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| name = フレッド・アーチャー<br>Fred Archer
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}}'''フレデリック・"フレッド"・ジェームズ・アーチャー'''(''Frederick James Archer'', [[1857年]][[1月11日]] - [[1886年]][[11月8日]])は、19世紀の[[イギリス]]を代表する[[騎手]]<ref name="history_Longrigg">{{Cite book|和書|author=ロジャー・ロングリグ|title=競馬の世界史|publisher=日本中央競馬会弘済会||year=1976|pages=147-150|chapter=19世紀のイギリス 騎手}}</ref>。
決断力があり、力強い騎乗ぶりで人気を博し<ref name="history_Longrigg"/>、8084回騎乗して2748勝を挙げた<ref name="HR_Craig">{{Cite book|和書|author=ダニエル・クレイグ|title=競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史|publisher=中央競馬ピーアールセンター||year=1986|pages=82-83,262-263}}</ref>。[[クラシック (競馬)|クラシック競走]]通算21勝、1874年から13年連続の[[リーディングジョッキー]](最多勝利騎手)獲得など群を抜く成績を挙げた。1886年に29歳で[[拳銃]][[自殺]]を遂げた。
== 生涯 ==
1857年1月11日 [[イングランド]]
[[1867年]]、11歳の時に[[ニューマーケット (サフォーク州)|ニューマーケット]]に出て[[マシュー・ドーソン]]に弟子入りし、以降ドーソンの元で技術を磨いた。この時点でアーチャーの体重は60ポンド後半(約30kg)程度であったといわれる。翌年10月には非公式の競走ながら12歳で騎手としてデビューを迎え、公式競走に初出走した1870年秋に[[障害競走]]で初勝利を挙げた。その後すぐに頭角を現すことはなかったが、
=== ベンドアでのダービーの逸話 ===
1880年のエプソムダービーの1ヶ月前、アーチャーは調教中に重傷を負った。アーチャーは、気性の悪いミューリーエドリスという馬を走らせるために強く鞭を入れた。ミューリーエドリスはアーチャーが下馬した時を狙って襲いかかり、アーチャーは押し倒されたうえに腕に噛みつかれて筋肉を断裂する大怪我をした。怪我と痛みは長引き、ダービーの時期になっても治癒しなかった。アーチャーはダービーの直前にロンドンの医者に行き、ダービーに行きたいと申し出た。医者は、アーチャーが騎手であると知らず、誰かに連れて行ってもらえるならダービーに行っても構わないと診断した<ref name="derby_Alastair"/><ref name="HR_Craig"/>。
アーチャーは怪我した腕を鉄板と包帯で固定し、痛み止めを服用して大本命の[[ベンドア]]に乗った。ベンドアはダービーがこの年最初の出走で、勝負どころで[[ロバートザデヴィル]]([[:en:Robert the Devil (horse)|Robert the Devil]])に離された上、最終コーナーで内側の柵に衝突しそうになり、アーチャーは片脚をベンドアの頸に持ち上げて避けなければならなかった。アーチャーはなんとかベンドアを走らせようとしたが、怪我をして固定した方の腕で持っていた鞭を落としてしまった。最後の直線の勝負で、アーチャーは片腕だけでベンドアを御した。ベンドアは一気に伸びて先頭のロバートザデヴィルに迫った。勝利を確信して油断したロバートザデヴィルの騎手は、ベンドアの猛追に気づいて鞭を入れたが、手遅れになった。ベンドアは頭ひとつだけロバートザデヴィルを捉えて優勝した。このダービーは、クラシック史上最も激しいレースの一つに挙げられている<ref name="derby_Alastair"/><ref name="HR_Craig"/><ref name="TH_BendOr">[http://www.tbheritage.com/Portraits/BendOr.html サラブレッド・ヘリテイジ ベンドア]-2013年5月21日閲覧。</ref><ref name="#1">『競馬の世界史』p132</ref>。ベンドアの馬主であった[[ヒュー・グローヴナー (初代ウェストミンスター公爵)|初代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナー]]は、初めてのダービー制覇に歓喜し、アーチャーに500ポンドを贈呈した<ref name="HR_Craig"/>。
レースの後、ベンドアに替え玉疑惑が持ち上がった。後世の調査では確かにベンドアは替え玉であったことが判明しているが<ref name="derby_Alastair"/><ref>タドキャスター(Tadcaster)という名の馬と入れ替わっていたことが判っている。タドキャスターはベンドアと同じ[[ドンカスター (競走馬)|ドンカスター]]の産駒で、ベンドアと同厩だった。[http://www.ownerbreeder.co.uk/2011/05/tony-morris-may-2011/ Thoroughbred Owner & Breeder誌「ベンドアの謎」]-2013年5月21日閲覧。</ref>、当時の裁定はベンドアを真正な優勝馬と認定した。アーチャーにとっては2度めのダービー優勝となった。
=== ファルマス子爵の専属騎手 ===
{{multiple image|footer=第6代[[ファルマス子爵]][[エヴリン・ボスコーエン (第6代ファルマス子爵)|エヴリン・ボスコーエン]](左)と、子爵の持ち馬{{仮リンク|シルヴィオ|en|Silvio_(horse)}}(右)。アーチャーはシルヴィオとともにダービー初優勝を果たした。|align=|caption_align=center|total_width=290|image1=Boscawen_E_Vanity_Fair_1877-09-01.jpg|caption1=|image2=Silvio_and_Fred_Archer.jpg|caption2=}}
[[エヴリン・ボスコーエン (第6代ファルマス子爵)|第6代ファルマス子爵エヴリン・ボスコーエン]]は高潔な人物として知られていた。彼はもともと牧師の息子だったが、親族の[[ファルマス子爵|ファルマス子爵家]]当主([[ジョージ・ボスコーエン (第2代ファルマス伯爵)|ジョージ・ボスコーエン]])が後継者のないまま死去したため、親戚として爵位を継承することになった<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor1-last=Cokayne|editor1-first=George Edward|editor1-link=ジョージ・エドワード・コケイン|editor2-last=Gibbs|editor2-first=Vicary|editor2-link=ヴィカリー・ギブス (セント・オールバンズ選挙区の庶民院議員)|editor3-last=Doubleday|editor3-first=Herbert Arthur|year=1926|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat)|volume=5|edition=2nd|___location=London|publisher=The St. Catherine Press, Ltd.|language=en|pages=248–250|url=https://archive.org/details/CokayneG.E.TheCompletePeerageSecondEditionVolume5EAGO/page/n133}}</ref>。弁護士でもあるファルマス卿は十分な資産にも恵まれており、道徳と経済との理由で、賭博に対しては厳しい考え方の持ち主だった<ref name="derby_Alastair" /><ref>ファルマス卿はほとんど全く賭けをしなかったが、馬を預けた調教師の妻との賭けで6ペンスだけ負けたことがある。その時ファルマス卿は、ダイヤモンドの中に6ペンスを埋めて支払った。『競馬の世界史』p132</ref>。
ファルマス卿は[[ケント (イングランド)|ケント]]に所有する城に牧場を拓き、競走馬の生産を行なった。ファルマス卿は競馬で優れた能力を示した牝馬だけを繁殖に用いることで、特筆すべき優秀な生産者となった。10年ほどの間に自家生産馬で何回か馬主ランキングの首位になった<ref name="#1"/>。1874年にアーチャーが初めてクラシックレースに優勝した後、ファルマス卿はアーチャーを年間100ポンドの契約で専属騎手に迎えた。ファルマス卿の生産馬は名調教師の[[マシュー・ドーソン]]に預けられ、アーチャーが騎乗した。アーチャーのダービー初優勝のシルヴィオもファルマス卿の持ち馬で、このほかアーチャーが勝った大レースの半数以上は、ファルマス卿の所有馬によるものだった<ref name="HR_Craig"/><ref name="derby_Alastair"/>。
ベンドアで2度めのダービーに勝った翌年(1881年)、アメリカからイロコイ([[:en:Iroquois (horse)|Iroquois]])という馬が、イギリス競馬界に挑戦してきた。イロコイはアメリカのペンシルヴァニア生まれのサラブレッドで、タバコ業で財を成した大富豪、[[:en:Pierre Lorillard IV|ピエール・ロリヤール]]の持ち馬だった。イロコイは2000ギニーで2着に敗れたが、このレースで別の馬に騎乗していたアーチャーは、イロコイが優れた競走馬であるとみた。ロリヤールの側では、ダービーに勝つためにイギリスで最高の騎手を乗せたいと考え、当時のチャンピオンジョッキーだったアーチャーに騎乗依頼を出した。ファルマス卿もこの年のダービーに出走馬を持っていたが、自分の専属騎手であるアーチャーがイロコイに乗ることを許した。アメリカでは、フレッド・アーチャーが騎乗することになったのでイロコイの勝利は確実だと報道するものもいた。アーチャーはダービーで堅実な騎乗をみせ、クビ差でイロコイを勝利に導いた。アメリカ産馬がイギリスのダービーに優勝するのは歴史上初めてのことだった<ref name="derby_Alastair"/><ref name="TH_Iroquois">[http://www.tbheritage.com/Portraits/MaggieBB.html サラブレッド・ヘリテイジ マギーBB]-2013年5月21日閲覧。</ref>。イロコイの勝利は『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙の一面を飾り、『[[インターナショナル・ヘラルド・トリビューン|ニューヨークヘラルド]]』紙は特集記事を組んだ。ロリヤールはダービーの賞金の半分ほどをアーチャーに与えた<ref>『ダービーの歴史』p60</ref>。
1883年、アーチャーはファルマス卿のガリアード(Galliard)で2000ギニーに勝ち、ダービーに駒を進めた。この年のダービーは素晴らしい天候に恵まれ、[[エドワード7世 (イギリス王)|皇太子夫]][[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|妻]]を筆頭に多数の王室関係者も臨席した。ガリアードはダービーの本命だった。このレースにはハイランドチーフ(Highland Chief)という人気のない馬が出走していたが、ハイランドチーフは、アーチャーの実兄であるチャールズ・アーチャーの調教馬で、チャールズ自身、ハイランドチーフの馬券に財産をつぎ込んでいた<ref name="derby_Alastair"/>。
最後の直線で、ガリアード、2番人気のセントブレーズ([[:en:St. Blaise (horse)|St. Blaise]])とハイランドチーフの3頭の叩き合いになり、クビ差(またはアタマ差)でセントブレーズがハイランドチーフを抑え、半馬身遅れてガリアードが3着になった。すぐに、アーチャーが兄のハイランドチーフを勝たせるために八百長をやって、ゴール前でガリアードを故意に抑えたのだという疑惑が巻き起こり、新聞はアーチャーに対する非難で持ちきりになった。実際、兄のチャールズは勝ったセントブレーズとハイランドチーフの馬券を買っていた。ハイランドチーフが実際にわずかにセントブレーズに先着していたが、アーチャー兄弟をよく思っていなかった決勝審判がセントブレーズが勝ったと判定したのだ、と唱える者もいた<ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=AS18830818.2.28.18.5&srpos=1&e=11-08-1883-20-08-1883--10--1----1Blaize+Blaise-- セントブレーズはダービーの真の勝者か?と伝える当時の記事(Auckland Star誌1883年8月13日号)]-2013年5月21日閲覧。</ref><ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=OW18830707.2.53.3&srpos=6&e=01-07-1883-10-07-1883--10--1----1Blaise+Blaize-- レースの様子を伝える当時の新聞Otago Witness紙 1883年7月7日号]-2013年5月21日閲覧。</ref><ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=ST18830904.2.25&srpos=1&e=01-09-1883-10-09-1883--10--1----1Blaize+Blaise-- レースの様子を伝える当時の新聞Southland Times紙 1883年9月4日号]-2013年5月21日閲覧。</ref>。
ファルマス卿はこの醜聞によって、競馬から手を引くことを決断し、アーチャーとの契約を破棄して所有馬と牧場を売却した。アーチャーは、金に意地汚い「The Tin Man」(「ブリキ職人」「銭職人」「ブリキ屋」)と揶揄された<ref name="history_Longrigg"/><ref name="derby_Alastair"/><ref name="HR_Craig"/>。アーチャーは生涯で5回イギリスダービーに優勝するが、このダービーでの八百長がなければ6回勝っていただろうと言われている<ref name="derby_Alastair"/>。
=== 結婚と不幸 ===▼
[[ファイル:Melton vs Paradox.jpg|thumb|1885年ダービー、メルトンとパラドックスの接戦]]
これより前、1883年1月31日に
1885年、アーチャーはアメリカから帰国すると、メルトン([[:en:Melton (horse)|Melton]])でダービーに出た。メルトンは脚に不安を抱えており、ドーソン調教師が手がけたなかでも最も難しい馬の1頭だった。この年最高の有力馬はパラドックス([[:en:Paradox (horse)|Paradox]])で、既に2歳チャンピオン戦の[[デューハーストステークス|デューハーストプレート]]と2000ギニーに勝っていた<ref name="derby_Alastair"/><ref name="TH_Melton">[http://www.tbheritage.com/Portraits/Melton.html サラブレッド・ヘリテイジ メルトン]-2013年5月21日閲覧。</ref><ref name="TH_Paradox">[http://www.tbheritage.com/Portraits/Sterling.html#Paradox サラブレッド・ヘリテイジ パラドックス]-2013年5月21日閲覧。</ref>。
メルトンは既に何度かパラドックスに敗れており、誰が見てもパラドックスの方が強いと思われたが、パラドックスにも騎乗経験があったアーチャーは、パラドックスは先頭に立つとたじろぐ癖があることに気づいていた。アーチャーはスタートで意図的にメルトンを出遅れさせ、パラドックスを先行させた。アーチャーの読み通り、最後の直線でパラドックスは先頭に立った後、不安そうに怯んだ。残り50ヤード(約46メートル)からアーチャーはメルトンを一気に追い出し、パラドックスに並ぶと、最後の1完歩、残り1フィート(約30センチ)というところでメルトンの頭を前に押し出した。メルトンはちょうどアタマ1つ分の差でダービー優勝馬となった。この勝利は、アーチャーの最高の騎乗の一つと言われている。このレースを観戦していた詩人[[オスカー・ワイルド]]はこのダービーを、“[[ジョン・ミルトン|ミルトン]]による『[[失楽園]]』”(英語で“Paradaise Lost by Milton”)をもじって、“ミルトンによるパラドックスの敗北(Pradox Lost by Milton)”と伝えた。2着に惜敗したパラドックスはその後フランスでパリ大賞典に勝った。メルトンの方は秋のセントレジャーまで休養を余儀なくされたが、セントレジャーに勝って二冠馬となった<ref name="derby_Alastair"/><ref name="TH_Melton"/><ref name="TH_Paradox"/><ref>[http://www.artfact.com/auction-lot/lowes-cato-dickinson-1819-1908-the-birdcage-at-1-c-obeceu3cra オスカー・ワイルドがパラドックスの馬主に宛てた書簡の内容]-2013年5月21日閲覧。</ref>。
この年、ヘレンの死去後最初のシーズンとなった1885年は、クラシック競走で4勝、さらにシーズン自己最多の246勝を挙げた。これは年間最多勝記録として長く残り、1932年に[[ゴードン・リチャーズ]]に破られるまで48年間保持され
=== 三冠馬オーモンドと最後のシーズン ===
▲[[1867年]]、11歳の時に[[ニューマーケット]]に出て[[マシュー・ドーソン]]に弟子入りし、以降ドーソンの元で技術を磨いた。この時点でアーチャーの体重は60ポンド後半(約30kg)程度であったといわれる。翌年10月には非公式の競走ながら12歳で騎手としてデビューを迎え、公式競走に初出走した1870年秋に[[障害競走]]で初勝利を挙げた。その後すぐに頭角を現すことはなかったが、16歳を迎えた1873年は騎乗数を前年の倍以上に伸ばし、勝利数も前年の27から一挙に107まで伸ばした。翌年にはアトランティック(Atlantic)に騎乗して[[2000ギニー]]に優勝。17歳にしてクラシック競走を初制覇すると、この年147勝を挙げて初のリーディングジョッキーも獲得した。翌年には172勝を挙げてイギリスの年間最多勝記録を更新。スピナウェイ(Spinaway)に騎乗して[[1000ギニー]]連覇、さらに[[オークス|エプソムオークス]]にも優勝した。1876年には年間勝利数を史上初となる200に乗せ、1877年にはドーソンが管理するシルヴィノ(Silvino)に騎乗し[[ダービーステークス|エプソムダービー]]と[[セントレジャーステークス]]に優勝。弱冠20歳にしてクラシック競走完全制覇を果たした。以降もクラシック競走に次々と優勝、アーチャー騎乗馬の馬券を買う者が悉く的中する事から、ファンからは「The Tinman」(金の男)と渾名され、「アーチャーが乗れば[[カタツムリ]]でも勝てる」と言われるほどの活躍を見せた。1880年のエプソムダービーでは、3週間前に馬に右腕を噛まれて負傷しながら、患部を鉄板で固定して出場。[[ベンドア]]を駆って優勝している。
[[ファイル:1886-derby.JPG|thumb|1886年のダービーを勝つオーモンドとアーチャー]]
身長178cmと大柄であったアーチャーは、オフシーズンには体重が11ストーン(約69.9kg)前後まで増加するようになり、減量に苦しみ始めた。アーチャーは減量するためにダイナマイトの粉末を服用した<ref name="history_Longrigg"/>。1886年は騎乗数を減らしたが、それでも170勝を挙げてリーディングの首位を占めていた。
この年のクラシックシーズンの初めに人気になったのは[[オーモンド (競走馬)|オーモンド]]とサラバンド(Saraband)で、2000ギニーではこの2頭が僅差の1番人気、2番人気だった。アーチャーはオーモンドが2歳の頃から騎乗して大レースに勝っていたが、2000ギニーではサラバンドに騎乗した。結果はオーモンドの楽勝で、サラバンドは大きく離された4着に終わった。ダービーではアーチャーはオーモンドに乗り、ザバード(The Bard)を半馬身抑えて優勝した。3着にはセントミリン(St.Mirin)という馬が入ったが、このセントミリンが後にアーチャーの死のきっかけとなった<ref name="derby_Alastair"/>。
▲=== 結婚 ===
▲1883年1月31日に師匠ドーソンの姪に当たるヘレン・ローズ・ドーソンと結婚する。新婚旅行で訪れた[[トーキー (デヴォン州)|トーキー]]にはアーチャーの姿を一目見ようとする人々が押しかけ、さながらロイヤルウェディングのようであったという。この年は勝利数を232とし、自己新記録を更新した。しかし、翌年1月に誕生した長男が出産直後に死亡するという不幸に見舞われる。競馬においては史上最速のペースで勝利数を伸ばし、577戦で241勝という驚異的な数字を挙げる。だが241勝目を挙げた当日、妻ヘレンが長女の出産の際に23歳の若さで死去。このシーズン、アーチャーはこの日を限りに一切の騎乗を取り止め、3ヶ月以上の間アメリカへ旅行に赴いた。以降のアーチャーは雰囲気が一変し、周囲に明るい表情を見せることはなくなったといわれる。
9月に行なわれた三冠目の[[セントレジャーステークス|セントレジャー]]では、アーチャー騎乗のオーモンドが楽勝して[[イギリスクラシック三冠|三冠]]を達成し、2着にセントミリンが入った。セントミリンはこの後、10月の[[ケンブリッジシャーハンデキャップ|ケンブリッジシャーハンデ]]に出ることにした。このハンデ戦はイギリスを代表する大レースの一つで、アーチャーはまだこの大レースにだけは勝ったことがなかった。セントミリンの馬主の{{仮リンク|キャロライン・ベレスフォード (モントローズ公爵夫人)|en|Caroline_Beresford,_Duchess_of_Montrose|label=モントローズ公爵夫人キャロライン}}は、かねてから何度もアーチャーに騎乗を打診していたが、いつもアーチャーはこれを断っていた。しかし、まだ勝っていないケンブリッジシャーハンデに出るために、アーチャーはセントミリンの騎乗依頼を受けることにした<ref name="derby_Alastair"/>。
▲ヘレンの死去後最初のシーズンとなった1885年は、クラシック競走で4勝、さらにシーズン自己最多の246勝を挙げた。これは年間最多勝記録として長く残り、1932年に[[ゴードン・リチャーズ]]に破られるまで48年間保持された。しかし身長178cmと大柄であったアーチャーは、オフシーズンには体重が70kg前後まで増加するようになり、減量に苦しみ始める。翌年は騎乗数を減らしたが、それでも170勝を挙げてリーディングの首位を占めていた。
=== 自殺 ===
セントミリンに示されたハンデキャップは8ストーン6ポンド(約53.6キロ)だった。アーチャーはセントミリンに乗るために無理な減量を行った。3日間絶食して下剤を飲み続け、蒸し風呂に入り続けた。アーチャーは体調を落とし、精神的にも追い詰められていた。結局、体調不良のアーチャーが乗ったセントミリンはアタマ差で2着に敗れた。結果的に、ケンブリッジシャーハンデは、アーチャーが唯一勝てなかった重賞となった<ref name="derby_Alastair"/><ref name="HR_Craig"/>。
しかし11月4日に騎乗したロスチャイルドプレート競走後に体調不良を訴える。不調を圧して次に組まれていたキャッスルプレートにも出場したが惨敗を喫し、これが最後の騎乗となった。翌5日にはニューマーケットの自邸に戻り療養するが病状は更に悪化し、高熱と悪寒に苛まれベッドから起き上がる事もままならない状態となった。11月8日には[[腸]][[チフス]]と診断される。▼
▲
アーチャーの病室には、看護士と姉コールマン夫人が看病に当たっていた。アーチャーは[[看護士]]に休憩を勧め部屋から出し、コールマン夫人に換気のため半開きになった窓を閉めるように言った。彼女が窓を閉めようとアーチャーから目を離している間にアーチャーは床に立ち上がり、隠し持っていた拳銃を構え、「Are they coming?(奴ら、来たか?)」と呟いた。この不可解な言葉を聞き取ったコールマン夫人が、背後の異変に気付き制止しようとしたが、アーチャーはこれを払いのけ、銃口を口に咥える形で引き金を引き自殺した。アーチャーはそのまま背後の椅子に座り込むように倒れたといわれる。29歳であった。この時の拳銃は、ニューマーケットの競馬博物館に展示されている。▼
▲11月8日には、アーチャーは幾分回復したように見えた。アーチャーの病室には、看護士と姉コールマン夫人が看病に当たっていた。アーチャーは[[看護士]]に休憩を勧め部屋から出し、コールマン夫人に換気のため半開きになった窓を閉めるように言った。彼女が窓を閉めようとアーチャーから目を離している間にアーチャーは床に立ち上がり
== 通算成績 ==
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|1885年||667||246||.369||Paradox(2000ギニー、パリ大賞)<br />Melton(ダービー、セントレジャーステークス)<br />Lonely(オークス)
|-
|1886年||512||170||.332||[[オーモンド (競走馬)|Ormonde]](ダービー、セントレジャーステークス、チャンピオンステークス)<br />Minting(パリ大賞)
|-
|通算||8,084||2,748|| .340||
|}
== アーチャーが登場する作品 ==
*ピーター・ラヴゼイ『殿下と騎手』(1981年 原題:Bertie and the Tinman)
**主人公のプリンスオブウェールズがアーチャーの自殺の真相を突き止めるミステリ小説。
== 参考文献 ==
*『ダービーの歴史』アラステア・バーネット、ティム・ネリガン著、千葉隆章・訳、(財)競馬国際交流協会刊、1998
*『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』デニス・クレイグ著、マイルズ・ネーピア改訂、佐藤正人訳、中央競馬ピーアールセンター刊、1986
*『競馬の世界史』ロジャー・ロングリグ・著、原田俊治・訳、日本中央競馬会弘済会・刊、1976
== 出典・注釈 ==
<references/>
== 関連項目 ==
{{DNB01 poster|Archer, Frederick|Frederick Archer}}
*[[セントサイモン]] - 10戦中6戦でアーチャーが騎乗。[[種牡馬]]として後世のサラブレッドに多大な影響を与えた。
*{{commonscat-inline|Fred Archer}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ああちやあ ふれつと}} [[Category:1857年生]]
[[Category:1886年没]]
[[Category:イギリスの騎手]]
[[Category:
[[Category:自殺したイギリスの人物]]
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