「地方病 (日本住血吸虫症)」の版間の差分
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{{Otheruseslist|日本住血吸虫症および甲府盆地における同症撲滅の経緯|一般的な風土病としての広義の地方病|風土病|病原微生物|日本住血吸虫|住血吸虫の感染による疾患一般|住血吸虫症}}
[[ファイル:Schistosoma japonicum (3) histopathology.JPG|right|thumb|240px|肝臓に蓄積した日本住血吸虫の卵殻。甲府盆地の住民に多大な被害を与えた。]]
[[ファイル:KofuBonchi.jpg|thumbnail|240px|甲府盆地<small>(定期航空機より2006年11月13日)</small>。左上方から中央部に弧状を描き下方へ流れるのが釜無川、右方向から左下方へ流れるのが笛吹川。]]
[[ファイル:Dr. Sugiura-kenzo.JPG|right|thumb|240px|地方病(日本住血吸虫症)撲滅に尽力した[[杉浦健造]]医師 (1866 - 1933<ref>山梨日日新聞社編『山梨 歴史カレンダー』p.242</ref>) の胸像<small>(2010年9月撮影)</small>]]
{{座標一覧}}
{{Location map many|Japan
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|caption = 日本国内における、かつての日本住血吸虫症流行地
}}
本項で解説する'''地方病'''(ちほうびょう)は、'''日本住血吸虫症'''(にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう){{Refnest|group="†"|『[[広辞苑]]』には「'''日本住血吸虫病'''(にほんじゅうけつきゅうちゅうびょう)」として掲載されている<ref name="広辞苑">{{Cite book|和書|title=広辞苑 第七版|edition=第一刷発行|editor=新村出|publisher=[[岩波書店]]|___location=[[東京都]]|date=2018-01-12|isbn=978-4000801317|page=2231|quote=同ページ3段落目【日本住血吸虫病】|accessdate=2019-10-14}}</ref>。}}の[[山梨県]]における呼称であり、長い間その原因が明らかにならず、住民らに多大な被害を与えた[[感染症]]である。ここではその克服・撲滅に至る歴史について説明する。
「日本住血吸虫症」とは、「[[住血吸虫科]]に分類される[[寄生虫]]である[[日本住血吸虫]](にほんじゅうけつきゅうちゅう)の[[寄生]]によって発症する[[寄生虫病]]」であり、「ヒトを含む哺乳類全般の血管内部に寄生感染する[[人獣共通感染症]]」でもある<ref name="kansensho">{{Cite journal|和書|date=2006-10|author=木村幹男|coauthor=大前比呂思|title=住血吸虫症とは - 感染症の話|journal=感染症発生動向調査週報|url=http://idsc.nih.go.jp/idwr/kanja/idwr/idwr2006/idwr2006-41.pdf|pages=17-20|volume=8|issue=41|format=pdf|publisher=[[国立感染症研究所]]感染症情報センター|accessdate=2019-02-14}}</ref>。日本住血吸虫は[[ミヤイリガイ]](宮入貝、別名:カタヤマガイ)という淡水産巻貝を[[中間宿主]]とし、河水に入った哺乳類の皮膚より吸虫の幼虫([[セルカリア]])が寄生、寄生された宿主は[[皮膚炎]]を初発症状として高熱や消化器症状といった急性症状を呈した後に、成虫へと成長した吸虫が[[肝門脈]]内部に巣食い慢性化、成虫は宿主の血管内部で生殖産卵を行い、多数寄生して重症化すると[[肝硬変]]による[[黄疸]]や[[腹水]]を発症し、最終的に死に至る<ref name="kansensho"/>。病原体である日本住血吸虫については「[[日本住血吸虫]]」を、住血吸虫症全般の病理については「[[住血吸虫症]]」を参照のこと。
病名および原虫に日本の国名が冠されているのは、疾患の原因となる[[病原体]](日本住血吸虫)の生体が、世界で最初に日本国内(現:山梨県[[甲府市]])で発見されたことによるものであって、決して日本固有の疾患というわけではない。日本住血吸虫症は[[中華人民共和国|中国]]、[[フィリピン]]、[[インドネシア]]{{refnest|group="†"|name="スラウェシ"|アジアにおける日本住血吸虫症の分布は撲滅された[[日本]]を含め、[[中華人民共和国]]、[[フィリピン]]、[[インドネシア]]の4カ国(厳密には[[台湾]]でもかつて分布が見られたが、[[ブタ]]、[[イヌ]]等の感染は認められたものの、ヒトへの感染事例は未確認である)であるが、このうちインドネシアでの流行地は小規模なもので[[スラウェシ島]](旧称:セレベス島)中部にあるLindoe湖西岸の3か村(人口約1,500人)に有病地が確認されている。ただしスラウェシ島の大部分は未開発の[[熱帯雨林]]であり、未発見の日本住血吸虫症有病地が存在する可能性も指摘されている<ref>{{Cite book|和書|date=1981-03-31|author=飯島利彦|title=日本住血吸虫の疫学生態学|chapter=第1節分布 インドネシアにおける流行、台湾における流行|pages=38-39|series=地方病とのたたかい:日本住血吸虫病・医療編|editor=山梨地方病撲滅協力会|publisher=有限会社平和プリント社|___location=[[山梨県]][[甲府市]]|ncid=BN11304501|oclc=497978867}}</ref>。}}の3カ国を中心に年間数千人から数万人規模の新規感染患者が発生しており、[[世界保健機関]] ({{lang-en|World Health Organization}}、略称:WHO)<ref>世界保健機構、日本住血吸虫症の現状{{en icon}}「{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20090920051144/http://www2.wpro.who.int/NR/rdonlyres/10ED8EFC-D063-4545-815E-0B9CD10314B3/0/chapter25.pdf schistosomiasis]}}」</ref><ref>世界保健機構、日本住血吸虫症{{en icon}}「{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20050731200829/http://www.who.int/bulletin/volumes/83/7/526arabic.pdf Field evaluation of a rapid ,visually-read colloidal bye immunofiltration assay for Schistosoma japonicum for screening in areas of low transmission]}}」</ref>などによって2018年現在もさまざまな対策が行われている<ref> {{Wayback |url= http://www.who.int/topics/schistosomiasis/en/|title= WHO Schistosomiasis|date=20040823015748}} WHO{{en icon}} 2017年1月17日閲覧</ref><ref name="WHO October.2017">{{en icon}}{{Wayback |url= http://www.who.int/mediacentre/factsheets/fs115/en/|title=WHO Schistosomiasis Fact sheet N°115Updated October 2017|date=20170124070606}}2017年1月17日閲覧</ref><ref name="UNHCO"> [http://unhco.or.ug/] Uganda National Health Consumers' Organisation(UNHCO){{en icon}} [[ウガンダ]]国民健康消費者機構 2016年1月2日閲覧</ref>。
日本国内では、1978年(昭和53年)に山梨県内で発生した新感染者の確認を最後に、それ以降の新たな感染者は発生しておらず、1996年(平成8年)の山梨県における終息宣言をもって、日本国内での日本住血吸虫症は撲滅されている<ref>世界保健機構、慢性日本住血吸虫症と肝細胞癌:山梨県におけるフォローアップの10年{{en icon}}「{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20130215052446/http://www.who.int/bulletin/archives/77(7)573.pdf Chronic Japanese schistosomiasis and hepatocellular carcinoma:ten years of follow-up in Yamanashi Prefecture,Japan]}}」2016年1月2日閲覧</ref>{{Sfn|小林 (1998)|pp=227-230}}{{refnest|group="†"|日本は日本住血吸虫症 (''Schistosomiasis japonica'') を撲滅した世界唯一の国である{{Sfn|林 (2000)|pp=1-3}}。}}。
日本国内における日本住血吸虫症の流行地は[[水系]]毎に大きく分けて次の6地域だった{{Sfn|岡部 (1961)|pp=61-64}}。
# 山梨県[[甲府盆地]]底部一帯。
# [[利根川]]下流域の茨城県・千葉県{{refnest|group="†"|旧[[北相馬郡]][[高野村 (茨城県)|高野村]](現:[[守谷市]])、利根川下流対岸の[[印旛郡]]の[[氾濫原]]一部{{Sfn|岡部 (1961)|p=63}}。}}、および[[中川]]流域の埼玉県、[[荒川 (関東)|荒川]]流域の東京都のごく一部{{refnest|group="†"|旧[[北葛飾郡]][[彦成村]](現:[[三郷市]])、旧[[北豊島郡]][[赤塚村 (東京府)|赤塚村]]および[[志村 (東京府)|志村]](現:[[板橋区]])の非常に限られたごく一部{{Sfn|岡部 (1961)|p=63}}。}}。
# [[小櫃川]]下流域の千葉県[[木更津市]]・[[袖ケ浦市]]のごく一部<ref name="obitsu">前述の岡部の文献には記載されていないが、[[千葉大学]]医学部の調査によって複数の住民の組織内から虫卵が検出されるなど、かつての流行の痕跡が見られているため記載する(新村宗敏、「[https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900042908/ 千葉県小櫃川流域における日本住血吸虫症の実態調査について] 『千葉医学雑誌』 1986年 62巻 5号 p.317-318、千葉医学会</ref>。
# [[富士川]]下流域東方の静岡県[[浮島沼]](富士川水系に含まれる現:[[沼川 (静岡県)|沼川]])周辺の一部{{refnest|group="†"|[[富士市]]と[[沼津市]]にまたがる湿地帯の周辺{{Sfn|岡部 (1961)|pp=63-64}}。}}。
# [[芦田川]]支流、[[高屋川 (芦田川水系)|高屋川]]流域の広島県[[福山市]]神辺町片山地区、および隣接した岡山県[[井原市]]のごく一部{{refnest|group="†"|片山地区と県境を接した岡山県旧[[小田郡]][[大江村 (岡山県)|大江村]](現:井原市)西代地区、当地では西代病(にしだいびょう)と呼ばれていた{{Sfn|岡部 (1961)|pp=61-62}}。}}。
# [[筑後川]]中下流域の福岡県[[久留米市]]周辺および佐賀県[[鳥栖市]]周辺の一部。
日本国内では以上の6地域にのみかつて存在した[[風土病]]であり<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.1</ref>{{Sfn|小林 (1998)|pp=5, 9-17, 31-32}}<ref> {{Wayback |url=http://health.goo.ne.jp/medical/search/10I40100.html|title=gooヘルスケア 日本住血吸虫症|date=20061023102354}} 2012年1月22日閲覧</ref>、上記のうち、甲府盆地底部一帯、広島片山地区、筑後川中下流域の3地域が日本住血吸虫症の流行地として特に知られていた。中でも甲府盆地底部一帯は日本国内最大の罹病地帯<ref group="†">流行末期の1977年([[昭和]]52年)の段階ですら、[[厚生省]](当時、現:[[厚生労働省]])によって指定されていた甲府盆地の有病地面積は、日本国内の日本住血吸虫症有病地総面積の約6割に当たる11,764ヘクタールであった。泉 (1979) P.44</ref>(以下、有病地と記述する)であり、この病気の原因究明開始から原虫の発見、治療、[[予防]]、防圧、終息宣言に至る歴史の中心的地域であった。
当疾患の正式名称は、日本住血吸虫症 (''Schistosomiasis japonica''){{Sfn|林 (2000)|p=76}}、[[疾病及び関連保健問題の国際統計分類|ICD-10]] (B65.2)<ref name="ICD-10">[https://www.mhlw.go.jp/toukei/sippei/index.html 厚生労働省「疾病、傷害及び死因分類」] 2014年4月6日閲覧</ref>であるが、山梨県では官民双方広く一般的に「地方病」と呼ばれている。原因解明への模索開始から終息宣言に至るまで100年以上の歳月を要するなど、罹患者や地域住民を始め研究者や郷土医たちによる地方病対策の歴史は、山梨県の近代医療の歴史でもある。
この項目では「甲府盆地における地方病撲滅の経緯」を記述する。筑後川流域での根絶までの経緯は「[[筑後川#日本住血吸虫症の撲滅]]」を参照。全体の時系列は「[[#年表]]」も参照のこと。
== 甲府盆地の奇病 ==
=== 水腫脹満 ===
[[
この疾患がいつから山梨県で「地方病」
医学的に「日本住血吸虫症」と呼ばれるようになったのは、病原寄生虫が発見され、病気の原因が寄生虫によるものであると解明されてからのことである。しかし山梨県内では病原解明後も今日に至るまで、「地方病」という言葉は一般市民はもとより行政機関等においても使用され続け定着しており、一般的には風土病を指す「地方病」という言葉は「日本住血吸虫症」を指す代名詞と化している。
[[腹|腹部]]が大きく膨らむ特徴的な症状から古くは、[[水腫]]脹満(すいしゅちょうまん)、はらっぱり、などと呼ばれていた「地方病」は、以下に示す[[史料]]文献中の記述により、少なくとも近世段階にはすでに甲府盆地で流行していたものと考えられている<ref name="Kenshi-iryoA">山梨県史通史編5-近現代1 (2005) p.522</ref>。
==== 近世初頭の史料(小幡昌盛の例) ====
[[ファイル:Estimated that the disease symptoms of Schistosomiasis Japonica, ancient documents Koyo Gunkan.jpg|left|thumb|163px|「積聚の脹満」と書かれた『甲陽軍鑑』品第五十七の一部。<br><small>『底本前田育徳会尊経閣文庫』。<br>酒井憲二解題</small><ref>酒井憲二解題『甲陽軍鑑 四 自巻第十六至巻二十』 勉誠社 (1979) p.2259</ref>。]]
[[ファイル:Takeda24syou.jpg|right|thumb|210px|『[[武田二十四将]]図』([[武田神社]]所蔵品)に描かれた[[小幡昌盛|小幡昌盛(小幡豊後守)]]。下から2列目の最右に描かれた人物。]]
[[近世#日本|近世]]初頭(安土桃山時代から江戸時代初期)に原本が成立したとされる、全五十九品(章)からなる[[兵学|兵書]]である『[[甲陽軍鑑]]』品第五十七の文中において、[[甲斐武田氏]]が[[織田信長]]に攻められ凋落していく際、武田家臣の[[小幡昌盛|小幡昌盛(小幡豊後守)]]はしかし重病のため従軍できず、同輩の[[土屋昌恒]]を通して主の[[武田勝頼]]の下へ永訣の暇乞いに来る場面があるが、同文中の小幡の症状について「積聚の脹満(しゃくじゅのちょうまん)」と記述されている。積聚(しゃくじゅ)とは腹部の異常を指す[[伝統中国医学|東洋医学]]用語であり、脹満(ちょうまん)とは同じく腹部だけが膨らんだ状態を意味している。「積聚の脹満」とはつまり、腹部の病気によって腹が膨らんだ状態を描写したものである。さらに、籠輿([[駕籠|かご]])に乗って主君である勝頼の下へ出向いているのは、この時すでに昌盛が歩くことすらできなくなっていたからであると考えられ、これらの記述内容は典型的な地方病の疾患症状に当てはまるとされる{{Sfn|小林 (1998)|pp=6-8}}。以下がその文である。
{{Quotation|w=40%|bw=1px|
甲陽軍鑑、品第五十七
:''…次に、小幡豊後守善光寺前にて[[土屋昌恒|土屋惣蔵]]を奏者に憑(たのみ)、御目見仕、''
:''豊後、巳の年''([[1581年]]・[[天正]]9年)''[[霜月]]より煩(わずらい)、''
:''積聚の脹満'' ''なれ共、籠輿に乗今生の御暇乞と申。''
:''勝頼公御涙を流され、か様に時節到来の時、其方なども病中是非に及ばず候と御下さるゝ……''}}
これは、[[甲州征伐#天目山の戦い|天目山の戦い]]直前の天正10年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]([[ユリウス暦]]1582年3月26日<!--、現在の[[グレゴリオ暦]]に換算すると1582年4月5日--><ref>[[カシオ計算機]]、[https://keisan.site/exec/system/1239884730 和暦から西暦変換(年月日)]による(2020年6月15日)</ref>)、勝頼一行が本拠の[[新府城]]での防衛を諦め、[[岩殿山城|岩殿城]]での防衛戦へ向かう途中に立ち寄った、[[甲斐善光寺]]門前での出来事を記したものであり、小幡豊後守(小幡昌盛)はこの3日後に亡くなっている。この『甲陽軍鑑』のくだりが地方病の症例に似ている、とする見解があり、その説に従えば、これが地方病を記録した最古の文献とされる<ref name="Kenshi-iryoA" /><ref name="#1">山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.5-6</ref><ref name="NHK">NHK甲府放送局、末利光 「地方病の庶民史」 山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.178-180</ref><ref>佐賀県保健環境部 「佐賀県の日本住血吸虫病 -安全宣言への歩み」1991年</ref>。
==== 江戸時代以降の近世 ====
その後、[[江戸時代]]中期の[[元禄]]年間(1700年頃)に「水腫脹満」の薬と称した民間療法薬が作られていた伝承が残されており、明治期にはそれを由来とした通養散と呼ばれる薬が竜王村界隈(現:[[甲斐市]]竜王)で販売されていた<ref name="Kenshi-iryoA" />{{Sfn|小林 (1998)|pp=6-8}}。また、江戸時代後期の[[文化 (元号)|文化]]8年(1811年)には、甲府盆地南西部に位置する[[市川大門町|市川大門]]在住の医師、橋本伯寿<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E4%BC%AF%E5%AF%BF-1100911 コトバンク 橋本伯寿]</ref>によって著された医学書『翻訳断毒論』<ref>[https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902115990852476 J-GLOBAL 科学技術総合リンクセンター 地方病関連資料3.「翻訳断毒論」にみられる水腫について-山梨県衛生公害研究所年報 1997年]</ref>において、「''甲斐の中郡''(なかごおり<ref group="†">近代の[[中巨摩郡]]東部の呼称。現在の甲斐市、中央市、昭和町一帯。</ref>)''には水腫多く''」と当時の様子が記されている<ref name="kenhaku">山梨県立博物館編 (2009) p.87</ref>。
[[ファイル:Honyaku-dandokuron, old Japanese medical books of 1811.JPG|right|thumb|210px|「''甲斐の中郡には水腫多く'' 」と、書かれた『翻訳断毒論』の一部。]]
[[ファイル:Tsuyosan, folk medicine for Schistosomiasis japonica, 1910 circa.JPG|right|thumb|280px|水腫脹満の薬 『通養散』の広告。明治末頃。]]
地方病に罹患した患者の多くが初期症状として[[発熱]]、[[下痢]]を発症するが、初期症状だけの軽症で治まるものもいた。しかし感染が重なり慢性になった重症の場合、時間の経過とともに手足が痩せ細り、[[皮膚]]は黄色く変色し、やがて腹水により腹部が大きく膨れ、介護なしでは動けなくなり死亡した<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.105-106</ref>。
今日の医学的見地に当てはめると、肝臓などの臓器に寄生虫(日本住血吸虫)の虫卵が蓄積されることによる[[肝不全]]から[[肝硬変]]を経て、罹患者の血管内部で次々に産卵される虫卵が[[静脈]]に詰まって[[塞栓]]を起こすことにより、逃げ場を失った[[血流]]が集中する[[門脈]]の[[血圧]]が異常上昇する。その結果[[門脈圧亢進症]]が進行、それに伴い腹部静脈の怒張([[メデューサの頭 (医学)|メデューサの頭]], caput Medusae)および[[腹腔]]への[[血漿]]流出による腹水貯留を起こし、最終的に[[食道静脈瘤]]の破裂といった致命的な事態に至る。これら種々の[[合併症]]が直接の[[死#統計と原因|死因]]である<ref name="kansensho" /><ref>石崎、加茂、井内「日本住血吸虫病の症状」 山梨地方病撲滅協力会編 (1981) pp.100-198</ref>。また、肝硬変から[[肝癌|肝臓がん]]へ進行するケースも多く、さらに肝臓など腹部の[[器官|臓器]]だけでなく、血流に乗った虫卵が[[脳]]へ蓄積する場合もあり、[[片麻痺]]、[[失語症]]、[[痙攣]]などの重篤な[[領域別病名一覧#脳・脊髄・神経に関する病名の一覧|脳疾患]]を引き起こすこともあった<ref>林正高「フィリピンの日本住血吸虫症・脳症型、肝脾腫型の臨床と同症に対する挑戦」 山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.151-156</ref><ref>有泉信「脳合併症(脳症型日本住血吸虫病)」 山梨地方病撲滅協力会編 (1981) pp.199-207</ref><ref>林正高「急性および慢性日本住血吸虫症と脳機能障害との関係」 山梨地方病撲滅協力会編 (1981) pp.208-247</ref>。
[[甲斐国]](現:山梨県)の人々は、腹水が溜まり太鼓腹になったら最後、回復せず確実に死ぬことを、幼い頃から見たり聞いたりしていた。また、発症するのは貧しい農民ばかりで、[[富裕層]]には罹患・発症する者がほとんどなかった<ref name="Kenshi-iryoB">山梨県史通史編5-近現代1 (2005) pp.522-523</ref>ことから、多くの患者が医者に掛かることなく死亡したものと推察されている。地方病の感染メカニズムを知識として知ることのできる現代の視点から見れば、農民ばかりが罹患した理由も明らかである。しかし、近代医学知識のなかった時代の人々にとっては原因不明の奇病であり、[[寄生地主制|小作農民]]の[[職業病|生業病]]、甲府盆地に生まれた人間の宿命とまで言われていた。
やがて[[幕末]]の頃になると、甲府盆地の人々の間でこの奇病に因んだ[[ことわざ]]が生まれた。
*水腫脹満 茶碗のかけら
::この病に罹ると、割れた[[茶碗]]同様二度と元の状態に戻らず、役に立たない[[廃人]]になり世を去る<ref>泉 (1979) pp.15-17</ref>、という意味である。
*夏細りに寒痩せ、たまに太れば脹満
::普段の暮らしは貧しく痩せ細っているが、太るとすれば脹満に罹った時だけ<ref name="kenhaku" />、という意味である。
また、発症者の多発する地区がある程度偏っていたことから、流行地へ嫁ぐ[[娘]]の心情を嘆く[[俗謡]]のようなものが幕末[[文久]]年間の頃から歌われ始めた<ref name="#1"/>。
*[[庵点|〽]] 嫁にはいやよ野牛島(やごしま)は、能蔵池葭水(のうぞういけあしみず)飲むつらさよ({{Coord|35|40|6.4|N|138|28|47.2|E|region:JP-19|name=野牛島・能蔵池}})<ref group="†">野午島ではなく野牛島と書いて「やごしま」と読む[[難読地名]]で、現在の[[南アルプス市]](旧[[八田村 (山梨県)|八田村]]中央部)の地名。能蔵池とは現在も同地に現存する小さな池で、赤牛を貸し主とする[[椀貸伝説]]が伝わる池としても知られる。当時この病の原因が飲料水によるものとの風説があった。</ref>
*〽 竜地(りゅうじ)、団子(だんご)へ嫁に行くなら、棺桶を背負って行け({{Coord|35|41|43.2|N|138|29|54.7|E|region:JP-19|name=竜地・団子}})<ref group="†">現在の[[甲斐市]]の地名。甲斐市龍地。</ref>
*〽 中の割(なかのわり)に嫁へ行くなら、買ってやるぞや経帷子に棺桶({{Coord|35|41|9.6|N|138|26|32.5|E|region:JP-19|name=中の割}})<ref group="†">現在の[[韮崎市]]旭町および大草町付近。</ref>
このような悲しい[[口承|口碑]]や[[民謡]]が、かつての甲府盆地の有病地に残されている{{Sfn|小林 (1998)|pp=6-8}}<ref name="hayashi2000">林 (2000) p.70</ref><ref name="Yoshida">[https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902198133186901 J-GLOBAL 科学技術総合リンクセンター 日本史における寄生虫症-過去、現在そして未来][[京都府立医科大学]] 吉田幸雄</ref>。
寄生虫の存在すら知り得ない当時の人々にとって、この奇病の原因はもちろん、なぜ特定の地域にばかり発症者が多発するのか、全てが謎であった。
=== 宮沢村と大師村からの離村 ===
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|label6 =盛岩寺|label-pos6 =bottom|mark-size6 = 8|label-size6 = 13
|mark-coord7 = {{coord|35|37|19.7|N|138|33|52.7|E}}
|label7 =三神内科|label-pos7 =right|mark-size7 = 8|label-size7 = 13
|mark-coord8 = {{coord|35|38|25.2|N|138|31|57.2|E}}
|label8 =杉浦醫院|label-pos8 =bottom|mark-size8 = 8|label-size8 = 13
|mark-coord9 = {{coord|35|36|13.5|N|138|30|49.4|E}}
|label9 =臼井沼跡|label-pos9 =top|mark-size9 = 8|label-size9 = 13
|mark-coord10 = {{coord|35|39|43|N|138|34|6|E}}
|label10 =甲府|label-pos10 =bottom|mark-size10 = 12|label-size10 = 18
}}
[[1874年]](明治7年)11月30日、甲府盆地の南西端に程近い[[五明村 (山梨県)|宮沢村と大師村]](現:[[南アルプス市]]甲西工業団地付近、{{ウィキ座標|35|35|2.0|N|138|28|17.0|E|region:JP-19|地図|name=宮沢・大師村}})2村の[[戸長]]を兼ねていた西川藤三郎は、両村の計49戸の[[世帯主]]を招集し[[離村]]についての提案を行った<ref name="Kenshi-iryoA" />。同村付近は甲府盆地でも最も[[標高]]の低い[[湿地|低湿帯]]に位置しており、水腫脹満、すなわち地方病の蔓延地であった。当時この奇病の原因は解明されてはいなかったが、標高の高い高台の村々ではこの病気がほとんど発生していないことを農民たちは知っており、このままでは村は全滅してしまうと感じたため、農民たちは離村という苦渋の決断をした。
[[明治維新]]からまだ間もないこの頃は、居住地を捨てるなどということが許されないという[[封建制#日本の封建制(フューダリズム)|封建制度]]から抜け出せない時代であり、一村移転などという住民運動
日本国内において、地方病に限らず風土病を理由に村ごと移転したのは、
== 病因解明期 ==
原因不明の奇病であった地方病も、明治中期から大正初期にかけて
=== 原因解明へ向けた取り組み ===
==== 解明への端緒 ====
[[
また同時期の
{{Quotation|だから地方病は貧國弱兵病だ。こんな病氣が蔓延て來ると國が貧乏になって弱くなって、獨逸どころか支那と戦争も出來ない樣になるかも知れない。<br ==== 杉山なかの献体 ====
[[ファイル:Dr. Junsaku Yoshioka.JPG|right|thumb|190px|吉岡順作 (1864 - 1944)]]
[[ファイル:Monument of Sugiyama-Naka.JPG|right|thumb|解剖が行われた盛岩寺(甲府市向町)境内に建つ『杉山なか紀徳碑』。<br>解剖から15年後の明治45年6月上旬、当時の東八代郡同盟医師会が建立<ref name="Meguro Parasit Museum">{{PDFlink|[http://kiseichu.org/Documents/mpmnews157.pdf 目黒寄生虫館ニュース 第157号 日本住血吸虫の記念碑特集号 1984年9月]}} 2012年1月22日閲覧</ref>。<small>(2011年5月撮影)</small>]]
[[石和町|石和]](現:[[笛吹市]])在住の医師である[[吉岡順作]]は、この奇病に関心を持ち、患者を詳細に診察し、近代西洋医学的な究明を試みた最初期の医師である{{Sfn|小林 (1998)|p=35}}。この病気は発病初期に腹痛を伴う[[血便]]、[[黄疸]]があり、やがて肝硬変を起こし、最終的に腹水がたまって死に至る。これらの臨床症状から考えると、肝臓や脾臓に疾患の原因があることは明らかであった。しかし、[[酒]]を飲まない小児であっても発病するので、[[アルコール性肝疾患|アルコール性肝硬変]]とは明らかに異なっていた。
吉岡は患者の発生する地域分布図(地図)を作成したところ、[[笛吹川]]の[[支流]][[流路形状#支川|流域]]の水路に沿った形で罹患者が分布していることが分かった。その上、病気のある地区では、川遊びをする子供たちに対して
これらのことから吉岡は、この奇病と[[川|河川]]、あるいは
[[1897年]](明治30年)5月下旬、1人の末期状態の女性患者が[[献体]]を申し出た。甲府と石和の間にある水田地帯の[[西山梨郡]][[清田村 (山梨県)|清田村]](現:[[甲府市]]向町)在住の農婦、
なかは
{{Quote box
{{Quotation|死体解剖御願<br 明治三十年五月三十日<br
吉岡の献身的な治療に信頼を寄せていたなかは、なぜ[[山梨県|甲州]]の民ばかりこのようなむごい病に苦しまなければならないのかと病を恨みつつも、この病気の原因究明に役立ててほしいと、自ら死後の解剖を希望することを[[家族]]に告げる。
杉山なかは、解剖願いを提出した6日後の6月5日に亡くなり、遺言通り翌6月6日午後2時より、県病院
今日でいう篤志献体であるこの解剖は、地方病患者のという以前に、山梨県下では初の事例<ref name="kobayashi1998" />となる病理解剖であったため、甲府近隣から57名もの医師、開業医が参加した<ref name="seiganji" />。この様子は、翌々日の6月8日付[[山梨日日新聞]]の紙面において、東山梨東八代医師会会員総代吉岡順作本人による、長文の[[葬儀|弔辞]]とともに報じられている<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977)、p.197</ref><ref>山梨日日新聞社編 『山梨 歴史カレンダー』 p.169</ref>。
遺体から[[肝臓]]、[[胆管]]、[[脾臓]]、[[腸]]の一部が摘出され[[エタノール|アルコール漬け]]にされ<ref group="†">酒精(エチルアルコール)に浸けられ、山梨県立病院に保存された。当時、[[ホルマリン]]は未だになかった。小林 (1998) p.39</ref>、参加した医師たちは肥大した肝臓の表面に白い斑点が多数点在するのを確認した。通常の肝硬変と異なり肝臓の表面には白色を帯びた繊維様のものが付着し、肥大化した[[門脈]]には、多数の[[閉塞|結塞]]部位が認められた<ref name="minaiA" /><ref>小林 (1998) pp.39-41</ref>。この門脈の肥大化にこそ、この疾患の原因解明への手掛かりがあった。
盛岩寺の屋外解剖に参加した医師の中に、後年この奇病の原因解明に大きな役割を果たすこととなる、若き日の[[三神三朗]]医師がいた<ref name="koishikawa">礫川 (2006) p.15</ref>。
{{multiple image
|align = left
|image1 = Naka Sugiyama, Give body for medical research desire written.JPG
|width1 = 260
|caption1 = 死体解剖御願(複筆)。実物が現存するのか不明で、この写しもいつ誰が筆写したものか分からない<ref name="#2">[[国立科学博物館]]企画展『日本はこうして日本住血吸虫症を克服した』展示の解説による。2013年5月15日撮影。一部展示品を除き、静止画に限り撮影は自由。</ref>。
|image2 = Naka Sugiyama message of condolence.JPG
|width2 = 350
|caption2 = 吉岡順作による弔辞。<br>明治30年(1897年)6月8日付山梨日日新聞。
|image3 = Naka Sugiyama, the unveiling of the monument, Jun.1912.JPG
|width3 = 250
|caption3 = 「杉山なか紀徳碑」除幕式。明治45年(1912年)6月上旬撮影。<small>石碑から向かって左側に、なかの長女ぎん、(1人おいて)三女やす、四女はま、ぎんの娘きぬ。三女やすの右上の口髭をたくわえた男性が吉岡順作</small><ref name="seiganji">山梨地方病撲滅協力会編 (2003)、p.40</ref>。
}}
{{-}}
==== 解明に向けた機運 ====
[[
三神は県病院の[[病理学|病理]]技師から
[[
複数の患者から見つかった虫卵により寄生虫病である可能性が高くなり、[[1902年]](明治35年)4月15日、山梨県医学会は県内外の研究者を県病院に招いて、『山梨県に於ける一種の肝脾肥大の原因に就て』と題した討論会を開いた<ref name="toronkai">小林
当時の日本では寄生虫に関する研究は始まったばかりであったが、佐賀県下の筑後川流域で同様の疾患を研究していた[[長崎医科大学 (旧制)|長崎医科大学]]教授の[[栗本東明]]ら、日本各地より寄生虫疾患に取り組む病理学研究者が参加した。三神は罹患者の便から発見した新しい虫卵の発表を行い、この虫卵を産む母虫こそ地方病の原因ではないかと主張した<ref name="Kenshi-iryoA" />。しかし、肝臓組織内部で見つかった虫卵と、消化器官を通じて排泄される便中にある虫卵との同一性を指摘され、両者を関連付ける直接的な証拠を持っていなかったため返答に窮した。
討論会では杉山なかの解剖以降に行われた数例の解剖所見も発表され、肝臓組織内に問題の虫卵が[[樹状]]に並んでいたことから、虫卵の母虫は恐らく肝臓内で[[卵|産卵]]したのであろうという意見や、従来から知られている[[肝吸虫|肝臓ジストマ]]ではないかという意見もあった。さらに、特定の地域にのみ流行する特性から寄生虫病ではなく、狭い地域で繰り返された[[結婚|婚姻]]による[[遺伝子疾患]]の類ではないかという
この討論会の参加者の中に、後に三神と共にこの寄生虫病の病原である
=== 日本住血吸虫の発見 ===
==== 桂田富士郎と三神三朗 ====
[[ファイル:Fujirō Katsurada.jpg|right|thumb|210px|桂田富士郎 (1867 - 1946)]]
桂田富士郎は[[加賀国]][[大聖寺藩]](現:
[[1904年]](明治37年)春、前述した山梨での討論会で三神と意気投合した桂田は
[[ファイル:Mikami-internal medicine in Kofu-city.JPG|left|thumb|210px|日本住血吸虫が発見された甲府市の三神内科。旧医院入口の[[土蔵]]。<small>(2010年9月撮影)</small>]]
桂田は正体不明のこの虫卵に蓋(ふた、卵蓋)がないことに着目した。ドイツ留学で培った鑑識を得ていた桂田は、肝臓ジストマや肺ジストマなど多くの吸虫類の虫卵には蓋があるのに対して、蓋のない吸虫類は[[アフリカ]]、[[中近東]]に広く分布する[[ビルハルツ住血吸虫]]ぐらいしか知られておらず、蓋のないこの虫卵はビルハルツ住血吸虫卵と形態的に似ていると気付く。
ただしこの当時、ビルハルツ住血吸虫は、患者の[[血尿]]中から虫卵が見つかったことから成虫が[[膀胱]]周囲の静脈に寄生することは確認されていたものの、原因となる感染経路や[[生活環]]などは全く解明されておらず、ヨーロッパの寄生虫学者らにより病因研究が進められていた解明の過渡期であった<ref>ビルハルツ住血吸虫は[[1851年]]にドイツ人医師のビルハルツによって発見されたが、その中間宿主を含めた感染経路は長期間にわたり不明であった。完全に解明されたのは、日本で日本住血吸虫の中間宿主ミヤイリガイが発見された2年後の[[1915年]]のことであった。林 (2000) pp.56-59</ref>。
桂田はまた、虫卵に蓋のある肝臓ジストマ等の吸虫類は[[雄|オス]][[雌|メス]]の区分がなく自己生殖する[[雌雄同体]]であるのに対し、蓋のないビルハルツ住血吸虫にはオスメスの区分があることから、甲府で確認されたこの正体不明の寄生虫卵を産む親虫は、オスメスの区分がある雌雄異体であると予想した<ref name="Schistosome eggs" />。
これらのことに加え、桂田と三神は、この疾患の患者に[[瀉下薬|下剤]]を使用すると虫卵が多く見つかること、また下剤を使っても卵のみで寄生虫本体が排出されないことから、この寄生虫が胆管や腸などの[[消化器|消化器官]]に寄生する従来のタイプではなく、消化器官に関係する他の臓器や器官、たとえば血管内部に寄生するタイプではないかと考え、腸管と肝臓を結ぶ血管である肝門脈を疑った。もし罹患者の肝門脈の中からこの卵を産む新種の寄生虫本体を見つけることができれば、解決への大きな前進になると考えた<ref name="Schistosome eggs" />。
==== ネコから見つかった新種の寄生虫 ====
[[ファイル:Papers written in German of Schistosoma japonicum discovery by Dr. Fujiro Katsurada. 1904.JPG|thumb|235px|桂田富士郎による日本住血吸虫発見のドイツ語論文。1904年(明治37年)]]
この奇病、日本住血吸虫症はヒトだけではなく他の哺乳類にも発症する。そのため甲府盆地の各所では、農耕で使う[[ウシ]]などの[[家畜]]
このことから桂田と三神は、腹部が腫れた同疾患の疑いが濃い、「姫」と名付けられていた三神家
[[ファイル:Schistosoma japonicum parasites and eggs sketches by Katsurada Dr. 1904.jpg|left|thumb|255px|桂田富士郎による日本住血吸虫・虫卵のスケッチ。<small>1904年 岡山医学会雑誌173号<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (2003年)p.41</ref>。</small><br>(上)三神三朗の飼い猫「姫」の肝門脈内から見つかった虫体断片のスケッチ。<br>(左下)[[国母村]](現:甲府市国母)の18歳男性の糞便中に見つかった虫卵のスケッチ。<br>(右下)県病院から提供された「杉山なか」の肝臓標本から見つかった虫卵のスケッチ。]]
[[ファイル:Schistosoma.svg|right|thumb|180px|雌雄抱合する日本住血吸虫の[[スケッチ]]]]
1か月半後の同年5月26日、ようやく時間のできた桂田は、アルコール液に保存しておいたネコの肝門脈内から約1センチほどの新種の寄生虫(死骸)を見つけた。しかし欠損部分があるなど不完全であり、何よりも生きた虫体を確認することだと、桂田は生体での確認を行うための検証に必要な器具を持参し、7月下旬に再度、甲府の三神を訪ねた<ref>山梨日日新聞社編 『山梨 歴史カレンダー』 p.220</ref>。
[[ファイル:Discovered monument of Schistosoma japonicum.JPG|right|thumb|235px|三神脳外科内科医院の庭にある日本住血吸虫発見の記念碑。{{Squote|w=88%|bw=1px|明治三十七年七月三十日 此の地に於て始めて日本住血吸虫が発見された。三神三朗}}<br>三神三朗の息子である三神寿(ひさし)により[[1955年]](昭和30年)に建立された<ref name="Meguro Parasit Museum"/>。<br><small>(2011年10月撮影)</small>]]
桂田から再解剖を行う旨の連絡を受けていた三神は、前回の解剖時と同様のネコを用意しており、両名は門脈に狙いを定め解剖を行った。予想は的中し、ネコの肝門脈内から、オス24匹、メス8匹、そのうち[[雌雄抱合]]しているもの5対の、合計32体の生きた虫体を発見した<ref name="bokumetsu1981" />{{Sfn|小林 (1998)|pp=57-69}}<ref>薬袋勝「山梨県の住血吸虫の防圧」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005) p.32</ref>。[[1904年]](明治37年)7月30日のことで<ref group="†">三神脳外科内科医院の中庭に、『明治37年7月30日此の地に於て初めて日本住血吸虫が発見された 三神三朗』と書かれた銅版がはめ込まれた石碑が建立されている。薬袋勝「山梨県の住血吸虫の防圧」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、p.32</ref><ref group="†">官報6337号に記載された桂田の報告によれば、2回目の猫の解剖日時は7月25日となっているが、ここでは発見地にある石碑碑文に記載された7月30日を発見日とした。</ref>、後に桂田によって、日本住血吸虫([[学名]]:''Schistosoma japonicum'')と名付けられる、この奇病の病原寄生虫発見の瞬間である{{Sfn|林 (2000)|pp=75-76}}<ref>[http://medica.sanyonews.jp/article/1041/ 第6回 岡山医専教授 桂田富士郎 日本住血吸虫発見 世界注目の奇病解明 山陽新聞社 岡山医療ガイド] 2016年5月4日閲覧</ref>。
桂田は慎重を期して、解剖したネコの肝臓と腸壁にあった虫卵、さらに新寄生虫の雌の[[卵巣]]内部で作られる虫卵が、杉山なか等の病理標本にある卵と全く同じ虫卵であることを確認し、この新寄生虫と地方病との因果関係を立証した
なお、翌年の[[1905年]]に[[検疫官]]として[[シンガポール]]に赴任中であったイギリス人医師<ref group="†">カットー医師をドイツ人とする文献も存在するが、当時のシンガポールは
日本住血吸虫は、腸から肝臓へ血液を送る肝門脈の中で[[宿主]]の[[赤血球]]を栄養源とし、雄が雌を抱きかかえた状態で寄生し、雌は門脈の中で産卵する。血管中(血液の中)に産まれたはずの卵が
このように日本住血吸虫は、腸内や胆管などの消化器官に寄生して産卵する従来から知られていた他の寄生虫とは全く異なる寄生様式を持っていることが、その後の検証により解明された<ref name="kansensho" />。
虫体の発見によってこの奇病が寄生虫病であると確定はしたが、[[成虫]]の体長が1センチから2センチほどある日本住血吸虫のヒトへの感染経路、しかも消化器系ではなく血管内に寄生する生態メカニズム([[生活史 (生物)|生活史]])の解明が次の課題であった。
=== 感染経路の解明と中間宿主の特定 ===
==== 泥かぶれ ====
[[
寄生虫病であることが確定した後、ヒトへの[[感染経路]]の解明が進められた。感染経路には2つの[[仮説]]があり、
{{Quotation|昔から「病は口より入る」と言ふ諺があるが地方病では「病は皮膚より入る」と言ふのが正しい。決して口からは入らぬ。<br [[ファイル:Dr. Iwao Tsuchiya.JPG|left|thumb|160px|土屋岩保 (1874 - 1928)]] しかし、感染源が飲み水だとしても [[東八代郡]][[祝村]](現:[[甲州市]]勝沼町)出身で[[東京大学|東京帝国大学]]医学部卒の内科医局員であった[[土屋岩保]](つちや いわお)は、[[1905年]](明治38年)7月に甲府盆地各所で哺乳動物の調査を行った。
土屋は解剖した[[イヌ]]やネコの門脈内にのみ多数の日本住血吸虫の成虫を見出し、門脈以外の血管には見られなかったことから、「もし経皮感染するのであれば門脈以外の血管にもいるはずであり、門脈のみに日本住血吸虫がいるのは、飲料水や食物を通じて原因となる寄生虫卵や幼虫が口から入り、[[胃]]に入る前の[[食道]]や[[咽頭]]などの内壁から進入して門脈に至るからではないか」と、経口感染説を主張した。
土屋の意見には多くの医学者、研究者が賛同した。[[黄熱病]]や[[マラリア]]など[[カ|蚊]]に刺されることによって発病する感染症、寄生虫病を除けば、当時の[[寄生虫学]]において知られていた感染経路は、十二指腸虫などのようにほとんどが飲食物を介して経口感染するものばかりであった。
この寄生虫学会内の既成概念のようなものも、土屋の主張を支持することに働いた{{Sfn|小林 (1998)|pp=72-73}}。
==== 感染経路の研究 ====
[[
確証はないものの経口感染説が広がり始め、甲府盆地の有病地では川や用水の水をそのまま飲むことを固く禁じ、飲料水の[[殺菌#高温処理|煮沸]]が義務付けられた。しかしそれにもかかわらず新たな感染者が次々に発生する状況に変化がないことから、経口感染説は間違っているのではないかとの疑問が出始めた{{Sfn|小林 (1998)|p=74}}。有病地の住民をはじめ行政関係者からも、飲み水からなのか、皮膚からなのか、はっきりさせてほしいとの声が大きくなり、2人の研究者による[[動物実験]]が[[1909年]](明治42年)6月に行われた。
日本住血吸虫の発見者である桂田富士郎は、岡山医専の長谷川恒治と共に、岡山県[[小田郡]]大江村西代地区(現:岡山県[[井原市]]高屋)の有病地水田において、イヌとネコを用いた実験を行い、[[京都大学|京都帝国大学]]医学部教授の
< {|class="wikitable"
|+藤浪鑑によるウシを利用した比較感染実験<ref name="Infection experiment">小林 (1998) pp.76-77より引用一部改変。</ref>
|-
! !!経口感染<br />予防!!経口感染<br />予防せず
|-
!経皮感染<br />予防
|valign="top" style="width:43%"|
{|class="table"
|+丙グループ 2頭
|-
|ウシ小屋に隔離して小屋の外には出さない。飲食物は全て煮沸したものを与える。
|}
|valign="top" style="width:43%"|
{|class="table"
|+乙グループ 7頭
|-
|ウシの全身を防水用具で覆い、水と接触しないようにして、有病地の水田や小川への出入りを意図的に繰り返す。そこで自由に草を食べさせたり、水を飲ませたりする。
|}
|-
!経皮感染<br />予防せず
|valign="top"|
{|class="table"
|+甲グループ 6頭
|-
|特製の口袋でウシの口を覆い、飲食できないようにして、有病地の小川や水田への出入りを意図的に繰り返す。飲食物は全て煮沸したものを与える。
|}
|valign="top"|
{|class="table"
|+丁グループ 2頭
|-
|口にも全身にも、何も施さない。有病地での飲食も行動も完全に自由。
|}
|-
|colspan="3"|実験に使用したウシは非流行地の[[広島市]]から[[家畜車]]によって運ばれた<ref>小林 (1998) p.76 [[山陽本線]]の[[貨物列車]]に連結された[[家畜車]]によって運ばれ、[[福山駅]]に到着した20頭のうち、1頭はすでに死亡、2頭は衰弱していたことから、17頭が使用された。</ref>。<br />実験期間を1か月とし、実験終了の時点で[[牛糞]]検査を行い、全て殺して解剖し門脈に日本住血吸虫がいるかを検証する。
|}
</div>
[[ファイル:Experiment of infection route of schistosomiasis japonica. June 20, 1909.JPG|right|thumb|260px|深安郡[[中津原村]]字下組(現:広島県福山市御幸町中津原)の牛舎前で撮影された実験の牛。中央の牛(乙グループ)は四肢に防水処置が施され、左側の牛(甲グループ)の口元には口袋が施されている。1909年(明治42年)6月20日撮影(中村八太郎所蔵)<ref name="#2"/>。]]
藤浪は土屋と同じく経口感染説の支持派であり、今回の実験では乙、丁グループに感染が起こるはずで、経皮感染を想定した甲グループに感染が起きるはずがないと絶対的な自信を持っていた。ところが実験の結果は藤浪の予想に反したものだった。経皮感染を予防した丙、乙グループは全く感染しておらず、経口感染を予防した甲グループが全頭感染していたのである(どちらの感染も許した丁グループは、当然であるが感染していた)。同様に桂田の行った動物実験でも、経皮感染を示す結果であった<ref name="Infection experiment results">小林 (1998) pp.74-80</ref><ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.16</ref>。
また、京都帝国大学[[皮膚科学|皮膚科]]の[[松浦有志太郎]]により、片山地方の水田から採取した水に自分の腕を浸すという自らの体を使った決死の感染実験が行われた。松浦も経口感染を信じていた研究者の一人であり、かつ皮膚科としての見識から経皮感染説には疑問を持っていた{{Sfn|小林 (1998)|pp=75-76}}。松浦は有病地滞在中、飲食物は全て煮沸したものしか口にせず、皮膚にかぶれが起きるのか慎重に経過を見守ったが、2回に及ぶ自己感染実験では感染は成立しなかった。ところが3度目の自己感染実験で松浦はついに感染してしまう。
松浦は藤浪らの動物実験とほぼ同時期の1909年6月下旬、皮膚にかぶれが起こると農民から聞いた水田で、右足には何も付けず、左足にゴム製の[[ゲートル]]を着用した状態で有病地水田を数時間歩くと、何も付けなかった右足側にのみ、足の甲から水に浸かっていた[[膝]]にかけて、かゆみを伴う赤い斑点が発症した。翌日にかぶれは引いたが、実験から約1か月後、[[京都]]の研究室へ戻っていた松浦は体調の異変を感じ、まさかと思いつつ自ら検便を行うと自分の血便の中に日本住血吸虫の虫卵を確認し、その後しばらくの間、虫卵の排出が続いた。幸い10月に入ると松浦の体調は落ち着き、それ以上の病状悪化は進まなかったが、結果的に経皮感染の検証を裏付けるものであった<ref name="Infection experiment results" />。
{|class="wikitable" style="text-align:center"
|+藤浪鑑による比較感染実験の結果<ref name="Infection experiment" />
|-
! !!経口感染予防!!経口感染予防せず
|-
!経皮感染予防
| bgcolor="palegreen" |丙グループ 2頭 感染なし
| bgcolor="palegreen" |乙グループ 7頭 感染なし
|-
!経皮感染予防せず
| bgcolor="hotpink" |甲グループ 6頭 感染
| bgcolor="hotpink" |丁グループ 2頭 感染
|}
[[ファイル:Schistosomiasis_itch.jpeg|thumb|腕に生じたセルカリア皮膚炎。<br><small>画像原典、[[アメリカ疾病予防管理センター]]<br>パブリック・イメージ・ライブラリー1986年。</small>]]
3人の実験結果を知った他の医師や研究者はにわかには信じられず半信半疑であった。寄生虫が皮膚を介して感染するなど、当時の医学界の常識では考えられないことであった<ref>薬袋勝「山梨県の住血吸虫の防圧」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005) pp.32-33</ref>。経口感染を主張した土屋岩保も自説を曲げられず、桂田や藤浪と同様に65頭ものイヌをグループ分けした追実験を、[[1910年]](明治43年)8月、[[西山梨郡]][[甲運村]](現:甲府市横根町)を流れる[[濁川 (山梨県)#支流|十郎川]]({{Coord|35|39|26.5|N|138|36|46.8|E|region:JP-19|name=十郎川実験地}})で行った<ref group="†">十郎川の通称「深マチ」という場所(現:[[山梨英和大学]]南方、[[国道140号]]横根跨線橋付近)で、約100坪ほどの水面を利用して動物実験が行われた様子が横根町在住の秋山丈吉により1977年に証言されている。山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.167</ref>。
農民たちが泥かぶれと呼んでいた皮膚のかぶれは、日本住血吸虫の幼生(次節で解説する[[セルカリア]])が、[[終宿主]]である哺乳類の皮膚を食い破って侵入する際に起きる[[炎症]]であり、今日ではセルカリア皮膚炎 (''Cercarial dermatitis'')、[[疾病及び関連保健問題の国際統計分類|ICD-10]] (B65.3)<ref name="ICD-10" />と呼ばれているものである。
ヒトへの感染ルートが飲食物経由ではなく、水を介した皮膚経由であることが判明したことは、その後の感染予防対策の困難さを予見させるものであった。経口感染であるなら飲食物の煮沸によってある程度は感染予防が可能であるが、肉眼で見る限り汚濁もなく清潔に見える、小川や水田([[水系]]全般)などの[[水|自然水]]を介した経皮感染となれば簡単な話ではない。健康な皮膚であっても感染罹患する日本住血吸虫症の予防対策は困難なものであり、後述するように病気の撲滅には長い年月を要することになった{{Sfn|小林 (1998)|pp=80-81}}。
==== 中間宿主の研究 ====
[[ファイル:Correlative-and-Dynamic-Imaging-of-the-Hatching-Biology-of--Schistosoma-japonicum--from-Eggs-pntd.0000334.s001.ogv|thumb|left|日本住血吸虫卵からミラシジウムが活性化し、孵化する瞬間を捉えた動画。(1分59秒)]]
[[ファイル:Trematode lifecycle stages.png|thumb|320px|日本住血吸虫の生活史における各形態と大きさ。<br>左から、<br>卵 (70-100[[マイクロメートル|µm]] × 50-100µm)<br>ミラシジウム (0.1[[ミリメートル|mm]] × 0.04mm)<br>スポロシスト(長さ0.5-0.6mm、幅0.17-0.2mm)<br>セルカリア(長さ0.16mm-幅0.095mm)<br>成虫(メス16mm-20mm × 0.3mm、オス9.5mm-19.5mm × 0.5mm)<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.1-4</ref>]]
[[ファイル:Schistosoma Japonicum cercaria.jpg|thumb|日本住血吸虫のセルカリア。ミヤイリガイの体内でこの段階にまで成長することで、人間などに感染できるようになる。]]
感染は皮膚からであることが明らかになった。しかし、土屋は別の新たな疑問に悩んでいた。それは人間や動物など終宿主の糞便から出た日本住血吸虫の卵は[[孵化]]した後、水中でどのように発育して幼虫となって人間や動物の皮膚に再び潜り込んで行くのかという謎であった。
土屋は
考え抜いた土屋は、「ミラシジウムは自然界にいる動植物の何らかを[[中間宿主]]としている。中間宿主の体内で人間の体へ感染するのに適した体へ成長するのだ」との結論に達する{{Sfn|小林 (1998)|pp=85-88}}。
山梨県医師会会長喜多島豊三郎により
地方病研究部の専任技師となった宮川は早速新たな検証実験に着手する。実験の目的は哺乳動物に感染した直後の日本住血吸虫の幼虫([[幼生]])の形態が
この検証により、便中の虫卵から孵化した段階の幼生(ミラシジウム)と
==== ミヤイリガイ(宮入貝)の発見 ====
[[
中間宿主探しが始まった。
杉浦は、地方病発症地の用水路に広く分布する巻貝[[カワニナ]]が中間宿主ではないかと考えた。杉山なかの解剖に携わった吉岡順作もカワニナが中間宿主であろうと考え、土屋岩保に実験協力を仰いだ。両名はカワニナを入れた[[水槽]]の中でミラシジウムを孵化させるなどの実験を繰り返したが、立証には至らなかった<ref>泉
[[ファイル:Oncomelania hupensis nosophora.png|thumb|left|ミヤイリガイ(カタヤマガイ)<br>''Oncomelania hupensis nosophora''<br>成貝は殻長7-8mm、殻径2-3mm。螺層は7-9層で、螺頂の1-2層は欠損していることが多い<ref>岩永襄「ミヤイリガイの生物学」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、p.172</ref>。]]
日本住血吸虫の中間宿主が立証確定されたのは翌年の[[1913年]](大正2年)夏のことである。[[九州大学|九州帝国大学]]の[[宮入慶之助]]と助手の鈴木稔が、佐賀県[[三養基郡]][[基里村]]酒井地区(現:[[鳥栖市]]酒井東町<ref group="†">発見した水路の所在地を、酒井地区の北隣に位置する現鳥栖市曽根崎町とする資料(NPO法人宮入慶之助記念館しおり)もある。</ref>)で発見した、体長8[[ミリ]]ほどの淡水産[[巻貝]]での立証であった<ref name="miyairi">田中寛「宮入慶之助と中間宿主カイ発見」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005) pp.15-17</ref>。
宮入と鈴木は酒井地区の住民から水に浸かると確実に感染することから、「有毒[[溝渠]]」と呼ばれ恐れられていた溝渠([[用水路]])で小さな巻貝を見つけ、同地の民家の1室を借り受け約1か月間にわたり泊まりつつ実証を重ねた。そして、虫卵から孵化させた[[ミラシジウム]]が巻貝の体内に侵入し、母[[スポロシスト]]から娘スポロシストへと巻貝の体内で[[変態]]、[[分裂 (生物学)|分裂]]を続け、最終的に[[セルカリア]]となって巻貝の体内から水中に出てくることを確認し、経過記録とともに論文にまとめ上げた<ref>安羅岡一男 「第2節 発育・発育史、V終宿主体内発育」 山梨地方病撲滅協力会編 (1981) pp.8-9</ref>。
この結果は同年9月、当時の週刊医学雑誌である東京医事新誌(第1836号)に『日本住血吸虫の発育に関する追加』という論文名で報告され<ref>礫川 (2006) p.19</ref><ref name="miyairi" />、同疾患に取り組む当時の医師や研究者たちを驚愕させた{{Sfn|小林 (1998)|pp=94-1052}}。
ここで問題だったのは、種の特定であった。この貝の正体が分からなければ、日本全国に分布するものなのか、あるいは日本住血吸虫症の発症地だけに生息するものなのかが分からない。複数の研究者、学者が論文に記載されたモノクロ写真を見てカワニナを疑い、宮入自身もカワニナの亜種ではないかと思いつつ、九州帝国大学理学部に[[同定]]を依頼した。その結果、カワニナであれば[[螺層]](巻貝の螺旋の数)は4つでなければならないのに、問題の貝は螺層が7から9つであることから、各国の論文はもとより[[大英博物館]]が発行する世界の貝の最新分類表にも記載されていない、新種の貝であることが分かった{{Sfn|小林 (1998)|pp=104-105}}。
この貝は Robson によって新属新種として ''Katayama nosophra'' と命名された。しかしそれ以前に記載されていた中国産の巻貝 ''Oncomelania hupensis''が同じ属のものであることが後に判明し、''Oncomelania nosophora'' に変更された<ref>田中寛「宮入慶之助と中間宿主カイ発見」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005) p.16</ref>。現在では ''[[オンコメラニア属|O. hupensis]]'' の一亜種 ''O. hupensis nosophora'' と見なされることもある<ref>Davis G. M. (1979). "The origin and evolution of the gastropod family Pomatiopsidae, with emphasis on the Mekong river Triculinae". ''Academy of natural Sciences of Philadelphia'', Monograph 20: 1-120. ISBN 978-1-4223-1926-0. [https://books.google.co.jp/books?id=SfVvkEBzj8cC&dq=Prososthenia&hl=cs&source=gbs_navlinks_s&redir_esc=y at Google Books].</ref><ref>{{Cite journal|和書
|author = 塚本増久、中島康雄、荘和憲
|year = 1988
|month = 12
|title = 住血吸虫症媒介貝の酵素泳動像比較
|journal = 産業医科大学雑誌
|volume = 10
|issue = 4
|pages = 381-390
|publisher = 産業医科大学学会
|naid = 110001260018
}}</ref><ref>{{Cite journal|和書
|author = 岩永襄、辻守康、菅野雅元
|year = 2001
|month = 4
|title = ''Oncomelania'' 体内に於ける日本住血吸虫スポロシストの発育 : (3) 日本産日本住血吸虫成熟スポロシストの ''Oncomelania hupensis nosophora'' 及び ''O. h. chiui'' 体内に於ける発育
|journal = 衞生動物
|volume = 52
|issue = (Supplement)
|page = 82
|publisher = 日本衛生動物学会
|naid = 110003822058
}}</ref>。
[[ファイル:Schistosomiasis Life Cycle ja.png|thumb|390px|住血吸虫の生活環。孵化したばかりの幼生(ミラシジウム)には人間などへの感染能力がなく、巻貝などの「中間宿主」の体内でセルカリアへ成長する必要がある。地方病の撲滅には、この中間宿主である巻貝「ミヤイリガイ」を駆除する方法が採られた。]]
日本における[[和名]]は、[[備後国]](現:広島県東部)の[[漢方医]]である藤井好直(ふじい こうちょく)が江戸時代後期の[[1847年]]([[弘化]]4年)に当疾患の症状を書き記した『片山記』{{Sfn|小林 (1998)|pp=9-17}}に敬意を表して、カタヤマガイと呼んではどうかと発見者である宮入は提案した{{Sfn|小林 (1998)|p=105}}。
また、翌年調査のため山梨県を訪れた宮入により、佐賀で発見されたものと同じ巻貝が甲府盆地の有病地域でも多数確認され<ref>山梨日日新聞社編 『山梨の20世紀』「1市45村で宮入貝採取」 大正6年4月3日付 同新聞紙面、「宮入博士が現地視察」大正6年4月15付 同新聞紙面 2000年8月10日第1刷発行 p.34</ref>、山梨の地方病関係者は宮入博士の功績を称えて、この貝を[[ミヤイリガイ]](宮入貝)と呼ぶようになり<ref group="†">ミヤイリガイの学名は、''Katayama''(後に''Oncomelania'')''nosophora''。[http://www.jpnrdb.com/search.php?mode=map&q=110603060230416 "カタヤマガイ(別名ミヤイリガイ)"]日本のレッドデータ検索システム 2014年4月13日閲覧</ref><ref name="Kenshi-iryoC" /><ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.19、p.59</ref>、カタヤマガイ・ミヤイリガイの2つの和名・通称が用いられるようになった。特に山梨県ではミヤイリガイの呼称が広く用いられるようになり、今日に至るまで使用され続けている。また、岡山県高屋川流域の有病地ではナナマキガイという方言で呼ばれていた<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.okayama.jp/seikatsu/sizen/reddatabook/pdf/a303.pdf 岡山県レッドデータブック]}}</ref>。
中間宿主がミヤイリガイであると特定されたことの意義はきわめて大きかった。日本住血吸虫が成長過程において、ミヤイリガイ以外には寄生(中間宿主)できないのなら、もし仮にミヤイリガイを[[絶滅]]させることができれば日本住血吸虫の生活環を絶つことができるため、理論上この奇病の新たな発生もコントロールできるはずである。逆に考えれば、ミヤイリガイが生息しない地域には本疾患は存在しないことになる。長い間謎であったこの奇病が特定の地域にのみ流行する理由も同時に明らかになった。
またこの発見は、日本国外の寄生虫学者にも多大な影響を与えた。2年後の[[1915年]](大正4年)に[[ビルハルツ住血吸虫]]の中間宿主が[[モノアラガイ]]の一種であることが[[エジプト]]で証明され、さらに同年には[[マンソン住血吸虫]]の中間宿主が[[ヒラマキガイ科]]の巻貝であることが判明するなど、ミヤイリガイの発見は、ヒトに感染する吸虫類の中間宿主の多くが淡水産巻貝類を中心とする[[軟体動物]]であるという、現代の寄生虫学の礎となるものであり、世界の住血吸虫研究にとって大きな意味を持っていた<ref>宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005) pp.19-21</ref>。
== 病気撲滅期 ==
ミヤイリガイの発見によって、長らく人々を悩ませていた地方病の原因、メカニズムは全て解明され、地方病撲滅への活動が始まった。比較的短期間に解明された病因に対し、病気の撲滅には非常に長い期間を要した。研究者、地域住民をはじめとする人々が一丸となって、
=== 治療薬と感染診断法の開発 ===
==== 困難な治療 ====
[[
病原体(日本住血吸虫)の発見と感染経路の解明、そして中間宿主(ミヤイリガイ)の確定は、地方病の
研究者たちは、血管内部の寄生虫を駆除するための
三神による300人以上の患者を対象にした[[臨床試験]]<ref>山梨県史通史編5-近現代
約半世紀後の[[1970年代]]に[[ドイツ]]の製薬メーカー[[バイエル (企業)|バイエル]]が ==== 診断精度向上の努力 ====
[[
[[ファイル:Schistosoma japonicum endemic area map in 1904 Kofu Basin.JPG|left|thumb|300px|土屋岩保らにより1904年(明治37年)に作成された甲府盆地の有病地地図。]]
経皮感染によって体内に侵入したセルカリアは、成虫(日本住血吸虫)に成長するまでは卵を産むことはなく、罹患者に[[自覚症状]]がない場合も多い。よって大部分の患者は血便や腹水がたまるなど症状が悪化してから医療機関へ出向くことが多かった。早い段階で発見できなければ治療はより難しくなる。新薬であるスチブナールも、理想をいえば卵を産めない性成熟する前の段階で使用してこそ効果が大きいのである。それが難しくても、できるだけ虫卵の蓄積が少ないうちに治療を開始することが肝要であり、感染の早期発見、すなわち早期診断が重要であった。当初、地方病の感染検査も他の寄生虫病と同様、糞便検査によって診断が行われていたが、日本住血吸虫の寄生場所は血管である門脈内であり、腸管近くへ現れる頻度が極端に少なかったことから、少量の糞便を直接ガラス板に塗り、顕微鏡で観察して虫卵の有無を判定する従来からの[[直接塗抹法]]では検出感度が低く、感染を見逃してしまうことも多かった<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.90-93</ref>。
[[ファイル:S japonicum egg BAM1.jpg|right|thumb|230px|顕微鏡で見た日本住血吸虫の卵]]
山梨県の地方病研究所では[[第二次世界大戦|第二次大戦]]後、後述する[[アメリカ軍]]の研究部隊が提唱し共同開発した[[皮内反応]](寄生虫本体から作った[[抗原]]を用いた検査法)による検査法を導入し、各種の集卵法やミラシジウム孵化法([[ツベルクリン]]反応に代表される[[抗原抗体反応]]を用いた診断法)が研究され、MIFC(merthiolate iodine formaldehyde concentration = [[遠心力|遠心]][[沈殿]]法)による検査法を確立した<ref>久津見晴彦、薬袋勝、梶原徳昭 「日本住血吸虫症の検査法に関する研究-2-MIFC虫卵検査法の虫卵回収率」 『北海道医学雑誌1979年7月号』北海道医学会 1979年7月 pp.347-353 {{ISSN|0367-6102}}</ref>。これにより虫卵検出率は格段に改善された。甲府盆地で行われた住民糞便検査において、直接塗抹法で調べた時に0.1%であったのが、MIFC法では2.7%と検出精度が向上した<ref>飯島利彦、伊藤洋一、中山茂、石崎達 「日本住血吸虫病の研究 (1) 繰り返し行ったMIFC集卵法による日本住血吸虫卵陽性率の統計的解析」 『寄生虫誌11』 1962年、pp.483-487</ref>。また、AMSIII(硫酸ソーダ・塩酸・トライトン・エーテル法)も検出感度が高いことが分かり、あらかじめ被検集団に対して皮内反応を行うことによって<ref>太田秀浄、土屋庄、渡辺照代 「山梨県有病地の日本住血吸虫皮内反応実施成績」 『山梨県衛研報4』 1960年、pp.41-50</ref>検便検査対象者の[[スクリーニング (医学)|スクリーニング]]が可能となった。こうして寄生虫体成分を抗原とする皮内反応という画期的な検査法による[[集団検診]]が行われ<ref>石崎達、飯島利彦、伊藤洋一 「日本住血吸虫病の診断法の研究 (2) 日本住血吸虫抗原皮内反応の判定基準と診断価値」 『寄生虫誌13』 1964年、pp.387-396</ref>、地方病感染者の早期発見、早期治療への福音となった<ref>薬袋勝「山梨県の住血吸虫の防圧」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005) pp.34-36</ref>。
==== 罹患者数の推移 ====
[[ファイル:By Yamanashi Prefecture Medical Association in 1911, Schistosoma japonicum symptoms investigation report.JPG|left|thumb|275px|1911年(明治44年)に行われた調査報告書の一部。現・笛吹市石和町の地名が確認できる。]]
1911年(明治44年)の甲府盆地における郡部別日本住血吸虫症検診成績表を下記に示すが、患者数(総合計)と肝臓、脾臓肥大・腹水患者の人員合計数が一致しないのは、肝臓、脾臓肥大患者中に日本住血吸虫症とは確実に診断できないものが含まれているためである<ref name="minaiC">薬袋勝「山梨県の住血吸虫の防圧」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005) p.33</ref><ref name="kanjasuu">山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.51、pp.104-106</ref>。
{|class="wikitable" style="width:62em;text-align:right;font-size:77%"
|+style="font-size:115%"|明治44年(1911年)の甲府盆地における、郡部別日本住血吸虫症検診成績表<span style="font-weight:normal"><ref group="†">山梨地方病撲滅協力会編 『地方病とのたたかい』 平和プリント社、p.56、より一部改変作成。</ref></span>
|-
!
!対象町村数<br /><small>1911年当時</small><ref name="Medical examination of 1911">山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.55-59</ref>
!検診人員
!患者数
!罹患率
!肝臓肥大患者
!脾臓肥大患者
!腹水患者
|-
![[東山梨郡]]
|1村<ref group="†">東山梨郡:[[岡部村]]、([[春日居村]]は検診未了)。</ref>
|2,430
|32
|1.3%
|32
|10
|3
|-
![[西山梨郡]]
|9村<ref group="†">[[西山梨郡]]:[[甲運村]]、[[住吉村 (山梨県)|住吉村]]、[[朝井村]]、[[山城村]]、[[里垣村]]、[[国里村]]、[[清田村 (山梨県)|清田村]]、[[相川村 (山梨県)|相川村]]、[[千塚村]]。</ref>
|15,507
|1,436
|9.3%
|1,425
|349
|25
|-
![[東八代郡]]
|5町村<ref group="†">[[東八代郡]]:[[富士見村 (山梨県)|富士見村]]、[[石和町]]、[[上曽根村]]、[[下曽根村]]、[[豊富村 (山梨県)|豊富村]]。</ref>
|11,281
|156
|3.8%
|156
|17
|0
|-
![[西八代郡]]
|1村<ref group="†">[[西八代郡]]:[[上野村 (山梨県)|上野村]]。</ref>
|1,800
|0
|0%
|0
|0
|0
|-
![[中巨摩郡]]
|22村<ref group="†">中巨摩郡:[[貢川村]]、[[西条村 (山梨県)|西条村]]、[[国母村]]、[[大鎌田村]]、[[二川村 (山梨県)|二川村]]、[[稲積村 (山梨県)|稲積村]]、[[三町村]]、[[常永村]]、[[小井川村]]、[[花輪村 (山梨県)|花輪村]]、[[忍村]]、[[池田村 (山梨県)|池田村]]、[[玉幡村]]、[[今諏訪村]]、[[田之岡村]]、[[御影村 (山梨県)|御影村]]、[[百田村]]、[[大井村 (山梨県)|大井村]]、[[五明村 (山梨県)|五明村]]、[[藤田村 (山梨県)|藤田村]]、[[鏡中条村]]、[[南湖村]]、([[松島村 (山梨県)|松島村]]、[[竜王村 (山梨県)|竜王村]]は検診未了)。</ref>
|30,086
|3,786
|12.6%
|3,332
|826
|70
|-
![[北巨摩郡]]
|7村<ref group="†">北巨摩郡:[[登美村]]、[[塩崎村 (山梨県)|塩崎村]]、[[竜岡村 (山梨県)|竜岡村]]、[[更科村 (山梨県)|更科村]]、[[神山村 (山梨県)|神山村]]、[[大草村 (山梨県)|大草村]]、[[旭村 (山梨県)|旭村]]。</ref>
|8,053
|2,474
|30.8%
|2,138
|124
|12
|-
!合計
|45
|69,157
|7,884
|11.4%
|7,083<br />(89.8%)
|1,326<br />(16.8%)
|110<br />(1.4%)
|}
初めて行われたこの調査により、罹患率の高い地域に偏りがあることも分かった。罹患率が異常に高かったのは、''竜地、団子へ嫁に行くなら…''、と歌われた[[登美村]](とみむら)の55%という驚異的な数値をはじめ、''中の割に嫁へ行くなら…''、と歌われた[[旭村 (山梨県)|旭村]]の35%、および[[大草村 (山梨県)|大草村]]の34%、''嫁にはいやよ野牛島は…''、と歌われた[[御影村 (山梨県)|御影村]](みかげむら)の40%など、古くから人々の間で歌われていた特定の地域での流行を実証するものであった<ref name="Medical examination of 1911" />。また、[[塩山市|塩山]]、[[勝沼町|勝沼]](現:甲州市)など甲府盆地の最東部では病気が一切なく、[[春日居町|春日居]]、[[石和町|石和]]へと盆地を西へ向かうにつれ徐々に病気が現れ、[[甲府市|甲府]]を過ぎた甲府盆地中央部の西側から一気に罹患率が上がり、特に[[韮崎市|韮崎]]から下流の[[釜無川]]両岸地域の罹患率が高いことも改めて実証された<ref name="kanjasuu" />。この甲府盆地内での西高東低ともいえる有病地の偏り<ref name="horimi" />は流行末期まで続いた<ref group="†">最後に日本住血吸虫症の発症が確認されたのは韮崎市内であった。林 (2000) p.80</ref>。その後も住民の感染調査、診断は定期的に行われ、当初は虫卵検査により、昭和30年代中盤からは皮内反応検査によって行われた。
以下に流行末期20年間にわたる市町村別患者数を示すが、これは山梨県内の各医療機関において地方病と診断された各年度ごとの患者実数で、新規感染者の数ではない。また、昭和30年代以降の流行末期には腹水がたまる等の重症患者はまれになり、同40年代になると罹患者に感染したセルカリア匹数も少数になり、便中に虫卵を見つけることが困難になったため、より精密な皮内検査等によって罹患者の確認が行われた。[[1973年]](昭和48年)から患者数が一旦増加しているのはそのためである。
{|class="wikitable" style="width:62em;text-align:right;font-size:77%"
|+style="font-size:115%"|流行末期20年間の、甲府盆地における年度別日本住血吸虫症患者数<span style="font-weight:normal"><ref name="kanjasuu" /><ref group="†">山梨地方病撲滅協力会編 『地方病とのたたかい』 平和プリント社、p.51、p.105、より一部改変作成。</ref><br />1956年度 - 1975年度の市町村別患者数。注、市町村名は1975年当時のもの。</span>
|-
!style="width:5em"|年度!![[甲府市]]!![[中道町]]!![[韮崎市]]!![[敷島町]]!![[双葉町 (山梨県)|双葉町]]!![[竜王町 (山梨県)|竜王町]]!![[八田村 (山梨県)|八田村]]!![[白根町]]!![[櫛形町]]!![[若草町]]!![[甲西町 (山梨県)|甲西町]]!![[増穂町]]!![[昭和町]]!![[田富町]]!![[玉穂町]]!![[豊富村 (山梨県)|豊富村]]!![[三珠町]]!![[山梨市]]!![[春日居町]]!![[石和町]]!![[一宮町 (山梨県)|一宮町]]!![[御坂町]]!![[八代町 (山梨県)|八代町]]!![[境川村]]!![[中富町]]!!合計
|-
!1956年度
|220||9||70||60||135||213||54||126||-||35||135||-||218||200||81||19||0||2||1||50||0||0||8||0||22||style="background:pink"|
|-
!1957年度
|121||33||179||61||132||388||60||95||-||29||130||-||173||148||72||0||0||0||0||58||0||0||29||10||37||style="background:pink"|
|-
!1958年度
|82||7||307||75||111||276||242||43||-||32||26||-||139||121||60||0||2||0||0||18||5||0||13||0||16||style="background:pink"|
|-
!1959年度
|36||9||132||36||156||190||61||53||-||47||33||-||73||105||29||0||0||0||0||1||0||0||0||0||1||style="background:pink"|
|-
!1960年度
|78||0||74||36||74||130||55||54||-||40||31||-||82||106||21||0||3||0||0||2||0||6||0||0||1||style="background:pink"|
|-
!1961年度
|46||6||101||30||131||128||59||36||-||41||10||-||50||59||13||1||0||0||0||1||0||1||0||0||0||style="background:pink"|
|-
!1962年度
|0||5||44||13||114||102||62||14||-||42||7||-||36||45||4||0||2||0||0||0||0||0||0||0||0||style="background:pink"|
|-
!1963年度
|9||0||51||60||83||85||55||8||-||24||5||-||37||28||11||0||4||0||0||3||0||0||0||0||1||style="background:pink"|
|-
!1964年度
|12||0||99||3||85||17||10||4||-||20||3||-||10||15||0||0||1||0||0||0||0||0||0||0||1||style="background:pink"|
|-
!1965年度
|0||0||62||13||21||60||8||2||-||20||0||-||5||8||6||0||0||0||0||1||0||0||0||0||0||style="background:pink"|
|-
!1966年度
|0||0||70||1||22||108||14||4||-||19||3||-||3||8||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||style="background:pink"|
|-
!1967年度
|0||0||46||1||12||53||21||7||-||13||0||-||0||5||11||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||style="background:pink"|
|-
!1968年度
|1||0||71||1||26||76||27||12||-||13||0||-||15||6||2||0||0||0||0||0||0||0||0||0||2||style="background:pink"|
|-
!1969年度
|0||0||18||1||15||38||12||16||-||16||0||-||1||7||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||style="background:pink"|
|-
!1970年度
|0||5||14||0||10||54||8||5||-||4||0||-||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||style="background:pink"|
|-
!1971年度
|1||1||10||11||4||8||10||1||-||4||0||-||0||7||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||style="background:pink"|
|-
!1972年度
|0||1||13||0||4||1||2||8||-||6||9||1||0||1||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||style="background:pink"|
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!1973年度
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!1974年度
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!1975年度
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!現在の<br />市町
|colspan="2"|[[甲府市]]||[[韮崎市]]||colspan="3"|[[甲斐市]]||colspan="5"|[[南アルプス市]]||[[富士川町]]||[[昭和町]]||colspan="3"|[[中央市]]||[[市川三郷町]]||[[山梨市]]||colspan="6"|[[笛吹市]]||[[身延町]]
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=== 感染防止への啓蒙 ===
==== 「俺は地方病博士だ」 ====
[[
{{external media
|align=right
|width = 250px
|image1 = [https://kaz794889.exblog.jp/14119453/ 俺は地方病博士だ 全ページ画像]<br />峡陽文庫<ref name="Kyoyobunko" />
}}
地方病は、ミヤイリガイの生息する河川や水路などで直接水に触れることによってセルカリアに感染し罹患する。よって、水田耕作に従事する農民は感染の危険性が常時付きまとっていることになる。しかし、仕事ではない不要不急な子供たちの川遊びなどによる感染は、正しく指導することで防ぐことが可能なため、子供たちへの啓蒙対策が急務となった。小さい頃に罹患すればその後の成長に大きな影響を与えるため、細心の注意が必要であると、自ら小学校2校の[[学校医|校医]]<ref group="†">三神三朗は自ら率先して、甲府市立国母小学校、同市立貢川小学校の校医を務め、初期感染患者の発見、早期治療に貢献した。山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.174-177</ref>を務めるようになっていた三神三朗も山梨地方病研究部に申し入れた<ref name="chihobyohakase">小林 (1998) pp.116-118</ref>。
しかし、中間宿主を経て変態する日本住血吸虫のライフサイクルを子供たちに理解させることは容易ではなかった。複雑な感染メカニズムを[[
冊子の内容は、地方病が水中の病原虫(セルカリア)を介して皮膚から感染する病気であること、この病原虫がミヤイリガイという小さな巻貝に潜んでいるため、川で遊ぶのは非常に危険であることを、子供にも理解できるように分かりやすく解説したものであった。また、小学生の興味を引くために3人の登場人物を配しストーリー性を持たせた、[[絵本]]のような内容であった。地方病研究部は各校[[校長]]以下、全[[教員]]に[[授業]]で読み聞かせるように義務付け、[[読書感想文|感想文]]などを書かせる指導を行い啓蒙に
特にセルカリアの活動が活発になる夏場の河川での[[水泳]]は厳しく禁止されたが、[[大正]]時代の郊外有病地の一般家庭では[[風呂]]はおろか[[上水道]]すらないのが当たり前であり、日本有数の酷暑地帯である甲府盆地の夏季では、子供たちの河川での[[行水]]を完全に制限することは難しかった。このため、有病地の小中学校の[[プール]]設置が県の補助事業として優先的に進められるなど、引き続き子供たちへの感染防止の徹底が図られた<ref>山梨県史通史編5-近現代1 (2005) p.638,p.640,p.646</ref><ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.94</ref><ref name="Kyoyobunko">{{Cite web|和書
|url = https://kaz794889.exblog.jp/14119453/
|title = 俺は地方病博士だ
|quote = 山梨県内において長く人々を悩ませた「日本住血吸虫病」、いわゆる地方病は、甲府盆地を中心に流行した病気であり、田んぼで手足が漆にかぶれたようになり、手足が痩せ衰え腹部のみが太鼓のようになり、人間のみでなく牛や馬も罹る病気として恐れられてきたが、その原因は不明であり解決には至らぬ状況が長く続いていた。
|work = 峡陽文庫ホームページ
|date =
|accessdate = 2014-12-19
}}</ref>。
==== 感染源対策 ====
[[
日本住血吸虫
したがって、[[堆肥]]として使用していたヒトの糞便の場合、一定期間貯留し虫卵を腐熟させ殺滅させることが感染源を絶つ有効な手段であったため、糞便を貯留するための改良型便所の設置が奨励された<ref name="Kenshi-iryoE">山梨県史通史編5-近現代
このように、[[排泄]]場所をコントロールできない保虫動物に対する対策は困難なもので、
1943年(昭和18年)11月3日には、家畜への感染を究明するために、東京高等獣医学校(後の[[東京獣医畜産大学]])の調査団が西山梨郡[[山城村]](現:甲府市上今井町)に本部を設置し調査を始めた<ref>山梨日日新聞社編
農民への感染防止策として、農作業時には
==== 郷土医杉浦健造と三郎
[[
中巨摩郡西条村(現:中巨摩郡[[昭和町]])の[[風土伝承館杉浦醫院|杉浦健造]]医師、
[[ファイル:Visit endemic schistosomiasis by Emperor Hirohito.JPG|left|thumb|180px|甲府盆地の有病地視察に訪れた昭和天皇と案内役の杉浦三郎。<small>1947年(昭和22年)10月14日撮影<ref name="tamahata"/>。</small>]]
しかし、一向に減らない地方病に感染防止の難しさを感じ、この奇病を根本的に根絶するには中間宿主であるミヤイリガイの撲滅しかないと考え、ミヤイリガイの天敵であるホタルの幼虫を増やすための餌となるカワニナや、捕食動物としてのアヒルなどを飼育する施設を自宅を兼ねた医院敷地内に作り、また共に闘う他の医師たちへ金銭的な援助を行うなど、私財を投じてミヤイリガイ撲滅への活動を始めた。
やがてそれは官民一体による地方病撲滅運動に発展し、1925年(大正14年)に『山梨地方病撲滅期成組合』が結成され<ref>山梨日日新聞社編 「地方病撲滅組合が発足」 『山梨の20世紀』 大正14年2月11日付 同新聞紙面 2000年8月10日第1刷発行 p.51</ref>、終息宣言を迎える71年後までの長期間にわたり山梨県民一丸となって進められた。
1933年(昭和8年)に健造が亡くなると、その遺志は娘婿である三郎によって引き継がれ、1947年(昭和22年)10月14日から2日間の日程で山梨県を[[行幸]]した[[昭和天皇]]の地方病有病地視察は三郎が案内を務めた。中巨摩郡[[玉幡村]]({{ウィキ座標|35|38|1.1|N|138|31|48.0|E|region:JP-19|地図|name=玉幡村}}、<ref name="tamahata">[https://sugiura-iin.blogspot.com/2019/05/5812.html 杉浦醫院四方山話 2019年5月16日 581 『資料・情報御礼ー2 笛吹市K様』] 2019年5月19日閲覧</ref>現:甲斐市)で視察は行われ、当時の甲府盆地における地方病の状況説明、顕微鏡を使った虫卵やセルカリアの観察、ミヤイリガイの生息状況の観察などが行われた<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.36</ref>。
その後も三郎は、水田作業従事者に対する経皮感染を予防低減するための[[軟膏剤|塗り薬]]を製薬会社と共同開発したり、後述する住血吸虫感染調査のために甲府盆地を訪れた[[連合国軍最高司令官総司令部|アメリカ進駐軍]]関係者らと意見交換等を行った<ref name="sugiuraA" />。さらに1949年(昭和24年)に創設された「山梨県立医学研究所」(後の山梨県衛生環境研究所)の初代地方病部長に就任<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.121</ref>し、行政、医療関係等、各方面との調整役を務めるなど、戦後の地方病撲滅運動において大きな役割を果たした<ref>保阪幸男「地方病との付合」 山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.181-182</ref>。
杉浦三郎は1977年(昭和52年)10月16日<ref>山梨日日新聞社編 『山梨 歴史カレンダー』 p.307</ref>[[在宅医療#往診と訪問診療|往診]]に出向いた外出先で倒れ、そのまま他界した。後継者のいなかった杉浦醫院は閉院され、内装、各種薬品、器具等が往診に出掛けたそのままの状態で保管され続けた。<br/>2010年(平成22年)に杉浦家の土地・建物は昭和町により購入され、同家より全ての収蔵品の寄贈を受けた。昭和町では、地方病の研究・治療に生涯をかけた健造、三郎両医師の業績、病気に立ち向かった先人達の足跡を後世に伝承していくために建物を整備し、『[[風土伝承館杉浦醫院|昭和町 風土伝承館 杉浦醫院]]』({{Coord|35|38|25.2|N|138|31|57.2|E|region:JP-19|name=杉浦醫院}})として同年11月16日に設立公開した<ref>地方病資料館 11月16日にオープン - 山梨日日新聞、みるじゃん 2011年11月閲覧</ref>。
[[ファイル:Grave of Naka Sugiyama.JPG|right|thumb|240px|杉山なかの墓(甲府市向町盛岩寺)<small>(2013年5月撮影)</small>]]
杉浦三郎だけでなく、この病気の解明や治療に取り組んできた他の郷土医や研究者は、地方病終息を見届けることなく[[太平洋戦争]][[終戦]]の前後に相次いで亡くなっている。[[1944年]](昭和19年)9月3日に吉岡順作が亡くなり(享年81)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E5%B2%A1%E9%A0%86%E4%BD%9C-1119463 コトバンク]2012年1月29日閲覧</ref>、1946年(昭和21年)4月5日に桂田富士郎(享年79)が、奇しくも翌日の4月6日に宮入慶之助(享年81)がこの世を去った{{Sfn|小林 (1998)|p=163}}。
三神三朗は晩年、自身の生涯にわたる研究の出発点となった、甲府市向町の盛岩寺にある杉山なかの墓参に足繁く通い、なかの墓前に無言のまま長時間頭を下げていたという<ref name="koishikawa" />。また、一生現役郷土開業医を貫き、亡くなる1週間前まで地方病患者の手を握り脈拍を確かめていた。意識のなくなる直前に長女礼子に紙と筆を用意させると、床の中から仰向けのまま、「''川中で 手を洗いけり 月澄みぬ''」と、[[辞世]]の句を記した<ref>雨宮礼子(三神三朗長女) 「父の想い出」 山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.174-176</ref>。川で手を洗うという、ほかの場所であれば当たり前の何気ない日常を、命尽きる最期の瞬間まで夢見た三神三朗は、地方病のない甲府盆地の未来を後進に託し、[[1957年]](昭和32年)3月13日<ref>山梨日日新聞社編 『山梨 歴史カレンダー』 p.80</ref>、85歳でこの世を去った<ref>河野文蔵「三神三朗先生を偲ぶ」 山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.169-170</ref>。
=== ミヤイリガイ撲滅への挑戦 ===
==== 有病地の指定と解除 ====
[[
日本住血吸虫の中間宿主がミヤイリガイであると解明されたことにより、ミヤイリガイの生息エリアが、そのまま地方病の流行エリアと完全に一致することが分かった。したがって、ミヤイリガイが生息する場所とは地方病の流行地、すなわち有病地ということになる。
[[ファイル:Oncomelania hupensis nosophora A.JPG|left|thumb|230px|ミヤイリガイ(2011年10月8日、甲府盆地の旧有病地某所で採取し、紙に載せて撮影した<ref group="†">ミヤイリガイはセルカリアに感染していなければ安全であるが、撮影場所は伏せる。画像GPSデータは除去済。</ref>)。<br><small>大きさの比較のため[[タバコ]]([[メビウス (たばこ)|マイルドセブン]])長さ85mm、直径6mmを並べた。</small>]]
山梨県では、1933年(昭和8年)9月25日告示の「寄生虫予防法施行細則第2条ニ依ル日本住血吸虫病ノ有病地域指定」により、甲府盆地の10,023[[ヘクタール]]が地方病有病地として初めて公に指定された。しかしその後の調査により、2年後の1935年(昭和10年)には19,635.5ヘクタールというより広い範囲が有病地に指定された<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.30、pp.49-50</ref>。
当初はミヤイリガイが多く生息していた水田のみが指定されたのではないかと推察されているが、いずれにしても対策以前には20,000ヘクタール近い有病地が存在していた。しかし、後述するミヤイリガイ撲滅事業により有病地指定面積は徐々に減少し、1960年・1961年・1974年の3回にわたり有病地の指定は順次解除され<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.42-43、p.50</ref>、1977年(昭和52年)には11,764.1ヘクタールと、当初の指定面積の約半分まで減少した<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.50、pp.102-103</ref>。
最終的に[[1994年]](平成6年)4月18日の山梨県告示第263号をもって、有病地の指定はすべて解除された<ref>日本住血吸虫病の有病地の指定 廃止の告示[http://www.pref.yamanashi.jp/somu/shigaku/reiki/reiki_honbun/a500RG00000323.html 山梨県告示第百四十六号]1985年(昭和60年)4月1日。</ref>。
右に示す地図は1970年代の甲府盆地におけるミヤイリガイ生息地(有病地)の略図で、ミヤイリガイ生息密度を3段階で表している<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.50</ref>。
* 希薄地(黄色)、1[[平方メートル]]あたりのミヤイリガイ生息19匹以下
* 中間地(橙色)、1平方メートルあたりのミヤイリガイ生息20匹から30匹未満
* 濃厚地(赤色)、1平方メートルあたりのミヤイリガイ生息30匹以上
この地図からも分かるように、地方病は甲府盆地の西側で猛威を振るっていた。盆地東部の笛吹川沿岸から甲府市中心部を南北に流れる[[荒川 (山梨県)]]に挟まれたエリア(現・笛吹市から甲府市東部)が最も生息密度は低く、荒川の[[右岸]]エリア(西側)から生息密度が高くなり、盆地最西部の釜無川両岸一帯が最も生息密度の高いエリアであった。
[[ファイル:To report a new endemic area found of Schistosoma japonicum, Yamanashi prefectural heading of each newspaper. 1955.JPG|right|thumb|250px|無病地であった[[南巨摩郡]][[原村 (山梨県)|原村]]で新たに患者が発生した様子を報じる1955年(昭和30年)2月から4月の山梨県内各紙(山梨日日新聞、山梨毎日新聞)の見出し。]]
大正期には、甲府盆地各地の有病地水田において、少ない所でも1平方メートルあたり100匹は採取でき、ひどい場所になるとミヤイリガイが何層にも重なり、[[箒|竹ぼうき]]で掃いて[[塵取り|ちりとり]]に集められるほどであった{{Sfn|小林 (1998)|p=110}}。また、ミヤイリガイは日当たりの悪い草屋根の上にまで登り生息し、最もひどい地域になると炊事場の窓枠にまでびっしりとミヤイリガイが群がっていたという<ref>泉 (1979) p.22</ref>。このようにミヤイリガイは水陸両生かつ行動範囲が広く、水中だけに生息するとは限らなかった。つまり、水中でミラシジウムに感染したミヤイリガイが、陸上に上がった際に[[露]]などの[[水滴]]に触れれば、その水滴中にセルカリアが泳ぎ出すこともあり得たのである。
{{quote|朝露踏んでも 地方病}}
ミヤイリガイの生息濃厚地域では、草むらを素足で歩いただけで感染してしまう恐ろしさに、農民はなすすべもなかった<ref>泉 (1979) p.2</ref>。
==== 地域住民の殺貝活動 ====
[[ファイル:Under the guidance of Dr. Fujinami, spraying quicklime in Kofu Basin.JPG|right|thumb|230px|藤浪鑑の指導による甲府盆地有病地での[[酸化カルシウム|生石灰]]散布実験。1924年(大正13年)頃。具体的な撮影場所は不明。]]
[[
ミヤイリガイが中間宿主であると解明されてから、「地方病の撲滅は
ミヤイリガイ発見の翌年1914年(大正3年)には早くも土屋岩保により、中巨摩郡[[国母村]]小河原(現:甲府市上小河原町、{{ウィキ座標|35|38|1.9|N|138|33|54.6|E|region:JP-19|地図|name=上小河原}})の溝渠で[[硫酸]]を使った殺貝(さつばい)実験が行われ<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.21</ref>、土に埋める埋没法や[[火力]]による殺貝などが実験されたが、労力や経費に見合った効果のある決定的な殺貝方法はなかなか見つけられなかった。
そんな中、地域住民によるミヤイリガイの拾い集めが始まった<ref name="Kenshi-iryoE" />。「''ミヤイリガイをなくせば地方病はなくなる''」と聞いた農民が、自発的に行動を始めたのである{{Sfn|小林 (1998)|p=109}}。それは、女性や幼い子供たちをも動員し、[[箸]]を使って米粒ほどの小さなミヤイリガイを1匹ずつ御椀に集めていくという、気の遠くなるような涙ぐましいものであった。農民たちへの努力に応えるべく、県により採取量1合に対し50[[銭]]が給付され、1合を増すごとに10銭の奨励金が交付された<ref name="minaiC" />。
この活動は1917年(大正6年)から8年間にわたって実施され、8年間で「38[[石 (単位)|石]]5[[斗]]8[[升]]0[[合]]7[[勺]]」([[俵|米俵]]にすると約96俵分)<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.22</ref>ものミヤイリガイが採取されたが、ミヤイリガイは繁殖力が強く、1か所だけで目に見えるミヤイリガイを駆除しても、それは言わば焼け石に水であり、さらなる有効な撲滅法の出現が待望された。たとえ1匹でもミヤイリガイが残っていれば、感染を絶つことはできない。1匹から4匹のミラシジウムがミヤイリガイに侵入して変態分裂を続け、わずか1匹のミヤイリガイから最終的に数千匹ものセルカリアが生まれるのである{{Sfn|小林 (1998)|pp=107-109}}。
ミヤイリガイ殺貝に新たな動きが起きたのは、内務官僚出身の[[本間利雄 (内務官僚)|本間利雄]]が山梨県知事に就任した[[1924年]](大正13年)であった<ref>1924年(大正13年)当時の[[都道府県知事]]は、公選ではなく官選であった。</ref>。本間の前任地は広島県で、前職は[[広島県警察部]]の部長であったが、それ以前にも広島県職員の一人として、深安郡川南村片山地区の有病地(片山有病地)におけるミヤイリガイ撲滅事業に関わっており、現地で行われた[[石灰]]散布による殺貝効果を熟知していた<ref name="horimi" />。
石灰を利用した殺貝方法は、経皮感染の解明者でもあり、広島における日本住血吸虫症研究の第一人者になっていた京都帝国大学の藤浪鑑によって考案された。藤浪は大学の研究室でミヤイリガイを飼育し、さまざまな薬剤の検討を行った結果、[[酸化カルシウム|生石灰]]が条件を満たす殺貝剤になると判断した。
生石灰(酸化カルシウム)は水によく溶ける粉末の物質である。有病地の水の量を100とした場合、生石灰を1から2の割合、すなわち1 - 2%にすれば、生石灰がミヤイリガイの体表面を覆って貝の体内に入り込み、神経系統を麻痺させ呼吸困難に陥らせることによって、24時間以内に90%以上のミヤイリガイを殺せることが分かった{{Sfn|小林 (1998)|pp=113-114}}。しかも石灰は日本国内で産出、精製、製造されており、他の薬剤等と比較して価格的にも安価であった{{Sfn|小林 (1998)|p=134}}。
片山有病地では、1918年(大正7年)から4年間にわたり生石灰合計1995[[トン]]{{Sfn|小林 (1998)|p=119}}{{refnest|group="†"|生石灰使用量は、1年目と2年目はそれぞれ225トン、3年目は375トン、4年目は1170トンであった{{Sfn|小林 (1998)|p=119}}。}}を使用した殺貝活動が行われ、片山有病地ではミヤイリガイの姿がほとんど見られなくなる{{Sfn|小林 (1998)|pp=119-123}}という目覚しい効果を得た。その経験から、本間は山梨での石灰散布に意欲を見せ、藤浪鑑を甲府へ呼び寄せると、山梨県内の研究者と共に石灰散布の可能性を探ったが、広島と山梨での大きな違いは有病地の面積であった。
甲府盆地の有病地面積は片山有病地の面積の16倍強である<ref name="tmh.3SUPPLEMENT36-S49">多田功、[[doi:10.2149/tmh.3SUPPLEMENT36-S49|日本における寄生虫防圧とその特質]]」 『Tropical Medicine and Health.』 2008年 36巻 3SUPPLEMENT号 p.S49-S67、日本熱帯医学会</ref><ref>甲府盆地の有病地面積約2万ヘクタールに対して、片山有病地の面積は1227ヘクタール。</ref>。石灰散布作業が並大抵ではないことは、広大な甲府盆地の有病地を目の当たりにした藤浪自身も「尋常なことではない」と痛感していた{{Sfn|小林 (1998)|p=133}}。
しかし、それでも行動を始めなければ何も変わらないと、山梨県では1925年(大正14年)に生石灰の散布が決定され、前述したように同年2月10日に『山梨地方病予防撲滅期成会』が組織され発足した<ref>山梨日日新聞社編 『山梨 歴史カレンダー』 p.47</ref><ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.24-27</ref>。1924年(大正13年)から1928年(昭和3年)にわたる5年間の地方病撲滅対策費用166,379円のうち、約8割に当たる131,943円が寄附金であった<ref name="Kenshi-iryoE" /><ref name="bokumetsu1977" />ことからも、住民の地方病撲滅への願いの強さが分かる。
こうして行政と地域住民によるミヤイリガイ撲滅活動は終息宣言が出されるまで70年以上継続されていくことになり、生石灰から[[石灰窒素]]の散布へ、[[アセチレン]]バーナーによる生息域への火炎放射<ref name="nakamura">中村磐男, 大江敏江 「[https://doi.org/10.15052/00000477 河川環境の復元と感染症:ツツガムシ病や住血吸虫症は再燃(再流行)するか]」『聖学院大学論叢、23(1)』 2010年 p.115</ref>、アヒルなど天敵を使った捕食、後述するPCPによる殺貝、用水路のコンクリート化など、あらゆる手段を駆使してミヤイリガイ撲滅、地方病の根絶という最終目標に向け、親から子へ、子から孫へと世代を越え引き継がれていった<ref group="地方病博士">
{{Quotation|病氣の研究が出来て原因がわかつたから、豫防する事も駆除する事も知れてるが、困た事に實行が困難だ。<br>一人や二人が幾ら心配して駆除しやうとしても駄目だ。どうでも其地方の人が全體で力を協せてやらねばならぬ。|『俺は地方病博士だ』p.11}}</ref><ref>斉藤虎雄「宮入貝捜索の思い出」 山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.172-173</ref>。
==== 殺貝剤PCPの開発 ====
[[
[[ファイル:Dr. McMullen,Donald B. in Yamanashi Prefecture Institute of Medicine.JPG|left|thumb|230px|山梨県立医学研究所で殺貝試験実験を行う、米陸軍第406総合医学研究所のマクマレン (''McMullen,Donald B'') 博士。1950年(昭和25年)撮影。マクマレンは数年間にわたり甲府に滞在し山梨県内の関係者とともに撲滅活動に尽くした。]]
[[太平洋戦争]]末期の1944年(昭和19年)10月から翌年4月にかけて、[[フィリピン]]中部の[[ヴィサヤ諸島]]にある[[レイテ島]]パロ地区 ([[:en:Palo, Leyte|Palo]]) で約1,700名ものアメリカ軍[[兵士]]に高熱や下痢が集団で発症した。当初[[マラリア]]を疑った米軍軍医は糞便検査の末、兵士らが罹患した病気の正体が日本で発見された日本住血吸虫症であることを突き止めた。当時の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]における保健衛生体制は知識、予算の面で世界最先端のものであり、事前の感染症対策を用意周到徹底していると自負していたアメリカにとってレイテ島での日本住血吸虫症感染は不覚であった{{Sfn|小林 (1998)|pp=150-154}}。
[[ファイル:Oncomelania nosophora specimens.JPG|right|thumb|230px|昭和町で採取されたミヤイリガイの標本。対比のため[[五十円硬貨|50円玉]]を並べて撮影した。標本化のため脱色している。風土伝承館杉浦醫院所蔵。<small>(2011年10月撮影)</small>]]
このフィリピンでの経験によりアメリカは甲府盆地で流行する地方病に大きな関心を持ち、日本占領下の1947年(昭和22年)10月、米軍熱帯病委員会委員であるジョージ・ハンター (''George W Hanter'') 博士<ref>横川宗雄 千葉大学医学部寄生虫学教室 「戦後昭和20-35年の間における山梨県甲府盆地の日本住血吸虫症の予防対策に関する研究」、山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.126-144</ref>を中心にした [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]] による衛生部隊を山梨県に投入し、[[甲府駅]]構内に[[連合軍専用列車|客車]]を改造した臨時の研究所(いわゆる[[職用車#保健車|保健車]])を作り<ref group="†">甲府市内は1945年(昭和20年)7月の[[甲府空襲]]により焼け野原になり、辛うじて残った[[山梨県庁舎]]などもGHQによりすでに接収されており、復興ままならない1947年(昭和22年)当時では、研究所として使用可能な建造物がほかになかったためだといわれている。小林 (1998) p.154</ref>、山梨県内の研究者と共に地方病の調査研究を行った<ref>薬袋勝「山梨県の住血吸虫の防圧」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005) p.34</ref>。その際、山梨県が1917年(大正6年)に作成した『俺は地方病博士だ』を見た米軍医療関係者は、その出来栄えと啓蒙を含めた内容の分かりやすさに感嘆していたという{{Sfn|小林 (1998)|p=154}}。
同研究所は[[キャンプ座間]](神奈川県[[座間市]])内に[[在日米軍]]が設けた米陸軍第406総合医学研究所(略称:''406MGL'')の出先機関であり、甲府駅構内の研究施設では殺貝に使用するための薬品テストが行われた。米軍が持ち込んださまざまな薬品の中から[[有機塩素化合物]]であるサントブライト([[ペンタクロロフェノール]])に有効な殺貝効果があったことから、同一成分で日本国内で精製することが可能な、殺傷効果の高い殺貝剤、ペンタクロロフェノールナトリウム(略称Na-PCP、日化辞番号:[https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200907094679572380&rel=1#%7B%22category%22%3A%227%22%2C%22keyword%22%3A%22J809E%22%7D J809E])の開発に成功する。同研究所では患者の治療も同時に行われ、住民から『寄生虫列車』、『病院列車』などと呼ばれ山梨県民に親しまれ、同研究所での日米共同研究はその後9年間続いた<ref name="horimi" />。
PCPによる殺貝は主に農民を主体とする地域住民により人海戦術で行われ一定の効果を上げたが<ref name="nakamura" />、1965年(昭和40年)10月に、中巨摩郡昭和町の養殖池に薬剤が流入し、観賞用の[[ニシキゴイ]]7,000匹が死ぬ事故が起きるなど<ref>山梨日日新聞社編 『山梨 歴史カレンダー』 p.303</ref>、川魚や農作物への有害性が問題になった。
[[環境]]への配慮から毒性を弱めた殺貝剤として、当時[[東北地方]]で「殺[[ユリミミズ]]剤」として使用されていた[[ユリミン]] (BAB、日化辞番号:[https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200907028989170394&rel=1#%7B%22category%22%3A%227%22%2C%22keyword%22%3A%22J3.051A%22%7D J3.051A]、3,5-Dibromo-4-hydroxy-4'-nitroazobenzene) を粒状に改良したものが、1968年(昭和43年)から PCP にとって変わり実用化された<ref>笹本馨「ユリミン導入の由来」 山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.161</ref>。ところが実用化直後にユリミン製造メーカーの原料不足により製造中止を余儀なくされてしまう。山梨県衛生公害研究所の梶原徳昭、薬袋(みない)勝らが中心となり、PCP、ユリミンに代わる殺貝剤の調査検討が行われ、[[1976年]](昭和51年)からは[[フェブロール]]ジクロロ・ブロモフェノール・ナトリウム塩 (phebrol:Sodium2-5dichloro-4-bromophenol)、通称 B2 が使用されるようになった<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.75-76</ref>{{Sfn|小林 (1998)|pp=199-201}}。
1960年(昭和35年)から1987年(昭和62年)までの27年間に、Na-PCP 328トン、ユリミン 175トン、B2(粒剤)87トン、B2(液剤)87キロリットルが、殺貝剤として甲府盆地のミヤイリガイ生息地(有病地)に散布された<ref>薬袋勝「山梨県の住血吸虫の防圧」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005) p.38</ref>。
==== 甲府盆地の水路のコンクリート化 ====
[[
[[茅ケ岳]]。</ref>。 [[1936年]](昭和11年)、甲府盆地のミヤイリガイ生態観察を行った[[生物学者の一覧|生物学者]]の[[岩田正俊]]は、ミヤイリガイが水田や水路周辺などの流れの緩やかな場所に生息する特性から、[[用水路]]を[[コンクリート]]化し直線化することによって流速を早め、生息しにくい環境を作ることの有効性を唱えた<ref>岩田正俊 「宮入貝の産地視察記(一)」 『大阪博物学会誌8』 1937年、pp.1-8</ref>が、昭和初期当時の[[セメント]]は高価なものであり、甲府盆地の全ての用水路をコンクリートで覆うという提案は[[費用|コスト]]の面から実現するのが困難な提案であった。
[[ファイル:Yamanashi Prefecture official public relations cars Schistosoma japonicum enlightenment.JPG|left|thumb|240px|山梨県による地方病予防宣伝カー。<br>1955年(昭和30年)頃]]
[[ファイル:Yamanashi Prefecture Governor Hisashi Amano to speech of Schistosoma japonicum eradication.JPG|right|thumb|185px|山梨県知事[[天野久]]は甲府盆地各所へ精力的に出向き、地方病の予防撲滅を有病地の住民・農民に直接呼びかけた。<br>1955年(昭和30年)頃]]
しかし、宮入慶之助の門下である九州大学の岡部浩洋<ref group="†">岡部浩洋はその後の1949年(昭和24年)に、[[久留米大学]]に設立された日本住血吸虫症研究機関の初代会長として同大学の教授に就任した。</ref>と岩田繁男が、筑後川流域の同疾患流行地である佐賀県[[旭村 (佐賀県)|旭村]]でミヤイリガイの産卵孵化実験を行い、コンクリート用水路での産卵孵化率が極端に低いことなどが確認され、溝渠のコンクリート化が目覚ましい効果を発揮することが実証された<ref>小林 (1998) pp.145-149</ref>。
最初のコンクリート化はわずか814メートルの試験的なものであったが、翌[[1949年]](昭和24年)8月に効果を調べると、コンクリート化しても一定の流れがなければ、土砂や枯葉が堆積してミヤイリガイが生息し繁殖してしまうことが確認され、コンクリート化試験報告書には、施工後も溝渠の清掃等、定期的な[[メンテナンス]]が必要であると報告されている<ref>小林 (1998) p.159</ref>。
しかしながら、コンクリート化された溝渠(一定の流量と流速のある)がミヤイリガイの生息に適さないことも明らかであった。
用水路のコンクリート化による利点として考えられたのは、
# コンクリートで固めることによって、それまで生息していたミヤイリガイを埋没することができる。
# コンクリート化することによって、流速が毎秒2[[尺]](約
# 仮にコンクリート水路で生息しても、発見が容易になり的確に消毒殺貝できる。
などである。
[[ファイル:The board of anti Schistosoma japonicum measure waterway.JPG|left|thumb|240px|コンクリート化された溝渠にはプレートが設置されている<ref group="†">写真は中巨摩郡昭和町押越、設置年度と施工業者名、延長が記載されている。</ref>。<br><small>(2011年7月撮影)</small>]]
また、1950年(昭和25年)に実験現場で行われた実地検分により、コンクリート化された用水路の水流が流速1メートル以上あればミヤイリガイが100%流出することが判明し、[[厚生省]]を通じて[[寄生虫病予防法]]に「[[溝渠]]のコンクリート化[[条文]]」が盛り込まれ<ref group="†">コンクリート化の立法化は後に厚生大臣を務めた山梨県選出の[[内田常雄]]議員が働きかけたのだといわれている。林 (2000) p.80</ref>、県の予算を超えた[[補助金|国庫補助]]によるコンクリート化事業が[[1956年]](昭和31年)より本格的に開始された<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.40-41、pp.79-89</ref>。
こうして、甲府盆地を網の目状に流れる水路は大小問わず全てコンクリートで塗り固められた。コンクリート化に投入された予算は
なお、撲滅事業が終了した1996年(平成8年)の時点で、地方病対策のためにコンクリート化された甲府盆地の用水路の総延長は、北海道[[函館市]]から沖縄県[[那覇市]]間の
== 終息宣言 ==
[[ファイル:Enlightenment Leaflet of schistosomiasis japonica in Yamanashi Prefecture.JPG|right|thumb|370px|山梨県により作成された地方病完全撲滅啓発ビラ。<br>1979年(昭和54年)。]]
=== 新規感染者の減少 ===
水路のコンクリート化と同時進行で行われた地域住民による地道な殺貝、[[消毒]]などの取り組みによる効果は、新規感染患者の減少という目に見えた形で現れた。
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=== 感染者減少の複合要因 ===
[[ファイル:Apparatus of Yamanashi Prefecture that was used to exterminate of the intermediate host snail of Schistosomiasis japonica.JPG|right|thumb|260px|山梨県で使用されたミヤイリガイ殺貝器具類。山梨県立博物館所蔵<ref>[[国立科学博物館]]企画展『日本はこうして日本住血吸虫症を克服した』での貸出展示。2013年5月15日撮影。一部展示品を除き、静止画に限り撮影は自由。</ref>。]]
保卵者数は最盛期であった
ただしそれらの要因は、地方病対策だけのために意図的に行われたものではない。高度経済成長期における日本のさまざまな[[生活]]環境の激変や[[都市化]]が殺貝剤散布や水路のコンクリート化などと相乗効果となり、結果として日本住血吸虫の撲滅へ寄与したと考えられている<ref>中村磐男, 大江敏江、「[https://doi.org/10.15052/00000477 河川環境の復元と感染症:ツツガムシ病や住血吸虫症は再燃(再流行)するか]」『聖学院大学論叢』 2010年 23巻 1号 p.117, {{doi|10.15052/00000477}}, {{issn|0915-2539}}</ref><ref name="kajihara" />。
# 第1の要因として、戦後の甲府盆地における[[産業]]転換に伴う土地利用の変化が挙げられる。古くから[[稲作]]が中心であった甲府盆地中西部の農業形態は、[[モモ]]や[[サクランボ]]、[[ブドウ]]などの[[果物|果樹]]栽培へ転換され、長期間にわたって水を張った状態を必要とする水田が減り、ミヤイリガイの生息地を結果的に狭め追いやった。これは有病地の特に釜無川右岸地域一帯と甲府市東部から旧石和町南部にかけての一帯で顕著であった。甲府盆地中央部においても[[高度経済成長]]に伴う[[宅地開発事業|宅地開発]](県営玉川団地({{Coord|35|37|57.2|N|138|31|53.8|E|region:JP-19|name=県営玉川団地}})、[[甲府リバーサイドタウン]]({{Coord|35|36|36.4|N|138|30|40.8|E|region:JP-19|name=甲府リバーサイドタウン}})等)や、大規模な[[工業団地]]([[国母工業団地]]({{Coord|35|37|3.5|N|138|33|6.6|E|region:JP-19|name=国母工業団地}})、[[釜無工業団地]]({{Coord|35|37|35.8|N|138|31|5.9|E|region:JP-19|name=釜無工業団地}})等)の造成により次々に水田は姿を消していった<ref>中村磐男、大江敏江 「河川環境の復元と感染症:ツツガムシ病や住血吸虫症は再燃(再流行)するか」 『聖学院大学論叢、23(1)』 2010年 p.116</ref>。
# 第2の要因として、農耕の機械化が挙げられる。水田が減ったことに加えて機械化が進んだことにより、農作業用の家畜はほとんど姿を消し、ウシなどの感染家畜の糞便に含まれる虫卵が激減した<ref name="fukugo" />。[[肥料]]に関しても、堆肥などの[[自給肥料]]から化学肥料などのいわゆる[[金肥]]に転換され、虫卵が感染源となることが物理的に回避されるようになった。
# 第3の要因として、一般家庭で使用されていた[[合成洗剤]]の[[排水設備#排水の種類|排水]]によるセルカリアへの殺傷効果が挙げられる。昭和40年代当時はまだ合成洗剤の規制や制限が行政から指導されておらず、また[[下水道]]の普及も遅れていた甲府盆地では、合成洗剤を含んだ排水はいわば[[垂れ流し]]状態であった。本来であれば非難される垂れ流しも、こと日本住血吸虫に対しては怪我の功名ともいえる<ref name="fukugo" />。実際に、[[久留米大学]]教授の塘普(つつみひろし)が1982年(昭和57年)に行った実験によると、一般家庭で使われる濃度0.14-0.25%の合成洗剤溶液にセルカリアを投じると5分以内に全て死滅し、さらに溶液を100倍に薄め同様に試しても、セルカリアは24時間以内に全て死滅することが実証されている<ref name="#3">小林 (1998) p.208</ref>。
==== 土地利用・農業形態の転換 ====
[[ファイル:Kofu Basin Peach blossom and the Minami Alps.JPG|thumb|260px|桃の花の咲く2011年4月の甲府盆地。市街地や住宅地、そして[[モモ]]と[[ブドウ]]に代表される果樹園は増えた一方、水田は減った。]]
これらの中で、果樹栽培への転換は甲府盆地の農業形態を大きく変え、今日見られるような[[果樹園]]が広がる甲府盆地特有の景観を決定付けた。
山梨県では1952年(昭和27年)に、当時需要が高まっていた[[養蚕業|養蚕]]の拡大化を図り、山間地の[[棚田]]を中心に水田を[[桑畑]]に変えていき、最盛期には4万戸もの農家が養蚕業を営むようになった。しかし、直後の1958年(昭和33年)には生産過剰となり[[繭]]の価格は下落の一途をたどることとなる<ref name="kajutenkan">小林 (1998) pp.187-189</ref>。
この対応策として山梨県は、米や養蚕に替わる新たな県のブランドとしての農作物を検討した結果、ブドウやモモなどの果樹栽培に意見が集約された。甲府盆地は大消費地の[[京浜]]地区に近接し、[[国道20号]]の[[笹子隧道#国道20号 新笹子隧道(トンネル)|新笹子トンネル]]開通などにより、輸送手段も格段に向上し始めていた。もともと甲府盆地の寒暖の差がある気候条件は、盆地東部の[[勝沼町|勝沼地区]]周辺で江戸時代から栽培されていた[[甲州 (葡萄)|甲州ブドウ]]に代表されるように果樹栽培に適した気候であった。地方病撲滅協力会と地方病撲滅対策促進委員会も水田から果樹園への転換推進を後押しした<ref name="kajihara">梶原徳昭・保阪幸男「中間宿主ミヤイリガイの殺貝による日本住血吸虫症の制圧」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005) pp.189-198</ref>。
この果樹栽培転換は甲府盆地全体の農民に強い影響を与えた。先祖代々稲作を続けてきた土地ではあったが、同じく先祖代々苦しめられてきた地方病と決別するためなら反対する者などいなかった。1960年(昭和35年)の甲府盆地における果樹生産額は当時の価格で49億5千万円、これは山梨県全体の農業生産額の20%であり、全国水準の6.3%を大きく上回っていた<ref name="kajutenkan" />。その後も甲府盆地の土地利用転換は加速度的に進み、[[ワイン]]製造やブドウ狩りなどの[[観光地]]化が進んでいった<ref name="kajihara" /><ref name="kajutenkan" />。やがて新規感染者と考えられる低年齢者の保卵者数の割合が低下し、1966年(昭和41年)以降の調査では保卵者の大部分が35歳以上で占められるようになった<ref name="horimi" />。
=== 115年目の終息宣言 ===
[[ファイル:Yamanashi hygiene environmental research institute.JPG|right|thumb|240px|山梨県衛生公害研究所(<small>現山梨県衛生環境研究所</small>・{{ウィキ座標|35|40|19.5|N|138|32|59.9|E|region:JP-19|地図|name=山梨県衛生環境研究所}})。戦後の地方病対策研究の中心的機関であった。<small>(2011年8月撮影)</small>]]
甲府盆地では、1978年(昭和53年)に韮崎市内で発生した1名の急性日本住血吸虫症感染の確認を最後に<ref>韮崎市内で急性シスト患者が発生。これ以降の甲府盆地での発症事例はない。また日本国内最後の発症事例でもある。林 (2000) p.80</ref>、これ以降の新たな感染者の発生は確認されなくなった。ミヤイリガイも撲滅こそされていないものの、セルカリアに感染・寄生された個体は同時期以降には発見されなくなり、ヒト以外の哺乳動物の感染も1983年(昭和58年)の[[ノネズミ]]での感染確認を最後に発見されなくなった<ref name="#3"/>。
1985年(昭和60年)には、虫卵抗原に対する[[抗体]]陽性者(皮内反応検査)の平均年齢が60.6歳に達するなど、保卵者数の低下および抗体陽性者の年齢構成の高齢化から、甲府盆地における日本住血吸虫症(地方病)の流行は、[[1980年代]]前半頃に終息したものと今日では考えられている<ref name="minaiB" />。その後の1990年(平成2年)から3年間に及ぶ、甲府盆地の小中高生児童生徒4,249名を対象にした [[ELISA (分析法)|ELISA]] (Enzyme-Linked Immuno Sorbent Assay) 検査法<ref group="†">山梨県では1986年以降、皮内反応をELISA法に切り替え、虫卵抗原に対するELISA陽性者に対しMIFC法による検便を実施してきたが、保卵者は発見されなかった。薬袋勝「山梨県の住血吸虫の防圧」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005) pp.34-35</ref>による集団検診でも、感染者は一人もおらず全員陰性であった<ref>[http://idsc.nih.go.jp/iasr/CD-ROM/records/15/17206.htm 山梨県における日本住血吸虫症の流行状況 1994年6月vol.15] 国立感染症研究所感染症情報センター 2012年1月22日閲覧</ref>。
こうした経緯を経て、山梨県知事の[[諮問機関]]である山梨地方病撲滅対策促進委員会(刑部源太郎会長)は、「新たな感染による地方病患者が1978年以降発生していない」こと、「感染したミヤイリガイが1977年以降発見確認されていない」ことなどを根拠に、1995年(平成7年)11月15日、「山梨地方病の流行は終息し安全である」旨の中間報告書を同県知事に提出し<ref>山梨日日新聞社編 『山梨の20世紀』「地方病殺貝にピリオド」 平成7年11月16日付 同新聞紙面 2000年8月10日第1刷発行 p.191</ref>、翌年2月13日の[[山梨県議会]]において、「ミヤイリガイは依然生息するものの、再流行の原因となる可能性はほとんどない」、と答申・議決され、当時の山梨県知事[[天野建]]は地方病終息宣言を行った<ref>[http://idsc.nih.go.jp/iasr/CD-ROM/records/17/19405.htm 山梨県における日本住血吸虫病(山梨地方病)流行終息宣言について 1996年4月vol.17] 国立感染症研究所感染症情報センター 2012年1月22日閲覧</ref>。
{{quotation|
;宣言
:先般、山梨県地方病撲滅対策促進委員会から「本県における地方病は、現時点では既に流行は終息しており安全と考えられる。」との答申をいただいたことを受け、
:ここに本県における地方病(日本住血吸虫病)の流行が終息したことを宣言いたします。
|平成八年二月十九日 山梨県知事 天野 建<ref>山梨県地方病撲滅協力会 (2003) p.19</ref>}}
[[ファイル:Monument of Schistosoma japonicum disease end.JPG|right|thumb|240px|地方病流行終息の石碑。山梨県知事天野建筆<ref group="†">国の天然記念物であった「鎌田川ゲンジボタル」指定石碑(昭和町押越)の隣に2002年12月に建立された。その後2010年の風土伝承館杉浦醫院オープンに伴い杉浦醫院の庭に移設された。石碑の下部には医院の屋根に使用されていた[[瓦]]が、終息に要した年数と同じ115枚並べられている</ref>。<small>(2012年9月撮影)</small>]]
1881年(明治14年)8月27日の旧春日居村からの嘆願に始まった地方病問題は、[[1996年]](平成8年)[[2月19日]]、実に115年目にして終息を迎えた<ref group="†">2月13日の答申をもって、翌週2月19日に終息宣言が出された。</ref>。
ただし、これは日本住血吸虫の撲滅であって、中間宿主であるミヤイリガイが山梨県内で完全に撲滅されたわけではない。可能性は低いものの、中間宿主であるミヤイリガイが存在する限り起こり得る<ref>{{PDFlink|[http://www.jpcnma.or.jp/pdf/houkoku2010/2.pdf 中国の日本住血吸虫症流行地に分布する中間宿主貝に対する住血吸虫の感染感受性の地理的特異性に関する研究]}} [[東京医科歯科大学]]教授 太田伸生、[[浙江省]]医学アカデミー教授 陸紹紅「財団法人 日中医学協会 2010年度共同研究等助成金報告書」2012年7月22日閲覧</ref>、輸入ペットや外国人保卵者など[[感染症#公衆衛生学的な分類|輸入感染]]による再流行([[再興感染症]])の危険性も指摘されている<ref>小林 (1998) pp.220-221</ref><ref>中村磐男、大江敏江「河川環境の復元と感染症:ツツガムシ病や住血吸虫症は再燃(再流行)するか」 『聖学院大学論叢、23(1)』 2010年 p.118</ref>。山梨県では2010年現在もミヤイリガイの生息調査や監視活動が、住民や行政から[[請負|受託]]した民間企業などによって定期的に行われている<ref>[http://www.ecore.jp/business/environment/index.html エコア株式会社 自然環境調査 地方病(日本住血吸虫病)の調査] 2013年2月17日閲覧</ref>。さらには小中高生を対象とした地方病の集団検診も引き続き行われている<ref>[http://www.pref.yamanashi.jp/toukei_2/book/22nenkan00.html#16 平成22年刊行 山梨県統計年鑑] 2012年1月22日閲覧</ref>。また、終息宣言の1996年からは、山梨県衛生公害研究所により、甲府盆地西部に残ったミヤイリガイ生息地において [[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]] による定点観測が行われ、[[地理情報システム|GIS]]ソフトを使用したリスクマップの作成や詳細な生息地データの作成調査が継続的に行われている<ref>二瓶直子「GPSで住血吸虫症流行を追う」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005) pp.199-208</ref><ref name="taniguchi2014-Oct03">遠ざかる記憶 住血吸虫はいま (4) 「副作用」ホタル激減『[[朝日新聞]]地域面山梨版』 2014年10月3日付朝刊、第13版、第2山梨第28面。朝日新聞社甲府総局 谷口哲雄。</ref>。また、ミヤイリガイは千葉県小櫃川流域<ref>{{PDFlink|http://www.bdcchiba.jp/endangered/rdb-a/rdb-2011re/rdb-201112kai.pdf 千葉県レッドデータブック(2011年改訂版) - 貝類] pp.434}}</ref>でも生息が確認されており、1986年(昭和61年)の千葉大学医学部による実態調査によって同流域の一部地域でかつて日本住血吸虫症が流行していたことが確認された<ref name="obitsu" />。
なお、2014年現在も日本国内の複数の大学や研究施設などでミヤイリガイは産地別に飼育されており、日本国内の自然界では撲滅された日本住血吸虫の本体も、厳重な管理の下、ミヤイリガイと終宿主役となる哺乳実験動物と共に飼育され、人為的に生活環が再現継続され[[累代飼育]]されている<ref group="†">[http://www.youtube.com/watch?v=I2VI5Z-LM94 日本住血吸虫を感染させたマウス]-Youtube (2012年12月24日閲覧、2025年4月24日までにリンク切れ)ホルマリン標本容器に、感染日2011年4月25日(40〜45隻)、標本作成日2011年9月3日 (18W) の文字が確認できる。</ref><ref>一例を挙げると[[獨協医科大学]](栃木県[[壬生町]])熱帯病寄生虫病学講座では、松田肇名誉教授が1968年(昭和43年)頃、甲府市の県立衛生研究所より譲り受けた感染犬を同大学に持ち帰り、その感染犬から得られた日本住血吸虫を今日まで経代維持している。遠ざかる記憶 住血吸虫はいま (5) 世界になお患者2億人『朝日新聞地域面山梨版』 2014年10月10日付朝刊、第13版、第2山梨第24面。朝日新聞社甲府総局 谷口哲雄。</ref>。これは万一の再流行に備え、前述した皮内反応診断に必要な抗原を製造するために、日本住血吸虫の本体が不可欠だからである<ref>小林 (1998) pp.232-233</ref>。
こうして、古くから謎に包まれていた地方病(日本住血吸虫症)は多くの医師・研究者の努力により病原の解明、感染メカニズムの解明が行われ、世代を超えた多くの人々の努力により日本国内での日本住血吸虫症は制圧・撲滅された。しかしその一方で、なぜミヤイリガイが甲府盆地をはじめとする限られた地域にのみ生息していたのかという疑問は解明されていない。[[生物学]]、[[遺伝学]]、[[地質学]]、[[気象学]]、[[地理学]]など、あらゆる観点からの研究が行われている<ref>二瓶直子、「[https://hdl.handle.net/10083/11571 【紀要論文】医学地理学から見た日本住血吸虫症]」 『お茶の水地理』 1984年 25巻 p.24-27、お茶の水地理学会, {{issn|0288-8726}} 2012年3月19日閲覧</ref>が、依然として大きな謎のままである<ref name="Yoshida" /><ref>{{PDFlink|[https://www.kochi-u.ac.jp/w3museum/science_gallery/20111202paracites/2010pipeline_paracites.pdf 吾妻健 アジアの住血吸虫はアフリカから来た?!]}} [[高知大学]]医学部 パイプライン 2010.11 No.36 2012年4月7日閲覧</ref><ref>小林 (1998) pp.225-226</ref>。
== 地方病対策の負の側面 ==
日本住血吸虫でもミヤイリガイでもないのに根絶されたり、あるいは個体数を大きく減らされた生物もいる。独立行政法人[[農業環境技術研究所]]の石坂眞澄はこれを、「日本住血吸虫もミヤイリガイも、蝶(ちょう){{Refnest|group="†"|チョウやその幼虫([[イモムシ]]、[[ケムシ]]など)が病原体を媒介した事実は、2025年現在確認されていないが、イモムシの中には、[[アオムシ]]などのように農作物を食い荒らす[[農業害虫]]が存在する。}}であったなら天然記念物に指定され大事に保護されていたことでしょう」「生物は人のために存在するわけではありません」と表現している<ref>[https://www.naro.affrc.go.jp/archive/niaes/magazine/158/mgzn15802.html 国立科学博物館企画展 「日本はこうして日本住血吸虫症を克服した-ミヤイリガイの発見から100年」 によせて] 農業と環境 No.158 (2013年6月1日)独立行政法人農業環境技術研究所 石坂眞澄
2024年2月20日閲覧</ref>。
=== 昭和町のゲンジボタル ===
[[ファイル:Kamata river habitat Luciola cruciata natural monument stone tablets.JPG|right|thumb|230px|鎌田川源氏蛍発生地石碑。背後の緑地が鎌田川源氏蛍公園。<small>(2012年8月撮影)</small>]]
昭和町では、ミヤイリガイ駆除で使われた殺貝剤や<ref>[https://www.biodic.go.jp/reports/2-3/a284.html 第2回自然環境保全基礎調査 2-7 動物分布調査(昆虫類)2.指標昆虫類種類別解説 10)ゲンジボタル Luciola cruciata] 2012年1月22日閲覧</ref>鎌田川流域など河川のコンクリート化<ref>{{PDFlink|[http://www.mimura.city-chuo.ed.jp/mati/watasitati.pdf わたしたちのまち たまほ]}} pp.103 2012年1月22日閲覧</ref>、さらに先述した高度経済成長による土地開発や汚水の垂れ流しにより<ref name="kohoshowa">[http://www.town.showa.yamanashi.jp/chosei/kouho/kouho_h1308.pdf 『広報しょうわ』2001年8月号]、2013年10月19日閲覧</ref>、ミヤイリガイとよく似た形態・生態であるカワニナが減り、それを幼虫期の餌とする[[ゲンジボタル]]も、その個体数と生息地を減らしていった<ref name="oshihara">[http://www.oshi-es.showacho.ed.jp/hotarutosyouwa.html 押原小とホタルの歴史~なぜホタルの校章なの?~] 2012年1月22日閲覧</ref><ref name="kohoshowa" />。また、火炎放射器がミヤイリガイと一緒くたにホタルの[[蛹]]を焼く、ということも原因の一つにあった<ref name="kohoshowa" />。
鎌田川のゲンジボタル発生地({{Coord|35|37|56.5|N|138|32|21.3|E|region:JP-19|name=国指定天然記念物鎌田川ゲンジボタル発生地}})は1930年(昭和5年)に国の[[天然記念物]]に指定されていたが、個体数の減少により、1976年(昭和51年)に指定解除された<ref name="oshihara" /><ref>[http://www.town.showa.yamanashi.jp/map/rekishi.php?id=110 鎌田川源氏蛍公園(昭和町公式サイト)]、2012年1月22日閲覧</ref>。当時の昭和町民はミヤイリガイを減らすとホタルも減る、と認識していたが、地方病撲滅のため、天然記念物指定解除を受け入れるばかりだった<ref name="kohoshowa" />。
姿を消したと思われたホタルであったが、1987年(昭和62年)、昭和町内の川で突然大発生し、翌1988年にはホタル復活をめざす有志により『昭和町源氏ホタル愛護会』が結成され、会員らの自宅にホタルの飼育場を設け、生息環境の保全のため河川清掃などの活動が続けられている。さらに昭和町内に約4,000ヶ所ある下水道の[[マンホール]]のフタにはホタルがデザインされるなど、町を挙げてゲンジボタルの保全活動が行われている<ref name="taniguchi2014-Oct03" />。昭和町風土伝承館となっている杉浦醫院内の池には、ホタルが生息できるようにしている<ref>[https://sugiura-iinkai.blogspot.com/ 昭和町風土伝承館杉浦醫院整備保存活用検討委員会からのお知らせ 2010年11月8日月曜日 山梨県昭和町が杉浦父子の医院を保存] 2012年1月22日閲覧</ref>。
2012年現在、釜無川や笛吹川の流域では、小学生など児童が参加するホタルの勉強会や幼虫放流会が行われている<ref>[http://www.fuefuki-syunkan.net/2011/hotaruginga.html ふえふき旬感ネット ホタル舞い飛ぶ里を目指して!] 2012年1月22日閲覧</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamanashi/kikaku/005/440.htm 今夏も元気に舞ってね ホタルの幼虫放流式]{{リンク切れ|date=2016年5月}} [[YOMIURI ONLINE]] 2012年1月22日閲覧</ref>。
=== 臼井沼 ===
[[ファイル:Usui-numa Marsh Aerial photograph.1975.jpg|thumb|270px|埋め立てられる前の臼井沼の空中写真。<br>赤褐色に見える雑草の茂る一帯が臼井沼である。(上部の造成されている場所は立川飛行機甲府製造所の跡地)いずれも全て埋立てられ、今日とは大きく景観が異なる。<br>{{国土航空写真}}。1975年撮影の3枚を合成作成。]]
<!-- 造成された部分には1944年頃に立川飛行機の甲府製造所が建設されたとの記録が残っています。また、本文中にもあるように請願書が出され埋め立てが始まったのは1976年の為、写真が撮影された1975年当時はまた臼井沼は存在していたと思われます。写真の赤褐色部分の面積を計測するとほぼ18ヘクタールとなることから赤褐色部分が臼井沼だったと考えて良いのではないでしょうか。-->
旧[[田富町]](現[[中央市]])の釜無川[[左岸]]沿いには、[[臼井沼]](うすいぬま{{ウィキ座標|35|36|13.5|N|138|30|49.4|E|region:JP-19|地図|name=臼井沼跡地}})と呼ばれる約18[[ヘクタール]]<ref name="Usui1">山梨地方病撲滅協力会編 (2003) p.82</ref>の[[湿地帯]]があった。臼井沼は、[[野鳥]]の生息地として山梨県民に知られていたが、埋め立てられた<ref name="59-shigikai">[http://www.city.kofu.yamanashi.jp/gikai/gijiroku/1984/8412_t/841224.htm 昭和59年12月甲府市議会定例会議事日程 (5)]2012年1月22日閲覧</ref>。
これは、当時の田富町民が総決起大会を開き、「地方病撲滅のためには、ミヤイリガイ繁殖の温床となっている沼を埋め立てるしかない」と決議したためである。[[圃場整備]]された水田や畑地等、他のミヤイリガイ生息地と異なり、道もなく雑草の生い茂る臼井沼中央部へは人間が近付くことが困難であったため、臼井沼での効率的な殺貝は難しかったのである。甲府盆地各所で殺貝対策の著しい効果が現れ始めていた1970年代も、臼井沼ではミヤイリガイが大量に繁殖を続けていた。実際に、山梨県衛生公害研究所の調査による臼井沼で捕獲したノネズミのうち、地方病に感染していた個体数は、1971年(昭和46年)では13匹中8匹 (61.5%)、1975年(昭和50年)も73匹中24匹 (32.9%) という高い感染率であった<ref name="Usui1" />。
臼井沼周辺住民や町議らが中心となり当時の田富町議会でも審議が繰り返され、1976年(昭和51年)3月、田富町は、山梨県議会議長宛に臼井沼埋立ての請願書を提出した。この動きに対して野鳥保護団体は「渡り鳥の中継地として貴重」と反論し、同年4月に「臼井沼の開発について考えましょう」と題した、埋立て反対趣旨を書いたパンフレットを作成し田富町全戸に配布した。また、ミヤイリガイについてはコンクリート溝渠による防除に留め、沼の埋立ては避けるべきだと当時の山梨県知事[[田辺国男]]に陳情している<ref name="Usui2">山梨地方病撲滅協力会編 (2003) p.83</ref>。
一方、田富町を含む山梨県下の市町村で構成される山梨地方病撲滅協力会は、臼井沼の全面埋め立ての必要性を訴える陳情書を同年5月21日に田辺知事に提出した。翌々日の5月23日には臼井沼現地において住民200人以上、その他関係者らが参加し「田富町地方病撲滅町民総決起大会」が開催され、会場の各所には「一に健康、二に埋立て」、「鳥より人間優先」などの[[プラカード]]が多数立てられ、埋立て賛成派反対派らの間で緊張した状況となった。同じ日に[[日本鳥学会]]の集会が[[山梨大学]]で開催され、臼井沼を永久に保存する決議案が採択されるなど、1976年の3月から5月にかけ臼井沼の埋立てをめぐり関係者の間であわただしい状況が続いた<ref name="Usui2" />。
対応を迫られた行政側(山梨県)が出した結論は臼井沼の埋め立てであった。同年6月22日の定例県議会で田辺国男知事は「''県としては地元民の悲願にこたえ、地方病撲滅のためには埋め立て以外にないと考える''」と答弁し、29日の本議会で野党各党会派による採択反対討論などがあったものの、起立採択の結果、自民党などの賛成多数で原案通り、埋め立てることが確定した<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (2003) pp.83-84</ref><ref>[http://www.ypec.ed.jp/webkyou/tiikitanbo/sizen/miyairi.htm 地域探訪 地方病とミヤイリ貝]2012年1月22日閲覧</ref><ref>[http://www.yy-net.org/blog/02029/blog/archive/2010/05/242056205932.html 山梨観光わいわいねっと 日本住血吸虫症(地方病)流行終焉の地]2012年1月22日閲覧</ref>。
その後、最終的に臼井沼は[[富士観光開発]]が分譲住宅地として開発し<ref name="59-shigikai" />、[[甲府リバーサイドタウン]]となった。また、臼井沼北部は県の主導により、甲府市中心部にあった連雀(れんじゃく)[[問屋街]]の[[卸売]]業者を移転集約させた[[山梨県流通センター]]になった<ref>[http://ryutsucenter-yamanashi.jp/ 山梨県流通センター概要] 2012年7月22日閲覧</ref><ref group="†">臼井という地名は、2016年現在もリバーサイドタウンの近辺に臼井阿原として残っている。</ref>。
== 日本住血吸虫症撲滅の影響と評価 ==
冒頭で記述した
=== 地方病撲滅に至る日本国内有病地間での動向 ===
[[ファイル:Chikugo_Ozeki Weir.JPG|right|thumb|240px|[[筑後川]]流域での日本住血吸虫症撲滅に大きな役割を果たした{{refnest|group="†"|筑後大堰管理所は、筑後大堰によって湿地帯がなくなりミヤイリガイ撲滅をもたらしたとしている<ref>[http://www.water.go.jp/chikugo/coozeki/html/contents_1/ayumi_003/ayumi_003.html 筑後大堰建設後のあゆみ] 筑後大堰管理所 2012年2月7日閲覧</ref>。その一方で、筑後大堰は日本住血吸虫症の拡大を引き起こすとして建設差止訴訟を起こした市民もいる。大堰から他地域へ導水されることを挙げ、感染拡大に繋がることを差止理由の一つとしたのである<ref>{{Cite web|和書|url=http://www5.ocn.ne.jp/~tikusui/9801.html |title=今後の定例研究会ご案内とご報告 |publisher=筑後川水問題研究会 |accessdate=2012-02-07 |archiveurl=https://archive.is/20130423083827/http://www5.ocn.ne.jp/~tikusui/9801.html |archivedate=2013-04-23}}</ref>。}}[[筑後大堰]]。]]
[[ファイル:Oncomelania nosophora cenotaph. Chikugo River area.A.JPG|right|thumb|240px|宮入貝供養碑。久留米市宮ノ陣。<br><small>(2014年12月6日撮影)</small>]]
山梨・広島・福岡・佐賀など日本国内各地における日本住血吸虫症対策は、研究者間や医師間のレベルでは各種論文をはじめとする学術的観点から地域を越えた交流があり、解明期当初より活発な意見交換などが行われ、当疾患の原因解明に大きく寄与したことは前述した通りである。しかしその一方で、主に地域農民により行われた殺貝作業など、現場の住民同士の意見交換が重要な民間レベルでの交流は戦前まではほとんど行われず、それぞれの地域ごと対策がとられていた。民間レベルでは通信、移動、情報の発信といった[[インフラストラクチャー|インフラ]]は貧弱な時代であった。
山梨で「地方病」、広島で「片山病」、福岡で「マンプクリン」と、離れた場所でそれぞれ別の名前で呼ばれ
戦後の混乱も落ち着いた
第1回の会合は甲府市の舞鶴会館で行われ、各県が毎年持ち回りで協議会を開き、有病地の視察、対策や国への要望事項の取りまとめなど、互いに励まし助け合っていくことを誓った<ref>小林 (1998) p.189</ref>。
この第1回会合視察の際に、果樹園に転換された甲府盆地の土地利用を見た福岡県の職員は感心すると同時に、[[乳牛]]を放牧している久留米市[[長門石]]町内の筑後川河川敷を思い出し、もしやと思い福岡へ戻った。河川敷を調べると案の定大量のミヤイリガイを発見、しかもその半数以上がセルカリアに感染していることが判明した。結局この河川敷は1965年(昭和40年)までに、[[ゴルフ場]]や[[テニスコート]]などに土地改良され、筑後川流域でのミヤイリガイは完全に絶滅された。福岡の関係者にとって、甲府盆地での土地利用視察が福岡における本疾患撲滅に繋がるエポックメイキングな出来事であった{{Sfn|小林 (1998)|pp=193-196}}。
日住病全国有病地対策協議会は発足以来、関係各省庁への積極的な陳情を行い、寄生虫病予防法改正(水路コンクリート補助事業の期間延長)をはじめとする撲滅活動推進を果たし、各地の対策事業が落ち着いた[[1982年]](昭和57年)5月27日、甲府古名屋ホテルで開催された第23回大会において解散が宣言され、その活動を終えた<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (2003) pp.122-124</ref>。
=== 日本国外への波及 ===
日本国内の日本住血吸虫症が撲滅された今日もなお、アジア各地<ref group="†" name="スラウェシ"/>では本疾患に苦しめられている地域がある。日本国内における日本住血吸虫症研究および撲滅活動が、アジア各地の本疾患流行地に与えた影響は大きい。
==== 中国 ====
[[日中国交正常化]]以前の1955年(昭和30年)11月4日、東京大学附属伝染病研究所(現・[[東京大学医科学研究所]])助教授の[[佐々学]](さっさ まなぶ)<ref>[http://www.sasaseitan100.com/ 佐々学生誕100年記念事業] 2016年5月4日閲覧</ref>は、日本人医師20数名から構成された訪中医学団{{refnest|group="†"|臨床医でもあった[[福井県]]選出の[[日本社会党]]所属議員らによって組織された{{Sfn|小林 (1998)|p=168}}。}}のメンバーの1人として[[中華人民共和国]]首都[[北京]]を訪れ、中国側の医療関係者および要人と会談を行った。
会談の冒頭、建国したばかりの[[中華人民共和国]][[国務院総理|政務院総理]]であった
佐々は会談直後、周恩来の計らいにより、北京医学院教授の鍾恵潤を案内役に紹介され、訪中医学団一行と一旦別れ、中国政府要人用の[[華北交通#優等列車|特別車両]]が連結された列車<ref>[http://geo.d51498.com/df4b2106/chinasyndicate/A9_1.htm] 特別車両車内の写真</ref>により10日間の日程で、[[江蘇省]]、[[湖北省]]、[[浙江省]]、[[広東省]]、[[福建省]]といった流行地の視察を中国側の関係者と行った。[[南京]]では[[国立]]の医学研究所を見学し、[[無錫]]では江蘇省血吸虫病予防処を訪れた{{Sfn|佐々|1960|p=150-152}}。
その後、国交正常化を待たずして、日本の関係者による中国でのミヤイリガイ殺貝やスチブナールによる治療、用水路のコンクリート化実験などの援助、技術提供など、日中間での意見交換、協力関係は続いていくことになった{{Sfn|林 (2000)|pp=20-23}}{{Sfn|小林 (1998)|pp=174-182}}。
==== フィリピン ====
[[ファイル:Schistosomiasis in a child 2.jpg|left|thumb|195px|日本住血吸虫症のフィリピンの11歳少年。[[南アグサン州]]にて2005年撮影。]]
アジアでのもう一つの日本住血吸虫症流行地[[フィリピン]]では、[[ビサヤ諸島]]の貧困層を中心に蔓延している。2016年現在ではスチブナールに代わり有効な駆虫薬となっているプラジカンテルの投与を、貧しさゆえに受けられない罹患者に対し、[[政府開発援助]] (ODA)、[[非政府組織]] (NGO)、[[国際協力機構]] (JICA) などの機関、組織を通じて日本人医師が治療および現地医師への指導に当たっている{{Sfn|林 (2000)|pp=1-3}}<ref>林正高「フィリピンの日本住血吸虫症・脳症型、肝脾腫型の臨床と同症に対する挑戦」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005) pp.157-158</ref>。
[[ファイル:Kofu municipal hospital.JPG|right|thumb|250px|市立甲府病院。2010年11月19日撮影。]]
その一人である[[市立甲府病院]]の[[林正高]]は、フィリピンでの日本住血吸虫症治療に使用するプラジカンテル代金(1人当たりの薬代、[[円 (通貨)|日本円]]に換算して約700円)、1口700円の募金活動を始めた{{Sfn|林 (2000)|pp=235-236}}。[[1987年]](昭和62年)12月に「地方病に挑む会」として市立甲府病院内に発足したこの活動は、発起人の1人である[[大岡昇平]]が、[[中央公論]]の[[1988年]](昭和63年)1月号に執筆寄稿した『日本住血吸虫 - レイテ戦記・補遺』の執筆代金全額が募金の第1号になるなど注目が集まり、1口700円とはいえ、発足から15年間で約8919万円もの浄財が集まった{{Sfn|林 (2000)|pp=67-72}}。この病気に代々苦しめられてきた甲府盆地の人々は、今なおこの病に苦しんでいる人がフィリピンに多数いることを知ると、自らの過去を重ね合わせたのである。
旧[[満州]](現在の[[中国東北部]])出身で長野県[[岡谷市]]で育ち[[信州大学]]医学部を卒業した林が、1964年(昭和39年)に新人医師として初研修に訪れた地が偶然にも甲府であった<ref>{{PDFlink|[http://www.tokibo.co.jp/vitalite/pdf/no19/v19p08essay.pdf 中田光 感染と人間 (2)]}} 2012年1月22日閲覧</ref>。何の予備知識も持たないまま、そこで初めて出会った地方病患者に衝撃を受け戸惑いながらも、以後この病を自らのライフワークと決め、甲府に自宅を購入し移住してまで闘い続けた林は、募金振り込み用紙の通信欄に寄せられた暖かいメッセージを読み感慨を深くした{{Sfn|林 (2000)|pp=236-237}}。
|page = 36<!-- pdfとしてはp. 39 -->
|title = フィリピン看護師国際労働移動の国内医療への影響に関する研究 - 看護師「流出」神話の真実
|author = 勅使川原香世子
|date = 2007-04-06
|journal = グローカル
|volume = 6
|publisher = フェリス女学院大学大学院国際交流研究科
|url = http://
|accessdate = 2012-11-24
}}</ref>、「ハイメ・ガルヴェス・タン」<ref>{{cite journal|和書
|title = 日本・フィリピン経済連携協定を通じた看護師・介護福祉士受入れ交渉過程 : 日本とフィリピンの政策決定における政治的力学
|naid = 120002834901
|author = 細野ゆり
|date = 2011-02-20
|publisher = 横浜国際社会科学学会
|
|volume = 15
|page = 80<!-- pdfでは p39-->
|url = https://hdl.handle.net/10131/7428
|issn = 13460242
}}</ref>と表記されることもある。また、一般にはフィリピンの厚生省は保健省、大臣は長官とも呼ばれる。}}より「地方病に挑む会」代表の林は感謝状を受け{{Sfn|林 (2000)|p=7}}、2009年(平成21年)には[[ノバルティス]]地域医療賞を受賞している<ref>[http://www.novartis.co.jp/news/2010/pr20100204.html 第17回ノバルティス地域医療受賞者 林正高] 2016年5月3日閲覧</ref>。
=== 後世へ語り継ぐ撲滅の歴史 ===
[[ファイル:Medical Civic Action Program in Shinile Woreda, Ethiopia, 2010 (5119873865).jpg|thumb|250px|[[マンソン住血吸虫|マンソン住血吸虫症]]の治療を受ける[[エチオピア]]の子供。2010年10月19日撮影。]]
[[ファイル:Schistosomiasis world map - DALY - WHO2004.svg|thumb|250px|住血吸虫症によって失われた、人口10万人あたりの[[障害調整生命年]] (DALY) マップ(2004年)。WHO統計による。<div class="references-small" style="-moz-column-count:3;column-count:3">
{{legend|#b3b3b3|データなし}}
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</div>]]
住血吸虫症は日本住血吸虫症以外にも、[[インドシナ半島]]の[[メコン住血吸虫]]症、[[アフリカ大陸]]および[[ラテンアメリカ|中南米]]一帯の[[ビルハルツ住血吸虫]]症や、[[マンソン住血吸虫]]症など、世界各地に数種存在する
しかしながら、2015年のWHO([[世界保健機構]])の報告によれば、住血吸虫症の流行国は78カ国、そのうち感染リスクの高い国は52カ国に及ぶ。推定感染者数は約2億6100万人に達し、2014年には全世界で4000万人が住血吸虫症の治療を受けたと報告されている。特に、[[サハラ砂漠]]以南のアフリカ諸国では、2015年現在も年間推計2万人から20万人<ref group="†">住血吸虫症による病死は死因が多様であるが、death.1番号として「住血吸虫症状」で一括りにされるケースが多いため、たとえば、肝臓や腎不全と膀胱癌のような隠された病理の推定をすることは困難である。したがって死因見積もりは、年間20,000から200,000人の間で大きく異なる。</ref>が住血吸虫症により死亡したと推計されている<ref name="WHO October.2017" /><ref name="UNHCO" />。
山梨県で終息宣言が出された2年後の[[1998年]](平成10年)5月に、[[イギリス]]の[[バーミンガム]]で行われた[[第24回主要国首脳会議|バーミンガム・サミット]]([[主要国首脳会議]])の席上で、[[橋本龍太郎]][[首相]](当時)は、世界規模で寄生虫対策を実施する必要性を訴えた『''21世紀に向けての国際寄生虫戦略 - The Global Parasite Control for the 21st Century''』と題する報告書を各国首脳に提示した<ref>小林 (1998) p.229</ref>。[[国際保健#橋本イニシアチブ (1997)|橋本イニシアティブ]] (''Global parasite control initiative of Japan (Hashimoto Initiative)'')<ref>[http://wiki.livedoor.jp/jaih/d/%B6%B6%CB%DC%A5%A4%A5%CB%A5%B7%A5%A2%A5%C1%A5%D6 橋本イニシアティブ(日本国際保健医療学会/国際保健用語集)]2012年12月22日閲覧</ref><ref>[http://gwweb.jica.go.jp/km/FSubject0201.nsf/VW0101X02W/417AF0714AE617B14925704A002BE552?OpenDocument 橋本イニシアティブ (JICA Knowledge Site)]2012年12月22日閲覧</ref>と呼ばれるこの報告書は、アメリカ[[コロラド州]][[デンバー]]で前年に開催された[[第23回主要国首脳会議|デンバー・サミット]]の[[主要国首脳会議|G8会議]]において、世界規模で寄生虫対策を行う重要性を橋本が指摘し、対策が具体化したものであり、デンバー・サミット後、橋本の指示を受けた日本の厚生省は、辻守康[[杏林大学]]医学部教授を委員長とした「国際寄生虫対策検討会」を組織した<ref>[http://www.schistosoma.jp/index.cgi?page=%B9%D4%C0%AF%A4%CE%BC%E8%A4%EA%C1%C8%A4%DF 行政の取り組み-住血吸虫症ホームページ 名古屋市立大学大学院医学研究科 宿主・寄生体関係学(医動物学教室)]2013年1月5日閲覧</ref><ref>[https://www.mhlw.go.jp/topics/2004/03/tp0312-1.html 国際寄生虫対策ワークショップ2004の開催について 厚生労働省]2016年5月4日閲覧</ref>。
橋本イニシアティブが出された後、日本の寄生虫学研究者や医師らの多くが寄生虫疾患対策のために世界各地へ出向き、その対策や治療、中間宿主貝撲滅活動などが継続的に行われている<ref>[http://tropical.umin.ac.jp/report/02kenya.html ケニア班 2002年度活動報告書(九州大学熱帯医学研究会)] 2012年12月22日閲覧</ref>。また、日本国内においても住血吸虫症の治療に関する研究が継続的に行われており、プラジカンテル等の駆虫薬を用いた感染後の治療に主眼点をおいていた従来の治療法に代わる新たな試みとして、ヒト宿主との相互作用に直接関与し、ヒトの免疫応答に重要な機能を果たしている可能性がある日本住血吸虫本体(膜表面)および分泌性の[[タンパク]]の同定に[[長崎大学熱帯医学研究所]]が2014年(平成26年)に成功し、これらを[[遺伝コード]]する[[遺伝子ファミリー|遺伝子族]]が特定されるなど、日本住血吸虫症に対する予防[[ワクチン]]の開発研究が進められている<ref>[http://www.nagasaki-u.ac.jp/ja/about/info/science/science74.html 国立大学法人長崎大学熱帯医学研究所 日本住血吸虫症のワクチン/薬剤開発を目指した免疫遺伝学研究]2014年4月3日閲覧</ref>。
日本が世界の寄生虫対策の舵取り、イニシアティブをとる理由は、日本がさまざまな苦難を乗り越え、日本住血吸虫症ばかりでなく、数々の寄生虫病を制圧してきた経験を持つ[[公衆衛生]]先進国だからである<ref>小林 (1998) p.230</ref>。
以下、寄生虫学者である[[自治医科大学]]名誉教授石井明<ref>[https://kaken.nii.ac.jp/ja/search/?qm=40012752 KAKEN 科学研究費補助金データベース] 2016年5月4日閲覧</ref>が2005年に記した、「''日本における住血吸虫研究の流れ''」より引用する。
<div style="width:73%">
{{quotation|
日本住血吸虫症は住血吸虫感染症の中で最も重症である。日本住血吸虫を発見した後に、その感染経路、中間宿主貝を発見したのは住血吸虫感染の中で日本が最初である。住血吸虫症が制圧されたのは日本が世界で最初である。住血吸虫症は世界の寄生虫感染の中でも重要な位置を占めている。したがって日本が日本住血吸虫症を制圧したことは誇るべき先駆的で歴史的な事実となった。これには日本の研究が大きな役割を果たしたことを記録しなければならない。研究論文は莫大な数に上がっている。日本語で書かれたものが多いので必ずしも世界に十分に知られているとは言えないが、それらの成果がもたらした結果が日本住血吸虫症の制圧に至ったことを明記する必要がある。
|日本における住血吸虫研究の流れ。2005年 石井明<ref>石井明「日本における住血吸虫研究の流れ」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005) p.9</ref>}}
</div>
世界には日本住血吸虫症だけでなく、さまざまな住血吸虫症があるが、日本は日本住血吸虫症のメカニズムを世界で初めて解明しただけでなく、撲滅・制圧を成し遂げた世界唯一の国である。その中心的役割を担った山梨県では、2005年(平成17年)に開館した[[山梨県立博物館]]の常設展示に「地方病」に関するコーナーが設けられ、中巨摩郡昭和町では、旧杉浦医院の建物を利用した地方病資料館(風土伝承館杉浦醫院)が2010年(平成22年)に開館した<ref>[http://www.sugiura-iin.com/shisetsu.html 山梨県 昭和町 風土伝承館 杉浦医院の施設のご案内] 2012年1月22日閲覧</ref>。
また、山梨県内の小学校・中学校で使用される[[道徳教育]]教科書に「地方病」撲滅の経緯が記載され<ref>{{PDFlink|[http://www.ypec.ed.jp/center/kenkyukaihatu/nairyuuhoukokusyo/H17/shiaoki1.pdf 小学校社会科の各学年各単元と山梨県立博物館の展示とのかかわり]}} 2012年1月22日閲覧</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.ypec.ed.jp/syoukai/doutoku/sks5.pdf 平成22年度第5学年 道徳の時間 年間指導計画 基本方針]}} 2012年1月22日閲覧</ref><ref>{{PDFlink|[http://doutoku.mext.go.jp/pdf/areadocument_205.pdf 山梨県 道徳教育用郷土資料集 平成24年3月 山梨県教育委員会 中学校下級学年用 地方病とのたたかい]}} pp.104-107 2018年8月3日閲覧</ref>、2012年(平成24年)より[[総合的な学習の時間]]を利用した「地方病」に関する授業学習が一部の小学校で行われ<ref>地方病との闘い劇に 昭和・常永小 杉浦医師の活動紹介『山梨日日新聞』2012年3月1日付朝刊、第2版、第22面。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20140201183011/http://www.47news.jp/localnews/yamanashi/2012/03/post_20120301102030.html Waybachアーカイブ・47NEWS各地のニュース山梨『地方病との闘い劇に 昭和・常永小 杉浦医師の活動紹介 』2012/03/01 09:56 【山梨日日新聞】]2012年6月14日閲覧、2021年2月19日アーカイブ再閲覧。</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.oshi-es.showacho.ed.jp/pdf/h25kyaritu/H25kyaritu6-12.pdf 押原小学校キャリア教育通信 第6学年 第12号 平成25年12月18日]}} 2014年1月28日閲覧</ref>、さらに[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]で放送された小学校4年生向けの番組[[NHK for School]]で取り上げられるなど<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20180803163615/https://www.nhk.or.jp/syakai/funfun/shiryou/pdf/000/matome.pdf NHK E-テレ よろしく!ファンファン 地域の困難に立ち向かう]}} 2018年8月3日閲覧</ref>、地方病撲滅に至る経緯や得られた経験を、後世に伝えようという活動が行われ始めている<ref>[http://cdb.kai.ed.jp/direct-link.php?link=content&id=C000001268 第6回ふるさと山梨郷土学習実践研究発表大会実践研究「山梨県の地域素材の紹介」発表資料] - [[山梨県総合教育センター]]教育情報コンテンツデータサービス。[[甲府市立善誘館小学校]]教諭 青木央。</ref><ref>過去の罹患者複数名(80歳代)による闘病体験の講演等が山梨県内で行われている。遠ざかる記憶 住血吸虫はいま (2) 裸足で田へ 次々感染『朝日新聞地域面山梨版』 2014年9月19日付朝刊、第13版、第2山梨第28面。朝日新聞社甲府総局 谷口哲雄。</ref>。
== 年表 ==
感染メカニズムが解明された[[1913年]]([[大正]]2年)までの出来事はほぼ時系列通りに記述した。だが、それ以降は「感染予防対策」
{|
!西暦
!年号
!出来事
!経過<br />年数
|-
|[[1582年]]||[[天正]]10年||align="left"|地方病と推察される疾患を患った武田家家臣[[小幡昌盛|小幡豊後守昌盛]]が[[武田勝頼]]の元へ暇乞いに訪れる。後に『[[甲陽軍鑑]]』において「脹満」と表現され記載された。
|-
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|[[1881年]]||明治14年||bgcolor="yellow" align="left"|[[東山梨郡]]春日居村戸長、田中武平太より
|-
|[[1886年]]||明治19年||align="left"|[[軍医]]石井良斉による[[徴兵検査]]により、当疾患による極度の発育不良者の多発が確認され、[[軍部]]へ報告される。||5
|-
|
|-
|[[1897年]]||明治30年||bgcolor="yellow" align="left"|
|-
|
|-
|[[1904年]]||明治37年||bgcolor="yellow" align="left"|
|-
|rowspan="2"|[[1909年]]||rowspan="2"|明治42年||align="left"|山梨県医師会会長喜多島豊三郎により山梨地方病研究部が設立される。||rowspan="2"|28
|-
|align="left"|[[藤浪鑑]]らにより
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|[[1913年]]||
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|rowspan="2"|
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|align="left"|
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|rowspan="2"|[[1928年]]||rowspan="2"|
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|align="left"|土屋岩保死去。
|-
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|-
|rowspan="2"|[[1933年]]||rowspan="2"|昭和8年||align="left"|[[厚生省]]により、寄生虫病予防法施行細則および
|-
|align="left"|杉浦健造死去。
|-
|
|-
|rowspan="2"|1938年||rowspan="2"|昭和13年||align="left"|殺貝剤が生石灰から[[石灰窒素]]へ転換される。||rowspan="2"|57
|-
|align="left"|水路のコンクリート化が初めて提唱される。
|-
|[[1943年]]||昭和18年||align="left"|地方病予防撲滅対策委員会が設立される。||62
|-
|
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|-
|rowspan="2"|
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|align="left"|
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|rowspan="2"|[[1949年]]||rowspan="2"|昭和24年||align="left"|佐々木孝により甲府盆地の
|-
|align="left"|山梨県立医学研究所
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|rowspan="2"|[[1956年]]||rowspan="2"|昭和31年||align="left"|
|-
|align="left"|集卵法MIFCが開発される。
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|
|-
|rowspan="3"|[[1960年]]||rowspan="3"|昭和35年||align="left"|
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|align="left"|山梨地方病撲滅協力会による[[パブリック・リレーションズ|PR]]映画「人類の名のもとに」が作成される。
|-
|align="left"|
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|rowspan="2"|
|-
|align="left"|臼井沼を[[富士観光開発]]が買収。
|-
|rowspan="2"|[[1976年]]||rowspan="2"|昭和51年||align="left"|新殺貝剤
|-
|align="left"|山梨県議会にて臼井沼[[埋立地|埋め立て]]が議決される。
|-
|
|-
|[[1978年]]||昭和53年||align="left"|[[韮崎市]]内で急性日本住血吸虫症の発症事例が確認される。結果的に日本国内における最後の新規感染者となった。||97
|-
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|[[1996年]]||
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|2013年||平成25年||align="left"|東京上野の[[国立科学博物館]]本館で『日本はこうして日本住血吸虫症を克服した -ミヤイリガイの発見から100年』の企画展が開催。
|-
|2016年||平成28年||align="left"|林正高死去<ref>医師、地方病撲滅に尽力 林正高さん死去 81歳『山梨日日新聞』2016年9月14日付朝刊、第2版、第28面。</ref>。
|-
|2020年||令和2年|| align="left" |[[忍野村]]の[[山梨県立富士湧水の里水族館]]にて常設展示「ミヤイリガイと地方病」コーナーが設置される。ミヤイリガイの生体を常設展示<ref>[https://www.fujisan-net.jp/post_topics/3010504 宮入貝の生態、歴史後世に 地方病の中間宿主、常設で紹介 忍野の水族館がコーナー], 富士山NET, [[山梨日日新聞社]], (2020年2月6日) 2020年7月13日最終閲覧.</ref>。
|}
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{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="†"|2}}
中富町について{{Reflist|group="†a"}}
=== 引用 ===
{{Reflist|group="死体解剖御願"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
以下5点の文献を主に用いた。
*
** 小林照幸:「死の貝:日本住血吸虫症との闘い」、新潮社(新潮文庫)、ISBN 978-4101433226 (2024年4月24日)。
*{{Cite book|和書|date=2000-02-10|author=林正高|title=寄生虫との百年戦争 : 日本住血吸虫症・撲滅への道|edition=初版|publisher=[[毎日新聞社]]|___location=[[東京]]|isbn=978-4-62-031422-8|ncid=BA45880895|oclc=54598958|ref={{SfnRef|林 (2000)}}}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 林正高
|year = 2000年2月10日発行
|title = 寄生虫との百年戦争-日本住血吸虫症・撲滅への道-
|publisher = [[毎日新聞社]]
|isbn = 4-620-31422-6
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 宮入慶之助記念誌編纂委員会編
|year = 2005年11月25日初版発行
|title = 住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年-
|publisher = 九州大学出版会
|isbn = 4-87378-887-0
}}
**
**田中寛「宮入慶之助と中間宿主カイ発見」
**
**
**梶原徳昭・保阪幸男「中間宿主ミヤイリガイの殺貝による日本住血吸虫症の制圧」
**
**
*{{Cite book ja-jp
|author = 山梨地方病撲滅協力会編
|year = 1977年7月28日発行
|title = 地方病とのたたかい
|publisher = 有限会社平和プリント社
}}
**横川宗雄「戦後昭和20-35年の間における山梨県甲府盆地の日本住血吸虫症の予防対策に関する研究」
**加茂悦爾「峡西地方における日本住血吸虫症の現状と将来」
**
**井内正彦「甲府盆地における日本住血吸虫症の今後の課題」
**
**林正高「日本住血吸虫の脳機能に及ぼす影響についての臨床的・実験研究」
**
**
**久津見晴彦「今後の地方病撲滅対策に期待する」
**
**
**
**芦沢道助「地方病雑感」
**甘利絹代「地方病で苦しんだ母の死」
**秋山丈吉「地方病研究見聞記」
**
**河野文蔵「三神三朗先生を偲ぶ」
**福島荘次「地方病の後遺症について」
**
**
**
**末利光「地方病の庶民史」
**保阪幸男「地方病との付合」
*{{Cite book ja-jp
|author = 山梨地方病撲滅協力会編
|year = 1981年3月31日発行
|publisher = 有限会社平和プリント社
}}
**保阪幸男「日本住血吸虫の生態学」
**安羅岡一男「発育・発育史」
**大塚裕「生理・生化」
**飯島利彦「日本住血吸虫の疫学生態学」
**堀見利昌「山梨県における分布」
**横山宏「日本住血吸虫病の病理」
**石崎達「日本住血吸虫病の症状」
**加茂悦爾「急性症状」
**井内正彦「慢性症状」
**有泉信「脳合併症(脳症型日本住血吸虫病)」
**林正高「急性および慢性日本住血吸虫症と脳機能障害との関係」
**辻守康「日本住血吸虫病の免疫臨床」
**小島荘明「免疫の生物学」
**横山宏「日本住血吸虫病の診断」
**横川宗雄「日本住血吸虫病の治療」
さらに補足として以下の文献を参照した。
*{{Cite book|和書|date=1961|author=岡部浩洋|title=日本住血吸虫及び日本住血吸虫症の生物学及び疾学|url=https://kiseichu-my.sharepoint.com/personal/iwaki_kiseichu_org/Documents/Forms/All.aspx?FolderCTID=0x0120002BA1C88B7EEE324F9366A5F7F3F8814D&id=%2Fpersonal%2Fiwaki%5Fkiseichu%5Forg%2FDocuments%2FPMRJ%2FJ1%2FJ1%2D04%2D%E5%B2%A1%E9%83%A8%2Epdf&parent=%2Fpersonal%2Fiwaki%5Fkiseichu%5Forg%2FDocuments%2FPMRJ%2FJ1|series=日本における寄生虫学の研究 第1巻|format=pdf|publisher=目黒寄生虫館|___location=東京|ncid=BN04882632|doi=10.11501/1370844|accessdate=2019-02-14|ref={{SfnRef|岡部 (1961)}}}}
* {{Citation|和書|date=1960-03-17|author=佐々学|title=風土病との闘い|publisher=岩波書店|series=[[岩波新書]](青版)375|id={{NDLJP|1378025}}|ref={{SfnRef|佐々|1960}}}}{{要登録}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 泉正彦
|year = 1979年12月31日第1刷発行
|title = 地方病は死なず
|publisher = 新泉社
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 礫川全次
|year = 2006年7月25日初版第1刷発行
|title = 病と癒しの民俗学
|publisher = 批評社
|isbn = 4-8265-0447-0
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 菅又昌実編著、太田伸生、保阪幸男
|year = 2010年12月10日発行
|title = 日本における伝染病との闘いの歴史
|publisher = みみずく舎
|isbn = 978-4-86399-054-8
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 林正高
|year = 2015年12月25日初版発行
|title = 日本住血吸虫症 特に脳症型・肝脾腫型を中心に
|publisher = 株式会社三恵社
|isbn = 978-4-86487-456-4
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 山梨県編
|year = 2005年3月31日発行
|title = 山梨県史通史編5-近現代1
|publisher = [[山梨日日新聞社]]
|isbn = 4-89710-831-4
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = [[山梨県立博物館]]編
|year = 2009年3月30日改定第2版発行
|title = 山梨県立博物館 常設展示案内
|publisher = 少國民社}}
*{{Cite book|和書|date=1917-05-20|title=俺は地方病博士だ(日本住血吸虫病の話)|editor=山梨地方病研究部|publisher=山梨地方病研究部|___location=山梨県甲府市|ref={{SfnRef|博士 (1917)}}}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 山梨地方病撲滅協力会編
|year = 2003年3月10日発行
|title = 地方病とのたたかい-地方病流行終息への歩み-
|publisher = 有限会社平和プリント社
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 山梨日日新聞社編
|year = 2000年10月6日発行
|title = 山梨20世紀の群像
|publisher = 山梨日日新聞社
|isbn = 4-89710-709-1
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 山梨日日新聞社編
|year = 2000年8月10日発行
|title = 山梨の20世紀-山梨日日新聞記事で見る100年
|publisher = 山梨日日新聞社
|isbn = 4-89710-696-6
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 山梨日日新聞社編
|year = 2001年10月1日発行
|title = 山梨 歴史カレンダー
|publisher = 山梨日日新聞社
|isbn = 4-89710-697-4
}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Schistosoma japonicum in Yamanashi Prefecture}}
{{wiktionary|地方病}}
* [[寄生虫病予防法]]
* [[風土伝承館杉浦醫院]]
* [[山梨県立博物館]] - 山梨県衛生公害研究所保管資料5387点が移管され、常設展示のうち共生する社会 『地方病との戦い』において
* [[感染症の歴史]]
* [[筑後川#日本住血吸虫症の撲滅]] - 福岡県の筑後川流域でこの病気が根絶されるまでの経緯。
* [[神辺町#日本住血吸虫症]] - 広島県の有病地の経緯。
== 外部リンク ==
;ウェブサイト
:*[http://www.ypec.ed.jp/yamakai/yamakai%2086.html やまかいの四季 住血吸虫病って何だろう] - [[山梨県教育委員会]]峡南教育事務所地域教育推進担当
:*[https://miyairikinenkan.com/seiatsu/kofubonchi/ 甲府盆地とミヤイリガイ] - 宮入慶之助記念館
:*[http://idsc.nih.go.jp/iasr/CD-ROM/records/15/image/I1720601.HTM 山梨県日本住血吸虫流行地における検査成績] - 国立感染症研究所感染症情報センター
:<!--バグ回避のための行-->
;国立国会図書館デジタルコレクション
:*{{Cite book|和書|author=山梨県編|title=山梨県に於ける日本住血吸虫病概要|year=1928|month=10|publisher=山梨県|id={{NDLJP|1146871}}|ref={{Harvid|山梨県|1928}}}}
:<!--バグ回避のための行-->
;展示
:*[http://www.sugiura-iin.com/ 風土伝承館 杉浦醫院 Webサイト] - 山梨県中巨摩郡昭和町
:*[https://miyairikinenkan.com/ 宮入慶之助記念館] - 特定非営利活動法人
:*[http://www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_tenjiannai_17chihobyo.htm 山梨県立博物館] - 常設展示 地方病との戦い
:*[https://www.kahaku.go.jp/event/2013/05kekkyuchu/ 国立科学博物館 - 企画展 『日本はこうして日本住血吸虫症を克服した - ミヤイリガイの発見から100年』 (開催期間 2013年5月15日 - 6月16日)]。2013年4月24日閲覧。
:<!--バグ回避のための行-->
;映像
:*
:*“[https://www.kagakueizo.org/movie/education/344/ 地方病との斗い 第二部 「治療と駆除」](モノクロ26分)”。企画:山梨県地方病撲滅協会 製作:東京文映株式会社(1978年)。2013年11月17日閲覧。
:*“[https://www.kagakueizo.org/movie/medical/362/ 人類の名のもとに](モノクロ30分)”。資料提供:山梨県/米陸軍第406総合医学研究所/山梨県中巨摩郡昭和町 製作:日映科学映画製作所(1959年)。NPO法人科学映像館 ライブラリー。2013年11月17日閲覧。
:*“[https://www.youtube.com/watch?v=vcOM6fHcYgg&feature=youtu.be&t=68“ 日本住血吸虫の生活サイクル Life Cycle of Schistosoma Japonicum”]-[[YouTube]](カラー17分)”。[[巨摩共立病院]]名誉院長 加茂悦爾の研究記録撮影 加茂純子 編集 富井湧。2016年10月13日閲覧。
:*[https://www.youtube.com/watch?v=VWh4eCEGgVg 静かなる恐怖 -日本住血吸虫病-(昭和36年6月16日公開) - 中日ニュース387号(動画)]・[https://chunichieigasha.co.jp/ 中日映画社]
{{Featured article}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ちほうひよう}}
[[Category:住血吸虫症]]
[[Category:寄生虫病]]
[[Category:山梨県の歴史]]
|