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'''泉 重千代'''(いずみ しげちよ、定説では[[1880年]]頃 〈戸籍上では[[1865年]][[8月20日]]? - [[1986年]][[2月21日]])は、[[鹿児島県]][[徳之島]]([[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]][[伊仙町]])出身の[[男性]]で、[[1995年]]まで[[ギネス・ワールド・レコーズ世界記録|ギネスブック]]公認の人類の[[長寿|世界最長寿]]、2012[[2010]]まで男性としての世界最長寿とされていた人物。[[慶応]]元年[[6月29日]]([[1865年]][[8 (旧暦)|62029日]]生まれの120歳とされてきたが、後述の通り、この日付には疑問が提出呈され、現在では120歳説はほぼ否定されている。
 
== 概要 ==
泉重千代は1972年に男性の日本最高齢、[[1976年]]に存命の日本最長寿高齢という扱いになり、[[1979年]]にはギネスブックで世界最長寿高齢と認定された。その世界歴代長寿人物の高齢記録はフランス人の女性[[ジャンヌ・カルマン]]([[1875年]] - [[1997年]]、122歳164日没)によって更新されたが、男性としての世界最長寿人物高齢記録は保持していた。なお、そのジャンヌ・カルマンも一部では「122歳没」という記録に疑義が唱えられている。長寿世界一とされてからは[[マスメディア|マスコミ]]で報道される有名人となり、存命中の泉重千代邸には[[観光バス]]も訪れる徳之島の[[観光資源]]になっていた<ref name="kiroku">[http://www.sokuhou.co.jp/library/tokunoshima/tokunoshima02.html 「世界一長寿で徳之島PR 泉重千代」『徳之島先駆者の記録』高岡善成監修、松田清編、徳之島の先人を偲ぶ会、1999年]</ref><ref name="長寿14-15">『ザ・長寿 泉重千代 健康・長寿のマルチガイド』大同、1985年、pp.14-15</ref>
[[1955年]]以降、世界最高齢であった期間が最も長い人物であるともされていた。
 
しかし、[[2009年]]版以降のギネス世界記録は泉の年齢の信憑性の疑問を掲載するようになり<ref name="guiness2009">クレイグ・グレンディ編『ギネス世界記録2009』[[ゴマブックス]]、2008年、p.211</ref>、2012年版で泉の記録の認定を取り消した<ref name="guiness2012">クレイグ・グレンディ 編『ギネス世界記録2012』角川マガジンズ、2012年3月27日、p.102</ref>。
長寿世界一とされてからはマスコミで報道される有名人となり、存命中の泉重千代邸には[[観光バス]]も訪れる徳之島の[[観光資源]]になっていた<ref name="kiroku">[http://www.sokuhou.co.jp/library/tokunoshima/tokunoshima02.html 「世界一長寿で徳之島PR 泉重千代」『徳之島先駆者の記録』高岡善成監修、松田清編、徳之島の先人を偲ぶ会、1999年]</ref><ref name="長寿14-15">『ザ・長寿 泉重千代 健康・長寿のマルチガイド』大同、1985年、pp.14-15</ref>。
 
後述の通り、専門家の間では泉の120歳という年齢は疑問視されており、105歳が通説となっている<ref name="wilmoth">ジョン・R・ウィルモス「[https://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/19360403.pdf 人類の寿命伸長:過去・現在・未来]」石井太訳『人口問題研究』第66巻、人口問題研究所、2010年</ref> 。
しかし、[[2009年]]版以降のギネスブックは泉の年齢の信憑性の疑問を掲載するようになり<ref name="guiness2009">クレイグ・グレンディ編『ギネス世界記録2009』[[ゴマブックス]]、2008年、p.211</ref>、2012年版で泉の記録の認定を完全に取り消した<ref name="guiness2012">クレイグ・グレンディ 編『ギネス世界記録2012』角川マガジンズ、2011年、p.102</ref>。
 
専門家の間では泉の120歳という年齢はほぼ否定されており、105歳が通説となっている<ref name="wilmoth">ジョン・R・ウィルモス「[http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/19360403.pdf 人類の寿命伸長:過去・現在・未来]」石井太訳『人口問題研究』第66巻、人口問題研究所、2010年</ref> 。
 
== 経歴 ==
[[1865年]](慶応元年)8月20日に[[奄美群島]][[徳之島]]面縄間切(当時は[[薩摩藩]]領内、現在の[[鹿児島県]][[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]][[伊仙町]])で[[長男]]として生まれたとされている。[[1871年]]([[明治]]4年)に行われた戸籍登録で6歳と記録されていることがその裏付けである。[[1872年]]、父から[[家督]]を相続して[[家制度|戸主]]となったと[[戸籍]]に記録される<ref name="yagi102">八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.102</ref>。[[1875年]]に徳之島支庁が[[苗字]]の使用許可を通達して、一家は泉の姓を名乗り始める<ref name="長寿17">『ザ・長寿 泉重千代 健康・長寿のマルチガイド』大同、1985年、p.17</ref>
 
[[18721885年]]、7に20で父からを迎えて[[家督徴兵検査]]を相続して受けるが、長男で[[家制度|戸主農業]]を継ぐために兵役免除となったと戸籍に記録される<ref name="yagi102長寿17" />。[[サトウキビ]]畑と[[水田]]を持ち、自作農をして生計を立てていた。[[昭和]]初期の最盛期には、[[米]]は1800キログラム、サトウキビは80トンを収穫したという<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.10287</ref>。
 
[[1904年]]に39歳で[[結婚]]したとされる。この5年後の[[1909年]]に、[[沖縄県|沖縄]]へ[[帆掛け舟]]で[[新婚旅行]]に出かけた<ref name="A">[http://www.pdfworld.co.jp/museum/shiryo/izumi/izumi.html 泉 重千代:健康長寿ミュージアム]</ref>。妻との間に1男1女をもうけたが、長男は[[1920年]]に1歳7か月で、長女は[[1944年]]に20歳で死去した<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.86</ref>。飼っていた[[ウシ|牛]]を死なせた頃から、60歳代から70歳代半ばとされる年齢まで[[沖仲仕]]として働き、78kgの[[黒砂糖]]の[[樽]]を運んでいたという<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.87-88</ref>。[[1956年]]に妻が死去し、その後の泉の世話は妻の妹が行っていた<ref name="yagi47">八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.47</ref>。
[[1875年]]に徳之島支庁が[[苗字]]の使用許可を通達して、一家は泉の姓を名乗り始める<ref name="長寿17">『ザ・長寿 泉重千代 健康・長寿のマルチガイド』大同、1985年、p.17</ref>。
 
100歳前後とされる歳まで本格的な農作業をしていたが、[[1961年]]から[[老齢福祉年金]]が、[[1971年]]からは伊仙町独自の敬老年金が出るようになり、これに加えて畑の賃料が泉の収入となっていた。[[1979年]]の114歳とされる歳までは[[鍬]]で草取りをしたり、畑に小さな椅子を置いてサトウキビの葉っぱ落としの作業をしていた<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.93,100</ref>。
[[1885年]]に20歳を迎えて[[徴兵検査]]を受けるが、長男で農業を継ぐために兵役免除となったとされる<ref name="長寿17" />。
 
1972年(昭和47年)1月、兵庫県の[[高田栄作|高田榮作]]の死去により、男性の日本最高齢者となる。
[[サトウキビ]]畑と[[水田]]を持ち、自作農をして生計を立てていた。[[昭和]]初期の最盛期には、米は1800キログラム、サトウキビは80トンを収穫したという<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.87</ref>。
 
[[1976年]](昭和51年)[[11月16日]]、[[河本にわ]]の死去により、存命の日本最高齢と認定される<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.156</ref>。
[[1904年]](明治37年)に39歳で結婚したとされる。この5年後の[[1909年]](明治42年)に、[[沖縄県|沖縄]]への帆掛け舟で新婚旅行に出かけた<ref name="A">[http://www.pdfworld.co.jp/museum/shiryo/izumi/izumi.html 泉 重千代:健康長寿ミュージアム]</ref>。
 
飼っ[[1978年]]、同居して泉の世話をしていた牛を妻の妹がなせた頃から、60歳代去<ref name="yagi47" />。翌年から70歳代半ばとされる年齢まで[[沖仲仕]]甥の息子一家が泉同居生活をして働き78kgの[[黒砂糖]]の樽を運ん泉が死去するま面倒を看という<ref>八木俊一泉順江家族が明かす 泉重千代物語 不老長寿提言秘訣 生命の灯限りなくパンリサーチインスティテュートコア19851984年、p.87-8814</ref>。
 
[[1979年]]刊行の1980年版[[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネスブック]]に世界最長寿人物として取り上げられる<ref name="chunichi">『中日新聞』1986年2月22日付</ref><ref name="中日19830926">「泉さん"長寿日本記録"」『中日新聞』1983年9月26日付</ref>。[[1980年]]に地元・伊仙町から名誉町民の称号を与えられた<ref name="A" />。
[[1956年]]に妻が死去し、その後の泉の世話は妻の妹が行っていた<ref name="yagi47">八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.47</ref>。
 
100歳前後とされる歳まで本格的な農作業「泉重千代長寿の酒」していた酒会社を裁判に訴えるが、19611979から老齢福祉年金が、1971年から10月15日に和解で決着。和解の条件伊仙町独自の敬老年金が出るようになりこれに加えて畑の賃看板が泉の収入なっいた。1979泉に対し、1980の114歳に一升瓶を2千本される歳までは鍬で草取りをしたり現金80万円1981年小さな椅子は一升瓶1500本と現金29万円支払うとてサトウキビうもぱ落としの作業をしてい<ref name="kiroku" /><ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.93,100157</ref>。
 
1980年3月には徳之島の町役場に勤める男性に[[多胎児|五つ子]]が生まれ、泉にあやかって「長寿世界一」から1文字ずつとって、当時の伊仙町助役が五つ子に命名した。泉は5人の名前が書かれた[[色紙]]にサインし、その誕生を祝った<ref>『ザ・長寿 泉重千代 健康・長寿のマルチガイド』大同、1985年、p.73</ref>。
[[1976年]][[11月16日]]に[[河本にわ]]の死去により、存命の日本最長老と認定される<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.156</ref>。
 
[[1982年]]には、故郷である伊仙町阿三に全国の有志による寄付で銅像が建設された。建造の際には泉自らが工事関係者やトラック運転手に指揮することもあった<ref>泉順江『家族が明かす 泉重千代長寿の秘訣 生命の灯限りなく』コア、1984年、pp.166-167</ref>。同年暮れから翌[[1983年]]2月初めまで軽い[[肺炎]]で寝込み、病床では「ワシはまだ死にたくない。ワシはまだ死にたくない」と叫び続けていたという<ref>泉順江『家族が明かす 泉重千代長寿の秘訣 生命の灯限りなく』コア、1984年、pp.168-169</ref>。1982年頃まで[[散歩]]が日課で、120歳を過ぎたとされる年齢でも、着替え、布団畳み、トイレや入浴も自分1人で行っていた<ref>『ザ・長寿 泉重千代 健康・長寿のマルチガイド』大同、1985年、pp.8-9</ref><ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.19</ref>。
1978年、同居して泉の世話をしていた妻の妹が死去<ref name="yagi47" />。翌年から甥の息子一家が泉と同居生活をして、泉が死去するまで面倒を看た<ref>泉順江『家族が明かす 泉重千代長寿の秘訣 生命の灯限りなく』コア、1984年、p.14</ref>。
 
[[1983年]][[9月26日]]、118歳89日を迎え、118歳まで生きたと言われた[[小林やす]]の記録を上回り、日本の長寿記録を更新したとされた<ref name="中日19830926" /><ref>原田勝正『昭和二万日の全記録』講談社、1993年{{要ページ番号|date=2013年9月}}</ref>。その時点まで日本国内では泉よりも高齢とされていた小林の記録はギネスから認定されていなかった。同年11月に1984年版『ギネスブック』が発売され、泉の顔写真が表紙を飾った<ref name="中日19830926" /><ref>[http://www.amazon.com/Guinness-Book-World-Records-1984/dp/0806902566 Guinness Book of World Records 1984] amazon.com</ref>。
[[1979年]]刊行の1980年版[[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネスブック]]に世界最長寿人物として取り上げられる<ref name="chunichi">『中日新聞』1986年2月22日付</ref><ref name="中日19830926">「泉さん"長寿日本記録"」『中日新聞』1983年9月26日付</ref>。1980年に地元・伊仙町から名誉町民の称号を与えられた<ref name="A" />。
 
[[1985年]][[8月20日]]には120歳になり、当時信頼に足るとされた記録により確認された中では人類史上初の[[大還暦]]を迎えたとされた(異論は下記参照)。
「泉重千代長寿の酒」を出していた酒会社を裁判に訴えて、1979年10月15日に和解で決着。和解の条件は、看板料として泉に対し、1980年に一升瓶を2千本と現金80万円、1981年には一升瓶1500本と現金29万円を支払うというものだった<ref name="kiroku" /><ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.157</ref>。
 
[[1986年]](昭和61年)[[2月21日]]、[[肺炎]]と心衰弱により死去<ref name="chunichi" />。{{age in years and days|1865|08|20|1986|02|21|to=none}}没とみなされた。直接の死因は[[痰]]を詰まらせたことだったという<ref name="臨終図巻">[[山田風太郎]]『[[人間臨終図巻]] 下巻』[[徳間書店]]、1987年、p.435</ref>。[[戒名|法名]]は「釋壽重誓」。泉の死没により、[[江戸時代]]生まれの人は全員死去したとみなされた([[日本最後の一覧#過去の時代に生まれた日本人|日本最後の一覧]])。
1980年3月には徳之島の町役場に勤める男性に[[五つ子]]が生まれ、泉にあやかって「長寿世界一」から1文字ずつとって、当時の伊仙町助役が五つ子に命名した。泉は5人の名前が書かれた[[色紙]]にサインし、その誕生を祝った<ref>『ザ・長寿 泉重千代 健康・長寿のマルチガイド』大同、1985年、p.73</ref>。
 
[[2010年]][[9月14日]]、ギネス世界記録が泉の120歳という記録を取り消した<ref name="guiness2012" />。ただし、徳之島ではその後も泉は慕われており、[[2018年]]には三十三回忌が催されている<ref>{{Cite news |和書|title=泉重千代翁三十三回忌で催し|newspaper=南海日日新聞|date=2018-04-17|url=https://www.nankainn.com/news/local/%E6%B3%89%E9%87%8D%E5%8D%83%E4%BB%A3%E7%BF%81%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%9B%9E%E5%BF%8C%E3%81%A7%E5%82%AC%E3%81%97|accessdate=2022-05-15|publisher=南海日日新聞社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://satomi-ryuji.com/2018/05/06/13165/|title=泉重千代翁三十三回忌祭に参列|author=里見隆治|accessdate=2022-05-15|date=2018-05-06|publisher=里見りゅうじ事務所}}</ref>。
[[1982年]](昭和57年)には、故郷である鹿児島県伊仙町阿三に全国の有志による寄付で銅像が建設された。建造の際には泉自らが工事関係者がトラック運転手に指揮することもあった<ref>泉順江『家族が明かす 泉重千代長寿の秘訣 生命の灯限りなく』コア、1984年、pp.166-167</ref>。同年暮れから翌[[1983年]]2月初めまで軽い[[肺炎]]で寝込み、病床では「ワシはまだ死にたくない。ワシはまだ死にたくない」と叫び続けていたという<ref>泉順江『家族が明かす 泉重千代長寿の秘訣 生命の灯限りなく』コア、1984年、pp.168-169</ref>。
 
[[1985年]]8月20日には120歳になったとされ、当時信頼に足るとされた記録により確認された中では人類史上初の[[大還暦]]を迎えた(異論は下記参照)。
 
1982年頃まで[[散歩]]が日課で、120歳を過ぎたとされる年齢ても、着替え、布団畳み、トイレや入浴も自分1人で行っていた<ref>『ザ・長寿 泉重千代 健康・長寿のマルチガイド』大同、1985年、pp.8-9</ref><ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.19</ref>。
 
[[1983年]][[9月26日]]、118歳89日を迎え、118歳まで生きたと言われた[[小林やと]](1846年 - 1964年)の記録を上回り、日本の長寿記録を更新したとされた<ref name="中日19830926" /><ref>原田勝正『昭和二万日の全記録』講談社、1993年{{要ページ番号|date=2013年9月}}</ref>。その時点まで日本国内では泉よりも高齢とされていた小林の記録はギネスから認定されていなかった。
 
同年10月に1984年版『ギネスブック』が発売され、泉の顔写真が表紙を飾った<ref name="中日19830926" /><ref>[http://www.amazon.com/Guinness-Book-World-Records-1984/dp/0806902566 Guinness Book of World Records 1984] amazon.com</ref>。
 
[[1986年]](昭和61年)2月21日、[[肺炎]]と心衰弱により死去。120歳没と報じられる<ref name="chunichi" />。直接の死因は[[痰]]を詰まらせたことだったという<ref name="臨終図鑑">[[山田風太郎]]『人間臨終図鑑 下巻』[[徳間書店]]、1987年、p.435</ref>。[[戒名|法名]]は「釋壽重誓」。<!-- 宗旨不明なため、「戒名」の記事にリンクさせました。 -->120歳説が正しいなら、[[江戸時代]]生まれの日本人としては最後の一人とされた泉の死によって、[[江戸時代]]生まれの人は全て死去したことになる。
 
[[1995年]][[10月17日]]、フランス人女性のジャンヌ・カルマンにより、泉は当時認定されていた史上最長寿の記録を失う。男性としての史上最長寿記録は保持したままとなっていた。
 
[[2011年]]、ギネスブックが泉の120歳という記録そのものを未公認とする<ref name="guiness2012" />。
 
== 人物 ==
1977年、113歳とされるときの計測では[[身長]]151cmで[[体重]]46.5kg。1983年の118歳とされるときには、148cmで46.0kg<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.47</ref>。右目は80歳とされる1945年に薪割りの事故で外傷性[[白内障]][[失明]]し、左目も白内障で[[視力]]は0.1だった。[[聴力]]の衰えはなかった。[[血圧]]113歳1977年118歳とされる1983の計測で上は150、下は50だった<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.54、57</ref>。
 
1978年に113歳されるときには、60代間に11女性が息切れするほどの細い山道もうけたが、長男は1920年10分ほど歩いて裏山の頂上1歳7か月で、長女は1944年ある墓20歳で死去お参りをて医師を驚かせた<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、ppp.863-4</ref>。
 
[[喫煙|煙草]]は70歳頃から[[セブンスター]]を1日に3本から4本程度吸っていたが、体調を崩した際に主治医から煙草が健康に害があると聞かされて、116歳とされる1981年頃にやめた<ref>『ザ・長寿 泉重千代 健康・長寿のマルチガイド』大同、1985年、p.25</ref><ref>泉順江『家族が明かす 泉重千代長寿の秘訣 生命の灯限りなく』コア、1984年、p.121</ref>。
 
70歳とされる1935齢の頃から[[黒砂糖]]から作った[[奄美黒糖焼酎|黒糖焼酎]]のお湯割りを50年以上愛飲したとされ、医師から控えるようにと言われても晩酌に欠かさなかった。毎日のように訪れる見物客にもふるまっていたという<ref>泉順江『家族が明かす 泉重千代長寿の秘訣 生命の灯限りなく』コア、1984年、pp.116-121</ref>。
 
長寿世界一になってからマスコミに取り上げられ、訪問客が毎日のように訪れる有名人となった。事前の連絡がなく自宅を訪れる客であっても歓迎して[[]]でもてなし、その後は軽い会話と記念写真撮影で終えるというのが日課になっていた<ref name="長寿14-15" />。一方で気に食わないことがあると、湯飲みに入ったお茶をぶちまけるという短気な面も持ち合わせていた<ref name="長寿21">『ザ・長寿 泉重千代 健康・長寿のマルチガイド』大同、1985年、p.21</ref>。
 
面談した伊仙町の町長に「役所で遊んでいれば200歳まで生きるよ」とジョークを言ったことがあり<ref name="長寿21" />、インタビューで好きな女性のタイプを聞かれ、「私は甘えん坊なので、やっぱり年上かのう…」と答えたという逸話がある<ref>山口智司『世界伝説コレクション』彩図社、2006年、p.16</ref>。しかし、年上女性が好みという話は笑い話として出来ているため本当に泉が発した言葉なのか、その信憑性を」と疑う声もある<ref>宝泉薫編著『芸能界一発屋外伝』彩流社、1999年、p.58</ref>。なお、泉が話す[[標準語]]は来客者への「どこからおいでなさった」だけだったとされる<ref name="長寿14-15" />。
 
大の[[プロレス]]ファンで、プロレスラーの[[アントニオ猪木]]と[[藤波辰巳]]が泉を訪問したときには感激していたという<ref>泉順江『家族が明かす 泉重千代長寿の秘訣 生命の灯限りなく』コア、1984年、p.37</ref>。[[力士]]は[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]、歌手は[[都はるみ]]のファンだった<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.82</ref>。
 
== 生年に関する異論 ==
=== 疑義 ===
ギネスブック公認があったため、日本国内では泉が120歳まで生存したことは、事実であるという受け止め方が一般的であった。これは、1872年の戸籍調査において記載されている生年月日が正しく、かつ1986年に死去した人物と戸籍調査に記載された人物が同一であることを前提とする。だが、明治時代の徳之島の戸籍の信頼性には疑問があり、泉が1865年生まれであったことについては生前から複数の異論があった。
ギネスブック公認があったため、日本国内では泉が120歳まで生存したことは事実である、という受け止め方が一般的であった。これは、[[1871年]]の戸籍調査に記載されている生年月日が正しく、かつ、この戸籍調査に記載された人物と1986年に死去した人物とが同一であることを前提とする。だが、[[明治]]時代の徳之島の戸籍の信頼性には疑問があり、泉が1865年生まれであったことについては生前から複数の異論があった。
 
[[1966年]](昭和41年)、泉重千代が満101歳とされた時、地元の[[鹿児島大学]]医学部[[助教授(当時)]]の[[福田正臣]](1919年 - 2012年)は高齢者診察を行い、泉に対して「100歳を過ぎても胃腸はすこぶる順調。歯がなくなったものの普通にご飯やおかずを食べる、目も耳も達者である」という診察結果を発表。しかし福田は老齢学の観点から泉の年齢について疑念を持ち、[[1979年]](昭和54年)の[[日本老年医学会]]で泉の世界最高年齢生存記録について否定の見解を述べた<ref name="A" />。ギネスブックによって泉が世界最高齢と認定されて以降、「実際には泉が生まれたのはもっと遅いのではないか」といった意見が週刊誌などにも取り上げられた
 
1978年に113歳とされるときには、60代の男性が息切れするほどの細い山道を10分ほど歩いて裏山の頂上にある墓にお参りをして医師を驚かせた<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、pp.3-4</ref>。
 
ギネスブックによって泉が世界最高齢と認定されて以降、ほかにも実際には泉が生まれたのはもっと遅いのではないか等の意見が週刊誌などにも取り上げられた。
 
『[[週刊読売]]』の[[1980年]][[12月7日]]号は、「泉重千代さんの115歳説に疑問がある!」と題して、泉重千代の戸籍の記録について信憑性が薄い根拠として以下を指摘した<ref>「本誌が伝えた重大事件 長寿世界記録に疑義」『[[読売ウイークリー]]』2008年12月14日号</ref>。
 
* 泉重千代の戸籍に実父母の記載がない
* 戸籍の記録では、14歳以下の養父から7歳の泉重千代が家督を相続したことになっている。
 
そのため、「徳之島には、[[過去帳]]や[[寺請制度]]の前提となる寺が存在しなかったために生年に記録された証拠文書がなく、初めて戸籍が作成されたときに記録された戸籍は自己申告であり信頼性が薄かったのではないか」「1865年というのは早世した兄の生年であり、実際の泉は[[1880年]]前後の生まれであるが、兄の生年月日が使われていたのだと指摘。ではないか」「泉家の実子であった泉重千代が死去した後、入籍した養子がそのまま泉重千代を名乗っていたのではないかといったであるが指摘された<ref name="臨終図" />。1872年の[[壬申戸籍]]に泉重千代の記録があることから、泉1880年前後に生まれたとするのは矛盾になるが、この点について『週刊読売』は、徳之島が[[離島]]であるため、戸籍作成が遅れたのではないかと述べている。
 
『週刊読売』はその後も、1984年12月2日号では「スクープ 泉重千代さんは104歳だった!ギネス『世界一』(119歳)返上へ」といったタイトルの記事を掲載したり、1986年3月9日号では「世界一の長寿 故・泉重千代さんの『120歳』に疑義あり 泉重千代は2人いたのか?」と泉の死亡時に報じるなどした。
 
このように、事情を知る専門家の間では泉の120歳説は疑問視されてきた。おり、現在は専門家の間では105歳が通説となっている<ref name="wilmoth" /> 。[[厚生労働省]]も[[2020年]]の時点で、泉の120歳説を公認していない<ref>{{Cite news |和書|title=田中カ子さんが国内最高齢記録に並ぶ 117歳260日、福岡市在住|newspaper=西日本新聞|date=2020-09-18|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/646319/|accessdate=2022-05-15|publisher=西日本新聞社}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title=福岡市の田中さんが国内最高齢更新 117歳261日|newspaper=産経新聞|date=2020-09-18|url=https://www.sankei.com/article/20200919-CMWXUZER7ZKQRL3MNQY4KFO2AA/|accessdate=2022-05-15|publisher=産業経済新聞社}}</ref>
 
=== 戸籍の記録 ===
泉の父親の生年月日とその両親の名前も不明。泉と同一の戸籍に登録されている伯父と泉との年齢差は8歳だった。泉は父親から7歳で家督を相続して戸主となっている<ref name="yagi103">八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.103</ref>。泉は両親が何歳で亡くなったかは知らないと言うが、両親の名前は知っていた<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.101</ref>。
 
[[1901年]]、それまで30年間戸籍上で泉の実父とされていた人物が、[[裁判]]により養父と記載が変更される<ref name="yagi102" />。
 
伊仙町の資料や事情を知る人の間では1904年に戸籍上の年齢39歳で17歳年下の女性と結婚したとされるが、戸籍上の届け出ではその19年後の1923年となっており、泉の戸籍上の年齢では54歳だった。長男の出生届は婚姻届けの4日後となっている。当時の徳之島の結婚適齢期は18歳くらいで晩婚だった<ref>『ザ・長寿 泉重千代 健康・長寿のマルチガイド』大同、1985年、p.18</ref><ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.130</ref>。
 
婚姻届と同年の[[1923年]]、[[1897年]]に死去していた伯父の死亡届が26年後の[[1923年]](重千代の婚姻届と同年)なって届け出され。届け出人は戸主の泉重千代だが、最初は泉千代善と書いてあったのを棒線で打ち消して、泉重千代と記入していた<ref name="yagi103" />。
 
これらの不自然な点について質問されると、生前の泉重千代は「忘れた」と言い、泉の世話をしていた亡妻の妹がこのことを人に話すのも嫌がっていたという<ref>八木俊一『泉重千代物語 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.103</ref>。両親が何歳で亡くなったかは知らないと言うが、両親の名前は知っていた<ref>八木俊一『泉重千代物語name="yagi103" 不老長寿学の提言』パンリサーチインスティテュート、1985年、p.101</ref>。
 
[[2010年]]に高齢者の死亡届が出されずに戸籍上は生きたままになっている[[高齢者所在不明問題]]が発生した際、『[[朝日新聞]]』が泉重千代について伊仙町に取材した。伊仙町の担当者は、戸籍に記録があることと本人が主張している以上はそれを否定することは難しいとし、138年前の泉の戸籍の登録経緯については調べようがないと答えている<ref>[{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/special/playback/TKY201008290101.html |title=江戸時代生まれ、200200歳…戸籍上で生存、なぜ続く?] |access-date=2022-04-15 |date=2010-08-29 |website=朝日新聞DIGITAL 2010年8月29日|archive-date=2013-09-21 |url-status=dead|url-status-date=2022-04 |archive-url=https://web.archive.org/web/20130921060918/http://www.asahi.com/special/playback/TKY201008290101.html}}</ref>。
 
=== ギネスブック世界記録の公認取り消し ===
ギネスブック世界記録では2007年版までは泉を120歳まで生きた世界一の長寿男性として掲載していたが<ref>クレイグ・グレンディ編『ギネス世界記録2007』[[ポプラ社]]、2006年</ref>、2009年版では掲載にあたって信憑性に多少の疑問があると注釈をつけ<ref name="guiness2009" />、2011年版になると泉の120歳説を否定する新証拠があり、兄の戸籍と混同されていたとして105歳の可能性があることを指摘するようになった<ref>クレイグ・グレンディ編『ギネス世界記録2011』[[角川マーケティング]]、2010年、p.99</ref>。そして2012年版で泉重千代はこれまでに最も長生きした男性の記録として115歳252日没の[[クリスチャン・モーテンセン]]を掲載を取り消<ref name="guiness2012" />。現版では泉の記録は取り消さまでた。ギネス世界記録おけるも長生きした男性の高齢記録の元なるデータを提供して120歳いる[[ジェロントロジー・リサーチ・グループ]]は、2009年10月泉重千代時点泉の記録には根拠がなく116議論のある状態であり、真の没年齢は10554日ま生きあっ男性と推定していた<ref>{{Cite web|url=https://grg.org/adams/f.htm|title=False And Exaggerated Claims (as of October 27, 2009)|publisher=[[木村次郎右衛門ジェロントロジー・リサーチ・グループ]](1897年 |accessdate=2022- 2013年)を掲載している04-20}}</ref>
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|2}}
 
== 関連項目 ==
* [[本郷かまと]] - 出身地が泉と同じ伊仙町であるが、本郷の年齢記録にも異論があり、2012年9月にギネスより記録を取り消された。本人の項を参照。
* [[木村次郎右衛門]] - 1897年生まれの京都府の男性。116歳54日まで生きた。2012年[[12月28日]]にクリスチャン・モーテンセンの年齢を上回り、確かな記録のある男性の長寿世界記録保持者となった。
* [[田島ナビ]] - 女性の日本及びアジア歴代2位の長寿(117歳没)。世界最後の19世紀生まれの女性でもある。泉と同じ[[奄美群島]]出身という関連性もある。
 
== 外部リンク ==
* [httphttps://www.town.isen.kagoshima.jp/honorsoumu/chosejoho/machinogaiyo/meyochomin.phphtml 伊仙町公式サイト 名誉町民]
 
{{Normdaten}}
== 関連項目 ==
* [[本郷かまと]] - 後に世界最長寿者とされた人物。出身地が泉と同じ伊仙町であるが、本郷の年齢記録にも異論があり、2012年9月にギネスより記録を取り消された。本人の項を参照。
* [[木村次郎右衛門]] - 1897年(明治30年)生まれの京都府の男性。116歳54日まで生きた。2012年[[12月28日]]に[[クリスチャン・モーテンセン]]の年齢を上回り、確かな記録のある男性の長寿世界記録保持者となった。
 
{{DEFAULTSORT:いすみ しけちよ}}
[[Category:長寿日本人物センテナリアン]]
[[Category:鹿児島県出身隻眼の人物]]
[[Category:伊仙町出身の人物]]
[[Category:19世紀生]]
[[Category:1986年没]]
[[Category:生年に異論のあるスーパーセンテナリアン]]