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|name = 岡山城
|pref = 岡山県
|img = ファイル:Okayama Castle 02main keep 2023-10-18.jpg
|img_capt = 岡山城再建天守(外観復元)
|img_width = 260px
|ar_called = 烏城、金烏城
|struct = 梯郭式平山城
|tower_struct = 複合式望楼型4重6階([[1597年]]築)<br />([[鉄筋コンクリート]]造外観復元・[[1966年]])
|builders = 上神高直?
|build_y = [[1346年]] - [[1369年]]([[正平 (日本)|正平]]年間)
|revamp = 宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄
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|remains = 櫓、石垣、堀
|cultural asset = 国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓)<br />国の史跡
|rebuilding things = 外観復元天守・外観復元門・外観土
|___location = {{ウィキ座標2段度分秒Coord|34|39|54.65|N|133|56|9.79|E|region:JP-33_scale:200005000_type:landmark|display=inline,title}}
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|地図=Japan Okayama
|ラベル=岡山城
|アイコン=日本の城跡
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{{osm box|w|96200691}}
[[ファイル:Okayama Castle map.jpg|thumb|right|250px|岡山城の縄張り<br>1974年度・国土航空写真より]]
 
[[ファイル:Okayama Castle map.jpg|thumb|right|250px|岡山城の縄張り<br />1974年度・国土航空写真より]]
'''岡山城'''(おかやまじょう)は、[[日本の城]]。[[岡山県]][[岡山市]][[北区 (岡山市)|北区]]にある国指定の[[史跡]]。別名は'''烏城'''(うじょう)、'''金烏城'''(きんうじょう)<ref group="注">一般的に烏城を使う場合が圧倒的に多い。また、松本城も通称「烏城」と呼ばれるが、混同を避けるため岡山城を「うじょう」、松本城を「からすじょう」と呼んでいる。</ref>。
 
'''岡山城'''(おかやまじょう)は、[[備前国]][[御野郡]]岡山<ref>『角川日本地名大辞典 33 岡山県』</ref>(現・[[岡山県]][[岡山市]][[北区 (岡山市)|北区]])にあった[[日本の城]]。国指定の[[史跡]]。別名は'''烏城'''(うじょう)、'''金烏城'''(きんうじょう)<ref group="注釈">一般的に烏城を使う場合が圧倒的に多い。また、松本城も通称「烏城」と呼ばれるが、混同を避けるため岡山城を「うじょう」、松本城を「からすじょう」と呼んでいる。</ref>。
 
== 概要 ==
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に、[[備前国|備前]]西部から興って、[[美作国|美作]]、[[備中国|備中]]東部まで勢力を伸ばした[[宇喜多氏]]が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後[[小早川氏]]、[[池田氏]]により整備、拡張が行われた。
 
岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設された。
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当時、[[旭川 (岡山県)|旭川]]河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大な[[デルタ地帯]]中央に「岡山」(柴岡山とも)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとされる。その中の石山にあった'''石山城'''(いしやまじょう)に[[宇喜多直家]]が入城・改築し、後に子の[[宇喜多秀家]]が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造された。これが岡山城である。<ref>岡山大学付属図書館『絵図で歩く岡山城下町』吉備人出版(2009年)</ref><ref>吉岡三平・進昌三『岡山の干拓』日本文教出版</ref>
 
城の縄張は基本的には梯郭式となっており、三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる[[平山城]]となっている。言いかえると本丸の北から東には郭の無い、非常に防備が薄い縄張である。そのため[[旭川 (岡山県)|旭川]]の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに利用したとされる。さらには郭の代りとして、「後園(後楽園)」が築かれたともされる。 [[天守]]は4重6階の複合式望楼型で、出入り口は付属している塩蔵に設けられている。特に初重平面形状が歪んだ多角形をしているため、同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ[[安土城]]天主を模したものではないかと言われているが、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]による[[大坂城]]天守を模しているという説もある。その外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、同じ山陽道の隣県の「[[白鷺城]](はくろじょう)」とも呼ばれる[[姫路城]]と対比されることもある。[[元禄]]時代の古地図からは、五重の濠に囲まれた城郭と、南北3.5km、東西1.3kmにおよぶ城下町の姿がうかがえる。
 
[[明治|明治時代]]に御殿・櫓・門の大半が取り壊された。堀は内堀の一部を除いてほとんど埋められて現存する廓は本丸と後楽園だけになっているが、街路は江戸時代の位置をほぼ踏襲している個所が多い。さらに[[第二次世界大戦|第二次大戦]]中、[[空襲]]のため天守・石山門を焼失した。現在までに2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、戦後に天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部がコンクリート造で再建された。現存する月見櫓・西之丸西手櫓は国の[[重要文化財]]に指定され、「岡山城跡」として[[史跡]]にも指定されている。その他、京橋御門が岡山市[[南区 (岡山市)|南区]]小串に移築され現存している。城跡は「烏城公園」として整備される一方、二之丸跡に[[RSK山陽放送]]、[[林原美術館]]、[[岡山市民会館]]が、三之丸跡に[[岡山県庁舎|岡山県庁]]、[[岡山県立図書館]]などの公共機関がある。近年本丸御殿内下馬門、内下馬門橋、太鼓櫓再建木造復元計画検討されたが、2008年度時点でもその目処は立っていないある
 
[[2020年東京オリンピック]]の聖火リレーでセレブレーション会場となった、
また隣接する[[大名庭園]]・'''[[後楽園]]'''は、[[水戸市|水戸]]・[[偕楽園]]、[[金沢市|金沢]]・[[兼六園]]とともに、'''[[日本三名園]]'''として並び称される。
聖火ランナーは公募により1万人程度が選ばれた、聖火リレーについて、
[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会|組織委員会]]は
スポンサー企業4社と各都道府県実行委員会が行ったランナー公募に延べ
53万5717件の応募があったと発表した
<ref name="nikkei20190927">{{Cite news|title=聖火リレー、公募に延べ53万件応募
|newspaper=日本経済新聞|date=2019-09-27|url=https:
//www.nikkei.com/article/DGXMZO50278340X20C19A9CR0000/|
publication-date=|accessdate=2019年9月27日|archiveurl=https://web.archive.org
/web/20190927125733/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50278340X20C19A9CR0000/|archivedate=2019年9月27日}}</ref>。
 
隣接する[[大名庭園]]・'''[[後楽園]]'''は、[[水戸市|水戸]]・[[偕楽園]]、[[金沢市|金沢]]・[[兼六園]]とともに、'''[[日本三名園]]'''として並び称される。
 
== 歴史 ==
=== 南北朝時代 - 安土桃山時代 ===
[[ファイル:Okayamajou74.JPG|thumb|right|250px|平成5年の発掘調査で発見された宇喜多氏築城時の石垣]]
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[正平 (日本)|正平]]年間([[1346年]] - [[1369年]])に、[[名和氏]]の一族[[上神高直]]が石山台(岡山)に城を築いたと、「備前軍記」に書かれているのが最初と伝えられている。その後およそ 150年間の城主は明らかではない。なおこの付近には摂関家領・[[鹿田荘]]の中心部があったとされ、旭川(鹿田川)河口の港町としても栄えていたとされる<ref group="注">石山の南3kmあたりまでに、「鹿田」「西市」(鹿田の西の市)「豊浜町」「御船入町」などの地名が残り、海岸線の名残りとして推測される。</ref>。戦国時代の[[大永]]年間([[1521年]] - [[1528年]])には、[[金光氏]]が居城とし金川城主の[[松田氏]]に仕えていた。
 
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[正平 (日本)|正平]]年間([[1346年]] - [[1369年]])に、[[名和氏]]の一族上神高直が石山台(岡山)に城を築いたと、「備前軍記」に書かれているのが最初と伝えられている。その後およそ 150年間の城主は明らかではない。なおこの付近には摂関家領・[[鹿田荘]]の中心部があったとされ、旭川(鹿田川)河口の港町としても栄えていたとされる<ref group="注釈">石山の南3kmあたりまでに、「鹿田」「西市」(鹿田の西の市)「豊浜町」「御船入町」などの地名が残り、海岸線の名残りとして推測される。</ref>。戦国時代の[[大永]]年間([[1521年]] - [[1528年]])には、[[金光氏]]が居城とし金川城主の[[松田氏]]に仕えていた。
 
[[元亀]]元年(1570年)、宇喜多直家が[[金光宗高]]を謀殺しこの地を支配した。直家は備前守護代[[浦上氏]]の一族[[浦上宗景]]の被官であったが、備前西部を中心に勢力を急速に伸張していた。[[天正]]元年(1573年)、直家はそれまでの居城である[[亀山城 (備前国)|亀山城]](沼城)から石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行った。この頃の石山城(岡山城)は、縄張が東西に走る連郭式であったと推定されている。直家は北方の山裾にあった[[西国街道]]を、城の南に沿うように付け替えて城下に導いた。そして[[備前福岡]]、[[備前国|備前]][[西大寺地域|西大寺]]などから商人を呼び寄せ、いわゆる城下町の整備を行うなど積極的に流通主導による経済振興とも言うべき政策をとった。信長が安土城を築城する3年前のことである。これは直家が幼少の頃に、備前福岡の商人に庇護を受けたと言われていることも無縁ではないとみられている。
[[ファイル:Okayamajou74.JPG|thumb|right|200px|平成5年の発掘調査で発見された宇喜多氏築城時の石垣]]
[[元亀]]元年(1570年)、宇喜多直家が[[金光宗高]]を謀殺しこの地を支配した。直家は備前守護代[[浦上氏]]の一族[[浦上宗景]]の被官であったが、備前西部を中心に勢力を急速に伸張していた。[[天正]]元年(1573年)、直家はそれまでの居城である[[亀山城 (備前国)|亀山城]](沼城)から石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行った。この頃の石山城(岡山城)は、縄張が東西に走る連郭式であったと推定されている。直家は北方の山裾にあった[[西国街道]]を、城の南に沿うように付け替えて城下に導いた。そして[[備前福岡]]、[[西大寺 (地名)|西大寺]]などから商人を呼び寄せ、いわゆる城下町の整備を行うなど積極的に流通主導による経済振興とも言うべき政策をとった。信長が安土城を築城する3年前のことである。これは直家が幼少の頃に、備前福岡の商人に庇護を受けたと言われていることも無縁ではないとみられている。
 
なお主家である宗景の居城である[[天神山城 (備前国)|天神山]]<ref group="注釈">現在の和気町佐伯地区。前述の石山城に隣接する天神山にあった城とは別である。</ref>は巨大なものではあるが天神山にある山城で、直家の水辺に近い小高い丘の石山城とは対照的である。天正3年(1575年)には、浦上宗景の兄・[[浦上政宗|政宗]]の孫をおしたてて宗景を播磨へ放逐し、事実上の下克上を行いやがて備前、美作、さらに播磨、備中の一部を支配下に置いた<ref group="注釈">やがて[[毛利氏]]の東進と[[織田氏]]の西進に挟まれた形の中、天正9年(1581年)頃、直家はこの城で没する。</ref>。
<!--
また何らかの影響で流通とそれに伴う情報伝達に着目したか、あるいは上方の情勢なども聞き及んで、領国経営の参考とした可能性は否定できない。すなわち他国の城下町形成や、城地(砦機能)としての石山の適性についての検討材料も伝え聞く事になったのではないかと思われる。これはあくまでも私見だが、奇しくも[[石山本願寺|石山]]の地名が大坂にあり、度々当時の幕府軍勢をも退けており、戦術しだいでは平地の城塞も成立すると考えた可能性はある。ただしこのころの直家は、常に勢力拡大に傾注しており、防御陣地として石山城に籠もることは無く、要害として機能したかどうかは未知である。
-->
なお主家である宗景の居城である[[天神山城 (備前国)|天神山]]<ref group="注">現在の和気町佐伯地区。前述の石山城に隣接する天神山にあった城とは別である。</ref>は巨大なものではあるが天神山にある山城で、直家の水辺に近い小高い丘の石山城とは対照的である。天正3年(1575年)には、浦上宗景の兄・[[浦上政宗|政宗]]の孫をおしたてて宗景を播磨へ放逐し、事実上の下克上を行いやがて備前、美作、さらに播磨、備中の一部を支配下に置いた<ref group="注">やがて[[毛利氏]]の東進と[[織田氏]]の西進に挟まれた形の中、天正9年(1581年)頃、直家はこの城で没する。</ref>。
 
直家の子・宇喜多秀家は、[[豊臣政権]]下で父の遺領をほぼ継承し、57万4,000石の大[[大名]]となる。これに相応した城とするため[[天正]]18年 - [[慶長]]2年([[1590年]] - [[1597年]])の8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁を整えた。秀家は「岡山」に本丸を構え、石山城の本丸を二之丸内郭に、二之丸を西之丸とし、そして内堀を挟んで二之丸、その西に三之丸の郭を整備した。これらは[[織豊系城郭]]に特徴的な高石垣の積まれた城である。本丸は本段、中の段、下の段に分かれた構造で<!--(おそらく自然地形を利用)-->、本段の北寄りに金箔瓦を使用した壮麗な4重6階の望楼型天守を建てた。そしてそのままでは本丸の東側の守りが極めて薄い構造となったため、旭川本流を城郭の北から東側に沿うように極端に寄り添わせる形とし、天然の堀としている。ただしこの付け替えによる明らかに不自然な形の流路は、城下に洪水を多発させる原因となり、やがて放水路としての[[百間川]]の整備へとつながる<ref group="注">さらに明治以降に河床を浚渫し、往時より数メートルは水面が低下しており、堤防の整備と、本丸付近の流路の曲率の緩和を行ったことなどに加え、上流には2ヵ所のダムが造られたため以前ほどの大洪水は起きなくなった。</ref>。そして城を南から取り巻くように西国往来の道筋を変えて、直家時代の城下町を拡大整備し、引き続き領内の有力商人を勧誘して経済活動を発展させるよう努めた。築城には義父となった秀吉の意向が大いに働いていると言われている<!--なるほど天正年間の[[姫路城]]を彷彿とさせる構造であるとも言える。--><ref group="注">ちなみに当時の標高は、本丸を指定された岡山より石山の方が高かったとみられ、普請する宇喜多家内部では疑問の声も上がったとの事である。</ref>。
 
こののち城は「岡山城」、城下町は「岡山」の呼称が定着した。
 
=== 江戸時代 ===
[[ファイル:Okayama castle21.jpg|thumb|right|250px|岡山城天守の古絵図]]
[[ファイル:Okayama castle15s3200.jpg|thumb|right|250px|月見櫓(国の重要文化財)]]
[[ファイル:Okayama Castle Nishinomaru Nishiteyagura.jpg|thumb|right|250px|西之丸西手櫓(国の重要文化財)]]
 
慶長5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]で西軍の主力となった秀家は[[八丈島]]に流刑となり、宇喜多家は改易となった。代わって[[小早川秀秋]]が備前・美作52万石の領主として入城した。秀秋は本丸中の段を拡幅し、三之丸の外側に15町余の外堀を掘り三之外曲輪の整備をして城下町の拡大を行った。この外堀工事に農民だけでなく武士も使役し20日で完成したため、「廿日堀、二十日堀(はつかぼり)」と呼ばれている<ref>定本 日本城郭辞典(西ヶ谷恭弘・編、秋田書店・刊)、[http://www.city.okayama.jp/museum/okayamajou/history/history3.htm 岡山城の歴史(岡山城400年)]岡山市企画局情報政策課・制作</ref>。慶長六年には、中の段南隅に沼城天守を移築したとされ、これは大納戸櫓と呼ばれ、岡山城最大の櫓で二層の大入母屋造りの上に望楼を乗せた形式の三層四階の櫓であった<ref>[http://www.city.okayama.jp/museum/okayamajou/honmaru/KENTIKU/OMOTE/OMOTE.HTM 岡山城の歴史(岡山城本丸表向)]岡山市企画局情報政策課・制作</ref>。秀秋は2年後の慶長7年(1602年)10月に岡山で急死し、嗣子がなく小早川家は断絶した。
 
慶長8年、備前28万石は播磨姫路城主[[池田輝政]]の次男[[池田忠継|忠継]]に与えられたが、幼少(5歳)であったので兄の[[池田利隆|利隆]]が「備前監国」として代政した。利隆は「石山」の西端の西之丸を整備したと言われている<ref group="注">重要文化財の西の丸西手櫓はこの時建てられた。</ref>。慶長18年(1613年)に忠継は岡山城に入ったが、慶長20年(1615年)に死去した<ref group="注">毒饅頭事件として伝承される。</ref>。
 
[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])、忠継の弟・[[池田忠雄|忠雄]]が[[淡路国|淡路]]より31万5千石で入封した。幕府の格式に見合った城とするため、忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿に加え新たに表書院も設けている<ref group="注釈">中の段の御殿を一部二階建てとし、その二階から渡り廊下で繋がれた本段の御殿と連続しているような形をとることで、格式に合わせた床面積を確保するという手法をとっている。</ref>。また大手の南門を造り替え、城下の西端を限る用水路の西川を整備するなど、ここに岡山城の縄張りが完成する。重要文化財に指定されている月見櫓はこの頃の創建とされ、中の段の北西角の隅櫓で一部地下付き、本葺き、総白漆喰塗籠の壁仕上げの二階建てである。城外からは二層の望楼型、城内からは三層に見える。
[[ファイル:Okayama castle15s3200.jpg|thumb|right|220px|月見櫓(国の重要文化財)]]
[[ファイル:Okayama Castle Nishinomaru Nishiteyagura.jpg|thumb|right|220px|西之丸西手櫓(国の重要文化財)]]
[[元和 (日本) |元和]]元年([[1615年]])、忠継の弟・[[池田忠雄|忠雄]]が[[淡路島]]より31万5千石で入封した。幕府の格式に見合った城とするため、忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿に加え新たに表書院も設けている<ref group="注">中の段の御殿を一部二階建てとし、その二階から渡り廊下で繋がれた本段の御殿と連続しているような形をとることで、格式に合わせた床面積を確保するという手法をとっている。</ref>。また大手の南門を造り替え、城下の西端を限る用水路の西川を整備するなど、ここに岡山城の縄張りが完成する。重要文化財に指定されている月見櫓はこの頃の創建とされ、中の段の北西角の隅櫓で一部地下付き、本葺き、総白漆喰塗籠の壁仕上げの二階建てである。城外からは二層の望楼型、城内からは三層に見える。
 
江戸期の縄張は「岡山」に本丸、二之丸内郭(東南の郭)、「石山」付近に二之丸内郭(西の郭)、西の丸が置かれそれらの南に二之丸、その西南に三之曲輪<ref group="注">宇喜多氏時代の三之丸</ref>、中堀の外に三之曲輪の内、西に三之外曲輪の内と言う配置である。<!--さらには西川にも濠の機能を持たせていると思われる。-->本丸には天守の他に3つの御殿、大納戸櫓を含む高層(3層以上)の櫓が9棟(城全体では11棟)、さらに2層の櫓、櫓門が多数あった。<!--平城に近い高低差で、これら黒漆の高層櫓の密集する姿は異彩を放つものではなかったかと思われる。-->石山の二之丸内郭には池田家祖廟、西之丸に前藩主の隠居所がおかれ、二之丸内郭(東南の郭)、二之丸は上級武士の屋敷地であった。三之曲輪と三之曲輪の内の北側には西国往来が通り、町人地として領国経済の中心となっていた<ref group="注">三之曲輪の西国往来付近は現在の[[岡山表町商店街|表町商店街]]である。</ref>。三之曲輪の内の南半分は小早川氏時代の武家地であり、三之外曲輪は武家地、外堀を隔てて寺町や下級武士の屋敷や町人町がさらに広がっていた。
 
[[寛永]]9年、([[1632年]])忠雄の子・[[池田光仲|光仲]]が[[鳥取市|因幡鳥取]]へ転封し、入れ代わって因幡鳥取から[[池田光政]]が31万5千石で入封した。光政は利隆の子であり、姫路城で生まれたが、父の死後元和元年(1615年)に鳥取城主となっていた。以後、幕末まで光政系池田氏の居城となる。
 
[[寛文]]6年(1669年)~[[貞享]]3年(1686年)にかけて百間川の改修整備が実施され、[[貞享]]4年([[1687年]])からは光政の子・[[池田綱政|綱政]]により14年の歳月をかけて[[後楽園]]<ref group="注">当時は園を後園と呼んだらしい。</ref>を造営する。周囲を[[土塁]]と[[竹垣]]<ref group="注">鉄砲をよける意図があったとされる。</ref>で囲み、庭園の形をとるものの城を守る郭の役割を期待していたとされる。ともに郡代[[津田永忠]]によるものであり、永忠は[[閑谷学校]]、藩の新田開発などにも手腕を発揮した。
[[寛文]]6年(1669年)〜[[貞享]]3年(1686年)にかけて百間川の改修整備が実施され、[[貞享]]4年([[1687年]])からは光政の子・[[池田綱政|綱政]]により14年の歳月をかけて[[後楽園]]<ref group="注釈">当時は園を後園と呼んだらしい。</ref>を造営する。周囲を[[土塁]]と[[竹垣]]<ref group="注釈">鉄砲をよける意図があったとされる。</ref>で囲み、庭園の形をとるものの城を守る郭の役割を期待していたとされる。ともに郡代[[津田永忠]]によるものであり、永忠は[[閑谷学校]]、藩の新田開発などにも手腕を発揮した。
 
[[池田光政|光政]]によって[[正保]]二年([[1645年]])に[[遷宮]]された[[東照宮]](現在、[[玉井宮東照宮]])が、'''岡山城'''の鎮守として存在する。この神社には岡山一の祭礼である[[東照宮]]御神幸がある。御神幸の際、'''岡山城'''まで御神幸の列が途切れ事無く続き、藩主の御拝礼の後、御還御していた祭礼である。
 
=== 明治時代以降 ===
[[明治]]2年(1869年)の[[版籍奉還]]により藩主・[[池田章政]]は岡山藩知事に任ぜられ、岡山城は藩の府城たる役割を終えて[[兵部省 (明治時代)|兵部省]]管轄、つまり存城となった。明治6年([[1873年]])の[[廃城令]]により順次建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われていき、明治15年(1882年)頃までには、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなった。明治23年(1890年)、旧藩主池田章政に払い下げられた後、池田家は岡山県に提供し、明治29年(1896年)には本丸趾に県立岡山中学校が建てられた。随所にあった堀の埋め立ては何度かに分けて行われた。
[[ファイル:Old Okayama Castle01.jpg|thumb|right|220px|焼失前の岡山城天守]]
 
[[ファイル:Okayama castle01s3200.jpg|220px|thumb|再建天守]]
こうして昭和初期頃までには城跡と見受けられるのは本丸を残すのみとなり、五重の濠に囲まれた巨大な城郭は市街地へと姿を変えた。
[[明治]]2年(1869年)の[[版籍奉還]]により藩主・[[池田章政]]は岡山藩知事に任ぜられ、岡山城は藩の府城たる役割を終えて[[兵部省]]管轄、つまり存城となった。明治6年([[1873年]])の[[廃城令]]により順次建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われていき、明治15年(1882年)頃までには、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなった。明治23年(1890年)、旧藩主池田章政に払い下げられた後、池田家は岡山県に提供し、明治29年(1896年)には本丸趾に県立岡山中学校が建てられた。随所にあった堀の埋め立ては何度かに分けて行われた。<!--なにしろそのままでは旭川が巡るように流れ込み、水郷とも呼ぶべき景観を呈する城下町を、水害から守るために行ったのではないかとも思われる。-->こうして昭和初期頃までには城跡と見受けられるのは本丸を残すのみとなり、五重の濠に囲まれた巨大な城郭は市街地へと姿を変えた。
 
==== 昭和 ====
==== 昭和時代 ====
ここからは年表形式にて、主なできごとを紹介する。
[[File:岡山城(1931年).jpg|thumb|220px|岡山城の航空写真(1931年)]]
* [[1931年]]([[昭和]]6年) - 天守が国宝保存法に基づき当時の[[国宝]](現行法の「重要文化財」に相当)に指定。
* [[19331931年]]([[昭和]]86年) - 月見櫓、西之丸西手櫓、石山門天守[[国宝保存法に基づき国宝]]に指定。
 
* [[1945年]](昭和20年) - [[6月29日]]の[[岡山空襲]]で天守・石山門を焼失。
* [[1945年]](昭和20年) - [[6月29日]]の[[岡山大空襲]]で天守・石山門を焼失。
* [[1950年]](昭和25年) - [[文化財保護法]]の施行により、焼け残った月見櫓・西之丸西手櫓が重要文化財に指定。
* [[1964年]]〜[[1966年]](昭和39年〜昭和41年) - 天守を鉄筋コンクリートにて再建。同時に不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部も再建。現在の[[天守]]は瓦に[[桐]]の紋が使われるなど、[[宇喜多秀家|秀家]]当時のイメージで再建されている。なお、天守再建時に本来の出入り口である塩蔵の出入り口の他に、天守台に正面出入り口としてもう一つ出入り口を設けた。現在はこちらから直接天守地階に入るようになっている。
* [[1987年]](昭和62年) - 「岡山城跡」として[[史跡]]に指定。
 
==== 平成時代 ====
* [[1996年]]([[平成]]8年) - 築城400年記念事業として、創建当時の天守には金の[[鯱]]が載っており金烏城と呼ばれていたの伝承から鯱にを施す。
* [[2006年]](平成18年) - [[日本100名城]](70番)に選定。
* [[2014年]](平成26年) - [[1月21日]]までに本丸下の段での発掘調査にて、軍事倉庫として使われたとみられる「槍櫓(やりやぐら)」と「旗櫓(はたやぐら)」の遺構が出土、「御城内御絵図(おんじょうないおんえず)」(1700年作製)にはない石段跡も見つかる<ref>{{citeCite news |title=槍・旗櫓の遺構出土 岡山城本丸下の段 |newspaper=[[山陽新聞]] |publisher=[[山陽新聞社]] |date=2014-01-22 |url=http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2014012208384492/ |archiveurl=httphttps://web.archive.org/web/20140202102329/http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2014012208384492/ |archivedate=2014-02-02 年2月2日|accessdate=2014-08-12|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。
 
====令和時代====
[[2021年]]([[令和]]3年)7月30日から[[2022年]](令和4年)11月まで耐震補強などを含めた「令和の大改修」が行われている<ref>[https://www.city.okayama.jp/kankou/0000030689.html 岡山城「令和の(改修」工事に伴う岡山城(烏城公園)の通行禁止について]</ref><ref>[https://news.ksb.co.jp/article/14362989 岡山城がきょうから約1年半「休館」 天守閣を大規模改修、来年11月まで]</ref>。
 
== 天守 ==
[[ファイル:Old Okayama Castle keep tower in 1934.jpg|thumb|right|250px|焼失前の岡山城天守([[1934年]]([[昭和]]9年))]]
[[ファイル:Old Okayama Castle01.jpg|thumb|right|250px|焼失前の岡山城天守]]
[[ファイル:Okayama castle01s3200.jpg|250px|thumb|再建天守]]
岡山城天守は国宝に指定されていたが、1945年(昭和20年)の[[岡山空襲]]で焼失してしまった<ref name="sanyonews20211231">[https://web.archive.org/web/20211231105150/https://www.sanyonews.jp/article/1213789/ 「烏城の漆黒」再現へ試行錯誤 岡山城大改修で市、乏しい史料] 山陽新聞(2022年1月1日閲覧)</ref>。
 
外観復元天守は1966年(昭和41年)に完成したが、これは後に建築家となる岡山市出身の[[早稲田大学理工学術院|早稲田大学理工学部]]建築学科の学生が戦前に卒業論文のためにまとめていた[[実測図]]がもとになっているため、初代天守の内部構造は分かっている<ref name="sanyonews20211231" /><ref>[https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000210800 レファレンス事例詳細] 国立国会図書館レファレンス協同データベース(2022年4月15日閲覧)</ref>。ただし、再建天守と焼失以前の岡山城について、外観は変わっていないとする資料と外観にも違いがあるとする資料に分かれている<ref>[https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000210799 レファレンス事例詳細] 国立国会図書館レファレンス協同データベース(2022年1月1日閲覧)</ref>。また、外観の色に関する記録は残っておらず、再建時に市がどのような判断をしたかや、1996年(平成8年)の初めての塗り直し時の塗料の基準もよくわかっていない<ref name="sanyonews20211231" />。岡山城は烏城と呼ばれているが、外観の色に関する資料は永山卯三郎の「県通史」に簡単な記述がある程度とされる<ref name="sanyonews20211231" />。また、名古屋城、広島城のよう昭和初期に撮影された内部の古写真も残っていて焼失前の天守の2階の内部には24畳敷きの城主の間が有り押板、違い棚、帳台構を一列に並べた座敷飾が有り、現存天守にはない高級な[[書院造]]であったが、天井はなく、丸太の牛梁や梁がむき出しであった。<ref>{{Cite journal|date=2012-04-01|url=https://doi.org/10.52926/jpmjcr12p4|doi=10.52926/jpmjcr12p4}}</ref>
 
岡山城天守は2022年(令和4年)11月まで大改修が進められている<ref name="sanyonews20211231" />。外観の塗料については、松本城や熊本城などでの視察も行われ、光沢によっては日光の反射で白く見えてしまうことも考慮した上で決定されることになった<ref name="sanyonews20211231" />。
 
== 建造物 ==
=== 現存する建造物 ===
* 月見櫓 - 国の重要文化財、元和・寛永年間(1615-1632年)築・現存
 
* 月見櫓 - 国の重要文化財、元和・寛永年間(1615-1632年)築・現存。本丸の北西隅に建つ。周辺には、土塀の礎石に狭間が作られており、当時の最新式の設備と言われる。
* 天守 - 外観復元
* 不明門 - 外観復元。本段への入口になる門。天守と同時に鉄筋コンクリートで復元された。
* 不明門 - 復元
* 廊下門 - 外観復元
* 六十一雁木上門 - 復元
* 旧天守礎石 - 移設
 
<gallery>
ファイル:Okayama castle05s3200.jpg|廊下門
ファイル:Okayama castle10s3872.jpg‎jpg|不明門
ファイル:Okayama castle13s3872.jpg‎jpg|六十一雁木上門
ファイル:Okayama castle12s3200.jpg‎jpg|旧天守礎石
</gallery>
 
=== 現存しない建造物 ===
* 三階櫓
* 干飯櫓
* 長屋続櫓
* 大納戸櫓
* 伊部櫓
* 数寄方櫓
* 小納戸櫓
* 隅櫓
* 油蔵櫓
* 舂屋櫓
* 穴粟櫓
* 旗櫓
* 槍櫓
* 弓櫓
* 花畑隅櫓
* 小作事請櫓
==文化財==
===重要文化財===
* 月見櫓
* 西丸西手櫓
===史跡===
* 岡山城跡
[[ファイル:西手櫓.jpg | サムネイル | 右 | 岡山城西丸西手櫓]]
 
== 天守・後楽園の写真 ==
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画像:Okayama castle02s3872.jpg|天守と塩蔵
画像:Okayama Korakuen Garden 1907.jpg|[[後楽園]]、明治40年撮影
画像:Okayama Castle detail - DSC01786.JPG|天守最上階
画像:Korakuen Okayama35s4bs3872.jpg|[[後楽園]]
画像:Okayama castle11s3200.jpg|櫓門
画像:Okayama castle17n3200.jpg|堀も兼ねる旭川
画像:Korakuen.jpg|後楽園
</gallery>
 
== 立地 ==
城跡は烏城公園として整備されており、復元天守の内部は博物館となっている。月見櫓は烏城公園内にあるが、西之丸西手櫓は、400メートルほど西の小学校跡地(丸の内1丁目2番)にある。周辺には[[後楽園]]のほか、[[岡山県立博物館]]、[[岡山県立美術館]]、[[岡山市立オリエント美術館]]、[[林原美術館]]などの文化施設も多い。後楽園 ⇒ 岡山城のコースは、岡山の主要観光ルートの一つである
 
また、烏城公園、隣接の石山公園を会場に「おかやま桃太郎まつり」も開催されている。
== 交通アクセス ==
=== 公共交通機関 ===
* [[岡山電気軌道]][[岡山電気軌道東山本線|東山本線]] [[城下停留場|城下電停]]下車
* [[岡電バス]]・[[両備バス]] 県庁前[[バス停留所|バス停]]下車
 
=== 自家用車 ===
* [[山陽自動車道]]・[[岡山インターチェンジ|岡山IC]]
 
== 関連作品 ==
=== 楽曲 ===
; 岡山城
: [[1966年]]、天守の再建に伴い、岡山城落成記念として発表された。[[EMIミュージック・ジャパン|東芝レコード]]から芝田錦吾の歌でレコード発売され<ref group="注釈">シングルレコード(品番は4Rs-110およびTP-1439)のジャケットには「岡山城落成記念」「岡山市選定」と記載されている。シングルB面は浜田喜一の「岡山太鼓ばやし」。</ref>、10万枚を超える売上を記録した<ref>[http://townweb.e-okayamacity.jp/miyoshidemura/13jinbutsu/13jinbutsu_05.html 人物探訪(第5回)相撲界出身 : 芝田 錦吾さん]、岡山市中区◆海吉出村町内会◆、2003年5月28日。</ref>。作詞:[[十二村哲]]、作曲:[[飯田景応]]。
 
=== 交通アクセス漫画 ===
;烏城物語
* [[岡山電気軌道東山本線]] [[城下停留場|城下電停]]下車
:[[1995年]]の岡山城築城400周年記念事業に応募する形で、岡山市出身の漫画家[[森安なおや]]が自費出版の形で刊行した作品<ref>[[伊吹隼人]]『「トキワ荘」無頼派漫画家・森安なおや伝』[[社会評論社]]、2010年、pp.118-119</ref>。1997年刊行<ref>『「トキワ荘」無頼派漫画家・森安なおや伝』p.278</ref>。
* [[岡電バス]]、[[両備バス]] 県庁前下車
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
{{Reflist|group= "注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
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== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
{{Commons|Category:Okayama Castle}}
 
* [http://okayama-kanko.net/ujo/ 岡山城(岡山市公式ホームページ)]
* [https://okayama-castle.jp/ 岡山城(岡山城公式ホームページ)]
* [http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp 国指定文化財等データベース]
* {{国指定文化財等データベース|401|2304|岡山城跡}}
* [http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/category/categoryArchives/0200000000/0203000000 正保城絵図(国立公文書館デジタルアーカイブ)]備前国岡山城絵図あり
* {{国指定文化財等データベース|102|2998|岡山城月見櫓}}
* {{国指定文化財等データベース|102|2999|岡山城西丸西手櫓}}
*[https://web.archive.org/web/20150905100437/http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/category/categoryArchives/0200000000/0203000000 正保城絵図(国立公文書館デジタルアーカイブ)]備前国岡山城絵図あり
 
{{日本100名城}}
{{岡山カルチャーゾーン}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:おかやましよう}}
[[Category:備前国の城]]
[[Category:岡山県の城]]
[[Category:岡山県現存建築重要文化財ある日本の城跡]]
[[Category:重要文化財 (建造物)]]
[[Category:岡山市の重要文化財]]
[[Category:岡山県にある国指定の史跡]]
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[[Category:岡山市の公園]]
[[Category:岡山市北区の歴史]]
[[Category:現存建築のある日本の城跡]]
[[Category:江戸時代の建築]]
[[Category:日本100名城]]
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[[Category:宇喜多氏|城おかやま]]
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