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{{Infobox 人物
|氏名
|ふりがな
|生年月日 = 定説では[[1880年|1880年頃]] <br> ([[1865年|慶應元年]][[8月20日|6月29日]])(戸籍上)
|生誕地 = {{JPN}}・[[薩摩国]][[徳之島]]面縄間切
|没年月日 = [[1986年]][[2月21日]] (120歳没)
|死没地 = {{JPN}}・[[鹿児島県]][[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]][[伊仙町]]
|residence = {{JPN}}・[[鹿児島県]]
|nationality = {{JPN}}
|職業 = [[農家]]
|画像=|画像説明=}}
{{画像提供依頼|鹿児島県伊仙町にある泉重千代の銅像|date=2025年6月|cat=鹿児島県大島郡}}
'''泉 重千代'''(いずみ しげちよ、定説では[[1880年]]頃 〈戸籍上では[[1865年]][[8月20日]]
== 概要 ==
しかし、[[2009年]]版以降のギネス世界記録は泉の年齢の信憑性の疑問を掲載するようになり<ref name="guiness2009">クレイグ・グレンディ編『ギネス世界記録2009』[[ゴマブックス]]、2008年、p.211</ref>、2012年版で泉の記録の認定を取り消した<ref name="guiness2012">クレイグ・グレンディ 編『ギネス世界記録2012』角川マガジンズ、2012年3月27日、p.102</ref>。
後述の通り、専門家の間では泉の120歳という年齢は疑問視されており、105歳が通説となっている<ref name="wilmoth">ジョン・R・ウィルモス「[https://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/19360403.pdf 人類の寿命伸長:過去・現在・未来]」石井太訳『人口問題研究』第66巻、人口問題研究所、2010年</ref> 。
== 経歴 ==
[[
[[1904年]]に39歳で[[結婚]]したとされる。この5年後の[[1909年]]に、[[沖縄県|沖縄]]へ[[帆掛け舟]]で[[新婚旅行]]に出かけた<ref name="A">[http://www.pdfworld.co.jp/museum/shiryo/izumi/izumi.html 泉 重千代:健康長寿ミュージアム]</ref>。妻との間に1男1女をもうけたが、長男は[[1920年]]に1歳7か月で、長女は[[1944年]]に20歳で死去した<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.86</ref>。飼っていた[[ウシ|牛]]を死なせた頃から、60歳代から70歳代半ばとされる年齢まで[[沖仲仕]]として働き、78kgの[[黒砂糖]]の[[樽]]を運んでいたという<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.87-88</ref>。[[1956年]]に妻が死去し、その後の泉の世話は妻の妹が行っていた<ref name="yagi47">八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.47</ref>。
100歳前後とされる歳まで本格的な農作業をしていたが、[[1961年]]から[[老齢福祉年金]]が、[[1971年]]からは伊仙町独自の敬老年金が出るようになり、これに加えて畑の賃料が泉の収入となっていた。[[1979年]]の114歳とされる歳までは[[鍬]]で草取りをしたり、畑に小さな椅子を置いてサトウキビの葉っぱ落としの作業をしていた<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.93,100</ref>。
1972年(昭和47年)1月、兵庫県の[[高田栄作|高田榮作]]の死去により、男性の日本最高齢者となる。
[[1976年]](昭和51年)[[11月16日]]、[[河本にわ]]の死去により、存命の日本最高齢と認定される<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.156</ref>。
[[1979年]]刊行の1980年版[[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネスブック]]に世界最長寿人物として取り上げられる<ref name="chunichi">『中日新聞』1986年2月22日付</ref><ref name="中日19830926">「泉さん"長寿日本記録"」『中日新聞』1983年9月26日付</ref>。[[1980年]]に地元・伊仙町から名誉町民の称号を与えられた<ref name="A" />。
1980年3月には徳之島の町役場に勤める男性に[[多胎児|五つ子]]が生まれ、泉にあやかって「長寿世界一」から1文字ずつとって、当時の伊仙町助役が五つ子に命名した。泉は5人の名前が書かれた[[色紙]]にサインし、その誕生を祝った<ref>『ザ・長寿 泉重千代 健康・長寿のマルチガイド』大同、1985年、p.73</ref>。
[[1982年]]には、故郷である伊仙町阿三に全国の有志による寄付で銅像が建設された。建造の際には泉自らが工事関係者やトラック運転手に指揮することもあった<ref>泉順江『家族が明かす 泉重千代長寿の秘訣 生命の灯限りなく』コア、1984年、pp.166-167</ref>。同年暮れから翌[[1983年]]2月初めまで軽い[[肺炎]]で寝込み、病床では「ワシはまだ死にたくない。ワシはまだ死にたくない」と叫び続けていたという<ref>泉順江『家族が明かす 泉重千代長寿の秘訣 生命の灯限りなく』コア、1984年、pp.168-169</ref>。1982年頃まで[[散歩]]が日課で、120歳を過ぎたとされる年齢でも、着替え、布団畳み、トイレや入浴も自分1人で行っていた<ref>『ザ・長寿 泉重千代 健康・長寿のマルチガイド』大同、1985年、pp.8-9</ref><ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.19</ref>。
[[1983年]][[9月26日]]、118歳89日を迎え、118歳まで生きたと言われた[[小林やす]]の記録を上回り、日本の長寿記録を更新したとされた<ref name="中日19830926" /><ref>原田勝正『昭和二万日の全記録』講談社、1993年{{要ページ番号|date=2013年9月}}</ref>。その時点まで日本国内では泉よりも高齢とされていた小林の記録はギネスから認定されていなかった。同年11月に1984年版『ギネスブック』が発売され、泉の顔写真が表紙を飾った<ref name="中日19830926" /><ref>[http://www.amazon.com/Guinness-Book-World-Records-1984/dp/0806902566 Guinness Book of World Records 1984] amazon.com</ref>。
[[1985年]][[8月20日]]には120歳になり、当時信頼に足るとされた記録により確認された中では人類史上初の[[大還暦]]を迎えたとされた(異論は下記参照)。
[[1986年]](昭和61年)[[2月21日]]、[[肺炎]]と心衰弱により死去<ref name="chunichi" />。{{age in years and days|1865|08|20|1986|02|21|to=none}}没とみなされた。直接の死因は[[痰]]を詰まらせたことだったという<ref name="臨終図巻">[[山田風太郎]]『[[人間臨終図巻]] 下巻』[[徳間書店]]、1987年、p.435</ref>。[[戒名|法名]]は「釋壽重誓」。泉の死没により、[[江戸時代]]生まれの人は全員死去したとみなされた([[日本最後の一覧#過去の時代に生まれた日本人|日本最後の一覧]])。
[[2010年]][[9月14日]]、ギネス世界記録が泉の120歳という記録を取り消した<ref name="guiness2012" />。ただし、徳之島ではその後も泉は慕われており、[[2018年]]には三十三回忌が催されている<ref>{{Cite news |和書|title=泉重千代翁三十三回忌で催し|newspaper=南海日日新聞|date=2018-04-17|url=https://www.nankainn.com/news/local/%E6%B3%89%E9%87%8D%E5%8D%83%E4%BB%A3%E7%BF%81%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%9B%9E%E5%BF%8C%E3%81%A7%E5%82%AC%E3%81%97|accessdate=2022-05-15|publisher=南海日日新聞社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://satomi-ryuji.com/2018/05/06/13165/|title=泉重千代翁三十三回忌祭に参列|author=里見隆治|accessdate=2022-05-15|date=2018-05-06|publisher=里見りゅうじ事務所}}</ref>。
== 人物 ==
1977年
[[喫煙|煙草]]は
長寿世界一になってからマスコミに取り上げられ、訪問客が毎日のように訪れる有名人となった。事前の連絡がなく自宅を訪れる客であっても歓迎して[[酒]]でもてなし、その後は軽い会話と記念写真
面談した伊仙町の町長に「役所で遊んでいれば200歳まで生きるよ」とジョークを言ったことがあり<ref name="長寿21" />、インタビューで好きな女性のタイプを聞かれ、「私は甘えん坊なので、やっぱり年上かのう…」と答えたという逸話がある<ref>山口智司『世界伝説コレクション』彩図社、2006年、p.16</ref>。
大の[[プロレス]]ファンで、プロレスラーの[[アントニオ猪木]]と[[藤波辰巳]]が泉を訪問したときには感激していたという<ref>泉順江『家族が明かす 泉重千代長寿の秘訣 生命の灯限りなく』コア、1984年、p.37</ref>。[[力士]]は[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]、歌手は[[都はるみ]]のファンだった<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.82</ref>。
== 生年に関する異論 ==
=== 疑義 ===
ギネスブック公認があったため、日本国内では泉が120歳まで生存したことは事実である、という受け止め方が一般的であった。これは、[[1871年]]の戸籍調査に記載されている生年月日が正しく、かつ、この戸籍調査に記載された人物と1986年に死去した人物とが同一であることを前提とする。だが、[[明治]]時代の徳之島の戸籍の信頼性には疑問があり、泉が1865年生まれであったことについては生前から複数の異論があった。
[[1966年]](昭和41年)、泉重千代が満101歳とされた時、地元の[[鹿児島大学]]医学部[[助教授
『[[週刊読売]]』の[[1980年]][[12月7日]]号は、「泉重千代さんの115歳説に疑問がある!」と題して、泉重千代の戸籍の記録について信憑性が薄い根拠として以下を指摘した<ref>「本誌が伝えた重大事件 長寿世界記録に疑義」『[[読売ウイークリー]]』2008年12月14日号</ref>。
* 泉重千代の戸籍に実父母の記載がない。
* 戸籍の記録では、14歳以下の養父から7歳の泉重千代が家督を相続したことになっている。
そのため、「徳之島には、[[過去帳]]や[[寺請制度]]の前提となる寺が存在しなかったために生年に記録された証拠文書がなく、初めて戸籍が作成されたときに記録された戸籍は自己申告であり信頼性が薄かったのではないか
『週刊読売』はその後も、1984年12月2日号では「スクープ 泉重千代さんは104歳だった!ギネス『世界一』(119歳)返上へ」といったタイトルの記事を掲載したり、1986年3月9日号では「世界一の長寿 故・泉重千代さんの『120歳』に疑義あり 泉重千代は2人いたのか?」と泉の死亡時に報じるなどした。
このように、事情を知る専門家の間では泉の120歳説は疑問視されて
=== 戸籍の記録 ===
泉の父親の生年月日とその両親の名前も不明。泉と同一の戸籍に登録されている伯父と泉との年齢差は8歳だった。泉は父親から7歳で家督を相続して戸主となっている<ref name="yagi103">八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.103</ref>。泉は両親が何歳で亡くなったかは知らないと言うが、両親の名前は知っていた<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.101</ref>。
[[1901年]]、それまで30年間戸籍上で泉の実父とされていた人物が、[[裁判]]により養父と記載が変更される<ref name="yagi102" />。
伊仙町の資料や事情を知る人の間では1904年に戸籍上の年齢39歳で17歳年下の女性と結婚したとされるが、戸籍上の届け出ではその19年後の1923年となっており、泉の戸籍上の年齢では54歳だった。長男の出生届は婚姻届けの4日後となっている。当時の徳之島の結婚適齢期は18歳くらいで晩婚だった<ref>『ザ・長寿 泉重千代 健康・長寿のマルチガイド』大同、1985年、p.18</ref><ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.130</ref>。
これらの不自然な点について質問されると、生前の泉重千代は「忘れた」と言い、泉の世話をしていた亡妻の妹がこのことを人に話すのも嫌がっていたという<ref
[[2010年]]に高齢者の死亡届が出されずに戸籍上は生きたままになっている[[高齢者所在不明問題]]が発生した際、『[[朝日新聞]]』が泉重千代について伊仙町に取材した。伊仙町の担当者は、「戸籍に記録があることと、本人が主張している以上はそれを否定することは難しい」とし、「138年前の泉の戸籍の登録経緯については調べようがない」と答えている<ref>
=== ギネス
ギネス
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[本郷かまと]] - 出身地が泉と同じ伊仙町であるが、本郷の年齢記録にも異論があり、2012年9月にギネスより記録を取り消された。本人の項を参照。
* [[木村次郎右衛門]] - 1897年生まれの京都府の男性。116歳54日まで生きた。2012年[[12月28日]]にクリスチャン・モーテンセンの年齢を上回り、確かな記録のある男性の長寿世界記録保持者となった。
* [[田島ナビ]] - 女性の日本及びアジア歴代2位の長寿(117歳没)。世界最後の19世紀生まれの女性でもある。泉と同じ[[奄美群島]]出身という関連性もある。
== 外部リンク ==
* [
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いすみ しけちよ}}
[[Category:
[[Category:
[[Category:伊仙町出身の人物]]
[[Category:19世紀生]]
[[Category:1986年没]]
[[Category:生年に異論のあるスーパーセンテナリアン]]
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