「スヴャトポルク1世」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
 
(10人の利用者による、間の24版が非表示)
3行目:
| 各国語表記 = {{lang|ru|Свѧтополкъ Владимировичь Окаянный}}
| 君主号 = キエフ大公
| 画像 = Sviatopolk silver srebrenikSviatopolk_I_of_Kiev.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 『呪われたスヴャトポルクの銀貨({{lang|ru|[[:ru:Сребреник|Сребреник]]}})』В・シェレメテフ 1867年
| 在位 = [[1015年]] - [[1016年]]<br>[[1018年]] - [[1019年]]
| 戴冠日 =
28行目:
| サイン =
}}
'''スヴャトポルク'''({{lang-orv|Свѧтополкъ}}、980年頃 - 1019年、スビャトポルクとも)は[[キエフ大公国]]の[[キエフ大公|大公]]。父・[[ウラジーミル1世]]の没後、弟の[[ヤロスラフ1世]]などと対立しながら継承権を巡って争い一時はポーランド王[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]]の助力を得て短期間キエフ大公の座についたが、最期はヤロスラフに敗れ逃走中に病死した。
 
『[[原初年代記]]』では、その修道女を母に持つという出自に加え、後に列聖された異母弟[[ボリスとグレブ]]を権力争いの末暗殺したためにことから「呪われたスヴャトポルク」と呼ばれている<ref>[[#除村(1946)|除村(1946), p.56]]</ref><ref name=tanaka110>[[#田中1995|田中(1995)p.110]]</ref><ref name=ru56>[[#ロシア歴史上|「ロシアの歴史(上)」(2011), p.56]]</ref>。
 
== 出自 ==
キエフ大公国(スヴャトポルクの祖父でキエフ・ルーシの公[[スヴャトスラフ1世|スヴャトスラフ]]は、[[東ローマ帝国|ビザンツ]]遠征した美しいギリシア人修道女を捕え、長男[[ヤロポルク1世|ヤロポルク]]に妻として与えた。972年にスヴャトスラフがペチェネグ族に襲撃され去すると、ヤロポルクは弟オレグとの争いを経てキエフ・ルーシの公となるが、980年に弟[[ウラジーミル1世|ウラジーミル]]の手先によって殺害され、ウラジーミルがた。キエフ・ルーシの大公となった。このときウラジーミルはヤロポルクの未亡人であるギリシア女性を自分のものとしたが、このときこの女性はすでに妊娠しており、やがて生まれたのがスヴャトポルクであった。この出自について『原初年代記』では次のように記述している。「''罪の根からは悪い果実が生じる。…父は彼を愛さなかった。彼(スヴャトポルク)は二人の父 - ヤロポルクとウラジーミル - から生まれたのである''。」<ref name=yokemura61>[[#除村(1946)|除村(1946), p.61]]</ref>
 
988年、スヴャトポルクは公として[[キエフ]]北西の町[[トゥーロフ]]に赴任し、ポーランド公[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]](勇敢王)の娘を妻に迎えた。このときコウォブジェク司教ラインベルンが王女の随伴としてトゥーロフへ来ている。だが後にウラジーミルはスヴャトポルクがボレスワフ王と通じているとして、妻およびラインベルン司教ともどもスヴャトポルクを投獄したという<ref>[[#国本1987|国本『年代記』]], p.454</ref>。
38 ⟶ 39行目:
== キエフ大公位を巡る戦い ==
[[File:Radzivill chronicle 158.jpg|thumb|『[[ラジヴィウ年代記]]』に描かれた1016年のヤロスラフとの戦い]]
[[File:Sviatopolk silver srebrenik.jpg|thumb|スヴャトポルクの銀貨({{lang|ru|[[:ru:Сребреник|Сребреник]]}})]]
1015年、貢税の支払を停止した息子[[ヤロスラフ1世|ヤロスラフ]]を懲罰するために遠征軍の準備をしていたウラジーミルが急死すると、キエフの人々の一部でウラジーミルが寵愛した[[ボリスとグレブ|ボリス]]にキエフ大公に迎えようとする動きがあった。『原初年代記』によれば、このときキエフ大公の座を狙うスヴャトポルクはキエフ近郊の町[[ヴィーシュホロド|ヴィシェゴロド]]の貴族らにボリスの殺害を指示したという<ref>[[#国本1987|国本『年代記』]], p.150</ref>。[[ペチェネグ]]人討伐のためウラジーミルから兵を与えられていたボリスは、配下の兵からの「スヴャトポルクを討つべきだ」という献言を退け、無抵抗のうちにリト川の付近で殺された。スヴャトポルクは続いて年端のいかぬ異母弟グレブにも暗殺者を送って殺害し、その遺体は暗殺者らによって「荒野の二本の丸太のあいだに投げ捨てられた」<ref>[[#三浦2011|三浦『ボリスとグレープの列聖』]], p.146</ref><ref name=kunimoto156>[[#国本1987|国本『年代記』]], p.156</ref>。
{{Main|ルーシ内戦 (1015年-1019年)}}
1015年、貢税([[ダーニ]])の支払を停止した息子[[ヤロスラフ1世|ヤロスラフ]]を懲罰するために遠征軍の準備をしていたウラジーミルが急死すると、キエフの人々の一部でウラジーミルが寵愛した[[ボリスとグレブ・ウラジミロヴィチ (ロストフ公)|ボリス]]キエフ大公に迎えようとする動きがあった。『原初年代記』によれば、このときキエフ大公の座を狙うスヴャトポルクはキエフ近郊の町[[ヴィーシュホロド|ヴィシェゴロド]]の貴族らにボリスの殺害を指示したという<ref>[[#国本1987|国本『年代記』]], p.150</ref>。[[ペチェネグ]]人討伐のためウラジーミルから兵を与えられていたボリスは、配下の兵からの「スヴャトポルクを討つべきだ」という献言を退け、無抵抗のうちにリト川の付近で殺された。スヴャトポルクは続いて年端のいかぬ異母弟グレブにも暗殺者を送って殺害し、その遺体は暗殺者らによって「荒野の二本の丸太のあいだに投げ捨てられた」<ref>[[#三浦2011|三浦『ボリスとグレープの列聖』]], p.146</ref><ref name=kunimoto156>[[#国本1987|国本『年代記』]], p.156</ref>。
 
一方ヤロスラフは、[[ノヴゴロド]]でウラジーミル死去とボリスとグレブ殺害の報に触れた<ref name=kunimoto160>[[#国本1987|国本『年代記』]], p.160</ref>。ノヴゴロド市民と[[ヴァリャーグ]]傭兵たちの支援を受けたヤロスラフは、1016年の晩秋、[[リューベチ]]近郊で[[ドニエプル川]]を挟んでスヴャトポルクと3か月間ほど対峙し<ref>[[#国本1987|国本『年代記』]], pp.160-161</ref>、湖が結氷してペチェネグからの援軍を得られなくなったスヴャトポルクを破った<ref>[[#国本1987|国本『年代記』]], pp.161-162</ref>。『ノヴゴロド第一年代記』によると、スヴャトポルク軍にヤロスラフ側と内通する者がおり、この内通者の情報を得て夕方渡河したヤロスラフ軍が夜戦でスヴャトポルク軍を破ったという<ref>[[#国本1987|国本『年代記』]], p.457</ref>。敗れたスヴャトポルクは[[ポーランド王国|ポーランド]]に落ち延び、義父[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ勇敢王]]を頼ったが、ボレスワフはこれをむしろキエフ・ルーシ侵攻の好機と捉えた<ref name=ru57>[[#ロシア歴史上|「ロシアの歴史(上)」(2011), p.57]]</ref>。
 
1018年、スヴャトポルクはボレスワフ王率いるポーランド軍の助力を得て[[ヴォルィーニ|ヴォルイニ]]でヤロスラフを破り、ヤロスラフはノヴゴロドへ退散した<ref>[[#国本1987|国本『年代記』]], pp.162-163</ref>。だが、この後キエフを支配したのはスヴャトポルクではなくボレスワフであった<ref name=ru57/>。ボレスワフは部下に「食糧を求めに私の従士団を(手分けして)町々に行かせよ」と命じ<ref name=kunimoto163>[[#国本1987|国本『年代記』]], p.163</ref>、ポーランド兵は「食を得るために」キエフに留まり続けた<ref name=yokemura810>[[#除村(1946)|除村(1946), p.810]]</ref>。ここに至ってスヴャトポルクはボレスワフ王と決別し、「町中にいるすべてリャヒ(ポーランド人)を殺せ」と人々にポーランド人の殺害を命じたため、ボレスワフは略奪品と共にポーランドに引き上げたが、その過程で[[チェルヴェンの諸都市[[:ru:Червенские города|(ru)]]を占領した<ref name=kunimoto163/>。
 
ボレスワフが去った後スヴャトポルクは改めて公としてキエフを治めはじめたが又もヤロスラフ軍の襲撃を受け、今度はペチェネグへと逃亡した<ref name=kunimoto164>[[#国本1987|国本『年代記』]], p.164</ref>。1019年、スヴャトポルクはペチェネグの大軍を引き連れヤロスラフ討伐を図り、キエフ南方のリト川付近で交戦した。夜明けと共に始まった戦いは「''かつてルーシにはなかった''」「''血が谷間を流れる''」(『原初年代記』)ほどの激しい戦闘となったが、夕方近くになるとヤロスラフ軍が勝利し、スヴャトポルクは敗走した<ref name=kunimoto164165>[[#国本1987|国本『年代記』]], pp.164-165</ref>。敗れたスヴャトポルクはリャヒ([[ポーランド王国]])とチェヒ([[チェコ]])の間の荒野へと落ち延びたが、『原初年代記』によれば「''[[悪魔]]が彼を襲った''」ため馬にも乗れないほど衰弱し、最後は病に伏せてその生涯を終えたという<ref name=ru57/><ref name=kunimoto165>[[#国本1987|国本『年代記』]], p.165</ref>。
 
== 異説 ==
[[File:Svyatopolk Forgiven.jpeg|thumb|19世紀、ボリス・チョリコフによる[[銅版画]] 『敗れるスヴャトポルク』]]
スヴャトポルクによる[[ボリスとグレブ]]の殺害について、НニコライНニコラエヴィチ・イリインは1957年の著書({{lang|ru|Ильин Н.Н. Летописная статья 6523 года и ее ис-точник, опыт анализа. М., 1957}})で、ボリスを殺したのはスヴャトポルクではなくヤロスラフであり、『原初年代記』や物語の記述はヤロスラフの命により捏造されたものであるとの見方を示した<ref name=miura201391>[[#三浦2013|三浦 (2013)]], p.91</ref>。イリインが注目した「古代の[[サガ]]」のひとつ『[[エイムンドのサガ]]』によれば、[[ノルウェー]]のエイムンドはヴァリダマル(ウラジーミル)の死後[[ガルダリキ]][[キエフ・ルー|ルーシ]])に傭兵として入り、ヴァリダマルの息子ヤリスレイフと協力してその弟ブリスレイフを倒したという<ref name=miura201391/>。イリインはこのヤリスレイフをヤロスラフに、ブリスレイフをボリスに同定し、ボリス殺害はヤロスラフによるものとの仮説を主張した<ref name=miura201391/>。
 
この説に対し、[[北海道大学]]名誉教授の[[福岡星児]]は『ボリースとグレープの物語 (訳及び解説)』(1959年)の中で「実証的であり説得力も強い」と一定の評価を下したが<ref>[[#福岡1959|福岡 (1959)]], p.107</ref>、一方で[[サンクトペテルブルク大学]]歴史学部のН.И. ミリュチェンコらは[[史料]]学的な不安定さを指摘してこの仮説に異議を唱えている<ref name=miura20139192>[[#三浦2013|三浦 (2013)]], pp.91-92</ref>。
57 ⟶ 60行目:
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[除村吉太郎]]|authorlink=除村吉太郎 |year=1946 |title=ロシヤ年代記 |publisher=弘文堂書房 |ref=除村(1946)}}
* {{Cite book|和書|author=|chapter=|editoreditor1-first=陽兒|editor1-last=田中|editor1-link=[[田中陽兒]]・[[|editor2-first=俊一|editor2-last=倉持|editor2-link=倉持俊一]]・[[|editor3-first=春樹|editor3-last=和田|editor3-link=和田春樹]]編|year=1995|month=9|title=世界歴史大系 ロシア史1(9世紀-17世紀)|publisher=[[山川出版社]]|series=|isbn=4-634-460602|ref=}}
** {{Cite book|和書|author=[[田中陽兒]]|authorlink=田中陽兒|chapter=キエフ国家の形成|editor=田中・倉持・和田|year=1994|month=|title=世界歴史大系 ロシア史1|publisher=山川出版社|series=|isbn=|ref=田中1995}}
* {{Cite book|和書|authorothers=訳者代表 [[国本哲男|國本哲男]][[山口巌 (ロシア語学者)|山口巌]][[中条直樹]] |year=1987 |title=ロシア原初年代記 |publisher=[[名古屋大学出版会]] |isbn=978-4930689757 |ref=国本1987}}
* {{Cite book|和書|author=A・A ダニロフ、L・G コスリナ|translator=長屋房夫・佐藤賢明・土岐康子・寒河江光徳・佐藤裕子・山口恭子ほか|chapter=ロシアの歴史 16世紀末から18世紀まで|editor=アンドレイ・クラフツェヴィチ、吉田衆一(監修)|year=2011|month=7|title=ロシアの歴史 上 (古代から19世紀前半まで) ―ロシア中学校・高校歴史教科書― |publisher=[[明石書店]]|series=世界の教科書シリーズ31|isbn=4750334154|ref=ロシア歴史上}}
* {{Cite journal |和書 |author=[[三浦清美]] |url=httphttps://hdl.handle.net/2065/34483 |format=PDF |title=ボリスとグレープの列聖 |journal= |volume= |issue= |year=2011 |month=3 |publisher=早稲田大学ヨーロッパ中世・ルネサンス研究所 |issn=2186-005X, 2186-0068 |pages = 138-152 |ref=三浦2011 }}{{issn|2186-0068}}
* {{Cite journal |和書 |author=[[三浦清美]] |url=http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/slavic-studies/60/60contents.html |format=PDF |title=『ボリスとグレープについての物語』における語句、«НЕДОУМѢЮЩЕ, ЯКО ЖЕ БѢ ЛЕПО ПРЕЧЬСТЬНѢ»の解釈について:中世ロシアにおけるキリスト教と異教の融合過程の研究 |journal=スラヴ研究 |volume=60 |issue= |year=2013 |month= |publisher=[[北海道大学スラブ研究センター]] |ref=三浦2013 }}
* {{Cite journal |和書 |author=[[福岡星児]] |url=httphttps://hdl.handle.net/2115/4941 |format=PDF |title=ボリースとグレープの物語 (訳及び解説) |journal=スラヴ研究 |volume=3 |issue= |year=1959 |month= |publisher=[[北海道大学スラブ研究センター]] |ref=福岡1959 }}
 
== 関連項目 ==
70 ⟶ 73行目:
 
{{commonscat|Sviatopolk I of Kiev}}
{{先代次代|[[キエフ大公国#歴代大公|キエフ大公]]|<br />1015年-1016年<br>1018年-1019年|[[ウラジーミル1世]]|[[ヤロスラフ1世]]}}
{{キエフ大公一覧}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:すうやとほるく1}}
[[Category:キエフ大公]]
[[Category:ウラジーミル1世の子女]]
[[Category:リューリク祖家]]
[[Category:リューリク朝]]
[[Category:1019年没]]