ニコライ・イグナチェフ]]の調停の下に、英仏遠征軍司令官と[[愛新覚羅奕キン|恭親王]]との間に[[北京条約]]が締結された。この条約により清は、天津の開港、イギリスに対し[[九竜半島]]の割譲、中国人の海外への渡航許可などを認めさせられた。最後の渡航許可というのは中国人労働者を劣悪な条件で移民させる[[苦力]]貿易を公認するものである。この条項は労働者移民の公認と、それによる一定の移民保護を目的に入れられたとされる。更に調停に入ったロシアに対しても、1858年にロシア帝国東シベリア総督[[ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー]]が締結した[[アイグン条約]]以後の2年間は清露両国の雑居地であった[[外満州]](現在の[[沿海州]])を、正式に譲る事になった。特に、ロシアが[[沿海地方]]に軍港[[ウラジオストック]]を建設してロシア太平洋艦隊を常駐させ、[[シベリア鉄道]]建設によって大規模な兵の陸送を迅速化させようと計画したため、[[日露戦争]]の原因ともなった。その後も[[ロシア革命]]時の[[シベリア出兵]]([[1919年]])では[[極東共和国]](日本は沿海州共和国と呼んでいた)の帰属を巡って日露間で紛争地となった。
1860年、連合軍は[[北京の戦い (1860年)|北京を占領]]し、10・11月に[[ロシア帝国|ロシア]]公使[[ニコライ・イグナチェフ]]の調停の下に、英仏遠征軍司令官と[[愛新覚羅奕訢|恭親王]]との間に[[北京条約]]が締結された。この条約により清は、天津の開港、イギリスに対し[[九竜半島]]の割譲、中国人の海外への渡航許可などを認めさせられた。最後の渡航許可というのは中国人労働者を劣悪な条件で移民させる[[苦力]]貿易を公認するものである。この条項は労働者移民の公認と、それによる一定の[[移民]]保護を目的に入れられたとされる。
 
更に調停に入ったロシアに対しても、1858年にロシア帝国[[東シベリア]]総督[[ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー]]が締結した[[アイグン条約]]以後の2年間は清露両国の雑居地であった[[外満洲]](現在の[[沿海州]])を、正式に譲る事になった。特に、ロシアが[[沿海地方]]に軍港[[ウラジオストク|ウラジオストック]]を建設してロシア[[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]]を常駐させ、[[シベリア鉄道]]建設によって大規模な兵の陸送を迅速化させようと計画したため、[[日露戦争]]の原因ともなった。その後も[[ロシア革命]]時の[[シベリア出兵]]([[1919年]])では[[極東共和国]]の帰属を巡って日露間で紛争地となった。
== 画像 ==
 
== 関連画像 ==
<gallery>
File:La bataille de Palikiao.jpg|[[八里橋の戦い]]
File:1858, Canton Commissioner Yeh Men.jpg|[[広州の戦い (1857年)|広東陥落後]]の[[葉名チン|葉名琛]]
File:Signing of the Treaty of Tientsin-2.jpg|[[天津条約 (1858年)|天津条約]]の締結
File:CousinMontaubanCampaignOf1860.jpg|フランス軍総司令官[[シャルル・クーザン=モントバン|モントバン]]の指揮(1860年)
File:Medaille de la campagne de Chine 1861.jpg|戦功を挙げ従軍しフランス兵に贈られた中国戦線従軍記念章[[レジオンドヌール勲章:fr:Médaille commémorative de l'expédition de Chine (1860)|Médaille_commémorative_de_l'expédition_de_Chine_]]
</gallery>
 
== 日本への影響 ==
1856年の夏に、[[日米和親条約]]の規定に基づき、[[アメリカ合衆国]]の領事である[[タウンゼント・ハリス]]が、伊豆の下田に着任した。ハリスは、[[日米修好通商条約]]の締結に当たって、アロー戦争と[[インド大反乱]]を引き合いにしつつ、イギリスが[[日本]]に出兵する可能性をほのめかして、[[江戸幕府]]に圧力をかけた。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==
56 ⟶ 86行目:
* [[アヘン戦争]]
* [[太平天国の乱]]
* [[清仏戦争]](中法戦争)
* [[日清戦争]](甲午戦争)
* [[義和団の乱]]
* [[安政の五か国条約]]
* [[西太后 (映画)]]
 
== 外部リンク ==
{{Campaignbox-bottom|アロー戦争}}
* {{Kotobank}}
 
{{Campaignbox-bottom|アロー戦争}}
==脚注==
{{reflistNormdaten}}
{{デフォルトソート:あろおせんそう}}
 
[[Category:アロー戦争|*]]
{{DEFAULTSORT:あろおせんそう}}
[[Category:19世紀の戦争]]
[[Category:インドの戦争]]
[[Category:イギリスの戦争]]
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[[bg:Втора опиумна война]]
[[da:Anden opiumskrig]]
[[de:Zweiter Opiumkrieg]]
[[en:Second Opium War]]
[[es:Segunda Guerra del Opio]]
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[[fr:Seconde guerre de l'opium]]
[[fy:Opiumkrigen]]
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[[id:Perang Candu Kedua]]
[[it:Guerre dell'oppio]]
[[ko:제2차 아편 전쟁]]
[[ms:Perang Candu]]
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[[nn:Den andre opiumskrigen]]
[[no:Andre opiumkrig]]
[[oc:Segonda guèrra de l'òpi]]
[[pl:II wojna opiumowa]]
[[pt:Segunda Guerra do Ópio]]
[[ro:Al Doilea Război al Opiului]]
[[ru:Вторая Опиумная война]]
[[sv:Andra opiumkriget]]
[[th:สงครามฝิ่น]]
[[tr:II. Afyon Savaşı]]
[[uk:Англо-франко-китайські війни 1856—60]]
[[vi:Chiến tranh Nha phiến]]
[[zh:第二次鸦片战争]]