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|style=announce}}
{{otheruses|史実としての赤穂事件|この事件を題材にした物語|[[忠臣蔵]]」および「[[赤穂事件を題材とした作品]]}}
'''赤穂事件'''(あこうじけん)は[[江戸時代]]中期の[[元禄]]期に発生した事件で、[[吉良義央|吉良上野介]]を討ち損じて[[切腹]]に処せられた[[浅野長矩|浅野内匠頭]]の代わりに、その家臣である[[大石良雄|大石内蔵助]]以下47人が、吉良を討ったものである。
事件は[[人形浄瑠璃]]<!--「文楽」は明治以降の呼び名。-->・[[歌舞伎]]の[[仮名手本忠臣蔵]]を始め、数多くの芝居、講談、そして映画やテレビドラマの[[赤穂事件を題材とした作品|題材に取り上げられた]]。
== 概要 ==
=== 事件の名称 ===
[[File:47 Ronin Gishi Portraits by Utagawa Yoshitora.png|thumb|400px|歌川芳虎 作「義士四拾七人」]]
史実としての本事件を指す用語としては、「赤穂事件」で統一されている<ref>[[#三田村(1930)|三田村(1930)]]、[[#松島(1964)|松島(1964)]]、[[#今尾(1987)|今尾(1987)]]、[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]]、[[#野口(1994)|野口(1994)]]、[[#田口(1999)|田口(1999)]]、[[#田原(2006)|田原(2006)]]、[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]、[[#渡辺(2013)|渡辺(2013)]]、『元禄時代と赤穂事件』(大石学、角川選書)、『忠臣蔵の世界: 日本人の心情の源流』(諏訪春雄 大和書房)</ref>。一方で、「正保赤穂事件」{{refn|group="注釈"|[[池田氏|池田家]]において藩主[[池田輝興]]が狂乱し正室などを殺した事件}}、「文久赤穂事件」{{refn|group="注釈"|[[森氏|森家]]において攘夷派が藩政を私物化した家老の森主税を暗殺した事件}}と区別をつけて「元禄赤穂事件」とも呼ばれる。
赤穂事件を扱った創作物については、[[人形浄瑠璃]]・[[歌舞伎]]の『[[仮名手本忠臣蔵]]』以降、'''[[忠臣蔵]]'''と呼ぶことが多い。[[講談]]では'''赤穂義士伝'''(あるいは単に義士伝)と呼ぶ。
吉良を討ち取った47人('''四十七士''')の行為を賞賛する立場からは、四十七士の事を'''赤穂義士'''(あるいは単に義士)と呼ぶ。 それ以外の立場に立つ場合は、四十七士を含めた[[赤穂藩]]の浪人の事を'''赤穂浪士'''と呼ぶ事が多いが、この名称は事件のあった元禄時代には一般的な言葉ではなく、作家の大佛次郎がこれまでの義士としての四十七士像を浪人としての四十七士に大転換する意図を持って書いた小説『赤穂浪士』で一般的になったものである<ref>[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p28、p147-151</ref>。(ただし先行作にも使用例あり<ref>例えば1888年の『江戸本所讐討 : 赤穂浪士吉良義英』 森仙吉編、東京屋 [{{NDLDC|880011}} 近代デジタルイブラリー]</ref>)。
このため「赤穂浪士」という言い方を避け、'''赤穂浪人'''という言い方がなされる場合もある<ref>[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]]、[[#山本(2013)|山本(2013)]]</ref>。
なお『[[和名類聚抄]]』の「播磨国郡郷考」では赤穂は「阿加保(あかほ)」という表記である<ref name="kobe-np20211125">{{Cite web|和書|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/202111/0014866530.shtml|title=赤穂は「あかほ」、忠臣蔵でも「あかほぎし」 では、いつから、なぜ「あこう」に?|publisher=神戸新聞|accessdate=2021-11-25}}</ref>。赤穂事件の関連では1913年(大正2年)の「教育画集赤穂義士」の表紙のふりがなも「あかほぎし」となっており、城の明け渡しの文も「アカホノシロワタシ」となっている<ref name="kobe-np20211125" />。この点に関しては[[歴史的仮名遣|旧仮名遣い]]の「あかほ」を「あこう」と読んでいたという説がある<ref name="kobe-np20211125" />。
=== 事件の概要 ===
{{main|#赤穂事件の経過}}
[[File:Kanadehon-Chushingura-Stage-3-Utagawa-Kuniteru.png|thumb|「仮名手本忠臣蔵三段目」、歌川国輝]]
この事件は[[元禄]]14年[[3月14日 (旧暦)]]([[1701年]][[4月21日]])、赤穂藩主'''[[浅野長矩|浅野内匠頭長矩]]'''(あさのたくみのかみながのり)が、[[江戸城]][[松之大廊下]]で、高家'''[[吉良義央|吉良上野介義央]]'''(きらこうずけのすけよしひさ、「よしなか」とも{{Refn|[[#野口(2015)|野口(2015)]]第三章1節の「母のために」では「{{ruby|義央|よしひさ}}(「よしなか」とも)」。[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第一章1節の「運命の三月十四日」では「実名(諱)の「義央」は「よしなか」とされているが「よしひさ」が正しいという説もある」。|group=注釈}})に[[#松之大廊下の刃傷|斬りかかった]]事に端を発する。斬りかかった理由の詳細は不明である([[#刃傷におよんだ理由|詳細後述]])。
事件当時、江戸城では幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中だったので、場所柄もわきまえずに刃傷におよんだ浅野に対し、第五代将軍'''[[徳川綱吉]]'''は大激怒、浅野内匠頭は即日切腹、浅野家は所領の[[#赤穂藩改易|播州赤穂を没収の上改易]]されたが、吉良に咎めはなかった。
そのため浅野のみ刑に処せられた事に家臣達は反発、筆頭家老である'''大石内蔵助'''(おおいしくらのすけ)を中心に対応を協議した。反発の意思を見せるため、籠城や切腹も検討されたが、まずは幕府の申しつけに従い、素直に赤穂城を明け渡す事にした。この段階では浅野内匠頭の弟である浅野大学を中心とした浅野家再興の道も残されており、籠城は得策でないと判断されたのである<ref name="yamamoto22ooishi2">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章二節「大石の真意」</ref>。
一方、同じ[[赤穂藩]]でも江戸に詰めている家臣には強硬派('''[[#大石と堀部との対立|江戸急進派]]''')がおり<ref name="yamamoto23">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章三節</ref>、吉良を討ち取る事に強くこだわっていた。彼らは吉良邸に討ち入ろうと試みたものの<ref name="yamamoto23" />、吉良邸の警戒が厳しく、彼らだけでは吉良を打ち取るのは難しかった<ref name="yamamoto23" /> 。そこで彼らは赤穂へ行き大石内蔵助に籠城を説いたが、大石はこれに賛同せず、赤穂城は予定通り幕府に明け渡された。
吉良を打ち取ろうとする江戸急進派の動きが幕府に知られるとお家再興に支障が出てしまうので、主家再興を目標とする大石内蔵助は、江戸急進派の暴発を抑えるために彼らと二度の会議を開いている('''[[#吉良の動向と江戸会議|江戸会議]]'''、'''[[#吉良の隠居と山科会議|山科会議]]''')。
そして元禄15年[[12月14日 (旧暦)]]([[1703年]][[1月30日]])、吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった('''[[#討ち入り|吉良邸討ち入り]]''')。この時討ち入りに参加した人数は大石以下47人('''四十七士''')である。
四十七士は吉良邸から引き揚げて、吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。引き上げの最中には、四十七士のうち一人(寺坂吉右衛門)がどこかに消えているが、その理由は古来から謎とされている([[#寺坂吉右衛門に関する問題|詳細後述]])。
寺坂を除いた四十六人は、吉良邸討ち入りを幕府に報告し、幕府の指示に従って全員切腹した。
=== 事件の余波 ===
==== 「義士」論争 ====
{{main|#討ち入りに対する見解}}赤穂事件が起こるとその是非をめぐって儒学者たちの間で論争が巻き起こった。主な論点は赤穂浪士の行動が「義」にあたるのかという事で、これは浪士達の吉良邸討ち入りが主君の為の「仇討ち」とみなせるかどうかにかかっている<ref name="taguchi1812">[[#田口(1999)|田口(1999)]] p181-182</ref>。この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族の為に復讐する事を指し<ref name="miyazawa1462">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p146</ref>、主君の仇を討ったのは本事件が初めてである為<ref name="miyazawa1462" />、これが問題になったのである。
この問題は武士の生き方や幕藩制度の構造に深くかかわるものであった事もあり<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p215</ref>、論争は幕末まで続いた<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p225</ref>。
==== 「忠臣蔵」の誕生 ====
{{main|忠臣蔵}}
主君の遺恨を晴らすべく命をかけて吉良邸に討ち入った四十七士の行動は民衆から喝采を持って迎えられた。平和な時代が百年近く続いた元禄の世において、すでに過去のものになりつつあった[[武士道]]を彼らが体現したとみなされたからである{{要出典|date=2024年9月}}。
赤穂浪士の討ち入りがあってからというもの、事件を扱った物語が[[歌舞伎]]、[[人形浄瑠璃]]、[[講談]]、[[戯作]]などありとあらゆる分野で幾度となく作られてきた。
その中でも白眉となったのは浅野内匠頭の刃傷から47年後に作られた人形浄瑠璃『'''仮名手本忠臣蔵'''』である。同じ年の12月には歌舞伎にもうつされ、歌舞伎では興行上の気付薬「独参湯」と呼ばれる程の人気を博し、不入りが続くとこの演目を出すといわれた。本作以降、赤穂事件を扱った創作物は'''忠臣蔵'''ものと呼ばれる事になる。
== 赤穂事件の経過 ==
=== 松之大廊下の刃傷{{Anchors|松之大廊下の刃傷}} ===
==== 刃傷まで ====
江戸幕府は毎年正月、朝廷に年賀の挨拶をしており、朝廷もその返礼として[[勅使]]{{refn|group="注釈"|[[東山天皇]]勅使は[[柳原資廉]]と[[高野保春]]、[[霊元天皇|霊元上皇]]院使は[[清閑寺煕定]]であった<ref name="yamamoto11unmei2" />。}}を幕府に遣わせていた<ref name="yamamoto11unmei2">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章一節「運命の三月十四日」</ref>。
こうした朝廷とのやり取りや儀式を担当していたのが'''[[高家 (江戸時代)|高家]]'''であり<ref name="yamamoto11unmei2" />、吉良上野介は事件のあった元禄14年に高家筆頭の立場にあった<ref name="yamamoto11unmei2" />。
朝廷との接待には3-10万石程度の所領を持つ大名が'''勅使饗応役'''として高家の手伝いを行い、事件のあった年には浅野内匠頭が勅使饗応役に任ぜられていた<ref name="yamamoto11unmei2" />。
事件は、この大事な接待の最後の日である[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]に起こった<ref name="yamamoto11unmei2" />{{refn|group="注釈"|この日は将軍[[徳川綱吉]]が本丸御殿内の[[白書院]]で勅使に奉答する予定であった<ref>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章一節冒頭部</ref>。}}。
===
{{Wikisource|梶川日記}}
[[ファイル:MatsuNoORoka.jpg|thumb|江戸城本丸跡(東京)]]
[[元禄]]14年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]([[1701年]][[4月21日]])巳の下刻(午前11時半過ぎ)<ref name="yamamoto11">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章一節</ref>、浅野内匠頭は背後から吉良上野介に小刀{{refn|group="注釈"|[[#野口(1994)|野口(1994)]] によればこれは小さ刀(ちいさがたな)で礼式用の小刀で脇差とはサイズが違う<ref>[[#野口(1994)|野口(1994)]] p56</ref>が、[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]では脇差だとしている<ref>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第一章一節の「梶川与惣兵衛の証言」より</ref>。}}で斬りかかった。浅野が斬りかかったのは吉良に「遺恨」があったためであるというが、どのような「遺恨」があったのかは記録に残されておらず、不明である。
切りかかった場所は江戸城本丸御殿の大広間から白書院へとつながる[[松之大廊下]](現在の[[皇居東御苑]])である。
吉良が振り返ったので小さ刀は吉良の眉の上<ref name="yamamoto11" />を傷つけた。小
すぐさま、浅野はその場に居合わせた[[梶川頼照|梶川与惣兵衛]]らに取り押さえられ、柳之間<ref name="
一方の吉良は、やはりその場に居合わせた他の高家衆に取り押さえられ、御医師之間<ref name="yamamoto11" />に運ばれ、その後江戸城内の自分の部屋にいるよう命じられた<ref name="yamamoto11" />。吉良の傷は[[外科学|外科]]の第一人者である[[栗崎道有]]により数針縫いあわせられている<ref name="yamamoto11kajikawa">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章一節「梶川与惣兵衛の詳言」</ref>
浅野は幕府の裁定を待つため、芝愛宕下<ref>現在の東京都[[港区 (東京都)|港区]][[新橋 (東京都港区)|新橋4丁目]]</ref>の[[陸奥国|陸奥]][[一関藩]]主[[田村建顕]]の屋敷にお預けとなる事になった。-->
浅野を乗せた駕籠は江戸城の平川門<ref name="yamamoto12saitei">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節の「幕府の裁定」より</ref>から出されたが、この門は「不浄門」とも呼ばれ、死者や罪人を出すための門であった<ref name="yamamoto12saitei" />。浅野は罪人として江戸城から出されたのである。
なお以上で述べた刃傷事件の概要は主に『梶川与惣兵衛筆記』によっているが、『多門伝八郎覚書』の記述とは様々な差異がある。しかし『多門伝八郎覚書』には誇張や創作が含まれている事が他の史料との照合により判明しているので、基本的には『梶川与惣兵衛筆記』を信じるべきで『多門伝八郎覚書』に依存する場合は充分な[[史料批判]]が必要である<ref name="名前なし-20240629115709"/>。
==== 幕府の裁定 ====
刃傷事件が起こると、将軍の綱吉は浅野内匠頭の即日切腹を命じた{{refn|group="注釈"|将軍は切腹を以下のように命じた「其方儀、意趣これある由にて、吉良上野介を理不尽に切つけ、殿中をも憚らず、時節柄と申し、重畳不届至極に候。これにより切腹仰せつけらる」(そのほうは、恨みがあるということで、吉良上野介を理不尽に斬りつけた。殿中をもはばからず、また勅使登城の日でもあり、重ね重ね不届至極である。これにより切腹を命じれらる。)<ref>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節より重引。現代語訳も同書から引用。</ref>}}。 当時殿中での刃傷は理由の如何を問わず死罪と決まっていたのに、まして幕府の権威づけの為に綱吉が重視していた朝廷との儀式の最中に刃傷に及んだのであるから即日切腹は当然であった<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p40-41</ref>。
一方の吉良は特におとがめもなく、むしろ将軍からこう見舞いの言葉をかけられた。
{{quotation|手傷はどうか。おいおい全快すれば、心おきなく出勤せよ。老体のことであるから、ずいぶん保養するように」<ref name="yamamoto12kira">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節「吉良の家系」</ref>}}このように事件の一方の当事者である吉良には何らお咎めなしでありながら、もう一人の当事者である浅野内匠頭には切腹が命じられる事になった。しかも後日、浅野内匠頭の領地である赤穂藩には御取り潰しが命じられている。こうした裁定が、後に起こる赤穂浪士達による吉良邸討ち入り事件の素地となった<ref name="名前なし_2-20240629115709">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p42</ref>。
==== 裁定の背景 ====
上記の裁定には、殿中での刃傷という理由以外にも、以下の3つの要因が働いていた。
第一に、事件があった元禄14年、江戸幕府の将軍[[徳川綱吉]]は、溺愛していた母の[[桂昌院]]を[[従一位]]{{refn|group="注釈"|従一位は女性としては最高位<ref>[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第三章1節の「母のために」より</ref>}}にすべく朝廷に働きかけており<ref name=":7">[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第三章1節の「母のために」より</ref>、吉良は綱吉と朝廷の仲介する高家肝煎として、公家の接待を仕切っていた<ref name=":7" />。それゆえ桂昌院に贈位する要となる吉良の瑕疵をなるべく問いたくないという心理が働いた可能性がある<ref name=":8">[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第三章3節の「幕府の事態収拾方針」</ref>(なお翌年、桂昌院には従一位が無事与えられた)。また吉良に見舞いの言葉があったのは、吉良が将軍の親戚筋に当たる為かもしれない<ref name="yamamoto12kira" />。
第二に、当時の武士社会の慣習からいえば、「喧嘩」が起こった際には「喧嘩両成敗」の法が適応されるので、浅野と吉良は「双方切腹」となるはずであった<ref name="yamamoto11kaji3">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章一節「梶川与惣兵衛の証言」</ref>。
しかし吉良が脇差しに手をかけなかったという証言が事件の場に居合わせた梶川から得られたため<ref name="yamamoto11kaji3" />、この事件は喧嘩としては扱われず<ref name="yamamoto11kaji3" />、浅野内匠頭の一方的な「暴力」とみなされたのである<ref name="名前なし_2-20240629115709"/>。
第三に、当時の法令ではもし当事者が「乱心」していればそれを情状酌量の口実として利用でき<ref>[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第三章3節の「上野介にお咎めなし」より</ref>、吉良も保身からか<ref name=":8" />「自分はなんの恨みも受ける覚えはない。内匠頭は乱心したのではないか」<ref name=":8" />と証言した。しかし内匠頭は「自分は乱心したのではなく、私の遺恨があり、一己の宿意をもって討ち果たそうと思い、刃傷に及んだ」<ref name=":8" />と証言したため情状酌量できず、一方的に内匠頭が悪い事になった<ref name=":8" />。
====
[[ファイル:Ako Gishisai De09 07.jpg|thumb|浅野内匠頭の切腹(2009年[[赤穂義士祭]]での再現を撮影)。実際の切腹は午後6時頃だった<ref>[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第三章3節の「上野介にお咎めなし」より</ref>。|300x300ピクセル]]切腹場所である[[田村建顕|田村右京大夫]]の屋敷に到着して駕籠から降りたときには、すでに厳重な受け入れ体制ができており、部屋は襖を全て釘づけにし、その周りを板で覆い白紙を張っていた<ref>『一関藩家中長岡七郎兵衛記録』[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p44より重引。</ref>。
浅野内匠頭の切腹の場所は田村家の庭で、庭に筵(むしろ)をしき、その上に毛氈を敷いた上で行われた<ref name="yamamoto122">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節</ref>。本来、大名の切腹は座敷などで行われるが、慣例を破ってまで庭先での切腹を行うよう老中から指示があったという<ref name="miyazawaa442">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p43-45</ref>。おそらくその背後に将軍・綱吉の強い意向が働いていたのだろう<ref name="miyazawaa442" />。
当時打ち首が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていた<ref name="yamamoto12saitei2">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節「幕府の裁定」</ref>ので、浅野内匠頭は切腹を言いつけられた事に下記のような礼を言った上で<ref name="名前なし_3-20240629115709">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節「幕府の裁定」より重引。現代語訳も同書から引用。</ref>切腹をした{{refn|group="注釈"|切腹の際の立会人は検使正使の大目付[[庄田安利]](下総守)と、 検使副使の目付[[多門重共|多門伝八郎]] ・[[大久保忠鎮|大久保権左衛門]]であり<ref name="yamamoto122" />、介錯は御徒目付磯田武太夫によってなされた<ref name="yamamoto122" />。}}。
{{quotation|浅野の礼は下記の通り:「今日、不調法なる仕方、如何様にも仰せつけらるべき儀を、切腹と仰せつけられ、有り難く存じ奉り候」<br>(今日の不調法な行動はどのような厳しい処罰を命じられてもしかたのないところ、切腹を命じていただき、ありがたく存じ奉ります。)<ref name="名前なし_3-20240629115709"/>}}
遺体は浅野家の家臣達{{refn|group="注釈"|[[片岡高房|片岡源五右衛門]]、[[礒貝正久|礒貝十郎左衛門]]、[[田中貞四郎]]、中村清右衛門、糟屋勘右衛門、建部喜内<ref name="yamamoto132" />}}によって引き取られ<ref name="yamamoto132">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章三節冒頭</ref>、菩提寺の'''[[泉岳寺]]'''でひっそり埋葬された<ref name="yamamoto132" />。
なお、田村邸では浅野に吉良の様子を尋ねられると「取り込んでいるので、確かなことは承ってませんが、御深手(重症)なので、御養生(治療)はかなわないのではないでしょうか」<ref name=":11">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節の「吉良は生き残った」より</ref>と答えていた。このため、浅野は吉良を討ち果たしていたと思っていたのではないかとする著作物もある<ref name=":11" />。<!--
以下の記述は「多門伝八郎覚書」のみにあり、田村家の記述にはない等、事実性に疑いが多い旨が[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節「内匠頭の最期」に書いてあるためコメントアウトした。
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{{要出典範囲|[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]([[4月22日]])深夜頃には、略奪を目的に町人が大勢群集して浅野家の鉄砲洲上屋敷裏口に乱入するようになる。大垣藩戸田家から送られてきていた警備兵たちや[[堀部武庸]]らが刀を持って追い払い、さらに翌朝には本家の[[浅野綱長]](安芸守)にも警備の兵が依頼されて、小堀新五右衛門(大番物頭)が指揮する広島藩兵(足軽50名・小人30名)が到着し、上屋敷は治安を取り戻した。|date=2015年5月1日}}-->
==== 伝奏屋敷からの退去 ====
勅使饗応役の役宅であった伝奏屋敷に詰めていた赤穂藩士は退去を命じられた<ref name="yamamoto132" />。この際、万一浅野内匠頭の家臣たちが騒動を起こしたとき武力で抑えられるよう、浅野家の家臣たちの退去を命じ、上使に任ぜられた水野監物忠之の配下の者達に廻りを固めさせた<ref name="miyazawaa442" />。
町人や浪人の中で其々の藩邸に忍び込んで空巣をやる者や、堂々と押し入って暴れる者がおり、大垣藩や浅野本家の[[広島藩]]から警護のものが派遣されている<ref>[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] pp.40-42.</ref>。[[堀部武庸]]も暴徒の退治に加わり、金品強奪や破壊から藩邸を守った(『堀部武庸日記』)<ref>武庸書簡(吉川茂兵衛宛)にも同様の記述あり。</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}
浅野内匠頭の正室の[[瑤泉院|阿久里]]は、浅野の切腹を受けて[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]夜に剃髪し、名を瑤泉院と改め<ref name="yamamoto132" />、翌[[3月15日 (旧暦)|15日]]明け方に麻布今井町の屋敷に移った<ref name="yamamoto132" />。
===赤穂藩改易{{Anchors|赤穂藩改易}}===
==== 赤穂への事件の伝達 ====
事件が起こるとすぐに、江戸家老である[[藤井宗茂|藤井又左衛門]]・[[安井彦右衛門]]らは、事件を知らせるための早駕籠を'''[[赤穂藩]]'''の筆頭家老大石内蔵助のもとに飛ばした。
早駕籠は二度にわたり赤穂に届られ、第一の早駕籠は江戸での刃傷沙汰のみを伝え<ref name="yamamoto212">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章一節</ref>、第二の早駕籠が浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の取り潰しを報告<ref name="yamamoto212" />{{refn|group="注釈"|なお、第一の早駕籠に乗って赤穂に訪れたのは [[早水満尭|早水藤左衛門]]と[[萱野重実|萱野三平]]の二人で <ref name="yamamoto212" /> 、第二の早駕籠に乗っていたのは[[原元辰|原惣右衛門]]と[[大石信清|大石瀬左衛門]]の二人であった<ref name="yamamoto212" />。
時刻に関しては第一の早駕籠は[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]未の下刻(午後3時半頃)に江戸を出発し、 第二の早駕籠は同日夜更け<ref name="yamamoto212" />に出発した。前者は[[3月14日 (旧暦)|19日]]寅の下刻(午前5時半頃)<ref name="yamamoto212" />に赤穂に到着、後者も同日中<ref name="yamamoto212" />には赤穂に到着した。}}。
江戸から赤穂へは早駕籠でも通常一週間程度かかるところだが、使者たちは昼夜連続で駆け続ける事で、4日半程度で赤穂に到着している<ref name="yamamoto212" />。
吉良の生死については早駕籠は何も伝えず、結局生死が赤穂側に伝わったのは3月の下旬であった<ref name="yamamoto21edo">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章一節「江戸屋敷と居城の明け渡し」</ref>。
====藩札の処理====
そこで藩札に関する対応が行われた。両替可能な金の量が不足していたため、大石内蔵助は、[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]([[4月27日]])藩札を銀に六分率で交換するよう指示<ref name="yamamoto21kansatsu" />。 赤穂経済の混乱の回避に努めた{{refn|group="注釈"|このとき大石は次席家老の大野九郎兵衛と相談し、広島の浅野本家に不足分の金の借用を頼むことにしたが、広島藩は藩主が不在であることを理由にしてこれを断っており<ref name="yamamoto21kansatsu" /><ref name="miyazawaa532">[[赤穂事件#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p53-54</ref><ref>[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]] 第四章1節の「藩札処分」より</ref>、この件に限らず広島藩は、自藩に累が及ぶのを恐れ、赤穂藩に一貫して冷ややかな態度をとり続けたとしている<ref name="miyazawaa532" />。<br>一方、高木(2019)<ref>「延宝赤穂藩札」広島市立中央図書館「おカネでみる広島藩」高木久史(2019年)</ref>{{要ページ番号|date=2024/02/02}}は延宝8年の赤穂藩藩札が広島藩(現在は広島市)に残っている<ref group="注釈">五匁札・一匁札・三分札・二分札の銀札があり、額面上部に大黒天と銀分銅の絵柄が確認できる。</ref>事を根拠に浅野本家からの援助があったとするがある{{refn|group="注釈"|実際、赤穂改易後に広島藩は[[鴻池家]]からの借財が桁違いに増加している<ref>浅野家文書「広島藩御覚書帳」</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。}}。}}。<!--
出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|そして、城に収められた武器については、城付き武具のほかは売り払いの許可がでたため、浅野家が赤穂入藩時に、改易となった[[池田輝興]]から引き継いだ分の武器以外は、大坂の商人が落札した。|date=2024/02/02}}
{{要出典範囲|これらの実務作業のほか、必要とされる書類については、元禄7年(1694年)の[[備中松山藩]]の転封の際に浅野内匠頭が受け取りを担当、大石以下赤穂藩士もこれに関わっていたため、書類作成もスムーズに進んだ。|date=2024/02/02}}
-->
====
[[ファイル:OishiKuranosuke3.JPG|サムネイル|[[泉岳寺]]にある大石内蔵助の像([[浪曲]]の中興の祖[[桃中軒雲右衛門]]が建立<ref name=":4">{{Cite web |title=境内案内|泉岳寺について |url=http://www.sengakuji.or.jp/about_sengakuji/keidai_info.html |website=曹洞宗 江戸三ヶ寺 萬松山 泉岳寺 |access-date=2024-02-28}}</ref>)手に持っているのは連判状<ref name=":4" />。]][[3月26日 (旧暦)|3月26日]]に藩札の処理が済んだので<ref name=":6">[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]] 第四章1節の「大石と大野の二人三脚」より</ref>、筆頭家老の大石内蔵助は翌[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]から3日間、家中を総登城させ、事件を皆に伝え<ref name=":6" /><ref name="yamamotoc282">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p28</ref>、城内の大広間で今後の対応を議論する評定会議を開いた<ref name=":6" /><ref name="yamamotoc282" /><!-- ほぼ同内容なのでコメントアウト:そして大石内蔵助を上座に据え、連日、城に集まって対応を議論した(『浅野綱長伝』)。<ref>[[#山本(2013)|山本(2013)]] p28</ref> -->。広島の本家浅野藩や三次藩浅野家からは穏便に開城をという使者が派遣され、彼らも会議に出席した<ref name=":6" /><ref name="yamamotoc282" />。
[[3月28日 (旧暦)|28日]]には幕府からの使者{{Refn|受城目付の荒木政羽と榊原政殊<ref>[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第四章1節の「大石と大野の二人三脚」より</ref>|group=注釈}}が到着し<ref name=":6" />、赤穂城が幕府に没収されることが分かったので議論は紛糾した<ref name=":6" />。家中は浅野内匠頭の家臣であり幕府の家臣ではないので、幕府からの命令があったとはいえ、簡単に明け渡す事はできないためである<ref name="yamamoto21edo2">[[赤穂事件#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章一節「江戸屋敷と居城の明け渡し」</ref>。
家臣達の意見は、籠城により吉良が処罰されなかった事に対する抗議の意思を示すというものが多かったが{{Refn|[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章二節では『江赤見聞記』『堀部武庸筆記』を参考に「抗議の意思を表すために、籠城すべきであるという意見が強かった」としているので本稿ではそれに従ったが、[[#野口(2015)|野口(2015)]]第四章1節の「藩論四分五裂」では「なぜだか籠城=徹底抗戦派は誰もいなかった」としている。|group=注釈}}、大石はこの意見には与しなかった。籠城をすれば公儀に畏れ多いと思ったためである<ref name="yamamoto22">[[赤穂事件#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章二節</ref>。
連日の議論を経て、大石は赤穂城の前で皆で切腹するという<ref name="yamamoto22" />結論を出した。こうした決断を下したのは、切腹の際に自身らの思いを述べれば、幕府も吉良への処罰を考え直してくれるのではないかと考えたためである<ref name="yamamoto22" />。 ただし、大石はほどなく切腹を口にしなくなるので<ref name="yamamoto22ooishi3" />、切腹という方針を出す事で本当に味方する藩士を見極めようとしたとする説もある<ref name="yamamoto22ooishi3" />。
最終的に切腹という結論が出ると、切腹に同意する旨の神文(起請文)を60人余り<ref name="yamamoto22" /><ref name=":5">[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]]第四章1節の「藩論四分五裂」より</ref>が提出した。
なお、議論がすぐに収束しなかった理由の一端は、次席家老{{Refn|ここでは[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第二章二節にしたがって筆頭家老は大石、次席家老は大野とした。一方「大石蔵之介は首席家老ではあったが城代家老ではなく、城代家老は大野九郎兵衛だったという説もある」<ref>内海定治郎『真説赤穂義士録』、[[#野口(2015)|野口(2015)]]第四章1節の「大石と大野の二人三脚」より重引。</ref>。|group=注釈}}の[[大野知房|大野九郎兵衛]]等による反対意見があった事による<ref name="yamamoto22" />。大野九郎兵衛はとにもかくにも主君・浅野内匠頭の弟である浅野大学が大事だから、まずは無事に赤穂城を幕府に受け渡すのが大事で<ref name="akou1-742">[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]] 第一巻p74-76</ref>、そのうえで御家再興を考えればよいという考えであった<ref name=":5" />。
しかし切腹の神文を提出する段になって原惣右衛門が大野を面罵し<ref>[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]] の第四章1節の「九郎兵衛逃亡」より</ref>、「同心なされない方はこの座をたっていただきたい」と発言すると、大野をはじめとする10人ばかりが退出した<ref name="yamamoto22" />{{Refn|こうした経緯があったため、翌日の4月13日に大野九郎兵衛・郡右衛門親子は赤穂から逃亡<ref>[[#野口(2015)|野口(2015)]] の第四章1節の「九郎兵衛逃亡」より</ref>。|group=注釈}}。原惣右衛門はもしこのとき大野が立ち退かなかったら大野を討ち果たしているところだったと後で回想している<ref name="akou1-742" />。
なお、江戸から下ってきた片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門、田中貞四郎の3人は、切腹をせず、吉良を討つ旨を述べて退出した<ref name="yamamoto22" />。
====赤穂城開城====
[[ファイル:141115 Ako Castle Ako Hyogo pref Japan01bs3.jpg|thumb|赤穂城]]大石内蔵助は[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]<ref name="yamamoto243">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章四節</ref>に赤穂城の明け渡しを決意し、[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]<ref name="yamamoto243" />に明け渡された。予定された切腹は結局行われていない。
赤穂城受け取りは物々しいもので、幕府は受城目付の[[荒木政羽]]と[[榊原政殊]]、代官[[石原正氏]]、受城使の[[脇坂安照]]、[[木下公定|木下㒶定]]を派遣し、脇坂は総勢4550人を動員し、これに木下の軍勢が加わり、さらに船数百隻が警戒する中、赤穂城は開城された<ref>[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p44</ref>。
明け渡しの際、大石は浅野大学によるお家再興を上使に嘆願<ref name="
[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]から3日間、浅野内匠頭の法要が泉岳寺で執り行われた<ref name="
大石内蔵助は6月に家族と合流し、[[山城国]][[山科区|山科]]に隠棲する<ref name="yamamoto312">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第三章一節</ref>('''山科閑居'''){{refn|group="注釈"|親戚の[[進藤俊式|進藤源四郎]]が代々ここに田畑を持っており、これを頼って居を定めたのである<ref name="yamamoto312" />。ここで大石は幕府に対してお家再興の嘆願を、赤穂の遠林寺の僧祐海を通じて出している<ref name="yamamoto322">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第三章二節</ref>。
<br>
それ以外の藩士達は赤穂に近い大阪、伏見、京都などに散らばっている<ref name="yamamotob23kyuuhanshi2">[[#山本(2012b)|山本(2012b)]] 第二章3節「旧藩士の身の振り方」</ref>。幕府の許可を得て赤穂に留まった者も多かったが、その場合は百姓や町人の格で居住する必要があった<ref name="yamamotob23kyuuhanshi2" />。
<br>
江戸詰めの藩士達はそのまま江戸に留まる者が多かったが、もう藩邸には住めないので借宅して暮らす必要があった<ref name="yamamotob23kyuuhanshi2" />。}}。この頃までには大石に起請文を提出した同志は93人に増えていた<ref name="yamamotob23kyuuhanshi2" />。
=== 大石と堀部の対立{{Anchors|大石と堀部との対立}} ===
あとで討ち入りが決定するまで、大石内蔵助を中心とする上方の主流派('''上方慚進派'''<ref name="miyazawaa1062">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p106</ref>)と堀部安兵衛を始めとした江戸詰めの急進派('''江戸急進派<ref name="miyazawaa1062" />''')の間に慢性的な対立状態が続いた。
==== 対立の争点 ====
対立の争点は、両者の目標の違いにある。上方慚進派の最大の目標は、浅野内匠頭の弟にあたる浅野大学を擁立した浅野家の再興にあり<ref name="miyazawaa922">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p92-83</ref>、その際武士の体面が保てること、そのために吉良の出仕を止めるなどの処分を加えてもらうことだった<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p87</ref>{{Refn|もちろん上方も一枚板ではなく、上方にも[[武林隆重|武林唯七]]や[[不破正種|不破数右衛門]]のような「血気盛んで直情径行型の人物」<ref>[[#野口(2015)|野口(2015)]]第四章3節の「苦労思うべし」より</ref>もいた。|group=注釈}}。
一方、江戸急進派の目標は吉良を討つ事にあった<ref name="miyazawaa1062" />。彼らにとって主君は浅野内匠頭ただ一人であり、その名誉を回復するには吉良を討つしかないからだ<ref name="miyazawaa922" />。 主君の兄弟である浅野大学によるお家再興が成し遂げられたとしても主君の名誉は回復されないという考えなのだ<ref name="miyazawaa922" />。
こうした目標の違いにより、しばらくの間大石は今にも暴発しそうな江戸急進派を押さえるために腐心する事になる。
==== 対立の背景 ====
両者のこうした目標の違いは、両者の背景の違いを反映していた。上方慚進派の代表である大石は代々浅野家に仕えており、しかも浅野家とも親戚関係にあった<ref name="yamanoto12hanshu">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第一章2節「藩主個人との距離」</ref>。このため浅野内匠頭個人に仕えるというよりも浅野家そのものに仕えるという意識が強く、お家再興に拘ったのであろう<ref name="yamanoto12hanshu" />。
一方の江戸急進派の面々は堀部をはじめ、高田郡兵衛や奥田孫太夫
なお、上方慚進派が擁立しようとしている浅野大学自身がどのように思っていたのかは分からない。事件直後には藩士らが騒動を起こさないよう命じただけだったし、その後閉門されてしまったので、赤穂浪士らに連絡が取れなくなってしまったからである<ref>[[#山本(2013)|山本(2013)]] p50-51</ref>。
====
堀部は同じく江戸詰めの[[高田郡兵衛]]、[[奥田重盛|奥田孫太夫]]とともに吉良邸に討ち入ろうと試みたものの<ref name="yamamoto232">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章三節</ref>、吉良の実子の上杉綱憲が吉良邸を訪問するなど警戒が強く、討ち入りは難しかった<ref name="yamamoto232" /> 。
そこで3人はまず国元の藩士と合流しようと[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]に江戸をたち<ref name="yamamoto232" />、[[4月14日 (旧暦)|4月14日]]<ref name="yamamoto232" />に赤穂に到着した。3人は大石に籠城を説くも大石は賛成せず、城を明け渡した[[4月22日 (旧暦)|4月22日]]に赤穂を出発した<ref name="yamamoto232" />。
=== 吉良の動向と江戸会議{{Anchors|吉良の動向と江戸会議}} ===
==== 刃傷事件後の評判 ====
吉良をお咎めなしとした幕府の裁定と当時の民衆の感覚の間には大きな隔たりがあり<ref name="miyazawaa472">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p47-49</ref>、当時の記録には浅野内匠頭の軽率さに非難が向けられる一方で、幕府による裁定の厳しさに対する同情論もあった<ref name="miyazawaa472" />。例えば『易水連袂録』にはもし浅野が吉良に対して「意趣」があり、それが「堪忍しがたきもの」なら浅野の行動は「乱気」でも「不行跡」でもないはずだと<ref name="miyazawaa472" />、浅野の行動に理解を示している。 また武士道の観点からいえば、売られた喧嘩を買わずに逃げるのは、武士にあるまじき不名誉な行為のはずである<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p56</ref>。
こうした世評があった為、吉良は世間の非難の目を意識して高家肝煎の辞職願を出さねばならなかったし、吉良の傷は14、5日で治ったのにわざと重く見せかけねばならなかったという(『栗崎道有記録』)<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p48</ref>{{refn|group="注釈"|吉良家と関係が深かった京都の[[西本願寺]]は刃傷事件や討ち入り後、[[築地本願寺]]と書状を交わして吉良の傷の様子や浅野の心情など状況を把握しようとしていた<ref>[https://web.archive.org/web/20161203073645/http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20161203000018 赤穂事件リアルタイム記録 西本願寺で文書見つかる]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20161202233843/http://www.asahi.com/articles/ASJD16X5DJD1PLZB01B.html 「吉良殿御痛も軽ク」… 刃傷事件直後の記録見つかる]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20170422064952/http://mainichi.jp/articles/20161203/ddm/012/040/069000c 「浅野内匠頭殿 乱心」 京都・西本願寺で文書発見 真相は……やはり謎]</ref>。
『江戸江遣書状留帳(えどへつかわすしょじょうのとどめちょう)』には元禄14年(1701年)年1月20日から同15年12月24日の約2年間にわたり、刃傷事件後の吉良の様子や討ち入りへの反応などが記されている。刃傷後は「内匠の乱心」「吉良殿、痛みも軽く、食事も相変わらず」などの記録があり、討ち入り後は「言語に絶える」と落胆している<ref>「江戸江遣書状留帳」本願寺史料研究所上席研究員・大喜直彦</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。}}。
====屋敷替え====
[[ファイル:Honjomatsuzakacho_park_entrance_ryogoku_sumida_2009.JPG|サムネイル|本所松坂町の[[本所松坂町公園|吉良邸跡]]]]吉良は[[3月23日 (旧暦)|3月23日]]<ref name="yamamoto33">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第三章三節</ref>にお役御免となり、[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]<ref name="yamamoto33" />日には呉服橋の屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった。
大名屋敷の多い<ref name="miyazawaa942">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p94</ref>呉服橋と比べ、人気のない郊外<ref name="yamamoto33" /> にある本所はずっと仇討ちに適した場所であったので<ref name="miyazawaa942" />、討ち入りをしやすくするために吉良を郊外に幕府が移したのではないかという噂が江戸に流れた<ref name="yamamoto33" />。
幕府がなぜこの時期に屋敷替えを命じたかは不明だが、吉良邸の隣の蜂須賀飛騨守は、赤穂浪士の討ち入りを警戒していて出費がかさむという理由で老中に屋敷替えを願い出ていた(『江赤見聞記』巻四)<ref name="miyazawaa942" />というので、こうした事情が影響したのかもしれない<ref name="miyazawaa942" />。
==== 江戸会議 ====
堀部達急進派はこの屋敷換えを討ち入りのチャンスととらえ<ref name="yamamoto33" />、大石に討ち入りをせまった。
そこで大石は急進派を説得する為、9月はじめ頃に赤穂浪士の原惣右衛門、潮田又之丞、中村勘助の3人を派遣し、さらに10月に赤穂浪士の進藤源四郎と大高源五を派遣したが、どちらも逆に説き伏せられて急進派に同調してしまった<ref name="
そこで大石は<!-- 11月2日に -->自ら江戸に下り、急進派を説得すべく11月4日と10日に会議をひらいた('''江戸会議''')<ref name="yamamoto33" /><ref name=":2">[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]] 第五章1節「急進派の進出と左兵衛の家督相続」より</ref>。 大石は慎重派・穏健派ばかりを連れて行ったが<ref name=":2" />{{Refn|連れて行ったのは[[奥野定良|奥野将監]]、河村伝右衛門、岡本次郎左衛門、中村清右衛門で、いずれも討ち入りに参加していない<ref name="名前なし_4-20240629115709">[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第五章1節「急進派の進出と左兵衛の家督相続」より</ref>。|group=注釈}}、上方から派遣した同志達が堀部等に同調してしまっていたこともあり、議論は堀部等が望む方向で一方的に進んだ<ref name="miyazawaa972" />。<!--出典がないのでコメントアウト。
{{要出典範囲|一方堀部、[[奥田重盛|奥田孫太夫]]、[[高田郡兵衛]]は、大石合流前の10月29日、討ち入りを決意するための神文を作成する。ここでは、従来の堀部の主張通り、内匠頭の意志を継いで吉良邸討ち入りを果たすことを誓い、末尾の罰文には、通常は神仏の罰とするところを「御亡君の御罰遁るべからざる者也」とした。また、討ち入りを決行する時期として、翌年3月の一周忌まで、と具体的に期限を定めた。|date=2024/02/02}}-->
期限を区切らないと皆の士気が下がる、という堀部の主張を大石も受け入れ、堀部達は討ち入りの日の期限を決断するよう大石に迫り<ref name="yamamoto33" />、大石は浅野内匠頭の一周忌には結論を出すことを約束し<ref name="yamamoto33" /><ref name="miyazawaa97">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p97-99</ref>、近日中に京都近郊で会議を開く事にして結論を持ち越した<ref name=":2" />{{Refn|すなわち、後述する山科会議を行う事がこの段階で約束された<ref name="名前なし_4-20240629115709"/>。|group=注釈}}。
=== 吉良の隠居と山科会議{{Anchors|吉良の隠居と山科会議}} ===
==== 吉良の隠居 ====
自身の評判があまりに悪い事を知った吉良上野介が、隠居を願い出て、[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]に許可され<ref name="yamamoto34">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第三章四節</ref>、家督を息子の[[吉良義周|吉良左兵衛]]が嗣ぐこととなった<ref name=":2" />。
これを聞いて堀部たち急進派は焦り始めた<ref name="yamamoto34" />。隠居した吉良が、息子の養子先である米沢の上杉家に引き取られてしまうと、討ち入りが難しくなってしまうからである<ref name="yamamoto34" />。また吉良の隠居が認められたという事は、幕府から吉良へのこれ以上の処罰は望めないと堀部等は判断し、浅野内匠頭の一周忌までに討ち入りすべきだと主張した<ref name="miyazawaa1002">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p100</ref>。<!--
出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|また、渡世を度外視した浪人生活が一年近くにおよび、当座の生活にも苦しくなる旧藩士の実情をも訴えた。|date=2024/02/02}}-->
出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|堀部は、大石が前言と違うこと(上野介がお咎めなしになったのに、討ち入りに賛同しないこと)を言い出し、更に期限を浅野内匠頭の三回忌まで延ばすことを提案したことから大石に対して不信感を抱き、原、潮田、中村、大高らと連携し、大石抜きで討ち入りに必要な頭数を揃える方向を模索し始めた。|date=2024/02/02}}
-->
<!--出典がないのでコメントアウト
==== 会議まで ====
{{要出典範囲|翌元禄15年(1702年)正月9日、原惣右衛門と大高源五が上洛、大石内蔵助と面会して堀部の訴えを伝えた。その後も京都周辺の旧藩士らと会合を重ねるが、上方勢は吉良上野介の隠居を「是切(これきり)の事と覚悟」はしながらも、早急に討ち入りを決行する方向へはまとまらなかった。大高は彼らの態度について「生煮え」と評し、落胆している。このころ、原から堀部安兵衛へ充てた上方勢の情勢報告では、討ち入り案への理解者として、小野寺幸右衛門、岡野金右衛門、大高源五、潮田又之丞、中村勘助、岡嶋八十右衛門、千馬三郎兵衛、中村清右衛門、中田理平次、矢頭右衛門七の名前を挙げている。|date=2024/02/02}}-->
==== 山科会議 ====
こうした中、京都の山科で、今後の行く末を決める会議が翌元禄15年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]から数日間執り行われた('''山科会議''')<ref name="yamamoto34yama">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第三章四節「山科会議」</ref>。
会議では、すぐさま討ち入りに行くという意見は少数で<ref name="yamamoto34yama" />、しばらく様子を見るという結論になった<ref name="yamamoto34yama" />。大石内蔵助は浅野内匠頭の三回忌まで待つべきであろうとしている<ref name="yamamoto34yama" />{{refn|group="注釈"|なお、山科会議に先立つ2月10日には、赤穂浪士の原惣右衛門と吉田忠左衛門が会談しており、山科会議はその会談の内容の再確認としての色彩が強く<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p110-111</ref>、ドラマ等で見られるような激論が交わされたとするのは史実ではない。また山科会議は秘密会議であり議事録が残される性質のものではないため<ref name="noguchi2015-5-3-yamashina">[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]] 第五章3節「局面一変」の「山科会議」より。</ref>、上述した以上の詳細は伝わらないが<ref name="noguchi2015-5-3-yamashina" />、2月15日に会議が行われた事自身は記録にもあり、史実である<ref name="noguchi2015-5-3-yamashina" />。
}}。<!--出典がないのでコメントアウト
{要出典範囲|原らにとっても、大石抜きで討ち入りに必要な頭数を揃えるめどが立たなかった以上、大石の提案に賛同するよりほかなかった。|date=2024/02/02}}
-->
====大石の動き====
山科会議により討ち入りは延期になったので、大石内蔵助はお家再興の嘆願書を出している<ref name="miyazawaa1162">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p116-117</ref>。大石の背後には再興を願う家臣達がおり、簡単には再興を諦められないのである<ref name="miyazawaa1162" />。
しかしこの頃から大石は討ち入りは避けられないと覚悟したのか、累が及ばぬよう妻を離縁して実家に返している<ref name="miyazawaa1162" />。事実大石は息子の主税に「寝ても覚めても吉良を討ち取る事を考えよ」といったという(『江赤見聞記』巻七)<ref name="yamamotoc842">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p84-86</ref>。なお離縁の際、大石の妻・りくは自分も「君父の志」を達する為に役に立ちたいと反論したが、大石は女人と一緒では内匠頭の為にならないからとこれを断ったという(『江赤見聞記』巻七)<ref name="yamamotoc842" />。
====大石の討ち入り構想====
この頃の大石は、浅野大学を擁立した討ち入りを構想していた。浅野大学の閉門が解かれたら、すぐさま大学に討ち入りの許可を取り、その上で吉良をはじめとする討とうというのである<ref name="miyazawaa1122">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p112-113</ref>。だから大石は、浅野大学と無関係に討ち入りしようとする堀部達の意見には賛同できなかった<ref name="miyazawaa1122" />。
大石がこのような仇討ちにこだわった理由は、事件当時「仇討ち」というのは、親や兄などの目上の親族に対して行うものであり、主君の仇を討つというのは前例がなかったからである<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p114</ref>。しかし主君・浅野内匠頭の弟である浅野大学の指示によって吉良を討てば、従来通り兄の仇を討つという枠組みに収まる事になる。
後述するように、結局浅野大学による御家再興は頓挫したため大石のこのような仇討ち構想は実現する事はなく、吉良邸討ち入りは浅野大学の許可を得ずに行っている。このため討ち入りの際の口上書では、「君父の讐、共に天を戴くべからず」と仇討ちの概念を「父」から「君父」へと拡大している<ref name="
====江戸急進派の動き====
一方の堀部達急進派は、大石の討ち入り期限の後ろ倒しに賛同した一部同志を名指しで非難するなど、大石・堀部両派の確執が深まっていった<ref name="miyazawaa114">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p114-118</ref>。
また彼らは山科会議による討ち入りの延期決定に素直に従いはしなかった。赤穂浪士の原惣右衛門が堀部らに、大石を見捨てて自分たちだけで吉良を討つ事を提案したのである<ref name="miyazawaa1142">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p114-118</ref>。 大石ら主流派を除いて行動すれば、大石らが考えている浅野大学によるお家再興にも迷惑がかからないだろうし、吉良が油断している今なら、討ち入りに同調するであろう14、5人程度がいれば十分事を成し遂げられるだろうというのである<ref name="miyazawaa1142" />。
堀部らはこれに賛同し、6月末に堀部は上洛して原、大高らと大石外しの相談におよび、7月の24、5日頃に再び江戸に帰ろうとしていた<ref name="miyazawaa114" /><ref name="miyazawaa1142" />。<!--出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|(名指しされたのは原、堀部、奥田、武林唯七、大高、潮田、中村、岡野、小野寺幸右衛門、倉橋伝助、田中貞四郎の11人で、その他に3,4名ほど得られる目算であったと思われる)|date=2024/02/02}}
{{要出典範囲|7月中には江戸へ下る予定であった。大石が気にする大学への影響についても、大石に近いものを外して自分たちだけで討ち入りをしたら、大学に迷惑がかかることもないであろう、と推測した。|date=2024/02/03}}
-->
=== 円山会議と神文返し ===
====円山会議{{Anchors|円山会議}}====
しかしまさにそのさなかに事態が急転した。[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]<ref name="yamamoto423">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第四章二節</ref>に浅野大学が閉門のうえ本家の広島藩浅野家に引き取られる事が決定したのである。これはお家再興があり得ない事を事実上示している。大学は同日、本家の広島藩邸に移った<ref name="yamamoto423" />。
大石は「穢れたる御名跡を立て置き候わんより、打ちつぶし申す段本望と存じられ候」と述べ、むしろ大学絶家を討ち入りの契機とすべしと同志たちに檄をとばす<ref>赤穂市史編纂室『忠臣蔵』より「大高源五書状」{{要ページ番号|date=2024年2月}}</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
[[7月
あらかじめ会合の予定があったわけではないので、参加者はたまたまその日京都周辺にいた人物である<ref name="taniguchi1002">[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p100</ref>。このとき会議に参加したのは19人<ref name="taniguchi1002" />。うち17人は後に仇討に参加するメンバーである<ref name="taniguchi1002" />。
なお円山会議は秘密会議であった為、議論の詳細は一切分かっておらず、今日伝わる円山会議の「詳細」と称するものは初期の実録本『赤城義人伝』で創出されたものである<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p131</ref>。
堀部達は江戸に戻ると、隅田川で二艘の船を借り、月見の宴に装いつつ、船の中で同志達に円山会議の報告をしている('''船中会議''')<ref>[[#山本(2014)|山本(2014)]] p110-111</ref>。
==== 神文返し{{Anchors|神文返し}} ====
山科会議の頃までは同志は120名ほどいたが<ref name="yamamoto433">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第四章三節</ref>、円山会議で討ち入りが決定すると、脱盟する者が続出する<ref name="yamamoto433" />。この際、大石の親戚でありこれまで大石の行動を支えてきた奥野将監、小山源左衛門、進藤源四郎の三人が脱盟している<ref name="miyazawaa1342">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p134-136</ref>。
大石は討ち入りの際、家中の主だった面々が加わっている事を強く期待していたが、位の高い彼ら三人が脱盟したことにより、それはかなわなくなった<ref name="miyazawaa1342" />。大石は最期までこの事を恥じていたという<ref name=":10">[[#山本(2012b)|山本(2012b)]]第四章4節の「お預け先と身分の上下」</ref>{{Refn|大石は討ち入り後のお預け先であった堀内家の堀内伝右衛門に次のように語ったという:「今度のことについて、{{ruby|御傍輩中|ごぼうはいちゅう}}<!--rubyは非推奨だが、原文でもルビなのでrubyを使う-->でもご批判されていると察しています。ここにいる者どもは、おおかた{{ruby|小身|しょうしん}}(禄高が少ないこと)な者で、大身の者も少しは加わっていると思し召されている事が恥ずかしいのです。いかにも大身の者も加わっていますが、多くは了見を変え、私の力が及びませんでした」(『堀内伝右衛門覚書』)<ref name="yamamoto2012b-4-4-oazuke">[[#山本(2012b)|山本(2012b)]]第四章4節の「お預け先と身分の上下」</ref>。そして「番頭の[[奥野定良|奥野将監]]、物頭の佐々木小左衛門、[[進藤俊式|進藤源四郎]]、[[小山良師|小山源五左衛門]]、河村伝兵衛らの名前をあげて批判している」<ref name="yamamoto2012b-4-4-oazuke" />。|group=注釈}}。大石の発想は「大身の者ほど武士の倫理観を持つべきだ、というものだったのだろう」<ref name=":10" />。
同志達の脱盟を受けて大石は、赤穂浪士の[[貝賀弥左衛門]]と[[大高源吾]]を派遣し、連判状から切り取った血判を返してまわった('''神文返し''')<ref name="yamamoto434">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第四章三節</ref>。そしてそれでもどうしても討ち入りをしたいと答えたものだけを同志として認める事にした<ref name="yamamoto434" />。これにより同志は50人程度<ref name="yamamoto434" />に減った。
==== 大石東下り{{Anchors|大石東下り}} ====
円山会議での約束にしたがい、浪士たちは8月末から目立たないように少人数で江戸へ下った<ref name=":1">『松山侯赤穂記聞書』。[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]]第六章3節「決行前夜」の「大石主税」より。</ref>。大石内蔵助自身も[[10月7日 (旧暦)|10月7日]]<ref name="yamamoto51">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章一節</ref>に京を出て江戸に下るのだが{{refn|group="注釈"|大石は江戸へ下る道中には箱根を通り、仇討ちで有名な[[曾我兄弟の仇討ち|曾我兄弟]]の墓を詣でて、討ち入りの成功を祈願した<ref name="yamamotob41">[[#山本(2012b)|山本(2012b)]]第四章1節</ref>。このとき墓石を少し削って懐中に納めたという<ref name="yamamotob41" /> 。[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]には平間村に入り<ref name="yamamoto51" />{{refn|group="注釈"|現在の神奈川県川崎市幸区下平間のあたり<ref name="yamamoto51" />。四十七士の[[富森正因|冨森助右衛門]]の小屋掛け(=粗末な家)<ref name="yamamoto51" />。不便なので冨森はこの家を空き家にして江戸に出ていたが、家を修理して大石を迎えた<ref name="yamamoto51" />。この家は富森助右衛門と親しかった軽部五兵衛の敷地内に建てたもので<ref>{{cite web|url=https://www.kawasaki-rc.com/onko/onko/1122.html|title=赤穂浪士と下平間村|accessdate=2024/02/20|website=川崎ロータリークラブ温故知新}}</ref>{{出典無効|date=2024-02-02}}、軽部五兵衛の屋敷の傍にあった稱名寺には赤穂浪士のゆかりの品が残されており<ref>{{cite web|url=https://shomyo-ji.com/about/history.html|title=稱名寺の歴史|access-date=2024/02/20|website=稱名寺}}</ref>、同じく平間にある了源寺には軽部五兵衛の墓がある<ref>{{cite web|url=http://www.yk.rim.or.jp/~ryogenji/profile.html|accessdate=2024/02/20|website=了源寺|title=了源寺略縁起}}</ref>。}}<!--赤穂藩邸の[[排泄|有機肥料]]を買っていた豪農・軽部五兵衛<ref>川崎市Webより『市民ミュージアム』(川崎ロータリークラブ 本田和氏)</ref>{{出典無効|date=2024-02-02}}宅で、-->、討ち入りの計画を練っている<ref name="yamamoto51" />。[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]<ref name="yamamoto51" />、ついに江戸に入る<ref name="yamamoto51" />。}}、それに先立ち息子の[[大石良金|大石主税]]を江戸の一味の「人質として」<ref name=":1" />差し出している{{Refn|元禄の頃には生き残っていたこうした始原的な武士の感覚が少し時代が下ると理解されなくなり<ref name="noguchi2015-6-3-chikara" />、このような過酷な事をするからには主税は妾腹の子であったのではとする説が生まれたが<ref name="noguchi2015-6-3-chikara">[[#野口(2015)|野口(2015)]]第六章3節「決行前夜」の「大石主税」より。</ref>、間違いなく実子である<ref name="noguchi2015-6-3-chikara" />。|group=注釈}}。この段階になっても浪士たちの間にはまだ根強い相互不信が存在したのだ<ref>[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]]第六章3節「決行前夜」の「大石主税」より。</ref>。
このころ、同志たちはすでに困窮を極めており{{refn|group="注釈"|[[大石信清|大石瀬左衛門]]は秋も深まったのに着替えすら買えなかったというし<ref name="yamamotoc140">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p140-143</ref>、[[礒貝正久|磯貝十郎左衛門]]も家賃が2カ月も払えなかったという<ref name="yamamotoc140" />。}}、「年の若い者たち、生計が立ち行かなくなった者たちなどは早く討ち入りたがった」<ref>『水野家監物、浅野義士御預古文書』。[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]]第六章3節「決行前夜」の「「声なき声」が」より。</ref>。大石内蔵助は彼らに金銭的な援助をしたが、すでに赤穂藩の残金も少なくなっており、もうあまり猶予はなかった<ref name="yamamotoc140" />。
[[12月2日 (旧暦)|12月2日]] [[頼母子講]]を装って<ref name="yamamoto53">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章三節</ref> 深川八幡前の大茶屋 <ref name="yamamoto53" /> に集まり、討ち入り当日の詳細を決めた('''深川会議''')<ref name="yamamoto53nanbu">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章三節「南部坂の別れ」</ref> 。
=== 討ち入り{{Anchors|討ち入り}} ===
====
赤穂浪士達は討ち入りの日を[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]に決めた<ref name="yamamoto54">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章四節</ref>。 というのも、吉良がこの日に茶会を開くために確実に在宅している事を突き止めたからである <ref name="yamamoto54" /> 。
茶会の情報を手に入れたのは 内蔵助の一族である[[大石三平]]であった <ref name="yamamoto54" />。大石三平は茶人[[山田宗偏]]の弟子なのだが、三平と同門の材木屋の所に在宅していた神道家の[[羽倉斎宮]]が江戸で神道や歌道を教えており<ref name="yamamoto54" /><ref name="noguchi2015-6-3-itsuki">[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第六章3節「決行前夜」の「斎の情報では…」</ref>、その関係で羽倉は吉良邸にも出入りしていて<ref name="yamamoto54" /><ref name="noguchi2015-6-3-itsuki" />、この情報を聞いたのである{{refn|group="注釈"|また赤穂浪士の一人である[[大高忠雄|大高源五]]もやはり山田宗偏の弟子で<ref name="yamamoto54" />、彼も同じく14日の吉良邸での茶会の情報をつかんでいたという<ref name="yamamoto54" /><ref name="noguchi2015-6-3-itsuki" />{{refn|「大高が山田宗徧から情報を得たり、大石が羽倉斎から日程を聞きだしたという話よりは信憑性が高い。おおむね事実である」。赤穂義士会『忠臣蔵四十七義士全名鑑 子孫が綴る、赤穂義士「正史」銘々伝』、小池書院、2007年{{要ページ番号|date=2024/02/28}}}}。
<br>
しかし宮澤誠一は、これは俳人として人気の高かった大高に活躍の場を与えるための初期の実録書以来の俗説として退けている<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p157</ref>。ただし、大高が茶会の情報をつかんでいたという話は『江赤見聞記』に記されているため可能性は否定できない<ref name="yamamoto54kiratei">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章四節「吉良邸茶会の情報」</ref>。}}<!--出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|[[横川宗利]]は、三島小一郎という変名で[[堀部武庸]]宅に居候。吉良邸の茶会が開かれる日を茶坊主の手紙を盗み読みして、「茶会は十四日」と大石に報告し討ち入り日が決まった。|date=2024/02/03}}
-->。
11月になってからも江戸潜伏中にも同志の脱盟が続き{{refn|group="注釈"|[[小山田庄左衛門]]<ref name="yamamoto-52-datsumei">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章二節「続出する脱盟者」</ref>(100石<ref name="yamamoto-52-datsumei" />。[[片岡高房|片岡源五右衛門]]から金と着物を盗んで逃亡<ref>[[#山本(2014)|山本(2014)p]]74-75</ref>)、田中貞四郎<ref name="yamamoto-52-datsumei" />(小姓あがり<ref name="yamamoto-52-datsumei" />、150石<ref name="yamamoto-52-datsumei" />)、[[中田理平次]]<ref name="yamamoto-52-datsumei" />(100石<ref name="genroku642">[[#元禄(1999)|元禄(1999)]] p64</ref>)、[[中村清右衛門]]<ref name="yamamoto-52-datsumei" />(小姓<ref name="yamamoto-52-datsumei" />100石<ref name="genroku642" />)、[[鈴田重八郎]]<ref name="yamamoto-52-datsumei" />、[[瀬尾孫左衛門]]<ref name="yamamoto-52-datsumei" />(大石内蔵助家来<ref name="yamamoto-52-datsumei" />)、[[矢野伊助]]<ref name="yamamoto-52-datsumei" />(足軽5石2人扶持<ref name="yamamoto-52-datsumei" />)が姿を消した。}}、討ち入り三日前の[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]まで同志の中にいた<ref name=":0">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章四節「揺れる討ち入り前の心」</ref>[[毛利小平太]](20石3人扶持<ref name="genroku642" />)も脱盟し、最後まで残った同志の数は47人となった<ref name=":0" />。
==== 討ち入り当日 ====
[[ファイル:'A_View_of_Loyal_Ako_Samarui_Breaking_into_Kira's_Mansion'_by_Yamazaki_Toshinobu_II,_1886.jpg|サムネイル|450x450ピクセル|吉良邸討ち入り。二代目山崎年信画、1886年]]
元禄15年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]、四十七士は堀部安兵衛の借宅と杉野十平次の借宅にで着替えを済ませ、寅の上刻(午前4時頃)に借宅を出た<ref name="yamamoto61">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第六章一節</ref>。そして吉良邸では大石内蔵助率いる表門隊と大石主税率いる裏門隊に分かれ<ref name="yamamoto61" />、表門隊は途中で入手した梯子で吉良邸に侵入、裏門隊は大きな木槌で門を打ち破り吉良邸に侵入した<ref name="yamamoto61" />。
表門隊は侵入するとすぐに、口上書を入れた文箱をくくりつけた竹竿を玄関の前に立てた<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p158</ref>。
裏門隊は吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と騒ぎ、吉良の家臣たちを混乱させた<ref name="yamamoto61ketsujitsu">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第六章一節「結実のとき」</ref>。また吉良の家臣達が吉良邸そばの長屋に住んでいたのだが、その長屋の戸口を鎹(かすがい)で打ちつけて閉鎖し、家臣たちが出られないようにした<ref name="yamamoto61ketsujitsu" />。 吉良邸には100人ほど家来がいたが、実際に戦ったのは40人もいなかったと思われる<ref name="yamamoto61ketsujitsu" />。
隣の屋敷の屋根から様子をうかがっている者がいたので、片岡源五右衛門と小野寺十内が仇討ちを行っている旨を伝えたところ、了承したしるしに高提灯の数が増えた<ref name="yamamoto62">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第六章二節</ref>{{Refn|これを行ったのは[[土屋主税]]<ref name="noguchi2015-7-3-roushi">[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第七章「吉良邸討ち入り」3節「本懐を遂げて」の「各浪士の働き」</ref>であり、[[歌舞伎]]の[[玩辞楼十二曲]]の内『[[松浦の太鼓|土屋主税]]』<ref>{{cite web|url=https://www.kabuki-bito.jp/theaters/osaka/play/161|access-date=2024/02/26|website=歌舞伎美人|title=公演情報詳細}}</ref>などの[[忠臣蔵|忠臣蔵もの]]で描かれる場面である。なお、同じく吉良邸に隣接している牧野一学邸、本田孫太郎邸でもほぼ同様の反応であったが、届け出ではシラを切った<ref name="noguchi2015-7-3-roushi" />。|group=注釈}}。
四十七士は吉良の寝間に向かったものの、吉良は既に逃げ出していた<ref name="yamamoto62" />。茅野和助が吉良の夜具に手を入れ、夜具がまだ温かい事を確認した<ref name="yamamoto62" />。吉良はまだ寝間を出たばかりだったのである。四十七士は吉良を探した。
そして台所の裏の物置のような部屋{{Refn|諸記録では「炭小屋」とするものが多いが<ref name="noguchi2015-7-3" />、『堀内伝右衛門覚書』によると「葭垣(よしずを張り巡らした垣根)付きの雪隠じみた部屋」<ref name="noguchi2015-7-3" />。[[#野口(2015)|野口(2015)]]によれば「茶室の近くにあって、茶碗やら囲炉裏の炭やらを用意しておく部屋だったと思われる」<ref name="noguchi2015-7-3" />。|group=注釈}}を探したところ、中から吉良の家来が二人切りかかってきたのでこれを返り討ちにし<ref name="yamamoto63" />{{Refn|吉良側の資料『大熊弥一右衛門見聞書』によると、中にいたのは二人ではなく三人で、[[須藤与一右衛門]]、[[鳥居利右衛門]]、[[清水一学]]であった<ref name="noguchi2015-7-3">[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第七章「吉良邸討ち入り」3節「本懐を遂げて」の「首級をあげる」</ref>。うち一人を[[堀部武庸|堀部安兵衛]]と[[矢田助武|矢田五郎右衛門]]が討ち止め、もう一人を[[間光興|間十次郎]]が槍で突いた<ref name="noguchi2015-7-3" />。最後の一人については諸記録に記載がない<ref name="noguchi2015-7-3" />。|group=注釈}}、中にいた白小袖の老人を間十次郎が槍で突き殺した<ref name="yamamoto63">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第六章三節</ref>(異説あり。[[赤穂事件#吉良の最期に関して|詳細後述]])。この老人が吉良であると思われたので、浅野内匠頭が背中につけた傷跡を確認し<ref name="yamamoto63" />、吉良方の足軽にこの死骸が吉良である事を確認させた<ref name="yamamoto63" />。無事吉良を打ち取ったのである。
そこで合図の唐人笛(チャルメラ)<ref name="noguchi2015-7-3" />を吹き、四十七士を集めた<ref name="yamamoto63" />。
ここまでわずか一時間<ref name="yamamoto63" />、もしくは二時間程度<ref>[[#野口(1994)|野口(1994)]] p146</ref>。 吉良側の死者は史料より15人~18人、負傷者は19~23人であった<ref>[[#山本(2012b)|山本(2012b)]]第四章三節「計画通りの討ち入り」</ref><ref name="yamamoto63" /><ref group="注釈">吉良以外の吉良側の死者とその死に場所は以下の通りである。『江赤見聞記』の記載は[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第六章三節に、『吉良本所屋敷検使一件』(幕府目付の阿部式部、杉田五左衛門による検死結果)は[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第七章「吉良邸討ち入り」2節「12月十五日の攻防」の「幕府目付けによる検分」よった。下記の通り資料により齟齬があるので[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]ではあくまで「参考のため」としている。
{|class="wikitable"
|+
!
! colspan="2" |『上杉家文書』より
「米沢塩井家覚書」
! colspan="3" |『江赤見聞記』
! colspan="2" |『吉良本所屋敷検使一件』
|-
|名前
|役職
|場所
|享年
|役職
|場所
|役職
|場所
|-
|[[小林平八郎]]
|家老
|南書院前
|-
|家老・上杉家付き人
|南書院前
|家老
|南長屋役人小屋
|-
|[[清水一学]]
|近習
|台所口
|40
|上野介用人
|台所口
|中小姓
|台所
|-
|新貝弥七郎
|近習
|玄関
|40
|近習
|玄関
|中小姓
|玄関
|-
|笠原長右衛門
|祐筆
|書院次
|25
|右筆
|書院次
|-
|-
|-
|笠原長太郎
|-
|-
|-
|-
|-
|役人
|小屋出口
|-
|大須賀治部右衛門
|用人
|台所口
|30
|上野介用人
|台所口
|中小姓
|台所口
|-
|左右田源八郎
|小姓
|台所口
|40
|中小姓
|玄関
|中小姓
|小玄関口
|-
|大石半右衛門
|門番
|馬屋前
|-
|-
|-
|-
|-
|-
|森半右衛門
|-
|-
|-
|-
|-
|台所役人
|玄関前
|-
|半右衛門
|-
|-
|-
|表門番
|馬屋前
|-
|-
|-
|鈴木正竹
|僧侶
|小玄関前
|-
|坊主
|小玄関前
|左兵衛坊主
|小玄関口
|-
|杉松三左衛門
|祐筆
|小屋出口
|36
|近習右筆
|小屋出口
|-
|-
|-
|牧野春斎
|僧侶
|小屋出口
|-
|坊主
|小屋出口
|坊主
|厠の前
|-
|須藤与一右衛門
|取次
|南書院次
|-
|取次
|南書院次
|左兵衛用人
|座敷居間
|-
|榊原平右衛門
|文官
|台所口
|50
|役人
|台所口
|役人
|台所
|-
|[[鳥居利右衛門]]
|用人
|座敷庭
|60
|用人
|座敷庭
|用人
|座敷の庭
|-
|斎藤清左衛門
|小姓
|座敷庭
|-
|左兵衛中小姓
|小門口
|-
|-
|-
|斎藤清右衛門
|-
|-
|-
|-
|-
|小姓
|小屋口
|-
|小塩源五郎
|-
|-
|22
|料理番
|玄関
|-
|-
|-
|中間二人
|-
|-
|-
|台所役人
|小玄関前
|-
|-
|-
|小堺源次郎
|-
|-
|-
|-
|-
|役人
|台所
|-
|鈴木元右衛門
|-
|-
|-
|-
|-
|役人
|祐筆小屋
|-
|権十郎
|-
|-
|-
|-
|-
|仲間
|小玄関前
|}
注:
* 「米沢塩井家覚書」 によると
**左右田源八郎は家老・[[左右田孫兵衛]]の嫡男、
** 杉松三左衛門は[[小野寺秀和]]に槍で突き殺される
** 牧野春斎は[[間光延]]に突き殺される。
* 須藤与一右衛門『吉良本所屋敷検使一件』では「須藤与''市''右衛門」
* 鈴木正竹は『吉良本所屋敷検使一件』では「鱸松竹」
</ref>。
一方の赤穂浪士側には死者はおらず、負傷者は二人で、原惣右衛門が表門から飛び降りたとき足を滑らせて捻挫し<ref name="yamanotoa62oku"
浪士たちの討ち入り事件は、討ち入り2日後の14日の記録にすでに「江戸中の手柄」と書いてあるほど、すぐさま噂として広まった<ref>[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p175</ref>。
====
[[ファイル:Sengakuji 02.JPG|thumb|浅野内匠頭が埋葬された[[泉岳寺]]]]吉良を討った浪士達は、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えるべく、内匠頭の墓がある[[泉岳寺]]へと向かった{{Refn|回向院に向かった後、上杉家の追手の警戒も兼ねて両国橋で休み、その後毎月15日は大名の登城日だったので鉢合わせを避けるために両国橋を渡らずに南下して永代橋をわたり、そこから鉄砲洲の旧赤穂藩上屋敷前→汐留橋筋→金杉橋を渡る→芝→泉岳寺と移動した<ref name="yamamoto2012a-3-3-bakuhu">[[#山本(2012b)|山本(2012b)]] 第三章3節の「幕府大目付の尋問」より</ref>。途中、愛宕下で[[吉田兼亮|吉田忠左衛門]]と[[富森正因|富森助右衛門]]の二人が大目付の[[仙石久尚|仙石伯耆守]]に討ち入りを報告すべく隊を離れた<ref name="yamamoto166">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p166-167</ref><ref name="yamamoto2012a-3-3-bakuhu" />。|group=注釈}}{{refn|group="注釈"|泉岳寺に向かう途中通った永代橋のあたりで[[粥]]が千熊屋作兵衛から振舞われたという話があるが、中央義士会は「史料では確認されない」としている。<ref>中央義士会「赤穂義士の引揚げ」(街と暮らし社、2006年</ref>{{要ページ番号|date=2024/02/29}}。一方、甘酒粥を振舞ったとする記念の石碑は建立されている<ref>{{Cite web |archiveurl=https://web.archive.org/web/20240201001148/http://www.tomiokahachimangu.or.jp/shahou/h2001/htmls/p05.html |archivedate=2024-02-01|url=http://www.tomiokahachimangu.or.jp/shahou/h2001/htmls/p05.html |title=深川散策史跡巡り 赤穂浪士休息の碑(佐賀一丁目六番) |accessdate=2024-06-27}}</ref>。}}。 途中[[回向院]]で休憩しようとしたが、難を恐れて拒絶された<ref>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第三章3節の「幕府大目付の尋問」より</ref>。 また理由は分からないが四十七士の一人[[寺坂信行|寺坂吉右衛門]]がどこかに消えた。その理由は古来から謎とされている([[#寺坂吉右衛門に関する問題|詳細後述]])。
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=== 首の返還と遺体の供養 ===
{{出典の明記|section=1|date=2024/02/03}}
吉良上野介の首はその後箱に詰められて泉岳寺に預けられた。寺では僧二人が吉良家へと送り届け、家老の[[左右田孫兵衛]]と[[斎藤宮内]]が受け取った。この時の二人の連署が書かれている、上野介の首の領収書(首一つ)が泉岳寺に残されている。その後、先の刃傷時に治療にあたった栗崎道有が上野介の首と胴体を縫って繋ぎ合わせたあと、上野介は菩提寺の万昌寺に葬られた。[[戒名]]は「霊性寺殿実山相公大居士」。
この当時の万昌寺は市ヶ谷にあったが大正期に「[[萬昌院功運寺|万昌院]]」と名を改めて中野へ移転し、それに伴って墓も改葬して現在は歴史史跡に指定されている。
=== 赤穂浪士の最期 ===
==== 赤穂浪士の大名家お預け ====
赤穂浪士の吉田と富森から討ち入りの報告を受けた大目付の仙石伯耆守は、月番老中の稲葉丹後守正往にその旨を報告し、二人で登城して幕府に討ち入りの件を伝えた。
幕府は赤穂浪士を、[[細川綱利|細川越中守綱利]]、[[松平定直|松平隠岐守定直]]、[[毛利綱元|毛利甲斐守綱元]]、[[水野忠之|水野監物忠之]]の4大名家に御預けとした<ref name="渡辺(1998)2072">[[#渡辺(1998)|渡辺(1998)]] p.207</ref><ref name="yamamotoc174">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p174-177</ref>。細川・松平・水野家に預けられた赤穂浪士達は罪人というより英雄として扱われたという<ref name="yamamotoc174" />。一方、毛利家は浪士の部屋をくぎ付けにする、風呂も使わせない、私語も許さないなど罪人として厳しい扱いをした記録が残る<ref>「毛利家文庫」「長府毛利十四代記」(下関市立長府博物館)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
==== 浪士切腹の決定 ====
赤穂浪士討ち入りの報告を受けた幕府は浪士等の処分を議論し、元禄16年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[西暦]]1703年3月20日)、彼らを切腹にする事を決めた。赤穂浪士が「主人の仇を報じ候と申し立て」、「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたからである<ref name="yamamotoc186">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p186-188</ref>。<!--
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幕府の申渡全文は以下の通り
{{quotation|<poem>
{{要出典範囲|内匠儀、勅使ご馳走の御用を仰せ付け置かる。その上時節柄殿中を憚らず
不届の仕方に付いてお仕置き仰せ付けらるに付き、上野儀お構いなしとさしおかれ候ところ
主人の仇を報じ候と申し立て四十六人が徒党致し上野宅へ押し込み飛び道具など持ち出し
上野を討ち候始末。公儀を恐れざる段重々不届きに候、これに依り切腹申し付ける。|date=2024/02/03}}
</poem>}}-->
ここで重要なのは幕府が「主人の仇を報じ候と''申し立て''」という言い回しをしている事である。 あくまで赤穂浪士達自身が「主人の仇を報じる」と「申し立てて」いるだけであって、幕府としては討ち入りは「徒党」であり仇討ちとは認めないという立場なのである<ref name="yamamotoc186" />。
通常、このような罪には斬首が言い渡されるが<ref name="yamamotoc186" />、赤穂浪士達の立場を考慮したのか、武士の体面を重んじた切腹という処断になっている。切腹の沙汰に大石ら赤穂浪士は、涙を流したと記録されている<ref group="注釈">熊本藩での記録(『堀内伝右衛門覚書』)。久松松平家文書「波賀清太夫覚書」では単に切腹の沙汰のみが記されている。</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
==== 切腹 ====
[[ファイル:Sengakuji 47 ronin graves.jpg|thumb|[[泉岳寺]]の赤穂浪士の墓]]
[[ファイル:Kagakuji Ako10n4272.jpg|thumb|[[花岳寺]]の赤穂義士の墓]]元禄16年[[2月4日 (旧暦)]](<!--消すな!。消すとそのあとで、討入りの日付を「1702年」にする奴が絶対に居る-->[[西暦]]1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はお預かりの大名屋敷で切腹した<ref name="yamamotoc188">[[#山本(2013)|山本(2013)]] 188-192</ref>。 切腹の場所は庭先であったが、切腹の場所には最高の格式である畳三枚(細川家)もしくは二枚(他の3家)が敷かれた<ref>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第七章二節「大石内蔵助の最後」</ref>。
当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていた<ref name="yamamotoc188" />{{refn|group="注釈"|ただし間新六のみ肌脱ぎせずにすぐに脇差を腹に突き立てたため、実際に腹を切り裂いている<ref name="泉(1998)1192">[[#泉(1998)|泉(1998)]] p.119</ref><ref name="yamamotoc188" />。
<br>
また、久細川家では切腹の詳細が記録されている。「大石が切腹に向かう時、潮田が「皆の者共も追っ付参る」と声を掛けた」、「肌押しぬぎの大石はずっと武者震いをしてふるえていた」「切腹の進行が遅いので、(堀内は辺りかまわず)苛立ち怒鳴りつけたくなった」などと記している(細川家文書『堀内伝右衛門覚書』){{Primary source inline|date=2024年2月}}。
<br>
松松平家では無体に扱った記録も残っており、特に[[大石良金]]については<ref>山本博文「赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)」(吉川弘文社、2013年)</ref>{{要ページ番号|date=2024/02/03}}「切腹者が小脇差を取り上げ腹に当てる前に首を打つ」「左の手にて髻(たぶさ)を持って落とした首をもち上げ<ref group="注釈">通常は血が散逸しないよう、清めの[[白紙]]を敷いた台に安置して検使に見せる。</ref>、目付に見せる」などの記述がある<ref>久松松平家文書「波賀清太夫覚書」</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。}}。[[細川綱利]]は切腹跡についた血を清掃しようとする藩士に対して赤穂浪士は吾藩のよき守り神であるとして清掃する必要なしと指示している<ref name="泉(1998)1202">[[#泉(1998)|泉(1998)]] p.120</ref><ref name="名前なし_5-20240629115709">[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]] p293</ref>。
赤穂浪士の遺骸は主君の浅野内匠頭と同じ[[泉岳寺]]に埋葬された<ref name="yamamotoc188" />。 赤穂の浅野家菩提寺である[[花岳寺]]にも37回忌の[[元文]]4年(1739年)に赤穂浪士達の墓が建てられている<ref name="kagakuji2">[http://www.kagakuji.org/contents/022_akogishinohaka.html 花岳寺「赤穂義士の墓」]</ref>。(墓には赤穂浪士の遺髪が埋められたと伝えられる<ref name="kagakuji2" />)。
=== 余波 ===
==== 吉良家への処罰 ====
赤穂浪士の切腹と同日<ref>[[#山本(2014)|山本(2014)]] p171</ref>、吉良家を継いだ[[吉良義周|吉良左兵衛義周]]を信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けとされた<ref name="yamamotoc194">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p194-196</ref>。
幕府が吉良左兵衛の処分を命じた理由は、義父・吉良上野介が刃傷事件の時「内匠に対し卑怯の至り」であり、赤穂浪士討ち入りのときも「未練」のふるまいであったので、「親の恥辱は子として遁れ難く」あるからだとしている<ref name="yamamotoc194" />。ここで注目すべきは吉良上野介の刃傷事件の時のふるまいが「内匠に対し卑怯」であるとしている事で、幕府は赤穂浪士の討ち入りを踏まえ、刃傷事件の時は特にお咎めのなかった上野介の処分を実質的に訂正したのである<ref name="yamamotoc194" />。
左兵衛はその後20歳余りの若さで亡くなり<ref name="yamamotoc194" />、ここに吉良家は断絶する事になった<ref>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第七章三節「吉良左兵衛の処分」</ref>。
==== 赤穂浪士の遺児の処罰と赦免 ====
赤穂浪士の遺児らも、15歳以上の男子は[[伊豆大島]]に[[遠島]]、15歳未満の男子は縁のあるものにお預けとなり、15歳になるのを待って[[遠島]]という処分が幕府から下された<ref name="yamamotoc197">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p197</ref>。(女子は構いなし<ref name="yamamotoc197" />)。
15歳以上の男子は4人(吉田伝内、中村忠三郎、間瀬惣八、村松政右衛門)おり、彼らは処分にしたがって遠島に処せられた<ref>『読売新聞』地方版(東京都島嶼)より「間瀬惣八 流刑先の大島で病死…」(17年4月23日)</ref><ref name="yamamotoc197" />。
間瀬惣八のみ22歳で伊豆大島で病死したが<ref>東京都大島町『間瀬惣八の墓』解説。</ref>、3人は[[宝永]]3年に放免された。他の遺児たちも綱吉が死去した[[宝永]]6年に大赦とされた<ref>「間瀬定八と伊豆大島」(財)中央義士会理事長(当時) 中島康(夫元町金光寺 大島元町共同墓地)</ref><ref>『歴史読本(17.8.1号)』より「流刑先の伊豆大島で無念の病死」</ref><ref>[[#山本(2013)|山本(2013)]] p202</ref>。<!--伝承の部分・現地記録と異なる部分・遺跡や史料で確認できないものをwiki関連記事『忠臣蔵』へ移動。--><!--
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{{要出典範囲|本土に戻った遺児たちは仕官することなく、仏門に入った(吉田はのち還俗して浪人)。|date=2024/02/03}}
=====遠島の四人以外=====
{{出典の明記|section=1|date=2024/02/03}}
遠島の四人以外は以下の通り。「武士は二君に仕えず」のせいか、他家に仕えた者は多くが致仕している。堀部氏の後嗣は、正保四年(1647年)に既に細川家臣だった家からの養子入り(金丸・武庸と血縁はない)である。
*[[大石吉之進|大石良以]] 出家。墓も現在は荒廃している<ref>{{Cite news|newspaper=産経新聞但丹版|title=大石吉之進の墓回収へ|date=2021-12-07}}</ref>。
*[[大石大三郎|大石良恭]] 親戚預け、のち仕官。広島藩で実子の相続許されず、小山家より養子。大石良尚が寛政9年に没し、小山流大石家は断絶。
*原 重次郎 次男でわずか3歳だったが出家、のち還俗して惣八郎と改め仕官。広島藩で絶家。養子(義三男)の兵太夫も逐電。元辰が義絶した又従兄弟の子孫が[[米沢藩]]士で続く(米沢原氏)<ref>『国宝 上杉家文書』より「上杉候家士分限簿」(写しが米沢市立図書館所蔵)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。長男の道善(つねよし)は成人していて、討ち入りに反対し息子のほうから父・元辰と義絶。上洛して町医者となっており連座を免れる。この系統が現在の原宗家となっているが、日蓮宗に帰依しており泉岳寺とは絶縁。
*片岡 新六 出家。
*片岡六之助 出家。
*富森長太郎 親戚預けのち仕官。壬生藩に仕えた後に殺人を起こし浪人。後嗣の正幸は[[水口藩]]で不正により切腹、その子・正盈も殺人の咎で刑死し、富森家は断絶<ref>『水口藩加藤家文書』(甲賀市教育委員会事務局)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。無縁墓は[[日本基督教団]]水口教会に属す。
*奥田清十郎 親戚預けのち仕官(仁尾家に養子入り)。徳島藩で早世。奥田家は断絶。仁尾家は奥田・近松両氏と血縁でない養子が入り続いた。
*矢田作十郎 親戚預け(吉川家に養子入り)。旗本岡部家で浪人。
*中村 勘次 出家。
*不破大五郎 出家。後に還俗して出奔。大五郎の子・亀八郎(不破正種の[[孫]])は尾張藩に仕えたが、安永8年(1779年)、不正があり家屋敷を召し上げ放逐されて<ref>「不届に付き厳重の御仕置可被仰付け候」、「君(藩主)の御勘気蒙り、既に居屋敷をも召上られむ」(細野要斎『葎の滴』)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}、不破家は断絶した<ref>尾張徳川氏文書『金鱗九十九之塵』</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
*木村惣十郎 出家。
*岡島 藤松 出家。
*岡島五之助 出家。
*茅野猪之吉 幼児のまま死亡。
のちに遺児の存在判明
*千馬藤之丞 親戚(津川門兵衛、没後は尾關源五郎)預けのち仕官。岡山藩で逐電。
-->
====
綱吉が死去した[[宝永]]6年8月には、内匠頭の実弟である[[浅野長広|浅野大学]]も赦免され、500石の旗本に列した<ref name="泉(1998)2782">[[#泉(1998)|泉(1998)]] p.278</ref><ref name="yamamotoa73">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第七章三節</ref>。
大石内蔵助の三男である[[大石大三郎|大三郎]]も、[[広島市|広島]]の浅野宗家に内蔵助と同じ1500石で召抱えられた<ref>[[#泉(1998)|泉(1998)]] p.122/279</ref><ref name="yamamotoa73" />
三次藩主・[[浅野長澄]](瑤泉院の義甥)は浅野宗家と共に討ち入りを阻止すべく動いていたが、事件後に謹慎の処分を受けた<ref>『冷光君御伝記』第三巻</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。<!--出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|(1719年に除封となるが事件と直接の関連はない)。天城領主・[[池田由勝]](大石良雄の従弟)が備前天城3万2000石のうち2000石を減じられた。|date=2024/02/03}}-->
=== その後 ===
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====吉良家====
{{出典の明記|section=1|date=2024/02/03}}
三河吉良家(西条家)の断絶後、武蔵吉良家(奥州管領家)の[[吉良義俊|義俊]]は、姓を蒔田<ref group="注釈">高家の「今川」における「品川」と同じ扱い。</ref>から吉良に戻す許可を幕府に求めていたが、[[宝永]]7年([[1710年]])2月15日にこれが許された。武蔵吉良家は[[高家 (江戸時代)|高家]]吉良氏の職を引き継ぎ、明治に至る<ref group="注釈">華蔵寺(愛知県西尾市)</ref>。また、吉良義周の没後に、三河吉良家(東条家)の[[東条義叔|義叔]](上野介の実弟)は西条家の祭祀を引き継ぎ、三河吉良家も旗本として幕末まで続く。ただし、高家にはならず一般の[[旗本]]である<ref group="注釈">「東条」から「吉良」へ復姓したのは、義叔の孫に当たる義孚の代である。</ref>。
また、義央の血脈は[[上杉家]]・[[大炊御門家]]・[[鷹司家]]・[[畠山家]]・[[一条家]]・[[黒田氏|黒田氏秋月藩主家]]・[[秋月家]]<ref group="注釈">秋月家より上杉氏に養子に入った[[上杉治憲|上杉鷹山]]の母は綱憲の孫であり、義央の玄孫にあたる。</ref>などに伝わり、21世紀の[[令和]]の現在まで存続している。[[仁孝天皇]](120代)・[[孝明天皇]](121代)・[[明治天皇]](122代)の三朝に仕えた[[右大臣]]・[[大炊御門家信 (江戸時代の公卿)|大炊御門家信]]は義央の来孫。[[皇別摂家]]だった一条家の現当主・[[一條實昭|一条実昭]]は義央の九世子孫<ref group="注釈">[[雲孫]]の子。雲孫よりあとの末孫は定まった呼称がない。</ref>にあたる。
-->
====大石家====
<!--出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|明和5年(1768年)3月18日に隠居。男子が2人あったが浅野家は家督相続を許さず<ref group="注釈">良恭は正室と継室である[[浅野氏]]の姫を二度も離縁しており、いずれも妾腹である。</ref>、小山良至(小山良速の孫)の五男[[大石良尚|良尚]]を養子に迎えて大石家の家督を継がせた。|date=2024/02/03}}
{{要出典範囲|その良尚は、後継男子(大石良完)とその嫡男が相次いで先立ち、自身も病んで大石家を去り、実家の小山家に帰って没-->
寛政9年(1797年)以降に一族の横田温良が大石に改姓し、大石の名跡を再興した<ref>『義士銘々傳』(泉岳寺発行)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}という。広島藩では温良系図の主張を疑問視し<ref>後藤武夫伝『新撰大石系図』</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}、小山流大石家(大石宗家・上士・知行高1200石)の相続はできなかった。
しかし、大石家が絶えるのを惜しんだ藩は、7月25日に、温良が別家として横田流大石家(知行高500石・馬廻組のち江戸詰)を立てるのは認めた。良督のあと良知が萱野氏から入る。 最後の大石家当主・大石多久造は[[明治]]22年(1889年)に亡くなり、横田大石氏も断絶した<ref>泉岳寺 鎌田豊治「大石家の墓」(『忠臣蔵史蹟辞典』中央義士会、2008年)</ref>{{要ページ番号|date=2024年2月}}。
広島の横田大石氏が別家扱いになったのち、赤穂に墓のある大石家の祭祀は、赤穂浪士の装束等の遺品を預かり、[[大石信清|信清]]の瀬左衛門家を継承した大石良饒が大石宗家([[森家]]赤穂藩士<ref group="注釈">[[花岳寺]]の境内には、森家家臣の有志により大石家歴代の墓とは別に義士墓も建立されている(『播州赤穂 台雲山花岳寺』より「境内案内」)。</ref>)となり、赤穂にて祭祀を継承している<ref>赤穂大石神社「義士資料館」展示</ref><ref>森家文書『東西分限帳 慶応元年』</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。現在も、信清系大石氏の当主が[[赤穂義士祭|義士祭]]などに参加されている。
====赤穂藩====
浅野家の改易後、赤穂藩は元禄14年(1701年)の内に[[永井直敬]]が引き継ぐ(下野国[[烏山藩]]より転封、3万2000石)。5年後の[[宝永]]3年(1706年)には[[森長直]]に交代し(備中国[[#西江原藩|西江原藩]]より転封、2万石。永井氏は信濃国[[飯山藩]]へ転封)、そのまま廃藩置県まで異動はなかった(12代165年)<ref>森家文書『東西分限帳 天保三年』</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
====吉良荘====
吉良家の断絶後、高家職などは上野介の弟・[[東条義叔]]が継承して子孫は吉良を称したが、知行は武蔵国児玉郡と賀美郡内の自身の領地にとどまり、吉良荘は[[西尾藩]]のほか大多喜藩や沼津藩などの飛び地、寺社領、[[天領]]といった様々な領主の統治下に置かれた<ref>『[[寛政重修諸家譜]]』(巻第九十二)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。また、上野介の官名に因む、[[上野国]]白石の吉良家飛び地700石は、[[吉井藩]]、佐野藩、[[天領]]ほか、複数の旗本が統治した<ref>『旧高旧領取調帳』など</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
<!-- 出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|なお、吉良義央の男系子孫である[[吉井信謹|鷹司(松平)信謹]](義央の[[仍孫]])は、元治2年(1865年)から吉井1万石の藩主となり、[[吉井陣屋]]にて吉良の旧領の一部を統治した。|date=2024/02/03}}
=====江戸屋敷=====
元禄16年([[1703年]])の[[元禄大地震]]とそれの6日後に起きた大火で、吉良邸があった周辺の武家地や町人地は壊滅状態になり、本所の人々は吉良の怨霊が現世にとどまり祟りをなしたと噂した<ref group="注釈">現地『吉良祭』由来説明。本所では、現在も12月13日に鎮魂を兼ねた「吉良祭」が開催されている。</ref>。
その復興のときに吉良邸跡の中島伊勢([[小林平八郎|小林央通]]の曾孫・[[葛飾北斎]]の養父<ref>「北斎」(3-5ページ、総合研究大学院大学教授・大久保純一、岩波書店)</ref>)の拝領地に義央の鎮魂と供養のために吉良神社<ref group="注釈">旧・吉良神社は明治政府の[[神社合祀]]の方針により旧・松坂稲荷と統合され、義央の墓を持つ現在の姿になっている。</ref>が建てられている。
鉄砲洲の赤穂藩邸は 1701年([[元禄]]14年)3月17日に幕府に収公され、いったん[[小浜藩]]に与えられたが、酒井忠囿は幕府に懇願して矢来町にあった元の藩邸に復した。その後は分割された。火災が続いたため(明治に創立の聖ルカ基督教看護学校<ref group="注釈">現在の聖路加大学附属病院([[聖書]]『ルカによる福音書』と異なり、法人登記上の読みは「セイロカ」)</ref>に被災者の供養樹([[松]]並木)がある)、大名屋敷としては使用されなくなり町人地および農民地となった<ref>『嘉永京橋南絵図』</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}(牛の牧場もあり、[[芥川龍之介]]も近郊で生まれている<ref group="注釈" name="名前なし-pb6O-1" />)。また、泉岳寺の赤穂義士の墓所門は旧・赤穂藩邸の裏門を移植したものである(暴徒による破壊傷が柱に残る)。
-->
====城・陣屋・家臣宅====
<!--出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|赤穂城では、城を預かった隣国の播磨[[龍野藩]]主・[[脇坂安照]]もまた在番中に家老・脇坂民部の目代が刃傷事件を起こし、6月24日、赤穂城内で死傷者を出す。また、多数の領民が暴れて建物や石垣を壊したりした<ref>脇坂家文書『赤穂城在番日記』九月朔日「御城内破損帳」</ref>。幕閣の命で代官が派遣され、建物壁の落書消しや石垣修復が行なわれた。その後、永井家、森家と受け継がれていく。吉良荘の[[岡山陣屋]]は廃城(陣屋)となった(現在は門のみ)。|date=2024/02/03}}
-->赤穂城下にあった[[浅野氏|浅野家]]旧臣の屋敷群は、[[永井氏|永井家]]赤穂藩では全く使用されず、[[森氏|森家]]が建物を破壊した。城内では、[[享保]]14年([[1729年]])に、三の丸の旧・大石良雄邸が全焼し、再建されなかった。[[1876年]](明治9年)の城払い下げにより荒れ果てた。(現在は「大石邸長屋門」が復元されている<ref>「昭和期に、総工費3,138万余円をかけて復元」(現地「大石邸長屋門」解説板)</ref>。)<ref>『義士魂』(新)六号(赤穂大石神社・赤穂義士顕彰会編)</ref>{{要ページ番号|date=2024年2月}}
建造物の残骸は放置され、[[中村清右衛門]]の屋敷跡などはごみの投棄場所となり、近代には完全に埋め立てられていた<ref>平成26年度赤穂城下発掘調査「有年原・有年牟礼地区分布調査」(赤穂市教育委員会 平成27年4月21日)より7ページ「埋蔵文化財に関する活動」</ref>。近年の発掘調査で遺構(井戸の跡など)が出土している。
<!--
出典が殆どない事、[[忠臣蔵]]の項目に詳しく書いてあるため本項には必要ない事、明治期の『元禄快挙録』を江戸期の話と同列に扱うなど内容に問題がある事からコメントアウト。
=== 国内での伝播 ===
浪士たちの討ち入り事件は、討ち入り{{疑問点範囲|2日後の14日|date=2016年12月}}の記録にすでに「江戸中の手柄」と書いてあるほどすぐさま噂として広まった{{Sfn|谷口|p=175}}{{Refnest|group="注釈"|江戸商人浅田孫之進の元禄15年極月(12月)16日付書状に「江戸中の手柄に御座候」とある<ref>「東京大学経済学部所蔵「浅田家文書」所理喜夫編『古文書の語る日本史6江戸前期』筑摩書房、1989年、p514</ref>。同じく、京都の儒学者伊藤東涯の日記「伊藤氏家乗」(影印複写版・天理図書館蔵)の元禄15年12月14日条に「可謂忠肝義胆矣」とある。そして、伊勢藤堂藩の無足人山本平左衛門日並記の元禄16年正月12日条に「揚一天名誉之事、諸人催感涙也」とあり<ref>『清文堂史料叢書第21刊 大和国無足人日記 上巻』清文堂出版、1988年、p349</ref>、地域や身分を問わず、赤穂浪士の討ち入りを称賛・評価した事件直後の記録などが残っている<ref>小林輝久彦「討入り後の吉良家家臣連署状写についての一考察」大倉精神文化研究所、2019年、p218</ref>}}。
近江商人の元禄15年12月15日書状には、自首して切腹が「いさぎ能キとの評判ニて候」と書く一方、自らは「善悪は分からない」と述べている<ref>町立近江日野商人館所蔵文書</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。「武林 先祖は虎も 住んだ国」「猛々し 鷹をすずめが 出て咎め」<ref group="注釈">「鷹の前の雀」は「蛇に睨まれた蛙」の同義語だが、伊達家が赤穂義士の屋敷前通行を阻んだことを詠んだもの(柄井川柳『[[誹風柳多留]]』)。</ref>等の落書も出た。
『元禄快挙録』『赤穂義士一夕話』には「江戸の町民が引き上げの赤穂義士を見て恐れおのめいていた」と記されている<ref>福本日南『元禄快挙録』二百三十五
</ref><ref>山崎美成『赤穂義士一夕話』七之巻</ref>{{出典無効|date=2024/02/03}}。
その後、泉岳寺の住職・酬山が義士の墓を放置してしまったため、「泉岳寺の墓地には草が丈高く生い茂って、墓が並んでいるのも見えない」と同時代人の記録が残る<ref>宝井其角『類柑子』(宝永四年)刊</ref>。[[徳川吉宗]]の治世までは、赤穂義士の墓参者が殆ど無かったと書かれている<ref>[[菊岡沾涼]]『江戸砂子(えどすなご)』巻之五「荏原郡 三田 二本榎 高輪」享保一七年(一七三二)刊</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
半世紀が過ぎたころ、歌舞伎『[[仮名手本忠臣蔵]]』が上演されると、人が泉岳寺に来るようになったので金銭を徴収することにした<ref>敬順和尚「近頃まで浪士の古墓を見るものもなかりしに、去年より瓦葺門をたて墓守が一人銭六文を取りて見せたり」『遊歴雑記』文化九年(一八一二)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
{{要出典範囲|また、大石良雄が閑居した山科の邸宅は、討ち入り後に荒廃した<ref group="注釈">現在は、山科の[[岩屋寺 (京都市)|岩屋寺]]に「大石良雄君隠棲址」碑が1901年に建てられている。</ref>。[[佐幕]]派の旗本・[[浅野長祚]]が[[嘉永]]年間に岩屋寺を再建すると、本堂には、本尊の周りに赤穂義士の位牌が並べられた。|date=2024/02/03}}
-->
===明治維新後の顕彰===
<!--出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|徳川幕府が崩壊して以降は、赤穂浪士に対して顕彰する動きが出てきた。しかし、|date=2024/02/03}}<ref group="注釈">{{要出典範囲|主として「仇討禁止令」と「廃仏毀釈」。京都の寺では義士墓や供養塔は実際に破却されている。|date=2024/02/03}}</ref>-->
文明開化を謳う[[明治維新]]の藩閥政府は赤穂義士に厳しく、泉岳寺も荒廃の時期だったと自らを回想している<ref>萬松山泉岳寺公式web「泉岳寺の歴史」</ref>。<!--{{要出典範囲|(泰然和尚は義士像の破壊撤回<ref>明治6年(1873年)年2月7日、明治政府は「復讐禁止令」(仇討ち禁止令)を布告した。</ref>を嘆願し、守るため周囲に柵を設けた)|date=2024/02/03}}。-->同様に大石神社も、創建が許可されたのは30年以上も経ってからであり、募金も集まらず<ref>片山伯仙編「仙珪和尚日記抄」(花岳寺、1967年)</ref>[[大町桂月]]など国粋主義者による反対もあった<ref>政教社「日本及日本人」(1909年)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。神社完成は大正を待たねばならなかった。
*[[1868年]]([[明治]]元年)11月、[[東京]]に移った[[明治天皇]]は泉岳寺に勅使を派遣し、大石らを嘉賞する[[宣旨]]と[[金幣]]を贈った<ref name="斎藤(1975)804">[[#斎藤(1975)|斎藤(1975)]] p.804</ref>。
*[[1900年]](明治33年)に赤穂に[[大石神社]](赤穂大石神社)を創設する認可が出た。[[1912年]]([[大正]]元年)に大石神社の社宇が完成、鎮座し、[[1928年]]([[昭和]]3年)には県社に昇格した<ref>[[#斎藤(1975)|斎藤(1975)]] p.805-87</ref>。
*[[1933年]](昭和8年)、[[京都市]][[山科]]に[[大石神社]](京都大石神社)の創立が許可された。[[1935年]](昭和10年)、大石神社建設会などの寄付により社殿が竣工し、[[1937年]](昭和12年)4月には府社に列格する。
*[[1978年]](昭和53年)、[[大石邸長屋門]]が再建された。良雄が出入りした当時のものは江戸期に火災で焼失していた<ref>「老朽甚だしく、昭和期に、総工費三、一三八万余円をかけて復元」との説明が記される(赤穂義士会)</ref>。
* [[室鳩巣]]が『赤穂義人録』を漢文体全2巻1冊で著わしており、上巻は赤穂藩主[[浅野長矩]]が[[江戸城]][[松の廊下]]で[[吉良義央]]に刃傷を起こした事件から、赤穂藩の[[家老]]であった大石良雄ら四十七士が吉良を討ち取って[[江戸幕府]]から[[切腹]]を命じられた経緯が時系列に記され、下巻は大石以下四十七士の経歴や逸話が記されている<ref>川平、井上編(2016年)、P118-120</ref>。[[青地兼山]](鳩巣の門人)の『兼山秘策』によれば、[[新井白石]]や[[対馬藩]]士との話で四十七士に関心を持った[[朝鮮通信使]]のために漢文体による赤穂事件の史料を求めていた対馬藩家老・[[平田直右衛門]]の要請を受けて、鳩巣が通信使に『義人録』の写本を与えることになり、鳩巣は兼山への書状で「四十七士に対して、私もずいぶん奉公したものです」と報告している<ref>川平、井上編(2016年)、P131-136</ref>。
* 鳩巣は同書を単に四十七士の称賛する目的だけで作ったのではなかった。奥村脩運の跋文には『[[資治通鑑綱目]]』に比するものを目指し、上は朝廷から下は士庶に至るまで、さらに異域(海外)でも読まれるようになることを期待していたと記している<ref>川平、井上編(2016年)、P126</ref>。実際、鳩巣は日本の慣習を知らない海外の読者を意識して、朝廷と幕府の二重体制や[[公武関係]]の説明を省いて幕府を含めて「朝廷」と表記し、日本独自の習慣と思われるもの(名乗りの方法、[[月代]]のスタイル、[[仏教]]による葬儀など)は全て「和俗」であると断りを入れている。
* 中国では清代に『海外奇談』文政3年(1820年)として赤穂事件が漢文で出ている。近年でも中国語や韓国語に赤穂事件は翻訳され、[[赤穂市]]は両国語話者の留学生も受け入れている。
== 討ち入りに対する見解{{Anchors|討ち入りに対する見解}} ==
=== 江戸時代の儒学者たちによる議論 ===
====
主君の遺恨を晴らすべく命をかけて吉良邸に討ち入った「義士」達が切腹に処せられた事は人々に大きな衝撃をもって迎えられた<ref>[[赤穂事件#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p209</ref>。
儒学者たちの間でも、赤穂事件の是非をめぐって論争が巻き起こり、その論争は幕末まで続いた<ref name="名前なし_6-20240629115709">[[赤穂事件#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p225</ref>。論争がこのように長く続いたのは、この問題が武士の生き方や幕藩制度の構造に深くかかわるものだからである<ref name="名前なし_7-20240629115709">[[赤穂事件#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p215</ref>。
論争の焦点は多岐にわたるが、その主なものは赤穂浪士の行動が「義」にあたるのかという事である。これは浪士達の吉良邸討ち入りが「仇討ち」とみなせるかどうかにかかっている<ref name="taguchi181">[[赤穂事件#田口(1999)|田口(1999)]] p181-182</ref>。浪士達の行動が「仇討ち」だとすれば、それを果たした浪士達は忠臣であり義士であるという事になるし、そうでなければ彼らは忠臣でも義士でもない事になるのである<ref name="taguchi181" />。
この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族のために復讐することを指し<ref name="miyazawa146">[[赤穂事件#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p146</ref>、主君の仇を討ったのは本事件が初めてであるため<ref name="miyazawa146" /><!--出典がないのでコメントアウト<ref group="注釈">{{要出典範囲|中国では[[豫譲]]が主君である[[智瑶]]の仇を討とうしたことがあり、その行為は仇の[[趙無恤]]からも称賛されている。|date=2024/02/02}}</ref>-->、本事件が仇討ちに当たるか否かは事件当時は自明なことではなかった。
この問題は武士の生き方や幕藩制度の構造に深くかかわるものであったこともあり<ref name="名前なし_7-20240629115709"/>、論争は幕末まで続いた<ref name="名前なし_6-20240629115709"/>。
==== 「義士」としての肯定論 ====
赤穂浪士達が切腹した元禄16年には早くも[[林鳳岡]]が『復讐論』を著し、「義士」達が主君の讐を討つのは儒教的道義にかなうとして彼らの行動を賛美した<ref name="miyazawa214">[[赤穂事件#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p214-229</ref>。しかし鳳岡は同時に、彼らは法を犯した者達であるから「法律」の観点からは処罰は正当であるとして幕府の裁定を肯定した<ref name="miyazawa214" />。ただし鳳岡は、儒教的道義にかなう行為がどうして罰せられなければならないのかという肝心な点には答えていない<ref name="miyazawa214" />。
また同じく元禄16年には[[朱子学|朱子学者]]の[[室鳩巣]]が赤穂事件に関する最初の「史書」<ref name="akou1-347">[[赤穂事件#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]] 第一巻p347-349</ref>である『[[赤穂義人録]]』を著し、義士を賛美した<ref name="akou1-347" />。本書では泉岳寺引き上げの最中にどこかに消えた寺坂吉右衛門は大石内蔵助の命で浅野大学のもとへ向かったのだとし<ref name="akou1-347" />、寺坂を義士の一人に数え赤穂浪士は寺坂を含めた「四十七士」だとした<ref name="akou1-347" />。これにより「四十七士説」は生まれた<ref>[[赤穂事件#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p172</ref>。
ただし、室は周の[[武王 (周)|武王]]が[[殷]]を伐った行為とこれに抗議して餓死した[[伯夷・叔斉|伯夷兄弟]]の行為が後世ともに称えられた例を引き合いに出して義士への賛美と幕府の処分の正当性は矛盾するものではないとしている他、大石の忠義は称えつつも家老の職務は藩主が過ちを犯さないように補佐するものであると指摘して刃傷事件の原因は大石の家老としての能力不足にもあるという批判もしている<ref>川平敏文「室鳩巣『赤穂義人録』論-その微意と対外意識-」井上泰至 編『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4 P117-142</ref>。なお本書は「史書」として出されたものであるが、今日の目から見れば赤穂事件に関する虚伝俗説を信用して書かれたもので随所に史実とは異なる記述がある<ref>[[赤穂事件#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p5</ref>。
浅見絅斎は「内匠頭が大礼がおこなわれる殿中であるのをはばからず、私怨のために刃傷に及んだのは甚だしい落ち度」としつつも、「大法を以って云えば、個人同士の喧嘩においては両成敗の法であり、内匠頭が成敗になれば上野介も成敗になってしかるべき」「大石らが討ち入り後は自害にもおよばず、面々の首を差しのべて上に任せたのは殊勝である」<ref>「絅斎先生四十六士論」(『日本思想体系』390-396頁)</ref>と述べ、その後も義士論叢は続けられた<ref name="miyazawa214" />。
近代に入ってからは新渡戸稲造が、赤穂義士を「武士道」および「義」の実践者として海外(米英語圏)に紹介している。赤穂藩邸跡の農民地(芥川生家の家業は牛乳製造)近くで生まれた[[芥川龍之介]]<!--出典がないのでコメントアウト<ref group="注釈" name="名前なし-pb6O-1">{{要出典範囲|「芥川龍之介生誕の地」碑(明石町)があったが、平成期に別の場所に移されている。|date=2024/02/03}}</ref>-->は「或日の大石内蔵助」を書き、作中人物の口を借りて切腹に臨む大石らを称えるとともに、高田、新藤、小山といった所謂「不義士」を罵倒している。
==== 赤穂浪士への批判・否定論 ====
一方、[[佐藤直方]]は『四十六人之筆記』(宝永2年以前)において、内匠頭の刃傷において吉良上野介は無抵抗に逃げただけだという事実に着目し、刃傷事件は喧嘩ではなく内匠頭の暴力に過ぎず、よってそもそも上野介は赤穂浪士にとって「君の讐」でないとした<ref name="miyazawa214" />。また佐藤は、赤穂浪士達は吉良邸討ち入りの後に自主的に切腹すべきで、そうせずに幕府に報告にあがったのは、生きながらえて禄をはむためではないかと批判している<ref name="miyazawa214" />。
[[荻生徂徠]]も、『政談』のうち「四十七士の事を論ず」<ref>著作全集・選集によっては「四十七士論」となっている文献もあり。</ref>(宝永2年ごろ)において、内匠頭は幕府に処罰されたのであって吉良に殺されたわけではないから吉良上野介は赤穂浪士にとって「君の仇」ではなく<ref name="miyazawa214" />、「内匠頭の刃傷は匹夫の勇による「不義」の行為であり、赤穂浪士の行動は、「君の邪志」を引き継いだものだから「義」とは認められないとして死を与えるべき」と主張している<ref>『近世日本の中期における忠義の観念について』(早稲田大学・谷口眞子)第二章第一節・51頁</ref>。
一方、「徂徠擬律書」では、同情の憐みを禁じえないものの君の邪志」を引き継いだものだから「義」とは認められないとし<ref name="miyazawa214" />、「今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤も公論と云ふべし。」と「義士切腹論」を述べたとされている。
しかし、[[赤穂市]]は「徂徠擬律書」が、[[徳川幕府|幕府]]に残らず細川家にのみ残っていること、上述の「四十七士の事を論ず」と比べ徂徠の発想・主張に余りに違いがありすぎることから、後世の偽書であるとの考察をしている<ref>赤穂市発行「忠臣蔵第1巻」</ref>{{要ページ番号|date=2024年2月}}。<!--
一次資料&出典がないのでコメントアウト
また、後述の徂徠の弟子・太宰春台が、「徂徠以外に『浪士は義士にあらず』という論を唱える者がなく、世間は深く考えずに忠臣と讃えている」と述べている<ref>太宰春台『赤穂四十六士論』(享保17年)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}点から{{要出典範囲|「四十七士の事を論ず」のほうが徂徠の真筆であると思われる。|date=2024/02/02}}-->
享保17年に[[太宰春台]]が『赤穂四十六士論』で「義士」を徹底批判<ref name="miyazawa214" />した事で、義士論争は新たな局面を迎える<ref name="taguchi181" />。春台の論が斬新なのは、幕府の処罰の可否を正面から論じた事にある<ref name="miyazawa214" />。春台によれば、浅野は吉良を傷つけただけなのに浅野を切腹に処したのは幕府の処罰が過当である<ref name="miyazawa214" />。よって赤穂浪士達は吉良を恨むのではなく幕府を怨むべきであり<ref name="miyazawa214" />、彼らは幕府の使者と一戦を交えた後、赤穂城に火を放って自害するべきだったという<ref name="miyazawa214" />。
[[三宅尚斎]]も「浅野法ヲ犯シ公朝ヨリ誅セラレ、吉良ガ殺シタルニ非ザレバ、吉良ヲ讎(あだ)トシテ討チシハ不当事ト云フベキニ似タリ」と主張している<ref>『重固問目』より「先生朱批」第九論・第十論(享保三年九月二十一日)</ref>。<!--
出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|牧野直友は「赤穂遺臣の行動は「義」でなく「乱」である。内匠頭の行動は朝廷への不敬であり、君父の不義の志を継いでその悪を正当化したに過ぎない」と長矩と赤穂浪士を批判し|date=2024/02/02}}、古学においては<ref>「士は怒りにまかせ行動すべからず。憤怒の心は身を亡ぼす」「例ひ君たりとも道に則って自身を制御できぬ者、君にあらず」(『武教全書』巻五)など。</ref>
{{要出典範囲|「士は礼儀を以って私情を抑制すべき」とあると述べている。|date=2024/02/02}}
{{要出典範囲|伊良子大洲は「四十六士は主君と心を同じくしておらず、討ち入りは利のためであって義のためではない。目的を達する事だけを大切にしている。義は仁から生まれるもので、人道に合致してなければならない。吉良邸で故なく殺された子や、孤島で痩嬴死した四十六士の遺児を見るに、四十六士は自分たちが満足すれば其れで良いという利己的な悪である」と持論を展開した。|date=2024/02/02}}-->
[[野村東皐]](公台)は[[延享]]2年(1745年)、『大石良雄復君讐論』にて「君子の忠は義に協ったものでなければならず、大石のは「侠」であっても「義」に非ず。君の私事(邪志)を継いだ不義の忠である」と述べた<ref>「近世武士道論序説」(田中佩刀、1986年)</ref>。
=== 明治以降 ===
[[福沢諭吉]]は『学問のすゝめ』で「赤穂不義士論」を展開し批判された<ref>第6編「国法の貴きを論ず」および第7編「国民の職分を論ず」</ref><ref>{{cite news|title=忠臣蔵で人気の「赤穂浪士」を福沢諭吉が非難の訳|newspaper=東洋経済ONLINE|date=2022-12-11|author=[[濱田浩一郎]]|url=https://toyokeizai.net/articles/-/638487|accessdate=2024-05-31|publisher=株式会社[[東洋経済新報社]]}}</ref>。[[大日本帝国]]で[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]教授を勤めた[[内田百間]]は、「秩序の破壊と復讐を行なった」<ref>内田百間『百鬼園随筆』(三笠書房、1933年10月)</ref>{{要ページ番号|date=2024年2月}}と(本人は陸軍時代に[[従五位]]を拝受)赤穂義士を否定する論説を書いている。
[[三田村鳶魚]]は、「[[江戸学]]」に関する複数の評論・随筆において「あくまで実証・考証に立場を置きながら、伝説や脚色を廃して観察した一件の顛末を記した」として「是は是、非は非」の立場で意見を述べている<ref>三田村鳶魚『横から見た赤穂義士』「義士に仕立てたのは誰か」「四十六人の偶像化」「義士嫌ひ」(昭和十年)</ref>。<!--22巻もある『日本外史』を全部確認するのは困難なため、「全く触れていない」事を述べている出典が別途必要。
[[広島藩]]浅野家中にあった[[頼山陽]]は、『[[日本外史]]』で徳川家治までの国史を記したが、元禄赤穂事件には全く触れていない{{疑問点|date=2024年2月}}-->。
[[徳富蘇峰]]は、『[[近世日本国民史]]』{{Full citation needed|date=2024年2月}}<!--何巻の何ページか-->で赤穂義士が「吉良を故君の仇と思ふは愚の至り」と思想も述べ、「浅野は我儘一徹の暗君」「大石は只の救い難き好色」など酷評した。一方で久松家[[伊予松山藩|松山藩]]邸の切腹地に「赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館」の揮毫をしている。
== 事件についての学術的な議論 ==
=== 刃傷の原因{{Anchors|刃傷におよんだ理由}} ===
浅野内匠頭は刃傷に及んだ理由を説明していない為、刃傷の原因は今日に至るまで不明である。そのため、様々な説が唱えられている。
====遺恨に関して====
原因は何らかの「遺恨」にあるとされ、『梶川与惣兵衛筆記』の写本によっては内匠頭は刃傷の際「此間の遺恨、覚えたるか」と言ったと書いてあるし、『多門伝八郎覚書』には、多門が近藤平八郎と共に内匠頭を事情聴取したとき、内匠頭は一言も申し開きもないとした上で次のように述べたという<ref name="taniguchi-30">[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p30</ref>
{{quotation|「私的な遺恨から前後も考えず、上野介を討ち果たそうとして刃傷に及んだ。どのような処罰を仰せつけられても異議を唱える筋はない。しかし上野介を打ち損じたことは残念である」<ref name="taniguchi-30" />}}
また浅野内匠頭は事情聴取に対し下記のように答えている:
{{quotation|乱心ではありません。その時、何とも堪忍できないことがあったので、刃傷におよびました<ref>[[#山本(2013)|山本(2013)]] p18</ref>}}
一方、吉良の方は全く身に覚えがないとしている<ref name="yamamotoc14">[[赤穂事件#山本(2013)|山本(2013)]] p14-16</ref>。
しかし身に覚えがあると言えば立場が悪くなるのは目に見えているので、身に覚えがあったとしても隠してこのようにいうであろう<ref name="yamamotoc14" />。
四十七士の一人堀部安兵衛が方々にそれとなく聞いてみたが、「人びとはそれを知ってながら口にすべからざるタブーとして沈黙を守っているようだった」という<ref name="noguchi2015-3-2-naniga" />。
安兵衛の舅の堀部弥兵衛が討ち入り前に書いた『堀部弥兵衛金丸私記』には以下のように原因が吉良の悪口にあると記している:
{{quotation|伝奏屋敷において、吉良上野介殿品々悪口(あっこう)共御座候へ共、御役儀大切に存じ、内匠頭堪忍仕り候処、殿中において、諸人の前に武士道立たざる様に至極悪口致され候由、これに依り、其の場を逃し候ては後々までの恥辱と存じ、仕らすと存じ候<ref name="yamamotoc14" />。<br><br>
伝奏屋敷で、吉良上野介殿がいろいろと悪しざまにおっしゃりました。御役儀を大切に考え、内匠頭は堪忍しておりましたが、殿中において、諸人を前にして武士道が立たないようなひどいお言葉をかけられましたので、そのままにしておくと後々までの恥辱と思い、斬りかけたものと存じております<ref name="yamamotoc14" />}}
内匠頭が吉良に「武士道立たざる様に至極悪口」を言われたのはおそらく刃傷事件当日だろうから堀部弥兵衛がどこまで事情を知っていたか疑問ではある。しかし、少なくとも赤穂藩の家臣達の間では、内匠頭が吉良に「武士道立たざる様に至極悪口」を言われたことが原因であると信じていたのだろう<ref name="yamamotoc14" />。
なお堀部弥兵衛は続けて「悪口は殺害同様の御制禁」と書いており、吉良がその御制禁を犯したから内匠頭はそれに応じたまでだとしている<ref name="yamamotoc14" />。
実際、この時代悪口は明文化されてないものの「殺害同様の御制禁」だった<ref name="yamamotoc14" />。<!--
塩田説は後で詳細に書いてあるのでここでは不要。そもそもwikipediaの記事は出典にならない
他に塩田を巡る諍いも挙げられるが、信憑性が低い(吉良領には塩田はなく、堺屋太一『峠の群像』の誤認による創作が広まったとされる)<ref>wikipedia記事「吉良義央」3項「地元での評価と実体」に詳細を記述。</ref> また、赤穂の塩田開発が飛躍的に伸びるのは、[[森氏|森家]]になってからで、浅野時代の生産高はその十分の一にも達していない<ref name="名前なし-20230316133402">「赤穂城下町跡発掘調査報告書」(2005年、赤穂市教育委員会)p9</ref>-->
==== 刃傷は突発的なもの(乱心)か ====
梶川与惣兵衛によれば、刃傷の少し前に梶川が浅野と話した時には特に異変を感じていなかったといい<ref name="noguchi55">[[#野口(1994)|野口(1994)]] p55</ref>、刃傷は突発的犯行だった事が推測される<ref name="noguchi55" />。実際、刃傷の無計画さはよく指摘され、吉良を仕留めるのであれば、切りかかるのではなく刺し殺すべきで<ref name="noguchi55" />、江戸城における過去の刃傷事件では、小刀で刺す事により、相手を仕留めている<ref name="noguchi55" />。
また田村邸に預けられた浅野内匠頭は家臣に次のように伝えてほしいと依頼したという(『御預一件』)
{{quotation|
此段、兼ねて知らせ申すべく候ども、今日やむを得ざる事故、知らせ申さず候、不審に存ずべく候<ref name="yamamoto2013-14">[[#山本(2013)]] pp.14-16.</ref>
<br><br>
(このことは予め知らせておくべきだったが、今日やむを得ざる事情で知らせる事ができなかった。不審に思うだろう)<ref name="yamamoto2013-14" />
}}
「今日やむを得ざる事情」があったという事は、この日に何かあって突発的に斬りつけたのだともとれる。少なくとも以前からこの日に斬りつけようと計画したわけではないと思われる<ref name="yamamoto2013-14" />。
一方、『元禄世間話風聞集』には刃傷事件に居合わせた茶坊主のものとされる文書が残っており、これによれば内匠頭は「小用に立つ」といって席を立ち、大廊下を通り、「覚えたか」といって上野介に切りかかったという<ref name=":3">[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]] p80</ref>。これを信じれば、吉良から悪口(があったかどうかは不明であるが仮にあったとして)を言われた直後にカッとなって刃傷におよんだわけではなく、悪口のあと多少なりとも時間をかけた後に切りかかったことになる<ref name=":3" />。
2016年12月には、[[京都]]の[[西本願寺]]で事件直後に記した古文書が発見され、そこには「浅野内匠頭殿 乱心」「浅野内匠頭殿の乱心の様子を承りたい」とあり、乱心説は刃傷事件直後の時点で既に有力な説として存在したことは事実のようである<ref>{{Cite web|和書|title=刃傷事件:「浅野内匠頭殿 乱心」 京都・西本願寺で文書発見 真相は……やはり謎 |url=https://mainichi.jp/articles/20161203/ddm/012/040/069000c |website=毎日新聞 |accessdate=2021-06-17 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「吉良殿、お痛み軽く」西本願寺が上野介聴取 忠臣蔵記録、本願寺史料研究所で見つかる |url=https://www.sankei.com/article/20161203-HL2747F76BOCXDF3MQMMOQX3RE/ |website=産経ニュース |date=2016-12-03 |accessdate=2021-06-17 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。<!-- 出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|浅野内匠頭は刃傷の動機に「遺恨あり」と述べ、幕府もそれを採用したものの、遺恨の内容について何も語らないなど不自然な点が多く、実際には乱心であったとする説も根強い。理由を一切語らず(理由がないのに)遺恨ありと主張している浅野の態度のそのものが乱心であると解釈することも可能である。また、下記に記載する動機の諸説全て決定打に欠け、どの動機も不自然であるのだから[[消去法]]で乱心説を取ることも論理的には可能である。|date=2024/02/02}}
{{要出典範囲|仮に乱心説が正しいとすると、遺恨の内容を議論することは無意味となり、「悪役」であるはずの吉良が純然たる被害者ということにもなりかねないため、「忠臣蔵」作品ではまず採用されない。|date=2024/02/02}}
{{要出典範囲|なお、下記の通り、乱心説を採用する場合でも、その原因を痞(つかえ)のみに求めるのは誤りである(持病説)|date=2024/02/02}}
-->
====
浅野内匠頭はこの時二度目の勅使御馳走役であったが、それゆえ「前々の格式」にこだわりすぎ、そこから吉良との確執が生まれたのかもしれない<ref name="noguchi15" />。
また前回の勅使御馳走役の後、急激な物価上昇があったため、前回の額面が通用しなくなっていた<ref name="noguchi15" />。
浅野内匠頭が「前々の格式」にこだわりすぎたとすれば、物価上昇ゆえ、現実にそぐわないものになっていたであろうし、
風説にあるように吉良に「付届け」が必要だったとすれば、その額も物価上昇ゆえに少なすぎるものになっていたであろう。
====賄賂====
当時の文献には吉良が暗に賄賂を要求したのに浅野内匠頭が十分な賄賂をおくらなかった事が両者の不和の原因だとするものがある。
899 ⟶ 900行目:
賄賂に関して書かれた文献には例えば『江赤見聞記』の一巻があり、以下のように記されている:
文中にある「喜六、政右衛門」は建部喜六(250石)と近藤政右衛門(250石)で、ともにこうした折衝にあたる江戸留守居役である<ref name="yamamotoc21" />。
906 ⟶ 907行目:
また事件直後に書かれた『秋田藩家老岡本元朝日記』にも次のようにある
<br><br>
(吉良殿は平生有名な横柄人だということです。また手の悪い人で、方々から物をせびりなさる事が多いということです。先年藤堂和泉殿(高久、伊勢津藩主)へはじめて御振舞に御越になった時も、雪舟の三幅対の御掛け軸をかけたところ、せびって自分の物にしたということです。このような事を方々でなされるので、こちら様へ御越の時も御出入の旗本衆が内々に、よい御道具は出されない方がよいと御申しなされたという事です。
}}
ただしこの記事は事件直後のものなので、内匠頭への同情が入っているかもしれない<ref name="yamamotoc21" />。
913 ⟶ 916行目:
尾張藩士の朝日重章も『鸚鵡籠中記』に次のように記している:
<br><br>
(吉良は欲が深い者なので、前々から皆贈り物をして物を頼んでいたが、今度の内匠頭のやり方が不快だということで、何事につけても知らせをせず、内匠頭が間違って恥をかくことが多かった。内匠頭はこれを遺恨に思って座を立ち、その次の廊下で、刀を抜き、声を懸けて吉良の烏帽子ごと頭を斬った)
}}
朝日は当時名古屋にいたから、これが全国的に広まった噂なのであろう<ref name="yamamotoc21" />。
ただし、『鸚鵡籠中記』は英邁と言われた[[徳川吉通]]<ref>公益財団法人徳川黎明会『圓覺院様御伝二十五箇条』</ref>を「愚行を繰り返す暗君」と評するなど、いわば主君を侮辱する「不忠臣」のような記述が多く、尾張藩では[[禁書]]扱い<ref>『鸚鵡籠中記』の存在が世に知られるようになったのは[[昭和]]40年代になってからである。</ref>で尾張徳川家では公式資料とはされていない<ref>徳川林政史研究所『金鯱叢書 第7輯(昭和54年度)』より「『鸚鵡籠中記』の再検討-編纂書的性格と成立の経緯-」。 </ref>。
==== 浅野内匠頭のストレス ====
『冷光君御伝記』{{refn|group="注釈"|広島藩歴代藩主の世紀『済美録』中の浅野赤穂分家の記録<ref name="noguchi2015-3-2-naniga">[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第三章2節の「なにが内匠頭をカッとさせたか」より</ref>。「冷光君」は浅野内匠頭の法名<ref name="noguchi2015-3-2-naniga" />。}}によれば、浅野内匠頭は勅使御馳走役が嫌で仕方がなかったらしく、「自分にはとても勤まらない」と述べている<ref name="noguchi15">[[#野口(1994)|野口(1994)]] p15</ref>。
御馳走役はほぼ家中をあげて準備をしなければならず、接待費は藩ですべて持たねばならず、しかも典礼の詳細は高家肝煎である吉良の指図を受けねばならないなど、ストレスの溜まる仕事であった<ref name="noguchi15" />。特にこの年は、綱吉が最愛の母を慣例に反してまで[[従一位]]に推そうとしていたため、綱吉は公家の接待に熱心であり、例年よりも緊張を強いられた<ref>[[#野口(2015)|野口(2015)]] p69-70</ref>。
また内匠頭は11日ころから持病の痞(つかえ、詳細後述)が出るなど、心身に不調をきたしていた<ref name="noguchi15" />事もストレスの表れかもしれない。
こうしたストレスが爆発して、刃傷に及んだのかもしれない<ref name="noguchi15" />。
==== 浅野内匠頭の性格 ====
吉良を治療した金瘡外科の栗崎道有は『栗崎道有記録』で「我慢できない事でもあったのか、内匠頭は普段から短気な人間だったというが、上野介を見つけて小さ刀で抜き打ちに眉間を切りつけた」と述べ<ref name="taniguchi20">[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p20-21</ref>、さらに内匠頭と上野介の人間関係はかねてからよくなかったと記している<ref name="taniguchi20" />。
『土芥寇讎記』という、元禄3年時点での大名の家計、略歴、批評等を書いた本には「内匠頭は智のある利発な人物で、家臣の統率もよく領民は豊かである。しかし女好きが激しく、内匠頭好みの女性を見つけてきた者が立身出世し、女性の血縁者も禄をむさぼるじょうたいにある。昼夜を問わず女色に耽っており、政治は家老に任せきったままだ」とある<ref name="taniguchi21" />。
そして同書は大石内蔵助と藤井又左衛門を主君の内匠頭を諫めない不忠な家臣としている<ref name="taniguchi21">[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p20-21</ref>。
947 ⟶ 946行目:
幕府は当初、内匠頭が乱心したと思い、外科の栗崎道有を呼んだが、結局乱心ではないと判断されたため、治療の判断を上野介にゆだね、治療費は上野介の自費になった<ref name="taniguchi31" />。
<!--出典がないのでコメントアウト
==== 刃傷事件の裁定の妥当性について ====
{{出典の明記| date = 2024年2月| section = 1}}
松之大廊下における刃傷事件に対して、加害者である浅野内匠頭は切腹となった一方、吉良上野介はお咎めなしとされた。この幕府の裁定を巡り、吉良側も[[喧嘩両成敗]]によって何らかの処分を受けるべきではないか、といった意見があり、旧赤穂藩士による討ち入りや、その後の「忠臣蔵」作品における浅野・赤穂藩士サイドを擁護する理由付けになった。
[[喧嘩両成敗]]は、常に帯刀している武士の間では口げんかが容易に抜刀、刃傷沙汰になり、さらにその影響が、家族・親類・家臣・知人にまで波及しかねない危険をはらんでいたことから、喧嘩が発生したこと自体を罪とし、双方を罰することにより、喧嘩に対する抑止力として定められたものである。今回のケースでは、事件発生時には二人は現場で一切言葉を交わさないまま浅野が吉良に一方的に切りつけ、吉良は抜刀、応戦せずにそのまま逃げようとしており、現場証拠だけでは吉良は浅野に対して一切の敵意を示していない。この意味では、喧嘩両成敗は成立しない。
しかし、浅野が切りつけた理由が遺恨によるものであり、その「遺恨」の内容が、浅野が切りつけるに足る程度のものであったならば、「遺恨」と刃傷とをあわせて「喧嘩」とみなされ、吉良にも処分が下るべき、ということになる。そのため、今回のケースで裁定を下すには、「遺恨」の内容が重要になってくる。
幕府は刃傷直後に浅野、吉良双方に聴取を行ったが、いずれも、遺恨について具体的に口にしなかった。刃傷事件という重大事を起こしたにも関わらず、具体的な遺恨の内容および吉良側の落ち度を浅野が主張しなかったのは明らかに不自然であるが、何故動機を具体的に主張しなかったのかもまた不明である。
ともあれ、浅野は最期まで遺恨の内容を主張せずに切腹したため、遺恨の内容について当事者からは語られないままであり、公式にも「動機は不明」である。
また、浅野の「乱心」の可能性もあるが、浅野本人は「乱心ではない」と供述しており、幕府側もこれを認めている。ただしこれは乱心説そのものを否定するものではなく、乱心説も刃傷事件直後の時点から既に存在していた(後述)
-->
==== 否定された理由 ====
===== 吉良のいじめ =====
[[File:Zojoji-temple sep2006.jpg|thumb|畳替えのいじめがあったとされる[[増上寺]]の山門]]
史実に俗説を取り交えて書かれた<ref name="miyazawa26" />『赤穂鍾秀記』(元禄16年元加賀藩士の杉本義鄰著)の憶測によれば、吉良は元来奢侈で利欲深く、いつも過言し、「付届け」の少ない者には指図を疎かにしたり陰口をたたいたりする人物であったという<ref name="miyazawa26">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p26-33</ref>。
同書によれば、浅野が吉良に付届けをしなかったので吉良は不快に思い、浅野が勅使をどこで迎えるべきかと吉良に問うたところ、「そんな事は前もって知っておくべきだ」と嘲笑し、「あのような途方もないことをいう人間にごちそう人が勤まるか」と少し声高に雑言したという<ref name="miyazawa26" />。同書はさらに、勅使が休憩する増上寺宿坊の畳替えを吉良が指示せず浅野内匠頭が危うく失態を招きそうになったという話や、「吉良から無礼な事をされても堪忍すべきだ」と親友の加藤遠江守から浅野が忠告されたという話が載っている<ref name="miyazawa26" />。
959 ⟶ 976行目:
梶川が「勅答の礼が終わったら連絡してほしい」と浅野に伝えると、吉良は横から口を挟み、「相談は私にすべきだ。そうでないと不都合が生じるでしょう」と浅野を侮辱し、さらに吉良が「田舎者は礼を知らない。またお役目を辱めるだろう」と追い打ちをかけた為、浅野は刃傷に及んだという<ref name="miyazawa26" />。
他にも江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』の元禄十四年(1701年)三月十四日条には、
{{quotation|世に伝ふる所は、吉良上野介義央歴朝当職にありて、積年朝儀にあづかるにより、公武の礼節典故を熟知精練すること、当時その右に出るものなし。よって名門大家の族もみな曲折してかれに阿順し、毎事その教を受たり。されば賄賂をむさぼり、其家巨万をかさねしとぞ。長矩は阿諛せす、こたび館伴奉りても、義央に財貨をあたへざりしかば、義央ひそかにこれをにくみて、何事も長矩にはつげしらせざりしほどに、長矩時刻を過ち礼節を失ふ事多かりしほどに、これをうらみ、かゝることに及びしとぞ}}
とあり、吉良が行っていたいじめに関して、当時から公然と認知されていた事が窺える{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
しかしこうした記述は刃傷の場に居合わせた梶川与惣兵衛の書いた『梶川与惣兵衛筆記』の記述と矛盾しており、「大胆な虚構」に基づいて書かれたものである<ref name="miyazawa26" />。<!--
出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|しかし刃傷沙汰当日の記述に相違がある事だけから「吉良のいじめ」自体が無かったとするのには無理がある。|date=2024/02/02}}
-->
また忠臣蔵のドラマ等では、吉良による以下のような苛めが描かれるが、佐々木杜太郎はこれに対して反証をしている。
966 ⟶ 992行目:
* 殿中での服装は本来、烏帽子大紋なのに、長上下を身に着けるべきだと吉良が内匠頭に嘘をついた、というもの。しかし内匠頭は2度目の御馳走役なのだから、服装に関してはすでに知っているはずであり、信憑性に乏しい<ref name="sasaki26" />。
* 伝奏屋敷に墨絵の屏風が置いてあったが、吉良から難癖をつけられたので、あわてて金屏風に取り換えた、というもの。史実としても刃傷後に伝奏屋敷に引き取りに行った道具の目録に金屏風がある<ref name="sasaki26" />。しかし天保8年の文献に「伝奏屋敷は前々から金屏風であった」と書いてあり、初めから金屏風があったものと思われる<ref name="sasaki26" />。しかも内匠頭は2度目の御馳走役なのだから、この辺も熟知していたはずである。
* 老中の連名の奏書を吉良が内匠頭に見せなかったというもの。信夫恕軒の『義士の真相』などに載っている説である<ref name="sasaki26" />が、事件の場に立ち会った梶川与惣兵衛による『梶川与惣兵衛筆記』には奏書の事は書いておらず<ref name="sasaki26" />、信憑性に乏しい。<!--
出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|一方で、先述の繰り返しとなるが、吉良上野介によるこうした侮辱的ないじめ行為があり、耐えに耐えかねて刃傷におよんだというのであれば、何故浅野がそれらを幕府に訴えなかったのかという疑問や、そうしたいじめを公然と認知していたというのであれば、何故幕府が吉良に対して注意をしたり、責任を問いただしたりしなかったのかという疑問は依然として残されたままである。|date=2024/02/02}}
-->
===== 持病説 =====
浅野内匠頭は3月11日未明に勅使一行が到着してから心身に不調をきたしており持病の痞(つかえ)が出たと『冷光君御伝記』にある<ref>[[#野口(1994)|野口(1994)]]p22</ref>。
978 ⟶ 1,007行目:
宮澤誠一も、「痞」が精神発作を起こしたという説を、「単なる推測の域を出ない」ものとしている<ref name="miyazawa26" />。
また浅野内匠頭の母の弟である内藤和泉守忠勝も延宝八年に殺害事件を起こしている<ref name="yamamoto13takumi-hyouban">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第一章三節「内匠頭の評判」</ref>ため、浅野内匠頭も刃傷を起こしやすい血縁にあったという説があり、『徳川実
しかも『徳川実
仮にこうした持病説が正しいとしても、それは事件を及ぼす為の要因の一つであってもそれだけで事件の原因を十分説明しきれるものではない<ref name="akou26" />。
===== 塩の生産をめぐる対立 =====
[[File:141115 Ako Marine Science Museum Hyogo pref Japan14bs5.jpg|thumb|赤穂の塩田([[赤穂市立海洋科学館]])]]
浅野内匠頭と吉良上野介の確執の原因は、赤穂と吉良地方における[[塩]]の製法や販路の問題で対立
吉良地方に古くから伝わる伝説<ref name="akou25">[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]] 第一巻p25-26</ref>によれば、吉良上野介が自身の知行所で塩田を開発しようとして、塩の生産で有名な赤穂藩に隠密を放った。隠密は赤穂藩でとらえられたが何とか逃げ帰り、吉良領に赤穂の入浜塩田の技術を伝えたという<ref name="akou25" />。
991 ⟶ 1,020行目:
また昭和22年に田村栄太郎の書いた『裏返し忠臣蔵』でも塩に関する対立説を扱っており<ref name="akou25" />、昭和29年には吉良出身の作家の[[尾崎士郎]]も随筆『きらのしお』でこの説を唱え<ref name="sukkiri">『<元禄赤穂事件と江戸時代>スッキリ解決! 忠臣蔵のなぜと謎 (歴史群像デジタルアーカイブス)』今井敏夫 「浅野と吉良の間に塩問題は存在したか?」</ref>、他にも[[海音寺潮五郎]]や[[南條範夫]]もこの説に沿った本を出している<ref name="akou25" />。
史実においても当時赤穂が塩田の技術で全国をリードしていたのは事実であるが<ref name="akou25" />、この技術は決して秘密にされていたわけではな
また赤穂の塩が
一方、赤穂藩の[[塩田]]開発が飛躍的に向上するのは[[森氏|森家]]時代になってからで、浅野時代の生産高はその10分の1にも満たない<ref name="名前なし-20230316133402">「赤穂城下町跡発掘調査報告書」(2005年、赤穂市教育委員会)p9</ref>とするものもある。
}}、吉良産の「饗庭塩」は三河など東海方面で売られており<ref name="genroku91" />、販路の点でも直接の競合関係にない<ref name="genroku91">[[#元禄(1999)|元禄(1999)]]p91</ref><!--
出典として上がっている[[#元禄(1999)|元禄(1999)]] p.91を確認したが、「大衆塩」「将軍家や朝廷への献上塩」という記述がないのでコメントアウト。
また赤穂の塩が主に大阪で売られていた庶民に広く普及した大衆塩なのに対し、吉良産の「饗庭塩」は三河など東海方面で売られて、将軍家や朝廷への献上塩ともなる高級塩であり<ref>「旧糟谷縫右衛門住宅」説明(愛知県西尾市吉良町荻原)</ref><ref name="genroku91" />、販路・商圏の点でも直接の競合関係になかったとされる<ref name="genroku91">[[#元禄(1999)|元禄(1999)]]p91</ref>。-->
<!--
出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|そもそも義央が刃傷事件に遭遇した元禄14年以前に開発された三河国幡豆郡の塩田は本浜および白浜のみで、このうち本浜塩田が所在する吉田村は甘縄藩松平領、白浜塩田が所在する富好外新田村は幕府領でいずれも吉良領ではない。当然ながら吉良家の歴史の中で塩作りを行ったという記録は無い。|date=2024/02/02}}
-->
===== その他の俗説 =====
[[赤穂事件#佐々木(1983)|佐々木(1983)]]は下記の俗説を紹介している。
* '''浅野内匠頭任官のときからの遺恨という説''':『赤城盟伝』には「上野介に宿意あるは一朝一夕の事ではない。ずっと前からの事である」と書いてあり、この「ずっと前の宿意」が寛文11年浅野内匠頭が将軍家綱にはじめてお目通りした際、その場にいた上野介が内匠頭を侮辱したものだとするもの<ref name="sasaki26">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p26-42</ref>。『赤穂記』にこの説が書いてあるが、寛文11年の段階では内匠頭は5才であり、この説には信憑性がない<ref name="sasaki26" />。
* '''衆道に関する怨恨''':浅野内匠頭のお気に入りの美しい小姓の日比谷右近を吉良上野介が懇望したが、断られたため確執ができたという説『誠忠武艦』という「幕末に成立した赤穂事件の経緯を真偽取交ぜてのべた」<ref>『忠臣蔵の世界: 日本人の心情の源流』 諏訪春雄 大和書房, 1982年。p69</ref>文献にこの説がでている<ref name="sasaki26" />。また『正史実伝いろは文庫』の十三回にも同じ話が載っている<ref>[[#忠臣蔵文庫(1912)|忠臣蔵文庫(1912)]]</ref>。しかし[[福本日南]]は「吉良上野介は61歳の白髪翁、最早若い衆の争いでもあるまい」としている<ref name="sasaki26" />。
* '''茶器に関する怨恨''':浅野家伝来の「狂言袴」という茶入れを吉良が欲しがったが、断られたため確執ができたとする説。これは「余程後世になっていい出された説」<ref name="sasaki26" />で、高山喜内の『元禄快挙義士の真相』に載っている<ref name="sasaki26" />。
* '''一休の書画の鑑定に関する怨恨''':浅野内匠頭と吉良が茶会で出会い、山田宗徧が持ってきた一軸を吉良が「一休の真筆だ」といったところ、内匠頭がそうでない証拠を出して吉良をやり込めたので、確執ができたとする説<ref name="sasaki26" />。実録本の『赤穂精義参考内侍所』<!--p5-->に載っている説である。しかしこの話は史料にはみあたらず、しかも浅野内匠頭と吉良が茶会で平素から交流があったとしており、事実とは考えにくい<ref name="sasaki26" />。
* '''内匠頭の謡曲''':明治末期に著された小野利教の『赤穂義士真実談』にでている話<ref name="sasaki26" />。元禄13年に内匠頭が謡曲[[熊野 (能)|熊野]]を舞ったところ、上野介から「クセがよくない」と非難を受けた事を内匠頭が根に持ったとするもの<ref name="sasaki26" />。これも一休の書画と同じ理由で信憑性がない<ref name="sasaki26" />。
=== 寺坂吉右衛門問題{{Anchors|寺坂吉右衛門に関する問題}} ===
四十七士のひとりである寺坂吉右衛門は討ち入りに加わったにも関わらず、泉岳寺に引き上げた時には姿を消していた。
これは古来から謎とされており、逃亡したという説から密命を帯びて消えたという説まで様々である。
==== そもそも討ち入りに参加しているか ====
今日、寺坂が姿を消したのは討ち入り
*(1)「寺坂吉右衛門の儀、十四日暁迄これ在るところ、彼屋敷へは相来たらず候、かろきものの儀、是非に及ばず候」<ref name="akou215">[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]]第一巻 p215-219</ref>
1,047 ⟶ 1,062行目:
そして(1)の書状に関しては、寺坂が公儀の追及から逃れられるように討ち入りに参加しなかったと嘘をついたのではないかとしている<ref name="akou228" />。
また八木哲浩は寺坂が引き上げの早い段階で離脱したのだと推測しており<ref name="akou215" />、その理由として『寺坂信行筆記』には引き上げの記述が短い事と、寺坂の主人である吉田忠左衛門が仙石邸に行った事
なお、泉岳寺の僧の白明(はくめい)の『白明話録』によれば泉岳寺で点呼するまで寺坂がいなくなったことに誰も気づいていなかった<ref name=":9">[[#山本(2012a)]]第七章一節の「武士の筋を通した赤穂浪人」より</ref>。しかし『江赤見聞記』第四巻によれば吉良邸で点呼したときに気づいたという<ref name=":9" />。
==== 逃亡か否か ====
[[File:Grave of Terasaka Kichiemon at Sengakuji.jpg|thumb|[[泉岳寺]]における[[寺坂信行|寺坂吉右衛門]]の供養塔(明治元年建立)。戒名が「逐道退身信士」と逃亡説に基づいたものになっている]]
『堀内覚書』にも吉田忠左衛門が
1,078 ⟶ 1,097行目:
野口武彦も逃亡説は退けており、理由として以下をあげている
*内蔵助の(1)の書状に書かれた討ち入り参加者のリストには寺坂の名が載っているにも関わらず、寺坂に関しては前述のように「是非に及ばず候」と書いてある
*(2)の忠左衛門の件に関しては佐々木と同じく言外の意図を推測している<ref name="noguchi197" />。
一方八木哲浩は寺坂が自分の考えで姿を消したのだろうとして<ref name="akou228">[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]]第一巻 p228-229</ref>逃亡説を支持している。八木哲浩は後述する理由により密命説を退けた上で、(3)の書状には忠左衛門が伊藤に寺坂の事を頼むとも書いてあるので、忠左衛門が寺坂をかばおうとする姿勢が見て取れるとしている<ref name="akou228" />。
==== 密命を帯びていたか否か====
=====密命説に肯定的な意見=====
野口武彦は前述したように内蔵助も忠左衛門も寺坂に関して隠したがっている以上、寺坂は何らかの密命を帯びていたのだろうとしている<ref name="noguchi197" />。
1,099 ⟶ 1,118行目:
初期の実録本である『赤穂鍾秀記』も密命説の立場をとり、これを室鳩巣の『赤穂義人録』も取り入れた事で、寺坂を抜いた「四十六士説」ではなく寺坂を入れた「四十七士説」は生まれた<ref name=miyazawa168 />。
=====密命説に否定的な意見=====
一方、宮澤誠一は、(2)と(3)により、寺坂と忠左衛門には「何か二人の間で個人的に複雑な事情についての了解があったのかもしれない」<ref name=miyazawa168 />としつつも、密命説に対しては批判的で、その理由として以下の二つを挙げている。
1,105 ⟶ 1,124行目:
第一に、仮に内蔵助や忠左衛門が寺坂をかばうためにあえて嘘をついているにしても、私信にまで「欠落」したと書く必要はないはずである<ref name=miyazawa168 />。寺坂とは直接関係がないと思われる四十七士の一人・三村次郎左衛門すらも泉岳寺で母にあてて書いた手紙に、寺坂が立ち退いた旨を述べている<ref name=miyazawa168 />。
第二に、そもそも討ち入りが終わった時点で浅野大学らに密かにどうしても伝えなければならない事柄が果たしてあるのか疑問である<ref name=miyazawa168 />。仮にあったとしても、浅野大学が差し置きになったときすら主家に累が及ぶのを恐れて会うのを避けたほど慎重な内蔵助が、討ち入りの顛末を知らせる使者を立てるとは思えない<ref name=miyazawa168 />。また内蔵助は大石無人・三平に書簡を出し、死後の供養を頼むとともに「芸州・上方へも仰せ遣わされ下さるべく候」と述べて
佐々木杜太郎も宮澤誠一と同様、浅野大学が差し置きの際にすら会うのを避けた内蔵助が寺坂を浅野大学や瑤泉院への報告に使うはずがないとして密命説を退けている<ref name="sasaki259" />。
八木哲治も寺坂が密命をおびて広島の浅野大学のもとに行ったという説を退けている。
前述のように寺坂の孫は『寺坂信行私記』に寺坂が芸州広島に行ったと書いているものの、伊藤十郎太夫浩行が寺坂から聞き書きした史料には広島に行ったとは書いていない<ref name="akou220" />。寺坂の孫と違い伊藤が寺坂をかばう立場にはない事を考えると、伊藤の聞き書きの方が信用でき、寺坂は広島に行っていないと見る方が自然ではないかと八木哲治は述べている<ref name="akou220" />。史料から確実に言えるのは寺坂が討ち入り後、吉田忠左衛門の娘と孫がいる播磨国亀山へ向かった事だけである<ref name="akou220" /
山本博文も寺坂の孫が書いた(6)の文章に関し、足軽の身分が「内匠頭殿」と書くはずがないとして(6)を孫による弁明なのだと解釈している<ref>[[#山本(2013)|山本(2013)]] p171</ref>。
また『寺坂信行私記』は『寺坂信行自記』に加筆して作られたものだが、加筆部分は例えば寺坂の名前の入った口上書など、寺坂が討ち入りに参加した事を証拠づける意図が見え隠れするものが多い<ref name="akou220" />。したがって前述の芸州広島に行ったとする加筆も、寺坂の作為と解釈するべきであろう<ref name="akou220" />。
なお前述した伊藤による聞き書きには、「大石から播磨に向かうように言われたので、皆が泉岳寺から仙石邸にいくのを見届けて播磨に行った」という趣旨の事が記載されているが、前述のように寺坂は泉岳寺に行っていない可能性が高いので、これも寺坂の作為がある弁明であると考えられる<ref name="akou220" />。
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また密命説では寺坂の身分が低かったから寺坂を報告役に選んだとするが、大石は身分が低いものの討ち入り参加を歓迎しており、身分が低い事で差別される事はなかったのではないか八木哲治は述べている<ref name="akou224" />。
==== その他の説 ====
佐々木杜太郎によると、逃亡説・密命説以外でこれまで論じられた説は以下の3つになる<ref name="sasaki259">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p259-262</ref>:
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また山本博文は武士ではない寺坂を哀れんで吉田忠左衛門が寺坂を逃がしたのではないかとしている<ref>[[#山本(2012b)|山本(2012b)]] 第一章3節「むしろ多い下級家臣の参加」</ref>。
==その他
=== 「此間の遺恨、覚えたるか」 ===
『梶川与惣兵衛筆記』の東大史料編纂所写本には、浅野内匠頭は刃傷の際、「此間の遺恨、覚えたるか」と言ったされるが、同じ『梶川与惣兵衛筆記』でも南葵文庫本(東大図書館所蔵)には「声をかけた」としか書かれておらず、本当に内匠頭がこの発言をしたのかはよくわからない<ref>[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p20</ref>。
なお、『元禄世間咄風聞集』では「覚えたか」とある<ref>[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第三章2節の「お茶坊主は語る」より</ref>。
=== 刃傷の場所 ===
1,146 ⟶ 1,169行目:
にもかかわらず『易水連袂録』に柳之間から御医師之間へ続く廊下で刃傷が起こったと書いてあるのは、柳之間と御医師之間がそれぞれ浅野を目付に引き渡した場所と吉良が他の高家に引き取られた場所なので、それが混同されたものであろう<ref name="miyazawaa23" />。そもそも吉良と浅野は『易水連袂録』の記述とは異なり口論をせずに急に斬りかかっている<ref name="miyazawaa23" />。おそらく、「口論の上刃傷に及んだ」という分かりやすいシナリオが俗説として流布した結果、大名や勅使が控える故に口論しにくそうな松之大廊下よりもより自然な場所として柳之間の前の廊下で刃傷に及んだというシナリオが流布されたのであろう<ref name="miyazawaa23" />。
===
{{要出典範囲|一年前の[[深堀事件]]の藩士たちの討ち入り手順を、赤穂事件の赤穂浪士たちが参考にしたとする伝承がある。深堀藩士たちが流刑となった五島列島の久賀島には、赤穂浪士の一人である寺坂吉右衛門の墓所とされるものが存在し、寺坂が討ち入りの際の聞き取りにやってきたとする伝承がある。|date=2024/05/17}}
===太平記との関係===
元禄時代に『[[太平記]]』は、太平記読みや人形浄瑠璃を通じて武士はもちろん町人にも広く浸透していた<ref name="miyazawaa67" />。
このため赤穂浪士達は書簡や日記の中で、赤穂事件を太平記になぞらえて表現している<ref name="miyazawaa67">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p67-69</ref>。
たとえば進藤源四郎は内匠頭刃傷の後の赤穂藩の混乱を太平記における南北朝の動乱にたとえている<ref name="miyazawaa102">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p102</ref>し、堀部安兵衛も太平記になぞらえて大石に決起を促している<ref name="miyazawaa102" />し、小野寺十内の書簡にも太平記への言及がある<ref name="miyazawaa67" />。
また討ち入り後には大石を太平記の忠臣・[[楠木正成]]の再来とみなす[[落首]]が出たと『易水連袂録』に載っているし<ref name="miyazawaa181">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p181-182</ref>、[[室鳩巣]]も大石を楠木正成にたとえている<ref name="miyazawaa181" />。ただし『易水連快録』では、「長矩ハ益ナキ事ヲ仕出シ申サレ候へバ、先祖末代マデノ不義ニト唱へケル」とあり<ref>堀田文庫『易水連快録』</ref>{{要ページ番号|date=2024/02/15}}、長矩の刃傷(私怨での勅使饗応の放棄)は不義の極みという世論も唱えられたと記している<ref group="注釈">この指摘は、[[真山青果]]の新歌舞伎とその映画化『元禄忠臣蔵』にも採用されている。</ref>。
[[泉岳寺]]では、吉良義央を[[楠木正成]]に、首の返還先の吉良義周をその子[[楠木正行|正行]]に喩えている。「高家とて人にこそよれ吉良どのの 偽りもなき上野が首」(『白明話録』)は[[湊川の戦い|湊川]]で討死した正成の首をその子正行に送った時に「疑いも人にこそよれ正成が 偽りもなき楠木が首」と詠んだ故事(『太平記』巻第十六)に倣っている。(「首ヲ送リシ心ヲ真似テ詠ム」)<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p.180</ref>
=== 浪士お預けに関する俗説 ===
赤穂浪士の討ち入りの報告を受けた際、幕府の筆頭老中阿部正武は「このような忠義の士が出た事はまさに国家の慶事」と称賛し<ref name="渡辺(1998)206-207">[[#渡辺(1998)|渡辺(1998)]] p.206-207</ref>、将軍綱吉も報告を聞いて感激し、処分を熟慮して決めたいとして一旦浪士達を4大名家に御預けにしたのだといわれる<ref name="渡辺(1998)206-207" /><ref name="miyazawaa188" />。しかし宮澤誠一によれば、この話は初期の実録本『赤穂鍾秀記』に見られる話をもとにしており、史料的に疑わしく、いささか信のおきかねる話だという<ref name="miyazawaa188">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p188</ref>。しかも『赤穂鍾秀記』では順序が逆で、綱吉が報告を受けてから阿部の称賛の話が出ている<ref name="miyazawaa188" />。
また12月23日に寺社奉行、大目付、町奉行、勘定奉行計十四名が連名でこの事件の処分を老中に答申した文書とされるものが残っており、『赤穂義人纂書』(補遺)に「評定所一座存寄書」という名称で載っているが、山本博文と宮澤誠一によればこの文章は偽書であるという<ref name="yamamotoc184">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p184-185</ref><ref name="miyazawaa194" />。偽書だとされる根拠はまずこの文章には上杉家の領地を召し上げるべきと書いてあるが、幕府の指示を守って動かなかった上杉家を処分するはずがないし<ref name="yamamotoc184" />、幕府は吉良邸討ち入りを仇討ちと認めなかったのにこの文書では赤穂浪士を真実の忠義者と讃える<ref name="miyazawaa194">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p194-195</ref>など不自然な点が多いからである。
一方八木哲浩は上述した不自然な点をみとめつつも、「評定所一座存寄書」は偽書ではないだろうとし、その根拠として『徳川実紀』に文書の記述と符合する部分がある事をあげている<ref name="akou1-269">[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]] 第一巻p269-279</ref>。『徳川実紀』は江戸後期に成立したものなので、『徳川実紀』の記述も偽書を写している可能性もあるが、八木哲浩は幕府内に残された何らかの確かな史料を元にしたとする方が自然ではないかとしている<ref name="akou1-269" />。
===
赤穂浪士の切腹が決定するまで幕府内でどのような議論がなされたのかに関し、2つの異なる話が伝えられる。
1つは『徳川実紀』に載っている話で、この史料によれば幕閣での議論が収束せず、日光門主[[公弁法親王]]に意見を求めたという。
このとき公弁法親王は以下の趣旨の返答をし、これにより切腹が決まったという「彼らが主の讐を遂げた事は立派だが、その志を果たし今は心残りはないだろう。彼らは公の刑に身を寄せると申し出ているのだから今さら彼らを許しても他家につかえる事もできない。彼らの武の道を立て死を賜った方がよかろう」<ref name="yamamotoc186" />。
しかし『徳川実紀』は事件から百年以上経ってから成立した史料であり、しかも『徳川実紀』は以上の事実を伝聞として伝えるのみでその真偽を保留している<ref name="miyazawac">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p198-199</ref><ref name="yamamotoc186" />。
おそらく将軍綱吉と懇意であった公弁法親王に仮託して述べた虚説であろう<ref name="miyazawac" />。
もう一つの話『柳沢家秘蔵実記』に載っている話で、この史料によれば、老中等が赤穂浪士の討ち入りは「夜盗の輩」同然だから「打ち首」にすべきだと一旦は決定したのだという<ref name="miyazawac" />。しかしこの決定に不満を持った[[側用人]]の[[柳沢吉保]]が家来の[[荻生徂徠]]に相談したところ、徂徠は「赤穂浪士の行為は、将軍綱吉が政務の第一に挙げている忠孝の道にかなったものだから、打ち首という盗賊同様の処分に処すべきではない。彼らに切腹を賜れば赤穂浪士の宿意も立ち、世上の示しにもなる」という趣旨の事を述べた<ref name="miyazawac" />。この意見を将軍綱吉に「上聞」したところ綱吉は大いに喜び、一転して切腹に決まったという<ref name="miyazawac" />。
徂徠が幕府に提出した答申書と言われる『徂徠儀律書』でもやはり切腹を献言しており、この史料の趣旨は「赤穂浪士の報讐は義にかなっているが、それは自己の一党に限る話だから所詮は私の論である。したがって天下の規矩である法を維持する立場に立って武士の礼にかなう切腹を申しつければ、上杉家の願いにもこたえ、赤穂浪士の忠義も認めた事になる」<ref name="miyazawac" />。
しかしこうした話にも疑問が残り、『徂徠儀律書』の内容は同じく徂徠が著した『四十七士の事を論ず』の主張と決定的に矛盾しており、前者では赤穂浪士の討ち入りを「義にかなった」仇討ちであるとみなしているのに、後者では討ち入りを不義とみなしており仇討ちであるとも認めていない<ref name="miyazawac" />。
以上の事から宮澤誠一は『徂徠儀律書』と称される史料は徂徠が書いたものではなく、『柳沢家秘蔵実記』も柳沢吉保が自己弁護の為に事実を転倒させているのではないかと述べている<ref name="miyazawac" />。
八木哲浩も宮澤誠一と同様の理由で『徂徠儀律書』は後人の作だろうと述べている<ref name="akou1-269">[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]] 第一巻p269-279</ref>。
===上杉綱勝の毒殺===
吉良上野介が上杉家を乗っ取るために[[上杉綱勝]]を毒殺し、吉良の息子の三之助に上杉家を継がせたという俗説がある。
三之助が上杉家を継いだというのは事実であるが、その為に綱勝を毒殺したという説には「何ら確かな史料的根拠がない」<ref name="miyazawaa90">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p90</ref>。
この毒殺説は[[三田村鳶魚]]が『元禄快挙別録』の中で述べた説であるが<ref name="miyazawaa90" />、鳶魚は後にこの説を撤回している<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p160</ref>。
『藩翰譜首書』には「綱勝、吉良の宴に赴き、帰路興中にて血を吐き、後七日卒す」と書いてあり、毒殺説はこれを吉良が宴の際に毒を盛っため綱勝が死去したと曲解したものである<ref>[[#尾崎(1974)|尾崎(1974)]] p65</ref>{{要高次出典|date=2015年8月}}。
また綱勝の死去したからといって吉良が上杉家を乗っ取れるとは限らない。結果として吉良の息子が養子にいって上杉家を継ぐ事にはなったが、綱勝の死去の時点では吉良家は複数ある養子もと候補のひとつに過ぎなかったからである<ref>[[#尾崎(1974)|尾崎(1974)]] p69</ref><ref>『<元禄赤穂事件と江戸時代>スッキリ解決! 忠臣蔵のなぜと謎 (歴史群像デジタルアーカイブス)』(今井敏夫)</ref>{{要高次出典|date=2015年8月}}。
=== 浪士の娘だと騙る女たち ===
赤穂浪士が切腹した後、浪士の娘だと騙る女が何人か登場した。
[[妙海尼]]は[[堀部武庸|堀部安兵衛]]の娘だと騙り、[[清円尼]]は大石内蔵助の娘だと騙り<ref name="taguchi33musume">[[#田口(1998)|田口(1998)]]第三章3節「大石内蔵助の娘」</ref>、[[長国寺]]の尼は[[武林隆重|武林唯七]]の娘だと騙った<ref name="taguchi33musume" />。
=== 吉良の最期に関して{{Anchors|吉良の最期に関して}} ===
山本博文は、武林唯七が即死に追い込んだ吉良の首を間十次郎が取ったのだろうとしている<ref name="yamanotoa63kubi">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第六章三節「誰が吉良の首を揚げたのか」</ref>。
その根拠は『江赤見聞記』巻四で、同書には四十七士の武林唯七が物置の中の人物を十文字槍でついたところ小脇差を抜いて抵抗してきたので間十次郎が刀で首を打ち取ったとしており<ref name="yamanotoa63kubi" />、さらに同書によれば引き上げの際間十次郎が吉良の首を取ったのを自慢した所、武林唯七が「私が突き殺した死人の首を取るのはたいした事ではない」と憤慨したという<ref name="yamanotoa63kubi" />。
一方、宮澤誠一は四十七士の不破数右衛門の書簡に「吉良は手向かいせず唯七と十次郎その他にたたき殺された」という趣旨のことが書かれているのを根拠に、本当は不破の言うように吉良はたたき殺されたのに、記録が後世に残るのを意識して残酷さを和らげるために間十次郎が一番槍をつけたのだと記したのではないかとしている<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p161-162</ref>。
吉良・上杉方の記述では「物置から脇差を抜いて吉良が斬って出た処を、間が槍で突き、武林が一刀のもと斬り殺した」とある<ref>米沢藩『大熊弥一右衛門見聞書』</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
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<!--出典がないのでコメントアウト
=== 陪臣・女性の不在 ===
{{出典の明記| date = 2024/02/01| section = 1}}
吉良方の死傷者には[[陪臣]](家臣の家来)が多数出たのに、討ち入りの参加者に赤穂藩の陪臣が居ないのはなぜか。(寺坂のみ[[吉田兼亮]]の家臣のち赤穂藩足軽){{Sfn|山本|2012b|loc=§1.3}}。現存する赤穂城の図面では、大石邸は神社が建つ程の広大な屋敷である。赤穂城の再建された大石邸長屋門では、長屋に居た大石家臣が人形で再現されている。
討ち入り当日の吉良邸に女性がいないのは何故か。小説などでは負傷者の中に女性が居たり、吉良間者として女性(腰元など)が描かれる場合もあるが、吉良・上杉両家の史料では確認できない。赤穂側では女と思い斬りつけたら[[小林平八郎|小林央通]]の変装であったという話はある(『江赤見聞記』など)。
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<!--出典がないのでコメントアウト
=== 平穏な吉良邸 ===
{{出典の明記| date = 2024/02/01| section = 1}}
吉良義央が多くの[[賄賂]]をとる強欲で、皆に嫌われていたのなら、何故、討ち入り後の吉良邸に侵入して、貯め込んだ金銀財宝を強奪しようとする町人や浪人が皆無だったのか。むしろ複数の町人(豆腐屋や大工)が、遠く離れた上杉家藩邸まで討ち入りを通報しており、また屋敷に蝋燭や敷物など日用品を提供している<ref>『上杉家文書』より「野本忠左衛門見聞書」</ref>。浅野長矩の切腹後には赤穂藩邸が多数の暴徒に襲撃されている。その時の暴動により傷ついた旧・赤穂藩邸の門は、現在でも[[泉岳寺]]で見る事ができる<ref>谷口眞子「赤穂浪士の実像」41ページ</ref>。
-->
<gallery>
File:Asano Takuminokami shuen no chi.jpg|[[浅野長矩|浅野内匠頭]]終焉の地
Image:Oishi_Yoshio_and_the_16_partisans_with_unswerving_loyalty.jpg|[[大石良雄外十六人忠烈の跡]]
Image:Mizuno-kemmotsu-tei_ato_20061221_0077.jpg|[[水野監物邸跡]]
Image:The_embassy_of_Italy_in_Tokyo_Japan.jpg|[[大石主税良金ら十士切腹の地]]
画像:Mori-teien_0116.jpg|[[毛利甲斐守邸跡]]
</gallery>
; 浅野内匠頭終焉の地邸
: [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[新橋 (東京都港区)|新橋]]四丁目
: 追悼碑は田村家上屋敷跡にあったが、現在は[[東京都]]により撤去され<ref>「環二通りの建設工事」による。(2011年、東京都)</ref>、田村邸から50mほど離れた場所の[[秋田氏]][[三春藩]]邸前(新橋五丁目)に移された<ref>『芝口南西久保 愛宕下之図』(尾張屋清七版)</ref><ref>『江戸散歩』東京大学史料編纂所(角川書店、2016年)130~133ページ</ref>。理由不明ながら碑が後ろ向きに建てられていたが<ref>『図説 忠臣蔵』(西山松之助監修/河出書房新社))</ref>、現在は再設置され、修正されている(画像参照)。
; 大石良雄外十六人忠烈の跡
: [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[高輪|高輪一丁目]]
: 赤穂浪士の切腹後、大石内蔵助らを預かった[[細川綱利]]は切腹跡についた血を清掃することを禁じた<ref name="泉(1998)120">[[#泉(1998)|泉(1998)]] p.120</ref><ref name="名前なし_5-20240629115709"/>。さらに綱利は「彼らは細川家の守り神である」として17士の遺髪を分けて頂き供養塔や墓を建て<ref>「細川家堀内文書」。伝右衛門はさらに国元の知行地にある曹洞宗の寺にも遺髪を納めた墓や供養塔を建立している。</ref>、切腹場所を屋敷の名所として残すように命じている。しかし、綱利の血筋が絶えたこと、延享2年(1745年)に火災でこの屋敷が焼失したこと<ref>「肥後文献叢書」第一巻」</ref>、 延享4年(1747年)に江戸城中で[[細川宗孝]]が遺恨<ref group="注釈">細川家では人違いの犯行としているが、板倉家では「細川屋敷から排水が隣の板倉邸に流れたことでの遺恨」としている。(「安中古文書」群馬県立文書館)</ref>により斬殺され加害者の遺臣が健在だったこと、この事件の際に浅野氏と不仲の伊達家が御家断絶の危機を救う恩人になったこと、など様々な事情が重なり綱利の遺言は守られなかった<ref group="注釈">熊本藩御家資料(細川家文書・藩主裁可文書)ほか、熊本大学寄託永青文庫)。供養施設のほか、遺構として畳三枚、屏風、風雨除け、脇差台があったとされる。</ref> 。明治に入ってからも細川邸跡はそのまま放置された状態だったが、第二次大戦後は徐々に整備され、現在は「大石良雄等自刃ノ跡」が[[道路]]脇にあり<ref group="注釈">実際に[[大石良雄]]が切腹した場所ではない。(「大石良雄」記事の画像8枚目も参照)</ref>、公営住宅の[[門]](細川邸不浄門)<ref>『江戸散歩』東京大学史料編纂所(角川書店、2016年)183ページ</ref>に「大石良雄外十六人忠烈の跡」[[顕彰碑]]が設置されている<ref>平成10年(1998年)中央義士会・港区教育委員会</ref>。
; [[水野監物邸跡]]
: 東京都港区[[芝 (東京都港区)|芝五丁目]]
: ただし、水野氏は江戸市民や浪人たちに藩邸を襲撃され、破損・火災などにより屋敷を移動したため、実際に浪士が切腹した当時の屋敷は同地より北へ50メートルほど離れた別の場所である<ref>現地「東京都教育委員会による二か国語説明板」解説。</ref>。
; [[大石主税良金ら十士切腹の地]]
: 東京都港区[[三田 (東京都港区)#二丁目|三田二丁目]]
: 松山藩の屋敷跡には赤穂事件の遺構は残っていなかったが、[[昭和]]14年(1939年)に[[徳富蘇峰]]が[[揮毫]]の「赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館」碑<ref group="注釈">石碑には「徳富正敬」の標記となっている。</ref>が建立された。ただし、蘇峰の著作そのものには赤穂浪士への毀損が書かれることが多い<ref>蘇峰の代表作『[[近世日本国民史]]』では「不揃家来、徒党を組み吉良邸に押し入り、翌年二月斉しく切腹」などと記され、所謂「義士否認論」が見られる。</ref>。
: イタリア大使館敷地内のため見学不可。「赤穂民報」によると数年に一度は供養の行事を行っているという<ref>赤穂民報「イタリア大使館で義士慰霊祭」(2015.12.5)</ref>。
; [[毛利甲斐守邸跡|長門長府城主毛利甲斐守網元麻布上屋敷跡]]
: 東京都港区[[六本木|六本木六丁目]]
: 毛利家の意向により、赤穂浪士の供養塔や顕彰碑の類が藩邸跡に一切存在しない([[毛利師就]]は江戸城の[[松の廊下]]にて乱心した水野忠恒から刃傷を受け、師就は吉良義央に倣い刀を抜かずに対応し、重傷を負ったが一命をとりとめた)<ref name="#1">「毛利家文庫」「長府毛利十四代記」(下関市立長府博物館)など</ref>。庭園名に「毛利」を冠した森ビルも踏襲している<ref>[[毛利氏]]の本貫・毛利荘の読みは「もりのしょう」。</ref>。
; その他、関連の地
*[[赤穂城]]
*[[大石神社|赤穂大石神社]] - 義士宝物殿、義士木像奉安殿
*[[花岳寺]] - 義士木像堂、宝物館
*[[赤穂市立歴史博物館]] - 「赤穂浪士」をメインテーマの一つとする史学系博物館。[[赤穂城]]の米蔵跡に立地。
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{{main|忠臣蔵#脚色や創作による伝承}}
{{see|赤穂事件の人物一覧}}
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出典がないのでコメントアウト
== 類似の事件 ==
{{出典の明記|date=2024/02/05}}
==== 江戸城内での刃傷沙汰の先例 ====
先例として、赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。
* [[寛永]]4年([[1627年]]):[[小姓組]][[猶村孫九郎]]が、西の丸で[[木造三郎左衛門]]、[[鈴木久右衛門]]に切りつけた事件。理由は口論によるもの。加害者猶村は殿中抜刀の罪により切腹改易、被害者鈴木はその時の傷がもとで死亡、改易。木造は回復したが、逃げたことを咎められ、改易。'''加害者は死罪改易、被害者は死亡改易の例。'''口論が原因であったことから、喧嘩両成敗にされたものと思われる。
* 寛永5年([[1628年]]):目付[[豊島信満]]が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中[[井上正就]]に斬りつけ、正就と制止しようとした[[青木義精]]を殺害し、その場で自害した('''豊島事件''')。'''加害者は死亡改易、被害者は死亡の例。'''
* 寛文10年(1670年):殿中の右筆部屋で、右筆の[[水野伊兵衛]]と[[大橋長左右衛門]]が口論になり、水野伊兵衛が刀を抜いた。水野伊兵衛は殿中抜刀の罪で死罪となった。喧嘩相手の大橋長左右衛門は無罪。'''加害者は死罪、被害者は無罪の例。'''
* [[貞享]]元年([[1684年]]):若年寄[[稲葉正休]]([[浅野長矩]]の又従兄)が、本丸で[[大老]][[堀田正俊]]を殺害し、正休もその場で老中らによって殺害された事件。'''加害者は死亡改易、被害者は死亡の例。'''
後年の例としては以下のものがある。
* 享保10年[[7月28日 (旧暦)]]([[1726年]][[8月25日]]):江戸城本丸'''[[松の廊下]]'''で発生。[[水野忠恒 (大名)|水野忠恒]]([[松本藩]]主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、[[毛利師就]](長府藩主5万7,000石)が拾ったが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、毛利師就は右手、左耳、のどなどに傷を負ったが、一命を取り留めた。師就は「殿中につき、吉良義央に倣い刀を抜かずに対応した」と証言している<ref>「長府毛利十四代記」(下関市立長府博物館)</ref>。このとき将軍[[徳川吉宗]]は、水野の行動を乱心によるものであると裁定し、秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の[[水野忠穀]]に信濃国佐久郡7,000石を与えて水野家を再興させた。--><!--そのうえで毛利家は咎めなしとした。その結果、水野家からも毛利家からも不満の声は上がらなかった。同じ事例でも吉宗と綱吉の違いがここにあると言われる。--><!--水野家に幕府の処分を不満とする古文書(『水野隼人正家文書』より「水野様御大変」「松本大変」(長野県立図書館・早稲田大学図書館)あり)--><!--'''加害者は改易、被害者は無罪の例'''。毛利家は泉岳寺と絶縁した<ref group="注釈">長府藩歴代藩主は全員が豊功社に祀られた。</ref>。
*延享4年[[8月15日 (旧暦)]]([[1747年]][[9月19日]]):江戸城内の厠で発生。[[熊本藩]]主・[[細川宗孝]]が[[旗本]][[板倉勝該]]に斬られて死亡した。宗孝には[[御目見]]を済ませた世子がおらず、このままでは細川家は無嗣断絶になりかねないところ、その場にたまたま居合わせた[[仙台藩]]主・[[伊達宗村 (仙台藩主)|伊達宗村]]が機転を利かせ、「宗孝殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。そこで、家臣たちは宗孝の遺体をまだ生きているものとして藩邸に運び込み、弟の[[細川重賢|重賢]]を[[末期養子]]に指名して幕府に届け出た後で、宗孝が介抱の甲斐無く死去したことにして事無きを得たと言われている。'''加害者は死罪改易、被害者は死亡の例。'''原因について、細川家では板倉は「乱心」のうえ「人違い」による殺人<ref group="注釈">後嗣の細川重賢は細川家の[[家紋]]を「細川九曜」紋に改めている。</ref>としているが、板倉家は「遺恨」<ref group="注釈">板倉家では「細川屋敷から排水が隣の板倉邸に流れたことでの遺恨」としている。</ref>で元々、宗孝を狙ったと主張している。
* 天明4年(1784年)3月24日:江戸城中の間で発生。若年寄[[田沼意知]]([[相良藩]]田沼家世子)に新番士[[佐野政言]]が切りつけ、田沼は重傷を負い佐野は拘束。田沼は事件から8日後に事件での傷が悪化し死亡し、田沼家世子は意知の子[[田沼意明]]に変更。佐野は田沼の死後すぐに切腹となるも、佐野家自体は政言に子が無かったため断絶するも親族には咎めは無かった。'''加害者は死罪改易、被害者は死亡の例。'''-->
<!--=== 討入に関する説 ===
討入は、はじめ元禄15年[[12月5日 (旧暦)
従来は、堀部武庸ら江戸急進派による度重なる督促や、浅野長広の広島浅野家預かりによって赤穂浅野家再興の可能性がなくなったことにより、大石良雄の採る道は討入になったとされていたが、{{要出典範囲|date=2014年4月|討入は幕府主導によって計画的に行われたとする説が有力になってきた。その理由のひとつは、12月13日付で大石が赤穂の3人の僧に宛てた書簡のなかに、「若老中(若年寄)も知っているようだ。(討入は)うまくいくだろう」という意味のことが書かれている。また、堀部武庸ら3名が大石に元禄14年8月19日付で連名で送った書簡のなかで、吉良の本所移転が確定したような書き方をしているが、本所屋敷の先住者・松平信望に屋敷替の命が出されたのが8月12日で翌日には移転先の屋敷の受取証を提出している。吉良に屋敷替の命があったのはその後であり、本所屋敷の受領証を提出したのは9月3日である。この流れからしても堀部武庸らが吉良の本所移転の情報を得たのは早すぎる。松平信望の屋敷だったときには南が正面であったのに、吉良屋敷になってから正面が東になっている。吉良屋敷の絵図面を見ると東に表門があるにもかかわらず、表玄関が南向きである。本所屋敷が松平信望のものであった時代の江戸の地図や幕府普請方の役所用資料においても、南が正面であったことが確認できる。表門が移設された、ということである。天和3年1月12日(1683年20月8日)日発令の触れによって町の防火対策として屋根番制度が始まった。風の激しい時には屋根番を屋根の上に立たせて監視するというもので、[[大岡忠相]]によって町の火の見櫓(10町に1つ)と火の見櫓のない町では「枠火の見」と呼ばれる火の見梯子が設置されるまで、屋根番制度は続いた。吉良屋敷の正面が南であった場合、本所相生町2丁目の屋根の上に立てば表門周辺はまる見えになる。東に表門を移設すればたとえ相生町2丁目で屋根番が立ったとしても、死角になる。表門の移設は、町人に討入の実態を見させないための策であった。さらに、2ツ目の道沿いに[[中山直房]]の屋敷があった。初代[[火付改]]で、「鬼勘解由」という異名で恐れられた人物である。中山直房は事件当時は火付改の現職ではなかったが、「鬼勘解由」の話は後世まで語り継がれていた。また、中山直房は当時は[[御使番]]の職にあって、火事のときには[[大名火消]]と[[定火消]]を管理・監督することが職務のうちにあった。火事を装った討入とするための条件が、すべてそろっていたのである。}}--><!---->
=== 類似の討ち入り事件 ===
; 浄瑠璃坂の仇討
赤穂浪士の吉良邸討入りに類似した事件には、討入りの30年前に起こった[[寛文]]12年([[1672年]])の[[浄瑠璃坂の仇討]]がある。
[[浄瑠璃坂の仇討]]とは[[宇都宮藩]]を
源八の一族と同情した脱藩有志の総勢40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている。
源八ら一党は、目的を達成後には幕府へ出頭して裁きを委ねた。そこで本来ならば[[死罪]]であるところを、幕府により死一等を減じられて[[伊豆大島]]への流罪という寛大な処分に減刑された。しかも数年後の恩赦により、一党は他家へ召抱えられた。ただし、彦根藩に召抱えられた源八の子孫・奥平氏は[[桜田門外の変]]の後に井伊家から召放になっている<ref>『彦根藩井伊家文書』より「侍中由緒帳」</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
この事件を知っていた赤穂浪士(内蔵助で当時14歳)は同様の寛大な処置を期待していた可能性もある<ref>[[竹田真砂子]] 浄瑠璃坂の討入り - 忠臣蔵への道 -(1999/3) ISBN 9784087811698 (4087811697) {{要ページ番号|date=2024/02/03}}</ref>。
; 深堀事件
[[深堀事件]](ふかほりじけん「葉隠れ忠臣蔵」とも)は、元禄13年12月19日(1701年1月16日)から12月20日(同1月17日)にかけて起こった、肥前国天領長崎(現・長崎県長崎市)において長崎会所の役人[[高木彦右衛門]]と佐賀藩深堀領の武士(家老格[[深堀鍋島家]]の家中のこと)の間に起こった騒動。
大音寺坂にて深堀鍋島家の家臣二名が高木彦右衛門の家来に雪解けの泥をかけてしまったことから口論となる。その場は近所の住人の仲裁で収まったものの、恨みを抱いた高木の家来十数人が夕刻に深堀鍋島家蔵屋敷に乱入。鍋島家家臣を打ち据え、大小の刀を奪いとった。
これに立腹した深堀鍋島家の家臣が当事者の引き渡しを要求。高木彦右衛門は低姿勢で謝罪したものの引き渡しは拒否したため、深堀鍋島家の家臣12名が高木の屋敷に討ち入り。高木彦右衛門および事件の当事者や他家来など9名がその場で殺される。雪解けの泥をかけた深堀鍋島家の家臣二名は事件後すぐに自ら切腹した。
他に討ち入った10名は三か月後に幕府の命により切腹となった。また討ち入りに後から駆けつけた9名の藩士は島流しとなる。だが深堀鍋島家当主鍋島茂久には処罰はおよばず、むしろ武士の誇りを見せたと称賛を受けたという。
高木家側は深堀鍋島家蔵屋敷に押し入った10名が斬首。高木彦右衛門の息子はその場にいながら応戦せず隠れた非を咎められ、家財没収のうえ長崎追放となった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|18em}}
=== 歴史に関する文献 ===
*{{Cite book|和書|author=松島栄一|authorlink=松島栄一|date=1964年(昭和39年)|title=忠臣蔵―その成立と展開|publisher=[[岩波書店|岩波新書]]|asin=B000J8T3SI|ref=松島(1964)}}
*{{Cite book|和書|author=赤穂市総務部市史編さん室|date=1989年(昭和64年)-2014年(平成26年)|title=忠臣蔵第一巻-第七巻|publisher=兵庫県赤穂市|ref=赤穂市忠臣蔵}}
*{{Cite book|和書|author=野口武彦|authorlink=野口武彦|date=1994年(平成6年)|title=忠臣蔵―赤穂事件・史実の肉声|publisher=[[ちくま書房|ちくま新書]]|ISBN=978-4480056146|ref=野口(1994)}}
*{{Cite book|和書|author=野口武彦|authorlink=野口武彦|date=2015年(平成27年)|title=花の忠臣蔵|publisher=[[講談社]]|ISBN=978-4062198691|ref=野口(2015)|year=}}
*{{Cite book|和書|author=田口章子|authorlink=田口章子|date=1998年(平成10年)|title=おんな忠臣蔵 |publisher=[[筑摩書房|ちくま新書]]|ISBN=978-4480057808|ref=田口(1999)}}
*{{Cite book|和書|author=宮澤誠一|authorlink=宮澤誠一|date=1999年(平成11年)|title=赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)|publisher=[[三省堂]]|ISBN=978-4385359137|ref=宮澤(1999)}}
*{{Cite book|和書|author=谷口眞子|authorlink=谷口眞子|date=2006年(平成18年)|title=赤穂浪士の実像 [[歴史文化ライブラリー]] 214|publisher=[[吉川弘文館]]|ISBN=978-4642056144|ref=谷口(2006) }}
**オンデマンド版[https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b482443.html],2019年(令和元年)ISBN 9784642756143
*{{Cite book|和書|author=田原嗣郎|authorlink=田原嗣郎|date=2006年(平成18年)|title=赤穂四十六士論―幕藩制の精神構造 (歴史文化セレクション)|publisher=[[吉川弘文館]]|ISBN=978-4642063036|ref=田原(2006)}}
*林田明大『陽明学と忠臣蔵』徳間書店、1992年(平成11年)。
*{{Cite book|和書|author=山本博文|authorlink=山本博文|date=2012年(平成24年)|title=これが本当の「忠臣蔵」赤穂浪士討ち入り事件の真相 |publisher=[[小学館|小学館101新書]]|ISBN=978-4098251346|ref=山本(2012a)}}<!--{{SfnRef|山本|2012a}}-->
*{{Cite book|和書|author=山本博文|authorlink=山本博文|date=2012年(平成24年)|title=「忠臣蔵」の決算書|publisher=[[新潮社|新潮新書]]|ISBN=978-4106104954|ref=山本(2012b)}}<!--{{SfnRef|山本|2012b}}
-->
*{{Cite book|和書|author=山本博文|authorlink=山本博文|date=2013年(平成25年)|title=赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)[https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b106176.html]|publisher=[[吉川弘文館]]|ISBN=978-4642064613|ref=山本(2013)}}<!--{{SfnRef|山本|2013}}-->
*{{Cite book|和書|author=山本博文|authorlink=山本博文|date=2014年(平成26年)|title=知識ゼロからの忠臣蔵入門|publisher=[[幻冬舎]]|ISBN=978-4344902886|ref=山本(2014)}}<!--{{SfnRef|山本|2014}}-->
* 谷口眞子『赤穂浪士と吉良邸討入り(人をあるく)』[https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b128434.html]吉川弘文館、2013年(平成25年)ISBN 9784642067768
=== 史料 ===
* {{Cite book|和書|date=1931年(昭和6年)|title=赤穂義士史料(上巻)|publisher=[[雄山閣]]|ref=赤穂義士史料上(1931)}} [{{NDLDC|1173495}} 近代デジタルライブラリー] [https://books.google.co.jp/books?id=q-sSU9EpGUMC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false Goole Books]
* {{Cite book|和書|date=1931年(昭和6年)|title=赤穂義士史料(中巻)|publisher=[[雄山閣]]|ref=赤穂義士史料中(1931)}} [{{NDLDC|1173516}} 近代デジタルライブラリー]
* {{Cite book|和書|date=1931年(昭和6年)|title=赤穂義士史料(下巻)|publisher=[[雄山閣]]|ref=赤穂義士史料下(1931)}} [{{NDLDC|1173530}} 近代デジタルライブラリー]
=== その他 ===
* {{Cite book|和書|date=1889年(明治22年)|author=
* {{Cite book|和書|date=1909年(明治42年)|author=
* {{Cite book|和書|date=1910年(明治43年)|author=
* {{Cite book|和書|date=1914年(大正3年)|author=
*{{Cite book|和書|author=
*{{Cite book|和書|author=
*{{Cite book|和書|author=
*{{Cite book|和書|author=
*{{Cite book|和書|
*{{Cite book|和書|
*{{Cite book|和書|author=
*{{Cite book|和書|author=
== 関連書籍 ==
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== 関連項目 ==
* 関連人物
** [[赤穂事件の人物一覧]]
** [[
** [[内藤忠勝]] - <!--1680年-->浅野長矩の叔父。[[増上寺]]での[[徳川家綱]]の葬儀の席で[[永井尚長]]を殺害。
** [[稲葉正休]] - <!--1684年-->浅野長矩の又従兄。殿中で[[堀田正俊]]を殺害。
** [[前田利昌 (大聖寺新田藩主)|前田利昌]] - <!--1709年-->[[寛永寺]]での徳川綱吉の葬儀の席で[[織田秀親]]を殺害。
** [[水野忠恒 (大名)|水野忠恒]] - <!--1725年-->殿中で[[毛利師就]]を切りつける。
** [[
* 史跡・資料館
** [[本所松坂町公園]]
**[[大石神社|赤穂大石神社]] - 義士宝物殿、義士木像奉安殿
**[[花岳寺]] - 義士木像堂、宝物館
**[[赤穂市立歴史博物館]] - 「赤穂浪士」をメインテーマの一つとする史学系博物館。[[赤穂城]]の米蔵跡に立地。
* その他
** [[s:梶川日記|Wikisource:梶川日記]] - 事件直後に書かれた物を基に整理・書き直された物の写本<!--以下、日付を付けずに西暦年を記すのは問題がありますから付けないでください-->
== 外部リンク ==
*[https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010367 番組エピソード 赤穂浪士を題材にした、主なNHKドラマ-NHKアーカイブス]
*{{Kotobank}}
*[https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7060 山本博文:「赤穂の旧藩士は、なぜ吉良邸に討ち入ったのか?~東大名物教授が解説」(WEB歴史街道、公開2019年11月27日)。]
{{赤穂浪士}}
{{Normdaten}}
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[[Category:赤穂事件|*]]
[[Category:江戸時代の事件]]
[[Category:日本の暗殺事件]]
[[Category:日本の社会史]]
[[Category:1701年の日本]]
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[[Category:江戸]]
[[Category:赤穂藩]]
[[Category:赤穂浅野家]]
[[Category:大石内蔵助]]
[[Category:堀部安兵衛]]
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