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{{出典の明記|date=2025年5月}}
{{Boxing statsbox
|name=スタンリー・ケッチェル
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|nickname=The Michigan Assassin
|weight=[[ミドル級]]
|height=175 [[センチメートル|cm]]
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|nationality={{USA}}
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'''スタンリー・ケッチェル'''
▲'''スタンリー・ケッチェル'''('''Stanley Ketchel'''、[[1886年]][[9月14日]] - [[1910年]][[10月15日]])は、[[アメリカ合衆国]]出身の元[[プロボクサー]]。本名は'''スタニスラウス・キーカル''' ('''Stanislaus Kiecal''')。元世界[[ミドル級]]チャンピオン。その破壊的な左右の強打と獰猛なファイトで“ミシガンの暗殺者” (Michigan Assassin) と畏怖され、24歳でスキャンダラスな死を遂げたスラッガー。
== 来歴 ==
[[ポーランド系アメリカ人|ポーランド系]]移民。[[ミシガン州]][[グランドラピッズ (ミシガン州)|グランドラピッズ]]の貧しい農家に生まれる。14歳の時故郷を捨て、放浪生活に入る。流れ着いた[[モンタナ州]]で酒場の用心棒になり、喧嘩に明け暮れた。1904年、17歳でプロのリングに上がるようになり、ハンサムな容貌に似ない獰猛なファイトで連戦連勝。
強豪
以後三度防衛したが、1908年9月7日、“イリノイの雷”[[ビリー・パプケ]]との防衛戦で、初回の開始ゴング直後にグローブを合わせようとしたところにパプケの不意打ちを浴びダウン、そのダメージが回復しないまま、12回で王座を奪われてしまう。
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1909年には元世界ライトヘビー級王者[[フィラデルフィア・ジャック・オブライエン]]と2度対戦、1度目は分の良い無判定、2度目は3回KOと、この一階級上のテクニシャンを圧倒した。
そして1909年10月16日、ケッチェルは
1910年、再起したケッチェルはジョンソンが
[[1910年]][[10月15日]]、[[ミズーリ州]]の牧場に滞在していたケッチェルは、そこで働く女性にちょっかいを出し([[ジョー小泉]]はレイプしたのではないかと推測している<ref>ボクシング珍談奇談{{Full citation needed|date=2025年5月}}</ref>)、その内縁の夫に射殺された。
なお、[[マーク・ロブソン]]監督の名画「[[チャンピオン]]」で、若き日の[[カーク・ダグラス]]が演じた酷薄な主人公ミッジ・ケリーは、ケッチェルがモデルであると言われている。
== スタイル ==
近代ボクシング草創期の選手でもあり、パンチは単発でラフなファイトぶりだが、55勝49KOという高いKO率は、早い段階でのレフェリー・ストップがなく、しかもコンビネーション・ブローの技術も発達していなかった時代にあっては驚異的と言え、その強打の破壊力が
ケッチェルの得意技に「ケッチェル・シフト」がある。右パンチをわざと空振りし、大きく前にのめりながら右足を踏み出し、その姿勢から身体の逆回転と体重移動を最大限に効かせ、左ボディをみぞおちに叩き込む。これで幾多の敵がマットに沈んだ。
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== 外部リンク ==
{{Commonscat|Stanley Ketchel}}
* {{Sports links}}
{{Boxing-bio-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:けつちえる すたんりい}}
[[Category:アメリカ合衆国の男子ボクサー]]
[[Category:ポーランド系アメリカ人のボクサー]]
[[Category:ミドル級世界王者]]
[[Category:グランドラピッズ
[[Category:殺人被害者]]
[[Category:1886年生]]
[[Category:1910年没]]
[[Category:国際ボクシング名誉の殿堂博物館]]
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