|
|
(4人の利用者による、間の5版が非表示) |
'''大 興国'''(だい こうこく 、? - [[1183年]])は、中国・[[金 (王朝)|金]]の役人。後に'''大邦基'''と名乗る。[[渤海 (国)|渤海]]の出身。兄は大邦傑。[[熙宗 (金)|熙宗]]を殺害した10人物の一人である。
== 生涯 ==
大興国は熙宗に寝殿小底・権近侍局直長として仕えていた。この役職は寝室の世話係といった役職で、熙宗の就寝中に客や使者が訪れた時に応対し、状況や来客の立場を見て、寝殿に通す、あるいは帰すのが主な任務で、小職ではあるが重要な役職であった。
[[皇統 (金)|皇統]]9年(1149([[1149年]])、迪古乃(後の[[海陵王|完顔亮]])の誕生日、熙宗は大興国を使者にして[[司馬光]]の画像や珍品財宝などを誕生日プレゼントとして贈った。完顔亮迪古乃がそのプレゼントを[[悼平皇后|皇后の裴満氏]]に贈ったところ、熙宗の怒りを呼んでしまい招き、使者の大興国はが杖刑100打の罰を受けた。熙宗殺弑逆の意図を固めた完顔亮迪古乃は、成功させるには大興国の協力が不可欠と判断した。大興国も、無実なのに杖で打たれた事やことを恨み、また重臣や皇后が些細な事ことで殺される現状に危機感を抱いた事によっており、暗殺計画に荷担するした。12月9日夜、大興国は寝殿の鍵を開けて完顔亮迪古乃たちを招き入れた。熙宗は佩刀をベッド寝台の上に置いていく習慣であったのだが、大興国はが佩刀をベッド寝台の下に移したため、目覚めた熙宗は佩刀を手にすることができず、為す術もなく切斬られた。
完顔亮迪古乃(海陵王)が即位して皇帝になると、熙宗殺害に多大な功績を果たした大興国は、広甯寧尹に就任じられ、奴隷100口、・玉帯などを下賜わりされ、金紫[[光禄大夫]]の位階を得た。その後も銭千万、・黄金400両、・銀千両、・良馬4匹などの大量の財貨を賜わった。[[天徳 (金)|天徳]]4年(1152([[1152年]])には崇義軍[[節度使]]となり、邦基の名を賜わって大邦基と名乗る。その後、武甯寧軍節度使・河間尹となった。
しかし、海陵王が殺害されて[[世宗 (金)|世宗]]が即位すると、海陵王から下賜わっされた財貨の全てを没収されてしまう。[[大定 (金)|大定]]23年(1183年)正月甲午、34年前の熙宗殺害の件が蒸し返され、熙宗の陵墓である思陵の側で処刑された。
== 参考伝記資料 ==
*『[[金史]]』巻132 列伝第70
*[[『金史]]』巻8 本紀第8世宗下
{{デフォルトソートDEFAULTSORT:たい こうこく}}
[[Category:金代の人物]]
[[Category:渤海国]]
[[Category:刑死した中国の人物]]
[[Category:1183年没]]
|