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{{Otheruseslist|[[吉原功]]が設立したプロレス団体|[[
{{基礎情報 会社
|社名 = インターナショナル・レスリング・エンタープライズ株式会社
|英文社名 = International Wrestling Enterprise Co., Ltd.
|種類 = 株式会社
|市場情報 =
|略称 = 国際<br />国プロ<br />IWE
|国籍 = {{JPN}}
|本社郵便番号 = 160
|本社所在地 = 東京都新宿区高田馬場2-14-2<br />原田ビル(解散時の事務所)
|設立 = 1966年10月5日
|業種 = サービス業
|事業内容 = プロレス興行<br />関連企画の運営
|代表者 = 代表取締役社長 [[吉原功]]
|資本金 =
|売上高 =
|総資産 =
|従業員数 =
|決算期 =
|主要株主 =
|主要子会社 =
|関係する人物 =
|外部リンク =
|特記事項 = 1981年9月30日、解散。
}}
'''国際プロレス'''(こくさいプロレス)は、かつて存在した[[日本]]の[[プロレス]][[団体]]。正式名称は'''インターナショナル・レスリング・エンタープライズ株式会社'''(''International Wrestling Enterprise'')。略称は'''IWE'''(アイ・ダブリュー・イー)。
== 概要 ==
[[1967年]]1月5日、[[大阪府立体育会館|大阪府立体育館]]にて[[アントニオ猪木]]の[[東京プロレス]]との合同興行で旗揚げ戦を開催<ref name="wko 108">[[#wko|『忘れじの国際プロレス』、P108]]</ref>。[[TBSテレビ|TBS]]と[[テレビ東京|東京12チャンネル]](現:
[[デスマッチ#金網デスマッチ|金網デスマッチ]]の開催、選手入場時のテーマ曲の採用、日本人
== 歴史 ==
=== 旗揚げ
創業者の'''[[吉原功]]'''社長は、[[早稲田大学]][[アマチュアレスリング|レスリング]]部出身の元[[プロレスラー]]で、[[日本プロレス]]の営業部長を務めていた。しかし
アメリカで活躍する日本人
国際プロレスと決別後の東京プロレス残党のうち、猪木は[[永源遙|永源勝(永源遙)]]、[[北沢幹之]]、[[柴田勝久]]らと日本プロレスへ帰参したが、[[ラッシャー木村|木村政雄(ラッシャー木村)]]、[[寺西勇]]らは国際プロレスに残留。猪木らの離脱と入れ替わるように、旗揚げ興行に参加しなかった[[豊登道春|豊登]]が国際プロレスに参戦し、マツダとのタッグが看板チームとなった。
しかし、戦力・資金・テレビ中継の有無でも日本プロレスとの差は歴然とし、1967年8月14日に[[大阪市|大阪]]で行われた日本プロレスとの[[興行戦争]](日本プロレスは[[大阪スタヂアム|大阪球場]]、国際プロレスは[[大阪府立体育会館|大阪府立体育館]]で、それぞれ開催。日本プロレスのメインイベントは[[ジャイアント馬場]]対[[ジン・キニスキー]]の[[インターナショナル・ヘビー級王座|インターナショナル・ヘビー級王座戦]]、国際プロレスのメインイベントはマツダ&[[サム・スティムボート]]対[[ロジャー・カービー]]&[[ビル・ドロモ]]戦)は「大阪夏の陣」として話題となったが、宣伝において飛行機によるビラ撒き作戦などを駆使して2万人の観衆を集めた日本プロレスに対し、国際プロレスは4200人の観客動員で終わるなど、興行面で惨敗してしまう<ref name="G15 71"/>(興行の開催は国際プロレスが先に発表しており、日本プロレスが、それに対抗して戦争を仕掛けた形となった<ref name="jiken8 3440">[[#jiken8|『日本プロレス事件史 Vol.8』、P34 - P40]]</ref>)。
=== TBSプロレスとして再起動 ===
吉原は[[TBSテレビ|TBS]]と[[フジテレビジョン|フジテレビ]]に対してテレビ中継に関する交渉を開始し、TBSも[[1967年]]1月に国際プロレスへの信用調査を開始し、同年2月に「定期放送に値する団体である」と結論付け、上申書には「猪木とマツダの試合を放送するのが絶対条件」の一文を付け加え、TBSは吉原に対して猪木の国際プロレス入団を要請した<ref name="jiken8 48">[[#jiken8|『日本プロレス事件史 Vol.8』、P48]]</ref>。TBS社長の今道潤三は1967年4月4日の記者会見で、「プロレス中継参入に関して検討しており、国際プロレスとの打ち合わせを開始した」と会見した一方で<ref name="jiken2 46">[[#jiken2|『日本プロレス事件史 Vol.2』、P46]]</ref>、2日後の4月6日には猪木の日本プロレス復帰会見が行われ、これによりTBSによる猪木の国際プロレス入団計画は頓挫した<ref name="jiken8 48" />。最終的にTBSとフジテレビの2局とも放送にゴーサインを出したが、吉原はTBSを選択した<ref name="jiken2 46" />。そして同年9月11日、TBSとの放映契約が締結され、調印式には国際プロレス側からは吉原が、TBS側からはTBS運動部部長の鶴田全夫とTBS運動部副部長の森忠大が出席した<ref name="jiken2 47">[[#jiken2|『日本プロレス事件史 Vol.2』、P47]]</ref>。国際プロレスは資金調達の名目で、吉原の早稲田大学時代の友人である森の仲介により、広島の乳業会社社長だった岩田弘に株を譲渡して融資を仰いだ<ref name="G19 84-85">[[#G19|『Gスピリッツ Vol.19』]]、P84-85。</ref>。この結果、岩田が国際プロレスの新しいオーナーとなり<ref name="G19 85">[[#G19|『Gスピリッツ Vol.19』]]、P85。</ref>、TBSのバックアップを受ける形で仕切り直しを行うこととなった。また、同時期にマツダが負債処理方法をめぐって吉原と対立し、国際プロレスを離脱<ref name="jiken8 3440"/>。マツダに代わる外国人招聘のブッカーとして、4年前に日本プロレスの契約を打ち切られた[[グレート東郷]]が迎えられた<ref name="G19 84">[[#G19|『Gスピリッツ Vol.19』]]、P84。</ref>。
同年11月7日、TBSによる全国中継開始の記者会見が行われ「来年1月からの中継開始」が発表された<ref name="jiken2 47"/>。会見には鶴田と森および岩田が出席したが、吉原は姿を現さなかった。そのため、吉原はTBSと岩田によって蚊帳の外に追いやられ、団体の運営を彼らに掌握されたと考えられていたが、当時の吉原は国際プロレスが赤字続きだったため多重債務を抱えており、公の場に出られる状況ではなかったという<ref name="G19 87">[[#G19|『Gスピリッツ Vol.19』]]、P87。</ref>。東郷にブッカーを委ねたのは吉原自身であり、放送責任者の森はテレビ中継、新オーナーの岩田は経営と、それぞれの立場から団体運営のハードの部分には携わっていたものの、ブッキングや[[マッチメイク]]などリングの上に関するソフトの部分には、それほど関与していなかった<ref name="G19 85">[[#G19|『Gスピリッツ Vol.19』]]、P85。</ref><ref name="G19 87"/>。
1967年12月22日、森が記者会見を行い「TBSが放送する番組名並びに団体名はTBSプロレスとする」と発表した<ref name="jiken2 47"/>。そして[[1968年]]1月、TBSのネームバリューを活かして団体名を『'''TBSプロレス'''』と改称し<ref name="G19 87"/>、[[ルー・テーズ]]、ホッジ、[[ハンス・シュミット (プロレスラー)|ハンス・シュミット]]、[[ワルドー・フォン・エリック]]、[[ブルドッグ・ブラワー]]、レフェリーの[[フレッド・アトキンス]]などの豪華外国人を招聘して第1弾シリーズの『オープニング・ワールド・シリーズ』を開幕<ref name="G19 88">[[#G19|『Gスピリッツ Vol.19』]]、P88。</ref>。当日は力道山の未亡人である[[田中敬子 (力道山の妻)|百田敬子]]、息子である[[百田義浩]]と[[百田光雄]]も招待されていた他、大相撲力士時代の[[天龍源一郎]]も観戦に訪れていた<ref name="jiken8 3440" />。森の意向で新人の[[グレート草津]]がエース候補に抜擢され、テレビ中継は『'''[[TWWAプロレス中継]]'''』として開始した。1月3日のテレビ放映第1戦は前述の「大阪夏の陣」以来となる日本プロレスの[[蔵前国技館]]とTBSプロレスの[[両国国技館|日大講堂]]の同一日興行となり、「[[隅田川]]の対決」または「隅田川決戦」などと呼ばれマスコミの話題となった。日本プロレスは、当初は1月4日に岡山でシリーズを開幕させる予定だったが、TBSプロレスの日大講堂大会が開催されることを聞きつけたために、急遽割増使用料を支払って蔵前でのシリーズ開幕に変更して興行をぶつけた<ref name="jiken8 3440" />。日本プロレスのメインイベントは馬場VS[[クラッシャー・リソワスキー]]のインターナショナル・ヘビー級王座戦で、当日は水曜日だったが日本テレビは17時30分から1時間枠で特番枠で放送<ref name="jiken2 48">[[#jiken2|『日本プロレス事件史 Vol.2』、P48]]</ref>、国際プロレスのメインイベントはテーズに草津が挑戦した[[IWA世界ヘビー級王座|TWWA世界ヘビー級王座戦]]で19時からの放送開始に合わせて行われた。しかし、草津はテーズの[[バックドロップ]]に失神KO負けを喫し、新エース誕生というTBSの構想は頓挫、興行面でも「大阪夏の陣」同様、再び日本プロレスに惨敗してしまう。以降プロレス界は[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]とTBSのテレビ2局の対立時代に入った。TBSが支払うテレビ放映権料は1回あたり220万円と、日本テレビが日本プロレスに支払う放映権料(1回あたり200万円)を上回っていた<ref name="jiken2 48"/>。
ところが、『TWWAプロレス中継』の開始から間もなく、プロレス業界の前時代的な経営体質に失望した岩田が吉原と決別して撤退<ref name="G19 89-90">[[#G19|『Gスピリッツ Vol.19』]]、P89-90。</ref>。リング上においても、草津が1月8日に[[鹿児島県総合体育センター体育館|鹿児島県体育館]]でテーズとの再戦を行うも再び敗退<ref group="†">鹿児島大会の草津VSテーズ戦は当初は放送予定がなかったが、TBS労働組合のストライキで生中継が中止となった4月24日に代替で録画中継された。</ref>。放送第2週の1月10日の[[大分県立荷揚町体育館]]では[[サンダー杉山]]をテーズにぶつけるが杉山も敗れ、1月12日には[[福岡市九電記念体育館|九電記念体育館]]で[[豊登道春|豊登]]がテーズと対戦したが、豊登も敗退してしまう<ref group="†">豊登VSテーズも当初は放送予定がなかったが、東郷の外国人ボイコット事件の影響で2月21日に録画中継された。</ref>。放送第3週の1月17日には、[[仙台市|仙台]]・[[宮城県スポーツセンター]]において豊登VSテーズの再戦が予定されていたが、東郷は豊登に代わって日本プロレスから[[大木金太郎]]を引き抜いてテーズと対戦させようと計画、大木も一旦は承諾して仙台へ向かったものの、日本プロレスにもこの情報が入り、引き留め工作により大木の引き抜きは失敗に終わった(試合は当初の予定通り豊登VSテーズ戦が行われ、テーズが勝利。その翌日の1月18日、日本プロレスの[[ユセフ・トルコ]]と[[松岡巌鉄]]が東郷の宿泊先に押しかけて暴行を加えるという事件が起き、警察沙汰となって一般新聞でも大きく報道された)<ref name="G15 72">[[#G15|『Gスピリッツ Vol.15』]]、P72。</ref>。
さらに同年2月19日の『TWWAワールド・タッグ・シリーズ』[[静岡県]][[浜松市体育館]]大会では、ブッキング料を巡る金銭上のトラブルから、招聘した外国人選手([[アル・コステロ]]&[[ドン・ケント]]の[[ファビュラス・カンガルーズ]]、[[フレッド・カリー]]、『オープニング・ワールド・シリーズ』から残留参戦したホッジとブラワー)の試合出場を東郷がボイコットする事件が発生<ref name="G19 90">[[#G19|『Gスピリッツ Vol.19』]]、P90。</ref>。この影響で2大会を日本人選手のみの興行とし、2月21日放送の『TWWAプロレス中継』は急遽、前月の1月12日に行われた九電記念体育館大会の録画中継に変更された。ボイコット翌日の2月20日に団体側が記者会見を行い、東郷との絶縁を発表。2月23日には東郷と外国人選手が会見し、団体との契約を破棄して帰国することを発表した<ref name="wko 109">[[#wko|『忘れじの国際プロレス』、P109]]</ref>。
=== 国際プロレスへの回帰 ===
こうした一連の緊急事態を受け、イメージの悪化を懸念した局側の申し入れにより団体名は再び『国際プロレス』に戻り<ref name="G19 91">[[#G19|『Gスピリッツ Vol.19』]]、P91。</ref>、団体は新路線を模索することとなる。東郷との決別でアメリカからの外国人招聘ルートを失った吉原は、当時早稲田スポーツ部[[OB・OG|OB]]会長の座にあり、レスリング部OBの吉原にとっても柔道部OBの森にとっても近しい存在だった[[日本レスリング協会]]会長の[[八田一朗]]の紹介を受けて、新たにヨーロッパからの外国人招聘ルートを開拓した。
しかし、東郷による外国人選手ボイコット事件の余波は『TWWAワールド・タッグ・シリーズ』の次期シリーズである『日・欧 決戦シリーズ』にも影響し、同シリーズは全9戦という日程となった。また、東郷とのトラブルを受けての急遽の招聘だったこともあり、ヨーロッパからの外国人選手は就労[[査証|ビザ]]ではなく観光ビザでの来日となったため、開幕戦である2月28日の[[栃木県]][[足利市]][[足利工業大学付属高等学校|月丘高校体育館]]大会(メインイベントは豊登&杉山VS[[トニー・チャールズ]]&リー・シャロンのTWWA世界タッグ王座戦)は入場無料のチャリティー興行へ急遽変更されたが<ref name="wko 109"/>、生中継は予定通り行われた(翌日に[[香港]]に飛んでビザを切り替え、第2戦からは通常の興行開催が可能となった)<ref name="G15 73">[[#G15|『Gスピリッツ Vol.15』]]、P73。</ref>。同シリーズは開催までの期間がほとんどなかったため宣伝はまったく行われず、パンフレットを販売しない会場もあった<ref>[[#wko|『忘れじの国際プロレス』、P93]]</ref>。
日本プロレスの国際プロレスに対する妨害工作はその後も続き、[[後楽園ホール]]は日本プロレスが日本テレビと[[読売新聞]]グループを使ったコネクションによる工作で、[[テレビ朝日|NET]]の『[[ワールドプロレスリング#日本プロレス中継時代|NETワールドプロレスリング]]』開始まで使用出来なかったほか(都内の中規模会場での興行は区立の体育館の使用を強いられた)、外国人選手の招聘でも妨害を掛けており(後述)、さらに日本プロレスは1968年8月3日の国際プロレス横浜スカイホール大会の裏に[[南区 (横浜市)|横浜市南区]]で興行を急遽ぶつけて7000人の観衆を集めている(国際プロレスは実数1000人未満)<ref name="jiken8 3440"/>。
=== 外国人選手の招聘 ===
当時の日本プロレス界はプロレスの本場であるアメリカから大物外国人を招聘することがステータスの時代だった。国際プロレスでは設立当初、マツダをエース兼ブッカーとしてアメリカからのレスラー招聘責任者とした。しかしマツダは[[1967年]]の2シリーズの終了後、[[TBSテレビ|TBS]]の放送開始を待たず、同年秋までに離脱してしまう。そこで国際プロレスは日系レスラーの東郷にブッキングを依頼した。東郷はかつて日本プロレスのブッカーを務めていたが、力道山の死後は絶縁状態となっていた。東郷はカナダ([[トロント]]地区)のプロモーターであるフランク・タニーを代表として'''TWWA'''を設立。[[1968年]]1月、初代TWWA王者として認定されたテーズを初めとする大物レスラーを招聘してシリーズを開催、TBSの放送も開始された。しかしその東郷とも同年2月には前述のトラブルから離別し、国際プロレスは[[北アメリカ|北米]]ルートを完全に遮断されてしまう。
そのため、吉原は[[八田一朗]]の力を借り、それまで日本プロレス界と縁の薄かった[[ヨーロッパ]]のマット界との提携に乗り出し、ジョージ・レリスコウ主宰のジョイント・プロモーションズとのコネクションを形成していく。これにより[[ビル・ロビンソン]]、[[ビリー・ジョイス]]、[[トニー・チャールズ]]、[[アルバート・ウォール]]、[[パット・ローチ]]、[[ワイルド・アンガス]]、[[ロード・アルフレッド・ヘイズ|アル・ヘイズ]]、[[ダニー・リンチ]]などの[[イギリス]]勢をはじめ、[[西ドイツ]]の[[ホースト・ホフマン]]、[[フランス]]の[[アンドレ・ザ・ジャイアント|モンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)]]、[[スイス]]の[[レネ・ラサルテス|ジャック・デ・ラサルテス]]、そして欧州を主戦場としていたカナダ出身の[[ジョージ・ゴーディエンコ]]など多くの強豪レスラーが、国際プロレスで初来日を果たした。なお、このヨーロッパのコネクションと吉原が協力して立ち上げたのが、団体崩壊までのタイトル統括組織となった'''IWA'''である。
欧州ルートを確立しつつ、ジョイント・プロモーションズとのつながりで[[カルガリー]]の[[スタンピード・レスリング]]ともコネクションを築き、このルートで[[スタン・スタージャック]]や[[ムース・モロウスキー|スタン・ザ・ムース]]などが来日。また、フリーランス選手の[[清美川梅之]]のブッキングで[[ダニー・リトルベア]]や[[オックス・ベーカー]]、[[シャチ横内]]のブッキングで[[バディ・コルト]]やゴージャス・ジョージ・ジュニアらを招聘するなど、アメリカのルートも少しずつ繋がり始めたが、[[NWA (プロレス)|NWA]]のコネクションは[[日本プロレス]]が握っていたため、TBSのバックアップのもと、NWAに次ぐアメリカのメジャー団体だった[[アメリカン・レスリング・アソシエーション|AWA]]に接近する<ref name="G15 74">[[#G15|『Gスピリッツ Vol.15』]]、P74。</ref>。[[1970年]]2月にAWAの実質上のオーナーであり、現役世界ヘビー級王者の[[バーン・ガニア]]が来日して国際の主力勢を相手に防衛戦を行い、「'''AWA極東支部'''」の看板を掲げ本格提携がスタートした<ref name="G15 74"/>。以降はガニアや[[エドワード・カーペンティア]]、[[マッドドッグ・バション]]&[[ブッチャー・バション]]をはじめとする世界タッグ王者チームなど、AWA系の大物レスラーを数多く招聘、日本プロレスと遜色ない顔ぶれが揃うようになった。また、この提携はアンドレ・ザ・ジャイアントのアメリカ進出の契機ともなった<ref name="G15 73"/>。一方で、[[1972年]]に旗揚げした[[新日本プロレス]]が、[[カール・ゴッチ]]をブッカーにヨーロッパの選手を招聘するようになったこともあり、欧州マットとの繋がりは薄れていった。[[1974年]]11月にはシングル王者のガニアと、タッグ王者の[[ニック・ボックウィンクル]]&[[レイ・スティーブンス]]を同時招聘しての豪華な興行も開催された。
しかし、AWAが要求する高額な提携料は団体の運営を圧迫させることとなったため、[[1975年]]2月をもってAWAとの提携を解消し、3月より[[カナダ]]の[[カルガリー]]に[[大剛鉄之助]]を支部長とする北米支部を設置して新たな招聘窓口とした<ref name="G16 74">[[#G16|『Gスピリッツ Vol.16』]]、P74。</ref><ref name="wko p30">[[#wko|「忘れじの国際プロレス」 P30]]</ref>。のちの関係者の回想によると、ガニアから「自分たち(AWA)を取るか、大剛を取るか」と迫られ、吉原が大剛を選んだとされている<ref name="G16 74"/>。カナダのルートでは「ギャラは安いが中身が凄い外人選手」<ref name="wko p30"/>を発掘し、[[キラー・トーア・カマタ]]や[[ジプシー・ジョー]]など、当時のエースだった[[ラッシャー木村]]と手の合う流血派の[[ラフファイト|ラフファイター]]が中心となったが、AWA時代と比べ外国人選手のネームバリューはスケールダウンすることとなった。大剛ルート以外では、[[新日本プロレス]]や[[全日本プロレス]]と接点の無かったアメリカの[[アラバマ州|ガルフ・コースト]]地区([[リップ・タイラー]]のルートによるリー・フィールズ主宰の[[サウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング|GCCW]])、[[テネシー州|テネシー]]地区(ジョーのルートによる[[ジェリー・ジャレット]]主宰の[[コンチネンタル・レスリング・アソシエーション|CWA]])、[[ルイジアナ州|ルイジアナ]]地区([[グリズリー・スミス]]のルートによる[[ビル・ワット]]主宰の[[ビル・ワット#MSWA|MSWA]])、最末期には[[マッハ隼人]]の仲介で[[メキシコ]]の[[CMLL|EMLL]]からも選手を招聘<ref name="G28 59">[[#G28|『Gスピリッツ Vol.28』]]、P59。</ref>。1979年から1980年にかけてはAWAルートも一時的に復活、ヘビー級王者となっていたボックウインクルが来日して防衛戦を行い、ガニアの再来日も実現したが、本格的な提携再開には至らなかった。
古くからコネクションを持っていたカルガリーのスタンピード・レスリングからは、大剛ルートではカマタをはじめ[[ビッグ・ジョン・クイン]]や[[キラー・ブルックス]]などエース級の選手が来日し、[[1970年代]]後半の外国人招聘ルートの主軸となった。しかし、[[1979年]]7月の[[ダイナマイト・キッド]]初来日を機に、当時国際プロレスと交流していた新日本プロレスは、大剛と反目していた[[ミスター・ヒト]]を通じて[[スチュ・ハート]]に急接近。ハートは最終的に新日本プロレスを日本での提携先として選択し、国際プロレスはカルガリー・ルートを遮断されてしまった<ref name="jiken8 5253">[[#jiken8|『日本プロレス事件史 Vol.8』、P52 - P53]]</ref>。
前述の通り日本プロレスの全盛時は、大物外国人をなかなか招聘できずに苦戦していた。しかし
=== カラー放送開始
[[TBSテレビ|TBS]]の『[[TWWAプロレス中継]]』におけるカラー放送での実況中継は、すでにカラー放送を実施していた[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の『[[日本プロレス中継]]』
その半年後の1970年10月8日、『'70ダイナマイト・シリーズ』[[大阪府立体育会館|大阪府立体育館]]大会において、日本初の[[デスマッチ#金網デスマッチ|金網デスマッチ]]である[[ラッシャー木村]]VS[[ムース・モロウスキー|ドクター・デス]]戦が、事前に告知されることなく行われた。テレビでは翌週の10月14日に録画中継された。
この金網デスマッチが決行された伏線として、同シリーズの目玉選手として招聘を予定していた[[スパイロス・アリオン]]の参加キャンセル問題があった。当時、国際プロレスはヨーロッパのルートに加え、[[NWA (プロレス)|NWA]]と比肩していた[[バーン・ガニア]]率いるアメリカのメジャー団体[[アメリカン・レスリング・アソシエーション|AWA]]と提携し、ネームバリューのある外国人レスラーを招聘できる体制が整ってきていた。そこで、国際プロレスは1970年6月に[[デイリースポーツ]]の協力を得て、未来日の外国人選手をファン投票をもとに招聘する『あなたがプロモーター』なる企画を行い、1位となったアリオンや2位の[[ミル・マスカラス]]を含む投票上位選手の招聘を計画した<ref group="†">投票上位のベスト10は、1位アリオン、2位マスカラス、3位[[ザ・シーク]]、4位[[ブルー・デモン]]、5位[[アーニー・ラッド]]、6位[[ロッキー・ジョンソン]]、7位[[レイ・メンドーサ]]、8位[[ジョニィ・デ=ファジオ|ジョニー・デ=ファジオ]]、9位[[イゴール・ボディック]]、10位[[バロン・フォン・ラシク]]。このうち、国際プロレスが招聘できたのは10位のラシク1人だけだった(『プロレス醜聞100連発!!』P86-87、1998年、[[日本スポーツ出版社]]、ISBN 4930943108)。</ref>。しかし、圧倒的な海外ネットワークを持つ[[日本プロレス]]にことごとく妨害された<ref name="G15 75">[[#G15|『Gスピリッツ Vol.15』]]、P75。</ref>。アリオンも一度は来日に合意し、シリーズのポスターに写真が掲載されていたにもかかわらず土壇場でキャンセルとなったため(アリオンとマスカラスは翌[[1971年]]2月
国際プロレスにおける金網デスマッチのルールは反則攻撃は可能で、[[ノックアウト]]またはギブアップでの決着であり、ノックアウトの場合は相手をピンフォールして3カウントを奪った後、レフェリーがさらに10カウントを数え、相手が[[ノックダウン]]状態のままカウント内に立ち上がれなければKO勝ちとなるという[[ボクシング]]と同様のもので<ref group="†">ただし導入初期は、ピンフォールによる3カウントと、改めてのレフェリーによる10カウントとの間に、タイムキーパー(兼リングアナウンサー)が場内に読み上げる「30秒間」のカウントも挟んでおり、すなわち、3カウント→30秒→10カウントの、総計「43カウント」をとって初めてKO勝ちとなるルールになっていた。また、ごくまれに「金網マッチ」などと称し、他者の乱入を阻止する目的のみでリングに金網を設置し、試合は(デスマッチルールではなく)通常のプロレスルールで行ったケースもあった。</ref>、アメリカでは一般的なエスケープ・ルール(金網から脱出した選手が勝者となるルール)とは異なっていた。金網デスマッチが行われる大会のポスターは通常版の他に、金網デスマッチ開催告知用も用意されていた<ref name="wko 65">[[#wko|『忘れじの国際プロレス』、P65]]</ref>。
国際プロレスとしては、金網デスマッチは
1971年3月2日は、またも日本プロレスとの興行戦争になったが(日本プロレスは[[蔵前国技館]]、国際プロレスは[[東京体育館|東京都体育館]])、当初国際プロレスは「[[マッドドッグ・バション]]&[[ブッチャー・バション]]を呼んでビッグマッチを行う」としていただけで公式なカードを発表していなかった。一方の日本プロレスは、[[BI砲]]VSアリオン&マスカラスの[[インターナショナル・タッグ王座]]戦を行うことを発表。前述の通り、アリオンとマスカラスは前年に国際プロレスが行った未来日外国人レスラーのファン投票1位と2位の選手であり、国際プロレスは本来招聘するはずだった外国人選手を日本プロレスに奪われた揚句、集客の目玉として興行戦争に利用される形となった。そこで、国際プロレスはラッシャー木村VS[[アンジェロ・ポッフォ|ザ・クエッション]]の金網デスマッチで日本プロレスに対抗、前年12月12日の[[オックス・ベーカー]]との金網デスマッチで左足を複雑骨折した木村はギプスを装着したまま強行出場したが、「大阪夏の陣」「隅田川決戦」同様に、またしても日本プロレスに惨敗してしまう(今回も国際プロレスが先に発表した興行開催に合わせ、日本プロレスが3月3日に予定していた日程を急遽1日前倒し、興行をぶつける形となった)<ref name="jiken8 3440" /><ref group="†">バション兄弟VS杉山&草津の[[AWA世界タッグチーム王座|AWA世界タッグ王座]]戦を先に発表し、木村VSザ・クエッションの金網デスマッチと[[マイティ井上]]VS[[ビル・ミラー (プロレスラー)|ビル・ミラー]]の2カードを後に追加した。テレビ中継はバション兄弟VS杉山&草津のみ3月24日に録画中継された。</ref>。
木村以外の主力選手の金網デスマッチ初戦は、[[サンダー杉山]]が1971年2月28日の[[岩手県営体育館]]でのマッドドッグ・バション戦<ref>{{cite web|url=https://www.puroresu.com/iwe/results/iwe197102awa.html|title=IWE 1971AWA Big Fights Series|accessdate=2016-03-17|publisher=PURORESU.COM}}</ref>、[[ストロング小林]]が1971年10月26日の[[千厩町|千厩]]での[[ダニー・リンチ]]戦<ref>{{cite web|url=https://www.puroresu.com/iwe/results/iwe197110challenge.html|title=IWE Big Challenge Series 1971|accessdate=2015-03-10|publisher=PURORESU.COM}}</ref>、[[グレート草津]]が[[1972年]]6月30日の[[金公園|岐阜市民センター]]での[[マイケル・シクルナ|バロン・シクルナ]]戦<ref>{{cite web|url=https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=shows&show=250988|title=IWE Big Summer Series - Day 4|accessdate=2014-11-22|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>、[[マイティ井上]]が[[1973年]]2月27日の[[愛知県体育館]]でのホセ・クィンテロ戦<ref>{{cite web|url=https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=shows&show=235299|title=IWE Big Challenge Series - Day 3|accessdate=2014-11-22|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>、[[アニマル浜口]]が1973年7月9日の大阪府立体育館での[[バディ・ウォルフ]]戦<ref>{{cite web|url=https://www.wrestlingdata.com/index.php?befehl=shows&show=235368|title=IWE Big Summer Series - Day 16|accessdate=2014-11-22|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>、[[阿修羅・原]]が[[1979年]]4月22日の[[加賀市|加賀]]大会での[[ボブ・ダラセーラ|ザ・UFO]]戦<ref>{{cite web|url=https://www.puroresu.com/iwe/results/iwe197904challenge.html|title=IWE 1979 Big Challenge Series|accessdate=2016-03-15|publisher=Puroresu.com}}</ref>であった<ref group="†">小林・井上・原の金網デスマッチ初戦はテレビ中継が行われない会場で行われたが、杉山、草津、浜口の金網デスマッチ初戦当日は番組収録が行われていた。</ref>。また、国際プロレスの主要タイトルの防衛戦における金網デスマッチは、IWA世界ヘビー級王座では1972年1月27日の[[横浜文化体育館]]での小林VS[[キング・イヤウケア|カーティス・イヤウケア]]戦、[[IWA世界タッグ王座]]では『TWWAプロレス中継』打ち切り翌日の[[1974年]]3月31日の[[柳町公園|釧路市厚生年金体育館]]での木村&草津VS[[ジム・ブランゼル]]&[[バグジー・マグロー|ザ・ブルート]]戦、[[WWU世界ジュニアヘビー級王座]]では1979年11月7日の[[弘前市|弘前]]における原VS[[ジプシー・ジョー]]戦において初めて行われた([[IWA世界ミッドヘビー級王座]]では金網デスマッチは行われなかった)。
1972年に入ると、金網デスマッチが行われた興行は、前述の小林VSイヤウケアのように超満員札止めの興行もあった<ref name="jiken10 P2P11" />。そうした中、[[全日本プロレス]]を設立した[[ジャイアント馬場]]が国際プロレスに特別参戦する2日前の1972年11月27日、『ビッグ・ウインター・シリーズ』[[愛知県体育館]]大会で日本初の金網タッグデスマッチ、王者チームの[[ウィリアム・アフィルス|ディック・ザ・ブルーザー]]&[[クラッシャー・リソワスキー]]に小林&草津が挑戦する[[ワールド・レスリング・アソシエーション (インディアナポリス)|WWA]]世界タッグ王座戦が行われた。日本プロレスは同年11月21日に愛知県体育館で興行を行っていたため<ref group="†">日本プロレスのメインイベントは[[坂口征二]]&[[吉村道明]]VS[[ファビュラス・カンガルーズ]]([[アル・コステロ]]&[[ドン・ケント]])の[[アジアタッグ王座]]戦。</ref>、名古屋での興行戦争となったが、日本プロレス側の観客動員が実数2000人(主催者発表は4000人)に対し、国際プロレスの前売りチケットは完売となり(8500人の超満員札止め)、興行面では国際プロレスの勝利となった<ref name="jiken10 P2P11" />。しかし試合自体は、外国人組が日本人組とレフェリーの阿部脩をノックアウトし、彼らをリングに残したまま、サブレフェリーの前溝隆男にも暴行を加えた上で金網の出入口から脱出して控室に戻るという不透明決着となる(結果は無効試合となり、王者チームの外国人組がタイトルを防衛)<ref name="jiken10 P2P11" /><ref group="†">実際には、当時のWWA世界タッグ王者チームは[[ザ・ブラックジャックス]]であり、1972年11月末の時点ではブルーザー&クラッシャーはWWA世界タッグ王座を保持していなかった([https://www.wrestling-titles.com/us/in/wwa/in-wwa-t.html Wrestling-Titles.com: WWA World Tag Team Title])。そのため、タイトルマッチはチャンピオン・ベルトが持参されていない状態で行われた。</ref>。これは、外国人側が前述のノックアウト・ルールを理解せず、アメリカで一般的なエスケープ・ルールと誤認していたためであるが<ref name="G15 75"/>、この決着に納得しない観客が暴動を起こすという事態に発展。国際プロレスは1973年2月27日に愛知県体育館で入場無料のお詫び興行を行うと発表したが、暴動は収まらず、国際プロレスは[[愛知県警察]]に出動を要請し、[[機動隊]]約90人が出動する騒ぎとなり<ref name="jiken10 P2P11" /><ref group="†">当日は番組収録も行われており、マイティ井上VSホセ・アローヨは12月3日に、[[ミスター珍]]VSダイドーネ・ムッソリーニは12月10日にそれぞれ録画中継された。</ref>、翌日のスポーツ紙にも掲載された<ref name="jiken10 P2P11"/>。なお、小林とリソワスキーは翌11月28日に[[静岡市|静岡]]で行われたIWA世界ヘビー級王座戦でも金網デスマッチで対戦している(小林&草津VSブルーザー&クラッシャーの再戦は3日後の11月30日、[[アダストリアみとアリーナ|茨城県立スポーツセンター体育館]]にてWWA世界タッグ選手権とIWA世界タッグ選手権とのダブルタイトルマッチとして行われたが、この試合は金網デスマッチではなく通常の試合形式で行われ、12月24日に録画中継された)。入場無料のお詫び興行も予定通り1973年2月27日に行われている(1972年11月27日の半券を所持していた観客のみ入場無料となった。当日のメインは前述の井上VSクィンテロ)<ref name="jiken10 P2P11"/>。
[[1973年]]11月28日、横浜文化体育館にて日本初の金網インディアン・ストラップ・マッチとして草津VS[[ワフー・マクダニエル]]が行われた。この際のルールは、相手をノックアウトした後、相手を引きずってリングを2周すれば勝利するというものであった(アメリカでは1周ルールが一般的)。当日は番組収録も行われており、井上VSデーブ・ラーセンが12月15日に、小林&木村対[[ジン・アンダーソン]]&[[オレイ・アンダーソン]]([[ミネソタ・レッキング・クルー]])が12月22日にそれぞれ録画中継された。また、[[1974年]]6月5日には[[米沢市|米沢]]にて、日本初の金網チェーン・デスマッチとして木村対[[セーラー・ホワイト]]が行われた。
1974年9月に『[[プロレスアワー|国際プロレスアワー]]』としてレギュラー中継を再開した東京12チャンネル(現:[[テレビ東京]])では金網デスマッチの放映を解禁した。東京12チャンネルにおける金網デスマッチ中継初回は、同年7月5日に行われた『'74ビッグ・サマー・シリーズ』[[鹿児島県]][[鹿屋市|鹿屋]]大会の木村VS[[ベンジー・ラミレス|ザ・キラー]]戦で、両者による金網チェーン・デスマッチを7月29日に『月曜スポーツスペシャル』枠で録画中継した。『国際プロレスアワー』は後述の通り基本的に録画中継だったため、[[凶器 (プロレス)|凶器]]攻撃や金網に乱打している最中は「このシーンは凄惨なため、放送をご容赦ください」というテロップと観客席を映し、そのシーンを映さない策が講じられた。その映像のカットは激しい流血を伴う凶器攻撃の最中だけで、攻撃が終了した後は、おびただしい流血になろうと中継をカットすることはなかった。東京12チャンネルにおける金網デスマッチの中継は、レギュラー放送では[[1980年]]7月25日に[[中島公園|札幌中島スポーツセンター]]で行われた井上&浜口VS[[スパイク・ヒューバー]]&ロッキー・ブリューワーのIWA世界タッグ王座戦(同年8月25日に録画中継)、特番枠移行後では[[1981年]]5月16日に[[後楽園ホール]]で行われた[[ポール・エラリング]]&テリー・ラザンVS井上&原のIWA世界タッグ王座戦(同年9月16日に録画中継)が、それぞれ最後となったが、金網デスマッチ自体は崩壊当日まで行われた。
=== 移動体育館 ===
プロレスの野外興行は、雨の天気になるとプロモーターが「雨天決行」もしくは「雨天中止」を選択・決定する。当時は交通費の節約で前者を選択するのが大半であり、後者の場合は順延日がサーキットの日程にマッチングしないことも少なくなかった<ref name="jiken18 1721">[[#jiken18|『日本プロレス事件史 Vol.18』、P17 - P21]]</ref>。
国際プロレスは交通費などの経費節約のため、移動体育館の導入を決定した。考案者は北海道出身の名物レフェリーであった阿部脩。本体はサーカスのテントを模したものであり、4時間で設営完了するというものであったが、実際はレッカー車を使用して2時間で設営出来た。当時野外会場で問題となっていた入場券を持たない観客が観戦するのを防ぐことに役立った。移動体育館導入に伴い、国際プロレスは設営のためのレッカー車を導入した。観客席は当時の屋外会場の主流であったゴザ敷ではなく長椅子を用意し、野外会場における観戦環境の改善にも役立った。移動体育館が行われる大会は、当時は3時間稼働可能な発電機や蓄電池の価格が高額で、電気代を節約するため14時から16時試合開始で行われることが多かった<ref name="jiken18 1721"/>。日本プロレスも移動体育館の導入を検討していたが、日本テレビにより却下されている。
移動体育館の初使用は1970年8月6日に開催された「'70ビッグ・サマー・シリーズ」[[小樽市|小樽]]大会であった。このシリーズの北海道サーキットでも多く使用され、同時に、「'70ビッグ・サマー・シリーズ」は、日本人選手用の専用バス、外国人選手用のマイクロバス、リング輸送用トラック、移動体育館設営用のレッカー車、[[サンダー杉山]]と[[グレート草津]]の自家用車の6台を連ねての巡業だった。「[[IWAワールド・シリーズ#第3回大会|第3回IWAワールド・シリーズ]]」と「[[IWAワールド・シリーズ#第4回大会|第4回IWAワールド・シリーズ]]」では使用頻度が多かった。一方で通気性がなく、テント内が高温多湿であったことが災いし、[[マイティ井上]]は「農家のビニールハウスの中で試合をやるようなものだった」と語り、[[門馬忠雄]]は「眼鏡が曇って試合が見れなかった」と語っている<ref name="jiken18 1721"/>。
「'77ビッグ・チャレンジ・シリーズ」の頃になると、移動体育館の使用は北海道限定となり、移動体育館自体も札幌郊外の倉庫に保管されるようになり、その後保管場所を道場にほど近い埼玉県[[与野市]](現:[[さいたま市]][[中央区 (さいたま市)|中央区]])に保管場所を移し、最末期は関東地方限定で使用していた。
雨天時に威力を発揮した移動体育館であったが、長年の使用による悪臭による選手からのクレームや、気象予報の正確性の向上、「'78ビッグ・サマー・シリーズ」では雨天中止の際の予備日が翌日であったことなどから、1978年に移動体育館は廃棄され、その役目を終えた<ref name="jiken18 1721"/>。
=== テレビ放映権移行 - 全日本プロレスとの交流 ===
[[豊登道春|豊登]]、[[サンダー杉山]]、[[グレート草津]]らによる複数エース体制を経て、1971年からは[[ストロング小林]]の単独エース体制が確立した国際プロレスであったが、[[1974年]]2月に小林が離脱し、フリー宣言を行って[[新日本プロレス]]へ転出した。これに対し、国際は契約違反として小林に違約金の支払を求めたが、[[東京スポーツ]]が仲介に入り和解金を国際に支払った上で、小林は「東京スポーツ所属選手」として新日本に参戦することで決着した。これにより1975年より正式に新日本所属選手となる。
TBSの『TWWAプロレス中継』も1972年から変化が生じる。同年1月に放送時間が水曜19時台前半のみの30分に短縮され、さらに4月にはゴールデンタイムを外れ日曜18時台へ移動したと同時に、基本的に録画中継へと変更され、放送権料も開始当初から比べ30%減額された<ref name="jiken2 4950" />。この時期からネットを打ち切る局が現れた他、視聴率も10%を切る週が目立ち、1973年に入ると視聴率がさらに悪化し、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の『[[全日本プロレス中継]]』や[[テレビ朝日|NET]]の『NET日本プロレスリング中継』→『[[ワールドプロレスリング]]』と比較して、『TWWAプロレス中継』は平均5%台と最下位に転落した<ref name="jiken2 4950"/>。10月に放送時間が土曜午後に再び移動したことに加え、[[愛知県体育館]]や[[大阪府立体育会館|大阪府立体育館]]などの大会場を放送エリアに抱える[[CBCテレビ|中部日本放送]]と[[朝日放送テレビ|朝日放送]]における放送が[[遅れネット]]に変更されるなど、状況はますます悪化。ついにTBSは1974年1月28日の『'74パイオニア・シリーズ』[[岩手県営体育館]]大会を最後の番組収録とした上で、同年2月に『TWWAプロレス中継』の打ち切りを正式発表。『'74チャレンジ・シリーズ』開幕の4日後である1974年3月30日をもって『TWWAプロレス中継』の放送を終了した<ref name="jiken2 4950"/>。
この窮地を救ったのが、[[吉原功]]の早大レスリング部の盟友だった[[テレビ東京|東京12チャンネル]]の白石剛達運動部長である<ref name="G16 72">[[#G16|『Gスピリッツ Vol.16』]]、P72。</ref>。TBSの放送打ち切り後、吉原は白石に国際プロレスのテレビ中継を嘆願し、これが通じて東京12チャンネルは『月曜スポーツスペシャル』内での単発放送に踏み切る。初回放送として、1974年6月3日の『'74ダイナマイト・シリーズ』[[後楽園ホール]]大会が生中継で放送され、その後も2回『月曜スポーツスペシャル』で単発放送された。そして同年9月23日、『'''[[プロレスアワー|国際プロレスアワー]]'''』として、かつてNETで『[[ワールドプロレスリング#日本プロレス中継時代|NETワールドプロレスリング]]』を放送していた月曜20時台において、半年ぶりにレギュラー中継が再開された。レギュラー放送の復活初回放送は、『TWWAプロレス中継』と同じく[[両国国技館#日本大学講堂|日大講堂]]大会の生中継であった。
また、[[全日本プロレス]]との交流戦も国際プロレスの苦境を救った。もともと全日本プロレスとは協調路線を保っていたため(全日本プロレスが旗揚げする際、吉原社長は選手不足の全日本に杉山を友好トレードしている他、1972年11月29日・30日には[[ジャイアント馬場]]が国際プロレスに友情参戦)、TBSによる放送打ち切り後初のシリーズとなった『'74チャレンジ・シリーズ』は国際・全日本提携記念シリーズとして開催され、全日本から馬場をはじめ[[ザ・グレート・カブキ|高千穂明久]]、[[サムソン・クツワダ]]、[[大熊元司]]の4選手が3月26日から4月10日まで参戦した(本来は4月11日まで参戦予定だったが、当日予定していた大阪府立体育館大会が交通機関の[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]の影響で中止となったため<ref name="wko 111">[[#wko|『忘れじの国際プロレス』、P111]]</ref>、4月10日[[出雲体育館]]大会までの参戦となった)。
さらに、1975年12月に全日本プロレスが開催した『[[オープン選手権]]』には木村、草津、井上の3人が参加(外国人選手では[[バロン・フォン・ラシク]]と[[ホースト・ホフマン]]が[[アメリカン・レスリング・アソシエーション|AWA]]のブッキングで参戦)。1977年12月の『[[世界オープンタッグ選手権]]』にも木村と草津が国際プロレス代表チームとして参戦し、井上も高千穂明久との混合タッグで出場している。その間の1976年3月28日には[[蔵前国技館]]にて全日本との対抗戦が行われ(メインイベントは木村VS[[ジャンボ鶴田]])、以降も1977年11月の『全軍対抗戦』<ref group="†">11月26日[[大曲市|大曲]]・11月27日[[宮古市|宮古]]・11月30日[[静岡市|静岡]]の各大会は国際プロレス主催、11月25日[[前橋市|前橋]]・11月29日[[大田区体育館]]・12月1日[[和歌山市|和歌山]]の各大会は全日プロレス本主催。</ref>、[[大木金太郎]]の金一道場を加えた1978年2月の『全日本・国際・韓国 全軍激突戦』など対抗戦形式の単発シリーズが開催された(1977年の『全軍対抗戦』には、外国人選手も国際プロレスから[[キラー・ブルックス]]と[[キューバン・アサシン]]、全日本プロレスから[[ビル・ロビンソン]]と[[J・J・ディロン|ジム・デュラン]]が両団体の前シリーズより残留参戦したが、彼らは対抗戦には出場せず、それぞれの招聘団体の日本人選手と対戦した)<ref>{{cite web|url=https://www.puroresu.com/alljapan/results/aj197711allgroup.html|title=1977 AJPW vs IWE All Group Competitions|accessdate=2015-12-29|publisher=Puroresu.com}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.puroresu.com/alljapan/results/aj197802jpkr.html|title=1978 All Japan - IWE - Korea: Triple Group Competitions|accessdate=2015-12-29|publisher=Puroresu.com}}</ref>。1978年11月に国際プロレスが主催した『[[日本リーグ争覇戦]]』にも、ジャンボ鶴田、[[タイガー戸口|キム・ドク]]、[[桜田一男|ミスター・サクラダ]]ら全日本プロレスの選手が参加した(前年に[[大相撲]]からプロレスに転向した[[石川孝志|石川隆士]]は、このリーグ戦においてフリーの立場で凱旋帰国を果たしている)<ref>{{cite web|url=https://www.puroresu.com/iwe/results/iwe197811japan.html|title=IWE 1978 Japan League Competitions|accessdate=2015-12-29|publisher=Puroresu.com}}</ref>。
吉原にとって全日本プロレスとの対抗戦は、全国ネットを持つ日本テレビに国際プロレスのレスラーが映ることで、選手の知名度を全国区にするという狙いもあったが、全日本の選手に敗れることによるイメージダウンを懸念した東京12チャンネルは反対していたという<ref name="G16 74">[[#G16|『Gスピリッツ Vol.16』]]、P74。</ref>。興行力の差で営業面ではおいしいところを全日本に持っていかれたというが<ref name="jiken2 72">[[#jiken2|『日本プロレス事件史 Vol.2』、P72]]</ref>、それは当時の日本テレビと東京12チャンネルの力関係においても同様であり、好カードの放送は日本テレビに独占されていた。なお国際の主催興行であってもジャンボ鶴田など全日本のトップ選手との試合は、東京12チャンネルで放送時間が制限されていたという<ref name="G26 86-87">[[#G26|『Gスピリッツ Vol.26』]]、P86-87。</ref>。
=== 女子部の発足 ===
1974年9月の東京12チャンネルにおけるレギュラー放送開始と同時に、国際プロレスは[[女子プロレス|女子部]]を発足。これに伴い戦後に存在した[[全日本プロレス協会]]に次いで、興行プログラムに女子の試合を挿入する日本で2番目の男女混合プロレス団体となった。
女子部を発足の背景には東京12チャンネルで中継を始めるに当たって、1972年に解散した[[日本女子プロレス]]を中継していた局側から女子プロレスを組み込んで男女並立で放送することと、毎月最終週のプロレス中継を休止し、[[ボクシング|プロボクシング]]中継番組である『[[ヒートアップボクシング|KO(ノックアウト)ボクシング]]』を放送することを条件として提示されたことにある。ちなみに日本女子の旗揚げは国際プロレスと同じ1967年で、旗揚げ戦の会場も同じ台東区体育館だった。
女子部には日本女子に最後まで残っていた[[小畑千代]]、[[佐倉輝美]]、[[千草京子]]が所属、外国人も日本女子に参戦していた世界王者、[[ファビュラス・ムーラ]]が参加し、日本女子の実質的な後継となった。ムーラ門下生を中心に外国人選手も多く招聘した。レフェリーは男子の所属選手だった[[若松市政]]が主に担当。
最初の試合は『'74スーパー・ワイド・シリーズ』開幕戦となった1974年[[9月15日]]の後楽園ホール大会で、第4試合として千草と元[[WWWA世界シングル王座|WWWA世界王者]]、[[サンディ・パーカー]]のシングルマッチ、第6試合として小畑&佐倉組対ムーラ&[[ポーラ・ケイ]]組のタッグマッチが組まれた。
テレビ局主導で始められたため、テレビマッチではいかなる場合でも女子の試合は中継された。しかし、当時はまだ男子プロレス選手及び関係者、ファンの間では女子を受け入れる風潮がなかった
最終試合は4月12日「ダイナマイトシリーズ」第12戦における小畑対佐倉のIWWA太平洋岸選手権試合で、小畑が勝利してタイトル防衛に成功した。ちなみに全日本女子ではマッハが引退し、[[ビューティ・ペア]]ブームが始まらんとした時期であった。
女子部は1年半強という短い活動期間であったが、後に全日本女子の常連外国人として活躍した選手の中には[[ビッキー・ウィリアムス]]、[[ジョイス・グレーブル]]、[[レイラニ・カイ]]ら国際プロレスで初来日を果たした選手も含まれている。
なお、前出のIWWA太平洋岸選手権を含め女子王座はすべて封印されたが、そのうちIWWA太平洋岸タッグ選手権は後に[[ジャパン女子プロレス]]に持ち込まれて復活している。
1978年に東京12チャンネルは女子格闘技番組「激突!女子格闘技大戦争」を開始し、その中で女子プロレス団体「ニューワールド女子プロレス」を立ち上げ、千草も所属選手として参加したが、1ヶ月ほどで崩壊した。
女子部の解散後、男女混合団体の復活は、元全日本プロレス所属選手で前出のジャパン女子にて営業を務めた[[大仁田厚]]が[[1989年]]に旗揚げした[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]まで13年待つことになる。
=== テーマ曲の導入 ===
現在では一般的となった、選手入場の際に各々のテーマ曲をBGMに入場するという演出は、国際プロレスが初めて採用した。選手入場時に音楽を流すこと自体は以前から他団体でも行っていたが、流れる曲は放送局のスポーツテーマやマーチばかりであった。
そこで『国際プロレスアワー』のプロデューサーであった田中元和は、[[西ドイツ]]遠征時に[[ちあきなおみ]]の「[[四つのお願い]]」で入場した[[マイティ井上]]などから意見を募り、ジャンルを問わずに各選手別のイメージに合ったテーマ曲に乗せながら入場するというアイデアを画策。
個別の入場テーマ曲が与えられたレスラーの第1号は、東京12チャンネルにおける最初のレギュラー中継のシリーズとなった『'74スーパー・ワイド・シリーズ』に初来日した[[スーパースター・ビリー・グラハム]]で、[[ミュージカル]]『[[ジーザス・クライスト・スーパースター]]』のサントラ曲「Jesus Christ Superstar」が用いられた<ref name="G26 83">[[#G26|『Gスピリッツ Vol.26』]]、P83。</ref>(1979年にグラハムが再来日した際は、[[101ストリングス・オーケストラ]]によるカバー・バージョンが使用された)。
その後、他の選手へも波及していき、エースの[[ラッシャー木村]]には当初は[[ダニエル・ブーン (歌手)|ダニエル・ブーン]]の「Skydiver」が採用されていたが、同曲はほとんど使用されず、最終的には[[:en:Sandy Nelson|サンディ・ネルソン]]の「Rebirth of the beat」に落ち着いている。それまでは、対戦相手のテーマやIWA世界タッグ王者のテーマ<ref group="†">“IWA世界タッグ王者のテーマ”は、当時の東京12チャンネルのスタッフが、所蔵の音源からセレクトしたインストゥルメンタルの曲だが、現時点では曲目が不明とされている。また、東京12チャンネルではスポーツテーマの「パープル・ページェント・マーチ」とは別に、モダン・ジャズ風のインストゥルメンタル曲を、スポーツ中継のテーマ曲として採用していたことがあり、これを選手入場曲として使用したこともあるが、こちらも曲目などのプロフィールは不明である。</ref>で入場する場合もあった。
[[阿修羅・原]]のテーマ曲となった「阿修羅」は国際では唯一、オリジナルとして一から制作されたテーマ曲である。また、1980年の『'80ビッグ・サマー・シリーズ』に来日した[[ランディ・タイラー]]と[[スパイク・ヒューバー]]に至っては、シリーズ後半から『国際プロレスアワー』の直前番組となったテレビドラマ『[[ぼくら野球探偵団]]』のオープニング及びエンディングテーマ曲のカラオケバージョンが使用された(タイラーはオープニングの「マジカル・アクション!!」、ヒューバーはエンディングの「アイム・ダンディ」で、いずれも演奏は[[ノヴェラ]])。
=== 新日本プロレスとの交流
[[1974年]]2月の[[ストロング小林]]の離脱後は、[[1975年]]からは[[ラッシャー木村]]が[[IWA世界ヘビー級王座|IWA世界ヘビー級王者]]としてエースを務めたが、人気面では国際プロレスは後発の[[新日本プロレス]]と[[全日本プロレス]]に次ぐ第三の団体という位置付けであり、両団体と比較するとマイナー感は否めなかった。
小林の離脱後、TBSから[[テレビ東京|東京12チャンネル]]へテレビ放映権が移行したが、同局の『[[国際プロレスアワー]]』の放送形態は末期の『[[TWWAプロレス中継]]』同様に基本的に録画中継で、なおかつ録画中継となった場合は収録から1〜2ヶ月後の放送となることもあった他<ref group="†">試合中継も、プロレス雑誌(当時は全て月刊誌)による試合結果発表よりも遅いこともあった。</ref>、試合の生中継や番組収録を実施する会場も[[1976年]]までは関東地方で開催された興行のみ中継され([[1977年]]から関東地方以外で開催された興行の中継も本格的に開始)<ref>[[#wko|『忘れじの国際プロレス』、P97 - P99]]</ref>、ネット局が多く全国をほぼカバーし、全国各地の興行で実況生中継を実施していた『[[ワールドプロレスリング]]』
また、当時は[[TXNネットワーク|系列局]]を1局も持たなかった東京12チャンネルへの移行は、ネット地域を大幅に減少させることとなった。中京
1970年代後半に始まった危機的状況を打開するために、
また、他団体との交流においても変化が発生。1978年11月25日、全日本プロレスの協力で開催された『[[日本リーグ争覇戦]]』の
交流先を全日本から新日本へ変更しても危機状況は変わらず、[[1980年]]に入ると団体を取り巻く環境はますます悪化。2月には東京12チャンネルの主導により、TBSプロレス時代に[[グレート東郷]]が獲得できなかった[[大木金太郎]]が国際プロレスに入団したが、大木への交渉を事前に知らされていなかった吉原代表と東京12チャンネルとの間に軋轢を生む形となったばかりか<ref name="G16 75"/>、大木が[[日本プロレス]]時代から保持していた[[インターナショナル・ヘビー級王座]]の防衛戦を[[NWA (プロレス)|NWA]]非加盟の団体である国際プロレスで行ったことから、かつての交流先でなおかつ日本におけるNWA加盟団体であった全日本プロレスから抗議を受けることとなった(大木は[[大韓民国|韓国]]におけるNWAプロモーターであり、日本プロレス崩壊後も韓国ではインターナショナル・ヘビー級王座の防衛戦を行っていたが、日本での主戦場としていた全日本プロレスのリングでは行われることがなかった)。
さらに7月26日には、埼玉県[[大宮市]]の[[埼玉県道35号川口上尾線|埼玉県道35号]](産業道路)沿いにあった合宿所兼道場にタクシーが突っ込み、[[ガス爆発]]を起こし全焼する事故が発生<ref name="wko 111"
そうした中、東京12チャンネルは、10月より『国際プロレスアワー』の放送時間を月曜20時台から、かつて多団体放送時代の『プロレスアワー』や日本テレビで『全日本プロレス中継』を放送していた土曜20時台へ変更した。変更初回は[[滋賀県]][[近江八幡市|近江八幡
さらに負傷や病気による離脱も相次ぎ、1980年3月にアニマル浜口が試合中にリング下で後頭部を打って長期欠場、復帰後の
1981年は起死回生を果たすべく[[ルー・テーズ]]より寄贈されたベルトを争う『[[ルー・テーズ杯争奪戦]]』を年間の柱として計画、決勝まで1シリーズ内で行う全日本プロレスの『[[チャンピオン・カーニバル (プロレス)|チャンピオン・カーニバル]]』や新日本プロレスの『[[MSGシリーズ]]』と異なり、『'81新春パイオニア・シリーズ』に前期予選を、『'81スーパー・ファイト・シリーズ』に後期予選をそれぞれ実施し、同年秋に決勝リーグ戦を行う予定だったが、そこまで団体を存続させることはできなかった。
3月には前年に全焼した合宿所兼道場の再建工事が開始されたものの<ref name="wko p59" />、東京12チャンネルは3月28日に放送された『'81スーパー・ファイト・シリーズ』[[宮城県]][[泉市|泉]]
以降、国際プロレスは7月16日に『'81ビッグ・サマー・シリーズ』を前年よりも8戦削減した全13戦の日程で開幕させた。参戦した外国人選手は同年1月に新日本プロレスに来日し、[[坂口征二]]が保持する北米ヘビー級王座に挑戦して敗れた[[ジ・エンフォーサー]]をエース格とした寂しいシリーズとなってしまい、開催地も都道府県庁所在地では試合がなく東日本地区中心のローカル・サーキットとなり(西日本地区の興行は広島県における2戦のみ、7月26日に予定されていた[[愛媛県]][[宇和島市営闘牛場]]大会は中止となった<ref name="jituroku586587">[[#jituroku|『実録・国際プロレス』、P586-P587]]</ref>)、なおかつ最大で5日連続で興行のない移動
レスラーの中には、サーキット中に活動停止を知らされたレスラーも少なくなかった。寺西は「このシリーズで終わりだ」と聞かされていた他<ref>[[#jituroku|『実録・国際プロレス』、P100]]</ref>、鶴見は木村から「羅臼で最後になる」と聞かされたという<ref>[[#jituroku|『実録・国際プロレス』、P204]]</ref>。[[米村天心]]と[[マッハ隼人]]は羅臼大会翌日に活動停止をようやく知ったという<ref name="jituroku306">[[#jituroku|『実録・国際プロレス』、P305-P306]]</ref><ref>[[#jituroku|『実録・国際プロレス』、P399]]</ref>。若松は、『'81ビッグ・サマー・シリーズ』の次期シリーズに予定されていた東北地方の営業先で活動停止を知らされ、営業車を1人で運転して東京へ戻ったという<ref>[[#jituroku|『実録・国際プロレス』、P322]]</ref>。
『'81ビッグ・サマー・シリーズ』全日程終了後は、翌8月10日に羅臼から札幌へ移動。8月11日にスネーク奄美の自宅を訪れて焼香を上げた直後に室蘭へ移動し、資金を底を突いた中で、[[室蘭港]]からフェリーに乗船して[[八戸港]]へ向かい、[[八戸市|八戸]]から[[国道4号]]と[[東北自動車道]]を使って8月12日に帰京した。東北自動車道の通行料金は選手バスの運転手が自腹で負担したという<ref group="†">『'81ビッグ・サマー・シリーズ』当時は、東北自動車道は全線開通していなかった他(当時は[[西根インターチェンジ]]まで開通していた)、[[八戸自動車道]]も未開通だった。本州内の移動経路は、八戸港から[[滝沢インターチェンジ]]までは国道4号などを利用し、滝沢インターチェンジ〜[[浦和インターチェンジ]]間は東北自動車道を利用したが、通行料金は団体持ちではなく、選手バスの運転手が自腹で負担した。</ref><ref name="jituroku306" /><ref name="jituroku569">[[#jituroku|『実録・国際プロレス』、P569]]</ref>。
東京12チャンネルにおけるテレビ録画中継は、活動停止後かつ1981年10月1日のテレビ東京への局名変更直前にも行われ、9月16日(5月16日に後楽園ホールで行われた『'81ビッグ・チャレンジ・シリーズ』最終戦)と9月23日(6月25日に清水市[[鈴与]]記念体育館で行われた『'81ダイナマイト・シリーズ』最終戦)に深夜帯で、それぞれ放送された。しかし、『'81ビッグ・サマー・シリーズ』を最後に事実上単独での興行能力を失った国際プロレスは、1981年9月30日に正式に解散を発表し、名実共に崩壊<ref name="wko 111"/>。認定タイトルであったIWA世界ヘビー級王座、[[IWA世界ミッドヘビー級王座]]、IWA世界タッグ王座も封印された。1981年秋に開催予定であった『ルー・テーズ杯争奪戦』決勝リーグも、崩壊に伴い完遂されることなく終わっている。
=== 解散後 ===
解散後、代表の[[吉原功]]は引き続き[[新日本プロレス]]との対抗戦を模索するが(1981年10月8日の新日本蔵前国技館大会のポスターにも国際の選手が名を連ねていた)、最終所属選手15人の内、[[マイティ井上]]は新日本参戦拒否をすぐさま表明し、井上は[[竹内宏介]]を通して[[ジャイアント馬場]]と会談した上で<ref name="wko 13"/>、[[米村天心]]、[[アポロ菅原|菅原伸義]]、[[冬木弘道]]の3選手を引き連れて[[全日本プロレス]]に移籍<!--週刊プロレス「吉原学校卒業生」(1987年連載)-->。全日本に移籍した4選手は、同年10月2日開幕の『'81ジャイアント・シリーズ』から参戦し、待遇面もしばらくはマッチメイクなどで差別を受けた日本プロレス残党とは異なり、直接全日本プロレスとの契約となった。引退を考えていた[[阿修羅・原]]も、馬場と[[門馬忠雄]]との3者会談の末、全日本に参戦<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/823404 阿修羅・原と馬場さんとつないだ一本の電話。〜天龍の名パートナーを悼んで〜]Number web 2015年5月30日</ref>。最終的に新日本プロレスのリングに上がったのは[[ラッシャー木村]]、[[アニマル浜口]]、[[寺西勇]]の3選手のみとなり、国際は事実上、木村派と井上派に分裂することとなった。木村、浜口、寺西の3人は、[[アントニオ猪木]]に牙をむく[[ヒール (プロレス)|ヒール]]の[[国際軍団|はぐれ国際軍団]]としてリングに上がり、新日本プロレスのファンから憎悪を一身に浴びることになる。
フリーになった上で海外へ活路を求めた選手もおり、[[鶴見五郎]]は[[西ドイツ]]へ、[[高杉正彦]]と[[マッハ隼人]]は[[メキシコ]]へ渡った他、[[若松市政]]は[[カナダ]]の[[カルガリー]]で[[マネージャー (プロレス)|悪役マネージャー]]として活躍(その後、鶴見はフリーの立場で全日本プロレスに参戦。高杉は[[覆面レスラー]]のウルトラセブンに変身して全日本に入団。隼人は全日本への短期参戦を経て[[UWF]]に参加。若松は[[若松市政#マシーン軍団|マシーン軍団]]のマネージャーとして新日本プロレスに登場)。一方で、長期欠場中だった[[グレート草津]]と、最終シリーズとなった『'81ビッグ・サマー・シリーズ』でデビューしたばかりの秋吉豊幸は、団体解散と同時に引退。
吉原は、しばらくプロレス界から離れていた後、[[1984年]]7月に新日本プロレスの[[顧問]]となったものの、[[1985年]]6月に死去。
新日本プロレスで猪木と抗争していた木村は、1984年4月に国際プロレス出身の[[剛竜馬]]とともにUWFの旗揚げに参画し、さらに同年11月より全日本プロレスへ移籍。同時期に全日本に出場していた鶴見、高杉、菅原を含めたユニットは[[国際軍団#国際血盟軍|国際血盟軍]]と呼ばれたが、剛、高杉、菅原は[[1986年]]3月に全日本を解雇され、軍団としては短命に終わった。以降、木村は鶴見とのコンビで活動後、[[1988年]]下期より馬場との「義兄弟タッグ」で活躍。全日本を解雇された剛、高杉、菅原は[[1989年]]4月に[[パイオニア戦志]]を旗揚げした。
浜口と寺西は、新日本プロレスにおいて国際軍団を経て[[長州力]]らとの維新軍団で活躍後、1984年末より[[ジャパンプロレス]]の一員として全日本プロレスへ参戦。一時は10人もの国際プロレス出身者が全日本のリングに出場していたが、鶴見と冬木は全日本を離脱して[[1990年]]に[[SWS]]へ移籍し、原も全日本を解雇された後、[[1991年]]にSWS入り。独立愚連隊のマネージャー役だった[[ミスター珍]]も[[1993年]]7月に[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]で現役に復帰。最後まで全日本プロレスに残留した木村とレフェリーに転向した井上は、ジャイアント馬場の死後に全日本を離脱、[[プロレスリング・ノア]]旗揚げに参画。
一方、パイオニア戦志は[[オリエンタルプロレス]]へ形を変えた後に崩壊。その後、高杉と鶴見でレスリング・ユニオンを立ち上げ、それぞれ[[湘南プロレス|IWA湘南]]、[[国際プロレスプロモーション|IWA格闘志塾]]として活動した。レスリング・ユニオンには他にオリエンタルプロレス出身の[[荒谷望誉|荒谷信孝]]らの[[ユニオンプロレス|IWA流山]]なども参加。後に鶴見は、吉原の遺族の了承を得て、IWA格闘志塾を改称する形で[[国際プロレスプロモーション]]を名乗っていたが、[[2013年]]に引退。
[[1994年]]10月16日にはレスリング・ユニオン協力の元、初のリバイバル興行として『国際プロレスAgain』が開催され、解散時のメンバーである草津、寺西、珍、鶴見、米村、高杉、菅原と、退団組の剛、[[大位山勝蔵|大位山勝三]]、国際にフリーで参戦していた[[ミスター・ヒト]]などが参加した<ref>[[#wko|『忘れじの国際プロレス』、P71]]</ref>。
テレビ中継を行っていた[[テレビ東京]]の連結子会社であった[[超短波放送|FM]][[ラジオ]]局[[エフエムインターウェーブ|InterFM]]<ref group="†">現在はテレビ東京の連結子会社ではなくなっている。</ref>では崩壊30年後に国際プロレスに関する特集を組み、解散30年目に当たる2011年1月31日には国際プロレスに所属していた選手のテーマ曲を放送する特別番組『[https://web.archive.org/web/20120303214804/http://www.interfm.co.jp/kokusai/ 私の好きな国際プロレステーマ曲 名曲セレクション]』が20:00 - 21:00に放送された。
[[2024年]]現在、崩壊時に所属もしくは過去に所属していた選手で現役選手であるのは、高杉と若松のみである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/236282 |title=国内最年長80歳現役レスラー 将軍KYワカマツ マット界から円安問題まで語った 市議としての役目を力説 |publisher=東京スポーツ |date=2022-08-22 |accessdate=2022-09-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/232762 |title=〝80歳〟将軍KYワカマツが大暴れ 拡声器手に「俺は50年やってるんだ! うおー!」|publisher=東京スポーツ |date=2022-08-11 |accessdate=2022-09-01}}</ref>。
== タイトル ==
; IWA(インターナショナル・レスリング・アライアンス)
* [[IWA世界ヘビー級王座]]
* [[IWA世界タッグ王座]]
* [[IWA世界ミッドヘビー級王座]]
; TWWA(トランス・ワールド・レスリング・アライアンス)
*
*
*
; WWU(ワールド・レスリング・ユニオン)
* [[WWU世界ジュニアヘビー級王座]]
; リーグ戦
* [[IWAワールド・シリーズ]]
* [[日本リーグ争覇戦]]
* [[ルー・テーズ杯争奪戦]]
; IWAルール
* 挑戦者が王者からフォール
== 所属選手 ==
{{See also|Category:国際プロレスに所属したプロレスラー}}
===
; 解散時に所属していた選手
* [[ラッシャー木村]]
: [[東京プロレス]]より移籍。ストロング小林離脱後のエースであり、金網デスマッチでは無類の強さを誇り
* [[グレート草津]]
:
* [[マイティ井上]]
: ヨーロッパ仕込みのテクニシャン。国際の崩壊後は全日本プロレスに入団。その後は
* [[アニマル浜口]]
:
* [[寺西勇]]
: 東京プロレスより移籍。空中殺法を得意
* [[鶴見五郎]]
: [[1979年]]に国際正規軍から造反し、大位山勝三と独立愚連隊を結成。のちにヒールへの道を歩む礎となった。国際崩壊後は[[西ドイツ]]遠征後、全日本プロレスへ
* [[阿修羅・原]](原進)
: 団体崩壊時のジュニアヘビー級のエース。「和製[[チャールズ・ブロンソン]]」
* [[ミスター珍]]
: プロ柔道出身。[[全日本プロレス協会]]→日本プロレス→国際プロレス、その間に
* [[デビル紫]]
: 海上自衛隊出身で1967年にレスラーとしてデビュー。村崎鬼三、村崎昭男、グレート・サキを名乗り、
2017年10月27日</ref>。
* [[米村天心]]
: 大相撲出身。団体崩壊後は全日本プロレスへ転戦するも退団し、全日本退団後も妻の故郷である[[福島県]][[会津若松市]]でちゃんこ料理店を営みながら全日本が[[会津|会津地方]]で行う興行にスポット参戦していた。
* [[若松市政]]
: 当初は営業部員として入社するものの、プロレスラーになりたい未練から、31歳で遅咲きデビューを果たした。その後も団体崩壊まで営業とレスラーを兼務していたが、崩壊時は営業に専念していた。のちに新日本プロレスで悪役マネージャーとしてブレイクし、SWSの旗揚げにも大きく関わる。1999年から2015年まで[[芦別市]]議会議員を4期務め、一度落選するも2019年に芦別市議に返り咲き、2023年も当選して6期目となる。
* [[マッハ隼人]]
: 覆面の元祖「逆輸入レスラー」。単身メキシコでデビュー。国際プロレスでは[[CMLL|EMLL]]との選手招聘窓口も担った。国際崩壊後は全日本プロレスを経てUWFに参加。[[2021年]]死去。
* [[高杉正彦]]
: 学生時代はフットボーラー。崩壊後[[メキシコ]]へ渡り、1982年の全日本プロレス移籍後は一時期、[[ウルトラセブン]]のリングネームでマスクマンに転向したが、剛竜馬・アポロ菅原共々全日本を解雇された。[[パイオニア戦志]]、[[オリエンタル
* [[アポロ菅原|菅原伸義]]
: アマレス・ボディビル出身。国際崩壊後は全日本プロレスへ転戦するも剛竜馬・高杉正彦
* [[冬木弘道]]
: 末期の国際プロレスに入団。崩壊後は全日本プロレス
* [[秋吉豊幸]]
: 国際プロレス最後のシリーズ『'81ビッグ・サマー・シリーズ』でデビュー。本来ならデビューはまだ先の予定だったが、団体の活動停止が決まり、試合ができないままでは不憫という配慮からデビューした。未勝利のまま、新日本プロレスや全日本プロレスに転戦することなく引退<ref name="wko p42">[[#wko|『忘れじの国際プロレス』、P42]]</ref>。
; 解散前に退団した選手
* [[ストロング小林]]
:
* [[サンダー杉山]]
: [[1964年
* [[豊登道春|豊登]]
: 東京プロレス崩壊後、国際プロレスに入団。ストロング小林とのタッグで[[IWA世界タッグ王座]]を奪取。[[1970年]]に引退するが、2年後、新日本プロレスでカムバック。[[1998年]]死去。
* [[大木金太郎]]
:
* [[ヒロ・マツダ]]
:
* [[剛竜馬]]
: 国際プロレスの新人公募入団1号選手。[[藤波辰爾|藤波辰巳]]への挑戦を表明し、国際を脱退し新日本プロレスへ参戦。その後はUWFを経て全日本プロレスに移籍したが高杉正彦・アポロ菅原共々解雇となり、インディマット界を中心に活動。[[2009年]]死去。
* [[大位山勝蔵|大位山勝三]]
: 大相撲出身。鶴見五郎と独立愚連隊を結成したが、崩壊直前に引退。
* [[スネーク奄美]](栄勇)
: レスリング仕込みのテクニックを駆使して前座戦線を沸かせていたが、
* [[扇山民雄|扇山大五郎]]
: 元大相撲幕内力士。デビュー後まもなく退団。
234 ⟶ 281行目:
: 東京プロレスより移籍。[[フィリピン]]に渡り、現地でレスラーの育成、団体を旗揚げする。
* [[大剛鉄之助]](仙台強)
: 東京プロレスより移籍。[[カナダ]]修行から帰国直前の交通事故で右足を切断。引退後はカナダに居住し、ブッカー業に就く。崩壊後は新日本プロレスのブッカー兼トレーナーとして、海外遠征中の[[ヤングライオン]]を多く育てた。2017年死去。
* [[田中忠治]]
: 東京プロレスより移籍。豊登と常に行動を共にした。初代IWAミッド・ヘビー級王者。
* [[長沢秀幸]](タイガー・チョン・リー)
: 日本プロレスデビューから国際プロレス引退まで生涯[[前座]]レスラーだった。
* [[肥後宗典|本郷篤]](本郷清吉)
: のちに[[全日本プロレス]]に移籍し
* [[マティ鈴木]]
: 主に海外マットを拠点に活動。全日本プロレスにも短期ながら在籍。現在は[[オレゴン州]]で実業家。
* [[ヤス・フジイ]](藤井東助、藤井三吉、零戦隼人
: マイティ井上と同期入門。[[1972年]]、海外修行中に一方的にフリー宣言(吉原代表との確執があったとされる)。
* [[松村幸治]]
: 旗揚げ直後に入門したが、1シリーズのみで退団。
* [[佐野浅太郎]](佐野東八、佐野先風)
: 大相撲からプロレスに転向。折れた肋骨が肺に刺さる重傷を負い、志半ばでドクターストップ。
* [[竜仙光二]]
* [[笹川弘康]]
* [[金城正勝]]
* [[篠原実 (プロレスラー)|篠原実]]
* [[高橋貢
=== 女子
* [[小畑千代]]
: 旧[[日本女子プロレス]]のエースで
* [[佐倉輝美]]
: 小畑とのコンビで
* [[千草京子]]
:
=== 留学生 ===
* [[テリー・ハーバード|黒潮太郎]](テリー・ハーバード)
: プロレス留学生第1号。[[トリニダード・トバゴ]]出身。
* [[ジェリー・モロー|稲妻二郎]](
:
* [[力抜山|梁承揮]](ヤン・スンヒー)
: [[大木金太郎]]が主宰していた「金一道場」の1期生。
* [[金光植]](キム・クワンシク)
: 大木の末弟。
== スタッフ ==
* [[マンモス鈴木]]
: [[日本プロレス]]時代は、[[ジャイアント馬場]]と並ぶ巨漢プロレスラーとして活躍。引退後はレフェリーに転向し、崩壊まで務めた。[[1991年]]死去。
* [[阿部脩]]
: プロレスラー時代は本業の傍ら、[[大映]]所属の俳優として活躍する。髭と首にぶら下げていた[[ホイッスル]]がトレードマークで、通称『ヒゲの阿部』と呼ばれていた。[[1977年]]に[[第11回参議院議員通常選挙|参議院選挙]][[全国区制|全国区]]に出馬したが落選し、そのまま国プロを退団。
* [[前溝隆男]]
: 日本人と[[トンガ]]人のハーフ。[[大相撲]]の[[三保ヶ関部屋]]に所属。廃業後[[プロ野球]]の[[高橋ユニオンズ]]に入団するも、直後に[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]との合併により解雇され、[[プロボクサー]]に転向、2度日本ミドル級王者になった。引退後、[[ボウリング]]の[[インストラクター]]を経て、プロレスのレフェリーと幾多のスポーツを渡り歩いた<ref>『VAN VAN 相撲界』1986年7月号、P17</ref>。阿部脩の離脱後はメインレフェリーに。現在は[[オーストラリア]]在住<ref>[[#wko|『忘れじの国際プロレス』、P113]]</ref>。
* [[遠藤光男 (ボディビルダー)|遠藤光男]]
: 前溝隆男が退団し欠員となった[[1978年]]より「アームレスリング世界一」の触れ込みで参加し、崩壊時までレフェリーを務めた。[[1966年]]、[[ボディビル]]の「ミスター日本」に輝いたことがある。[[日本アームレスリング連盟]]初代会長<ref>{{Cite book |和書 |date =2017-12-01 |title = 実録・国際プロレス |publisher =[[辰巳出版]] |pages=pp.590-594 |isbn=978-4-7778-1977-5 }}</ref>。
* [[ : 力道山道場の練習生だった後、吉原社長に誘われて入社しリングアナウンサーとなる。TBS放映前に退社。
* [[竹下民夫]]
: プロレスラーとしてデビューしたが、その後引退。引退後はリングアナウンサーに転向。プロレスラーになる前は元[[高橋ユニオンズ|トンボユニオンズ]]のプロ野球選手だった。
* [[鈴木利夫]]
: 団体の営業部長だったが、竹下民夫の離脱後はリングアナウンサーを兼任。[[国際軍団]]のごく初期に、彼らにセコンドとして帯同したこともある。
* [[飯橋一敏]]
: 崩壊後は[[全日本プロレス]]社員を経て現在は[[プロレスリング・ノア]]勤務。実弟は元十両力士、プロレスラーの[[維新力浩司]]。
== フリー参戦選手 ==
293 ⟶ 349行目:
* [[タイガー戸口|キム・ドク]]
* [[マサ斎藤]]
* [[ミスター・ポーゴ|ミスター・セキ]]
== 来日外国人選手 ==
{{See also|Category:国際プロレスに参戦した外国人プロレスラー}}
===
* [[アファ・アノアイ]]
* [[アリババ・マルスターニ]]
331 ⟶ 388行目:
* [[カルロス・コロン]]
* [[カルロス・プラタ]]
*
* [[
* [[フランク・シーブランシン|キューバン・アサシン2号]]
* [[キラー・カール・クラップ]]
353 ⟶ 410行目:
* [[オビラ・アセリン|ザ・ジャックナイフ]]
* [[バグジー・マグロー|ザ・ブルート]]
* [[
* [[サパタ・マルティネス|ザ・モンゴリアン]]
* [[タプー・サモア|ザ・モンゴリアン1号]]
* [[ティオ・サモア|ザ・モンゴリアン2号]]
364 ⟶ 422行目:
* [[シーク・エルマンソー]]
* [[シーン・リーガン]]
* [[グリズリー・スミス|ジェイク・スミス]]
* [[ジェイク・ロバーツ]]
* [[ジェフ・ポーツ]]
373 ⟶ 431行目:
* [[ジプシー・ジョー]]
* [[ジム・ブランゼル]]
*
* [[レネ・ラサルテス|ジャック・デ・ラサルテス]]
* [[ジャン・ウィルキンス]]
389 ⟶ 447行目:
* [[スカイ・ハイ・リー]]
* [[スカンドル・アクバ]]
* [[
* [[スティーブ・オルソノスキー]]
* [[スパイク・ヒューバー]]
403 ⟶ 461行目:
* [[アドナン・アル=ケイシー|チーフ・ホワイト・ウルフ]]
* [[チーフ・ホワイト・フェザー]]
* [[ジョニー・ロンドス|チャールズ・
* [[チン・リー]]
* [[ディーン樋口|ディーン・ホー]]
412 ⟶ 470行目:
* [[デール・ルイス]]
* [[ボビー・バス|テキサス・アウトロー]]
* [[テキサス・マッケンジー]]
* [[デビッド・シュルツ]]
*
* [[テリー・ギッブス]]
* [[テリー・ラザン]]
419 ⟶ 478行目:
* [[ハロルド坂田|トシ東郷]]
* [[トニー・チャールズ]]
* [[トニー・マリノ]]
* [[トム・スタントン]]
* [[ドリー・ディクソン]]
430 ⟶ 490行目:
* [[ノーベル・オースチン]]
* [[バーン・ガニア]]
* [[ジル・ポワ
* [[パット・ケリー (プロレスラー)|パット・ケリー]]
* [[パット・ローチ]]
* [[ピエール・ラフルール|バッファロー・ザリノフ]]
458 ⟶ 518行目:
* [[レン・シェリー|ブラック・ロッキード]]
* [[ブラックジャック・マリガン]]
* [[
* [[ブルーノ・アーリントン]]
* [[ブルーノ・ベッカー]]
* [[ブルドーザー・ビッグ・ベン]]
* [[ブルドッグ・ブラワー]]
465 ⟶ 526行目:
* [[プロフェッサー・タナカ]]
* [[ヘイスタック・カルホーン]]
* {{仮リンク|サルバトーレ・ベロモ|label=ベルモ・サルバトーレ|en|Salvatore Bellomo}}
* [[ベン・アレキサンダー (プロレスラー)|ベン・アレキサンダー]]
* [[ホースト・ホフマン]]
* [[ポール・エラリング]]
478 ⟶ 540行目:
* [[ボブ・マーカス]]
* [[マーク・ロコ]]
* [[マイク・ケリー (プロレスラー)|マイク・ケリー]]
* [[マイク・ジョージ]]
* [[マイク・ボイエッティ]]
* [[マイク・マーテル]]
* [[マイク・ミラー (プロレスラー)|マイク・ミラー]]
* [[トム・アンドリュース|マスクド・インターン]]
* [[プリティボーイ・アンソニー|マスクド・インベーダー]]
* [[マッドドッグ・バション]]
* [[マリオ・ミラノ]]
* [[ピーター・ソーンリー|ミスター・ギロチン]]
* [[ミネソタ・レッキング・クルー]]
* [[ミレ・ツルノ]]
500 ⟶ 562行目:
* [[ランディ・ローズ (プロレスラー)|ランディ・ローズ]]
* [[リック・マーテル|リッキー・マーテル]]
* [[リップ・オリバー|リック・オリバー]]
* [[リック・フレアー]]
* [[リッパー・コリンズ (プロレスラー)|リッパー・コリンズ]]
515 ⟶ 577行目:
* [[レジー・パークス]]
* [[レス・ソントン]]
* [[ビル・ホワイト (プロレスラー)|レッド・デビル]]
* [[レッド・バスチェン]]
* [[ロジャー・カービー]]
525 ⟶ 587行目:
* [[ワルドー・フォン・エリック]]
=== 女子
* [[キティ・アダムス]]
* [[サンディ・パーカー]]
543 ⟶ 605行目:
== 来日外国人関係者 ==
* [[グレート東郷]](ブッカー)
* [[ポール・ベアラー|パーシー・プリングル3世]]([[ザ・モンゴリアンズ]]のマネージャー)
* [[バニー・キャロル]]([[ジ・エンフォーサー]]のマネージャー)
* [[フレッド・アトキンス]](レフェリー)
== 試合中継 ==
{{
{{
== DVD ==
プロレスのビデオ、DVDのソフト化は珍しいことではない。しかし、こと国際プロレスに関しては、TBS中継終期の名勝負はビデオソフト化され発売されたものの、東京12チャンネル放映時代の中・末期の映像は、団体の倒産及び中継終了以来、当時の映像の放映さえもほとんどなかった。わずかに、1997年にメインの実況を務めた[[杉浦滋男]]が死去した際、1977年3月に[[蔵前国技館]]で行われた[[IWAワールド・シリーズ#第6回大会|第6回IWAワールド・シリーズ]]決勝戦([[ラッシャー木村]]VS[[マッドドッグ・バション]])の映像の一部が、テレビ東京のスポーツニュースの枠で流れた事例がある。東京12チャンネルがテレビ東京と社名を変更し、1985年に本社社屋を[[神谷町]]から
DVD化は[[2007年]]3月になされた。1969年から1974年までのTBS時代の映像は新たに発掘されたものも含め『伝説の国際プロレス』、1974年から1981年までの東京12チャンネル時代の映像は『不滅の国際プロレス』と銘打って[[ポニーキャニオン]]から発売された。前者は[[竹内宏介]]が、後者は竹内とプロレスライターの[[流智美]]が監修を務めた。デイリースポーツによると、同2作品の企画者はポニーキャニオンの[[高原万平]]である。
2010年8月には、東京12チャンネル時代の映像を収録した『国際プロレス クロニクル』上巻が、2011年3月には同下巻がそれぞれクエストから発売された。『不滅の国際プロレス』同様に流智美が監修を務めた。東京12チャンネル時代を収録したDVDの映像は、同じ試合会場・同じカードであっても、ポニーキャニオン版とクエスト版で異なる場合がある。
== 参考文献 ==
564 ⟶ 626行目:
|publisher = [[辰巳出版]]
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|isbn = 9784583620800
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|year = 2014
|title = 日本プロレス事件史 Vol.2
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|year = 2015
|title = 日本プロレス事件史 Vol.8
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|isbn = 9784583622699
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|year = 2015
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|year = 2016
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* {{Cite book|和書
|year = 2017
|title = 実録・国際プロレス
|publisher = [[辰巳出版]]
|isbn = 9784777819775
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}}
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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[[Category:国際プロレス|*]]
[[Category:現在活動していない日本のプロレス団体]]
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