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[[ファイル:Ceiling in Alhambra.JPG|thumb|right|300px|[[ナスル朝]]。[[イベリア半島]]最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有の[[アラベスク]]に彩られた[[アルハンブラ宮殿]]の「二姉妹の間」。]]
[[ファイル:Burying Plague Victims of Tournai.jpg|thumb|right|250px|[[黒死病]](ペスト)の大流行。東方から流入したこの病気により地中海からヨーロッパでは軒並み人口が減少した。画像は黒死病の犠牲者を運び出す[[フランドル]]地方の[[トゥルネー]]の人々(『{{仮リンク|ジル・ル・ミュイジ|fr|Gilles Le Muisit}}の年代記』の挿絵)。]]
[[ファイル:Battle of crecy froissart.jpg|thumb|250px|百年戦争の始まり。[[クレシーの戦い]]では[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いた[[ジャン・フロワサール]]の『年代記』写本の挿絵。]]
[[ファイル:Burning Jews.jpg|thumb|250px|[[ユダヤ人]]迫害。中世末期の不穏な情勢の中で[[スケープゴート]]として標的にされたのが[[ユダヤ人]]であった。画像は15世紀にまとめられた『[[ニュルンベルク年代記]]』の木版挿絵で、1338年に起きた[[バイエルン]]地方のデッゲンドルフでの「{{仮リンク|聖餅󠄀冒瀆|en|Host desecration}}」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。]]
[[ファイル:Sarcophagus Queen Margrethe I 2015-03-31-4810.jpg|thumb|250px|[[カルマル同盟]]。デンマーク摂政(事実上の女王)[[マルグレーテ1世]]がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像は[[ロスキレ大聖堂]]に安置されたマルグレーテの石棺。]]
[[ファイル:Balduineum Wahl Heinrich VII.jpg|thumb|250px|皇帝[[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]を選出する[[選帝侯|七選帝侯]]。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は[[1356年]]の[[金印勅書]]で法制化されることになる。]]
[[ファイル:Bendicht Tschachtlan, Die Schlacht am Morgarten (c. 1470).jpg|thumb|200px|[[スイス]]の自立。13世紀末に成立した[[永久盟約|原初同盟]]は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。]]
[[ファイル:Main entrance of the Palais des Papes - 20050823.jpg|right|thumb|250px|教皇のバビロン捕囚。フランス王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]の圧力で教皇[[クレメンス5世 (ローマ教皇)|クレメンス5世]]は[[アヴィニョン]]に移された。画像は[[アヴィニョン教皇庁|アヴィニョン教皇宮殿]]の正面入り口。]]
[[ファイル:Dante and beatrice.jpg|thumb|250px|ダンテと{{仮リンク|ベアトリーチェ・ポルティナーリ|en|Beatrice Portinari}}。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『[[神曲]]』を書いた詩人。画像は19世紀の{{仮リンク|ヘンリー・ホリデー|en|Henry Holiday}}による歴史画([[ウォーカー・アート・ギャラリー]]蔵)で、[[フィレンツェ]]の[[アルノ川]]の橋のたもとでベアトリーチェに心寄せるダンテが描かれている。]]
[[ファイル:Lorenzetti Ambrogio 1337.jpg|thumb|320px|中世都市[[シエーナ|シエナ]]。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像は[[アンブロージョ・ロレンツェッティ]]によるシエナの{{仮リンク|プブリコ宮殿|en|Palazzo Pubblico}}(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。]]
[[File:Milano Duomo 2392.jpg|thumb|right|250px|[[ミラノのドゥオーモ|ミラノ大聖堂]]。1386年から[[ミラノ公]][[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ]]の命により、北方の建築職人も招いてイタリアには珍しい多数の尖塔アーチを聳えさせるゴシック様式で建設が始まった。完成は500年後の1813年のことになるが「ミラノのドゥオモ」の名で親しまれている。]]
[[ファイル:Loza nemanjica.jpg|thumb|200px|セルビア人の帝国。ネマニッチ朝の[[ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン (セルビア皇帝)|ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン]]は東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建された[[コソボ]]の[[デチャニ修道院]]にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。]]
[[File:John VI Kantakouzenos.jpg|thumb|right|200px|落日の東ローマ帝国。周辺諸国に圧迫されるとともに帝位をめぐる内乱でこの国はバルカンの小国家に転落した。画像は1351年のヘシュカスモス論争についての教会会議を召集する皇帝[[ヨハネス6世カンタクゼノス]]。]]
[[File:Kulikovo05.jpg|thumb|right|200px|[[クリコヴォの戦い]]。[[モスクワ大公]][[ドミートリー・ドンスコイ]]率いる[[ルーシ]]諸侯連合軍が[[ママイ]]率いる[[ジョチ・ウルス]]軍に大勝した。この勝利は「[[タタールの軛]]」からロシアが自立する第一歩となった。画像は17世紀に描かれた挿絵。]]
[[File:Giedzimin, Vilnia. Гедзімін, Вільня (M. Andriolli, 1882).jpg|thumb|right|200px|ヨーロッパ最後の異教大国[[リトアニア]]。東西両教会に挟まれたリトアニアでは古来の信仰を堅持した大公[[ゲディミナス]]が均衡を保って統治を行っていた。画像は都[[ヴィリニュス]]を建設するゲディミナスを描いた歴史画。]]
[[ファイル:Codex Mendoza folio 2r.jpg|thumb|right|200px|[[アステカ帝国]]の勃興。アステカ人は[[ウィツィロポチトリ]]の[[神託]]に従い、蛇を咥えた鷲がサボテンに止まった地を探し当て、[[テスココ湖]]を干拓し都[[テノチティトラン]]を築いた。画像はその様子が描かれた16世紀の「{{仮リンク|メンドーサ写本|en|Codex Mendoza}}」。]]
[[File:Perù, chimù, coppia di orecchini, lega d'oro a sbalzo, XII-XV sec. 02.JPG|thumb|right|250px|[[チムー王国]]。[[モチェ文化]]の流れを汲み[[インカ帝国]]に先立って[[ペルー]]北部の沿岸地帯を支配した王国で金属加工に優れていた。画像はチムー王国で用いられた装飾用の金製品([[メトロポリタン美術館]]蔵)。]]
[[ファイル:腹切矢倉(東勝寺跡) Hōjō Takatoki Harakiri Yagura (Tōshō-ji, Kamakura).jpg|thumb|right|250px|[[鎌倉幕府]]の滅亡。有力御家人の離反が続く中で、[[新田義貞]]により[[稲村ヶ崎]]の防衛線が突破されると、[[鎌倉]]市街は炎上し、[[得宗]][[北条高時|高時]]ら北条一族の自刃が相次いだ。画像は最後の合戦が行われた[[東勝寺 (鎌倉市)|東勝寺]]の腹切りやぐら。]]
[[ファイル:Emperor Godaigo by Monkan-bō Kōshin.jpg|thumb|250px|[[後醍醐天皇]]。[[鎌倉幕府]]を亡ぼし[[建武の新政]]を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は[[清浄光寺]]所蔵の肖像画。]]
[[File:Mounted Warrior (Kyoto National Museum).jpg|thumb|right|200px|「騎馬武者像」。総髪で抜身の太刀を肩にかけた合戦後の武士を描いた作品として知られ、長らく[[足利尊氏]]を描いたものとされていたが、近年は[[高師直]]や他の人物の説も上がっている。[[京都国立博物館]]の所蔵で重要文化財ともなっている。]]
[[ファイル:Yoshimitsu Ashikaga cropped.jpg|thumb|250px|[[足利義満]]。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は[[鹿苑寺]]所蔵の肖像画。]]
[[File:Noh Performance (235951661).jpeg|thumb|right|275px|[[能楽]]の大成。当時[[猿楽]]と呼ばれたこの芸能は[[観阿弥]]・[[世阿弥]]の親子二代の下で発展した。特に世阿弥は[[二条良基]]や[[足利義満]]の庇護を受け洗練された芸風を極めた。画像は現在の能舞台での様子。]]
[[File:Great-Zimbabwe-still-standing strong.jpg|thumb|right|280px|[[グレート・ジンバブエ遺跡]]。サビ川上流のジンバブエ高原に作られた石造遺跡で、ジンバブエとはショナ語で「石の家」を意味する。イスラムや中国の元・明時代の陶磁器が出土することでも知られる。画像は遺跡を取り囲む「大囲壁」の全景写真。]]
[[ファイル:Mansa Musa.jpg|thumb|right|250px|西アフリカのマリ王国の王[[マンサ・ムーサ]]。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で途方もない黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。画像は1375年に中世の世界地図([[マッパ・ムンディ]])の様式で描かれた「{{仮リンク|カタロニア地図|en|Catalan Atlas}}」のマンサ・ムーサ。]]
[[File:Bou Inania Madrasa seen through Bab Bou Jeloud 2011.jpg|thumb|right|200px|[[マリーン朝]]の[[フェズ|フェス]]。ムワッヒド朝に代わりマグリブを制圧したマリーン朝は[[マラケシュ]]からフェスに都を遷した。画像はスルタンの[[アブー・イナーン・ファーリス]]によって建てられた学院の[[ブー・イナーニーヤ・マドラサ]]の[[ミナレット]]。]]
[[ファイル:Bassin Syrie 1.JPG|thumb|right|250px|「{{仮リンク|聖王ルイの洗礼盤|fr|Baptistère de Saint Louis}}」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、[[マムルーク朝]]時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在は[[ルーヴル美術館]]が所蔵している。]]
[[File:Battle of Nicopolis.jpg|thumb|right|200px|[[オスマン朝]]の拡大。小アジアから起こったオスマン朝は[[バヤジット1世]]の時代までにバルカン諸国を臣従させ、[[ニコポリスの戦い]]ではキリスト教徒連合軍に大勝を収めた。画像は[[トプカプ宮殿]]博物館所蔵の細密画に描かれたニコポリスの戦い。]]
[[ファイル:Ghazan et Öldjeïtu.jpg|right|thumb|250px|『[[集史]]』の編纂。イル・ハン国の宰相で歴史家[[ラシードゥッディーン]]はその当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主[[ガザン]]と[[オルジェイトゥ]]の兄弟を描いた『集史』の挿絵。]]
[[File:Ibn Khaldoun-Kassus.jpg|right|thumb|180px|歴史家[[イブン・ハルドゥーン]]。北アフリカからイベリア半島そしてエジプトからシリアを遍歴し、政治家として活躍する一方で、連帯意識([[アサビーヤ]])を軸とする変転極まりない社会や経済の考察から歴史学の構築に取り組んだ。画像は故郷[[チュニス]]に建てられた銅像。]]
[[ファイル:Timur during attack on Balkh 1370.jpg|thumb|right|250px|草原の英雄[[ティムール]]。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『[[清浄園]]』の16世紀の写本の挿絵。]]
[[File:Portrait of Sultan 'Ala-ud-Din, Padshah of Delhi.jpg|thumb|right|180px|[[アラー・ウッディーン・ハルジー]]。[[ハルジー朝]]の君主として、モンゴルを撃退し、南インドのヒンドゥー教国家を次々と服属させた。その統治は冷徹だが果断な人物であった。画像は[[メトロポリタン美術館]]にある挿絵の肖像画。]]
[[File:Kakatiya Kala Thoranam (Warangal Gate) and Ruins.jpg|thumb|right|180px|[[ワランガル]]の落日。14世紀前半のハルジー朝とトゥグルク朝の南征はインド南部のヒンドゥー教国家を圧倒した。[[カーカティーヤ朝]]もその一つで、繁栄を誇った都ワランガルは制圧され廃墟となった。画像は{{仮リンク|ワランガル門(カーカティーヤ・カラ・トラナム)|en|Kakatiya Kala Thoranam}}とワランガルの要塞跡。]]
[[ファイル:1 Virupaksha temple Gopuram Hampi Vijayanagar India.jpg|thumb|right|250px|[[ヴィジャヤナガル王国]]の興隆。14世紀の半ばまでにこの王国の発展のもと南インドのヒンドゥー教は活気を取り戻した。画像はその都ヴィジャヤナガル([[ハンピ (インド)|ハンピ]])のヴィルーパークシャ寺院。]]
[[ファイル:Tsongkapa, thangka from Tibet in the 15th-century, painting on cloth - Google Art Project.jpg|thumb|right|220px|[[チベット仏教]]の改革者[[ツォンカパ]]。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在の[[ダライラマ]]に連なる[[ゲルク派]](黄帽派)を大成した。画像は[[ニューヨーク]]の{{仮リンク|ルビン美術館|en|Rubin Museum of Art}}所蔵のツォンカパの肖像画。]]
[[File:Theatre actors, Yuan Dynasty.jpg|thumb|right|220px|[[元曲]]。元時代の中国では[[歌曲]]の一種である[[雑劇]]が盛んになり、この時代の名をとって「元曲」と呼ばれた。画像は泰定元年(1324年)に描かれた[[山西省]]洪洞県広勝寺水神廟明応王殿の「雑劇図」。]]
[[File:9c Zhao Mengfu. Bathing Horses. 1312. 28.1 x 155.5 cm Detail of the scroll. Palace Museum, Beijing.jpg|thumb|right|250px|[[趙孟頫]]。中国絵画に新風を吹き込み[[元末四大家]]の先駆者となった趙孟頫だったが、宋朝の末裔であるにもかかわらず異民族の元朝に仕えたことは批判を浴びた。画像は趙孟頫「浴馬図([[北京]][[紫禁城#故宮博物院|故宮博物院]]蔵)」の一部。]]
[[ファイル:Wine Jar with Fish and Aquatic Plants, 52.87.1.jpg|thumb|right|220px|[[青花]]の誕生。元朝後期に西アジア産の[[コバルト]]顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺([[ブルックリン美術館]]蔵)」。]]
[[ファイル:A Seated Portrait of Ming Emperor Taizu.jpg|thumb|right|220px|明の[[洪武帝]]朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画([[台北]][[国立故宮博物院]]蔵)。]]
'''14世紀'''(じゅうよんせいき)は、[[西暦]][[1301年]]から西暦[[1400年]]までの100年間を指す[[世紀]]。
== 14世紀の歴史 ==
=== 世界 ===
14世紀の[[ユーラシア大陸]]では[[東アジア]]に発し[[中央アジア]]を経て[[ヨーロッパ]]にまで達した[[ペスト]]の[[パンデミック|大流行]]が起き、また[[19世紀]]半ばまで続くことになる[[小氷期]]がいよいよ本格化して寒冷化により農耕牧畜への大きな被害が出たため人口が大きく減少した。さらに、[[パクス・モンゴリカ]]による交易の広範な活性化により財貨の過剰流動性の制御が困難となり、また当時のユーラシア大陸全体に保有されていた[[銀]]の総量に従属する[[決済]]能力を超えて交易が拡大した結果、全世界的に経済活動が急激に縮小した。この事により歴史は新たな相へと向かう。
ヨーロッパではペストにより人口が大きく減少(詳細は後述)した後、'''[[ルネサンス|イタリア・ルネサンス]]'''により、新しい時代へと大きく転換した([[イタリア・ルネサンス年表]]も参照のこと)。
13世紀に
==== ペスト(黒死病)の大流行 ====
正確な統計はないが、全世界でおよそ8,500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2にあたる約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されている。ヨーロッパの社会、特に[[農奴制|農奴]]不足が続いていた[[荘園 (ヨーロッパ)|荘園制]]に大きな影響を及ぼした。[[モンゴル帝国]]の支配下でユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んにな
=== 日本 ===
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==== 南北朝時代・室町時代 ====
[[後醍醐天皇]]の討幕運動に[[足利尊氏]]・[[新田義貞]]ら
その後南朝の勢力は衰亡するが、尊氏と弟[[足利直義|直義]]が対立する内紛([[観応の擾乱]])が起き、南朝は混乱に乗じて息を吹き返す。幕府内部での政治抗争は3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]の時代まで続き、抗争により有力[[守護大名]]が南朝に奔るといった状態が繰り返される。[[今川貞世]]が九州へ派遣されて平定を完了すると、室町幕府の権力は確立され、1392年に義満により'''南北朝の合一'''が行われる。これより前の1379年には室町幕府の政治事件「[[康暦の政変]]」も起こっており、以後義満は1391年に[[明徳の乱]]、1399年に[[応永の乱]]を自らの主導により誘発して対抗勢力を駆逐し、やがて[[天皇]]の権威にせまる将軍権力を確立する。
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一方、当時の[[朝鮮半島]]でも倭寇征伐が行われており、その過程で名声を得た[[李成桂]]が[[高麗]]王朝を倒し[[李氏朝鮮]]が成立する。
[[琉球諸島|琉球]]では中山・南山・北山の[[三山時代]]を迎えて、いずれも明王朝に[[朝貢]]をし、高麗にも使節を送っていた。三山のうち中山が勢力を拡大し、15世紀に[[琉球王国]]の成立にいたる。
== できごと ==
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* 1300年頃に[[スウェーデン]]による[[フィンランド]]遠征([[北方十字軍]]の完了)。
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=== 1300年代 ===
{{main|1300年代}}
* 1300年 - 1350年頃
** メキシコの[[ミシュテカ]]族による[[オアハカ州]][[モンテ・アルバン]]7号墓が造営される。
* 1301年
** オゴ
** [[後伏見天皇]]が譲位し、第94代[[後二条天皇]]が即位。 [[北条師時]]が鎌倉幕府第10代[[執権]]に就任。
** [[ハンガリー王国|ハンガリー国王]][[アンドラーシュ3世 (ハンガリー王)|アンドラーシュ3世]]の死により[[アールパード朝]]が断絶。
** イングランド王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]が王子エドワードに「[[プリンス・オブ・ウェールズ]]」の称号を授ける。
*** イングランド王位継承者としての「プリンス・オブ・ウェールズ」の始まり。
* 1302年
** 教皇[[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]の回勅「[[ウナム・サンクタム]](唯一聖なる)」。
** フランス王フィリップ4世による[[三部会]]の招集。
**
* 1303年
** [[アナーニ事件]]。 ** [[マージ・アル・サファーの戦い (1303年)|マージ・アル・サファーの戦い]]で[[マムルーク朝]]が[[イルハン朝]]の[[シリア]]進軍を阻止する。
** [[ハルジー朝]]の[[アラー・ウッディーン・ハルジー]]が[[メーワール王国]]の都[[チットールガル]]を攻撃し滅亡させる。
* 1305年
** 元のテムル(成宗)にオゴデイ家とチャガタイ家が服属しモンゴルが再統一される。
** [[嘉元の乱]]([[北条宗方]]の乱)。
* 1306年
** チャガタイ家の[[ドゥア]]がアルタイ山脈以西からオゴデイ家を追放し中央アジアを統一。
** [[ボヘミア王国|ボヘミア国王]][[ヴァーツラフ3世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ3世]]の死により[[プシェミスル朝]]が断絶。
** [[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]]が[[スクーン]]でスコットランド国王として戴冠する。
* 1307年
** フランス王フィリップ4世が国内の[[テンプル騎士団]]団員を一斉に逮捕。
** [[ドルチーノ派]]指導者[[フラ・ドルチーノ]]が異端として処刑される。
** [[ハルジー朝]]の[[マリク・カーフール]]の南征始まる。
*** [[ヤーダヴァ朝]](1307年)、[[チャンデーラ朝]](1309年)、[[カーカティーヤ朝]](1310年)、[[ホイサラ朝]]・[[パーンディヤ朝]](1311年)に遠征、貢納を約束させる。
** 元のテムル(成宗)死去、皇后[[ブルガン]]が監国となるも、[[コンギラト]]派に打倒され、[[カイシャン]](武宗)が皇帝となる。
** [[ラシードゥッディーン]]が『[[集史]](ジャーミウッタワーリーフ)』を[[オルジェイトゥ]]に献呈する(補足分の完成は1314年)。
* 1308年
** 神聖ローマ皇帝[[アルブレヒト1世 (
** ハンガリー国王[[カーロイ1世 (ハンガリー王)|カーロイ1世]]が即位し、[[ハンガリー・アンジュー朝]]が成立。
** 後二条天皇が没し、第95代[[花園天皇]]が即位。
*
*
* 1309年
** [[アヴィニョン捕囚]](教皇のバビロン捕囚)。 ** [[聖ヨハネ騎士団]]が[[ロドス島]]を奪取し、ロドス騎士団と呼ばれる。
=== 1310年代 ===
{{main|1310年代}}
* 1310年
** [[パリ条約 (1310年)|パリ条約]]。[[ルクセンブルク家のドイツ・イタリア政策#ハインリヒ7世の時代|神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世のイタリア遠征]]( - [[1313年]])。
** 皇帝ハインリヒ7世の子[[ヨハン・フォン・ルクセンブルク|ヨハン]]が故ボヘミア王ヴァーツラフ3世の妹[[エリシュカ]]と結婚しボヘミア王に選ばれる。
* 1311年
** [[ヴィエンヌ公会議]]。
** イングランドの[[リンカン大聖堂]]が完成。
*** 尖塔までの高さは160mで初めてクフ王のピラミッドの高さを超えた建造物となる。
** [[北条宗宣]]が鎌倉幕府第11代執権に就任。
* 1312年
** [[北条煕時]]が鎌倉幕府第12代執権に就任。
** [[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]がイタリア遠征途上のローマで神聖ローマ皇帝として戴冠される。
** [[ジェノヴァ]]の航海者{{仮リンク|ランチェロット・マルチェロ|en|Lancelotto Malocello}}が[[カナリア諸島]]に到達。
* 1314年
** [[バノックバーンの戦い]]で、イングランド軍がスコットランド軍に大敗し支配権を喪失。
** フランスで「[[ネールの塔
* 1315年
** [[北条基時]]が鎌倉幕府第13代執権に就任。
** 元の[[アユルバルワダ|アユルバルワダ(仁宗)]]が[[科挙]]を復活させる({{仮リンク|延祐復科|zh|延祐復科}})。
** [[モルガルテンの戦い]]でスイス軍がハプスブルク軍に勝利。
** [[ニュージーランド]][[北島 (ニュージーランド)|北島]]の[[タラウェラ山]]の大規模噴火(カハロア噴火)。
* 1315年-1321年頃
** ヨーロッパで激しい[[飢饉]]。→ [[小氷期]]。
* 1316年
** [[北条高時]]が鎌倉幕府第14代執権に就任。
* 1317年
** 鎌倉幕府が持明院・大覚寺両統の迭立を提案するが不調に終わる([[文保の和談]])。
** アヴィニョン教皇ヨハネス22世
** アヴィニョン教皇ヨハネス22世が回勅「{{仮リンク|スポンデント・パリテル|en|Spondent Pariter}}」により[[錬金術]]を禁止。
** [[ベネディクトゥス12世|ジャック・フルニエ]](後の教皇ベネディクトゥス12世)が南フランスの[[パミエ]]司教に就任する。
*** この時の異端審問の記録が[[エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ]]の歴史書『{{仮リンク|モンタイユー|en|Montaillou (book)}}』のもととなる。
* 1318年
** 花園天皇が譲位し、第96代[[後醍醐天皇]]が即位。
** イル・ハン国宰相であった[[ラシードゥッディーン]]が処刑される。
** [[マルセイユ]]において教皇と総長に不服従を示した[[フランシスコ会]]厳格派(スピリトゥアル派)の修道士が処刑される。
* 1319年
** [[アルメニア]]大地震で、[[アニ (トルコ)|アニ]]が壊滅的な被害。
=== 1320年代 ===
{{main|1320年代}}
* 1320年
** [[デリー]]で[[トゥグルク朝]]が成立。
** {{仮リンク|1320年の羊飼い十字軍|en|Shepherds' Crusade (1320)}}。
** [[スコットランド王国|スコットランド]]で[[アーブロース宣言]]を採択、イングランドからの独立が決定的に。
** [[伊勢神宮]][[外宮]]神官の[[度会家行]]が『[[類聚神祇本源]]』を執筆。
* 1321年
** [[ダンテ・アリギエーリ]]が『[[神曲]]』を完成させ、この年に死去して[[ラヴェンナ]]に葬られる。
** 東ローマ皇帝[[アンドロニコス2世パレオロゴス|アンドロニコス2世]]に対し孫の[[アンドロニコス3世パレオロゴス|アンドロニコス]]が反乱を起こす。
* 1322年
** {{仮リンク|ミュールドルフの戦い|en|Battle of Mühldorf}}で、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世がハプスブルク家のフリードリヒ美王に勝利。
** [[安東氏|安藤氏]]の内紛から[[安藤氏の乱|津軽大乱]]が発生。
* 1323年
** [[南坡の変]]で、元の
** トゥグルク朝の王子[[ムハンマド・ビン・トゥグルク|ウルグ・ハーン]]が南インド遠征で[[カーカティーヤ朝]]と[[パーンディヤ朝]]を滅ぼし、ホイサラ朝を再服従させる。
** 1303年とこの年のエジプトの大地震により、[[アレクサンドリアの大灯台]]が完全に崩壊する。
* 1323年頃
** 元から日本へ向かう[[寺社造営料唐船|東福寺造営料唐船]]が現在の韓国全羅南道新安郡沖で沈没。
** [[ウィリアム・オッカム]]が『{{仮リンク|論理学大全(Summa Logicae)|en|Sum of Logic}}』を執筆。
* 1324年
**
*** 後醍醐天皇の倒幕運動であるとの疑いがもたれ、[[土岐頼員]]が討ち死にし、[[日野資朝]]が流罪とされる。
** [[マリ王国]]の[[マンサ・ムーサ]]の[[メッカ]]巡礼。
* 1325年
** [[イブン・バットゥータ]]のメッカ巡礼、以後30年にわたる大旅行の始まり。
** [[アステカ人]]が[[テスココ湖]]の島に都市[[テノチティトラン]]を築く。
** パリ司教[[エティエンヌ・タンピエ]]の神学の異端的教説に関する布告が撤回される。
** [[宗峰妙超]]が京都の[[大徳寺]]を創建する。
*** 同年、正中の宗論にて宗峰妙超が南都北嶺の学僧に勝利する。
** [[呑海|他阿呑海]]が[[藤沢市|藤沢]]の[[清浄光寺]]を創建する。
* 1326年
** [[嘉暦の騒動]]。
*** [[北条貞顕]]が鎌倉幕府第15代執権に就任。わずか10日で辞職。 *** [[北条守時]]が鎌倉幕府第16代執権に就任
** [[チャガタイ・ハン国]]の東西分裂。
** [[ウィリアム・オッカム]]が異端宣告を受ける。
* 1327年
** 王妃[[イザベラ・オブ・フランス|イザベラ]]によりイングランド王エドワード2世が廃位され、息子エドワード3世が即位。
** [[ジェーラムの戦い]]で、[[ムハンマド・ビン・トゥグルク]]がチャガタイ・ハン国を撃破。
** [[ジョチ・ウルス]]に対する[[トヴェリ蜂起]]。
** [[パドヴァのマルシリウス]]が破門される。
** [[ウルム]]の[[ツンフト闘争]]。
* 1328年
** 元で{{仮リンク|天暦の
** フランスで[[カペー朝]]本家が断絶。分家の[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]が即位し[[ヴァロワ朝]]が始まる。
** [[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]がイタリア遠征途上のローマで神聖ローマ皇帝として戴冠する。この戴冠式は多くの貴族や教会の指導者たちが出席した。
** 東ローマ皇帝アンドロニコス2世が退位させられ、孫のアンドロニコス3世が即位。
** モスクワ公[[イヴァン1世]]が、[[ウズベク・ハン]]から[[ウラジーミル・スーズダリ大公国|ウラジーミル大公]]の位を獲得して、[[モスクワ大公]]に昇格する。
*** キエフと全ルーシの府主教座が[[ウラジーミル (ウラジーミル州)|ウラジーミル]]から[[モスクワ]]に遷される。
** イスラム法学者[[イブン・タイミーヤ]]がダマスクスで獄死する。
* 1329年
** [[マイスター・エックハルト]]の著作と教説が異端宣告される。
=== 1330年代 ===
{{main|1330年代}}
* 1330年
** イングランド王エドワード3世が母后イザベラとマーチ伯を失脚させる。
* 1330年頃
** [[卜部兼好|兼好法師]]が『[[徒然草]]』を執筆。
* 1331年
** [[元弘の乱]]( - [[1333年]])。
*** 7月 [[元弘地震]]。この地震の罹災者から疫病が流行し、疫病封じのための[[知恩寺]]に「[[百万遍]]」の号が下賜される。
*** 8月 後醍醐天皇が[[三種の神器]]を持って[[笠置山 (京都府)|笠置山]]に入る。[[笠置山の戦い]]、[[赤坂城の戦い]]。
*** 9月 鎌倉幕府の奏請により、量仁親王が即位して北朝初代[[光厳天皇]]となる。笠置落ちの後醍醐天皇が捕らえられる。
***
** 元朝で「[[至順]]2年の疫病」。
* 1332年
** 鎌倉幕府が後醍醐天皇を[[隠岐島]]に流す。佐渡で[[日野資朝]]が、鎌倉で[[日野俊基]]が処刑される。
** デンマーク王[[クリストファ2世 (デンマーク王)|クリストファ2世]]死去、デンマークの[[空位時代]]始まる( - 1340年)。
* 1333年
** 鎌倉幕府の滅亡。
*** 2月 [[千早城の戦い]]。後醍醐天皇が隠岐島を脱出し、[[船上山の戦い]]で幕府軍を退ける。
*** 5月 足利尊氏が六波羅探題を制圧し、近江国[[番場宿|番場]][[蓮華寺 (米原市)|蓮華寺]]で[[北条仲時]]ら幕府軍を壊滅させる。
*** 5月 新田義貞が[[鎌倉]]を陥落させる([[鎌倉の戦い]])。[[東勝寺 (鎌倉市)|東勝寺]]で北条高時ら一族郎党が自害([[東勝寺合戦]])。
*** 5月 後醍醐天皇が、光厳天皇と[[正慶]]の年号を廃止する。
** [[建武の新政]]の始まり。
*** 6月 後醍醐天皇が京都に入る。足利尊氏が[[鎮守府将軍]]に、[[護良親王]]が征夷大将軍になる。
*** 7月 [[記録荘園券契所|記録所]]を復置する。
*** 9月 [[雑訴決断所]]を設置する。
* 1334年
** [[建武の徳政令]]。[[二条河原の落書]]が書かれる。[[南禅寺]]を五山の第一とする。
** スコットランド王[[デイヴィッド2世 (スコットランド王)|デイヴィッド2世]]がフランスに亡命。
* 1335年
** [[北条
** ハンガリー王カーロイ1世、ポーランド王カジミェシュ3世、ボヘミア王ヨハンによる{{仮リンク|ヴィシェグラード会議|en|Congress of Visegrád (1335)}}。
** [[アヴィニョン教皇宮殿]]が建設される( - 1364年)。
** イルハン朝のアブー・サイードが暗殺され、フレグ王統は断絶。
* 1336年
** 建武政権の崩壊。
***
****
*** 3月 [[筑前国]]の[[多々良浜の戦い]]で足利尊氏が[[菊池武敏]]を破る。
*** 5月 [[湊川の戦い]]で足利尊氏が[[楠木正成]]を滅ぼし、新田義貞は逃亡。
*** 6月 足利尊氏が京都を制圧、[[千種忠顕]]や[[名和長年]]を滅ぼす。
**** 後醍醐天皇は[[比叡山]]で抵抗するも、[[花山院]]に幽閉される。
*** 9月 足利尊氏が擁立した北朝第2代[[光明天皇]]が即位する。
**** 光厳院が治天の君となり、[[土御門東洞院殿]]が天皇の御所となる(現在の[[京都御所]]の原型)。
*** 11月 後醍醐天皇が北朝に三種の神器を渡す。足利尊氏が[[是円]]・[[真恵]]兄弟を起草者として『[[建武式目]]』を定める。
*** 12月 後醍醐天皇が[[吉野]]へ逃れ[[吉野行宮]]([[吉水神社|吉水院]]ほか)を定める([[南北朝時代 (日本)|南北朝]]分立( - 1392年))。
** [[ハリハラ1世|ハリハラ]]と[[ブッカ1世|ブッカ]]がトゥグルク朝から独立を宣言し、[[ヴィジャヤナガル王国]]を建国。
* 1337年
** [[イングランド王国|イングランド]]と[[フランス王国|フランス]]の間で[[百年戦争]]が始まる(-[[1453年]])。
** [[フランドル伯]]を追放した[[ヤコブ・ヴァン・アルテベルデ]]がフランドル都市連合を結成する。
* 1338年
** 室町幕府の成立。
*** 5月 [[北畠顕家]]が[[高師直]]らと堺浦石津に戦うが敗死。
*** 7月 新田義貞が[[斯波高経]]らと越前藤島で戦うが敗死。
*** 8月 北朝が足利尊氏を征夷大将軍([[室町幕府]]初代将軍)とする。
** {{仮リンク|レンゼ選帝侯会議|de|Kurverein von Rhense}}により、神聖ローマ皇帝の選出にローマ教皇の承認は不必要だと決定される。
** [[カザフスタン]]東南部の[[バルハシ湖]]から[[イシク・クル|イシク湖]]近辺のステップ地帯でペストが発生。
* 1339年
** [[8月15日 (旧暦)|8月15日]]、後醍醐天皇が譲位し、第97代[[後村上天皇]]が即位。翌16日、後醍醐天皇
** [[北畠親房]]が『[[神皇正統記]]』を執筆( - [[1343年]])。
** [[福建省]][[晋江市]]に残る[[マニ教]]の寺院・草庵摩尼教寺([[中華人民共和国全国重点文物保護単位|中国国家重要文化財]])が建立される。
=== 1340年代 ===
{{main|1340年代}}
* 1340年
** {{仮リンク|サラードの戦い|en|Battle of Río Salado}}にて、カスティーリャ軍が勝利し、マリーン朝はイベリア半島から撤退。
** [[スロイスの海戦]]で、イングランド軍がフランス軍に勝利し、制海権を握る。
** イルハン朝の[[ジハーン・テムル]]を廃し、[[タージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグ]]が[[ジャライル朝]]を建国。
** [[ハールィチ・ヴォルィーニ戦争]]始まる( - [[1392年]])。
** [[妙法院]]焼き討ち事件で[[佐々木道誉]]が[[上総]]に配流される。
* 1341年
** [[塩冶高貞]]が高師直の讒言により討たれる。
** [[ブルターニュ継承戦争]]( - [[1365年]])。
** {{仮リンク|東ローマ帝位継承戦争(1341 - 1347年)|en|Byzantine civil war of 1341–1347}}
*** [[ヨハネス5世パレオロゴス]]と[[ヨハネス6世カンタクゼノス]]の帝位争い。
*** この混乱で帝国はバルカン半島の領土の多くを喪失し、小国家へと転落。
* 1342年
** 花園法皇が[[関山慧玄]]を開山に迎え[[妙心寺]]が創建される。
** 東ローマ帝国の都市[[テッサロニキ]]で{{仮リンク|ゼーロータイ(熱心党)の反乱|en|Zealots of Thessalonica}}が起こる( - [[1350年]])。
* 1343年
** {{仮リンク|ナポリ地震|en|1343 Naples earthquake}}による[[津波]]で近隣の[[アマルフィ]]市街が壊滅。
** [[マジャパヒト王国]]が[[バリ島]]を征服し、ワルマデワ朝を滅ぼす。
* 1344年
** [[アラゴン連合王国|アラゴン王国]]が[[バレアレス諸島]]の[[マヨルカ王国]]を併合。
** [[アトス山]]から来たアタナシオスにより[[メテオラ]]に修道院が作られる(後のメガロ・メテオロン修道院)。
** [[プラハ]]の[[聖ヴィート大聖堂]]が設立され、プラハ大司教区が置かれる。
** [[至正]]4年の[[黄河]]大氾濫({{仮リンク|1344年の黄河大氾濫|en|1344 Yellow River flood}})。
* 1345年
** 足利尊氏が[[夢窓疎石]]を開山に迎え[[天龍寺]]が創建される。
** イブン・バトゥータが[[泉州]]から上陸し、大都で元の[[トゴン・テムル]](順帝)に会う。
* 1346年
** [[クレシーの戦い]]。
** [[ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン (セルビア皇帝)|ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン]]が「セルビア人とローマ人の皇帝」となる。
** オスマン朝の[[オルハン]]が東ローマ皇帝ヨハネス6世の娘{{仮リンク|テオドラ(オルハンの妻)|en|Theodora Kantakouzene (wife of Orhan)}}を妻に迎える。
** [[デンマーク]]王[[ヴァルデマー4世 (デンマーク王)|ヴァルデマー4世]]が[[エストニア]]を[[ドイツ騎士団]]に売却する。
* 1347年
** ジョチ・ウルスの[[ジャーニー・ベク]]による[[フェオドシヤ|カッファ]]包囲戦。
*** カッファは[[黒海]]北岸[[クリミア半島]]の[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]の植民都市で、この戦いからヨーロッパ最初のペスト感染が確認される。
** ヨーロッパにおける[[ペスト]][[パンデミック|大流行]]。
*** ペストの感染は南イタリアからアルプスを超えて全域に拡大、ヨーロッパや[[北アフリカ]]の人口が激減( - [[1351年]])。
** [[カレー包囲戦 (1346年-1347年)|カレー包囲戦]]により[[カレー (フランス)|カレー市]]がイングランド軍に降伏(「[[カレーの市民]]」)。
** ハンガリー王[[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]がナポリ女王[[ジョヴァンナ1世]]を追放、都ナポリを占領([[ラヨシュ1世のナポリ遠征]])。
* 1348年
** 南アルプスの[[フリウリ]]地方から[[ケルンテン]]地方に至る{{仮リンク|1348年大地震|en|1348 Friuli earthquake}}発生。[[フィラッハ]]で最大級の被害。
** [[四條畷の戦い]]で、[[高師直]]が[[楠木正行]]を敗死させる。南朝の[[吉野行宮]]が攻撃され、後村上天皇は[[賀名生]]行宮に退避。北朝第3代[[崇光天皇]]が即位する。
** [[浙江]]で[[方国珍]]の乱が起こる。
** イングランド国王エドワード3世によりガーター騎士団が設置される。[[ガーター勲章]]も制定。
** 神聖ローマ皇帝カール4世の命で[[プラハ大学]](現カレル大学)が設立される。
** [[ニュルンベルク]]の[[ツンフト闘争]]( - [[1349年]])。
* 1349年
** 足利尊氏の四男[[足利基氏|基氏]]が初代[[鎌倉公方]]として下向。
** 京都四条河原で「([[貞和]]5年の)桟敷崩れの勧進[[田楽]]」。
** [[セルビア]]で「[[ドゥシャン法典]]」が公布される。
** [[アンベール2世 (ヴィエノワのドーファン)|アンベール2世]]が[[ドーフィネ]]の所有権をフランス王[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]に譲渡する(フランス王位継承者の称号「[[ドーファン]]」の起源)。
** 教皇[[クレメンス6世 (ローマ教皇)|クレメンス6世]]が「[[鞭打ち苦行|鞭打ち苦行者]]」({{仮リンク|フラゲラント|en|Flagellant}})を非難し禁圧する回勅を布告。
=== 1350年代 ===
{{main|1350年代}}
* 1350年
** [[タイ王国|タイ]]で[[アユタヤ王朝]]成立し、[[ラーマーティボーディー1世]]が即位。
**
* 1351年
** [[紅巾の乱]]。
** 高師直らが族滅され、尊氏と直義の対立が激化。[[正平の一統]]により北朝の[[崇光天皇]]が廃位される。
** [[賈魯]]が氾濫防止のため黄河の改修工事を行い、水路が整備される([[賈魯河]])。
** 東ローマ皇帝[[ヨハネス6世カンタクゼノス]]主催の教会会議で[[静寂主義]](ヘシュカスム)の教義が勝利する。
* 1352年
** 足利直義が急死する。[[八幡の戦い]]により南朝が京都から脱出し、正平の一統が崩壊。
*** [[広義門院]]寧子が治天の君の代行となり、北朝第4代[[後光厳天皇]]が即位。
** フランス王ジャン2世が、{{仮リンク|エトワール騎士団|fr|Ordre de l'Étoile (France)}}を創設する。
* 1353年
** [[トガ・テムル]]が殺害され、[[イルハン朝]]
** [[ラオス]]初の統一王朝である[[ラーンサーン王国]]が成立する。
* 1354年
** [[マルマラ海]]沿岸の[[ガリポリ]]で大地震、これに乗じてオスマン帝国の[[オルハン]]が東ローマ帝国から奪取([[ガリポリ陥落]])。
** 南朝の後村上天皇が[[金剛寺 (河内長野市)|河内国金剛寺]]に遷る。
* 1355年
** ヴェネツィア元首([[ドージェ]])[[マリーノ・ファリエロ]]のクーデターが失敗に終わる
* 1356年
** [[神聖ローマ皇帝]][[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]によって、帝国の基本的な体制を規定する[[金印勅書]]が発布される。
** [[ポワティエの戦い]]
** [[アトス山]]出身の修道士アナスタシオスが、[[メテオラ]]のメガロ・メテオロン修道院を創設する。
** 元朝で[[中国の貨幣制度史#元|交鈔]]が廃止になる。[[朱元璋]]が集慶路([[南京]]・[[金陵]])を占領し[[応天府]]と改め根拠地とする。
* 1357年
** ポルトガル国王[[ペドロ1世 (ポルトガル王)|ペドロ1世]]の即位。惨殺された愛妾[[イネス・デ・カストロ]]を王妃として復権させる。
* 1358年
** [[足利義詮]]が室町幕府第2代将軍となる。
** [[エティエンヌ・マルセル]]の乱、[[ジャックリーの乱]]。
** 商人ハンザと都市ハンザの統合で[[ハンザ同盟|ハンザ都市同盟]]が正式に発足。
** [[ドゥブロヴニク]]を中心とする[[ラグサ共和国]]がハンガリー王国から独立する。
* 1359年
**
** [[ルドルフ4世 (オーストリア公)|ルドルフ4世]](建設公)が[[オーストリア大公]]を自称。また同年、[[ウィーン]]に[[シュテファン大聖堂]]を建立。
** [[筑後川の戦い]]で九州における南朝側が優位に立つ。
** 南朝の後村上天皇が[[観心寺|河内国観心寺]]に遷る。
=== 1360年代 ===
{{main|1360年代}}
* 1360年
** [[ブレティニー条約]](ブレティニ・カレー条約)が結ばれる。
*** イギリス王はフランス王位請求権を破棄、イギリス王の[[ガスコーニュ]]・[[ギュイエンヌ]]領有をフランス王は承認。
* 1361年
** 康安の変で、幕府執事[[細川清氏]]が[[佐々木道誉]]らにより失脚させられる。
** [[スコータイ朝]]の[[リタイ]]王が[[スリランカ]]から高僧を招き出家する。
*** これはタイの君主として初めての出家で、経緯を記録したマンゴー林石碑が建てられる。
* 1362年
** デンマークとハンザ同盟との戦争が始まる( - 1370年)。
* 1363年
** ヴァロワ家の[[フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ豪胆公]]が[[ブルゴーニュ公]]となる([[ブルゴーニュ公国]]の成立)。
** ルドルフ4世が[[チロル]]伯領を奪取。
** [[鄱陽湖の戦い]]。
* 1364年
** [[アヴィニョン教皇庁|アヴィニョン教皇宮殿]]が完成する(1335年 - )。
** ポーランド最古の[[クラクフ大学]](ヤギェウォ大学)が創建される。
* 1365年
** 元で皇太子[[アユルシリダラ]]と結んだ将軍[[ココテムル]]が[[ボロト・テムル]]政権を倒す。
** オーストリア公ルドルフ4世が[[ウィーン大学]]を創設する。
* 1366年
** オスマン帝国のムラト1世が[[ブルサ]]から[[エディルネ]]に遷都。
** [[貞治の変]]で、幕府執事[[斯波義将]]とその父[[斯波高経]]が佐々木道誉らに失脚させられる。
** カスティーリャ王[[ペドロ1世 (カスティーリャ王)|ペドロ1世]]が庶兄[[エンリケ2世 (カスティーリャ王)|エンリケ]]に追放される([[第一次カスティーリャ継承戦争]]の始まり)。
* 1367年
** [[ナヘラの戦い]]で、エドワード黒太子の協力によりペドロ1世がカスティーリャ王に復帰。
** フランス王シャルル5世による王室文庫が設立される([[フランス国立図書館]]の始まり)。
* 1368年
** [[摂津国]][[住吉行宮]]で後村上天皇が
** 足利義満が室町幕府第3代将軍となる。 [[寺社本所領事|応安の半済令]]施行。
** [[朱元璋]]が[[応天府]](南京)にて[[明]]朝を建て、[[一世一元の制]]のもと[[洪武帝]]となる。
*** 明軍の北伐により元朝の順帝は大都を捨て、漠北に逃れる([[北元]])。
** [[アウクスブルク]]の[[ツンフト闘争]]が成功する。
* 1369年
** [[モンティエルの戦い]]でカスティーリャ王ペドロ1世が殺害される。
*** 殺害したトラスタマラ伯エンリケが[[エンリケ2世 (カスティーリャ王)|エンリケ2世]]として王位に就く([[トラスタマラ朝]]の成立)。
** ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公とフランドル女伯[[マルグリット3世 (フランドル女伯)|マルグリット3世]]の結婚。
** 南朝方の[[左兵衛督]][[楠木正儀]]が北朝方に出奔する。
** 日本最大の[[板碑]]である[[野上下郷石塔婆]]([[埼玉県]][[秩父郡]][[長瀞町]])が建立される。
=== 1370年代 ===
{{main|1370年代}}
* 1370年
** [[ティムール]]がアミール・フサインを倒し[[バルフ]]を占領、さらに[[サマルカンド]]に遷都。
*** 西チャガタイ=ハン国の「キュレゲン」として、マー・ワラー・アンナフルを統一。
** [[リモージュ]]の虐殺。
** [[シュトラルズントの和議 (1370年)|シュトラールズント条約]]がデンマークと[[ハンザ同盟]]の間で結ばれる。
** 北元の順帝(トゴン・テムル)が[[応昌|応昌府]]にて死去。
*** 息子の[[アユルシリダラ]]が即位し、[[カラコルム]]に移動。
*** 応昌府が明によって攻略され、「元主嫡孫」[[マイダリ・バラ]]が捕虜となる。
* 1371年
** 明の洪武帝による[[海禁]]令。
***「[[日本国王]]良懐」が明に遣使し、[[冊封]]を受ける。
** 後光厳天皇が譲位し、北朝第5代[[後円融天皇]]が即位する。
** 現存最古の『[[古事記]]』の写本が[[大須観音|真福寺(大須観音)]]の僧賢瑜により筆写される。
** スコットランド王[[ロバート2世 (スコットランド王)|ロバート2世]]が即位して、[[ステュアート朝]]が始まる。
** [[マリツァの戦い (1371年)|マリツァ川の戦い]]で、オスマン帝国軍がセルビア諸侯連合軍を撃破する。
*** 戦後まもなくセルビア皇帝[[ステファン・ウロシュ5世 (セルビア皇帝)|ステファン・ウロシュ5世]]が急逝し、[[ネマニッチ朝]]は断絶。
* 1372年
** [[万里の長城]]の最西端にある[[嘉峪関]]を設置する。
** [[九州探題]][[今川貞世|今川了俊]]により[[太宰府]]陥落、[[懐良親王]]と[[菊池武光]]らを追う。
* 1373年
** [[英葡永久同盟]]。
** 北朝軍が南朝の河内[[金剛寺 (河内長野市)|天野行宮]]を攻略、長慶天皇は吉野行宮へ撤退。
** 明の洪武帝が『祖訓録』を頒布。
* 1375年
** [[アステカ王国]]の成立。
** [[八聖人戦争]]で、フィレンツェとローマ教皇庁が戦う。
** [[カタラン・アトラス|カタロニア地図]]([[フランス国立図書館]]蔵)」が作成される。
** マムルーク朝が[[キリキア・アルメニア王国]]を滅ぼす。
** 明で歴史上最大の紙幣である[[大明宝鈔]]が発行される。
* 1375年頃
** [[チムー王国]]が[[トゥクメ]]の[[シカン文化]]圏を征服する。
* 1376年
** イングランドで「[[善良議会]]」が召集され、ランカスター公らが弾劾される。同年、エドワード黒太子が死去。
** [[シュヴァーベン]][[都市同盟]]が[[ウルム]]で結ばれる。
** [[空印事件|空印の案]]。
* 1377年
** イングランドで「{{仮リンク|悪政議会|en|Bad Parliament|}}」が招集される。エドワード3世が死去し、孫の[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]が国王に即位。
** ヴェネツィアで世界最初の「海上[[検疫]]」が行われる。
** 教皇[[グレゴリウス11世 (ローマ教皇)|グレゴリウス11世]]がアヴィニョンからローマに帰還。
** [[イブン・ハルドゥーン]]が『助言書』の第一部「[[歴史序説]](ムカディマ)」を執筆。
** ジャワ島中東部の[[マジャパヒト王国]]がスマトラ島の[[シュリーヴィジャヤ王国]]を征服する。
* 1378年
** [[花の御所]]の造営開始。
** 神聖ローマ皇帝カール4世がパリのフランス王シャルル5世を訪問。この訪問は両国間の政治的・文化的な交流を深める目的があり、多くの議題が話し合われた。この年に皇帝カール4世が死去。
** ローマとアヴィニヨンで教皇が分立し、[[教会大分裂]]([[シスマ]])。
** [[フィレンツェ]]で[[チョンピの乱]]が起きる。
** [[モスクワ府主教]]位をめぐる{{仮リンク|ミチャイ|ru|Михаил (наречённый митрополит Киевский) }}事件。
* 1379年
** [[康暦の政変]]で、[[管領]][[細川頼之]]が[[斯波義将]]らに失脚させられる。
** 長慶天皇が吉野行宮から大和[[栄山寺]]行宮へ遷る。[[宗良親王]]撰述の『[[新葉和歌集]]』を准勅撰集とする。
=== 1380年代 ===
{{main|1380年代}}
* 1380年
** [[クリコヴォの戦い]]で[[ルーシ]]諸侯連合軍が
** [[キオッジャの戦い]]でヴェネツィアがジェノヴァに勝利し覇権を確立する。
** [[胡惟庸の獄]]。洪武帝が[[中書省]]を廃止し、[[六部]]を皇帝の直属とする。[[五軍都督府]]の設置。
* 1381年
** イングランドで[[ワット・タイラー]]に率いられた[[農民]]・[[労働者]]が[[暴動]]を起こす([[ワット・タイラーの乱]])。
** 明で全国に[[里甲制]]を導入し、魚鱗図冊・[[賦役黄冊]]の作成を行う。万里の長城の最東端にある[[山海関]]が整備される。
** [[雲南省|雲南地方]]の[[梁王国|梁王]][[バツァラワルミ]]が明に滅ぼされる。
** オスマン帝国の[[ムラト1世]]が東ローマ帝国を属国とする。
* 1382年
** 明で[[御史台]]に代わり[[都察院]]が設置される。[[錦衣衛]]が創設される。
** 足利義満により[[相国寺]]が創建される。北朝第6代[[後小松天皇]]が即位する。
** ポーランドの[[チェンストホヴァ]]の[[ヤスナ・グラ修道院]]に「[[ヤスナ・グラの聖母|黒い聖母]]」が納められる。
** [[ウエストミンスター大聖堂]]で、イギリス王リチャード2世と神聖ローマ皇女[[アン・オブ・ボヘミア|アン]]の成婚が行われる。
** ナポリ女王[[ジョヴァンナ1世]]が暗殺され、アンジュー家傍流の[[カルロ3世 (ナポリ王)|カルロ3世]]が即位。
** [[サーリフ・ハーッジー|ハーッジー2世]]を廃位した[[バルクーク]]が[[マムルーク朝]]の君主となる([[バフリー・マムルーク朝]]から[[ブルジー・マムルーク朝]]へ)。
* 1383年
** 長慶天皇が譲位し、第99代[[後亀山天皇]]が即位。
* 1385年
** [[ポーランド王国]]と[[リトアニア大公国]]が[[クレヴォの合同]]を結ぶ。
** [[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ジョアン1世]]が[[アヴィス
** [[カンブレー二重結婚]]。
* 1386年
** [[ポーランド・リトアニア合同|ポーランド・リトアニア連合王国]]成立([[ヤギェウォ朝]])。
** {{仮リンク|ゼンパッハの戦い|en|Battle of Sempach}}でスイス軍がハプスブルク軍に勝利し事実上の独立を果たす。
** フランスでカルージュ対ル・グリ事件([[最後の決闘裁判]])。
** イングランドで「{{仮リンク|驚嘆議会|en|Wonderful Parliament}}」が召集される。
** [[南禅寺]]を首位とし[[京都五山|京都]]・[[鎌倉五山|鎌倉]]を並立させる[[五山|五山制度]]が成立する。
* 1388年
** [[ブイル・ノール
***
*** 北元で[[クビライ]]家の皇帝(ハーン)が断絶し、[[アリクブケ]]家に帝位が移る。
** イングランドで「[[非情議会|無慈悲議会]]」が召集され、国王リチャード2世の寵臣らが弾劾される。
** {{仮リンク|バイヨンヌ条約 (1388年)|label=バイヨンヌ条約|en|Treaty of Bayonne (1388)}}により[[トラスタマラ朝]]カスティーリャ王国が再統一される。
** [[威化島回軍]]により、李成桂が政変を起こし高麗の実権を握る。
* 1389年
** [[コソヴォの戦い]]で、オスマン帝国が[[セルビア]]を従属させる。
*** オスマン帝国のムラト1世が謁見の際にセルビア人貴族[[ミロシュ・オビリッチ]]に暗殺される。
** [[ファルシェーピング]]の戦いで、デンマーク=ノルウェー摂政マルグレーテが勝利し、[[メクレンブルク家]]のスウェーデン王[[アルブレクト]]を廃位する。
=== 1390年代 ===
{{main|1390年代}}
* 1390年
** [[熊野新宮]]の[[遷宮]]で現存最古の「古神宝類([[国宝]])」が奉納される。
** 朱元璋が雲南地方を明に併合し、雲南布政司を置く。
** [[李善長の獄]]。
* 1390年頃
** アステカ帝国の都[[テノチティトラン]]の[[テンプロ・マヨール]](大神殿)[[階段ピラミッド]]の建設が始まる( - 1521年)。
* 1391年
** [[明徳の乱]]で、[[山名氏清]]が幕府軍に討たれる。
* 1392年
**
** [[明徳の和約]]による南北朝の合一。
*** 北朝の[[畠山基国]]の攻撃により、南朝の[[楠木正勝]]が[[千早城]]を喪失。
*** 後亀山天皇が京都に帰り、[[大覚寺]]にて神器を第100代[[後小松天皇]]に渡す。
** フランス国王シャルル6世が発狂する。
** [[モスクワ大公]][[ヴァシーリー1世]]がニジニー・ノヴゴロド・スーズダリ公国を併合する。
** [[チベット仏教]]の僧[[ツォンカパ]]が「ガワドン(dga ba gdong)の啓示」を受ける。
* 1393年
** オスマン帝国の[[タルノヴォ]]征服により[[第二次ブルガリア帝国]]が滅亡する。
** フランスで「[[燃える人の舞踏会]]」事件。
** [[藍玉の獄]]。
* 1394年
** 足利義満が将軍職を第4代[[足利義持]]に譲り、[[太政大臣]]となる。
** [[李成桂]]が[[開京]](開城)から[[漢陽]](漢城、今の[[ソウル特別市|ソウル]])に遷都。
* 1395年
** [[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ]]が神聖ローマ皇帝[[ヴェンツェル (ドイツ王)|ヴェンツェル]]からミラノ公の称号を授かる([[ミラノ公国]]の成立)。
** テレク河の戦いで、ティムールがジョチ・ウルスの[[トクタミシュ]]に勝利、ティムールはジョチ・ウルスの都[[サライ (都市)|サライ]]を破壊。
* 1396年
** [[ニコポリスの戦い]]で、オスマン帝国がキリスト教諸国同盟軍を撃破する。
* 1397年
** [[カルマル同盟]]成立
** [[ジョヴァンニ・ディ・ビッチ]]が{{仮リンク|メディチ銀行|en|Medici Bank}}を創設。
** 足利義満が北山山荘(その一部が現在の[[鹿苑寺]]金閣)の造営を始める。
* [[1398年]]
** [[ティムール]]の[[ティムールの征服戦争#インド遠征|インド北部侵攻]]。[[トゥグルク朝]]を敗走させティムールは[[デリー]]に入城。
** [[リューネブルク]]と[[リューベック]]を結ぶ[[塩街道]]に{{仮リンク|シュテックニッツ運河|de|Stecknitzkanal}}が開通する。
* 1399年
**
** 足利義満が[[相国寺]][[七重塔]]を建立する。
** 李氏朝鮮に、[[大内義弘]]自らが[[百済]]の後裔だと主張し、土地割譲求める。
** [[応永の乱]]で、首謀者大内義弘戦死、義弘の弟[[大内弘茂]]降伏。
** イングランド王リチャード2世が廃位され、[[ヘンリー4世]]が即位して[[ランカスター朝]]が成立。
=== 1400年代 ===
{{main|1400年代}}
* 1400年
** ベトナムで[[胡季犛]]が[[陳朝]]を滅ぼし[[胡朝]]初代君主となる。
== 人物 ==
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* [[クレメンス5世 (ローマ教皇)|クレメンス5世]]([[1264年]] - [[1314年]]) - ローマ教皇(在位[[1305年]] - [[1314年]])・教皇庁を[[アヴィニョン]]に移転する
* [[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]([[1244年]]? - [[1334年]]) - ローマ教皇(在位[[1316年]] - [[1334年]])・清貧論争や聖職禄問題に介入
* [[ベネディクトゥス12世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス12世]]([[1285年]] - [[1342年]]) - ローマ教皇(在位[[1334年]] - [[1342年]])・[[異端審問]]官としても業績を残す・[[アヴィニョン教皇庁|教皇宮殿]]建設に着手
* [[ウルバヌス6世 (ローマ教皇)|ウルバヌス6世]]([[1318年]] - [[1389年]]) - ローマ教皇(在位[[1378年]] - [[1389年]])・教会大分裂のローマ派初代
* [[クレメンス7世 (対立教皇)|クレメンス7世]]([[1342年]] - [[1394年]]) - ローマ教皇(対立教皇)(在位[[1378年]] - [[1394年]])・教会大分裂のアヴィニョン派初代
==== フランス・フランドル ====
* [[マルグリット・ポレート]](? - [[1310年]]) - 神秘思想家・[[ベギン会]]の女性・{{仮リンク|自由心霊派|en|Brethren of the Free Spirit}}に属し異端者として[[パリ]]で火刑に処される・主著
* [[ジャック・ド・モレー]]([[1244年]]? - [[1314年]]) - [[テンプル騎士団]]の最後の総長・[[ヴィエンヌ公会議]]の決定で処刑される
* [[ギヨーム・ド・ノガレ]]([[1260年]] - [[1313年]]) - フランス王フィリップ4世の政治顧問・法曹家・アナーニ事件や教皇庁アヴィニヨン移転で活躍
* [[ベルナール・ギー]]([[1261年]]/[[1262年]] - [[1331年]]) - フランスのドミニコ会士・[[異端審問]]官・『異端審問の実務』の他に多くの教会文書を編纂
* [[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]](端麗王)([[1268年]] - [[1314年]]) - フランス王(在位[[1285年]] - [[1314年]])・三部会を招集・アナーニ事件では教皇権を抑える
* [[ゲルソニデス]]([[1288年]] - [[1344年]]) - フランスのユダヤ人思想家・[[マイモニデス]]を継承した理性主義を提唱・主著は『主の戦い』
* [[ヤコブ・ヴァン・アルテベルデ]]([[1290年]]頃 - [[1345年]]) - フランドル都市連合の指導者・百年戦争初期に親仏派の[[フランドル伯]]を追放しイギリスに接近
* [[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]([[1293年]] - [[1350年]]) - [[ヴァロワ朝]]初代のフランス王(在位[[1328年]] - [[1350年]])・百年戦争では[[クレシーの戦い]]で敗北
* ヤン・ヴァン・ルースブルック([[1293年]] - [[1381年]]) - フランドルの修道士・神秘主義者・『霊的婚姻』『燦めく石』『最高の真理について』がある
* [[ジャン・ビュリダン]]([[1295年]]頃 - [[1358年]]) - フランスの聖職者・哲学者として「[[インペトゥス理論]]」を展開・「[[ビュリダンのロバ]]」でも有名
* [[ギー・ド・ショーリアック]]([[1298年]] - [[1368年]]) - フランスの外科医・アヴィニョン教皇歴代の侍医で[[黒死病]]に遭遇する・『大外科書』を著した
* [[ギヨーム・ド・マショー]]([[1300年]]頃 - [[1377年]]) - フランスの[[アルス・ノーヴァ]]の作曲家・詩人・「[[ノートルダム・ミサ曲]]」が有名
* [[エティエンヌ・マルセル]]([[1315年]] - [[1358年]]) - パリ市長・王太子シャルルと対立し百年戦争の間にパリを支配・ジャックリーの乱とも合流
* {{仮リンク|ギョーム・カルル|en|Guillaume Cale}}(? - [[1358年]]) - フランスの農民・[[ジャックリーの乱]]の指導者・ナバラ王シャルルに敗れ処刑される
* [[ベルトラン・デュ・ゲクラン]]([[1320年]] - [[1380年]]) - フランスの軍人・国王シャルル5世に仕え百年戦争初期に活躍・フランスの劣勢を挽回
* [[ニコル・オレーム]]([[1323年]] - [[1382年]]) - フランスの聖職者・科学者として『天体地体論』を執筆・国王側近として貨幣改革の理論家として活躍
* [[ニコラ・フラメル]]([[1330年]] - [[1418年]]) - パリの出版業者・[[錬金術]]師として「[[賢者の石]]」を発見したとされ『象形寓意の図』の作者に仮託される
* [[ジャン・フロワサール]]([[1337年]]頃 - [[1405年]]頃) - [[フランドル]]出身の年代記作家・『年代記』は百年戦争前半における重要な史料
* [[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]](賢明王)([[1338年]] - [[1380年]]) - ヴァロワ朝のフランス王(在位[[1364年]] - [[1380年]])・ブレティニ・カレー条約で領土奪回
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==== イタリア ====
* [[ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ]]([[1246年]] - [[1328年]]) - イタリア生まれの宣教師・インドを経て中国で宣教を行い[[大都]]大司教となる
* [[
* [[アバノのピエトロ]]([[1257年]]頃 - [[1315年]]頃) - [[パドヴァ大学]]医学部教授・哲学者・占星術師・異端者の疑いをかけられ獄死する
* [[ダンテ・アリギエーリ]]([[1265年]] - [[1321年]]) - フィレンツェの政治家・哲学者・詩人・『[[神曲]]』や『[[新生 (詩集)|新生]]』のほか『[[俗語論]]』も執筆
* [[ジョット・ディ・ボンドーネ]]([[1267年]]頃 - [[1337年]]) - フィレンツェの[[ゴシック]]期の画家・彫刻家・建築家・[[ルネサンス]]の先駆者とされる
* {{仮リンク|チェゼーナのミカエル|en|Michael of Cesena}}([[1270年]]頃 - [[1342年]]) - [[フランシスコ会]]総長・修道会の福音的清貧をめぐって教皇ヨハネス22世と争う
* [[パドヴァのマルシリウス]]([[1275年]]/[[1280年]]/[[1290年]] - [[1342年]]/[[1343年]]) - イタリアの哲学者・神学者・『平和の擁護者』の著者
* [[ジョヴァンニ・ヴィッラーニ]]([[1276年]]/[[1280年]] - [[1348年]]) - フィレンツェの銀行家・歴史家・『新年代記』で同時代の経済発展と危機を記録
* [[カストルッチョ・カストラカーニ]]([[1281年]] - [[1328年]]) - [[ルッカ]]の[[コンドッティエーレ|傭兵隊長]]・[[トスカナ]]地方の覇権を握る・マキャヴェッリの『カストルッチョ伝』でも有名
* [[シモーネ・マルティーニ]]([[1284年]]頃 - [[1344年]]) - シエナのゴシック期の画家・アヴィニョンでも活躍し[[国際ゴシック]]の先駆者とされる
* [[マリーノ・ファリエロ]] ([[1285年]] - [[1355年]]) - [[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]の元首・世襲君主になる政変を起こすが失敗し処刑される
* [[オドリコ|ポルデノーネのオドリコ]]([[1286年]] - [[1331年]]) - イタリア出身のフランシスコ会士・インドから中国まで歴訪し『東洋旅行記』を残す
* [[ジョヴァンニ・デ・マリニョーリ]]([[1290年]]? - [[1357年]]) - イタリア出身のフランシスコ会士・宣教師として元朝に赴き順帝に会見
* [[シモン・ボッカネグラ]](? - [[1363年]]) - [[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]初代総督・平民派政権を樹立するが毒殺される・オペラの主人公としても有名
* [[フランチェスコ・ペトラルカ]]([[1304年]] - [[1374年]]) - イタリアの人文主義者・古典学者・[[桂冠詩人]]・『アフリカ』『凱旋』の著者
* {{仮リンク|ジル・デ・アルボルノス|en|Gil Álvarez Carrillo de Albornoz}}([[1310年]] - [[1367年]]) - スペイン出身の枢機卿・アヴィニョン教皇に従いイタリア各地の僭主を平定し教皇領を回復
*
* [[コーラ・ディ・リエンツォ]]([[1313年]]? - [[1354年]]) - ローマの政治家・[[護民官]]を名乗り教皇不在のローマ復興を唱えるが処刑される
* [[ジョン・ホークウッド]]([[1320年]] - [[1394年]]) - イングランド出身の傭兵隊長・百年戦争に参加したのちにイタリア諸都市の抗争に介入
* [[フランチェスコ・ランディーニ]]([[1325年]] - [[1397年]]) - イタリアの作曲家・詩人・盲目ではあったが「[[トレチェント音楽]]」を大成・「春は来たりぬ」他がある
* [[ジョバンニ・デ・ドンディ]]([[1330年]] - [[1388年]]) - イタリアの天文学者・時計技師・医師・ギアを使った天文時計「アストラリウム」を作る
* [[コルッチョ・サルターティ]]([[1331年]] - [[1406年]]) - フィレンツェの政治家(書記官長)・人文主義者・古典復興を行い『専制君主論』を執筆
* {{仮リンク|フランコ・サッケッティ|en|Franco Sacchetti}}([[1335年]]頃 - [[1400年]]頃) - フィレンツェの商人・物語作家・『三百小話集(Trecent novelle)』を執筆
* [[フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニ]]([[1335年]]頃 - [[1410年]]) - [[プラート]]の商人・15万通にも及ぶ「ダティーニ文書」を残す
* {{仮リンク|バルダッサーレ・ボナイウティ|en|Baldassarre Bonaiuti}}([[1336年]] - [[1385年]]) - フィレンツェの政治家・歴史家・著作『フィレンツェ年代記』では黒死病の状況を記録
* {{仮リンク|ミケーレ・ディ・ランド|en|Michele di Lando}}([[1343年]]頃 - [[1401年]]) - フィレンツェの政治家(正義の旗手)・梳毛工による[[チョンピの乱]]を指揮
* [[シエナのカタリナ]]([[1347年]] - [[1380年]]) - ドミニコ会第三会員の在俗修道女・教皇のアヴィニョンからローマへの帰還を促す・後に列聖
* [[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ]]([[1351年]] - [[1402年]]) - [[ヴィスコンティ家]]の初代ミラノ公(在位[[1395年]] - [[1402年]])
==== 神聖ローマ帝国 ====
* [[マイスター・エックハルト]]([[1260年]]頃 - [[1328年]]頃) - ドイツの神学者・[[ドイツ神秘主義|神秘主義]]者・異端宣告を受ける・著作に『神の慰めの書』など
* [[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]([[1275年]] - [[1313年]]) - [[ルクセンブルク朝]]の神聖ローマ皇帝(在位[[1308年]] - [[1313年]])・[[イタリア遠征]]を敢行し詩人ダンテに称賛される
* [[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]([[1282年]] - [[1347年]]) - [[ヴィッテルスバッハ朝]]の神聖ローマ皇帝(在位[[1314年]] - [[1347年]])・レンゼ選帝侯会議を開催
* ハインリヒ・ゾイゼ([[1295年]]頃 - [[1366年]]) - ドイツのドミニコ会士・神秘主義者・キリストの受難の観想を勧め苦行を実践・説教者としても活躍
* ヨハネス・タウラー([[1300年]] - [[1361年]]) - ドイツのドミニコ会士・神秘主義者・日常生活での魂の救済を掲げた「神の友」の運動を推進する
* ヨハネス・ハドラウブ([[13世紀]]末 - [[1340年]]) - ドイツの詩人・ミンネザンガー・中世盛期の宮廷詩人選集『[[マネッセ写本]]』の編者と目される
* [[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]([[1316年]] - [[1378年]]) - [[ルクセンブルク朝]]の神聖ローマ皇帝(在位[[1355年]] - [[1378年]])・「金印勅書」を発布し[[七選帝侯]]を定める
* [[ルドルフ4世 (オーストリア公)|ルドルフ4世]](建設公)([[1339年]] - [[1365年]]) - [[ハプスブルク家]]のオーストリア公・「大公」の詐称やウィーンの整備で有名
* [[ティル・オイレンシュピーゲル]]([[1300年]]? - [[1350年]]?) - ドイツのクナイトリンゲン出身の[[トリックスター]]・民衆本の伝説で有名
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==== イングランド ====
* [[オッカムのウィリアム]]([[1285年]] - [[1347年]]) - イングランドのフランシスコ会士・後期スコラ学(唯名論)の神学者・哲学者
*
* {{仮リンク|ブロムヤードのジョン|en|John Bromyard}}(? - [[1352年]]頃) - イングランドのドミニコ会士・書物の収集と編纂に優れ『説教大全』を著す
* [[エドワード3世]]([[1312年]] - [[1377年]]) - イングランド王(在位[[1327年]] - [[1377年]])・百年戦争を引き起こす・別名は「羊毛商人王」
* [[ジョン・ウィクリフ]]([[1320年]]頃 - [[1384年]]) - [[オックスフォード大学]]教授・その教説から[[ロラード派]]が展開し[[宗教改革]]の先駆者となる
* [[エドワード黒太子]]([[1330年]] - [[1376年]]) - イングランドの
* {{仮リンク|ウィリアム・ラングランド|en|William Langland}} ([[1332年]] – [[1386年]]頃) - イングランドの[[詩人]]・社会風刺を含んだ宗教詩『農夫ピアズの夢』を執筆
* [[ワット・タイラー]](? - [[1381年]]) - イングランドの農民・[[ワット・タイラーの乱]]の指導者・ロンドン市長により暗殺される
* [[ジョン・ボール]]([[1338年]]頃 - [[1381年]]) - イングランドの
*
* [[ジ
* [[ノリッジのジュリアン]]([[1342年]] - [[1413年]]?) - イングランドの女性神秘家の系統・幻視による著作『神の愛の十六の啓示』が有名
* [[ジョン・マンデヴィル]](生没年不詳) - イングランドの著作家・幻想と奇談で知られる『東方旅行記』を書く・架空人物説もある
==== スコットランド ====
* [[ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス]]([[1266年]]? - [[1308年]]) - スコットランドの[[フランシスコ会]]士・後期[[スコラ学]](実在論)の[[神学者]]・精妙博士
* [[ウィリアム・ウォレス]]([[1272年]]頃 - [[1305年]]) - スコットランドの愛国者・イングランドによるスコットランド支配に抵抗
* [[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]]([[1274年]] - [[1329年]]) - スコットランド国王(在位[[1306年]] - [[1329年]])・[[第一次スコットランド独立戦争|独立戦争]]に勝利・[[アーブロース宣言]]を採択
==== 東ローマ帝国 ====
* テオドロス・メトキテス([[1270年]] - [[1332年]]) - 東ローマ帝国宰相・[[パレオロゴス朝ルネサンス|パレオロゴス時代]]の建築を代表する[[カーリエ博物館|コーラ修道院]]の増改築を行う
* ヨハネス・ククゼレス([[1280年]]頃 - [[1360年]]) - 東ローマ帝国の音楽家・カロフォニーと呼ばれる詠唱法を大成・「光栄讃詞」などの作品がある
* カラブリアのバルラアム([[1290年]]頃 - [[1348年]]) - 南イタリアのギリシア人神学者・静寂主義論争では反対派の中心となり後年はカトリックに改宗
* [[ヨハネス6世カンタクゼノス]]([[1295年]] - [[1383年]]) - 東ローマ皇帝(在位[[1347年]] - [[1354年]])・帝位継承争いで国土を消耗・『歴史』を残す
* [[グレゴリオス・パラマス]]([[1296年]] - [[1359年]]) - [[アトス山]]の修道士・[[テッサロニキ|テサロニケ]]大主教・神学者として[[静寂主義]]([[ヘシカズム]])を提唱
* [[メテオラ]]のアタナシオス([[1305年]] - [[1380年]]) - メテオラの修道士・メガロ・メテオロン(メタモルフォシス)修道院を建立・[[ヨヴァン・ウロシュ・パレオロゴス|ヨアサフ]]は弟子
* [[ニコラオス・カヴァシラス|ニコラオス・カバシラス]]([[1319年]]/[[1323年]]頃 - [[1391年]]後) - 東ローマ帝国の神学者・静寂主義を擁護・『聖体礼儀の注解』を執筆
* {{仮リンク|コンスタンティノス・ハルメノプロス|en|Constantine Harmenopoulos}}([[1320年]] - [[1383年]]) - 東ローマ帝国の法学者・ヨハネス6世の顧問・『ヘクサビブロス(六選集)』を執筆
* キュドネス・デメトリオス([[1324年]]頃 - [[1397年]]/[[1398年]]) - 東ローマ帝国の神学者・教会合同でラテン語を学びトマス神学を紹介・静寂主義と対立
* マヌエル・クリュソロラス([[1350年]] - [[1415年]]) - 東ローマ帝国の人文主義者・フィレンツェに招かれ[[コルッチョ・サルターティ|サルターティ]]らにギリシア語を教授する
* [[マヌエル2世パレオロゴス]]([[1350年]] - [[1425年]]) - 東ローマ皇帝(在位[[1391年]] - [[1425年]])・西欧諸国に救援依頼・文人皇帝でもある
==== 東欧 ====
* モスクワのピョートル(? - [[1326年]]) - [[キエフ]]と全[[ルーシ]]の[[府主教]]・府主教座を[[モスクワ]]に遷す・モスクワ大公に[[生神女就寝大聖堂 (モスクワ)|ウスペンスキー聖堂]]建設も進言
* [[ゲディミナス]]([[1275年]] - [[1341年]]) - [[リトアニア大公国]]の君主(在位[[1316年]] - [[1341年]])・キリスト教化に苦慮しつつ東方に領土拡大
* [[イヴァン1世]](カリター)([[1288年]] - [[1340年]]) - [[モスクワ大公]](在位[[1325年]] - [[1340年]])・モンゴルの徴税制度を利用しモスクワの支配を拡大
* {{仮リンク|アレクセイ(モスクワ府主教)|en|Alexius, Metropolitan of Kiev}}([[1293年]] - [[1378年]]) - [[モスクワ総主教・モスクワ府主教の一覧|モスクワ府主教]]・モンゴル人との折衝を行い幼帝ドミートリーを補佐・「全ロシアの奇跡者」
* [[ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン (セルビア皇帝)|ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン]]([[1308年]] - [[1355年]]) - ネマニッチ朝の[[セルビア帝国]]の君主(在位[[1346年]] - [[1355年]])・[[バルカン半島]]に覇を唱える
* [[カジミェシュ3世]](大王)([[1310年]] - [[1370年]]) - [[ピャスト朝]]のポーランド王(在位[[1333年]] - [[1370年]])・ウクライナに領土拡大
* [[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]](大王)([[1326年]] - [[1382年]]) - [[アンジュー朝]]のハンガリー王(在位[[1342年]] - [[1382年]])、ポーランド王(在位[[1370年]] - [[1382年]])
* {{仮リンク|ペルミのステファン|en|Stephen of Perm}}([[1340年]] - [[1396年]]) - [[ペルミ]]の主教・[[フィン・ウゴル系]][[コミ人]]への宣教を進める・[[イコン]]制作者としても有名
* [[ドミートリー・ドンスコイ]]([[1350年]] - [[1389年]]) - 第4代[[モスクワ大公]](在位[[1359年]] - [[1389年]])・クリコヴォの戦いで[[モンゴル人]]に勝利
* [[ラドネジのセルギイ]]([[1321年]]/[[1322年]]頃 - [[1392年]]) - ロシアの修道士・[[至聖三者聖セルギイ大修道院]]の創設者
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==== イベリア半島 ====
* [[イネス・デ・カストロ]]([[1325年]] - [[1355年]]) - ポルトガル王[[ペドロ1世]]の愛妾・婚姻問題に絡み悲劇的な死を迎えるが死後に王妃として復権
* [[ペドロ1世 (カスティーリャ王)|ペドロ1世]](残酷王)([[1334年]] - [[1369年]]) - カスティーリャ国王(在位[[1350年]] - [[1369年]])・庶兄のエンリケ2世に殺害される
* [[エンリケ2世 (カスティーリャ王)|エンリケ2世]](恩寵王)([[1333年]] - [[1379年]]) - [[カスティーリャ]]国王(在位[[1369年]] - [[1379年]])・ペドロ1世を倒し[[トラスタマラ朝]]を興す
* [[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ジョアン1世]](大王)([[1357年]] - [[1433年]]) - [[アヴィス朝]]の創始者・[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王(在位[[1385年]] - [[1433年]])・[[アルジュバロータの戦い]]に勝利
* [[ラモン・リュイ|ライムンドゥス・ルルス]]([[1232年]] - [[1315年]]) - [[マジョルカ島]]出身のフランシスコ会士・文字結合術の[[アルス・マグナ]]を理論化する
* [[ビセンテ・フェレール]]([[1350年]] - [[1419年]]) - [[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]出身のドミニコ会士・教会大分裂ではアヴィニョン派を支持・[[カスペの妥協]]でも活躍
=== イスラム世界 ===
* [[ドゥア]](
* [[ラシードゥッディーン]]([[1249年]] - [[1318年]]) - [[イル・ハン国]]の政治家・[[ガザン・ハン|ガザン]]と[[オルジェイトゥ]]に仕える・歴史家として『[[集史]]』を編纂
* [[サフィー・アッディーン・イスハーク・アルダビーリー]]([[1252年]] - [[1334年]]) - ペルシアのサファヴィー教団教主・[[サファヴィー朝]]の遠祖
339 ⟶ 691行目:
* [[ムハンマド・イブン=アリー・イブン=タバータバー|イブン・アッティクタカー]]([[1262年]]頃 - ?) - イラクのシーア派指導者・帝王学の書『[[アルファフリー]]』を残す
* [[ワッサーフ]](生没年不詳) - イル・ハン国の歴史家・『[[世界征服者の歴史]]』の続編『領土の分割と年月の推移(ワッサーフ史)』を執筆
* [[アラー・ウッディーン・ハルジー
* [[
* [[アブ・アル=フィダ|アブー・アル・フィダー]]([[1273年]] -[[1331年]]) - マムルーク朝の政治家・アイユーブ家の末裔・歴史家として『人類史綱要』『諸国の秩序』がある
* [[アウハディー・マラーギー]]([[1274年]]頃 - [[1338年]]) - [[イスファハーン]]出身の[[スーフィー]]詩人・代表作は『ジャムの酒杯』・[[マラーゲ]]に墓廟がある
* [[マンサ・ムーサ]](カンカン・ムーサ)(? - [[1337年]]?) - [[マリ帝国]]の第10代君主(マンサ)(在位[[1312年]] - [[1337年]])・壮麗な[[メッカ]]巡礼で有名
* ハーッジー・ベクターシュ(? - [[1337年]]頃) - トルコの神秘主義者・神秘主義教団を形成し後に[[イェニチェリ]]の信仰にも影響を与える
* [[ギャースッディーン・トゥグルク]](? - [[1325年]]) - トゥグルク朝の初代スルタン(在位[[1320年]] - [[1325年]])
* ヌワイリー([[1279年]] - [[1332年]]) - マムルーク朝に仕えた官僚・歴史や地誌を含んだ百科全書的な著作『究極の目的』を執筆
* ハージュー・ケルマーニー([[1280年]] - [[1352年]]) - ペルシャの詩人・ペルシャの「四大詩人」の一人
* [[オルジェイトゥ]]([[1281年]] - [[1316年]]) - イル・ハン国の第8代君主(在位[[1304年]] - [[1316年]])・[[ソルターニーイェ]]に遷都
* [[ハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニー]]([[1281年]] - [[1349年]]) - イル・ハン国の歴史家・散文史『[[選史]]』や韻文史『{{仮リンク|勝利の書|en|Zafarnamah (Mustawfi)}}』を執筆
* [[ナースィル・ムハンマド]]([[1285年]] - [[1341年]]) - [[マムルーク朝]]の第10・13・15代スルタン(在位[[1293年]] - [[1341年]]まで断続的)
* [[ウズベク・ハン]](? - [[1340年]]) -
* [[ケベク]](? - [[1326年]])- チャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス)の君主(在位[[1320年]] - [[1326年]])・その死後に国が東西分裂
* [[ムハンマド・ビン・トゥグルク]](? - [[1351年]]) - トゥグル
* [[イブン・バットゥータ]]([[1304年]]頃 - [[1368年]]頃) - [[モロッコ]]生まれの旅行家・マリーン朝のスルターンに依頼され『[[三大陸周遊記]]』
* [[イブン・アル=ハティーブ]]([[1313年]] - [[1375年]]) - ナスル朝の政治家(宰相)・詩人・歴史家としては『グラナダ史』を残す
* [[ママイ (キヤト部)|ママイ]](? - [[1380年]]) -
* [[ムラト1世]]([[1319年]]/[[1326年]] - [[1389年]]) - オスマン朝の第3代スルタン(在位[[1359年]] - [[1389年]])・コソヴォの戦いで勝利
* [[ハーフェズ]]([[1325年]] - [[1389年]]) - ペルシャの詩人・ペルシャの「四大詩人」の一人・出身地[[シーラーズ]]には「ハーフェズ廟」が残る
* [[イブン・ハルドゥーン]]([[1332年]] - [[1406年]]) - [[チュニス]]生まれの政治家・歴史家として『[[歴史序説]]』の著者
* [[ティムール]]([[1336年]] - [[1405年]]) - 中央アジアの征服者でティムール朝の建設者(在位[[1370年]] - [[1405年]])
* [[トクタミシュ]](? - [[1406年]]) -
* [[バヤズィト1世]]([[1360年]] - [[1403年]]) - オスマン朝の第4代スルタン(在位[[1389年]] - [[1402年]])・ニコポリスの戦いで勝利
* [[バルクーク]]([[1366年]] - [[1399年]]) - マムルーク朝のスルタン(在位[[1382年]] - [[1399年]]まで断続的)・バフリー系からブルジー系へ
* マンスール・イブン・イリヤス(14世紀末 - 15世紀初頭) - ペルシアの解剖学者・神経系や循環器系の画像を伴う『人体解剖書』を執筆
=== 南アジア・東南アジア ===
* {{仮リンク|ナームデーヴ|en|Namdev}}([[1270年]] - [[1350年]]) - インドの宗教詩人・『グル・グランス・サーヒブ』に神への讃美歌が収録されている
* ハリハラ1世(? - [[1356年]]) - 南インドの[[ヴィジャヤナガル朝|ヴィジャヤナガル王国]]サンガマ朝の初代国王(在位[[1336年]] - [[1356年]])
* [[ガジャ・マダ]](?- [[1364年]]) - ジャワ島の[[マジャパヒト朝]]の宰相・トリブワナー女王からハヤム・ウルク王を補佐し王国の全盛期を築く
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=== 東アジア ===
==== 元・明 ====
* [[中峰明本]]([[1263年]] - [[1323年]]) - 元の禅僧(智覚禅師)・各地を遊方行脚・[[趙孟頫]]との交友で「与中峰明本尺牘」が残る
* [[テムル]]([[1265年]] - [[1307年]]) - 元の第2代皇帝(成宗)(在位[[1294年]] - [[1307年]])・[[カイドゥ]]の乱を鎮圧し西方ハン国と和平を結ぶ
* [[黄公望]]([[1269年]] - [[1354年]]) - 元の[[水墨画]]家・[[元末四大家]]の一人・「[[富春山居図]]」が代表作で画論『写山水訣』もある
* [[呉鎮]]([[1280年]] - [[1354年]]) - 元の水墨画家・元末四大家の一人・孤高清貧の生涯を送る・代表作に「洞庭漁隠図」がある
* [[アユルバルワダ]]([[1285年]] - [[1320年]]) - 元の第4代皇帝(仁宗)(在位[[1311年]] - [[1320年]])・廃止されていた[[科挙]]を復活
* 康里
* [[楊維
* [[倪
* 高則誠([[1305年]] - [[1359年]]) - 元の劇作家・夫婦の再会と情愛を描いた[[元曲]]「[[琵琶記]]」の作者
* [[王蒙 (画家)|王蒙]]([[1308年]] - [[1385年]]) - 元の水墨画家・元末四大家の一人・官吏でもあったが胡惟庸の獄に連座し獄死・「青卞隠居図」がある
* 薩都
* [[宋濂]]([[1310年]] - [[1381年]]) - 元末明初の政治家・儒学者・明の礼楽制度を整備・『[[元史]]』の編者・[[方孝孺]]の師
* [[劉基]](劉伯温)([[1311年]] - [[1375年]]) - 元末明初の軍人・政治家・詩人・軍師として小説や講談の主役として名高い
* [[汪大淵]]([[1311年]] - ?) - 元の航海家・[[泉州 (古代)|泉州]]から[[インド洋]]沿岸各国を訪れて『[[島夷志略]]』を著す
* [[トクト]]([[1314年]] - [[1355年]]) - 元の宰相・『[[宋史]]』など歴史書の編纂や[[黄河]]の治水に尽力・紅巾の乱の鎮圧中に殺害される
* [[李善長]]([[1314年]] - [[1390年]]) - 明初の政治家(左丞相)・明の行政財政の基礎をなす・胡惟庸の獄に連座して誅殺される
* [[トゴン・テムル]]([[1320年]] - [[1370年]]) - 元
* [[韓山童]](? - [[1351年]]) - 元末の反乱指導者・[[白蓮教]]を組織し紅巾の乱を引き起こす
* [[韓林児]](? - [[1366年]]) - 元末の反乱指導者・[[韓山童]]の子・宋朝の復興を唱える
* [[方国珍]]([[1319年]] - [[1374年]]) - 元末の群雄・塩の密売人から[[浙江省|浙江]]で海賊と結んで自立・朱元璋と敵対するが屈服
* [[陳友諒]]([[1320年]] - [[1363年]]) - 元末の群雄・紅巾の乱から[[湖北省|湖北]]を根拠地として自立・[[鄱陽湖の戦い]]で朱元璋に敗北
* [[張士誠]]([[1321年]] - [[1367年]]) - 元末の群雄・塩の密売人から[[蘇州市|蘇州]]を根拠地として自立・朱元璋に敗北する
* [[朱元璋]]([[1328年]] - [[1398年]]) - 明の初代皇帝(太祖洪武帝)(在位[[1368年]] - [[1398年]])
* [[徐達]]([[1332年]] - [[1385年]]) - 明初の[[大将軍]]・左[[相国]]・大都を元一族から奪回し占領・第一の功臣とされる
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==== チベット ====
* [[プトゥン]]([[1290年]] - [[1364年]]) - チベット仏教の学僧・チベット史の根本史料『仏教史』のほか暦学・医学の著作を多数執筆
* カルマ・リンパ([[1326年]] - [[1386年]]) - チベット仏教[[ニンマ派]]のテルトン(埋蔵経発掘者)・『[[チベット死者の書]]』を発掘したか
* [[ツォンカパ]]([[1357年]] - [[1419年]]) - [[チベット仏教]]最大の学僧・歴代[[ダライ・ラマ]]の所属する[[ゲルク派]](黄帽派)の開祖
==== 高麗・朝鮮 ====
* [[鄭夢周]]([[1337年]] - [[1392年]]) - 高麗の儒学者・[[倭寇]]について[[九州探題]][[今川貞世]]と交渉を行う・李成桂の王位簒奪には反対し暗殺される
* [[李成桂]]([[1335年]] - [[1408年]]) - 李氏朝鮮の初代国王(在位[[1392年]] - [[1398年]])・倭寇やモンゴルとの戦いで功績をあげ高麗を倒す
=== 日本 ===
* [[
* [[京極為兼]]([[1254年]] - [[1332年]]) - 公卿(権大納言)・[[京極派]]の和歌の宗家として『[[玉葉和歌集]]』を撰集・両統迭立では持明院統に付く・両統迭立にからみ二度流罪にされる
* [[度会家行]]([[1256年]] - [[1351年]]) - [[伊勢神宮]](外宮)の神官・[[反本地垂迹説]]を大成し[[伊勢神道]]を提唱・南朝を支援し影響を与える
* [[後深草院二条]]([[1258年]] - ?) - [[後深草天皇|後深草院]]付きの女房・[[日記]]であり[[紀行|紀行文]]でもある『[[とはずがたり]]』を残す
* [[高階隆兼]](活動時期[[1309年]] - [[1330年]]) - 御所[[画所]]の絵師・[[西園寺公衡]]の依頼で[[春日大社]]に奉納した「[[春日権現験記]]」で有名
* 梶原性全([[1266年]] - [[1337年]]) - 僧医・隋唐から宋の医書を渉猟し体験を踏まえて「内臓図」を含む『頓医抄』全50巻を執筆
* [[北条貞時]]([[1271年]] - [[1311年]]) - 鎌倉幕府第9代執権(在任[[1284年]] - [[1301年]])・執権退任後に[[嘉元の乱]]が起きる
* [[長崎円喜]](? - [[1333年]]) - 武将・[[内管領]](得宗家執事)・[[嘉暦の政変]]を経て息子[[長崎高資|高資]]ととも幕府末期の実権を握る
* [[正宗|岡崎正宗]](生没年不詳) - 刀工・相模国鎌倉で活動し「相州伝」と呼ばれる作風を確立・刀剣史上もっとも著名な刀工の一人
* [[夢窓疎石]]([[1275年]] - [[1351年]]) - 禅僧・京都[[天竜寺]]開山・七朝帝師(歴代天皇から国師号を七度賜る)
* [[赤松則村]]([[1277年]] - [[1350年]]) - 武将・守護大名・後醍醐天皇を支持し六波羅攻略で活躍・建武政権の後は足利尊氏に従う
* [[虎関師錬]]([[1278年]] - [[1346年]]) - 禅僧・[[東福寺]]ほかの住持・日本最初の仏教通史『[[元亨釈書]]』の著者
* [[文観]]([[1278年]] - [[1357年]]) - [[真言律宗]]・真言宗の僧・醍醐寺座主・東寺一長者・
* [[円観]]([[1281年]] - [[1356年]]) - 天台宗の僧・法勝寺勧進職・後醍醐天皇に近侍するが後に北朝につく・『原太平記』(『[[太平記]]』の原型)の編
* [[宗峰妙超]](大燈国師)([[1282年]] - [[1338年]]) - 禅僧・京都[[大徳寺]]開山・弟子の[[関山慧玄]]を[[妙心寺]]開山に推薦
* [[
* [[後醍醐天皇]]([[1288年]] - [[1339年]]) - 第96代天皇(在位[[1318年]] - [[1339年]])・建武の新政を行う・吉野に退避し南朝の初代となる・著作に『[[建武年中行事]]』『[[後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)]]』等
* [[西園寺鏱子|永福門院]]([[1288年]] - [[1342年]]) - 伏見天皇皇后(中宮)・京極派最大の歌人の一人で151首が勅撰和歌集に入集
* [[頓阿]]([[1289年]] - [[1372年]]以後) - 歌人・二条為世高弟「[[和歌四天王]]」の筆頭・『[[新拾遺和歌集]]』の選者・歌論書に『[[井蛙抄]]』等・後に頓阿の系統が[[古今伝授]]の嫡系となる
* [[日野資朝]]([[1290年]] - [[1332年]]) - 公卿(権中納言)・[[日野俊基]]らとともに後醍醐天皇に近侍・[[正中の変]]で[[佐渡国|佐渡]]に流罪となる
* [[雪村友梅]]([[1290年]] - [[1347年]]) - 禅僧・[[一山一寧]]の門人で元に渡航・帰国後は京都[[万寿寺]]住持・[[五山文学]]の先駆け
* [[洞院公賢]]([[1291年]] - [[1360年]]) - 公卿(太政大臣)・建武政権から北朝に転じ正平の一統で活躍・日記『[[園太暦]]』はこの時代の重要資料
* [[北畠親房]]([[1293年]] - [[1354年]]) - 公卿([[大納言]])・[[准三后]]・南朝の指導者として[[正平の一統]]を指揮・『[[神皇正統記]]』の著者
* [[二条為定]]([[1293年]] - [[1360年]]) - 公卿(権大納言)・二条派の和歌の宗家として『[[続後拾遺和歌集]]』『[[新千載和歌集]]』を撰集
* [[楠木正成]]([[1294年]] - [[1336年]]) - 武将・赤坂城や千早城で討幕運動を行う・建武政権から続いて南朝側に与す・「[[三木一草]]」の一人
* [[名和長年]](? - [[1336年]]) - 武将・後醍醐天皇の隠岐脱出を援助・建武政権から続いて南朝側に与す・「三木一草」の一人
* [[佐々木道誉]]([[1296年]] - [[1373年]]) - 武将・室町幕府で[[政所]]執事などを歴任し[[貞治の変]]を主導・[[ばさら|婆沙羅大名]]としても有名
* [[花園天皇]]([[1297年]] - [[1348年]]) - 第95代天皇(在位[[1308年]] - [[1318年]])・政治的には中継ぎの天皇だが学問と芸術の諸分野で大きな業績を残す・『誡太子書』を著す
* [[尊円法親王]]([[1298年]] - [[1356年]]) - 天台座主・青蓮院門跡・伏見天皇の皇子・後代に公式文書として用いられた書流[[尊円流|御家流]]の祖
* [[
* [[
* [[新田義貞]]([[1301年]] - [[1338年]]) - 武将・[[左近衛中将]]・北条氏を滅ぼし鎌倉を占拠・建武政権から続いて南朝側に与す・越前藤島で戦死
* [[北条高時]]([[1303年]] - [[1333年]]) - 鎌倉幕府第14代執権(在任[[1316年]] - [[1326年]])・鎌倉幕府滅亡時の得宗・[[東勝寺合戦]]で自刃
* [[足利尊氏]]([[1305年]] - [[1358年]]) - [[室町幕府]]初代将軍(在任[[1338年]] - [[1358年]])・北朝の[[光明天皇]]を擁立し幕府を開く
* [[足利直義]]([[1306年]] - [[1352年]]) - 武将・左兵衛督・足利尊氏の弟・幕府保守派の政治家・[[観応の擾乱]]で高師直一派を倒すが正平の一統の後に兄尊氏に追われ急逝
* [[高師直]]
* [[護良親王]]([[1308年]] - [[1335年]]) - 後醍醐天皇の皇子(大塔宮)・[[天台座主]](尊雲法親王)・征夷大将軍・足利尊氏と争い殺害される
* [[日野名子]]([[1310年]] - [[1358年]]) - 女官・著作家・[[西園寺公宗]]正室・著書『竹むきが記』は近代以前の女性が著した現存最後の日記文学とされる
* [[宗良親王]]([[1311年]] - [[1385年]]) - 後醍醐天皇の皇子(信濃宮)・天台座主(尊澄法親王)・征夷大将軍・各地を転戦・『[[新葉和歌集]]』を撰集
* [[春屋妙葩]]([[1312年]] - [[1388年]]) - 禅僧・[[相国寺]]第二世(事実上の開山)・[[五山十刹]]の制度を定め[[五山版]]などの出版を行う
* [[光厳天皇]]([[1313年]] - [[1364年]]) - 北朝第1代天皇(在位[[1331年]] - [[1333年]])・鎌倉幕府滅亡で退位する・光明天皇は弟・『[[風雅和歌集]]』を親撰
* [[北畠顕家]]([[1318年]] - [[1338年]]) - 公卿(権中納言)・[[鎮守府将軍]]・南朝方として活躍するが[[石津の戦い]]で戦死・父は北畠親房
* [[菊池武光]]([[1319年]]? - [[1373年]]) - 武将・肥後守・懐良親王を擁し南朝方につく・[[筑後川の戦い]]に勝利し[[大宰府]]を占領する
* [[二条良基]]([[1320年]] - [[1388年]]) - 公卿([[摂政]]・[[関白]]・太政大臣)・歌人・[[連歌]]の大成者で『[[菟玖波集]]』の撰者
* [[北条時行]]([[1325年]] - [[1353年]]) - 武将・鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児・[[中先代の乱]]を起こし足利尊氏に対抗して南朝に帰順
* [[義堂周信]]([[1325年]] - [[1388年]]) - 禅僧・南禅寺ほかの住持・絶海中津とともに五山文学を代表し漢詩集『空華集』がある
* [[今川貞世]](了俊)([[1326年]] - [[1420年]]?) - 武将・守護大名・[[九州探題]]として九州の南朝勢力を鎮圧・著作に『[[難太平記]]』がある
* [[細川頼之]]([[1329年]] - [[1392年]]) - 室町幕府[[管領]]・[[貞治の変]]で幕政を掌握・康暦の政変で失脚するも再び幕政に復帰
* [[懐良親王]]([[1329年]]? - [[1383年]]) - 後醍醐天皇の皇子・征西大将軍(征西将軍宮)・「日本国王」として明と通交
* [[足利義詮]]([[1330年]] - [[1367年]]) - 室町幕府第2代将軍(在任[[1358年]] - [[1367年]])・貞治の変以後は北朝の優位を固める
* [[楠木正儀]]([[1330年]]? - [[1389年]]?) - 武将・楠木正成の三男・南朝和平派の代表・南朝方を支え北朝方と戦うがやがて帰順・最晩年は南朝に公卿として復帰
* [[観阿弥]]([[1333年]] - [[1384年]]) - 猿楽師・大和猿楽座の出身で観世家の祖となる・子に[[世阿弥]]がいる
* [[絶海中津]]([[1334年]] - [[1405年]]) - 禅僧・鹿苑院ほかの住持・義堂周信とともに五山文学を代表し漢詩集『蕉堅藁』がある
* [[足利基氏]]([[1340年]] - [[1367年]]) - 室町幕府の初代[[鎌倉公方]]・足利尊氏の子・足利義詮の弟
* [[土岐康行]](? - [[1404年]]) - 武将・守護大名・[[土岐康行の乱]](美濃の乱)を起こすが幕府に鎮圧される
* [[山名氏清]]([[1344年]] - [[1392年]]) - 武将・「六分の一殿」と称される[[守護大名]]・明徳の乱で敗死
* [[斯波義将]]([[1350年]] - [[1410年]]) - 室町幕府管領・貞治の変で失脚するも康暦の政変で幕政を掌握・義満死後の政局も指導
* [[後亀山天皇]]([[1350年]]? - [[1424年]]) - 第99代天皇(在位[[1383年]] - [[1392年]])・[[明徳の和約|南北朝合一]]のときの南朝の天皇
* [[大内義弘]]([[1356年]] - [[1400年]]) - 武将・守護大名・南北朝合一を斡旋・応永の乱で敗死
452 ⟶ 831行目:
* [[後小松天皇]]([[1377年]] - [[1433年]]) - 第100代天皇(在位[[1382年]] - [[1412年]])・[[明徳の和約|南北朝合一]]のときの北朝の天皇
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
* [[年表]]
== 参考文献 ==
* [[バーバラ・タックマン]]著 徳永守儀訳『{{仮リンク|遠い鏡|en|A Distant Mirror}}(A Distant Mirror: The Calamitous 14th Century)』[[朝日出版社]]、2013年。 {{ISBN2|978-4255007397}}
==
* {{Commonscat-inline}}
{{十年紀と各年| 世紀 = 14 | 年代 = 1300 }}
{{世紀}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:14せいき}}
[[Category:14世紀|*]]
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