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{{notice| '''編集の際は下記をおやめください'''
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* [[一次資料]]を直接出典にする事。[[WP:PSTS|独自研究にあたります]]。一次資料は不正確な場合があるので{{refn|group="注釈"|例えば松の廊下の刃傷に関する一次資料である『多門伝八郎覚書』には誇張や創作が含まれている事が他の史料との照合により判明している<ref name="名前なし-20240629115709">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p36-38</ref>}}、[[Wikipedia:信頼できる情報源#情報源|専門家による精査を経た二次資料を出典にしてください]]。
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|style=announce}}
 
{{otheruses|史実としての赤穂事件|この事件を題材にした物語|[[忠臣蔵]]」および「[[赤穂事件を題材とした作品]]}}
'''赤穂事件'''(あこうじけん)は[[江戸時代]]中期の[[元禄]]期に発生した事件で、[[吉良義央|吉良上野介]]を討ち損じて切腹に処せられた[[浅野長矩|浅野内匠頭]]の代わりに、その家臣である[[大石良雄|大石内蔵助]]以下47人が、吉良を討ったものである。
 
'''赤穂事件'''(あこうじけん)は[[江戸時代]]中期の[[元禄]]期に発生した事件で、[[吉良義央|吉良上野介]]を討ち損じて[[切腹]]に処せられた[[浅野長矩|浅野内匠頭]]の代わりに、その家臣である[[大石良雄|大石内蔵助]]以下47人が、吉良を討ったものである。
この事件は一般には'''[[忠臣蔵]]'''と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称はこの事件をもとにした[[人形浄瑠璃]]・[[歌舞伎]]の『[[仮名手本忠臣蔵]]』の通称、およびこの事件を元にした様々な作品群の総称であり、史実としての事件を述べる場合は区別のため「赤穂事件」と呼ぶ。
 
事件は[[人形浄瑠璃]]<!--「文楽」は明治以降の呼び名。-->・[[歌舞伎]]の[[仮名手本忠臣蔵]]を始め、数多くの芝居、講談、そして映画やテレビドラマの[[赤穂事件を題材とした作品|題材に取り上げられた]]。
なお赤穂事件を扱ったドラマ等では、この事件は主君・浅野内匠頭の代わりにその家臣が吉良を討った「仇討ち」事件とみなされる事が多いが、この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族の為に復讐する事を指し、主君の仇を討ったのは本事件が初めてである為<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p146</ref>、これを「仇討ち」とみなすべきかどうかは自明ではなく、本事件が起こると、この事件の意義をめぐって論争が巻き起こっている。
 
== 概要 ==
== 事件の名称に関して ==
=== 事件の名称 ===
[[File:47 Ronin Gishi Portraits by Utagawa Yoshitora.png|thumb|400px|歌川芳虎 作「義士四拾七人」]]
史実としての本事件を指す用語としては、「赤穂事件」で統一されている<ref>[[#三田村(1930)|三田村(1930)]]、[[#松島(1964)|松島(1964)]]、[[#今尾(1987)|今尾(1987)]]、[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]]、[[#野口(1994)|野口(1994)]]、[[#田口(1999)|田口(1999)]]、[[#田原(2006)|田原(2006)]]、[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]、[[#渡辺(2013)|渡辺(2013)]]、『元禄時代と赤穂事件』(大石学、角川選書)、『忠臣蔵の世界: 日本人の心情の源流』(諏訪春雄 大和書房)</ref>。一方で、「正保赤穂事件」{{refn|group="注釈"|[[池田氏|池田家]]において藩主[[池田輝興]]が狂乱し正室などを殺した事件}}、「文久赤穂事件」{{refn|group="注釈"|[[森氏|森家]]において攘夷派が藩政を私物化した家老の森主税を暗殺した事件}}と区別をつけて「元禄赤穂事件」とも呼ばれる。
 
赤穂事件を扱った創作物については、[[人形浄瑠璃]]・[[歌舞伎]]の『[[仮名手本忠臣蔵]]』以降、'''[[忠臣蔵]]'''と呼ぶことが多い。[[講談]]では'''赤穂義士伝'''(あるいは単に義士伝)と呼ぶ。
本事件を'''元禄赤穂事件'''(げんろくあこうじけん)と呼ぶ本もあるが<ref>『<元禄赤穂事件と江戸時代>スッキリ解決! 忠臣蔵のなぜと謎 (歴史群像デジタルアーカイブス)』(今井敏夫)、『考証 元禄赤穂事件―「忠臣蔵」の虚実』(PHPビジネスライブラリー 稲垣 史生)</ref>、専門家の書いた本では全て「赤穂事件」で統一されている<ref>[[#三田村(1930)|三田村(1930)]]、[[#松島(1964)|松島(1964)]]、[[#今尾(1987)|今尾(1987)]]、[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]]、[[#野口(1994)|野口(1994)]]、[[#田口(1999)|田口(1999)]]、[[#田原(2006)|田原(2006)]]、[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]、[[#渡辺(2013)|渡辺(2013)]]『元禄時代と赤穂事件』(大石学、角川選書)、『忠臣蔵の世界: 日本人の心情の源流』(諏訪春雄 大和書房)</ref>ので、本稿では「赤穂事件」と表記する。
 
吉良を討ち取った47人('''四十七士''')の行為を賞賛する立場からは、四十七士の事を'''赤穂義士'''(あるいは単に義士)と呼ぶ。 それ以外の立場に立つ場合は、四十七士を含めた[[赤穂藩]]の浪人の事を'''赤穂浪士'''と呼ぶ事が多いが、この名称は事件のあった元禄時代には一般的な言葉ではなく、作家の大佛次郎がこれまでの義士としての四十七士像を浪人としての四十七士に大転換する意図を持って書いた小説『赤穂浪士』で一般的になったものである<ref>[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p28、p147-151</ref>。(ただし先行作にも使用例あり<ref>例えば1888年の『江戸本所讐討 : 赤穂浪士吉良義英』 森仙吉編、東京屋 [{{NDLDC|880011}} 近代デジタルイブラリー]</ref>)。
また赤穂事件を扱った創作物では、前述のように本事件を'''[[忠臣蔵]]'''と呼ぶ事が多いが、[[講談]]では本事件を'''義士伝'''と呼ぶ。
 
このため「赤穂浪士」という言い方を避け、'''赤穂浪人'''という言い方がなされる場合もある<ref>[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]]、[[#山本(2013)|山本(2013)]]</ref>。
== 事件の概要 ==
 
なお『[[和名類聚抄]]』の「播磨国郡郷考」では赤穂は「阿加保(あかほ)」という表記である<ref name="kobe-np20211125">{{Cite web|和書|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/202111/0014866530.shtml|title=赤穂は「あかほ」、忠臣蔵でも「あかほぎし」 では、いつから、なぜ「あこう」に?|publisher=神戸新聞|accessdate=2021-11-25}}</ref>。赤穂事件の関連では1913年(大正2年)の「教育画集赤穂義士」の表紙のふりがなも「あかほぎし」となっており、城の明け渡しの文も「アカホノシロワタシ」となっている<ref name="kobe-np20211125" />。この点に関しては[[歴史的仮名遣|旧仮名遣い]]の「あかほ」を「あこう」と読んでいたという説がある<ref name="kobe-np20211125" />。
この事件は[[元禄]]14年([[1702年]])[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]、'''浅野長矩(内匠頭)'''が、江戸城[[松之大廊下]]で'''吉良義央(上野介)'''に斬りかかった事に端を発する。斬りかかった理由は浅野内匠頭によれば「この間の遺恨」が原因との事だが、浅野のいう「遺恨」がどんなものであるのかは記録に残されておらず、不明である。ドラマ等では、吉良の要求した賄賂の拒否やそれを発端とした吉良による嫌がらせが遺恨の原因として描かれる。
 
=== 事件の概要 ===
場所もわきまえず吉良を斬りつけた浅野内匠頭は即日切腹。浅野の属する赤穂藩もお取り潰し、赤穂城も明け渡す事が決まった。それに対し吉良は何のお咎めもなかった。当時の「喧嘩両成敗」の原則に従えば、吉良にも何らか刑が下されるはずだが、吉良が斬りつけられた際に抜刀しなかったため<ref name="yamamoto11kaji" />この事件は「喧嘩」として扱われず<ref name="yamamoto11kaji" />、吉良には咎めがなかったのである。
{{main|#赤穂事件の経過}}
[[File:Kanadehon-Chushingura-Stage-3-Utagawa-Kuniteru.png|thumb|「仮名手本忠臣蔵三段目」、歌川国輝]]
この事件は[[元禄]]14年[[3月14日 (旧暦)]]([[1701年]][[4月21日]])、赤穂藩主'''[[浅野長矩|浅野内匠頭長矩]]'''(あさのたくみのかみながのり)が、[[江戸城]][[松之大廊下]]で、高家'''[[吉良義央|吉良上野介義央]]'''(きらこうずけのすけよしひさ、「よしなか」とも{{Refn|[[#野口(2015)|野口(2015)]]第三章1節の「母のために」では「{{ruby|義央|よしひさ}}(「よしなか」とも)」。[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第一章1節の「運命の三月十四日」では「実名(諱)の「義央」は「よしなか」とされているが「よしひさ」が正しいという説もある」。|group=注釈}})に[[#松之大廊下の刃傷|斬りかかった]]事に端を発する。斬りかかった理由の詳細は不明である([[#刃傷におよんだ理由|詳細後述]])。
 
事件当時、江戸城では幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中だったので、場所柄もわきまえずに刃傷におよんだ浅野に対し、第五代将軍'''[[徳川綱吉]]'''は大激怒、浅野内匠頭は即日切腹、浅野家は所領の[[#赤穂藩改易|播州赤穂を没収の上改易]]されたが、吉良に咎めはなかった。
しかし浅野のみ刑に処せられた事に浅野の家臣である赤穂藩士達は反発。筆頭家老である'''大石良雄(内蔵助)'''を中心に対応を協議した。反発の意思を見せるため、籠城や切腹も検討されたが、まずは幕府の申しつけに従い、素直に赤穂城を明け渡した。この段階では浅野内匠頭の弟である浅野大学を中心としたお家再興の道も残されており、籠城は得策でないと判断されたのである<ref name="yamamoto22ooishi">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章二節「大石の真意」</ref>。
 
そのため浅野のみ刑に処せられた事に家臣達は反発、筆頭家老である'''大石内蔵助'''(おおいしくらのすけ)を中心に対応を協議した。反発の意思を見せるため、籠城や切腹も検討されたが、まずは幕府の申しつけに従い、素直に赤穂城を明け渡す事にした。この段階では浅野内匠頭の弟である浅野大学を中心とした浅野家再興の道も残されており、籠城は得策でないと判断されたのである<ref name="yamamoto22ooishi2">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章二節「大石の真意」</ref>。
吉良はその後[[3月23日 (旧暦)|3月23日]]に屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった。元・赤穂藩士('''赤穂浪士''')達が主君の浅野内匠頭の代わりに吉良を仇討ちする、そんなことを期待して幕府が吉良を人気のない郊外に移したのではないかと江戸の人々は噂した<ref name="yamamoto33">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第三章三節</ref>。そして自身の評判があまりに悪い事を知った<ref name="yamamoto34">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第三章四節</ref>吉良上野介は、隠居を決意する。
 
これを聞いた赤穂浪士の一部は焦りだした<ref name="yamamoto34" />。ぐずぐずしていると、吉良が、息子の養子先である米沢の上杉家に引き取られてしまい、仇討ちが難しくなってしまうからである<ref name="yamamoto34" />。
 
一方、同じ[[赤穂藩]]でも江戸に詰めている家臣には強硬派('''[[#大石と堀部との対立|江戸急進派]]''')がおり<ref name="yamamoto23">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章三節</ref>、吉良を討ち取る事に強くこだわっていた。彼らは吉良邸に討ち入ろうと試みたものの<ref name="yamamoto23" />、吉良邸の警戒が厳しく、彼らだけでは吉良を打ち取るのは難しかった<ref name="yamamoto23" /> 。そこで彼らは赤穂へ行き大石内蔵助に籠城を説いたが、大石はこれに賛同せず、赤穂城は予定通り幕府に明け渡された。
そこで赤穂浪士達は、大石が隠棲していた[[山城国]](今の京都)の[[山科区|山科]]で会議('''山科会議''')を開き、仇討ちの是非を検討。しかしこの段階では仇討ちに賛同する浪士は少なく<ref name="yamamoto34yama">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第三章四節「山科会議」</ref>、しばらく様子を見るという結論になった<ref name="yamamoto34yama" />。
 
吉良を打ち取ろうとする江戸急進派の動きが幕府に知られるとお家再興に支障が出てしまうので、主家再興を目標とする大石内蔵助は、江戸急進派の暴発を抑えるために彼らと二度の会議を開いている('''[[#吉良の動向と江戸会議|江戸会議]]'''、'''[[#吉良の隠居と山科会議|山科会議]]''')。
[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]、浅野大学が閉門のうえ本家の広島藩浅野家に引き取られる事が決定した。これはお家再興があり得ない事を事実上示している。
 
そこしかし浅野内匠頭の弟ある浅野大学の閉門が決まり、お家再興の道が事実上閉ざされると、大石内蔵助や江戸急進派をはじめとした旧・赤穂藩士(以降'''赤穂浪士'''と記述)達は[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]、に京都の円山で会議('''[[#円山会議|円山会議]]''')を開き、大石内蔵助は10月に江戸に行き吉良邸に討ち入る事を正式に表明した<ref name="yamamoto42yamamoto422">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第四章二節</ref>。そして仇討ちの意思を同志に確認するため、事前に作成していた血判を同志達に返してまわり、これ血判の受け取りを拒否して仇討ちの意思を口にしたものだけが同志を仇討ちのメンバーとして認められた<ref name="yamamoto43yamamoto432">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第四章三節</ref>('''[[#神文返し|神文返し]]''')。
 
その後、大石は宣言通り、[[10月7日 (旧暦)|10月7日]]に京を出て江戸に下り('''大石東下り''')、元禄15年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]、吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった。この時討ち入りに参加した人数は大石以下47人('''四十七士''')である。(ただし討ち入り後[[寺坂信行|一人]]行方不明になっているため、討ち入り人数が一人少ない可能性もある。)
 
そして元禄15年[[12月14日 (旧暦)]]([[1703年]][[1月30日]])、吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった('''[[#討ち入り|吉良邸討ち入り]]''')。この時討ち入りに参加した人数は大石以下47人('''四十七士''')である。
赤穂浪士達は吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供え、幕府の指示に従い、全員切腹した。
 
四十七士は吉良邸から引き揚げて、吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。引き上げの最中には、四十七士のうち一人(寺坂吉右衛門)がどこかに消えているが、その理由は古来から謎とされている([[#寺坂吉右衛門に関する問題|詳細後述]])。
== 赤穂事件の経過 ==
<!--
出典がないのでとりあえずコメントアウト。
 
寺坂を除いた四十六人は、吉良邸討ち入りを幕府に報告し、幕府の指示に従って全員切腹した。
=== 年賀の使者と饗応役の設置 ===
 
=== 事件の余波 ===
[[元禄]]14年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]([[1701年]][[2月24日]])、[[吉良義央]]は幕府側からの使者として京へ遣わされた。朝廷への慣例を比較的重くおいていたといわれる5代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川綱吉]]は、毎年、朝廷への年賀の使者を参内しており、この年は[[高家 (江戸時代)|高家]]筆頭の吉良が使者に任命されたのである。
==== 「義士」論争 ====
{{main|#討ち入りに対する見解}}赤穂事件が起こるとその是非をめぐって儒学者たちの間で論争が巻き起こった。主な論点は赤穂浪士の行動が「義」にあたるのかという事で、これは浪士達の吉良邸討ち入りが主君の為の「仇討ち」とみなせるかどうかにかかっている<ref name="taguchi1812">[[#田口(1999)|田口(1999)]] p181-182</ref>。この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族の為に復讐する事を指し<ref name="miyazawa1462">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p146</ref>、主君の仇を討ったのは本事件が初めてである為<ref name="miyazawa1462" />、これが問題になったのである。
 
この問題は武士の生き方や幕藩制度の構造に深くかかわるものであった事もあり<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p215</ref>、論争は幕末まで続いた<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p225</ref>。
一方の朝廷からも返礼として[[勅使]]・[[院使]]が毎年江戸に下向しており、幕府はその接待にあたる「勅使饗応役」と「院使饗応役」を中小大名にその役目を命じていた。[[元禄]]14年の勅使饗応役は[[浅野長矩]]であり、院使饗応役の[[伊予国|伊予]][[宇和島藩#伊予吉田藩|吉田藩]]主[[伊達村豊]]とともに[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[3月3日]])に任ぜられた。
 
==== 「忠臣蔵」の誕生 ====
両名の「指南役」は吉良を筆頭とする4人の[[高家 (江戸時代)#役職としての高家|高家肝煎]]の指名であった<ref>[[#斎藤(1975)|斎藤(1975)]] p.9-15</ref>が、饗応役の費用負担はかなりのものであったと言われている。浅野長矩は天和3年([[1683年]])に一度、勅使饗応役に任じられており、今回が2度目となる。1回目のときは吉良の指南のもと、[[霊元天皇]]の勅使[[花山院定誠]]と[[千種有能]]の饗応役を務め上げていた。
{{main|忠臣蔵}}
 
主君の遺恨を晴らすべく命をかけて吉良邸に討ち入った四十七士の行動は民衆から喝采を持って迎えられた。平和な時代が百年近く続いた元禄の世において、すでに過去のものになりつつあった[[武士道]]を彼らが体現したとみなされたからである{{要出典|date=2024年9月}}。
なお、この年の[[勅使]]は東山天皇により任じられた[[柳原資廉]](前の[[大納言|権大納言]])と[[高野保春]](前の[[中納言|権中納言]])であり、[[院使]]は[[霊元天皇|霊元上皇]]により任じられた[[清閑寺熈定]](前の権大納言)である。
 
赤穂浪士の討ち入りがあってからというもの、事件を扱った物語が[[歌舞伎]]、[[人形浄瑠璃]]、[[講談]]、[[戯作]]などありとあらゆる分野で幾度となく作られてきた。
その後の経過は以下のとおりである:
 
その中でも白眉となったのは浅野内匠頭の刃傷から47年後に作られた人形浄瑠璃『'''仮名手本忠臣蔵'''』である。同じ年の12月には歌舞伎にもうつされ、歌舞伎では興行上の気付薬「独参湯」と呼ばれる程の人気を博し、不入りが続くとこの演目を出すといわれた。本作以降、赤穂事件を扱った創作物は'''忠臣蔵'''ものと呼ばれる事になる。
* [[2月29日 (旧暦)|2月29日]]([[3月28日]])に、京より吉良義央が江戸へ戻ってきた<ref name="斎藤(1975)22">[[#斎藤(1975)|斎藤(1975)]] p.22</ref>。
* [[3月11日 (旧暦)|3月11日]]([[4月18日]])に、勅使饗応役の浅野長矩と、院使饗応役の伊達村豊は、勅使・院使一行の御馳走役(接待)として「[[伝奏屋敷]]」へ入った。
* [[3月11日 (旧暦)|3月11日]]([[4月18日]])に、勅使・院使一行は江戸に到着し、伝奏屋敷に滞在した。
* [[3月12日 (旧暦)|3月12日]]([[4月19日]])に、勅使・院使一行は[[江戸城]]へ登城の上、白書院において将軍徳川綱吉に「勅宣」「院宣」の伝奏を行った。
* [[3月13日 (旧暦)|3月13日]]([[4月20日]])は、勅使・院使一行は江戸城にて猿楽[[能]]を観賞。
 
== 赤穂事件の経過 ==
その後の予定では、[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]([[4月21日]])に勅使・院使一行は江戸城にて将軍綱吉からの「奉答の儀」を江戸城本丸御殿白書院にて受け、[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]([[4月22日]])に[[増上寺]]を参拝して帰京する予定となっていたが、後述する松之大廊下の事件により、取りやめになっている。
=== 松之大廊下の刃傷{{Anchors|松之大廊下の刃傷}} ===
-->
==== 刃傷まで ====
 
江戸幕府は毎年正月、朝廷に年賀の挨拶をしており、朝廷もその返礼として[[勅使]]{{refn|group="注釈"|[[東山天皇]]勅使は[[柳原資廉]]と[[高野保春]]、[[霊元天皇|霊元上皇]]院使は[[清閑寺煕定]]であった<ref name="yamamoto11unmei2" />。}}を幕府に遣わせていた<ref name="yamamoto11unmei2">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章一節「運命の三月十四日」</ref>。
=== 松之大廊下の刃傷まで ===
 
事件の発端となる、松之大廊下の刃傷を説明するために、まずそれまでの経緯を説明する。
 
江戸幕府は毎年正月、朝廷に年賀のあいさつをしており、朝廷もその返礼として使者を幕府に遣わせていた<ref name="yamamoto11unmei">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章一節「運命の三月十四日」</ref>。こうした朝廷とのやり取りを担当していたのが'''[[高家]]'''であった。
 
吉良上野介は事件のあった元禄14年に高家筆頭の立場にあったため、朝廷へのあいさつと朝廷からの使者の接待とを受け持っていた<ref name="yamamoto11unmei" />。
 
こうした朝廷とのやり取りや儀式を担当していたのが'''[[高家 (江戸時代)|高家]]'''であり<ref name="yamamoto11unmei2" />、吉良上野介は事件のあった元禄14年に高家筆頭の立場にあった<ref name="yamamoto11unmei2" />。
一方の浅野内匠頭は同年、吉良の補佐役に任命されていた。朝廷からの使者には天皇の使者である勅使と上皇の使者である院使がいるのだが、事件のあった元禄14年における勅使の接待役(勅使饗応役)が浅野内匠頭だったのである<ref name="yamamoto11unmei" />。
 
朝廷との接待には3-10万石程度の所領を持つ大名が'''勅使饗応役'''として高家の手伝いを行い、事件のあった年には浅野内匠頭が勅使饗応役に任ぜられていた<ref name="yamamoto11unmei2" />。
朝廷からの使者達は[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]<ref name="yamamoto11unmei" />に江戸に到着し、彼等の接待を受けていた。
 
事件朝廷からの使者達、この大事な接待の最後の日である[[3月1411日 (旧暦)|3月1411日]]に起こった<ref name="yamamoto11unmeiyamamoto11unmei2" />に江戸に到着し、彼等の接待を受けていた
事件は、この大事な接待の最後の日である[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]に起こった<ref name="yamamoto11unmei2" />{{refn|group="注釈"|この日は将軍[[徳川綱吉]]が本丸御殿内の[[白書院]]で勅使に奉答する予定であった<ref>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章一節冒頭部</ref>。}}。
 
=== 松之大廊下の=刃傷 ====
{{Wikisource|梶川日記}}
[[ファイル:MatsuNoORoka.jpg|thumb|江戸城本丸跡(東京)]]
[[元禄]]14年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]([[1701年]][[4月21日]])巳の下刻(午前11時半過ぎ)<ref name="yamamoto11">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章一節</ref>、浅野内匠頭は背後から吉良上野介に小刀{{refn|group="注釈"|[[#野口(1994)|野口(1994)]] によればこれは小さ刀(ちいさがたな)で礼式用の小刀で脇差とはサイズが違う<ref>[[#野口(1994)|野口(1994)]] p56</ref>が、[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]では脇差だとしている<ref>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第一章一節の「梶川与惣兵衛の証言」より</ref>。}}で斬りかかった。浅野が斬りかかったのは吉良に「遺恨」があったためであるというが、どのような「遺恨」があったのかは記録に残されておらず、不明である。
 
[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]([[4月21日]])巳の下刻(午前11時半過ぎ)<ref name="yamamoto11">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章一節</ref>、浅野内匠頭は背後から吉良上野介に小さ刀(ちいさがたな。礼式用の小刀で脇差とはサイズが違う<ref>[[#野口(1994)|野口(1994)]] p56</ref>)で斬りかかった。浅野が斬りかかったのは吉良に「遺恨」があったためであるというが、どのような「遺恨」があったのかは記録に残されておらず、不明である。
 
切りかかった場所は江戸城本丸御殿の大広間から白書院へとつながる[[松之大廊下]](現在の[[皇居東御苑]])である。
 
吉良が振り返ったので小さ刀は吉良の眉の上<ref name="yamamoto11" />を傷つけた。小刀は吉良の烏帽子の金具にも当たり大きな音をたてた<ref>[[#山本(2012b)|山本(2012b)]] 序章「基礎資料と事件の経過」</ref>。 そして吉良が向きかえって逃げるところを追いかけ、また2度斬りつけた<ref name="yamamoto11" />。
そして吉良が向きかえって逃げるところを追いかけ、また2度斬りつけた<ref name="yamamoto11" />。
 
すぐさま、浅野はその場に居合わせた[[梶川頼照|梶川与惣兵衛]]らに取り押さえられ、柳之間<ref name="yamamoto11kajiyamamoto11kaji2">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章一節「梶川与惣兵衛の証言」</ref>の方へと運ばれた。その際浅野はこう繰り返したという:
 
: {{Quotation|「上野介、此間中、意趣これあり候故、殿中と申し、今日の事かたがた恐れ入り候へども、是非におよび申さず討ち果たし候<br>
:(上野介には、ここしばらくのあいだ、遺恨があったので、殿中であり、また大事な儀式の日でありながらやむをえず討ち果たしました)<ref>『梶原氏筆記』。[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章一節「梶川与惣兵衛の詳言」より重引。現代語訳も同書から引用。</ref>}}
 
一方の吉良は、やはりその場に居合わせた他の高家衆に取り押さえられ、御医師之間<ref name="yamamoto11" />に運ばれ、その後江戸城内の自分の部屋にいるよう命じられた<ref name="yamamoto11" />。吉良の傷は[[外科学|外科]]の第一人者である[[栗崎道有]]により数針縫いあわせられている<ref name="yamamoto11kajikawa">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章一節「梶川与惣兵衛の詳言」</ref>数針縫いあわせられている。<!--出典がないのでコメントアウト
 
 
浅野は幕府の裁定を待つため、芝愛宕下<ref>現在の東京都[[港区 (東京都)|港区]][[新橋 (東京都港区)|新橋4丁目]]</ref>の[[陸奥国|陸奥]][[一関藩]]主[[田村建顕]]の屋敷にお預けとなる事になった。-->
{{要出典範囲|また浅野は次のようにも述べた:
 
浅野を乗せた駕籠は江戸城の平川門<ref name="yamamoto12saitei">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節の「幕府の裁定」より</ref>から出されたが、この門は「不浄門」とも呼ばれ、死者や罪人を出すための門であった<ref name="yamamoto12saitei" />。浅野は罪人として江戸城から出されたのである。
: 「拙者も5万石の城主だ。場所柄をはばからないのは重々恐れ入るが、乱暴な取り押さえで服が乱れた。お上にはなんの恨みもないから刃向かわない。殺せなかったのが残念だ」と言っていたとのことであった。
 
(以上は梶川による『梶川與怱兵衛筆記(梶川日記)』により記されている)。
 
取り調べを担当した多門重共によれば、浅野長矩は次のように答えたという:
 
なお以上で述べた刃傷事件の概要は主に『梶川与惣兵衛筆記』によっているが、『多門伝八郎覚書』の記述とは様々な差異がある。しかし『多門伝八郎覚書』には誇張や創作が含まれている事が他の史料との照合により判明しているので、基本的には『梶川与惣兵衛筆記』を信じるべきで『多門伝八郎覚書』に依存する場合は充分な[[史料批判]]が必要である<ref name="名前なし-20240629115709"/>。
:「幕府に対する恨みは全くない。ただ吉良には私的な遺恨がある。だから己の宿意をもって前後を忘れて吉良を討ち果たそうとした」
 
==== 幕府の裁定 ====
一方の吉良は、大久保と久留らから聞き取りを受けた際、こう答えた:
刃傷事件が起こると、将軍の綱吉は浅野内匠頭の即日切腹を命じた{{refn|group="注釈"|将軍は切腹を以下のように命じた「其方儀、意趣これある由にて、吉良上野介を理不尽に切つけ、殿中をも憚らず、時節柄と申し、重畳不届至極に候。これにより切腹仰せつけらる」(そのほうは、恨みがあるということで、吉良上野介を理不尽に斬りつけた。殿中をもはばからず、また勅使登城の日でもあり、重ね重ね不届至極である。これにより切腹を命じれらる。)<ref>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節より重引。現代語訳も同書から引用。</ref>}}。 当時殿中での刃傷は理由の如何を問わず死罪と決まっていたのに、まして幕府の権威づけの為に綱吉が重視していた朝廷との儀式の最中に刃傷に及んだのであるから即日切腹は当然であった<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p40-41</ref>。
 
一方の吉良は特におとがめもなく、むしろ将軍からこう見舞いの言葉をかけられた。
: 「拙者は恨みを受ける覚えは無い。浅野内匠頭の乱心であろう。またこの老体であるから、何を恨んだかなどいちいち覚えてはいない」|date=2015年5月1日}}-->
 
{{quotation|手傷はどうか。おいおい全快すれば、心おきなく出勤せよ。老体のことであるから、ずいぶん保養するように」<ref name="yamamoto12kira">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節「吉良の家系」</ref>}}このように事件の一方の当事者である吉良には何らお咎めなしでありながら、もう一人の当事者である浅野内匠頭には切腹が命じられる事になった。しかも後日、浅野内匠頭の領地である赤穂藩には御取り潰しが命じられている。こうした裁定が、後に起こる赤穂浪士達による吉良邸討ち入り事件の素地となった<ref name="名前なし_2-20240629115709">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p42</ref>。
浅野は幕府の裁定を待つため、芝愛宕下<ref>現在の東京都[[港区 (東京都)|港区]][[新橋 (東京都港区)|新橋4丁目]]</ref>の[[陸奥国|陸奥]][[一関藩]]主[[田村建顕]]の屋敷にお預けとなる事になった。
 
==== 裁定の背景 ====
浅野を乗せた駕籠は江戸城の平川門<ref name="yamamoto12saitei">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節「幕府の裁定」</ref>から出されたが、この門は「不浄門」とも呼ばれ、死者や罪人を出すための門であった<ref name="yamamoto12saitei" />。浅野は罪人として江戸城から出されたのである。
上記の裁定には、殿中での刃傷という理由以外にも、以下の3つの要因が働いていた。
 
第一に、事件があった元禄14年、江戸幕府の将軍[[徳川綱吉]]は、溺愛していた母の[[桂昌院]]を[[従一位]]{{refn|group="注釈"|従一位は女性としては最高位<ref>[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第三章1節の「母のために」より</ref>}}にすべく朝廷に働きかけており<ref name=":7">[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第三章1節の「母のために」より</ref>、吉良は綱吉と朝廷の仲介する高家肝煎として、公家の接待を仕切っていた<ref name=":7" />。それゆえ桂昌院に贈位する要となる吉良の瑕疵をなるべく問いたくないという心理が働いた可能性がある<ref name=":8">[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第三章3節の「幕府の事態収拾方針」</ref>(なお翌年、桂昌院には従一位が無事与えられた)。また吉良に見舞いの言葉があったのは、吉良が将軍の親戚筋に当たる為かもしれない<ref name="yamamoto12kira" />。
田村邸に到着して駕籠から降りたときには、すでに厳重な受け入れ体制ができており、部屋は襖を全て釘づけにし、その周りを板で覆い白紙を張っていた<ref>『一関藩家中長岡七郎兵衛記録』[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p44より重引。</ref>。<!--
 
第二に、当時の武士社会の慣習からいえば、「喧嘩」が起こった際には「喧嘩両成敗」の法が適応されるので、浅野と吉良は「双方切腹」となるはずであった<ref name="yamamoto11kaji3">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章一節「梶川与惣兵衛の証言」</ref>。
{{要出典範囲|事件の取り調べ結果は[[大目付]][[仙石久尚]](伯耆守)や、[[老中]][[小笠原長重]]・[[秋元喬知]]・[[土屋政直]]・[[稲葉正往]]へ報告され幕臣にて評議され、同時に[[側用人]][[柳沢吉保]]から将軍徳川綱吉に言上された。
 
しかし吉良が脇差しに手をかけなかったという証言が事件の場に居合わせた梶川から得られたため<ref name="yamamoto11kaji3" />、この事件は喧嘩としては扱われず<ref name="yamamoto11kaji3" />、浅野内匠頭の一方的な「暴力」とみなされたのである<ref name="名前なし_2-20240629115709"/>。
勅使饗応役は事件後すぐさま[[戸田忠真]]へと交代となり、奉答の儀は白書院から黒書院へと移された。|date=2015年5月1日}}-->
 
第三に、当時の法令ではもし当事者が「乱心」していればそれを情状酌量の口実として利用でき<ref>[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第三章3節の「上野介にお咎めなし」より</ref>、吉良も保身からか<ref name=":8" />「自分はなんの恨みも受ける覚えはない。内匠頭は乱心したのではないか」<ref name=":8" />と証言した。しかし内匠頭は「自分は乱心したのではなく、私の遺恨があり、一己の宿意をもって討ち果たそうと思い、刃傷に及んだ」<ref name=":8" />と証言したため情状酌量できず、一方的に内匠頭が悪い事になった<ref name=":8" />。
<!--
出典がないのでとりあえずコメントアウト
 
==== 江戸藩邸浅野内匠頭動き切腹 ====
[[ファイル:Ako Gishisai De09 07.jpg|thumb|浅野内匠頭の切腹(2009年[[赤穂義士祭]]での再現を撮影)。実際の切腹は午後6時頃だった<ref>[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第三章3節の「上野介にお咎めなし」より</ref>。|300x300ピクセル]]切腹場所である[[田村建顕|田村右京大夫]]の屋敷に到着して駕籠から降りたときには、すでに厳重な受け入れ体制ができており、部屋は襖を全て釘づけにし、その周りを板で覆い白紙を張っていた<ref>『一関藩家中長岡七郎兵衛記録』[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p44より重引。</ref>。
浅野長矩の弟であり、兄の養子に入っていた[[浅野長広]]は刃傷発生を知るとすぐさま伝奏屋敷<ref>現在の[[東京都]][[千代田区]][[丸の内]]1-4[[日本工業倶楽部]]</ref>から鉄砲洲の上屋敷<ref>現在の東京都[[中央区 (東京都)|中央区]][[明石町 (東京都中央区)|明石町]][[聖路加国際病院]]</ref>に駆けつけたが、長矩の正室の阿久里(後の[[瑤泉院]])から吉良の生死について問われても答えられないほど狼狽していたといわれる。未の刻(午後2時頃)、浅野長広は書状を国家老・大石良雄にしたためて、[[早水満尭]]と[[萱野重実]]を第1の急使として赤穂へ派遣した。
 
浅野内匠頭の切腹の場所は田村家の庭で、庭に筵(むしろ)をしき、その上に毛氈を敷いた上で行われた<ref name="yamamoto122">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節</ref>。本来、大名の切腹は座敷などで行われるが、慣例を破ってまで庭先での切腹を行うよう老中から指示があったという<ref name="miyazawaa442">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p43-45</ref>。おそらくその背後に将軍・綱吉の強い意向が働いていたのだろう<ref name="miyazawaa442" />。
浅野長矩の母方の従兄弟にあたる[[美濃国|美濃]][[大垣藩]]主[[戸田氏定]]も自ら鉄砲洲上屋敷へ駆けつけてきた。さらに幕府からも目付の近藤重興と[[天野富重]]が上屋敷に送られてきて、浅野長広や家老[[藤井宗茂]]に屋敷内の騒ぎを取り沈めるよう命じている。戸田氏定は上屋敷を出た後、その足で伝奏屋敷に入り、浅野家の家財を運び出すなど撤収を指揮した。この撤収に当たっては[[原元辰]]が迅速に行うなど働きがあり、幕府目付を感服させたという。
 
当時打ち首が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていた<ref name="yamamoto12saitei2">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節「幕府の裁定」</ref>ので、浅野内匠頭は切腹を言いつけられた事に下記のような礼を言った上で<ref name="名前なし_3-20240629115709">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節「幕府の裁定」より重引。現代語訳も同書から引用。</ref>切腹をした{{refn|group="注釈"|切腹の際の立会人は検使正使の大目付[[庄田安利]](下総守)と、 検使副使の目付[[多門重共|多門伝八郎]] ・[[大久保忠鎮|大久保権左衛門]]であり<ref name="yamamoto122" />、介錯は御徒目付磯田武太夫によってなされた<ref name="yamamoto122" />。}}。
刃傷事件のあった元禄14年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]([[1701年]][[4月21日]])に江戸にいた赤穂藩重臣は次のとおり。
{{quotation|浅野の礼は下記の通り:「今日、不調法なる仕方、如何様にも仰せつけらるべき儀を、切腹と仰せつけられ、有り難く存じ奉り候」<br>(今日の不調法な行動はどのような厳しい処罰を命じられてもしかたのないところ、切腹を命じていただき、ありがたく存じ奉ります。)<ref name="名前なし_3-20240629115709"/>}}
 
*藩主世子…[[浅野長広|浅野大学長広]](3000石)
*江戸家老…[[安井彦右衛門]](650石江戸扶持9人半)
*藩主供奉家老…[[藤井宗茂|藤井又左衛門宗茂]](800石)
*足軽頭…[[原元辰|原惣右衛門元辰]](300石)(ただしすぐに赤穂へ立つ)
*用人…奥村忠右衛門(300石)、[[糟谷秀信|糟谷勘左衛門秀信]](250石)
*大目付…早川宗助(200石役料10石)
*江戸留守居…建部喜六(250石)・近藤政右衛門(250石)
*側用人…[[片岡高房|片岡源五右衛門高房]](350石)、[[礒貝正久|礒貝十郎左衛門正久]](150石)、[[田中貞四郎]](150石)
-->
 
=== 浅野内匠頭切腹 ===
 
[[File:Ako Gishisai De09 07.jpg|thumb|浅野内匠頭の切腹(2009年[[赤穂義士祭]]にて撮影)]]
 
刃傷事件が起こると、将軍の綱吉は浅野内匠頭の即日切腹を命じた。
当時殿中での刃傷は理由の如何を問わず死罪と決まっていたのに、まして幕府の権威づけの為に綱吉が重視していた朝廷との儀式の最中に刃傷に及んだのであるから即日切腹は当然であった<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p40-41</ref>。
 
浅野内匠頭の切腹の場所は田村家の庭で、庭に筵(むしろ)をしき、その上に毛氈を敷いた上で行われた<ref name="yamamoto12">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節</ref>。本来、大名の切腹は座敷などで行われるが、慣例を破ってまで庭先での切腹を行うよう老中から指示があったという<ref name="miyazawaa44">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p43-45</ref>。おそらくその背後に将軍・綱吉の強い意向が働いていたのだろう<ref name="miyazawaa44" />。
 
万一浅野内匠頭の家臣たちが騒動を起こしたとき武力で抑えられるよう、浅野家の家臣たちの退去を命じ、上使に任ぜられた水野監物忠之の配下の者達に廻りを固めさせた<ref name="miyazawaa44" />。
 
当時打ち首が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていた<ref name="yamamoto12saitei" />ので、浅野内匠頭は切腹を言いつけられた事に礼を言った上で<ref>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節「幕府の裁定」より重引。現代語訳も同書から引用。</ref>切腹をした。
 
切腹の際の立会人は検使正使の大目付[[庄田安利]](下総守)と、 検使副使の目付[[多門重共|多門伝八郎]]
・[[大久保忠鎮|大久保権左衛門]]であり<ref name="yamamoto12" />、介錯は御徒目付磯田武太夫によってなされた<ref name="yamamoto12" />。
遺体は浅野家の家臣達の[[片岡高房|片岡源五右衛門]]、[[礒貝正久|礒貝十郎左衛門]]、[[田中貞四郎]]、中村清右衛門、糟屋勘右衛門、建部喜内によって引き取られ<ref name="yamamoto13">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章三節</ref>、菩提寺の'''[[泉岳寺]]'''でひっそり埋葬された<ref name="yamamoto13" />。
<!--
 
切腹の詳細はいかの通りである。まず将軍は切腹を以下のように命じた
: 「其方儀、意趣これある由にて、吉良上野介を理不尽に切つけ、殿中をも憚らず、時節柄と申し、重畳不届至極に候。これにより切腹仰せつけらる」
:(そのほうは、恨みがあるということで、吉良上野介を理不尽に斬りつけた。殿中をもはばからず、また勅使登城の日でもあり、重ね重ね不届至極である。これにより切腹を命じれらる。)<ref>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節より重引。現代語訳も同書から引用。</ref>
 
当時打ち首が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていた<ref name="yamamoto12saitei" />ので、浅野は以下のように礼を述べている
: 「今日、不調法なる仕方、如何様にも仰せつけらるべき儀を、切腹と仰せつけられ、有り難く存じ奉り候」
:(今日の不調法な行動はどのような厳しい処罰を命じられてもしかたのないところ、切腹を命じていただき、ありがとく存じ奉ります。)<ref>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節「幕府の裁定」より重引。現代語訳も同書から引用。</ref>
 
 
遺体は浅野家の家臣達{{refn|group="注釈"|[[片岡高房|片岡源五右衛門]]、[[礒貝正久|礒貝十郎左衛門]]、[[田中貞四郎]]、中村清右衛門、糟屋勘右衛門、建部喜内<ref name="yamamoto132" />}}によって引き取られ<ref name="yamamoto132">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章三節冒頭</ref>、菩提寺の'''[[泉岳寺]]'''でひっそり埋葬された<ref name="yamamoto132" />。
 
なお、田村邸では浅野に吉良の様子を尋ねられると「取り込んでいるので、確かなことは承ってませんが、御深手(重症)なので、御養生(治療)はかなわないのではないでしょうか」<ref name=":11">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節の「吉良は生き残った」より</ref>と答えていた。このため、浅野は吉良を討ち果たしていたと思っていたのではないかとする著作物もある<ref name=":11" />。<!--
以下の記述は「多門伝八郎覚書」のみにあり、田村家の記述にはない等、事実性に疑いが多い旨が[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節「内匠頭の最期」に書いてあるためコメントアウトした。
 
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{{要出典範囲|[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]([[4月22日]])深夜頃には、略奪を目的に町人が大勢群集して浅野家の鉄砲洲上屋敷裏口に乱入するようになる。大垣藩戸田家から送られてきていた警備兵たちや[[堀部武庸]]らが刀を持って追い払い、さらに翌朝には本家の[[浅野綱長]](安芸守)にも警備の兵が依頼されて、小堀新五右衛門(大番物頭)が指揮する広島藩兵(足軽50名・小人30名)が到着し、上屋敷は治安を取り戻した。|date=2015年5月1日}}-->
 
==== 伝奏屋敷からの退去 ====
浅野内匠頭の正室の[[瑤泉院|阿久里]]は、浅野の切腹を受けて[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]夜に剃髪し、名を瑤泉院と改め<ref name="yamamoto13" />、翌[[3月15日 (旧暦)|15日]]明け方に麻布今井町の屋敷に移った<ref name="yamamoto13" />。
勅使饗応役の役宅であった伝奏屋敷に詰めていた赤穂藩士は退去を命じられた<ref name="yamamoto132" />。この際、万一浅野内匠頭の家臣たちが騒動を起こしたとき武力で抑えられるよう、浅野家の家臣たちの退去を命じ、上使に任ぜられた水野監物忠之の配下の者達に廻りを固めさせた<ref name="miyazawaa442" />。
 
町人や浪人の中で其々の藩邸に忍び込んで空巣をやる者や、堂々と押し入って暴れる者がおり、大垣藩や浅野本家の[[広島藩]]から警護のものが派遣されている<ref>[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] pp.40-42.</ref>。[[堀部武庸]]も暴徒の退治に加わり、金品強奪や破壊から藩邸を守った(『堀部武庸日記』)<ref>武庸書簡(吉川茂兵衛宛)にも同様の記述あり。</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}
=== 吉良への見舞い ===
 
浅野内匠頭の正室の[[瑤泉院|阿久里]]は、浅野の切腹を受けて[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]夜に剃髪し、名を瑤泉院と改め<ref name="yamamoto132" />、翌[[3月15日 (旧暦)|15日]]明け方に麻布今井町の屋敷に移った<ref name="yamamoto132" />。
一方の吉良は特におとがめもなく、むしろ将軍からこう見舞いの言葉をかけられた。
 
===赤穂藩改易{{Anchors|赤穂藩改易}}===
: 「手傷はどうか。おいおい全快すれば、心おきなく出勤せよ。老体のことであるから、ずいぶん保養するように」<ref name="yamamoto12kira">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節「吉良の家系」</ref>
 
==== 赤穂への事件の伝達 ====
当時の武士社会の慣習からいえば、「喧嘩」が起こった際には「喧嘩両成敗」の法が適応されるので、浅野と吉良は「双方切腹」となるはずである<ref name="yamamoto11kaji"> [[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章一節「梶川与惣兵衛の証言」</ref>。
事件が起こるとすぐに、江戸家老である[[藤井宗茂|藤井又左衛門]]・[[安井彦右衛門]]らは、事件を知らせるための早駕籠を'''[[赤穂藩]]'''の筆頭家老大石内蔵助のもとに飛ばした。
 
早駕籠は二度にわたり赤穂に届られ、第一の早駕籠は江戸での刃傷沙汰のみを伝え<ref name="yamamoto212">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章一節</ref>、第二の早駕籠が浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の取り潰しを報告<ref name="yamamoto212" />{{refn|group="注釈"|なお、第一の早駕籠に乗って赤穂に訪れたのは [[早水満尭|早水藤左衛門]]と[[萱野重実|萱野三平]]の二人で <ref name="yamamoto212" /> 、第二の早駕籠に乗っていたのは[[原元辰|原惣右衛門]]と[[大石信清|大石瀬左衛門]]の二人であった<ref name="yamamoto212" />。
しかし吉良が脇差しに手をかけなかったという証言が事件の場に居合わせた梶川から得られたため<ref name="yamamoto11kaji" />、この事件は喧嘩としては扱われず<ref name="yamamoto11kaji" />、浅野内匠頭の一方的な「暴力」とみなされたのである<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p42</ref>。また吉良に見舞いの言葉があったのは、吉良が将軍の親戚筋に当たる為かもしれない<ref name="yamamoto12kira" />。
 
時刻に関しては第一の早駕籠は[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]未の下刻(午後3時半頃)に江戸を出発し、 第二の早駕籠は同日夜更け<ref name="yamamoto212" />に出発した。前者は[[3月14日 (旧暦)|19日]]寅の下刻(午前5時半頃)<ref name="yamamoto212" />に赤穂に到着、後者も同日中<ref name="yamamoto212" />には赤穂に到着した。}}。
 
江戸から赤穂へは早駕籠でも通常一週間程度かかるところだが、使者たちは昼夜連続で駆け続ける事で、4日半程度で赤穂に到着している<ref name="yamamoto212" />。
このように事件の一方の当事者である吉良には何らお咎めなしでありながら、もう一人の当事者である浅野内匠頭には切腹が命じられる事になった。しかも後日、浅野内匠頭の領地である赤穂藩には御取り潰しが命じられている。こうした裁定が、後に起こる赤穂浪士達による吉良邸討ち入り事件の素地となった<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p42</ref>。
 
実際、こうした幕府の裁定と当時の民衆の感覚の間には大きな隔たりがあり<ref name="miyazawaa47" />、当時の記録には浅野内匠頭の軽率さに非難が向けられる一方で、幕府による裁定の厳しさに対する同情論もあった<ref name="miyazawaa47">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p47-49</ref>。例えば『易水連袂録』にはもし浅野が吉良に対して「意趣」があり、それが「堪忍しがたきもの」なら浅野の行動は「乱気」でも「不行跡」でもないはずだと<ref name="miyazawaa47" />、浅野の行動に理解を示している。
また武士道の観点からいえば、売られた喧嘩を買わずに逃げるのは、武士にあるまじき不名誉な行為のはずである<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p56</ref>。
 
こうした世評があった為、吉良は世間の非難の目を意識して高家肝煎の辞職願を出さねばならなかったし、吉良の傷は14、5日で治ったのにわざと重く見せかけねばならなかったという(『栗崎道有記録』)<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p48</ref>。<!--
出典がないのでとりあえずコメントアウト
 
=== 赤穂藩 浅野家の改易 ===
 
幕府は[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]([[4月22日]])、浅野長矩の弟で養子に入っていた浅野長広を[[閉門]]処分とした。また浅野長矩の従兄弟にあたる美濃大垣藩主戸田氏定、[[大垣新田藩]]主[[戸田氏成]]、[[武蔵国|武蔵]][[岡部藩]]主[[安部信峯]]、旗本[[安部信方]]、[[浅野長恒]]、[[浅野長武]]らを遠慮(江戸城登城禁止処分)とした。
 
[[3月16日 (旧暦)|3月16日]]([[4月23日]])に、赤穂藩士は全員鉄砲洲の上屋敷から引き払い、申の刻(午後4時30分頃)には広島藩兵たちも引き上げて、戸田氏定がひとまずの管理者となったが、[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]([[4月24日]])には同屋敷は新しい主となった[[出羽国|出羽]][[新庄藩]]主[[戸沢正誠]]に引き渡され、さらに[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]([[4月27日]])には[[若狭国|若狭]][[小浜藩]]主[[酒井忠囿]]の屋敷となった。
 
赤坂[[南部坂]](現東京都港区[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]六丁目)にあった下屋敷のほうも[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]([[4月25日]])には藤井宗茂・[[富森正因]]から[[人吉藩]]主[[相良長在]]へ引き渡された。また本所屋敷は当初鉄砲洲上屋敷から運び出した品を収納していたが、それも随時運び出して、[[3月22日 (旧暦)|3月22日]](4月27日)には安井彦右衛門から伊予[[大洲藩]]主[[加藤泰恒]]に引き渡された。
 
幕府は、播磨[[龍野藩]]主[[脇坂安照]]と[[備中国|備中]][[足守藩]]主[[木下公定]]の両名には赤穂城収城使を命じ、収城目付に旗本[[荒木政羽]]と[[榊原政殊]]を任じた。この役目は当初[[日下部博貞]]の予定だったが、日下部は浅野家の遠縁にあたるので榊原に変更された。18日(25日)には、しばらく天領となる赤穂の統治のために幕府代官[[石原正氏]]と[[岡田俊陳]]の赤穂派遣が決定した。
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=== 赤穂への使者 ===
 
事件が起こるとすぐに、事件を知らせるための早駕籠が浅野の領地である'''[[赤穂藩]]'''へと飛んだ。
 
早駕籠は二度にわたり赤穂に届られ、第一の早駕籠は江戸での刃傷沙汰のみを伝え<ref name="yamamoto21" />、第二の早駕籠が浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の取り潰しを報告<ref name="yamamoto21" />。
 
江戸から赤穂へは早駕籠でも通常一週間程度かかるところだが、使者たちは昼夜連続で駆け続ける事で、4日半程度で赤穂に到着している<ref name="yamamoto21" />。
 
吉良の生死については早駕籠は何も伝えず、結局生死が赤穂側に伝わったのは3月の下旬であった<ref name="yamamoto21edo">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章一節「江戸屋敷と居城の明け渡し」</ref>。
 
====藩札の処理====
なお、第一の早駕籠に乗って赤穂に訪れたのは
[[早水満尭|早水藤左衛門]]お取りつぶしの話が藩に広まる[[萱野重実|萱野三平]]の二、商達が札座に押し寄せて大混乱となった<ref name="yamamoto21yamamoto21kansatsu">[[赤穂事件#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章一節「藩札の処理」</ref> 、第二藩が取り潰しになると彼ら早駕籠持っている藩札が無価値っていたのは[[原元辰|原惣右衛門]]と[[大石信清|大石瀬左衛門]]の二人しまうからであった<ref name="yamamoto21" />
 
時刻に関しては第一の早駕籠は[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]未の下刻(午後3時半頃)に江戸を出発し、 第二の早駕籠は同日夜更け<ref name="yamamoto21" />に出発した。前者は[[3月14日 (旧暦)|19日]]寅の下刻(午前5時半頃)<ref name="yamamoto21" />に赤穂に到着、後者も同日中<ref name="yamamoto21" />には赤穂に到着した。
 
=== 藩札の処理 ===
 
お取りつぶしの話が藩に広まると、商人達が札座に押し寄せて大混乱となった。
藩が取り潰しになると彼らの持っている藩札が無価値になってしまうからである。
 
両替所可能な金の量が不足していたため、大石内蔵助は、[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]([[4月27日]])藩札を銀に六分率で交換するよう指示<ref name="yamamoto21kansatsu">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章一節「藩札の処理」</ref>。
赤穂経済の混乱の回避に努めた。
 
このとき大石は次席家老の大野九郎兵衛と相談し、広島の浅野本家に不足分の金の借用を頼むことにしたが、広島藩は藩主が不在であることを理由にしてこれを断っている<ref name="miyazawaa53">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p53-54</ref>。この件に限らず広島藩は、自藩に累が及ぶのを恐れ、赤穂藩に一貫して冷ややかな態度をとり続けている<ref name="miyazawaa53" />。
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以下の文書を下記の理由により削除した。
1:「5度の報」とあるが、[[#山本(2012a)]]、[[#野口(1994)]]のいずれにも2度の報しか載っていない。
2:第一の報の到着時刻が[[#山本(2012a)]]と異なる等、事実誤認が散見される。
3:[[#山本(2012a)]]には「連日」議論が行われたとあるのに、「大会議を3日」としているなど、ドラマの忠臣蔵の影響を受けた記述がある。
 
 
そこで藩札に関する対応が行われた。両替可能な金の量が不足していたため、大石内蔵助は、[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]([[4月27日]])藩札を銀に六分率で交換するよう指示<ref name="yamamoto21kansatsu" />。 赤穂経済の混乱の回避に努めた{{refn|group="注釈"|このとき大石は次席家老の大野九郎兵衛と相談し、広島の浅野本家に不足分の金の借用を頼むことにしたが、広島藩は藩主が不在であることを理由にしてこれを断っており<ref name="yamamoto21kansatsu" /><ref name="miyazawaa532">[[赤穂事件#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p53-54</ref><ref>[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]] 第四章1節の「藩札処分」より</ref>、この件に限らず広島藩は、自藩に累が及ぶのを恐れ、赤穂藩に一貫して冷ややかな態度をとり続けたとしている<ref name="miyazawaa532" />。<br>一方、高木(2019)<ref>「延宝赤穂藩札」広島市立中央図書館「おカネでみる広島藩」高木久史(2019年)</ref>{{要ページ番号|date=2024/02/02}}は延宝8年の赤穂藩藩札が広島藩(現在は広島市)に残っている<ref group="注釈">五匁札・一匁札・三分札・二分札の銀札があり、額面上部に大黒天と銀分銅の絵柄が確認できる。</ref>事を根拠に浅野本家からの援助があったとするがある{{refn|group="注釈"|実際、赤穂改易後に広島藩は[[鴻池家]]からの借財が桁違いに増加している<ref>浅野家文書「広島藩御覚書帳」</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。}}。}}。<!--
5度の報の詳細は下記の通りである:
出典がないのでコメントアウト
* [[3月19日 (旧暦)|3月20日]]([[4月27日]])卯の刻(午前4時20分頃)、江戸からの第一の急使の早水満尭と萱野重実が赤穂城内にある筆頭家老大石良雄の屋敷に到着し、浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだという浅野長広からの書状を届けた。良雄はすぐさま赤穂にいる200名ほどの藩士全員に登城命令を出した。家中がそろったところで、急報を末席家老[[大野知房]]が藩士達に読んで聞かせた。この浅野長広の書状には吉良義央の存命については何も書かれておらず、吉良は討ち取られたと思い込んでいたといわれる。大石良雄は、これだけでは詳細が何も分からないということで、午後1時頃、萩原文左衛門(100石)と荒井安右衛門(15石5人扶持)を江戸へ派遣した。
* 酉の刻(午後7時頃)、[[足軽]][[飛脚]]による第2の急使が赤穂に到着する。これにも刃傷事件の発生以外は書かれていなかった。
* 戌の刻(午後11時頃)、原元辰と[[大石信清]]による第3の急使が到着して藩主浅野長矩切腹の情報が伝えられた。そこに吉良義央の生死や赤穂藩の改易については何も書かれていなかったが、藩主の切腹処分によるお家取り潰しは容易に想像出来たと思われ、大石良雄はすぐさま藩札の処理を札座奉行の[[岡島常樹]]に命じ、早くも翌[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]([[4月27日]])には領内数箇所に藩札交換所を設けて六分率で交換させ、赤穂経済の混乱の回避に努めた。
* [[3月22日 (旧暦)|3月22日]]([[4月29日]])には町飛脚の第4報が到着し、浅野長広お預かりの情報が伝えられた。
* [[3月25日 (旧暦)|3月25日]]([[5月2日]])には町飛脚の第5報が到着し、これには江戸の浅野家上下屋敷が召し上げられたことが書かれていた。この段階でも吉良義央の生死の情報はなく、吉良の死を疑いだした大石良雄は、吉良の生死を確かめるために藩大目付の[[田中正形]]を江戸へ、番頭の[[伊藤五右衛門]]を[[三次藩]]へそれぞれ派遣した。
 
{{要出典範囲|そして、城に収められた武器については、城付き武具のほかは売り払いの許可がでたため、浅野家が赤穂入藩時に、改易となった[[池田輝興]]から引き継いだ分の武器以外は、大坂の商人が落札した。|date=2024/02/02}}
なお、第一の報の当時、国許にいた赤穂藩浅野家重臣は以下のとおりである:
 
{{要出典範囲|これらの実務作業のほか、必要とされる書類については、元禄7年(1694年)の[[備中松山藩]]の転封の際に浅野内匠頭が受け取りを担当、大石以下赤穂藩士もこれに関わっていたため、書類作成もスムーズに進んだ。|date=2024/02/02}}
*筆頭家老…[[大石良雄|大石内蔵助良雄]](1500石)
*末席家老…[[大野知房|大野九郎兵衛知房]](650石)
*番頭…[[岡林直之|岡林杢之助直之]](1000石)、[[外村源左衛門]](400石)、[[伊藤五右衛門]](430石)、[[奥野定良|奥野将監定良]](1000石)、[[玉虫七郎右衛門]](400石)
*足軽頭…[[川村伝兵衛]](400石)、八島宗右衛門(300石)、[[進藤俊式|進藤源四郎俊式]](400石)、[[小山良師|小山源五左衛門良師]](300石)、[[佐藤伊右衛門]](300石)、(江戸から急使として[[原元辰|原惣右衛門元辰]](300石)、浅野家飛領の加東郡から[[吉田兼亮|吉田忠左衛門兼亮]](200石)もこの後着穂)
*持筒頭…藤井彦四郎(250石)、[[多川九左衛門]](400石)
*郡奉行兼絵図奉行…潮田又之丞高教(200石)
*槍奉行…稲川十郎左衛門(220石余)、[[萩原兵助]](150石)、小林治郎右衛門(150石)
*用人…田中清兵衛(300石)、植村与五左衛門(300石)、
*大目付…[[間瀬正明|間瀬久大夫正明]](200石役料10石)、[[田中正形|田中権右衛門正形]] (150石役料10石)
*中小姓頭…[[多儀清具|多儀太郎左衛門清具]](200石)、大木弥市右衛門(500石)、
*歩行小姓頭…中沢弥右衛門(300石)、[[月岡治右衛門]](300石)
-->
 
==== 赤穂で籠城か切腹かの議論 ====
[[ファイル:OishiKuranosuke3.JPG|サムネイル|[[泉岳寺]]にある大石内蔵助の像([[浪曲]]の中興の祖[[桃中軒雲右衛門]]が建立<ref name=":4">{{Cite web |title=境内案内|泉岳寺について |url=http://www.sengakuji.or.jp/about_sengakuji/keidai_info.html |website=曹洞宗 江戸三ヶ寺 萬松山 泉岳寺 |access-date=2024-02-28}}</ref>)手に持っているのは連判状<ref name=":4" />。]][[3月26日 (旧暦)|3月26日]]に藩札の処理が済んだので<ref name=":6">[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]] 第四章1節の「大石と大野の二人三脚」より</ref>、筆頭家老の大石内蔵助は翌[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]から3日間、家中を総登城させ、事件を皆に伝え<ref name=":6" /><ref name="yamamotoc282">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p28</ref>、城内の大広間で今後の対応を議論する評定会議を開いた<ref name=":6" /><ref name="yamamotoc282" /><!-- ほぼ同内容なのでコメントアウト:そして大石内蔵助を上座に据え、連日、城に集まって対応を議論した(『浅野綱長伝』)。<ref>[[#山本(2013)|山本(2013)]] p28</ref> -->。広島の本家浅野藩や三次藩浅野家からは穏便に開城をという使者が派遣され、彼らも会議に出席した<ref name=":6" /><ref name="yamamotoc282" />。
 
[[3月28日 (旧暦)|28日]]には幕府からの使者{{Refn|受城目付の荒木政羽と榊原政殊<ref>[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第四章1節の「大石と大野の二人三脚」より</ref>|group=注釈}}が到着し<ref name=":6" />、赤穂城が幕府に没収されることが分かったので議論は紛糾した<ref name=":6" />。家中は浅野内匠頭の家臣であり幕府の家臣ではないので、幕府からの命令があったとはいえ、簡単に明け渡す事はできないためである<ref name="yamamoto21edo2">[[赤穂事件#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章一節「江戸屋敷と居城の明け渡し」</ref>。
第一の使者から浅野内匠頭の刃傷事件の知らせを受けた筆頭家老の[[大石良雄|大石内蔵助]]は、藩士に総登城を命じ、事件を皆に伝えた<ref name="yamamotoc28">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p28</ref>。
 
家臣達の意見は、籠城により吉良が処罰されなかった事に対する抗議の意思を示すというものが多かったが{{Refn|[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章二節では『江赤見聞記』『堀部武庸筆記』を参考に「抗議の意思を表すために、籠城すべきであるという意見が強かった」としているので本稿ではそれに従ったが、[[#野口(2015)|野口(2015)]]第四章1節の「藩論四分五裂」では「なぜだか籠城=徹底抗戦派は誰もいなかった」としている。|group=注釈}}、大石はこの意見には与しなかった。籠城をすれば公儀に畏れ多いと思ったためである<ref name="yamamoto22">[[赤穂事件#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章二節</ref>。
そして大石内蔵助を上座に据え、連日<ref name="yamamoto21edo" />、城に集まって対応を議論した(『浅野綱長伝』)<ref name="yamamotoc28" />。幕府からは城を明け渡すよう要請されていたが、浅野家は浅野内匠頭の家臣であっても幕府の家臣ではないので、幕府からの命令があったとはいえ、簡単に明け渡す事はできないのである<ref name="yamamoto21edo" />。親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が派遣されていた。
 
連日また大石は、籠城すれば大学に迷惑がかかると考えた議論も籠城経て、筆頭家老辞めた理由一つである<ref name="yamamoto22ooishi3">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章二節「大石良雄|の真意」</ref>。大石内蔵助]]、結論を出した。赤穂の前皆で切腹の議論と並行て、吉良の処分を再考するよう城受け渡しの上使に嘆願書を出してであるだが<ref name="yamamoto22yamamoto21kira">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章「吉良存命の報」</ref>ういう決断を下したは、切腹事が浅野内匠頭自身らあたる浅野大学思いを述べれば耳に入ったため幕府も吉良へ籠城が大学処罰を考え直してく指示だと思われるのではないかと考えを恐れからでためある<ref name="yamamoto22yamamoto22ooishi3" />。
ただし、大石はほどなく切腹を口にしなくなるので<ref name="yamamoto22ooishi" />、切腹という方針を出す事で本当に味方する藩士を見極めようとしたとする説もある<ref name="yamamoto22ooishi" />。
 
連日の議論を経て、大石は赤穂城の前で皆で切腹するという<ref name="yamamoto22" />結論を出した。こうした決断を下したのは、切腹の際に自身らの思いを述べれば、幕府も吉良への処罰を考え直してくれるのではないかと考えたためである<ref name="yamamoto22" />。 ただし、大石はほどなく切腹を口にしなくなるので<ref name="yamamoto22ooishi3" />、切腹という方針を出す事で本当に味方する藩士を見極めようとしたとする説もある<ref name="yamamoto22ooishi3" />。
家臣達の意見は、籠城により吉良が処罰されなかった事に対する抗議の意思を示すというものが多かった<ref name="yamamoto22" />が、大石はこの意見には与しなかった。籠城をすれば公儀に畏れ多いと思ったのである<ref name="yamamoto22" />。
 
最終的に切腹という結論が出ると、切腹に同意する旨の神文(起請文)を60人余り<ref name="yamamoto22" /><ref name=":5">[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]]第四章1節の「藩論四分五裂」より</ref>が提出した。
また大石は、籠城すれば大学に迷惑がかかると考えたのも籠城を辞めた理由の一つである<ref name="yamamoto22ooishi" />。大石は城内での議論と並行して、吉良の処分を再考するよう城受け渡しの上使に嘆願書を出していたのだが<ref name="yamamoto21kira">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章一節「吉良存命の報」</ref>、この事が浅野内匠頭の弟にあたる浅野大学の耳に入ったため、籠城が大学の指示だと思われるのを恐れたのである<ref name="yamamoto22ooishi" />。
 
なお、議論がすぐに収束しなかった理由の一端は、次席家老{{Refn|ここでは[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第二章二節にしたがって筆頭家老は大石、次席家老は大野とした。一方「大石蔵之介は首席家老ではあったが城代家老ではなく、城代家老は大野九郎兵衛だったという説もある」<ref>内海定治郎『真説赤穂義士録』、[[#野口(2015)|野口(2015)]]第四章1節の「大石と大野の二人三脚」より重引。</ref>。|group=注釈}}の[[大野知房|大野九郎兵衛]]等による反対意見があった事による<ref name="yamamoto22" />。大野九郎兵衛はとにもかくにも主君・浅野内匠頭の弟である浅野大学が大事だから、まずは無事に赤穂城を幕府に受け渡すのが大事で<ref name="akou1-742">[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]] 第一巻p74-76</ref>、そのうえで御家再興を考えればよいという考えであった<ref name=":5" />。
なお、議論がすぐに収束しなかったのは、次席家老の[[大野知房|大野九郎兵衛]]等による反対意見もあった<ref name="yamamoto22" />事によるが、原惣右衛門が「同心なされない方はこの座をたっていただきたい」と発言すると、大野をはじめとする10人ばかりが退出し<ref name="yamamoto22" />、これをみて[[大石良雄|大石内蔵助]]は、前述した切腹という結論を出したのである。
 
しかし切腹の神文を提出する段になって原惣右衛門が大野を面罵し<ref>[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]] の第四章1節の「九郎兵衛逃亡」より</ref>、「同心なされない方はこの座をたっていただきたい」と発言すると、大野をはじめとする10人ばかりが退出した<ref name="yamamoto22" />{{Refn|こうした経緯があったため、翌日の4月13日に大野九郎兵衛・郡右衛門親子は赤穂から逃亡<ref>[[#野口(2015)|野口(2015)]] の第四章1節の「九郎兵衛逃亡」より</ref>。|group=注釈}}。原惣右衛門はもしこのとき大野が立ち退かなかったら大野を討ち果たしているところだったと後で回想している<ref name="akou1-742" />。
最終的に切腹という結論が出ると、切腹に同意する旨の神文(起請文)を60人余り<ref name="yamamoto22" />が提出した。しかし江戸から下ってきた片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門、田中貞四郎の3人は、切腹をせず、吉良を討つ旨を述べて退出した<ref name="yamamoto22" />。
 
なお、江戸から下ってきた片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門、田中貞四郎の3人は、切腹をせず、吉良を討つ旨を述べて退出した<ref name="yamamoto22" />。
=== 赤穂城開城 ===
[[ファイル:141115 Ako Castle Ako Hyogo pref Japan01bs3.jpg|thumb|赤穂城]]
 
====赤穂城開城====
大石内蔵助は[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]<ref name="yamamoto24">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章四節</ref>に赤穂城の明け渡しを決意し、[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]<ref name="yamamoto24" />に明け渡された。予定された切腹は結局行われていない。
[[ファイル:141115 Ako Castle Ako Hyogo pref Japan01bs3.jpg|thumb|赤穂城]]大石内蔵助は[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]<ref name="yamamoto243">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章四節</ref>に赤穂城の明け渡しを決意し、[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]<ref name="yamamoto243" />に明け渡された。予定された切腹は結局行われていない。
 
赤穂城受け取りは物々しいもので、幕府は受城目付の[[荒木政羽]]と[[榊原政殊]]、代官[[石原正氏]]、受城使の[[脇坂安照]]、[[木下公定|木下㒶定]]を派遣し、脇坂は総勢4550人を動員し、これに木下の軍勢が加わり、さらに船数百隻が警戒する中、赤穂城は開城された<ref>[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p44</ref>。
 
明け渡しの際、大石は浅野大学によるお家再興を上使に嘆願<ref name="yamamoto24yamamoto243" />し、上使から江戸に帰り次第その旨を老中に伝えるとの返答を得た<ref name="yamamoto24yamamoto243" />。また取り潰しによって家臣が路頭に迷わぬよう、大石は[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]から、赤穂に残った財産を家臣に分配している<ref name="yamamoto24yamamoto243" />。
 
[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]から3日間、浅野内匠頭の法要が泉岳寺で執り行われた<ref name="yamamoto25yamamoto253">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章五節</ref>。幕府から許可がおりたためである。位牌や石塔もこの時建立された<ref name="yamamoto25yamamoto253" />。<!--
[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]([[7月17日]])、腫れ物がおさまった大石は生まれ故郷の赤穂を後にすることとなる。-->
 
===江戸急進派の動き===
一方、同じ赤穂藩でも、江戸に詰めている家臣には[[堀部安兵衛]]をはじめとした強硬派(いわゆる'''江戸急進派''')がおり<ref name="yamamoto23">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章三節</ref>、主君の敵である吉良を討ち取る事に強くこだわっていた。
 
大石内蔵助は6月に家族と合流し、[[山城国]][[山科区|山科]]に隠棲する<ref name="yamamoto312">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第三章一節</ref>('''山科閑居'''){{refn|group="注釈"|親戚の[[進藤俊式|進藤源四郎]]が代々ここに田畑を持っており、これを頼って居を定めたのである<ref name="yamamoto312" />。ここで大石は幕府に対してお家再興の嘆願を、赤穂の遠林寺の僧祐海を通じて出している<ref name="yamamoto322">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第三章二節</ref>。
堀部は同じく江戸詰めの[[高田郡兵衛]]、[[奥田孫太夫]]とともに吉良邸に討ち入ろうと試みたものの<ref name="yamamoto23" />、吉良の実子の上杉綱憲が吉良邸を訪問するなど警戒が強く、討ち入りは難しかった<ref name="yamamoto23" /> 。
<br>
それ以外の藩士達は赤穂に近い大阪、伏見、京都などに散らばっている<ref name="yamamotob23kyuuhanshi2">[[#山本(2012b)|山本(2012b)]] 第二章3節「旧藩士の身の振り方」</ref>。幕府の許可を得て赤穂に留まった者も多かったが、その場合は百姓や町人の格で居住する必要があった<ref name="yamamotob23kyuuhanshi2" />。
<br>
江戸詰めの藩士達はそのまま江戸に留まる者が多かったが、もう藩邸には住めないので借宅して暮らす必要があった<ref name="yamamotob23kyuuhanshi2" />。}}。この頃までには大石に起請文を提出した同志は93人に増えていた<ref name="yamamotob23kyuuhanshi2" />。
 
=== 大石と堀部の対立{{Anchors|大石と堀部との対立}} ===
そこで3人はまず国元の藩士と合流しようと[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]に江戸をたち<ref name="yamamoto23" />、[[4月14日 (旧暦)|4月14日]]<ref name="yamamoto23" />に赤穂に到着した。3人は大石に籠城を説くも大石は賛成せず、城を明け渡した[[4月22日 (旧暦)|4月22日]]に赤穂を出発した<ref name="yamamoto23" />。<!--
あとで討ち入りが決定するまで、大石内蔵助を中心とする上方の主流派('''上方慚進派'''<ref name="miyazawaa1062">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p106</ref>)と堀部安兵衛を始めとした江戸詰めの急進派('''江戸急進派<ref name="miyazawaa1062" />''')の間に慢性的な対立状態が続いた。
 
==== 対立の争点 ====
以下の文書を下記の理由で正確性に疑問があるのでコメントアウト:
対立の争点は、両者の目標の違いにある。上方慚進派の最大の目標は、浅野内匠頭の弟にあたる浅野大学を擁立した浅野家の再興にあり<ref name="miyazawaa922">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p92-83</ref>、その際武士の体面が保てること、そのために吉良の出仕を止めるなどの処分を加えてもらうことだった<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p87</ref>{{Refn|もちろん上方も一枚板ではなく、上方にも[[武林隆重|武林唯七]]や[[不破正種|不破数右衛門]]のような「血気盛んで直情径行型の人物」<ref>[[#野口(2015)|野口(2015)]]第四章3節の「苦労思うべし」より</ref>もいた。|group=注釈}}。
1.[[#山本(2012a)]]を見る限り「抗戦派」はいない。
2.[[#山本(2012a)]]によると議論は3日間ではなく連日。
 
一方、江戸急進派の目標は吉良を討つ事にあった<ref name="miyazawaa1062" />。彼らにとって主君は浅野内匠頭ただ一人であり、その名誉を回復するには吉良を討つしかないからだ<ref name="miyazawaa922" />。 主君の兄弟である浅野大学によるお家再興が成し遂げられたとしても主君の名誉は回復されないという考えなのだ<ref name="miyazawaa922" />。
 
こうした目標の違いにより、しばらくの間大石は今にも暴発しそうな江戸急進派を押さえるために腐心する事になる。
大石は[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]([[5月6日]])に収城目付荒木政羽と榊原政殊に対して
 
:「赤穂家臣は武骨な者ばかりにて、ただ主君一人を思い、赤穂を離れようとはしません。吉良上野介様への仕置きを求めるわけではありませんが、家中が納得できる筋道をお立てください」
 
という嘆願書を提出しようと[[多川九左衛門]]と[[月岡治右衛門]]を江戸に派遣している。
 
しかしこの多川と月岡の両名は、収城目付の荒木、榊原と[[小田原]]あたりで行き違いになり、江戸に到着後、「目付に直接手渡すように」という大石の命令に背いて江戸家老[[安井彦右衛門]]に報告してしまい、安井の報告を受けた大垣藩主の戸田氏定の「穏便に開城するように」という書状を持って帰ってくるだけに終わっている。
 
この会議中の28日に第6の急使が到着し、赤穂城の収城目付が荒木政羽と榊原政殊、赤穂代官が[[石原正氏]]と[[岡田俊陳]]になった旨が告げられた。これは篭城抗戦派をより刺激し、開城派大野の孤立が深まっていった。
 
親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が派遣され、以下のように赤穂を訪れている:
 
* [[3月25日 (旧暦)|3月25日]]([[5月2日]])に、[[広島藩]]士太田七郎右衛門正友
* [[3月26日 (旧暦)|3月26日]]([[5月3日]])にも大石の叔父にあたる広島藩士[[小山良速]]
* [[3月28日 (旧暦)|28日]]([[5月5日]])には大垣藩主の戸田氏定家臣の戸田源五左衛門、植村七郎左衛門、
* 29日(6日)には広島藩主浅野綱長家臣の太田七郎左衛門正友、
* [[4月1日 (旧暦)|4月1日]]([[5月8日]])には三次藩主浅野長澄家臣の内田孫右衛門、
* [[4月6日 (旧暦)|4月6日]]([[5月13日]])には戸田家家臣の[[戸田正純]]、杉村十太夫、里見孫太夫、
* [[4月8日 (旧暦)|4月8日]]([[5月15日]])には戸田家家臣の大橋伝内、
* [[4月9日 (旧暦)|4月9日]]([[5月16日]])には広島浅野家家臣、井上団右衛門、丹羽源兵衛、西川文右衛門、
* [[4月11日 (旧暦)|4月11日]]([[5月18日]])には戸田家の高屋利左衛門、村岡勘助、広島浅野家の内藤伝左衛門、梅野金七郎、八木野右衛門、長束平内、野村清右衛門、末田定右衛門、
* [[4月12日 (旧暦)|4月12日]]([[5月19日]])には戸田家の正木笹兵衛、荒渡平右衛門、三次浅野家の永沢八郎兵衛、築山新八
-->
 
===同志間の対立===
 
あとで討ち入りが決定するまで、大石たち上方の主流派(上方慚進派<ref name="miyazawaa106">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p106</ref>)と堀部たち江戸急進派は、対立することになる。
 
対立の原因は、両者の目標の違いにある。上方慚進派の最大の目標は、浅野内匠頭の弟にあたる浅野大学を擁立した浅野家の再興にあり<ref name="miyazawaa92">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p92-83</ref>、その際武士の対面が保てること、そのために吉良の出仕を止めるなどの処分を加えてもらうことだった<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p87</ref>。
 
一方、江戸急進派の目標は吉良を討つ事にあった<ref name="miyazawaa106" />。彼らにとって主君は浅野内匠頭ただ一人であり、その名誉を回復するには吉良を討つしかないからだ<ref name="miyazawaa92" />。
主君の兄弟である浅野大学によるお家再興が成し遂げられたとしても主君の名誉は回復されないという考えなのだ<ref name="miyazawaa92" />。
 
こうした目標の違いにより、しばらくの間大石は今にも暴発しそうな江戸急進派を押さえるために腐心する事になる。
 
==== 対立の背景 ====
両者のこうした目標の違いは、両者の背景の違いを反映していた。上方慚進派の代表である大石は代々浅野家に仕えており、しかも浅野家とも親戚関係にあった<ref name="yamanoto12hanshu" />。このため浅野内匠頭個人に仕えるというよりも浅野家そのものに仕えるという意識が強く、お家再興に拘ったのであろう<ref name="yamanoto12hanshu">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第一章2節「藩主個人との距離」</ref>。
両者のこうした目標の違いは、両者の背景の違いを反映していた。上方慚進派の代表である大石は代々浅野家に仕えており、しかも浅野家とも親戚関係にあった<ref name="yamanoto12hanshu">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第一章2節「藩主個人との距離」</ref>。このため浅野内匠頭個人に仕えるというよりも浅野家そのものに仕えるという意識が強く、お家再興に拘ったのであろう<ref name="yamanoto12hanshu" />。
 
一方の江戸急進派の面々は堀部をはじめ、高田郡兵衛や奥田孫太夫など浅野内匠頭の代から浅野家に仕えたものあ者が多かった<ref>[[#山本(2012b)|山本(2012b)]] 第四章三節「急進派武士の意地」</ref>。このため浅野家よりも浅野内匠頭個人に対して仕えているという意識が強く、内匠頭の宿敵である吉良を討つ事、それにより武士としての面子を立てることに拘っていたのであろう<ref name="yamanoto12hanshu" />。
 
なお、上方慚進派が擁立しようとしている浅野大学自身がどのように思っていたのかは分からない。事件直後には藩士らが騒動を起こさないよう命じただけだったし、その後閉門されてしまったので、赤穂浪士らに連絡が取れなくなってしまったからである<ref>[[#山本(2013)|山本(2013)]] p50-51</ref>。
 
==== 山科隠棲江戸急進派の動き ====
堀部は同じく江戸詰めの[[高田郡兵衛]]、[[奥田重盛|奥田孫太夫]]とともに吉良邸に討ち入ろうと試みたものの<ref name="yamamoto232">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第二章三節</ref>、吉良の実子の上杉綱憲が吉良邸を訪問するなど警戒が強く、討ち入りは難しかった<ref name="yamamoto232" /> 。
 
そこで3人はまず国元の藩士と合流しようと[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]に江戸をたち<ref name="yamamoto232" />、[[4月14日 (旧暦)|4月14日]]<ref name="yamamoto232" />に赤穂に到着した。3人は大石に籠城を説くも大石は賛成せず、城を明け渡した[[4月22日 (旧暦)|4月22日]]に赤穂を出発した<ref name="yamamoto232" />。
赤穂城が明け渡しになると、旧藩士たちは赤穂城を出て行かねばならなかった。
 
=== 吉良の動向と江戸会議{{Anchors|吉良の動向と江戸会議}} ===
大石内蔵助は6月に家族と合流し、[[山城国]][[山科区|山科]]に隠棲する<ref name="yamamoto31">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第三章一節</ref>。親戚の[[進藤俊式|進藤源四郎]]が代々ここに田畑を持っており、これを頼って居を定めたのである<ref name="yamamoto31" />。
 
==== 刃傷事件後の評判 ====
ここで大石は幕府に対してお家再興の嘆願を、赤穂の遠林寺の僧祐海を通じて出している<ref name="yamamoto32">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第三章二節</ref>。
吉良をお咎めなしとした幕府の裁定と当時の民衆の感覚の間には大きな隔たりがあり<ref name="miyazawaa472">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p47-49</ref>、当時の記録には浅野内匠頭の軽率さに非難が向けられる一方で、幕府による裁定の厳しさに対する同情論もあった<ref name="miyazawaa472" />。例えば『易水連袂録』にはもし浅野が吉良に対して「意趣」があり、それが「堪忍しがたきもの」なら浅野の行動は「乱気」でも「不行跡」でもないはずだと<ref name="miyazawaa472" />、浅野の行動に理解を示している。 また武士道の観点からいえば、売られた喧嘩を買わずに逃げるのは、武士にあるまじき不名誉な行為のはずである<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p56</ref>。
 
こうした世評があった為、吉良は世間の非難の目を意識して高家肝煎の辞職願を出さねばならなかったし、吉良の傷は14、5日で治ったのにわざと重く見せかけねばならなかったという(『栗崎道有記録』)<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p48</ref>{{refn|group="注釈"|吉良家と関係が深かった京都の[[西本願寺]]は刃傷事件や討ち入り後、[[築地本願寺]]と書状を交わして吉良の傷の様子や浅野の心情など状況を把握しようとしていた<ref>[https://web.archive.org/web/20161203073645/http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20161203000018 赤穂事件リアルタイム記録 西本願寺で文書見つかる]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20161202233843/http://www.asahi.com/articles/ASJD16X5DJD1PLZB01B.html 「吉良殿御痛も軽ク」… 刃傷事件直後の記録見つかる]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20170422064952/http://mainichi.jp/articles/20161203/ddm/012/040/069000c 「浅野内匠頭殿 乱心」 京都・西本願寺で文書発見 真相は……やはり謎]</ref>。
それ以外の藩士達は赤穂に近い大阪、伏見、京都などに散らばっている<ref name="yamamotob23kyuuhanshi">[[#山本(2012b)|山本(2012b)]] 第二章3節「旧藩士の身の振り方」</ref>。
『江戸江遣書状留帳(えどへつかわすしょじょうのとどめちょう)』には元禄14年(1701年)年1月20日から同15年12月24日の約2年間にわたり、刃傷事件後の吉良の様子や討ち入りへの反応などが記されている。刃傷後は「内匠の乱心」「吉良殿、痛みも軽く、食事も相変わらず」などの記録があり、討ち入り後は「言語に絶える」と落胆している<ref>「江戸江遣書状留帳」本願寺史料研究所上席研究員・大喜直彦</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。}}。
 
====屋敷替え====
幕府の許可を得て赤穂に留まった者も多かったが、その場合は百姓や町人の格で居住する必要があった<ref name="yamamotob23kyuuhanshi" />。
[[ファイル:Honjomatsuzakacho_park_entrance_ryogoku_sumida_2009.JPG|サムネイル|本所松坂町の[[本所松坂町公園|吉良邸跡]]]]吉良は[[3月23日 (旧暦)|3月23日]]<ref name="yamamoto33">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第三章三節</ref>にお役御免となり、[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]<ref name="yamamoto33" />日には呉服橋の屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった。
 
大名屋敷の多い<ref name="miyazawaa942">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p94</ref>呉服橋と比べ、人気のない郊外<ref name="yamamoto33" /> にある本所はずっと仇討ちに適した場所であったので<ref name="miyazawaa942" />、討ち入りをしやすくするために吉良を郊外に幕府が移したのではないかという噂が江戸に流れた<ref name="yamamoto33" />。
江戸詰めの藩士達はそのまま江戸に留まる者が多かったが、もう藩邸には住めないので借宅して暮らす必要があった<ref name="yamamotob23kyuuhanshi" />。
 
幕府がなぜこの時期に屋敷替えを命じたかは不明だが、吉良邸の隣の蜂須賀飛騨守は、赤穂浪士の討ち入りを警戒していて出費がかさむという理由で老中に屋敷替えを願い出ていた(『江赤見聞記』巻四)<ref name="miyazawaa942" />というので、こうした事情が影響したのかもしれない<ref name="miyazawaa942" />。
この頃までには大石に起請文を提出した同志は93人に増えていた<ref name="yamamotob23kyuuhanshi" />。
 
=== 吉良の屋敷替えと江戸会議 ===
 
一方の吉良は[[3月23日 (旧暦)|3月23日]]<ref name="yamamoto33" />にお役御免となり、[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]<ref name="yamamoto33" />日には呉服橋の屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった。
 
大名屋敷の多い<ref name="miyazawaa94" />呉服橋と比べ、人気のない郊外<ref name="yamamoto33" /> にある本所はずっと仇討ちに適した場所であった<ref name="miyazawaa94">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p94</ref>。
 
討ち入りをしやすくするために吉良を人気のない郊外に幕府が移したのではないか、そんな噂が江戸に流れた<ref name="yamamoto33" />。
 
幕府がなぜこの時期に屋敷替えを命じた不明だが、『江赤見聞記』巻四によれば、吉良邸の隣の蜂須賀飛騨守は、赤穂浪士の討ち入りを警戒していて出費がかさむという理由で老中に屋敷替えを願い出ていたというので、こうした事情が影響したのかもしれない<ref name="miyazawaa94" />。<!--元禄14年[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]([[1701年]][[9月21日]])、幕府は吉良義央に対して、呉服橋内から本所(現東京都[[墨田区]][[両国 (墨田区)|両国3丁目]])の[[松平信望]]の上げ屋敷へ屋敷替の命を受けた。受け取りの証を9月3日に提出した。松平信望は本所を立ち退いて下谷の町野重幸の上ゲ屋敷に移り、そこに吉良が入った。さらにその直後の[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]([[8月23日]])には、庄田安利(浅野を庭先で切腹させた大目付)、[[大友義孝]](吉良と親しくしていた高家仲間)、[[東条冬重]](吉良義央の実弟)の3名を同時に呼び出して「勤めがよくない」などと咎めて役職を取り上げた。
 
吉良義央は元禄14年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]([[1702年]][[1月9日]])に家督を[[外孫]]で養子の[[吉良義周]]に譲り、隠居した。奥方の富子([[梅嶺院]])は屋敷替えになった際に上杉家の実家に帰っていた。富子が新しい屋敷に同道せず上杉家へ戻った理由は創作・諸説あり定かではない。離婚説、「浅野が腹を切ったのだから貴方も切ったらどうです」と発言したせいで不仲になった説、討ち入りを案じて吉良が帰した説、新しい屋敷がせまくて女中を連れていけなかった説などがある。-->
 
==== 江戸会議 ====
堀部達急進派はこの屋敷換えを討ち入りのチャンスととらえ<ref name="yamamoto33" />、大石に討ち入りをせまった。
 
そこで大石は急進派を説得する為、9月はじめ頃に赤穂浪士の原惣右衛門、潮田又之丞、中村勘助の3人を派遣し、さらに10月に赤穂浪士の進藤源四郎と大高源五を派遣したが、どちらも逆に説き伏せられて急進派に同調してしまった<ref name="miyazawaa97miyazawaa972">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p97-99</ref>。
 
そこで大石は<!-- 11月2日に -->自ら江戸に下り、急進派を説得すべく11月4日と10日に会議をひらいた('''江戸会議''')<ref name="yamamoto33" /><ref name=":2">[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]] 第五章1節「急進派の進出と左兵衛の家督相続」より</ref>。 大石は慎重派・穏健派ばかりを連れて行ったが<ref name=":2" />{{Refn|連れて行ったのは[[奥野定良|奥野将監]]、河村伝右衛門、岡本次郎左衛門、中村清右衛門で、いずれも討ち入りに参加していない<ref name="名前なし_4-20240629115709">[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第五章1節「急進派の進出と左兵衛の家督相続」より</ref>。|group=注釈}}、上方から派遣した同志達が堀部等に同調してしまっていたこともあり、議論は堀部等が望む方向で一方的に進んだ<ref name="miyazawaa972" />。<!--出典がないのでコメントアウト。
そこで大石は[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]に自ら江戸に下り、急進派を説得すべく会議をひらいた('''江戸会議''')<ref name="yamamoto33" />。
しかし上方から派遣した同志達が堀部等に同調してしまっていたこともあり、議論は堀部等が望む方向で一方的に進んだ<ref name="miyazawaa97" />。
 
{{要出典範囲|一方堀部、[[奥田重盛|奥田孫太夫]]、[[高田郡兵衛]]は、大石合流前の10月29日、討ち入りを決意するための神文を作成する。ここでは、従来の堀部の主張通り、内匠頭の意志を継いで吉良邸討ち入りを果たすことを誓い、末尾の罰文には、通常は神仏の罰とするところを「御亡君の御罰遁るべからざる者也」とした。また、討ち入りを決行する時期として、翌年3月の一周忌まで、と具体的に期限を定めた。|date=2024/02/02}}-->
堀部達は討ち入りの日の起源を決断するよう大石に迫り<ref name="yamamoto33" />、大石は浅野内匠頭の一周忌には結論を出したいと約束した<ref name="yamamoto33" />。<!--
堀部ら江戸急進派は、大石らからは「上野介へ仇討ちはするが、まず大学様のお家再興をしなければならない。時期を見よ」と諭され、赤穂開城を見届けたのち、[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]([[6月17日]])には江戸へ帰っていったが6月頃から大石の江戸下向を迫る書状を送りつけてくるようになったが、大石はひたすら浅野長広のため隠忍自重するよう求める返書を書き続け、江戸下向を避けた。苛立つ堀部らは、とうとう8月19日付けの書状で「大学様も兄親の切腹を見ながらでは、100万石が下されても人前に立てないだろう」と述べるようになり、大石は江戸急進派鎮撫に使者の派遣の必要性を感じるようになったといわれる。
 
期限を区切らないと皆の士気が下がる、という堀部の主張を大石も受け入れ、堀部達は討ち入りの日の期限を決断するよう大石に迫り<ref name="yamamoto33" />、大石は浅野内匠頭の一周忌には結論を出すことを約束し<ref name="yamamoto33" /><ref name="miyazawaa97">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p97-99</ref>、近日中に京都近郊で会議を開く事にして結論を持ち越した<ref name=":2" />{{Refn|すなわち、後述する山科会議を行う事がこの段階で約束された<ref name="名前なし_4-20240629115709"/>。|group=注釈}}。
9月下旬、大石良雄は原元辰(300石足軽頭)、[[潮田高教]](200石絵図奉行)、[[中村正辰]](100石祐筆)らを江戸へ派遣、続いて進藤俊式(400石足軽頭)と[[大高忠雄]](20石5人扶持腰物方)も江戸に派遣した。しかし彼らは逆に堀部武庸に論破されて急進派になってしまったため、元禄14年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]([[1701年]][[11月19日]])大石が自身で江戸へ下向する。これは大石第一次東下りとも呼ばれる。
 
=== 吉良の隠居と山科会議{{Anchors|吉良の隠居と山科会議}} ===
江戸三田(東京都港区[[三田駅 (東京都)|三田]])の[[前川忠太夫]]宅で堀部と会談し、浅野長矩の一周忌になる明年3月に決行を約束した。またこの際、かつて赤穂藩を追われた[[不破正種]]が一党に加えてほしいと参じたため、大石は浅野長矩の眠る泉岳寺へ参詣した際に主君の墓前で不破に浅野家への帰参と同志へ加えることの許可を与えた。この江戸下向の際に荒木政羽や浅野長矩正室の瑤泉院とも会見している。江戸で一通りすべきことを終えた大石は、12月には京都へ戻った。-->
 
==== 吉良の隠居 ====
自身の評判があまりに悪い事を知った吉良上野介が、隠居を願い出て、[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]に許可され<ref name="yamamoto34">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第三章四節</ref>、家督を息子の[[吉良義周|吉良左兵衛]]が嗣ぐこととなった<ref name=":2" />。
 
これを聞いて堀部たち急進派は焦り始めた<ref name="yamamoto34" />。隠居した吉良が、息子の養子先である米沢の上杉家に引き取られてしまうと、討ち入りが難しくなってしまうからである<ref name="yamamoto34" />。また吉良の隠居が認められたという事は、幕府から吉良へのこれ以上の処罰は望めないと堀部等は判断し、浅野内匠頭の一周忌までに討ち入りすべきだと主張した<ref name="miyazawaa1002">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p100</ref>。<!--
こうした中、衝撃的な知らせが赤穂浪士達の耳に入った。自身の評判があまりに悪い事を知った吉良上野介が、隠居を願い出て、[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]に許可されたのだという<ref name="yamamoto34" />。
出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|また、渡世を度外視した浪人生活が一年近くにおよび、当座の生活にも苦しくなる旧藩士の実情をも訴えた。|date=2024/02/02}}-->
 
これを聞いて堀部たち急進派一方、大石内蔵助焦り始めた浅野大学によるお家再興に影響が出る事を懸念し<ref name="yamamoto34" />。隠居した吉良が、息子の養子先である米沢の上杉家に引き取られてしまうと、討ち入りが難を先延ばくなってすべきだと主張まうからである<ref name="yamamoto34" />。また吉良の隠居上野介認められたという事は、幕府か無理な息子の吉良へのこれ以上の処罰は望めな左兵衛を討てばよと堀部等は判断 <ref name="miyazawaa1002" />、閉門はたいてい三年で解けるものだから、浅野内匠頭大学一周閉門が解かれるであろう主君の三回忌まで討ち入りを待ち、後悔しないようにすべきだと主張したいうのである<ref name="miyazawaa100">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p100p108</ref>。<!--
出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|堀部は、大石が前言と違うこと(上野介がお咎めなしになったのに、討ち入りに賛同しないこと)を言い出し、更に期限を浅野内匠頭の三回忌まで延ばすことを提案したことから大石に対して不信感を抱き、原、潮田、中村、大高らと連携し、大石抜きで討ち入りに必要な頭数を揃える方向を模索し始めた。|date=2024/02/02}}
 
-->
一方、大石内蔵助は浅野大学によるお家再興に影響が出る事を懸念し<ref name="yamamoto34" />、討ち入りを先延ばしすべきだと主張した<ref name="yamamoto34" />。吉良上野介が無理なら息子の吉良左兵衛を討てばよいし <ref name="miyazawaa100" />、閉門はたいてい三年で解けるものだから、浅野大学の閉門が解かれるであろう主君の三回忌まで討ち入りを待ち、後悔しないようにすべきだというのである<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p108</ref>。
 
<!--出典がないのでコメントアウト
=== 山科会議 ===
 
==== 会議まで ====
こうした中、京都の山科で、今後の行く末を決める会議が翌元禄15年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]から数日間<ref name="yamamoto34yama" />執り行われた。いわゆる山科会議である。
{{要出典範囲|翌元禄15年(1702年)正月9日、原惣右衛門と大高源五が上洛、大石内蔵助と面会して堀部の訴えを伝えた。その後も京都周辺の旧藩士らと会合を重ねるが、上方勢は吉良上野介の隠居を「是切(これきり)の事と覚悟」はしながらも、早急に討ち入りを決行する方向へはまとまらなかった。大高は彼らの態度について「生煮え」と評し、落胆している。このころ、原から堀部安兵衛へ充てた上方勢の情勢報告では、討ち入り案への理解者として、小野寺幸右衛門、岡野金右衛門、大高源五、潮田又之丞、中村勘助、岡嶋八十右衛門、千馬三郎兵衛、中村清右衛門、中田理平次、矢頭右衛門七の名前を挙げている。|date=2024/02/02}}-->
==== 山科会議 ====
こうした中、京都の山科で、今後の行く末を決める会議が翌元禄15年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]から数日間執り行われた('''山科会議''')<ref name="yamamoto34yama">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第三章四節「山科会議」</ref>。
 
会議では、すぐさま討ち入りに行くという意見は少数で<ref name="yamamoto34yama" />、しばらく様子を見るという結論になった<ref name="yamamoto34yama" />。大石内蔵助は浅野内匠頭の三回忌まで待つべきであろうとしている<ref name="yamamoto34yama" />{{refn|group="注釈"|なお、山科会議に先立つ2月10日には、赤穂浪士の原惣右衛門と吉田忠左衛門が会談しており、山科会議はその会談の内容の再確認としての色彩が強く<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p110-111</ref>、ドラマ等で見られるような激論が交わされたとするのは史実ではない。また山科会議は秘密会議であり議事録が残される性質のものではないため<ref name="noguchi2015-5-3-yamashina">[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]] 第五章3節「局面一変」の「山科会議」より。</ref>、上述した以上の詳細は伝わらないが<ref name="noguchi2015-5-3-yamashina" />、2月15日に会議が行われた事自身は記録にもあり、史実である<ref name="noguchi2015-5-3-yamashina" />。
}}。<!--出典がないのでコメントアウト
 
{要出典範囲|原らにとっても、大石抜きで討ち入りに必要な頭数を揃えるめどが立たなかった以上、大石の提案に賛同するよりほかなかった。|date=2024/02/02}}
なお、山科会議に先立つ2月10日には、赤穂浪士の原惣右衛門と吉田忠左衛門が会談しており、山科会議はその会談の内容の再確認としての色彩が強く<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p110-111</ref>、ドラマ等で見られるような激論が交わされたとするのは史実ではない。
-->
 
====大石の動き====
山科会議により討ち入りは延期になったので、大石内蔵助はお家再興の嘆願書を出している<ref name="miyazawaa1162">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p116-117</ref>。大石の背後には再興を願う家臣達がおり、簡単には再興を諦められないのである<ref name="miyazawaa1162" />。
 
しかしこの頃から大石は討ち入りは避けられないと覚悟したのか、累が及ばぬよう妻を離縁して実家に返している<ref name="miyazawaa1162" />。事実大石は息子の主税に「寝ても覚めても吉良を討ち取る事を考えよ」といったという(『江赤見聞記』巻七)<ref name="yamamotoc842">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p84-86</ref>。なお離縁の際、大石の妻・りくは自分も「君父の志」を達する為に役に立ちたいと反論したが、大石は女人と一緒では内匠頭の為にならないからとこれを断ったという(『江赤見聞記』巻七)<ref name="yamamotoc842" />。
山科会議により討ち入りは延期になったので、大石内蔵助はお家再興の嘆願書を出している<ref name="miyazawaa116">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p116-117</ref>。大石の背後には再興を願う家臣達がおり、簡単には再興を諦められないのである<ref name="miyazawaa116" />。
 
====大石の討ち入り構想====
しかしこの頃から大石は討ち入りは避けられないと覚悟したのか、累が及ばぬよう妻を離縁して妻を実家に返している<ref name="miyazawaa116" />。事実大石は息子の主税に「寝ても覚めても吉良を討ち取る事を考えよ」といったという(『江赤見聞記』巻七)<ref name="yamamotoc84">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p84-86</ref>。なお離縁の際、大石の妻・りくは自分も「君父の志」を達する為に役に立ちたいと反論したが、大石は女人と一緒では内匠頭の為にならないからとこれを断ったという(『江赤見聞記』巻七)<ref name="yamamotoc84" />。
この頃の大石は、浅野大学を擁立した討ち入りを構想していた。浅野大学の閉門が解かれたら、すぐさま大学に討ち入りの許可を取り、その上で吉良をはじめとする討とうというのである<ref name="miyazawaa1122">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p112-113</ref>。だから大石は、浅野大学と無関係に討ち入りしようとする堀部達の意見には賛同できなかった<ref name="miyazawaa1122" />。
 
この頃の大石は、浅野大学を擁立した討ち入りを構想していた。浅野大学の閉門が解かれたら、すぐさま大学に討ち入りの許可を取り、その上で吉良をはじめとする討とうというのである<ref name="miyazawaa112">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p112-113</ref>。だから大石は、浅野大学と無関係に討ち入りしようとする堀部達の意見には賛同できなかった<ref name="miyazawaa112" />。
 
大石がこのような仇討ちにこだわった理由は、事件当時「仇討ち」というのは、親や兄などの目上の親族に対して行うものであり、主君の仇を討つというのは前例がなかったからである<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p114</ref>。しかし主君・浅野内匠頭の弟である浅野大学の指示によって吉良を討てば、従来通り兄の仇を討つという枠組みに収まる事になる。
 
後述するように、結局浅野大学による御家再興は頓挫したため大石のこのような仇討ち構想は実現する事はなく、吉良邸討ち入りは浅野大学の許可を得ずに行っている。このため討ち入りの際の口上書では、「君父の讐、共に天を戴くべからず」と仇討ちの概念を「父」から「君父」へと拡大している<ref name="miyazawaa148miyazawaa1482">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p148</ref>。こうした拡大された価値観が武士社会へと受容される事で、赤穂事件は武士の生き方と道徳を変え、武士道概念の体系化を促し、大名の「家中」が武士の帰属する唯一の集団へと変わっていくのである<ref name="miyazawaa148miyazawaa1482" />。
 
====江戸急進派の動き====
一方の堀部達急進派は、大石の討ち入り期限の後ろ倒しに賛同した一部同志を名指しで非難するなど、大石・堀部両派の確執が深まっていった<ref name="miyazawaa114">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p114-118</ref>。
 
また彼らは山科会議による討ち入りの延期決定に素直に従いはしなかった。赤穂浪士の原惣右衛門が堀部らに、大石を見捨てて自分たちだけで吉良を討つ事を提案したのである<ref name="miyazawaa1142">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p114-118</ref>。 大石ら主流派を除いて行動すれば、大石らが考えている浅野大学によるお家再興にも迷惑がかからないだろうし、吉良が油断している今なら、討ち入りに同調するであろう14、5人程度がいれば十分事を成し遂げられるだろうというのである<ref name="miyazawaa1142" />。
一方の堀部達急進派は、山科会議による討ち入りの延期決定に素直に従いはしなかった。
 
堀部らはこれに賛同し、6月末に堀部は上洛して原、大高らと大石外しの相談におよび、7月の24、5日頃に再び江戸に帰ろうとしていた<ref name="miyazawaa114" /><ref name="miyazawaa1142" />。<!--出典がないのでコメントアウト
赤穂浪士の原惣右衛門は堀部らに、大石を見捨てて自分たちだけで吉良を討つ事を提案した<ref name="miyazawaa114">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p114-118</ref>。
大石ら主流派を除いて行動すれば、大石らが考えている浅野大学によるお家再興にも迷惑がかからないだろうし、吉良が油断している今なら、討ち入りに同調するであろう14、5人程度がいれば十分事を成し遂げられるだろうというのである<ref name="miyazawaa114" />。
 
{{要出典範囲|(名指しされたのは原、堀部、奥田、武林唯七、大高、潮田、中村、岡野、小野寺幸右衛門、倉橋伝助、田中貞四郎の11人で、その他に3,4名ほど得られる目算であったと思われる)|date=2024/02/02}}
堀部らはこれに賛同し、上方を訪れて同志達と計画を練り、7月の24、5日頃に再び江戸に帰ろうとしていた<ref name="miyazawaa114" />。
 
{{要出典範囲|7月中には江戸へ下る予定であった。大石が気にする大学への影響についても、大石に近いものを外して自分たちだけで討ち入りをしたら、大学に迷惑がかかることもないであろう、と推測した。|date=2024/02/03}}
=== 浅野大学閉門と円山(まるやま)会議 ===
-->
 
=== 円山会議と神文返し ===
しかしまさにそのとき、事態が急転した。
====円山会議{{Anchors|円山会議}}====
しかしまさにそのさなかに事態が急転した。[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]<ref name="yamamoto423">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第四章二節</ref>に浅野大学が閉門のうえ本家の広島藩浅野家に引き取られる事が決定したのである。これはお家再興があり得ない事を事実上示している。大学は同日、本家の広島藩邸に移った<ref name="yamamoto423" />。
大石は「穢れたる御名跡を立て置き候わんより、打ちつぶし申す段本望と存じられ候」と述べ、むしろ大学絶家を討ち入りの契機とすべしと同志たちに檄をとばす<ref>赤穂市史編纂室『忠臣蔵』より「大高源五書状」{{要ページ番号|date=2024年2月}}</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
 
[[7月1828日 (旧暦)|7月1828日]]<ref name="yamamoto42yamamoto423" />に浅野大学が閉門のうえ本家の広島藩浅野家に引き取られる事が決定した京都円山ある。これ会議を開き('''円山会議''')、大石お家再興があ10月に江戸に上得ない吉良邸に討ち入る事を事実上示正式に表明ているた<ref name="yamamoto423" />
 
あらかじめ会合の予定があったわけではないので、参加者はたまたまその日京都周辺にいた人物である<ref name="taniguchi1002">[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p100</ref>。このとき会議に参加したのは19人<ref name="taniguchi1002" />。うち17人は後に仇討に参加するメンバーである<ref name="taniguchi1002" />。
大石達と堀部達の対立点であったお家再興の道が閉ざされたので、彼らは[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]<ref name="yamamoto42" />に京都の円山で会議を開き('''円山会議''')、大石は10月に江戸に上り吉良邸に討ち入る事を正式に表明した<ref name="yamamoto42" />。
 
なお円山会議は秘密会議であった為、議論の詳細は一切分かっておらず、今日伝わる円山会議の「詳細」と称するものは初期の実録本『赤城義人伝』で創出されたものである<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p131</ref>。
あらかじめ会合の予定があったわけではないので、参加者はたまたまその日京都周辺にいた人物である<ref name="taniguchi100" />。このとき会議に参加したのは19人<ref name="taniguchi100">[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p100</ref>。うち17人は後に仇討に参加するメンバーである<ref name="taniguchi100" />。
 
堀部達は江戸に戻ると、隅田川で二艘の船を借り、月見の宴に装いつつ、船の中で同志達に円山会議の報告をしている('''船中会議''')<ref>[[#山本(2014)|山本(2014)]] p110-111</ref>。
なお円山会議は秘密会議であった為、議論の詳細は一切分かっておらず、今日伝わる円山会議の「詳細」と称するものは初期の実録本『赤城義人伝』で創出されたものである<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p131</ref>。<!--
 
==== 神文返し{{Anchors|神文返し}} ====
山科会議の頃までは同志は120名ほどいたが<ref name="yamamoto433">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第四章三節</ref>、円山会議で討ち入りが決定すると、脱盟する者が続出する<ref name="yamamoto433" />。この際、大石の親戚でありこれまで大石の行動を支えてきた奥野将監、小山源左衛門、進藤源四郎の三人が脱盟している<ref name="miyazawaa1342">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p134-136</ref>。
 
大石は討ち入りの際、家中の主だった面々が加わっている事を強く期待していたが、位の高い彼ら三人が脱盟したことにより、それはかなわなくなった<ref name="miyazawaa1342" />。大石は最期までこの事を恥じていたという<ref name=":10">[[#山本(2012b)|山本(2012b)]]第四章4節の「お預け先と身分の上下」</ref>{{Refn|大石は討ち入り後のお預け先であった堀内家の堀内伝右衛門に次のように語ったという:「今度のことについて、{{ruby|御傍輩中|ごぼうはいちゅう}}<!--rubyは非推奨だが、原文でもルビなのでrubyを使う-->でもご批判されていると察しています。ここにいる者どもは、おおかた{{ruby|小身|しょうしん}}(禄高が少ないこと)な者で、大身の者も少しは加わっていると思し召されている事が恥ずかしいのです。いかにも大身の者も加わっていますが、多くは了見を変え、私の力が及びませんでした」(『堀内伝右衛門覚書』)<ref name="yamamoto2012b-4-4-oazuke">[[#山本(2012b)|山本(2012b)]]第四章4節の「お預け先と身分の上下」</ref>。そして「番頭の[[奥野定良|奥野将監]]、物頭の佐々木小左衛門、[[進藤俊式|進藤源四郎]]、[[小山良師|小山源五左衛門]]、河村伝兵衛らの名前をあげて批判している」<ref name="yamamoto2012b-4-4-oazuke" />。|group=注釈}}。大石の発想は「大身の者ほど武士の倫理観を持つべきだ、というものだったのだろう」<ref name=":10" />。
[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]([[4月1日]])、吉田兼亮(200石加東郡郡代)と近松行重(馬廻250石)がこの決定を江戸の同志達に伝えるべく下向した。吉田はまず江戸で孤立していた片岡高房ら長矩近臣組と面会すると説得して大石良雄の盟約に加わらせている。-->
 
同志達の脱盟を受けて大石は、赤穂浪士の[[貝賀弥左衛門]]と[[大高源吾]]を派遣し、連判状から切り取った血判を返してまわった('''神文返し''')<ref name="yamamoto434">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第四章三節</ref>。そしてそれでもどうしても討ち入りをしたいと答えたものだけを同志として認める事にした<ref name="yamamoto434" />。これにより同志は50人程度<ref name="yamamoto434" />に減った。
堀部達は江戸に戻ると、隅田川で二艘の船を借り、月見の宴に装いつつ、船の中で同志達に円山会議の報告をしている('''船中会議''')<ref>[[#山本(2014)|山形(2014)]] p110-111</ref>。
 
==== 大石東下り{{Anchors|大石東下り}} ====
山科会議の頃までは同志は120名ほどいたが<ref name="yamamoto43" />、円山会議で討ち入りが決定すると、脱盟する者が続出する<ref name="yamamoto43" />。
円山会議での約束にしたがい、浪士たちは8月末から目立たないように少人数で江戸へ下った<ref name=":1">『松山侯赤穂記聞書』。[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]]第六章3節「決行前夜」の「大石主税」より。</ref>。大石内蔵助自身も[[10月7日 (旧暦)|10月7日]]<ref name="yamamoto51">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章一節</ref>に京を出て江戸に下るのだが{{refn|group="注釈"|大石は江戸へ下る道中には箱根を通り、仇討ちで有名な[[曾我兄弟の仇討ち|曾我兄弟]]の墓を詣でて、討ち入りの成功を祈願した<ref name="yamamotob41">[[#山本(2012b)|山本(2012b)]]第四章1節</ref>。このとき墓石を少し削って懐中に納めたという<ref name="yamamotob41" /> 。[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]には平間村に入り<ref name="yamamoto51" />{{refn|group="注釈"|現在の神奈川県川崎市幸区下平間のあたり<ref name="yamamoto51" />。四十七士の[[富森正因|冨森助右衛門]]の小屋掛け(=粗末な家)<ref name="yamamoto51" />。不便なので冨森はこの家を空き家にして江戸に出ていたが、家を修理して大石を迎えた<ref name="yamamoto51" />。この家は富森助右衛門と親しかった軽部五兵衛の敷地内に建てたもので<ref>{{cite web|url=https://www.kawasaki-rc.com/onko/onko/1122.html|title=赤穂浪士と下平間村|accessdate=2024/02/20|website=川崎ロータリークラブ温故知新}}</ref>{{出典無効|date=2024-02-02}}、軽部五兵衛の屋敷の傍にあった稱名寺には赤穂浪士のゆかりの品が残されており<ref>{{cite web|url=https://shomyo-ji.com/about/history.html|title=稱名寺の歴史|access-date=2024/02/20|website=稱名寺}}</ref>、同じく平間にある了源寺には軽部五兵衛の墓がある<ref>{{cite web|url=http://www.yk.rim.or.jp/~ryogenji/profile.html|accessdate=2024/02/20|website=了源寺|title=了源寺略縁起}}</ref>。}}<!--赤穂藩邸の[[排泄|有機肥料]]を買っていた豪農・軽部五兵衛<ref>川崎市Webより『市民ミュージアム』(川崎ロータリークラブ 本田和氏)</ref>{{出典無効|date=2024-02-02}}宅で、-->、討ち入りの計画を練っている<ref name="yamamoto51" />。[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]<ref name="yamamoto51" />、ついに江戸に入る<ref name="yamamoto51" />。}}、それに先立ち息子の[[大石良金|大石主税]]を江戸の一味の「人質として」<ref name=":1" />差し出している{{Refn|元禄の頃には生き残っていたこうした始原的な武士の感覚が少し時代が下ると理解されなくなり<ref name="noguchi2015-6-3-chikara" />、このような過酷な事をするからには主税は妾腹の子であったのではとする説が生まれたが<ref name="noguchi2015-6-3-chikara">[[#野口(2015)|野口(2015)]]第六章3節「決行前夜」の「大石主税」より。</ref>、間違いなく実子である<ref name="noguchi2015-6-3-chikara" />。|group=注釈}}。この段階になっても浪士たちの間にはまだ根強い相互不信が存在したのだ<ref>[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]]第六章3節「決行前夜」の「大石主税」より。</ref>。
 
このころ、同志たちはすでに困窮を極めており{{refn|group="注釈"|[[大石信清|大石瀬左衛門]]は秋も深まったのに着替えすら買えなかったというし<ref name="yamamotoc140">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p140-143</ref>、[[礒貝正久|磯貝十郎左衛門]]も家賃が2カ月も払えなかったという<ref name="yamamotoc140" />。}}、「年の若い者たち、生計が立ち行かなくなった者たちなどは早く討ち入りたがった」<ref>『水野家監物、浅野義士御預古文書』。[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]]第六章3節「決行前夜」の「「声なき声」が」より。</ref>。大石内蔵助は彼らに金銭的な援助をしたが、すでに赤穂藩の残金も少なくなっており、もうあまり猶予はなかった<ref name="yamamotoc140" />。
この際、大石の親戚でありこれまで大石の行動を支えてきた奥野将監、小山源左衛門、進藤源四郎の三人が脱盟している<ref name="miyazawaa134">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p134-136</ref>。大石は討ち入りの際、家中の主だった面々が加わっている事を強く期待していたが、位の高い彼ら三人が脱盟したことにより、それはかなわなくなった<ref name="miyazawaa134" />。
 
[[12月2日 (旧暦)|12月2日]] [[頼母子講]]を装って<ref name="yamamoto53">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章三節</ref> 深川八幡前の大茶屋 <ref name="yamamoto53" /> に集まり、討ち入り当日の詳細を決めた('''深川会議''')<ref name="yamamoto53nanbu">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章三節「南部坂の別れ」</ref> 。
=== 神文返し ===
 
=== 討ち入り{{Anchors|討ち入り}} ===
同志達の脱盟を受けて大石は、赤穂浪士の[[貝賀弥左衛門]]と[[大高源吾]]を派遣し、連判状から切り取った血判を返してまわった<ref name="yamamoto43" />。いわゆる神文返しである。そしてそれでもどうしても討ち入りをしたいと答えたものだけを同志として認める事にした<ref name="yamamoto43" />。これにより同志は50人程度<ref name="yamamoto43" />に減った。
 
==== 大石東下討ち入日の決定 ====
赤穂浪士達は討ち入りの日を[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]に決めた<ref name="yamamoto54">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章四節</ref>。 というのも、吉良がこの日に茶会を開くために確実に在宅している事を突き止めたからである <ref name="yamamoto54" /> 。
 
茶会の情報を手に入れたのは 内蔵助の一族である[[大石三平]]であった <ref name="yamamoto54" />。大石三平は茶人[[山田宗偏]]の弟子なのだが、三平と同門の材木屋の所に在宅していた神道家の[[羽倉斎宮]]が江戸で神道や歌道を教えており<ref name="yamamoto54" /><ref name="noguchi2015-6-3-itsuki">[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第六章3節「決行前夜」の「斎の情報では…」</ref>、その関係で羽倉は吉良邸にも出入りしていて<ref name="yamamoto54" /><ref name="noguchi2015-6-3-itsuki" />、この情報を聞いたのである{{refn|group="注釈"|また赤穂浪士の一人である[[大高忠雄|大高源五]]もやはり山田宗偏の弟子で<ref name="yamamoto54" />、彼も同じく14日の吉良邸での茶会の情報をつかんでいたという<ref name="yamamoto54" /><ref name="noguchi2015-6-3-itsuki" />{{refn|「大高が山田宗徧から情報を得たり、大石が羽倉斎から日程を聞きだしたという話よりは信憑性が高い。おおむね事実である」。赤穂義士会『忠臣蔵四十七義士全名鑑 子孫が綴る、赤穂義士「正史」銘々伝』、小池書院、2007年{{要ページ番号|date=2024/02/28}}}}。
大石内蔵助は円山会議での約束にしたがい、[[10月7日 (旧暦)|10月7日]]<ref name="yamamoto51">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章一節</ref>に京を出て、[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]<ref name="yamamoto51" />に江戸に到着している。道中には箱根を通り、仇討ちで有名な[[曾我兄弟の仇討ち|曾我兄弟]]の墓を詣でて、討ち入りの成功を祈願した<ref name="yamamotob41">[[#山本(2012b)|山本(2012b)]]第四章1節</ref>。このとき墓石を少し削って懐中に納めたという<ref name="yamamotob41" /> 。
<br>
しかし宮澤誠一は、これは俳人として人気の高かった大高に活躍の場を与えるための初期の実録書以来の俗説として退けている<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p157</ref>。ただし、大高が茶会の情報をつかんでいたという話は『江赤見聞記』に記されているため可能性は否定できない<ref name="yamamoto54kiratei">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章四節「吉良邸茶会の情報」</ref>。}}<!--出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|[[横川宗利]]は、三島小一郎という変名で[[堀部武庸]]宅に居候。吉良邸の茶会が開かれる日を茶坊主の手紙を盗み読みして、「茶会は十四日」と大石に報告し討ち入り日が決まった。|date=2024/02/03}}
-->。
 
11月になってからも江戸潜伏中にも同志の脱盟が続き{{refn|group="注釈"|[[小山田庄左衛門]]<ref name="yamamoto-52-datsumei">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章二節「続出する脱盟者」</ref>(100石<ref name="yamamoto-52-datsumei" />。[[片岡高房|片岡源五右衛門]]から金と着物を盗んで逃亡<ref>[[#山本(2014)|山本(2014)p]]74-75</ref>)、田中貞四郎<ref name="yamamoto-52-datsumei" />(小姓あがり<ref name="yamamoto-52-datsumei" />、150石<ref name="yamamoto-52-datsumei" />)、[[中田理平次]]<ref name="yamamoto-52-datsumei" />(100石<ref name="genroku642">[[#元禄(1999)|元禄(1999)]] p64</ref>)、[[中村清右衛門]]<ref name="yamamoto-52-datsumei" />(小姓<ref name="yamamoto-52-datsumei" />100石<ref name="genroku642" />)、[[鈴田重八郎]]<ref name="yamamoto-52-datsumei" />、[[瀬尾孫左衛門]]<ref name="yamamoto-52-datsumei" />(大石内蔵助家来<ref name="yamamoto-52-datsumei" />)、[[矢野伊助]]<ref name="yamamoto-52-datsumei" />(足軽5石2人扶持<ref name="yamamoto-52-datsumei" />)が姿を消した。}}、討ち入り三日前の[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]まで同志の中にいた<ref name=":0">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章四節「揺れる討ち入り前の心」</ref>[[毛利小平太]](20石3人扶持<ref name="genroku642" />)も脱盟し、最後まで残った同志の数は47人となった<ref name=":0" />。
また[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]<ref name="yamamoto51" />には平間村の家に入り、討ち入りの計画を練っている。<!--
 
==== 討ち入り当日 ====
[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]([[12月11日]])には[[鎌倉]]へ到着。ここで吉田兼亮らが大石を出迎えた。さらに吉田らが用意しておいた[[川崎]][[平間駅|平間村]]の[[軽部五兵衛]]宅の離れに滞在する。大石はここから同志たちに今後の綱領「訓令十カ条」を発した。
[[ファイル:'A_View_of_Loyal_Ako_Samarui_Breaking_into_Kira's_Mansion'_by_Yamazaki_Toshinobu_II,_1886.jpg|サムネイル|450x450ピクセル|吉良邸討ち入り。二代目山崎年信画、1886年]]
 
元禄15年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]、四十七士は堀部安兵衛の借宅と杉野十平次の借宅にで着替えを済ませ、寅の上刻(午前4時頃)に借宅を出た<ref name="yamamoto61">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第六章一節</ref>。そして吉良邸では大石内蔵助率いる表門隊と大石主税率いる裏門隊に分かれ<ref name="yamamoto61" />、表門隊は途中で入手した梯子で吉良邸に侵入、裏門隊は大きな木槌で門を打ち破り吉良邸に侵入した<ref name="yamamoto61" />。
[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]([[12月23日]])に大石の一行は江戸へ入る。江戸では日本橋石町三丁目(現東京都中央区[[日本橋本町]])の宿屋[[小山屋|小山屋弥兵衛]]店に滞在。公事訴訟のために滞在する垣見左内([[大石良金]])の後見人垣見五郎兵衛と名乗った。良雄や良金のほかには潮田高教、小野寺秀和、近松行重、大石信清、早水満尭、[[菅谷政利]]、[[三村包常]]、大石若党2人(加瀬村幸七、室井左六)、近松行重の下男1人、計12名がここに滞在した。
 
他にも[[麹町]]、[[築地|京橋築地]]、南八丁堀湊町、[[芝 (東京都港区)|芝]]、[[両国 (東京都)|本所東両国]]、[[深川 (江東区)|深川黒江町]]などに借宅や店を借りて同志たちが滞在した。
 
大石良雄は本所吉良屋敷を同志に探らせ、吉良邸絵図面を入手した。この絵図面入手経路について寺坂の私記には「内縁をもって入手した」としている。この「内縁」とは、[[堀部金丸]]の後妻の実家忠見氏は吉良邸の隣人である[[本多長員]](幕府から派遣される越前松平家家老(監視役))の家臣であることから忠見氏ともいわれている。また大石信清の母方の叔父太田加兵衛が吉良家屋敷の前主松平信望の家臣であることから、こちらとする説もある。
 
元禄15年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]([[1703年]][[1月16日]])、大石良雄は、赤坂今井の三次藩下屋敷にいる浅野長矩正室の瑤泉院の[[用人]][[落合勝信]]宛で赤穂藩藩金の使用明細書とその傍証資料を送っている。なお、討ち入り費用については、瑤泉院が自身の三次領からの収益をあてて用立てたとの説が2009年に発表されている<ref>http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200912090243.html</ref>。
-->
 
=== 同志たちの困窮 ===
 
このころ、同志たちはすでに困窮を極めており、[[大石信清|大石瀬左衛門]]は秋も深まったのに着替えすら買えなかったというし<ref name="yamamotoc140">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p140-143</ref>、[[礒貝正久|磯貝十郎左衛門]]も家賃が2カ月も払えなかったという<ref name="yamamotoc140" />。
 
大石内蔵助は彼らに金銭的な援助をしたが、すでに赤穂藩の残金も少なくなっており、もうあまり猶予はなかった<ref name="yamamotoc140" />。
 
=== 深川会議 ===
 
[[12月2日 (旧暦)|12月2日]] [[頼母子講]]を装って<ref name="yamamoto53">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章三節</ref> 深川八幡前の大茶屋 <ref name="yamamoto53" /> に集まり、討ち入り当日の詳細を決めた<ref name="yamamoto53nanbu">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章三節「南部坂の別れ」</ref> 。いわゆる深川会議である。
 
=== 討ち入り日の決定 ===
 
赤穂浪士達は討ち入りの日を[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]に決めた<ref name="yamamoto54
">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章四節</ref>。 というのも、吉良がこの日に茶会を開くために確実に在宅している事を突き止めたからである <ref name="yamamoto54" /> 。
 
茶会の情報を手に入れたのは 内蔵助の一族である[[大石三平]]であった <ref name="yamamoto54" />。大石三平は茶人[[山田宗偏]]の弟子なのだが、三平と同門の材木屋の所に在宅していた[[羽倉斎宮]]が江戸で新道や歌道を教えており<ref name="yamamoto54" />、その関係で羽倉は吉良邸にも出入りしていて<ref name="yamamoto54" />、この情報を聞いたのである。
 
また赤穂浪士の一人である[[大高源五]]もやはり山田宗偏の弟子で<ref name="yamamoto54" />、彼も同じく14日の吉良邸での茶会の情報をつかんでいたという<ref name="yamamoto54" />。しかし宮澤誠一は、これは歌人として人気の高かった大高に活躍の場を与えるための初期の実録書以来の俗説として退けている<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p157</ref>。ただし、大高が茶会の情報をつかんでいたという話は『江赤見聞記』に記されているため可能性は否定できない<ref name="yamamoto54kiratei">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章四節「吉良邸茶会の情報」</ref>。
 
=== 直前の脱盟 ===
 
11月になってからも江戸潜伏中にも同志の脱盟があり、[[小山田庄左衛門]]<ref name=yamamoto-52-datsumei>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章二節「続出する脱盟者」</ref>(100石<ref name=yamamoto-52-datsumei />。[[片岡高房|片岡源五右衛門]]から金と着物を盗んで逃亡<ref>[[#山本(2014)|山本(2014)]]p74-75</ref>)、田中貞四郎<ref name=yamamoto-52-datsumei />(小姓あがり<ref name=yamamoto-52-datsumei />、150石<ref name=yamamoto-52-datsumei />。{{要出典範囲|酒乱をおこして脱盟|date=2015年5月8日}})、[[中田理平次]]<ref name=yamamoto-52-datsumei />(100石<ref name="genroku64">[[#元禄(1999)|元禄(1999)]] p64</ref>)、[[中村清右衛門]]<ref name=yamamoto-52-datsumei />(小姓<ref name=yamamoto-52-datsumei />100石<ref name="genroku64" />)、[[鈴田重八郎]]<ref name=yamamoto-52-datsumei />、[[瀬尾孫左衛門]]<ref name=yamamoto-52-datsumei />(大石内蔵助家来<ref name=yamamoto-52-datsumei />)、[[矢野伊助]]<ref name=yamamoto-52-datsumei />(足軽5石2人扶持<ref name=yamamoto-52-datsumei />)が姿を消した。
 
そして討ち入り三日前の[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]まで同志の中にいた<ref>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章四節「揺れる討ち入り前の心」</ref>[[毛利小平太]](大納戸役{{要出典|date=2015年7月}}20石3人扶持<ref name="genroku64" />)も脱盟し、最後まで残った同志の数は47人となった。
 
=== 討ち入り ===
[[ファイル:HokusaiChushingura.jpg|thumb|250px|吉良邸討ち入り。[[葛飾北斎]]画]]
 
元禄15年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]([[1703年]][[1月30日]])、四十七士は堀部安兵衛の借宅と杉野十平次の借宅にで着替えを済ませ、寅の上刻(午前4時頃)に借宅を出た<ref name="yamamoto61">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第六章一節</ref>。そして吉良邸では大石内蔵助率いる表門隊と大石主税率いる裏門隊に分かれ<ref name="yamamoto61" />、表門隊は途中で入手した梯子で吉良邸に侵入、裏門隊は大きな木槌で門を打ち破り吉良邸に侵入した<ref name="yamamoto61" />。
 
表門隊は侵入するとすぐに、口上書を入れた文箱をくくりつけた竹竿を玄関の前に立てた<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p158</ref>。
 
裏門隊は吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と騒ぎ、吉良の家臣たちを混乱させた<ref name="yamamoto61ketsujitsu">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第六章一節「結実のとき」</ref>。また吉良の家臣達が吉良邸そばの長屋に住んでいたのだが、その長屋の戸口を鎹(かすがい)で打ちつけて閉鎖し、家臣たちが出られないようにした<ref name="yamamoto61ketsujitsu" />。 吉良邸には100人ほど家来がいたが、実際に戦ったのは40人もいなかったと思われる<ref name="yamamoto61ketsujitsu" />。
吉良邸には100人ほど家来がいたが、実際に戦ったのは40人もいなかったと思われる<ref name="yamamoto61ketsujitsu" />。
 
隣の屋敷の屋根から様子をうかがっている者がいたので、片岡源五右衛門と小野寺十内が仇討ちを行っている旨を伝えたところ、了承したしるしに高提灯の数が増えた<ref name="yamamoto62">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第六章二節</ref>{{Refn|これを行ったのは[[土屋主税]]<ref name="noguchi2015-7-3-roushi">[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第七章「吉良邸討ち入り」3節「本懐を遂げて」の「各浪士の働き」</ref>であり、[[歌舞伎]]の[[玩辞楼十二曲]]の内『[[松浦の太鼓|土屋主税]]』<ref>{{cite web|url=https://www.kabuki-bito.jp/theaters/osaka/play/161|access-date=2024/02/26|website=歌舞伎美人|title=公演情報詳細}}</ref>などの[[忠臣蔵|忠臣蔵もの]]で描かれる場面である。なお、同じく吉良邸に隣接している牧野一学邸、本田孫太郎邸でもほぼ同様の反応であったが、届け出ではシラを切った<ref name="noguchi2015-7-3-roushi" />。|group=注釈}}
 
四十七士は吉良の寝間に向かったものの、吉良は既に逃げ出していた<ref name="yamamoto62" />。茅野和助が吉良の夜具に手を入れ、夜具がまだ温かい事を確認した<ref name="yamamoto62" />。吉良はまだ寝間を出たばかりだったのである。四十七士は吉良を探した。
 
そして台所の裏の物置のような部屋{{Refn|諸記録では「炭小屋」とするものが多いが<ref name="noguchi2015-7-3" />、『堀内伝右衛門覚書』によると「葭垣(よしずを張り巡らした垣根)付きの雪隠じみた部屋」<ref name="noguchi2015-7-3" />。[[#野口(2015)|野口(2015)]]によれば「茶室の近くにあって、茶碗やら囲炉裏の炭やらを用意しておく部屋だったと思われる」<ref name="noguchi2015-7-3" />。|group=注釈}}を探したところ、中から吉良の家来が二人切りかかってきたのでこれを返り討ちにし<ref name="yamamoto63" />{{Refn|吉良側の資料『大熊弥一右衛門見聞書』によると、中にいたのは二人ではなく三人で、[[須藤与一右衛門]]、[[鳥居利右衛門]]、[[清水一学]]であった<ref name="noguchi2015-7-3">[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第七章「吉良邸討ち入り」3節「本懐を遂げて」の「首級をあげる」</ref>。うち一人を[[堀部武庸|堀部安兵衛]]と[[矢田助武|矢田五郎右衛門]]が討ち止め、もう一人を[[間光興|間十次郎]]が槍で突いた<ref name="noguchi2015-7-3" />。最後の一人については諸記録に記載がない<ref name="noguchi2015-7-3" />。|group=注釈}}、中にいた白小袖の老人を間十次郎が槍で突き殺した<ref name="yamamoto63">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第六章三節</ref>(異説あり。[[赤穂事件#吉良の最期に関して|詳細後述]])。この老人が吉良であると思われたので、浅野内匠頭が背中につけた傷跡を確認し<ref name="yamamoto63" />、吉良方の足軽にこの死骸が吉良である事を確認させた<ref name="yamamoto63" />。無事吉良を打ち取ったのである。
 
そこで合図の唐人(チャルメラ)<ref name="noguchi2015-7-3" />を吹き、四十七士を集めた<ref name="yamamoto63" />。
 
ここまでわずか一時間<ref name="yamamoto63" />、もしくは二時間程度<ref>[[#野口(1994)|野口(1994)]] p146</ref>。 吉良側の死者は史料より15人~18人、負傷者は19~23人であった<ref>[[#山本(2012b)|山本(2012b)]]第四章三節「計画通りの討ち入り」</ref><ref name="yamamoto63" /><ref group="注釈">吉良以外の吉良側の死者とその死に場所は以下の通りである。『江赤見聞記』の記載は[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第六章三節に、『吉良本所屋敷検使一件』(幕府目付の阿部式部、杉田五左衛門による検死結果)は[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第七章「吉良邸討ち入り」2節「12月十五日の攻防」の「幕府目付けによる検分」よった。下記の通り資料により齟齬があるので[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]ではあくまで「参考のため」としている。
ここまでわずか二時間程度<ref>[[#野口(1994)|野口(1994)]] p146</ref>。
{|class="wikitable"
吉良側の死者は15人負傷者は23人であった<ref>[[#山本(2012b)|山本(2012b)]]第四章三節「計画通りの討ち入り」</ref>。
|+
!
! colspan="2" |『上杉家文書』より
「米沢塩井家覚書」
! colspan="3" |『江赤見聞記』
! colspan="2" |『吉良本所屋敷検使一件』
|-
|名前
|役職
|場所
|享年
|役職
|場所
|役職
|場所
|-
|[[小林平八郎]]
|家老
|南書院前
|-
|家老・上杉家付き人
|南書院前
|家老
|南長屋役人小屋
|-
|[[清水一学]]
|近習
|台所口
|40
|上野介用人
|台所口
|中小姓
|台所
|-
|新貝弥七郎
|近習
|玄関
|40
|近習
|玄関
|中小姓
|玄関
|-
|笠原長右衛門
|祐筆
|書院次
|25
|右筆
|書院次
|-
|-
|-
|笠原長太郎
|-
|-
|-
|-
|-
|役人
|小屋出口
|-
|大須賀治部右衛門
|用人
|台所口
|30
|上野介用人
|台所口
|中小姓
|台所口
|-
|左右田源八郎
|小姓
|台所口
|40
|中小姓
|玄関
|中小姓
|小玄関口
|-
|大石半右衛門
|門番
|馬屋前
|-
|-
|-
|-
|-
|-
|森半右衛門
|-
|-
|-
|-
|-
|台所役人
|玄関前
|-
|半右衛門
|-
|-
|-
|表門番
|馬屋前
|-
|-
|-
|鈴木正竹
|僧侶
|小玄関前
|-
|坊主
|小玄関前
|左兵衛坊主
|小玄関口
|-
|杉松三左衛門
|祐筆
|小屋出口
|36
|近習右筆
|小屋出口
|-
|-
|-
|牧野春斎
|僧侶
|小屋出口
|-
|坊主
|小屋出口
|坊主
|厠の前
|-
|須藤与一右衛門
|取次
|南書院次
|-
|取次
|南書院次
|左兵衛用人
|座敷居間
|-
|榊原平右衛門
|文官
|台所口
|50
|役人
|台所口
|役人
|台所
|-
|[[鳥居利右衛門]]
|用人
|座敷庭
|60
|用人
|座敷庭
|用人
|座敷の庭
|-
|斎藤清左衛門
|小姓
|座敷庭
|-
|左兵衛中小姓
|小門口
|-
|-
|-
|斎藤清右衛門
|-
|-
|-
|-
|-
|小姓
|小屋口
|-
|小塩源五郎
|-
|-
|22
|料理番
|玄関
|-
|-
|-
|中間二人
|-
|-
|-
|台所役人
|小玄関前
|-
|-
|-
|小堺源次郎
|-
|-
|-
|-
|-
|役人
|台所
|-
|鈴木元右衛門
|-
|-
|-
|-
|-
|役人
|祐筆小屋
|-
|権十郎
|-
|-
|-
|-
|-
|仲間
|小玄関前
|}
注:
* 「米沢塩井家覚書」 によると
**左右田源八郎は家老・[[左右田孫兵衛]]の嫡男、
** 杉松三左衛門は[[小野寺秀和]]に槍で突き殺される
** 牧野春斎は[[間光延]]に突き殺される。
* 須藤与一右衛門『吉良本所屋敷検使一件』では「須藤与''市''右衛門」
* 鈴木正竹は『吉良本所屋敷検使一件』では「鱸松竹」
</ref>。
 
一方の赤穂浪士側には死者はおらず、負傷者は二人で、原惣右衛門が表門から飛び降りたとき足を滑らせて捻挫し<ref name="yamanotoa62oku" >[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第六章二節「吉良邸内の奥へと進む赤穂浪士たち」</ref>、近松勘六が庭で敵の山吉新八郎<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p159</ref> と戦っているときに池に落ちて太ももを強く刺されて重傷をおっている<ref name="yamanotoa62oku">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第六章二節「吉良邸内の奥へと進む赤穂浪士たち」< /ref>。
 
浪士たちの討ち入り事件は、討ち入り2日後の14日の記録にすでに「江戸中の手柄」と書いてあるほど、すぐさま噂として広まった<ref>[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p175</ref>
 
==== 吉良泉岳寺へ最期に関して引き上げ ====
[[ファイル:Sengakuji 02.JPG|thumb|浅野内匠頭が埋葬された[[泉岳寺]]]]吉良を討った浪士達は、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えるべく、内匠頭の墓がある[[泉岳寺]]へと向かった{{Refn|回向院に向かった後、上杉家の追手の警戒も兼ねて両国橋で休み、その後毎月15日は大名の登城日だったので鉢合わせを避けるために両国橋を渡らずに南下して永代橋をわたり、そこから鉄砲洲の旧赤穂藩上屋敷前→汐留橋筋→金杉橋を渡る→芝→泉岳寺と移動した<ref name="yamamoto2012a-3-3-bakuhu">[[#山本(2012b)|山本(2012b)]] 第三章3節の「幕府大目付の尋問」より</ref>。途中、愛宕下で[[吉田兼亮|吉田忠左衛門]]と[[富森正因|富森助右衛門]]の二人が大目付の[[仙石久尚|仙石伯耆守]]に討ち入りを報告すべく隊を離れた<ref name="yamamoto166">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p166-167</ref><ref name="yamamoto2012a-3-3-bakuhu" />。|group=注釈}}{{refn|group="注釈"|泉岳寺に向かう途中通った永代橋のあたりで[[粥]]が千熊屋作兵衛から振舞われたという話があるが、中央義士会は「史料では確認されない」としている。<ref>中央義士会「赤穂義士の引揚げ」(街と暮らし社、2006年</ref>{{要ページ番号|date=2024/02/29}}。一方、甘酒粥を振舞ったとする記念の石碑は建立されている<ref>{{Cite web |archiveurl=https://web.archive.org/web/20240201001148/http://www.tomiokahachimangu.or.jp/shahou/h2001/htmls/p05.html |archivedate=2024-02-01|url=http://www.tomiokahachimangu.or.jp/shahou/h2001/htmls/p05.html |title=深川散策史跡巡り 赤穂浪士休息の碑(佐賀一丁目六番) |accessdate=2024-06-27}}</ref>。}}。 途中[[回向院]]で休憩しようとしたが、難を恐れて拒絶された<ref>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第三章3節の「幕府大目付の尋問」より</ref>。 また理由は分からないが四十七士の一人[[寺坂信行|寺坂吉右衛門]]がどこかに消えた。その理由は古来から謎とされている([[#寺坂吉右衛門に関する問題|詳細後述]])。
[[ファイル:Honjomatsuzakacho park entrance ryogoku sumida 2009.JPG|thumb|rigtht|[[本所松坂町公園|吉良屋敷]]跡]]
 
山本博文は、武林唯七が即死泉岳寺込んだた一行は内匠頭の墓前に吉良の首を間十次郎が取ったのだろうと供え、一同焼香ている<ref name="yamanotoa63kubiyamamoto166" />。<!--
出典がないのでコメントアウト
 
=== 首の返還と遺体の供養 ===
その根拠は『江赤見聞記』巻四で、同書には四十七士の武林唯七が物置の中の人物を十文字槍でついたところ小脇差を抜いて抵抗してきたので間十次郎が刀で首を打ち取ったとしており<ref name="yamanotoa63kubi">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第六章三節「誰が吉良の首を揚げたのか」</ref>、さらに同書によれば引き上げの際間十次郎が吉良の首を取ったのを自慢した所、武林唯七が「私が突き殺した死人の首を取るのはたいした事ではない」と憤慨したという<ref name="yamanotoa63kubi" />。
{{出典の明記|section=1|date=2024/02/03}}
吉良上野介の首はその後箱に詰められて泉岳寺に預けられた。寺では僧二人が吉良家へと送り届け、家老の[[左右田孫兵衛]]と[[斎藤宮内]]が受け取った。この時の二人の連署が書かれている、上野介の首の領収書(首一つ)が泉岳寺に残されている。その後、先の刃傷時に治療にあたった栗崎道有が上野介の首と胴体を縫って繋ぎ合わせたあと、上野介は菩提寺の万昌寺に葬られた。[[戒名]]は「霊性寺殿実山相公大居士」。
 
この当時の万昌寺は市ヶ谷にあったが大正期に「[[萬昌院功運寺|万昌院]]」と名を改めて中野へ移転し、それに伴って墓も改葬して現在は歴史史跡に指定されている。
一方、宮澤誠一は四十七士の不破数右衛門の書簡に「吉良は手向かいせず唯七と十次郎その他にたたき殺された」という趣旨のことが書かれているのを根拠に、本当は不破の言うように吉良はたたき殺されたのに、記録が後世に残るのを意識して残酷さを和らげるために間十次郎が一番槍をつけたのだと記したのではないかとしている<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p161-162</ref>。
<!-->
{{独自研究|date=2014年11月}}
 
=== 赤穂浪士の最期 ===
元禄15年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]([[1703年]][[1月30日]])午後、同志は両国橋西の米沢町にあった堀部金丸の借宅に集まり、その後3か所の集合場所に分かれた。吉田兼亮らは 場所の本所林町5丁目にある堀部武庸の借宅に行く途中、竪川の河岸地にある「亀田屋」という茶屋でそば切など食べながら時をすごした。それぞれの集合場所から[[本所 (墨田区両国)|本所]]吉良屋敷裏門近くの[[前原宗房]]の借店を経て、表門隊と裏門隊の二手に別れて吉良邸に討ち入った。
 
==== 赤穂浪士の大名家お預け ====
実際に襲撃したのは現在の時刻で元禄15年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]([[1月31日|1703年1月31日]])に入っての未明午前4時頃であった。江戸時代の慣習では夜明けの明六つと日暮れの暮六つ(1月30日では午前6時8分頃と午後5時39分)を境とし<。[[時間 (単位)#不定時法|不定時法]]では、昼間・夜間をそれぞれ6等分して時を決めた。1日の始点を暁九つとした。この時に雪が降っていたというのは『仮名手本忠臣蔵』での脚色であり、実際は冷え込みが厳しかったが空は晴れていた。なお、[[月齢]]は13.6で[[満月]]の一歩手前であった。
赤穂浪士の吉田と富森から討ち入りの報告を受けた大目付の仙石伯耆守は、月番老中の稲葉丹後守正往にその旨を報告し、二人で登城して幕府に討ち入りの件を伝えた。
 
幕府は赤穂浪士を、[[細川綱利|細川越中守綱利]]、[[松平定直|松平隠岐守定直]]、[[毛利綱元|毛利甲斐守綱元]]、[[水野忠之|水野監物忠之]]の4大名家に御預けとした<ref name="渡辺(1998)2072">[[#渡辺(1998)|渡辺(1998)]] p.207</ref><ref name="yamamotoc174">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p174-177</ref>。細川・松平・水野家に預けられた赤穂浪士達は罪人というより英雄として扱われたという<ref name="yamamotoc174" />。一方、毛利家は浪士の部屋をくぎ付けにする、風呂も使わせない、私語も許さないなど罪人として厳しい扱いをした記録が残る<ref>「毛利家文庫」「長府毛利十四代記」(下関市立長府博物館)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
=== 表門隊 ===
表門隊の大将は大石良雄。その下に23士が属した。そのうち片岡高房(槍)、富森正因(槍)、[[武林隆重]](槍)、奥田重盛(太刀)、[[矢田助武]](槍)、[[勝田武堯]](槍)、[[吉田兼貞]]、[[岡島常樹]]、[[小野寺秀富]]の9士で吉良邸内へ突入している。
 
==== 浪士切腹の決定 ====
庭の見張りについたものは早水満堯(弓)、[[神崎則休]](弓)、[[矢頭教兼]](槍)、大高忠雄(太刀)、近松行重、間光興(槍)の6士。
赤穂浪士討ち入りの報告を受けた幕府は浪士等の処分を議論し、元禄16年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[西暦]]1703年3月20日)、彼らを切腹にする事を決めた。赤穂浪士が「主人の仇を報じ候と申し立て」、「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたからである<ref name="yamamotoc186">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p186-188</ref>。<!--
出典がないのでコメントアウト
 
幕府の申渡全文は以下の通り
新門の見張りについた者は、堀部金丸(槍)、村松秀直(槍)、岡野包秀(槍)、横川宗利(槍)、貝賀友信の5士。
{{quotation|<poem>
{{要出典範囲|内匠儀、勅使ご馳走の御用を仰せ付け置かる。その上時節柄殿中を憚らず
不届の仕方に付いてお仕置き仰せ付けらるに付き、上野儀お構いなしとさしおかれ候ところ
主人の仇を報じ候と申し立て四十六人が徒党致し上野宅へ押し込み飛び道具など持ち出し
上野を討ち候始末。公儀を恐れざる段重々不届きに候、これに依り切腹申し付ける。|date=2024/02/03}}
</poem>}}-->
 
ここで重要なのは幕府が「主人の仇を報じ候と''申し立て''」という言い回しをしている事である。 あくまで赤穂浪士達自身が「主人の仇を報じる」と「申し立てて」いるだけであって、幕府としては討ち入りは「徒党」であり仇討ちとは認めないという立場なのである<ref name="yamamotoc186" />。
そして表門には大石良雄(槍)、原元辰(槍)、間瀬正明(半弓)という参謀格の3士が陣取り、表門隊の指揮をとった。
 
通常、このような罪には斬首が言い渡されるが<ref name="yamamotoc186" />、赤穂浪士達の立場を考慮したのか、武士の体面を重んじた切腹という処断になっている。切腹の沙汰に大石ら赤穂浪士は、涙を流したと記録されている<ref group="注釈">熊本藩での記録(『堀内伝右衛門覚書』)。久松松平家文書「波賀清太夫覚書」では単に切腹の沙汰のみが記されている。</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
=== 裏門隊 ===
裏門隊の大将は大石良雄の嫡男大石良金。実質的な指揮者は吉田兼亮。その下に24士が属した。そのうち堀部武庸(太刀)、礒貝正久(槍)、[[倉橋武幸]]、[[杉野次房]]、[[赤埴重賢]]、[[三村包常]]、菅谷政利、大石信清(槍)、[[村松高直]](槍)、[[寺坂信行]]の10士が吉良邸内へと突入した。
 
==== 切腹 ====
庭内の見張りは大石良金(槍)、潮田高教、中村正辰(槍)、[[奥田行高]](太刀)、[[間瀬正辰]](槍)、[[千馬光忠]](半弓)、[[茅野常成]](弓)、[[間光風]](弓)、[[木村貞行]](槍)、不破正種(槍)、前原宗房(槍)の11士。
[[ファイル:Sengakuji 47 ronin graves.jpg|thumb|[[泉岳寺]]の赤穂浪士の墓]]
[[ファイル:Kagakuji Ako10n4272.jpg|thumb|[[花岳寺]]の赤穂義士の墓]]元禄16年[[2月4日 (旧暦)]](<!--消すな!。消すとそのあとで、討入りの日付を「1702年」にする奴が絶対に居る-->[[西暦]]1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はお預かりの大名屋敷で切腹した<ref name="yamamotoc188">[[#山本(2013)|山本(2013)]] 188-192</ref>。 切腹の場所は庭先であったが、切腹の場所には最高の格式である畳三枚(細川家)もしくは二枚(他の3家)が敷かれた<ref>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第七章二節「大石内蔵助の最後」</ref>。
 
当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていた<ref name="yamamotoc188" />{{refn|group="注釈"|ただし間新六のみ肌脱ぎせずにすぐに脇差を腹に突き立てたため、実際に腹を切り裂いている<ref name="泉(1998)1192">[[#泉(1998)|泉(1998)]] p.119</ref><ref name="yamamotoc188" />。
裏門には吉田兼亮(槍)、小野寺秀和(槍)、間光延(槍)が陣取り、裏門隊の指揮をとった。
<br>
また、久細川家では切腹の詳細が記録されている。「大石が切腹に向かう時、潮田が「皆の者共も追っ付参る」と声を掛けた」、「肌押しぬぎの大石はずっと武者震いをしてふるえていた」「切腹の進行が遅いので、(堀内は辺りかまわず)苛立ち怒鳴りつけたくなった」などと記している(細川家文書『堀内伝右衛門覚書』){{Primary source inline|date=2024年2月}}。
<br>
松松平家では無体に扱った記録も残っており、特に[[大石良金]]については<ref>山本博文「赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)」(吉川弘文社、2013年)</ref>{{要ページ番号|date=2024/02/03}}「切腹者が小脇差を取り上げ腹に当てる前に首を打つ」「左の手にて髻(たぶさ)を持って落とした首をもち上げ<ref group="注釈">通常は血が散逸しないよう、清めの[[白紙]]を敷いた台に安置して検使に見せる。</ref>、目付に見せる」などの記述がある<ref>久松松平家文書「波賀清太夫覚書」</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。}}。[[細川綱利]]は切腹跡についた血を清掃しようとする藩士に対して赤穂浪士は吾藩のよき守り神であるとして清掃する必要なしと指示している<ref name="泉(1998)1202">[[#泉(1998)|泉(1998)]] p.120</ref><ref name="名前なし_5-20240629115709">[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]] p293</ref>。
 
赤穂浪士の遺骸は主君の浅野内匠頭と同じ[[泉岳寺]]に埋葬された<ref name="yamamotoc188" />。 赤穂の浅野家菩提寺である[[花岳寺]]にも37回忌の[[元文]]4年(1739年)に赤穂浪士達の墓が建てられている<ref name="kagakuji2">[http://www.kagakuji.org/contents/022_akogishinohaka.html 花岳寺「赤穂義士の墓」]</ref>。(墓には赤穂浪士の遺髪が埋められたと伝えられる<ref name="kagakuji2" />)。
=== 吉良方 ===
吉良家臣の数は諸説あってはっきりとしていないが、討ち入り後の幕府の検死役の書に「中間小物共八十九人」と書かれている。[[桑名藩]]所伝覚書では「上杉弾正([[上杉綱憲]])から吉良佐平(吉良義周)様へ御付人の儀侍分の者四十人程。雑兵百八十人程参り居り申し候よし」と記しており、上杉家からかなりの数の士分と非士分が吉良義周(上杉綱憲の次男。吉良義央の養子)にしたがって吉良家へ入ったとしている。姓名などが判明しているのは以下の通り。
 
=== 余波 ===
*筆頭家老…[[斎藤宮内|斎藤宮内忠長]](150石)
*家老…[[左右田孫兵衛|左右田孫兵衛重次]](100石)・[[松原多仲|松原多仲宗許]](100石)
*取次月番…須藤与一右衛門(50石)・岩瀬舎人(50石)
*取次…平沢助太夫(15両4人扶持)斎藤十郎兵衛(15両3人扶持)清水団右衛門(5両5人扶持)
*目付…[[糟谷平馬]](8両3人扶持)・新貝伝蔵(6両)
*近習…[[山吉盛侍|山吉新八郎盛侍]](30石5人扶持)・永松九郎兵衛(7両3人扶持)・[[新貝安村|新貝弥七郎安村]](6両)・天野貞之進(6両)・鈴木浅右衛門(5両)・高橋治右衛門(10両)
*中小姓…左右田源八郎(7両)・斎藤清右衛門(6両)・笠原長太郎(5両)・伊藤喜左衛門(4両)・鈴木杢右衛門(4両)・岩瀬喜大夫(7両)・宮石島之助(5両)
*祐筆…堀江勘左衛門(7両)・鈴木元右衛門(6両)
*台所役…岩田弥一兵衛(5両)
*隠居付家老…[[小林平八郎|小林平八郎央通]](150石)
*隠居付用人…[[鳥居利右衛門|鳥居利右衛門正次]](50石)・宮石新兵衛(50石)
*隠居付近習…[[清水一学|清水一学義久]](7両3人扶持)・大須賀治郎右衛門(6両)・榊原平右衛門(6両)・加藤太左衛門(6両)
*隠居付台所役…三田八右衛門(5両)
 
==== 吉良家への処罰 ====
役職石高などが不明な者では、小笠原忠五郎、村上甚五右衛門、古沢善右衛門、馬場次郎右衛門、石原弥右衛門、富田五左衛門、星八左衛門、若松新右衛門、近藤徳兵衛、山下甚右衛門、榊原五郎右衛門といった名前が挙げられている。非士分の者たちとして厩別当の杉山与五右衛門、茶坊主の鈴木松竹、牧野春斎、足軽の大河内六郎右衛門、森半右衛門、権十郎、仲間八大夫、兵右衛門、若右衛門などの名が伝わる。創作では討ち入り時に吉良家の女中が逃げ惑う演出なども行われるが、実際には夫人の富子がすでに吉良家におらず、それに仕える女中も屋敷内にはいなかった。
赤穂浪士の切腹と同日<ref>[[#山本(2014)|山本(2014)]] p171</ref>、吉良家を継いだ[[吉良義周|吉良左兵衛義周]]を信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けとされた<ref name="yamamotoc194">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p194-196</ref>。
 
幕府が吉良左兵衛の処分を命じた理由は、義父・吉良上野介が刃傷事件の時「内匠に対し卑怯の至り」であり、赤穂浪士討ち入りのときも「未練」のふるまいであったので、「親の恥辱は子として遁れ難く」あるからだとしている<ref name="yamamotoc194" />。ここで注目すべきは吉良上野介の刃傷事件の時のふるまいが「内匠に対し卑怯」であるとしている事で、幕府は赤穂浪士の討ち入りを踏まえ、刃傷事件の時は特にお咎めのなかった上野介の処分を実質的に訂正したのである<ref name="yamamotoc194" />。
 
左兵衛はその後20歳余りの若さで亡くなり<ref name="yamamotoc194" />、ここに吉良家は断絶する事になった<ref>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第七章三節「吉良左兵衛の処分」</ref>。
=== 討入開始 ===
 
==== 赤穂浪士の遺児の処罰と赦免 ====
[[元禄16年]][[1月24日]]([[1703年]][[3月10日]])に礒貝正久と富森正因が連署で書いた『礒貝富森両人覚書』によると、表門は梯子をかけて登り、裏門は門を打ち破ったとしている。赤穂浪士のお預かりを担当した[[伊予松山藩]]主[[松平定直]]の家臣波賀清大夫が赤穂浪士たちから話を聞き、それをもとにして書いた『波賀聞書』では、表門隊で最初に梯子を上って邸内に侵入したのは大高忠雄と小野寺秀富であったといい、大高が飛び降りざま名乗りを上げ、吉田兼貞と岡島常樹もそのあとに続いて上っていったとしている。原元辰は飛び降りた際に足をくじき、また神崎則休も雪で滑り落ちたが、大事はなく働きにも影響はなかったという。堀部金丸は高齢であるため大高忠雄が抱いて下ろしたとしている。一方裏門の様子を示した『波賀聞書』では、杉野次房と三村包常が門を破り、一番に突入したのは横川宗利、番人を倒したのは千馬光忠の半弓であったとしている。寺坂信行の書いた『寺坂私記』によると原元辰が書いた「浅野内匠頭家来口上書」を上包して箱に入れ、青竹に挟んで吉良邸の玄関前に立て置いたという。
赤穂浪士の遺児らも、15歳以上の男子は[[伊豆大島]]に[[遠島]]、15歳未満の男子は縁のあるものにお預けとなり、15歳になるのを待って[[遠島]]という処分が幕府から下された<ref name="yamamotoc197">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p197</ref>。(女子は構いなし<ref name="yamamotoc197" />)。
 
15歳以上の男子は4人(吉田伝内、中村忠三郎、間瀬惣八、村松政右衛門)おり、彼らは処分にしたがって遠島に処せられた<ref>『読売新聞』地方版(東京都島嶼)より「間瀬惣八 流刑先の大島で病死…」(17年4月23日)</ref><ref name="yamamotoc197" />。
富森正因の証言によると礒貝正久が軽い者を捕えてろうそくを出させ、真っ暗だった吉良邸内を明るくしたという。後に取り調べの時にこれを聞いた大目付[[仙石久尚]]も礒貝の機転の良さに感心したという。
 
間瀬惣八のみ22歳で伊豆大島で病死したが<ref>東京都大島町『間瀬惣八の墓』解説。</ref>、3人は[[宝永]]3年に放免された。他の遺児たちも綱吉が死去した[[宝永]]6年に大赦とされた<ref>「間瀬定八と伊豆大島」(財)中央義士会理事長(当時) 中島康(夫元町金光寺 大島元町共同墓地)</ref><ref>『歴史読本(17.8.1号)』より「流刑先の伊豆大島で無念の病死」</ref><ref>[[#山本(2013)|山本(2013)]] p202</ref>。<!--伝承の部分・現地記録と異なる部分・遺跡や史料で確認できないものをwiki関連記事『忠臣蔵』へ移動。--><!--
『小野寺書状』によると、表門隊は玄関に差し掛かり、玄関の戸を蹴破ったとしている。飛び起きて広間からかけつけてきた番人3人と戦っている間、小野寺秀富が立て並べてある弓を発見、秀富は吉良家臣1人を斬り倒したあと、すぐにそれらの弓の方へ向かって弦を切って使い物にならないようにしたという。ドラマなどではこれは秀富のその場の機転のようになっているが、『小野寺書状』によると吉良家臣は弓の使い手が多いという情報を事前につかんでいたので弓は発見次第に弦を切るよう事前に決めていたとしている。
出典がないのでコメントアウト
 
{{要出典範囲|本土に戻った遺児たちは仕官することなく、仏門に入った(吉田はのち還俗して浪人)。|date=2024/02/03}}
『波賀聞書』によると、庭の見張り組は「五十人組は東へ回れ」「三十人組は西へ回れ」などと声高に叫ぶことであたかも百人以上の大勢が討ち入ったかに装ったとしており、これが功を奏し、長屋にいた吉良家臣たちは本当にその人数がいると信じ込み、ほとんどの者が恐怖で長屋から出てこなかったという。『礒貝富森両人覚書』も、邸内ではたびたび戦闘が起きたが、長屋の侍は出てこなかったとしている。しかし『小野寺書状』によると長屋から飛び出してきた吉良家臣2人がおり、先に出てきた男を小野寺秀和が槍で倒し、もう1人は間光延の槍で倒したという。
 
=====遠島の四人以外=====
『赤城士話』によると間瀬正明に遮二無二斬りかかる吉良家臣がおり、孫九郎はその男の脇腹に槍を突き刺したが、その吉良家臣は槍を手繰り寄せようと槍を二打ち三打ちしてきた。孫九郎が槍を投げだすと男は倒れて息絶えたという。
{{出典の明記|section=1|date=2024/02/03}}
 
遠島の四人以外は以下の通り。「武士は二君に仕えず」のせいか、他家に仕えた者は多くが致仕している。堀部氏の後嗣は、正保四年(1647年)に既に細川家臣だった家からの養子入り(金丸・武庸と血縁はない)である。
大石良雄が12月19日に[[寺井玄渓]](浅野長矩の藩医だった人物)に送った書状によると、一番の働きをしたのは不破正種であったという。四、五人の敵と戦い、その刀が[[ささら]]のようになっていたという。不破正種が父[[佐倉新助]]にあてた書状では本当は不破は庭の見張り担当であったが、こらえ難くて独断で邸内へ突入してしまい、邸内では長刀を振るう当主吉良義周と遭遇し戦闘になった。
*[[大石吉之進|大石良以]] 出家。墓も現在は荒廃している<ref>{{Cite news|newspaper=産経新聞但丹版|title=大石吉之進の墓回収へ|date=2021-12-07}}</ref>。
 
*[[大石大三郎|大石良恭]] 親戚預け、のち仕官。広島藩で実子の相続許されず、小山家より養子。大石良尚が寛政9年に没し、小山流大石家は断絶。
[[新井白石]]が吉良邸の隣人の旗本[[土屋逵直]]から聞き取った話を[[室鳩巣]]が書き綴った『鳩巣小説』では、隣の吉良邸が騒がしくなったので外へ出て見た土屋が壁越しに声をかけたところ、片岡高房、原元辰、小野寺秀和と名乗った者が、吉良義央を打ち取って本望を達したと言う声を聞いたとしている。これを聞いた土屋は壁際に灯りを掲げてその下に射手をおき、「塀を越えてくる者は誰であろうとも射て落とせ」と命じたという。
*原 重次郎 次男でわずか3歳だったが出家、のち還俗して惣八郎と改め仕官。広島藩で絶家。養子(義三男)の兵太夫も逐電。元辰が義絶した又従兄弟の子孫が[[米沢藩]]士で続く(米沢原氏)<ref>『国宝 上杉家文書』より「上杉候家士分限簿」(写しが米沢市立図書館所蔵)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。長男の道善(つねよし)は成人していて、討ち入りに反対し息子のほうから父・元辰と義絶。上洛して町医者となっており連座を免れる。この系統が現在の原宗家となっているが、日蓮宗に帰依しており泉岳寺とは絶縁。
 
*片岡 新六 出家。
=== 吉良方の奮戦 ===
*片岡六之助 出家。
『大河内文書』が最も目覚しい働きがあったとしている家臣は[[新貝弥七郎]]と[[山吉盛侍]]である。新貝は玄関口で奮戦して討死し、山吉はより奮戦して近松行重を斬り捨てて庭の池に叩き落したという。山吉は重傷を負ったものの、一命をとりとめ、吉良家断絶後も吉良義周に従って配流先の[[信濃国]][[諏訪藩]]へ供した。彼らはいずれも上杉家から吉良義周に従って吉良家へ移ってきた元上杉家家臣である。
*富森長太郎 親戚預けのち仕官。壬生藩に仕えた後に殺人を起こし浪人。後嗣の正幸は[[水口藩]]で不正により切腹、その子・正盈も殺人の咎で刑死し、富森家は断絶<ref>『水口藩加藤家文書』(甲賀市教育委員会事務局)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。無縁墓は[[日本基督教団]]水口教会に属す。
 
*奥田清十郎 親戚預けのち仕官(仁尾家に養子入り)。徳島藩で早世。奥田家は断絶。仁尾家は奥田・近松両氏と血縁でない養子が入り続いた。
当時18歳の吉良家当主の吉良義周は[[薙刀術|薙刀]]を持って、赤穂浪士の剣客のひとりである武林隆重(堀部武庸とも)と果敢に渡り合ったが、斬られて目に血が入り、気を失ったという。事件後に来た幕府の検分役に重傷の身で気丈に応対して、検分役を感心させている。
*矢田作十郎 親戚預け(吉川家に養子入り)。旗本岡部家で浪人。
 
*中村 勘次 出家。
=== 終結 ===
*不破大五郎 出家。後に還俗して出奔。大五郎の子・亀八郎(不破正種の[[孫]])は尾張藩に仕えたが、安永8年(1779年)、不正があり家屋敷を召し上げ放逐されて<ref>「不届に付き厳重の御仕置可被仰付け候」、「君(藩主)の御勘気蒙り、既に居屋敷をも召上られむ」(細野要斎『葎の滴』)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}、不破家は断絶した<ref>尾張徳川氏文書『金鱗九十九之塵』</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
[[ファイル:Os47ronin.JPG|thumb|250px|赤穂浪士引き揚げの図。[[歌川広重]]画]]
*木村惣十郎 出家。
『礒貝富森両人覚書』によると、吉田兼亮や間光興らが、台所横の炭小屋からヒソヒソ声がするのを聞いたため、中へ入ろうとすると、中から皿鉢や炭などが投げつけられ、さらに2人の吉良家臣たちが中から斬りかかってきたのでこの2人を切り伏せたあと、なお奥で動くものがあったため、まず間光興が槍で突いた。出てきたのは老人で脇差で抵抗しようとするも武林隆重に一刀のもと斬り捨てられた。老人であり、白小袖を着ていることからこの死体をよく調べてみると面と背中に傷があったので吉良に間違いないと判断し、一番槍の間光興が首を落とした。そして合図の笛を吹き後、玄関前に集合した赤穂浪士たちは表門番人の3人に吉良の首を見せて間違いなく吉良義央であることを確認した。『鳩巣小説』によると声だけしか聞こえない土屋邸では赤穂浪士たちが吉良を探している間の声を聞いて取り逃がしたのだろうと思っていた。しかし突然「有り様に申さぬか」という大声が聞こえてきたという。他の者が「額の傷を見よ」という声も聞こえきた。その後しばらくしてわっと泣き出す声が聞こえた。これを聞いて土屋は今まさに吉良の首をあげて悦びの泣き声をあげているのだろうと思ったという。
*岡島 藤松 出家。 
 
*岡島五之助 出家。
吉良家は小林平八郎、清水一学、鳥居利右衛門正次、新貝弥七郎安村、[[須藤与一右衛門]]、[[斎藤清右衛門]]、[[左右田源八郎]]、[[大須賀次郎右衛門]]、[[小境源次郎]]、[[鈴木元右衛門]]、[[笠原七次郎]]、[[榊原平右衛門]]、[[鈴木松竹]]、[[牧野春斎]]、ほか足軽2名の死者を出し、負傷者23人であった。赤穂浪士の負傷者は近松勘六、原惣右衛門の2名。また、吉良家家老の左右田孫兵衛は、討ち入りの時に生き残ってしまったために「途中で逃げ出した」とする悪評を立てられたが、討ち入り後も配流された吉良義周のために尽くし、その死後は生涯他家への仕官を断ったことから、吉良家への忠節を尽くした家臣とみなされ汚名は除かれたと言われる。
*茅野猪之吉 幼児のまま死亡。
 
のちに遺児の存在判明
=== 引き上げ ===
*千馬藤之丞 親戚(津川門兵衛、没後は尾關源五郎)預けのち仕官。岡山藩で逐電。
討ち入り後は、吉良邸内の厳重な火の始末をし、吉良義央の遺体を寝所に安置した後、吉良の首は潮田高教の持つ槍の先に掲げられ吉良邸を出発し、当初は[[回向院]]へ向かったが受け入れられず、浅野長矩の菩提である高輪泉岳寺に向かった。この時、吉田兼亮・富森正因の両名を、討ち入りの口上書の写しを持って大目付[[仙石久尚]]のもとに出頭させた。辰の刻(午前8時ごろ)泉岳寺に着き、住職酬山長恩<ref>酬山はその後義士の所持品を売り払い利益を得たが、世間の批判を受け慌ててそれらの品の買い戻しに走っている。[[勝部真長]]1994『日本人的心情の回帰点 忠臣蔵と日本人』([[PHP研究所]])p.169-73 </ref>によって受け入れられ、墓前に吉良義央の首級を供え仇討ちを報告した。また、この際に吉田兼亮の足軽の寺坂信行が立ち退いており、泉岳寺にいる赤穂浪士は44人だった<ref>[[#渡辺(1998)|渡辺(1998)]] p.192-195</ref>。
-->
 
==== 泉岳寺へ浅野家引き上げ再興 ====
綱吉が死去した[[宝永]]6年8月には、内匠頭の実弟である[[浅野長広|浅野大学]]も赦免され、500石の旗本に列した<ref name="泉(1998)2782">[[#泉(1998)|泉(1998)]] p.278</ref><ref name="yamamotoa73">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第七章三節</ref>。
吉良を討った浪士達は、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えるべく、内匠頭の墓がある[[泉岳寺]]へと向かった。
途中、[[吉田兼亮|吉田忠左衛門]]と[[富森正因|富森助右衛門]]の二人が大目付の[[仙石久尚|仙石伯耆守]]に討ち入りを報告すべく隊を離れた<ref name="yamamoto166" />。
また[[寺坂信行|寺坂吉右衛門]]も理由は分からないがどこかに消えた。寺坂が隊を離れた理由は古来から謎とされている(寺坂吉右衛門問題)。
 
大石内蔵助の三男である[[大石大三郎|大三郎]]も、[[広島市|広島]]の浅野宗家に内蔵助と同じ1500石で召抱えられた<ref>[[#泉(1998)|泉(1998)]] p.122/279</ref><ref name="yamamotoa73" />
泉岳寺についた一行は内匠頭の墓前に吉良の首を供え、一同焼香した<ref name="yamamoto166">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p166-167</ref>。
 
三次藩主・[[浅野長澄]](瑤泉院の義甥)は浅野宗家と共に討ち入りを阻止すべく動いていたが、事件後に謹慎の処分を受けた<ref>『冷光君御伝記』第三巻</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。<!--出典がないのでコメントアウト
=== 赤穂浪士お預け ===
 
{{要出典範囲|(1719年に除封となるが事件と直接の関連はない)。天城領主・[[池田由勝]](大石良雄の従弟)が備前天城3万2000石のうち2000石を減じられた。|date=2024/02/03}}-->
赤穂浪士の吉田と富森から討ち入りの報告を受けた大目付の仙石伯耆守は、月番老中の稲葉丹後守正往にその旨を報告し、二人で登城して幕府に討ち入りの件を伝えた。
 
=== その後 ===
幕府は赤穂浪士を、[[細川綱利|細川越中守綱利]]、[[松平定直|松平隠岐守定直]]、[[毛利綱元|毛利甲斐守綱元]]、[[水野忠之|水野監物忠之]]の4大名家に御預けとした<ref name="渡辺(1998)207">[[#渡辺(1998)|渡辺(1998)]] p.207</ref><ref name="yamamotoc174">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p174-177</ref>。赤穂浪士達は罪人というより英雄として4家で扱われたという<ref name="yamamotoc174" />。
 
==== お預けに関する俗説 ====
 
討ち入りの報告を受けた際、幕府の筆頭老中阿部正武は「このような忠義の士が出た事はまさに国家の慶事」と称賛し<ref name="渡辺(1998)206-207">[[#渡辺(1998)|渡辺(1998)]] p.206-207</ref>、将軍綱吉も報告を聞いて感激し、処分を熟慮して決めたいとして一旦浪士達を4大名家に御預けにしたのだといわれる<ref name="渡辺(1998)206-207" /><ref name="miyazawaa188" />。しかし宮澤誠一によれば、この話は初期の実録本『赤穂鍾秀記』に見られる話をもとにしており、史料的に疑わしく、いささか信のおきかねる話だという<ref name="miyazawaa188">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p188</ref>。しかも『赤穂鍾秀記』では順序が逆で、綱吉が報告を受けてから阿部の称賛の話が出ている<ref name="miyazawaa188" />。
 
また12月23日に寺社奉行、大目付、町奉行、勘定奉行計十四名が連名でこの事件の処分を老中に答申した文書とされるものが残っており、『赤穂義人纂書』(補遺)に「評定所一座存寄書」という名称で載っているが、この文章は偽書とされている<ref name="yamamotoc184">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p184-185</ref><ref name="miyazawaa194" />。偽書だとされる根拠はまずこの文章には上杉家の領地を召し上げるべきと書いてあるが、幕府の指示を守って動かなかった上杉家を処分するはずがないし<ref name="yamamotoc184" />、幕府は吉良邸討ち入りを仇討ちと認めなかったのにこの文書では赤穂浪士を真実の忠義者と讃える<ref name="miyazawaa194">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p194-195</ref>など不自然な点が多いからである。
おそらくこの文書は浪士に同情した後人の偽作であろう<ref name="miyazawaa194" />。
<!--
出典がないのでコメントアウト
====吉良家====
{{出典の明記|section=1|date=2024/02/03}}
三河吉良家(西条家)の断絶後、武蔵吉良家(奥州管領家)の[[吉良義俊|義俊]]は、姓を蒔田<ref group="注釈">高家の「今川」における「品川」と同じ扱い。</ref>から吉良に戻す許可を幕府に求めていたが、[[宝永]]7年([[1710年]])2月15日にこれが許された。武蔵吉良家は[[高家 (江戸時代)|高家]]吉良氏の職を引き継ぎ、明治に至る<ref group="注釈">華蔵寺(愛知県西尾市)</ref>。また、吉良義周の没後に、三河吉良家(東条家)の[[東条義叔|義叔]](上野介の実弟)は西条家の祭祀を引き継ぎ、三河吉良家も旗本として幕末まで続く。ただし、高家にはならず一般の[[旗本]]である<ref group="注釈">「東条」から「吉良」へ復姓したのは、義叔の孫に当たる義孚の代である。</ref>。
 
また、義央の血脈は[[上杉家]]・[[大炊御門家]]・[[鷹司家]]・[[畠山家]]・[[一条家]]・[[黒田氏|黒田氏秋月藩主家]]・[[秋月家]]<ref group="注釈">秋月家より上杉氏に養子に入った[[上杉治憲|上杉鷹山]]の母は綱憲の孫であり、義央の玄孫にあたる。</ref>などに伝わり、21世紀の[[令和]]の現在まで存続している。[[仁孝天皇]](120代)・[[孝明天皇]](121代)・[[明治天皇]](122代)の三朝に仕えた[[右大臣]]・[[大炊御門家信 (江戸時代の公卿)|大炊御門家信]]は義央の来孫。[[皇別摂家]]だった一条家の現当主・[[一條實昭|一条実昭]]は義央の九世子孫<ref group="注釈">[[雲孫]]の子。雲孫よりあとの末孫は定まった呼称がない。</ref>にあたる。
学者間でも議論がかわされ、[[林信篤]](林大学頭)や[[室鳩巣]](当時加賀前田家家臣)は義挙として助命を主張した。林大学頭は「このたび浅野が旧臣大石らが亡主の遺恨を継いで吉良を討ったことは、義にあたることであり、その行為はいささかも公儀に背いていない。人臣が忠誠を尽くすことは賞すべきことである。にも関わらず、陪臣の身で恣に高貴の官人を殺害したと唱え、或いは徒党を組んで、御府内を恐れず、白刃を挙げるのは不敬なりなどと主張し、強いてこの輩を厳罰に下すことがあれば、天下の笑いを取るのみならず、忠義の道が地に落ちる事は必定である。この議は臣(私)の私論ではない。聖賢の大経に基づいて申している所であるので、深く思慮されるべし」という意見書を奉呈している<ref name="斎藤(1975)494">[[#斎藤(1975)|斎藤(1975)]] p.494</ref>。室鳩巣は赤穂士たちは[[斉]]の[[田横]]500人の気概を有していると絶賛した<ref name="渡辺(1998)238">[[#渡辺(1998)|渡辺(1998)]] p.238</ref>。一方[[荻生徂徠]](当時柳沢吉保家臣)は「かの46士が主人のために仇を報じたことは、臣たる者の恥を知り、己を潔くした道であり、確かに義である。しかしこれは、その党に限ることであり、畢竟私の論である。長矩が殿中もはばからないで罪に処されたのを、吉良を仇として、公儀の許しもないのに騒動をおこしたことは、法をまぬがれることはできない。切腹を申しつければ武士としての面目も立ちつつ、また上杉家の願いも叶う。そうなれば幕府が46士の忠義の行動を軽んじていないことにもなって、そこにはじめて天下の公論が成り立つ」と主張した。この荻生の主張が採用され、浪士には切腹が命じられた<ref name="渡辺(1998)240-241">[[#渡辺(1998)|渡辺(1998)]] p.240-241</ref>。
 
一方将軍綱吉は徐々に助命に傾き、皇族から出された恩赦という形を得るため、上野寛永寺[[輪王寺]]門主[[公弁法親王]]が2月1日に年賀で江戸城を訪問した際に閑談の機を見計らって、二度に渡ってそれとなく法親王から恩赦を出すよう依頼した。しかし法親王は赤穂浪士について話題にするのを避けて答えず、そのまま退出した。上野へ戻った後、法親王はこの時に恩赦を出すことを拒否した理由について「亡主の憤死を憐れみ、忠義の志に励むのは比類なきことだが、人心の変化は明日に夕に違うので、万が一この輩が世に永く存生して終わりのよくない者が出た時、忠義の志を空しくし、一党の名にも関わる。」「このたび46人一同を死に就かせれば、忠義の名声益々高く聞こえ、後々まで世のためとなるのは明らか。夢幻の世々の有様を思えば、彼らに死を与えることが彼らの芳名を永久に伝えることにつながる」と述べた。法親王の声掛かりという道もふさがれた綱吉は切腹の沙汰を出すしかなくなった<ref name="渡辺(1998)241-242">[[#渡辺(1998)|渡辺(1998)]] p.241-242</ref><ref name="斎藤(1975)498">[[#斎藤(1975)|斎藤(1975)]] p.498</ref>。
-->
====大石家====
<!--出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|明和5年(1768年)3月18日に隠居。男子が2人あったが浅野家は家督相続を許さず<ref group="注釈">良恭は正室と継室である[[浅野氏]]の姫を二度も離縁しており、いずれも妾腹である。</ref>、小山良至(小山良速の孫)の五男[[大石良尚|良尚]]を養子に迎えて大石家の家督を継がせた。|date=2024/02/03}}
 
{{要出典範囲|その良尚は、後継男子(大石良完)とその嫡男が相次いで先立ち、自身も病んで大石家を去り、実家の小山家に帰って没-->
=== 切腹 ===
寛政9年(1797年)以降に一族の横田温良が大石に改姓し、大石の名跡を再興した<ref>『義士銘々傳』(泉岳寺発行)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}という。広島藩では温良系図の主張を疑問視し<ref>後藤武夫伝『新撰大石系図』</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}、小山流大石家(大石宗家・上士・知行高1200石)の相続はできなかった。
[[ファイル:Sengakuji 47 ronin graves.jpg|thumb|[[泉岳寺]]の赤穂浪士の墓]]
しかし、大石家が絶えるのを惜しんだ藩は、7月25日に、温良が別家として横田流大石家(知行高500石・馬廻組のち江戸詰)を立てるのは認めた。良督のあと良知が萱野氏から入る。 最後の大石家当主・大石多久造は[[明治]]22年(1889年)に亡くなり、横田大石氏も断絶した<ref>泉岳寺 鎌田豊治「大石家の墓」(『忠臣蔵史蹟辞典』中央義士会、2008年)</ref>{{要ページ番号|date=2024年2月}}。
[[ファイル:Kagakuji Ako10n4272.jpg|thumb|[[花岳寺]]の赤穂義士の墓]]
 
広島の横田大石氏が別家扱いになったのち、赤穂に墓のある大石家の祭祀は、赤穂浪士の装束等の遺品を預かり、[[大石信清|信清]]の瀬左衛門家を継承した大石良饒が大石宗家([[森家]]赤穂藩士<ref group="注釈">[[花岳寺]]の境内には、森家家臣の有志により大石家歴代の墓とは別に義士墓も建立されている(『播州赤穂 台雲山花岳寺』より「境内案内」)。</ref>)となり、赤穂にて祭祀を継承している<ref>赤穂大石神社「義士資料館」展示</ref><ref>森家文書『東西分限帳 慶応元年』</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。現在も、信清系大石氏の当主が[[赤穂義士祭|義士祭]]などに参加されている。
元禄16年[[2月4日 (旧暦)]]([[西暦]]1703年3月20日)、4大名家へ切腹の命が伝えられる。また同日、幕府評定所の仙石久尚は吉良家当主の吉良義周を呼び出し、吉良家改易と義周の信濃諏訪藩高島への配流の処分を下した。
 
====赤穂藩====
46人の赤穂浪士はその日のうちにお預かりの大名屋敷で切腹。4大名家で切腹開始時刻の多少のずれはあったが、どの家でも半時(約1時間)ほどで切腹を終えている。当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていたため、素早く終わった。間新六のみ肌脱ぎせずにすぐに脇差を腹に突き立てたため、実際に腹を切り裂いている<ref name="泉(1998)119">[[#泉(1998)|泉(1998)]] p.119</ref>。[[細川綱利]]は切腹跡についた血を清掃しようとする藩士に対して赤穂浪士は吾藩の氏神であるとして清掃する必要なしと指示している<ref name="泉(1998)120">[[#泉(1998)|泉(1998)]] p.120</ref>。赤穂浪士の遺骸は主君浅野長矩と同じ[[泉岳寺]]に埋葬された。赤穂の浅野家菩提寺である[[花岳寺]]には、泉岳寺から分骨されて赤穂浪士の墓(義士墓所)が建てられた。
浅野家の改易後、赤穂藩は元禄14年(1701年)の内に[[永井直敬]]が引き継ぐ(下野国[[烏山藩]]より転封、3万2000石)。5年後の[[宝永]]3年(1706年)には[[森長直]]に交代し(備中国[[#西江原藩|西江原藩]]より転封、2万石。永井氏は信濃国[[飯山藩]]へ転封)、そのまま廃藩置県まで異動はなかった(12代165年)<ref>森家文書『東西分限帳 天保三年』</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
 
====吉良荘====
当時の刑罰は[[明治時代]]以降と大きく異なり、一族連座が基本であったが、赤穂浪士については幕閣内にも同情論が強かったため、本件での一族連座は限定的となった<ref name="泉(1998)120">[[#泉(1998)|泉(1998)]] p.120</ref>。赤穂浪士の遺子のうち、15歳以上の男子でかつ[[出家]]した者を除いた4人(吉田伝内、中村忠三郎、間瀬定八、村松政右衛門)が[[伊豆大島]]へ[[流罪]]となったが、浅野長矩室[[瑤泉院]]の働きかけで1706年には出家を条件に赦免された<ref name="泉(1998)121-122">[[#泉(1998)|泉(1998)]] p.121-122</ref>。
吉良家の断絶後、高家職などは上野介の弟・[[東条義叔]]が継承して子孫は吉良を称したが、知行は武蔵国児玉郡と賀美郡内の自身の領地にとどまり、吉良荘は[[西尾藩]]のほか大多喜藩や沼津藩などの飛び地、寺社領、[[天領]]といった様々な領主の統治下に置かれた<ref>『[[寛政重修諸家譜]]』(巻第九十二)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。また、上野介の官名に因む、[[上野国]]白石の吉良家飛び地700石は、[[吉井藩]]、佐野藩、[[天領]]ほか、複数の旗本が統治した<ref>『旧高旧領取調帳』など</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
 
<!-- 出典がないのでコメントアウト
=== 浅野家の再興 ===
{{要出典範囲|なお、吉良義央の男系子孫である[[吉井信謹|鷹司(松平)信謹]](義央の[[仍孫]])は、元治2年(1865年)から吉井1万石の藩主となり、[[吉井陣屋]]にて吉良の旧領の一部を統治した。|date=2024/02/03}}
宝永6年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]([[1709年]][[2月19日]])、将軍綱吉が死去し甥の[[徳川家宣|家宣]]が将軍を継ぐと、新将軍就任の恩赦により、出家していた赤穂浪士の遺子たち還俗も認められた<ref name="泉(1998)121-122"/>
 
同年8月、内匠頭の実弟である[[浅野長広]]も赦免され、500石の旗本に列した<ref name="泉(1998)278">[[#泉(1998)|泉(1998)]] p.278</ref>。
 
=====江戸屋敷=====
また、[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])、大石良雄の三男である[[大石大三郎|大三郎]]が[[広島市|広島]]の浅野宗家に1,500石で召抱えられた<ref>[[#泉(1998)|泉(1998)]] p.122/279</ref>。
元禄16年([[1703年]])の[[元禄大地震]]とそれの6日後に起きた大火で、吉良邸があった周辺の武家地や町人地は壊滅状態になり、本所の人々は吉良の怨霊が現世にとどまり祟りをなしたと噂した<ref group="注釈">現地『吉良祭』由来説明。本所では、現在も12月13日に鎮魂を兼ねた「吉良祭」が開催されている。</ref>。
その復興のときに吉良邸跡の中島伊勢([[小林平八郎|小林央通]]の曾孫・[[葛飾北斎]]の養父<ref>「北斎」(3-5ページ、総合研究大学院大学教授・大久保純一、岩波書店)</ref>)の拝領地に義央の鎮魂と供養のために吉良神社<ref group="注釈">旧・吉良神社は明治政府の[[神社合祀]]の方針により旧・松坂稲荷と統合され、義央の墓を持つ現在の姿になっている。</ref>が建てられている。
 
鉄砲洲の赤穂藩邸は 1701年([[元禄]]14年)3月17日に幕府に収公され、いったん[[小浜藩]]に与えられたが、酒井忠囿は幕府に懇願して矢来町にあった元の藩邸に復した。その後は分割された。火災が続いたため(明治に創立の聖ルカ基督教看護学校<ref group="注釈">現在の聖路加大学附属病院([[聖書]]『ルカによる福音書』と異なり、法人登記上の読みは「セイロカ」)</ref>に被災者の供養樹([[松]]並木)がある)、大名屋敷としては使用されなくなり町人地および農民地となった<ref>『嘉永京橋南絵図』</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}(牛の牧場もあり、[[芥川龍之介]]も近郊で生まれている<ref group="注釈" name="名前なし-pb6O-1" />)。また、泉岳寺の赤穂義士の墓所門は旧・赤穂藩邸の裏門を移植したものである(暴徒による破壊傷が柱に残る)。
== 関連人物 ==
-->
 
====城・陣屋・家臣宅====
{{main|赤穂事件の人物一覧 }}
<!--出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|赤穂城では、城を預かった隣国の播磨[[龍野藩]]主・[[脇坂安照]]もまた在番中に家老・脇坂民部の目代が刃傷事件を起こし、6月24日、赤穂城内で死傷者を出す。また、多数の領民が暴れて建物や石垣を壊したりした<ref>脇坂家文書『赤穂城在番日記』九月朔日「御城内破損帳」</ref>。幕閣の命で代官が派遣され、建物壁の落書消しや石垣修復が行なわれた。その後、永井家、森家と受け継がれていく。吉良荘の[[岡山陣屋]]は廃城(陣屋)となった(現在は門のみ)。|date=2024/02/03}}
-->赤穂城下にあった[[浅野氏|浅野家]]旧臣の屋敷群は、[[永井氏|永井家]]赤穂藩では全く使用されず、[[森氏|森家]]が建物を破壊した。城内では、[[享保]]14年([[1729年]])に、三の丸の旧・大石良雄邸が全焼し、再建されなかった。[[1876年]](明治9年)の城払い下げにより荒れ果てた。(現在は「大石邸長屋門」が復元されている<ref>「昭和期に、総工費3,138万余円をかけて復元」(現地「大石邸長屋門」解説板)</ref>。)<ref>『義士魂』(新)六号(赤穂大石神社・赤穂義士顕彰会編)</ref>{{要ページ番号|date=2024年2月}}
 
建造物の残骸は放置され、[[中村清右衛門]]の屋敷跡などはごみの投棄場所となり、近代には完全に埋め立てられていた<ref>平成26年度赤穂城下発掘調査「有年原・有年牟礼地区分布調査」(赤穂市教育委員会 平成27年4月21日)より7ページ「埋蔵文化財に関する活動」</ref>。近年の発掘調査で遺構(井戸の跡など)が出土している。
=== 主な四十七士 ===
 
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==== 四十七士の傾向 ====
出典が殆どない事、[[忠臣蔵]]の項目に詳しく書いてあるため本項には必要ない事、明治期の『元禄快挙録』を江戸期の話と同列に扱うなど内容に問題がある事からコメントアウト。
 
=== 国内での伝播 ===
討ち入り参加者の半数強にあたる24人が、内匠頭刃傷の際、江戸にいた浪士たちである<ref name="taniguchi164">[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p164-171</ref>。藩士の多くは国元にいた事を考えれば、この比率は際立って高い。
浪士たちの討ち入り事件は、討ち入り{{疑問点範囲|2日後の14日|date=2016年12月}}の記録にすでに「江戸中の手柄」と書いてあるほどすぐさま噂として広まった{{Sfn|谷口|p=175}}{{Refnest|group="注釈"|江戸商人浅田孫之進の元禄15年極月(12月)16日付書状に「江戸中の手柄に御座候」とある<ref>「東京大学経済学部所蔵「浅田家文書」所理喜夫編『古文書の語る日本史6江戸前期』筑摩書房、1989年、p514</ref>。同じく、京都の儒学者伊藤東涯の日記「伊藤氏家乗」(影印複写版・天理図書館蔵)の元禄15年12月14日条に「可謂忠肝義胆矣」とある。そして、伊勢藤堂藩の無足人山本平左衛門日並記の元禄16年正月12日条に「揚一天名誉之事、諸人催感涙也」とあり<ref>『清文堂史料叢書第21刊 大和国無足人日記 上巻』清文堂出版、1988年、p349</ref>、地域や身分を問わず、赤穂浪士の討ち入りを称賛・評価した事件直後の記録などが残っている<ref>小林輝久彦「討入り後の吉良家家臣連署状写についての一考察」大倉精神文化研究所、2019年、p218</ref>}}。
国元在住だが江戸まで内匠頭についてきて刃傷事件に遭遇したものも12人いる<ref name="taniguchi164" />。
 
近江商人の元禄15年12月15日書状には、自首して切腹が「いさぎ能キとの評判ニて候」と書く一方、自らは「善悪は分からない」と述べている<ref>町立近江日野商人館所蔵文書</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。「武林 先祖は虎も 住んだ国」「猛々し 鷹をすずめが 出て咎め」<ref group="注釈">「鷹の前の雀」は「蛇に睨まれた蛙」の同義語だが、伊達家が赤穂義士の屋敷前通行を阻んだことを詠んだもの(柄井川柳『[[誹風柳多留]]』)。</ref>等の落書も出た。
家臣団の頂点に位置する家老4人と番頭5人のうち、討ち入りに参加したのは内蔵助のみで<ref name="taniguchi164" />、物頭は吉田忠左衛門と原惣右衛門のみであり<ref name="taniguchi164" />、残りは用人、馬廻、小姓、およびその家族が大半であった<ref name="taniguchi164" />。
 
『元禄快挙録』『赤穂義士一夕話』には「江戸の町民が引き上げの赤穂義士を見て恐れおのめいていた」と記されている<ref>福本日南『元禄快挙録』二百三十五
また親族での討ち入り参加が多く、単独で討ち入りに参加したものは21人、残り26人は親子あるいは何らかの親族関係のものとともに討ち入りに参加している<ref name="taniguchi164" />。
</ref><ref>山崎美成『赤穂義士一夕話』七之巻</ref>{{出典無効|date=2024/02/03}}。
 
その後、泉岳寺の住職・酬山が義士の墓を放置してしまったため、「泉岳寺の墓地には草が丈高く生い茂って、墓が並んでいるのも見えない」と同時代人の記録が残る<ref>宝井其角『類柑子』(宝永四年)刊</ref>。[[徳川吉宗]]の治世までは、赤穂義士の墓参者が殆ど無かったと書かれている<ref>[[菊岡沾涼]]『江戸砂子(えどすなご)』巻之五「荏原郡 三田 二本榎 高輪」享保一七年(一七三二)刊</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
四十七士の片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門は浅野内匠頭の側近で、彼らは一昔前であれば内匠頭の死とともに殉死するような関係にある<ref>[[#山本(2012b)|山本(2012b)]] 第一章3節「討ち入り参加者の特徴」</ref>。
半世紀が過ぎたころ、歌舞伎『[[仮名手本忠臣蔵]]』が上演されると、人が泉岳寺に来るようになったので金銭を徴収することにした<ref>敬順和尚「近頃まで浪士の古墓を見るものもなかりしに、去年より瓦葺門をたて墓守が一人銭六文を取りて見せたり」『遊歴雑記』文化九年(一八一二)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
 
{{要出典範囲|また、大石良雄が閑居した山科の邸宅は、討ち入り後に荒廃した<ref group="注釈">現在は、山科の[[岩屋寺 (京都市)|岩屋寺]]に「大石良雄君隠棲址」碑が1901年に建てられている。</ref>。[[佐幕]]派の旗本・[[浅野長祚]]が[[嘉永]]年間に岩屋寺を再建すると、本堂には、本尊の周りに赤穂義士の位牌が並べられた。|date=2024/02/03}}
しかし彼らのような例外をのぞけば、討ち入り参加者の多くは内匠頭個人から特別な恩寵を受けたものはおらず<ref name="yamamotob13shinzan">[[#山本(2012b)|山本(2012b)]] 第一章3節「新参者と元藩士」</ref> 、むしろ内匠頭との関係が悪かったものもいた。
-->
 
===明治維新後の顕彰===
四十七士の千馬三郎兵衛は主君に度々諫言して不興を買い、閉門にさせられ、刃傷事件のあった元禄14年の3月には永の暇乞いをしようとしていたほどであったにも関わらず、討ち入りに参加している<ref name="yamamotob13shinzan" />。
<!--出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|徳川幕府が崩壊して以降は、赤穂浪士に対して顕彰する動きが出てきた。しかし、|date=2024/02/03}}<ref group="注釈">{{要出典範囲|主として「仇討禁止令」と「廃仏毀釈」。京都の寺では義士墓や供養塔は実際に破却されている。|date=2024/02/03}}</ref>-->
文明開化を謳う[[明治維新]]の藩閥政府は赤穂義士に厳しく、泉岳寺も荒廃の時期だったと自らを回想している<ref>萬松山泉岳寺公式web「泉岳寺の歴史」</ref>。<!--{{要出典範囲|(泰然和尚は義士像の破壊撤回<ref>明治6年(1873年)年2月7日、明治政府は「復讐禁止令」(仇討ち禁止令)を布告した。</ref>を嘆願し、守るため周囲に柵を設けた)|date=2024/02/03}}。-->同様に大石神社も、創建が許可されたのは30年以上も経ってからであり、募金も集まらず<ref>片山伯仙編「仙珪和尚日記抄」(花岳寺、1967年)</ref>[[大町桂月]]など国粋主義者による反対もあった<ref>政教社「日本及日本人」(1909年)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。神社完成は大正を待たねばならなかった。
 
*[[1868年]]([[明治]]元年)11月、[[東京]]に移った[[明治天皇]]は泉岳寺に勅使を派遣し、大石らを嘉賞する[[宣旨]]と[[金幣]]を贈った<ref name="斎藤(1975)804">[[#斎藤(1975)|斎藤(1975)]] p.804</ref>。
不破数右衛門も内匠頭から勘気を蒙り、刃傷事件の際には浪人中だったにもかかわらず、内蔵助に頼んで討ち入りに参加している<ref name="yamamotob13shinzan" />。
*[[1900年]](明治33年)に赤穂に[[大石神社]](赤穂大石神社)を創設する認可が出た。[[1912年]]([[大正]]元年)に大石神社の社宇が完成、鎮座し、[[1928年]]([[昭和]]3年)には県社に昇格した<ref>[[#斎藤(1975)|斎藤(1975)]] p.805-87</ref>。
*[[1933年]](昭和8年)、[[京都市]][[山科]]に[[大石神社]](京都大石神社)の創立が許可された。[[1935年]](昭和10年)、大石神社建設会などの寄付により社殿が竣工し、[[1937年]](昭和12年)4月には府社に列格する。
*[[1978年]](昭和53年)、[[大石邸長屋門]]が再建された。良雄が出入りした当時のものは江戸期に火災で焼失していた<ref>「老朽甚だしく、昭和期に、総工費三、一三八万余円をかけて復元」との説明が記される(赤穂義士会)</ref>。
 
==== 大石主税海外への伝播 ====
* [[室鳩巣]]が『赤穂義人録』を漢文体全2巻1冊で著わしており、上巻は赤穂藩主[[浅野長矩]]が[[江戸城]][[松の廊下]]で[[吉良義央]]に刃傷を起こした事件から、赤穂藩の[[家老]]であった大石良雄ら四十七士が吉良を討ち取って[[江戸幕府]]から[[切腹]]を命じられた経緯が時系列に記され、下巻は大石以下四十七士の経歴や逸話が記されている<ref>川平、井上編(2016年)、P118-120</ref>。[[青地兼山]](鳩巣の門人)の『兼山秘策』によれば、[[新井白石]]や[[対馬藩]]士との話で四十七士に関心を持った[[朝鮮通信使]]のために漢文体による赤穂事件の史料を求めていた対馬藩家老・[[平田直右衛門]]の要請を受けて、鳩巣が通信使に『義人録』の写本を与えることになり、鳩巣は兼山への書状で「四十七士に対して、私もずいぶん奉公したものです」と報告している<ref>川平、井上編(2016年)、P131-136</ref>。
* 鳩巣は同書を単に四十七士の称賛する目的だけで作ったのではなかった。奥村脩運の跋文には『[[資治通鑑綱目]]』に比するものを目指し、上は朝廷から下は士庶に至るまで、さらに異域(海外)でも読まれるようになることを期待していたと記している<ref>川平、井上編(2016年)、P126</ref>。実際、鳩巣は日本の慣習を知らない海外の読者を意識して、朝廷と幕府の二重体制や[[公武関係]]の説明を省いて幕府を含めて「朝廷」と表記し、日本独自の習慣と思われるもの(名乗りの方法、[[月代]]のスタイル、[[仏教]]による葬儀など)は全て「和俗」であると断りを入れている。
* 中国では清代に『海外奇談』文政3年(1820年)として赤穂事件が漢文で出ている。近年でも中国語や韓国語に赤穂事件は翻訳され、[[赤穂市]]は両国語話者の留学生も受け入れている。
 
== 討ち入りに対する見解{{Anchors|討ち入りに対する見解}} ==
[[大石良金|大石主税]](おおいしちから)は大石内蔵助の嫡男で四十七士では最年少で、内匠頭の刃傷の際は元服前で幼名の松之丞を名乗っていた<ref name="sasaki203">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p203-206</ref>。
 
=== 江戸時代の儒学者たちによる議論 ===
討ち入りの際には裏門隊の大将を務めた<ref name="sasaki203" /> 。享年16<ref name="sasaki203" />。
 
==== 吉田忠左衛門「仇討ち」か否か ====
主君の遺恨を晴らすべく命をかけて吉良邸に討ち入った「義士」達が切腹に処せられた事は人々に大きな衝撃をもって迎えられた<ref>[[赤穂事件#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p209</ref>。
 
儒学者たちの間でも、赤穂事件の是非をめぐって論争が巻き起こり、その論争は幕末まで続いた<ref name="名前なし_6-20240629115709">[[赤穂事件#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p225</ref>。論争がこのように長く続いたのは、この問題が武士の生き方や幕藩制度の構造に深くかかわるものだからである<ref name="名前なし_7-20240629115709">[[赤穂事件#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p215</ref>。
[[吉田兼亮|吉田忠左衛門]](よしだちゅうざえもん)は大石内蔵助に次いで事実上の副頭領<ref name="sasaki318">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p318-322</ref>。足軽頭で裏門隊の副将を務めた。享年64<ref name="sasaki318" />。
 
論争の焦点は多岐にわたるが、その主なものは赤穂浪士の行動が「義」にあたるのかという事である。これは浪士達の吉良邸討ち入りが「仇討ち」とみなせるかどうかにかかっている<ref name="taguchi181">[[赤穂事件#田口(1999)|田口(1999)]] p181-182</ref>。浪士達の行動が「仇討ち」だとすれば、それを果たした浪士達は忠臣であり義士であるという事になるし、そうでなければ彼らは忠臣でも義士でもない事になるのである<ref name="taguchi181" />。
====寺坂吉右衛門====
 
この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族のために復讐することを指し<ref name="miyazawa146">[[赤穂事件#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p146</ref>、主君の仇を討ったのは本事件が初めてであるため<ref name="miyazawa146" /><!--出典がないのでコメントアウト<ref group="注釈">{{要出典範囲|中国では[[豫譲]]が主君である[[智瑶]]の仇を討とうしたことがあり、その行為は仇の[[趙無恤]]からも称賛されている。|date=2024/02/02}}</ref>-->、本事件が仇討ちに当たるか否かは事件当時は自明なことではなかった。
[[寺坂信行|寺坂吉右衛門]](てらさかきちえもん)は四十七士では最も身分が低く、唯一の足軽である<ref name="sasakiterasaka">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p259-262</ref>。
この問題は武士の生き方や幕藩制度の構造に深くかかわるものであったこともあり<ref name="名前なし_7-20240629115709"/>、論争は幕末まで続いた<ref name="名前なし_6-20240629115709"/>。
 
==== 「義士」としての肯定論 ====
おそらくもともとは百姓で<ref name="yamanotoa63terasaka">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第六章三節「寺坂吉右衛門の行方」</ref>、吉田忠左衛門の家来になったが、忠左衛門が足軽頭になったことにより忠左衛門の足軽から藩直属の足軽に昇格した<ref name="yamanotoa63terasaka" /> 。
赤穂浪士達が切腹した元禄16年には早くも[[林鳳岡]]が『復讐論』を著し、「義士」達が主君の讐を討つのは儒教的道義にかなうとして彼らの行動を賛美した<ref name="miyazawa214">[[赤穂事件#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p214-229</ref>。しかし鳳岡は同時に、彼らは法を犯した者達であるから「法律」の観点からは処罰は正当であるとして幕府の裁定を肯定した<ref name="miyazawa214" />。ただし鳳岡は、儒教的道義にかなう行為がどうして罰せられなければならないのかという肝心な点には答えていない<ref name="miyazawa214" />。
 
また同じく元禄16年には[[朱子学|朱子学者]]の[[室鳩巣]]が赤穂事件に関する最初の「史書」<ref name="akou1-347">[[赤穂事件#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]] 第一巻p347-349</ref>である『[[赤穂義人録]]』を著し、義士を賛美した<ref name="akou1-347" />。本書では泉岳寺引き上げの最中にどこかに消えた寺坂吉右衛門は大石内蔵助の命で浅野大学のもとへ向かったのだとし<ref name="akou1-347" />、寺坂を義士の一人に数え赤穂浪士は寺坂を含めた「四十七士」だとした<ref name="akou1-347" />。これにより「四十七士説」は生まれた<ref>[[赤穂事件#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p172</ref>。
討ち入りには参加したが引き上げの際に姿を消した。それ故に赤穂浪士切腹の後も生き残り、享年83で亡くなった<ref name="sasakiterasaka" />。
 
ただし、室は周の[[武王 (周)|武王]]が[[殷]]を伐った行為とこれに抗議して餓死した[[伯夷・叔斉|伯夷兄弟]]の行為が後世ともに称えられた例を引き合いに出して義士への賛美と幕府の処分の正当性は矛盾するものではないとしている他、大石の忠義は称えつつも家老の職務は藩主が過ちを犯さないように補佐するものであると指摘して刃傷事件の原因は大石の家老としての能力不足にもあるという批判もしている<ref>川平敏文「室鳩巣『赤穂義人録』論-その微意と対外意識-」井上泰至 編『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4 P117-142</ref>。なお本書は「史書」として出されたものであるが、今日の目から見れば赤穂事件に関する虚伝俗説を信用して書かれたもので随所に史実とは異なる記述がある<ref>[[赤穂事件#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p5</ref>。
姿を消した理由は古来から議論の的で、逃亡したという説から密命を帯びていたという説まで様々である(後述)。
 
浅見絅斎は「内匠頭が大礼がおこなわれる殿中であるのをはばからず、私怨のために刃傷に及んだのは甚だしい落ち度」としつつも、「大法を以って云えば、個人同士の喧嘩においては両成敗の法であり、内匠頭が成敗になれば上野介も成敗になってしかるべき」「大石らが討ち入り後は自害にもおよばず、面々の首を差しのべて上に任せたのは殊勝である」<ref>「絅斎先生四十六士論」(『日本思想体系』390-396頁)</ref>と述べ、その後も義士論叢は続けられた<ref name="miyazawa214" />。
==== 堀部安兵衛 ====
 
近代に入ってからは新渡戸稲造が、赤穂義士を「武士道」および「義」の実践者として海外(米英語圏)に紹介している。赤穂藩邸跡の農民地(芥川生家の家業は牛乳製造)近くで生まれた[[芥川龍之介]]<!--出典がないのでコメントアウト<ref group="注釈" name="名前なし-pb6O-1">{{要出典範囲|「芥川龍之介生誕の地」碑(明石町)があったが、平成期に別の場所に移されている。|date=2024/02/03}}</ref>-->は「或日の大石内蔵助」を書き、作中人物の口を借りて切腹に臨む大石らを称えるとともに、高田、新藤、小山といった所謂「不義士」を罵倒している。
[[堀部武庸|堀部安兵衛]](ほりべやすべえ、やひょうえ)は江戸詰めの浪士の一人で、内匠頭の切腹の報を聞くと最初から吉良への仇討ちを主張したいわゆる江戸急進派の中心人物の一人である。
 
==== 赤穂浪士への批判・否定論 ====
25才の時<ref name="sasaki294">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p294-301</ref>に甥・叔父の義理を結んだ菅野六郎左衛門の危機に助太刀した[[高田馬場の決闘]]で名を馳せ、吉良邸への討ち入りは生涯2度目の戦いとなる。享年34<ref name="sasaki294" />。
一方、[[佐藤直方]]は『四十六人之筆記』(宝永2年以前)において、内匠頭の刃傷において吉良上野介は無抵抗に逃げただけだという事実に着目し、刃傷事件は喧嘩ではなく内匠頭の暴力に過ぎず、よってそもそも上野介は赤穂浪士にとって「君の讐」でないとした<ref name="miyazawa214" />。また佐藤は、赤穂浪士達は吉良邸討ち入りの後に自主的に切腹すべきで、そうせずに幕府に報告にあがったのは、生きながらえて禄をはむためではないかと批判している<ref name="miyazawa214" />。
 
[[荻生徂徠]]も、『政談』のうち「四十七士の事を論ず」<ref>著作全集・選集によっては「四十七士論」となっている文献もあり。</ref>(宝永2年ごろ)において、内匠頭は幕府に処罰されたのであって吉良に殺されたわけではないから吉良上野介は赤穂浪士にとって「君の仇」ではなく<ref name="miyazawa214" />、「内匠頭の刃傷は匹夫の勇による「不義」の行為であり、赤穂浪士の行動は、「君の邪志」を引き継いだものだから「義」とは認められないとして死を与えるべき」と主張している<ref>『近世日本の中期における忠義の観念について』(早稲田大学・谷口眞子)第二章第一節・51頁</ref>。
==== 堀部弥兵衛 ====
 
一方、「徂徠擬律書」では、同情の憐みを禁じえないものの君の邪志」を引き継いだものだから「義」とは認められないとし<ref name="miyazawa214" />、「今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤も公論と云ふべし。」と「義士切腹論」を述べたとされている。
[[堀部金丸|堀部弥兵衛]](ほりべやへえ)は四十七士最高齢で享年77<ref name="sasaki290">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p290-293</ref>。
しかし、[[赤穂市]]は「徂徠擬律書」が、[[徳川幕府|幕府]]に残らず細川家にのみ残っていること、上述の「四十七士の事を論ず」と比べ徂徠の発想・主張に余りに違いがありすぎることから、後世の偽書であるとの考察をしている<ref>赤穂市発行「忠臣蔵第1巻」</ref>{{要ページ番号|date=2024年2月}}。<!--
一次資料&出典がないのでコメントアウト
 
また、後述の徂徠の弟子・太宰春台が、「徂徠以外に『浪士は義士にあらず』という論を唱える者がなく、世間は深く考えずに忠臣と讃えている」と述べている<ref>太宰春台『赤穂四十六士論』(享保17年)</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}点から{{要出典範囲|「四十七士の事を論ず」のほうが徂徠の真筆であると思われる。|date=2024/02/02}}-->
高田馬場の決闘で名を馳せた安兵衛を強いて求めて養子にした<ref name="sasaki290" />。
 
享保17年に[[太宰春台]]が『赤穂四十六士論』で「義士」を徹底批判<ref name="miyazawa214" />した事で、義士論争は新たな局面を迎える<ref name="taguchi181" />。春台の論が斬新なのは、幕府の処罰の可否を正面から論じた事にある<ref name="miyazawa214" />。春台によれば、浅野は吉良を傷つけただけなのに浅野を切腹に処したのは幕府の処罰が過当である<ref name="miyazawa214" />。よって赤穂浪士達は吉良を恨むのではなく幕府を怨むべきであり<ref name="miyazawa214" />、彼らは幕府の使者と一戦を交えた後、赤穂城に火を放って自害するべきだったという<ref name="miyazawa214" />。
==== 不破数右衛門 ====
 
[[三宅尚斎]]も「浅野法ヲ犯シ公朝ヨリ誅セラレ、吉良ガ殺シタルニ非ザレバ、吉良ヲ讎(あだ)トシテ討チシハ不当事ト云フベキニ似タリ」と主張している<ref>『重固問目』より「先生朱批」第九論・第十論(享保三年九月二十一日)</ref>。<!--
[[不破正種|不破数右衛門]](ふわかずえもん)は元禄10年頃<ref name="sasaki278">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p287-288</ref>浅野内匠頭の勘気を受けて浪人していたが、浅野内匠頭の刃傷後、大石内蔵助に許されて帰参し、討ち入りに参加<ref name="sasaki278" />。
出典がないのでコメントアウト
 
{{要出典範囲|牧野直友は「赤穂遺臣の行動は「義」でなく「乱」である。内匠頭の行動は朝廷への不敬であり、君父の不義の志を継いでその悪を正当化したに過ぎない」と長矩と赤穂浪士を批判し|date=2024/02/02}}、古学においては<ref>「士は怒りにまかせ行動すべからず。憤怒の心は身を亡ぼす」「例ひ君たりとも道に則って自身を制御できぬ者、君にあらず」(『武教全書』巻五)など。</ref>
吉良邸討ち入りでは裏門を屋外で固める役であったが、じっとしてられず中に侵入し、二人を斬り倒し、吉良左兵衛に斬りかかった。左兵衛は逃げてしまったものの、別の一人と斬りあいをして倒す<ref name="miyazawaa159">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p159</ref>。斬り合いのしすぎで刀がささらのようになり刃が無くなるほどだったという<ref name="miyazawaa159" />。享年34<ref name="sasaki278" />。
{{要出典範囲|「士は礼儀を以って私情を抑制すべき」とあると述べている。|date=2024/02/02}}
 
{{要出典範囲|伊良子大洲は「四十六士は主君と心を同じくしておらず、討ち入りは利のためであって義のためではない。目的を達する事だけを大切にしている。義は仁から生まれるもので、人道に合致してなければならない。吉良邸で故なく殺された子や、孤島で痩嬴死した四十六士の遺児を見るに、四十六士は自分たちが満足すれば其れで良いという利己的な悪である」と持論を展開した。|date=2024/02/02}}-->
==== 矢頭右衛門七 ====
 
[[野村東皐]](公台)は[[延享]]2年(1745年)、『大石良雄復君讐論』にて「君子の忠は義に協ったものでなければならず、大石のは「侠」であっても「義」に非ず。君の私事(邪志)を継いだ不義の忠である」と述べた<ref>「近世武士道論序説」(田中佩刀、1986年)</ref>。
[[矢頭教兼|矢頭右衛門七]](やとうえもしち)は大石主税に次ぐ若年である<ref name="sasaki313" />。
 
=== 明治以降 ===
刃傷後、父・[[矢頭長助]]とともに盟約に加わったが、大阪に移り住んだ頃から父が病に倒れ、帰らぬ人となったため、右衛門七のみが討ち入りに参加する<ref name="sasaki313" />。享年18<ref name="sasaki313">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p313-314</ref>。
[[福沢諭吉]]は『学問のすゝめ』で「赤穂不義士論」を展開し批判された<ref>第6編「国法の貴きを論ず」および第7編「国民の職分を論ず」</ref><ref>{{cite news|title=忠臣蔵で人気の「赤穂浪士」を福沢諭吉が非難の訳|newspaper=東洋経済ONLINE|date=2022-12-11|author=[[濱田浩一郎]]|url=https://toyokeizai.net/articles/-/638487|accessdate=2024-05-31|publisher=株式会社[[東洋経済新報社]]}}</ref>。[[大日本帝国]]で[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]教授を勤めた[[内田百間]]は、「秩序の破壊と復讐を行なった」<ref>内田百間『百鬼園随筆』(三笠書房、1933年10月)</ref>{{要ページ番号|date=2024年2月}}と(本人は陸軍時代に[[従五位]]を拝受)赤穂義士を否定する論説を書いている。
 
[[三田村鳶魚]]は、「[[江戸学]]」に関する複数の評論・随筆において「あくまで実証・考証に立場を置きながら、伝説や脚色を廃して観察した一件の顛末を記した」として「是は是、非は非」の立場で意見を述べている<ref>三田村鳶魚『横から見た赤穂義士』「義士に仕立てたのは誰か」「四十六人の偶像化」「義士嫌ひ」(昭和十年)</ref>。<!--22巻もある『日本外史』を全部確認するのは困難なため、「全く触れていない」事を述べている出典が別途必要。
討ち入りへの参加は、病に倒れていたころからの父の遺言であったという<ref>[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p142</ref>。
 
[[広島藩]]浅野家中にあった[[頼山陽]]は、『[[日本外史]]』で徳川家治までの国史を記したが、元禄赤穂事件には全く触れていない{{疑問点|date=2024年2月}}-->。
==== 武林唯七 ====
 
[[徳富蘇峰]]は、『[[近世日本国民史]]』{{Full citation needed|date=2024年2月}}<!--何巻の何ページか-->で赤穂義士が「吉良を故君の仇と思ふは愚の至り」と思想も述べ、「浅野は我儘一徹の暗君」「大石は只の救い難き好色」など酷評した。一方で久松家[[伊予松山藩|松山藩]]邸の切腹地に「赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館」の揮毫をしている。
[[武林隆重|武林唯七]]は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際捕虜になった中国人の孫で、中国浙江省の武林の出身だったことから姓を武林と名乗った<ref name="yamamotob32aseri" />。
 
== 事件についての学術的な議論 ==
唯七は上方では最も急進的な同志の一人であった<ref name="yamamotob32aseri">[[#山本(2012b)|山本(2012b)]] 第三章2節「安兵衛の焦り」</ref>。享年32。
 
=== 刃傷の原因{{Anchors|刃傷におよんだ理由}} ===
=== 主な脱落者 ===
 
浅野内匠頭は刃傷に及んだ理由を説明していない為、刃傷の原因は今日に至るまで不明である。そのため、様々な説が唱えられている。
==== 脱落者の傾向 ====
 
====遺恨に関して====
赤穂藩士に士分の子や隠居を含めた三百数十人のうち<ref name="taniguchi108">[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p108-117</ref>、1/3以上が神文を提出<ref name="taniguchi108" />。そこから80名ほどが脱名し<ref name="taniguchi108" />、討ち入りに参加したのは46名(寺坂は士分ではなく足軽身分)であった。
神文提出の段階でまず下級武士がいなくなり<ref name="taniguchi108" />、そこから46人に絞られる段階で比較的高禄のものが離脱した<ref name="taniguchi108" />。
 
原因は何らかの「遺恨」にあるとされ、『梶川与惣兵衛筆記』の写本によっては内匠頭は刃傷の際「此間の遺恨、覚えたるか」と言ったと書いてあるし、『多門伝八郎覚書』には、多門が近藤平八郎と共に内匠頭を事情聴取したとき、内匠頭は一言も申し開きもないとした上で次のように述べたという<ref name="taniguchi-30">[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p30</ref>
最初に下級武士がいなくなったのは、町人になるなど生計を立てる道があったからであろうし<ref name="taniguchi108" />、その後で高禄のものが離脱したのは浅野大学の処分が決まりお家再興の道が閉ざされたためだろう<ref name="taniguchi108" />。
{{quotation|「私的な遺恨から前後も考えず、上野介を討ち果たそうとして刃傷に及んだ。どのような処罰を仰せつけられても異議を唱える筋はない。しかし上野介を打ち損じたことは残念である」<ref name="taniguchi-30" />}}
 
また浅野内匠頭は事情聴取に対し下記のように答えている:
離脱者は時に討ち入り参加者から義絶されたり不通にされたりするが、それは討ち入り参加者が離脱者の援助を受けられなくなるという事でもあった<ref name="taniguchi134">[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p134-135</ref>。
{{quotation|乱心ではありません。その時、何とも堪忍できないことがあったので、刃傷におよびました<ref>[[#山本(2013)|山本(2013)]] p18</ref>}}
 
一方、吉良の方は全く身に覚えがないとしている<ref name="yamamotoc14">[[赤穂事件#山本(2013)|山本(2013)]] p14-16</ref>。
四十七士の一人である[[小野寺秀和|小野寺十内]]は義兄(妻の兄)が脱盟したため義兄を義絶したが、その結果として小野寺の妻「おたん」は兄を頼る事ができなくなってしまっている<ref name="taniguchi134" />。
しかし身に覚えがあると言えば立場が悪くなるのは目に見えているので、身に覚えがあったとしても隠してこのようにいうであろう<ref name="yamamotoc14" />。
おたんは討ち入り後、京都で自害している<ref name="taniguchi134" />。
 
四十七士の一人堀部安兵衛が方々にそれとなく聞いてみたが、「人びとはそれを知ってながら口にすべからざるタブーとして沈黙を守っているようだった」という<ref name="noguchi2015-3-2-naniga" />。
==== 大野九郎兵衛 ====
 
安兵衛の舅の堀部弥兵衛が討ち入り前に書いた『堀部弥兵衛金丸私記』には以下のように原因が吉良の悪口にあると記している:
[[大野知房|大野九郎兵衛]](おおのくろべえ)は赤穂藩の次席家老で、平時には藩札のシステムを作るなどの貢献があった<ref>[[#野口(1994)|野口(1994)]] p85</ref>。
 
{{quotation|伝奏屋敷において、吉良上野介殿品々悪口(あっこう)共御座候へ共、御役儀大切に存じ、内匠頭堪忍仕り候処、殿中において、諸人の前に武士道立たざる様に至極悪口致され候由、これに依り、其の場を逃し候ては後々までの恥辱と存じ、仕らすと存じ候<ref name="yamamotoc14" />。<br><br>
しかし赤穂藩取り潰しが決まると、切腹に反対するなど弱腰の姿勢を見せ<ref name="yamamoto22" />、原惣右衛門が賛同できないものはこの場を去るようにと言うと、大野は10人ほどの者とともに立ち去った<ref name="yamamoto22" />。
伝奏屋敷で、吉良上野介殿がいろいろと悪しざまにおっしゃりました。御役儀を大切に考え、内匠頭は堪忍しておりましたが、殿中において、諸人を前にして武士道が立たないようなひどいお言葉をかけられましたので、そのままにしておくと後々までの恥辱と思い、斬りかけたものと存じております<ref name="yamamotoc14" />}}
 
内匠頭が吉良に「武士道立たざる様に至極悪口」を言われたのはおそらく刃傷事件当日だろうから堀部弥兵衛がどこまで事情を知っていたか疑問ではある。しかし、少なくとも赤穂藩の家臣達の間では、内匠頭が吉良に「武士道立たざる様に至極悪口」を言われたことが原因であると信じていたのだろう<ref name="yamamotoc14" />。
4月12日に赤穂城の明け渡しが決定すると、その日の晩に息子の郡右衛門とともに逃亡した<ref name="yamamoto24" /><ref name="miyazawaa72" />。逃亡に際し郡右衛門の幼い娘を置き去りしていったという<ref name="miyazawaa72" />。
 
なお堀部弥兵衛は続けて「悪口は殺害同様の御制禁」と書いており、吉良がその御制禁を犯したから内匠頭はそれに応じたまでだとしている<ref name="yamamotoc14" />。
逃亡の原因は、『江赤見聞記』の巻二によると、大野が藩庫金の分配に関して[[岡島常樹|岡島八十右衛門]]と揉め、命の危険を感じた事が原因だというが、よくわからない<ref name="miyazawaa72" />。
実際、この時代悪口は明文化されてないものの「殺害同様の御制禁」だった<ref name="yamamotoc14" />。<!--
塩田説は後で詳細に書いてあるのでここでは不要。そもそもwikipediaの記事は出典にならない
 
こうした経緯もあってか、忠臣蔵のドラマでは「不義士」の親玉として描かれることが多く、元禄16年に書かれた『易水連袂録』ではすでに「日本無双大臆病ノ腰抜」と描かれている<ref name="miyazawaa72" />。
 
他に塩田を巡る諍いも挙げられるが、信憑性が低い(吉良領には塩田はなく、堺屋太一『峠の群像』の誤認による創作が広まったとされる)<ref>wikipedia記事「吉良義央」3項「地元での評価と実体」に詳細を記述。</ref> また、赤穂の塩田開発が飛躍的に伸びるのは、[[森氏|森家]]になってからで、浅野時代の生産高はその十分の一にも達していない<ref name="名前なし-20230316133402">「赤穂城下町跡発掘調査報告書」(2005年、赤穂市教育委員会)p9</ref>-->
宮澤誠一は「義士」伝説が創出される際、大野がいわば悪役としてスケープゴートにされた形だと評している<ref name="miyazawaa72">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p72</ref>。
 
==== 刃傷は突発的なもの(乱心)か ====
==== 岡林杢之助 ====
梶川与惣兵衛によれば、刃傷の少し前に梶川が浅野と話した時には特に異変を感じていなかったといい<ref name="noguchi55">[[#野口(1994)|野口(1994)]] p55</ref>、刃傷は突発的犯行だった事が推測される<ref name="noguchi55" />。実際、刃傷の無計画さはよく指摘され、吉良を仕留めるのであれば、切りかかるのではなく刺し殺すべきで<ref name="noguchi55" />、江戸城における過去の刃傷事件では、小刀で刺す事により、相手を仕留めている<ref name="noguchi55" />。
[[岡林杢之助]](おかばやしもくのすけ)は最初から盟約に加わらなかったが、四十七士が討ち入りを果たした事が伝わると、兄の孫左衛門や弟の左門から不義をなじられ、弟の介錯により12月28日に切腹した<ref><[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p360</ref>。
 
また田村邸に預けられた浅野内匠頭は家臣に次のように伝えてほしいと依頼したという(『御預一件』)
==== 寺井玄渓 ====
{{quotation|
此段、兼ねて知らせ申すべく候ども、今日やむを得ざる事故、知らせ申さず候、不審に存ずべく候<ref name="yamamoto2013-14">[[#山本(2013)]] pp.14-16.</ref>
<br><br>
(このことは予め知らせておくべきだったが、今日やむを得ざる事情で知らせる事ができなかった。不審に思うだろう)<ref name="yamamoto2013-14" />
}}
 
「今日やむを得ざる事情」があったという事は、この日に何かあって突発的に斬りつけたのだともとれる。少なくとも以前からこの日に斬りつけようと計画したわけではないと思われる<ref name="yamamoto2013-14" />。
赤穂藩の医師である[[寺井玄渓]](てらいげんけい)は円山会議以前から浪士たちの活動を支えており<ref name="taniguchi159">[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p159</ref>、討ち入りに参加したいという意思を持っていたが<ref name="taniguchi159" />、玄渓は武士でないという理由により、内蔵助に断られている<ref name="taniguchi159" />。
 
一方、『元禄世間話風聞集』には刃傷事件に居合わせた茶坊主のものとされる文書が残っており、これによれば内匠頭は「小用に立つ」といって席を立ち、大廊下を通り、「覚えたか」といって上野介に切りかかったという<ref name=":3">[[赤穂事件#野口(2015)|野口(2015)]] p80</ref>。これを信じれば、吉良から悪口(があったかどうかは不明であるが仮にあったとして)を言われた直後にカッとなって刃傷におよんだわけではなく、悪口のあと多少なりとも時間をかけた後に切りかかったことになる<ref name=":3" />。
==== 高田郡兵衛 ====
 
2016年12月には、[[京都]]の[[西本願寺]]で事件直後に記した古文書が発見され、そこには「浅野内匠頭殿 乱心」「浅野内匠頭殿の乱心の様子を承りたい」とあり、乱心説は刃傷事件直後の時点で既に有力な説として存在したことは事実のようである<ref>{{Cite web|和書|title=刃傷事件:「浅野内匠頭殿 乱心」 京都・西本願寺で文書発見 真相は……やはり謎 |url=https://mainichi.jp/articles/20161203/ddm/012/040/069000c |website=毎日新聞 |accessdate=2021-06-17 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「吉良殿、お痛み軽く」西本願寺が上野介聴取 忠臣蔵記録、本願寺史料研究所で見つかる |url=https://www.sankei.com/article/20161203-HL2747F76BOCXDF3MQMMOQX3RE/ |website=産経ニュース |date=2016-12-03 |accessdate=2021-06-17 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。<!-- 出典がないのでコメントアウト
[[高田郡兵衛]](たかだぐんべえ)は討ち入りに参加した[[堀部武庸|堀部]]、[[奥田重盛|奥田]]と同じ堀内道場の同門であった<ref>[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p167</ref>ためか、江戸急進派の一人としてこの二人とともに行動し、吉良を討つよう大石に迫っていたにもかかわらず、脱盟した。
{{要出典範囲|浅野内匠頭は刃傷の動機に「遺恨あり」と述べ、幕府もそれを採用したものの、遺恨の内容について何も語らないなど不自然な点が多く、実際には乱心であったとする説も根強い。理由を一切語らず(理由がないのに)遺恨ありと主張している浅野の態度のそのものが乱心であると解釈することも可能である。また、下記に記載する動機の諸説全て決定打に欠け、どの動機も不自然であるのだから[[消去法]]で乱心説を取ることも論理的には可能である。|date=2024/02/02}}
 
{{要出典範囲|仮に乱心説が正しいとすると、遺恨の内容を議論することは無意味となり、「悪役」であるはずの吉良が純然たる被害者ということにもなりかねないため、「忠臣蔵」作品ではまず採用されない。|date=2024/02/02}}
父方の伯父が高田を養子にしたいと言ってきたのを断りきれず、仲介にたった高田の兄が仇討ちの事を伯父を話さざるを得なくなったからである<ref name="yamab23saishikan">[[#山本(2012b)|山本(2012b)]]第二章3節「再仕官の悲劇と裏切り」</ref>。高田は堀部と相談し、伯父を納得させるために脱盟<ref name="yamab23saishikan" /> 。最初の脱盟者となった<ref>[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p400</ref>。元禄14年12月頃のことである<ref name>[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第三章四節「高田郡兵衛の脱盟」</ref> 。
 
{{要出典範囲|なお、下記の通り、乱心説を採用する場合でも、その原因を痞(つかえ)のみに求めるのは誤りである(持病説)|date=2024/02/02}}
高田は討ち入り後泉岳寺に向かう赤穂浪士達のもとに駆けつけたが、堀部以外の全員から無視された<ref name="yamab23saishikan" /> 。その後酒を持って赤穂浪士のいる泉岳寺にも行ったが、赤穂浪士からは「踏み殺してやりたい」と罵られた<ref name="yamab23saishikan" />。
-->
 
==== 萱野三平前回の勅使御馳走役の差 ====
浅野内匠頭はこの時二度目の勅使御馳走役であったが、それゆえ「前々の格式」にこだわりすぎ、そこから吉良との確執が生まれたのかもしれない<ref name="noguchi15" />。
 
また前回の勅使御馳走役の後、急激な物価上昇があったため、前回の額面が通用しなくなっていた<ref name="noguchi15" />。
[[萱野重実|萱野三平]](かやのさんぺい)の父は三平に他家への仕官の口を見つけてきた<ref name="yamab23saishikan" />。赤穂浪士の密命に参加したかった三平は仕官を固辞したものの父が仕官の内諾をもらってしまう<ref name="yamab23saishikan" />。板挟みになった三平は元禄15年1月14日、切腹で自害してしまった<ref name="yamab23saishikan" />。
浅野内匠頭が「前々の格式」にこだわりすぎたとすれば、物価上昇ゆえ、現実にそぐわないものになっていたであろうし、
 
風説にあるように吉良に「付届け」が必要だったとすれば、その額も物価上昇ゆえに少なすぎるものになっていたであろう。
==== 小山源五左衛門、進藤源四郎、大石孫四郎、奥野将監 ====
 
[[小山良師|小山源五左衛門]](こやまげんござえもん)、[[進藤俊式|進藤源四郎]](しんどうげんしろう)の二人は大石内蔵助の親戚で<ref name="taguchi32oishi" />、大石と常に行動を共にしてきた中核的なメンバーだった<ref name="miyazawaa134" />にも関わらず、浅野大学の処分が決まり、浅野家再興の望みがなくなると脱盟してしまった<ref name="taguchi32oishi">[[#田口(1998)|田口(1998)]] 第三章2節「大石ファミリー」</ref>。
 
なお小山は山科会議の際すでに消極的な姿勢を見せていたが、同時にその裏では堀部等急進派に同調するような書状も送っていた。それゆえ堀部等急進派は小山の事を信じ、大石をはずして小山を急進派の首領に担ぎあげようと画策していたのだが、山科会議での態度を見て堀部等急進派は激怒した<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p105</ref>。
 
同じく大石の親戚にあたる[[大石信興|大石孫四郎]](おおいしまごしろう)もその後の円山会議には出席したものの、そのまま脱盟した<ref name="taguchi32oishi" />。
 
実録物の『赤穂義士伝一夕話』では討ち入りと老母の世話とどちらをするか弟の大石瀬左衛門と籤を惹いたとあるが<!--p205-->、史実ではそのようなことはなく、大石孫四郎は脱盟により四十七士の一人である弟の[[大石信清|大石瀬左衛門]]から義絶されている<ref name="taguchi32oishi" />。
 
また小山源五左衛門の娘ユウは、四十七士の一人である[[潮田高教|潮田又之丞]]のもとに嫁いでいたのだが、源五左衛門の脱盟により実家に返され、源五左衛門ともども又之丞から義絶された<ref>[[#田口(1998)|田口(1998)]] 第三章2節「妻たちの苦悩」</ref>。
 
[[奥野定良|奥野将監]](おくのしょうげん)も大石の親戚で<ref name="miyazawaa134" />、城明け渡しの際最初に血判状に署名し、大石とともに幕府の対応にあたるなど、大石を支えてきたが、円山会議の後、もう一度お家再興の嘆願をすべきだと主張して脱盟した<ref name="miyazawaa134" />。
 
==== 橋本平左衛門 ====
 
浅野内匠頭の刃傷事件のとき18才だった[[橋本平左衛門]](はしもとへいざえもん)は赤穂浪士の密命に加わっていたが、大阪で蜆川の茶屋淡路屋の遊女「はつ」に入れあげ、2人で心中してしまった<ref name="taguchi51onna">[[#田口(1998)|田口(1998)]] 第五章1節「女でしくじった男の話」</ref><ref name="sasaki418">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p418</ref>。
 
2人の心中は元禄15年7月15日の事だとされる<ref name="taguchi51onna" />が、佐々小左衛門が早水藤左衛門にあてた手紙ではそれは11月の事だとある<ref name="sasaki418" />。
 
==== 小山田庄左衛門、田中貞四郎 ====
 
[[小山田庄左衛門]](おやまだしょうざえもん)は四十七士の一人である[[片岡源五右衛門]]から小袖と金三両を盗んで逃亡した<ref name="taguchi-oyamada">[[#田口(1998)|田口(1998)]] 第五章2節「 心乱るる庄左衛門」</ref>。深川会議のあった元禄15年11月2日のことであった<ref name="matsushima109" />。酒が原因で金に困っていたという<ref name="matsushima109">『忠臣蔵-その成立と展開-』松島栄一著 岩波新書 p109</ref>。
 
[[田中貞四郎]](たなかさだしろう)も酒の虜になり、その二日後に逃亡した<ref name="matsushima109" />。田中は病毒のため、顔まで変わっていたという<ref name="matsushima109" />。
 
庄左衛門の父である一閑は脱盟のことを知ると、刃で胸元から背後の壁まで突き通して自害した<ref name="taguchi-oyamada" /><ref>[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p365</ref>。
 
==== 渡辺半右衛門、中村清右衛門 ====
 
渡辺半右衛門は四十七士の一人[[武林隆重|武林唯七]]の兄にあたる人物である。渡辺は当初盟約に参加していたが、武林から自分に代わって両親の面倒を見てほしいと説得され、離脱している<ref>[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p123</ref>。
 
中村清右衛門は年老いた母を置いて盟約に加わったが、(老母の世話を頼んでいる人物と思われる)太郎左衛門が自殺を考えていると聞き、半ば脅迫のような形で討ち入りを断念させられた<ref>[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p124</ref>。
 
==== 瀬尾孫左衛門、矢野伊助 ====
 
内蔵助の家来である<ref>[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p126</ref>[[瀬尾孫左衛門]](せおまござえもん)は、山科で江戸行きを止められて立腹し、江戸までついてきた<ref>[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p131</ref>。そして内蔵助の東下りに先行して瀬踏み役をしたり平間村の仮宿を斡旋したりする活躍があったが<ref name="sasaki398" />、[[矢野伊助]](やのいすけ)とともに脱名<ref name="sasaki398">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p398</ref>。
 
二人の脱盟は元禄15年12月6日の事とされるが<ref name=yamamoto-52-datsumei />、『寺坂私記』によれば元禄15年12月12日に内蔵助留守中に矢野伊助とともに平間村から姿を消したとあり<ref name="sasaki398" /><ref>[[#赤穂義士史料上(1931)|赤穂義士史料上(1931)]] p263</ref>、
これが事実なら通常「最後の脱名者」とされる毛利小平太よりも後に脱名したことになる<ref name="sasaki398" />。
 
==== 毛利小平太 ====
 
[[毛利小平太]](もうりこへいた)はさる大名の下男になりすまして吉良邸に潜入し、世間で言うほど警備は強固でないという報告をもたらしたこともあるほどの男であった<ref name="noguchi140">[[#野口(1994)|野口(1994)]] p140</ref>。にもかかわらず討ち入り三日前の元禄15年12月11日に脱盟<ref name="noguchi140" />。最後の脱盟者となった。
 
同志たちは毛利が本当に脱盟したのか分からず、討ち入り前日になっても大石は毛利を同志の一人として数えていたという<ref name=yamamoto-52-datsumei />。
 
===吉良方===
 
====吉良上野介の親族====
 
吉良は上杉家と親戚関係を結んでいる。
 
妻の[[梅嶺院|富子]]は上杉家の出身であり、長男の三之助は上杉に養子にいき、家督を継いで[[上杉綱憲]]となっている<ref name="yamamotoa12kira">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第一章二節「吉良の家系」</ref>。
上杉綱憲は将軍[[徳川綱吉]]の孫娘と結婚しており、吉良は将軍家とも親戚関係にある事になる<ref name="yamamotoa12kira" />。
 
また吉良上野介は上杉家から養子の[[吉良義周|吉良左兵衛義周]]をもらっており、上野介が引退した際には左兵衛に家督を譲っている<ref>[[#山本(2013)|山本(2013)]] p67</ref>。
 
赤穂浪士討ち入りの際、左兵衛は薙刀を持って相手を傷つけたが、自身も額と腰から背中にかけて傷を負い、気絶した<ref name="yamamotoc159">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p159</ref>。その後気付いて父・上野介を探しに寝室に向かったが、上野介が見つからず、落胆してまた気絶している<ref name="yamamotoc159" />。
 
にもかかわらず左兵衛は「不届き」で「親の恥辱は子として遁れ難く」あるという理由で、信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けとなった<ref name="yamamotoc193">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p193-196</ref>。
そこで罪人だからと[[月代]]を剃る事すら許されない生活を送り、[[宝永]]3年に20歳ほどの若さで死んだ<ref name="yamamotoc193" />。
 
====小林平八郎====
 
[[小林平八郎]](こばやしへいはちろう)は『大河内文書』によれば、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際、逃げようとしたところを赤穂浪士達に捕らえられ、「上野介(義央)はどこか?」と聞かれたのに対して、「下々の者なので知らない」と答えるも、「下々が絹の衣服を着ているはずがない」と言われ、首を落とされたとしている<ref name="sasaki">佐々木杜太郎、赤穂義士顕彰会 『赤穂義士事典―大石神社蔵』 新人物往来社、1983年(昭和58年)。p385-386</ref>。
 
一方、赤穂方の落合与左衛門(瑤泉院付き用人)の書といわれる『江赤見聞記』には「小林平八は、槍を引っさげて激しく戦い、上野介をよく守ったが、大勢の赤穂浪士と戦ってついに討ち取られた」となっている<ref name="sasaki" />。
 
====山吉新八郎====
山吉(小牧)<ref name="sasaki439">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p439</ref>盛侍(やまよし もりひと)、通称[[山吉盛侍|山吉新八郎]](しんぱちろう)は吉良上野介の家臣<ref name="sasaki439" /> 、近習<ref name="sasaki439" />。(吉良義周の中小姓<ref name="sasaki439" />)。
 
赤穂浪士討ち入りの時負傷。その後吉良義周が幽閉されたとき左右田孫兵衛とともに付き従い、義周が亡くなるまで面倒をはじめとする見た<ref name="sasaki439" />。
 
====清水一学====
 
[[ファイル:Kikugorō Onoe V as Simizu Ichigaku.jpg|thumb|150px|[[:ja:尾上菊五郎 (5代目)|五代目尾上菊五郎]]扮する清水一学([[豊原国周]]画)]]
 
[[清水一学]](しみずいちがく)は、[[忠臣蔵]]のドラマなどでは剣の達人として伝わる人物。
 
実際には吉良家の中小姓<ref name="sasaki390">佐々木杜太郎、赤穂義士顕彰会 『赤穂義士事典―大石神社蔵』 新人物往来社、1983年(昭和58年)。 p390-391</ref>(用人<ref name="yamanoto">『山本博文 『これが本当の「忠臣蔵」赤穂浪士討ち入り事件の真相』 小学館101新書、2012年(平成24年)。ISBN 978-4098251346。 第六章三節「吉良側の人的損害」</ref><ref name="sasaki390" />)である。
『大河内文書』には吉良上野介と吉良義周にお供して、「少々戦いて討たれ候」とある<ref name="sasaki390" />。『江赤見聞記』によれば、当時四十歳で台所で死んだ<ref name="sasaki390" />。
 
なお、『吉良家分限帳』には隠居付近習七両三人扶持<ref name="sasaki390" />とあるが、『江赤見聞記』には「上野介用人、清水一学、台所口、四十歳」<ref name="sasaki390" />とあり、近習なのか用人なのか不明。
 
江戸時代の[[歌舞伎]]では実際の人物の名称を使うことが禁じられていたため、作中では「清水一角」 <ref name="iroha">『忠臣いろは実記』[http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/collections/search_each.do;jsessionid=40522BCF5A8349EB1D85B98E2AF4C924?division=collections&ititle=%E5%BF%A0%E8%87%A3%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%AF%E5%AE%9F%E8%A8%98&trace=result&istart=0&iselect=%E3%81%A1&ikana=%E3%81%A1%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%AF%E3%81%98%E3%81%A3%E3%81%8D&seq=1&class=bromide&mid=496&type=prog 文化デジタルライブラリー]</ref> 、「清水大学」<ref name="tokei">『四十七石忠箭計』[{{NDLDC|878921/380}} 近代デジタルライブラリー]</ref>などと
表現される。
 
===その他===
====梶川与惣兵衛====
 
[[梶川与惣兵衛]]は松之大廊下の事件に立ち会った人物で、梶川が吉良と立ち話をしているところに浅野が斬りかかってきたので、すぐさま梶川は浅野を取り押さえた。
この行動が幕府に評価されて500石加増になり、旗本になった<ref name="miyazawaa49">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p49</ref>。
 
しかし浅野の不幸をもとに旗本になった形なので、世間の評判は悪化した<ref name="miyazawaa49" />。
その為か梶川は後になって浅野の無念を慮るべきだったと後悔したが、しかしそのような議論は「朋友への義」に過ぎず、「上」に対してはこのような議論は無用だと弁明している<ref name="miyazawaa49" />。
 
== 刃傷の理由 ==
 
===遺恨に関して===
 
浅野内匠頭は刃傷に及んだ理由を説明していない為、刃傷の原因は今日に至るまで不明である。
 
原因は何らかの「遺恨」にあるとされ、『梶川与惣兵衛筆記』の写本によっては内匠頭は刃傷の際「此間の遺恨、覚えたるか」と言ったと書いてあるし、『多門伝八郎覚書』には、多門が近藤平八郎と共に内匠頭を事情聴取したとき、内匠頭は一言も申し開きもないとした上で次のように述べたという<ref name="taniguchi-30">[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p30</ref>
:「私的な遺恨から前後も考えず、上野介を討ち果たそうとして刃傷に及んだ。どのような処罰を仰せつけられても異議を唱える筋はない。しかし上野介を打ち損じたことは残念である」<ref name="taniguchi-30" />
 
また浅野内匠頭は事情聴取に対し「乱心ではありません。その時、何とも堪忍できないことがあったので、刃傷におよびました」と答えている<ref>[[#山本(2013)|山本(2013)]] p18</ref>。
 
一方、吉良の方は全く身に覚えがないとしている<ref name="yamamotoc14" />。
しかし身に覚えがあると言えば立場が悪くなるのは目に見えているので、身に覚えがあったとしても隠してこのようにいうであろう<ref name="yamamotoc14" />。
 
四十七士の一人堀部弥兵衛が討ち入り前に書いた『堀部弥兵衛金丸私記』には以下のように原因が吉良の悪口にあると記している:
 
:伝奏屋敷において、吉良上野介殿品々悪口(あっこう)共御座候へ共、御役儀大切に存じ、内匠頭堪忍仕り候処、殿中において、諸人の前に武士道立たざる様に至極悪口致され候由、これに依り、其の場を逃し候ては後々までの恥辱と存じ、仕らすと存じ候<ref name="yamamotoc14" />。
:伝奏屋敷で、吉良上野介殿がいろいろと悪しざまにおっしゃりました。御役儀を大切に考え、内匠頭は堪忍しておりましたが、殿中において、諸人を前にして武士道が立たないようなひどいお言葉をかけられましたので、そのままにしておくと後々までの恥辱と思い、斬りかけたものと存じております
 
内匠頭が吉良に「武士道立たざる様に至極悪口」を言われたのはおそらく刃傷事件当日だろうから堀部弥兵衛がどこまで事情を知っていたか疑問ではあるが、少なくとも家臣達にはそのように言われたと信じていたのだろう<ref name="yamamotoc14" />。
 
なお堀部弥兵衛は続けて「悪口は殺害同様の御制禁」と書いており、吉良がその御制禁を犯したから内匠頭はそれに応じたまでだとしている<ref name="yamamotoc14" />。
実際、この時代悪口は明文化されてないものの「殺害同様の御制禁」たった<ref name="yamamotoc14" />。
 
===刃傷は突発的なものか===
 
梶川与惣兵衛によれば、刃傷の少し前に梶川が浅野と話した時には特に異変を感じていなかったといい<ref name="noguchi55">[[#野口(1994)|野口(1994)]] p55</ref>、刃傷は突発的犯行だった事が推測される<ref name="noguchi55" />。実際、刃傷の無計画さはよく指摘され、吉良を仕留めるのであれば、切りかかるのではなく刺し殺すべきで<ref name="noguchi55" />、江戸城における過去の刃傷事件では、小刀で刺す事により、相手を仕留めている<ref name="noguchi55" />。
 
また田村邸に預けられた浅野内匠頭は家臣に次のように伝えてほしいと依頼したという(『御預一件』)
: 此段、兼ねて知らせ申すべく候ども、今日やむを得ざる事故、知らせ申さず候、不審に存ずべく候<ref name="yamamotoc14">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p14-16</ref>
:(このことは予め知らせておくべきだったが、今日やむを得ざる事情で知らせる事ができなかった。不審に思うだろう)
 
「今日やむを得ざる事情」があったという事は、この日に何かあって突発的に斬りつけたのだともとれる<ref name="yamamotoc14" />。少なくとも以前からこの日に斬りつけようと計画したわけではないと思われる<ref name="yamamotoc14" />。
 
====賄賂====
 
当時の文献には吉良が暗に賄賂を要求したのに浅野内匠頭が十分な賄賂をおくらなかった事が両者の不和の原因だとするものがある。
899 ⟶ 900行目:
賄賂に関して書かれた文献には例えば『江赤見聞記』の一巻があり、以下のように記されている:
 
: {{quotation|上野介欲ふかき人故、前々御務めなされ候御衆、前廉より御進物等度々これ有る由に付き、喜六、政右衛門、御用人どもまで申し達し、御用人共も度々その段申し上げ候処、内匠頭様仰せにも、御馳走御用相済み候上にてはいか程もこれを進らせらるべく候、前廉に度々御音物これ有る儀は如何しく思し召され候由、仰せられ候。尤も、格式の御付届けの音物は前廉に遣わされ候由也<ref name="yamamotoc21" />。<br><br>
: (上野介は欲が深い人なので、以前に御勤めなさった方も、前もって御進物等を度々していたので、喜六や政右衛門、御用人たちまで伝え、御用人たちも度々その段を申し上げたけれども、内匠頭様は「御馳走御用が済んだ後にはどれほどでも進(まい)らせたいと思う。しかし、前もって度々御進物を贈るのは、如何かと思う」と仰せられました。もっとも、決まった御付届けの進物は前もって遣わされていたということです)}}
 
文中にある「喜六、政右衛門」は建部喜六(250石)と近藤政右衛門(250石)で、ともにこうした折衝にあたる江戸留守居役である<ref name="yamamotoc21" />。
906 ⟶ 907行目:
また事件直後に書かれた『秋田藩家老岡本元朝日記』にも次のようにある
 
:{{quotation|吉良殿日頃かくれなきおうへい人ノ由。又手ノ悪キ人二て、且物を方々よりこい取被成候事多候由。先年藤堂和泉殿へ始て御振舞二御越候時も、雪舟ノ三ふく対御かけ候へハ則こひ取被成候よし。ケ様之事方々二て候故、此方様へ御越之時も御出入衆内々二て、目入能御道具被出候事御無用と御申被成候由二候<ref name="yamamotoc21" /><ref name="yamab1kihon">[[#山本(2012b)|山本(2012b)]] 序章「基礎史料と事件の経過」</ref>。
<br><br>
:(吉良殿は平成有名な横柄人人だということです。また手の悪い人で、方々から物をせびりなさる事が多いということです。先年藤堂和泉殿(高久、伊勢津藩主)へはじめて御振舞に御越になった時も、雪舟の三幅対の御掛け軸をかけたところ、せびって自分の物にしたということです。このような事を方々でなされるので、こちら様へ御越の時も御出入の旗本衆が内々に、よい御道具は出されない方がよいと御申しなされたという事です。
(吉良殿は平生有名な横柄人だということです。また手の悪い人で、方々から物をせびりなさる事が多いということです。先年藤堂和泉殿(高久、伊勢津藩主)へはじめて御振舞に御越になった時も、雪舟の三幅対の御掛け軸をかけたところ、せびって自分の物にしたということです。このような事を方々でなされるので、こちら様へ御越の時も御出入の旗本衆が内々に、よい御道具は出されない方がよいと御申しなされたという事です。
}}
 
ただしこの記事は事件直後のものなので、内匠頭への同情が入っているかもしれない<ref name="yamamotoc21" />。
913 ⟶ 916行目:
尾張藩士の朝日重章も『鸚鵡籠中記』に次のように記している:
 
:{{quotation|吉良は欲深き者故、前々皆音信にて頼むに、今度内匠が仕方不快とて、何事に付けても言い合わせ知らせなく、事々において内匠齟齬すること多し。内匠これを含む。今日殿中において御老中前にて吉良いいよう、今度内匠万事不自由ふ、もとより言うべからず、公家衆も不快に思さるという。内匠いよいよこれを含み座を立ち、その次の廊下にて内匠刀を抜きて詞を懸けて、吉良が烏帽子をかけて頭を切る<ref name="yamamotoc21" />
<br><br>
:(吉良は欲が深い者なので、前々から皆贈り物をして物を頼んでいたが、今度の内匠頭のやり方が不快だということで、何事につけても知らせをせず、内匠頭が間違って恥をかくことが多かった。内匠頭はこれを遺恨に思って座を立ち、その次の廊下で、刀を抜き、声を懸けて吉良の烏帽子ごと頭を斬った)
(吉良は欲が深い者なので、前々から皆贈り物をして物を頼んでいたが、今度の内匠頭のやり方が不快だということで、何事につけても知らせをせず、内匠頭が間違って恥をかくことが多かった。内匠頭はこれを遺恨に思って座を立ち、その次の廊下で、刀を抜き、声を懸けて吉良の烏帽子ごと頭を斬った)
}}
 
朝日は当時名古屋にいたから、これが全国的に広まった噂なのであろう<ref name="yamamotoc21" />。
ただし、『鸚鵡籠中記』は英邁と言われた[[徳川吉通]]<ref>公益財団法人徳川黎明会『圓覺院様御伝二十五箇条』</ref>を「愚行を繰り返す暗君」と評するなど、いわば主君を侮辱する「不忠臣」のような記述が多く、尾張藩では[[禁書]]扱い<ref>『鸚鵡籠中記』の存在が世に知られるようになったのは[[昭和]]40年代になってからである。</ref>で尾張徳川家では公式資料とはされていない<ref>徳川林政史研究所『金鯱叢書 第7輯(昭和54年度)』より「『鸚鵡籠中記』の再検討-編纂書的性格と成立の経緯-」。 </ref>。
 
==== 浅野内匠頭のストレス ====
 
『冷光君御伝記』{{refn|group="注釈"|広島藩歴代藩主の世紀『済美録』中の浅野赤穂分家の記録<ref name="noguchi2015-3-2-naniga">[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第三章2節の「なにが内匠頭をカッとさせたか」より</ref>。「冷光君」は浅野内匠頭の法名<ref name="noguchi2015-3-2-naniga" />。}}によれば、浅野内匠頭は勅使御馳走役が嫌で仕方がなかったらしく、「自分にはとても勤まらない」と述べている<ref name="noguchi15">[[#野口(1994)|野口(1994)]] p15</ref>。
御馳走役はほぼ家中をあげて準備をしなければならず、接待費は藩ですべて持たねばならず、しかも典礼の詳細は高家肝煎である吉良の指図を受けねばならないなど、ストレスの溜まる仕事であった<ref name="noguchi15" />。特にこの年は、綱吉が最愛の母を慣例に反してまで[[従一位]]に推そうとしていたため、綱吉は公家の接待に熱心であり、例年よりも緊張を強いられた<ref>[[#野口(2015)|野口(2015)]] p69-70</ref>。
 
『冷光君御伝記』によれば、浅野内匠頭は勅使御馳走役が嫌で仕方がなかったらしく、「自分にはとても勤まらない」と述べている<ref name="noguchi15">[[#野口(1994)|野口(1994)]] p15</ref>。
御馳走役はほぼ家中をあげて準備をしなければならず、接待費は藩ですべて持たねばならず、しかも典礼の詳細は高家肝煎である吉良の指図を受けねばならないなど、ストレスの溜まる仕事であった<ref name="noguchi15" />。
また内匠頭は11日ころから持病の痞(つかえ、詳細後述)が出るなど、心身に不調をきたしていた<ref name="noguchi15" />事もストレスの表れかもしれない。
 
こうしたストレスが爆発して、刃傷に及んだのかもしれない<ref name="noguchi15" />。
 
==== 浅野内匠頭の性格 ====
===前回の勅使御馳走役の差===
 
浅野内匠頭はこの時二度目の勅使御馳走役であったが、それゆえ「前々の格式」にこだわりすぎ、そこから吉良との確執が生まれたのかもしれない<ref name="noguchi15" />。
 
また前回の勅使御馳走役の後、急激な物価上昇があった為、前回の額面が通用しなくなっていた<ref name="noguchi15" />。
浅野内匠頭が「前々の格式」にこだわりすぎたとすれば、物価上昇ゆえ、現実にそぐわないものになっていたであろうし、
風説にあるように吉良に「付届け」が必要だったとすれば、その額も物価上昇ゆえに少なすぎるものになっていたであろう。
 
===浅野内匠頭の性格===
 
吉良を治療した金瘡外科の栗崎道有は『栗崎道有記録』で「我慢できない事でもあったのか、内匠頭は普段から短気な人間だったというが、上野介を見つけて小さ刀で抜き打ちに眉間を切りつけた」と述べ<ref name="taniguchi20">[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p20-21</ref>、さらに内匠頭と上野介の人間関係はかねてからよくなかったと記している<ref name="taniguchi20" />。
 
『土芥寇讎記』という、元禄3年時点での大名の家計、略歴、批評等を書いた本には「内匠頭は智のある利発な人物で、家臣の統率もよく領民は豊かである。しかし女好きが激しく、内匠頭好みの女性を見つけてきた者が立身出世し、女性の血縁者も禄をむさぼるじょうたいにある。昼夜を問わず女色に耽っており、政治は家老に任せきたままだ」とある<ref name="taniguchi21" />。
 
そして同書は大石内蔵助と藤井又左衛門を主君の内匠頭を諫めない不忠な家臣としている<ref name="taniguchi21">[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p20-21</ref>。
947 ⟶ 946行目:
幕府は当初、内匠頭が乱心したと思い、外科の栗崎道有を呼んだが、結局乱心ではないと判断されたため、治療の判断を上野介にゆだね、治療費は上野介の自費になった<ref name="taniguchi31" />。
 
<!--出典がないのでコメントアウト
===否定された理由===
==== 刃傷事件の裁定の妥当性について ====
{{出典の明記| date = 2024年2月| section = 1}}
 
松之大廊下における刃傷事件に対して、加害者である浅野内匠頭は切腹となった一方、吉良上野介はお咎めなしとされた。この幕府の裁定を巡り、吉良側も[[喧嘩両成敗]]によって何らかの処分を受けるべきではないか、といった意見があり、旧赤穂藩士による討ち入りや、その後の「忠臣蔵」作品における浅野・赤穂藩士サイドを擁護する理由付けになった。
====吉良のいじめ====
 
[[喧嘩両成敗]]は、常に帯刀している武士の間では口げんかが容易に抜刀、刃傷沙汰になり、さらにその影響が、家族・親類・家臣・知人にまで波及しかねない危険をはらんでいたことから、喧嘩が発生したこと自体を罪とし、双方を罰することにより、喧嘩に対する抑止力として定められたものである。今回のケースでは、事件発生時には二人は現場で一切言葉を交わさないまま浅野が吉良に一方的に切りつけ、吉良は抜刀、応戦せずにそのまま逃げようとしており、現場証拠だけでは吉良は浅野に対して一切の敵意を示していない。この意味では、喧嘩両成敗は成立しない。
 
しかし、浅野が切りつけた理由が遺恨によるものであり、その「遺恨」の内容が、浅野が切りつけるに足る程度のものであったならば、「遺恨」と刃傷とをあわせて「喧嘩」とみなされ、吉良にも処分が下るべき、ということになる。そのため、今回のケースで裁定を下すには、「遺恨」の内容が重要になってくる。
 
幕府は刃傷直後に浅野、吉良双方に聴取を行ったが、いずれも、遺恨について具体的に口にしなかった。刃傷事件という重大事を起こしたにも関わらず、具体的な遺恨の内容および吉良側の落ち度を浅野が主張しなかったのは明らかに不自然であるが、何故動機を具体的に主張しなかったのかもまた不明である。
 
ともあれ、浅野は最期まで遺恨の内容を主張せずに切腹したため、遺恨の内容について当事者からは語られないままであり、公式にも「動機は不明」である。
 
また、浅野の「乱心」の可能性もあるが、浅野本人は「乱心ではない」と供述しており、幕府側もこれを認めている。ただしこれは乱心説そのものを否定するものではなく、乱心説も刃傷事件直後の時点から既に存在していた(後述)
-->
 
==== 否定された理由 ====
 
===== 吉良のいじめ =====
[[File:Zojoji-temple sep2006.jpg|thumb|畳替えのいじめがあったとされる[[増上寺]]の山門]]
史実に俗説を取り交えて書かれた<ref name="miyazawa26" />『赤穂鍾秀記』(元禄16年元加賀藩士の杉本義鄰著)の憶測によれば、吉良は元来奢侈で利欲深く、いつも過言し、「付届け」の少ない者には指図を疎かにしたり陰口をたたいたりする人物であったという<ref name="miyazawa26">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p26-33</ref>。
 
同書によれば、浅野が吉良に付届けをしなかったので吉良は不快に思い、浅野が勅使をどこで迎えるべきかと吉良に問うたところ、「そんな事は前もって知っておくべきだ」と嘲笑し、「あのような途方もないことをいう人間にごちそう人が勤まるか」と少し声高に雑言したという<ref name="miyazawa26" />。同書はさらに、勅使が休憩する増上寺宿坊の畳替えを吉良が指示せず浅野内匠頭が危うく失態を招きそうになったという話や、「吉良から無礼な事をされても堪忍すべきだ」と親友の加藤遠江守から浅野が忠告されたという話が載っている<ref name="miyazawa26" />。
 
959 ⟶ 976行目:
梶川が「勅答の礼が終わったら連絡してほしい」と浅野に伝えると、吉良は横から口を挟み、「相談は私にすべきだ。そうでないと不都合が生じるでしょう」と浅野を侮辱し、さらに吉良が「田舎者は礼を知らない。またお役目を辱めるだろう」と追い打ちをかけた為、浅野は刃傷に及んだという<ref name="miyazawa26" />。
 
他にも江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』の元禄十四年(1701年)三月十四日条には、
しかしこうした記述は刃傷の場に居合わせた梶川与惣兵衛の書いた『梶川与惣兵衛筆記』の記述と矛盾しており、「大胆な虚構」に基づいて書かれたものである<ref name="miyazawa26" />。
 
{{quotation|世に伝ふる所は、吉良上野介義央歴朝当職にありて、積年朝儀にあづかるにより、公武の礼節典故を熟知精練すること、当時その右に出るものなし。よって名門大家の族もみな曲折してかれに阿順し、毎事その教を受たり。されば賄賂をむさぼり、其家巨万をかさねしとぞ。長矩は阿諛せす、こたび館伴奉りても、義央に財貨をあたへざりしかば、義央ひそかにこれをにくみて、何事も長矩にはつげしらせざりしほどに、長矩時刻を過ち礼節を失ふ事多かりしほどに、これをうらみ、かゝることに及びしとぞ}}
 
とあり、吉良が行っていたいじめに関して、当時から公然と認知されていた事が窺える{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
 
しかしこうした記述は刃傷の場に居合わせた梶川与惣兵衛の書いた『梶川与惣兵衛筆記』の記述と矛盾しており、「大胆な虚構」に基づいて書かれたものである<ref name="miyazawa26" />。<!--
出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|しかし刃傷沙汰当日の記述に相違がある事だけから「吉良のいじめ」自体が無かったとするのには無理がある。|date=2024/02/02}}
-->
 
また忠臣蔵のドラマ等では、吉良による以下のような苛めが描かれるが、佐々木杜太郎はこれに対して反証をしている。
966 ⟶ 992行目:
* 殿中での服装は本来、烏帽子大紋なのに、長上下を身に着けるべきだと吉良が内匠頭に嘘をついた、というもの。しかし内匠頭は2度目の御馳走役なのだから、服装に関してはすでに知っているはずであり、信憑性に乏しい<ref name="sasaki26" />。
* 伝奏屋敷に墨絵の屏風が置いてあったが、吉良から難癖をつけられたので、あわてて金屏風に取り換えた、というもの。史実としても刃傷後に伝奏屋敷に引き取りに行った道具の目録に金屏風がある<ref name="sasaki26" />。しかし天保8年の文献に「伝奏屋敷は前々から金屏風であった」と書いてあり、初めから金屏風があったものと思われる<ref name="sasaki26" />。しかも内匠頭は2度目の御馳走役なのだから、この辺も熟知していたはずである。
* 老中の連名の奏書を吉良が内匠頭に見せなかったというもの。信夫恕軒の『義士の真相』などに載っている説である<ref name="sasaki26" />が、事件の場に立ち会った梶川与惣兵衛による『梶川与惣兵衛筆記』には奏書の事は書いておらず<ref name="sasaki26" />、信憑性に乏しい。<!--
出典がないのでコメントアウト
 
{{要出典範囲|一方で、先述の繰り返しとなるが、吉良上野介によるこうした侮辱的ないじめ行為があり、耐えに耐えかねて刃傷におよんだというのであれば、何故浅野がそれらを幕府に訴えなかったのかという疑問や、そうしたいじめを公然と認知していたというのであれば、何故幕府が吉良に対して注意をしたり、責任を問いただしたりしなかったのかという疑問は依然として残されたままである。|date=2024/02/02}}
====持病説====
-->
 
===== 持病説 =====
浅野内匠頭は3月11日未明に勅使一行が到着してから心身に不調をきたしており持病の痞(つかえ)が出たと『冷光君御伝記』にある<ref>[[#野口(1994)|野口(1994)]]p22</ref>。
 
978 ⟶ 1,007行目:
宮澤誠一も、「痞」が精神発作を起こしたという説を、「単なる推測の域を出ない」ものとしている<ref name="miyazawa26" />。
 
また浅野内匠頭の母の弟である内藤和泉守忠勝も延宝八年に殺害事件を起こしている<ref name="yamamoto13takumi-hyouban">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第一章三節「内匠頭の評判」</ref>ため、浅野内匠頭も刃傷を起こしやすい血縁にあったという説があり、『徳川実』にも母方の伯父(つまり内藤和泉守)が狂気の者であったと記しているが<ref name="akou26">[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]] 第一巻p26-27</ref>、この説は「そう考えれば考える事もできる」という程度のものである<ref name="yamamoto13takumi-hyouban" />。
しかも『徳川実』は江戸後期に編纂されたもので、必ずしも当時の記録によったものではない<ref name="akou26" />。
 
仮にこうした持病説が正しいとしても、それは事件を及ぼす為の要因の一つであってもそれだけで事件の原因を十分説明しきれるものではない<ref name="akou26" />。
 
===== 塩の生産をめぐる対立 =====
[[File:141115 Ako Marine Science Museum Hyogo pref Japan14bs5.jpg|thumb|赤穂の塩田([[赤穂市立海洋科学館]])]]
 
浅野内匠頭と吉良上野介の確執の原因は、赤穂と吉良地方における[[塩]]の製法や販路の問題で対立った事が原因とすという説がある。
 
吉良地方に古くから伝わる伝説<ref name="akou25">[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]] 第一巻p25-26</ref>によれば、吉良上野介が自身の知行所で塩田を開発しようとして、塩の生産で有名な赤穂藩に隠密を放った。隠密は赤穂藩でとらえられたが何とか逃げ帰り、吉良領に赤穂の入浜塩田の技術を伝えたという<ref name="akou25" />。
991 ⟶ 1,020行目:
また昭和22年に田村栄太郎の書いた『裏返し忠臣蔵』でも塩に関する対立説を扱っており<ref name="akou25" />、昭和29年には吉良出身の作家の[[尾崎士郎]]も随筆『きらのしお』でこの説を唱え<ref name="sukkiri">『<元禄赤穂事件と江戸時代>スッキリ解決! 忠臣蔵のなぜと謎 (歴史群像デジタルアーカイブス)』今井敏夫 「浅野と吉良の間に塩問題は存在したか?」</ref>、他にも[[海音寺潮五郎]]や[[南條範夫]]もこの説に沿った本を出している<ref name="akou25" />。
 
史実においても当時赤穂が塩田の技術で全国をリードしていたのは事実であるが<ref name="akou25" />、この技術は決して秘密にされていたわけではない<ref name="akou25" />。事実、赤穂の技術瀬戸内海各地に急速に広まっていったし<ref name="akou25" />、仙台藩が塩業技術者を依頼してきたときも赤穂藩はこれに応じており<ref name="akou25" />、吉良との間に塩業で確執が生まれるはずがない<ref name="akou25" />。
 
また赤穂の塩が主に大阪商人にりさばかれ、50%は江戸に送られていたのに対し、吉良産<ref name="名前なし_8-20240629115709">[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第一章1節「赤穂銀札」</ref>{{refn|group="注釈"|江戸では饗庭赤穂の下り塩」と呼ばれ「江戸初期の承応年間(一六五二~一六五五)にすでに塩船河など東海方面百層が江戸に約五十万俵運んいたと伝えられておりる。元禄期(一六八八~一七〇四)にはさらに発展したことだろう」<ref name="genroku91名前なし_8-20240629115709" />、販路。吉良の塩は産出量の点でも直接品質点でも劣っており赤穂とはとても関係にない<ref name="genroku91">[[#元禄(1999)|元禄(1999)]]p91 p.91</ref>。
 
一方、赤穂藩の[[塩田]]開発が飛躍的に向上するのは[[森氏|森家]]時代になってからで、浅野時代の生産高はその10分の1にも満たない<ref name="名前なし-20230316133402">「赤穂城下町跡発掘調査報告書」(2005年、赤穂市教育委員会)p9</ref>とするものもある。
====浅野内匠頭任官のときからの遺恨という説====
}}、吉良産の「饗庭塩」は三河など東海方面で売られており<ref name="genroku91" />、販路の点でも直接の競合関係にない<ref name="genroku91">[[#元禄(1999)|元禄(1999)]]p91</ref><!--
 
出典として上がっている[[#元禄(1999)|元禄(1999)]] p.91を確認したが、「大衆塩」「将軍家や朝廷への献上塩」という記述がないのでコメントアウト。
『赤城盟伝』には「上野介に宿意あるは一朝一夕の事ではない。ずっと前からの事である」と書いてあり、この「ずっと前の宿意」が寛文11年浅野内匠頭が将軍家綱にはじめてお目通りした際、その場にいた上野介が内匠頭を侮辱したものだとするもの<ref name="sasaki26">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p26-42</ref>。『赤穂記』にこの説が書いてあるが、寛文11年の段階では内匠頭は5才であり、この説には信憑性がない<ref name="sasaki26" />。
 
また赤穂の塩が主に大阪で売られていた庶民に広く普及した大衆塩なのに対し、吉良産の「饗庭塩」は三河など東海方面で売られて、将軍家や朝廷への献上塩ともなる高級塩であり<ref>「旧糟谷縫右衛門住宅」説明(愛知県西尾市吉良町荻原)</ref><ref name="genroku91" />、販路・商圏の点でも直接の競合関係になかったとされる<ref name="genroku91">[[#元禄(1999)|元禄(1999)]]p91</ref>。-->
====衆道に関する怨恨====
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出典がないのでコメントアウト
{{要出典範囲|そもそも義央が刃傷事件に遭遇した元禄14年以前に開発された三河国幡豆郡の塩田は本浜および白浜のみで、このうち本浜塩田が所在する吉田村は甘縄藩松平領、白浜塩田が所在する富好外新田村は幕府領でいずれも吉良領ではない。当然ながら吉良家の歴史の中で塩作りを行ったという記録は無い。|date=2024/02/02}}
-->
 
===== その他の俗説 =====
浅野内匠頭のお気に入りの美しい小姓の日比谷右近を吉良上野介が懇望したが、断られたため確執ができたという説。
[[赤穂事件#佐々木(1983)|佐々木(1983)]]は下記の俗説を紹介している。
 
* '''浅野内匠頭任官のときからの遺恨という説''':『赤城盟伝』には「上野介に宿意あるは一朝一夕の事ではない。ずっと前からの事である」と書いてあり、この「ずっと前の宿意」が寛文11年浅野内匠頭が将軍家綱にはじめてお目通りした際、その場にいた上野介が内匠頭を侮辱したものだとするもの<ref name="sasaki26">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p26-42</ref>。『赤穂記』にこの説が書いてあるが、寛文11年の段階では内匠頭は5才であり、この説には信憑性がない<ref name="sasaki26" />。
『誠忠武艦』という「幕末に成立した赤穂事件の経緯を真偽取交ぜてのべた」<ref>『忠臣蔵の世界: 日本人の心情の源流』 諏訪春雄 大和書房, 1982年。p69</ref>文献にこの説がでている<ref name="sasaki26" />。また『正史実伝いろは文庫』の十三回にも同じ話が載っている<ref>[[#忠臣蔵文庫(1912)|忠臣蔵文庫(1912)]]</ref>。
* '''衆道に関する怨恨''':浅野内匠頭のお気に入りの美しい小姓の日比谷右近を吉良上野介が懇望したが、断られたため確執ができたという説『誠忠武艦』という「幕末に成立した赤穂事件の経緯を真偽取交ぜてのべた」<ref>『忠臣蔵の世界: 日本人の心情の源流』 諏訪春雄 大和書房, 1982年。p69</ref>文献にこの説がでている<ref name="sasaki26" />。また『正史実伝いろは文庫』の十三回にも同じ話が載っている<ref>[[#忠臣蔵文庫(1912)|忠臣蔵文庫(1912)]]</ref>。しかし[[福本日南]]は「吉良上野介は61歳の白髪翁、最早若い衆の争いでもあるまい」としている<ref name="sasaki26" />。
* '''茶器に関する怨恨''':浅野家伝来の「狂言袴」という茶入れを吉良が欲しがったが、断られたため確執ができたとする説。これは「余程後世になっていい出された説」<ref name="sasaki26" />で、高山喜内の『元禄快挙義士の真相』に載っている<ref name="sasaki26" />。
* '''一休の書画の鑑定に関する怨恨''':浅野内匠頭と吉良が茶会で出会い、山田宗徧が持ってきた一軸を吉良が「一休の真筆だ」といったところ、内匠頭がそうでない証拠を出して吉良をやり込めたので、確執ができたとする説<ref name="sasaki26" />。実録本の『赤穂精義参考内侍所』<!--p5-->に載っている説である。しかしこの話は史料にはみあたらず、しかも浅野内匠頭と吉良が茶会で平素から交流があったとしており、事実とは考えにくい<ref name="sasaki26" />。
* '''内匠頭の謡曲''':明治末期に著された小野利教の『赤穂義士真実談』にでている話<ref name="sasaki26" />。元禄13年に内匠頭が謡曲[[熊野 (能)|熊野]]を舞ったところ、上野介から「クセがよくない」と非難を受けた事を内匠頭が根に持ったとするもの<ref name="sasaki26" />。これも一休の書画と同じ理由で信憑性がない<ref name="sasaki26" />。
 
=== 寺坂吉右衛門問題{{Anchors|寺坂吉右衛門に関する問題}} ===
しかし[[福本日南]]は「吉良上野介は61歳の白髪翁、最早若い衆の争いでもあるまい」としている<ref name="sasaki26" />。
 
====茶器に関する怨恨====
 
浅野家伝来の「狂言袴」という茶入れを吉良が欲しがったが、断られたため確執ができたとする説。
 
これは「余程後世になっていい出された説」<ref name="sasaki26" />で、高山喜内の『元禄快挙義士の真相』に載っている<ref name="sasaki26" />。
 
====一休の書画の鑑定に関する怨恨====
 
浅野内匠頭と吉良が茶会で出会い、山田宗徧が持ってきた一軸を吉良が「一休の真筆だ」といったところ、内匠頭がそうでない証拠を出して吉良をやり込めたので、確執ができたとする説<ref name="sasaki26" />。
 
 
実録本の『赤穂精義参考内侍所』<!--p5-->に載っている説である。
 
しかしこの話は史料にはみあたらず、しかも浅野内匠頭と吉良が茶会で平素から交流があったとしており、事実とは考えにくい<ref name="sasaki26" />。
 
====内匠頭の謡曲====
 
明治末期に著された小野利教の『赤穂義士真実談』にでている話<ref name="sasaki26" />。
 
元禄13年に内匠頭が謡曲[[熊野 (能)|熊野]]を舞ったところ、上野介から「クセがよくない」と非難を受けた事を内匠頭が根に持ったとするもの<ref name="sasaki26" />。
これも一休の書画と同じ理由で信憑性がない<ref name="sasaki26" />。
 
== 寺坂吉右衛門問題 ==
 
四十七士のひとりである寺坂吉右衛門は討ち入りに加わったにも関わらず、泉岳寺に引き上げた時には姿を消していた。
これは古来から謎とされており、逃亡したという説から密命を帯びて消えたという説まで様々である。
 
==== そもそも討ち入りに参加しているか ====
 
今日、寺坂が姿を消したのは討ち入りには加わったも引き上げその後姿を消したのだと考えられているが、事件当時の資料にはそもそも討ち入りに参加していないとするものもある。例えば、内蔵助、原惣右衛門、小野寺十内が連名で寺井玄溪に出した書状には
 
*(1)「寺坂吉右衛門の儀、十四日暁迄これ在るところ、彼屋敷へは相来たらず候、かろきものの儀、是非に及ばず候」<ref name="akou215">[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]]第一巻 p215-219</ref>
1,047 ⟶ 1,062行目:
そして(1)の書状に関しては、寺坂が公儀の追及から逃れられるように討ち入りに参加しなかったと嘘をついたのではないかとしている<ref name="akou228" />。
 
また八木哲浩は寺坂が引き上げの早い段階で離脱したのだと推測しており<ref name="akou215" />、その理由として『寺坂信行筆記』には引き上げの記述が短い事と、寺坂の主人である吉田忠左衛門が仙石邸に行った事実が記載されていない事を挙げている。さらに『寺坂信行筆記』の「新大橋へ係り」という記述も理由として挙げている。というのも実際には引き上げの際に新大橋を通ってないし<ref name="akou215" />、仮にこの記述を「新大橋の近くを通った」と解するにしても今度は永代橋を渡った事を記述してないのがおかしい事になるからである<ref name="akou215" />。
 
 
なお、泉岳寺の僧の白明(はくめい)の『白明話録』によれば泉岳寺で点呼するまで寺坂がいなくなったことに誰も気づいていなかった<ref name=":9">[[#山本(2012a)]]第七章一節の「武士の筋を通した赤穂浪人」より</ref>。しかし『江赤見聞記』第四巻によれば吉良邸で点呼したときに気づいたという<ref name=":9" />。
 
==== 逃亡か否か ====
[[File:Grave of Terasaka Kichiemon at Sengakuji.jpg|thumb|[[泉岳寺]]における[[寺坂信行|寺坂吉右衛門]]の供養塔(明治元年建立)。戒名が「逐道退身信士」と逃亡説に基づいたものになっている]]
 
『堀内覚書』にも吉田忠左衛門が
1,078 ⟶ 1,097行目:
 
野口武彦も逃亡説は退けており、理由として以下をあげている
*内蔵助の(1)の書状に書かれた討ち入り参加者のリストには寺坂の名が載っているにも関わらず、寺坂に関しては前述のように「是非に及ばず候」と書いてある一方で四十七士のリストには寺坂の名前を加えており、これは「今後寺坂については触れるな」というメッセージだとも取れる<ref name="noguchi197">[[#野口(1994)|野口(1994)]] p197-200</ref>。
*(2)の忠左衛門の件に関しては佐々木と同じく言外の意図を推測している<ref name="noguchi197" />。
 
一方八木哲浩は寺坂が自分の考えで姿を消したのだろうとして<ref name="akou228">[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]]第一巻 p228-229</ref>逃亡説を支持している。八木哲浩は後述する理由により密命説を退けた上で、(3)の書状には忠左衛門が伊藤に寺坂の事を頼むとも書いてあるので、忠左衛門が寺坂をかばおうとする姿勢が見て取れるとしている<ref name="akou228" />。
 
==== 密命を帯びていたか否か====
 
=====密命説に肯定的な意見=====
野口武彦は前述したように内蔵助も忠左衛門も寺坂に関して隠したがっている以上、寺坂は何らかの密命を帯びていたのだろうとしている<ref name="noguchi197" />。
 
1,099 ⟶ 1,118行目:
初期の実録本である『赤穂鍾秀記』も密命説の立場をとり、これを室鳩巣の『赤穂義人録』も取り入れた事で、寺坂を抜いた「四十六士説」ではなく寺坂を入れた「四十七士説」は生まれた<ref name=miyazawa168 />。
 
=====密命説に否定的な意見=====
 
一方、宮澤誠一は、(2)と(3)により、寺坂と忠左衛門には「何か二人の間で個人的に複雑な事情についての了解があったのかもしれない」<ref name=miyazawa168 />としつつも、密命説に対しては批判的で、その理由として以下の二つを挙げている。
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第一に、仮に内蔵助や忠左衛門が寺坂をかばうためにあえて嘘をついているにしても、私信にまで「欠落」したと書く必要はないはずである<ref name=miyazawa168 />。寺坂とは直接関係がないと思われる四十七士の一人・三村次郎左衛門すらも泉岳寺で母にあてて書いた手紙に、寺坂が立ち退いた旨を述べている<ref name=miyazawa168 />。
 
第二に、そもそも討ち入りが終わった時点で浅野大学らに密かにどうしても伝えなければならない事柄が果たしてあるのか疑問である<ref name=miyazawa168 />。仮にあったとしても、浅野大学が差し置きになったときすら主家に累が及ぶのを恐れて会うのを避けたほど慎重な内蔵助が、討ち入りの顛末を知らせる使者を立てるとは思えない<ref name=miyazawa168 />。また内蔵助は大石無人・三平に書簡を出し、死後の供養を頼むとともに「芸州・上方へも仰せ遣わされ下さるべく候」と述べている<ref name=miyazawa168 />。つま危険を冒してまで寺坂を派遣するまでもなく、無人や三平に言伝を頼むなど、もっと安全な方法で討ち入りの報告ができたはずである<ref name=miyazawa168 />。
 
佐々木杜太郎も宮澤誠一と同様、浅野大学が差し置きの際にすら会うのを避けた内蔵助が寺坂を浅野大学や瑤泉院への報告に使うはずがないとして密命説を退けている<ref name="sasaki259" />。
 
八木哲治も寺坂が密命をおびて広島の浅野大学のもとに行ったという説を退けている。
前述のように寺坂の孫は『寺坂信行私記』に寺坂が芸州広島に行ったと書いているものの、伊藤十郎太夫浩行が寺坂から聞き書きした史料には広島に行ったとは書いていない<ref name="akou220" />。寺坂の孫と違い伊藤が寺坂をかばう立場にはない事を考えると、伊藤の聞き書きの方が信用でき、寺坂は広島に行っていないと見る方が自然ではないかと八木哲治は述べている<ref name="akou220" />。史料から確実に言えるのは寺坂が討ち入り後、吉田忠左衛門の娘と孫がいる播磨国亀山へ向かった事だけである<ref name="akou220" />。山本博文も寺坂の孫が書いた(6)の文章に関し、足軽の身分が「内匠頭殿」と書くはずがないとして(6)を孫による弁明なのだと解釈している<ref>[[#山本(2013)|山本(2013)]] p171</ref>。
 
山本博文も寺坂の孫が書いた(6)の文章に関し、足軽の身分が「内匠頭殿」と書くはずがないとして(6)を孫による弁明なのだと解釈している<ref>[[#山本(2013)|山本(2013)]] p171</ref>。
また『寺坂信行私記』は『寺坂信行自記』に加筆して作られたものだが、加筆部分は例えば寺坂の名前の入った口上書など、寺坂が討ち入りに参加した事を証拠づける意図が見えるものが多く、寺坂の作為が見え隠れする<ref name="akou220" />。したがって前述の芸州広島に行ったとする記述も寺坂の作為と解釈するべきであろう<ref name="akou220" />。
 
また『寺坂信行私記』は『寺坂信行自記』に加筆して作られたものだが、加筆部分は例えば寺坂の名前の入った口上書など、寺坂が討ち入りに参加した事を証拠づける意図が見え隠れするものが多い<ref name="akou220" />。したがって前述の芸州広島に行ったとする加筆も、寺坂の作為と解釈するべきであろう<ref name="akou220" />。
 
なお前述した伊藤による聞き書きには、「大石から播磨に向かうように言われたので、皆が泉岳寺から仙石邸にいくのを見届けて播磨に行った」という趣旨の事が記載されているが、前述のように寺坂は泉岳寺に行っていない可能性が高いので、これも寺坂の作為がある弁明であると考えられる<ref name="akou220" />。
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また密命説では寺坂の身分が低かったから寺坂を報告役に選んだとするが、大石は身分が低いものの討ち入り参加を歓迎しており、身分が低い事で差別される事はなかったのではないか八木哲治は述べている<ref name="akou224" />。
 
==== その他の説 ====
 
佐々木杜太郎によると、逃亡説・密命説以外でこれまで論じられた説は以下の3つになる<ref name="sasaki259">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p259-262</ref>:
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また山本博文は武士ではない寺坂を哀れんで吉田忠左衛門が寺坂を逃がしたのではないかとしている<ref>[[#山本(2012b)|山本(2012b)]] 第一章3節「むしろ多い下級家臣の参加」</ref>。
 
==その他特記事項の論点==
=== 「此間の遺恨、覚えたるか」 ===
『梶川与惣兵衛筆記』の東大史料編纂所写本には、浅野内匠頭は刃傷の際、「此間の遺恨、覚えたるか」と言ったされるが、同じ『梶川与惣兵衛筆記』でも南葵文庫本(東大図書館所蔵)には「声をかけた」としか書かれておらず、本当に内匠頭がこの発言をしたのかはよくわからない<ref>[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p20</ref>。
 
なお、『元禄世間咄風聞集』では「覚えたか」とある<ref>[[#野口(2015)|野口(2015)]] 第三章2節の「お茶坊主は語る」より</ref>。
 
=== 刃傷の場所 ===
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にもかかわらず『易水連袂録』に柳之間から御医師之間へ続く廊下で刃傷が起こったと書いてあるのは、柳之間と御医師之間がそれぞれ浅野を目付に引き渡した場所と吉良が他の高家に引き取られた場所なので、それが混同されたものであろう<ref name="miyazawaa23" />。そもそも吉良と浅野は『易水連袂録』の記述とは異なり口論をせずに急に斬りかかっている<ref name="miyazawaa23" />。おそらく、「口論の上刃傷に及んだ」という分かりやすいシナリオが俗説として流布した結果、大名や勅使が控える故に口論しにくそうな松之大廊下よりもより自然な場所として柳之間の前の廊下で刃傷に及んだというシナリオが流布されたのであろう<ref name="miyazawaa23" />。
 
===上杉綱勝深堀藩士と毒殺比較===
{{要出典範囲|一年前の[[深堀事件]]の藩士たちの討ち入り手順を、赤穂事件の赤穂浪士たちが参考にしたとする伝承がある。深堀藩士たちが流刑となった五島列島の久賀島には、赤穂浪士の一人である寺坂吉右衛門の墓所とされるものが存在し、寺坂が討ち入りの際の聞き取りにやってきたとする伝承がある。|date=2024/05/17}}
 
===太平記との関係===
吉良上野介が上杉家を乗っ取るために[[上杉綱勝]]を毒殺したという俗説がある。
しかしこれは[[三田村鳶魚]]が『元禄快挙別録』の中で根拠も無く述べたものにすぎない。
 
元禄時代に『[[太平記]]』は、太平記読みや人形浄瑠璃を通じて武士はもちろん町人にも広く浸透していた<ref name="miyazawaa67" />。
史実において上杉綱勝は吉良上野介と茶会をした後に体調を崩し、死去している事が毒殺という憶測をよんだものと思われるが、綱勝は幼少の頃から病弱であったためこれだけからは毒殺があったとは言い切れない。
このため赤穂浪士達は書簡や日記の中で、赤穂事件を太平記になぞらえて表現している<ref name="miyazawaa67">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p67-69</ref>。
 
たとえば進藤源四郎は内匠頭刃傷の後の赤穂藩の混乱を太平記における南北朝の動乱にたとえている<ref name="miyazawaa102">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p102</ref>し、堀部安兵衛も太平記になぞらえて大石に決起を促している<ref name="miyazawaa102" />し、小野寺十内の書簡にも太平記への言及がある<ref name="miyazawaa67" />。
また綱勝の死去したからといって吉良が上杉家を乗っ取れるとは限らない。結果として吉良の息子が養子にいって上杉家を継ぐ事にはなったが、綱勝の死去の時点では吉良家は複数ある養子もと候補のひとつに過ぎなかったからである。
 
また討ち入り後には大石を太平記の忠臣・[[楠木正成]]の再来とみなす[[落首]]が出たと『易水連袂録』に載っているし<ref name="miyazawaa181">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p181-182</ref>、[[室鳩巣]]も大石を楠木正成にたとえている<ref name="miyazawaa181" />。ただし『易水連快録』では、「長矩ハ益ナキ事ヲ仕出シ申サレ候へバ、先祖末代マデノ不義ニト唱へケル」とあり<ref>堀田文庫『易水連快録』</ref>{{要ページ番号|date=2024/02/15}}、長矩の刃傷(私怨での勅使饗応の放棄)は不義の極みという世論も唱えられたと記している<ref group="注釈">この指摘は、[[真山青果]]の新歌舞伎とその映画化『元禄忠臣蔵』にも採用されている。</ref>。
<!--===太平記との関係===
 
[[泉岳寺]]では、吉良義央を[[楠木正成]]に、首の返還先の吉良義周をその子[[楠木正行|正行]]に喩えている。「高家とて人にこそよれ吉良どのの 偽りもなき上野が首」(『白明話録』)は[[湊川の戦い|湊川]]で討死した正成の首をその子正行に送った時に「疑いも人にこそよれ正成が 偽りもなき楠木が首」と詠んだ故事(『太平記』巻第十六)に倣っている。(「首ヲ送リシ心ヲ真似テ詠ム」)<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p.180</ref> 
-->=== 浪士の娘だと騙る女たち ===
 
=== 浪士お預けに関する俗説 ===
赤穂浪士が切腹した後、浪士の娘だと騙る女が何人か登場した。
 
赤穂浪士の討ち入りの報告を受けた際、幕府の筆頭老中阿部正武は「このような忠義の士が出た事はまさに国家の慶事」と称賛し<ref name="渡辺(1998)206-207">[[#渡辺(1998)|渡辺(1998)]] p.206-207</ref>、将軍綱吉も報告を聞いて感激し、処分を熟慮して決めたいとして一旦浪士達を4大名家に御預けにしたのだといわれる<ref name="渡辺(1998)206-207" /><ref name="miyazawaa188" />。しかし宮澤誠一によれば、この話は初期の実録本『赤穂鍾秀記』に見られる話をもとにしており、史料的に疑わしく、いささか信のおきかねる話だという<ref name="miyazawaa188">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p188</ref>。しかも『赤穂鍾秀記』では順序が逆で、綱吉が報告を受けてから阿部の称賛の話が出ている<ref name="miyazawaa188" />。
[[妙海尼]]は[[堀部武庸|堀部安兵衛]]の娘だと騙り、[[清円尼]]は大石内蔵助の娘だと騙り<ref name="taguchi33musume">[[#田口(1998)|田口(1998)]]第三章3節「大石内蔵助の娘」</ref>、[[長国寺]]の尼は[[武林隆重|武林唯七]]の娘だと騙った<ref name="taguchi33musume" />。
 
また12月23日に寺社奉行、大目付、町奉行、勘定奉行計十四名が連名でこの事件の処分を老中に答申した文書とされるものが残っており、『赤穂義人纂書』(補遺)に「評定所一座存寄書」という名称で載っているが、山本博文と宮澤誠一によればこの文章は偽書であるという<ref name="yamamotoc184">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p184-185</ref><ref name="miyazawaa194" />。偽書だとされる根拠はまずこの文章には上杉家の領地を召し上げるべきと書いてあるが、幕府の指示を守って動かなかった上杉家を処分するはずがないし<ref name="yamamotoc184" />、幕府は吉良邸討ち入りを仇討ちと認めなかったのにこの文書では赤穂浪士を真実の忠義者と讃える<ref name="miyazawaa194">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p194-195</ref>など不自然な点が多いからである。
=== 吉良の服装 ===
 
一方八木哲浩は上述した不自然な点をみとめつつも、「評定所一座存寄書」は偽書ではないだろうとし、その根拠として『徳川実紀』に文書の記述と符合する部分がある事をあげている<ref name="akou1-269">[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]] 第一巻p269-279</ref>。『徳川実紀』は江戸後期に成立したものなので、『徳川実紀』の記述も偽書を写している可能性もあるが、八木哲浩は幕府内に残された何らかの確かな史料を元にしたとする方が自然ではないかとしている<ref name="akou1-269" />。
映画やテレビドラマでは、松之大廊下での刃傷事件時の吉良義央(従四位上左近衛権少将)の装束が[[狩衣]]あるいは[[大紋]]となっているのが見受けられるが、映画『[[元禄忠臣蔵]]』などに見られる狩衣は[[四品]]([[侍従]]成していない従四位下の者)の装束、映画『[[赤穂浪士 (小説)|赤穂浪士 天の巻 地の巻]]』などに見られる大紋は侍従成していない五位の者の装束であり、朝廷との交渉を職務とする高家(初任従五位下侍従)の公式行事での装束は昇殿もできる[[直垂]]である。このうち前者は、「侍従・四品・[[諸大夫]]」と列挙した場合の「四品」は、あくまで「侍従成していない従四位の者」に限られるのを「四位の者全員」と解した時代考証の誤りによるところが大きい<ref>高家の装束が直垂であることは、[[神坂次郎]]著『[[おかしな大名たち]]』所収の[[大沢基寿]]の史談会での談話に明らかである</ref>。後者は、大紋(大紋直垂)と直垂の外見上の差は[[家紋]]の有無だけであり、見栄えからあえて大紋を使ったフィクションとも考えられる。
 
=== 後世処分決定に至るまで顕彰議論 ===
*[[1868年]]([[明治]]元年)11月、[[東京]]に移った[[明治天皇]]は泉岳寺に勅使を派遣し、大石らを嘉賞する[[宣旨]]と[[金幣]]を贈った<ref name="斎藤(1975)804">[[#斎藤(1975)|斎藤(1975)]] p.804</ref>。
*[[1900年]](明治33年)に赤穂に[[大石神社]](赤穂大石神社)を創設する認可が出た。[[1912年]]([[大正]]元年)に大石神社の社宇が完成し、鎮座し、[[1928年]]([[昭和]]3年)には県社に昇格した<ref>[[#斎藤(1975)|斎藤(1975)]] p.805-87</ref>。
*[[1933年]](昭和8年)、[[京都市]][[山科]]に[[大石神社]](京都大石神社)の創立が許可された。[[1937年]](昭和12年)4月には府社に列格する。
 
赤穂浪士の切腹が決定するまで幕府内でどのような議論がなされたのかに関し、2つの異なる話が伝えられる。
== 逸話や伝承 ==
赤穂事件には「忠臣蔵」への演劇化による脚色も手伝って逸話や伝承の類が多く残っている。以下、有名な逸話ではあるが、伝承の域をでていないものをあげる。
 
1つは『徳川実紀』に載っている話で、この史料によれば幕閣での議論が収束せず、日光門主[[公弁法親王]]に意見を求めたという。
=== 松之大廊下の刃傷に関する逸話 ===
このとき公弁法親王は以下の趣旨の返答をし、これにより切腹が決まったという「彼らが主の讐を遂げた事は立派だが、その志を果たし今は心残りはないだろう。彼らは公の刑に身を寄せると申し出ているのだから今さら彼らを許しても他家につかえる事もできない。彼らの武の道を立て死を賜った方がよかろう」<ref name="yamamotoc186" />。
 
しかし『徳川実紀』は事件から百年以上経ってから成立した史料であり、しかも『徳川実紀』は以上の事実を伝聞として伝えるのみでその真偽を保留している<ref name="miyazawac">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p198-199</ref><ref name="yamamotoc186" />。
==== 柳沢吉保の関与 ====
おそらく将軍綱吉と懇意であった公弁法親王に仮託して述べた虚説であろう<ref name="miyazawac" />。
 
もう一つの話『柳沢家秘蔵実記』に載っている話で、この史料によれば、老中等が赤穂浪士の討ち入りは「夜盗の輩」同然だから「打ち首」にすべきだと一旦は決定したのだという<ref name="miyazawac" />。しかしこの決定に不満を持った[[側用人]]の[[柳沢吉保]]が家来の[[荻生徂徠]]に相談したところ、徂徠は「赤穂浪士の行為は、将軍綱吉が政務の第一に挙げている忠孝の道にかなったものだから、打ち首という盗賊同様の処分に処すべきではない。彼らに切腹を賜れば赤穂浪士の宿意も立ち、世上の示しにもなる」という趣旨の事を述べた<ref name="miyazawac" />。この意見を将軍綱吉に「上聞」したところ綱吉は大いに喜び、一転して切腹に決まったという<ref name="miyazawac" />。
忠臣蔵のドラマでは、当時将軍の側用人として牽制をふるった[[柳沢吉保]]が、いわば事件の黒幕として振る舞っていたように描くものがあり、例えば[[大佛次郎]]の『[[赤穂浪士 (小説)|赤穂浪士]]』では柳沢は吉良に「聞き分けのない浅野はいじめてしまえ」という趣旨のことを言っている。
 
徂徠が幕府に提出した答申書と言われる『徂徠儀律書』でもやはり切腹を献言しており、この史料の趣旨は「赤穂浪士の報讐は義にかなっているが、それは自己の一党に限る話だから所詮は私の論である。したがって天下の規矩である法を維持する立場に立って武士の礼にかなう切腹を申しつければ、上杉家の願いにもこたえ、赤穂浪士の忠義も認めた事になる」<ref name="miyazawac" />。
史実でも『多門伝八郎筆記』には柳沢の指示により浅野の即日切腹と吉良の無罪放免が決まった旨が書いてあり、事件への柳沢の関与をにおわせるが<ref name="noguchi35" />、後述するようにこの文献の記述には創作が多い。
 
しかしこうした話にも疑問が残り、『徂徠儀律書』の内容は同じく徂徠が著した『四十七士の事を論ず』の主張と決定的に矛盾しており、前者では赤穂浪士の討ち入りを「義にかなった」仇討ちであるとみなしているのに、後者では討ち入りを不義とみなしており仇討ちであるとも認めていない<ref name="miyazawac" />。
なお、逆に柳沢吉保が吉良上野介に切腹を申しつけたという風聞も『浅吉一乱記』に記されている<ref name="noguchi75">[[#野口(1994)|野口(1994)]] p75</ref>。
 
以上の事から宮澤誠一は『徂徠儀律書』と称される史料は徂徠が書いたものではなく、『柳沢家秘蔵実記』も柳沢吉保が自己弁護の為に事実を転倒させているのではないかと述べている<ref name="miyazawac" />。
一方初期の実録本『赤穂鍾秀記』には吉良上野介が妻の富子から切腹するように言われたとか、上杉家の家老からもし吉良が切腹すれば追い腹を斬ると言われたとあるし<ref name="noguchi75" />、『江赤見聞記』の七巻も上杉綱憲の近習から吉良が存命だと上杉家に災いがあるかもしれないから切腹するよう勧められたという風聞を記している<ref name="noguchi75" />。
八木哲浩も宮澤誠一と同様の理由で『徂徠儀律書』は後人の作だろうと述べている<ref name="akou1-269">[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]] 第一巻p269-279</ref>。
 
===上杉綱勝の毒殺===
==== 脇坂淡路守が吉良に一矢報いる ====
殿中刃傷があった直後、播磨龍野藩主[[脇坂安照]]が隣藩の藩主である浅野長矩の無念を思いやって抱きかかえられて運ばれる吉良義央とわざとぶつかり、吉良の血で大紋の家紋を汚すと、それを理由にして「無礼者」と吉良を殴りつける。吉良は激痛でひっくり返り、「お許しを」と許しを請いながら逃げ去っていく。
 
吉良上野介が上杉家を乗っ取るために[[上杉綱勝]]を毒殺し、吉良の息子の三之助に上杉家を継がせたという俗説がある。
この話1912年の浪曲の筆記本にすでに見える<ref>[{{NDLDC|908074/33}} 近代デジタルライブラリ元禄快挙四十七士]</ref>。
 
三之助が上杉家を継いだというのは事実であるが、その為に綱勝を毒殺したという説には「何ら確かな史料的根拠がない」<ref name="miyazawaa90">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p90</ref>。
なお、史実において脇坂安照は赤穂城受け取りの時の正使であった<ref>[https://kotobank.jp/word/%E8%84%87%E5%9D%82%E5%AE%89%E7%85%A7-1121454 コトバンクデジタル版 日本人名大辞典+Plus脇坂安照]</ref>。
この毒殺説は[[三田村鳶魚]]が『元禄快挙別録』の中で述べた説であるが<ref name="miyazawaa90" />、鳶魚は後にこの説を撤回している<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p160</ref>。
 
=== 浅野内匠頭の切腹に関する逸話 ===
 
『藩翰譜首書』には「綱勝、吉良の宴に赴き、帰路興中にて血を吐き、後七日卒す」と書いてあり、毒殺説はこれを吉良が宴の際に毒を盛っため綱勝が死去したと曲解したものである<ref>[[#尾崎(1974)|尾崎(1974)]] p65</ref>{{要高次出典|date=2015年8月}}。
==== 『多門伝八郎筆記』における逸話 ====
 
また綱勝の死去したからといって吉良が上杉家を乗っ取れるとは限らない。結果として吉良の息子が養子にいって上杉家を継ぐ事にはなったが、綱勝の死去の時点では吉良家は複数ある養子もと候補のひとつに過ぎなかったからである<ref>[[#尾崎(1974)|尾崎(1974)]] p69</ref><ref>『<元禄赤穂事件と江戸時代>スッキリ解決! 忠臣蔵のなぜと謎 (歴史群像デジタルアーカイブス)』(今井敏夫)</ref>{{要高次出典|date=2015年8月}}。
浅野内匠頭の切腹に立ち会った多門伝八郎は、その時の事を記した『多門伝八郎筆記』を残しており、そこに書かれた逸話が忠臣蔵のドラマ等で描かれる事も多い。
以下、『多門伝八郎筆記』に記載された逸話を紹介するが、この筆記は他の資料との比較により、'''創作が多分に含まれている'''<ref name="noguchi35">[[#野口(1994)|野口(1994)]]p35-45</ref>事が判明しているので、以下の逸話の信憑性は不明である。
 
=== 浪士の娘だと騙る女たち ===
* ('''多門が浅野を慰める''')多門が浅野に殿中で刃傷におよんだ理由を聞いてみたところ、浅野は「私の遺恨」ゆえに刃傷におよんだものの、吉良に負わせた傷が浅手だったのが残念だと答えた<ref name="noguchi35" />。そこで多門が武士の情けで「相手は高齢だから養生はおぼつかないだろう」と慰めた所、浅野は喜んだ表情を見せた<ref name="noguchi35" />。
* ('''多門が幕府の裁定に抗議''')[[柳沢吉保]]の指示により浅野の即日切腹と吉良の無罪放免が決まった<ref name="noguchi35" />。これに憤慨した多門が裁定が「片落ち<!--原文通り。片手落ちの誤植ではない-->」である旨を抗議したところ、多門は柳沢の怒りを買い、目付部屋に軟禁された<ref name="noguchi35" />。
* ('''多門が庭先での切腹に抗議''')浅野の切腹場所を庭先の白洲にて行うよう庄田下総守が指示したものの、これに不満を持った多門は「庭先での切腹など一城の主にはあるまじき事」だという趣旨の抗議をし、立腹した庄田と掴み合いになりかけた<ref name="noguchi35" />。
* ('''多門が片岡源五右衛門の今生の別れを許可''')浅野の切腹の直前、赤穂藩士の[[片岡高房|片岡源五右衛門]]が今生の別れをするために会いに来た。多門は「明日は退役と覚悟いたし」<ref name="noguchi35" />て片岡を浅野に会わせた<ref name="noguchi35" />。しかしこの逸話の信憑性は疑わしく、切腹を行った田村家の記録にはそのような事は記載さてていないうえ<ref name="noguchi35" />、『杢助手控』にはその期間は誰も立ち入りさせないよう厳命があったと記載されている<ref name="noguchi35" />。さらに赤穂側の資料にもこの件は記載されていない<ref name="noguchi35" />。
** 切腹の翌日にあたる3月15日に片岡源五右衛門が多門を訪ねて上記の件の礼を言い<ref name="noguchi35" />、同年11月23日にも城内の「中の口」で多門に会って「もはや二君に交えず、この春から町人になる」という趣旨の事を言った<ref name="noguchi35" />。しかし一塊の浪人にすぎない片岡が中の口に入るつてはない<ref name="noguchi35" />。
* ('''浅野内匠頭の辞世の句''')浅野は切腹に際して辞世の句を詠み、その内容は「風さそふ花よりもなほ我はまた花の名残りをいかにとか(や)せん」というものであった<ref name="noguchi35" />。この逸話も田村邸の記録や赤穂藩の記録になく<ref name="noguchi35" />、信憑性は疑わしい<ref name="noguchi35" />。
* ('''浅野本家の抗議''')3月15日に広島藩浅野本家の松平安芸守は切腹の場所が不当であると松平陸奥守と田村右京太夫に厳重に抗議した<ref name="noguchi35" />。この逸話は『冷光君御伝記』にすら記録がなく<ref name="noguchi35" />、信憑性は疑わしい<ref name="noguchi35" />。
 
赤穂浪士が切腹した後、浪士の娘だと騙る女が何人か登場した。
なおドラマ等では、上述した片岡源五右衛門のエピソードに関して、浅野内匠頭と口をきかない事を条件として片岡を浅野に会わせるものも多い。
 
[[妙海尼]]は[[堀部武庸|堀部安兵衛]]の娘だと騙り、[[清円尼]]は大石内蔵助の娘だと騙り<ref name="taguchi33musume">[[#田口(1998)|田口(1998)]]第三章3節「大石内蔵助の娘」</ref>、[[長国寺]]の尼は[[武林隆重|武林唯七]]の娘だと騙った<ref name="taguchi33musume" />。
==== 母の葬式と出くわした萱野 ====
 
=== 吉良の最期に関して{{Anchors|吉良の最期に関して}} ===
講談に次のような話がある<ref>[[#講談名作文庫(1976)|講談名作文庫(1976)]]</ref>。
山本博文は、武林唯七が即死に追い込んだ吉良の首を間十次郎が取ったのだろうとしている<ref name="yamanotoa63kubi">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第六章三節「誰が吉良の首を揚げたのか」</ref>。
 
その根拠は『江赤見聞記』巻四で、同書には四十七士の武林唯七が物置の中の人物を十文字槍でついたところ小脇差を抜いて抵抗してきたので間十次郎が刀で首を打ち取ったとしており<ref name="yamanotoa63kubi" />、さらに同書によれば引き上げの際間十次郎が吉良の首を取ったのを自慢した所、武林唯七が「私が突き殺した死人の首を取るのはたいした事ではない」と憤慨したという<ref name="yamanotoa63kubi" />。
赤穂藩士の[[萱野重実|萱野三平]]は、同じく赤穂藩士である[[早水満尭|早水藤左衛門]]とともに、浅野内匠頭の刃傷の急報を告げるべく、早駕籠で赤穂城へと向かっていた。
 
一方、宮澤誠一は四十七士の不破数右衛門の書簡に「吉良は手向かいせず唯七と十次郎その他にたたき殺された」という趣旨のことが書かれているのを根拠に、本当は不破の言うように吉良はたたき殺されたのに、記録が後世に残るのを意識して残酷さを和らげるために間十次郎が一番槍をつけたのだと記したのではないかとしている<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p161-162</ref>。
しかしその途中萱野の実家の近くを通りかかったとき、葬式の列に出くわす。聞けばなんと萱野の母が亡くなってしまっていたのだ。
 
吉良・上杉方の記述では「物置から脇差を抜いて吉良が斬って出た処を、間が槍で突き、武林が一刀のもと斬り殺した」とある<ref>米沢藩『大熊弥一右衛門見聞書』</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
だが今はお家の一大事を赤穂へと伝えに行く途中。葬式への出席を断念し、赤穂へと急ぐのだった。
*
 
<!--出典がないのでコメントアウト
=== 陪臣・女性の不在 ===
{{出典の明記| date = 2024/02/01| section = 1}}
吉良方の死傷者には[[陪臣]](家臣の家来)が多数出たのに、討ち入りの参加者に赤穂藩の陪臣が居ないのはなぜか。(寺坂のみ[[吉田兼亮]]の家臣のち赤穂藩足軽){{Sfn|山本|2012b|loc=&sect;1.3}}。現存する赤穂城の図面では、大石邸は神社が建つ程の広大な屋敷である。赤穂城の再建された大石邸長屋門では、長屋に居た大石家臣が人形で再現されている。
 
討ち入り当日の吉良邸に女性がいないのは何故か。小説などでは負傷者の中に女性が居たり、吉良間者として女性(腰元など)が描かれる場合もあるが、吉良・上杉両家の史料では確認できない。赤穂側では女と思い斬りつけたら[[小林平八郎|小林央通]]の変装であったという話はある(『江赤見聞記』など)。
すでに『赤穂義士伝一夕話』にこの話が出ている。<!--p255-->
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=== 赤穂開城の逸話 ===
 
==== 藩札交換の逸話 ====
 
[[伴蒿蹊]]の『閑田次筆』に次のような話がのっている<ref>[http://chushingura.biz/gisinews09/news272.htm 忠臣蔵新聞「ダイジェスト忠臣蔵(第12巻)」]</ref>{{要高次出典|date=2015年7月}}。
 
赤穂の政治は次席家老の大野九郎兵衛が上席で全て取り仕切っていたので、民は税の取り立てに耐えれなかった。
 
そのうち内匠頭の刃傷が起こり赤穂城が開城すると、民は大いに喜んで餅をついて賑わった。
 
そこへ大石が出てきて事を取り仕切り、赤穂藩が借りていた金銀を皆に返済したので、皆は大いに驚き、「この城中にこのような計らいをする人がいるのか」と顔を改めた。
 
==== 大石の忠僕 ====
[[File:Tmp 18949-8(2)-947736090.jpg|thumb|150px|伴蒿蹊『近世畸人伝』「大石氏僕」の挿し絵<ref>[http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/kijinden/kijinden_22.html 国際日本文化研究センターデータベース『近世畸人伝(正・続)』「大石氏僕」]</ref>]]
[[伴蒿蹊]]の『近世畸人伝』の巻之二に次のような話が載っている<ref>[http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/kijinden/kijinden_22.html 国際日本文化研究センターデータベース『近世畸人伝(正・続)』「大石氏僕」]</ref>。
 
赤穂開城の後、大石が赤穂を離れ京に登ろうとするとき、老僕の八介が訪ねてきた。
 
八介は大石に付き従って京に行きたいが、この年ではそれもかなわない、何か形見の品がいたたげないだろうか、と言った。
 
大石はあらかたの荷物を既に京に送っていたので形見にするものもなく、仕方なしに金子を八介に渡すことにした。
 
だが大石のこの行動に対し八介は、金子のどこが形見なんだと腹を立てる。
 
そこで大石は紙をひろげて墨で絵を描いて、これを形見とした。その絵は若き日の大石が八介と吉原に遊びに行ったときの二人の様子を描いたものだった。
 
「これに勝る形見はない」と八介は喜び、泣いて暇乞いをして去っていった。
 
 
なお、『近世畸人伝』には「寺井玄渓 」<ref>[http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/kijinden/kijinden_21.html 国際日本文化研究センターデータベース『近世畸人伝(正・続)』「寺井玄渓 」]</ref>、「小野寺秀和妻」<ref>[http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/kijinden/kijinden_23.html 国際日本文化研究センターデータベース『近世畸人伝(正・続)』「小野寺秀和妻」]</ref>という話も載っており、前者は藩医の寺井玄渓が盟約に加わるのを大石に断られる話、後者ばかり小野寺十内とその妻の心温まる書状の話でいずれも史実に基づく。
 
=== 大石の遊興 ===
 
人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』をはじめとして元禄赤穂事件を描いたドラマでは山科で暮らしていた頃の大石が[[花街]]で派手に遊ぶ様子が描かれる事が多い。
 
この遊興により、大石に渾名すものはもちろん、大石が吉良を仇討ちすると信じていたものも愛想を尽かし始める。例えば講談では大石が吉良の仇討ちをしてくれるものとかたく信じる薩摩武士の宇都宮重兵衛が、大石のあまりの姿に呆れ果てている<ref name="koudan">[[#講談名作文庫(1976)|講談名作文庫(1976)]]</ref>。
 
多くのドラマでは大石は敵の目を欺くためにあえて遊び呆けたのだとされ、たとえば仮名手本忠臣蔵でも、遊興により斧九太夫(史実の大野九郎兵衛)の目を欺いている。
 
一方、仇討ちの重圧から逃れるために遊んでいたとするドラマもあり、例えば芥川龍之介の『或日の大石内蔵助』では大石は単に仇討ちを忘れて楽しんでいただけなのに、周囲がそれを誤解して敵を欺く計略なのだと賞賛する場面が描かれている。
 
==== 大石の妾 ====
 
大石の遊興に絡んで、大石が妾を作るエピソードが入る事もある。
 
例えば『仮名手本忠臣蔵』では、大星(史実の大石)は一文字屋の「お軽」を身請けしようとする(ただしこれは、仇討ちに関する密書を盗み見たお軽を亡き者にするための口実)。
 
講談でも大石の遊興をおさめるために、小山源五左衛門と進藤源四郎が二文字屋次郎左衛門の娘「お軽」を妾として差し出す<ref name="koudan" />。
 
近年の作品では[[池宮彰一郎]]の『[[四十七人の刺客]]』および『[[最後の忠臣蔵]]』において、大石は一文字屋の可留に手をつけ、可留との間に娘の可音をつくっている。
 
====母と妻子との別れ====
 
大石は放蕩の末、遊女を妻にするといいだし、本妻と離縁して実家に帰す。大石の子供と実母もこれに付き従った。
 
しかし討ち入り後、寺坂吉右衛門が現れて、妻子等に大石の真意を伝えるのだった(講談「忠臣二度目の清書」、「山科妻子の別れ」など)。
 
史実では大石の母はこの時すでに死亡しているし、妻との離縁状にもこのような経緯は載っていない<ref>[[#田口(1998)|田口(1998)]]、第四章2山科妻子の別れ</ref>。
 
==== 史実 ====
 
大石の遊蕩は山科会議の頃か妻子を実家に帰した頃からはじまったとされるが、それを直接証拠づける史料はなにもない<ref name="miyazawaa118" />。
 
遊興に関する史料で最も信頼できるのは『江赤見聞記』だが、ここには「遊山見物等の事に付き(中略)金銀等もおしまず遣い捨て候」<ref name="yamamoto41gion">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第四章一節「祇園遊びの真意」</ref>とあるのみで、この「遊山見物」が誇張されて派手な遊興というイメージができあがったのかもしれない<ref name="miyazawaa118" />。
 
また祇園や伏見に出かけたという記録もあるものの<ref name="yamamoto41gion" />、息子の主税も一緒であった<ref name="yamamoto41gion" />。
 
伝説によると大石は伏見の笹屋で夕霧と親しくなり、「浮さま」と呼ばれたとされ、その証拠として大石がつくったとされる「里げしき」という唄が残っているが、これは伝説的なものにすぎない<ref name="miyazawaa118">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p118-119</ref>。(なお、大石は「里げしき」の最後は「うきつとめ」で終わるが<ref name="sasaki191">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p191</ref>、内蔵助が「うきさま」と呼ばれたとされるのはこの「うきつとめ」からきたものであろう<ref name="sasaki191" />)。
 
遊興にふけった動機に関してドラマ等では大石は敵の目を欺く為にあえて遊興にふけったとするものがあるが、『江赤見聞記』は大石の遊興に関してはっきりと「宜しからざる行跡」と書いており<ref name="noguchi124">[[#野口(1994)|野口(1994)]]p124</ref> 、敵の目を欺くために遊んだとする説には汲みしていない<ref name="noguchi124" /> 。
 
『江赤見聞記』には、吉良側の間者が大石の姿を見てもはや仇討ちの「意趣」なしと判断して引き上げたという風説が書き記されているのみである<ref name="miyazawaa118" />。また大石の親類の小山と進藤がいくら諫めても聞かないので、不快に思い離反したとも記している<ref name="miyazawaa118" />。
 
しかし『赤穂鍾秀記』ではすでに大石の遊蕩が吉良方の警戒を解き、仇討ちを成功に導いたとあるし<ref name="miyazawaa120">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p120-121</ref>、初期の実録本である『浅吉一乱記』では千坂兵部の間者の目をごまかす為に大石が替え玉に悪所通いさせた旨が記されている<ref name="miyazawaa120" />など、大石の遊興を策謀とする説は早くからあった。人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』でも大星(史実の大石)が敵をだます為にあえて遊興にふけっている。
 
なお『仮名手本忠臣蔵』における大星(史実の大石)遊興の場面は、同じく赤穂事件に題材を得た歌舞伎の『大矢数四十七本』における[[助高屋高助 (初代)|初代澤村宗十郎]]の演技を真似たものである<ref>[[#今尾(1987)|今尾(1987)]]、p199</ref>。
 
以上のように大石の遊興に関しては伝説的な部分が多いが、史実でも大石は妻を実家に帰してから身の回りの世話を頼んだ京都の二条京極坊二文字屋の娘可留(かる)という妾に手を出し、孕ませている<ref name="yamamotoc131">[[#山本(2013)|山本(2013)]] p131</ref>。可留は元禄15年当時は18歳だと伝えられるが<ref name="yamamotoc131" />、生まれてきた子供は性別すら分かっていない<ref name="yamamotoc131" />。大石は赤穂藩の藩医の寺井玄渓に可留の子供を養子に出すよう頼んでいる」<ref name="yamanoto52omoi">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章二節「大石の残す子への思い」</ref>。
 
また大石は、赤穂時代にもやはり妾を孕ませていた<ref name="yamamoto41gion" />。
 
=== 村上喜剣 ===
[[File:Tmp 19019-DSC 0033-1912347471.jpg|150px|thumb|泉岳寺の「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓]]
[[薩摩]]の剣客村上喜剣は、京都の一力茶屋で放蕩を尽くす大石良雄をみつけると、「亡君の恨みも晴らさず、この腰抜け、恥じ知らず、犬侍」と罵倒の限りを尽くし、最後に大石の顔につばを吐きかけて去っていった。しかしその後、大石が吉良義央を討ったことを知ると村上は無礼な態度を取ったことを恥じて大石が眠る泉岳寺で切腹した。
 
 
泉岳寺には明和4年(1767年)に作られた「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓(寺坂吉右衛門か萱野三平のものだといわれている<ref name="sasaki433" />)があり、村上喜剣はこの戒名などから作られた人物だと思われる<ref name="miyazawa29">[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p29</ref>。
 
村上喜剣の話は江戸後期の儒者<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%9E%97%E9%B6%B4%E6%A2%81-1102113 コトバンクデジタル版 日本人名大辞典+Plus『林鶴梁』]</ref>[[林鶴梁]]の『烈士喜剣伝』によって喧伝されたため<ref name="miyazawa29" /><ref name="sasaki433" />、事実のごとく伝わった<ref name="sasaki433">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p433</ref>。これが原因で、前述の「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓はこの村上喜剣のものであると広く信じられた<ref name="sasaki433" />。
 
1899年には[[幸田露伴]]が村上喜剣を主人公にした小説『奇男児』を書いている<ref name="miyazawaa58">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p58-60</ref>。
この小説では喜剣は文弱な方向に流れる元禄の世を憂い進んで浪人する。そして復讐もせずに腐れ死んでいる赤穂浪士に憤慨し、彼らに「神国の風俗、義に勇む人心」の回復を期待する<ref name="miyazawaa58" />。
 
=== 垣見五郎兵衛 ===
 
大石内蔵助は(第二次)東下りの際に「垣見五郎兵衛」(もしくは立花左近)という変名を名乗り、江戸へと向かっていた。しかしその途中で、本物の垣見五郎兵衛と鉢合わせしてしまう。
 
絶体絶命のピンチを向かえた大石であったが、垣見五郎兵衛は目の前にいるのが吉良を討とうと人目を忍んでいる大石内蔵助である事を察し、大石に助力するため、垣見五郎兵衛としての通行手形を渡すのであった。
 
==== 史実 ====
 
大石内蔵助は江戸に入った際、実際に「垣見五郎兵衛」という変名を名乗っており、息子の主税には「垣見左内」という変名を名乗らせている<ref name="yamamoto52">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章二節</ref>。
 
しかし上述したエピソードは史実ではない。戦後の忠臣蔵映画を調査した谷川建司によると、この逸話は[[マキノ省三]]監督が[[1912年]]の映画『実物応用活動写真忠臣蔵』を撮るときに歌舞伎の[[勧進帳]]を基にして役者の嵐橘楽のために作り上げたものであり<ref name="tani280">[[#谷川(2013)|谷川(2013)]]p280、283、379</ref>、この時は「立花左近」の名称であった<ref name="tani280" /> 。史実に合わせて「垣見五郎兵衛」の名前を用いたのは松竹の[[1932年]]版の『忠臣蔵』がはじめである<ref name="tani280" /> 。
 
一方宮澤誠一は大正13年発行の『講談落語今昔譚』(関根黙庵著、雄山閣)を引き、この話は講釈師の伊東燕尾(えんび)の持ちネタで、後に芝居にも脚色されたのだとしている<ref>[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p47。[[#関根(1924)|関根(1924)]]149コマ目</ref>。燕尾は明治33年(1900年)に亡くなっている<ref>[https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E6%9D%B1+%E7%87%95%E5%B0%BE-1669957 コトバンク 新撰 芸能人物事典 『伊東燕尾』]</ref>ので、燕尾の講釈の方がマキノ省三の映画よりも早いことになる。
 
燕尾の講釈では、近衛家雑掌・垣見左内の変名を名乗る内蔵助が川崎の宿で本物の垣見左内に出くわす。内蔵助は仕方なしに本名を書いた詫書を左内に渡すが、そこに内蔵助の名を見た左内は事情を察し、詫書を内蔵助に帰してこの件を不問にする。
 
=== 侮辱される浪士達 ===
 
忠臣蔵に関する逸話の中には、仇討ちの件を秘密にするため、赤穂浪士達が周囲の侮辱にじっと耐え続けねばならなくなる話が数多い。(そして討ち入りの後には、侮辱した者たちは自身の行動を後悔する)。
 
こうした逸話をいくつか紹介する。
 
==== 大高源吾の詫び証文 ====
 
四十七士の一人[[大高忠雄|大高源吾]]が江戸下向しようとしている道中、国蔵<ref name="hakone" />というヤクザ者の馬子がからんできた。
 
大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、じっと我慢する。
 
調子に乗った国蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてきたので、大高はおとなしくその証文を書いた。
 
後日、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに大高がいたことを知った国蔵は己を恥じて出家の上、大高を弔ったという。
 
 
このエピソードは大高源吾ではなく[[神崎則休|神崎与五郎]]のものとして語られる事もある<ref name="meisaku" />。その場合因縁をつけてくるのは「丑五郎」という男である<ref name="meisaku" />。
 
大高の詫び証文と称するものを明治35年1月沼津牛臥の旅館(明治まで三島の本陣をやっていた世古家)で大森金五郎が発見し<ref>[[#尾崎(1974)|尾崎(1974)]] p249-252</ref>{{要高次出典|date=2015年7月}}、現在は箱根旧街道休憩所に展示されている<ref name="hakone">[http://www.hakone.or.jp/sp/550 箱根町観光情報ポータルサイト「箱根旧街道休憩所」]</ref>。そこの説明によれば元々は三島宿で大高源吾に起こった出来事として伝わっていたものが時代を経ていつのまにか箱根山中の甘酒茶屋で神崎与五郎に起こった出来事に変わったという<ref name="hakone" />。
 
==== 大高源吾の義兄 ====
 
大高源吾にはもう一つ似たような逸話がある。
 
大高源吾は四十七士の一人[[中村正辰|中村勘助]]とともに江戸に下向していた。
 
途中で源吾の義兄弟の水沼久太夫のもとに挨拶にいき、他家に仕官が決まった旨の嘘をつく。
 
これを聞いた水沼は大高たちに[[コノシロ]]をご馳走する。コノシロは「腹切り魚」とも呼ばれ、仕官の門出を祝うにはふさわしくない魚だ。
 
大高に仇討ちを期待する水沼は、仇討ちに相応しい腹切り魚を出して、大高を試したのだ。
 
しかし例えば義兄弟と言えども仇討ちの事は言えず、大高がとほけると、水沼は怒りだし、義兄弟の契りを解消すると言い出す。
 
後に水沼は討ち入りの件を知り、先の行動を後悔するのだった<ref name="meisaku" />。
 
==== 勝田新左衛門の逸話 ====
 
四十七士の一人[[勝田武尭|勝田新左衛門]]は、赤穂城が開城された後、八百屋に身をやつしていた。
 
その様子を見た新左衛門の舅は、武士が八百屋をするなどけしからんと、新左衛門の妻とともに嘆いた。
 
しかしその後、新左衛門が同志とともに討ち入りした事を知り、新左衛門の事を見直すのであった<ref name="meisaku">[[#講談名作文庫(1976)|講談名作文庫(1976)]]</ref>。
 
『正史実伝いろは文庫』の六十四回ではこれを若村寒助(史実の中村勘助)の話として伝える<ref>[[#忠臣蔵文庫(1912)|忠臣蔵文庫(1912)]]</ref>。
 
=== 親族の自害 ===
 
四十七士の一人である[[間光興|間十次郎]]の妻は、討ち入り後、赤穂浪士たちの墓の前で十次郎の後を追って自害したという伝説がある<ref name="taguchi22inai" />。
 
しかし史実ではそもそも間十次郎に妻はいない<ref name="taguchi22inai">[[#田口(1998)|田口(1998)]]第二章2節「いないはずの女たち」</ref>。
 
為永春水の『正史実伝いろは文庫』には討ち入りの際、四十七士の一人である[[武林隆重|武林唯七]]の妻が吉良を討つため捨て身で吉良を押さえたとあるが、史実では唯七にも妻はいない<ref name="taguchi22inai" />。
 
四十七士の一人である[[原元辰|原惣右衛門]]が同志に入る際、惣右衛門の心残りにならないよう母が自害する話が伝わっている<ref name="taguchi23sorezore">[[#田口(1998)|田口(1998)]]第二章3節「それぞれの母」</ref>。
 
同じような話が四十七士の近松勘六、杉野十平次、武林唯七<ref>『正史実伝いろは文庫』第十四回。[[#忠臣蔵文庫(1912)|忠臣蔵文庫(1912)]]</ref>、および間十次郎と新六の兄弟にもある<ref name="taguchi23sorezore" />。
 
史実では惣右衛門の母は討ち入り4か月前の8月に病死しているのに[[室鳩巣]]が『赤穂義人録』の中で誤伝したのがそもそもの始まりらしい<ref name="taguchi23sorezore" />。
 
間十次郎の母は史実では二十八年前に亡くなっている<ref name="taguchi23sorezore" />。
 
==== 鳩の平右衛門 ====
 
『鳩の平右衛門』という歌舞伎の演目がある。四十七士の一人寺岡平右衛門(史実の[[寺坂信行|寺坂吉右衛門]])は、同志たちとともに江戸へ下るため実家をでる。しかし鳩の親子が仲睦まじくしているのを見て情にほだされ、実家に帰る。
 
だが寺岡の父はこれに激怒し、寺岡の未練を断ち切るために切腹する。
 
 
この話は[[河竹黙阿弥]]作の歌舞伎『稽古筆七いろは』に出てくるが、これは寛政3年に大阪角の芝居で上演された[[奈河七五三助]]作の『いろは仮名四十七訓』の八つ目「鳩の平右衛門」を粉本とする<ref>[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]]。p756</ref><ref name="akou4-640">[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]] 第四巻p640</ref>。黙阿弥はこの際切腹するのを老母から父に変更している<ref name="akou4-640" />。
 
『正史実伝いろは文庫』の第八十二回には類話が載っており、原郷右衛門(史実の原惣右衛門)がやはり鳩の親子を見て家に戻ると、母が郷右衛門を諫めるために自害する<ref>[[#忠臣蔵文庫(1912)|忠臣蔵文庫(1912)]]</ref>。
 
=== 恋の絵図面取り ===
 
四十七士の一人である[[岡野包秀|岡野金右衛門]]は吉良邸の絵図面を手に入れるため、吉良上野介の屋敷の普請を請け負っていた大工の棟梁の娘である「お艶」と恋人になる。
 
しかし岡野はやがて本当にお艶に恋するようになり、彼女を騙して絵図面を手に入れたことに自責の念を感じ、忠義と恋慕の間で苦しむ。討ち入り後、泉岳寺へ向かう赤穂浪士を見守る人々の中に涙を流しながら岡野を見送る大工の父娘がいた。
 
==== 史実 ====
 
この話は何の根拠もなく史実ではない<ref name="taguchi22ezumen">[[#田口(1998)|田口(1998)]]第二章2節「絵図面をめぐる恋の話」</ref> 。
 
史実では堀部安兵衛、大石瀬左衛門が1つ、潮田又之丞が1つ絵図面を手に入れているが、いずれも古いのが難点であった<ref name="taguchi22ezumen" /><ref>[[#山本(2013)|山本(2013)]] p147</ref>。
 
浪士達はさらに[[毛利小平太]]を吉良邸に送り込み、中を調査させている<ref name="yamamoto53senpuku">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]] 第五章二節「赤穂浪人の潜伏先」</ref>。
 
風説では吉良邸は討ち入りに備えて改造していたというが小平太が調べた限りでは普通の作りだった<ref name="yamamoto53senpuku" />。
 
==== 創作物において ====
 
この話は『赤穂精義参考内侍所』にすでに載っており<ref>[[#内侍所|内侍所]] 112コマ目から</ref>、ここでは艶は吉良の用人鳥居利右衛門の娘で、その伯父が吉良邸の普請をしたので岡野は計略の為に艶と親しくなり伯父に金子を渡して吉良邸の絵図面を得る。討ち入りの後、艶は岡野の素性を知って病気になり、岡野が切腹するとそのまま死んでしまった。
 
『赤穂義士伝一夕話』<ref>[[#赤穂義士伝一夕話|赤穂義士伝一夕話]] 七之巻二十九頁</ref>や『正史実伝いろは文庫』<ref>[[#忠臣蔵文庫(1912)|忠臣蔵文庫(1912)]] p15-</ref>にもこの話は登場する。
 
天明8年(1788年)3月大坂北堀江市ノ側芝居で公開された<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E5%BF%A0%E8%87%A3%E9%80%A3%E7%90%86%E5%BB%BC%E9%89%A2%E6%A4%8D%E3%80%8B-1367103 コトバンク『忠臣蔵物』]</ref>『義臣伝読切講釈』(通称『忠臣連理廼鉢植』、『植木屋』)では千崎弥五郎(史実の神崎与五郎)が絵図面を取る話を伝えている。
 
本作では千崎弥五郎が植木屋に扮して高師直(史実の吉良)の屋敷に潜入して、女中のお高という娘と親しくなる。お高は千崎の正体を見抜き絵図面を取る手助けをしようとするも、女中の身分では絵図面を取ることはできない。そこでお高は変装して高師直の妾になり絵図面を手に入れる。そして絵図面を千崎に渡した後自害するのだった。
 
=== 天野屋利兵衛 ===
 
町人・天野屋利兵衛は赤穂浪士に肩入れし、浪士達が討ち入りに使うための武器を調達して長持ちに保管していた。
 
この事が奉行の耳に入ると、奉行は利兵衛を拷問し、武器の入った長持ちの鍵を渡すように言った。
 
しかし利兵衛は拷問に耐え抜き、利兵衛の態度に感心した奉行は、武器の準備の件を不問にするのだった。
 
==== 史実 ====
 
天野屋利兵衛は、大坂の惣年寄を勤めた実在の人物「天野屋''理''兵衛」の事だとする説もある<ref name="sasaki336">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p336</ref>。
しかしこの人物は赤穂藩とは無関係であるため、上記の話は史実としては疑問が残る<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E5%B1%8B%E5%88%A9%E5%85%B5%E8%A1%9B-27205 コトバンクデジタル版 日本人名大辞典+Plus『天野屋利兵衛』]</ref>。松島栄一は、天野屋利兵衛が芝居で扱われたのはあるいは芝居と特別な関係にあるスポンサーだったのではないかと想像している<ref>[[#松島(1964)|松島(1964)]] p174</ref>。
 
また京都一条大宮鏡石町の呉服屋で、赤穂浪士を援護した綿屋善右衛門をモデルにしているとも言われる<ref name="sasaki336" />。
 
==== 創作物において ====
 
討ち入りのあった年である元禄15年12月に出た『赤穗鐘秀記』には町名主の「天野屋次郎右衛門」について書かれている。 次郎右衛門は赤穂浪士のために槍二十本を鍛治に鍛えさせた事が、町奉行の耳に入り詰問されたが、白状せず牢に入れられる。そして赤穂浪士の討ち入りの話を聞くと、初めて事実を自白したと言う<ref name="amanoya">[[#江崎(1940)|江崎(1940)]] p14 - </ref>。
 
その後『忠誠後鑑録或説』や『參考大石記』でもこの話は書かれ、前者では名前が既に「天野屋理兵衛」になっている<ref name="amanoya" />。
 
討ち入りから47年後の寛延元年(1748年)8月には人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』の十段目としてこの物語は描かれている。当時は実在の人物を芝居にするのに規制があったため、作中では「天河屋義平」という名前で登場する。
 
本作では捕り手達が天河屋の息子を人質に取り、息子の喉元に刀を置いて天河屋を脅迫する。
 
しかし天河屋は 「天河屋の義平は男でござるぞ。子にほだされ存ぜぬ事を、存じたとは得申さゆ」といい、これを突っぱねる。
 
この話のオチは、実は捕り手は大星由良助(史実の大石内蔵助)率いる四十七士がなりすましたもので、天河屋を試すためにこの様なことをしたのだという。大星は天河屋の忠義に礼をし、討ち入りの際の合い言葉を天河屋にちなんで「天」、「河」にするのだった。
 
=== 大高忠雄と宝井其角 ===
[[ファイル:Ōtaka Gengo Tadao.jpg|thumb|150px|大高源五と宝井其角。[[尾形月耕]]画]]
大高源五は、子葉の俳号を持ち、俳人としても名高い赤穂浪士である。俳人の宝井其角とも親交があった。
 
討ち入りの前夜、大高は煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していたが、両国橋で宝井其角と出会った。其角は早速「年の瀬や水の流れも人の身も」と発句し、大高はこれに「あした待たるるこの宝船」と返し、仇討ちをほのめかす。
 
 
宝井其角と大高源五が両国橋で会う話は安政3年に森田座で初演された[[瀬川如皐]]の『新舞台いろは書始』で登場しており、これが後年『[[松浦の太鼓]]』になり、さらにそれが[[中村鴈治郎]]の『土屋主税』になった<ref>[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]]</ref>。
 
*参考記事:'''[[松浦の太鼓]]'''
 
=== 赤埴源蔵、徳利の別れ ===
赤埴源蔵は討ち入り直前にこれまで散々迷惑をかけた兄に今生の別れを告げようと兄の家を訪れた。しかし兄は留守であった。義姉もどうせ金の無心にでも来たのだろうと仮病をつかって出てこない。
 
やむなく源蔵は兄の羽織を下女に出してもらって、これを吊るして兄に見立てて酒をつぎ、「それがし、今日まで兄上にご迷惑おかけしてきましたが、このたび遠国へ旅立つこととなりました。もう簡単にはお会いできますまい。ぜひ兄上と姉上にもう一度お会いしたかったが、残念ながら叶いませんでした。これにてお別れ申し上げる」と兄の羽織に対して涙を流しながら酒を酌み交わし、帰って行く。
 
その後帰宅した兄は下女から源蔵の様子を聞いて、もしや源蔵はと思いを巡らせる。そして12月15日、吉良義央の首をあげて泉岳寺へ進む赤穂浪士の中に弟源蔵の姿があった。
 
*参考記事:'''[[仮名手本硯高島]]'''
 
====史実====
 
この話はもともと天保年間の講釈師初代[[一立斎文車]]が語ったものだという<ref>『江戸歌舞伎の残照』吉田弥生著 文芸社 p165</ref>。
 
史実では赤埴には兄はおらず弟と妹がいるだけである<ref name="sasaki175">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p175</ref>。
史実において赤埴は元禄15年12月12日に妹の夫である田村縫右衛門のもとを訪ねている<ref name="sasaki175" />。その日赤埴が普段より着飾ってた事に関して縫右衛門の父から苦言を呈されたが、赤埴は苦言に感謝の意を述べ、一両日中に遠方に参るためあいさつに来た旨を述べた。そして縫右衛門と杯を交わして別れている<ref name="sasaki175" />。
 
=== 俵星玄蕃 ===
[[File:Sugino Toseiji Tsugufusa.jpg|thumb|150px|杉野十平次の蕎麦屋、[[尾形月耕]]画]]
 
四十七士の一人[[杉野次房|杉野十平次]]は「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていた。やがて俵星玄蕃という常連客と親しくなった。
 
かねてより浅野贔屓であった玄蕃は、12月14日、赤穂浪士たちが吉良邸へ向けて出陣したことを知ると、是非助太刀しようと吉良邸へ向かった。両国橋で赤穂浪士達と遭遇したが、大石には同道を断られた。しかしその中になんと蕎麦屋の十助がいるではないか。そして二人は今生の別れを交わした。その後玄蕃はせめて赤穂浪士たちが本懐を遂げるまでこの両国橋で守りにつこうと仁王立ちになった。
 
==== 史実 ====
文化2年(1805年)の『江戸名釈看板』の中の「雪の曙 誉の槍」に俵星玄蕃の名前が出ており<ref name="sasaki405">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p405</ref>、当時からこの話は有名になっていたものと思われる。
「俵星」の名は槍で米俵も突き上げるという話と「仮名手本忠臣蔵」の主人公大星由良助(大石良雄がモデル)の「星」を組み合わせたものであろう<ref name="sasaki405" />。
またこの話は[[講釈師]][[大玄斎蕃格]]により語られており<ref>[http://4travel.jp/domestic/area/kanto/tokyo/ryogoku/ryogoku/hotplace/11341605/ 両国の俵星玄蕃道場跡の看板]</ref>{{要高次出典|date=2015年7月}}、大玄斎蕃格が創作したものとも言われる{{要出典|date=2015年7月}}。
<!--
<ref>初出について文化2年(一八〇五年)の『江戸名釈看板 雪の曙 誉の槍』が初出であると[http://www.age.ne.jp/x/satomako/084.htm 『赤穂義士事典』]に記されている
★→『赤穂義士事典』を直接確認したが「初出」とは書いていない。
 
ほか、三波春夫が自著『真髄 三波忠臣蔵』(小学館)で記している。</ref>。
玄蕃の名は自らの「玄」と「蕃」の字の組み合わせ、「俵」は槍で米俵も突き上げるという意味、さらに「星」の字は「仮名手本忠臣蔵」の主人公大星由良助(大石良雄がモデル)の「星」の字<ref>俵星の表記について凝香園の[{{NDLDC|905602/94}} 『赤穂四十七士』]や[[湊邦三]]の『元禄武士道』などに記述がある。[http://books.google.co.jp/books?id=QDQXeAokCbYC&pg=PA41&lpg=PA41#v=onepage&q&f=false 『歌がこんなに上手くなって良いのだろうか!?: あなたにも出来る「日本人のための究極歌唱法」』](江本弘志)より</ref>。
 
★三波春夫のページ[http://www.minamiharuo.jp/blog/2014/11/1_69.html]には、『江戸名釈看板 雪の曙 誉の槍』の事は書いてあるが、大玄斎蕃格の事は書いていない。
Google Booksで『真髄 三波忠臣蔵』と『歌がこんなに上手くなって良いのだろうか!?: あなたにも出来る「日本人のための究極歌唱法」』を確認しても、『江戸名釈看板 雪の曙 誉の槍』の事のみで大玄斎蕃格の事は書いていない。
 
 
<!--出典がないのでコメントアウト
=== 平穏な吉良邸 ===
{{出典の明記| date = 2024/02/01| section = 1}}
吉良義央が多くの[[賄賂]]をとる強欲で、皆に嫌われていたのなら、何故、討ち入り後の吉良邸に侵入して、貯め込んだ金銀財宝を強奪しようとする町人や浪人が皆無だったのか。むしろ複数の町人(豆腐屋や大工)が、遠く離れた上杉家藩邸まで討ち入りを通報しており、また屋敷に蝋燭や敷物など日用品を提供している<ref>『上杉家文書』より「野本忠左衛門見聞書」</ref>。浅野長矩の切腹後には赤穂藩邸が多数の暴徒に襲撃されている。その時の暴動により傷ついた旧・赤穂藩邸の門は、現在でも[[泉岳寺]]で見る事ができる<ref>谷口眞子「赤穂浪士の実像」41ページ</ref>。
-->
 
=== 南部坂雪の別れ史跡等 ===
<gallery>
File:Asano Takuminokami shuen no chi.jpg|[[浅野長矩|浅野内匠頭]]終焉の地
Image:Oishi_Yoshio_and_the_16_partisans_with_unswerving_loyalty.jpg|[[大石良雄外十六人忠烈の跡]]
Image:Mizuno-kemmotsu-tei_ato_20061221_0077.jpg|[[水野監物邸跡]]
Image:The_embassy_of_Italy_in_Tokyo_Japan.jpg|[[大石主税良金ら十士切腹の地]]
画像:Mori-teien_0116.jpg|[[毛利甲斐守邸跡]]
</gallery>
 
; 浅野内匠頭終焉の地邸
討ち入り直前、大石内蔵助は赤坂・[[南部坂]]に住む浅野内匠頭正室・[[瑤泉院]]のところへ最期のあいさつへ向かう。しかし吉良の間者と思しき女中が聞き耳を立てていたので、大石は仇討ちの意思はないと瑤泉院に嘘をつく。討ち入りを期待する瑤泉院はこの言葉に激昂するが、大石は本心をひた隠しにして去っていくしかなかった。
: [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[新橋 (東京都港区)|新橋]]四丁目
: 追悼碑は田村家上屋敷跡にあったが、現在は[[東京都]]により撤去され<ref>「環二通りの建設工事」による。(2011年、東京都)</ref>、田村邸から50mほど離れた場所の[[秋田氏]][[三春藩]]邸前(新橋五丁目)に移された<ref>『芝口南西久保 愛宕下之図』(尾張屋清七版)</ref><ref>『江戸散歩』東京大学史料編纂所(角川書店、2016年)130~133ページ</ref>。理由不明ながら碑が後ろ向きに建てられていたが<ref>『図説 忠臣蔵』(西山松之助監修/河出書房新社))</ref>、現在は再設置され、修正されている(画像参照)。
 
; 大石良雄外十六人忠烈の跡
==== 史実 ====
: [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[高輪|高輪一丁目]]
: 赤穂浪士の切腹後、大石内蔵助らを預かった[[細川綱利]]は切腹跡についた血を清掃することを禁じた<ref name="泉(1998)120">[[#泉(1998)|泉(1998)]] p.120</ref><ref name="名前なし_5-20240629115709"/>。さらに綱利は「彼らは細川家の守り神である」として17士の遺髪を分けて頂き供養塔や墓を建て<ref>「細川家堀内文書」。伝右衛門はさらに国元の知行地にある曹洞宗の寺にも遺髪を納めた墓や供養塔を建立している。</ref>、切腹場所を屋敷の名所として残すように命じている。しかし、綱利の血筋が絶えたこと、延享2年(1745年)に火災でこの屋敷が焼失したこと<ref>「肥後文献叢書」第一巻」</ref>、 延享4年(1747年)に江戸城中で[[細川宗孝]]が遺恨<ref group="注釈">細川家では人違いの犯行としているが、板倉家では「細川屋敷から排水が隣の板倉邸に流れたことでの遺恨」としている。(「安中古文書」群馬県立文書館)</ref>により斬殺され加害者の遺臣が健在だったこと、この事件の際に浅野氏と不仲の伊達家が御家断絶の危機を救う恩人になったこと、など様々な事情が重なり綱利の遺言は守られなかった<ref group="注釈">熊本藩御家資料(細川家文書・藩主裁可文書)ほか、熊本大学寄託永青文庫)。供養施設のほか、遺構として畳三枚、屏風、風雨除け、脇差台があったとされる。</ref> 。明治に入ってからも細川邸跡はそのまま放置された状態だったが、第二次大戦後は徐々に整備され、現在は「大石良雄等自刃ノ跡」が[[道路]]脇にあり<ref group="注釈">実際に[[大石良雄]]が切腹した場所ではない。(「大石良雄」記事の画像8枚目も参照)</ref>、公営住宅の[[門]](細川邸不浄門)<ref>『江戸散歩』東京大学史料編纂所(角川書店、2016年)183ページ</ref>に「大石良雄外十六人忠烈の跡」[[顕彰碑]]が設置されている<ref>平成10年(1998年)中央義士会・港区教育委員会</ref>。
 
; [[水野監物邸跡]]
南部坂の別れは創作であり<ref name="yamamoto53nanbu" />、元禄15年11月29日に大石は瑤泉院に『金銀受払帳』を届け、瑤泉院の用人落合与左衛門に討ち入りの事を知らせている<ref name="yamamoto53nanbu" />。しかしこれは手紙を送っただけで大石が直接南部坂の瑤泉院のもとへ向かったわけではない<ref name="yamamoto53nanbu" />。
: 東京都港区[[芝 (東京都港区)|芝五丁目]]
: ただし、水野氏は江戸市民や浪人たちに藩邸を襲撃され、破損・火災などにより屋敷を移動したため、実際に浪士が切腹した当時の屋敷は同地より北へ50メートルほど離れた別の場所である<ref>現地「東京都教育委員会による二か国語説明板」解説。</ref>。
 
; [[大石主税良金ら十士切腹の地]]
====創作物における歴史====
: 東京都港区[[三田 (東京都港区)#二丁目|三田二丁目]]
: 松山藩の屋敷跡には赤穂事件の遺構は残っていなかったが、[[昭和]]14年(1939年)に[[徳富蘇峰]]が[[揮毫]]の「赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館」碑<ref group="注釈">石碑には「徳富正敬」の標記となっている。</ref>が建立された。ただし、蘇峰の著作そのものには赤穂浪士への毀損が書かれることが多い<ref>蘇峰の代表作『[[近世日本国民史]]』では「不揃家来、徒党を組み吉良邸に押し入り、翌年二月斉しく切腹」などと記され、所謂「義士否認論」が見られる。</ref>。
: イタリア大使館敷地内のため見学不可。「赤穂民報」によると数年に一度は供養の行事を行っているという<ref>赤穂民報「イタリア大使館で義士慰霊祭」(2015.12.5)</ref>。
 
; [[毛利甲斐守邸跡|長門長府城主毛利甲斐守網元麻布上屋敷跡]]
元禄16年に書かれた『赤穂鍾秀記』にはすでに大石と瑤泉院の別れの場面が描かれている<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]]</ref>。
: 東京都港区[[六本木|六本木六丁目]]
: 毛利家の意向により、赤穂浪士の供養塔や顕彰碑の類が藩邸跡に一切存在しない([[毛利師就]]は江戸城の[[松の廊下]]にて乱心した水野忠恒から刃傷を受け、師就は吉良義央に倣い刀を抜かずに対応し、重傷を負ったが一命をとりとめた)<ref name="#1">「毛利家文庫」「長府毛利十四代記」(下関市立長府博物館)など</ref>。庭園名に「毛利」を冠した森ビルも踏襲している<ref>[[毛利氏]]の本貫・毛利荘の読みは「もりのしょう」。</ref>。
 
; その他、関連の地
『赤穂鍾秀記』によれば、瑤泉院のもとに内蔵助がやってきて「近々遠国へ行くために御暇乞いの挨拶に来た」と言い、昔の事を話して帰っていった。去り際に内蔵助は瑤泉院お付きの侍に歌書が入っていると称する一封を渡していった。12月15日、まだ討ち入りについて知らないうちに封書をあけると、中には瑤泉院から預かった金子七千両の使い道を書いた書類が入っていた<ref>『赤穂義人纂書. 第2 巻之9−18』 国書刊行会 p432</ref>。<!--またこの話はもともと講談の義士銘々伝の一つとして語られていたものであるともいう<ref name="koto-nanbu">[https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%9D%82%E9%9B%AA%E3%81%AE%E5%88%A5%E3%82%8C-1192284 コトバンク世界大百科事典「南部坂雪の別れ」]</ref>。-->
*[[赤穂城]]
 
天保7年 - 明治5年([[1836年]] - [[1872年]])に書かれた[[為永春水]]の『正史実伝いろは文庫』の第七回にもすでにこの話が載っている<ref>[[#忠臣蔵文庫(1912)|忠臣蔵文庫(1912)]]</ref>。
 
[[File:誠忠大星一代話廿六.jpg|thumb|『誠忠大星一代話廿六』、[[三代歌川豊国|三代目歌川豊国]]画。嘉永元年(1848年)の泉岳寺の開帳にあわせてつくられた35枚組の1つ<ref>[http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/html/20031213chu/degitalframeset-ichidaibanashi.htm 立命館大学『忠臣蔵と見立て』誠忠大星一代話]</ref>で今日でいう「南部坂雪の別れ」を描く。本国に帰る暇乞いに来たという大星(史実の大石)は葉泉院(史実の瑤泉院)と去りし日の話をする。 葉泉院は翌日寺岡(史実の寺坂吉右衛門)の報告で討ち入りを知る。]]
 
また明治4年([[1871年]])10月16日守田座初演の左団次一座による[[河竹黙阿弥]]作『四十七石忠箭計(しじゅうしちこくちゅうやどけい)』でもこの場面は描かれている<ref>データ百科シリーズ『元禄忠臣蔵データファイル』、元禄忠臣蔵の会編、人物住来社 p238。[{{NDLDC|878921/380}} 近代デジタルライブラリ『文芸叢書. 忠臣蔵文庫 』 四十七石忠箭計] 四幕目(404コマから)の葉泉院第舎の場</ref>。<!--
 
ストーリー展開は今日のものとよく似ているが、細かいところには差もあり、大星(史実の大石)は他家に仕官する事になったという代わりに町人になることになったのだと嘘をつくし、御焼香のくだりがない代わりに、激昂した葉泉院(史実の瑤泉院)から亡き殿の位牌で叩かれる。また去り際に大星が渡すのは自身の発句をしたためたと称する一封で、これの中身を見て仇討ちする真意に気づくところは同じだが中身が何なのかは明言されていない。
 
しかし最大の違いは清水大学(史実の清水一学)が登場するところで、間者のお梅は清水に仇討ちがない旨を報告し、清水は大星に直接あってその腑抜けぶりを確認する。-->
 
『南部坂雪の別れ』はその後[[桃中軒雲右衛門]]の口演により浪花節の人気演目をになり<ref name="koto-nanbu">[https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%9D%82%E9%9B%AA%E3%81%AE%E5%88%A5%E3%82%8C-1192284 コトバンク世界大百科事典「南部坂雪の別れ」]</ref>、明治45年([[1912年]])には口演の筆記本も出ている<ref name="unemon">南部坂雪の別れ 図書 桃中軒雲右衛門 講演 (東京明倫社(ほか), 1912年)[{{NDLDC|891647}} 近代デジタルライブラリの該当箇所]</ref>。
 
さらに同じく明治45年([[1912年]])には[[立川文庫]]の本にもこの話は収録され<ref name="tatsukawa">大石内蔵助東下り : 武士道精華 雪花山人著 (立川文明堂, 1912年)。[{{NDLDC|1087204/100}} 近代デジタルライブラリの該当箇所]</ref>、 1910 - 1917年の尾上松之助による忠臣蔵の映画にもこの場面は登場する。
 
また昭和13年([[1938年]])11月には、今日でも上演される[[真山青果]]の[[元禄忠臣蔵]]の一編として『南部坂雪の別れ』が[[歌舞伎座]]で上演されている。
 
戦後の忠臣蔵映画を調査した谷川建司によると、映画やドラマにおける「南部坂雪の別れ」の瑤泉院の描写は時代により変化しているという<ref name="tanigawa13-youzenin">[[#谷川(2013)|谷川(2013)]]「瑤泉院に見られる字自立する女性のイメージ」 p369 - p376</ref>。今日のドラマでは、瑤泉院は大石が本心を偽っている事に気づかずに大石を罵るいわば「浅はかな女」<ref name="tanigawa13-youzenin" />という「ネガティブな」<ref name="tanigawa13-youzenin" />描かれ方をされるが、これは映画忠臣蔵黄金期末期<ref name="tanigawa13-youzenin" />にあたる[[1962年]]に公開された『[[忠臣蔵 花の巻・雪の巻]]』以降<ref name="tanigawa13-youzenin" />、忠臣蔵の主力がテレビドラマに移ってからの描かれ方で、それ以前の映画では、口には出さずとも大石の真意に気付く映画もあり<ref name="tanigawa13-youzenin" /><ref>[[#谷川(2013)|谷川(2013)]]ではその例として[[忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻]]([[1959年]])と[[赤穂浪士 (小説)|赤穂浪士]]([[1961年]])を挙げている</ref>、本心に気付かなかったお詫びに討ち入り後の内蔵助に会いに雪の中を駆けつけるもの<ref name="tanigawa13-youzenin" /><ref>[[1958年]]の[[大映]]版の[[忠臣蔵 (1958年の映画)|忠臣蔵]]。[[#谷川(2013)|谷川(2013)]]より。</ref>もある。
 
====脚色====
 
ドラマ等ではこの場面に以下のような脚色がつくことが多い
 
*今日のドラマでは大石は瑤泉院に「他家に仕官が決まった(から最後の別れにきた)」と嘘をつくものが多い。しかし古くは町人になる(『正史実伝いろは文庫』、『四十七石忠箭計』)、大阪で小間物屋を始める(桃中軒雲右衛門の浪花節)という嘘であった。
*瑤泉院に仕える「戸田の局」が登場する事もあり、大石は瑤泉院にはもちろん彼女にも真意を秘密にする。
**『正史実伝いろは文庫』では女中は「松島」という名前だが、『四十七石忠箭計』や桃中軒雲右衛門の浪花節ではすでに「戸田の局」という名前になっている。また彼女が[[小野寺十内]]の妹だという設定も後者に出ている<ref name="unemon" /><ref name="tatsukawa" />。
*大石は最後に亡き殿に御焼香したいと願い出るが、激昂した瑤泉院はそれすら許さない。
**すでに『元禄忠臣蔵』にこのエピソードが見える<ref>[[#真山(1982)|真山(1982)]] p59</ref>
*大石は激昂した瑤泉院から文鎮(『正史実伝いろは文庫』)や亡き殿の位牌(『四十七石忠箭計』)で叩かれる。
*大石は去り際に何らかの書類をおいて帰る。後でそれを見た瑤泉院はこの書類を見て大石の真意を知る。その後間者も無事捕まり、瑤泉院は先の行動を後悔するのだった。
**今日のドラマでは書類の中身は同志の連判状とするものが多い。
*今日のドラマでは間者の名前は「お梅」、「紅梅」など。『四十七石忠箭計』ではすでに「お梅」の名になっている。
* 『四十七石忠箭計』には清水大学(史実の清水一学)が登場する。間者のお梅は清水に大星(史実の大石)には仇討ちする気がない旨を報告し、清水は大星に直接あってその腑抜けぶりを確認する。
<!--
 
 
この逸話は遅くとも1884年の『絵本赤穂義士銘々伝』<ref>絵本赤穂義士銘々伝(鶴声社, 1884年)[{{NDLDC|880015/156}} 近代デジタルライブラリの該当箇所]</ref>には類話が見え、ここでは十二月の朔日、大石は息子主税とともに瑤泉院に最後の挨拶をし、この際二人は田舎に引っ越す旨を述べたところ、瑤泉院から名残の品を受け取る。そして大石は討ち入りの次の日、吉良を討ち取った旨を述べた手紙を瑤泉院に送ったところ、瑤泉院は感涙にむせぶ。この文献では、今日のドラマで見られるような、吉良の間者を警戒する話もなく、瑤泉院も討ち入りを期待する旨は延べずに素直に大石との別れを惜しんでいる。
一方1884年刊行の『赤穂義臣伝』<ref>赤穂義臣伝. 後 上村秀昇編 (楽成舎, 1884年) [{{NDLDC|879760/36}} 近代デジタルライブラリの該当箇所]</ref>では全く異なる話を載せている。この文献では瑤泉院は浅野内匠頭亡き後、浅野長照のもとに身を寄せており、大石は遠国へ行く前に瑤泉院に挨拶に行き、「今若(こんじゃく)の事」を話して亡き殿を思って二人で涙した後退出した。そして大石は討ち入り前日にその旨を書いた書状を瑤泉院に送っている。
 
『赤穂義士の修養』(1909年)<ref name="shuuyou">赤穂義士の修養 楪太仙著 (修養社, 1909年)[{{NDLDC|777399/56}} 近代デジタルライブラリの該当箇所]</ref>、桃中軒如雪の浪花節の筆記本(1910年)<ref name="josetsu">赤穂実録 : 浪花節 図書 桃中軒如雪 口演 (岡本増進堂, 1910年)。[{{NDLDC|891511/56}} 近代デジタルライブラリの該当箇所]</ref>、[[桃中軒雲右衛門]]の浪花節の筆記本(1912年)<ref name="unemon">南部坂雪の別れ 図書 桃中軒雲右衛門 講演 (東京明倫社(ほか), 1912年)[{{NDLDC|891647}} 近代デジタルライブラリの該当箇所]</ref>、[[立川文庫]]の本<ref name="tatsukawa">大石内蔵助東下り : 武士道精華 雪花山人著 (立川文明堂, 1912年)。[{{NDLDC|1087204/100}} 近代デジタルライブラリの該当箇所]</ref>は今日のものにより近く、戸田の局も登場している。上記の文献ではすでに登場しており、彼女は[[小野寺十内]]の妹だという事になっている<ref name="josetsu" /><ref name="unemon" /><ref name="tatsukawa" />。
 
大石が瑤泉院に(仇討ちをせず)江戸から京に帰る旨を述べた<ref name="josetsu" /><ref name="unemon" /><ref name="tatsukawa" />ところ瑤泉院は泣き崩れ<ref name="josetsu" /><ref name="unemon" />、あるいは立腹する<ref name="tatsukawa" />。大石は瑤泉院にはもちろん戸田の局にも本心を明かす事無く去って行く<ref name="josetsu" /><ref name="unemon" /><ref name="tatsukawa" />。桃中軒雲右衛門のものでは大石は武門を離れ大阪で小間物屋を始めると嘘をついている<ref name="unemon" />。大石が本心を隠す理由は立川文庫版には述べられていないが<ref name="tatsukawa" />、大石は千坂兵部に送られた上杉の間者を気にしており<ref name="josetsu" /><ref name="unemon" />特に最後のものでは大石は千坂兵部の間者を気にして小間物屋を始めると嘘をつき、瑤泉院は泣き崩れる。大石が去った後、間者である女中が戸田の局に捕まり、討ち入りがあった旨を寺坂吉右衛門から聞く事で、瑤泉院は大石の真意を知る<ref name="unemon" />。なお、忠臣蔵のドラマ等では、大石が浅野内匠頭の仏壇に焼香しようとして瑤泉院から断られる場面が描かれるものがあるが、上に挙げた文献にはこの描写は見られない<ref name="shuuyou" /><ref name="josetsu" /><ref name="unemon" />。-->
 
=== 討ち入りの際の逸話 ===
 
==== 討ち入り蕎麦 ====
 
元禄15年12月14日の深夜に四十七士が両国の蕎麦屋の二階に全員集結し、蕎麦を肴に最後の宴を開いてから討ち入りにでかけたという話<ref name="sumida">[http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA024/soba.html すみだあれこれ/討ち入り蕎麦]</ref>。
 
===== 創作物において =====
 
[[File:Tmp 7538-Screenmemo 2015-07-10-14-11-00-1105679424.png|thumb|150px|饂飩屋久兵衛の店。『正史実伝いろは文庫』二十一回の挿し絵<ref>[[#忠臣蔵文庫(1912)|忠臣蔵文庫(1912)]]</ref>]]
 
『泉岳寺書上』には討ち入りの日に楠屋十兵衛というものに手打ち蕎麦五十人前を作らせ、義士達が皆で泉岳寺を詣でた後に楠屋に集結したと書かれている<ref name="kakiue">[{{NDLDC|958904/237}} 近代デジタルライブラリ『義士伝』泉岳寺書上]。p450に楠屋の件が載っており、p466に浅野内匠頭の亡霊が登場する。p455には太鼓を打ち鳴らしたとある。</ref>。しかしこの文献は浅野内匠頭の亡霊が登場する<ref name="kakiue" />など怪しげな内容のものであり、偽書とされる<ref name="engyo-soba">[[#三田村(1930)|三田村(1930)]]p256 - </ref><ref>[[#今尾(1987)|今尾(1987)]] p49 </ref>。
 
また『泉岳寺書上』には「手打ち蕎麦」を食べたとあるが、「手打ち蕎麦」という言葉は宝暦以後のもので、元禄の頃は「蕎麦切り」といっていたはずである<ref name="engyo-soba" />。したがってドラマ等で見られる浪士達が吉良を「手打ち」にする蕎麦を食べてげんを担いだとする話は史実ではない。
 
元禄16年3月に書かれた<ref name="gishi-ge-udonya">[[#赤穂義士史料下(1931)|赤穂義士史料下(1931)]] p4, p513</ref>『易水連袂録』の「ウドン屋久兵衛口上書の事」には「ウドン屋久兵衛」の店に皆で集まりうどん、そば切り、酒肴を食べたとある<ref name="gishi-ge-udonya" />。
また創作物ではあるが、『正史実伝いろは文庫』の第二十一回には、赤穂浪士二十四、五人が饂飩屋久兵衛の店に集まり蕎麦きりを食べたとある<ref>[[#忠臣蔵文庫(1912)|忠臣蔵文庫(1912)]]</ref>。
 
===== 史実 =====
 
史実においても討ち入り前日の12月13日の夕方には同志たちで酒肴を用意して今生の暇乞いの盃を交わした<ref name="yamamotob42keikaku">[[#山本(2012b)|山本(2012b)]]第四章3節「計画通りの討ち入り」</ref>。
討ち入り当日の14日は[[吉田兼亮|吉田忠左衛門]]、[[原元辰|原惣右衛門]]、[[吉田兼貞|吉田澤右衛門]]ら6、7人が両国橋向川岸町の亀田屋という茶屋でそば切りなどを注文してゆっくり休息したと『寺坂信行筆記』にある<ref name="yamamotob42keikaku" /><ref>[[#赤穂義士史料上(1931)|赤穂義士史料上(1931)]]p268(本書では寺坂信行筆記のうち寺坂私記と共通する部分は省かれているため、寺坂私記の方に当該文書が載っている)</ref>。
 
==== 当日の天気 ====
 
忠臣蔵もののドラマでは雪が降りしきる中討ち入りに行くものが多いが、史実では数日前に降った雪が積もっていたものの<ref name="genroku118">[[#元禄(1999)|元禄(1999)]]p118</ref>、討ち入り当日は晴れていた<ref name="genroku118" />。また空には月が輝いていた<ref name="genroku118" />。
 
月は満月に近いが、討ち入りの時刻には月は大分西の空の低い場所にあったため、月齢から考えるほど明るくはなかった<ref>[http://koyomi.vis.ne.jp/doc/mlwa/200612140.htm こよみのページ「暦のこぼれ話」赤穂義士祭]</ref>。
 
==== 山鹿流陣太鼓 ====
 
討ち入りの際、大石内蔵助が「一打ち三流れ」(ひとうちみながれ<ref>[[#講談名作文庫(1976)|講談名作文庫(1976)]]。「神崎与五郎かながきの詫び証文」</ref>)の山鹿流陣太鼓を打ち鳴らす、というもの。
 
四十七士側の史料である『人々心覚』、『寺坂信行筆記』、『富森筆記』には、笛や鉦を持参した話は載っているが、太鼓を用意したとは書かれていない<ref name="miyazawa163" />。
 
現実問題として、太鼓を叩いてしまっては奇襲が意味をなさなくなってしまうので、浪士たちは太鼓を叩いていないであろう<ref name="miyazawa163" />。
 
しかし吉良義周の口上書には赤穂浪士が「火事装束」で「太鼓」などを叩いて切り込んできたとあるし<ref name="miyazawa163" />、上杉家の資料や『桑名藩所伝覚書』、『浅野浪人敵打聞書』などにも太鼓について触れられている。
 
当時太鼓といえば火事を連想するものであったので<ref name="miyazawa163" />、火事装束のような姿で侵入した浪士たちに気が動転する吉良側が扉を打ち壊す際の音を火事太鼓と聞き間違えたのではないかと宮澤誠一は推測している<ref name="miyazawa163" />。
 
なお、討ち入りの際太鼓を打ち鳴らしたという俗説は、浪士切腹後二か月で世に出た『易水連快録』にすでに載っており<ref name="miyazawa163">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p163-166</ref>、他にも『浅野仇討記』<ref name="miyazawa163" />や『泉岳寺書上』<ref name="kakiue" />にもこの話は載っている。
 
==== 山鹿流兵法 ====
 
赤穂浪士たちが吉良家との戦いにおいても山鹿流の兵法を用いたとする。
 
史実としては[[山鹿素行]]の[[山鹿流]]は朱子学を基礎に哲学を主とし政治学や陰陽思想を加えたもので<ref name="ooyama">『歴史群像デジタルアーカイブス<元禄赤穂事件と江戸時代>討ち入りは愚策? 山鹿流兵法と忠臣蔵』大山格</ref>、実際の兵法は二次的なものにすぎない<ref name="ooyama" />。山鹿素行は1652年から1660年まで浅野家に仕えていたが<ref name="ooyama" />、以上の理由から山鹿流兵法で討ち入りを成功させたという逸話は創作だといえる<ref name="ooyama" />。
 
==== 装束 ====
 
討ち入りの際、四十七士は全員、服装を黒地に白の山形模様のついた火事場装束のような羽織に統一した、というもの。
 
史実では11月初めの覚書ですでに「黒い小袖」に「モヽ引、脚半、わらし」に決まっており<ref name="miyazawa166">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p166-168</ref>、あとは思い思いの服装でよかった<ref name="miyazawa166" />。全員が一様であったのは定紋つきの黒小袖と両袖をおおった合印の白晒くらいである<ref name="miyazawa166" />。衣類の要所要所には鎖を入れて防備を固めた<ref name="miyazawa166" />。
全体として火消装束に近いスタイルであったが、人生最期の晴れ舞台であったこともあり、火事装束よりはもっと派手だった<ref name="miyazawa166" />。
 
火事羽織からの連想からか元禄16年に書かれた『赤穂鍾秀記』ではすでに「黒い小袖」が「黒い羽織」に代わってしまっている<ref name="miyazawa166" />。黒地に白の入山形は宝永7年(1710年)6月の『鬼鹿無佐志鐙』に原型があり<ref name="miyazawa166" />、『仮名手本忠臣蔵』で広く知られるようになった<ref name="miyazawa166" />。浪士の名前を書いた左右の白襟は片島武矩の『義士伝』に端を発し、幕末の浮世絵師の一勇斎国芳画『誠忠義士伝』で形作られ、明治にかけて一般化した<ref name="miyazawa166" />。<!--
 
 
実際には襟の白布に「浅野内匠頭家来」と書いた程度で<ref name="genroku119">[[#元禄(1999)|元禄(1999)]]p119</ref>、火事装束に似せた黒装束にした以外は思い思いの装束であり<ref name="genroku119" />、下には鎖帷子を着ていた<ref name="genroku119" />。
山形模様は『仮名手本忠臣蔵』の衣装に採用されて広く認知されるようになったものだが、先行作でも使用が確認されている<ref>忠臣蔵とは何か 丸谷才一</ref>。-->
 
==== 上杉家の忠臣 ====
 
討ち入りを聞いた[[上杉綱憲]]が実父・吉良上野介を助けるため出陣しようとするも、幕府に睨まれるのを避けるために家老にとめられたというもの<ref name="yamamoto64uesugi">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第六章四節「上杉家の対応」</ref>。この家老は[[千坂高房|千坂兵部]]もしくは[[色部安長|色部又四郎]]だとされる。
 
赤穂事件があった当初からこのような風説は存在し、元禄16年3月に書かれた『赤城士話』には、上杉綱憲が討ち入り後の赤穂浪士を討つべく泉岳寺に派兵しようとしたが家老達に止められたという風説を記しており、同書によればこれを聞いた国家老の長尾権四郎が激怒したという<ref name="miyazawaa185">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p185-186</ref>。
 
===== 史実 =====
 
史実において綱憲は討ち入り当日病気であったが<ref name="yamamoto64uesugi" />、藩士を派遣しようとした<ref name="yamamoto64uesugi" />。しかし高家の畠山下総守がやってきて、「江府の騒動」になるのは畏れ多いので討手を出さないようにという老中の言葉を伝えた<ref name="yamamoto64uesugi" />ため、幕命にそむく事ができず藩士を送らなかったのだという(『上杉家年譜』)<ref name="yamamoto64uesugi" />。
 
また佐々木杜太郎は、討ち入りの人数が多数であるように見せかけた赤穂浪士の戦術が功を奏して、その場に侍が30~40人しかいなかった上杉家は兵を出せなかったのではないかと述べている<ref>佐々木杜太郎『吉良上野介の正体』。[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p184から重引</ref>。
 
いずれにせよ史実としては上杉家が派兵しなかった理由は家老の諌止ではないにもかかわらず、なぜ諌止説が語り継がれてきたかというと、そもそもなぜ上杉家が派兵しなかったのだろうという疑問に答える必要があったためであろう<ref name="miyazawaa185" />。
 
なお、史実においても赤穂浪士達は引き上げの際、上杉の追手が来たと思い戦闘の準備をしている(『義士実録』)<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p177</ref>。
 
また史実において事件当時千坂兵部は既に死んでおり<ref name="gisi324">『忠臣蔵四十七義士全名鑑 完全版』 中央義士会 p324-325</ref><ref name="sasaki342">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p342</ref>、家老は色部又四郎であった<ref name="yamamoto64uesugi" />。また色部は父が11月に亡くなった事により討ち入りがあった夜は出仕してしなかったともいう<ref name="gisi324" />{{要高次出典|date=2015年7月}}<!--この本より何倍も詳しい佐々木(1983)や山本(2012a)等、この件に触れているものがあるのに、他に色部が出仕していないと書いてあるのはない。-->
 
==== 浅野内匠頭が切腹に用いた刀で吉良を討つ ====
 
浅野内匠頭が切腹に用いた刀で吉良を討ったとする逸話はすでに『仮名手本忠臣蔵』に登場している。
 
=== 討ち入り後の逸話 ===
====大石の和歌====
大石内蔵助が泉岳寺において「あら楽し思ひは霽るる身は捨つる浮き世の月に翳る雲なし」という和歌を詠んだというもの。
 
泉岳寺における赤穂浪士の言動を記した『白明話録』には、木村岡右衛門の和歌、大高源吾の俳句、武林唯七の漢詩が書きとめられているにもかかわらず、大石の上記の和歌は載っておらず、後世の偽作なのだと思われる<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p177</ref>。
 
====琴の爪====
 
赤穂浪士達が切腹する当日、四十七士の一人[[礒貝正久|礒貝十郎左衛門]]が討ち入り直前に付き合い始めた許嫁の「おみの」が人目を忍んでやってくる。
「礒貝は仇討ちの作戦に利用するために、自分と付き合っただけなのではないか」そんな疑念を抱いていたおみのは、最後に真実を知りたかったのだ。
 
礒貝は本心ではおみのに恋心を抱いていたのだが、おみのを前にして「そんな女は知らぬ」と嘘をついて取り合わない。
 
だがその場に居合わせた大石内蔵助は、礒貝がおみのの琴の爪を肌身はなさず持っていた事を告げる。
 
おみのは礒貝の本心を悟って喜び、礒貝の後を追って自害する決意を固める。
 
そして礒貝と大石は切腹の場へと赴くのだった。
 
 
この話は[[真山青果]]の新歌舞伎『[[元禄忠臣蔵]]』の一編『大石最後の一日』に登場する逸話<ref>[[#真山(1982)|真山(1982)]]</ref>で昭和9年(1934年)2月に[[歌舞伎座]]で初演された。
 
本作はその後二度にわたり映画化されている(1942年の『[[元禄忠臣蔵#映画|元禄忠臣蔵後編]]』と1957年の『「元祿忠臣蔵・大石最後の一日」より 琴の爪』[http://eiga.com/movie/72550/])。
 
=====史実=====
 
礒貝が切腹の時に琴の爪を持っていたとする逸話自身は史実であり、『堀内覚書』に「死を賜ふの後紫縮緬の袱紗に包みたる鼻紙袋中に琴の爪一つありたり」とある<ref name="sasaki177">[[#佐々木(1983)|佐々木(1983)]] p177-178</ref>。
史実によれば磯貝は能と鼓が堪能であったが、浅野内匠頭が嫌いであったからこれをやめたという<ref name="sasaki177" />。しかし弾琴は続け、それゆえ切腹時に琴の爪を持っていたのである<ref name="sasaki177" />。
 
創作物においても嘉永7年([[1854年]])<ref>[http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA57718205 CiNii『 赤穂義士傳一夕話』]</ref>に書かれた[[山崎美成]]の『赤穂義士伝一夕話』の四巻に磯貝が切腹時に琴の爪を持っていた琴がでてくる<ref>[{{NDLDC|772498}} 近代デジタルライブラリ『赤穂義士伝一夕話』]四巻53ページ</ref>。
しかしここでは「おみの」は登場せず、礒貝が風流である事を示す逸話として討ち入りに琴の爪を持っていた事が語られるのみである。
 
==== 徂徠豆腐 ====
 
徂徠豆腐は[[落語]]と[[講談]]の共通演目である。
 
儒学者の[[荻生徂徠]]は若いときには貧しく、食費に困り豆腐屋で[[おから]]をめぐんでもらって生活していた。
 
赤穂事件が起こると、幕府では浪士達の処分を巡り議論が紛糾していた。そこへすでに名をあげていた徂徠が登場し、「すでに死を覚悟している浪士達を助けるのは彼らの忠義に反する。彼らに切腹させるべきだ」と理を解き、浪士達の切腹が決まる。
 
一方、徂徠が若き日にお世話になった豆腐屋は火事で家を焼かれ困り果てていたが、徂徠は昔のお礼にと豆腐屋に金子を渡す。
 
豆腐屋は嬉しさのあまりこういった「先生が私のために自腹を切ってくれた」
 
==== 『祇園可音物語』 ====
 
大石内蔵助の下僕であった半右衛門は呉服屋の茶屋宗古という男と懇意になる。
半右衛門は宗古から、自分の嫡男の嫁を見つけるよう依頼され、半右衛門は一人の娘を紹介する。
 
祝言の前日には、三百人もの腰の者がついて来たので、娘は裕福な身の上であることが想像されるが、半右衛門は娘の素性をいっさい明かさない。
 
祝言をすませると、夜中に半右衛門が突然切腹する。不振に思った周囲の者が娘に問いただすと、娘は自分が大石内蔵助の姫なのだと明かした。
 
半右衛門は内蔵助の姫を預かっていたため、討ち入りにも参加せずにこれまでむなしく生きてきたが、無事祝言もすませたので、主人の後を追って殉死したのだ。
 
===== 史実 =====
 
この話は大田南畝が『半日閑話』の中で 宝永六年(1709年)四月上旬の聞書きという体裁で『祇園可音物語』(ぎおんかねものがたり)の名のもとに書き留めたものである<ref name="taguchi33gion">[[#田口(1998)|田口(1998)]]第三章3『祇園可音物語』</ref>。
 
しかしこれは史実ではなく、大石には二人の娘がいたもののの長女クウは14才で夭折しているし<ref name="taguchi33gion" /> 、次女ルリは進藤源四郎のもとへ養子に行った後浅野長十郎へ嫁いでいる<ref name="taguchi33gion" />。
 
また大石が赤穂時代に妾と作った子供も元禄15年に夭折しているし<ref name="yamamoto41gion" />、山科で妾と作った子供はまだ7才である。
 
==== 脱盟者は実は第二陣であった ====
 
===== 大野九郎兵衛 =====
 
芝居などで悪名高い[[大野知房|大野九郎兵衛]]は実は逃げたわけではなく、大石が吉良を討ち漏らした場合に備え、米沢藩へ逃げ込むであろう吉良を待ちうけて[[山形県]]の[[板谷峠]]に潜伏していたという逸話がある<ref name="kubi">[[#今尾(1987)|今尾(1987)]]、p108-119</ref><ref name="kirino">『歴史群像デジタルアーカイブス<元禄赤穂事件-忠臣蔵外伝>なぜ大多数の赤穂藩浪士は仇討ちに参加しなかったのか』桐野作人</ref>。[[明和]]6年([[1769年]])にたてられた[[板谷峠]]近くの馬場の平に残る大野九郎兵衛の供養碑にその旨を記載されている<ref name="kirino" />。
 
また群馬県安中市には、その周辺にある吉良家の飛び領地に上野介が逃れてくると予想して、大野が手習い師匠をしながら潜伏していたという伝説がある<ref name="taniguchi179">[[#谷口(2006|谷口(2006)]] p179-180</ref>。山梨県甲府市の能成護国禅寺には、大野九郎兵衛が柳沢吉保を頼って甲斐に移り住んだという伝説がある<ref name="taniguchi179" />。
 
===== その他 =====
 
[[奥野定良|奥野将監]]にも別働隊を率いていたとか、浅野内匠頭の姫を密かに育てたという逸話がある<ref>[[#元禄(1999)|元禄(1999)]]p113</ref>。
 
『江赤見聞記』には「討ち入りは失敗するだろうから自分が第二陣になる」という趣旨の事を述べて奥野将監が脱盟したとあるが<ref name="yamanoto43datsumei">[[#山本(2012a)|山本(2012a)]]第四章三「脱盟者の思い」</ref>、「これは信じられない」<ref name="yamanoto43datsumei" /> 。同書には[[進藤源四郎]]も第二陣になると述べた旨が書かれている<ref name="kubi" />。
 
創作物ではあるが、[[人形浄瑠璃]]の『忠臣後日噺』では[[進藤源四郎]]が第二陣であったとされているし<ref name="kubi" />、[[為永春水]]の『正史実伝いろは文庫』には、[[奥野定良|奥野将監]]、[[小山良師|小山源五右衛門]]、[[進藤源四郎]]、[[佐々小左衛門]]、[[毛利小平太]]が第二陣であった旨が記載されている<ref>[{{NDLDC|2627939}} 近代デジタルライブラリ『正史実伝いろは文庫』] p103, 177, 401を参照。</ref>。
 
==== 大野九郎兵衛の娘 ====
 
[[伴蒿蹊]]の『閑田次筆』に次のような逸話が収められている<ref>[[#今尾(1987)|今尾(1987)]]、p97</ref>。
 
[[大野知房|大野九郎兵衛]]は赤穂を出奔するとき、娘を置いて逃げた。
置いていかれた娘は、父・九郎兵衛が出奔したのは、敵を欺くための計略だろうと信じていた。
しかし赤穂浪士たちの討ち入りについて記した[[瓦版]]を読んでも父の名はなく、打ちひしがれて寝込んでしまった。
 
この娘の夫・梶浦は事態を知り、こう言った「九郎兵衛の娘と連れ添っているのは武士の道にもとるので、お前とは縁を切る。行くところもないだろうから裏の隠居所で暮らせ」。
娘に罪があるわけではないので、夫の梶浦は妾を持つこともなく、やもめとして一生を終えた。
 
 
『赤穂義士伝一夕話』にも同じ話が載っている<ref>[{{NDLDC|772498}} 近代デジタルライブラリー『赤穂義士伝一夕話』]巻之六 三十八ページ</ref>。
 
=== 義士銘々伝 ===
 
==== 大石内蔵助は養子 ====
 
講談では大石内蔵助はもともと備前岡山の城主池田宮内大輔の家老池田玄蕃の次男で久馬という名前であったが、養子になって大石内蔵助良雄という名前になったのだという<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] p308</ref>。しかしこれはもちろん史実ではない。
 
なお、史実において大石は妻のりくに当てた手紙に「池田久右衛門」という偽名で署名している<ref>[[#山本(2013)|山本(2013)]] p127</ref>。
 
==== お薬献上 ====
 
13歳の池田久馬(後の大石内蔵助)は病気になった藩主池田宮内大輔に薬を飲ませる役をおおせつかわった。
しかし宮内大輔は薬嫌いであった為一筋縄ではいかない。
 
そこで久馬はあえて宮内大輔を怒らせ、「手打ちにする」と追ってくる宮内大輔から逃げ回る。
そのうち宮内大輔が疲れてお湯を持ってくるようにいうと、久馬は薬を溶かしたお湯を渡す。
疲れていた宮内大輔はこれを飲み干すのだった。
 
この事が評判になり、久馬は大石家の養子に迎えられ、大石内蔵助良雄と名を改めたのだった<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「お薬献上」p308-312</ref>。
 
==== 山鹿送り ====
 
[[山鹿素行]]は独自の軍学山鹿流を興し、様々な大名に兵学を教えていたが、著書の一つ「聖教要録」が幕府の忌諱に触れ、播州赤穂にお預かりになった。
 
22歳の内蔵助は山鹿素行を赤穂まで護送する任務にあたったが、山鹿素行の門下の者がこれに反発して襲撃してくる。
しかし内蔵助は門下の者達に、「ここで素行を奪い返すは幕府に弓を引くも同然」と道理を説いて説得し、無事山鹿素行を赤穂まで連れてくるのだった。
 
この後内蔵助は山鹿素行から軍学を学ぶ事になる<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「山鹿送り」p312-325</ref>。
 
==== 向島の花見 ====
 
28歳の内蔵助は下僕の勝助とともに向島に花見に行った。
そこで勝助が三人の侍に泥をはねてしまった事から口論となり、侍達は勝助を斬ると刀を抜く。
しかし内蔵助が刀を持った三人を素手で倒してしまい、事なきを得る。
 
たまたまこれを見ていた石塚源五兵衛は内蔵助を気に入り、これが縁となって内蔵助は源五兵衛の娘のりくと結婚する事になった<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「向島の花見」p325-331</ref>。
 
==== 松山城受け取り ====
 
備中松山の水谷家では藩主が死に世継ぎもなかった為、水谷家は藩主の舎弟の主水に召し上げられ、松山城は没収される事になった。
その際松山城の受け取り役を34歳の大石内蔵助が申しつけられた。
 
松山城の藩士達は城を枕に籠城討死の覚悟であったが、大石は松山城にたった一人で乗り込んでいき、城代の鶴見内蔵助と会う。
そして大石は「藩主への忠義から籠城しているのかもしれないが、城を枕に戦えば藩主の舎弟の主水公に迷惑がかかるのでかえって不忠ではないか」と理を説いた。
 
これに感服した鶴見は松山城を無血開城する。この功で大石は幕府から加増され、大石の名は全国にとどろいた<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] p331-337</ref>。
 
==== 粗忽の権化 ====
 
[[武林隆重|武林唯七]]は気の短い粗忽者であった。
 
講談では唯七は主君・浅野内匠頭の乳兄弟ということになっており、その縁であるとき唯七は内匠頭から[[月代]]を剃るように頼まれた。
 
しかし唯七は頭を湿らせる事なく剃刀で剃ってしまい、内匠頭は痛い思いをした。
 
さらに剃っているうちに剃刀の柄が外れてきてしまったので、柄の部分を内匠頭の頭にトントンと叩きつけて治した。
 
かなり無礼な行為であったが、内匠頭は唯七の粗忽ぶりを知っていたので笑って許した<ref>[[#講談名作文庫|講談名作文庫]]「名代の粗忽者」</ref>。
 
 
またあるとき唯七は芸州浅野本家に使いに行く事になった。
ところが途中で堀部安兵衛に剣術の稽古に誘われ、稽古に熱中しているうちに使いの事を忘れてしまう。
 
やっと使いの事を思い出してまず馬に乗ろうとするも間違って前後反対に乗ってしまい「馬に首がない!」と驚く始末。
 
その後使いにいくが間違って浅野本家ではなく黒田家に入ってしまった事に気づく。
仕方がないから「腹が減ったから黒田家に一食一飯をご無心にきた」と言ってごまかし、食事だけもらって黒田家を出る。
 
そしてとうとう浅野本家に到着するが、ここで初めて使者の口上を聞き忘れた事に気づくのだった<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「粗忽の権化」、「首のない馬」p379-386</ref>。
 
帰り道に杜若を内匠頭に持っていくよう頼まれるが、鉄砲州のお屋敷近くが火事になっているのを見て慌てて、馬を走らせようと杜若で馬を叩いてしまう。おかげで帰り着いた時には杜若には茎しかなかった。
 
 
前半の剃刀の話は『赤穂精義参考内侍所』に[[大高忠雄|大高源吾]]の父・大高源右衛門の話として載っている。最後の杜若の話も同書にある。<!--147-->
 
使いの話は落語の「[[粗忽の使者]]」の類話である。
 
==== 安兵衛の生い立ち ====
 
[[堀部武庸|堀部安兵衛]]の父・中山安太郎は色男で、親が決めた許嫁の「おみつ」がいるのに、芸妓の「小菊」と仲良くなり子供の安之助を作ってしまう。この安之助が後の堀部安兵衛である。
 
安之助が出来た事に安太郎の父の中山安左衛門は激怒し、安太郎を勘当して家から追い出す。
その後小菊は若くして亡くなり、安太郎も病気になってしまう。
 
あるとき、宿場にいた老武士が薬を持っている事にきづいた安之助は父・安太郎のために薬を盗んでしまうが、
安之助は老武士につかまってしまう。この老武士は実は祖父の安左衛門であった。ここに祖父と孫は運命的な再開を果たす事になる。
 
一方、安太郎の許嫁であった「おみつ」は、安太郎が勘当されていなくなってからというもの、安左衛門の世話をしながらずっと安太郎の事を待っていた。
この事を安左衛門の下僕から聞いた安太郎は申し訳なさに人知れず自害する。
 
安之助はおみつに引き取られ、以後中山家の一員として暮らしていく事になる。それ以後剣術に励み、めきめきと腕を上達させる。
 
安之助は16歳の時元服し、名を安兵衛武庸に改める<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「安兵衛の生立、良薬の由来」、「図らず知る孫の孝行」、「妻の貞節、懺悔の自殺」</ref>。
 
==== 最初の仇討ち ====
 
中山安兵衛(後の堀部安兵衛)は義理の母おみつと祖父の安左衛門に育てられていたが、安兵衛が元服するとすぐに安左衛門が亡くなり、安兵衛が家督を継ぐ事になる。
 
この頃、安兵衛の義母のおみつは黒田郷八という男から言い寄られていたが、ある日酒に酔った郷八がおみつから冷たくされると、もみ合いの末におみつを殺してしまう。
 
そこへ帰ってきた安兵衛が郷八を一刀両断にする。これが安兵衛最初の仇討ちであった<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「義母の仇討ち」p408-411</ref>。
 
==== 高田馬場の決闘 ====
 
義母が亡くなったので、中山安兵衛(後の堀部安兵衛)は伯父の菅野六郎左衛門を頼って江戸に出てきた。
 
するとある日安兵衛が喧嘩の仲裁をした事から安兵衛はすぐに江戸の有名人となり、「喧嘩安兵衛」という仇名がついた。
また安兵衛はいつも飲んでいる事から「呑兵衛安兵衛」、赤鞘の大小を指している事から「赤鞘安兵衛」、葬式について呑みに行く事から「葬式安兵衛」などとも呼ばれた。
 
ある日の事、安兵衛の伯父の菅野六郎左衛門が、試合で村上庄左衛門、三郎右衛門の兄弟を打ち負かした所、村上兄弟から恨みを買い、決闘を申し込まれる。
村上兄弟は助っ人22人を連れて決闘の場に現れ、対する菅野六郎左衛門はたった一人で決闘の場に現れた。
 
この事を知った安兵衛は伯父の六郎左衛門に助太刀すべく決闘の場所である高田馬場へと走っていったが、
着いた時にはすでに伯父は事切れていた。
 
そこで安兵衛はその場にいた敵全員を斬り倒す。
この[[高田馬場の決闘]]で安兵衛は江戸で名を挙げる事になった。
 
また決闘に助太刀する前にたすきが切れてしまった為、そばにいた女からしごきを借りてたすきにした。
この女は[[堀部金丸|堀部弥兵衛]]の娘で、これが縁となり安兵衛はこの娘と結婚。堀部家に養子になり、堀部安兵衛と名乗る事となった<ref>>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「高田馬場へ一ッ飛び」、「十八人切り、記念の五合枡」、「仇討の物語」・、「安兵衛の身元」、「入聟の相談」、「酔うても本心狂わず」p411-434</ref>。
 
 
なお、[[高田馬場の決闘]]それ自身は史実であるが、ここではあくまで講談で語られている話を載せたので、ここに書いた事が史実とは限らない。
 
====神崎与五郎の生い立ち====
 
神崎与三衛門の息子・与太郎は愚か者で、与三衛門は実子の与太郎がいるのに養子を探すほどだった。
 
ある日、与太郎が釣りをしていると、自分は全然釣れないのに、近くで釣りをしていた太郎作という少年はずいぶん釣れていたのに腹を立て、二度とここで魚釣りをしないよう太郎作に言う。
 
太郎作は魚釣りで盲目の祖母を養ったので、与太郎に食い下がると、与太郎は抜刀して太郎作に斬りかかる。
しかし与太郎は足を滑らせて自らの刀で自分を刺してしまい、そのまま死んでしまう。
 
太郎作は名主のもとに自首する。しかし与太郎が自業自得で死んだ事を知った与太郎の父・与三衛門は、太郎作を養子として養う事にする。こうして太郎作は[[神崎則休|神崎与五郎]]を名乗って神埼家を継ぐ事になった<ref>>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「意外の惨事」、「名主へ相談」、「情けも籠る奉行の裁断」p435-446</ref>。
 
 
『赤穂精義参考内侍所』にこの話が載っている。ただし神崎与五郎当人の話ではなく、与五郎の息子の話ということになっている。<!--p21--> 『赤穂義士伝一夕話』にも神崎与五郎の息子の話として載っている。<!--p233-->
 
====前原伊助の生い立ち====
 
原田次郎吉(後の[[前原宗房|前原伊助]])は7年剣術をならっていたが、あるとき下坂十太夫という男が次郎吉の習っていた剣術の流派を馬鹿にした為口論になる。怒った次郎吉は十太夫に試合を申し込み、叩きのめしてしまう。試合に負けた事で下坂十太夫は殿様の不興を買い、下坂家は断絶。これによりいづらくなった次郎吉は地元の姫路から江戸に出る。
 
ここで次郎吉は[[天然痘|疱瘡]]にかかってしまい、一命は取り留めたものの、左目はつぶれ、髪の毛は薄くなり、顔にはあばたが残ってしまった。
 
仕方がないから大名の中間奉公をしようと、名を伊助と改めて赤穂藩浅野家に仕える。
 
ある日伊助は、月岡十郎左衛門という侍のお伴を命じられるが、月岡は馬に乗るのが下手で、いつまでたっても前に進まない。
そこで伊助は茶屋で少し休憩を取っているが、その間に月岡の馬は泥をはねてしまい、泥が近くにいた別の侍にかかってしまう。
これが原因で口論になり、月岡はその侍に切り殺されてしまう。
 
そこへ駆けつけた伊助は侍を倒して月岡の仇を討つ。これが評判になり伊助は士分に取り立てられ、名字も母方の前原を名乗るようになった<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「雪ぐ師の恥」、「使者の供」、「槍術の妙」p464-471</ref>。
 
====乞食の姉弟====
 
あるとき前原伊助は、乞食の姉弟・小雪と庄太郎が苛められているところに出くわす。
伊助は姉弟を助け、姉弟の面倒をみてやる事にする。
 
しかし姉弟の話を聞いて、伊助は驚いた。聞けば姉弟はその昔伊助が倒した下坂十太夫の子供で、父・十太夫の仇である「原田次郎吉」(伊助の前名)を探しているのだという。
 
伊助は自分がその原田次郎吉当人だという事は隠して姉弟を育てる。
 
赤穂が断絶すると、伊助は吉良邸へと討ち入りに行く事になる。
そのとき伊助は姉弟に手紙を残し、自分が原田次郎吉だという事を明かした。
 
そして伊助が切腹する日、伊助は姉弟を呼びだし、親の仇である自分の首をはねるように言う。
恩人の伊助の首は切れないという姉弟だったが、伊助はそれをしかりつけ、切腹後、首を切らせるのだった<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「乞食の姉弟」p472-478</ref>。
 
 
『正史実伝いろは文庫』の六十回には類話が載っており、ここでは牛尾田主水(史実の[[潮田高教|潮田又之丞]]の父)の話という事になっている<ref>[[#忠臣蔵文庫(1912)|忠臣蔵文庫(1912)]]</ref>。
 
====放蕩指南====
 
[[横川宗利|横川勘平]]は浅野内匠頭刃傷の後、伯母の家にお世話になっていた。
勘平は討ち入りに参加したかったのだが、伯母が勘平を養子にしたいと言い出す。
 
勘平が大石内蔵助に相談したところ、内蔵助はわざと放蕩して伯母から愛想を尽かされれば養子に行かなくてよいのではないかという。
 
そこで勘平は呑めない酒を無理やり呑んだり遊郭に行ったふりをしたりするが、伯父が「若い男が酒を飲んだり遊郭に行ったりするのは付き合いもあるからいいことだ」と理解を示すので、一向に愛想を尽かされない。
 
そうこうするうちに討ち入りの日がやってくる。そこで勘平が外出しようとすると、伯母が怪しんで外出させてくれない。
 
そこで勘平は下女に酒を買いに行かせ、その下女に言う事があるのだといって無理やり家から出て、先に外に出た下女を突き飛ばして吉良邸へと急ぐ。
 
すでに同志は集まっており一番後から来た勘平だったが、そのまま梯子に上り吉良邸に一番乗りして名を残すのだった<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「放蕩指南」「伯母の執拗」、「万事休す」p479-490</ref>。
 
 
『赤穂義士伝一夕話』でも横川勘平は伯母の家に住んでいるが、12日の段階で家から出ている。<!--p245-->
 
====間十次郎の妻子====
 
[[間光興|間十次郎]]は妻子とともに江戸に住んでいたが、浅野内匠頭の刃傷が起こると赤穂に行き、その際妻のていと子供の十太郎を植木屋の六三郎に預けた。
六三郎は昔、浅野内匠頭の秘蔵の盆栽を手折ってしまって手討ちになりそうになったとき間十次郎がとりなしてくれた事があるので、妻子の世話を快く引き受けた。
 
しかし六三郎の妻おとらは、「十次郎の妻子」と称する母子は実は六三郎の妾とその子供なのではないかと疑っており、六三郎が仕事で長期に家を空けなければならなくなると、おとらは十次郎の妻子に米や味噌を送るのをやめた為、十次郎の妻子は困窮する。
 
討ち入りの当日、間十次郎は物乞いをしている息子十次郎をみかけ、はじめてその困窮ぶりを知る。
十次郎は仇討ちの事を隠しながらも、妻子をなぐさめる為、来年には仕官するからそれまで辛抱してほしいと言って去る。
 
討ち入りを期待する十次郎の妻子は、十次郎を鼓舞する為自害する。
胸騒ぎがして帰っていた十次郎は妻子の自害を知り、討ち入りの事を話すべきだったと後悔する。
 
そして十次郎は吉良邸に向かい、吉良の首を取るという功名をあげたのだった<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「嫉妬のほむら」「孝子の袖乞い」、「親子の再会、「妻子の一心、一番槍の功名」p491-505</ref>。
 
====村松喜兵衛、堪忍の木刀====
 
[[村松秀直|村松喜兵衛]]は吉良邸に潜伏しようと、按摩になりすまして吉良邸周辺をうろついていたが、吉良邸からは按摩を頼む声がかからない。
 
ある時、近所の煙草屋・与助から按摩を頼まれる。しかし喜兵衛の按摩があまりに下手なので、与助から「(按摩の)流派は何か」と聞かれるが、喜兵衛は「一刀流です」と剣術の流派を答えてしまう。
 
喜兵衛の按摩が全然効かないと与助から不平が出るので、喜兵衛は腹を立てて柔術の必殺技「肋三枚正風の殺」を与助に極めてしまう。
 
これには与助も参ってしまうが、これも何かの縁だと喜兵衛と雑談を始め、喜兵衛に身の上を聞くと、喜兵衛は「仔細あって浪人しており、按摩になったからかくも卑しき煙草屋の肩を揉み…」とか「世が世なら下手くそなどと無礼を言われれば手討ちにするのに…」などと言い出す始末。
 
しかし与助は面白がってそれからも喜兵衛を按摩に呼ぶのだった。
 
討ち入り当日、喜兵衛は与助のもとに暇乞いにいき、「人切れば私も死なねばなりません。そこでご無事と木脇差さす」という狂歌を刻んだ木刀を渡す。聞けばこの狂歌の意味は「木刀なら人を斬る事もない。人を斬りそうな時も堪忍が大事だ」というものだそうだ。
 
討ち入り後、与助の煙草屋には喜兵衛の木刀を見にくる客が大勢現れ、大いに繁盛したのだった<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「伊勢屋の家宝」 p521-531</ref>。
 
====一夜に討つ君父の仇====
 
[[菅谷政利|菅谷半之丞]]の父・半右衛門は、若くて美しい後妻「お岩」をもらったが、お岩はたちのよくない性格で、半之丞の悪口を半右衛門に讒訴する。これを信じた半右衛門は半之丞を勘当し家から追い出す。
 
半之丞は手習い師匠をして生計を立て、無事結婚して一子をもうけたが、ある日の事、半之丞は父・半右衛門が死んだという話を聞く。聞けば半右衛門はお岩とその情夫・大須賀次郎右衛門に毒殺されたのだという。
 
その後、浅野内匠頭の刃傷が起こり、半之丞も同志の一人に加わる。
 
ある日半之丞は吉良邸からお岩が出てくるのを見かける。
なんとお岩の情夫・大須賀次郎右衛門が上杉家に仕官がかない、付人として吉良邸にきていたのだ。
 
討ち入りの夜、半之丞は父の仇である大須賀次郎右衛門を突き殺し、お岩も討ち取るのだった<ref>[[#講談全集(1929)|講談全集(1929)]] 「父の訃音」、「重なる不幸」、「一夜に討つ君父の仇」 p581-599</ref>。
 
====老人の屈死====
 
大石内蔵助が遊郭で放蕩するのを見かねた老人・[[岡野包秀|岡野金右衛門]]は、内蔵助を切り殺そうと、息子の九十郎とともに内蔵助の住む山科へと乗り込む。
 
大石内蔵助が放蕩する様子を裏庭に隠れて窺う金右衛門親子だったが、内蔵助に全く隙がなく斬り込めない。
 
そんな内蔵助のもとに、内蔵助の息子・主税が現れ、仇討ちもせずに遊んでいる内蔵助に見かねたから切腹すると言い出す。
 
さすがに内蔵助は主税を止め、本心では仇討ちしようと思っているが、敵の間者の目を欺く為あえて放蕩しているのだと伝える。
 
これを裏庭で聞いていた金右衛門、あまりの驚きにその場で死亡(屈死)してしまう。
 
そして金右衛門の息子の九十郎が金右衛門の名を継ぎ、父の遺志を継いで討ち入りに参加する事になった<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「同志の憤激」、「老人の屈死」 p532-538</ref>。
 
====不破数右衛門の芝居見物====
 
[[不破正種|不破数右衛門]]は井上真改という名刀を買ったので、使ってみたくてたまらない。
そこで夜な夜な辻斬りをしたり、墓を暴いて死体を胴切りしたりしていた。
これが見つかって暇を出され浪人する事になる。
 
そのうち浅野内匠頭の刃傷事件が起こる。
数右衛門は吉良を討ちに行かねばと思うが、聞けば赤穂城は無血開城してしまったというし、内匠頭の後室・瑤泉院は境町の中村座で芝居見物に明け暮れているという噂だ。
まずは瑤泉院に諫言せねばと思い、数右衛門は中村座に瑤泉院を探しに行く。
 
そのとき中村座でやっていたのは、『東山栄華舞台』という演目。これは小栗判官が横山大善を斬る所を描いた芝居だったが、内容はどう見ても先日起こったばかりの浅野内匠頭の刃傷事件を扱っていた。実在の事件を扱うと公儀がうるさいので、浅野内匠頭を小栗判官に見立てて刃傷事件を描いているのだ。
 
舞台では役者の中村伝九郎扮する荒獅子男之助が、小栗の一門の者は無気力な不忠ものばかりだと面々を罵っている。
 
これを聞いた数右衛門はカッとなって舞台に上がり、中村伝九郎を殴りつける。
舞台はめちゃくちゃになったが、これがかえって評判になり、連日大入りとなる。
 
この件を聞いた大石内蔵助は、数右衛門の忠義は本物だと思い、浪人中の数右衛門を許して同志の一人に加えたのだった<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「変名の再生」、「主家に擬する芝居」、「同志の落涙」 p568-576</ref>。
 
====女武芸者====
 
赤穂の片原村の郷士、日下部嘉兵衛の娘「おたま」は薙刀の使い手で「自分より強い人としか結婚しない」と言っており、父・嘉兵衛が結婚には千両の持参金を付けると言っていたので、多くの男性が彼女に挑戦しては破れていた。
 
これを聞いた[[大石信清|大石瀬左衛門]]は、傲慢無礼な話だと憤り、彼女に挑戦し、勝ってしまう。
瀬左衛門にはおたまと結婚する気はなかったが、おたまの方が瀬左衛門にいれあげてしまい、結婚を申し込む。
 
しかし瀬左衛門は彼女と結婚すると、千両の持参金目当てで結婚したように取られてしまって面目ない、身一つで来るなら結婚すると言い出す。
 
これを聞いたおたまの父・嘉兵衛は名刀・正宗一振りだけを持たせておたまを嫁に出す。
瀬左衛門も武士の魂の刀であればとこれを受け取り、二人は結婚する事になった<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「女武芸者」、「嫁入りの条件」、「正宗の刀が加増の種」 p611-621</ref>。
 
 
『正史実伝いろは文庫』の第四十七回~四十九回に類話が載っているが、そこでは瀬左衛門はお綾という女性に挑戦するが勝てず、六年もの修行をつんでやっと彼女に勝って結婚している<ref>[[#忠臣蔵文庫(1912)|忠臣蔵文庫(1912)]]</ref>。
 
====寺坂吉右衛門の生い立ち====
 
[[吉田兼亮|吉田忠左衛門]]はあるとき捨て子を見つける。
寺の前の坂で拾ったので、寺坂という姓を付け、行く末吉き事を願い、[[寺坂信行|吉右衛門]]という名前をつけて里子に出し、長じると忠左衛門の所に武家奉公させた。
 
しかし寺坂は忠左衛門の下女「おたね」と密通して子をなすという武家のお法度を犯してしまう。武家奉公の身では夫婦にしてやる事も許されず、忠左衛門は仕方なしに寺坂を解雇する。
おたねも何も持たされず襦袢一枚で忠左衛門の家を追い出されたが、襦袢を調べてみると中に五十両が縫い付けてあった。
忠左衛門が二人を心配して縫い付けてくれたのだ。
二人は八百屋をして生計を立てる事にする。
 
それから十三年後、寺坂は忠左衛門と再会。聞けば忠左衛門は播州浅野家に仕官が決まったが、鎧を買う為の五十両がなくて困っているという。
 
ある日忠左衛門のもとに寺坂がやってきて、豆煎りの入った袋を置いて帰る。
忠左衛門が豆を食べようと袋を開けると、中には五十両が入っていた。
寺坂夫婦は昔の恩返しにと、娘の「お軽」を女衒に売る事で五十両を得て、それをそっと忠左衛門に渡したのだ。
 
しかし急に五十両が手に入った事が災いして忠左衛門は泥棒と勘違いされてつかまってしまう。
しかも忠左衛門は五十両は自分が盗んだものだと自白してしまう。
忠左衛門はこの五十両は寺坂が盗みをはたらいて得たものだと勘違いし、寺坂をかばう為に自白したのだ。
 
そこで寺坂は早速奉行所にかけつけ、五十両は娘を売って得た金である事を詳言。
そこで奉行所が女衒を調べると、女衒が寺坂に払うべきお金の一部を着服していた事、盗難の犯人は女衒の仲間である事などが分かった。
 
これで無事忠左衛門は釈放され、寺坂の娘のお軽も孝行が神妙だという事で親元の寺坂の所へ返され、奉行所の口添えで寺坂も浅野家に奉公できる事になった<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「情けの勘当」、「報恩の身売り」、「情けが仇、事理明白」 p627-646</ref>。
 
 
関根黙庵の『講談落語今昔譚』<ref>[[#関根(1924)|関根(1924)]] p72</ref>によれば、この話は松崎堯臣の『窓のすさみ』に登場する「向坂次郎右衛門」の話<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=kX32QLB77ggC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false Google Books『窓のすさみ』] p200</ref>を寺坂吉右衛門の話に焼きなおしたものだという。
 
===義士外伝===
====忠僕直助====
 
[[大野知房|大野九郎兵衛]]は古物商の橘屋儀右衛門と計り、[[藤原定家]]の色紙の贋作を浅野内匠頭に売りつけようとした。
しかし家臣の[[岡島常樹|岡島八十右衛門]]に鑑定の才能があったので、八十右衛門は色紙が贋作だと見抜き、事なきを得る。
八十右衛門はこれが原因で大野九郎兵衛から恨みを買ってしまう。
 
大野九郎兵衛は八十右衛門に仕返しをしようと、八十右衛門に刀を見せるように言う。
貧乏で名刀など変えない八十右衛門は冴えない鈍刀を刺していたので、大野九郎兵衛に馬鹿にされる。
 
八十右衛門の下僕の直助はこの話を聞いて発憤。
直助は刀鍛冶の所に行って修行を積み、「津田助直」という名前で有名になるほどになった。
 
直助こと津田助直は自身が打った名刀を八十右衛門に渡す。
そして大野九郎兵衛に拝謁し、九郎兵衛の刀が真剣勝負の役に立たないものだと皆の前でけなしてその証拠に刀を簡単に折ってしまう。
大野九郎兵衛は名高い津田助直に代わりの刀を懇願するが、もちろん助直は断る。
 
腹を立てた大野九郎兵衛は助直に斬りかかろうとするが、周りに止められる。
しかもどさくさにまぎれて皆からポカポカ殴られてしまう。
皆、普段から大野九郎兵衛に不満がたまっていたのだ。
 
その後津田助直は名巧として名を残し、八十右衛門は助直の打った名刀を持って討ち入りに参加した<ref>[[#定本講談名作全集(1971)|定本講談名作全集(1971)]] 「忠僕直助」 p678-708</ref>。
 
==== 和久半太夫 ====
 
和久半太夫(わくはんだいふ<ref>[[#講談全集(1929)|講談全集(1929)]] p1094</ref>、はんだゆう)は上杉家に仕えたとされる剣客(だが、本当は実在しない<ref>今井敏夫 『<元禄赤穂事件と江戸時代>スッキリ解決! 忠臣蔵のなぜと謎』「吉良側に剣客はいなかったのか?」</ref>)。
 
和久半次郎(後の和久半太夫)は12歳のときから作州津山の森大内記(もりだいないき)に仕えていた。
あるとき、大内記が小姓達をあつめて肝試しをしようと、打ち首にした悪人五人のさらし首に印をつけてくるものは誰かいないかと言った。
 
半次郎はこれに志願。褒美の脇差を先に貰って、さらし首の元へとおもむき、さらし首に印として1つ1つ煎餅をくわえさせていく。しかしさらし首の数は5つと聞いていたのになぜか6つあり、しかも最後の1つの首はパリパリと煎餅を食べて「もうひとつ煎餅をよこせ」と言い出した。半次郎は妖怪の類だと思い、首を斬りつける。
 
実は6つ目のさらし首は半次郎の事を妬んだ長澤繁松という男が、さらし首のふりをしているだけだった。
半次郎に斬りつけられた繁松は、三日後に死んでしまったが、この件は繁松の不心得だという事で半次郎にはお咎めがなく、むしろ度胸を示した半次郎の名があがった。
 
 
その一年後、半次郎の父・半十郎が何者かに斬り殺されてしまう。
半次郎は頼る者も無かったので母とともに江戸に出てきて、剣術指南の看板を出して生計を立てたが、何分半次郎がまだ子供だったため、習いにくるものは少なかった。
 
江戸に出てからというもの、半次郎の母「おみさ」に徳右衛門という浪人が懸想していたのだが、ある時おみさが徳右衛門になぜ浪人したのかと聞いてみたところ、徳右衛門は「昔、半十郎(つまり半次郎の父)という男を斬り殺した為に国に入れなくなり浪人したのだ」と答えた。国から遠く離れた江戸でまさか半十郎の親族に会うとは思わず、つい話してしまったのだ。聞けば徳右衛門は半次郎に斬られた長澤繁松の父に頼まれ、半十郎を斬り殺したのだという。
 
おみさからこの話を聞いた半次郎は、徳右衛門を一刀両断して仇討ちを遂げる。
これにより半次郎の名は高まり、半次郎の道場は入門者であふれかえった。
 
半次郎はこの頃名前を半太夫に名を改める。
 
その後半次郎あらため半太夫は、[[四谷]]寺町付近に現れた妖怪を一刀両断する。妖怪の正体は小牛ほどもある大きな狐だった。
 
こうして名を高めた半太夫は上杉家に召抱えられ、吉良家の付き人になった。
 
そして赤穂浪士討ち入りの夜、半太夫は奮戦した後、武林唯七に討ちとられた<ref>[[#講談全集(1929)|講談全集(1929)]] 「腕試し、父の仇討」、「怪物退治、上杉家召抱」p1094-1113</ref>。
 
==== 梶川与惣兵衛 ====
 
[[梶川与惣兵衛]]は浅野内匠頭の刃傷に立ち会い、吉良に斬りかかる浅野内匠頭を抱きとめ、それが為に内匠頭は吉良を仕留めそこなった。
これは神妙という事で公儀は与惣兵衛に加増した。
 
一方、やはり刃傷に立ち会った坊主の関久和(せききゅうわ)は内匠頭の小刀を奪い取ったとしてやはり公儀から加増を仰せつけられたが、久和はこれを断った。後で考えてみれば内匠頭の無念を慮って吉良を討たせるべきだったと久和は後悔していたのだ。
 
こうした久和を見た周囲は久和の事をほめたたえたが、一方の与惣兵衛の名は地に落ちた。浅野内匠頭の不幸が原因で加増されたのに、これを断らなかったからである。
 
皆は与惣兵衛が家にくると、仇討ちで有名な[[曽我兄弟の仇討ち|曽我物語]]の富士の巻狩りの場面を描いた掛け軸をかけ、与惣兵衛を説教した。富士の巻狩りの掛け軸攻めに懲りた与惣兵衛は、早々に隠居してしまった。
 
隠居後与惣兵衛は、隣家の下僕に化けた四十七士の一人[[大石信清|大石瀬左衛門]]に討たれて最期を遂げる<ref>[[#講談全集(1929)|講談全集(1929)]] p1114-1142</ref>。
 
=== その他 ===
 
==== 中村仲蔵 ====
 
『中村仲蔵』は落語と講談の共通演目。
 
[[中村仲蔵 (初代)|初代中村仲蔵]]は人気の歌舞伎役者であったが、ある時座元と揉め、それが原因で主要な役は仲蔵に回ってこなくなり、『仮名手本忠臣蔵』の五段目の端役「斧定九郎」が割り当てられる。
 
しかし仲蔵は浪人ものの斧定九郎を演じるため、本物の浪人を観察して写実的な演出で定九郎を演じる。
 
これが大評判となってそれ以降斧定九郎は人気の役どころになり、仲蔵も人気役者として名を残した。
 
==== 淀五郎 ====
 
『[[淀五郎]]』は落語と講談の共通演目。
 
若手の役者・澤村淀五郎が『仮名手本忠臣蔵』の塩冶判官の役に抜擢された。抜擢したのは大星由良助の役を勤める座頭の[[市川團蔵]]だ。
 
しかし團蔵は四段目「判官切腹の場」における淀五郎の演技が気に入らず、淀五郎が切腹の演技をしても舞台に出てこない。そんなことが何日も続いたため評判が悪くなる。
 
そこで淀五郎は先輩の役者・[[中村仲蔵 (初代)|初代中村仲蔵]]に徹夜で芝居の稽古をつけてもらう。
 
その甲斐あって淀五郎の演技ばかり見違えるようにうまくなり、淀五郎が切腹の後、初めて團蔵の由良助が舞台に登場した。
 
そして團蔵は言った「うむ、待ちかねた」
 
== 赤穂事件を題材とした歌舞伎と人形浄瑠璃 ==
 
=== 初期の芝居 ===
 
浅野内匠頭の刃傷が起こると、元禄15年(1702年)3月<ref name="mitate">[http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/html/20031213chu/degitalframeset-seiritsushi.htm 立命館大学デジタル展示『忠臣蔵と見立て』仮名手本忠臣蔵成立史]</ref>にはこの事件が江戸の[[江戸三座|山村座]]で『東山栄華舞台』として取り上げられたという<ref name="mitate" /><ref name="matsushima133">[[#松島(1964)|松島(1964)]] p132-142</ref>。そして赤穂浪士が切腹すると、元禄16年2月16日から江戸の[[江戸三座|中村座]]で『曙曽我夜討』を上演して当時活躍中の中村七三郎らが[[曾我兄弟の仇討ち]]という建前で赤穂浪士の討入りの趣向を見せたものの、3日で上演禁止とされたという<ref name="matsushima133" />。しかし『東山栄華舞台』の上演に関しては『歌舞伎年表』にも『歌舞妓年代記』にも載っていないため疑問が残るし、『曙曽我夜討』の上演に関しては宝井其角の書簡に載っているものの、この書簡には史料的に疑問が残るとされている<ref name="matsushima133" />。
 
また元禄15年10月の大坂竹本座『傾城八花形』の第一段に浅野内匠頭の刃傷を仕込んだともいわれ<ref name="mitate" />、翌16年1月に江戸の山村座で上演された『傾城阿佐間曽我』にも大詰に集団の討ち入りを仕組んでいた<ref name="mitate" />。同じく元禄16年1月には京都の早雲万太夫座で上演された[[近松門左衛門]]作の『傾城三の車』に討ち入りの場面が仕込まれているのも、赤穂浪士の討ち入りの影響とされている<ref name="matsushima133" />。しかしこれらの上演は、幕府から差し止められたという<ref name="mitate" />。実際、元禄16年2月には堺町と木挽町(いずれも当時の芝居町)で「近き異時」(最近の事件)を扱ってはならないという幕府の禁令が出ている<ref name="matsushima133" />。このためしばらくは赤穂事件を扱った芝居は上演記録は残っていない<ref name="matsushima133" />。
 
=== 『仮名手本忠臣蔵』まで ===
 
赤穂事件を題材にした演目は数多いが、以下代表的なものを紹介するに留める。
 
討入りから4年後の[[宝永]]3年([[1706年]])の6月に、赤穂事件に題材をとった[[近松門左衛門]]作の一段だけの人形浄瑠璃『'''[[碁盤太平記]]'''』が竹本座で上演されている<ref name="matsushima133" />。これは(前述の禁令により赤穂事件を直接扱う事はできないので)太平記の世界に擬して赤穂事件を取り扱ったもので、同じく太平記に擬して赤穂事件を扱う『仮名手本忠臣蔵』に影響を与えている。とくに、大石内蔵助に相当する人物が『仮名手本忠臣蔵』と同じく'''大星由良之助'''(おおぼしゆらのすけ)という名前で初めて登場している<ref name="matsushima133" />事は特筆に値する。
 
<!--浅野内匠頭の7回忌にあたる宝永5年1月には赤穂事件を扱ったものと思われる車屋忠右衛門作作の歌舞伎『福引閏正月』が京都の亀屋粂之丞座で上演され<ref name="matsushima133" />、宝永7年には大阪の篠塚庄松座で吾妻三八作の『鬼鹿毛武蔵鐙』(おにかげむさしあぶみ)が上演されて好評を得ており<ref name="matsushima133" />(ここでは内蔵助は大岸宮内という名)、同年秋には京都の夷屋座で『太平記さゞれ石』が上演され<ref name="matsushima133" />、冬にはその続きの『削後(さざれいし)太平記』が上演され<ref name="matsushima133" />、秋にも大阪の八重桐座で赤穂事件を扱った歌舞伎が上演されている<ref name="matsushima133" />。-->
 
浅野内匠頭の17回忌にあたる[[正徳 (日本)|正徳]]3年の12月には大阪の豊竹座で[[紀海音]]作の人形浄瑠璃『'''鬼鹿毛無佐志(むさし)鐙'''』が上演されている。これは宝永7年に大阪の篠塚庄松座で上演された吾妻三八作の『鬼鹿毛武蔵鐙』に負う所が大きい<ref name="matsushima133" />もので、内蔵助は『鬼鹿毛武蔵鐙』と同じく大岸宮内という名である。この作品では赤穂事件を『太平記』に仮託しつつ、そこから離れて[[足利義政]]の時代の事件の[[小栗判官|小栗判官と照手姫]]の物語も取り上げられている<ref name="matsushima133" />。
この作品は近松門左衛門のライバルであった紀海音であり、内容的にも近松門左衛門の『碁盤太平記』を意識したものになっている<ref name="matsushima147">[[#松島(1964)|松島(1964)]] p147-148</ref>。
この『鬼鹿毛無佐志鐙』(とその前作『鬼鹿毛武蔵鐙』)は近松門左衛門の『碁盤太平記』と並び、『仮名手本忠臣蔵』につらなる源流の一つで<ref name="matsushima147" />、この作品で出てきた大岸宮内、小栗判官といった名前は後の作品にも頻出する。
 
浅野内匠頭の33回忌にあたる享保17年の10月には豊竹座で[[並木宗輔]]らの作による『'''忠臣金短冊'''(こがねのたんざく)』が上演されているが<ref name="matsushima133" />、これは『碁盤太平記』の系譜と『鬼鹿毛無佐志鐙』の系譜を妥協・融和させて描かれている<ref name="matsushima147" />。作者の一人である並木宗輔は後に「並木千柳」と名をかえ、後に『仮名手本忠臣蔵』の作者の一人になっている。
<!--享保2年に大阪の[[沢村長十郎]]座で赤穂事件を扱った芝居が上演され<ref name="matsushima133" />、浅野内匠頭の33回忌にあたる享保17年の10月には前述したように豊竹座で[[並木宗輔]]らの作による『忠臣金短冊(こがねのたんざく)』が上演され<ref name="matsushima133" />、同年11月の名古屋では『大石宮内一代記』が上演され<ref name="matsushima133" />、享保20年3月には江戸の中村座で[[沢村宗十郎|沢村訥子(宗十郎)]]の自作自演による『鎧桜故郷錦』が上演され<ref name="matsushima133" />、同年4月(もしくは3月)には大阪の十蔵座で『いろは軍記』が上演され<ref name="matsushima133" />、同年9月18日には江戸の[[江戸三座|市村座]]もしくは中村座で『忠臣いろは軍記』が上演され<ref name="matsushima133" />、[[寛保]]元年9月9日には大阪の十蔵座(角の芝居)で並木丈助作の『粧(けわい)武者いろは合戦』が上演され<ref name="matsushima133" />、同年11月には江戸の中村座で早川伝四郎作の『塩治判官故郷錦』が上演され<ref name="matsushima133" />、同年6月の市村座で上演された『敵討三組盃』も赤穂事件が絡んだ作品だといわれており<ref name="matsushima133" />、寛保2年9月には江戸の[[江戸三座|河原崎座]]で『忠臣いろは軍談』が上演され<ref name="matsushima133" />、[[延享]]元年7月の江戸の中村座の『今川忠臣伝』と延享2年の盆前の興行の京都の中村粂太郎座の『いろは合戦』の2つも赤穂事件に関するものらしい<ref name="matsushima133" />。延享3年7月18日には大阪の中の芝居の市山座で『大矢数四十七本』(『扇矢数四十七本』という外題(タイトル)であったともいわれる)が上演された<ref name="matsushima133" />。-->
 
そして翌延享4年(1747年)には京都の中村粂太郎座で、[[沢村宗十郎]]の自作自演による『'''大矢数四十七本'''』(延享3年のものと同じ外題)が上演された<ref name="matsushima133" />。
この『大矢数四十七本』は『仮名手本忠臣蔵』の粉本になったことで知られ<ref name="matsushima133" />、大石内蔵助に相当する大岸宮内の役を沢村宗十郎が演じ、祇園町で生酔する演技をしたところ大当たりを取った<ref name="matsushima133" />。後の『仮名手本忠臣蔵』において大星由良之助(大石内蔵助に相当)が遊興する場面は宗十郎のこの演技を真似たものである<ref>[[#今尾(1987)|今尾(1987)]]、p199</ref>。
 
=== 『仮名手本忠臣蔵』 ===
 
そして赤穂浪士の討ち入りから47年目にあたる[[寛延]]元年([[1748年]])の8月14日に、大阪道頓堀の竹本座で、二代目[[竹田出雲]]・[[三好松洛]]・[[並木宗輔|並木千柳]]合作の人形浄瑠璃『'''[[仮名手本忠臣蔵]]'''』が上演され<ref name="matsushima180">[[#松島(1964)|松島(1964)]] p180-189</ref>、連続4か月も上演するほどの大当たりとなった<ref name="matsushima180" />。同年12月には大阪の嵐座で歌舞伎でも上演されている<ref name="matsushima180" />。歌舞伎では興行上の気付薬「独参湯」と呼ばれる程の人気を博し、不入りが続くとこの演目を出すといわれた<ref name="matsushima180" />。
 
[[伊原青々園]]の『歌舞伎年表』によれば、慶応3年までに江戸だけで89回も上演され、それに大阪、京都、その他での上演を加えると179回にもなる<ref name="matsushima180" />。
人形浄瑠璃のほうでも、黒木勘蔵の『近世邦楽年表・義太夫節之部』には70回も上演されたときされている<ref name="matsushima180" />。
 
===== 忠臣蔵事件 =====
 
『仮名手本忠臣蔵』の上演に絡んで、竹本座で内紛があった。上演開始から二か月ほどたった十月に、人形遣いの吉田文三郎から、九段目の段取りが詰まりすぎているところを少し変えてほしい旨の要望が座頭の竹本此太夫に対して出されたのだが、此太夫がこれを断った事ところ、両者とも引き下がらず、どちらかが竹本座を辞めねばならぬところまで事態は発展した<ref name="matsushima180" />。座元の竹田出雲は文三郎を失わないよう、此太夫を引かせることにし、此太夫以下四人が竹本座を辞して豊竹座に行った<ref name="matsushima180" />。代わりに政太夫他3人が豊竹座から竹本座に招かれた<ref name="matsushima180" />。この事件のため、『仮名手本忠臣蔵』の公演を続ける事ができなくなり、十一月で公演を終えている<ref name="matsushima180" />。(この年は閏十月があったため、興業期間は4か月<ref name="matsushima180" />)。
 
なお、文三郎の工夫で今日まで残っているものとして、由良之助の衣装に文三郎の家の家紋である「二つ巴」をつけた事があるといわれている<ref name="matsushima180" />。
 
=== 『仮名手本忠臣蔵』以後 ===
 
『仮名手本忠臣蔵』以外にも赤穂事件を題材にした演目は作られ続け、『歌舞伎年表』に載っているものだけでも85個もある<ref name="matsushima180" />。
その中でも特に有名なのは『太平記忠臣講釈』(明和3年竹本座初演、[[近松半次]]ら6人の合作)、『義臣伝読切講釈』で、『歌舞伎年表』に載っているだけでも前者は56回、後者は13回も上演されている<ref name="matsushima180" />。
 
寛政期の大阪で上演された奈河七五三助作の『いろは仮名四十七訓』は『泰平いろは行列』と『大矢数四十七本』を合わせて作り直したものと言われ<ref name="matsushima199">[[#松島(1964)|松島(1964)]] p199-200</ref>、6幕目が能狂言の『鎌腹』の換骨奪胎である「弥作の鎌腹」であり、今日も上演される<ref name="matsushima199" />。また8幕目は今日でいう「鳩の平右衛門」で、寺岡平右衛門が仇討に行く最中、逢坂山で鳩の親子の愛情を見て、引き返して母親に討ち入りの話を明かし、母親が寺岡を激励するため自害する。8幕目はのちに書き換えられて『稽古筆七いろは』になり、今日では前述のように『鳩の平右衛門』という演題で上演される<ref name="matsushima199" />。
 
文政8年に初演された[[鶴屋南北 (4代目)|四代目鶴屋南北]]の『[[四谷怪談|東海道四谷怪談]]』は、『仮名手本忠臣蔵』と同時上演され、『仮名手本』の裏で起こっている事件として描かれている。
同じく鶴屋南北の[[盟三五大切]]も、四十七士の[[不破正種|不破数右衛門]]が猟奇殺人鬼として登場する一種のパロディ作品である。
 
天保年間に上演された『裏表忠臣蔵』には、蜂の巣の乱れで大事を知って寺岡平右衛門が江戸へと急ぐ「蜂の平右衛門」が含まれている<ref name="matsushima201">[[#松島(1964)|松島(1964)]] p201</ref>。
またこの演目が天保4年3月に河原崎座で上演された際には、三升屋二三治が市川海老蔵(後の7代目団十郎)と3代目の尾上菊五郎のために清元の「道行旅路之花聟」が書き下ろされており<ref>[[#松島(1964)|松島(1964)]] p161</ref><ref name="matsushima201" />、これが現在では歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』に取り込まれている。
 
安政期に書かれた『新舞台いろは書初』には現在でいう「[[松浦の太鼓]]」が含まれている<ref name="matsushima201" />。
また黙阿弥の『[[仮名手本硯高島]]』には「徳利の別れ」が含まれており、『忠臣後日建前』はいわゆる「女定九郎」の物語である<ref name="matsushima201" />。
 
=== 明治以後 ===
 
明治元年閏4月には大阪堀江の芝居で奈川七五三助作の忠臣蔵もの『武士鏡忠義の礎』が初演され<ref name="genroku238" />、明治2年3月には大阪筑後の芝居で同じく奈川七五三助の『仮名手本四十七文字』が初演されている<ref name="genroku238">[[#元禄(1999)|元禄(1999)]] p238</ref>。
 
同じ年の5月には[[河竹黙阿弥]]の『名大星国字書筆』が市村座初演された。これは脱盟者・小山田庄左衛門の遊蕩が実はお家の家宝の金の鶏を詮議するためのものであったという筋で<ref name="miyazawab33">[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p33-35</ref>、このとき大星由良助を演じたのは後の「劇聖」[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川団十郎]]であった<ref name="miyazawab33" />。
 
続けて明治4年には黙阿弥の『'''四十七石忠箭計'''』という、討ち入りの一日を十二時に分けて演じる趣向の演目が初演されており、「南部坂の別れ」など実録所や講談で有名な場面がふんだんに取り入れられた<ref name="miyazawab33" />。
 
明治6年には「義平拷問」、「山科閑居」、「島原遊興」に今日も演じられる「[[清水一学|清水一角]]」を取り合わせた『'''忠臣いろは実記'''』が初演されている<ref>[[#吉田(2004)|吉田(2004)]] p136-137, p160</ref>。江戸時代までは幕府の禁令により、歌舞伎狂言で実在の人物を扱うときは名前は仮名にする必要があったが、本作では忠臣蔵ものとしては初めて、実在の人物の名前を本名のまま用いている<ref>[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]]第四巻 p678</ref>。
 
明治7年には、[[桜田門外の変]]を忠臣蔵に仮託して描いた『讐怨(かたきうち)解雪赤穂記』が沢村座で初演されている<ref name="miyazawab33" />。
 
明治期の歌舞伎の潮流のひとつは、これまでの歌舞伎の荒唐無稽な所を排して史実をそのまま描く[[演劇改良運動|活歴物]]が台頭してくる事だが、忠臣蔵ものの歌舞伎にも活歴の影響が出ている。
 
前述した明治4年の『四十七石忠箭計』ではすでに九代目市川団十郎が大星由良助を実録風に演じていたが、他の場面では従来の歌舞伎の味を残したものになっておりやや不調和であった<ref>[[#赤穂市忠臣蔵|赤穂市忠臣蔵]]第四巻 p663</ref>。
明治23年には『実録忠臣蔵』という、その名の通り実録風の忠臣蔵ものが作られたが、不評であった。ただしこの中の「土屋主税」の場面は後まで残り雁次郎の当たり役となった<ref name="genroku240">[[#元禄(1999)|元禄(1999)]] p240</ref>。
明治35年にも活歴物の[[福地源一郎|福地桜痴]]作『芳哉(かんばやし)義士誉』が初演されているが不評だった<ref name="genroku240" />。講演には興行主が二の足を踏んでいたのに、活歴好みの団十郎があえて上演したという<ref name="genroku240" />。
 
大正10年には[[市川左團次 (2代目)|二代目市川左團次]]一座の『忠義』が上演され好評を取った。この作品は、イギリスの詩人[[ジョン・メイスフィールド]]が膠着した西部戦線における連合軍の指揮を鼓舞する為に忠臣蔵を翻案した『The Faithful』を日本に逆輸入して[[小山内薫]]が翻訳したものである<ref name="miyazawab129">[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p129-130</ref>。『The Faithful』も再三上演され、『忠義』も築地劇場で再演される等好評であった<ref name="miyazawab129" />。
 
昭和3年(1928年)8月には旧ソ連において二代目市川左團次等が史上初の歌舞伎の海外公演が行っており、その時の演目が『仮名手本忠臣蔵』であった。
 
昭和9年には今日でも上演される[[真山青果]]の連作『[[元禄忠臣蔵]]』の最初の作品である「大石最後の一日」が歌舞伎座で二代目市川左團次により上演されている。
 
=== 戦後 ===
 
第二次世界大戦後、『忠臣蔵』は上演禁止の憂き目にあう。戦後日本を占領統治下においたGHQは軍国主義につながるものを禁止していったが、歌舞伎は忠義(愛国につながる)という理念の宣伝媒体だったとされ、そのように看做された一部の演目が上演を禁じられた。そのなかでも特に『忠臣蔵』は危険な演目であるとして目をつけられ、これも上演が禁止されていたのである。
 
昭和22年(1947年)7月その禁は解かれ、同年11月には空襲の難を逃れていた東京劇場で『仮名手本忠臣蔵』は上演された。この上演には「歌舞伎を救った男」[[フォービアン・バワーズ]]の助力があったとされるが、近年の研究ではこれを否定するものもでている(詳細は[[フォービアン・バワーズ]]の項目を参照)。
 
戦後の歌舞伎においても『忠臣蔵』は人気演目の一つで、1945年から2015年7月現在までに主要な劇場で歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』は213回も上演されており<ref>[http://www.kabuki.ne.jp/kouendb/perform/search.php?kr=3370 歌舞伎公演データベース『仮名手本忠臣蔵』]</ref>、真山青果の『元禄忠臣蔵』も66回上演されている<ref>[http://www.kabuki.ne.jp/kouendb/perform/search.php?kr=5050 歌舞伎公演データベース『元禄忠臣蔵』]</ref>。
 
1960年6月には、『仮名手本忠臣蔵』が初めて海外に渡り、ニューヨークの大劇場シティー・センターで上演され、大好評を博した<ref name="miyazawab234">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p234</ref>。このとき外務省が切腹の場面を懸念したが、前述のフォービアン・バワーズが問題ないと太鼓判を押したという<ref name="miyazawab234" />。
 
戦後の歌舞伎では新作の上演は少なくなっているものの、[[舟橋聖一]]作『瑤泉院』(1959年)<ref>[http://www.kabuki.ne.jp/kouendb/perform/search.php?kr=15070 歌舞伎公演データベース『瑤泉院』]</ref>、『続・瑶泉院』(1962年)<ref>[http://www.kabuki.ne.jp/kouendb/perform/search.php?kr=8560 歌舞伎公演データベース『続・瑶泉院』]</ref>、[[市川猿翁 (2代目)|三代目市川猿之助]]による2003年の『四谷怪談忠臣蔵』(1980年の『双絵草紙忠臣蔵』を改作)<ref>[http://www.kabuki.ne.jp/kouendb/perform/search.php?kr=15200 歌舞伎公演データベース『四谷怪談忠臣蔵』]</ref><ref>[http://www.kabuki-bito.jp/theaters/shinbashi/2010/04/post_17-Highlight.html 歌舞伎美人『通し狂言四谷怪談忠臣蔵』]</ref>など、わずかながら忠臣蔵ものの新作も作られ続けている。
 
== 講談における赤穂事件 ==
 
[[講談]](講釈)の世界においても、事件当初から「'''赤穂義士伝'''」が好んで読まれた<ref name="miyazawa11">[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p11-12。</ref>。赤穂義士伝は赤穂事件全体の流れを述べる「'''赤穂義士本伝'''」、個々の義士の逸話を述べる「'''赤穂義士銘々伝'''」、義士以外の関連人物を対象とした「'''赤穂義士外伝'''」に分かれるが、この区分ができたのは近世中期である<ref name="miyazawa11" />。
 
大正13年発行の『講談落語今昔譚』によれば、19世紀前半に田辺南窓(後に柴田南窓を名乗る)という博覧強記な講釈師が義士伝を得意とし、大正13年当時の義士銘々伝はおおむね南窓のものを稿本にしているという<ref>[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p11-12。関根黙庵『講談落語今昔譚』(雄山閣)を重引。[[#関根(1924)|関根(1924)]] 46コマ目</ref>。
 
その後講談は幕末に大いに流行し<ref name="miyazawa11" />、明治初期に黄金期を迎える<ref name="miyazawab46">[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p46-47</ref>。忠臣蔵がらみでは三代目一龍斎貞山は大石内蔵助を日本一の忠臣として尊敬し、赤穂城明け渡しでは聴衆を泣かせたという<ref name="miyazawab46" />。
 
明治初期の講談の黄金期は講談の内容を書き記した「講談筆記本」が登場した事の影響が大きい<ref name="miyazawab73">[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p73-74</ref>。忠臣蔵がらみでは桃川如燕の『二十三品義士の遺物』や、『文芸倶楽部』に発表された『講談忠臣蔵』(1899年)や『義士講談 雪の梅』(1900年)などがある<ref name="miyazawab73" />。
 
1913年には文部省・宮内省の呼びかけで発足した組織「通俗教育普及会」の要請により、『通俗教育叢書 赤穂誠忠録』が書かれその中で講釈師の桃川如燕・若燕に義士伝を語らせている<ref name="miyazawab110">[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p110-113</ref>。
 
しかし講談はその後[[浪曲]]や大衆小説の登場により衰微していく<ref name="miyazawab110" />。
 
== それ以外の創作物 ==
{{See also|赤穂事件を題材とした作品|忠臣蔵}}
 
=== 江戸時代 ===
 
正徳元年(1711年)には『忠義武道播磨石』(『武道忠義太平記』とも)という実録風の読本が出ており、赤穂事件を鎌倉期の出来事に仮託して描いている<ref name="matsushima203">[[#松島(1964)|松島(1964)]] p203-208</ref>。
そして享保2年にはこれを模倣した『近士忠義太平記大全』がでている<ref name="matsushima203" />。
これらは『鬼鹿毛無佐志鐙』から『仮名手本忠臣蔵』までの人形浄瑠璃や歌舞伎に影響を与えているであろう<ref name="matsushima203" />。
 
さらに時代が下ると、安政8年の『案内手本通人蔵』のような『仮名手本忠臣蔵』を前提とした洒落を効かせた本も登場する<ref name="matsushima203" />。
また寛政11年には忠臣蔵を水滸伝に当てはめた[[山東京伝]]の『忠臣水滸伝』が描かれた<ref name="matsushima203" />。
 
天保の頃から開港時期にかけて「義士研究」がさかんになり、特に開国直前の嘉永4、5年には、赤穂事件関連の史料を数十年がかりで集めた『赤穂義人纂書』が登場している<ref name="miyazawa20">[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p20-21</ref>。
19世紀中葉は「義士伝集成時代」ともいうべき義士ブームの時代で<ref name="miyazawa20" />、天保7年には四十七士の銘々伝が書かれた為永春水の『正史実伝いろは文庫』<ref>[[#忠臣蔵文庫(1912)|忠臣蔵文庫(1912)]]</ref>が登場し、安政期には[[山崎美成]]が銘々伝的な逸話を集めた『赤穂義士一夕話(いっせきわ)』や『赤穂義士随筆』を書いている<ref name="matsushima203" />。この時期には全国各地の義士の遺跡に記念碑が続々とたてられ<ref name="miyazawa20" />、忠臣蔵の芝居も続々と作られた<ref name="miyazawa20" />。弘化・嘉永の頃には一勇斎国芳の武者絵『誠忠義士伝』が出て江戸中で大評判になった<ref name="miyazawa20" />。
 
天保の頃には泉岳寺に詣でる客も多く、泉岳寺の近くには『仮名手本忠臣蔵』にちなんだ名前がそこかしこにあり、たとえば一力茶屋、大星力弥、天河屋義平にちなんだ「一力」ののれん、「力弥豆」、「天川白酒」などがあったという<ref>[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p187</ref>。
 
嘉永元年には泉岳寺で開帳があり、義士ブームの頂点に達した<ref name="miyazawa20" />。これにあわせ一陽斎豊国の芝居絵『誠忠大星一代噺』が描かれている<ref name="miyazawa20" />。
泉岳寺の開帳の際には奉納者を募り義士の木像が作られた。奉納者には一般の町人や武士のほか、講釈師や芝居関係者、やくざの親分や[[山田浅右衛門|首切り浅右衛門]]などがいたという<ref name="miyazawa20" />。
 
しかしこの木造を無料で拝観させようとしたところ、幕府から差し止められた<ref name="miyazawa20" />。
忠義ものであっても罪人である赤穂浪士たちの木像を公開して騒ぎ立てるのはよくないというのが理由であった<ref name="miyazawa20" />。
幕府は最後まで赤穂浪士を罪人として扱い続けたのである<ref name="miyazawa20" />。
 
幕末に[[安政の大獄]]が起こると、水戸藩の浪士達は赤穂事件を研究し、[[桜田門外の変]]に生かしたという<ref>[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p22</ref>。
 
=== 明治以降 ===
 
宮澤誠一によると、明治以降の忠臣蔵物の特徴として、欧化主義の時代には「義士」としての四十七士像は批判され、国粋主義・日本回帰の時代には「義士」は賛美される傾向にあるという<ref name="taniguchi168" />。
 
明治元年[[11月5日(旧暦)|11月5日]]には、明治天皇が泉岳寺の大石らの墓に対して、勅使を遣わし、勅旨を述べ、金幣を届けさせた<ref name="matsushima210">[[#松島(1964)|松島(1964)]] p210-215</ref>。
松島栄一によれば、この件は四十七士が義士であるという論功行賞になってしまったという<ref name="matsushima210" />。
この件は四十七士の義士像を天皇の公認のものとし、それはそのまま明治政府公認の立場ととらえられ、義士を賛美・称揚する人に利用されることになる<ref name="matsushima210" />。
そして同時に、君主・浅野内匠頭に対する義士の忠誠が、天皇や国家に対する忠誠にすり替えられる原因ともなった<ref name="matsushima210" />。
 
一方、文明開化の影響による封建思想への批判もあり、たとえば福沢諭吉は『[[学問のすゝめ]]』で「義士」を批判している<ref name="taniguchi168">[[#谷口(2006)|谷口(2006)]] p186-188</ref>。福沢によれば内匠頭にしろ四十七士にしろ、刃傷や仇討ちに及ぶのではなく時の政府である江戸幕府に訴えを起こすべきだったとしている<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/card47061.html 青空文庫『学問のすすめ』]</ref>。
 
歴史学の立場からは明治22年に重野安繹の『赤穂義士実話』が登場し、ここにはじめて、赤穂事件は近代歴史学の俎上にのった<ref name="matsushima210" />。重野は文献実証主義の立場から『江赤見聞記』に基づいて芝居等の「忠臣蔵」における虚説を排したが、人々が慣れ親しんできた忠臣蔵のイメージを損ねたので重野は世間の憤激を買った<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p6-7</ref>。
 
その後信夫恕軒により、赤穂事件を講談のように面白く物語る『赤穂義士実談』が出ている<ref name="matsushima210" />。
 
====日露戦争後の忠臣蔵ブーム====
 
[[日露戦争]]後、国家主義思潮の高揚にともない、明治維新後最初の忠臣蔵ブームが起こる<ref name="miyazawa15">[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p15</ref>。その起爆剤になったのが、桃中軒雲右衛門の浪花節と近代の忠臣蔵物の原点<ref name="miyazawa15" />となる[[福本日南]]の『元禄快挙録』であり<ref name="miyazawa15" />、それらの背後には国家主義的な政治結社[[玄洋社]]の後援があった。
 
浪曲師[[桃中軒雲右衛門]]は[[玄洋社]]の後援で「義士伝」を完成させ、武士道鼓吹を旗印に掲げ、1907年(明治40年)には大阪中座や東京本郷座で大入りをとっている。
雲右衛門の義士伝はレコードという新しいメディアを利用する事で爆発的な人気を呼んだ<ref name="miyazawa82">[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p82</ref>。
また浪曲師二代目[[吉田奈良丸]]も『大和桜義士の面影』で大高源吾と宝井其角の出会いを歌って大ヒットを呼び、「奈良丸づくし」と称して演歌にまでなった<ref name="miyazawa82" />。この事が大高源吾の笹売り伝説の普及に一役買った<ref>[[#松島(1964)|松島(1964)]] p217</ref>。
 
明治42年には、玄洋社系の新聞[[九州日報]]の主筆兼社長である国粋主義者<ref>広瀬玲子 『国粋主義者の国際認識と国家構想─福本日南を中心として─』 芙蓉書房出版、2004年 ISBN 4829503394</ref>の[[福本日南]]著『元禄快挙録』のような、「義士」の犠牲精神を強調し、国民統合を目指した言説が登場し<ref name="taniguchi168" />、洛陽の紙価を高めるような評判をとった<ref name="matsushima210" />。 この本によって戦前の近代日本における忠臣蔵の見解が示されたといっても過言ではない<ref name="matsushima210" />。これは時を同じくして国民道徳としての武士道が高揚されたことと無関係ではない<ref name="matsushima210" />。日露戦争で旅順攻囲戦を指揮した[[乃木希典]]も[[山鹿素行]]に心酔していた<ref name="matsushima210" />。
 
[[活動写真]]もこの頃「忠臣蔵」を普及させたメディアの一つで、最初の忠臣蔵映画は、1907年に歌舞伎の仮名手本忠臣蔵の五段目を撮影したものである<ref name="miyazawa8284">[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p82-84</ref>。
またこの頃の忠臣蔵映画の代表作の一つに、1912年の横田商会による[[牧野省三]]監督作品『実物応用活動写真忠臣蔵』全47場があり、主人公の[[尾上松之助]]が大石内蔵助、清水一学、浅野内匠頭の三役を演じている<ref name="miyazawa8284" />。この映画はその2年前に作成された松之助最初の全通し42場の『忠臣蔵』をもとにしたて村上喜剣の話などを付け加えたもので<ref name="miyazawa8284" />、「実物応用」というのは活動写真の合間に俳優が実演する映画の事である<ref name="miyazawa8284" />。この頃の忠臣蔵映画では、浪花節が口演されたりレコードで流されたりする事があった<ref name="miyazawa8284" />。
 
この後も忠臣蔵映画は作られ続け、[[御園京平]]の調査によれば、明治期から昭和戦中までに作られた忠臣蔵映画は、分かっているだけでも114本に及ぶ<ref>御園京平『映画・忠臣蔵』。[[#谷川(2013)|谷川(2013)]] p294から重引。</ref>。
 
====大正デモクラシー====
 
大正デモクラシーの頃には忠臣蔵もその影響を受け、忠義よりも人間的の自然な感情や抵抗の精神を重視した研究も生まれてくる<ref>[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p109</ref>。
1913年に刊行した司馬僧正の『拙者は大石内蔵助ぢや』とその続編『赤裸々の大石良雄』は、忠臣蔵に自然的な手法を持ち込み、英雄大石内蔵助といえど内面は凡人と変わらぬ事を説こうとしたが、それは伝統的な儒教道徳の禁欲倫理の裏返しに過ぎないなどの限界があり、近代的自我に目覚めつつある当時の知識人の期待に応えるものではなかった<ref>[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p113-116</ref>。
 
1917年には吉良低討ち入り後に細川屋敷に預けられた大石内蔵助の内面に初めて近代文学の光を当てた[[芥川龍之介]]の『或日の大石内蔵助』が登場している。
 
====大正デモクラシー衰退期の忠臣蔵ブーム====
 
大正デモクラシーの衰退期には明治維新後第二の忠臣蔵ブームが起こり、大正5年(1916年)に福本日南が中心となって設立した中央義士会がの活発な活動や、忠臣蔵の講談や浪花節がラジオで活発に放送された<ref name="miyazaki15">[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p15</ref>。
 
しかしこのころには同時に、忠君愛国的な「義士」像に対する批判や、人間的政治的視点を盛り込んだ小説も登場している<ref name="miyazaki15" />。
1926年、[[野上弥生子]]は『大石良雄』において、そのときどきの感情に突き動かされ、最終的に復讐を義務・責任と感じる内蔵助像を描く事で内蔵助の偶像化を否定した<ref name="miyazaki144">[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p144-146</ref>。これは近代的精神が抑圧され挫折させられた大正末期の知識人の屈折した内面を表現したものであろう<ref name="miyazaki144" />。
また1927年から新聞連載された[[大佛次郎]]の『赤穂浪士』は昭和の金融恐慌にはじまる社会不安を背景として書かれ、腐敗した封建的な官僚主義政治に対抗する大石内蔵助像を描いてベストセラーになった<ref>[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p147-153</ref>。
 
====満州事変以後====
 
[[五・一五事件]]の首謀者達は自分たちの行動を桜田門外の変に見立てていたが、泉岳寺に集結するなど「忠臣蔵」をも意識した行動をとっていた<ref name="miyazawa167">[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p167-168</ref>。また彼らに対する論告求刑文においても、山本検察官が赤穂事件に対する[[荻生徂徠]]の論説を引き、もし首謀者達を無罪にすれば後の禍根になる旨を述べた<ref name="miyazawa167" />。
 
[[二・二六事件]]では首謀者達が忠臣蔵を想起したと思われる言動は少ないが、岡田啓介首相の生存が報道されると、吉良上野介のように炭小屋に隠れていたのではないかというデマが流れた<ref>[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p175-176</ref>。
 
====日中戦争前後の忠臣蔵ブーム====
 
昭和10年代前半の[[日中戦争]]前後の頃の日本回帰に伴い、第三の忠臣蔵ブームが起こる<ref name="miyazawaa15">[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p15-16</ref>。
この頃の忠臣蔵の特色は、天皇制の問題が色濃く反映している事である<ref name="miyazawaa15" />。たとえば[[真山青果]]の『元禄忠臣蔵』は正確な時代考証のもと描かれたにも関わらず、大石が皇室に対して絶対的な尊崇をしており、「元禄時代の人間がこのような発想をするわけがない。時局に迎合して故意に話を皇室に結び付けたのだ」と本作発表当時から批判された<ref>[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p181-186</ref>。
 
[[吉川英治]]の『新編忠臣蔵』においても、多門伝八郎が元禄の華美な生活は「永遠の皇国」に「亡国の禍根」を残すのではないかと嘆くなど、天皇制を意識して書かれている<ref>[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p187-190</ref>。
 
日中戦争がはじまって1年たつと、中国大陸で戦っている将兵のために中央義士会は『元禄義挙の教訓』を出版し、国家総力戦になった現在、義士精神は全ての国民が見習うべき道徳的規範だと主張している<ref name="miyazawab200">[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p200-202</ref>。そして義士の犠牲的精神を強調し、赤穂事件が忠孝一致の日本精神を体現するものだと称賛されている<ref name="miyazawab200" />。
 
====太平洋戦争====
 
日本が太平洋戦争に参戦すると、中央義士会は義士精神を米英打倒の精神の模範として称賛する<ref name="miyazawab216">[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p216-217</ref>。
 
だが軍部当局の方は赤穂浪士の仇討ちは一封建的領主に対する忠義すなわち「小義」であり、日本古来の皇室に対する忠義である「大義」とは異なるものなので、これを推奨するのは好ましくないという意見が強く、国定歴史教科書でも赤穂事件の記述は縮小される<ref name="miyazawab216" />。
 
太平洋戦争末期になると、軍部もこのような小義と大義の区別にこだわってられず、国民講談振興会の強い要請を受け、「定本国民講談」の刊行を許可している。そこでは義士達の仇討ちを米英に対する「国民的仇討ち」に転化して天皇国家への絶対的忠誠に結び付けている<ref>[[#宮澤(2001)|宮澤(2001)]] p220-221</ref>。
 
====戦後====
 
第二次世界大戦における日本の敗戦により、忠臣蔵の位置づけも戦中とは大きく変化する。
[[下村定]]陸軍大臣は「陸軍軍人軍属に告ぐ」という放送で、大石内蔵助の赤穂城明け渡しの立派さを例に挙げて天皇の命令に従っておとなしく武器を捨てるように言い、[[石原莞爾]]陸軍中将も毎日新聞でやはり大石を例にして同様の事を述べている<ref>[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p228</ref>。
 
戦後米軍が日本を占領すると、GHQの下部組織CIEが日本の映画会社各社に推奨すべき映画と作成を禁止すべき映画の指針を通達し、禁止事項の中には「仇討ちに関するもの」と「封建的忠誠心または生命の軽視を好ましいこと、また名誉なこととしたもの」という項目があり、これにより忠臣蔵映画の上演は不可能になった<ref>[[#谷川(2013)|谷川(2013)]] p290</ref>。
 
[[フォービアン・バワーズ]]によれば、1943年11月には雑誌『LIFE』に忠臣蔵から日本人の「血に飢えた」メンタリティを分析する論考が載っており、GHQの上層部はこれを読んで前述した禁止事項を入れたのかもしれないとしている<ref name="tanigawa292">[[#谷川(2013)|谷川(2013)]] p292</ref>。もしそうだとすれば、GHQは忠臣蔵を狙い撃ちして禁止した事になる。
 
実際占領期間中には、中山安兵衛(堀部安兵衛)を人の命を奪う事のむなしさに悩む男として描いた<ref>[[#谷川(2013)|谷川(2013)]] p22</ref>『「高田馬場」より 中山安兵衛』(1951年3月公開)を唯一の例外として、本伝はもちろん外伝ものすら忠臣蔵映画の上演は許可されていない<ref name="tanigawa292" />。(なお『忠臣蔵余聞 四十八人目の男』の再演も、正確な上映期間が分からないものの、占領下の1951年4月に行われた可能性がある<ref>[[#谷川(2013)|谷川(2013)]] p309</ref>。)
 
ただし1949年の映画『[[青い山脈]]』は忠臣蔵の換骨奪胎して作り上げたものだとこの映画のプロデューサーの藤本真澄が証言しており<ref>[[#佐藤(2003)|佐藤(2003)]] p153-154</ref>、その意味ではこれを占領期間中に作られた数少ない忠臣蔵映画とみなす事もできる。
 
1952年に日本が主権を回復すると、[[毛利小平太]]ら脱落者を描いた『[[元禄水滸伝]]』を皮切りに、1952年だけで7本もの忠臣蔵映画が作られている<ref name="tanigawa306">[[#谷川(2013)|谷川(2013)]] p306-311</ref>。
 
この頃の忠臣蔵映画は、まだGHQに対する遠慮があったのか、どれもアンチ仇討ち、アンチ忠臣蔵というスタンスで描かれていたが<ref name="tanigawa306" />、1954年の『赤穗義士』(大映)と同年の『忠臣藏(花の巻・雪の巻)』(松竹)から戦後忠臣蔵映画の黄金期に突入し<ref name="tanigawa306" />、その後1962年まで、毎年数本もの忠臣蔵映画が作られ続けている<ref name="tanigawa306" />。当時の忠臣蔵映画は、自社の巨匠監督を使って豪華な俳優をオールスターで使った大作が多く、いわば俳優の顔見せ的な役割を担っていた<ref name="miyazawab230">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p230-231</ref>。
 
一方小説は1950年の榊原潤の『生きていた吉良上野介』を皮切りに、村上元三の『新本忠臣蔵』(1951年)、[[大佛次郎]]の『四十八人目の男』など友情や恋、自立などを描いた忠臣蔵ものが発表され<ref name="miyazawab230" />、その後も[[舟橋聖一]]の『[[新・忠臣蔵]]』(1956年~)、[[山田風太郎]]の『妖説忠臣蔵』(1957年)、[[五味康祐]]の外伝物『[[薄桜記]]』(1959年)、[[尾崎士郎]]の『吉良の男』(1961年)など続々と忠臣蔵ものが書かれている<ref name="miyazawab230" />。
 
東京オリンピックの年である1964年になるとNHK大河ドラマ『[[赤穂浪士 (NHK大河ドラマ)|赤穂浪士]]』が最高視聴率53.0%に達する<ref>[[#谷川(2013)|谷川(2013)]] p331</ref>など国民的にヒットし、忠臣蔵の主力が映画からテレビへと移る<ref>[[#谷川(2013)|谷川(2013)]] p315</ref>。その後年末になると毎年のようにテレビで忠臣蔵ものの新作の放映もしくは再放送が行われている。
 
1980年代になると再び忠臣蔵の関心が高まり、1982年にはNHK大河ドラマ『[[峠の群像]]』が作られ、また[[森村誠一]]が浪士達の人間的な側面を強調した『忠臣蔵』を描き、ブームの一翼を担った<ref name="miyazawab240" />。[[井上ひさし]]や[[小林信彦]]もそれぞれ脱落者を描いた『不忠臣蔵』、赤穂事件の不条理な面を浮き彫りにした『裏表忠臣蔵』を書いている<ref name="miyazawab240" />。
 
同時期に[[丸谷才一]]の『忠臣蔵とは何か』で忠臣蔵を御霊信仰と結び付けた論考に端を発するいわゆる「忠臣蔵論争」が起り、諏訪春雄が『忠臣蔵の世界』、『聖と俗のドラマツルギー』で丸山の説に反論するなどした<ref>[[#元禄(1999)|元禄(1999)]] p216-217</ref><ref name="miyazawab240">[[#宮澤(1999)|宮澤(1999)]] p240-244</ref>。
 
1992年には[[池宮彰一郎]]による『[[四十七人の刺客]]』が登場する。本作では吉良暗殺の「刺客」としての赤穂浪士を描き、たとえば吉良による浅野の苛めは赤穂浪士側のブラックプロパガンダとするなど情報戦としての側面も描かれた。1994年には同じく池宮彰一郎の『[[最後の忠臣蔵]]』が書かれ、討ち入り後の世界を舞台に寺坂吉右衛門や脱盟者などのその後を描いた。
 
そして2013年にはハリウッドで忠臣蔵を換骨奪胎したファンタジー映画[[47RONIN]]が描かれいる。
 
== 博物館・資料館 ==
*[[大石神社|赤穂大石神社]] - 義士宝物殿、義士木像奉安殿
*[[花岳寺]] - 義士木像堂、宝物館
*[[赤穂市立歴史博物館]] - 「赤穂浪士」をメインテーマの一つとする史学系博物館。[[赤穂城]]の米蔵跡に立地。
 
== 類似創作・俗説と史実事件違い ==
{{main|忠臣蔵#脚色や創作による伝承}}
 
=== 類似の刃傷事件関連人物 ===
{{see|赤穂事件の人物一覧}}
 
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赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。
出典がないのでコメントアウト
* [[寛永]]4年([[1627年]]):[[小姓組]][[猶村孫九郎]]が、西の丸で木造氏、鈴木氏に切りつけた事件。鈴木は死亡。木造は助かった。加害者猶村は殿中抜刀の罪により切腹改易、被害者鈴木はその時の傷がもとで死亡。木造は逃げたことを咎められ、改易となった。加害者は死罪、被害者は死亡と改易の例。
== 類似の事件 ==
* 寛永5年([[1628年]]):目付[[豊島信満]]が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中[[井上正就]]に斬りつけ、正就と制止しようとした[[青木義精]]を殺害し、その場で自害した('''豊島事件''')。被害者加害者共に死亡の例。
{{出典の明記|date=2024/02/05}}
* 寛文10年(1670年):殿中の右筆部屋で、右筆の水野伊兵衛と大橋長左右衛門が口論になり、水野伊兵衛が刀を抜いた。水野伊兵衛は殿中抜刀の罪で死罪となった。喧嘩相手の大橋長左右衛門は無罪。加害者は死罪、被害者は無罪の例。
==== 江戸城内での刃傷沙汰の先例 ====
* [[貞享]]元年([[1684年]]):若年寄[[稲葉正休]]が、本丸で[[大老]][[堀田正俊]]を殺害し、正休もその場で老中らによって殺害された事件。加害者被害者共に死亡の例。
先例として、赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。
 
* [[寛永]]4年([[1627年]]):[[小姓組]][[猶村孫九郎]]が、西の丸で[[木造三郎左衛門]]、[[鈴木久右衛門]]に切りつけた事件。理由は口論によるもの。加害者猶村は殿中抜刀の罪により切腹改易、被害者鈴木はその時の傷がもとで死亡、改易。木造は回復したが、逃げたことを咎められ、改易。'''加害者は死罪改易、被害者は死亡改易の例。'''口論が原因であったことから、喧嘩両成敗にされたものと思われる。
* 寛永5年([[1628年]]):目付[[豊島信満]]が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中[[井上正就]]に斬りつけ、正就と制止しようとした[[青木義精]]を殺害し、その場で自害した('''豊島事件''')。'''加害者は死亡改易、被害者は死亡の例。'''
* 寛文10年(1670年):殿中の右筆部屋で、右筆の[[水野伊兵衛]]と[[大橋長左右衛門]]が口論になり、水野伊兵衛が刀を抜いた。水野伊兵衛は殿中抜刀の罪で死罪となった。喧嘩相手の大橋長左右衛門は無罪。'''加害者は死罪、被害者は無罪の例。'''
* [[貞享]]元年([[1684年]]):若年寄[[稲葉正休]]([[浅野長矩]]の又従兄)が、本丸で[[大老]][[堀田正俊]]を殺害し、正休もその場で老中らによって殺害された事件。'''加害者は死亡改易、被害者は死亡の例。'''
 
後年の例としては以下のものがある。
後年の例としては享保10年[[7月28日 (旧暦)]]([[1726年]][[8月25日]])に江戸城本丸で発生した事件がある。[[水野忠恒 (大名)|水野忠恒]]([[松本藩]]主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、[[毛利師就]](長府藩主5万7000石)が拾ったが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、水野も毛利も双方が助かった。このとき将軍[[徳川吉宗]]は、水野の行動を乱心によるものであると裁定し、秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の[[水野忠穀]]に信濃国佐久郡7000石を与えて水野家を再興させた。そのうえで毛利家は咎めなしとした。その結果、水野家からも毛利家からも不満の声は上がらなかった。同じ事例でも吉宗と綱吉の違いがここにあると言われる。
* 享保10年[[7月28日 (旧暦)]]([[1726年]][[8月25日]]):江戸城本丸'''[[松の廊下]]'''で発生。[[水野忠恒 (大名)|水野忠恒]]([[松本藩]]主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、[[毛利師就]](長府藩主5万7,000石)が拾ったが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、毛利師就は右手、左耳、のどなどに傷を負ったが、一命を取り留めた。師就は「殿中につき、吉良義央に倣い刀を抜かずに対応した」と証言している<ref>「長府毛利十四代記」(下関市立長府博物館)</ref>。このとき将軍[[徳川吉宗]]は、水野の行動を乱心によるものであると裁定し、秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の[[水野忠穀]]に信濃国佐久郡7,000石を与えて水野家を再興させた。--><!--そのうえで毛利家は咎めなしとした。その結果、水野家からも毛利家からも不満の声は上がらなかった。同じ事例でも吉宗と綱吉の違いがここにあると言われる。--><!--水野家に幕府の処分を不満とする古文書(『水野隼人正家文書』より「水野様御大変」「松本大変」(長野県立図書館・早稲田大学図書館)あり)--><!--'''加害者は改易、被害者は無罪の例'''。毛利家は泉岳寺と絶縁した<ref group="注釈">長府藩歴代藩主は全員が豊功社に祀られた。</ref>。
*延享4年[[8月15日 (旧暦)]]([[1747年]][[9月19日]]):江戸城内の厠で発生。[[熊本藩]]主・[[細川宗孝]]が[[旗本]][[板倉勝該]]に斬られて死亡した。宗孝には[[御目見]]を済ませた世子がおらず、このままでは細川家は無嗣断絶になりかねないところ、その場にたまたま居合わせた[[仙台藩]]主・[[伊達宗村 (仙台藩主)|伊達宗村]]が機転を利かせ、「宗孝殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。そこで、家臣たちは宗孝の遺体をまだ生きているものとして藩邸に運び込み、弟の[[細川重賢|重賢]]を[[末期養子]]に指名して幕府に届け出た後で、宗孝が介抱の甲斐無く死去したことにして事無きを得たと言われている。'''加害者は死罪改易、被害者は死亡の例。'''原因について、細川家では板倉は「乱心」のうえ「人違い」による殺人<ref group="注釈">後嗣の細川重賢は細川家の[[家紋]]を「細川九曜」紋に改めている。</ref>としているが、板倉家は「遺恨」<ref group="注釈">板倉家では「細川屋敷から排水が隣の板倉邸に流れたことでの遺恨」としている。</ref>で元々、宗孝を狙ったと主張している。
* 天明4年(1784年)3月24日:江戸城中の間で発生。若年寄[[田沼意知]]([[相良藩]]田沼家世子)に新番士[[佐野政言]]が切りつけ、田沼は重傷を負い佐野は拘束。田沼は事件から8日後に事件での傷が悪化し死亡し、田沼家世子は意知の子[[田沼意明]]に変更。佐野は田沼の死後すぐに切腹となるも、佐野家自体は政言に子が無かったため断絶するも親族には咎めは無かった。'''加害者は死罪改易、被害者は死亡の例。'''-->
 
<!--=== 討入に関する説 ===
討入は、はじめ元禄15年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]] ([[1703年]][[1月21日]])に予定されていたが、将軍が柳澤吉保の屋敷に御成りになるからこの日は避けたという。これは、堀部金丸が元禄15年12月11日付で大石良穀に宛てて書いたという書状(去ル五日相延候会日相定候哉……)による。12月2日に深川八幡の前の大茶屋で吉良邸襲撃に関する最後の全体会議が行われたが、それについて書いたなかには12月5日討入予定の話はない。12月6日が最初の討入予定日だったという説もある。12月14日(正しくは12月15日未明)の討入は、諸史料を照らして暁7ツ(午前2時40分)ごろ行われたとされている。この日であれば、月齢13.6、月没時刻は午前5時17分。月没時刻までは月明かりがある。12月5日であれば月齢3.5で月没は午後8時55分。三日月のような細い幼い月で早々に沈んでしまう。眠りの深くなったま夜中や未明に奇襲襲撃するとすれば月明かりは役に立たない。月没後、腰に刀を差し松明を片手に持って梯子を上って闇の中に飛び降りる。そのようなことは不可能。12月6日であっても、月齢4.5で、月没は午後9時55分。15日のように表門の脇に梯子を立てて、それを上って暁に吉良邸内に入ることはできない。堀部武庸の従兄で討入の際に堀部金丸に付き添った[[佐藤一敞]]の覚書によれば、12月15日の「7半過」(午前5時を過ぎたころ)に月は家の蔭に隠れ、薄暗くなった(七半過ニ茂可成哉と存候月の入際ニて家之陰江月落薄暗成候)。月没後は、皆が手に灯りを持っていたという。
 
従来は、堀部武庸ら江戸急進派による度重なる督促や、浅野長広の広島浅野家預かりによって赤穂浅野家再興の可能性がなくなったことにより、大石良雄のとる道は討入になったとされていたが、{{要出典範囲|date=2014年4月|討入は幕府主導によって計画的に行われたとする説が有力になってきた。その理由のひとつは、12月13日付で大石が赤穂の3人の僧に宛てた書簡のなかに、「若老中(若年寄)も知っているようだ。(討入は)うまくいくだろう」という意味のことが書かれている。また、堀部武庸ら3名が大石に元禄14年8月19日付で連名で送った書簡のなかで、吉良の本所移転が確定したような書き方をしているが、本所屋敷の先住者・松平信望に屋敷替の命が出されたのが8月12日で翌日には移転先の屋敷の受取証を提出している。吉良に屋敷替の命があったのはその後であり、本所屋敷の受領証を提出したのは9月3日である。この流れからしても堀部武庸らが吉良の本所移転の情報を得たのは早すぎる。松平信望の屋敷だったときには南が正面であったのに、吉良屋敷になってから正面が東になっている。吉良屋敷の絵図面を見ると東に表門があるにもかかわらず、表玄関が南向きである。本所屋敷が松平信望のものであった時代の江戸の地図や幕府普請方の役所用資料においても、南が正面であったことが確認できる。表門が移設された、ということである。天和3年1月12日(1683年20月8日)日発令の触れによって町の防火対策として屋根番制度が始まった。風の激しい時には屋根番を屋根の上に立たせて監視するというもので、[[大岡忠相]]によって町の火の見櫓(10町に1つ)と火の見櫓のない町では「枠火の見」と呼ばれる火の見梯子が設置されるまで、屋根番制度は続いた。吉良屋敷の正面が南であった場合、本所相生町2丁目の屋根の上に立てば表門周辺はまる見えになる。東に表門を移設すればたとえ相生町2丁目で屋根番が立ったとしても、死角になる。表門の移設は、町人に討入の実態を見させないための策であった。さらに、2ツ目の道沿いに[[中山直房]]の屋敷があった。初代[[火付改]]で、「鬼勘解由」という異名で恐れられた人物である。中山直房は事件当時は火付改の現職ではなかったが、「鬼勘解由」の話は後世まで語り継がれていた。また、中山直房は当時は[[御使番]]の職にあって、火事のときには[[大名火消]]と[[定火消]]を管理・監督することが職務のうちにあった。火事を装った討入とするための条件が、すべてそろっていたのである。}}-->
 
従来は、堀部武庸ら江戸急進派による度重なる督促や、浅野長広の広島浅野家預かりによって赤穂浅野家再興の可能性がなくなったことにより、大石良雄の採る道は討入になったとされていたが、{{要出典範囲|date=2014年4月|討入は幕府主導によって計画的に行われたとする説が有力になってきた。その理由のひとつは、12月13日付で大石が赤穂の3人の僧に宛てた書簡のなかに、「若老中(若年寄)も知っているようだ。(討入は)うまくいくだろう」という意味のことが書かれている。また、堀部武庸ら3名が大石に元禄14年8月19日付で連名で送った書簡のなかで、吉良の本所移転が確定したような書き方をしているが、本所屋敷の先住者・松平信望に屋敷替の命が出されたのが8月12日で翌日には移転先の屋敷の受取証を提出している。吉良に屋敷替の命があったのはその後であり、本所屋敷の受領証を提出したのは9月3日である。この流れからしても堀部武庸らが吉良の本所移転の情報を得たのは早すぎる。松平信望の屋敷だったときには南が正面であったのに、吉良屋敷になってから正面が東になっている。吉良屋敷の絵図面を見ると東に表門があるにもかかわらず、表玄関が南向きである。本所屋敷が松平信望のものであった時代の江戸の地図や幕府普請方の役所用資料においても、南が正面であったことが確認できる。表門が移設された、ということである。天和3年1月12日(1683年20月8日)日発令の触れによって町の防火対策として屋根番制度が始まった。風の激しい時には屋根番を屋根の上に立たせて監視するというもので、[[大岡忠相]]によって町の火の見櫓(10町に1つ)と火の見櫓のない町では「枠火の見」と呼ばれる火の見梯子が設置されるまで、屋根番制度は続いた。吉良屋敷の正面が南であった場合、本所相生町2丁目の屋根の上に立てば表門周辺はまる見えになる。東に表門を移設すればたとえ相生町2丁目で屋根番が立ったとしても、死角になる。表門の移設は、町人に討入の実態を見させないための策であった。さらに、2ツ目の道沿いに[[中山直房]]の屋敷があった。初代[[火付改]]で、「鬼勘解由」という異名で恐れられた人物である。中山直房は事件当時は火付改の現職ではなかったが、「鬼勘解由」の話は後世まで語り継がれていた。また、中山直房は当時は[[御使番]]の職にあって、火事のときには[[大名火消]]と[[定火消]]を管理・監督することが職務のうちにあった。火事を装った討入とするための条件が、すべてそろっていたのである。}}--><!---->
=== 類似の討ち入り事件 ===
; 浄瑠璃坂の仇討
 
赤穂浪士の吉良邸討入りに類似した事件には、討入りの30年前に起こった[[寛文]]12年([[1672年]])の[[浄瑠璃坂の仇討]]がある。
[[浄瑠璃坂の仇討]]は[[宇都宮藩]]を脱藩し追放された[[奥平正武|奥平源八]]が寛文12年(1672年)2月3日に父の仇である同藩の元[[藩士家老]][[奥平守雄|奥平隼人]]を討った事件である。
源八の一族と同情した脱藩有志の総勢40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている。
源八ら一党は、幕府に出頭して裁きを委ねた。幕府は本来ならば[[死罪]]であるところを死一等を減じて[[伊豆大島]]への流罪という寛大な処分を行った。
恩赦後、一党は他家へ召抱えられた。
この事件を知っていた赤穂浪士は同様の寛大な処置を期待していた可能性もある<ref> [[竹田真砂子]] 浄瑠璃坂の討入り - 忠臣蔵への道 -(1999/3) ISBN9784087811698 (4087811697) </ref>。
 
源八ら一党は、目的を達成後には幕府へ出頭して裁きを委ねた。そこで本来ならば[[死罪]]であるところを、幕府により死一等を減じられて[[伊豆大島]]への流罪という寛大な処分に減刑された。しかも数年後の恩赦により、一党は他家へ召抱えられた。ただし、彦根藩に召抱えられた源八の子孫・奥平氏は[[桜田門外の変]]の後に井伊家から召放になっている<ref>『彦根藩井伊家文書』より「侍中由緒帳」</ref>{{Primary source inline|date=2024年2月}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|3}}
 
この事件を知っていた赤穂浪士(内蔵助で当時14歳)は同様の寛大な処置を期待していた可能性もある<ref>[[竹田真砂子]] 浄瑠璃坂の討入り - 忠臣蔵への道 -(1999/3) ISBN 9784087811698 (4087811697) {{要ページ番号|date=2024/02/03}}</ref>。
== 参考文献 ==
 
; 深堀事件
=== 歴史に関する文献 ===
[[深堀事件]](ふかほりじけん「葉隠れ忠臣蔵」とも)は、元禄13年12月19日(1701年1月16日)から12月20日(同1月17日)にかけて起こった、肥前国天領長崎(現・長崎県長崎市)において長崎会所の役人[[高木彦右衛門]]と佐賀藩深堀領の武士(家老格[[深堀鍋島家]]の家中のこと)の間に起こった騒動。
 
大音寺坂にて深堀鍋島家の家臣二名が高木彦右衛門の家来に雪解けの泥をかけてしまったことから口論となる。その場は近所の住人の仲裁で収まったものの、恨みを抱いた高木の家来十数人が夕刻に深堀鍋島家蔵屋敷に乱入。鍋島家家臣を打ち据え、大小の刀を奪いとった。
*{{Cite book|和書|author=[[松島栄一]]|date=1964年(昭和39年)|title=忠臣蔵―その成立と展開|publisher=[[岩波書店|岩波新書]]|asin=B000J8T3SI|ref=松島(1964)}}
*{{Cite book|和書|author=赤穂市総務部市史編さん室|date=1989年(昭和64年)~2014年(平成26年)|title=忠臣蔵第一巻~第七巻|publisher=兵庫県赤穂市|ref=赤穂市忠臣蔵}}
*{{Cite book|和書|author=[[野口武彦]]|date=1994年(平成6年)|title=忠臣蔵―赤穂事件・史実の肉声|publisher=[[ちくま書房|ちくま新書]]|ISBN=978-4480056146|ref=野口(1994)}}
*{{Cite book|和書|author=[[田口章子]]|date=1998年(平成10年)|title=おんな忠臣蔵 |publisher=[[筑摩書房|ちくま新書]]|ISBN=978-4480057808|ref=田口(1999)}}
*{{Cite book|和書|author=[[宮澤誠一]]|date=1999年(平成11年)|title=赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)|publisher=[[三省堂]]|ISBN=978-4385359137|ref=宮澤(1999)}}
*{{Cite book|和書|author=[[谷口眞子]]|date=2006年(平成18年)|title=赤穂浪士の実像 歴史文化ライブラリー 214|publisher=[[吉川弘文館]]|ISBN=978-4642056144|ref=谷口(2006)}}
*{{Cite book|和書|author=[[田原嗣郎]]|date=2006年(平成18年)|title=赤穂四十六士論―幕藩制の精神構造 (歴史文化セレクション)|publisher=[[吉川弘文館]]|ISBN=978-4642063036|ref=田原(2006)}}
*{{Cite book|和書|author=[[山本博文]]|date=2012年(平成24年)|title=これが本当の「忠臣蔵」赤穂浪士討ち入り事件の真相 |publisher=[[小学館|小学館101新書]]|ISBN=978-4098251346|ref=山本(2012a)}}
*{{Cite book|和書|author=[[山本博文]]|date=2012年(平成24年)|title=「忠臣蔵」の決算書|publisher=[[新潮社|新潮新書]]|ISBN=978-4106104954|ref=山本(2012b)}}
*{{Cite book|和書|author=[[山本博文]]|date=2013年(平成25年)|title=赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)|publisher=[[吉川弘文館]]|ISBN=978-4642064613|ref=山本(2013)}}
*{{Cite book|和書|author=[[山本博文]]|date=2014年(平成26年)|title=知識ゼロからの忠臣蔵入門|publisher=[[幻冬舎]]|ISBN=978-4344902886|ref=山本(2014)}}
 
これに立腹した深堀鍋島家の家臣が当事者の引き渡しを要求。高木彦右衛門は低姿勢で謝罪したものの引き渡しは拒否したため、深堀鍋島家の家臣12名が高木の屋敷に討ち入り。高木彦右衛門および事件の当事者や他家来など9名がその場で殺される。雪解けの泥をかけた深堀鍋島家の家臣二名は事件後すぐに自ら切腹した。
=== 創作物 ===
 
他に討ち入った10名は三か月後に幕府の命により切腹となった。また討ち入りに後から駆けつけた9名の藩士は島流しとなる。だが深堀鍋島家当主鍋島茂久には処罰はおよばず、むしろ武士の誇りを見せたと称賛を受けたという。
*{{Cite book|和書|date=1912年(明治45年)|title=文芸叢書 忠臣藏文庫|publisher=[[博文館]]|ref=忠臣蔵文庫(1912)}} [{{NDLDC|878921}} 近代デジタルライブラリー] [https://books.google.co.jp/books?id=qe2qv6xpKhcC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false Google Books]
**『正史実伝いろは文庫』、『忠臣水滸伝』、『仮名手本忠臣蔵』、『四十七石忠箭計』を収録。
*{{Cite book|和書|date=1928-1933年(昭和3年)|title=日本戯曲全集 第十五卷|publisher=[[春陽堂]]|ref=日本戯曲全集15(1928-1933)}} [{{NDLDC|1884065}} 近代デジタルライブラリー]
**『太平記忠臣講釋』、『菊宴月白浪』、『忠孝兩國織』、『いろは假名四十七訓』、『義臣傳讀切講釋』、『繪本忠臣藏』、『假名手本忠臣藏』を収録。
*{{Cite book|和書|date=1928-1933年(昭和3年)|title=日本戯曲全集 第四十卷|publisher=[[春陽堂]]|ref=日本戯曲全集40(1928-1933)}} [{{NDLDC|1883951}} 近代デジタルライブラリー]
** 『忠臣蔵後日建前』、『武士鏡忠義の礎』、『真写いろは日記』、『新台いろは書始』、『仮名書吾嬬面視』、『いろは仮名随筆』、『仮名手本拙書添』、『忠臣蔵増補柱礎』、『いろは歌誉桜花』
*{{Cite book|和書|author=[[片島深淵子]]|title=赤城義臣伝|ref=赤城義臣伝}} [{{NDLDC|772855}} 近代デジタルライブラリー]
*{{Cite book|和書|title=赤穂精義参考内侍所|ref=内侍所}} [{{NDLDC|782803}} 近代デジタルライブラリー]
*{{Cite book|和書|author=[[山崎美成]]|title=赤穂義士伝一夕話|ref=赤穂義士伝一夕話}} [{{NDLDC|772498}} 近代デジタルライブラリー]
*{{Cite book|和書|title=赤穗復讎全集: 全|publisher=[[博文館]]|ref=赤穗復讎全集}} [https://books.google.co.jp/books?id=z1joYZs4sFwC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false Google Books]
** 『赤穂義士伝一夕話』、『忠臣武道播磨石』、『忠臣藏當振舞』、『俳諧忠臣藏』、『長門本忠臣藏』、『忠臣藏岡目評判』、『繪本忠臣藏』、『いろは文庫』を収録
*{{Cite book|和書|date=1896年(明治29年)|title=忠臣藏淨瑠璃集|publisher=[[博文館]]|ref=忠臣藏淨瑠璃集}} [https://books.google.co.jp/books?id=dy0VGT8cEQMC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false Google Books]
**『碁盤太平記』、『忠臣金短冊』、『假名手本忠臣藏』、『難波丸金鶏』、『いろは歌義臣鍪』、『太平記忠臣講釋』、『躾方武士鑑』、『いろは藏三組盃』、『忠臣伊呂波實記』『廓景色雪の茶會』、『忠義墳盟約大石』、『忠臣一力祇園曙』、『忠臣後日噺』を収録
*{{Cite book|和書|author=[[真山青果]]|date=1982年(昭和57年)|title=[[元禄忠臣蔵]](上、下)|publisher=[[岩波書店]]|ISBN=978-4003110119, 978-4003110126|ref=真山(1982)}}
*{{Cite book|和書|date=1929年(昭和4年)|title=講談全集 3|publisher=[[講談社|大日本雄弁会講談社]]|ref=講談全集(1929)}}
*{{Cite book|和書|date=1971年(昭和46年)|title=定本講談名作全集 第7巻|publisher=[[講談社]]|ref=定本講談名作全集(1971)}}
*{{Cite book|和書|date=書籍版1976年(昭和51年)kindle版2014年(平成26年)|title=講談名作文庫5赤穂義士銘々伝|publisher=[[講談社]]|ref=講談名作文庫(1976)}}
 
高木家側は深堀鍋島家蔵屋敷に押し入った10名が斬首。高木彦右衛門の息子はその場にいながら応戦せず隠れた非を咎められ、家財没収のうえ長崎追放となった。
=== 創作物に関する文献 ===
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
 
=== 出典 ===
*{{Cite book|和書|author=[[関根黙庵]]|date=1924年(大正13年)|title=講談落語今昔譚|publisher=[[雄山閣]]|ref=関根(1924)}} [{{NDLDC|921382}} 近代デジタルライブラリー] [https://books.google.co.jp/books?id=vc9aZVRsCWUC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false Google Books]
{{Reflist|18em}}
*{{Cite book|和書|author=[[江崎政忠]]|date=1940年(昭和15年)|title=天野屋利兵衛伝|ref=江崎(1940)}} [{{NDLDC|1089915/30}} 近代デジタルライブラリー]
*{{Cite book|和書|author=[[今尾哲也]]|date=1987年(昭和62年)|title=吉良の首 忠臣蔵とイマジネーション(叢書 演劇と見世物の文化史)|publisher=[[平凡社]]|ISBN=978-4582260182|ref=今尾(1987)}}
*{{Cite book|和書|author=[[宮澤誠一]]|date=2001年(平成13年)|title=近代日本と「忠臣蔵」幻想|publisher=[[青木書店]]|ISBN= 978-4250201509|ref=宮澤(2001)}}
*{{Cite book|和書|author=[[谷川建司]]|date=2013年(平成25年)|title=戦後「忠臣蔵」映画の全貌|publisher=[[集英社]]|ISBN=978-4420310680|ref=谷川(2013)}}
*{{Cite book|和書|author=[[渡辺保]]|date=2013年(平成25年)|title=忠臣蔵 もう一つの歴史感覚|publisher=[[講談社学術文庫]]|ISBN=978-4062922036|ref=渡辺(2013)}} 白水叢書(1981年)の再版
*{{Cite book|和書|author=[[稲田和浩]]|date=2014年(平成26年)|title=忠臣蔵はなぜ人気があるのか (フィギュール彩)|publisher=[[彩流社]]|ISBN=978-4779170188|ref=稲田(2014)}}
 
=== 史料参考文献 ===
 
=== 歴史に関する文献 ===
*{{Cite book|和書|author=松島栄一|authorlink=松島栄一|date=1964年(昭和39年)|title=忠臣蔵―その成立と展開|publisher=[[岩波書店|岩波新書]]|asin=B000J8T3SI|ref=松島(1964)}}
*{{Cite book|和書|author=赤穂市総務部市史編さん室|date=1989年(昭和64年)-2014年(平成26年)|title=忠臣蔵第一巻-第七巻|publisher=兵庫県赤穂市|ref=赤穂市忠臣蔵}}
*{{Cite book|和書|author=野口武彦|authorlink=野口武彦|date=1994年(平成6年)|title=忠臣蔵―赤穂事件・史実の肉声|publisher=[[ちくま書房|ちくま新書]]|ISBN=978-4480056146|ref=野口(1994)}}
*{{Cite book|和書|author=野口武彦|authorlink=野口武彦|date=2015年(平成27年)|title=花の忠臣蔵|publisher=[[講談社]]|ISBN=978-4062198691|ref=野口(2015)|year=}}
*{{Cite book|和書|author=田口章子|authorlink=田口章子|date=1998年(平成10年)|title=おんな忠臣蔵 |publisher=[[筑摩書房|ちくま新書]]|ISBN=978-4480057808|ref=田口(1999)}}
*{{Cite book|和書|author=宮澤誠一|authorlink=宮澤誠一|date=1999年(平成11年)|title=赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)|publisher=[[三省堂]]|ISBN=978-4385359137|ref=宮澤(1999)}}
*{{Cite book|和書|author=谷口眞子|authorlink=谷口眞子|date=2006年(平成18年)|title=赤穂浪士の実像 [[歴史文化ライブラリー]] 214|publisher=[[吉川弘文館]]|ISBN=978-4642056144|ref=谷口(2006) }}
**オンデマンド版[https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b482443.html],2019年(令和元年)ISBN 9784642756143
*{{Cite book|和書|author=田原嗣郎|authorlink=田原嗣郎|date=2006年(平成18年)|title=赤穂四十六士論―幕藩制の精神構造 (歴史文化セレクション)|publisher=[[吉川弘文館]]|ISBN=978-4642063036|ref=田原(2006)}}
*林田明大『陽明学と忠臣蔵』徳間書店、1992年(平成11年)。
*{{Cite book|和書|author=山本博文|authorlink=山本博文|date=2012年(平成24年)|title=これが本当の「忠臣蔵」赤穂浪士討ち入り事件の真相 |publisher=[[小学館|小学館101新書]]|ISBN=978-4098251346|ref=山本(2012a)}}<!--{{SfnRef|山本|2012a}}-->
*{{Cite book|和書|author=山本博文|authorlink=山本博文|date=2012年(平成24年)|title=「忠臣蔵」の決算書|publisher=[[新潮社|新潮新書]]|ISBN=978-4106104954|ref=山本(2012b)}}<!--{{SfnRef|山本|2012b}}
-->
*{{Cite book|和書|author=山本博文|authorlink=山本博文|date=2013年(平成25年)|title=赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)[https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b106176.html]|publisher=[[吉川弘文館]]|ISBN=978-4642064613|ref=山本(2013)}}<!--{{SfnRef|山本|2013}}-->
*{{Cite book|和書|author=山本博文|authorlink=山本博文|date=2014年(平成26年)|title=知識ゼロからの忠臣蔵入門|publisher=[[幻冬舎]]|ISBN=978-4344902886|ref=山本(2014)}}<!--{{SfnRef|山本|2014}}-->
* 谷口眞子『赤穂浪士と吉良邸討入り(人をあるく)』[https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b128434.html]吉川弘文館、2013年(平成25年)ISBN 9784642067768
 
=== 史料 ===
* {{Cite book|和書|date=1931年(昭和6年)|title=赤穂義士史料(上巻)|publisher=[[雄山閣]]|ref=赤穂義士史料上(1931)}} [{{NDLDC|1173495}} 近代デジタルライブラリー] [https://books.google.co.jp/books?id=q-sSU9EpGUMC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false Goole Books]
* {{Cite book|和書|date=1931年(昭和6年)|title=赤穂義士史料(中巻)|publisher=[[雄山閣]]|ref=赤穂義士史料中(1931)}} [{{NDLDC|1173516}} 近代デジタルライブラリー]
* {{Cite book|和書|date=1931年(昭和6年)|title=赤穂義士史料(下巻)|publisher=[[雄山閣]]|ref=赤穂義士史料下(1931)}} [{{NDLDC|1173530}} 近代デジタルライブラリー]
 
=== その他 ===
* {{Cite book|和書|date=1889年(明治22年)|author=[[重野安繹]]|authorlink=重野安繹|title=赤穂義士実話|publisher=[[大成館]]|ref=重野(1889)}} [{{NDLDC|772493}} 近代デジタルライブラリー]
* {{Cite book|和書|date=1909年(明治42年)|author=[[福本日南]]|authorlink=福本日南|title=元禄快挙録|publisher=[[啓成社]]|ref=福本(1909)}} [{{NDLDC|772775}} 近代デジタルライブラリー]。『元禄快挙録』[[岩波文庫]](全3巻、改版1982年)で再刊
* {{Cite book|和書|date=1910年(明治43年)|author=[[三田村鳶魚]]|authorlink=三田村鳶魚|title=元禄快挙別録|publisher=[[啓成社]]|ref=三田村(1910)}} [{{NDLDC|772774/49}} 近代デジタルライブラリー]。[[中公文庫]]「鳶魚江戸文庫」で再刊
* {{Cite book|和書|date=1914年(大正3年)|author=[[福本日南]]|authorlink=福本日南|title=元禄快挙真相録|publisher=[[東亜堂書房]]|ref=福本(1914)}} [{{NDLDC|950825}} 近代デジタルライブラリー] [https://books.google.co.jp/books?id=ic2RJ3_zYL0C&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false Google Books]
*{{Cite book|和書|author=[[徳富蘇峰]]|authorlink=徳富蘇峰|date=1925年(大正14年)|title=[[近世日本国民史.]] [第18] (時代 中巻(義士篇))|publisher=[[民友社]]|ref=徳富(1981)}} 講談社現代文庫より再版(ISBN=978-4061585645)。[{{NDLDC|1920549}} 近代デジタルライブラリー]。[[講談社学術文庫]]「近世日本国民史 赤穂義士」で再版
*{{Cite book|和書|author=[[三田村鳶魚]]|authorlink=三田村鳶魚|date=1930年(昭和5年)|title=横から見た赤穂義士|publisher=[[民友社]]|ref=三田村(1930)}} 河出文庫より「赤穂義士忠臣蔵の真相」の名称で再版(ISBN=978-4-309-41053-1) [{{NDLDC|1177807}} 近代デジタルライブラリー]、[https://books.google.co.jp/books?id=ehgJdgblBpYC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false Google Books]。中公文庫「鳶魚江戸文庫」、[[河出文庫]]「赤穂義士 忠臣蔵の真相」で再刊
*{{Cite book|和書|author=[[尾崎秀樹]]|authorlink=尾崎秀樹|date=1974年(昭和49年)|title=考証 赤穂浪士|publisher=[[秋田書店]]|asin=B000J9GDUI|ref=尾崎(1974)}}
*{{Cite book|和書|author=[[斎藤茂]]|authorlink=斎藤茂|date=1975年(昭和50年)|title=赤穂義士実纂|publisher=[[赤穂義士実纂布会]]|asin=B000J9F0HK|ref=斎藤(1975)}}
*{{Cite book|和書|authorauthor1=[[佐々木杜太郎]]、[[|authorlink1=佐々木杜太郎|author2=赤穂義士顕彰会]]|date=1983年(昭和58年)|title=赤穂義士事典―大石神社蔵|publisher=[[新人物往来社]]|ISBN= 978-4404011367|ref=佐々木(1983)}}
*{{Cite book|和書|authorauthor1=泉秀樹渡辺世祐|yearauthorlink1=1998渡辺世祐|monthauthor2=1井筒調策校訂|date=1998年(平成10年)|title=忠臣蔵百科新版 正史赤穂義士 |publisher=講談社光和堂|isbnISBN=978-40620925174875381174|ref=渡辺(1998)}}
*{{Cite book|和書|author=[[渡辺世祐]], [[井筒調策]]元禄忠臣蔵の会|date=19981999年(平成1011年)|title=新版正史赤穂義士 元禄忠臣蔵データファイル|publisher=[[博美新人物往来]]|ISBN=978-48753811744404028105|ref=渡辺元禄(19981999)}}
*{{Cite book|和書|author=元禄佐藤臣蔵の会男|authorlink=佐藤忠男|date=19992003年(平成1115年)|title=元禄忠臣蔵データファイル-意地の系譜|publisher=[[朝日人物住来社]]「[[朝日選書]]」|ISBNisbn=978-44040281054925219457|ref=元禄佐藤(19992003)}}初版1976年のオンデマンド版
*{{Cite book|和書|author=[[佐藤忠男]]|date=2003年(平成15年)|title=忠臣蔵-意地の系譜 (朝日選書 (76))|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=978-4925219457|ref=佐藤(2003)}} (1976年のものの再刊)
 
== 関連書籍 ==
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== 関連項目 ==
* 関連人物
* [[元禄忠臣蔵]]
** [[赤穂事件の人物一覧]]
* [[東海道四谷怪談]]
** [[南部坂吉良氏]]
** [[内藤忠勝]] - <!--1680年-->浅野長矩の叔父。[[増上寺]]での[[徳川家綱]]の葬儀の席で[[永井尚長]]を殺害。
* [[浄瑠璃坂の仇討]]
** [[稲葉正休]] - <!--1684年-->浅野長矩の又従兄。殿中で[[堀田正俊]]を殺害。
* [[s:梶川日記|Wikisource:梶川日記]] - 事件直後に書かれた物を基に整理・書き直された物の写本
** [[前田利昌 (大聖寺新田藩主)|前田利昌]] - <!--1709年-->[[寛永寺]]での徳川綱吉の葬儀の席で[[織田秀親]]を殺害。
* [[赤穂義士祭]]
** [[水野忠恒 (大名)|水野忠恒]] - <!--1725年-->殿中で[[毛利師就]]を切りつける。
* [[内藤忠勝]]:[[1680年]]に[[増上寺]]での[[徳川家綱]]の葬儀の席で[[永井尚長]]を殺害。
** [[稲葉正休佐野政言]]:[[1684 - <!--1784]]に-->殿中で[[正俊沼意知]]を殺害。
* 史跡・資料館
* [[前田利昌 (大聖寺新田藩主)|前田利昌]]:[[1709年]]に[[寛永寺]]での徳川綱吉の葬儀の席で[[織田秀親]]を殺害。
** [[本所松坂町公園]]
* [[水野忠恒 (大名)|水野忠恒]]:[[1725年]]に殿中で[[毛利師就]]を切りつける。
**[[大石神社|赤穂大石神社]] - 義士宝物殿、義士木像奉安殿
* [[佐野政言]]:[[1784年]]に殿中で[[田沼意知]]を殺害。
**[[花岳寺]] - 義士木像堂、宝物館
**[[赤穂市立歴史博物館]] - 「赤穂浪士」をメインテーマの一つとする史学系博物館。[[赤穂城]]の米蔵跡に立地。
* その他
** [[s:梶川日記|Wikisource:梶川日記]] - 事件直後に書かれた物を基に整理・書き直された物の写本<!--以下、日付を付けずに西暦年を記すのは問題がありますから付けないでください-->
 
== 外部リンク ==
*[https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010367 番組エピソード 赤穂浪士を題材にした、主なNHKドラマ-NHKアーカイブス]
* [http://www.city.ako.hyogo.jp/samurai/index.html 赤穂義士]
*{{Kotobank}}
* [http://homepage1.nifty.com/longivy/note/top.htm#AK 赤穂事件関係]
*[https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7060 山本博文:「赤穂の旧藩士は、なぜ吉良邸に討ち入ったのか?~東大名物教授が解説」(WEB歴史街道、公開2019年11月27日)。]
* [http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/geinohsi8.htm 「かぶき的心情」とは何か] - 赤穂浪士=かぶき者説
 
{{Commonscat|47 rōnin|四十七士}}
{{赤穂浪士}}
{{Normdaten}}
 
{{デフォルトソート:けんろくあこうしけん}}
[[Category:赤穂事件|*]]
[[Category:江戸時代の事件]]
[[Category:日本の暗殺事件]]
[[Category:日本の社会史]]
[[Category:1701年の日本]]
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[[Category:江戸]]
[[Category:赤穂藩]]
[[Category:赤穂浅野家]]
[[Category:大石内蔵助]]
[[Category:堀部安兵衛]]