「スヴャトポルク1世」の版間の差分
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| 各国語表記 = {{lang|ru|Свѧтополкъ Владимировичь Окаянный}}
| 君主号 = キエフ大公
| 画像 =
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 『呪われたスヴャトポルク
| 在位 = [[1015年]] - [[1016年]]<br>[[1018年]] - [[1019年]]
| 戴冠日 =
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| サイン =
}}
'''スヴャトポルク'''({{lang-orv|Свѧтополкъ}}、980年頃 - 1019年、スビャトポルクとも)は[[キエフ大公国]]の[[キエフ大公|大公]]。父・[[ウラジーミル1世]]の没後、弟の[[ヤロスラフ1世]]などと
『[[原初年代記]]』では、
== 出自 ==
988年、スヴャトポルクは公として[[キエフ]]北西の町[[トゥーロフ]]に赴任し、ポーランド公[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]](勇敢王)の娘を妻に迎えた。このときコウォブジェク司教ラインベルンが王女の随伴としてトゥーロフへ来ている。だが後にウラジーミルはスヴャトポルクがボレスワフ王と通じているとして、妻およびラインベルン司教ともどもスヴャトポルクを投獄したという<ref>[[#国本1987|国本『年代記』]], p.454</ref>。
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== キエフ大公位を巡る戦い ==
[[File:Radzivill chronicle 158.jpg|thumb|『[[ラジヴィウ年代記]]』に描かれた1016年のヤロスラフとの戦い]]
[[File:Sviatopolk silver srebrenik.jpg|thumb|スヴャトポルクの銀貨({{lang|ru|[[:ru:Сребреник|Сребреник]]}})]]
1015年、貢税の支払を停止した息子[[ヤロスラフ1世|ヤロスラフ]]を懲罰するために遠征軍の準備をしていたウラジーミルが急死すると、キエフの人々の一部でウラジーミルが寵愛した[[ボリスとグレブ|ボリス]]にキエフ大公に迎えようとする動きがあった。『原初年代記』によれば、このときキエフ大公の座を狙うスヴャトポルクはキエフ近郊の町[[ヴィーシュホロド|ヴィシェゴロド]]の貴族らにボリスの殺害を指示したという<ref>[[#国本1987|国本『年代記』]], p.150</ref>。[[ペチェネグ]]人討伐のためウラジーミルから兵を与えられていたボリスは、配下の兵からの「スヴャトポルクを討つべきだ」という献言を退け、無抵抗のうちにリト川の付近で殺された。スヴャトポルクは続いて年端のいかぬ異母弟グレブにも暗殺者を送って殺害し、その遺体は暗殺者らによって「荒野の二本の丸太のあいだに投げ捨てられた」<ref>[[#三浦2011|三浦『ボリスとグレープの列聖』]], p.146</ref><ref name=kunimoto156>[[#国本1987|国本『年代記』]], p.156</ref>。▼
{{Main|ルーシ内戦 (1015年-1019年)}}
▲1015年、貢税([[ダーニ]])の支払を停止した息子[[ヤロスラフ1世|ヤロスラフ]]を懲罰するために遠征軍の準備をしていたウラジーミルが急死すると、キエフの人々の一部でウラジーミルが寵愛した[[ボリス
一方ヤロスラフは、[[ノヴゴロド]]でウラジーミル死去とボリスとグレブ殺害の報に触れた<ref name=kunimoto160>[[#国本1987|国本『年代記』]], p.160</ref>。ノヴゴロド市民と[[ヴァリャーグ]]傭兵たちの支援を受けたヤロスラフは、1016年の晩秋、[[リューベチ]]近郊で[[ドニエプル川]]を挟んでスヴャトポルクと3か月間ほど対峙し<ref>[[#国本1987|国本『年代記』]], pp.160-161</ref>、湖が結氷してペチェネグからの援軍を得られな
1018年、スヴャトポルクはボレスワフ王率いるポーランド軍の助力を得て[[ヴォルィーニ|ヴォルイニ]]でヤロスラフを破り、ヤロスラフはノヴゴロドへ退散した<ref>[[#国本1987|国本『年代記』]], pp.162-163</ref>。だが、この後キエフを支配したのはスヴャトポルクではなくボレスワフであった<ref name=ru57/>。ボレスワフは部下に「食糧を求めに私の従士団を(手分けして)町々に行かせよ」と命じ<ref name=kunimoto163>[[#国本1987|国本『年代記』]], p.163</ref>、ポーランド兵は「食を得るために」キエフに留まり続けた<ref name=yokemura810>[[#除村(1946)|除村(1946), p.810]]</ref>。ここに至ってスヴャトポルクはボレスワフ王と決別し、「町中にいるすべてリャヒ(ポーランド人)を殺せ」と人々にポーランド人の殺害を命じたため、ボレスワフは略奪品と共にポーランドに引き上げたが、その過程で[[チェル
ボレスワフが去った後
== 異説 ==
[[File:Svyatopolk Forgiven.jpeg|thumb|19世紀、ボリス・チョリコフによる[[銅版画]] 『敗れ
スヴャトポルクによる[[ボリスとグレブ]]の殺害について、
この説に対し、[[北海道大学]]名誉教授の[[福岡星児]]は『ボリースとグレープの物語 (訳及び解説)』(1959年)の中で「実証的であり説得力も強い」と一定の評価を下したが<ref>[[#福岡1959|福岡 (1959)]], p.107</ref>、一方で[[サンクトペテルブルク大学]]歴史学部のН.И. ミリュチェンコらは[[史料]]学的な不安定さを指摘してこの仮説に異議を唱えている<ref name=miura20139192>[[#三浦2013|三浦 (2013)]], pp.91-92</ref>。
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=
* {{Cite book|和書|author=|chapter=|
** {{Cite book|和書|author=
* {{Cite book|和書|
* {{Cite book|和書|author=A・A ダニロフ、L・G コスリナ|translator=長屋房夫・佐藤賢明・土岐康子・寒河江光徳・佐藤裕子・山口恭子ほか|chapter=ロシアの歴史 16世紀末から18世紀まで|editor=アンドレイ・クラフツェヴィチ、吉田衆一(監修)|year=2011|month=7|title=ロシアの歴史 上 (古代から19世紀前半まで) ―ロシア中学校・高校歴史教科書― |publisher=[[明石書店]]|series=世界の教科書シリーズ31|isbn=4750334154|ref=ロシア歴史上}}
* {{Cite journal |和書 |author=[[三浦清美]] |url=
* {{Cite journal |和書 |author=[[三浦清美]] |url=http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/slavic-studies/60/60contents.html |format=PDF |title=『ボリスとグレープについての物語』における語句、«НЕДОУМѢЮЩЕ, ЯКО ЖЕ БѢ ЛЕПО ПРЕЧЬСТЬНѢ»の解釈について:中世ロシアにおけるキリスト教と異教の融合過程の研究 |journal=スラヴ研究 |volume=60 |issue= |year=2013 |month= |publisher=[[北海道大学スラブ研究センター]] |ref=三浦2013 }}
* {{Cite journal |和書 |author=[[福岡星児]] |url=
== 関連項目 ==
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{{commonscat|Sviatopolk I of Kiev}}
{{先代次代|[[
{{キエフ大公一覧}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:すうやとほるく1}}
[[Category:キエフ大公]]
[[Category:ウラジーミル1世の子女]]
[[Category:リューリク祖家]]
[[Category:リューリク朝]]
[[Category:1019年没]]
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